岡山城下の瓦作り
乗岡 実
はじめに
江戸時代の岡山は人口五万あまりの大都市であったが、 天守以下の城郭建築や御殿・蔵などがある城内はもとより、 武家屋敷や町屋、寺院などがある城下町の全域に、黒い燻瓦を葺いた建物が林立していた。実はこうした景観は、東 国や北国、山陰、中・南九州などとは大きく異なるものであった。例えば、備中岡田出身で一八世紀後半の旅行家で あった古川古松軒は、岡山と比べて会津若松、新発田、熊本といった各城下町では草葺や板葺が目立って瓦葺建物が 少ないことを紀行文
1に綴っている。岡山での卓越は、気候温暖で霜害を受けにくく耐久性が保たれることや、古くか ら瓦作りが育まれたという、瀬戸内ならではの風土と歴史に由来する側面も重要と思われるが、古松軒は瓦葺建物の 数量を都市力を示す指標として捉えていた。 岡山藩領内には多数の瓦産地があったが、岡山城下の瓦産地は領内で最も強大で、城下はもとより、周辺地にも大
量に供給された。 岡山城下での瓦生産の研究は、戦前に編纂された岡山市史の江戸時代の産業の項の記述を嚆矢とし
2、旧城下の町ご との記述を進めるなかで瓦工の所在に触れられることがあった
3程度である。一九九〇年代半ばから筆者は鬼瓦の銘文 や考古資料としての瓦そのものから岡山県南部における近世瓦の生産と流通を考えてきたが、本稿では、岡山城下で の瓦生産に焦点を絞って総合的に検討し、その特質を抽出して歴史的評価に繋げてみたい。
一、瓦銘文からみる瓦工の動向
瓦の生産地の所在や瓦工の動向を知る重要な手掛かりに、供給地に残る鬼瓦などに刻まれた銘文がある。岡山市教 育委員会では近世寺社建築の悉皆的調査の一環で、屋根に掲げられた瓦を双眼鏡で観察することも含め、岡山市近郊 の近世瓦の銘文資料の集成を行なった
4。さらに倉敷市教育委員会による寺社建築の悉皆調査でも、同様の集成が行な われた
5。その後の確認も含めると、岡山県南部に所在し、天正元年 (一五七三) から、慶応四年 (一八六八) に至る期間 に作られたとみられる燻瓦で、 瓦工人の住所や名を記した資料は筆者の集計で四二一例にも達している。 この数字は、 大棟の一対の鬼瓦にそれぞれ同様の銘文がある場合など、同じ建物の一括の資料群は一つと数えている。うち年銘な どから製作年が判るものは三三三例である。 これを基礎に、 若干の文献史料での記載も加味して、 瓦工の住所ごとに、 動向をまとめたのが 図1 である。抽出できた江戸時代の瓦工所在地ないしは瓦産地は大小五五にも及ぶ。うち八個所 は備前・備中からみると他国である。また城下町に立地するのは、岡山と丸亀だけである。その丸亀、播磨の坂越庄 や伊津は瀬戸内海の港湾、美作の吉ケ原・福本は吉井川、備中の日羽は高梁川に関わる高瀬舟の停泊地で、水 上交 通
図1 岡山県南に分布する各瓦産地の動向
注55書からの利便性を大いに生かせる産地である。備中足守は大名陣屋町、備中倉敷は天領代官陣屋町、備中宮内は吉備津神社 領の門前町、備中矢掛は宿場町、備前和気などは郷町であるが、他の多くは農村集落である。生産期間が長きにわた り、生産量が最も多かったとみられるのが岡山であるが、備中の内では酒津、服部、八田が三大産地であった。 岡山城下の瓦工について銘文などの具体例を示したのが 表1・2 、動向をまとめたのが 図2 である。銘文資料は九 九例に及び岡山県南部の瓦工所在地のうちではずば抜けて多く、複数の棟梁が同時に並立し、二日市を主力としなが ら七日市、滝本町にも分れて所在したことが判る。備前岡山藩の領内ではごく短期での生産とみられるものも含めて 二五の瓦工所在地があるが、岡山城下の三個所を除けば、複数棟梁が同時に並立したとみられる場所は殆どない。享 保年間以降の事例が八例と比較的まとまる福田は守時氏、また南曽根は石野氏と単一の氏だけである。備中では大規 模産地であっても、酒津が梶谷氏、服部が瀬崎氏、八田が小野氏、日羽が入江氏、播磨でも坂越庄が大崎氏、伊津が 山本・神頭の両氏というように、いずれも各単一ないしはせいぜい二つの氏が確認できるだけである。岡山は二日市 だけでも氏が六つ以上があり、この点でも岡山城下の瓦生産の特殊性が窺える。 現状で確認できた瓦銘による限り、七日市の瓦工の初現は元禄四年 (一六九四) の黒崎仁左□□である。七日市での 氏は黒崎と山田が並立するが、優勢なのは黒崎で、一八世紀後半には黒崎仁兵衛が持続して銘を残す。山田長兵衛と 長七郎は一八世紀後半に限ってみえる。 二日市は元禄一一年 (一六九八) の曹源寺(岡山市中区円山)例を初現とするが、その瓦工の氏名は確認できない。 二日市で双璧をなすのは、吉田氏と石田氏で、例数も多いが、それぞれに複数の棟梁家が併存した。吉田氏は一八世 紀前半から確認できるが、一八世紀後半になると五郎右衛門が主流として際立ち、一九世紀に続くが、吉右衛門など も併存する。石田氏の初現は延享三年 (一七四六) の岡山城本丸月見櫓(岡山市北区丸の内)例で、吉田氏より遅れる
ようである。宝暦六年 (一七五六) 以降になると新六郎が多くの作例を残しながら一九世紀半ばまで続くいっぽう、文 政四年 (一八二一) 年からは清右衛門が並立する。幕末は卯吉が登場するが、年銘がない石田卯吉の例では住所を七日 市と記しており、二日市から移動したか、二日市石田氏の傍系として成立した瓦工かも知れない。大田氏は六郎右衛 門を名乗る系統だけで、延享五年 (一七四八) から一九世紀前葉に続く。影山氏も清介だけで、一八世紀第3四半期に みえる。永岡氏も安兵衛の系統だけで、一九世紀に入ってから確認できる。そのほか、二日市には一八世紀第3四半 期に氏が不明な久右衛門、一九世紀初頭に西屋の與市兵衛、一九世紀後半から明治にかけての佐々木清次郎が居た。 滝本町は恵(江)藤氏が主流で、元文元年 (一七三六) の孫右衛門が初現で、一九世紀第2四半期に名が不明の二例 に続いて幸太郎が居た。 金谷氏は享和三年 (一八〇三) の孫三郎銘があるが、 それと同じ妙林寺 (岡山市北区三門東町) の年銘が無い鬼瓦に金谷孫右衛門銘がある。恵藤氏も金谷氏も「孫」をベースにした名が目立ち、養子縁組などを媒 介にした縁戚関係か株内関係があったのかも知れない。 そのほか、 住所として単に岡山とだけ記した瓦工として、 貞享二年 (一六八五) の関市左衛門、 享保一六年 (一七三 一) の寺内久兵衛がいた。 全体としてみると、 瓦工の住所を記した資料は一七世紀第4四半期以降のものが卓越し、 その後の主力となる黒崎・ 吉田・恵藤の各氏が一七世紀末から一八世紀前葉に出現するが、それは七日市・二日市・滝本町銘の初現と同時であ る。また、一七五〇年前後には岡山の瓦師で最有力となる石田氏を含めて新たな氏を名乗る瓦工が一斉に出現し、一 八世紀後半は最も林立状態となる。しかし単発に終わって一九世紀に入ると姿を消す氏もあって淘汰が進んだようで ある。七日市は全体が衰退したかのようで黒崎・山田の両氏とも見えなくなるいっぽう、二日市では石田氏でも清右 衛門系統、永岡安兵衛、さらに幕末になって佐々木清次郎が出現する。
