アイダ・B ・ウェルズとニグロ・フェローシップ・
リーグから見る革新主義期シカゴの人種とジェンダ ー
著者 岡本 美貴
著者別名 OKAMOTO Miki
ページ 1‑53
発行年 2020‑03‑24
学位授与年月日 2020‑03‑24
学位名 修士(国際文化)
学位授与機関 法政大学 (Hosei University)
URL http://hdl.handle.net/10114/00023378
修士論文
指導教員 佐々木一惠教授
論文題名
アイダ・B・ウェルズと
ニグロ・フェローシップ・リーグから見る 革新主義期シカゴの人種とジェンダー
国際文化研究科国際文化専攻修士課程
岡本美貴
要旨
国際文化研究科国際文化専攻 岡本美貴
研究概要
2019年、アメリカ合衆国シカゴに位置するコングレス・パークウェイという通りが、ア
イダ・B・ウェルズ・ドライブに改名された。この通りの名前の由来となったアイダ・B・
ウェルズとは、19世紀末から20世紀初頭にかけての革新主義期のアメリカにおいて、反 リンチ活動家として知られ、公民権や女性参政権をはじめとする黒人の平等のために戦っ た黒人女性である。しかしウェルズが成し遂げた仕事はアメリカの公的記憶の中で長い間 忘れ去られていた。ウェルズは1895年に結婚と同時にシカゴに移り住み、黒人コミュニ ティにおけるセツルメント活動を展開した。しかしセツルメント活動は反リンチ活動のよ うに注目を集めず、晩年は人々の記憶から消えていき、1931年に亡くなった時には、地元 紙以外に死亡記事さえ掲載されなかった。
しかし近年、ウェルズと彼女の功績の記憶が人々の間で呼び起こされている。その背景に は、アメリカで頻発する黒人に対する白人警察による暴力事件や、トランプ政権下での社 会的分断状況がある。本研究は、アメリカにおけるウェルズに関する公的記憶の再構築の 動きの中に、反リンチ活動に加え、これまで注目されてこなかったセツルメント活動を位 置づけていく試みである。ウェルズのシカゴにおけるセツルメント活動を分析すること で、革新主義期シカゴにおける社会改革運動における人種とジェンダーの壁を明るみにし ていく。そしてそこからウェルズのセツルメント活動が彼女の反リンチ活動と密接に関わ っていたことを浮かび上がらせていく。
研究目的・研究意義
革新主義期に、白人中産階級女性を中心に推進されたセツルメント運動は「女性による 制度の形成」を土台とし、主に欧州からの移民女性を対象に展開した。しかしウェルズの セツルメント活動は異なり、主な対象は黒人男性であった。またウェルズ自身も、当時の 黒人中産階級女性の目指すべき女性としての「淑女」像には当てはまらない存在であっ た。ここから見えてくるのは、ウェルズと彼女が立ち上げ推進したセツルメント活動は、
当時の社会改革運動における人種とジェンダーが絡まる規範から逸脱するものであったと いうことである。これがウェルズのセツルメント活動が立ちいかなくなった要因と捉え、
本研究ではウェルズがセツルメント活動を行うに至った理由と背景、またウェルズのセツ ルメント活動が辿った経緯について検証する。
本研究の意義としては、これまで研究されてこなかった革新主義期シカゴにおける、ウ ェルズのセツルメント活動に焦点を当てることで、北部の白人を中心とする革新主義期の
社会改革運動と南部のジム・クロウ体制下の黒人差別と隔離の間に繋がりを見出せると考 える。
研究方法
本研究では、ウェルズのセツルメント活動にはウェルズの生い立ちや、信仰していた宗 教、ウェルズの友人が被害者となった南部でのリンチ事件、また南部でのジム・クロウ体 制が強く影響していると考え、これを検証するためにウェルズの日記資料を主に用いる。
本研究において一次史料として扱うウェルズの日記は、昨今エゴ・ドキュメントと呼ばれ る個人の語りとなっている。こうしたエゴ・ドキュメントを扱うことにより、公刊された 文書からは読み取れないウェルズの個人経験により迫ることを可能にする。
結論
ウェルズのセツルメント活動は、革新主義期の社会改革運動における、人種とジェンダ ーが絡まる規範から逸脱するものであった。革新主義期の北部のセツルメント活動では女 性のネットワークを基盤とする白人女性の活動が中心であった。しかしウェルズは黒人男 性を対象とし、彼らの社会的な立場を向上させ、それが黒人全体の社会的向上や人種に対 する忠誠心に繋がると考えた。その背景にはウェルズが南部で目の当たりにした黒人への 暴力があった。ウェルズがニグロ・フェローシップ・リーグを設立する契機となったの が、イリノイ州で起きた人種暴動事件であった。ウェルズにとって、南部の野蛮な現象と 考えていた黒人に対するリンチが北部で起きた衝撃は大きかった。彼女が南部で経験した 人種隔離とそれに基づく暴力が、北部にも広がっている現象に対応する一つの方法とし て、黒人男性を対象とするセツルメント活動を展開した。しかしこの形態をとったウェル ズのセツルメントは、資金難に苦しんだ。また黒人運動家としても、ブッカー・T・ワシ ントンのような適応主義を採らなかったウェルズは、白人富裕層の慈善家からの資金を獲 得することが難しかった。ここから浮かび上がるのは、革新主義期の北部の社会改革運動 において、黒人中産階級女性としてウェルズが置かれた人種とジェンダーの枠組みであ る。本論では、革新主義期シカゴにおける社会改革運動において、移民のアメリカ化と黒 人の人種隔離が人種とジェンダーに複雑に絡み合う形で進展したことを明るみにした。
目次
序論
第1節 研究概要 第2節 先行研究 第3節 研究背景
第4節 研究目的・研究意義 第5節 研究方法
第6節 構成
第1章 アイダ・B・ウェルズの半生 第1節 生い立ち
第2節 オハイオ・サウスウェスタン鉄道会社対ウェルズ裁判 第3節 ジャーナリストとしての始まり
第4節 「みんなの雑貨屋」リンチ事件 第1項 事件の発生
第2項 事件の影響 第5節 反リンチ活動 第6節 結婚
第1項 フェルディナンド・L・バーネット 第2項 シカゴにおけるバーネット夫妻 小括
第2章 革新主義期のシカゴ黒人コミュニティとセツルメント 第1節 黒人ゲトー・サウスサイド
第1項 サウスサイドの形成 第2項 階層別黒人コミュニティ
第2節 シカゴの黒人中産階級コミュニティ 第1項 黒人女性クラブ
第3節 教会
第1項 シカゴにおける黒人教会 第4節 シカゴのセツルメント活動
第1項 セツルメントハウス
第2項 フレデリック・ダグラス・センター 小括
第3章 ニグロ・フェローシップ・リーグ 第1節 ニグロ・フェローシップ・リーグの設立
第1項 設立の契機 第1項 特徴 第2節 資金 第3節 活動内容
第4節 シカゴにおける黒人運動との関係 第5節 衰退
小括
結論
第1節 本研究のまとめ 第2節 今後の課題
1 序論
第1節 研究概要
2019年2月、アメリカ合衆国シカゴのダウンタウンに位置するコングレス・パークウェ イ(Congress Parkway)という通りが、アイダ・B・ウェルズ・ドライブ(Ida B. Wells Drive)に改名された。この通りの名前の由来となったアイダ・B・ウェルズ(Ida B.
