論 文
「ぼく」によって語られる普遍性
―― 一人称で書かれた いとうひろし「おさるの本」から ――
谷 村 知 子
問題の所在
「ぼくはおさるです。」『おさるのまいにち』は 1991 年、一筆書き風の線画のおさ るの挿絵1を配して、この印象的な書き出しで出版された。以後現在まで、変わら ない書き出しとシンプルな絵の「おさるの本」は、幼年対象の児童文学としてシ リーズ化されて
9
冊2を数える。作者のいとうひろしが文も絵も担当しており、本 シリーズで多くの賞を受賞している。1992年の路傍の石幼少年文学賞が『おさる のまいにち』と2作目の『おさるはおさる』に与えられ、4作目の『おさるになる ひ』に1995
年産経児童出版文化賞、そして2003
年には7
作目の『おさるのもり』に対して野間児童文芸賞が授けられた。
児童文学研究界においても、甲木善久が、子どもの視線で哲学的なテーマを扱っ たことに注目して子どもに向かう作者のまなざしを評価した3のを皮切りに、石井 直人は「くりかえし」の弛緩が毎日に不可欠だと述べ、おさるシリーズが今までの 児童文学と別の原理でできているのではないかと示唆した。宮川健郎も同様に、そ れは「遍歴物語」をめざしているということだと続けて、「「成長物語」として書か れることが多かった現代児童文学の決まりきったあり方をも脱臼させてしまう」と 述べている4。
その他にも、大人が読んでも楽になれる、などのコメント5と共に選書案内に紹 介されることも多かったが、「新しい幼年文学の兆し」6とその出版は歓迎され、日 本の児童文学史を学ぶ上での一種の必読書とも言われて7、その絵も含め本書が評 価されている。
では何が新しいのだろうか。
本作品は「ぼく」というおさるが一人称で語るお話である。各巻で哲学的な何ら かの疑問を持った「ぼく」が、それをどう咀嚼していくかが描かれるのだが、彼が 辿る道筋が重要である。即ち、その疑問が、「ぼく」の内部でエコーのように繰り 返し行き来し、そこに年長者の言葉が届けられる。そのとき、「おさる」は自ら考 えて気づくことになる。
本論ではまず、「ぼく」が感じた疑問の特徴を考え、哲学的テーマで何を語ろう としているのかを明らかにする。続けて表現方法の視点から分析し、その方法が持
つ意味を考察する。「ぼく」はどのように疑問を抱きしめながらいくのか、どのよ うに疑問を解きほぐしていくのかを読み解きながら、彼が気づいたことやその過程 が新しい潮流と捉えられることを確認する。
「おさるの本」シリーズは各巻、表題のページを入れて
77
から93
ページあり、幼年童話に一般的な固い厚紙を表紙にした縦
22
センチの単行本である。他に「お さるの本 絵本シリーズ」として横長の絵本体裁のものが3
冊刊行されている8 が、本稿は、読者対象が商業的には限定されている幼年童話シリーズを考察する。尚、子ども読者の立場で、現在日本語で読める作品を対象として検討し、海外の 作品も翻訳された日本語作品として取り扱って、原文と訳文の関係を問題としない ことをお断りしておきたい。
1.「おさるの本」の特徴 1 - 1 日常性を賛美する
作品は一人称で書かれ9、全て「ぼくは、おさるです。/みなみの しまに、 す んで います。」という言葉で始まる。南の島のイメージは明るく、表紙のおさる の絵も頭や体を赤く描かれてユーモラスで明るい。始めの
2
文に続く言葉は各巻で 少しずつ変化する。「ぼくの すむ しまは、/とても ちいさいけれど、/もり が あります。/やまも あります。/かわも あります。」(pp.4-7)と『おさる のまいにち』では島の様子を説明し、「ぼくらは この しまで、/なかよく く らして います。」(同、p.8)と暮らしぶりに話を移す。「あさ、おひさまが のぼ ると/めを さまし、/まず、おしっこを して、/ごはんを たべます。それか ら(後略)」(同、pp.9-12)と遊びの様子を述べているが、次の日もその次の日も同 じことを繰り返し、変わらない暮らしをする「ぼく」の平和な様子が語られる。そ れぞれ別の木で眠っていたおさるが目を覚ます絵の次には、木の上で並んでおしっ こをしている絵が続き、それぞれの場所で朝ごはんを食べている絵の次には、並ん で毛づくろいをしている絵がある、というように、暮らしの内容や絵にリズムがあ る。第2
巻として出版された『おさるはおさる』では、「ぼくは この しまで うまれて、/この しまで、おおきく なりました。」(pp.4-5)という文と、母ざ ると一緒にいる子ざるの絵が描かれる。そして話は友達に移り、「ともだちも た くさん できて、/みんなと のんびり くらして います。」(同、pp.6-7)と述 べ、前作と同じように一日を語る。ここに醸し出されているのは日常への愛着である。日常性を慈しみ、まわりの者 達との交流を楽しむ日々を大切に思う「ぼく」の気持ちだ。そしてこの日常への愛
情は「みんなと いるのは、とても いい/きもちです。」(同、p.14)とあるよう に、「ぼく」が仲間との平安にいるからである。『おさるがおよぐ』では、「ほら、
これは みんなと/きのぼりを する きです。/その となりに あるのは、/
いつも おいしい ばななの/なって いる き。」(pp.12-3)と、楽しみを与え てくれる身近な光景を紹介する。「とても ちいさい」島だが、そこにある「おお きな おおきな もり」では「(前略)おいしい たべものを たくさん/くれま す。/ふかふかの べっども よういして くれます。/きの うえに いれば、
けづくろいも/おしっこも たっぷり できます。/きの うえに いれば、のん びり くらして/いけます。」(『おさるのもり』pp.8-11)とあり、充分暮らしに満 足している様子が再び確認できる。
そして次には、体験が描かれることになる。「ぼくらは、あたたかな すなの うえに/ねころびました。/ざばーん しゅるるる/つつつつつー。/なみの お とが/きこえます。/ざばーん しゅるるる/つつつつつー。/かぜが とおり すぎて/いきました。/ざばーん しゅるるる/つつつつつー。/みみの なか の みずが、/とろりと ながれでて きます。/からだが ぷるっと/ふるえ ました。(中略)/ぼくの からだは、/すなに とろけそうです。」(『おさるのは まべ』pp.62-7)ここに描かれているのは「ぼく」の身体の喜びである。日常性の 賛美が「おさる」の体を使って描かれている。山に対しては次のように描く。「ぼ くらを そっと みて います。(中略)/やまは じっと たちつづけて いま す。/ぼくらは やまに みまもられて おおきく/なります。」(『おさるのやま』
