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― アメリカ合衆国革新主義時代の女性社会運動史再考

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(1)

はじめに

歴史学において、特定の思想や運動の潮流は全国レベルで描かれることが多い。通史的な書籍 や教科書などがその好例であろう。一方、特定の思想や運動をローカルな政治、経済、社会背景 に照らし合わせて考察する試みも着実に蓄積されてきている。アメリカ合衆国の革新主義時代史 においても、シカゴ、ニューヨーク、サンフランシスコ等の都市のローカルな実情を丁寧に考察 し、権力構図を整理した上で、社会運動を検証する作業が進んでいる。革新主義運動研究の中で、

とりわけ注意が払われるジェンダー関係に関しても、モーリーン・フラナガンやナンシー・A・

ヒューウィットをはじめとする歴史家がローカルな研究を積み上げてきた1

私が研究対象としているペンシルバニア州ピッツバーグは

19

世紀末に、全米屈指の工業都市 に成長し、

19

世紀から

20

世紀の世紀転換期には自然環境、労使、労働者の住環境において重 大な問題が発生した都市であった。同時代のピッツバーグの女性活動家は、一連の問題に警鐘を 鳴らし、問題解決に取り組んだ。また、ピッツバーグはラッセル・セージ財団が大規模な調査を 行い、その劣悪な住環境と労働者の惨状を『ピッツバーグ・サーべイ』(Pittsburgh Survey)と して報告したことでも有名である2。しかしながら、世紀転換期のピッツバーグの社会改革運動に 関する研究は未だ非常に限られている。そこで本稿は、ピッツバーグ最大の社会改革団体の一つ であった、アレゲニー郡シビック・クラブ(Civic Club of Allegheny County)の女性活動家を 詳細に描写することによって、この団体に存在したジェンダー・ポリティクスを検討したい。そ の成果を、ピッツバーグという都市全体の権力構造や文化地理の中に照らし合わせるという、今 後の研究に発展させていきたい。

女性活動家がどのような動機で社会改革運動に参加したのかを知るためには、同時代における 女性の性役割に対する意識変化と、女性の公的分野への進出について確認する必要がある。そこ で、本稿では前半で同時代の女性史を概観したのち、後半ではアレゲニー郡シビック・クラブの 女性メンバーの活動手法に焦点を当てていく。

「分離した領域」からの出発

アメリカ合衆国において、

19

世紀末から

20

世紀初頭の世紀転換期ほど、女性が公的な場に 足を踏み入れ、政治的な影響力を発揮し始めた時期はない。革新主義時代とは、

1890

年代後半

アメリカ合衆国革新主義時代の女性社会運動史再考

―ローカルな視点から

畠 山   望

(2)

から

1918

年の第一次世界大戦終結直後まで続いた改革運動の高まりの時代である。資本主義が 生み出した悲惨な社会問題を目の当たりにした改革主義者やソーシャル・ワーカーは資本主義に 搾取される労働者の権利強化のための労働規制や社会福祉政策を打ち出し、それらは政府の責任 によって担保されなければならないと訴えた。女性が選挙権を持たなかった時代に、改革意識を 持った一部の女性たちは高度に組織化し、従来、女性の領域とは認識されていなかった政治的分 野に意欲的に介入していった。女性の躍進の背景として、南北戦争終結後から革新主義時代まで に、女性の雇用が増加し、多様な女性団体が結成され、さらに女性が高等教育に進出していたこ とが考えられる3

革新主義時代の女性の公的分野進出を考える際に、キーワードとして検討しなければならない のは、「分離した領域」(“separate spheres”)と「都市の家政」(“municipal housekeeping”)の 二つの概念であろう。それまで、男女は社会の中の「分離した領域」で活動し、それぞれの領域 に責任を持つべきだとされていた。男性の領域は、「政治」や「労働」であり、女性の領域は、「家 庭」、「子育て」、「近隣との付き合い」であった。シャノン・P・ハートによれば、女性の「分離 した領域」は以下の三つの思想に基づいているという。第一に、女性は神によって、妻と母の役 割を果たすものとして創造された。第二に、共和国とその社会の未来は、女性が自らの領域にお いてその責務を果たすことができるかにかかっている。第三に、女性の身体と精神は特別に子供 を理解し、賛美し、育てるように神が創造した。女性たちは、神への献身を示すためにも、美徳 があり、敬虔で従順な妻や母である必要があり、「本物の女性」(“True Woman”)となることが 求められたのであった4

しかし、

19

世紀末に近づくにつれ、一部の女性が、女性の責任は、家庭や近隣ネットワーク の枠外にもあると主張し始める。その際に頻繁に使用された言葉が、「都市の家政」であった。

これは、伝統的に女性は、家族の幸せと子供の育成に責任を持ってきたことから、コミュニティ に居住する子供の教育や健康、衛生、保全にも責任を果たす必要がある、という考えであった。

このようなレトリックを使用し、ミドルクラスの女性を中心とした女性改革団体は、主に子供の 保全や教育に関わる分野に進出していった。子供向けのプレイグランドの設立、身体検査の導入、

児童労働の廃止の呼びかけ、乳児向けの衛生的なミルク確保を目的とした乳製品産業の基準設置 に対する呼びかけ、少年及び家庭裁判所の創設、公立学校における給食の支給などが活動例とし て挙げられよう。女性の職業が教師等に限られている時代において、このような社会福祉活動は、