表1 岡山城下に住所をもつ瓦師による瓦銘一覧1
表2 岡山城下に住所をもつ瓦師による瓦銘一覧2
図2 瓦銘からみた岡山城下の瓦師棟梁の動向
氏瓦銘資料を俯瞰して注目されるのは、一七五〇年前後から、氏に続けて記される名に継続期間が長いものが出現す ることである。黒崎仁兵衛、吉田五郎右衛門、石田新六郎、大田六郎右衛門などで、一八〇〇年代に入ってからの石 田清右衛門や永岡安兵衛も同様である。 これは、 一人の棟梁が長く活躍したと言うよりも、 これらの氏名が名跡化し、 代々襲名されたからに違いない。瓦師の氏名のブランド化が一七五〇年頃に一気に進んだのである。軌を一にすると みられる現象が、そうした氏名に続けて別名(~本名)が記される事例の存在である。これも一八世紀前半までには なかった特徴で、具体例としては、一七五三年の吉田五郎左衛門 利定、一七六九年の影山清介 正吉、一八三二年 の石田清右衛門 高秀、一八六〇年の永岡安兵衛 朝光 があり、二日市の瓦工に限られる。さらに、氏や名の前に 屋号を記すものも同様にブランド化の流れとみられるが、一八〇五年の谷屋 與市兵衛、一八三〇年の田中屋 大田 六郎右衛門 と屋号の併記は一九世紀前半になって顕在化するが、現状ではやはり二日市の瓦工に限られる。近世岡 山の瓦工は中世の瓦工のように姓を名乗るものは、一七三一年の藤原朝臣 寺内久兵衛 が唯一である。 職名については、一八世紀前半では二日市・七日市・滝本町とも、中世からの伝統表記ともいえる「瓦大工」が目 立ち、二日市の一例は「瓦屋」を称するが、一八世紀半ば以降は各地とも「瓦師」が一般化する。藩が作成した後述 の城下町絵図では一七世紀中葉の城下町絵図では既に「かわらし」の表記で、藩側の表記とは異なる古風な表記は瓦 工側のプライドの現れと言えるかも知れない。 なお、 表1・2 、 図2 には示していないが、銘文に住所を記す例が未確認ながら、資料所在地の分布から岡山かご く近郊に住所があった可能性のある瓦工に、 寛永二年 (一六二五) 銘の 「いわや市太夫」 、 一八世紀中葉とみられる文 三郎、一九世紀中葉の妹尾屋又吉がある。
二、岡山城下の瓦産地の実情
(1)瓦町・七軒町周辺(現 岡山市北区南中央町・京町・清輝本町の一部) 岡山城下にあった三群の瓦産地( 図3 )のうち、瓦銘資料だけでは抽出できない唯一の生産地で城下町の南西端部 にあり、瓦生産の重心が七日市・二日市・滝本町となる以前の主産地であったとみられる。 ( 図4 ) 第一の根拠となる同時代性資料は城下町絵図である。 『岡山古図』[ 岡山大学附属図書館池田家文庫T6‐5]は寛 永九年 (一六三二) の国替えの際に前池田家から池田光政に引き継がれた絵図で、岡山城本丸中の段の拡幅以前の状況
6が示されていることなどから、元和元年 (一六一五) に池田忠雄が入封した直後に作成されたものとみられる。後に七 軒町として取り立てられる区域の一画に 「かわらや 左兵衛」 (旧稿 乗岡二〇一七・二〇一九で示した 「左吉丞」 を訂正)の注記がみえ、この地での瓦生産が少なくとも元和年間まで遡ることが判る。 また、慶安年間 (一六四八~五二年) に作成されたとされる『備前岡山 城下図』 [同T6‐9] には、 七軒町周辺に 「 左兵衛」 「清右衛門」 「五 郎十右衛門」 「弥二右衛門」 、 その北に隣接する瓦町周辺に 「次郎左衛門」 の合わせて五名の 「かわらし」 (瓦師) の記載がある。 このうち、 左兵 衛の敷地が最も広く、注記によれば東西三七間、南北二七間あり、一間 六尺五寸(=一九七㎝)で換算すると、三八七〇㎡ほどになる。例えば 二の丸内にあった千石取りの武士である香西采女の屋敷地は同絵図では 東西三二間半、南北一四間で一七六五㎡ほどであるが、左兵衛の敷地は 図3 岡山城下の瓦産地
それより遥かに広大であったことになる。次に大きな敷地を有するは南北 四六間、東西一五間の清右衛門の敷地で、やはり香西采女の屋敷より広い が、ここは元和絵図では「左兵衛」の敷地であった場所である。 五名の瓦師のうち、 「五郎十右衛門」 の敷地だけは、それらしい部分の 文字が擦れて判然としないが、他の四名の敷地は「地子役御免」の注記が ある。つまり藩は彼らを税制面で優遇しており、瓦生産を重視していたこ とを如実に物語る。 その後の当地での瓦生産の衰退は、宝永五年 (一七〇八) 頃に作成された 『岡山天瀬二日市絵図』 [同T6‐21]から窺える。この絵図では、瓦師 の記載がないだけでなく、慶安絵図で瓦師が居た五個所のうち三個所まで に池が描かれている。池となった理由には、瓦生産に必要な粘土を採った ために窪地となったことが想起され、そうだとすれば生産された瓦の量の 膨大さを物語る。 当地での一七世紀の瓦生産とその後の衰退は、寛政年間 (一七八九~一 八〇一) に藩士の大沢惟貞によって著された 『吉備温故秘録
7』 の 記載から も窺える。城府のうち七軒町の細堀町について「東側は、元来かわらし清 右衛門という者免地にて、瓦を製しける。 不辨利によって所替へ」 、また 七軒町の西川端邊については「瓦師左兵衛という者居たりしが、後瓦町へ
図4 元和・慶安の瓦師の分布(左)と宝永の池(右)[外堀と西川の間のトーン]
移り」とあり両名の配置は慶安絵図と一致する。仮に元和絵図、慶安絵図、温故秘録に記された左兵衛が同一人物な いし同系統とすると、左兵衛は、七軒町細堀町