pp.8-22)母には怖いところだと教えられている山すら、その姿は自分たちの安心
と喜びになっているのだと、「ぼく」は自覚している。そして川も近しい存在である。「かわは いつでも ぼくらの ともだちです。
/かわに いけば、いつでも/おいしい みずが もらえます。/りょうてで す くって ひとくち のめば、/かわの つめたさが からだ ぜんたいに/しみわ たります。/おひさまが げんきな あつい ひには、/みんなで、かわに あそ びに いきます。/つめたい みずを ごくりと のむと、/あたまが きんきん して きます。/きんきんした あたまには/そらが、いつもより たかく みえ ます。/かわの みずの まほうでしょう。」(『おさるのかわ』pp.8-13)川がどれ 程楽しい存在であるかを「おさる」は体全体で知っている。その水を飲んだときの 感覚も、味覚だけではなく体の内部の感覚も感じ取ることができ、視覚でも感じ 取っている。それらはすべて日常性の賛美であろう。
1 - 2 子どもとして哲学する
「ぼく」には、日々新しい体験がある。体験には思考がついてくる。
『おさるはおさる』の中で「ぼく」に起こった事件は、カニが耳を挟んだまま離 さないことであった。カニ耳の友達はいない。自分がひとりだけ違う、という事実 に怖れを持ち、カニをつけたままでもおさるでいられるのか、と不安になる。やが てカニが大きくなって自分を乗っ取られる想像すらせずにはいられない。昼寝して いる友達の耳にもカニを挟ませようとするが、カニはすぐ離れてしまったので事態 は変わることはなく、自分だけがカニ耳ざるのままである。ここで「ぼくひとりだ けです。」と書かれ、次のページは「ぼくひとり。」最後は「…………。」(p.35-7)
となる。海を前にした「ぼく」の後ろ姿は順に小さくなり、心細い「ぼく」の気持 が伝わる。存在不安である。
「ぼく」の疑問は自分が見たり感じたりすることによって生まれる。耳をカニが 挟んでいるのを知った「ぼく」はひとりで考える。やがて耐えきれなくなった頃、
おじいちゃんはご飯を持ってやってきて「ぼく」に話をする。おじいちゃんにもそ のまたおじいちゃんにも同じような経験があることを聞いて、「ぼく」は心配が氷 解していくのを感じる。
『おさるはおよぐ』の場合は、海の広さを知らないことに気づいた「ぼく」が、
それがどれ程広いのかを知るため、丸太に乗って泳ぎだす。
でも、ぼくらは うみの むこうを/みた ことが ありません。/うみが どれくらい ひろいのかも、/わかりません。/ぼくの しまは ちいさいか ら、/みぎてに いっぽん、ひだりてに いっぽん、/ばななを たべたべ、
はまべを あるいて /いくと、/ぜんぶ たべおわらない うちに、もとの
/ところに もどって きて しまいます。/うみは、どれくらい ひろい のでしょう。/かたてに さんぼんぐらいずつ/ばななを もって いけば、
/いって もどって これるでしょうか。/うみに でて いくのは、ちょっ と/こわいけど、こんなのや こんなのだって、(筆者注:丸いのや半楕円の 小さなクラゲが、「ぼく」を見ながら海を漂っている絵がある)/へいきで うみを およいで います。/ぼくに できない わけが/ありません。/
ぼくは、まるたに のって、/うみに でて みました。(『おさるはおよぐ』
pp.22-9)
その後、海は「ひろすぎる」ので帰ろうと決心したものの、島影すら見えない中 を泳ぎ続けなければならないことになる。そんなとき「ぼく」は、ウミガメのおじ
いさんに出会う。広い海で唯一会えたのが、島でいつも自分達がその来訪を待ち望 んでいるウミガメだった。「ゆめのような」巡り会いをして甲羅に乗せてもらって 島に帰る。「ぼく」は海の広さについて考え、行動し、その広さを体で知る。
次に『おさるになるひ』では、おかあさんに赤ちゃんが生まれることを知った
「ぼく」が、今度生まれてくる子がヘビやカエルならいいな、と考える。ヘビなら 怖いことがあっても安心で、カエルなら好きなときにカエル投げができていいと思 う。しかし「へにょへにょの」クラゲや「いじの わるい」カニなら困るので、生 まれてきた妹がおさるであることを喜ぶ。「ぼく」は覚えていない自分の赤ちゃん の頃の話を母に聞いて感激し、妹の赤ちゃんのこれからを、母に頼まれたように覚 えておこうと思う。
『おさるのおうさま』は、浜辺に打ち上げられていた、さるの人形を王様に間違 える話である。それは電池を入れればタンバリンを延々と打ち続けるおもちゃだと 読者にはわかるが、「ぼく」は、タンバリンをきらきらした王冠と思い、その人形 を命令している王様だと思い込む。そこで王様の要求が理解できないままに、どう 命令に答えればいいかを算段し、バナナを持っていったりして懸命に要求に添おう とするが、王様は打ち鳴らすことをやめない。困り果てて相手になることを放棄 し、「ぼく」は仲間のところに帰ってしまう。どうすればよかったかを考えてその 経緯をおかあさんに話したところ、母から思いがけないことを聞く。母は「ぼく」
が王様に思えることもあるし、自分が王様になることもあるだろうと言う。思わず
「みんなが おうさまに なったら、/たいへんだよね。」と同意を求める「ぼく」
に、おかあさんは「たのしそうに わら」って、「そうかしら?」(pp.76-9)と言 うのである。誰もが横暴になることもあるし、揉め事もいつでも起こりえるけれど も、それは格別大変なことではないと息子に伝え、そうしたおさるの日常をおかあ さんは楽しく受け止めている。前述した日常性の賛美である。
『おさるのはまべ』では、浜辺で家族
4
人が遊び、「ぼく」は波の神秘に打たれ る。『おさるのもり』では、まだ木に登れない妹を手助けしようとする「ぼく」が、初めて自分が登った木を探しだそうとする。祖父にも一緒に探して貰うが見つけ出 せない。その時、見つけることはできないが、どこかにあるのは間違いない、とい うものの存在が「ぼく」を支えていることを知る。豊かな日常の堆積を感じるので ある。