女性に政治的な発言力を与え、自活し、キャリアを上昇していく機会を提供したのであった。

南北戦争後、女性は高等教育に進出する糸口として、「本物の女性」をレトリックとして使用 した。もし、女性が立派な母や妻になることが期待されているのであれば、最高の教育が必要で ある、という論理である。この論理によって、数々の女子大学が創立されたのであった。

1865

年にはヴァッサー大学が、

1875

年にはウェズレー大学とスミス大学が創立された。

1880

年代 には、ハーバード大学が女性教育機関を設立し、コロンビア大学がバーナード大学を設立し、ブ ラウン大学がペンブローク大学を設立した。同時に、男性のみに入学許可を与えていた大学が女 性にも門戸を開いたのである。

1870

年にはアメリカ合衆国の三分の一、

1890

年には三分の二 の大学が女性に門戸を開き、

20

世紀に入る前までに、学部生の

36

パーセント、大学院生の

13

パー セントは女子が占めるようになった5

(3)

高等教育において、女子学生、女性教員、女性経営陣は結束して独特なミドルクラス文化を作 り出した。ヴィクトリア期のアメリカ合衆国では、男女には決定的な違いが存在し、別々の領域 での活動を強いられていたため、必然的に女性同士で時間を過ごすことが多かった。彼女たちは、

共に謙遜、思いやり、奉仕精神を学び、関係を深め、生涯続く友人関係を築いた。中には、女性 同士のロマンティックな関係を築く者もいた6

また、女性が携わった社会福祉が専門化し、一部の女性は指導者としての地位を獲得したこと が特筆できよう。特に、看護士、ソーシャル・ワーカー、教師の中から、多くの女性活動家が誕 生した。これらの女性指導者たちは、大学時代の学友や、共に社会福祉活動に従事した有能な女 性を後押しし、自らが指揮を執る団体に積極的に採用した7。その典型的な例が、ジェーン・アダ ムスがシカゴに設立したハル・ハウスであった。次節では、

19

世紀末に婦人団体や宗教団体が行っ ていた慈善活動から多くの女性が離脱し、ハル・ハウスのようなより実践的な社会改革運動やソー シャル・ワークの世界へと足を踏み入れていった様子を追っていきたい。

効率的で科学的な福祉―慈善活動から社会改革運動、ソーシャルワークへ

南北戦争以前から、女性たちは慈善団体や宗教団体の中で、社会的弱者に対する支援活動を行っ ていた。しかし、

19

世紀末になると、従来の慈善活動は非体系的で、一時的であり、表面的な 塗り薬のようなものであると批判の的となる。一部の批評家は、慈善活動は、問題を引き起こし ている社会構造を放置し、受給者をさらなる貧困に貶めているとさえ主張した。また、多くの慈 善活動は、中央集権化されていなかったため、同じ受給者が複数の団体から支援を受給し、逆に 支給されるべき人々に支援が行き渡っていないという、重複や矛盾が生じていたのは事実だっ た8。上述の批判を受け、多くの慈善団体は社会改革運動やソーシャル・ワークの方向へと舵を切っ ていくのだった。松原宏之は、慈善活動のソーシャル・ワークへの転換は慈善団体の内省による ものだったと説明する。慈善活動に批判的な眼差しが注がれたひとつの転機は

1893

年の不況時 であった。旧来型の慈善活動では、失業者の救済が追いつかないだけではなく、慈善団体はこの 苦境を前にしても、受給するに値する者のみに支給が行き渡ることを懸念した。「こうした慎重 さは、チャリティが都市の現実から遊離した有産階級の温情主義にすぎないと批判を呼び起こす」

と松原は言う。そこで、

1890

年代半ば以降の全米慈善矯正議会の大きな課題は、いかにこの批 判を乗り越え、旧来型の慈善活動から刷新を図れるかであった。

1900

年代初頭には、同議会で 頻繁に「ソーシャル・ワーク」や「ソーシャル・ワーカー」といった用語が使用されるようにな り、それらの用語は広範な活動や運動家たちの総称として登場したのだった9

慈善活動がより効率的な社会福祉活動やソーシャル・ワークへと転換する中、都市で興隆した のが、セツルメント運動であった。イギリスで発祥したセツルメント運動は、ミドルクラスの女 性が都市の貧困地域に住み込み、そこに住む貧困者と直接交流することにより、奉仕をする運動 であった。セツルメント運動は、自己犠牲を伴って他者に貢献する、という「本来の女性」の概 念の延長線にありながらも、実社会でキャリアや指導力を身に着けることもでき、同時に、家族 から経済的に独立して同志と生活を共にするという、独特な職業機会であった。セツルメント・

ハウスで働く女性は、大学で、医療、教育、ソーシャル・ワーク等の分野で専門的な訓練を受け

(4)

た者のほか、それまでは慈善団体で活動していた者が多かった10。例えば、ハル・ハウスを設立 したジェーン・アダムスやエレン・ゲイツ・スターは、シカゴ婦人クラブ(Chicago Womenʼs