↓ 七軒町西川端
後述の下市町であろう。 居た瓦師は住所を御野郡中の「村」として記すことからすると、瓦町・七軒町に居た可能性が高い。さもなければ、 住所を「岡山」としか記さない一六八五年の関市右衛門や一七三一年の寺内久兵衛は、この頃に七日市・二日市に る。土船発着は、敷地で採れる土の枯渇か、より良質土を求めた結果、搬入土への依存が強まったからであろう。 にして瓦を焼しよし、今は其瓦師もなく、又堀をも埋めて少しの悪水抜ばかり残りて、瓦町という名のみなり」とあ 「此町前々は瓦師多く居住して」 「西渠(=西川)より七軒町境へ幅二間餘の堀をほりて、土船を面々の裡へ着くやう ↓ 瓦町と移転したことになる。また、瓦町の記載では
(2)二日市・七日市(現 岡山市北区旭本町・七日市東町) 城下の南端部に立地し、 両 地は隣接する一連の産地で、 うちでは北が二日市、 南 が七日市である。 一 七世紀末以降、 幕末に至るまで多数の瓦師が居たことは先述の通りである。 江戸時代の地誌である 『 備前往来』 には 「二日市之瓦師」 との記載があるが
8、なぜか『吉備温故秘録』では瓦生産についての記載がない。当地での瓦生産は、明治維新後にも 続いて、昭和八年前後に岡山市が作成した都市計画図では大きな「瓦焼場」の敷地が一三か所も示されていて、依然 として備前最大の瓦産地であった様子が判る ( 図5 )。 地元での聞きとりでは戦後になっても昭和四〇年頃までは達 磨窯で瓦を焼く光景がみられたという。 江戸時代の二日市・七日市の瓦工たちの住所は厳密な行政区画上の表記では一貫して御野郡二日市村・七日市村で、 城府である岡山の二日市町に接するがその内ではなかった。後述する文化三年 (一八〇六) や天保八年 (一八三七) の藩
文書でも「御野郡二日市村七日市村瓦師」と表記される。 しかし瓦銘からみると、一七五〇年代頃までは「御野郡 二日市村」 「御野郡七日市村」 と記すものが一般的である のに対し、以後は「備前岡山」や単に「岡山」を冠すいっ ぽうで「村」を省いて「備前岡山七日市」 、「岡山二日市」 などとするものが急増する。 「岡山」 を冠する例の初現は 宝暦六年 (一七六九) である。一七八〇年代でも単に「二日 市村」 「七日市村」と記す例もあり、 「村」の表記自体は一 九世紀中葉に至ってもあるが、 「岡山二日市村」 と いう矛 盾した表記も含む。このことは、多数の瓦師が林立し始め るのと軌を一にして、瓦工たちが郡部ではなく「岡山」と いう都市の瓦師であることを主張し、そのことでブランド化を強めた結果と評価できる。住所の正確な表記を度返し して、都市名を冠してブランド化を図る瓦工は他地域でも確認でき、例えば播磨国揖西郡伊津村で一八世紀第2四半 期から瓦を焼いた山本半十郎や同所で一九世紀に瓦を焼いた六左衛門は、同じ丸亀藩領のうちでも東に三㎞ほど離れ た陣屋町である網干を冠して、 「網干伊津」の瓦師を主張したり、 「網干半十郎」と記してして網干を氏のよう思わせ ている
9。 二日市、七日市の瓦工に対しては藩も事実上は市中の瓦師として位置付けていた。例えば、寛政四年 (一七九二) に 瓦の他国売りを禁止した文書 では「町中瓦師共へ相触候様惣年寄え書付相渡ス」とあるが、この「町中」のうちには
図5 二日市・七日市の戦前の瓦焼場
(黒塗部)最大産地である二日市・七日市の瓦師が含まれていないと全く意味をなさないし、文政五年 (一八二二) の再通知も市 中を所管する「町奉行」からの発令である。そしてこれらの文書は藩編纂の『市政提要』に採録されている。 ・・
(3)滝本町・下市町(現 岡山市北区富田町一丁目・南方一丁目の一部) 城下の北西端部にある滝本町は二日市・七日市ほどの隆盛はないが、瓦銘の上では元文元年 (一七三六) を初現に生 産が行われた。ところが一帯での生産は、史料の上では少なくとも一七世紀第3四半期まで遡る可能性が窺える。下 市町は滝本町に南接する場所であるが一六五四~七二年に成立したとされる『備陽国史』には「瓦、下市町にて是を 作る」 、 ま た 『備前史』 には 「下市町にて瓦を造る
いては懐疑的な見解が示されている 記載はあるが「かわらし」の記載はないことから、小規模な土器生産はあったとしても、瓦生産を想定することにつ 下のうちで、特に下市町は人家が密集する町中であることと、慶安絵図では「酒折宮御供焼 地子役御免 平七」の 注意が必要であるが、瓦生産を現在進行形で書いている。元和絵図の段階から、滝本町と下市町の区域は一貫して城 」 とある。 これらの史料は編纂地誌類であるので時制については
に当る個所で、近世の粘土取穴跡とみられる土壙の群集が発掘調査によって検出されていることである 注目すべきは、現在は「きらめきプラザ」が建つ国立病院跡を中心とする南方遺跡の複数地点=城下町のすぐ外側 すぐ北西の城下の外れは、人家が途切れて適地が広がっていたのである。 かはともかく、瓦工の住居が町中にあったとしても、工房、特に窯や採土場まで想定する必要はない。むしろ両町の 地誌では地名表示上の問題で下市町に含めているだけであったのか、南の下市町区域から北の滝本町区域に移動した である。下市町で瓦生産が行われた可能性を考える場合、一帯での瓦工人の住所が、一貫して北の滝本町区域で、両 。しかし、一八世紀第2四半期以降の滝本町では瓦銘資料から瓦工の存在が明白
。代表的なも
のは層位や出土遺物から江戸時代後半に掘られたとみられる、五×五m程度の方形で、深さは一m以上ある。土壙群 には土器作りのための粘土採取跡も含むかも知れないが、滝本町ないしは下市町に住む瓦工が工房の周囲で大量の粘 土を採った跡が主体的に含まれているに違いない。 江戸時代の瓦工は、遠隔の消費地に出向いて出張製作を行う類型もあるが、そうでなくても住所と工房の敷地が別 の類型がある。 例えば、 『撮要録