『おさるのやま』は島の真ん中に見える山に登る話である。山がいつも見てくれ ていると思う「ぼく」。だから山の気持ちを知りたいと思う「ぼく」。昔、登ったこ とがあるというおじいちゃんの経験談を聞いて、自分にも登る勇気が出る。思考だ けでは「ぼく」は終わらせない。行動というエネルギーを加えて、その思考は行き
先を持ち感覚を持って動き始めるのである。
山の頂上から見えたものは、空と海だった。「きのうも きょうも あしたも ありません。/いつまでも いまが つづきます。/ゆったりと。たっぷりと」
(pp.70-1)した「今」の中で山がある。見下ろすと、家族や友逹がいる。山はい つも自分達を見守ってくれているのだと感じる「ぼく」は、日常が大切に守られて いることを知る。
最近刊の『おさるのかわ』では「かわは、いつでも/かわらないのに、/かわは いつでも/かわってい」(p.34)ることに気づく。川は同じ川だが、流れる川の水 は絶えず変わっているわけである。その不思議さをおじいちゃんに告げると、おさ るの世界の話をしてくれる。おじいちゃんが子どもの時にはおじいちゃんのおじい ちゃんが遊んでくれた。やがて「ぼく」がおじいちゃんになったら、その時は、
「ぼく」のおじいちゃんはもういない。そして「ぼく」が、小さいおさると遊んで やるのである。川の終わりは海の始まりであることに気づき、自然の循環に思いが 至る。繰り返しが日常である。個々は異なっても全体は変わらないように見える。
そうした日常の中で「ぼく」は考える。日常の事だからこそ「ぼく」は考える。子 どもの哲学は日常の思考でもある。
一人称で書かれているため、主人公の気持ちに添うのがたやすいだけではなく、
視線が直線的で範囲が広くないことも効果的だと思われる。読者が、主人公の日常 性へ密着することができる。一人称は起点がはっきりしているため、最初の自分の ひっかかりから考え始め、順に思考経路を辿るのも簡単である。「だけど、/ぼく じゃ ない/ちいさな おさるが いて、/おじいちゃんの ぼくは/その こた ちと/あそんで/いるのでしょう。(中略)/ひとりひとりの/おさるは、/かわ を ながれて いく/みずのような/ものかも しれません。/つぎから つぎへ
/かわを ながれて いく/おさるの なかまたち。/なんだか ちょっと/こわ いけど、/やっぱり わらって/しまいます。」(『おさるのかわ』pp.50-3)のよう に、おじいちゃんの話を聞いたことから、川を見ながら、その水の流れに自分達を あてはめ、想像したときの自分の気持ちが素直に受け止められるのも、一人称の効 能だと思われる。
さて、かつて子どもの存在不安を書いたと評された神沢利子の『くまの子ウー フ』10と「おさるの本」とは似通った一面を持つ。即ちいとうひろしは、神沢利子 に次いで哲学する幼年文学を書いたといえる。子どもが抱く疑問は、あらゆる現象 や人の精神や行動に向けられ人の存在をも追及する。神沢利子は「ストーリー性に よりかからず、もっと端的にものの本質に迫る仕事は出来ないものか。」11と試み たものが、『くまの子ウーフ』の連作であったと語っている。命の源そのものに触
れる子どもの迷いや喜びを書こうとしたのであった。
連作の中の「ウーフは おしっこでできてるか??」は、コップはガラスででき ている、というように物の材質がわかったところから話が始まる。意気揚々とその 話を友達のツネタにしようと出かけたウーフは、メンドリに会い、卵を毎日産むと いうことはメンドリが卵でできているのだと考える。だが、ツネタに、それなら ウーフはおしっこでできている、と言われて混乱し飛びかかっていく。転んだウー フは怪我をし、痛みに泣きながら、痛いと感じているのはおしっこではなくウーフ 自身であることに気づくのである。ここで問題となったのは、自分が自分である根 拠だった。そのことに関して酒井晶代は、次のように論じている。
(前略)ウーフははじめからウーフであり、その前提に揺るぎはない。ウーフ の問いはこの前提から出発し、自分は何故くまの子なのか、ウーフなのか、
という問いを問う。
「おさる」はどうだろうか。「みんな、ぼくと おんなじ おさるなので、」「じ ぶんでも、どれが ほんとうの ぼくか、わからなく なります」(『おさる はおさる』)という彼は、ウーフのような前提を持たないところから出発す る。「自分は本当におさるなのだろうか」「ぼくは本当にぼくなのだろうか」
という問いから始めなければならないのである。自分が自分である証拠、「で きている」 実際を問うウーフの物語と、自分が 「できるまで」 の過程を問う おさるの物語。(後略)12(p.26)
ウーフが前提を持つということは、言いかえればウーフが既に個を持っていると いうことである。ウーフはクマのおとうさんとおかあさんと一緒に住み、メンドリ の卵を食べる自分を疑うわけではない。たとえ自分の中身が何なのかわからないま まであっても、個を失うわけではなく、おとうさんとおかあさんのうちに帰ってい くだろう。一方、「ぼく」は、ひとりだけカニ耳ざるであることに不安で、ひとり 海辺に立つ。それは酒井の言う通り、前提を持たないこと、即ち個を持たないこと を意味するが、しかし前提のないところから出発して「できるまで」の過程を問う ているわけではない。仲間と違う、ひとりになってしまったと感じた個を持たない
「ぼく」 の不安が、どのように霧散したかを物語は語っている。個を持つこと、前 提を持つことが問題にはなっていない。それ故に自分が「できるまで」の過程を問 うのではないし、自分がおさるの世界からはじき飛ばされる孤立感は、個を持たな いものが個を持つことを志向していく上での出発点でもない。みんなといるとど れが自分かわからないほどに自分を意識しないまま安心して過ごしていた「ぼく」
が、カニ耳ざるになってしまい、困って友達大勢にもカニを挟ませようとした。も し、みんなもカニ耳ざるになっていたら、彼は何の憂いもなく毎日の暮らしを続け たに違いないが、友達にはカニは付かず、カニ耳ざるはやはり「ぼく」だけであっ た。しかしその時、おじいちゃんもそのまたおじいちゃんも同様の困難にあったこ とを知って、「ぼくだけじゃ ないんだね。」(同、p.67)と安心する。自分がカニ 耳ざるであっても、「おさる」の世界の循環に入っていることを知って 「ぼく」 は 仲間と再び遊び始めるのである。前提のないままに生きていくことにはもともと迷 いはない。
