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戦前の同志社神学部で学んだ韓国人留学生に関する 研究

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著者 原 誠, 仲程 愛美

雑誌名 基督教研究

巻 73

号 1

ページ 27‑52

発行年 2011‑06‑27

権利 基督教研究会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013147

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戦前の同志社神学部で学んだ 韓国人留学生に関する研究

Research on Korean Students at the Doshisha University School of Theology during the Colonial Period

原 誠    仲程 愛美

Makoto Hara Manami Nakahodo

キーワード

日本植民地時代 同志社 神学部 韓国人留学生

KEY WORDS

Japanese  Colonial  Period,  Doshisha,  School  of  Theology,  Korean  Students  in  the  Japan

要旨

 日韓キリスト教交流史研究の基礎をなす重要なひとつは、日本の植民地統治時代の 日本の神学校に留学してきた韓国人留学生が、その留学時代に日本でどのような学び をし、信仰生活、学生生活をおこなったか、そして彼らが帰国後、韓国でどのような 活動をおこなったか、これらの資料を掘り起こして、相互に検証し合うことである。

そのためには、基礎資料の発掘が不可欠である。

 本論文は、1908年から1945年までの間に植民地時代の韓国から日本の同志社神学部 に留学した54名の学生について、その時代の同志社神学部の神学的状況、留学生の神 学的関心の有り様、学生生活について掘り起こしたものである。

 本論文は、直接的には2009〜10年度の2年にわたって続けられた同志社大学神学部 と交流協定をもつ韓国・監理教神学大学との「同志社神学部の韓国人留学生に関する 総合的研究」の成果の一部である。この研究によって、今回、初めて同志社神学部で 学んだ留学生に関する資料の発掘が行われ、その実態が資料として明らかとなった。

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SUMMRAY

In  research  on  relations  between  the  Japanese  and  Korean  Christian  churches,  one  of  the  most  significant  subjects  concerns  students  from  the  Korean  peninsula  who  studied  at  Japanese  institutes  of  theological  education  during  the  colonial  period. This research subject covers what these students studied, how they lived in  school  and  church,  and  what  activities  they  engaged  in  when  they  returned  to  Korea. For this research, uncovering basic documents and materials is essential. 

  This paper deals with 54 Korean students who studied at the Doshisha School of  Theology  in  Kyoto,  Japan  during  the  colonial  period  of  1908  through  1945.  It  also  reviews  the  situation  regarding  theology  and  religious  studies  at  the  Doshisha  School  of  Theology  and  looks  at  the  theological  concerns  and  daily  lives  of  these  students in this period.  

  This paper stems from a two-year project, "A Joint Study of Korean Students at  the Doshisha School of Theology in the Colonial Era" carried out in 2009-2010. The  Doshisha  School  of  Theology  has  an  exchange  agreement  with  the  Methodist  Theological  Seminary  of  Seoul,  South  Korea,  and  the  project  was  carried  out  through the cooperation of both schools. Owing to this research, much valuable data  concerning the situations of the first students from Korea at the Doshisha School of  Theology was brought to light. This data also has significance as historical material.

≪凡例≫

* 本論文では国名を現在の呼称で統一する。従って留学生についても韓国人留学生と 記す。ただし、資料については原文のまま表記した。その他「朝鮮戦争」など歴史 的事柄については「朝鮮」の呼称をそのまま用いた。

* 本論文では神学校、専門学校神学部、大学神学部、大学文学部神学科を扱っている が、総称してこれらを「神学部」としてまとめた。従って韓国からの留学生もこれ らいずれかの学校に所属し神学を学んだ留学生を対象としている。

はじめに

 2010年は日韓併合から100年目を迎えた年である。この日韓併合は、日韓両国の歴 史において、また相互の関係史において重要な意味を持っていることは言うまでもな

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い。 近年、日韓の文化的交流が深まり、お互いの交流は急速に進んでいる。その点 においては非常に喜ばしいことである。「近くて遠い国」と互いに呼び続けてきた韓 国と日本が、新たな関係への転換期を迎えつつあるが、だからこそ過去の歴史に対す る正しい認識と理解が大切である。そしてその作業は、具体的な資料にもとづいて実 証的に相互の検証を行うことからはじめられる必要がある。本論文は、直接的には 2009〜10年度の2年にわたって続けられた同志社大学神学部と交流協定をもつ韓国・

監理教神学大学との「同志社神学部の韓国人留学生に関する総合的研究」の成果の一 部である。この研究によって、今回、初めて同志社神学部で学んだ留学生に関する資 料の発掘が行われ、その実態が資料として明らかとなった。本稿は、以上のような問 題意識と経過によって、戦前の同志社神学部で学んだ韓国人留学生が、この地でどの ような、どのように神学を学んだのか、可能な限り資料に基づいて明らかにしようと するものである。そして彼らが同志社神学部での学びを終えて帰国して、どのような 働きをしたか、その一端を明らかにする。

1、韓国から日本・同志社・神学部への留学

韓国から日本に留学生として来日し、学んだ韓国人留学生に関する先行研究は多く

はない。留学生に関する従来の先行研究の多くは中国からの留学生を中心に行われて きたからである。それは当時の日本とアジア諸国の関係性による。日本のアジアへの 侵略により台湾は1895年、韓国は1910年に日本の植民地とされ、これ以降日本の領土 である台湾と韓国からの学生たちは留学生ではなくなった。そのため戦前の留学生研 究では中国人留学生を扱うことがほとんどであった。しかし学生数で見ると1920年代 までは中国からの留学生が多かったが、30年代からは台湾、韓国からの学生数が中国 からの学生数を上回っている。それにも関わらずこれら台湾人留学生、韓国人留学生 を「留学生」として明確な位置づけがなされなかったことが留学生史研究の対象にな らなかった要因である。しかし、その中でも1970年代以降は韓国、台湾からの留学生 に対しても徐々に関心が向けられてきた1。明治期に設立された諸大学が1970年代に は100周年を迎え、各学校において100年史が編纂され始めたからでもある2。これに 加えて日本の植民地とされた韓国において、主にアメリカとカナダの長老教会とメソ ジスト教会の宣教師によって韓国伝道が開始されていたが、日本の植民地下の韓国に おいて神学教育の機会は限られていたゆえに、彼らは日本の同志社を含めて他の教派 神学校に留学するようになった3。これらの学生の日本留学に関しては、韓国におい て組合教会の力は強くはなかったものの、後述するように多くの韓国人留学生が同志 社神学部で学ぶようになった。

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2、同志社神学部と韓国人留学生

 同志社は1875年同志社英学校として開校されて以来、まず英学として基礎的科目を 学んだ後に、余科(神学科)として神学教育が行われてきた。これが同志社教育の特 徴である。同志社英学校として開校後、同志社は時代の中で様々に編成を組み替えな がら現在の同志社にいたるが、本論文の研究対象である神学部は、厳密に言うとその 名称は常に同じであった訳ではない。英学校時代が余科であったように、1889年同志 社神学校、1912年同志社大学神学部、1922年から1937年までは同志社専門学校神学部 と同志社大学文学部神学科、1944年以後は同志社大学法文学部神学科であった。これ らは学制の統合や再編によって行われたものである4。本論文ではこれら全てを「神 学部」としてまとめた。従って韓国からの留学生もこれらいずれかの学校に所属し神 学を学んだ留学生を対象としている。学籍簿によって在籍が確認できた留学生は全員 で54名であった5。しかし同志社に残されている学籍簿や卒業生名簿のみで韓国人留 学生と判断するのは難しい。そのため本論文では入学が確認でき、かつ本籍が韓国の 学生を留学生として扱い、調査した。調査の結果、判明した留学生の氏名等は、巻末 の「韓国人留学生名簿1908〜1945年」に挙げた。

