東北大学狩野文庫架蔵の御文庫目録
その他のタイトル A Study of Obunko‑Mokuroku (御文庫目録) : a list of imported Chinese books sent to
Momijiyama Library (紅葉山文庫) : in the Mr.
Kano's collection of Tohoku University (東北 大学狩野文庫)
著者 大庭 脩
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 3
ページ 9‑90
発行年 1970‑03‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/16124
東北
大学
狩野
文庫
架蔵
の御
文庫
目録
︵大
庭︶
江戸時代に舶載された漢籍︑私の所謂﹁唐船持渡書︵とうせんもち
わたりしよ︶﹂の研究は︑昭和四十二年三月に当研究所論叢一に報告
① を出して以後も折にふれて続けてきたが︑昭和四十四年二月に長崎
博物館の聖堂文書ー即ち聖堂祭首︑書物改役向井家文書ーを閲覧し
た結果︑極めて興味深い記録を知ることができた︒その記録を参考
すると︑東北大学狩野文庫に所蔵される御文庫目録の重要性が一層
増大するように思われるので︑ここにその考えを述べると共に︑こ
の御文庫目録は︑かつて拙著出版の際︑資料編に是非加えて印刷し
たいと翼求しながらも紙幅の関係から他日を期したものであるか
ら︑あわせて全部を醐刻して同学の各位に提供することにした︒
聖堂文書閲覧に際しては長崎博物館の越中哲也氏に︑御文庫目録
躙刻に関しては︑東北大学文学部佐藤圭四郎教授︑同教養部伊藤徳
男教授︑同附属図害館石田義光氏に御惟話になった︒また本文中に
比較研究した静嘉堂文庫所蔵の御文庫目録に関しては︑同文庫の丸
は じ め に
従来の研究経過
九
御文庫目録を専ら研究したものはないけれども︑この目録につい
てふれ︑これを利用して研究をしたのは長沢規矩也氏と青木正児氏
① であろう︒長沢氏は﹁京本通俗小説と清平山堂﹂の中で静嘉堂文庫
所蔵の御文庫害目について述べ︑﹁江戸時代に於ける支那小説流行③ の一斑﹂の中でもこの害目を活用して研究を進めて居られる︒青木
① 正児氏は﹁御文庫目録中の支那戯曲﹂の論文を東北大学狩野文庫本
によって書かれた︒
長沢氏は御文庫書目について︑①著録されている書物から考え
て︑紅葉山のものであることは明らかである︒①著録の方法は︑書
名をいろは別にして︑その各ミを寛永十六年以降︑享保七年までの
年号別にしてある︒多分その年号は︑其の所蔵に帰した時を示すも
のであろう︒⑥部によっては寛永十六年の分以前にも書名が列挙さ
れているが︑これはその以前の収蔵本であろうとの考えをのべられ 山季夫氏の教示を得た︒各位に深く謝意を表する︒
東北大学狩野文庫架蔵の御文庫目録
大
庭
脩
た︒青木氏もそれを承認された上で︑近藤正斎の﹁好書故事﹂御文
庫の条により︑寛永十六年七月御文庫を紅葉山に新築したので︑そ
の時富士見亭の御文庫から蔵書を移したとあるから︑この目録の紀
年が寛永十六年に始まっているのは紅葉山移転の年と合し︑その紀
年の無いものは富士見亭時代の蔵替であろうと考えられた︒
私は旧著では右の両先学の説に加えて︑寛永十六年から長崎にお
① いては向井元升が嚇物改の仕事に加わったことを指摘した︒それは
⑥ 渡辺即輔氏が引用される﹁亥十一月書物改役春徳寺書上書物改役被
仰付候以来大意手続壽﹂によってみると︑寛永七年に切支丹宗門目
付井御制禁之書吟味を目的として春徳寺が開かれ︑春徳寺住持はこ
の戦をつぐが︑寛永十六年になって向井元升が書物改に加わり︑
﹁従唐船持渡御書物御文庫納﹂を主目的に輸入書籍を調べたとある︒
宝暦六年二月十四日附で当時の書物改役向井元仲兼般が奉行所に差
出した由緒書の案に︑曽祖父向井元升のことについて
大鄭院様御代窟政十六卯年より初而麿船持渡之御害物御文彫ニ
納り候︒此節迄者書物改遊候役人無之︑当地寺方博識之出家井学
才有之候者︑寄合相改候︑依之元升儀茂書物改相勤申候︒
と記している︒寛永七年︑寛永十六年などの頃から正規に壽物改と
いう職があったかどうかということには論議の余地があるが︑向井
元升が認永十六年から唐船持渡書の調査に参加したこと︑この年か
ら舶載の漢籍が御文書へ納められ始めたこととは否定できない︒し
かもこの年に紅葉山に書物蔵が建てられて紅葉山文庫が始まったの であるから︑この間に密接な関連があると見るのは自然であろう︒恐らく将軍家光は長崎奉行に対して有用の書籍の選択・購入方を命令したのであろう︒そこで長崎奉行は︑在地の﹁学オ有之候者﹂として︑儒医をもって名のあった元升にも書物選択の仕事に加わらせたのであろう︒これは︑後批になっても書物改役が御用書の漿備にあたるという職務が残っていることと考えあわせて︑恐らく不当な推測ではないと思う︒そこで私は旧著に︑寃永十六年から向井元升控として残されたか︑或いは少なくも御文庫納の分は作成されて江戸へ当該書籍と共に送られたかのいずれかが始まったと推定できる節がある︒というのは東北大学狩野文庫所蔵の﹁御文庫目録﹂は後述のように御文庫の蔵粛をいろは別にし︑各項は年代別にしるしているが︑その年代が寛永十六年より逐年に粛かれ︑それ以前入庫の
⑦ 分は一括されている点によるのである
I t
と︑この害目に注目した考えを述べたのである︒
次に享保七年にこの書目の逐年の記載が終っているのは何故かと