「家並之東」の「飽田」で、 「火之元念入」にするとした。 ているが、 「梁二間桁四間小屋建」 を行い 「長貳間横一間瓦焼竃」 を設けようとしたのは 「屋敷より二町餘西」 で に掲載された弘化二年 (一八四五) の文書では「上道郡国富村茂次郎」から瓦を焼くための許可申請が出され許可され 別の「同村字馬屋之郷川内」で「年々土砂流寄土地高に相成之内三反」の「飽田」 (悪田) である。同じく『撮要録』 体となって、 「地下瓦師」 に 「相頼」 んで委託生産として瓦を焼かせて欲しいと願い出て、 許可されたのは住居とは 』 に収録された文化一四年 (一八四三) の岡山藩文書に 「津高郡尾上村與四郎」 が主
(4)西川と瓦生産地 城下南西の七軒町・瓦町、南端の七日市・二日市、北西端の滝本町・下市町はそれぞれ一連の瓦工所在地=生産地 である。これら三個所に共通するのは、いずれも城下と城外の縁辺部に立地(ほぼ等間隔)すること、しかも南北に 細長い城下の西を限る人工の用水路である西川沿いにあることである。瓦の生産には広大な粘土採掘地を確保する必 要があること、火を使う竃の操業は、国富村茂次郎に関わる文書に謳われている様に火事対策が必用であるし、それ 以上に煙害対策が重大事であったに違いない。 その意味で、 岡山と言う都市を最大の消費地として成立した瓦産地は、 都市にありながらも人家が建て込む区域ではなく縁辺部に位置するのは当然である。また、重くて大量の製品を消費
地に搬出したり、粘土や薪などの原材料を搬入するためには水運を十分に活用できることは大きな利点、ないしは必 要条件であり、西川沿いでの立地も極めて合理的である。西川に続く堀が各瓦工の敷地に取り付き土船が着いたとい う、 『吉備温故秘録』の過去の瓦町についての記述が如実に物語る。 七軒町・瓦町周辺の西川は池田忠雄が城主であった元和年間から寛永年間初め頃に、現存の流路に付け替えられ、 それまでは最大部で六〇mほど東を流れていたことが元和絵図の検討や遺跡調査から判っている ( 図4
瓦銘や文書を総合すると岡山城下の瓦産地の主力は、七軒町 に示された各瓦師の敷地はむしろ先行流路に沿っていて、この地での生産開始の古さを示唆している。 )。 慶安絵図
↓ 瓦町
↓ 七日市
↓ 二日市・滝本町、あるいは七軒町
↓
瓦町
↓ 下市町
↓ 七日市 にみる二日市の「石田清右衛門」は同名であるが、一五〇年以上もの断絶がある。 衛の系統が、二日市の久右衛門に繋がっていた可能性はあるかも知れない。慶安絵図の七軒町の「清右衛門」と瓦銘 系統の交代劇があった可能性の方が高い様に思える。ただ、名前からすれば、瓦町周辺に居たかも知れない寺内久兵 の七日市・二日市・滝本町の興隆の間には、瓦工の氏の違いや類似した名のなさから、瓦工人の引っ越しというより 性もあるが、一七世紀後半を通じて進んだとみられる七軒町・瓦町の衰退と、一七世紀末から一八世紀前葉にかけて ↓ 二日市・滝本町 と推移したことになる。また、個別の瓦工が、矢印の方向に移転した可能
三、製品の特徴と編年
岡山城下に本拠を置く瓦工の製品の考古資料としての実体を、軒平瓦と軒丸瓦を中心に示しておく。岡山城本丸跡 では史跡整備に伴う発掘調査で膨大量の瓦が出土した。総て燻瓦である。一六世紀後葉の宇喜 多直 家 ・ 秀家 による 築
城段階から一七世紀前葉の池田忠雄段階に至る製品については、目まぐるしい曲輪の改修に応じて、出土層位に基づ く編年が立てやすい。一六二〇年頃以降については、暦年代が明確な寺社の瓦を参照しながらの型式学的な操作によ り、全体として、1式から7式に至る編年を行っている
どから、岡山城下に本拠をもった瓦工人の製品が圧倒的多数を占めると判断できる。 同笵・同文品を含めて同型式と判断できる製品の、岡山に求心性をもった分布状況、寺社での銘文瓦との共伴関係な このうち、 1式は播磨阿賀、 備前福田などの他所を本拠とする瓦工の製品に尽くされるとみられるが、 2式以降は、 ( 図6 )。
(1)岡山城2式[天正一六年から慶長五年 (一五八八~一六〇〇年) 頃] 本丸中の段第Ⅱ期の層位に伴う資料を指標とする。 宇喜多秀家の岡山城に伴うもので、 製 作時の粘土板の切断痕は、 総て糸切りによるコビキA痕である。少量であるが、金箔瓦が含まれる。 軒平瓦
が低くなる。平瓦部の厚さは平均すれば一・九〇~一・九五㎝で、4式以降に比べて厚いが、相当に個体差がある。 二~〇・二五で、1式より確実に広くなっている。瓦当高/上限幅は平均的にみて〇・一六ほどで、1式より瓦当高 二二㎝台にある。側区長/上限幅は、個体間また同じ個体でも左右でかなりのバラツキがあるが、平均的には〇・二 上限幅は中の段出土品では二〇㎝足らずから三〇㎝余りの振幅をもつなか、最大ピークが二五㎝台、次のピークが があり、その本数は三~四本である。 二転のものはごく少数に過ぎない。中心飾宝珠と三葉には、唐草が中心飾の下隅から湧きだして平行して伸びるもの は蔦葉・木槌・三巴などがある。 唐草も極めて多彩であるが、 一般的な巻き方のものでは三転が主体で、 四転はなく、 中心飾は多種多様であるが、三葉系統が四割に対し、宝珠系が三割、桐文系が一割弱の比率で、その他に :
図6 岡山城下町産の軒平瓦・軒丸瓦の編年
注16書に一部加筆断面形は、台形のものが多いが、1式の様に長方形のものもある。瓦当面に対する文様区面の深さは、1期に比べれ ば浅くて五~七㎜で、その法面の垂直度は低い。 瓦当上角を面取りするものが多いが、 同笵品でも面取りを施すものとないものが混在する。 平瓦部凹面の瓦当縁に、 板状の押圧痕を残すもの、コビキA痕が見えるものなどもあり、ヨコナデ調整は前後の時期に比べて粗雑である。平 瓦部凸面は、板状工具による縦方向の擦痕が粗く残り、凹面に比べてさらに粗い器面のまま放置されている。 軒丸瓦
胎土・焼成 ものが一般的である。 多い。丸瓦部内面の布目は、ゴザ目状に粗いものもあるが、ガーゼ状の細かなものが圧倒的に卓越し、吊紐痕を残す 化した値は〇・四五で、3式以降より巴部径が小さく珠文部が広い。断面形は、瓦当裏の丸瓦部が深く括れるものが あるが、一二㎝台から一八㎝台までばらつきがある。文様区径全体のうち巴部の占める割合も偏差が著しいが、平均 から二三個以上まであるが、多くは一七~一八個で、1式より減っている。瓦当径は中の段では一五㎝台にピークが 八〇度以上あって尾部が長いものもあるが、既に頭部が粗大なもの、頭部どうしが離れるものもある。珠文数は一一 になるものもあるが、そうでないものが多い。巴頭部がC字形のもの、巴の頭部間が詰むもの、頭部からの巻きが一 である。頭部に対して尾部が右に巻くものより、左巻きが多い。巴の外に圏線を伴ったり、巴尾部が繋がって圏線状 文様は、特殊なものとして五七桐文があるが、圧倒的多数は、三巴文で、細かくみると軒平瓦同様に多様 :
