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フォークナーと私

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Academic year: 2021

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平 石 貴 樹

フォークナーと私

平石です。よろしくお願いします。

立教にも長いことお世話になりましたので、最終講義のようなことをしてい け、というご要望を、お断りすることができませんで、お引き受けした次第な のですが、まず自分の話に、「フォークナーと私」という、どうしてこういう 傲慢な、尊大なタイトルをつけることになったのか、まあ私のことだから「不 思議はないよ」と言われそうですが(笑)、まずそこからご説明を始めさせて ください。

これは後藤君が、最初から「フォークナーと私」でいいですよ、と言ってく れたこともあるのですが、もっと大事なことは、わかる人は最初からわかって くださると思いますが、「フォークナーと私」というのは、大橋健三郎先生と 原川恭一先生が、マルカム・カウリーの『フォークナー・カウリー・ファイル』

を翻訳なさって、昔冨山房からお出しになったときの訳題そのままでして、こ の場合には「私」というのは、もちろんカウリーを指しています。私のほうは、

立教で長いこと授業をさせていただくことになって、最初は「フォークナー研 究者養成講座」などと、授業にわざわざ名前をつけて、ずっとフォークナーば かり読んでいた時期がありました。今関西学院にいる塚田君なんかが、そうい う初期の学生だったわけですが、私としてはあえて「養成講座」のような看板

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を掲げることによって、原川先生がお辞めになった後を継いで、立教のフォー クナー研究の伝統を守る方向でがんばってみよう、というような気持ちが自覚 的にあったわけで、そのことは渡辺信二さんなんかとも、お話をした記憶があ ります。ですから、立教からフォークナー研究者が出てくるようになれば、原 川先生にもお喜びいただけるのではないか、という思いも、この間ずっとあっ たわけでして、もちろん私一人の力でどうなるものでもありませんけれども、

結果としては、塚田君、それから今も講演をした竹内君なんかが、それぞれ五 年ぐらいぶっ続けで、私のクラスに出てくれることになって、今では一人前の 研究者になったについては、小さいながらに、激励の役割ぐらいは果たしたの ではないかと、自己満足しているわけですが、ともかくそういう意味で、これ は原川先生にあやかったタイトルであって、原川先生の業績を思い出していた だくとともに、それが立教のフォークナー研究を、間接的に称揚する趣旨のタ イトルでもあると、そのことをまず、話のマクラに申し上げたいために、この タイトルにしようと、考えましたような事情です。私もこれで、原川先生と同 様に、後進に道をゆずって、晴れて年金生活者になりますが、立教のフォーク ナー研究はまだまだ続いて、今後ともたくさんの「フォークナーと私」が、あ らわれ、いろいろな形で日本のアメリカ文学研究を賑わしていただきたいと、

念願を込めて申し上げる次第です。

私がお礼に変えて申し上げたいことは、じつはそれだけですので、「ではこ れで失礼します」と言いたいところなのですが(笑)、それでは叱られてしま いますので、どうしようかとかなり悩みました。ご承知のとおり、私は去る 3 月に本務校を定年になってからこのかた、もっぱら探偵小説を書いて暮らして おりまして、勉強らしい勉強はしておりません。それで気持ちが「晴れ晴れ」

しているのですから、元来よほど勉強が嫌いだったのだろうと思います。です から本来ならば、こういう席でしゃべる資格があるのかどうか、おおいに疑わ しいのですけれども、とりあえず最後の年の授業も、勝手ながら無事終了いた しましたので、すべての終わりにあたって、この際、立教の若い人たち、特に 今年最後のフォークナーの授業に出てくれた院生の皆さんにむけて、私がどう いう形で、どういう了見でフォークナー研究の真似事を、えんえん四〇年ぐら いつづけてきたのか、そのあたりの事情をざっくばらんにお話して、参考にな る部分があれば参考にしていただくことならできるかな、と思い直したところ です。これがいわば、私からの「遺言」ということになりますが、探偵小説の

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ほうでは「ダイイング・メッセージ」という言葉があります(笑)。殺される 被害者が、死にながら、たいていは犯人の名前やヒントを、倒れた床なんかに 書き残すわけですが、私には遺産などは特にありませんので、きょうのお話は、

遺言というよりも、私から若い皆さんに残したダイイング・メッセージである と、受け取っていただけたらいいのではないかと思っております。もちろん、

私の場合、犯人はフォークナーです(笑)。しかも、私はフォークナーに殺さ れて、本望だと思っているところが普通の殺人事件とは違います(笑)。大し た研究もできず、フォークナーの名前を宣伝する程度のことしかできなかった わけですが、まったく後悔はなく、いわば幸福に包まれて去ってこうとしてい ます。じつは原川先生も、同じお気持ちだったのではないかと、ひそかに忖度 しておりますが、まあ私と並べては失礼ですから、直接お尋ねすることは控え ておりますが、フォークナーのようなすごい作家を研究対象として選んだのは、

正解だったと思いますし、それ以上に幸運だったと思っています。こういうユー フォーリアを、これ以上増やしてどうするんだ、という気もしますけれども

(笑)、まあご参考までに、私の場合のことを申し上げ、それをメッセージとし て受け取っていただいて、どうしてそういうユーフォーリアが生まれてきたの か、そこのところを、若い皆さんに、名探偵よろしく推理していただきたいと 考えているわけです。

そういう方針を立てて、また何日か腕組みをしておりますうちに、困ったこ とに気がつきました。私から見たフォークナーの特徴やすばらしさ、私がフォー クナーを初めて読んだとき、何を読んでどういう衝撃を受けたか、といったこ とを、私はこれまでも折に触れて書いてきたのですが、特にそのエッセンスに 当たる部分は、松柏社から出してもらった『小説における作者のふるまい』と いう本の中に、すでにこってりと書いてあることに気がついたわけです。この 本は 2003 年の出版ですが、何が災いしたのか、いくらか告白調で行こう、と いう気になって、自分自身の余計なことまで、あえていろいろ書いてしまった 記憶があります。今回、「ここにもう書いたんだったけ」という思いから、こ の本を久しぶりに開いたら、そのまま三分の一ぐらい読み返してしまいまし た。ちょっと難しい言い方が鼻につきますが、だいたいはいいことを言ってい て(笑)、少なくとも私のフォークナーについての意見は、今も変わらずそこ に書いてある通りだ、と思いますし、「序文」に書いてある、文学教師の現実 から出発した小説読解の理論は、今でもまったく乗り越えられていないという