いう問題がある︒長沢•青木両氏は、研究目的が別の所に存するので、この目録が
七年に終る理由については特にふれられなかったのである︒
徳川吉宗は正徳六年五月一日︑紀伊家よりはいって宗家をつい
だ︒六月二十二日改元あって享保元年となる︒ところで︑幕府御内R 物方留帳の享保元年の記載をたどってゆくと︑六月三日の条に若年 が参加した結果︑久書物改の結果の記録が︑少なくとも向井家には 10
東北大学狩野文庫架蔵の御文庫目録︵大庭︶ 寄大久保長門守より書物奉行松田金兵衛に下命があって︑御書物目録有之候者︑被遊上覧度由﹂であるから書目があれば差上げるようにとのことであったので︑﹁先年林大学頭改置候御書物目録﹂﹁追加共八冊﹂のものを差出したことが見えている︒そしてこの日を境にしてそれ以前と以後との書物奉行の記録は著しい相違を見せるのである︒この年は二月に闊があるが︑年初より六月二日までのまる六ヶ月間で︑記事のある日は合計二十一日にすぎない︒ところがこれ以後年末まで七ヶ月は連日記事がある︒また三日以後はしきりに書籍の出入があるのに︑三日以前の記事は蔵に風を入れたとか︑書物代を支払ったとか︑秩を作らせるとか︑風干用の道具や消耗品を御納戸や畳奉行に注文したとかの保全の作業の記録が殆んどである︒これは︑三日に提出させた林信篤の作製にかかる目録によって︑吉宗が紅葉山文庫の蔵書に目を通し始めたことを如実に物語るものである︒享保元年中に︑かつて考察を加えた新井白石が借R 用していた明律関係の書籍や︑渋川春海の借用していた書籍が返納されるが︑書物奉行達は書庫にない書籍の調査を進めて返納整備につとめ︑将軍の用命に応じようとしていたのであろう︒
吉宗は目録を提出させた翌日四日から︑御年譜︑御伝︑関ケ原始
末記︑慶長以来諸法度などを見始め︑御即位記︑御参内記︑将軍宜
下記︑日光御参詣記や本朝皇胤紹運録︑尊卑分脈︑式目など皇室・
公卿関係のものを見︑六月には大名家の家伝︑七月には国絵図︑家
伝︑甲府︑尾張︑水戸︑紀伊家中書付︑九月には旗本の害付という
﹁御
代ミ
ふうに︑将軍職としての常識を次第に蓄積し︑職務への理解を深め
てゆく有様が︑書物奉行が需めに応じて提出する書物の記録をたど
ってゆくと手に取るようにわかるのである︒
吉宗の研鑽ぶりはさておき︑六月の一=日に提出した目録をめぐっ
て︑御書物方の留帳には概略次のような経過を見ることができる︒
六月七日には惣目録が将軍の手もとにあるので︑﹁急御用之節相
互に難儀を致す﹂から︑御長持の中にある惣目録に﹁委細しるし有
之候間︑左様御心得ならる可く﹂との伝達がみえ︑六月八日には
﹁桜田御本︑御小納戸御本︑不残御目録認差上ケ候様二﹂との命令
で目録を作成して提出している︒
七月七日には︑目録が一たん書物方にもどされ︑以前からさし出
して蔵にはない書物に目印の張札をする様命じられ︑七月十九日に
八月二日にはこの目録及び桜田御書物目録に付紙の御好みがある
ので︑御下書のように付札をして提出せよとの命があり︑五日に提
出した所なお好みにあわぬ所があるとて修正させられている︒吉宗
その後目録については暫らく沙汰止みになっていたが︑享保五年
︳︱‑月十四日に若年寄有馬兵庫頭から書物奉行へ目録について色々と
質疑があり︑﹁追而可申談候間︑左様相心得候様に﹂との事であった
が︑廿二日には﹁林七三郎︑同百助︑御目録之儀二付︑明日御蔵ヘ
罷出候間︑同役不残罷出︑申談候様二﹂と通達があり︑廿三日︑﹁御 独得の考えがあったらしい︒ 点検を終って二十日に再提出をしている︒
新規の目録七冊はやがて九月四日に書物奉行に正式にわたされ︑
十月二十七日より林七三郎はまた書物方へ来て新目録と粛物との引
合せを再度始め︑二十八日には
一今日御礼過︑於新部屋︑有馬兵庫頭対話︑一昨日林七三郎︑百
介江も申渡候通︑御目録︑御書物引合︑弥相違無之候哉吟味仕
候而︑相済候ハ︑︑御蔵之目録差上之可申候︑御前ノ目録ヲ下
ケ可申候間︑吟味仕︑差上可申候︑其節御蔵之目録ヲ下ケ可申
旨︑被申聞候︑
一先年差上置候古目録一箱八冊︑被相渡之︑請取申候︑新目録吟
味相済候ヘハ︑此目録火中之筈二候間︑左様二相心得可申旨︑
被申
聞候
︑
と記してある︒そして十一月十一日には﹁御蔵之目録﹂を差出し︑
﹁御前御目録﹂と引替えが行なわれ︑なお十二月にかけ︑目録の文
字の校合︑旧目録の内で﹁先規より上り切二罷成候御書物留魯﹂の る ︒ 目録之認様︑御筆笥ノ入替︑御害物引合等﹂について話し合いがなされた︒林七三郎信充︑享保八年二月より大学頭となる人︑時に四十オ︑百助は信智︑信篤の四男で時に三十四オ︑西丸侍講である︒これより林氏兄弟が目録の作成を始めたのであろう︑五月二十八日には下書が出来て︑二十九日から入替にかかるといい︑二十九日から七月の末迄の間にしばしば林兄弟が文庫へ来て作業をしている︒この時期に書物蔵の修繕︑増築も行なわれていることは注目に値す 作成などが行なわれ︑翌六年闇七月朔日にも新旧両目録の引合せの記録があり︑また八月の風干の際に実物との対照点検が行なわれてい
る︒
幕府書物方留帳が以上の様な目録作成の経過を記録しているの
で︑私はこの享保五年九月朔日に紅葉山文庫の新定書目七冊ができ
たことと関連をつけ︑新目が出来た後は旧書目は焼失することにな
ってはいるものの︑何人かが書写していて︑その後の増加分も七年
にいたるまで書き加えたのではないかと憶測し︑また︑享保五年は
切支丹の﹁噂迄にて不障文旬害入候分者︑御用物者勿論︑世間江売
買為致候而も不苦候﹂という弛禁の令の出た年であることも考慮に
入れ︑享保七年という年が合理化できるのではないかと莫然と考え