なるものが主体である。器面炭素の吸着も悪い。 察できるものがある。焼成は火が良く通らずに軟質なものが多く、断面の芯が暗色、表部・外側が明色の成層構造と き、極端に砂礫を含むものもある。また、粘土の練りが不十分で、細かい単位の異色生地による流層構造が断面で観 胎土も、個体差が大きく、微粒で均質なものがあるが、粗砂粒・赤褐色粒・黒色粒を含む例が目につ :
なお、この期の瓦生産に用いられた瓦笵数(文様数)は軒平・軒丸ともに一〇〇を超える見込みである。
(2)岡山城3式[慶長五年 (一六〇〇) 直後] 中の段のⅢ期・第Ⅳa期の層位に新出種として伴う資料を目安とする。2式に対する大きな違いは粘土板の切断時 の鉄線切り(コビキB)の出現で、一気に普遍化する。 軒平瓦
軒丸瓦 に萎縮化の傾向がある。唐草の巻きも、三転に二転が一定量加わり、一転もあって、二式より減少化傾向にある。 文様は2式との差がまだ十分には把握できていないが、継続使用された瓦笵もありうるが、中心飾や唐草 :
に比べて粗いものが目に付き、終端付近が斜めにやや乱れるものがある。 文様は2式と大差ないが、珠文数は減少化傾向にある。丸瓦内面に残されたコビキBの条線は、次の4式 :
(3)岡山城4式[慶長年間後半~寛永年間始め (一七世紀第1四半期) 頃] 軒平瓦
よる平瓦凹面の平滑度は増大傾向にある。ごく少量であるが、瓦当面に単純図形の刻印をもつものが現れる。 上角の面取りは無くなる。瓦当面での文様面の深さは浅くなる。つくりの粗雑さは前代より多少向上し、ヨコナデに る。平瓦部の厚さも一・七㎝前後と薄くなる。また、瓦当上縁の弧が浅いものが増え、側区は着実に長くなり、瓦当 薄短小化が進み、本丸中の段では上限幅は二四㎝台が主ピーク、次のピークが二〇㎝台以下にあり、瓦当高も低くな 式までは三転あったものが二転に減り、内が下、外が上に巻き、後に続く形に定まってくる。法量は以前に比べて軽 葉脈表現は殆どなくなる。宝珠では引き続き外形凸線表現のものもあるが、立体的なものが加わる。唐草の巻きは3 文様は前代からの系譜を引き継ぎながら、 中心飾も他種多様であるが、 小 形化、 省 略化が進む。 三葉では、 :
軒丸瓦
胎土・焼成 る。布目痕は引き続いて細かなものが多く、吊紐痕を残すものは減少してくる。 大な粘土塊を一気にスライスする革新的なコビキB技法が、器壁の薄化や工程の効率化に結びついて定着した感があ のが目立ってきて、丸瓦部横断の描く弧も、やや浅めになる。丸瓦部内面は、コビキ痕が横一直線に整って通り、長 り、一七㎝以上の大形品が無くなる一方、一三㎝台に副ピークが表れる。縦断形は、瓦当裏の丸瓦部の括れが浅いも 含まれる。また軒平瓦の軽薄短小化に応じて、瓦当径も小形化が進み、本丸中の段出土品では一五㎝台にピークがあ がる一一~一三個のものも目立ってくるが、個々の珠文は2式・3式と同程度に小さい。文様面はかなり浅いものも 文数は、引き続き減少傾向にあり、二〇個を越えるものはなくなり、一七個もしくはその前後が卓越する。5式に繋 文様は引き続き三巴が殆どで、互いの尾部が離れたものが多いが、接したり、圏線をなすものも残る。珠 :
部・外側が明色の成層構造や断面の流状互層は減少化傾向にあるがまだまだ多い。 胎土は、依然として砂粒を含むものがあるが、微粒化・均質化の兆しが認められる。芯部が暗色、表 :
(4)岡山城5式[寛永年間~元禄年間 (一七世紀第2四半期~一七世紀後葉) 頃] 軒平瓦
軒丸瓦 れている。 台に副ピークがある。また側区の長さが左右で極端に違うこともなくなる。平瓦部凹面は、ヨコナデで丁寧に調整さ 外が上に大きく丸く巻く形にほぼ統一される。本丸中の段での上弦幅は、中の段では主ピークが二二㎝台で、二四㎝ 中心飾は、引き続き三葉と宝珠が卓越するが、略式・小形化がさらに進む。唐草は必ず二転で、内が下で :
尾部は細い。この期の新しい段階には、尾部は短く太くなり、頭部間は近接し巴の断面形は山形から蒲鉾形のものに 巴部の形態も定型化を強める。 頭 部は既にオタマジャクシ形に定まっているが、 その頭部間距離は大きく、 :
主体が移る。珠文数は一二個にほぼ定式化しているが、一七個前後のものも少量は残る。珠文は、古い段階には小さ なものも残るが、底径八㎜程度と4期より大きなものが定着してくる。瓦当径は、中の段では一三㎝台への集中が進 む。丸瓦部内面の布目痕はガーゼ目状に細かいものがまだ残るが、ゴザ目状に粗いものが目につく。 胎土・焼成
ない。 ンドイッチ状色調変化や流状互層をなすものもさらに減少する。しかし、依然として器面の炭素吸着は良好とは言え 胎土はさらに微粒化・均質化し、 選択性が強まったとみられる (先述の搬入土の反映か) 。 断面のサ :
(5)岡山城6式[一七世紀末~一八世紀第3四半期頃] 元禄一一年 (一六九八) の曹源寺 (岡山市中区円山) 創建時の瓦
軒平瓦 化や法量の一応の規格化が遂げられ、近世瓦としての完成期の感がある。 五三) 年の大林寺 (岡山市中区西河原) の当初瓦などがある。 5式以前に比べて作りが丁寧 (端正) で、 文様の画一 が古段階で、 中段階の指標的資料に宝暦三年 (一七
は、中の段では二二㎝台のものが突出したピークをなし、主体的製品の小形化が進んで規格度が高まる。また、そう し、瓦当厚は平瓦部厚と同等かやや薄めとなる。瓦当面に対する文様面の深さは四㎜前後にまでなっている。上弦幅 感がある。瓦当は、古い段階にはやや高めで、断面がまだ台形状のものが多いが、やがて低くなり、断面は長方形化 的なものである。中段階には中心飾三巴文への画一化が一層進む。側区も左右の長さの均整が良く取れて定式化した ある。少量のその他の中心飾には宝珠、三葉、全形菊花状、カタバミ状などがあるが、唐草は中心飾三巴と同じ定式 多数を占める。唐草は古い段階は全体が細線表現で、大きく丸く巻くが、新段階には巻きがやや小さく浅めのものが 中心飾が三巴文で、内が下、外が上に巻く二転唐草の文様を伴う定式的な岡山式軒平瓦が出現し、圧倒的 :