Wells)とは、19世紀末から20世紀初頭にかけての革新主義期のアメリカ合衆国において
活躍したジャーナリストであり活動家である。ウェルズは主に反リンチ活動家として知ら れ、公民権や女性参政権を始めとする黒人の平等のために戦った黒人女性である。2019年 2月11日、ジャーナリストや活動家、多数の住民が、シカゴ市で最初の黒人市長となった ハロルド・ワシントン(Harold Washington)に敬意を表して名付けたハロルド・ワシン トン図書館(Harold Washington Library)に集まった1。この通りの通称名変更計画を推 し進めた市会議員のソフィア・キング2(Sophia King)は、「(ウェルズの名前をシカゴの 街に取り戻すまで)ここまで時間がかかってしまい、ほろ苦い気持ちだが、ここまで来 た」と振り返った。そして、ウェルズは「権力に向かって真実を語りかけ、シカゴだけで なく世界の状況を変えた」人物であったと述べた3。しかし、キングが「ここまで時間がか かった」と述べているように、ウェルズが成し遂げた仕事は、アメリカの公的記憶の中で 長い間忘れ去られていた。ウェルズは1895年に結婚と同時にシカゴに移り住み、シカゴ の黒人コミュニティにおけるセツルメント活動などを積極的に展開した。それにも関わら ず、ウェルズのセツルメント活動は反リンチ活動のように注目を集めることは無く、晩年 は人々の記憶からも次第に消えていき、1931年に亡くなった時には地元紙以外に死亡記事 さえ掲載されることがなかった。
そのウェルズと彼女の功績の記憶が、近年、人々の間で呼び起こされるようになってい る。例えばニューヨーク・タイムズ紙では2018年に「見過ごされてきた(Overlooked)」4 人々シリーズにおいて、ウェルズの記事が掲載された5。そこでウェルズは「リンチに関し て記事を書きながらもディープサウス(アメリカ最南部)で人種差別を受けた人物」と紹
1“With Congress Parkway now renamed Ida B. Wells Drive, Chicago has its first major street named for a black woman,”Chicago Tribune, Feb 11, 2019.
2 ソフィア・キングとはシカゴ市第4区の市会議員である。彼女が設立した組織、ハリエ
ッツ・ドーターズ(Harriet’s Daughters)は黒人コミュニティの雇用と富を増やすこと を目的とし、格差に焦点を当てながら活動を展開している。“Sophia Dorsey King,”
Alderman 4th Ward Sophia King,
https://www.friendsofsophiaking.com/content/sophia-dorsey-king. 最終アクセス日 2019年11月7日。
3 Ibid.
4 1851年からニューヨーク・タイムズ紙の死亡記事は、白人男性に偏っていたことを受
け、当時掲載できなかった注目すべき人物を掲載するシリーズ。
5“Ida B. Wells: Took on racism in the Deep South with powerful reporting on lynchings,”The New York Times, Mar 9, 2018.
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介された。さらに2018年7月には、アイダ・B・ウェルズ・メモリアル・ファウンデーシ ョン(Ida B. Wells Memorial Foundation)という組織による、ウェルズのモニュメント 建設計画も持ち上がった6。この計画には、900人以上の人々が寄付を表明し、3つの機関 が建設費30万ドルの内、16%を寄付することに賛同した7。
では、なぜ近年になって、ウェルズに対する関心が高まったのだろうか。一つには、昨 今の白人警官による黒人殺害事件が影響しているだろう。2014年7月17日にアメリカ合 衆国ニューヨーク市スタテンアイランドにおいて発生したエリック・ガーナー窒息死事件
(Death of Eric Garner)では、白人警官が逮捕にあたって、被逮捕者であるエリック・
ガーナーを死亡させた8。白人警官ダニエル・パンタレオ(Daniel Pantaleo)は、路上で 違法な煙草を販売していたガーナーを逮捕する際、ニューヨーク市警察では禁止されてい るチョークホールドという締め技をかけて倒し、他の警官と共に地面に押さえつけた。ガ ーナーは「息ができない」と何度も叫んだが、警察官らは押さえ続け、その後、彼は動か なくなり、一時間後に死亡が確認された。また、2014年8月9日にミズーリ州ファガーソ ンにて発生したマイケル・ブラウン射殺事件(Shooting of Michael Brown)では、当時 18歳だったマイケル・ブラウンが白人警官によって射殺された9。友人と路上を歩いてい たブラウンは、白人警官ダレン・ウィルソン(Darren Wilson)と言い合いになり、丸腰 であったのにも関わらず射殺された。さらに、2014年10月20日にイリノイ州シカゴにて 発生したラクアン・マクドナルド射殺事件(Murder of Laquan McDonald)では、白人警 官によって、当時17歳だったラクアン・マクドナルドが射殺された10。ナイフを手にして 路上を歩いていたところ、警官に呼び止められ、ナイフを手放すよう言われたが、彼は応 じず、後から到着した白人警官ジェイソン・バンダイク(Jason Van Dyke)に16発も撃 たれた。これらの白人警官による無実の黒人射殺という人種間の暴力事件は大きな社会問 題となったが、依然としてこのような事件は発生している。
こうした白人警官による黒人殺害事件に加えて、アメリカ合衆国の大統領にドナルド・
トランプ(Donald Trump)が就任した2017年以降は、人種間対立は深まる一方である。
アメリカ黒人史研究者の藤永康政も以下のように指摘している。
6“Ida B. Wells was a legend. $300,000 has been pledged for a monument honoring her,”The Washington Post, Jul 18, 2018.
7 “Ida B. Wells Monument,” Ida B. Wells Monument Fund,
http://idabwellsmonument.org/newsite4/contact/. 最終アクセス日2019年10月21 日。
8“I can’t breathe’: 5 Years After Eric Garner’s Death, an Officer Faces Trial,”The New York Times, May 12, 2019.
9“What Happened in Ferguson?,”The New York Times, Aug 13, 2014.
10“Minute by minute: How Jason Van Dyke shot Laquan McDonald,”Chicago Tribune, Jan 18, 2019.
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公民権運動後のアメリカでは、人種的・民族的・ジェンダー的・信教的な偏 見や不寛容さは「不名誉なもの」になった。しかし、昨年(2016年)の選挙 戦が終わってみると、黒人、移民、ムスリム、女性に対する侮辱的な発言 が、公共の空間に戻って来たのだ11。
トランプ大統領は、自己の政治的利益のために人種間対立を利用していると言われるよう に、例えば移民から人間性を奪い取る移民規制を強行し、世論を二分させ、人種間対立を 煽っている12。
このように人種間対立が深刻化するアメリカ合衆国において、ほぼ一世紀前に人種平等 を唱え活動を展開したアイダ・B・ウェルズがアメリカ合衆国の歴史記憶の中で蘇ってき ている。確かに、ウェルズへの関心は主に反リンチ活動家としての側面に注がれている。
しかし、上述したようにウェルズは革新主義期のシカゴにおいてセツルメント活動を熱心 に展開していた。本研究は、アメリカにおけるウェルズに関する公的記憶の再構築の動き の中に、反リンチ活動に加え、これまで注目されてこなかったセツルメント活動を位置づ けていく試みである。ウェルズのシカゴにおけるセツルメント活動を分析することで、革 新主義期13シカゴにおける社会改革運動における人種とジェンダーの壁を明るみにしてい く。そしてそこから、ウェルズのセツルメント活動が彼女の反リンチ活動と密接に関わっ ていたことを浮かび上がらせていく。
第2節 先行研究
本研究で取り上げるアイダ・B・ウェルズに関する研究は、1990年代頃から増え始め る。その背景には、黒人女性史研究の興隆がある。1980年代に入ると、ポーラ・ギディン グズによるWhen and Where I Enter14など、黒人女性史を包括的にまとめた研究が出始め る15。
11 藤永康政「オバマの時代-ポスト人種の功罪とトランプ政権の誕生-」『歴史評論』811
巻(2017年11月)86頁。
12“America’s Racial legacy front and center in 2020 election campaign, ”The Japan Times, Aug 4, 2019, “’A blowtorch to the tinder’: Stocking racial tensions is feature of Trump’s presidency,”The Washington Post, Jun 21, 2018.