3、同志社の神学教育−開講科目及び履修状況

 韓国人留学生が何を学び、どのような神学に触れたかを探るには当時の授業状況を 知る必要がある。そのためにはシラバスから開講科目を把握する必要があるが当時の シラバスを発掘するには至らなかった。そのため『同志社百年史』に記載されている 以下の資料を参考にした。専門学校神学部の学科課程、文学部神学科の必修及び選択 科目である。しかし神学校と神学部の韓国人留学生の在籍した時期に該当する科目に ついての資料は確認ができなかった。

・専門学校 神学部 学科課程【表1】

1年 英語講読、聖書、心理学、哲学概論、論理学 、国語漢文、倫理学

2年 神学通論、教会史、哲学史、倫理史、社会学、基督教起源史、前期ユダヤ史、仏教 史、実践神学、ギリシャ語(随意科)

3年 組織神学、宗教心理学、基督教倫理学、宗教教育、 旧約文学、新約文学、後期ユダ ヤ史(アポクリファ文学)、仏教史、実践神学、ギリシャ語(随意科)

4年 教理史、組織神学、宗教哲学、新約研究、旧約研究 、聖書神学、仏教史、実践神 学、ギリシャ語(随意科)

(6)

同志社専門学校側  1923年1月6

・文学部 神学科【表2】

必修 聖書学、猶太学、理論神学、歴史神学、哲学概論、哲学史、倫理学、心理学、宗教

同志社大学学則  1920年3月7

・文学部 神学科神学専攻【表3】

必修科目 旧約文学、旧約神学、新約文学、新約釈義、新約神学、教会史、教理史、組織神 学、基督教倫理、実践神学原論、実践神学各論、宗教心理、宗教教育学、宗教哲 学、基督教文学、日本精神史、東洋思想史、社会学概論、厚生学原論、日本仏教、

英書購読、独書購読

選択科目 旧約特殊講義、旧約演習、新約特殊講義、新約演習、教会史特殊講義、教会史演 習、組織神学特殊講義、組織神学演習、宗教教育学演習、宗教学、宗教音楽、独逸 語初歩、新約ギリシャ語初歩、新約ギリシャ語、教父ギリシャ語、中世ラテン語、

へブル語初歩、へブル語、支那語  同志社大学学則  1941年4月1日改正8

 このように神学における一般的な科目、聖書学、歴史神学、組織神学、実践神学の 科目が講じられていたことが確認できる。専門学校【表1】の場合は学年毎に履修す る科目が定められており、体系的な教育方法が採られていた。【表2】は1920年に大学 と認定され文学部神学科として開講していた必修科目である。ここでは全ての学部学 科の科目が科目表として表記されてあり、その中で神学科の必修科目とされているも のを記した。これだけでは詳しい開講科目を把握することは難しいが、後述する成績 原簿から確認できた科目名をみると、多くの科目が開講されていたことがうかがえる。

また41年に改正された必修科目、選択科目【表3】をみても、多くの開講科目が確認 できる。しかし、この改正が戦時体制の移行に伴うものであったことを考慮したい。

 次に個人の「成績原簿9」より、留学生がどのような科目10を履修していたかを検討 していく。神学校、専門学校、神学部、文学部神学科に区別して列記する(順不同)。

科目名

神学校 聖書、旧約、新約総論、基督教要論、神学通論、ユダヤ史、説教学、訳解、宗 教哲学、哲学史、倫理、教育学、社会学、英語、ドイツ語、ギリシャ語、音楽 神学部 聖書、論理学、漢文、伝道史、心理学、訳読、哲学概論、歴史

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専門学校 神学部 音楽

文学部 神学科

旧約文学、新約文学、旧約豫言文学、旧約釈義、新約釈義、聖書神学、旧約聖 書神学、新約聖書神学、旧約研究、新約研究、ヘブライ文学、アポクリファ研 究、旧約解説、新約解説、旧約学概論、新約学概論、旧約特講、旧約演習、教 会史、教会史演習、教会史特講、基督教倫理、基督教倫理学、基督教文学、基 督教思想史、基督教社会学(倫理学特講)、神学演習、神学通論、神学概論、

神学特講、組織神学、現代神学、教理史、セム族宗教史、実践神学、実践神学 各論、実践神学原論、牧会学、宗教学、宗教哲学、宗教心理学、宗教教育学、

宗教史、仏教学、哲学史、哲学概論、哲学、インド哲学、倫理学、倫理学概 論、倫理学演習、倫理学特講、東洋倫理学、 西洋倫理学、西洋倫理学史、心理 学概論、日本倫理思想史、日本精神史(1941-)、東洋思想史(1941-)、社会学 概論、社会教育、社会問題概論、社会事業原論、社会事業各論、社会哲学、社 会心理学

文学部 神学科

社会政策、 社会学特講、社会問題特講、社会事業実習、社会事業演習、社会事 業特講、厚生学原理、教育心理学、教育制度、教育学、教育学概論、教育学演 習、教育史、ギリシャ語、ヘブライ語、ラテン語、新約ギリシャ語、独書講 義、英書講義、英語、英文学、英文学史、古典語、言語学概論、美術史、美学 概論、宗教芸術、憲法、民法総則、民法親族相続法、経済原論、経済政策、行 政法学論、行政法総論、行政法各論、行政政策、社会法規、卒業論文、教練

(1939-)、国学(1943-)、修練(1945-)

 36名の成績原簿から以上の結果が得られた。神学校では17科目、神学部では8科目 の履修科目が確認されたが、これらの科目名をみると大まかな内容のくくりとなって いる。この時代の留学生たちは選科生、特別生や聴講生として留学していた。そのた め神学の一般的な基礎科目を学んだことが考えられる。専門学校においては在籍した 留学生が退学あるいは大学予科や文学部神学科に編入しため、彼らの成績原簿はほと んど残されていない。唯一確認できた履修科目は音楽のみである。

 その一方で文学部神学科時代の資料は豊富に残されており、確認できた科目は107 科目である。先の学則資料と比較すると必修科目の全てが確認できるほか、選択科目 はより多くの科目があり、同じ系統のものが細かく分かれている。神学以外にも倫理 学や社会事業に関する分野が目につく。これは神学科が神学専攻と倫理学専攻に分か れていたこと、そして1931年からは社会事業学専攻が加わり、3つの専攻によって神 学科が構成されていたからであろう。また戦局が厳しくなった1940年前後からは教練 をはじめ、日本精神史や東洋思想史、国学、修練が設置されている。これは戦時下の 教育がどのようなものであったかを知る重要な手掛かりとなる。