Club)から積極的にメンバーを勧誘した。シカゴ婦人クラブは、それまで教養学習や慈善活動

を行っていた団体であったが、この時代、徐々に政治的な活動に関心を移していた。

1890

年に 全国婦人クラブ連盟(General Federation of Womenʼs Clubs)が設立され、シカゴ婦人クラブ はその一部に加わると、さらに社会活動に傾倒して行った。大学で教養教育を受けた若いメンバー が卒業後に活動できる場を模索していたため、シカゴ婦人クラブとしても、セツルメント・ハウ スは、メンバーを送り出す絶好の場所であったと言えよう11

本節の最後に、革新主義時代に重要視されたもう一つの概念であった、社会福祉の「科学性」

について触れておきたい。革新主義運動で推進されたあらゆる改革において、科学性は重要なキー ワードになっていた。医療分野はさることながら、教育、労働、環境の分野においても、改革者 が打ち出した規制や制度は、(その真偽のほどは別として)「科学的根拠」を伴って推進された。

例えば、全米各地で進められた子供向けのプレイグラウンド設置についても、心理学者スタン レー・ホールによる、「反復発生説」が科学的な説明として付された。「反復発生説」によれば、

すべての子供は成長段階で、野蛮な時期があり、野蛮なことに興味を示すものである。狩猟する こと、喧嘩すること、困難に敢えて立ち向かうこと、争いに参加し、それを乗り越えることなど は人間の本能から生じる行動であり、子供の成長段階で顕著に表れると考えられた。しかし、こ のような本能は、遊びによって適切に社会化することができ、その意味において、子供向けのプ レイグラウンドの設置が必要である、と訴えられたのである12

大学教育を受けたミドルクラスの若い女性が中心となって活動したハル・ハウスでも、科学性 は不可欠なものであった。特に、セツルメント・ハウスは財源が乏しかったため、世論を喚起し、

自治体との連携を保ち、寄付を調達することも課題であった。ハル・ハウスのフローレンス・ケ リーが中心となって収集したデータが収録されていたのが、

1895

年に出版された『ハル・ハウス・

マップス&ペーパーズ』(Hull-House Maps & Papers)であった。この報告書でハル・ハウス の職員は、シカゴの労働階級居住地区の現状を知らしめ、その問題に対する具体的な対処方法を 示し、その効果を実証可能な形で示した。彼女たちは、科学的で客観的な情報を用いて、世論と 行政からの支持を得ることで、資金援助を引き出して行ったのであった13。ただし、福祉の「科 学性」を考える時に、留意しなければならないのは、けっして科学性のみが追及されたのではな いことである。全米慈善矯正会議においても強調されたのは、「科学と共感」がともにあることだっ た。「科学と共感」がともにあることで、「より理知的で、より共感に満ち、そしてより効果的な」

方法が可能になるのであった14

ここまで、

19

世紀末に非体系的で一時的だと批判された慈善団体が、より「効率的な」社会 改革運動やソーシャル・ワークへ転換していった様子、さらには、社会改革者が、社会福祉の「科 学性」を求めた様子を確認した。次節以降では、ピッツバーグのアレゲニー郡シビック・クラブ の女性メンバーの活動手法を考察していく。

(5)

地域文化を通してみる女性運動史―ペンシルバニア州ピッツバーグ

世紀転換期のピッツバーグは、鉄鋼業やガラス産業の成長により著しい発展を遂げ、工業都市 の深刻な環境問題が露わになっていた。劣悪な環境の犠牲者になるのは、常に貧しい労働者階級 の人々であり、男性労働者は、安全基準に満たない危険な労働環境で命にかかわる大怪我を負う 者も多数いた。労働者階級の女性は、家族と下宿人がひしめき合って住むテネメント・ハウスで 朝から晩まで家事をし、子供たちは死んだ馬が転がり、路面電車や馬車が激しく往来する危険で 非衛生的な道の片隅で遊んでいた。労働者階級の人々は、整備されていない下水を通して、伝染 病にかかり、栄養失調で死亡することもあった。ピッツバーグでは、

1882

年から

1907

年の間、

1 , 000

人あたり

100

人が死亡したという15

このようなピッツバーグの惨状を目の当たりにした人々によって、アレゲニー郡シビック・ク ラブ(以下、シビック・クラブ)は

1895

年に結成されたのだった。団体の目的は、ピッツバー グ市とピッツバーグ市の北に隣接するアレゲニー市に居住する女性や子供の福祉、教育、生活環 境の改善であった。シビック・クラブは、革新主義時代のピッツバーグにおいて、男性団体であっ たボーターズ・リーグ(Votersʼ League)と並び、社会改革運動を牽引した団体であった。「公 共心とより良い社会秩序の促進」をミッションとし、同団体は、活動初期において、子供向けの プレイグラウンド、夏季に自然学習や技術教育を提供したバケーション・スクール、結核予防の ためのオープン・エア・スクール、公衆浴場、英語教育や愛国心教育を提供したソーシャル・セ ンターの創設と運営を行うなど、幅広い活動を展開した。

シビック・クラブの結成時、結成メンバーはシビック・クラブを意図的に男女混合団体にする ことにした。結成メンバーであり、後に第二代代表となる、ケイト・カサット・マクナイト(Kate