13 1890年代から1920年代にかけてアメリカ合衆国において社会と政治の分野で改革が進
んだ時代を指す。
14 Paula Giddings, When and Where I Enter(New York: William Morrow & Company, 1984).
15 1980年代の黒人女性史は以下を参照。Dorothy Sterling, We Are Your Sisters: Black Women in the Nineteenth Century (New York: W. W. Norton & Company, 1984),
Jacqueline Jones, Labor of Love, Labor of Sorrow: Black Women, Work and the Family from Slavery to the Present (New York: Basic Books, 1985), Dorothy
Sterling, Black Foremothers: Three Lives, Second Edition (New York: The Feminist Press, 1988).
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こうしたアメリカでの研究と連動する形で、日本において1990年代にアイダ・B・ウェ ルズ研究を行ったのが、岩本裕子と落合明子である。岩本は、黒人史という枠組みではな く、黒人女性史の枠組みの中でウェルズがどのように位置づけられ、同時代の黒人女性に どのような影響を与えたのかについて検討した16。また岩本は、ウェルズと同じ黒人女性 だが、対照的な人生を歩んだ女性との比較を行った17。自由黒人の両親の元に生まれ育っ たファニー・B・ウィリアムズ(Fannie B. Williams)と元奴隷を両親に持つウェルズを 比較することで、異なる生活環境が、後の二人の活動の目的に強く影響している点を指摘 した。これらの研究から、岩本はウェルズを、女性としての側面よりも人種としての側面 を重視した、反リンチ活動家として捉えていることが見えてくる。そのため、岩本の研究 ではシカゴに移住する前のウェルズに焦点を置く傾向にある。
岩本と同様、落合も反リンチ活動家としてのウェルズの意義を考察している18。落合 は、ウェルズが女性参政権運動やセツルメント活動でも活躍した点に触れているが、それ らに関して論文の中では議論されていない。さらに2000年代に入ってからは、宮津多美 子が、反リンチ活動家として知られているウェルズの活動を女性クラブ運動と結びつけ、
ウェルズと同様に元奴隷を両親に持つメアリ・C・テレル(Mary C Terrell)との比較を 行った19。ウェルズは、黒人女性クラブ運動の幕開けを担ったが、その後の黒人女性クラ ブの活動には貢献しなかったとしている。一方テレルは、全国黒人女性協会(The National Association of Colored Women)の初代会長として黒人女性の理想であり、規 範となったと論じている。結論においても、二人が果たした役割は全く異なっていたと し、ウェルズの白人批判を繰り返す発言は、黒人女性クラブの活動の方向性とは異なった としている。
国内におけるウェルズの研究には、いくつかの共通点が挙げられる。1つ目はウェルズ を反リンチ活動家として見なしているという点であり、2つ目はシカゴへの移住のきっか けとなる1895年の結婚以降には触れない、もしくは1895年以降の出来事に触れたとして も、セツルメント活動に関しては触れないという点である。反リンチ活動家としての独身 期のウェルズは、多くの人々の注目を集め、華々しく活躍していた。一方、結婚後に行っ
16 岩本裕子「反リンチ運動家アイダ・B・ウェルズ」『史苑』51巻1号(1991年)、24-42 頁。
17 岩本裕子「シカゴ万博(一八九三)と黒人女性 : アイダ・B・ウェルズとファニー・B・
ウィリアムズの場合(橡川一朗先生退職記念号)」『駒澤史学』45号(1993年)、143-166 頁。
18 落合明子「アイダ・B・ウェルズと世紀転換期における反リンチ運動の展開―特にアジ
テーターとしての地位を確立する初期の活動を中心にー」『史境』23号(1991年)、1-18 頁。落合明子「アイダ・B・ウェルズと世紀転換期における反リンチ運動の展開―後期の 活動とグループ・ポリティクスの成立を中心に―」『史境』27号(1993年)、14-28頁。
19 宮津多美子「19-20世紀転換期における黒人女性クラブ運動 : アイダ・B・ウェルズと
メアリ・チャーチ・テレルを中心に」『津田塾大学言語文化研究所報』30号(2015年)、 8-17頁。
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ていたセツルメント活動は、人々の注目を集めなかったことから、シカゴ移住以前の反リ ンチ活動家としてのウェルズにこれまでの先行研究では焦点が当てられてきた。
ウェルズのシカゴへ移住後の活動の研究については、国内ではまだ出されていない。国 外においては、研究としては存在しているが、評伝が中心である。近年のウェルズの評伝 としてはポーラ・ギディングズとパトリシア・シェクター、クリスティナ・ドローチャー のものが挙げられる20。黒人女性史を包括的にまとめたWhen and Where I Enter21の著者で あるギディングズによる評伝は、主にウェルズの反リンチ活動に焦点を当て、その歴史的 文脈を詳細に述べている。シェクターによる評伝は、ウェルズの名声がなぜ衰退したのか を検証する内容となっている。また後半部分では、ウェルズのシカゴにおけるセツルメン ト活動、女性クラブ、女性参戦権運動についても論じている。シェクターはウェルズの人 種が、どのように彼女の活動に影響を与え、また制約を課していたかという点を強調して いる。ドローチャーは、ウェルズの日記を用いながら、反リンチ活動だけではなく、女性 参政権運動、教育問題、住宅供給問題、セツルメント活動などウェルズの多岐に渡った活 動を概観している。
次に国外におけるウェルズに関する主要な論文を挙げる。まずホリー・ピッチは、ウェ ルズの人生とその業績を検証することで、歴史の生成、忘却と記憶の性質、アメリカ合衆 国の特徴的な時代の慣習に抵抗した黒人女性の力を明らかにしている22。またシモーヌ・
デイビスは、1890年代におけるウェルズが書いた反リンチ活動関連の小冊子に着目し、ウ ェルズ自身の声を検討することで、政治論の多様性という教訓を示した23。そしてトミ ー・カレーは、黒人新聞である『ニューヨーク・エイジ(The New York Age)』紙の編集
者であるT・トマス・フォーチュン(T. Thomas Fortune)とウェルズを取り上げ、彼の哲
学とウェルズの反リンチ活動に対するアジテーション哲学の効果を検証した24。さらにメ
20 Paula J. Giddings, IDA: A Sword Among Lions: Ida B. Wells and the Campaign Against Lynching (Amisted Press, 2008) ; Patricia A. Schechter, Ida B. Wells- Barnett & American Reform 1880-1930 (North Carolina: The University of North Carolina Press, 2001) ; Kristina DurRcher, Ida B. Wells: Social Reformer and Activist (London: Routledge, 2017).
21 ポーラ・ギディングズ(河地和子訳)『アメリカ黒人女性解放史』時事通信社、1989年
(Paula Giddings, When and Where I Enter, [New York: William Morrow & Company, 1984])
22 Hollie Pich, “Various, Beautiful, and Terrible: The Life and Legacy of Ida B.
Wells-Barnett,” in Australasian Journal of American Studies, vol. 34, no. 2 (December 2015), pp. 59-74.