ていた︒しかしながら決定的な証拠はなく︑また︑書物方日記の記
載から見れば︑目録は長持別の︑いわば分類目録のような性質のも
のらしく︑出納の便も考えられている様であるから︑書名イロハ別︑
年次別というのは︑改めて書きなおさなければならない筈であり︑
論証不充分の憾みは濃い憶説であった︒
なおまた︑拙著執筆中は時間の関係で静嘉堂文庫の﹁御文庫書
目﹂との比較の余裕がなく打すごしてしまった︒そこで︑拙著にお
いては︑なお研究を進めるべき多くの課題を残しているが︑中でも
この目録の研究は大きな課題の︱つであった︒
最初にのべた様に︑長崎聖堂文書の中に興味深い文書を発見した
ので︑急速にその課題が解決の方向へ進むようになったのである︒
東北大学狩野文庫架蔵の御文庫目録︵大庭︶一一一一
同 正保元甲申年同 二 乙 酉 年
丙戌
年
至此千百
百四
十一
︳一
部三
十四
部
外筆削書
百八
十一
一部
十八
部
二百六十六部
言 五 十 四 部 寵 三
同 八 戊 申 年
五部
同 七 丁 未 年 無
同六
丙 午 年 無
同十九壬午年
同二十癸未年
同 五 乙 巳 年 無
五十六部
同 四 甲 辰 年
部一
同 十 七 庚 辰 年 十 九 部 同 十 八 辛 巳 年 廿 一 部
同 三 癸 卯 年
七部 同四十八部 同年寛文元辛丑年
壬寅
年
あり︑それを五・六センチごとに細かく折りたたんである︒二四セ ンチごとに紙のつぎ目があるから︑竪九センチ︑横二四センチの紙 を貼りついで︑五・六センチに折ったわけである︒紙質は黒秘色に 蠍を引いたような質である︒両面に記録があり︑一面は禁書の目録
⑩
で︑その紹介は別稿にゆずる︒他の一面が本論文に関係があるし その一面は﹁寛永十六己卯年御文庫目録﹂と第一行に省き︑次 に八百三部とあり︑以下享保八年にいたるまで︑年別と部数が書き
八百三部
同 三 庚 子 年
寛永十六己卯年御文庫目録
九拾二部 同
亥己
年 並ねてある︒以下に移録してみよう︒
万治元戊戌年六十七部
八十八部
至此三千
百十八部百八十八部
五十五部 同
丁酉
年
二十五部八
十︱
︱一
部 同 二 丙 申 年
同三
明暦元乙未年
甲午
年
六十九部九十二部
同 二 癸 巳 年
二百五十六部 承応元壬辰年 同
四 辛 卯 年
この文書は竪九センチメートル︑横は全長一五一センチメートル
同 三 庚 宙 年
三十四部
百八十九部
二百六十四部
その聖堂文書は整理番号三七
│ 0
‑
︱︱八
とい
う文
書で
るあ
︒
同
己丑
年
聖堂文書中の記録慶安元戊子年 同
四 丁 亥 年
無有
三十一部
三十一部
一 四
同
東北大学狩野文庫架蔵の御文庫目録︵大庭︶ 同
己巳
年
庚午
年
無 二
部
正徳元辛卯年
同 二 壬 辰 年
一 五
無 此 年 書 目 五 部 上 ル
至些
一千
百五
八十
十九部九部 元禄元戊展年 同
四 丁 卯 年
十八部
マ︑
七本
至此
三千
四百
五部
三十
一部
六 部
同六
同七
己丑
年
庚寅年
同 三 丙 寅 年
同 五 戊 子 年
同
丑乙
年
同 四 丁 亥 年
貞享元甲子年
+ ︱ ︱ 一
部
六 部
至此
三千
五百
六十
六部二部
無当年ョリ大意止︵朱︶惣目録上ル八部
同 三 丙 戌 年
六 部
同 三 癸 亥 年 十 部
同
乙咀
年
六 部
同
壬戌
年
嘉無
宝永元甲申年
無
天和元辛酉年同十六癸未年
同 八 庚 申 年
一部
六
至 部
此三
千五
百
二部
=一
十八
部
同 七 己 未 年 九 部
七部
同六
戊午
年
七部
八部
同 五 丁 巳 年
一部
同十二己卯年
部 同 四 丙 展 年
部 同
乙 卯 年 無
同 十 丁 仕 年
五部
至 此
一
1一 千 五
六部
百十
一部
同
甲 寅 年 無
同 九 丙 子 年
延宝元癸丑年
同十一戊寅年
同十三庚展年
同十四辛巳年
同十五モ午年
無
同 八 乙 亥 年
同十二壬子年
至此
三千
三
百五
十六
部
八部 同十一辛亥年
十一
一部
同六
同七
同 九 己 酉 年 無 同 十 庚 戌 年 十 二 部
同五 同四
辛未
年
壬申
年
癸酉
年
甲戌
年
十八部
十七部
︵ 朱 ︶
当歳ヨリ六部大意書始
九部九部
= 一 部
この記録は︑第一行に御文庫目録とあり︑寛永十六年から始まっ
ているし︑最初に八百三部とあるのは︑認永十六年以前から御文庫
にある部数であると考えられるので︑目下問題にしている狩野文庫
の﹁御文庫目録﹂の記載と関係があると考えるのが常識的といえる
であ
ろう
︒
この記録は︑長崎聖堂祭首向井氏の旧蔵文書の内にあり︑
は当時公開されるべき筈のない禁書の目録と積渡った時の処理が記
されている点から考えて︑向井氏本来の記録であることは疑いない
所である︒従って非常に貴重な記録であると思う︒私は元禄六年の
条の下に﹁当歳より大意書始﹂とある朱害を見た時目の銘める思い
同 八 癸 卯 年 附 一 部
同 七 モ 寅 年 州 八 部
一面
に
る︒享和三年で終る理由は編纂した文化元年の前年であるからはっ
きりしているが︑何故元禄六年に始まるかは明らかでなかった︒商
⑪ 舶載来書目の解題にあたっては︑私はその理由を不明とし︑別に書
物改のことを記した所で先にもふれたように︑狩野文庫﹁御文庫目
録﹂が寛永十六年から始まっているから︑日向井家には害物改の結
果の記録があったであろう︑□しかしその記録は︑商舶載来書目が
元禄六年以来の書籍のみをあげているから︑少なくも文化元年に
⑲ は︑元禄五年以前の記録は失われていた筈であると推定した︒この
