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【論文】
ハーンと大正日本の想像力
―佐藤春夫の場合―河野 龍也
1.佐藤春夫におけるハーン文学との出会い
幻想や無意識、怪奇や恐怖といった人の心の深層を文学上の大きなテーマに据えたのが大正 期の日本であるならば、志賀直哉、芥川龍之介、佐藤春夫はこの分野の代表として最初に名前 が挙がる作家だろう。そして単にテーマの上から言えば、ラフカディオ・ハーンに対する彼ら の関心は当然高かったと思われるのだが、志賀や芥川による言及が意外にも少ないのに対し、
佐藤春夫は文字通り生涯にわたる心酔者だった。現に彼は、デビュー当初からハーンの『中国 霊異談』(
Some Chinese Ghosts, 1887)所収「孟沂
も う ぎの話」(“The Story of Ming-Y”)を『解放』
1919
年7
月号に翻訳紹介しているし、またハーンの没後30
年にあたる1934
年には、豪華限定本『小泉八雲秘稿画本 妖魔詩話』(1934.9小山書店)の出版を小泉一雄(ハーン の長男)に勧め、自らも在米記者時代のハーンの記事を『尖塔登攀記』(1934.11白水社)と して翻訳刊行するなど、知られざるハーン文学の発掘と普及に貢献している。
『尖塔登攀記』に収録された解説「小泉八雲が初期の文章に就て」(初出『文芸』1934.9)
によると、春夫のハーンに対する傾倒は古く、〈上京後間もなくだつたから、わが十九歳の春、
二十年余の昔〉〈本郷通りの古本屋で田部隆次氏著の「小泉八雲」の原刊本――忘れもせぬが 色箔で青竹の幹を現はした白つぽい表紙の菊判の厚手なのを、一円八十銭か六十銭か少々不廉 な価ではあつたが〉喜んで買い、〈以前から折にふれてはその作品を愛読してゐた作家のひととなり為 人 を追慕〉したことがきっかけだったとされている。だが、春夫の上京は
1910
年4
月(数え年19)、田部隆次による伝記『小泉八雲』(早稲田大学出版部)の出版が 1914
年4
月であることを考えると、春夫の記憶には明らかな年代の混乱がある。現在確認し得る限りでは、「孟沂 の話」の翻訳直後にあたる
1919
年7
月24
日、父豊太郎に宛てて〈昨今「小泉八雲」伝記愛 読。この人はきつと父上に気に入ります〉と書き送っているのが本書に関する最古の言及であ る。むろん初読はもっと早いはずで、少なくとも「田園の憂鬱」の構想段階に本書が強く影響 したことは疑う余地はない。また、同時期までには「孟沂の話」の底本である『中国霊異談』のほかに、『骨董』(
Kotto, 1902)を原書で読んでいた可能性もある。
上京後、詩歌から散文への転向に苦しみ、
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歳(1916年)で神奈川県都筑郡中里村(現横 浜市青葉区)で節約生活を始めるほど逼迫した春夫は、その「若隠居」としての体験をもとに「病める薔薇」(『黒潮』1917.6)を、そして「田園の憂鬱」(『中外』1918.9)を書いて 起死回生を果たした。作家・佐藤春夫誕生のこの最も重要な時期にハーンの伝記を愛読したと
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事実が意味するものは一体何か。
本稿では、大正作家に対するハーンの影響力が最も顕著に現れた例として佐藤春夫を取り上 げ、まずは春夫の直接的な言及からそのハーン観を観察する。次にデビュー作「田園の憂鬱」
と翻訳「孟沂の話」を取り上げ、ハーンの思想や文学手法が春夫の創作活動にどう活かされた かをより具体的に検証することで、第一書房版『邦訳小泉八雲全集』(1926-1928)刊行以前 の近代日本文学におけるハーン受容の一端を明らかにしてみたい。
2.春夫が描く3つのハーン像
佐藤春夫がラフカディオ・ハーンの名に触れる文章は生涯で
30
篇以上に及ぶが、そこに示 された春夫のハーンへの理解の仕方には3
つの柱がある。第一に、「生活態度が東洋的文人に通じる特異な西洋人」としてのハーン像である。例えば 春夫の代表的評論として著名な「「風流」論」(『中央公論』
1924.4)は、 1924
年2
月の「新 潮合評会」で、室生犀星の小説に意志的な、、、、「風流」の態度を見るという久米正雄・徳田秋声の
〈風流意志説〉に異議を唱え、「風流」を徹頭徹尾感覚的なもの、、、、、、