23 Simone W. Davis, “The “Weak Race” and the Winchester: Political Voices in the Pamphlets of Ida B. Wells-Barnett,” in Legacy, vol. 12, no. 2 (1995), pp.
77-97.
24 Tommy J. Curry, “The Fortune of Wells: Ida B. Wells-Barnett’s Use of T.
Thomas Fortune’s Philosophy of Social Agitation as a Prolegomenon to Militant Civil Rights Activism,” in Transactions of the Charles S. Peirce Society: A
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ルバ・ボイドは、ミルドレッド・トンプソンによる評伝と、ウェルズ自身による選集、
1989年に公開されたドキュメンタリー映画『Ida B. Wells: A Passion For Justice』を 比較、検討した25。またポーラ・ギディングズは、忘れ去られ、失われたウェルズの活動 の成果に着目し、検証した26。
落合の英語論文では、黒人の自伝が、書かれた物語から発展したテスティモニアルの自 伝と口頭の物語から発展したブルースの自伝の2種類に分けられるとし、ウェルズの自伝 であるCrusade for Justiceが前者に振り分けられると仮定しつつ、 Crusade for
Justiceにはテスティモニアルの面ではなくコンフェッショナルな面があるという点につ
いて検証された27。
以上の通り、ウェルズに関する研究では、シカゴ時代のセツルメント活動に焦点をあて ているものは、管見の限りまだない。また反リンチ活動家としてのウェルズとセツルメン ト活動家としてのウェルズの関係性について議論したものも見当たらない。セツルメント 活動家という側面からウェルズを検証することによって、先行研究からは見えてこなかっ た、革新主義期シカゴにおける、ウェルズが直面した人種とジェンダーの問題の枠組み と、ウェルズにとっての反リンチ活動とセツルメント活動の関係が明らかになると考え る。
第3節 研究背景
本研究では、アイダ・B・ウェルズのセツルメント活動を通じて、革新主義期シカゴに おける人種とジェンダーの問題を検討していく。革新主義期とは、1890年代から1920年 代にかけてアメリカ合衆国において社会と政治の分野で改革が進んだ時代である。革新主 義運動の主な推進者は白人中産階級層であった。さらにアメリカ史研究者の中野耕太郎に
Quarterly Journal in American Philosophy, vol. 48, no. 4 (Fall 2012), pp. 456- 482.
25 Melba Joyce Boyd, “Canon Configuration for Ida B. Wells-Barnett,” in The Black Scholar, vol. 24, no. 1 (Winter 1994), pp. 8-13 ; Mildred I. Thompson, Ida B. Wells-Barnett: An Exploratory Study of An American Black Woman, 1893-1930 (Black Women in Unied States History) (USA: Carlson Pub, 1990) ; Ida B. Wells, The Selected Works of Ida B. Wells-Barnett, ed. Trudier Harris, (Oxford: The University of Oxford Press, 1991) ; William Greaves, Ida B. Wells: A Passion
(Public Broadcasting Service, 1989).
26 Paula J. Giddings, “Ida B. Wells, the NAACP, and the Historical Record,” in Meridians, vol. 1, no. 2, (Spring 2001), pp. 1-17.
27 Akiko Ochiai, “IDA B. WELLS AND HER CRUSADE FOR JUSTICE: An African American Woman’s Testimonial Autobiography,” in Soundings: An Interdisciplinary
Journal, vol. 75, no. 2/3 (Summer/Fall 1992), pp. 365-381.
7
よると、革新主義期はアメリカ化28という社会動向、さらにカラーライン、すなわち「20 世紀初頭に顕在化する人種分離-黒人とアジア系住民を社会的に隔離し、二級市民化する 展開-」が起こった時代であった29。そしてこの2つを両軸として、エスノ・レイシャル な国民秩序が形成され、制度化された時代でもあった30。
この時期の特色の一つとして、マックレーカーズと呼ばれた不正を追及し、文筆を通じ て社会改革を目指したジャーナリストの活躍が挙げられる31。しかし、黒人問題に関して マックレーカーズが正面から取り組むことは多くなかった。また、セツルメント活動も革 新主義運動の特色の一つである。セツルメント活動は中産階級の人々が都市の貧困地区に 移り住み、生活環境の改善を試みた社会改革運動である。代表的なセツルメントには、ジ ェーン・アダムズ(Jane Addams)のハル・ハウス(Hull House)がある。アダムズのよ うな革新主義期の中産階級女性による活動は「女性による制度の形成(Female
Institution Building)」という考えのもと、展開されていた32。そのため、北部における セツルメント活動は、中産階級の白人女性によって、白人移民を対象に行われることが多 かった。
南部における初めてのセツルメントハウスは、ニューオーリンズに1896年に、トリニ ティ教会のビバリー・ワーナー(Beverley Warner)牧師によって設立されたキングスリ ー・ハウス(Kingsley House)である33。また中西部の、黒人コミュニティに設立された 初期のセツルメントハウスとしては、インディアナのフラナー・ハウス(Flanner House)とスチュワード・ハウス(Steward House)が挙げられる34。シカゴにおいては、
ユニテリアンであるセリア・パーカー・ウーリー(Celia Parker Woolley)が、1904年に フレデリック・ダグラス・センター(Frederick Douglass Center)を設立している。第2 章にて詳細に述べるが、このセツルメントは白人の中産階級層と黒人の中産階級層の交流 を深めることを目的としたものであった35。黒人女性によって設立された初めてのセツル メントハウスは、バーモント州ハンプトンのローカスト・ストリート・セツルメント
28 移民の同化政策を指し、民間のNGOが主体となり、外国系移民に対し、英語プログラム
や市民教育を推進した。中野耕太郎『20世紀アメリカ国民秩序の形成』名古屋大学出版 会、2015年、10頁。
29 中野耕太郎『20世紀アメリカ国民秩序の形成』名古屋大学出版会、2015年、10頁。
30 同上書。
31 関西アメリカ史研究会『アメリカ革新主義史論』小川出版、1973年。
32 Estelle B. Freedman, Women’s/Feminist/Gender Studies in the U.S. -Personal Reflections on Forty Years of Academic Activism- 『公益財団法人東海ジェンダー研 究所小冊子③』(東海ジェンダー研究所, 2018), p. 10.
33 Rosemary Skinner Keller, Rosemary Radford Ruether, Marie Cantlon, Encyclopedia of Women and Religion in North America (Indiana: Indiana University Press, 2006), p. 196.