哲学は対話することから始まる。即ち哲学には場が必要である。「ぼく」にもお じいちゃんやおかあさんと共にいて話す場が必要だったし、読者にも同じように場 が必要である。自由自在に読むにはまだ一歩手前の子どももいよう。そこに単純な 言葉がリフレインのように繰り返し語られる。「ぼくひとりだけ」(『おさるはおさる』
p.35)「おじいちゃんひとりだけ」(同、p.50)「じぶんひとり」(同、p.56)や、「ぼ
くと おんなじだね」(同、p.51)「ぼくと おんなじだね」(同、p.61)のように 繰り返されると、その言葉はリズムとなって、子どもの頭に流れこむ。言葉が多く 用意される必要はない。むしろ言葉が単純であればある程、そのリズムは子どもの 中で繰り返され、哲学に必要な場を作り出す。体に響かせ、読者におのれと作中を 交互に行き来できる場を提供できればいいのである。1 - 3「今」を広げる
各巻の内容から考察した通り、日常の生活から発した疑問を「ぼく」はまず自分 で考えた。解決法が見つからず困惑すると、おじいちゃんやおかあさんに話しかけ た。対話という場で、彼等から返ってくるのは、彼等自身の経験話であり思い出で あった。自分にもそのようなことがあった、と語って聞かせる。そして自分も自分 の上の世代から同様の話を聞いたと伝えた。
本作品では親世代のおかあさん、もう一代上のおじいちゃんという前の世代の登 場により、歴史的な流れが強調されていると思われる。「ぼく」以前の歴史である おかあさんやおじいちゃんと話すことから、「ぼく」は感想や疑問が自分だけのも のではなく、まわりの者や過去の者の感想や疑問でもあったことに気づかされてい く。
まず、おじいちゃんとの対話を辿ってみよう。おじいちゃんの口調はわからな い。主人公がまとめて記しているからである。
ごはんを たべながら、おじいちゃんは/こどもの ころの はなしを し
て くれました。/おじいちゃんは、この しまで うまれ、この/しまで おおきく なりました。/ともだちも たくさん できて、みんなと/のんび り くらして いました。/ところが ある ひ、ごうじょうな たこが、/
しっぽに すいついて しまったそうです。/おじいちゃんは、じぶんが た こしっぽざるに/なったと おもいました。(『おさるはおさる』pp.40-4)
そしておじいちゃんは、かつて自分のおじいちゃんが自身に話してくれたこと を、「ぼく」に語って聞かせる。
おじいちゃんの おじいちゃんは、この/しまで、みんなと のんびり く らして/いました。/ところが ある ひ、ごうじょうな へびが、/あたま に まきついたそうです。(同、p.55)
自分達に起こっていることは、今までのおさるの先祖が経験してきたことだと 語って聞かせる。その事例の度に主人公は驚き、たとえばヘビに巻きつかれている 様子を想像して恐怖を追体験している。そして、「ぼくと おんなじだね。」(同、
p.61)と言うのである。6歳頃には子どもも他人の立場を分析してお互い性を理解
するようになるが、波多野完治によると8
歳ごろから、「物」からはなれて自分に 立ちかえることができ、同一性が発見できるようになると述べられている13。「ぼ く」は自分と、おじいちゃんやそのまた上のおじいちゃんをつなげ、重ねることが できた。おじいちゃんの返事は、「うん、うん。」である。ぼくの考えや感想に対して、「う ん、うん。」という言葉を繰り返す。孫の言葉に相づちを打ち、その考えに同調す る。決して真正面に答えるわけではなく、意見を述べたり指南したりはしない。お じいちゃんは指導する存在ではなかった。「ぼく」と対話し、過去の経験を語るこ とで「ぼく」を慰め励ましたのである。「ぼく」の疑問や心配がおさるの祖先から あったことなのだと説いて、「ぼく」だけのものではないことを暗に知らせ、「ぼ く」の気持ちに寄り添ったのである。今、毎日同じように続く暮らしを「ぼく」が しているように、昔のおさるも同じ暮らしをしていたのだと「ぼく」は感じ取って いく。自分の存在や思いは、おさると小さな島の歴史の中にあることを体得する。
おじいちゃんの発する言葉は「うん、うん。」だけであるが、これは「うんうん」
ではなく、一言ごとに読点、句点が振られ、間も取りながら相槌を打っていること が分かる。またこの「うん、うん。」は、ウミガメのおじいさんの相槌とも全く同 じである。おじいちゃんもウミガメのおじいさんも、生返事ではなく、「ぼく」の
話を確かに聞いて返事をした。しかし祖父らがどう問題を解決したかを聞くと、「お じいちゃんは、すこし かんがえてから、/「わすれちゃった。」と いいました。」
(同、p.81)と、「ぼく」を抱き寄せて答えている。高まった心をはずすかのよう に「脱力」させる。「ぼく」の張りつめた心が柔らかくなったのだろう。予想外の 答に 「ぼく」 は面食らって、ページをめくると一言、「わすれちゃった。」(同、
p.82)
と繰り返している。そしてその後、耳のカニがいなくなったことに気づいたのも忘 れた頃だったと回想し、おじいちゃんから貰った、自然に委ねる道もあるという安 心感に浸るのである。
次におかあさんとの対話を辿ってみよう。『おさるのおうさま』に次のような文 がある。
おかあさんは、だまって きいていましたが、/さいごに ゆっくり くびを ふると、/おかあさんでも わからないだろうと/いいました。/「だって ね。」/と、おかあさんは つづけます。/「おかあさんだって、この こが おうさまだと、/おもう ときも あるしね。あなたが/おうさまだと、おも う ときも あるの。」(『おさるのおうさま』pp.69-71)
「わからないだろう」や「おもう」とおかあさんは言う。息子に解答を与えるの ではなく、息子と並んで立ち、「ぼく」の疑問をむしろ膨らませる。息子の考える 場を広げたのである。「おかあさんが かえった あとも、ぼくは/ひとり、はま べに のこりました。/ぼくは、とおくの うみを みながら、/おうさまの こ とを かんがえ(後略)」(同、pp.80-1)る。王様の気持ちを、自分の行動が受け入 れられなかったことから推し量り、ほかにしてほしかったことがあるのではないか と想像する。「おかあさんにも わからない、おうさまの/きもちです。ぼくには とても/わからないでしょう。」(同、p.87)と結論づけるが、それでも、「だけ ど、もう すこし そばに いて/あげても よかったかも しれません。/もう すこしだけ……。/…………。」(同、pp.88-90)とぼくは考え続ける。挿絵も効 果的である。バナナをあげたけれど、本当はメロンがよかったのではないか、など と、一つ一つ考えを出していくところでは、浜に立ち、考え込んでいる主人公の姿 が海から見て描かれている。そして、わからないけれど一緒にいてあげたらよかっ たのではないか、と思うところでは、反対に、王様が流れていったであろう海に向 かって立つ、おさるの後ろ姿が描かれている。その後ろ姿は
