は じ め に
1960年代に入り急速に進展した農業機械化の柱は,所要労力と作業時間が集中する耕うん,
田植そして収穫作業の機械化であった。図!に乗用トラクタ,田植機,自脱コンバインの年次 別普及台数を示す。
耕うんでは,1950年代後半から"輪の歩行型トラクタが急速に普及した。なお,歩行型トラ クタのほとんどが耕うん装置を装着したもので,一般には耕運機と呼ばれた。単に耕うんの省 力だけでなく,耕うん装置を外しトレーラを取り付け運搬にも使う利便が普及に拍車をかけた のである。歩行型トラクタの乗換として,1960年代後半から15PS級のロータリ・トラクタ($ 輪トラクタにロータリ耕うん部を装着した,耕うん専用的なトラクタ)がまず普及し,それが更新時 期に来ると20PS級へと変わり普及台数はさらに伸び,80年代後半において200万台に達した。
田植の機械化は,苗代で育てる慣行苗を否定し,育苗箱で形を整え機械で扱いやすい苗を発 想したことで実現への道が切り開かれた。農業機械のありかたは「機械を作物に合わせる」,
というそれまでの通念を転回させた画期的なものであった。田植機の普及は60年代後半に始ま り,70年代に入り急速に進展し80年には200万台に達した。
収穫作業の機械化は,戦後いち早く普及した動力脱殻機がイネ束をチェーンで脱穀部に搬送
* 神戸大学名誉教授
農業機械工業に見る「ものづくり」
堀 尾 尚 志
*はじめに
! 機械植え技術の開発と普及
" 日本型コンバインの開発
# 「ものづくり」観念をめぐって シンポジウム報告
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自動脱穀機
歩行型トラクタ
乗用トラクタ
自脱コンバイン
年 次 田植機
バインダ 4
3
2
1
0
'55 '60 '65 '70 '75 '80 '85 '90 '95 '00
普及台数(単位:100万台)
する自動脱穀機(略して自脱)に置き換えられ,バインダとの複合作業による段階を経て,70 年代に入ると自脱コンバインの本格的な導入が始まり,80年には普及台数が80万台に達した。
なお,自脱コンバインにより収穫された水分の高い籾を即日に乾燥するため,1970年代半ばか ら大型の共同乾燥施設が農業協同組合に次々と建設され稼働を始めている。
「農業基本法」の公布・施行(1961年$月)と同時に決定された農業構造改善事業促進対策と して,以降10年問に約1,300市町村に対し,!件につき平均約4,500万円の国庫補助がなされた。
1960年代半ばから増大していく日本の農業機械工業の生産は,補助金政策と経済の高度成長下 で増えていく農外収入に支えられていた。農家経営としては過剰投資となる機械の導入がため らいなく行われていたのである。急速な兼業化ないし兼業の志向による省力化・圃場労働時間 短縮の要求が,機械普及の農村的条件であったことはいうまでもない。耕うん,田植そして収 穫作業が機械化され,1960年において10aあたりの年間労働時間は200時間であったのが,1980 年に同80時間となった。
農業構造改善事業の基調は水田作の一貫大型機械化体系の確立であった。耕うんについては,
"輪歩行型の耕運機に始まり乗用型#輪のロータリ・トラクタへと展開し目的は達成された。
田植と収穫について施策的には挫折したが,小型機械化として政策から離れたところで実現し た。
農業機械化の要求は,それまで崩芽的あるいは実用に程遠かった各種機械を改良し,あるい は,まったく新しい発想を産みだした。田植機と日本型コンバインは,まさにその産物であっ た。これらふたつは日本において独自に開発された技術である。このふたつを取り上げ技術開 発の性格を具体的に見ていこう。
図! 主要農業機械の年次別普及台数(『農業センサス』による)
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機械植え技術の開発と普及1950年代後半に動力駆動による田植機の特許があいついで出されている。イタリア・イクル マ社製の田植機(畑作用の移植機を田植え用に転用したもの)が試験的に輸入されたことが契機と なった。
初期の田植機は,慣行苗をホッパーに装填し!ないし"株をピンセットで取出し植え付ける という,田植の手と指の動きをそのまま機構的になぞったものであった。機械で取り扱うには 苗の大きさも太さも均一でなく,苗の取出し操作の確実性に欠け,欠株(植付ミス)が多く補 植に労力が費やされた。苗代からの苗取りと整形にも手間がかかり,また苗のホッパーへの装 着に熟練を要したため普及は見られなかった。