推定は︑書物改は最初から大意書等の記録を作成するものという前
提を疑っていなかったのであるが︑今︑この記録の朱注を見て︑そ
の前提を取り除くべきことが明白となった︒即ち︑元禄六年から書
物改に際して大意粛を作るようになったのであるから︑それ以前の 癸亥にいたるという︑つまり元禄六年から享和三年までなのであ 同六辛丑年
同 五 庚 子 年
至比三千六百十七部七部
十五部
同 四 己 亥 年 無 シ
同 三 戊 戌 年 無 シ
同
丁咀
年
一部
享保元丙申年
無シ
同 五 乙 未 年 無
同 四 甲 午 年 無
同 一
︱
︱ 癸 已 年 無
がした︒それは︑私はかつて唐船持渡書の資料を︑輸入業務に関連
して作成された第一次資料と︑知的要求にもとづいて︑或いは嚇籍
商の商売上の必要にもとづいて編纂された第一一次資料とに分類した
が︑その第二次資料の内で最も有用であると思って旧著資料編に醐
刻した﹁商舶載来書目﹂に関連がある記事だからである︒商舶載来
嚇目は全五冊の写本が国立国会図書館に伝わっているが︑これは文
化元年八月に書物改役五代目︑向井富︑字元仲が﹁家蔵の旧記に拠
って輯録した﹂もので︑書名と冊数をイロハ順にあげ︑それぞれの
中は舶載の年別に編輯してある︒その年代は元禄癸酉に起して享和
一六
東北大学狩野文庫架蔵の御文庫目録︵大庭︶
記録は始めからなかったのであり︑従って向井家の記録は失われて 居らず︑向井富が商舶載来書目を作成する時には︑当然元禄六年以 降の記録によらざるを得なかったのだということを確認しなければ
﹁当年ヨリ大意止︑惣目録上ル﹂とあ
るものは︑他の資料ではなかった事で︑具体的にはどういう変化が あったのか明らかでない︒今後の課題として残さざるを得ない︒
ともあれこの二つの朱注だけでも非常に優れた価値を持つ賢料で あることは認められると思うが︑さてこの年別の部数はどういう数 であろうか︒これは寛永十六年から向井元升が﹁唐船より持渡る御 書物御文庫納め﹂のために書物改に加わったことに照らしてみる と︑どうしても長崎から江戸の紅葉山文庫へ納めた漢籍の年別の部 数であると考えたいのである︒それは正徳元年の注記に﹁此年書目 辰五部上ル﹂と書いている記述によっても想像される︒そうする と︑仮に狩野文庫の御文庫目録がその具体的な書名を分類したもの だと考えてみればどうであろうか︒それを検討するためには狩野文 庫の御文庫目録にある書名の年別の総数を︑この記録の総数と比較
してみる必要があろう︒
御文庫目録の書名の年別の総数と記録の総数を対比して表示して
みよ
う︒
御 文 庫 目 録 と 聖 堂 文 書 と の 関 連
また宝永六年の条の朱注︑ ならないのである︒
一七
表第一の比較によってみると︑聖堂文書にみえる部数と書目の年 度別の部数とが完全に一致する年は零の年を含めて寛永十七︑正保
四︑慶安一︑明暦三︑寛文四︑五︑六︑七︑九︑十︑十一︑十二︑
延宝一︑二︑三︑四︑五︑六︑七︑八︑天和一︑三︑貞享四︑元禄
一︑二︑三︑四︑六︑宝永三︑六︑正徳一︑三︑四︑五︑享保一︑
︱︱‑︑四の三十七を数えるが︑このうち零の年が十八あり︑実数のあ
る年が十九である︒零の年は長崎からの上納がないという意味で︑
享保二年は書目では零であるのに聖堂文書では一になっているか ら︑零が一致することも重要である︒残り四十七年は数が一致せぬ
︱︱
一の
もの
五︑残り二十五が四以上の差があり︑大きい差を見せるのは享保七 年が書目九に対して聖堂文書三十八で二十九の差︑寛永十五年以前 で書目が七百三十七に対して聖堂文書八百三︑差六十六︑寛永十六 年は書目百十に対して聖堂文書九十二︑差十八︑享保八年は書目に は記録がなくて聖堂文書には三十一の数がみえる︒この誤差は多く の場合聖堂文書の記録の方の数が多くて害目の方が少ない形であら われている︒このような情況を考えてみると︑まず両者の数の一致
するものが四四劣強あり︑誤差︱︱一以内を加えると約六割になる︒こ
のことから︑両者が同じ物について記述していると考えてもよいの ではないだろうか︒即ち︑御文庫害目に記録されている書籍の名前 は︑聖堂文書にみえる部数の内わけをしめしているのであって︑両
者は同質の資料であり︑部数の差は︑主として書目の記載洩れに起 が︑その内両者の誤差が一であるもの八︑二のもの十︑
因すると思っ゜
数の不一致の大きいものが初期と末期にあらわれる︒寛永十五年
以前の分については書目の方が六十六少ないが︑寛永十六年分につ
いては書目の方が二十八多い︒書目の方が多い例ではこの年が群を
抜いているが︑恐らく十五年以前の分と十六年の分とが必ずしも分
別がはっきりしていないため︑両方が混じているのではないだろう
か︒また末期の方では享保五年に十三︑六年に十︑七年に二十九︑
八年に三十一の差があって聖堂文書の記録の方が多いが︑享保五年
以後先述のような変化がおこったため︑御文庫目録の記録が必ずし
も従前程確実になされていないのであろうか︒理由は必ずしも明ら
かにできたとは思わないが︑この誤差は両者が同一のものを記して
いるとの考えをさまたげるものではない︒従って私は︑この聖堂文
書の出現によって︑﹁御文庫目録﹂は長崎の書物改役向井氏から御
文庫御用として上納した漢籍の目録であり︑向井氏の記録にもとず
いて作成されたものと推定したいのである︒それは︑欠丁の註記が
ままあること︑更に︑文武紆籍には﹁湿﹂の註があることが傍証に
なる︒又︑政所綴︵本︶︑春帳︑新帳などの諸帳と比較している所
から︑単一の記録のみによったのではないことも想像出来る︒その