3
枚続く。1枚目は、おさるのそばには木が立ち、背後には、カエルがおさると同じように海に向かって 座っている。2枚目になると、おさるは少し、海に向かって進んだらしく、木の位
置がおさるの横から少し手前に退き、カエルは消えている。そして
3
枚目は、波打 ち際にひとり立つ後ろ姿のおさるだけが、見開きの海の前に小さく描かれている。ところが、おさるの後ろ姿をしみじみ見る読者を、作者は最終章で感傷から解き放 つ。次のページのおさるの姿は意外性に満ちている。小さく描かれた島の浜辺に立 つおさるの立ち姿は、島に比べると予想外に大きい。8匹くらいで島はいっぱいに なりそうなくらいの「ぼく」の大きさである。顔が全身の半分くらいの大きさで描 かれた「ぼく」の背後に、山が煙をまっすぐに吹いている。「すっかり しずかに なった うみを/みながら、ぼくは そんな ことを/かんがえて い(後略)」
(同、p.92)るが、やがて夕凪の中を家族や仲間のところに帰っていき、平和な夜 を過ごすのだろうと読者には予想できる。問題の決着を見ることはできなかった が、そのことが後をひいたり苦痛になることはない。「おしまい。」(同、p.93)の ページに描かれた挿絵の「ぼく」は、口角が上がり、おだやかな微笑みを浮かべて いる。思考は孤独を必要とし、その孤独は寂寥ではなく豊穣をもたらしたようであ る。
ある意味で 「ぼく」 は自立している。ウーフは、おとうさんとおかあさんに生活 の世話や面倒を見てもらっており、何かあれば彼らに助けを求めたり、うちに帰っ て抱きしめてもらったりする。また親はウーフの質問に答え感想を言ってくれる存 在でもある。一方の 「ぼく」 は森の中でそれぞれの木の上で眠るように、家のよう に囲われた中ではなく、常時開かれた森の中に住んでいる。自分とまわりとの境界 は目には見えない。おさるが時間を越えて過去のおさるとつながることも、空間を 越えて外のものたちと手をつなぐことも、感覚的には多くの困難を必要としない。
おかあさんは、『おさるになるひ』の中で「ぼく」の幼いころの話をしたあと、
妹の幼い頃や成長の様子を覚えておいてね、と頼む。
「だからね、この こが おおきく なって、/ちいさい ときの ことを きいて きても、/おかあさんが こまらないように、しっかり/おぼえて おいて あげてね。」/「うまれた ときの こととか、/おっぱいを のん でた こととか、/はじめて ばななを たべたり、/あるいたり した と きの こと、/しっかり、おぼえて おいて あげてね。」(『おさるになるひ』
pp.75-7)
ぼくの小さい頃の話をおかあさんから聞いて「すごく よく おぼえて いるん だね。」(同、p.72)と感激した「ぼく」は、妹のことも「ちゃんと おぼえて/お かなくちゃ、と おもった」(同、p.79)のである。だから、数日後に生まれた妹
に「いもうとは しわくちゃで、なんだか/としとった かえるみたいでしたが、
/かわいい おさるの あかちゃんでした。」(同、pp.83-4)と現状肯定に加え、こ れからの意欲が強く認識される。「ぼく」の前に歴史が続いているだけではなく、「ぼ く」の後ろにも歴史は続いていることを会得したからである。
本作には、「ぼく」と友達との会話はない。友達とは毎日一緒におしっこをし、
バナナを食べ、カエル投げをしているが、友達に話しかけたり、話しかけられたり したことへの言及はない。諍いも起こらず、人間(おさる)関係の緊張を回避して いる。友達とは行動を共にしているが、思考が始まり考えていく場面ではいつもひ とりである。そこにも『くまの子ウーフ』との違いがある。前述した「ウーフは おしっこでできてるか??」の核心の思考のきっかけはツネタであった。『くまの 子ウーフ』にはツネタとミミちゃんという友達が登場するが、ウーフは彼らと話し 遊ぶ中で疑問をぶつけていく。ウーフの対話は同年代で行われ、最後におかあさん やおとうさんに答えてもらっている。原昌がウーフを評価し、その長所を、「幼児 特有の論理思考が宿されている」と述べた14が、それは同年代の子ども達との意 見交換があってこそだろう。
それに比べて「ぼく」が話すのは家族であり、ウミガメのおじいさんであった。
友達との会話はなく、循環する歴史として事象が省みられるためには、個別の経験 から全体のそれへと視野を広げ、問題点をできるだけ一般化することが必要であ る。余分なものを書きこまないシンプルさが必要だったと考えられる。
「きのうも きょうも あしたも ありません。/いつまでも いまが つづき ます。/ゆったりと、たっぷりと。」(『おさるのやま』pp.70-1)山は島の真ん中に いつも変わらず立っている。「今」は過去の続きであり、未来への途中である。「今」
を拡散し、「今」への視線を広く歴史的な長さに持っていくことを目指している。
2.「おさるの本」の主張 2 - 1 名前はいらない
「ぼくは、おさるです。」作品はその言葉から始まることを前述した。「ぼく、ド ラえもんです」15や「ぼく、オバケちゃんです。ねこによろしく」16を連想させる が、これらは会話文であり、作品を「ぼく」が一人称で語っているのではない。ま た、ドラえもんやオバケちゃんは、名前、もしくは愛称であったが、さるは種族の 名称であって「ぼく」だけがさるではない。ただいろいろな動物の名前の中で、さ るだけ「おさる」と「お」をつけて呼ばれて親しみが醸し出されている。だから
「ぼくは、くまです。」などと比べると、ひとは人類がさると先祖を同じくすると
思う気持ちの近さに加えて、「おさる」となることによって増幅された親近感を持 つ。事実、表紙をめくると、カバーを折りかえしたところに「(前略)ほら、きみ もおさるのなかまだよ。」という作者の呼びかけがあって、子ども読者にも主人公 との近さを示唆しているようである。
幼年文学には種族名に、「くん」や「ちゃん」をつけて登場人物を呼んでいるも のが多い。ローべルの『ふたりはいっしょ』17では「かえるくん」と「がまくん」