 同志社の神学的傾向は、聖書と教理を歴史的批判的に解釈する傾向にあったが、第

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一次世界大戦以降はバルトらに始まった神学的流れにも関心を寄せた。こうした中、

日本でいち早く「危機神学」、「弁証神学」を『基督教研究』11において紹介したのが 同志社であり、当時の学門的水準の高かったことがうかがえる12

4、同志社の神学教育−教員

 次の表は「同志社職員録」13から神学部の教員をまとめたものである。これによる と44名の教員が確認できた。職員録は1921年以降の所蔵が確認できた。職員録には役 職、氏名、担当教科、学位、現住所が記されていた。ここでは1945年までに記されて いた教授及び講師を表にまとめた。在職期間については1945年までを一区切りとして 調査したため、それ以降については記していない。

名前 主な担当科目 学位 在職 備考

宮川経輝 1921 講師

竹崎八十雄 宗教教育 B.D./S.T.B. 1921 講師

.ぺッドレー 実践神学 D.D. 1921- 講師

羽渓了諦 インド哲学、日本仏教 文学博士

文学士 1921- 講師 大塚節治 キリスト教倫理、哲学概論、哲学史、

倫理哲学、倫理学史、神学通論 B.D./M.A.  1921- 片桐哲 旧約研究、旧約釈義、ユダヤ史、ヘブ

ライ語、旧約文学、イスラエル宗教史

B.D./S.T.B.

同志社神学士 1921- 本宮彌兵衛 神学通論、教育学、認識論、哲学概

論、宗教認識論、宗教心理学

M.A./S.T.B.

同志社神学士 1921-

濱田興助 哲学概論、哲学史、独書講義 1921-

周再賜 宗教心理、社会学、社会運動史、社会

学概論、英書講義 B.D./M.A.  1921-1925 D.W.ラーネッド 神学史、聖書神学、教会史、ギリシャ

語、教理史 B.D./D.D./Ph.D. 1921-1927

波多野精一 宗教哲学、宗教史 文学博士

文学士 1921-1932 講師 蘆田慶治 組織神学、新約総論、新約釈義、神学

演習、宗教史、英書講義 B.D./M.A./S.T.B. 1921-1935

B.F.シャイヴリー 宗教教育、宗教教育学、宗教心理学、

教育制度及教授法

B.A./B.D./M.A.

D.D 1921-1940

(9)

E.S.カーブ 旧約総論、旧約釈義、ギリシャ語、ヘ ブライ語、ユダヤ史

B.A./M.A./B.D.

D.D 1921-1940

本田義英 仏教史 文学士 1921-1924

石原質 ドイツ語 1921-1925

富森京次 新約研究、キリスト教起源、新約釈

義、新約文学、ギリシャ語 M.A./B.D. 1922-

杉浦儀一郎 同志社神学士 1922-1923 助手

S.C.バートレット 実践神学、牧会学 B.D./M.A. 1922-1935

I.F.ウッド 宗教史 B.A./M.A.

Ph.D. D.D. 1925 講師

有賀鐡太郎 教会史、教理史、キリスト教思想史、

独書講義、英書講義、新約ギリシャ語

同志社神学士

S.T.M. 1926- 講師

田中秀央 ラテン語、ギリシャ語 文学士 1926- 講師

魚木忠一 教会史、キリスト教思想史神学、独書 M.T.S 1927-

二宮源兵 西洋倫理学 同志社神学士

B.D./S.T.B./M.A. 1928- 講師 竹中勝男 キリスト教社会学、社会学概論、社会

問題概論、英書講読

同志社神学士

M.A./B.D. 1929-

村岡景夫 哲学史、独書講読 文学士 1929-

牧野虎次 社会事業各論 B.A 1932- 講師

三浦アンナ 教会史 Ph.D. 1932- 講師

海野幸徳 社会事業原論 1932- 講師

高橋虔 旧約聖書神学、新約聖書、神学及解 説、独書

文学士

B.A./M.A 1934- 講師

森川正雄 英書講読 同志社神学士

B.D./M.A. 1934- 講師

濱田光雄 社会問題 同志社神学士 1934- 講師

三谷昇二 ラテン語、ギリシャ語 1934- 講師

大林宗嗣 社会事業、厚生事業史、文化政策、社

会調査 1935- 講師

竹内愛二 社会問題、厚生事業史、英書講読、独

書講読 B.A./M.A. 1935- 講師

薗川四郎 卒業論文指導 同志社神学士 1935-1936 講師 賀川豊彦 協同組合論 B.D./D.D. 1936-1939

西尾幸太郎 実践神学 1937 講師

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布下耕読 実践神学 同志社神学士 1937-1938 講師 安田忠吉 実践神学、実践神学各論 B.D. 1937-1938 講師 芹野興太郎 実践神学、実践神学原論 B.D. 1937- 講師

村上俊 組織神学、神学、独書 文学士 1937- 助手

島田啓一郎 キリスト教社会学 文学士 1938-1941 講師

田崎健作 実践神学 1941 講師

遠藤作衛 実践神学各論 1943

松山三郎 組織神学、実践神学原論、宗教教育 学、英書講読

文学士

B.D./M.A 1940- 講師

 これらを見ると大塚節治をはじめ、蘆田慶治、富森京次、魚木忠一などの当時の神 学研究において重鎮であった人々の名を確認することができる。同志社神学部の学門 的水準の高さを思わせる。彼らはアメリカに渡り、ユニオン神学校、イェール大学、

オベリン大学、シカゴ大学等で学位を修め、帰国後同志社で教鞭を取り始めた14。  このような神学者と並び、波多野精一15、有賀鐡太郎らも講師として神学教育の一 角を担い、その他に西尾幸太郎、布下耕読、安田忠吉、芹野興太郎、

田崎健作、遠藤

作衛など現場で活躍していた牧師たちが実践神学を担当した。また賀川豊彦、竹内愛 二などのキリスト教社会運動家たちが教鞭を執っていたことをみると、同志社の神学 部の特徴が学問としての神学教育をのみならず、常に時代の中で「神学」は何かを問 い続けていたことが分かる。これら教員は自身が同志社神学部で学んだ者が多く、母 校の神学研究の発展に尽力したとも言えるだろう。

5.韓国留学生の生活−留学生の動向

 右の表は学籍簿から確認された留学生を入学年代別 にまとめたものである。1908年最初の留学生に始まり 1910年代は9名、1920年代は6名と続いた。1930年代に なると16名、そして1940年代は45年までの6年間に22 名が入学した。しかしこれらの留学生の内19名は家庭 の事情や長期欠席、学費未納等で中退、退学をしてい る。それ以外にも卒業が確認できていない6名も含め ると、卒業を確認できた学生は26名のみである。留学 生54名中、半数しか卒業していない状況を見ると、留 学生にとって日本の地で勉学に励むことは決して容易

人数 人数

1908 1 1933 2 1912 3 1934 2 1913 2 1935 1 1916 1 1937 3 1917 3 1938 4 1923 2 1939 1 1924 1 1940 2 1925 1 1941 5 1926 1 1942 9 1927 1 1943 2 1931 2 1944 3 1932 1 1945 1

(11)