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か(笑)、正確に言えば、乗り越える必要がないので相手にされず、無視され ている「独自の理論」であるようで、その意味で現在でも、異端の栄光に包ま れて輝いている、かのように、私にはつい見えております(笑)。

そんなわけですから、私のダイイング・メッセージとしては、この『小説に おける作者のふるまい』という本を、じっくり読んでみてください、というお 願いに集約されてしまいまして、その内容を今さらここで繰り返すのも、余り にも芸のない話ですので、私としてはそれ以上、付け加えることがありません。

そこで結局、腕組みがほどけないまま、また何日か過ぎてしまいまして、たま たま身辺多事が重なったこともあって、何をお話したらいいだろうか、困り果 てておりました。

そこで、窮余の一作として、フォークナーの作家としての実力を、フォーク ナーの個性的な主題や技法に即してではなくて、すぐれた小説が一般に満たし てくれる豊かな描き方、目の配り方、そういった問題として、お話することに しようかと、結局思い定めることになりました。フォークナーの小説家として の「一般的実力」と言いますか、それは、南部だとかモダニズムだとかいった、

フォークナーの独特の世界にかかわることではなくて、すぐれた小説家ならだ いたいみんな身につけて表現しているもので、豊かな描き方というのは、言い 換えれば視野の広さ、多様な人間それぞれにたいする興味や理解、そしてそれ らを読者に手際よく、立体的に印象づける場面の想像力、そういうものを指し ています。そういうものを見ていくことなら、つまりはすぐれた小説というの は一般にそういうふうに成り立っている、という小説鑑賞の前提条件のような ものを、フォークナーを例にとってお話することなら、もう新しい研究課題な ど持っていない私のようなポンコツにでも、お話できるかもしれないし、若い 皆さんが、これからいろいろな小説を読んでいかれるときに、役にたつことも あるのではないかと、苦し紛れに思いつくことになったわけです。

ただし、そんなふうに思いついてみると、それはいかにもフォークナーと私 の関係の「本質的な部分」であって、私がそもそもフォークナーに惹かれたの は、アメリカ南部に関心があったわけではなく、ましてや人種問題に関心があっ たわけではありませんで、言ってみれば「小説とは何か」という問いに導かれ て、一つの理想の答えに出会うようにして、この作家を読んできたわけですか ら、そもそも私にとっては、フォークナーは、小説家としての一般的実力の結 晶みたいなものです。昔はよく、「フォークナーをやっていれば、ほかの作家 のことはたいていわかるから」と言って、フォークナーを学生さんたちに勧め

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たものですが、そのときの気持ちも、今お話していることに、直接関わってい ることです。小説家というのは、一般的実力があればあるほどいい作家なのか、

そこはなかなか難しいところですけれども、そういった問題を含めて、まずは フォークナーの作家的実力というものを、つぶさに見ることで、私のお話の骨 子としようと、そういうふうに段取りさせていただくことにいたしました。作 品はどれでも良かったのですが、せっかくなので今年テクストにとりあげた『響 きと怒り』を、新納君と一緒にやった岩波文庫版でとりあげて材料にさせてい ただくことにしました。

そういうことで、ようやくお手元のハンドアウトの 1 番の引用をご覧いただ くわけですが、

「いくぞ、キャディ」一人が打った。その人たちは草地のむこうへ行った。

ボクは柵をぎゅっと持って、その人たちがいなくなるのを見つめていた。

「その声を自分で聞いてみるがええだよ、もう」とラスターが言った。「て えしたもんださ、三十三にもなって、そんなでっけえ声を出してなあ。お いらがはるばる町まで、あのケーキを買いに行ってやっただのによう。わ めくのはもうやめるだ。あの二十五セント玉を探すのを、手伝ってくれね えもんかよ。おいらが今夜ショーに行けるようになあ」

これはご承知のように、ベンジー・セクションがはじまってすぐの場面ですが、

とりあえず白痴の語りと呼ばれる語りの実験に、フォークナーは邁進している わけで、一方の神経は、絶えずそちらに向けられていることが明瞭です。すな わち、ベンジーはゴルフというものを理解していない。のみならず、ここでは

「打つ」という動詞が通常目的語をともなう、ということも理解していないた めに、その記述が俄然、白痴らしく、と言いますか、常規を逸した特異なもの に見えてくる。しかもキャディへの追憶というベンジーのテーマを簡単に実現 するために、ゴルフ場のキャディと姉の名前と、言葉がたまたまダジャレのよ うに一致していることを利用して、さっそくゴルファーにキャディを呼ばせて、

ベンジーに、それに対して反応させています。同時にまたベンジーは、歩くと か見るとかいった自分の動作は報告することができるのに、泣き出したりわめ き出したりしたときは、「思わず」そうしているということを強調するためで

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しょうけれども、自分ではその動作を報告をしませんから、読者は周囲の反応 から、ベンジーがわめきだしたらしいとようやく推測する。そういう仕掛けに なっていて、これらの点だけでもこの語りの文章は、読者に頭の負担を強いる、

読みにくいものになっています。これらの点は、いずれもこの文章のモダニズ ム的な特徴として、「意識の流れの技法」といったことからはじめて、いろい ろ説明されてきましたし、私もクラスで取り上げましたので、ここで詳しく解 説をする必要はないと思いますが、ここでとりあえず注目したいことは、読者 に頭の負担を強いる文章においては、当然、作者の頭もフル回転している、と いうことです。ベンジーの語りの特質や偏向(癖や制限など)を、十分頭に入 れた上で、ゴルフ場の柵のそばにいる現在の状況を描いていき、ときおりその 語りは悲しみに満たされる、というだけでも、作者にとって十分に難しい作業 が、延々と要求されることになります。だから、つきそいにラスターという少 年がいれば、ラスターは物語の中ではあまり目立たないように、必要最小限に 描いて、作者自身と読者の、ただでさえ擦り切れそうになっている神経を、ベ ンジーの特異な語りに集中させる、というのが、こうした語りを採用する際の、