結果︑私が先に設定していた仮設︑即ち︑享保五年に新しく目録が
作成されたので︑旧書目が廃棄されたが︑その書物にもとずいて何
人かが編纂したとの考え方は改めねばならない︒従ってこの書目が
何故寛永十六年に始まるかという理由を向井元升が書物改に加わっ た為という向井氏を中心にした解釈を終止貫ぬき︑書目は長崎で作成されたと考えようとするのである︒私見を含めて従来の考えは御文庫目録という題にひかれすぎていたと思う︒それでは︑何故この書目が享保七年で終っているのであろうか︒享保七年という年にこだわることは必ずしも正しいことでないかも知れない︒というのは聖堂文書には享保八年の記事があるからである︒従って︑享保七︑八年の頃という莫然とした表現にした方がよいかも知れない︒
この時期は︑先にふれた享保五年の吉宗の輸入制限緩和直後でそ
の影響があることは申すまでもない︒それは同時に御用書の注文が
急増し始める時期でもある︒前節に述べた様な︑書目作成に対して
色色注文を出した吉宗の態度でも彼の書籍に対する並並ならぬ関心
を物語るものと受取れるが︑享保五年にいたる間の御書物方留帳の
書籍の出納の記録は︑彼がいかに多くの書籍を実際に見︑或いは政
務をとる場合に︑幕閣において参照していたかを物語っている︒そ
して頻繁な文庫の利用は︑文庫の蔵書の限界を知ることにもなり︑
新規に収書を目指して注文を出すことになったのであろう︒
近藤正斎はその好書故事巻四十二︑撰集二十二︑暦法上の項で
享保五年庚子正月天文暦数ノコト御穿盤二依テ西洋天︵文︶書ノ
禁ヲ弛ラル
と記し︑その証として長崎御書付留の中の﹁五年正月長崎奉行江被
仰渡候御書付﹂をあげ︑
唐船持渡候書籍ノ内邪宗門ノ儀聯モ書載候書物ハ貞享二年以来一
一八
東北
大学
狩野
文庫
架蔵
の御
文庫
目録
︵大
庭︶
上正月被仰渡候以上
五月
十︱
︱
‑ H
日下部丹波守殿
とある︒加納遠江守は久通︑側衆︑石川土佐守は政郷︑日下部丹波 守は博貞で共に長崎奉行︑在府の土佐守から長崎在勤の丹波守へ連 絡があったわけである︒近藤正斎は長崎在勤中にこの長崎御書付留 を見たのであろうか︒大清会典が享保六年に︑定例成案︑定例成案
合鍋などが享保七︑八年に渡来し︑或いは享保八年に御批資治通鑑 九︑書籍八︑採訪の項には
石川土佐守印
切停止之事二候へ共︑向後ハ右法儀二可用類ノ文句等ハ弥停止可 致候︑噂迄ニテ不障文句書入候分ハ御用物ハ勿論︑世間へ売買為 致候テモ不苦候︑尤吟味之節随分入念︑紛敷無之様可致︵候︶以 という申し渡しの文を引いている︒そして同じ好書故事巻五十八︑
享保五子年五月清会典御重宝二成二依テ唐土へ珍書ヲ捜訪セラル とあって︑ここでも長崎御書付留をひき 以別紙申入候定例成案大消会典等之御用之御書物御好に而︑被仰 付持渡候書物之分は商売高を外に申付代銀に而相渡可申候︒此段 御自分江可申遣旨︑加納遠江守殿被仰渡候間︑可被奉得其意候︑
尤商売物に持渡候内御用物に成候書物者︑前々之通可被申付候︒
大清会典は珍敷書物に而殊之外御重宝に相成候間︑重而もケ様成 珍敷書物持渡侯様︑唐人共江申付侯様に是又可申遣旨︑遠江守殿
一九
綱目︑大清律輯注などが紅葉山文庫に収納せられる事情は拙著に考
⑮
証した通りであるし︑また吉宗が方志の蒐集を始めた関係から府県 志の持渡り数が増え︑新渡の方志が享保七年頃から急激に増加する
⑭
ことも拙著に表示した通りである︒﹁商舶載来書目﹂にみえる新渡 書籍名を年別に表示すると第二表のようになる︒
この表は︑新渡の書籍数であって︑その年に持渡った書物の総量 ではないことを念の為に申し添える︒だから︑零とあっても︑その 年には従来持って来たことのない書物は新しく一冊も来なかったけ れども︑書物は渡来しているのである︒そうすると︑正徳︱︱一年から 享保の初にかけて低調であった新渡書籍が六年から増加し始め︑八 年には二百四十三︑十年には百九十五︑十一年には三百七で最高を しめし︑十二年にも百七十という数をみせている︒この数は享保五 年の正月の西洋天文書の弛禁︑五月の珍書持渡の奨励がいかに効を 奏したかを示す資料だといえるであろう︒なおこの表に関し附け加 えると︑宝暦四年の二百五十一の年に戌番外船大意害の資料が残っ ているし︑宝暦十三年の八十六の年には古今図書集成︑皇明実録を 持って来た辰壱番船の積荷が入っていて︑同船の商売書目録並大意 書があり︑天明三年の二百二十七の年には寅十番船の書籍が含まれ
⑮
ており︑その目録写が残っている︒つまり︑現在大意書その他の資 料が保存されている船は︑何らかの意味で︑例えば珍らしい書籍が 多かったとか︑書籍の総量が多かったとかいうような意味で話題に なった船ではなかったかという仮設︑更にはその船頭は書籍を得意
第 二 表
商舶載来害目所見 新 渡 書 籍 名 年 別 麦
ク 正 V
v
V V V V 宝 V V ~~ ~ ~ ~ ~ ~ ~
元禄銀 永 年 代
2 1 7 6 5 4 3 2 1 1 6 1 5 1 4 1 3 1 2 1 1 1 0 9 8 7 6 9 8 1 3 3 7 1 1 4 4 0 2 7 2 4 3 1 1 3 1 6 5 1 4 9 5 9 6 0 1 4 1 9 4 0 1 4 8 2 3 7 2 5
商 舶1 9
゜ 8 ゜ 6 6 6 6
゜ 2 6 7 8 3 6 5 2 , , 6
聖堂文書8 ゜ 5 ゜ 3 4 6 3 8 6 4 2 6 , 5 3 8 7 5 7
御 文 庫V V V V V V V V V V V V V V V V 享予
ク