した中形品では平瓦部の長さが相対的に短くなって、平面が正方形に近付く。なお瓦銘に照らすと6式中段階以降と なる滝本町の瓦工によるとみられる軒平瓦も、中心飾に三巴を据える岡山式文様を主力とし、文様だけでは両者は全 く区別できない。 軒丸瓦
胎土・焼成 に残すタタキ痕が目立ちだし、新段階にはそれが普遍的でかつ高密度になってくる。 が圧倒するが、古い段階にはごく少量であるが吊紐痕をもつものが残り、中段階から幅一~二㎝の板状圧痕を縦方向 が多いが、新段階には平坦なものが普遍化し、全体が筒形化してくる。丸瓦内面では、布目痕はコザ目状に粗いもの 越えて粗大化してくる。瓦当径は中の段では一三㎝台への集中が進む。瓦当裏は、古い段階ではまだ括れをもつもの の、巴の尾部が寸詰まりなものが含まれ、新段階では巴の頭部が粗大化して頭部同士も近接し、珠文も底径一〇㎜を 珠文底径が九~一〇㎜と大きめであるが、珠文間隔は広く、巴の頭部同士がまだ離れるが、中段階では周縁が広いも 文様は、 巴 の尾部がさらに短くなり、 頭部の断面は蒲鉾形に定着する。 珠文は一二個が基本で、 古段階は、 :
好化している。 どとなる。器面への炭素の吸着度は、概観として黒というよりまだ灰のものが多いが、5期以前に比べればかなり良 胎土は、微粒化・均質化がさらに進行し、芯部も表側と同様に火がとおって明色となるものがほとん :
(6)岡山城7式[
18 世紀第4四半期~
伽殿拝殿(岡山市中区門田本町)の当初瓦にみられる。6式に対し、製作技法や焼成法などが革新を遂げ、法量や文 ラコは天明八年 (一七八八) 建立の金山寺三重塔 (岡山市北区金山寺) ( 図8 ) や 寛政八年 (一七九六) 建立の松琴寺瑜 瓦当などに瓦笵剥離用の雲母粉であるキラコを用いる技法を採用しだしてから、明治維新までのものをあてる。キ 19 世紀第3四半期 (明治維新) 頃]
様・色・作り・胎土などの規格化が飛躍的に進行する。 軒平瓦
軒丸瓦 て高く、特に凹面は整美である ろ深めとなる。瓦当や平瓦部の各端部は稜が鋭いものが多く、金属的な趣がある。平瓦部のナデによる平滑度も極め の深さは五~六㎜と6式より明確に深い。瓦当が描く弧はこれまで浅化の傾向があったが、この7式は6式よりむし 文を採用するが、余所では見かけない。瓦当は、平瓦部厚をやや下回る程度にまで薄く、華奢になっている。文様面 心飾の脇から派生し、内と外の唐草が上下に重なる傾向をもつものが出現する。古段階の金山寺の三重塔ほかでは波 これは傷んだ瓦笵もしくはそれによる製品を見本に新しい瓦笵が作られたためと解釈できる。また、外側の唐草が中 が大きく深いのに対し、 中段階は全体が太線となり、 新段階には全体がさらに太く潰れて巻きが浅くなると見通せる。 部状に丸くなる。唐草はこの期の内での時期的変化が捉えやすく、古段階には細線的で端部のみが丸くなって、巻き 引き続き岡山式三巴文が圧倒的に卓越する。ただ唐草は太く盛り上がり、その端部はオタマジャクシの頭 :
密に施されることが普遍化し、その事により断面半円を広げて弧を浅くすることに繋げている。 当外周の一八〇度分には到底に及ばず、軽量化が進んでいる。丸瓦部内面は粗い布目であるが、板状の叩きが整然と を持たない。瓦当径は中の段では一三㎝台へ集中し、法量面でも規格化が進む。丸瓦部の横断面が描く弧は浅く、瓦 める割合も減少し、周縁部が広くなる。古段階の金山寺三重塔例では珠文がない左巻きの巴文を採用するが、普遍性 で粗大化し、珠文帯の密度は相当に高い。特に新段階では文様区での余白が僅かになり、文様区径に対する巴径の占 珠文数は引き続き一二個が主体であるが、一六個や一八個と多いものが再登場する。珠文の底径は一三~一五㎜にま 巻きは中央の頭部に対して尾部が反時計方向に延びる左巻きもあるが、6式以前とは異なって右巻きが優位になる。 巴の頭部はさらに粗大化し、それとのバランスのためか尾部は6式よりむしろ長めのものがある。三巴の :
胎土・焼成
鉄分粒を含み、淡暗褐色に発色して目立つことがある。 着技術も飛躍を遂げ、器面の大部分が黒く、一部は銀化している。胎土も均質で画一的なものとなる。少量であるが 焼成は、芯まで良く火が通り、断面は必ず単色で明色度が高く、硬質に焼き上がっている。炭素の吸 :
なお、岡山城下産の瓦は明治維新に至るまで本瓦が圧倒し、桟瓦は殆どみられない。江戸、大坂、出雲、鳥取、津 山、あるいは伊予菊間、泉州谷川、といった各地産では一七世紀後半、あるいは一八世紀半ばあたりから桟瓦が普及 するのとは異なり、備中松山、讃岐高松、丸亀といった各城下町や、備中倉敷の陣屋町などを含む東部瀬戸内の本瓦 卓越圏の一翼を担う。また、他地域の近世瓦で散見できる刻印については、岡山城下で作られた瓦では生産地や瓦工 の名をフルネームで記すタイプのものは明治まではない。しかし幾何学的な図形や瓦工の頭文字と思われるものがあ り、4式に出現し、7式では全個体には及ばないが増大する。
四、岡山の瓦工による製品の供給先
(1)銘文資料と特徴的な製品の分布 岡山城下で作られた瓦の最大の消費地は、疑いなく岡山城の城郭部と城下町であった。一六世紀末の岡山城2式の 成立から明治維新に至たるまで、城内・城下で使われた瓦は城下で作ら瓦がほぼ独占していたと判断でき、他所から の確実な搬入例は、銘瓦からも出土品の分析からも、現状では見出せない。 城下の外に視野を広げると、 2式から4式期、 す なわち一六世紀末から一七世紀第1四半期では、 岡山の瓦工が作っ
たとみられる瓦は、領国内の瓦葺建物には相当数が及んでいるだけでなく、領国外にも広域に及んでいる