作者の方針に「普通は」なるだろうし、頭がすぐにいっぱいになる作者だった ら、それ以上のことは考えようと思っても考えられない、というのが実情では なかったか、と思わず言ってみたくもなるところです。現に語りの手法の上で もっとも『響きと怒り』に似ていると言われる、ジョイスの『ユーリシーズ』

やウルフの『ダロウェイ夫人』、あるいはドスパソスの『USA』の意識の流れ の部分などを読んでみても、作者と読者の脳の負担は、これほど大きくはなり ません。人物や語りが展開しつつある「当面の状況」を把握するのに、しばら く時間がかかる、といった負担は当然生じていますけれども、話をそれ以上む やみに錯綜させようというような蛮勇は、作者の側にはないのが普通です。お まけにこの意識の流れの手法は、過去の大がかりな回想を 1 つの特徴としてい るだけに、現在の場面をわかりやすく平明に保っておかないと、過去へさかの ぼったときに読者がついてこられるかどうか、まったく心許ない、ということ にも当然なるわけで、ましてやベンジー・セクションでは、現在であれ過去で あれ、言葉を知らないはずの人物の意識が語っているという不可思議な事態が 起こっているわけですから、これをそれなりに自然に記述していくだけで、作 者も読者ももう手一杯で、それ以上の錯綜は起こさないのが普通だろうと思い ます。

ところが、この引用部の後半では、ラスターという少年の新しい世界がはっ

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きりと、ベンジーの世界とは独立してあらわれています。かれはベンジーには あまり関心がなく、自分がなくした 25 セントコインを探そうとしている。つ まりかれにはかれの物語、町にやってきた巡回ショーを、なんとか見に行きた い、という物語があって、いまその渦中をさまよっています。その物語は、さ ほど複雑なものではありませんが、ベンジーとはほとんどまったく関係があり ません。そうなると読者は、今まですり減らしてきた神経に、さらに記憶して いかなければならない別の人物の別の物語が追加されて、頭がパンクしていく ことになります。つまり 1 回読んだだけでは意味がわからない、という状態に なるわけです。この作品に対して「意味がわからない」という感想は、もちろ ん珍しいものではありませんが、私が特に驚くのは、読者にとっての脳の負担 は、本来作者にとっても同じことであるはずで、同時に複数の人物の複数の物 語を考慮しながら、このように特異な語りを進めていく、という作業は、作者 にとっても、通常の頭の働きでは難しいのではないか、と思われる点です。

複数の物語が同時に共存する、複数プロットの作品と言いますのは、『八月 の光』なんかが好例であって、ジョー・クリスマスの物語とリーナ・グローヴ の物語が、たとえば平行して描かれる。こういう手法もモダニズムの一環とし て、従来説明されています。今も名前を出した『USA』などは、複数プロット の代表作です。だからそれはそれでいいのですが、ただし引用の 1 番は、そう した大規模なモダニズムの手法とは別に、複数の人物たちが 1 つの場面に同居 している場合でも、いや、おそらくそういう同居の場面でのほうが、フォーク ナーの頭は活発に働いて、同時に複数の物語をそれぞれに動かしながら、それ らの関わりをも視野に入れていく。そういう操作を、難なく成し遂げていくよ うに見えます。これは、大規模化されることによって『八月の光』のような複 数プロットにも関わっていく、いわばモダニズム的な想像力の働き方であると 言うこともできますが、なんのことはない、1 つの場面に複数の人物が同居し て、それぞれ同床異夢の物語を抱えている状態というのは、昔から小説には好 んで描かれてきた状態ですし、ある意味ではわれわれの現実の人生が、そうい うものから成り立っているわけですので、ことさらモダニズムに結びつけなく ても、フォークナーは、これほど特異な語りの最中であっても、人物たちそれ ぞれの独立性、個性、個人的な事情を、それぞれに描くことが平気でできたの だと、まず解釈することが妥当であろうと思われます。

ベンジーとラスターのそれぞれの物語の独立性の向こう側に、あるいはどこ か上のほうに、かれら両者を取り巻く環境がもちろん見えていて、ベンジーの

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世話をしなければならないラスターの立場から始まって、コンプソン家の状況、

南部社会の現状、白人と黒人の人種関係が、そこはかとなく描かれていくこと は、言うまでもありませんし、それがこの作品が最終的に目指すところである のも、従来から言われてきていることで、そのとおりだと思います。ただし、

普通の小説家なら、自分は南部を描くんだと勇み立って、社会の現状を直接読 者に伝えるような場面を、どんどん挿入して描いていく、といったふうに作品 は展開したかもしれませんが、そういうことはフォークナーはしません。あえ て思い出して言えば、ドライサーの『シスター・キャリー』やハウエルズの

『ハザード・オブ・ニューフォーチュンズ』では、人物たちの物語の中にニュー ヨークのストライキ騒動が闖入してきて、かれらに影響を与えつつ、かれらを 取り囲む社会というものの存在をアピールするわけですが、そうした「社会を 描くための、ためにする場面」というのを、フォークナーはほとんど挿入しま せん。むしろ人物たち個々の、どちらかといえば日常的な物語を丁寧に追いか けていって、その背後に、社会や時代やその問題点が、次第に、おのずから浮 かび上がってくる方向を選ぶように見えます。これも才能の一斑だと思います が、要するに、社会や時代は、わざわざそれらしく挿入して書いてみせなくて も、すでに人物たちの中に浸透しているので、人物たちの物語を丁寧に追いか けていけば、社会や時代はおのずから滲み出て、浮かび上がってくる。そうい う姿勢を守った上で、さらに人物たちの同居場面を、それぞれの物語に丁寧な 注意を払いながら描いていく、ということになると思います。

二人の人物がそれぞれの物語を抱えて同居している場面、というのは、今も 言いましたように、小説ではそれほど珍しいことではありませんが、ただ、一 つにはすでに述べた、このセクションの全体が白痴の語りという、特異な、注 意を必要とする記述方法によっている点と、もう一つはラスターというのは、