なものではなかったことが考えられる。

 入学時の年齢を見ると、一番若い留学生は高校卒業の年齢にあたる18歳で2人、20 代前半が40人、20代後半が6人、30代以上が4人で、最高年齢では37歳の新入生がい た。しかし中には韓国内で牧会経験を積んだ後に留学してきた者もいた16

 最初の神学部への留学は1908年入学の洪秉璇である。彼に関する記事が『同志社時 報』に掲載されている。「神學撰科生 朝鮮京城の洪乘䰱は在學三年本年歸國に付き 特に本校より修業證書を授輿せり、朝鮮人にして本校より證書を領授せしはこれを嚆 矢とす」17。これによると洪秉旋は神学部のみならず同志社への韓国人留学生第1号 であることが確認できる。彼は私立京城学堂在学中に日本組合教会の推薦を受けて同 志社に留学した。この京城学堂は、渡瀬常吉が1899年から1907年まで教育活動を行っ ていた学堂であり、朝鮮教化のための第一歩としてつくられたものである。まさに

「朝鮮に対する日本の文化政策を民間レベルで行おう」18とするものであった。洪秉 旋の入学時の保証人は渡瀬で、彼は帰国後もしばらく組合教会の牧師として働いた。

 日韓併合以前の留学生はこの洪秉旋のみである。1910年に日韓併合となり、その後 1910年代の留学生は京城学堂と組合教会の出身が主だった。しかし1919年の三・一独 立運動以後は、組合教会の伝道目的が朝鮮総督府と協力し、民衆を日本的に教化する ものであったことから、人々は組合教会と距離を置くようになった。こうして同志社 への留学者数は三・一独立運動以降に減少を見せるが、1930年代より徐々に増えてき た。これは韓国社会の日本に対する意識の変化が影響している。1910年代〜20年代は

「抗日民族主義の意識が強く反映」していたが、1930年代〜40年代になると社会全体 が「日本と日本留学に対してより開放的」になったためである19

 1988年に同志社大学留学生会によって発行された「日本人と外国人」の中で河野仁 昭は朝 鮮人留学生が1925年に記念植樹を行った出来事 20に触れ、植樹された木々たち はキャンパスの拡大により、植え替えられたりしたため現存を確認するのは難しいと 述べている21。しかしこの記事は、同志社大学及び同志社関係校に在籍する韓国人留 学生たちがひとつとなり活動していたと思わせる出来事である。

6.韓国留学生の生活−寮生活(此春寮の場合)

 此春寮は同志社大学の男子寮の一つである。その前身は同志社の西側に位置してい た、第12寮だった。西寮と呼ばれていたこの寮は1939年に寮の新築の話が持ち込ま れ、場所を移転し此春寮となった。創立当時の入寮生は神学部生が大半であり、その 中には留学生も含まれていた。しかし外国人留学生という表記はなく、一寮生として 記されている。創氏改名により日本名を強いられていた学生もあり、正確な人数を把

(12)

握するのは難しいが、『此春寮三〇年史』

に以下の者が留学生として記されていた。

1940年 朴商来、方華日、金徳俊、安玉柱、鄭大爲、権東哲、禹益鉉、徐南同、尹龍恒、尹 敬道、李恵徳、咸泰徹、裴?(以上13名)

1941年 金鉄鉉、李恵徳、金徳俊、安玉柱、尹敬道、尹龍恒、咸泰徹、揚光和、載宣謙、

(以上9名)

1942年

金徳俊、尹敬道、咸泰徹、尹龍恒、李恵徳、鄭大爲、権東哲、安玉柱、金鉄鉉、揚 光和、載宣謙、呉銀洙、金泰有、韓皙㬢、姚濂、方山俊弘、岩本光正、文佌奭〔平 文一[注:筆者記入]〕(以上18名)

1943年 呉銀洙、李恵徳、金鉄鉉、韓皙㬢、青山甲孫、文佌奭、方山俊弘、姚濂、金川春 有、徳山聖二、載宣謙、安?、伊?韓?、(以上14名)

1944年 青山甲孫、金元治、松浦光国、平沼基漢、鄭児玉、道川鶴根(以上6名)

1945年 8月15日現在でなし。

 これによると中国、韓国の35名の外国人在寮生が確認できる。これらを学籍簿と照 らし合わせて確認できる韓国人留学生は朴商来、方華日、金徳俊、鄭大爲、権東哲、

禹益鉉、徐南同、尹龍恒[尹聖範]、尹敬道、呉銀洙、韓皙㬢、文佌奭(平文一)、方 山俊弘、岩本光正、金元治、道川鶴根の16名である。この内10名の卒業が確認でき る。

 此春寮は多い時期で在寮生の三分の一を留学生が占めていた。それにも関わらず、

これら留学生たちの記録があまり残されていないのは、留学生という枠で彼らをくく ろうとしていないことによるものとみられる。これは日本人学生が、留学生に対し

「被抑圧国の留学生という問題意識さえなかった」22

ことを物語っていよう。目に見

える差別や抑圧はなかったが、問題意識のなさにこそ大きな問題点があるといえる。

ここで此春寮『寮日誌』よりまとめられた年表を見ていく。残されている韓国人留学 生の記事を読みながら、彼らがどのような状況下にあったのかを探ってみたい。此春 寮には前史の西寮から続いている時代を含めると計15冊(1936年5月〜1962年2月)の 日誌が残されている。しかし、欠けている部分もあり、当時の全てを知ることは出来 ない。特に1945年前後の記録は少ない。そしてまたこれらの記録は必ずしも、寮生の 率直な感想や評価が述べられているわけでもない。それでも少なからず、その当時の 様子を探ることができるであろう。ここでは主に韓国人留学生と関係ある記事を記す ことにする。

(13)

1936年12月12日 洪、鄭両兄特高課より招換(ママ)あり出頭せり

1937年2月17日 宋判吉兄結核性脳膜炎と判定さる帝大医内科に入院 度々電報を 打ち足るも郷里よりの返信なし−中略−病状としては脳を侵され たる為、病名は結核性粟粒 脳膜炎なりと、近親者の速に来られ ん事を望む。

2月23日 午前8時15分宋判吉兄長逝せらる。留学生諸氏徳学生監病院に議 す。−中略−同兄は御骨をもって直に帰鮮する事にせり。−中略

−午後4時より病院に於て永訣式催され、朝鮮人教会牧師蘆氏司 式せらる。

2月24日 宋兄火葬執行せらる。午後9時より寮玄関にて寮告別式。

2月25日 中立売署特高警察専務田中和七、寮長に面会を求め、宋兄の臨終 に関して質問あり23

 以上が最初に年表で確認できる出来事である。洪、鄭は筆者が集めた学籍簿からは 確認できない。また1935年4月に発行された『同志社朝鮮留學生學友會々員名簿』か らも、この2人は確認できない。そのため韓国人留学生であるとの判断は下しにく い。宋判吉に関しても学籍簿に確認は出来ないが、「帰鮮」と記されていること、ま た永訣式の司式を行ったのが朝鮮人教会の牧師であることを踏まえると、韓国人留学 生とみて間違いない。またこの蘆氏は京都教会(在日大韓基督敎京都敎會)の蘆震鉉 牧師であろう。火葬が行われたすぐ翌日に、特高が面会に来ていることから見ても、