Cassatt McKnight)は、「男性は、政府に影響を及ぼすことができるため、必要な存在である。

男性はクラブに経験値を与え、女性は熱意を与える」と述べている16。初代代表が男性のエドウィ ン・Z・スミス(Edwin Z. Smith)であったことも、マクナイトの意図を裏付けていると言え よう。さらに、シビック・クラブが発行したパンフレットでは「女性は政府に敵対するべきでは ない」という明確な主張がされていた17。これらを鑑みると、同団体は男性の持つ政治力や専門 的知識を利用して、関係者から協力を仰ぎ、戦略を組み立てることを意図していたと言えよう。

結成当初の名簿からは、当時のメンバーの男女比はほぼ半々であったことがわかる。しかしな がら、「男女混合」というのは名目上であり、実質的に現場で活動に従事していたメンバーは殆 ど女性であった。シビック・クラブの主要部門であった、教育部門(Education Department)

に関して言えば、活動メンバーの全員が女性であった。また、前述のように、シビック・クラブ のメンバーは上流階級の名家出身者や、高度な専門性のある職業に就くエリートやその妻たち だった。入会の際には、既存メンバーからの紹介と承認を必要としたため、エリート・クラスの ネットワークは温存され続けたのだった18。ここまで見てきたように、シビック・クラブは戦略 的に男性の政治力や専門知識を利用しようとした「男女混合団体」であったが、実際の活動の担 い手は女性であった。さらに、その女性たちは、名家出身者やエリートの妻であったため、本稿 で確認したハル・ハウスの職員を典型とする、ミドルクラスの活動家とは特徴を異にしていたこ とがわかる。

(6)

次節では、シビック・クラブの教育部門が

1896

年から

1910

年に行った活動の手法に注目す る19。とりわけ、どのように、教育部門の女性メンバーが他都市の教育改革運動の情報を得たのか、

どのような方法で、アレゲニー郡の公立学校の問題を発見したのか、また、専門家とどのような 連携を結び、問題に取り組んで行ったのかを分析する。それらの分析を通して、シビック・クラ ブのジェンダー・ポリティクスを考えてみたい。

教育部門の「自己学習プロセス」――ペニー・ランチの活動を分析して

シビック・クラブ教育部門はシビック・クラブの初期に設立された四つの部門のうちの一つで あり、前述の通り、活動メンバーは殆ど女性であった。教育部門は地域の労働者階級の子供の教 育問題に取り組み、学校訪問、身体検査の導入、学校校舎の衛生環境の改善、PTAの設立、愛 国心プログラムの導入、カリキュラム改正の提案など、既存の公教育制度に介入しようとしたも のと、子供向けのプレイグランド、バケーション・スクール、そしてソーシャル・センターの設 立・運営など、既存の公教育制度の外部で行った活動があった。

教育部門の議事録から、メンバーは他都市の教育・市政改革に注視し、情報を収集し、自らも その大きな流れに参加しようとしたことが分かる。彼女たちが情報源として利用したのは、主に 新聞記事と他都市の活動家とのネットワークであった。また、彼女たちはアレゲニー郡の教育現 場の状況を知るためにも、新聞記事を活用した。メンバーは定例会議において地元新聞の記事を 読み上げ、記事で言及されていた問題についての調査委員会を即座に作ることが頻繁にあった。

例えば、

1896

12

月のミーティングで、教育部門のメンバーは地元の学校の生徒が朝食と夕 食の間に何も食べていないという情報を共有し、アレゲニー郡の公立学校で給食を提供する計画 について話し合った。教育部門の中心的メンバーであったミス・サンプル(Miss Sample)はボ ストンの知り合いに手紙を書き、ボストンの公立学校の給食制度に関する情報を入手した。さら に、新聞記事から、ボストンの公立学校では、すでに給食が提供され、その評判がよく、生徒達 には給食代が支給されているという情報も収集した。その後、教育部門は「ペニー・ランチ委員 会」を設置し、フィフス・アヴェニュー高校に給食を導入する計画を立てた。メンバーは、ピッ ツバーグの中央教育委員会にフィフス・アヴェニュー高校の空き部屋を給食準備室として使用で きるかどうかを問い合わせ、地元のレストランと交渉し、給食の値段設定などの、詳細事項を決 定したのだった20

ペニー・ランチの件のように、メンバーは新聞等を利用して地域の教育現場の問題や状況の情 報収集をし、改善点が見つかった場合は、学校側や中央教育委員会に協力を要請し、必要があれ ば、関連分野をさらに掘り下げて調査し、その結果を教育部門全体で共有する、「自己学習プロ セス」の流れを作った。一連の「自己学習プロセス」を見ると、彼女たちが野心的に調査をし、

情熱をもって、問題解決に向かおうとしていたのが分かる。しかし、一方で、彼女たちは公教育 制度や地域福祉に関する前提知識を持ち合わせないまま、急ごしらえで委員会を作っていたこと が垣間見える。つまり、彼女たちは、「自己学習プロセス」を通し、未知の知識を習得しながら、

試行錯誤でプロジェクトに取り掛かっていたと言えよう。

(7)

教育部門のジェンダー・ポリティクスの変化――身体検査の活動を分析して

次に、教育部門が

1905

年から

1909

年までの間、注力したプロジェクトの一つである「公立 学校への身体検査の導入」を検討したい。同プロジェクトは、教育部門がそれ以前に従事してき たプロジェクトよりも専門知識が必要であった。シビック・クラブは、