じつは脇役の一人にすぎなくて、今後重要人物がどんどん場面に現れてくる、

という事情から、こんなラスターに対してさえ、フォークナーは、余裕で個別 の物語を与えて、あとでしっかり利用しようとしているんだ、という配慮の深 さが、私のような読者を驚かせます。あとで利用するとは、ショーに行きた がってなくしたコインを探す物語が、ラスターの生活や性格を表しつつ、かれ の家族の物語へ次第に包摂されていく流れでもありますし、第二には問題の巡 回ショーに所属する男が、ミス・クエンティンが駆け落ちをする相手の男で、

ショーが最初から作品の中に取り込まれている、という点もありますし、さら には第三に、ジェイソンのセクションで、ショーのチケットがきわめて効果的

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な悪意のドラマの場面を作り出すことも、忘れることができません。この冒頭 の引用部分を書いていくとき、すでにフォークナーが、ジェイソン・セクショ ンにおけるジェイソンとラスターの場面を予定していた、とは思えないのです が、そうであればあるだけ、個々の物語を抱いた人物たちが、やがて関わり合 いを持つようになるとき、かれらが同居する場面において、かれらの接触によっ て物語がどのように展開するのか、それを丹念に見定めていくフォークナーの 観察の力は、やはり尋常ではないと、言うことになるのではないかと思います。

ちなみに、ちょうど読者が何回も読み直しながら、場面転換表を作ったり、

人物ごとの情報を整理したりすることによって、同居する複数の物語をようや く解きほぐして、それぞれ把握することができるように、作者のほうも、時程 表を作り、何回も書き直して、その都度少しずつ豊かさや複雑さを増していく ことによって、なんとかこの種の場面を実現することができたはずだ、と、一 応考えることはできますが、この作品に関して残っているフォークナーの原稿 資料から判断する限り、フォークナーはこうした場面を、ほとんど書き直し をしないで書き進めていったようで、この作品全体に対して、簡単な年表は 作ったようですが、場面はたいてい、頭の中に浮かんだまますらすらと書いて いったようだ、ということが確かめられています。別に私は、フォークナーの CPUというか、記憶の容量や演算の規模について感心しているわけではない のですが、複数の人物たちの生活や性格を、同時多発的に掌握し、場合によっ てはそれぞれに感情移入しながら書き進めることは、実力のある作家の大きな 特徴だと思いますし、それをするにはもともと、想像力の記憶容量のようなも のが必要であることもまた、論ずるまでもなく明らかだと思います。のちのあ るインタビューで、質問者が『響きと怒り』を取り上げて、「あなたの作品は 3 回読んでもわからない、という人がいるのですが」と質問をぶつけたところ、

フォークナーは一言、「4 回読みなさい」と答えた、という有名なエピソード が残っていますが、フォークナー自身は、だいたい全部を 1 回で書いたと考え られる。そういうふうに、頭の中に多数の人物たちやその物語が、相互に独立 したまま同時多発的に共存していることが、場面の活き活きした立体感に結び ついている。そういう印象を、私としては強調したいわけです。

フォークナーは、こういう同時多発的な物語、複数の同居する人物たちそれ ぞれの物語を、掌握する能力をそなえていたばかりでなく、少なくとも『響き と怒り』においては、ことさらにそうした能力を発揮したがっていたように思

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われます。たとえば今の引用から何ページも行かないうち、ベンジーの過去の 回想が始まるとすぐに、ベンジーがキャディと一緒に、モウリー伯父さんのラ ブレターを、隣りのパターソンさんの奥さんに届ける、というエピソードが始 まります。これも私には驚きであって、主人公であるベンジーと、キャディを はじめとするコンプソン家の家族の様子を書くだけで、ふつうの作者ならもう 頭が一杯になってしまって、よしんば家の中に伯父さんが居候していたにして も、その人物がベンジーの物語とまったく無関係に、隣りの奥さんと浮気をし ていることを書いてやろうと思いつく、というのは、いくらなんでも想像力が 豊かすぎるのではないか。もし伯父さんの浮気のエピソードを入れるにしても、

あとから思いついて後半に挿入するならともかく、小説がまだ始まったばかり で、それぞれの人物たちの人物造形も、まだ十分に整っていないところへ、こ んなエピソードを入れるとは、いったいなんてことを思いついてしまう人なの だろう、と半分あきれたような気持ちで、読者はこの場面を読まされることに なります。その驚きは、場面転換表を作って事情を整理すればするほど、フォー クナーの頭の中の作業が、どんどん信じられなくなっていく感じ、というのに 近いのではないかと思います。こういう例は、ベンジー・セクションが進むに つれて、まだいくらでも追加することができます。ベンジーがはじめモウリー と呼ばれていた、という「名前のつけかえ」のエピソードなんかも、代表的な 例に数えられます。こんなに複雑な語りと人間関係を展開しているのだから、

せめてベンジーは、最初からベンジーという名前でいいではないか(笑)と、

普通の小説家なら考えるところだと思うのですが、フォークナーはそこをどん どん思いついて、書いていってしまうわけです。

ベンジー・セクションにおいて、どうしてことさらに、フォークナーは人物 たちの独立した物語やエピソードをどんどん増やしていったのか、それを後知 恵的に想像することは、さほど困難ではありません。とにかくこのセクション の語り手であるベンジーは、理解力がないですから、自分の身の回りで起こっ たことを、コメントもなく淡々と観察・記述するだけですし、ほかの人物たち の人生の重大局面に、それほど頻繁に同席する立場でもないですから、いきお いほかの人物たちのほうは、自分のほうから何かしでかしたり、個性がうかが われるエピソードを持ち込んで騒ぎを起こさないと、キャラとして立たない、

と言いますか、のっぺりした平板な印象をまぬがれることができません。ちょ うど映画のカメラの前に登場した人が、自分のほうから何かやって見せてア ピールしなければ、なんのために登場したのかわからない、という具合になる

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のに似ていて、ベンジーの語りは、周囲の人物たちのハツラツたる大騒ぎに、

依存している度合いが意外に大きいということが見て取れます。おそらくそれ が、フォークナーが人物たちの個々の物語をどんどん用意していった理由だっ たと思います。しかし、理由があるということと、だからといって次々にエピ ソードを思いついて、この特異な語りの中にどんどん嵌め込んでいくことがで きるということは、まったく別の問題で、ベンジーの映画のカメラのような語 りと、それが必然的に要求する人物たちの活発な活動は、いちおうモダニズム の手法として説明することができる。その点にも私はもちろん興味があるし、