当時どれほど厳しく韓国人が監視の対象とされていたかが分かる。

 またこの宋判吉の記述を最後に、それ以降の日誌に「留学生」という文字は見当た らない。此春寮が竣工する頃(1940年)には日本の植民地支配下にあった韓国人、台 湾人に対する同化政策が確立され、日本人の留学生に対する意識の変化を見ることが できる24

1939年2月7日 徐南洞兄中立売署に留置さる。昼間署員2名来りて同兄の室を捜 査して引き上げたる由、在鮮の友人にて当局の忌憚に触れたる者 あり、其者の所有せる同兄の手紙により手配ありたるものとは思 はるる由、寒さの折一日も早く釈放さるる様祈る。

2月13日 徐兄一週間にして無事釈放、心身共に些かも故障なかりしは歓び に堪えず25

 1938年4月に公布された国家総動員法は日本をますます戦争の道へと進ませた。翌

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1939年には宗教団体法が成立し1940年に施行。国の全総力が戦争へと傾けられた。

 徐南同はそのような時局の中にあった1936年に同志社予科に入学、1938年に文学部 神学科へ入学、1941年3月に卒業した。彼は5年間の留学生活を終え、帰国後は牧会の 現場に携わった彼は、韓国の民衆神学を形成し全世界に広めた人物として知られてい る26

1940年1月15日 寮会、新寮での注意 (1)移転は20日、所持品、夜具など日光消毒 すること、釘、ピンを打つことを禁ず。(2)電熱器の使用禁止、

木炭俵を自室におくことを禁ず。(3)礼拝堂は礼拝にのみ、朝礼 拝を廃し、夕拝とす。婦人訪問客の居室での対応を禁ず。万年 床、厳禁。水洗便所の使用法を誤らざること。(4)宿泊室使用、

神学部の先輩、牧師、寄附者など。(5)掃除は朝食前全員で。

1940年7月3日 明日より予科生試験、朝鮮の兄弟等が早く帰るので寮も少し閑散 になりかけた27

 これは此春寮竣工前に作成された寮の規則である。当時の寮生活がうかがえる資料 である。万年床の厳禁や便所の使用方法といった生活面からも注意を促しているとこ ろをみると、共同生活をより円滑にするための配慮がうかがえる。こうして1940年1 月20日より此春寮での生活が始まった。夏休み間近になると韓国人留学生が帰省した との記載がある。

1941年4月25日 靖国神社臨時大祭 早天祈禱会を行い、英霊並びに御遺族のため に祈禱を捧ぐ。

5月16日 新島会館前に集合し、午前7時、伊勢御参拝の為、建春門をお出 ましの陛下を御送申上げた。

9月10日 第二学期寮生活開始、報国隊結成式。

12月16日 上賀茂神社にて同志社の戦勝祈願祭あり。

1942年2月11日 紀元節早天祈禱会、共に国運の隆昌を祈り合った 4月16日 学部の者のみ戦勝祈願行軍を行う28

 この頃になると上記のような記述が増えている。寮生もまた日本国民の一人とし て、「お国のために祈りを捧げる」ようになった。彼らの心中はこの記述からは分か らないが、日本人学生はともかく、留学生たちの思いを察すると胸が痛む。彼らはど のような思いを秘めながら毎日を送っていたのだろうか。「同化」の中に組み込まれ

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当然のように日本人として扱われた彼らの胸の叫びが想像できる。

1943年11月16日 宗教班主催、出陣学徒激励会。平文、方山両兄(何れも半島の兄 弟)特別志願兵の届けを提出さる、感謝なり。

12月5日 朝食後、帰鮮、志願兵検査をうけらるる岩本兄の送別会を行う。

12月18日 平文、方山、西原三兄壮行会

4月10日 半島の兄弟達が相次いで退寮さるることは遺憾なことである29。  この記述を最後に韓国人留学生の記述は見当たらない。

7、戦時下の留学生の学生生活

 大学神学科は1943年10月19日から22日に「宮川実践学講座」を開催した。内容は魚 木忠一「宮川経輝先生と日本基督教神学」、牧野虎次「宮川経輝先生の牧会」、沢潟久 孝「上代の御製に拝する大御心」、小崎弘道「日支基督教徒の提携」、山口金作「牧師 の自己修養に就いて」などであり、神学科らしい内容のものだったことがうかがえ る30。翌年の1944年10月17日から20日においても神学科による学徒練成会「海老名日本 神学講座」が開かれた31。両講座は名目上学徒練成会とされていたが、この時期の同 志社の神学教育を顕著に表わしているものだろう。上野直蔵は「同志社神学の灯を、

戦時下の最悪の状況下においても、ともしつづけた証」と述べている。確かに、同志 社の神学教育が戦時下において唯一の大学水準での研究機関であり、それを維持し続 けようとしていたことが見受けられる。しかし一方では当時の複雑な状況の中、戦争 への協力体制が取られ、韓国人留学の中には学徒出陣を強いられた学生も多かった。

 文佌奭(平文一)は1943年12月に学徒出陣が決まった。学徒出陣をすれば日本基督 教団より補教師の受験資格が与えられた。彼は神学科を続けていくのは困難と考え、

補教師試験を受けることにした。学科試験と口述試験が行われるのだが、文佌奭は口 述試験が心配でならず、試験官を務めることになる富森京次のもとへ相談に行った。

富森はただ2点だけを注意するように促した。ひとつは終末論に関するもので、主の 再臨の問題は精神的の問題であるとすること。もうひとつは、伝道は日本で行うつも りであると答えるようにするとの事だった。しかし文佌奭は試験当日、自らの考えを 述べた。すなわち、終末論を信じており、主の再臨はやって来るのだということ、そ して、将来日本で伝道するつもりはないと答えた。試験後、富森からは叱責を受けた が、文佌奭も反論した。すると、富森は彼を慰めたという32

 戦時体制は神学教育にも影響を及ばした。神学は個人の信仰と密接な関わりの中に

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ある。そのため神学は信仰告白のひとつの形と言えるだろう。しかし戦時下の神学、

さらに言うならばキリスト教もまた、国家のため、日本のためにと、戦局を鼓舞する ための精神を育む材料の一部に組み込まれていたことは否めない。

 その例として次の卒業論文があげられる。

 戦局への流れが高まった1944年、竹本寛治は「預言者のメシヤ思想」と題した卒業 論文を提出した。この序説には以下の文面が見受けられた。

「時恰も大東亜戰争開戰以来戰局は愈々重大となり、サイパンに於て字の如く血流の 決戰は展開され、我が聯合艦隊一部遂に出動すと報道されてゐる此の現實の中に於 て、預言者のメシヤ思想を考究し、而も此メシヤ思想こそは幾夛の苦難を通して我が 愛する日本に於て完成される時期は到来したのであるとの感喜と希望に燃えて預言者 のメシヤ思想を書き始めたのである」33

 1944年9月卒業の竹本は、卒業論文執筆中にサイパン占領を迎えた。メシヤの思想 がこの日本において完成される日が来た、と確信し筆を走らせていたのだろう。彼は 1942年中央神学校予科2年の学びを終え、同志社の神学科選科に入学した。在学中に は有賀と魚木の両方からそれぞれに教会史、教理史を学び、また教会史特講を有賀に 教わっている。また聖書学にも力を入れて学んでいたようである34