V V1 7 1 6 1 5 1 4 1 3 1 2 1 1 1 0 9 8 7 6 5 4 3 2 5 4 3 6 2 8 4 1 5 6 5 8 1 7 0 3 0 7 1 9 5 2 9 2 4 3 6 5 6 7 2 0 4 9 4 2 7 1
゜ 8 2 3
3 1 3 8 1 5 1 7
゜゜ 1 ゜゜゜゜
8 5 3
゜゜゜゜゜゜゜
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ー 2ク
3ク
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5 ク4
二
05
3 5 2 6 3 4 2 0 9 0 8 4 3 8 3 1 5 5 1 2 3 3 ゜
﹁商舶﹂は商舶載来書目︑﹁聖堂文書﹂は聖堂文書中の御文庫目録︑﹁御文庫﹂は狩野文庫御文庫目録の略称︒•
天 和•
❖" •
ケ•
ケ 延宝•
❖ ❖•
❖ ❖• •
ケ• •
寛文 ❖•
万治•
ケ 明暦•
❖ 承応 ❖• •
慶 安•
ケ ❖ 正保• •
ケ•
寛永 寛永2 1 8 7 6 5 4 3 2 1 1 2 1 1 1 0 , 8 7 6 5 4 3 2 1 3 2 1 3 2 1 3 2 1 4 3 2 1 4 3 2 1 2 0 1 9 1 8 1 7 1 6 1 5
以前3 1 3 3 3 2 2 6 8 7 3 51 1 0 5 4 5 2 3 2 9
し1 1 1 1 1 1 3
ろ1 1 1 1 1 4 1 6 1 2 1 5 6 6 2
I1 0 5 7 8 1 1 2 2 7
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□
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や1 2 1 1 2 1 1 2 2 4 2 2 ,
ま1 1 2 2 1 5 3 2 2 2 1 1 3 1 5 6 3 1 2 1 3 7 4 4 2 2 2 4
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ふ1 1 1 2 2
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3 3 6 7 4 1 4 1 5 2 6 1 5 3 2 1 2 , 1 0 8 4
I1 3 3
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せ1 1 1 1 3 1 2 3 1 1
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型堂文,,,計表 第
御文庫目録聖堂文書年別比較表
~ ~
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゜゜ 1 ゜ ゜ ゜゜ 1 9 ゜ 8 ゜ 6 6 6 6 ゜ 2 6 7 8 3 6 5 2 , , 6 1 7 1 8 ゜ 2 6 5 7 1 8 1 3 1 0
‑ . ‑ .
東北大学狩野文庫架蔵の御文庫目録︵大庭︶ ⑯ とする特定の船頭ではなかったかという仮設はこういう数量を見ると現実感が生じるであろう︒但し︑元禄七︑八年の二百三十七︑百四十八は必ずしも新渡とはいえない︒元禄六年から大意書が始まったとすれば︑それ以前に渡来したものでもこのあたりでは新渡扱いになっている可能性があるからである︒また︑享保八年︑十︑十一︑十二年頃の多量の書籍に関しては一艘や二艘の積荷ではなく︑船頭達が争って御用目当てに書籍を積んで来たものと思う︒
さて本題に立ち戻って︑今述べたように享保五年を境として吉宗
の積極的な蒐書方針が実行され始めると御用書も増加し︑特に方志
類の蒐集ということになると莫大な数に及んだであろう︒別に資料
として紹介した聖堂文書
0
四01
九の賦役県志目録は︑省別にした
県志の目録で︑書名によって享保十一年現在のものと思われるが︑
このような整理が必要である程量が多くて複雑であったのだろう︒
当時の書物改役は︑書物を調べることに追われるせいでもあろ
う︑また︑吉宗の方が至急に書物の到着を要求していたのかも知れ
ないが︑渡来したまま︑御用物としての整備をせずに江戸へ送った
ようである︒寛政十一年に松平伊豆守から長崎奉行へ下げ渡された
林大学頭信篤の書簡の中に﹁享保宝暦之頃又者其以前調進相成候御
書籍︑当時御文庫に御座候内︑至而磨滅多︑落丁等も余程御座候御
品に是迄度々拝見も仕候儀に御座候﹂とあって︑だから念を入れて
⑰ 調進に時間をとる必要はないとの意見を述べているのが逆に証拠と
なる︒このような︑御用書の急増と迅速な処理の要求が︑記録の途 絶える原因になったのではあるまいか︒
また︑享保十一年には向井元成が隠居を許され︑養子文平元欽が
つぐが︑元欽はほどなく十八オで死に︑元欽が歿するに先立って養
子とした京都の向井元桂の子兼般字元仲が書物改役をつぐことにな
⑯ る︒そういう担当者の交代があったこともまた︑このあたりで記録
もっとも︑御文庫書目が享保七年で終り︑聖堂文書中の記録が享
保八年で終って︑その間に一年の差があることや︑享保五年以降に
数量の差が増えていることは別の御文庫目録で︑八年まで記録した
ものがある可能性も存する︒ただ︑今はこの程度以上に推測を加え
静嘉堂文庫の御文庫目録
最初にのべたように︑この書目については長沢規矩也氏と青木正
児氏とがふれて居られるが︑長沢氏は静嘉堂文庫の御文庫目録を用