34 Ibid.
35 Ibid, p. 107.
8
(Locust Street Settlement)である36。しかし、黒人女性がセツルメントの分野におい て、リーダーシップを担うようになったのは、ジェーン・アダムズとも親しい仲であった W・ガートルード・ブラウン(W. Gertrude Brown)が、1924年にミネアポリスにフィリ ス・ウィートリー・ハウス(Phyllis Wheatley House)を設立して以降のこととされてい る37。
一方、ウェルズがシカゴにニグロ・フェローシップ・リーグ(Negro Fellowship
League)を設立したのは1910年のことであった。1908年にイリノイ州スプリングフィー
ルドで起きた暴動38(Spring Field Race Riot of 1908)が設立のきっかけである。南部 の野蛮な現象と考えていた黒人に対するリンチが、北部で起きた現実にウェルズが大きな 衝撃を受けたと考えられる。中野が指摘するように、「20世紀転換期に南部諸州で始まっ た人種隔離は、第一次大戦期の黒人の北部移住を契機に全米に拡大39」したことから、ニ グロ・フェローシップ・リーグでも、南部からシカゴへ移住した黒人男性を対象に、宿泊 施設や職業斡旋などのサービスが提供された。ウェルズが南部で経験した人種隔離とそれ に基づく暴力が、北部にも広がっている現象に対応していく一つの方法として、黒人男性 を対象とするセツルメント活動を展開していった。上述したように、当時、北部でのセツ ルメントは白人中産階級の女性によって、白人移民(とりわけ女性と子供)を対象に活動 が行われることが主流であり、ウェルズのセツルメント活動は当時としては異例なもので あった。
また、革新主義期におけるエスノ・レイシャルな国民秩序の形成は、ジェンダーと階級 をも巻き込み進展していった。革新主義期において「女性の領域」とされたのは、白人中 産階級女性の改革者が推進していたアメリカ化運動、すなわち女性の連帯によって移民の アメリカ化を推進させていくような社会改革運動であった。
第4節 研究目的・研究意義
革新主義期に、白人中産階級女性を中心に推進されたセツルメント運動は「女性による 制度の形成」を土台とし、主に欧州からの移民女性や子供を対象に活動を展開した。しか しウェルズのセツルメント活動はこれとは異なり、主な対象は黒人男性であった。また、
ウェルズ自身も、当時の黒人中産階級女性の目指すべき女性としての「淑女」像には当て はまらない存在であった。ここから見えてくるのは、ウェルズと彼女が立ち上げ推進した セツルメント活動は、当時の社会改革運動における人種とジェンダーが絡み合った規範か
36 Ibid.
37 Ibid.
38 1908年8月にイリノイ州スプリングフィールドにて3日間続いた暴動である。2人の黒
人がレイプ容疑、レイプと殺人未遂の罪で逮捕された。これを機に、ヨーロッパ系アメリ カ人とヨーロッパからの移民たちは、黒人居住区を襲撃し、路上で黒人を殺害、約5000 人の黒人がリンチされ、少なくとも16人の死者が発生した。
39 中野耕太郎『20世紀アメリカ国民秩序の形成』名古屋大学出版会、2015年。
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ら逸脱するものであったということである。これが、ウェルズのセツルメント活動が立ち いかなくなった要因と捉え、本研究ではウェルズがセツルメント活動を行うに至った理由 と背景、またウェルズのセツルメント活動が辿った経緯について検証する。
本研究の意義としては、これまで研究されてこなかった革新主義期シカゴにおける、ウ ェルズのセツルメント活動に焦点を当てることで、20世紀初頭のアメリカ史研究における 北部の白人中産階級層の社会改革者を中心とする革新主義期の研究と南部のジム・クロウ 体制下の黒人研究の間に繋がりを見出せると考える。
第5節 研究方法
本研究では、ウェルズのセツルメント活動には、ウェルズの生い立ちや、信仰していた 宗教、ウェルズの友人が被害者となった南部でのリンチ事件、また南部でのジム・クロウ
(黒人隔離政策)体制が強く影響していると考え、これを検証するために、ウェルズの日 記資料を主に用いる。本研究にて一次史料として扱うウェルズの日記は、昨今エゴ・ドキ ュメントと呼ばれる個人の語りとなっている。こういったエゴ・ドキュメントを扱うこと により、公刊された文書からは読み取れないウェルズの個人的経験に、より迫ることを可 能にする。
主要な一次史料は、Crusade for Justice40とThe Memphis Diary of Ida B. Wells41であ る。Crusade for Justiceはウェルズの娘である、アルフレッダ・M・ダスター(Alfreda
M. Duster)によって、ウェルズの死後、出版されたウェルズの日記である。日記は1887
年7月16日、ウェルズの25歳の誕生日に書き始められ、亡くなる4年前の1927年まで の内容となっている。The Memphis Diary of Ida B. Wellsは、1885年12月29日から、
1887年9月18日までのウェルズの日記を編集したものである。なお、本論における日記 の日本語訳は筆者によるものである。
第6節 構成
本論の構成としては、まず第1章で、ウェルズの幼少期、ウェルズがジャーナリストを 志すきっかけとなる事件、ジャーナリストとしての活動、反リンチ活動家になるきっかけ となる事件、反リンチ活動、そして夫となるフェルディナンド・L・バーネット
(Ferdinand L. Barnett)について述べる。第2章では、革新主義期のシカゴ黒人コミュ ニティとセツルメントについて扱う。まず、ウェルズがセツルメント活動を行っていたシ カゴの黒人ゲトーを概観する。そしてシカゴの黒人中産階級コミュニティとして、ウェル ズがセツルメント活動と並行して行っていた黒人女性クラブについて論じる。ここでは、
40 Ida B. Wells, Ida B. Wells, Crusade for Justice: The Autography of Ida B.
Wells, ed. Alfreda M. Duster (Chicago: The University of Chicago Press, 1970).
41 Ida B. Wells, The Memphis Diary of Ida B. Wells, ed. Miriam DeCostra-Willis (USA: Beacon Press, 1995).
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アルファ・サファレイジ・クラブ(Alpha Suffrage Club)と全米黒人女性協会を取り上 げる。さらに、シカゴにおける黒人教会、シカゴの他のセツルメント活動にも触れ、ウェ ルズの交友関係についても探る。シカゴのセツルメント活動については、ウェルズと関係 があったハル・ハウスとフレデリック・ダグラス・センターを取り上げる。第3章では、
ニグロ・フェローシップ・リーグについて、その設立から資金事情、活動内容、衰退まで 検討する。またウェルズのニグロ・フェローシップ・リーグでの活動とシカゴにおける黒 人運動との関係についても分析する。結論では、本研究のまとめと今後の課題を提示す る。
11 第1章 アイダ・B・ウェルズの半生
第1章では、ウェルズがシカゴに移住する前までの半生を取り上げる。彼女の育ってき た環境は、後のウェルズの活動に少なからぬ影響を与えた。本章では、まずウェルズの幼 少期からウェルズがジャーナリストを志すきっかけとなる事件やジャーナリストとしての 活動について述べていく。次にウェルズが反リンチ活動家になるきっかけとなる事件、彼 女の反リンチ活動、そして夫となるフェルディナンド・L・バーネットとの出会いと結婚 について述べる。本章では、ウェルズのセツルメント活動の基盤となる、シカゴ移住前の 出来事を詳細に追っていく。
第1節 生い立ち
アイダ・B・ウェルズは1862年7月16日、ミシシッピ州北部のホーリー・スプリング スで生まれた。ウェルズの父ジェイムズ(通称ジム)は、ミシシッピ州のプランテーショ ンの所有者が彼の奴隷の女性ペギーに産ませた息子であった42。白人奴隷主のジムの父親 とその妻には子供がいなかったことから、ジムはオークションで売られず、奴隷制の残酷 さを目の当たりにせずに育った。大工になったジムは、ホーリー・スプリングスのプラン テーションに貸し出され、そこで大工及びレンガ工として働くことになった43。ウェルズ の母親エリザベス(通称リズ)はバージニア州で10人兄弟の内の1人として生まれた。
しかし、彼女と2人の姉妹は若いころに奴隷商人に売られ、ミシシッピに連れてこられる ことになる44。ミシシッピで料理人として働いていたリズはジムと出会い、二人は結婚す る(しかし、当時奴隷同士での結婚は法的に認められていなかった)。
二人が結婚して間もなく、南北戦争が勃発する。1862年3月には、奴隷返還禁止法
(The Act of Prohibiting the Return of Slaves)が成立し、逃亡奴隷を所有者に返還 することが禁じられた。また、その1か月後にはコロンビア特別区にて奴隷制が廃止さ れ、3000人の黒人が自由の身となった45。そしてこの年の7月にウェルズは生まれてい る。ウェルズが生まれた2か月後の9月には奴隷解放宣言が交付され、11月にはウェルズ 一家が暮らすホーリー・スプリングスは北軍の支配下に入った46。それから2年半後の 1865年、南北戦争は終結した47。
42 Ida B. Wells, Ida B. Wells, Crusade for Justice: The Autography of Ida B.
Wells, ed. Alfreda M. Duster (Chicago: University of Chicago Press, 1970), p. 8.