機械植えを阻んだ要因は,苗そのものを見直すことによって乗り越えられた。均一な苗を作 るため苗代に代わり育苗器で育て,大きさや形状の個体差が大きくならない"から#葉,苗高 さ$cm程度の苗を用いた。また,苗をトレーで密植し根が互いに絡み合うルートマット状に した。このことによって連続供給と確実な苗取出しが可能になった。なお,慣行苗(%から&
葉,草高12から15cm)に対し,このような苗は椎苗と呼ばれている。
稚苗植えという発想の転換により機械的操作そのものは解決した。しかし,苗を変えるとい うことは栽培体系全体を根本的に変えることであった。そうでなくても,稲作には「苗半作」
という言葉があるくらい,苗づくりへの気遣いは大変なものであった。生育初期での水管理と 雑草対策,また全体的な施肥設計を根本から変える必要があった。新しい栽培体系の技術は,
先引き的な中核農家を中心に現場で蓄積されていった。田植の労力不足はひっ迫していた。そ のような状況が,先引き的な農家に続き一般農家をして田植機の導入に踏み切らせたといえよ う。
農林省(当時)は機械植え技術の開発を試験場に指示するとともに,1955,56年にわたって 応用研究補助金を大学に交付したが,展望が見えないため機械植えそのものを不可能とみるよ うになった。そして,省力技術普及の重点は機械植えから直播栽培に移された。しかし,耕地 の多くが土性的に直播の条件をかなえているわけではなく,また地理的条件の制約(生育初期 の低温障害,収穫期の気象等)がある。条件的に可能であっても,直播技術の試験結果の蓄積も 実施の実績も乏しかった状況では,安定した米つくりを願う農家にとって田植から直播への転 換は考えられなかったのである。
試験場や大学で田植機の開発に取り掛かっていた頃,民間では稚苗を機械で扱う技術開発が 進められていた。行政や研究機関に情報が届かなかったとする見方もあるが,大型一貫機械化 という基調から外れたものが無視された,あるいは理解があっても取入れようがなかった,と みるのが妥当であろう。
稚苗田植機は,はじめ大手でない製造会社が開発に取り組み生産が開始された。その製品を
農業機械工業に見る「ものづくり」(堀尾)
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導入した先引き的な農家を中心に,稚苗植えの技術が蓄積されていき普及の現場的条件がつく られた。その後,市場の動向を見定めた大手の製造会社が次々と参入した。農業機械の生産・
販売の伸びは,農業構造改善事業による補助金に支えられていたが,とくに大手製造会社はそ のことを意識せざるを得なかった事情もあったがあろうが,あるいはそのような補助金依存の 体質ゆえのリスク回避が働いたという見方もできよう。
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日本型コンバインの開発コンバインは,combined harvesterの略語であるが,刈取機と脱穀機が結合された成立の 経緯がそのまま用語になったものである。世界一般の脱穀機では,根元で刈り取った穀物が穀 粒が付いたまま脱穀部に投入され脱穀のあと選別部で穀粒と藁に選別される。これに対し,日 本型の脱穀機は,刈り取られた穀物の穂を揃えた状態で穂の部分だけが脱穀部に供給され脱穀 される。この脱穀部を刈取部と結合したものが日本型コンバインで,「自脱コンバイン」と呼 ばれ,1990年頃から技術書では国際的にもZidatsu combineという標記が一般的となっている。
なお,韓国,中国,台湾には,日本の大手製造会社が進出し製造したもの,あるいは日本製を ベースにした現地企業の製品が普及している。
動力脱殻機がコンバインに搭載されるまでには,ふたつの技術的転回があった。ひとつは,
それまでイネ束を手で持って扱いでいたものが,チェーンで挟握し自動搬送できるようになっ た。これは自動脱殻機,略して「自脱」と称されるが,それが日本型コンバインの今日の呼称
図! 田植機(写真:堀尾)
機体後方に搖動クランク機構による植付部が"条取り付けられている。
写真のものは乗用型であるが,田植機の普及は歩行型からら始まった。
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となった。いまひとつは,刈り取った直後のイネを脱穀することが可能になったことである。
それまでは,ハサにかけて乾燥し穀粒の強さが増すのを待って脱穀していた。脱穀装置の開発 により刈り取り直後の穀粒でも壊れず脱穀されるようになった(現場的な用語で「生扱」という)。