魅力を感じるのですが、それ以前に、そういう手法を効果的に実践するにあたっ て、何人もの個性豊かな人物たちを同時多発的に描き分けていく、フォークナー の想像力、頭の中の演算装置の精緻な作動ぶりに、舌を巻くしかないのではな いかと賛嘆していることになります。

さて、ここまでは、読めば誰でも、少なくともぼんやり感じ取ることを、事々 しく述べ立てたように聞こえたかもしれませんが、私の言いたいことは、じつ はその次の段階にあります。それは、小説というのは、それぞれの物語を抱え た複数の人物たちを描いたほうが面白くなると、つねに断言できるのだろうか、

という問題に関わっています。ですがその問題を考える前に、今度は 2 人では なく、4、5 人の人物たちがいっせいに同居する共通の場面というのを、一つ 読んでおきたいと思います。それが引用の 2 番です。

「もしかしたら、家に着くころにはかわいてるかもしれないな」とクエン ティンが言った。

「みんなあんたのせいよ」とキャディは言った。「あたしたちムチでぶたれ たらいいんだわ」キャディは服を着て、ヴァーシュがボタンをとめた。

「おめえさんたちがぬれたってこと、みんな気がつかねえだよ」とヴァー シュが言った。「見てもわからねえだもの。おいらとジェイソンが言いつ けなきゃあな」

「おまえ、言いつけるつもり、ジェイソン」とキャディは言った。

「誰のことを言いつけるの」とジェイソンが言った。

「ジェイソンは言いつけないよ」とクエンティンが言った。「そうだろ、ジェ イソン」

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「きっと言いつけるわ」とキャディは言った。「この子、おばあちゃんに言 うわよ」

「おばあちゃんに言いつけるのは無理だよ」とクエンティンが言った。「お ばあちゃんは病気だからね。ゆっくり歩いていけば、そのうち暗くて見え なくなるよ」

「見えても見えなくても、あたし気にしない」とキャディは言った。「あた し自分から話しちゃうわ。この子を丘の上までおんぶしてあげて、ヴァー シュ」

「ジェイソンは言いつけないよ」とクエンティンが言った。「ぼくがおまえ に作ってやった、弓と矢を覚えてるだろう、ジェイソン」

「あれ、もうこわれちゃったもん」とジェイソンが言った。

「言いつけたらいいわ」とキャディは言った。「あたしぜんっぜん気にしな いから。モウリーを丘の上までおんぶして、ヴァーシュ」 (上巻 39 − 40)

楽しんで写しているうちに、思わず長くなってしまいましたが、これは誰々が 言った、というのが連続する場面で、原文では「誰々said」と書いてあるだけ ですが、翻訳ではキャディだけが、「キャディは言った」となっていて、あと は全部「誰々が言った」としてあります。これはさすがに日本語だと、「が言っ た」というのだけずらずら並ぶと単調に見える、ということもあって、新納君 と相談して、新納君の提案だったかもしれませんが、ベンジーはキャディに関 心を寄せているのだから、キャディについては「キャディは言った」という形 にしてもいいのではないかと、そういう微妙な話し合いの結果、こうなったの ではなかったかと、かすかに記憶しています。ともかく、ここでは会話だけを 記録していくことによって、子供たちのそれぞれの性格が、見事に描き分けら れていく場面です。長男のクエンティンは、慎重で、やや臆病でもある。キャ ディは天衣無縫で恐れを知らない一方、ベンジーにはとてもやさしい一面を見 せる。ジェイソンは意地悪で計算高い。そういうかれらの将来におよぶ性格が 鮮やかに描き分けられていて、つとに評判の高い場面の一部です。

複数の人物たちの個々の物語を、同時多発的に発想する作家の想像力の中に は、そのごく身近なヴァリエーションとして、人物たちを手短に、要領よく読 者に印象づける、キャラを立たせる、そういう想像力も含まれていると考えら れます。すなわち、小説の中でも現実の世界でも、人の性格と生活、キャラと 物語は、相互浸透の関係にあるでしょうから、コンプソン家の子供たちの場合

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には、かれらがやがて成長して、それぞれの物語を展開するようになる、その 萌芽が、ここにはすでに孕まれて、それぞれの性格が際だっている、と評して もいいのだろうと思います。

まずこの性格の際だたせかたについて、いささか述べておきますと、造形さ れた人物のタイプについて、フラット・キャラクターという概念が、100年 ぐらい前から提唱されています。近代小説の繁栄の時代に、慧眼な作家が、小 説の中の人物はとかく2種類に分けられる。主人公は時間をかけていろいろな 側面を読者に見せるし変化していくので、ラウンドなキャラクターだが、脇役 は短いあいだにさっと読者に印象を残さなければいけないので、極端な特徴を 一つだけ持って、それで押していく、フラットなキャラクターである場合が多 い、というようなことを言いました。現在の批評や研究では、小説の分析は、

人物がどの程度活き活きと描かれているか、といった問題を気にかけることは、

残念ながらありませんので、ラウンド・キャラクターとかフラット・キャラク ターの概念を、見かけることはあまりなくなりましたが、きょうの私のお話は、

フォークナーの一般的実力がテーマですので、フォークナーがいかにフラット・

キャラクターをうまく使いこなしているか、その技法によって、さまざまな人 物たちについて、読者に忘れがたい印象を残しているか、といった問題が、お のずから重要な問題になってきます。

そうしますと、慎重と臆病によって特徴づけられるクエンティン、天衣無縫 によって特徴づけられるキャディ、ナスティな計算高さによって特徴づけられ るジェイソンというのは、いちおう全員、フラット・キャラクターとして分類 される、ということになります。おまけにジェイソンは、子供のころ、ポケッ トに手を入れて歩くという癖を身につけていますから、ますますフラットで印 象的だということになります。もちろん、これらの人物たちが、この作品の脇 役ではなく、最終的にはそれぞれ主人公として、コンプソン家の物語の大きな 部分を担うことになるのは、ご承知のとおりですから、かれらは最終的にはラ ウンドな傾向を多分にそなえたキャラクターなのですが、とりわけ子供時代は、