1910

年前後を境として、

1930

年にかけ、女性を中心とした団体から、男性を中心とした団体へと変化していく。「身体 検査」のプロジェクトは、このジェンダー構成の変化の前兆と捉えることができるであろう。

教育部門が定期的に行っていた公立学校訪問の際に、生徒の健康状態に疑問を感じた教育部門 のメンバーは、ピッツバーグ市とアレゲニー市の公立学校に身体検査を導入することを新しい課 題として掲げた。同プロジェクトのために、教育部門は、

1905

年にアレゲニー郡メディカル・

ソサエティ(以後、メディカル・ソサエティ)と合同で委員会を発足させ、以降

5

年間、この 医師団体とパートナーシップを結ぶこととなった。発足当初、教育部門の女性メンバーは、学校 訪問の際と同様に、一校一校を訪問し、身体検査の導入を検討できるか学校関係者に打診し、許 可が得られた場合には、教育部門が身体検査の運営を代行するという役割を担った。その一方で、

メディカル・ソサエティは、ボランティア医師を選出し、教育部門の承認後、それらの医師を学 校に派遣するという役割を担い、多くの医師は、教育部門の定例会議にも出席し、各学校で実施 済みの身体検査の結果を報告した。教育部門とメディカル・ソサエティは、身体検査が最終的に は市の責任のもとで運営されることを目的として掲げ、両団体の代表者は、衛生局や中央教育委 員会の関係者の協力を得ながら、

1907

年から

1909

年までの間、数回に渡り、法案を作成し、

議会に提出したのであった21

ここで注目すべきは、身体検査のプロジェクトが進むにつれて、教育部門の一般メンバーが担っ ていた役割、すなわち、学校との交渉と身体検査の管理が次第に、メディカル・ソサエティの医 師の手に移って行ったことであった。プロジェクトの初期には、教育部門の女性メンバーが各学 校に割り振られ、窓口として交渉にあたっていた。しかし、

1907

年はじめになると、メディカル・

ソサエティの代表者が学校との交渉にあたるようになった。交渉にあたる際には、学校関係者に 対し、医療知識を提供しながら、身体検査の有効性を説明する必要があったため、医療の専門知 識を持たない教育部門のメンバーよりも、医師が説明にあたった方が効果的である、と判断され たことが推測される。

また、法案の作成や提出に関する法律知識を要する活動についても、教育部門から参加したの は、ごく少数の女性メンバーであった。その代表が、ミセス・ルーシー・ドーゼイ・イアムズ(Mrs.

Lucy Dorsey Iams)であった。彼女は弁護士である夫の秘書として働き、さらに法廷速記者と

しての経験もあったため、シビック・クラブの女性メンバーでは珍しく、法律に関する専門性を 備えた人物であった。その一方で、他の女性メンバーの役割は中心的なものから、周縁的なもの に移行していく。彼女たちは、身体検査の実施と管理そのものからは離れ、健康や衛生問題に関 して、コミュニティを教育する方向に舵を切った。その活動の一環として、PTAの支援を得な がら、結核予防のための勉強会を企画・運営した。

最終的に、

1909

年末には、ピッツバーグ市の衛生局が公立学校での身体検査を正式に運営・

管理するという決定が下された。

30

名の医師が公立学校に派遣され、詳細な健康診断が少なく

(8)

とも年に一度、簡単な身体検査は毎日行われることになった。また、公立学校で生理学や衛生管 理学の科目が設けられることも取り決められた。教育部門の議事録で、最後に身体検査が言及さ れているのは

1910

12

月である。そこには、「すべての公立学校において身体検査が導入さ れた」と記載されている22

身体検査のプロジェクトは、当初、一般の女性メンバーが対外的な役割を果たしていたが、プ ロジェクトが進行し、徐々に医療と法律の専門知識が求められてくると、外部の専門家と例外的 に専門知識を備えた少数の女性メンバーのみが関与するようになった。一方で、他の女性メンバー は、子供や親を対象にした衛生教育に力を入れるようになった。シビック・クラブ内ではこの後、

1910

年前後から

1930

年代にかけて徐々に専門性を持つ男性メンバーに対する需要が増し、女 性メンバーは補佐的な役目を担っていくというジェンダー構成の変化が起きることになる。その 理由として、シビック・クラブ全体の活動が女性や子供の福祉・教育の改善を目指す活動から、

インフラ整備を含む都市計画や政治構造の改革の方向にシフトしたことが指摘されている。

 

シビック・クラブと「分離した領域」―ピッツバーグの地域文化

ここまでペニー・ランチと身体検査のプロジェクトで見て来たように、シビック・クラブの女 性メンバーは「自己学習プロセス」で学習する傍ら、専門知識が必要な場合は、専門家と連携を 結んだ。しかし、

1920

年代に入ると、クラブの運営方針とプロジェクトの質が変化する中で、「自 己学習プロセス」では、高度な専門性、迅速な判断、政治力が必要な新しい質のプロジェクトに は対応しきれず、結果として、女性は補助的な役目に追いやられ、シビック・クラブは男性中心 の団体へと変化をすることになった。