である。彼の作品は『きりぎりすくん』18や『ふくろうくん』19でも、種族名に「く ん」をつけて固有名詞に近い使い方をしている。『きりぎりすくん』を見ると、登 場するカナブンやイエバエには「くん」は付かず、主人公が際立って見える。ま た、「くまの子」や「きつねの子」という呼び方で統一しているのは、角野栄子の
『きいろいバケツ』である。それらには名前はないものの固有名詞として使われ ている。一作中に同じ種族の動物が出てこないので、種族を代表してその名前で呼 ぶことが可能である。一方本作品の場合、登場する動物はほとんどがさるである。
そこで、個を明確にしなければ理解しにくい家族のときには、おかあさん、おじい ちゃん、という立場を示す言葉を使っている。他に似た設定にはローベルが絵をつ けた「こぶたくんのおはなしシリーズ」20がある。こちらはブタの家族の話だが、
最初だけ「こぶたのオリバーくん」とあり、以後は「こぶたくん」に統一される。
妹にも名前があり、最初だけ、「いもうとのアマンダ」で、以後は「アマンダ」と 書かれる。ところが、「おさるの本」では、誰にも名前がない。また「ぼくはおさ るです。」というのは、単に、ぼくは人間でもクマでもないさるだ、と種類を紹介 したにすぎず、自分という個体を名づけて紹介したものではない。本文中にも主人 公は名前を呼ばれることはなく、完全に固有名詞がない。おかあさんは、主人公の 小さい頃の話をするときは「あなたが」と言って名前を呼ばない。
名前は一個の物や人を分類し分化し、他から区別できるものであり、生き物の場 合、それはこれだと確認できるアイデンティティを表現する。仕事や体の特徴や先 祖の流れから名前や通称を冠することからわかるように、その者の歴史をも表わす こともある。特徴を表わす疑似名であっても、そこに制約はあるとはいえ一個人を 表わすために使われる。また名前はある者を特定するだけではなく、その名を呼 ぶ者、つまり名前から相手を認識する者にとっても重要である。『ルドルフとイッ パイアッテナ』21に登場するネコの名「イッパイアッテナ」は、呼ばれる人の数だ けあって「いっぱいある」。元々の名はタイガー、近所のおばちゃんは、トラと呼 び、ネコ仲間はステトラ、警察官は泥と呼ぶ。種々の呼び名が表わすことは、呼ぶ 者と呼ばれる者との間にある関係性であり、名前は、相手と自分がその時その場で 共にあるということの証であって、相手にアプローチしていく方策であり道具でも
ある。名前を持つ者自身も、自分の名前を持って自己を世界と対峙させる。映画
「ミツバチのささやき」22の中で、ヒロインの幼い女の子は「私はアナ」と精霊に 呼びかける。混沌とした世界が子どもの前に広がり、その世界に幼女がまっすぐな 視線を投げかけて自分の名前を告げるとき、内にうずくまっていた彼女の自己が、
視線を持つ言葉となって飛び出してくる。「私は○○」と自己紹介することは世界 を見つめることであり、世界の中に入っていくことであろう。ところが本作におい ては「ぼく」にも友だちにも妹にも名前が与えられていない。
なぜ名前がないのか。たとえば、『ぼくは くまのままで いたかったのに…』23 には名前のないクマが登場するが、そこには、人間に対するクマという意味があ る。作品中、人間は職務名で書かれる。サーカスに連れて行かれたクマは、賢くも なく踊ってもいないからクマではないと言われ、工場で働くようになる。そのクマ に与えられるのは 「怠け者」 や、「労働者」 という呼び名であった。その者自身が 尊重されない、愛情によって遇されない=名前がない、ということになる。しかし 本作品の「ぼく」はそうした傾向はない特定のおさるである。にもかかわらず名前 がなく、絵でも他の友だちのさるとの違いは描かれず、大勢の中では埋没してしま う。『おさるはおさる』では、「おさる」が友だちと入り混じり、みんなと「ぼく」
が精神的に一緒になる箇所がある。「みんなと いるのは、とても いい/きもち です。/みんな、ぼくと おんなじ おさるなので、/まるで、たくさんの ぼく が、/そこらじゅうに いるみたいです。/じぶんでも、どれが ほんとうの ぼ くか、/わからなく なります。」(同、pp.14-7)とあって、その後見開き
3
ページ にわたって同じ(ように見える)おさるの顔を一面に描く。おさるの顔も最初は見 開きに8
つと大きく描き、3ページ目に至るとおさるの顔は小さくなって24
も描 きこまれている。ただ子ども達が、自分は皆と同じ顔をしている、という感覚を持つことは難しい のではないだろうか。彼らは、似ているところより違うところの方に興味関心を抱 くことが多い。違いを捨象して誰が誰だとわからないほど似ている、というほど、
対象から距離を置き、共通点を見つけて平均化する見方が簡単にできるとは思えな いが、しかし、難しいからこそ、この名前を表わさない、という設定に意味がある のだと考えられ、そこに作者の主張が隠されていると思われる。顔の輪郭どころ か、どのような所作をしているかもはっきりとは見えない程の距離から人を見れ ば、どの人も同じ人間としか認識できないであろう。つまり、遠くから見て、より 客観的な視野を持ってしまうと、自他の区別すら不能になるような場であり、振り 返って自分をそこに投入すると、より共鳴感覚の持てる場なのである。そこでは自 分という実感はむしろ軽くなる。みんな一緒であると思うと、自分の感覚が拡散し
ていくような感覚を抱くことも可能である。一人称であるために、物語上では名前 をつけないでも通すことが可能だった。しかも一人称の効果で、絵の中でどれが
「ぼく」であるかを読者が特定できなくても、読者は「ぼく」を見失ったような不 安を持たない。大勢の中の
1
匹で、個をなくしているのはむしろ、名前や形で特定 されず、みんな一緒、という視点を持たせるためだと考えられるだろう。誰もが同 じだ、という感覚を前面に押し出している。多くの作品が主人公に名前を配し、名 前がなくてもその特徴から「ちびドラゴン」24のように呼び名を与えたり、「イッ パイアッテナ」のように呼び名におかしみを入れたりしたのは、読者に親しみを持 たせるためでもあった。三人称で書かれているため、語りの視点から読者に主人公 への親近感を送ったのである。しかし、本作品は一人称であるため、それは必要と しない。さて、キャラクターとして「ぼく」を捉え、「ぼく」の成長を認めて名前を与え ようとしたのは、前述した酒井晶代であり、「おさるの本」 は「キャラクターの形 成過程を物語化した物語」(p.23)と読み解く25。そして「シリーズ当初はあいま いだった「おさる」像は、作品を追うごとに立体的に、鮮明になっていく」(同、