フラットな特徴も同時に備えていた。そういうふうにひとまず見ることができ ます。

アメリカの小説には、主人公的な存在でラウンドであるけれども、強烈な特 徴をもつために大変読者の印象に残りやすい、フラットなラウンド・キャラク ターというのが数多く存在する。というようなことを、私は昔どこかに書いた 気がするのですけれども、どこに書いたかは忘れましたので、ともかく今は、

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話を大規模に繰り返すことは避けておきますが、たとえばメルヴィルのバート ルビーが、「I would prefer not to」と繰り返してばかりいる点ではフラットだ けれども、それでもそのまま主人公でありうる。エイハブ船長だって、第一印 象は相当にフラットである。フラナリー・オコナーに至っては、登場人物のほ ぼ全員がフラットである。そういったケースが、アメリカ小説には少なくあり ません。フォークナーの人物たちも、そういうアメリカ的なタイプのフラット・

キャラクターであると言うことができるかと思います。

どうしてアメリカの小説に限ってそういうことが起こるのか、その点はやや 抽象的な話になりますので、まだ書いたことがなかったかもしれませんが、最 後の機会ですから、勘で思っていることを述べておきますと、アメリカ小説の 登場人物は、作者の観念的な主題や人間観を反映するかたちで、一点突破的に、

広がりよりも深まりを重要視して、造形されるのではないか、というのが、「バー トルビー」などの印象に基づいた私の勘です。『響きと怒り』では、ジェイソ ンの底意地の悪さ、コンプソン夫人の虚栄心などが、明瞭に一点突破的な特徴 になっていて、それがほとんど運命のように、かれらを支配していると言って も過言ではありません。その「意地悪さ」や「虚栄心」といったフラットな特 徴を掘り下げていって、かれらがコンプソン家をはじめとする環境に、どのよ うに出会うことによって、どのような固定観念が生じてそうなったのか、そこ を同時に構想するかたちで、人物造形がなされているように見えます。またそ こから折り返して、ジェイソンがやさしくなれる場面や、コンプソン夫人が弱 気になって本音を打ち明ける場面というのが、もしありうるとすれば、それは どういう場面なのか。実際ジェイソンは、父親の埋葬の場面を思い出している うちに泣きそうになって回想を打ち切る、という芸の細かいことをやっている わけですが、そういうふうにフォークナーは、キャラクターを一点突破的に出 発してそれを次第にふくらましていったように見えます。そういうわけで、ア メリカの小説には、人物たちがきわめて狭い性格の枠の中で暮らしていて、確 かに偏頗ではあるけれども、それが自縄自縛の結果であるために、人物たちは その枠を脱出することができない、そういう、固定観念と性格の重荷を背負っ た人物たちが、たくさんあらわれるように思われます。もちろん、どうしてア メリカ小説は、とかく観念的で一点突破的になるのかと、さらに抽象的に尋ね るならば、どこかでキリスト教の世界、聖書の世界に通じていて、人間や現実 を把握するその仕方が、あらかじめやや観念的になっているからではないかと 思われます。キリスト教の物語をつねに横目に見て、それと引き比べながら、

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あるいはなぞらえながら、自分の物語や人物造形を進めるとなれば、作家とし ては登場人物の性格を、現実から出発するのではなく、時代を超えた主題の構 図のようなものから、観念的に創出することになるのではないかと思うわけで すが、まあ、あまりそういった問題は議論されることもないので、私の考えす ぎなのかもしれません。ただ、ふだんはあまり強く意識されませんけれども、

フォークナーは聖書の物語やシェイクスピアの物語、あるいはギリシャ悲劇の 物語などを、幼いころから頭に刻み込んでいた人ですし、その痕跡は小説のタ イトルにしばしばあらわれるほどですので、そうしたタイプの小説の発想が、

フラットだけれどもラウンドな人物像を生み出す原因になったのではないか と、私の勘としてはそんなふうに思っています。煎じ詰めれば、聖書の物語こ そが、フラットでラウンドな人物たちの源泉になっているのではないかとも思 えるわけです。

さて、そうした傾向を孕みながら、フォークナーが多様な人物たちを、それ ぞれに特徴づけ、印象に残りやすい形で造形しながら、同時多発的にかれらの 物語に気を配り、記述を進めていく、という姿勢が、これでだいたい浮かび上 がったのではないかと思います。多様な人物たちを活き活きと描き分ける、と いうのは、とりもなおさず、多様な人物たちのそれぞれの個性を同時に掌握 し、かれらの関わりを場面の中で具体的に動かしていくことですから、以上に 述べたことを総合して、「フォークナーは人物たちを活き活きと描き分けてい く」というわかりやすい結論に、たどり着いてもかまわないと思います。なぜ ならそれこそが、小説家の一般的な実力として、私がここで強調したいと思っ ているものの主要部分だからで、ここでは「活き活きと描き分ける」方法とそ の内容を、いささか詳しく検討してみた、ということになります。とりわけベ ンジー・セクションにおいては、ベンジーの語りという難しい実験を一方で試 みながらのことですので、神経の負担から言って、いかにも大きな才能を必要 とする、大変な作業だったのではないかと、強調したことにもなるかと思って おります。

多様な人物を活き活きと描き分けることは、ある意味で「小説家のイロハ」

のようなもので、どんな小説でも、だいたいその作業は必要とされます。とり わけ人物たちが似ても似つかない多様性を帯びてくると、それだけ描かれる世 界が複雑で立体的に見えてきますから、とてもいい、というような評価がしば

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しば下されます。フォークナーの構想力、描写力は、一端を見てきましたよう に、性格のまったく異なる兄弟たちから、さらには黒人の少年や老婆の世界ヘ まで丁寧に降りていきますから、その点で第一級である、ということになりま す。ドストエフスキーの小説において、多様な人物たちそれぞれの世界観を丁 寧に活かして展開される作品の世界を、ポリフォニックな世界と呼ぶことがあ りますが、同じような意味で、フォークナー作品も、まさしくポリフォニック であり、ポリフォニーというのは、書かれた小説家の一般的実力が第一級であ ることを示す一つの目安であると考えてもいいのではないかと、私はひそかに 思っています。そこまで行かないとしても、ある程度多様な人物たちが小説の 中に出てきたほうが、読んでいて面白い、目先が変わって楽しい、ということ は論ずるまでもないので、ドストエフスキーやフォークナーのレベルまで行か なくても、だいたい小説家というものは、この多様性、人物たちの同時多発的 な物語に配慮を与えようと努力していると、考えていいだろうと思います。