43 Ibid.
44 Ibid.
45 ベンジャミン・クォールズ(明石紀雄、岩本裕子、落合明子訳)『アメリカ黒人の歴
史』明石書店、1994年、139頁。
46 Paula J. Giddings, IDA A Sword Among Lions: Ida B. Wells and the Campaign Against Lynching (New York: Amisted, 2008), p. 21.
47 南北戦争は4年間で25万人の南部人と36万人の北軍が戦死し、戦場の大半であった南
部の経済は壊滅状態に陥り、回復したのは1879年のことであった。ジェームズ・M・バー グマン(森本豊富訳)『アメリカ黒人の歴史』NHK出版、2011年、95頁。
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ジムとリズは、他の奴隷と同様、自由の身となったことを喜び、また二人は正式な結婚 の手続きを行った48。そして1867年の選挙で解放前の元主人から「民主党に投票せよ。」 と指示されたが、これを無視し、ジムとリズは家族を連れてプランテーションを後にした
49。
新たな生活を踏み出したジムとリズはとりわけ教育を重視し、子供たちに熱心に学校に 通わせた。ウェルズは後に「私たち(子供たち)の仕事とは、学校に行き、学べること全 てを学ぶことであった」と振り返っている50。またジムは、1866年に北部のメソジスト教 会が設立した解放民支援協会(The Freedmen’s Aid Society)が建てたラスト大学
(Rust College)の理事に就任し、黒人の高等教育にも力を入れた。後にウェルズもここ で学ぶこととなる。また、母親リズは熱心なメソジスト教会のクリスチャンで、聖書を読 むために彼女の子供と共に学校に通うほど信仰心が厚く、日曜学校にも休むことなく通 い、皆勤賞を取るような女性でもあった51。彼女の影響を受けたウェルズは、熱心なクリ スチャンとして育っていった。信仰は彼女の活動において重要な位置を占めていくことに なる52。
ウェルズの家族が、新たに活動の領域を広げようとしていたのと同じ頃、南部諸州では 様々な黒人法が制定され、解放奴隷の社会的活動が制限されていった。とりわけ厳しかっ たのが職業上での制限であったが、アルコール飲料や火器の販売・所持を禁止した州も多 数あった53。さらに、再建期後に元奴隷主勢力が南部の政界に復帰すると、黒人の公民権 剥奪の動きがさらに高まっていった。こうした中、メンフィスでは黄熱病が猛威を振る い、ホーリー・スプリングスにもその影響は及んだ。1878年に両親と一番下の弟が犠牲と なった。この時ウェルズはまだ16歳であったが、亡き両親に代わり弟妹を育てるため、
年齢を偽り、教員試験を受け、教職で生計を立てていった54。ウェルズが19歳になった 時、親戚が彼女の弟妹の面倒を見てくれることになり、彼女はメンフィスに移り住むこと になる。
1880年代のメンフィスは七路線の鉄道が発着する主要な貨物の集散地かつ、東西南北の 地域の物流が集中し、主要な綿花取引所であり、穀物と家畜類の一大供給基地であった
48 Catherine A. Welch, Ida B. Wells-Barnett: Powerhouse with a Pen (Minneapolis, MN: Carolrhoda Books, 2000), p. 12.
49 岩本裕子「反リンチ運動家アイダ・B・ウェルズ」、『史苑』51巻1号、1991年、28頁。
50 Ida B. Wells, Ida B. Wells, Crusade for Justice, p. 9.
51 Patricia A. Schechter, “An Introduction to Ida B. Wells Southern Horrors,”
Jane Sherron De Hart and Cornelia Hughes Dayton, eds., Women’s America:
Refocusing the Past (Oxford: Oxford University Press, 2004), p. 323.
52 ジョン・ホープ・フランクリン、オーガスト・マイヤー(大類久恵、落合明子訳)『20
世紀のアメリカ人指導者』明石書店、2005年、79頁。
53 猿谷要『アメリカ黒人解放史』二玄社、2009年、141頁。
54 岩本裕子「反リンチ運動家アイダ・B・ウェルズ」、28頁。
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55。そしてメンフィスにはより良い機会を求めて多くの黒人が流入し、1880年代、黒人は メンフィスの人口の約44%を占めていた。ウェルズは再建後のミシシッピ州の多くの黒人 と同様に、大都市メンフィスへ向かった。
第2節 オハイオ・サウスウェスタン鉄道会社対ウェルズ裁判
メンフィスに移り住んだウェルズはメンフィス市での教員採用試験の準備をしながら、
郊外のウッドストックにある学校で教える生活を送った。そんな中、事件が起きる。1884 年5月4日、通勤列車で禁煙の一等車の切符を購入したウェルズに対し、車掌は他の車両 への移動を強制し、口論の末、ウェルズは列車から降ろされてしまった56。この事件の背 景にあったのが、南北戦争後の再建期後に本格化した「ジム・クロウ」と呼ばれる黒人に 対する人種隔離政策であった。南部諸州ではジム・クロウ法により、公立学校、病院、待 合室、電話ボックス、レストラン等における、白人と黒人の隔離された平等な座席配置が 実行された57。また、ジム・クロウ法により、州や地方自治体での黒人の投票権も剥奪さ れた58。ジム・クロウ体制下での黒人の社会的規範を、歴史家のジェームズ・バーダマン は4つの具体例で示している。まず、第一の規範は、名前に関してのことであり、「黒人 は白人男性に対しては『ミスター・ジョンズ』(Mr. Jones)、女性には『ミス・メレディ ス』(Miss Meredith)のように必ず敬称で呼ぶこと。そして、黒人は白人から話しかけら れない限り、むやみにしゃべりかけてはならない。質問されたときに応えればよい。」と いうものであった。第二の規範は、「黒人は日常の振る舞いにおいても常に白人に対して 敬意を示すこと」が求められたことであった。第三の規範は、「白人女性が黒人男性と関 係を持つことを白人男性は極端に嫌ったため、そのようなことが起こらないように細心の 注意を払」うことが求められたことであった。そして第四の規範は、黒人と白人が座席を ともにすることに関してのことであり、「この状況が起こるのは、公共輸送機関と食事を するテーブル」であった59。ウェルズの事件は、このジム・クロウ体制下における4つ目 の規範に関して起こったものであった。
ウェルズはすぐさまオハイオ・サザンウェスト鉄道会社を相手取って裁判を起こした。
連邦巡回裁判所の前段階の訴訟ではウェルズは勝利を納め、500ドルの損害賠償を受け取 った。しかし、テネシー州の最高裁判所では逆転敗訴に追い込まれることになる。裁判所 は「短時間の快適な座席を得るための彼女の固執は、誠実ではなかったことは明らかであ る。」と結論付けた60。この判決理由には、先に挙げた黒人が守るべき規範の2つ目、すな