『ピッツバーグ・サーヴェイ』の影響もあり、全国の社会改革主義者から注目を浴びていたピッ ツバーグで、何故、女性は活動家として全国的な波に乗ることができなかったのであろうか。全 国的に、社会福祉の効率化や科学化、そして専門家としての女性の地位向上が進む中で、なぜ、ピッ ツバーグ最大の社会改革団体であったシビック・クラブの女性は社会福祉分野で上昇できなかっ たのであろうか。

本稿が扱った、

1896

年から

1910

年の教育部門の活動手法を見る限り、同時代に興隆した社 会福祉の効率性や科学性に対するシビック・クラブの意識は低い。加えて、指導力や専門性の獲 得に対する意識も低いように見える。シビック・クラブに所属した上流階級の女性は、「都市の 家政」のメタファーを歓迎し、「家庭を清潔に保ち、子供を適切な環境で養育する」という妻や 母親としての責任と社会における責任を重ね、社会福祉活動に勤しむものの、それらの活動を公 的な領域でのキャリアの上昇と結びつけて考えなかったようである23

多くの女性メンバーには組織を経営する能力が備わっていない、とシビック・クラブ内部から 声が上がったエピソードがある。以前は、各地区に地区内の公立学校を取りまとめる教育委員会 が設置されていたが、

1911

年にすべての地区の教育委員会を統括する、ピッツバーグ教育委員 会が設立された。社会改革主義者たちは、この新しい教育委員会の

13

人の役員のうち、少なく とも

6

名は女性にすることを訴える嘆願書を作成した。女性が教育委員会から除外されること は許されるべきではなく、女性は子育てや教育に精通している存在であるからという主張があっ

(9)

たからだ。シビック・クラブは、以前から各地区の教育委員会に女性委員を設置するためのロビー 活動を行っていたため、今回の嘆願書にも当然、賛同した。しかし、シビック・クラブで初代副 代表を務め、教育部門でも指導者的立場であった、イアムズは女性をピッツバーグ教育委員会に 推薦することに対して、極めて消極的な態度を取った。イアムズは、主要新聞のピッツバーグ・

ディスパッチの取材に対して、「正直に申しますと、私はその役職に相応しい六人ものピッツバー グの女性を探すことは大変難しいと考えております。教育委員会は、莫大な資金を扱い、教員を 雇用し、教科書を選定し、建物使用の契約を結び、他にも経営知識が要される多くの仕事があり ます。この役割を全うできるほど訓練を受けている、もしくは職業についている女性は数少ない と思います」と述べている24。ハル・ハウスの例で確認したように、同時代には女性同士がお互 いのキャリア上昇を奨励し合い、自らの団体へ積極的に雇用する傾向が見られた。それに反して、

シビック・クラブは女性のキャリア上昇や次世代のトレーニングの機会を提供する団体としては 機能していなかったことが推察できる。イアムズの反応は正直なものだったと言えよう。イアム ズは夫で弁護士でもある、フランクリン・P・イアムズ(Franklin P. Iams)と共に民主党の政 治活動に携わった経験があった。外部団体で、専門知識を駆使しながら、組織の経営面に関わっ ている女性を目の当たりにしていたのであれば、シビック・クラブの女性は、イアムズの目には

「時代遅れ」の女性に映ったのかもしれない。

最後に、シビック・クラブが女性の公的分野での上昇を妨げていた背景を検討したい。一つに、

宗教的な影響が挙げられよう。ピッツバーグはスコッチ=アイリッシュ系文化と厳格な長老派教 会の宗教文化によって醸成された伝統が息づいていた街であった。しかし、

1890

年に上流階級 層の居住地区にできたカルバリー・エピスコパル教会(Calvary Episcopal Church)が圧倒的 な人気を得始める。ピッツバーグの宗教史の研究者である、キース・ザニザーによるとこの教会 の信者の多くは「カルバリー衆」(“Calvary Crowd”)と呼ばれ、キリスト教のモラルを政治や 改革運動の場に持ち込み、ピッツバーグの市政や改革の端緒を開いた。

1906

年に市長に選出さ れた改革主義者のジョージ・ガスリー(George Guthrie)も代表的な「カルバリー衆」であり、

シビック・クラブのメンバーの大多数も「カルバリー衆」であった25

多くのメンバーが特定の教会の信者であった場合、女性メンバーの活動姿勢にどのような影響 があったのであろうか。バージニア・ブレレトンは教会で社会的弱者の救済活動に携わるプロテ スタントの女性を「従属する内部者」(“subordinated insiders”)と呼ぶ。女性は教会内の男性 の権威や内面化された自己への疑いが障害となり、課題に対して、直接的には行動せず、間接的 な方法を取ったり、控えめな目標を設定し、それを達成したことに満足してしまう傾向があると 言う26。シビック・クラブのようにカルバリー・エピスコパル教会の信者に占められている団体 の場合、女性メンバーは団体内の男性だけではなく、カルバリー・エピスコパル教会の男性とし ての権威を感じ、劣位に置かれる「二重の従属」(“double subordination”)の状態になっていた 可能性が指摘されている27

二つ目の背景として、ピッツバーグは上流階級の政治文化が圧倒的に強く、他都市ではミドル クラスが中心として担った社会改革運動さえも、上流階級の女性たちに独占されてしまったから である。ピッツバーグのコミュニティを古くから形成してきたスコッチ=アイリッシュの商業者 は、婚姻やビジネスを通して、新興の製造業者と密接なネットワークを構築した。彼らの経済的