い︑青木氏は狩野文庫の御文庫目録を用いて居られる︒勿論内容は
同じもので︑静嘉堂文庫の方が古い写本である︒相互に文字の異
同︑書名の脱落があり︑脱落の数は狩野文庫本の方が少し多い︒ま
た︑﹁め﹂の部に狩野文庫本に錯雑がある︒書写の際に生じた誤ま
りである︒その校訂は後掲の醜刻の部分で注記してしめすことと
し︑ここでは述べない︒余り基本的な異同はないからである︒
そこで︑静嘉堂文庫本がどういうものかということについて多少
四
るべき材料はないのである︒ が途絶える一因となったのであろう︒麿の蔵書であったことがわかる︒ の考えを述べて置きたい3この目録は縦二十三センチメートル︑横
十六センチメートル︑同文庫の丸山季夫氏の教示によれば︑文庫に
収められた経路は不明であるが︑文庫で早い時代に使った表紙によ
って改装されているので︑恐らく明治時代か大正の初に収蔵された
ものであろうという︒各冊の初には下から﹁江戸医宦﹂喜多村氏﹂
図書信印﹂の四字︱︱一行の長方印と︑﹁青山﹂堂印﹂の二字二行の方
印とが捺されている︒
江戸医宦喜多村氏図書信印とあるのは︑儒医喜多村拷窓の蔵書印
と思
われ
る︒
青山堂印とあるのは青山堂杷枇麿の蔵書印と思われる︒喜多村氏
の印が下にあるから︑青山堂が喜多村氏から譲り受けたものであろ
うか
青山堂とは︑江戸小石川伝通院前にあった書買雁金屋消吉のこと ︒
で︑青山氏︑名は消︑平々山人︑枇杷麿などと号し︑狂歌・狂文を
以て蜀山人︑山東京伝などと交友があり︑青山文庫を設けて所蔵の
⑲ 珍書類を同好者に閲覧させたといわれる︒青山堂の蔵書印は︑この
ほかに﹁東都礫川青山堂文庫﹂︑巻物形に﹁青山居士千巻文庫﹂︑
﹁万巻書楼千巻文庫青山堂記﹂︑﹁青山文庫﹂︑﹁青山﹂などが記録さ
⑲ れている︒国立国会図書館所蔵の﹁商舶載来書目﹂には各冊題策の
下に巻子本を開いた形の﹁青山居士千巻文庫﹂の印があり︑凡例の
向井富の署名の下に﹁青山居士﹂朱印があって︑これも青山堂枇杷 そこで︑静嘉堂文庫の﹁御文庫目録﹂も︑﹁商舶載来書目﹂も共に青山堂に架蔵されていたことが明らかになってみると相当色色な推測ができるようになる︒枇杷麿は天保九年七月廿八日に六十六才で死んだというから安永二年の生まれ︑交遊があったという蜀山人大田南畝とは二十五オの違いがあるが︑青山堂が所謂文化文政時代の江戸の文人の集まる場所の︱つであったことは考えられる︒その文庫にこの二つの目録が架蔵されていたことは︑彼等の間の関心が唐船持渡書にあったこと︑特に︑現実の関心から遡って︑持渡書の歴史的系譜に及んでいたことをしめすと言ってよいであろう︒
﹁商舶載来書目﹂は先にものべた様に︑当時の書物改役であった
向井富が﹁家蔵の旧記に拠って輯録﹂したもので︑文化元年秋八月
の日附の凡例がある︒大田南畝は同年七月に江戸を発して長崎へ向
い︑九月十日に長崎に着き︑翌年十月十日勤務を終えて十一月十九
日に江戸へ帰遠した︒時期からいえば︑大田南畝が﹁商舶載来書
目﹂を江戸へもたらすことは充分あり得ることである︒そしてその
写本か或いは再転写本が青山堂に蔵されることも考え得るし︑青山
堂が本来の書買雁金屋清吉として別の筋から入手することもあり得
﹁御文庫目録﹂は︑青山堂より前に医学館の喜多村氏が持
っていたと見るべきであろうが︑医学館は学問所と並んで持渡書籍
⑪ を優先的に注文できた︒自然長崎とのつながりも深かった筈であ
る︒従って向井氏の旧記にもとづく御文庫御用の書目を入手する可
一 方
︑
よう
︒
東北大学狩野文庫架蔵の御文庫目録︵大庭︶
⑦ 大 庭
⑥ 渡 辺 庫 輔
昭和
⑤ 大 庭
五月
︒
④ 宵 木 正児
七月
︒
③ 同 江
戸時代に於ける支那小説流行の一斑昭和八年
1 0
月 ︒
R
京本通俗小説と消平山営私は今日︑唐船持渡書の研究に極めて有用な﹁商舶載来書目﹂と ﹁御文庫目録﹂とが共に青山文庫の旧蔵であった事を思うにつけて
昭和四二年三
月刊
︒
元禄元年の居本目録
内閣文庫の購来苔籍目録
年三
月︒
長沢規矩也
二九年四月︒ 東洋学報一七の二
﹁御文庫目録﹂中の支那戯曲
去来とその一族
前掲密一ー五頁︒
関西大
学東西学術研究
昭和四二年︱二月
書誌学一の四
書誌学八の五
前掲書三五頁及び一ー五頁︒行木正児全集
﹁
向井去来﹄所収 昭和四三昭和三年昭和一
ー一
年
第八冊所収︒
去来顕彰会刊
号 昭 和 四
五年三月刊︒
同 禁 杏 に 関 す る
ニ
・
三の資料ー長崎聖堂文書研究の一ー史泉四〇
固東西学術研究所紀要第一輯 同史泉ーニ五・三六合併号
所
① 大 庭 脩 江
戸時代における阻船持渡密の研究
註
も︑枇杷麿の功を高く評価したい気がするのである ︒ 能性は充分あると考えてよい︒
的研究﹂ 大日本近世史料
前掲苔︱一九頁
前掲書ー一五
頁︒
前掲書三五頁︒
一三
一
ー 一
︳
︱ ‑
三頁
︒
第一1
一 章
前掲書五四頁︒
日本蔵杏印考︒
長崎会所
五冊物
硲府杏物方日記二︒
史泉四
0
号昭和四五年三月︒古今図苔集成
ニー五ーニニ四頁及び表第二
ニニ四ーニニ五頁︒
史料編第四九八頁︒
本稽は昭和四四年度文部省科学研究費助成研究﹁日中学術用語交流の史
︵代表者関西大学教授増田渉︶の研究成果の一部であろ︒ ⑪ 長崎県史
⑳ ⑲
小録則秋 疫長以来害買集覧︒
⑱ 渡 辺 庫 輔 前 掲
︒
⑰ 大 庭
⑯ 大 庭
⑮ 大 庭
鷹持渡書の資料及び資料編参照︒
前掲書二二六—11二八頁。 前掲杏 志持渡年別省別表
⑭ 表 第 一 地 方 志 持 渡 年 地 域 別 表
地方 の持渡 ⑬大