 前述の文佌奭と共に学徒出陣が決まったもう一人の留学生がいる。韓皙㬢である。

彼は1976年此春寮の寮史編纂作業におけるインタビューの中で当時の様子を語ってい る。

 「私が同志社の予科に入学したのは、1939年の春です。あくる年に病気をして聖隷 保養園へ行って帰ってくるのが1942年3月。そして4月に此春寮に入るわけです。翌43 年に特別志願兵として徴兵されるわけですが、12月18日に壮行会をしてもらっていま す。寮で壮行会があったかどうかは覚えていないんです。私もそうでしたけど、みん な興奮していましたから……。同志社全体の特別志願兵を集めて催されたことを記憶 にあります。私が代表で挨拶しました。

 特別志願兵をとると決まったのが9月末だったと思います。ちょうど新学期が始 まった直後にその決定がでたもんですから、みんな勉強に手がつかない。それから逃 げ出し始めたわけです。私も、10月にはいってから浜松へ逃げて山のなかにこもった んですけど、平文君のように両親が迫害を受けるということはなかったですね、両親 が日本にいたか、朝鮮にいたかの相違でしょう。私の家族は、当時、大阪の猪飼野に いましたが、それでも特高警察が二度三度たずねてきておやじや弟らに、私が軍隊へ 行ったらどれだけ家族が良くなるか、行かなかったらどんなふうになるか、おどした たりすかしたりしていやがらせをしました。家からそんな連絡があって、私は、自分 よりも家族がえらいことになったらいかんということで帰ってきて兵隊検査を受けた

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わけです。

 忘れもしませんが、雪のちらつく寒い日でしてね。風邪でもひかんかいなァ、と 思って薄着をして行ったんですが、…。そして、帰りにね、大阪城の門を出たら白い 雪がさらさらと降っていました。これで自分の人生が大きく変わっていくのか、と暗 いく

らい気持ちになって…。あの日のことは忘れられませんよ」35

 韓皙㬢は「特別志願兵の届けを提出される、感謝なり」との記述に対し「感謝だっ て?とんでもない!」36と打ち消してこの当時の様子を語ったとある。彼の証言が示 すように決して「感謝」できるものでもなく、むしろ逃げ出したい現実を叩き付けら れたのだ。それは日本人学生たちの現実を韓国人留学生にも押し付けたといえる。

「日本人学生は朝鮮人留学生が志願することをあたりまえだと考えていた。自分たち もみんな志願するからね。朝鮮は日本の一部だと考えていたから……日本の国策で

ね」37

と彼が語るように、韓国人留学生たちは日本人同様「お国のために戦え」と強

いられた。それは彼ら留学生にどれほどの苦悩を強い、大きな痛みを与えていたこと か。

 一方で次のようなエピソードも残されている。

 敗戦直後、魚木忠一は金元冶に「わたしの日本的キリスト教は間違いであった」38 と述べたという。この魚木の姿勢に集約されるように、戦時下の神学教育は日本にお けるキリスト教の在り方を模索し探求するものだったと言えよう。

 これらの資料や証言を見ていくと戦時下の留学生の学生生活は、一貫して同志社神 学教育を受け、充実していたものであったとは言い難い。しかし日本人学生もそうで あったように、戦時下おいてはこれが現実であった。留学生は同化政策の流れに呑ま れ、時局の波に逆らうことはできなかった。時には心にもない言葉を発しなくてはな らなかった。

 以下の記録は在日大韓京都教会50年史に残されていたものである。

「1941年7月26日、当時京都教会伝道師の役割をしていた同志社大学神学部学生で あった玉敬錫(現在釜山の玉文錫牧師)と千用甲、権禮錫両執事と南部教会担任の 黄善伊牧師、金在術長老、金基碩、権泳斗氏(主日学校教師)の数名は、キリスト者 は民族運動者で、不逞鮮人(ママ)という名目で警察に検挙され投獄された。投獄50 余日間、言い表すことのできない拷問と侮辱を受けた後、同年9月1日、起訴猶予処分 を受け、41年9月13日出獄釈放された」 39

 これによると、神学部に在籍していた玉敬錫は治安維持法により逮捕されたことが 分かる。戦時下は日本の多くの教会が苦難の時を過ごしたように、韓国人の教会に とっても苦難の時であった。留学生は信仰生活、教会生活においても受難の時を過ご さなければならなかった。

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8、帰国後の韓国人留学生

 戦前・戦中(1908年〜1945年)に同志社大学、専門学校あるいは大学予科で学んだ 韓国人留学生は292名であった。同志社諸学校(中学、女学校等)全てを含めると、

その数は677名に及ぶ40。これらの韓国人留学生の帰国後の活動は、多くの分野に及 んでいる。キリスト教界、教育界、文学界、社会福祉・社会事業界、政界・法曹界、

産業・経済界、スポーツ界と多様な場でその活躍を見せた41

 神学部出身の留学生多くは、帰国後牧師として働き、韓国教会の発展に力を注い だ。しかし一方では教師として若い世代の育成に関わる者、社会福祉・社会事業の場 でその力を発揮する者、また独立運動に関わり命を落とす者もいた。彼らは韓国社会 でキリスト者として歩みを通し、様々な役割を果たした。ここでは神学部出身の留学 生たちの帰国後の活動を中心に、主だった人物を取り上げ紹介していく。また回顧録 などから当時の学生生活も振り返ってみたい。

 神学部出身者の多くは、牧会の現場へと出ていった。同志社は組合教会の流れを汲 むが、留学生たちの所属する教派は長老派とメソジスト派が目立った42。ただ初期留 学生は京城学堂や組合教会を通じて入学する者が多く、帰国後に組合教会の牧師とし て牧会活動に携わった洪秉旋、呉相淳、庾錫祐などが例として挙げられる43。しかし 注目すべき点は、彼らは1910年代の後半になると組合教会から離れていったことであ る。これは彼らが組合教会の掲げていた「朝鮮伝道論」の「隠れた意図」に気付いた ために、離れていったとみることができる44し、最近の研究では、当初は他の欧米宣 教師の教会よりも渡瀬の組合教会のほうが比較的に経済的に豊かであり、また自主性 が認められていたという指摘もある45。こうして組合教会は1919年の三・一独立運動 以降衰退していき、同志社への留学も一時少なくなった。その後韓国内において長老 派とメソジスト派の教会が主流となり、留学生たちも教派に関係なく留学してくるよ うになる。彼らの帰国後の牧会現場はその意味で多様であった。ここでは主に牧会と 神学に関わった人物を紹介する。

 庾錫祐46(1984- ?)は、京城学堂を卒業し渡瀬の支援で同志社へ入学した。しか し1915年同志社を中退して帰国、組合教会の伝道師として働くが、三・一独立運動の 間にソウル広南クァンナム教会の伝道師となり活動した。万歳運動では教会の信徒と 共に独立運動のビラ「同胞よ、立ち上がれ!」を制作、配布した疑いで逮捕され た47