(10)

な繋がりは、社会的な繋がりをそのまま反映した。彼らは、同じ教会に通い、近隣住民同士にな り、同じ慈善団体や病院に通い、同じパーティーに参加し、子供同士を結婚させ、ジョン・N・

インガムの呼ぶところの「鉄鋼街の貴族階級」(“steel city aristocrats”)を形成したのであっ た28。他都市でも上流階級の女性が社会改革運動に加わることはあったが、この運動の主な担い 手は若いミドルクラスの女性であった。しかし、シビック・クラブには流動性があまり見られず、

ミドルクラスの女性が参入できる余地が少なかったため、上流階級の慈善活動から前進すること はできなかったのではないか。

以上の二点から推察するに、シビック・クラブは上流階級中心の男女混合の団体であったが故 に、女性が指導力を発揮したり、専門性を獲得したりする動機が生まれなかったと考えられる。

ジョアン・E・マーシャルが考察した、インディアナ州ラファイエット慈善組織協会は、結成時 は男女混合の慈善団体であったが、次第に女性参政権を含む、女性に関わる課題に取り組む団体 へと変化した。変化の最大の理由は、女性のみで団体を運営することにより、運営能力、思考能 力、技術が養われ、女性が「慈善」を超えて、市政分野へ進出が可能だと考えられたからであっ た29。ラファイエット慈善組織協会の例とは違い、シビック・クラブの内部からは、このような 動きは起こらなかった。シビック・クラブは終始「男女混合」の団体であったが故に、団体内で

「分離した領域」が温存されてしまったと言えよう。

むすび

シビック・クラブにおいては、「教育」や「福祉」といった従来「女性の領域」とされた分野 においてさえも、専門知識を持った女性は限られていた。さらに、同時代にピッツバーグのセツ ルメント・ハウスを調査した研究者によれば、世紀転換期から

1930

年代にかけて、ピッツバー グでは女性のリーダーが減少し、女性の間で専門性の獲得が推奨されなかったため、女性の社会 的上昇が促進されなかったという。つまり、女性が上昇できなかったのは、シビック・クラブ内 に限ったことではなかったのである30。女性の指導者や専門家が頭角を現すことができず、周縁 的役割に甘んじた理由の背景は、ピッツバーグの地域文化に求めることができよう。本稿では、

特定のキリスト教の宗派が社会改革団体を独占していたため、女性メンバーは「二重の従属」の 状態にあった可能性があったこと、また、ピッツバーグで社会福祉活動は、名家出身者やエリー ト層やその妻が独占していたため、高等教育で教育を受けた進歩的な若い女性が少なかった。そ のために、「女性の領域」の概念が、従来のままに温存されてしまった可能性があることを挙げた。

本稿で試みたように、革新主義運動の流れをローカルのレベルに落とし込んで考察すると、全 国的な傾向とは異なる様相が見えて来る。本稿で扱った階級や宗教以外にも、女性が上昇できな かった理由として考えられる視点があるはずだ。今後、シビック・クラブの産業界との繋がり、

メンバーの居住地域、政党政治への関与など、複数のレンズを通して、同団体を見ていきたい。

革新主義時代の女性社会運動史研究のさらなる発展のためにも、地域文化を丁寧に考察し、女性 活動家を取り巻いたジェンダー・ポリティクスを紐解いていく努力を重ねていきたい。

 

(11)

【注】

1 Maureen Flanagan, “Gender and Urban Political Reform: The City Club and the Womanʼs City Club of Chicago in the Progressive Era,” in American Historical Review XCV (October

1990

):

1032

-

50

; Nancy A. Hewitt, “Varieties of Voluntarism: Class, Ethnicity, and Womenʼs Activism in Tampa,” in Women, Politics, and Change, ed. Louise A. Tilly and Patricia Gurin (New York: Russell Sage Foundation,

1990

),

63

-

87

; Hewitt, “In Pursuit of Power: The Political Economy of Womenʼs Activism in Twentieth-Century Tampa,” in ed., Hewitt and Suzanne Lebsock, Visible Women:New Essays on American Activism, (Campaign, IL: University of Illinois Press,

1993

),

199

-

222

; Hewitt, “Politicizing Domesticity: Anglo, Black, and Latin Women in Tampaʼs Progressive Movements,” in Gender, Class, Race, and Reform in the Progressive Era, ed., Noralee Frankel and Nancy S. Dye (Lexington, Ky.:

University Press of Kentucky,

1991

),

24

-

41

を参照。

2 ラッセル・セージ財団は

1907

年から

1908

年までピッツバーグの社会情勢を調査し、六冊の本にまとめ て出版した。『ピッツバーグ・サーベイ』はアメリカ合衆国の都市の社会状況をつぶさに描写した初期の調 査として知られている。

3 エレン・キャロル・ディボイス・リン・デュメニル(石井紀子・小川真和子・北美幸・倉林直子・栗原涼 子・小檜山ルイ・篠田靖子・芝原妙子・髙橋裕子・寺田由美・安武留美共訳)『女性の目からみたアメリカ 史 (世界歴史叢書)』(明石書店、

2009

年)、

431

頁。

4 ハートが指摘する二点目は革命戦争時に広がった「共和国の母」のイデオロギーが背景にある。また、三 点目の考えに基づき、女性は年少者の教育者として適している存在だと考えられるようになり、教師が女性 の 代 表 的 な 職 業 と な っ た。Shannon P. Hart, “Female Leadership and the Cult of Domesticity: The Contributions of Elizabeth Harrison and Rumah Crouse to the Chicago Kindergarten Movement,

1879

-

1920

,” American Educational History Journal, vol.