ですから、フォークナーを見習って、若い皆さんがほかの人の小説を読むと きには、人物たちがたくさん出てきて、それぞれに十分な多様性を備えている かどうか、簡単に言えば、複数の人物たちの場面が活き活きと描かれているか どうかが、小説を評価する際の大きな目安になります。キーワードは「複数」

と「場面」です。こうした観点を取ってみるだけでも、なぜ『白鯨』がアメリ カ小説の最高傑作と言われるのか、その理由のかなりの部分を、手に入れるこ とができるのではないでしょうか。

補足を言えば、ただ活き活きとしているだけでなくて、その複数の人物たち の相互関係や社会関係、そしてフラットだけれども徐々にラウンドに見えてく る人物像の深さ、そういった点にも目を向けるならば、小説の評価の作法とし ては、まず満足すべきものが得られるのではないかと、私としては考えてきた ように思います。近年の批評でよく使われる用語で言えば、登場人物たちが、

互いに対して「他者性」を有している、と評することもできますが、いずれに しても、人物たちが相互に独立して、自由に自分の人生を展望する、その展望 の多様性に、作品の評価がかかっていることに変わりはありません。

私は、あちこちで書きましたように、とりわけ『小説における作者のふるまい』

で書きましたように、フォークナーだとかアメリカ文学だとかの研究者になる 前に、つまり大学院に進学する前に、どういうわけかこの、作家の一般的実力 を見積もることによって作家を評価したり、好きになったりする習慣が、身に ついてしまっていました。ですから、フォークナーを初めて読んだとき、「こ

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の人の実力たるもの、すごいものだな、小説の最高点ではないだろうか」とい うのが私が感激したポイントであって、南部の問題やモダニズムの問題は、全 部あとから考えるようになった問題にすぎませんでした。その意味で、人物た ちを活き活き描くという、この一般的実力にかけて、フォークナーと右へなら ぶ作家は、それほど多くいないだろうと思います。シェイクスピアを別とすれ ば、私が読んだ範囲の近代小説ではドストエフスキーとトルストイ、それから メルヴィルの『白鯨』、あとはアメリカ文学ではイーディス・ウォートン、ヘ ミングウェイ、現代のピンチョン、ぐらいではないかと思います。いわば、大 多数の小説家が共通して目指す「活き活きコンテスト」のような水準で、金メ ダルか銀メダルに輝くのがフォークナーだとすると、やはりフォークナーから 小説を学ぶということは、私には必然的なことのように思われたわけで、今そ れを、若い皆さんにも、お勧めしたいと念願しているわけです。小説を書いた り読んだりする入り口は、もちろん人によっていろいろありますが、たくさん 読むようになると、やがては、作家の一般的実力が気になってきます。それを せよ。つまり人物たちを活き活きと書きなさい、というのが、小説の神様の命 令なのではないか、と私は思っているわけで、小説を研究する人は、やはり一 度は小説の神様の意向を考えながら、実力第一級の作家をじっくり読んでみる 必要があるのではないか、というのが、私のフォークナー・ファンとしての意 見です。

ただし私は、フォークナーを読み始めて、まもなく気がついたことがありま した。これもドストエフスキーでもトルストイでも同じことなのですが、かれ らは、人物たちを同時多発的に活き活きと描くことを、究極的な目標にして、

小説を書いていったわけではない、ということです。そこが小説の不思議なと ころで、一般的な実力をいくら高めても、それは一般的な作家になる道でしか なくて、大作家たちは皆、そういう道は選んでいません。かれらは、個々の主 題に夢中になって、それを描こうとするんだけれども、その過程において、現 実の世界を反映する多様な人物像におのずと心を砕くようになって、その結果、

一般的実力を発揮するようになった。ということは、言い換えれば、かれらの 主題が、多かれ少なかれ、世界の同時多発的な多様性を前提として成り立って いる、ということでもあるわけで、世界の多様性を描くことを仮に「リアリズム」

と定義しますと、かれらの主題がリアリズムに、基本的に基づいている。そう いうふうにも、だいたい言っていいかと思います。私は、小説の基調というも のは、これまでも、これからも、リアリズムであろうと思っていまして、昨今

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のSF幻想小説のように、人の勝手な幻想によろこんで読者がつきあう、とい うのは、長期的に見れば、ちょっと信じがたい事態であるような気持ちがして おります。共通の現実を舞台にするからこそ、関心や共感が生じるのではない か。もちろん、ここでリアリズムというのは、フォークナーなどを含めた意味 であって、文学史の狭い意味でのリアリズム時代だけを指すわけではありませ ん。ヘミングウェイやフォークナーのモダニズムも、いろんな人が同時多発的 に人生を探求している、この共通の世界を描こうとしている、という意味では、

リアリズムなのであって、そこにおいてかれらの一般的実力が、効果を発揮し ている、というわけです。ですから、私の見通しはともかく、これからも基調 としてリアリズムであるような小説は、すたれずに書かれていくだろうと思う につけても、こうした作家の一般的実力を測定する目というのを持って、いろ いろな作家を読んでいかれることを、お勧めしたいと考えて、これを最後のダ イイング・メッセージにしてもいいのではないかと思って、ここへやってきた わけです。

ただし、と話が二転三転して申し訳ありませんが、ここが小説というものの 不思議なところで、「活き活きと世界を描く」ということの一般的実力の評価は、

それ自体を自己目的化してはいけません。自己目的にしてしまうと、一般的に すぐれた技術的な小説しかできあがらない、という、今申し上げた性質のほか に、もっと重要な、例外規定が存在します。そこのところ、小説の神様がどう お考えなのか、よくわからいないのですが、その例外規定と言いますのは、「い い小説というものは、場合によっては人物たち、他者たちの独立した世界を、