自脱コンバインの普及に先だち,刈り取り作業の機械化として自走式の刈取結束機(バイン ダ)の開発が進められた。刈取結束機構そのものは19世紀後半にヨーロッパで開発されていた ものであるが,開発の中心課題であったのは刈り取ったイネの上下を整然と揃え束にして,結 束機構に供給することであった。この技術といわゆる「生扱」技術が開発され,自脱コンバイ ンの成立に至ったのである。
行政的施策として収穫については,1962年から普通型コンバイン導入の試みが始められたが,
ほどなくこの計画は挫折した。国産の普通型コンバインは製造がようやく始まった頃であり,
導入されたほとんどのコンバインは輪入されたもので,収穫時の籾水分が高い日本では使いに くかったのと,刈取装置の刈幅が!〜"mという機体は,区面が大きくなった水田では取回 しが困難で,また総重量#〜$tという機体を支持できる土質的条件が当時の水田にはなかっ たため使いきれなかった。
収穫の機械化は後に続く乾燥作業と一体のものである。乾燥施設の建設は農業構造改善事業 促進対策により着実に進展していた。そうした状況のなかで,政府は早々に普通型コンバイン の普及を断念し,自脱コンバインの導入の促進施策を余儀なくされたのである。
なお,自脱コンバインの開発については,はじめから大手製造会社が従来の自動脱穀機開発 の延長として着手しており,行政の施策に対応する普通型コンバインの製造は日本車両等の非
図" 自脱コンバイン(写真:堀尾)
機体前面の地上わずかのところにバリカン型の刈取部があ り,刈り取られてイネはチェーンにより挟握・搬送され脱 穀装置に供給される。
図! 足踏式脱穀機(写真:堀尾)
写真では後方に作業者が立ち,イネ束を持ち 扱胴(シリンダ)に当て脱穀する。作業者が 足元のペダルを踏み回転動力を発生する。
農業機械工業に見る「ものづくり」(堀尾)
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農業機械の会社が手掛けていて競合することはなかった。
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「ものづくり」観念をめぐって稚苗植えの発想,機械に作物を合わせる,は農業機械技術として世界的にも類のない独創で あるといえる。
日本型脱穀機は,その発明者,福永章一が自転車のスポークに当たってしごかれたイネの穂 が脱粒されているのを見て回転式の脱穀機構を発想したと伝えられている。スポーク状の扱歯 によって穂の部位だけをしごくという方式の脱穀機構が独創といえる。
「ものづくり」という観念の基調は「日本の製造業は,日本の伝統的技術環境と蓄積の上に 成り立っている」にあるといえよう。稚苗田植機も脱穀機も,明らかに日本で独自に成立した 技術である。しかし,そこに「日本の伝統的技術環境と蓄積」あるいは「日本の伝統的技術の 延長」なる性格をどうしても見出すことはできない。寧ろ「伝統」から自由であったからこそ 生み出されたのである。
発想の転回に始まる開発過程や偶発的な出会いによる発明を契機とする開発過程は普遍的で あり,どの技術文明においてもその性格の類似性を見ることができる。あえて「ものづくり」
という観念でもって位置づける必要があるのだろうか,否である。
「ものづくり」という観念を安易に用いると,日本の文明的特性として個々の技術を見てし まう危険性を孕んでいる。それぞれの技術の成立過程と性格をゆがめることに他ならない。技 術を見る正当な観点ではない。
「ものづくり」という観念の援用範囲と限界を見つめる必要がある。
製造業や基幹的技術に対する関心が薄れていく現況において,一般に対し,関心を呼び戻す いわばキャッチコピーとして「ものづくり」という観念と言葉は有効であろう。「技術立国」
は,世界のどの国も(いずれの体制においても),覇権を目指す国,国際的な力関係においてよ り優位に立とうとする国,いずれにおいてもこの観念に立っている。そういう意味において「技 術立国日本」をエンカレッジするという目的であれば「ものづくり」観念は有効であろう。
しかし,技術史・技術論あるいは経営史等の分野で,あえて「ものづくり」なるタームを使 う意味が,あるいは必要が果たして,どこまであるのか,恣意的に,あるいは気分的に使われ ている用語を,学術の場において反省以前的に使うことは慎まねばならない。
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