 金泰黙48(1908-?)は、幼少期より教会に通いキリスト教に触れ、牧師になるこ とを志し中学より同志社に進学し、その後予科を経て1936年の文学部神学科を卒業す

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るまで京都で過ごした。妻の全順得も同志社女子専門学校(英文科)を経て、37年に 大学神学科(社会事業専攻)を卒業した。金泰黙は同志社時代の思い出を次のように 語っている。「海老名弾正先生の講演を聞いて感激し、新島先生を私淑して同志社に 入学し、9年間多くの先生方にお世話になりました。−中略−予科時代には偉大な教 理学者、日野真澄先生から基督教倫理を教わったことであります。神学部では大塚節 治先生、特に私たちをオベリンでお世話して下さった富森京次先生は一生を通じて忘 れられない恩人であります。堀貞一牧師のような精神的指導者を想い出すと、同時 に、新島先生の奥様のお話などをよく思い出します」と49。金泰黙は「同志社は韓国 人学生の理想郷でありました」と語っている。同志社の校風が新島の自由と自愛(マ マ)の精神を受け継いでいたため、差別なしに関わってくれたというのだ。また

「『良心を手腕に運用せよ』との、新島先生の教訓は、私達同窓生を一貫して貫く根本 的な精神であります。」とも語るように同志社精神に深く影響されたことがうかがえ る50。帰国後金泉

YMCA

の幹事、大邱

YMCA

の総務を歴任するも、1939年富森の勧 めでアメリカに渡り、オベリン大学神学部、マコーミック神学校で学んだ。その後、

アメリカ国務省と国防省の顧問として勤務する。特に1943年から1945年までサンフラ ンシスコにおいて、日本人向けの放送を担当し、日本語で降伏を勧めるアナウンスを していた。

 戦後は一旦帰国し、故郷の大邱で慶北道知事の秘書を務め、韓国の立法確立の手助 けをした。1948年再びアメリカへ渡り、ワシントン韓人教会、オークランド韓人教 会、ハワイ韓人教会にて牧会活動を行う。1954年韓国へ戻り、ソウルの南大門教会の 牧師や中央神学校の校長、大韓

YMCA

連盟総務や韓国精神衛生院院長を歴任した。

1960年アメリカのジョージワシントン大学で心理学を学び、2年後に帰国、大邱信明 女子高等学校の校長を務める。退職後はサンフランシスコに渡った51

 方華日52(1923-1952)は牧師の息子に生まれ、父が中国へ宣教師として派遣された ので家族で中国に移住して高校まで中国で過ごし、その後に同志社へ留学した。帰国 後、長老派の牧師となり、国内のいくつかの教会で牧会をした後、中国上海韓人教会 を担当した。戦後、韓国キリスト教教会協議会(KNCC)の幹事を務めた。朝鮮戦争 中に暴行を振るう米軍を咎めようとした際、彼らが撃った銃弾にあたり死亡した53。  徐南同54 (1918-1984)はアメリカの南長老会宣教部が運営する木浦永興学校と 全州新興学校を卒業し、1938年から41年まで同志社大学神学部にて学び、帰国後平壌 約翰聖書学校の教師を経て、1943年より大邱第一教会、梵魚教会、東門教会で牧会活 動を行った。1952年に韓国神学大学の教授となり、1961年より延世大学の教授になっ た。以降教養学部長、神学大学長などを歴任した。徐南同が残した業績の中で最も重 要なものは、民衆神学である。この民衆神学は韓国の神学界のみならず、全世界の神

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学界に影響を与えた5556

 尹聖範57(1916-1980)平壌光成中学校を卒業し、1939年に同志社に入学した。卒業 後帰国し、幾つかの教会で牧会活動をしたあと1946年にメソジスト神学校の教授とな り、その後の生涯を通して組織神学と宗教哲学を講義した。1963年に彼が執筆した論 文が土着化神学論争を導き、以後数々の著書を通して土着化神学の理論を定立した。

1970年に韓国宗教史学会の会長、1977年にメソジスト神学大学の学長を歴任した58。 尹聖範は「私が入学した頃にはすでにバルト神学が流行っていた時でしたが、同志社 はバルト神学の紹介の先駆者」59であったと語り、このバルト神学に触れたことが、

彼が後にバルトの下で学ぶきっかけの一つになったという。「同志社は、私の学問的 成長のための、最初のねぐらになった」とし「教授たちの温かい愛情ある指導は、私 にとって初めて経験する学問的雰囲気だった」と振り返っている60

 また忘れられない出来事として次のことを挙げている。「某教会の牧師をしておら れた講師が実践神学の時間につぎのようにいわれました。すなわち『自分は神を愛す ることができるが、自分の父は絶対に愛することができない』と。私にとってはあま りにも意外な爆弾発言でありました。これは私の父母に対する不孝のせいでもありま したでしょうが、神学的にも重大な問題でありました。なぜならば、信仰と倫理の問 題に関連する一つの矛盾を発見したからであります」61と。

 また徐正敏は、徐南同と尹聖範の神学形成は同志社の神学教育を受けたことが影響 していると述べている。彼らは「時代的限界はあるにしろ、『日本的神学』における 比較的正直な論理に触れる機会」62を与えられたとし、その具体例として日本的キリ スト教を模索し続けた魚木より教えを受けたことを挙げている63

 しかしこの見解については簡単に結論づけられるものではなく、慎重かつ客観的な 考察が必要である。なぜなら魚木の日本的キリスト教に関しても、その評価が簡単に まとめられるものではないこと、そして資料として根拠づけられるものがはっきりと 確認されていないからである。

 韓国の進歩主義神学の確立と、同志社の進歩的な神学教育との関係はこれからもっ と研究を深めなければならないが、少なからず影響があったことは、尹聖範の証言か らみてもうかがえる。

 同志社神学部で学んだ留学生の帰国後の活動の幅は実に広い。教会の現場に留まら ず、時代の中にあって社会と向き合い、そしてキリスト教と向き合い、己の神学を展 開しようとした結果が、こうした留学生たちの多様な活動を生み出したと考えられ る。特にキリスト教と社会との関わりを模索しようとする姿は、同志社の神学教育が 取り組んでいた社会学と神学を同じ土壌で学ぼうとしたことにも共通する部分であ る。神学のみに留まらず、哲学や宗教学、社会学と幅広い分野を学びながら、神学を

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捉えたことが留学生たちのその後の多様な活躍に繋がったのではないかといえよう。

 このように多様な活動を見せた韓国人留学生たちを見るとき、同志社との関係性で 注目すべき点が浮かび上がってくる。李徳周はその特徴を次のようにまとめた。一つ は「日本組合との教会関係性」、二つ目は「進歩主義神学の探究」、最後に「社会的参 与と、キリスト教社会主義の模索」である64

 つまり韓国教会と組合教会の関わり、進歩主義神学の形成と発展との関わり、キリ スト教の社会貢献と社会運動への関わり、この三つの視点から同志社と韓国キリスト 教の関係性をみることができるというわけである。この三つの視点を踏まえ、韓国人 留学生の同志社留学を評価すると、当初の韓国人留学生は「日本の朝鮮半島侵略と支 配政策を宗教的な次元で後援するために用意された京城学堂と組合教会の朝鮮伝道論 と深く関連」していたため、「韓国の民族運動史においては、否定的な評価を受ける しかなかった」が、戦前、戦中、戦後の留学生たちの働きが「そのような否定的な評 価を飛び越え同志社と韓国教会、延いては日韓キリスト教交流史において肯定的、友 好的な関係の良い例となった」という結果が見えてくるのだ65