活き活きと描かなくてもいい」というものですから、まさに今までお話してき たこととは正反対であって、こちらをあまり重く見ると、小説の一般的評価う んぬんといった問題は全部、どうでもいいものとしてぶっとんでしまう、そう いう例外であるわけです。例としては、日本ではいい例が多いので、志賀直哉 の『暗夜行路』とか、太宰のいくつかの短編とか、挙げることができます。志 賀はご存じのように、日本では「小説の神様」と呼ばれた人ですから、この人が、

小説の一般的評価をまったく気にかけない、つまり本当の小説の神様には叱ら れるような、ひたすら自己中心的な世界に邁進したことは、ある意味で嘆かわ しいことですが、別の意味では小説というものの豊かさを、あらためて思い知 らせることにもなります。小説というのはひょっとすると、神様が何人もいる のかもしれません(笑)。少なくとも、私が比喩的に使ってきた神様と、志賀 直哉が尊称されて神様と呼ばれるときの神様は、意味が違うというか、ほとん

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ど正反対ではないかと思います。アメリカ文学ではどうか、と言いますと、す ぐに思い浮かぶのは、ヘンリー・ミラーの連作だとか、ブローティガンの『ア メリカの鱒釣り』なんかをあげてみたくなります。これらの作品は、ただ作者 が自分の経験を自分の立場から書き連ねているだけで、あまり世界の多様性、

人間の他者性のようなものは、意識されていない。あるいは同じ結果になりま すが、他人の他者性があまりにも強く意識された結果、それを乗り越えて多様 性を同時に俯瞰するような広範囲の視座というものを、もう求める気がしなく なっているのかもしれません。そう考えると、ミラーやブローティガンは、い わゆるリアリズム小説が、モダニズムを含めて破綻したと言われる第二次大戦 時代の作家であって、もう小説も形をなしていないし、現実をきちんと書くこ とを目標にしているわけでもない。小説の神様がもう、見えなくなっている。

だから志賀直哉のように、自分が神様になるほかなくなっているのかもしれま せん。だから誤解を恐れずに言えば、小説というものは、小説になってなくて もいい小説になる場合がある、ということで、まったくこのジャンルは、定義 の難しい、あらかじめ自己矛盾した定義だけしか成り立たないような、じつに やっかいな読み物だということになってきます。このことをやはり、忘れるべ きではありません。

また、こうした新しい作家たちの例からふりかえってみると、小説家の一般 的実力を測定する世界の多様性や深さは、じつは超時代的な価値基準ではなく て、特定のイデオロギーの産物である。すなわち、「世界とは多様で、深いものだ、

ここは私たちみんなが探検者のように手探りで生きていく場なのだ」といった、

19 世紀の資本主義成長期のイデオロギーを、かなり正確に反映している、と いうことにも気づかされます。世界を探求する。世界を知りたい。世界は深い ものだ。人々は多様である。これが小説の一般的実力の背景にある探求のエネ ルギーであり、同時にまた、資本主義的な冒険心の現れでもある、と言ってい いかと思います。戦後の作家たちは、こうした冒険心のつまらなさや疲労感に うんざりして、小説というものの形を壊してしまったらしい。そうすることに よって、小説家の一般的実力というものも、当然、もはや役に立たない評価基 準になってしまった、という筋道が考えられます。

ともかくもこういう、重大な例外事項がありますので、小説を読むときには 注意が必要で、人物たちに関する一般的実力を、問題にしない作家もいる、と いうことを念頭に置かなくてはいけません。ただ、その点を留保した上で、そ れでも今日に至るまで、小説の 90%はリアリズム小説であり、その 90%ぐら

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いは、この一般的実力を測定してかまわないタイプの小説ですので、フォーク ナーから学んだこの「世界の描き方」を尊重することは、いろいろな小説を面 白く読むことに繋がるだろうと私は信じています。

というわけで、なんだか当たり前のことを、理屈でごちゃごちゃこねくり回 しただけのように思えますし、実際そうだったのかもしれませんが、私が若い 皆さんにお伝えしたいことは、たとえばこういうことかな、というポイントを、

ざっくばらんに述べさせていただきました。

現在の私は、探偵小説を書いております。とりあえずのところは、『松谷警 部と目黒の雨』(東京創元社)という一冊を、本務校定年後の第一作として、

出版していただいていますので、もう授業ではさんざん宣伝させていただきま したが、引き続きそちらのほうも、どうぞよろしくお願いしておきます。

探偵小説はフォークナーも大好きで、自分でも書いたことがあるくらいです から、フォークナー・ファンとして、それほど恥ずかしいとは思っていません。

ただ私も、現在の日本ではほとんど書く人がいないと言われるリアリズム探偵 小説に専念する者として、世界の広さや深さについて、少しでもフォークナー に近づいていきたいと、今さらながらに、ひそかに念願しております。だた、きょ うのところは探偵小説の話をあまりするわけにもいきませんので、こんなとこ ろで、フォークナー研究にほぼ一生を費やした「楽しかった私」として、いく らか先輩風を吹かせながら、おもに若い人たちにむけてお話をさせていただい たところです。

本当は『響きと怒り』のいろんなところからの引用を交えて、もう少しバラ ンスの取れた話ができればよかったのですが、ベンジー・セクションのたった 2 カ所を引用して解説しているだけで、だいたいの時間がつきてしまいました。

昔から私は、「フォークナーについてだったら何時間でもしゃべれるよ」と豪 語してきたのですが、まさにその通り、こんな引用箇所が 2 つあるだけで、い かに私が楽しそうに、夢中になってフォークナーを賞賛したか、その様子を皆 さんは、いま目の当たりにしたわけで、これがユーフォーリアでなくてなんで しょう、といったところですが(笑)、その幸福感の起源にあるものは、「小説 とはなんだろうか」と若い頃から追い求めてきて、フォークナーに出会ったと きに、「これが小説というものか。ここから出発すればだいたいのことはわか るのか」と感激した経験に由来しているわけです。その思いの一端を、きょう はダイイングメッセージとしてお伝えしたわけで、もう研究者として思い残す

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ことはありませんので、あとは皆さんの新しいご活躍を、フォークナーに殺さ れた者として、草場の陰から見守っていきたいと考えております。

どうもありがとうございました。

参考文献

平石貴樹『小説における作者のふるまい』松柏社,2003 年.

─『松谷警部と目黒の雨』東京創元社,2013 年.

参照

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