55 ジョン・ホープ・フランクリン、オーガスト・マイヤー『20世紀のアメリカ人指導
者』、79頁。
56 岩本裕子「反リンチ運動家アイダ・B・ウェルズ」、28頁。
57 ジェームズ・M・バーダマン『アメリカ黒人の歴史』、128頁。
58 同上書、129頁。
59 同上書、131-133頁。
60 Ida B. Wells, Ida B. Wells, Crusade for Justice, p. 20.
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わち、日常において黒人が白人に敬意を示さなかったことが明確に示されている。さら に、この裁判で最もウェルズが傷ついたのは、彼女が雇ったメンフィスで唯一の黒人弁護
士T・F・カッセルズが鉄道会社に買収され、職務を果たさなかった点であった。
ウェルズが起こしたこの裁判は、のちに最高裁判所が「分離すれど平等(Separate but
equal)の原則を打ち出したプレッシー対ファガーソン裁判の約10年も前の出来事であっ
た。プレッシー対ファガーソン裁判は、ルイジアナ州で1890年に可決された「隔離列車 法案」に異議を唱える裁判であった。1892年6月7日、ホーマー・プレッシーは東ルイジ アナ鉄道の白人車両に乗車したが、彼は8分の7がヨーロッパ系の白人の血であり、残り の8分の1が黒人の血であったために逮捕された。ルイジアナ州での裁判で敗れたプレッ シーは、1896年に合衆国最高裁判所に上告する。しかし判決では、ルイジアナ州の隔離法 案は、修正第14条の法のもとでの平等に抵触するものではないとし、連邦政府は人種を 空間的に混ぜることを強制することができないと結論付けた61。結果として、公共施設に おける黒人の分離が人種差別に当たらないとする判断を行った。
話はこの判決の10年前に戻るが、ウェルズはテネシー州で起こした裁判での敗訴をき っかけに、活動の場をジャーナリズムへと移していくことになる。
第3節 ジャーナリストとしての始まり
ウェルズのジャーナリストとしての始まりは、『イブニング・スター(Evening Star)』 紙の編集に、1886年から携わるようになったことであった62。ウェルズはメンフィスで、
公立学校の黒人教師仲間と共に、毎週金曜日にヴァンス・ストリート・キリスト教会
(Vance Street Christ Church)において文学クラブを開催していた。そこでは朗読や音 楽と共にディベートが行われ、毎回、『イブニング・スター』紙を読んで締めくくられて いた。『イブニング・スター』紙はクラブ会員の1人が作成する新聞のようなもので、内 容は最近の出来事に関する事が記載され、一般には配布されていなかった63。
この新聞の編集に関わるようになったウェルズは、ペンネーム「アイオーラ」(Iola)
で記事を書いていった。ウェルズの記事は各地の黒人新聞で人気を集め、1880年代末に は、ウェルズは著名な黒人新聞からも記事の依頼を受けるようになった64。
61 ジェームズ・M・バーダマン『アメリカ黒人の歴史』、149頁。
62 ジョン・ホープ・フランクリン、オーガスト・マイヤー『20世紀のアメリカ人指導 者』、80頁。
63 同上書、80頁。
64 アメリカ合衆国における黒人新聞の歴史については、Patrick S. Washburn, The African American Newspaper: Voice of Freedom (Evanston, IL: Northwestern University Press, 2007)、樋口映美「シカゴ黒人新聞『ディフェンダー』の子供たち-
ビリケン倶楽部の成長と人種・国民意識(1921年~1942年)-」、樋口映美,中条献編
『歴史のなかの「アメリカ」:国民化をめぐる語りと創造』彩流社、2006年、を参照。
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黒人新聞のジャーナリストとして活躍し始めたウェルズは、テネシー州で最も好戦的と された黒人新聞『フリー・スピーチ・アンド・ヘッドライト(Free Speech and
Headlight)』に、1889年から編集者兼共同経営者として招かれ、勤務し始めた。同紙は州
内最大規模で最古のバプティスト派黒人教会の週刊新聞であった65。自らの新聞社におい て発言の場を得たウェルズは、白人批判から黒人聖職者への批判に至る様々な問題を取り 上げるラディカルな記事を書き、メンフィスの一部の黒人エリートから不評を買うと同時 に名声も高まっていった66。
一方、ウェルズは1889年に『フリー・スピーチ・アンド・ヘッドライト』紙の社説 で、黒人のエンパワメントを次のように述べている。
私たちの街の日刊紙は、白人がアメリカを支配しなければならないと言って いるが、それは軽はずみな発言である。(中略)今日の黒人は30年前の黒人 とは違う。30年前の黒人が強いられていたことを被るようなことは無いだろ う。(中略)黒人は底辺に留まり続けることは無いだろう67。
さらにウェルズは、当時南部諸州で頻発していたリンチに関して、精力的に記事を書い ていくようになった。1880年代以降、黒人に対するリンチは急速に増加していた。1892 年にはリンチはピークに達し、225件のリンチ事件が起きた。1889年から1918年の間に 3224人がリンチにかけられ、その内2,522人が黒人であった。こうした集団リンチは黒人 がジム・クロウ体制に逆らうとどのような目に遭うか暴力でもって見せしめにするもので あった。
ウェルズは白人によってリンチされた黒人を、罠にかけられた犬やネズミに例えて、
「罠にかけられた犬やネズミのように死ぬよりも、リンチという不正と戦って死ぬ方がマ シだ」と述べている68。ウェルズがリンチに対してこのような見解を抱くようになったの は、ある事件がきっかけであった。それまでは、「リンチは法と秩序に反しているが、レ イプに対する不条理な怒りがリンチに繋がっている69」のではないかとする節もあった が、事件をきっかけに、「リンチとは何なのか、目を覚ますようになった」と言う。そし
65 フリー・スピーチ・アンド・ヘッドライト紙でのウェルズの活動については、Robin
Hardin and Marcie Hinton, “The Squelching of Free Speech in Memphis: The Life of a Black Post-Reconstruction Newspaper,” Race, Gender and Class Vol.8, no.4 (2001)を参照。
66 岩本裕子「反リンチ運動家アイダ・B・ウェルズ」、30頁。
67 David M. Tucker, Black Pastors and Leaders: Memphis, 1819-1972 (Memphis:
Memphis State University Press, 1975), pp. 44-45.