庭 前 掲 書 第 四 章 御 用 雹 に 関 す る 考 察 第 二 節
⑫ 大 庭
⑪ 大 庭
⑩ 大 庭 脩 禁 書 に 関 す る
二三の資料 註釈害の注文について︒
⑨ 大 庭
第 四 章 御 用 苔 に 関 す る 考 察 第 一 節 大 明 律
⑧
音眈資治通鑑 印章
寛永十七庚辰年
医宗粋言十本
夷便
陰隙録
1一 本
正保三丙戌年 医書十二種廿二本医癌會解六本
郁離
子一
一本
医學槃函夷堅志
医史四本
医書十六種医涯
類生
徽論
︱︱
一本
医學蒐精医説六本掌藉州仔全集三本 韻學大成医方捷癌医経大旨医統正詠 医林統要医學正博十本
︵コ
レヨ
リ承
応元
年一
行目
迄二
十二
行︑
静本
脱︶
医方便儒
韻海全害八本
正保二乙酉年
医學登明十四本
医除園文集四本
医學指南八本 緯暑
医學入門
医約七本隠冗語録
隠秀軒集八本 医書難字
一竜
社草
御文庫目録 医継會元十本医方啓棠二部
寛永廿癸未年
一経三奇八本
正保元甲申年 臀林集要韻府群玉医學源流医學錐函十四本 医學綱目医學六要廿四本
一札
︱︱
一奇
八本
臀方選要医家赤織 韻譜本義韻會小補 医林縄盪 寛永十六己卯年 以
夷門廣讀
陰陽捷経
寛永十九壬午年
韻會小補1
一 部
陰符経演一本
韻學集成三十本
御 文 庫 目 録
寛永十八辛巳年
医便四本 印藪六本 胤産全書四本
ニ四
東北大学狩野文庫架蔵の御文庫目録︵大庭︶ 医學集成六本 明暦元乙未年
医要見證秘博一本 飲食宙二本医燈績焙八本 陰陽辮疑論二本逸民志十二本
元禄二己巳年
彙纂功過格十本 医門正宗六本 承應二癸巳年
医聖階梯四本頴園吟草一本 貞享元甲子年
医宗説約四本
貞享三丙寅年 音韻日月燈廿二本異林一本医學集覧廿二本 医學秘旨棠緊箪方六本 医術八本 医貫三本敢藉州集四本掌藉州集四本
文寛
︱︱
壬寅
年
一握坤輿四本 医説五本 承應元壬辰年 医畳元戎六本 印藪六本 維山玉太史集四本威聟録1
一 本
移情草三本 医案摘要一本 万治三庚子年
医経正宗八本
寛文元辛丑年 医學涼理六本 医経小學四本 慶安四辛卯年医方集宜五本音韻啓鍮六本 渭南文集十本彙苑詳註三十本医方考正二本
慶安元戊子年
伊洛淵源録二本
医學統書八本 為學須知四本
緯歿 医門法律一本 夷堅志十本 明暦三丁酉年医學全書三本
韻府績編大全十本
万治元戊戌年
万治二己亥年
二五
韻釈便覧五本
一覧
知兵
一一
本
隠秀軒評文集六本 印史六本 渭南集十六本
馬孟河扇帖
八仙停
医通四十本
享保五庚子年 御文庫目録 正保二乙直年
正保
一︱
︱丙
戌年
婁子柔集五本
承應元壬辰年 晒巷誌四本
延宝七己未年 御文庫目録
︵年
号ノ
`
s︶
馬孟河草書
博古図
博覧全書博古全雅
婆羅園清話 稗 海
寛永十八辛巳年 寛永廿癸未年
繁露釈経四本
方塘文梓
馬経
抱朴子八本 白眉故支十本
梅韻氏族八本 梅漢先生後集四本 法家須知二本
波 論存四本
萬治元戊戌年 論文別集四本
寛永十九壬午年
白沙先生文編六本 白叙拮 博物典彙
法帖
論衡十本
寛永十六己卯年 慶安四辛卯年
百川學海 法華私記
百家唐詩
路史十六本
百谷王故支 方暑稿要 八編
婁公士録 論學選粋 呂
酪水客談
白真人文集
博義正博奨川集
博文勝覧
八能奏錦 百代医宗 彰澤草 百将博
元禄十六癸未年
飽明遠集
百戦奇法
白虎通
二六
東北大学狩野文庫架蔵の御文庫目録︵大庭︶ 慶安元戊戌年
白花楼集六本 波仙大江東一本班氏奇篇七本マ ︑柏案驚奇八本 博物策會四本馬氏奇編七本 法華玄義五本
正保元甲申年
八代文映八本
白雲集二本
百一斉草二本
正保二乙酉年
正保三丙戌年
梅悪全金集十六本
苑文正公集八本
盤古誌博二本
苑香渓集一1一 本
茅鹿門文集十本
慶安三庚寅年
白雲楼詩集八本 博山別古一本
法華癌科註七本
博山阪正録一本
梅花百味一本
博山復問一本
八間通志廿四本
百家類纂三十八本
趙仁甫集六本
白楡集六本
白雲集四本
法蔵砕金九本 明暦元乙未年
0 0
白鹿洞志八本︵静本作白虎図志︶ 百家會編四本
承應三甲午年
百裔類函三本
明暦二丙申年
頴宮礼築疏八本
明暦三丁酉年
梅花什二本
坊記集縛二本 方廣巖志一本繋阿集五本 百丘陵學山十二本白氏長慶集十本白猿奇書十本
承應元壬辰年
方正學文集四本
百家名害百十九本
承應二癸巳年 方山先生文録六本梅雪争奇一本 慶安四辛卯年
二七
法因集一本
班馬異同八本 八科裡墨一本
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八宅造福周害二本︵静本作一︶
篭年録六本 稗存五本 百方家問答十二本方氏墨譜八本馬祖道一禅師録一本 白至媚集六本
博物知木五本 元禄六癸酒年 暴証知要一本
元禄五壬申年
法教侃珠二本 貞享四丁卯年 範家集各三本
マ ︑
寛文十一庚亥年日用通粛 法淋要録四本
万治元戊戌年
百子金丹十二本
百子類蘭二十本
寛文十庚戌年
馬経三本
延宝七己未年
方壷外史十本 仁 寛文元辛花年
白嘔庵外編四本 亨保七千寅年
鳳陽府志十二本 方便壽二本
宝永元甲申年
八行図説四本
正徳二壬辰年
侃文斉悩群芳譜四十本
御文印目録
二程全粛
二十九子文集
二十史全薔
二十家書
寛永廿癸未年
入学図説一本
正保元甲申年
日月燈廿本
正保二乙酉年 万治三庚子年享保六辛丑年 博古図十四本 百陵學
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十六
本
万治二已亥年 範術四本
珀文王公集六本
白沙先生全集十本 方輿勝咎外夷共八本元禄九丙子年
二十三綺編
二十一史輯要 二十一史
二経精解八本 日記故支 博古図十六本