遠隔地にまで及んでいる。 の倉敷陣屋付近や連島、さらには高梁川中流の備中松山城下や既に讃岐に帰属していた直島など、隣国とは言えやや 起点とする水運による流通形態が重きをなしたことが窺える。また、児島郡に隣接する備中南東部、高梁川河口東岸 する旭川を軸に中流から下流まで、また岡山藩領である児島郡の各地に及んでいる。これは岡山城下の西川や旭川を 先ず瓦銘資料の分布( 図7 )が有力な手掛かりとなる。一七世紀末から一八世紀末までは生産地である岡山が立地 し、それとの競合の中で分布や数量比率の状況がかなり複雑となってくる。 6式が始まる一七世紀末から7式が終わる一九世紀第3四半期にかけては、岡山城下以外にも多数の瓦産地が成立 続く5式期、すなわち一七世紀第2四半期~後葉の岡山城下外への製品の搬出状況はまだ良く分からない。 の花房氏高松陣屋)や津寺遺跡、讃岐では生駒期の高松城や引田城に及んでいる。 出雲富田城で同笵品が出土する。4期になると分布範囲は一気に狭まり、隣国に限られるが、備中では高松城(初期 領国外では、2期が最も広範に及び、遠く豊臣前期 (秀吉期) 後葉の大坂城下や毛利輝元期の広島城、吉川広家期の 存する場合もある。 ま た同時期に領国内に建てられた建築といえども、 岡山の瓦工の製品が全く及ばない場合もある。 築にも及んでいる。その際、岡山の瓦工による製品が独占する場合もあるが、他地域の工人による同時期の製品と共 久寺 (和気町) 、雲 慶 寺 跡( 赤 磐 市 )、 真光寺 (備前市) 、 静 円寺 (瀬戸内市) 、 宝 島寺 (倉敷市) などの領国内の寺社建 た、 その時点での岡山城主の領国内の支城に及び、 しかもほぼ独占状態で存在する。 また、 金山寺 (岡山市北区) 、本 松城 (同) 、 撫川城 (同) 、 常 山城 (岡山市南区) 、 下津井城 (倉敷市) 、 荒 神山城 (津山市) 、 高田城 (真庭市) といっ すなわち岡山城本丸出土品と同笵で胎土の特徴なども共通する瓦が、徳倉城(岡山市北区) 、虎倉城(同) 、備中高 。
図7 瓦銘からみた1 7世紀末以降の岡山城下の瓦師による製品の分布
一九世紀に入ると事例数が増え、南東は吉井川東岸の邑久郡、東は吉井川を限りとする上道郡、北は津高郡、南は 児島郡北辺部に分布し、備前の領国内ではやや分布域が広がった様にも思えるが、少なくとも瓦銘の上では領外備中 は児島湾に臨む妹尾、早島辺りまでで、前代にあった備中松山や直島のような遠い事例は未確認である。なお、岡山 のうちでの滝本町銘は七日市・二日市より分布範囲が狭く、最寄りとなる城下の北~西のごく近隣と児島郡西半部に 限定される。 いずれにしても、6・7式期は、2~4式期に比べると分布域が相当に狭まって、領国内ですら限定的で、岡山近 郊にしか及んでいない実情があった。 各消費地での産地間の競合状況は、瓦工の住所を記した銘瓦の分布だけでなく、6~7式期は各産地とも軒平瓦の 文様の定式化が進むことから、それぞれ産地の文様を抽出し、各々の文様の軒平瓦の分布や数量比率(市場占有率) の確認を併用することで展望できる
岡山産に酷似した軒平瓦を作った。備中の宮内・加茂、備前の射越と岡山との瓦工間に子弟関係などの系譜の繋がり 似した文様の軒平瓦を作ったことによる要因も大きそうである。同様に備前西大寺周辺でも射越に住所をもつ瓦工が て岡山の瓦が及んでいるとみられるが、庭瀬・高松地域は地場の宮内や加茂の住所を瓦銘に記した瓦工が岡山産と酷 模式化できる。岡山圏は備中南部のうちでも東辺部を含んでいるが、そのうち妹尾・早島地域は銘瓦の分布も勘案し 圏内のうちでも外周部には他産地の瓦がいくらか入るが、岡山近隣ほど独占度が高まり、城下内は完全に独占状態と 広がり、児島湾の入口となる邑久郡南部に開いている。これは岡山からの水運の利便性にも関わるのであろう。岡山 図7 では太線で示した範囲で、一八・一九世紀の瓦の流通上の「岡山圏」域として位置づけるが、正に岡山を中心に に分布し、岡山の瓦工が主力として作った中心飾に三巴文を据えた岡山式軒平瓦が圧倒的に多い区域が抽出できる。 。こうした視点で各消費地のあり方を検討すると、岡山の瓦工を示す瓦銘が濃密
や、生産・流通機構上の連携があったかどうかはともかく、文様を同じにするという規範意識が一塊に連続する圏域 を形成する形で表れたことになる。 それらを別にすれば、岡山圏内には他の近郊地場産の製品は殆ど入らないが、備中の酒津産だけは、児島湾を越え て西大寺観音院や金山寺などの岡山圏外周部に少数散在ながら入っている。いっぽう、播磨産はやや事情が異なり、 岡山圏の南辺に含めている邑久郡南部や児島郡北部に揖西郡伊津産の瓦が瀬戸内航路を活用して一定量入っている。 この伊津産は岡山城下の西方すぐの妙林寺(岡山市北区三門東町)にも離れ点として及んでいるし、同じく岡山城下 の北の法万寺 (岡山市北区原) にも突発的に赤穂郡坂越の瓦が入っている。市場占有と言う観点では播磨の瓦は、少量 ながらも岡山の工人による独占圏に最も接近した場所に食い込んでおり、岡山圏周辺地場産の瓦以上に脅威的な存在 であったに違いない。
(2)文献史料からの視点 注目されるのは寛政四年 (一七九二) に岡山藩は瓦の他国(藩領外)売りを禁じ、同時に価格を公定していることで ある
する。生産 性 が高い田畑は 消耗 させられないのである。 「瓦相場」は 具体 的には「 千枚 付 」「上 新札 四 拾八匁 」 ニ るとの 見解 は、 先述 の 尾 上 村典 四 郎 や国 富村茂次郎 による瓦 作 りが荒地や 悪 田を 条件 に 認 められていることとも 符合 せ候事御指留」て「川口於御番所改」め、取り締まりを厳重にしたのである。粘土の大量採掘は農 業 、国 益 に害があ 限に押えるべきこと、 また 「御国用指支」 つまり余所に売ると自国用の供給に障害が予想されることで、 「船積致さ 勝手我儘 致売買」することで「後年国土之痛指向キ」つまり採土による田畑荒廃が懸念されるから生産は必要最低 ニ 。理由は、 「近年瓦師」は「他国商売」により「相場直上」つまり価格が高騰したことと、 「重田畑等之土銘々身
「中 同 四拾四匁」 「下 同 四拾匁」と公定された。 この指令は「近年何となく相弛」んで来たため文政五年 (一八二二) に再通達されている。 他国売りの禁止の裏返しとして、瓦を他国に搬出する際にはいちいち申請が必要となり、特例として認められた場 合もあった。 文化三年 (一八〇六) の藩文書