 おわりに

 本論文では、韓国からやってきた留学生たちが、日本でどのような神学を学び、ま た戦時下でどのような留学生活を過ごしたのかを探った。そして同志社で学んだ韓国 人留学生のその後の活躍の一部を紹介した。資料から読み解く限り、同志社での神学 教育は当時としては高い水準であり、また充実した教員陣がそろっていた。その中で 留学生たちは知識と見聞を深めたことがうかがえた。しかし一方では、戦時下の同化 政策によって進められた「日本人化」を余儀なく強いられた。そこにはキリスト者と して、そして韓国人としての苦悩があったこともまた事実である。そうした留学生活 を通して得た体験と思索が、留学生一人ひとりのその後の歩みに大きな影響を与えた ことは、彼らの帰国後の様々な活動からうかがえる。彼らの活躍の源流が同志社神学 部における学びにあったと言うのは過言であるかもしれないが、留学期間に得た経験 は負の体験を含めて、彼らに様々な影響を及ばした。50名を超える留学生たちが同志 社神学部で学び感じたことは、韓国の教会、学校、また社会福祉の場で今もなお受け 継がれているといえる。

 同志社神学部で学んだ者たちの中に、こうした韓国人留学生がいたのだ、というこ とを本論文によって明らかにしたかった。それは彼らが、韓国と日本、もっと言うな らば韓国のキリスト教と日本のキリスト教という二本の紐を結ぶ結び目の存在とし て、研究をする必要があると感じたからだ。留学生たち自らが、日韓キリスト教史の

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架け橋になろうという思いがあったかは定かではない。しかし、歴史を振り返る時、

韓国人留学生が日本の「同志社神学部」で学んだという事実は確かな出来事だ。それ ならば、この事実を掘り起こし、留学生たちの存在から当時の日本のキリスト教を知 り、またそれが後の韓国のキリスト教とどのように関わっていったのかを少しでも知 ることは、韓国人留学生の結び目としての役割を明らかにするのに役立つと考える。

韓国人留学生が同志社と韓国教会、延いては日本キリスト教と韓国キリスト教の関係 性を物語る上で、鍵であることを確認できたことを踏まえて、これからの日韓のキリ スト教の在り方を展望していきたい。

 本論文で明らかに出来たのは、同志社の韓国人留学生という枠組みの中ではほんの 一部分である。今後も韓国人留学生、特にキリスト教に関わる留学生たちの研究は進 めていかなければならない。筆者の未熟さ故に、本論文では他大学神学部の韓国人留 学生との比較、個々の留学生の教会生活など、まだまだ研究課題を残すことになった が、これからも課題として受け止めていきたい。日韓両国のキリスト教の過去を知 り、現在を受け止めてこそ、未来を展望できるはずだからである。そして日韓のキリ スト教関係史だけに留まらず、アジアキリスト教の関係史を振り返り、未来における アジアキリスト教共同体の関係を描くための一つの材料となることを願う。

1 宇治郷は、その研究を以下の3領域に区分している。第1は、「旧韓末、日韓併合初期の留学生研究」、

第2に、「朝鮮女性留学史」、そして第3に「個別大学の留学生史に関する研究」とし、主な研究成果 に、以下のものを挙げている。

第1、旧韓末、日韓併合初期の留学生研究」

阿部洋「旧韓末の日本留学生(1)〜(3)」『韓』第3巻、5、6、12号、韓国研究院、1974年。

朴己煥「韓国人の日本留学生―3・1独立運動期までの早稲田大学の例を中心に」『待兼山論叢』30号、

大阪大学文学部、1996年。

武井一『皇室特派留学生―大韓帝国からの50人』白水社、2005年。

第2、 朝鮮女性留学史

朴宣美『朝鮮女性の知の回遊植民地文化支配と日本留学』山川出版社、2005年。

2

3 その一端が、韓国から関西学院神学部に留学した韓国人留学生に関する論文としてまとめられてい る。李徳周「関西学院神学部の韓国人留学生たちの牧会と神学活動」『関西学院史紀要』(第15号)、

2009年、7〜14頁。

4 同志社大学『学制資料』同志社大学教務部学事課、2001年、6〜7ページ。

(23)

5 学籍簿上では55名の名前が確認できたが、1名は創氏改名によって名前が変わっていたが、同一人物 であることが確認できたので留学生の数は54名である。

6 同志社『同志社百年史 資料編二』(以下『百年史』)1979年、1478頁。

7 『百年史』、1371〜1372頁。

8 『百年史』、1382〜1383頁、1941年4月、改正により文学部の神学科・英文科・哲学科を統合、再編。

文学部神学科と文学部文化学科となった。

9 成績原簿は次の7冊。同志社大学社史資料センター所蔵。

「同志社大学神学部〈明治39年10月〜明治46年3月〉」

「同志社大学神学部〈大正2年〜大正7年〉」

「同志社大学神学部〈大正8年〜大正12年3月〉」

「同志社大学神学科〈大正11年〉」

「同志社専門学校神学部〈大正12年4月〜大正16年3月〉」

「同志社大学神学部〈大正14年卒〜昭和23年入学〉」

「同志社大学文学部神学専攻〈大正11年〜〉」

10 これらの科目名の表記はすべて当用漢字と用い、「猶太」「希臘」など、現在ではカタカナ表記が一般 化している語句に関してはそれに従いカタカナ表記にした。

11 1923年により刊行されている学術雑誌、日本で最も古い神学論集である。

12 原誠・仲程愛美「戦前の同志社神学部で学んだ韓国人留学生」『同志社神学部の韓国人留学生に関す る総合的研究』同志社大学神学部・神学研究科、2010年、5頁。

13 同志社編『同志社職員録』1921年〜1945年各年度参照、同志社大学図書館所蔵。

14 日本キリスト教歴史大事典編集委員会編『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年。

15 同上、1116頁。

16 李徳周「初期同志社大学神学部の韓国人留学生に関する研究(1908〜1945年)」『同志社神学部の韓国 人留学生に関する総合的研究』、同志社大学神学部・神学研究科、2010年、29〜31頁。

17 『同志社時報第七十六號 明治四十四年四月廿五日(6)』1911年5月。

18 土肥昭夫『日本プロテスタント・キリスト教史』新教出版社、1980年、309頁。

19 李徳周、前掲論文、30頁。

20 同志社校友会『同志社新報』第二百三十七号(以下『新報』)1926年1月。

21 河野仁昭「日本人と外国人―留学生の皆さんに望むこと―」同志社大学留学生会、1988年、41-42頁。

22 同志社此春寮史編纂委員会編『プロテスト群像 此春寮30年史』(以下『此春寮30年史』)同志社此春 寮史編纂委員会、1977年、103頁。

23 同上、 259頁。

24 同上、 259〜270頁。

25 同上、 261頁。

参照

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