38

, no.

1

(

2011

):

127

-

144

.

5 Robyn Muncy, Creating a Female Dominion in American Reform 1890-1935 (New York: Oxford University Press,

1991

),

67

.

6 Ibid.,

4

-

5

.

7 Ibid.

8 Lenore T. Ealy, Steven D. Ealy, “Progressivism and Philanthropy,” The Good Society

15

, no.

1

(

2006

):

36

.

9 松原宏之『虫喰う近代: 一九一○年代社会衛生運動とアメリカの政治文化』(ナカニシヤ出版、

2013

年)、

92

頁。

10 アメリカ合衆国で著名なセツルメントとして、ハル・ハウス以外にも、ニューヨークのヘンリー・ストリー ト・セツルメントや、シカゴのノースウェスタン大学セツルメントが挙げられる。ヘンリー・ストリート・

セツルメントはリリアン・ウォルド(Lilian Wald)、ノースウェスタン大学セツルメントはハリエット・ビッ タム(Harriet Vittum)が代表者として率いた。両者とも看護師であった。

11 Muncy,

10

.

12 Dominick Cavallo, Muscles and Morals: Organized Playgrounds and Urban Reform, 1880-1920 (Philadelphia: University of Pennsylvania Press,

1981

),

56

-

60

.

13 松原、

87

-

90

頁。

14 Ibid,

96

.

15 Joel Tarr, “The Metabolism of the Industrial City: The Case of Pittsburgh,” Journal of Urban History 28 (July

2002

):

9

.

16 Speech draft given by Imogen Brashear Oakley on the thirtieth anniversary of the CCAC, Box

28

, Archives of Industrial Society, University of Pittsburgh.

(12)

17 Aaron M. Gallogly, “A Higher Public Spirit and Better Social Order: the Civic Club of Allegheny County,

1895

-

1930

” (M.A. diss., Duquesne University,

2010

),

20

.

18 Ibid.

19 使用する

1896

年から

1910

年までの教育部門の手書きの議事録には、定例会議と臨時会議の記録(いつ、

どこで会議が開かれたのか、議長と書記を含めた参加者の氏名、外部からの特別参加者がいた場合はその 氏名、各プロジェクトの進捗状況の報告、新規プロジェクトに関する議論と決定、各メンバーの役割分担 等の情報)が含まれていた。

20 Education Department Minutes and Reports,

1896

-

1940

. AIS

70

:

2

, Box

32

, Archives of Industrial Society, University of Pittsburgh.

21 Ibid.

22 Ibid.

23 教育部門の活動も「都市の家政」の概念に沿うものであった。実際、

1903

年地元の主要新聞は、『シビッ ク・クラブはより美しい街づくりのために活動する―都市の母が箒(ほうき)を使って、輝かせる』(“Civic Club will Actively Labor for Cleaner City—Municipal Mothers to Wield the Broom and Help Make Things Shine”)という題の記事を掲載した。このメタファーがクラブの活動を制限してしまうとして、第 二代代表のマクナイトは不満を表したが、マクナイトは少数派のようであった。

24 “Few Women are Fitted For School Board Positions,” Pittsburgh Dispatch, October

9

,

1911

.

25 集票組織であったマシーンの政治家は「カルバリー衆」(Calvary Crowd)を「あのカルバリー衆の奴ら」

(“the damned Calvary Crowd”)と聴罵した。しかし、ザニザーはこの「カルバリー衆」という用語は単 に罵言としてではなく、カルバリー・エピスコパル教会出身で、政治や改革運動に参入した者に対して一 般的に使用している。Keith Zahniser, Steel City Gospel: Protestant Laity and Reform in Progressive- Era Pittsburgh (New York: Routledge,

2013

).

26 Virginia L. Brereton, “United and Slighted: Women as Subordinated Insiders,” Between the Times:

The Travail of the Protestant Establishment in America, 1900-1960, ed., William R. Hutchison (Cambridge: Cambridge University Press,

1989

),

148

.

27 Ibid.

28 John N. Ingham, “Steel City Aristocrats,” City at the Point: Essays on the Social History of Pittsburgh, ed., Samuel P. Hays (Pittsburgh: University of Pittsburgh Press,

1989

),

265

-

294

.

29 Joan E. Marshall, “The Changing Allegiances of Women Volunteers in the Progressive Era, Lafayette, Indiana,

1905

-

1920

,” Indiana Magazine of History

96

, no.

3

(September

2000

):

255

.

30 Maureen Weiner Greenwald, “Women and Class in Pittsburgh,” City at the Point: Essays on the Social History of Pittsburgh, ed., Samuel P. Hays (Pittsburgh: University of Pittsburgh Press,

1989

),

57

-

58

.

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