た 嶋家の藤右衛門は、その製作期間中に限って、余剰生産分についての市中民需向けに促販を図るという便宜が図られ 近似した構図が幕府御用瓦師についてもあった。弘化元年 (一八四四) に江戸城本丸用の御用瓦を引き受けた大坂寺 との申請があり、許可されている。 瓦数多出来難渋之處」 、「津山候江戸屋敷」 も 「御類焼 付」 き瓦が入用となっているので、 「拾八万枚」 を売りたい ニ 御用被付焼立」とあり、ここまでは藩御用であるので領国外への搬出としても問題はないが、その余分について「並 によれば、 「江戸御屋敷御類焼ニ付、 御 野郡二日市村七日市村瓦師へ、 瓦
天保八年 (一八三七) にも大坂に向けの船出しがあった。 「御野郡二日市村七日市村瓦師」からの願い 。いわば公共事業への参画と抱き合わせの瓦師へのプレミアムで、御用瓦師ならではの優遇策である。
を 如実 に 示 しているし、 滝 本 町 の瓦師が 含 まれていないことは、同 じ く城下を本 拠 とする瓦師でも差 別 化が図られて せて、二日市と七日市の瓦師が藩の御用瓦や城下に住む家臣から発 注 される 自 家用瓦を 供給 す べ き立場にあったこと この件では「勿論御用瓦御士中様方入用瓦無指支差出し可」と言い訳を掲げているが、先の文化三年の文書とあわ れ、許されたのである。 て瓦需要があるので「是迄焼立待合居申瓦之内 貳拾万枚程」を「船」に「積行売捌」かせて欲しいとの願いが出さ 引く販売不振や凶作による物価高騰の煽りをうけての生活困窮な状況に対する救済措置として、 「大坂出火」 によっ 来時節柄悪敷売捌方相減居申上、昨年之凶作殊に諸色高直に至り候而者一向瓦売捌不申一同困窮難渋仕」として、長 によれば、 「近
いたことが判る。また、瓦銘の上では先述のように一九世紀の七日市の瓦師は目立たないが、両文書では二日市と並 列して七日市が明記され、なお瓦工が居て生産が続いていたことも判る。 次に、寛政四年に藩によって定められた公定価格の水準はどのようなものであったであろうか。幸いなことに、前 後四年のうちのでの他国の瓦相場が判る史料が二件ある。 倉敷大橋家住宅(倉敷市)で行われた寛政八年 (一七九六) の工事に関する出納書類資料
次に大坂を本拠とする幕府御用瓦師である寺嶋家の文書 り七九匁で同じく一・七倍である。酒津の瓦は、岡山産の瓦の公定価格より相当に高かった。 七陪、 「五月晦日」 の項目では平瓦一五二〇枚、 丸瓦六七〇枚の合計二一九〇枚が銀一七五匁一分で、 平均千枚当た (面戸) 瓦一二〇枚、 並丸瓦三一二〇枚の合計一〇八九五枚が銀八六八匁四分で、 平均千枚当たり八〇匁で同じく一・ 岡山藩の公定価格の上級品四八匁の実に二・二五陪である。 「巳の夏より」 の項では並平瓦七六五五枚、 「向めんとう」 合計三八九五枚の代金は銀四二〇匁六分六厘で、丸と平を平均して千枚当たりに換算すると一〇八匁となる。これは 酒津の梶谷六郎右衛門から調達されたことが判る。そのうち「中屋倉」関連では平瓦二六七一枚と丸瓦一二二四枚の では、瓦は近郊にある備中
記録である 段書」は、寺嶋家の利益を損なう泉州堺など他国瓦の流入を禁止する代償に、一時的に価格を引下げさせられた際の のうち寛政五年 (一七九三) の「御役所御渡被成候他所瓦直
寛政四年を境にマークを区別しているが、備中松山や讃岐直島にまで及んでいた一八世紀に対する、一九世紀の分布 一八・一九世紀の岡山産とみられる瓦の分布状況は先述の通りで、確かに他国売りの実情が確認できる。 図7 では 岡山藩の公定価格は備中倉敷や大坂の相場に比べて、確かに相当に低く設定されていた。 でありながらも、なお岡山藩の上級品公定価格の一・三倍である。 。「長屋平瓦」 が百枚で銀七匁であったものを、 他 国相場に合わせて、 六匁五分としている。 引き下げ後
の狭まりは、寛文の禁止令が作用した結果と考えられる。 しかし、備中とはいえ岡山から近く児島湾に面する妹尾・早島は依然として瓦銘資料が分布するし、年銘資料上は 未確認であるが倉敷陣屋町には、備中地場の酒津・服部・八田などと競合しながら、岡山産とみられる中心飾三巴文 軒平瓦が多数入っている
銘瓦からも軒平瓦の文様からも現状では確認できない。 ちなみに、 備中にある岡山藩の支藩領である生坂 (倉敷市) や鴨方 (浅口市) へは岡山産の瓦が供給された形跡は、 文政五年の再通達に繋がったのかも知れない。 のであろうか。 いずれにせよ、 備中南東端部付近を中心とする瓦の搬出が 「何となく相弛」 んだ状態として認識され、 値の備中の地場産より安く、岡山藩の公定価格より高めに価格を設定して、ゲリラ的な販売(禁令破り)を仕掛けた 。一九世紀の天領倉敷は岡山の瓦工にとって領外では主要な供給地であったに違いない。高
五、協業の在り方
(1)連名の瓦銘 瓦工棟梁は、事業ごとに単独で瓦を供給することが一般的であったとみられるが、大規模事業などでは複数の棟梁 が連名で仕事をする場合もあった。現在の工事でもみられる共同企業体(JV)を組んだものとみられる。瓦師同士 だけでなく、大工や左官なども含めた工事全般に及ぶラインナップの全容は、棟札などに記されることもある。 ここでは岡山に本拠をもつ瓦師名を掲げた瓦銘資料から抽出すると(以下に掲げた氏名は一部補訂を行ったものあ り) 、 上 興院 (岡山市北区玉柏) で の宝暦六年 (一七五六) 二日市 影 山清介・石田新六郎、 曹源寺仏殿での文政七
年(一八二四) 二日市 吉田五郎右衛門・石田清右衛門 の二例があり、これらは同一個体の鬼瓦に氏名を併記して いて、強い連携性が窺える。また、浄土寺(岡山市中区湯迫)での天明元年 (一七八三) 二日市 吉田吉右衛門・七 日市 山田長七郎、 松 林寺 (岡山市南区宮浦) での享和二年 (一八〇二) 二日市 吉田五郎右衛門・大田六郎右衛門、 宝積院(岡山市南区阿津)での文政一三年 (一八三〇) の二日市 大田六郎右衛門・石田新六郎 の三例は大棟の一対 の鬼瓦などに、それぞれの氏名や年号を記していて、同一建物に関して協業が行われたとみられる。 二日市と七日市は多数の棟梁が林立して互いにライバルでありながらも、 時々に応じた組み合わせで連合する仲間関 係であったことが確認できる。 他方、 少なくとも銘文の上では滝本町やその他の瓦工との協業の形跡は見当たらない。
(2)金山寺三重塔での協業 協業の実体を知るうえで興味深いのは、天明八年 (一七九〇) に建立された金山寺三重塔(岡山市北区金山寺)の瓦