p.23)として第 1
作からの変化を追ってみせる。まず「『おさるのまいにち』は「おさるたちのまいにち」であり、キャラクターとしての「ぼく」=「おさる」像 はまだはっきりとした姿を現さない」(p.24)が、第
2
作『おさるはおさる』にな ると、「ぼく」だけがカニ耳ざるになることから、「「ぼくら」から 「ぼく」 への転 換、「ぼく」 の誕生をストーリー化した作品と位置づけ」(p.24)られ、第3
作『お さるがおよぐ』から第4
作『おさるになるひ』になると、海に乗り出したり、妹が 生まれたりの経験をして「それぞれ空間と時間の広がりのなかで、「ぼく」のキャ ラクターが内側から拡張されていく」(p.24)と述べる。そして第5
作『おさるの おうさま』での 「ぼく」 は、さるの人形を前にどうしていいのかわからなくなっ て、人形から離れて仲間のところに帰ったり、母にどうすればいいかを尋ねたり、ひとりで考えたりする。その経緯を酒井は「ずっと自在に個と集団を行き来してい る」(p.25)と解釈している。「「ぼくひとり」の恐怖に脅えたかつての 「ぼく」 は、
ここにはいない。代わりに描かれるのは、自分なりの考えを持ち、「わからない」
という居心地の悪さをそのまま受け入れる「ぼく」の姿だ」(p.25)と述べ、「巻を 追うごとに「ぼく」=「おさる」と周囲との関係は次第に豊かになり、内面世界も 重層的に広がってい」(p.25)ったと続けている。酒井は「ぼく」の内面の変容と とらえて注目し、「ぼく」の確立につながるとする。そして、「「ぼくは、おさるで す」の書き出しの一行が、「ぼくは、おさると呼ばれる動物です」の意味から、「ぼ くは、『おさる』という名前のおさるです」 に変化していく過程」(p.26)を描いて
いると結論付けた。
酒井は「ぼく」のキャラクター物語として読んでいるのである。その根拠のひと つとしているのは 「ぼく」 と 「ぼくら」 の使い分けである。『おさるのまいにち』
では、毎日の生活やウミガメのおじいさんと会ったことは「ぼくら」の共通体験と して語られ、「ぼくはおさるです」 という最初の部分以外では、唯一おじいさんを 追いかける場面が 「ぼく」 であると述べているが、これは単に状況を表現した区別 に過ぎない。また前述の酒井の論への反論と同じ意味内容であるが、『おさるはお さる』の 「ぼく」 は、ひとりの子どもが、自分も普遍的なおさるという存在である ことに気づく物語と考えられ、「ぼく」 自身の輪郭が明瞭になるわけではない。そ れ以後の巻においても、「ぼく」が「おさる」という背景に溶けていく話だと筆者 は考える。「ぼく」が考え行動するが、それは 「ぼく」 の内面が充実することとし て評価するのではなく、「ぼく」が、世界という空間とつながり過去という時間の 中に生きている「おさる」であり、より抽象化された存在であることを認識する過 程である。「おさる」という「名前」を必要としないのは、「ぼく」をひとりの特別 なキャラクターと見る必要がないからである。たまたまの 「ぼく」 であり、その隣 の「おさる」が「ぼく」 かもしれないし、「あなた」 が「ぼく」なのかもしれない のである。それゆえ、ひとりの「おさる」の変化を問題としているわけではない。
ウーフは確実に何かを得る。「さかなには なぜ したがない」26の場合はどう か。暑い日に、魚なら涼しくていいのにと考えたウーフだったが、魚になるために は舌を抜き、目も閉じてはいけないと聞いておかあさんに助けを求める。おかあさ んから、魚には最初から必要がない舌もまぶたもないと教えてもらうと、ウーフは
「したがあるからはちみつがなめられる。手があるから、おかあさんにだっこもで きるよ。ああ、ぼくよかったなあ。くまの子でよかったなあ。」(p.19)と喜ぶ。自 分がくまの子であることを喜びを持って確認できている。また、「くま一ぴきぶん は ねずみ百ぴきぶんか」では、最後におとうさんに、「おとうさんはくまだから、
くまの一ぴきぶん。ウーフなら、くまの子の一ぴきぶんさ。みんなが一ぴきぶん、
しっかりはたらけばいいんだ。」(p.125)と教えられる。ネズミに「ぼくらの百ぴ きぶん!」(p.121)食べてしまうと言われて傷ついたウーフは、父の言葉に、それ ぞれ自分は自分として生きていくことを学ぶ。このように、ウーフの疑問は解決 し、解決できなくとも、自分のなかで新しい見方を獲得する。くまの子ウーフはや がて小さい服が入らなくなる。心も体も大きくなるのである。
しかし「おさる」は確かに何年か前には生まれたての赤ちゃんだったし、何年か 後にはおじいさんになる。ただそこには、成長するという視点ではなく、おさる
1
ぴきの歴史への視点が存在するのである。そのため、『おさるのかわ』にあるように、おじいさんになったおさるの隣に子どものおさるが並び、手をつないだおじい さんと子どもの群れが川の上流から下流まで延々と描かれ、おさるという全体の歴 史へとつながっていくのである。そのためにも「ぼく」は名前で登場しないのであ る。
名付けられたものを持ち込まないことによって、「おさるの本」は昔話のような 効果を得ることができた。昔話では、時と所と人が不特定であると小澤俊夫も指摘 し27、マックス・リュティも「三者(著者注:場所や時間と人物)がないことは、
抽象的、孤立的様式の不可欠の構成要素である」と述べている28。「おさるの本」
も、人の(おさるの)不特定による効果としてもたらされることとして、誰もが自 分や身近の者を想定することが可能となり、人々の共感を得ることができる抽象化 されたお話となった。田中瑩一に昔話と小川未明を比較した論考がある。そこで未 明の後期作品では「固有名詞など、現実的イメージの作品が多くな」ったが、初期 作品の特徴として「時空・人物を特定化せず、非現実性・ロマン性が強調され」て いる29と述べている。「おさるの本」は名前を付けないことによって、読者である 子どもが自分のまわりの現実感にとらわれず、豊かな想像性を獲得できるといえ る。固有名詞とは「人類が決して一つではなく、さまざまな名前―固有名詞をもっ て分かれ、それぞれが自分あるいは自分たちに対立するものであるということを思 い知らせ、相互のちがいをいやが上にもきわ立たせ、それを固定化させる道具であ る」30とある。「おさるの本」では、違うことより同じことを重要視し、自分が仲 間と同様にこの世界の一員であることを確認することに意味があるため、固有名詞 を排したのは納得のいくことである。