68 Ida B. Wells, Ida B. Wells, Crusade for Justice, p. 62.
69 Ibid, p. 64.
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て、「リンチとは、富と財産を獲得していた黒人を排除し、恐怖に落とし入れ、弾圧する 言い訳」であると考えるようになった70。
ウェルズの人生の分岐点となった「みんなの雑貨屋」リンチ事件(People’s Grocery
Lynching)が起きたのは、黒人に対するリンチがピークに達した1892年であった。
第4節 「みんなの雑貨屋」リンチ事件 第1項 事件の発生
事件は、1892年3月9日に起きた。メンフィス郊外の黒人居住地に「みんなの雑貨屋」
(People’s Grocery Store)という食糧品店があった71。経営者はトム・モス(Thomas Moss)、カルビン・マクドウェル(Calvin McDowell)、ヘンリー・スチュアート(Henry
Stewart)という町でも有力な黒人3人であった。中でもトム夫妻はウェルズの親友であ
った。店が繁盛していたことから、通りの真向かいの白人経営食糧品店に脅威を与えたと いう理由で白人暴徒の襲撃を受けたのであった。店では白人による襲撃に備えて銃を置い ていたが、暴徒ともみ合ううちに3人の白人を撃ってしまい、黒人経営者3人は共同謀議 の罪で逮捕された。投獄4日後の明け方、10人の白人が刑務所に乱入、まだ眠っていた3 人を連れ出し、刑務所から1マイル離れた空き地でリンチにかけた。妻や生まれてくる子 のため命乞いをするトムに無数の弾丸を打ち込み、暴徒のピストルにすがりつくマクドウ ェルの拳に向けて発砲されたため、彼の右手は粉々になり、目玉は抉り出されるという残 忍な殺され方であった72。事件当日ナッチェズへ取材旅行中であったウェルズがメンフィ スへ戻った時にはトムはすでに埋葬された後であった。
事件の2日後の『ニューヨーク・タイムズ(The New York Times)』紙では「リンチを する者を罰するためには」という題の記事が掲載された。記事では、被害者3人の葬儀で の様子が書かれた。多くの黒人が葬儀に出席し、中には葬儀のために仕事を休んだ者もい たと言う73。また、被害者のトム・モスの妻は「夫の悲惨な最期を目の当たりにし、今に も死にそうな様子」であったと記されている74。さらにメンフィスへの影響も記され、「今 回の非道な事件は、他州のみならず、ヨーロッパからも好意的でない印象を持たれるきっ かけとなった」と非難した75。さらに、ウェルズが編集を務める『フリー・スピーチ・ア ンド・ヘッドライト』紙の社説に、以下の文章が掲載された。
70 Ibid, p. 64.
71 ジョン・ホープ・フランクリン、オーガスト・マイヤー『20世紀のアメリカ人指導
者』、82頁。
72 岩本裕子「反リンチ運動家アイダ・B・ウェルズ」、32頁。
73 “To Punish the Lynchers: Memphis Negroes Thirsting for Vengeance,”The New York Times, March 11, 1892.
74 Ibid.
75 Ibid.
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私たちは多勢に無勢であり、武器も無いため、リンチに対し今できることは 何もない。白人暴徒は無料で弾薬を手に入れることが出来るが、黒人への銃 の販売に対する法律は厳格に執行された。私たちに出来ることは、節約し、
私たちの生活や財産を守ることも、裁判所にて公正な裁判を行うこともしな いこの町を出るか、もしくは白人によって殺されるかのどちらかである76。
また、同年5月に『フリー・スピーチ・アンド・ヘッドライト』紙でウェルズは南部の 強姦神話(黒人男性が白人女性を強姦するという神話)を痛烈に批判している。
『フリー・スピーチ』の先週号以来、8人の黒人がリンチされ、3人が白人 に殺され、5人が白人女性に対するレイプに関して警告を受けた。(中略)こ の国の誰もが、黒人男性が白人女性をレイプするという陳腐な嘘を信じては いない77。
さらにこのリンチ事件後、ウェルズが最初にしたことは銃を買ったことであった78。こ のように、このリンチ事件は、メンフィスの黒人に多大な影響を与えることとなる。
第2項 事件の影響
黒人はこのリンチ事件に対して抗議し、竣工したばかりの路面電車のボイコットを促し た。また『フリー・スピーチ・アンド・ヘッドライト』紙の社説において、黒人にメンフ ィスを離れるよう訴えかけたところ、これに刺激を受けた2,000人ほどの黒人が実際にメ ンフィスを後にした。さらに、全米で最も読まれていた黒人新聞『シカゴ・ディフェンダ ー(Chicago Defender)』紙においても、盛んに南部のジム・クロウに別れを告げ、より 良い賃金と社会的地域を得るために北部へ移住するよう勧める記事が掲載された79。
76 Ida B. Wells, Ida B. Wells, Crusade for Justice, p. 52.
77 Dorothy Sterling, Black Foremothers: Three Lives (New York: Feminist Press, 1979), p. 82.
78 Ida B. Wells, On Lynching: Southern Horrors, A Red Record, Mob Rule in New Orleans, (New York: Arno Press, 1969), p. 19.
79 ジョン・ホープ・フランクリン、オーガスト・マイヤー『20世紀のアメリカ人指導
者』、160頁。1890~1910年代の間に、かなりの黒人が北部あるいは西部に移住した。ニ ューヨークのマンハッタンでは、1900年時点の黒人人口は36,246人だったが、1910年に
は60666人に増加し、また1910~1920年の間に黒人人口は66%増加した。また、シカゴ
においても同時期黒人人口は148%増加した。このように南部の黒人は、南部再建期後から 徐々に他地域、主に北部へ移動していたことが分かる。また、1910年代以降の移住の要因 は、第一次世界大戦のための移民の減少と戦時産業の膨張による労働者の不足であり、そ の労働力不足は女性と黒人によって埋め合わされた。同上書、158頁。猿谷要『アメリカ 黒人解放史』、208頁。
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その後まもなく、フリー・スピーチ社は白人暴徒の襲撃を受け、印刷機械は破壊され、
全ての新聞を燃やされた。たまたまウェルズは仕事でニューヨークへ出張中であったた め、難を逃れたが、地元メンフィスにおいて、「もし帰って来るなら裁判所の前で縛り首 にしてやる」との警告がされていることを知ったウェルズは、ニューヨークに残ることを 余儀なくされた80。
第5節 反リンチ活動
南部を離れる前のウェルズは、北部の静けさに疑問を抱き、日記にこのように記してい た。
南部を離れる以前、私はしばしば北部の静けさに疑問を抱いていた。彼らは 事実を知らず、この19世紀の文明化の中で人間をリンチし、燃やすための 南部の白人男性の理由を受け入れたからだと、私は結論付けた81。
そこで、ニューヨークに残ったウェルズは『ニューヨーク・エイジ(New York Age)』紙 において、南部の黒人リンチの実情を伝え続けた。1892年10月5日にはこれまでの反リ ンチ活動の功績を認められ、ウェルズは黒人女性250人からなるウィメンズ・ロイヤル・
ユニオンから表彰された82。
さらに1893年に行われたシカゴ万国博覧会においてもウェルズは精力的に活動を続け た。シカゴ万国博覧会は全世界に向け、アメリカの産業的成長や文明度を誇示したもので あったが、黒人にとっては屈辱的なものであった83。政府から黒人の参加は拒否され、唯 一の黒人参加は独立共和国のハイチだけであった。ウェルズはこの現状を参加者に知って もらうため、「黒人が万国博覧会に参加しない理由」(The Reason Why the Colored American Is Not in the World’s Columbian Exposition)と題する小冊子を作成した。
その内容は「自由の地でなされている黒人への抑圧に関する明確な声明」であった84。こ の小冊子は、フレデリック・ダグラス(Frederick Douglass)によって書かれた序章、第 2章は「社会的地位を定めた法律」、第3章は「囚人賃貸制度」、第4章はウェルズによっ て書かれた「リンチ法」、第5章はガーランド・ペン(Garland Penn)によって書かれた
「奴隷解放後の黒人の進歩」、第6章はのちのウェルズの夫であるフェルディナンド・L・
80 岩本裕子「反リンチ運動家アイダ・B・ウェルズ」、33頁。
81 Ida B. Wells, Ida B. Wells, Crusade for Justice, p. 77.
82 岩本裕子「反リンチ運動家アイダ・B・ウェルズ」、35頁。
83 同上論文、38頁。
84 Ida B. Wells, Ida B. Wells, Crusade for Justice, p. 117.