2 - 2 普遍的なこと
全巻通して自然に題材をとった話が多い。自然の描写を見てみよう。
かぞえきれないくらい、たくさんの きです。/だけど、ぼくが はじめて のぼったのは、/この なかの たった いっぽんです。/それが どれなの か、いまでは もう/わかりません。でも、この もりの どこかに、/い までも たっている はずです。これからも/ずっと たって いるでしょ う。(『おさるのもり』pp.62-3)
かえるなげを して いる ときも、/だれかに みられて いるような き が して/ふりむくと、/そこには いつでも やまが います。/あめが ふっても、かぜが ふいても、おなじ/かおで たって います。(『おさるの やま』pp.10-3)
なみだけが いつまでも げんきです。/ざばーん しゅるるる つつつつ つー。(『おさるのはまべ』p.85)
木と山と波の描写である。「ぼく」はそれらの自然を、いつもあるものとして捉 えている。いつもあっていつも変わらないものと思っている。と同時に日々変わっ てもいることを知っている。「よく はれた ひの あさは、やまが とても/お おきく みえます。/やまから けむりが/のぼって いきます。/ときどき、す うーっと ながれたり、/ぽんわり ふくらんだり して います。」(『おさるの やま』pp.24-5)にあるように、大きく見えたり怒っているように見えたり、とき には、姿を隠してしまうこともあることを知っている。雲に隠れたり、霧に煙った りするためである。「ぼく」はその自然をアニミズム的な因果感で見ていることが、
次の文などからわかる。「(前略)なみは/つぎから つぎへと/やって きます。
/ぼくらを/ころがして、/たのしんで/います。(中略)/だけど、なみは/そ んなに いじわるじゃ/ありませんでした。/おおきな なみに/のせて、ぼくら を/はままで/はこんで/くれました。」(『おさるのはまべ』pp.53-7)とある。そ れについて、波多野完治は以下のように述べている。子どもは実際に目に見え、耳 に聞こえるものに依存していて、「物」独自の立場で見つめることができない。そ こで自己中心的な思考になり、アニミズムに惹かれるのである31。山は優しいから 自分を見守ってくれるのだ、というように、子どもは感情的に見てまわりの生物、
無生物を擬人化し、自分の存在を大きな自然に入れやすくする。
おさるの日常は自然との共生である。そして、自然の中に暮らす自分達おさる も、自然の生き物としていつもいていつも変わらないものとして捉えようとしてい る。
「なんだか、にてるね。」(『おさるのかわ』p.51)と「ぼく」はおじいちゃんに言 う。それは、「まいにち まいにち/かわらない/おさるの なかまたちが/まい にち まいにち/かわらない/くらしを して い」(同、p.45)たこと、さるは どんどん変わっていくけれども、また新しいさるが同じ暮らしをしていることを理 解し、「ぼく」は川の中の水のようなおさるの存在を受け入れたのである。川を流 れていくようなおさるの存在を想像して、ちょっと怖いもののそれでも笑える、と いうことがそれを証明している。特定の個人の物語ではなく、普遍的で抽象的な存 在を意図している。エンターテインメント系の作品にはキャラクターが存在感を際 立たせているものが多いが、前述のように、本書はキャラクター化の反対を志向 し、キャラクターを消すことを目指している。「ぼく」は記号的で「ぼく」は「ぼ く」でなくても構わない。「ぼく」は不特定多数の中のひとりの「ぼく」であり、
広い世界での絆や共感・共有感覚を描いているのである。社会的な視野よりむし ろ、生物学的な視野で自分達を見ているのである。
普遍的な自然と同じように、おさるの存在も普遍的なものとしてあり、自分もお じいちゃんも仲間も、普遍的存在として認識されたのである。
最後に ―居心地の良さを―
さて本シリーズは、「ぼく」が抱く疑問に解答が与えられるわけではなく、その 思いを抱き続ける過程が重要であった。では解答を貰えない「ぼく」はどうしただ ろうか。
「(著者注:困ることがあっても)みんなと まいにち くらして きたんだね。」
(『おさるはおさる』
p.71)と思うことや、いつの間にか忘れてしまうこともあり、
わからないので、いつまでも海を見ながら考え続けているときもあった。そして考 えた結果怖くても、「やっぱり わらってしま」(『おさるのかわ』p.53)う、とい うように、突き詰めて解決を求めることはしない。みんな同じだとほっとしたり、
おかしみを感じながら斜めからみたり、問題をずらして考えたり、気持ちをはず してみたりすることで、まあいいのではないか、いろいろなことがあるからよく わからなくてもいいのではないかというままで、最後のページはいつも「おしま い。」になる。毎日の暮らしに戻っていくのである。繰り返しの毎日の中で、のん びりと暮らし32、頑張りすぎない生き方も良しとされる。多様な価値観が認められ る「今」を「ぼく」は生きている。
親に聞いてみたくて息せき切って家に駆け込むウーフと異なり、「ぼく」は様々 なものが共存する世界で、解答のないままに日々暮らす。波の音を聞きながら眠る
「おさる」は過去から続いている「今」の幸せの中にいる。これしかない、こうあ ればよいと一直線に答を求めず、広く「今」に身を委ねている「おさる」は、現代 の風潮を色濃く受けた幼年文学の世界を作っているといえる。大人にも読んで欲し いという紹介文の数々から見えるものは、本書が今、求められている書物だと感じ ている者が多いということでもある。本書に漂う静かな魂の喜びや無条件な安心感 が心地良いのである33。
祖父によって伝えられた種族や歴史の力は、「ぼく」を小さな輪から大きな輪へ と広げて拡散させる。子どもは自分ひとりの殻に閉じこもることはなく、広く子ど もは子どもとして楽しんでいていいと認められるのである。そしてそれは「ぼく」
という一人称で書かれたからこそ可能になったといえる。三人称で書かれた場合に は、主人公が自分の視点から広く歴史的なそれに立つことを、易しい言葉で表わす