と主張した自身の〈風流感覚 説〉を展開したものである。春夫によれば、〈花烏風月やその他一切の自然物に対して全く同 胞〉であるという〈汎神論的の哲理〉こそ「風流」の本質で、〈人間が全く自然に服し切つて 人間的意志を+的にも一的にも一切働かせな〉いことがその絶対条件であるという。そしてこ の〈「花鳥風月を友」とするといふ表現〉に驚嘆した人物としてハーンの名を挙げ、彼を〈西 洋人としては最高の風流文人〉と位置づけるのである。同様の見方は「邦訳小泉八雲全集に就 て」(『報知新聞』1926.4.29)にも顕著に見られる。〈青春時代には浪漫的な唯美的な且つ やや所謂頽唐派的な傾向にも同感があつた〉ハーンの作風は〈晩年に近づくほど心境的な人格 的なものに〉変化し、〈一種東洋の文人などと実に似通うた或物を示〉すようになったという。
その精神は〈東洋から学ぶ所があつたなどといふ外面的なものではなく〉〈内面的〉な変化で あり、ハーン自身の本性に根差すものだったからこそ日本文化に深い共感が持てた。この「文 人」としてのハーンのイメージを、春夫は〈田部(註・隆次)氏の著作になる評伝「小泉八雲」
を愛読した時〉〈痛切に感じた〉と言っている。
第二に、「庶民の心情に寄り添う芸術家」としてのハーン像である。「大衆文芸私見」(『中
央公論』
1926.7)には、〈ラフカデオ・ヘルンがトルストイの芸術論に讃同して、「よい文芸
は百姓にでもわかるとトルストイの言ふのはまだ足りない。百姓のごとき生れながらの心を持 つた人々にこそ最もよく判る筈だ」といふ意味を力説してゐるのは名言である〉〈このやうな 大衆文芸は決して片手間の小使銭稼ぎのつもりでは出来ないだらう〉とあり、「小泉八雲に就 てのノート」(『文芸研究』
1928.9)にも、〈「或る女の日記」(といふ題であつたと思ふが、
或る不幸な日本の女の結婚前後から間もなく死ぬまでの事を書いたもの)を紹介した八雲には、
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トルストイの芸術論は或る点で充分同感であつたに違いない〉と述べている。
第三に、「自然(特に小動物や虫)を愛でる先天的な感性の持ち主」としてのハーン像であ る。『私の享楽論』(1956.12、朝日新聞社)には〈小泉八雲は自然の美を知ることや魚虫小 動物に対する愛情などは先天的なもので後天的にこれを与へにくいと云つてゐたやうにおぼ えてゐる。これは一面の真理で、原始人の素質をより多く遺し伝へて保存してゐるか否かが彼 の云ふ先天的な素質の問題であるが〉〈わたくしはこれを先天的の素質といふよりも一種の精 神的習慣〉〈格別に天分といふほどのものとは思つてゐない〉と述べている。同様の言及は「自 然の童話」(『群像』1947.4)や「愉快な教室」(『マドモアゼル』1960.5)など数多い。
春夫はハーンをロマン主義の天才というよりも、より庶民的な存在として捉え、自然を享楽 するその文人的な人生態度に敬意を抱いていたことが分かる。もちろん、それが学術的に「正 しい」ハーン理解であったかどうかは当面の問題ではない。例えば第一のハーン像は、大正末 期の日本文壇で大きな論議を巻き起こした「私小説(心境小説)論争」の中にハーンを担ぎ出 したものであるし、第二のハーン像もまた、関東大震災からの復興を背景に、ラジオ放送や映 画の流行、娯楽雑誌や長篇連載小説への需要の高まりという現象となって出現した大衆文化の 時代に歩調を合わせながらも、いかに反俗的な文学者の良心を保つかという春夫自身の危機意 識を反映したものだ。また第三のハーン像は、信州佐久の疎開先から戦後の頽廃を嘆き、自然 を享楽する隠遁の姿勢を示すことで表現者としての自己を立て直そうと図った時期のもので ある。それらはいずれも春夫がその折々に必要とした理想的自画像としてのハーンであろう。
もちろん重要なのは、春夫が文学者として試練の時期を迎えるごとにハーンへの言及を繰り 返し、彼の文学や人生態度の中に自分の進むべき道を見出そうとしていた事実である。そして また、春夫は戦争詩人として積極的に国策協力しながら、日本文化の卓越性を自己確認するよ うな目的でハーンを安直に利用することは決してしなかった。春夫の敬意がそれだけ根差しの 深いものだったことを物語っている。「風流」という感覚や「文人」という態度は、何も日本 人や東洋人の特権として東西文化を切断するものではなく、まして芸術家を権威づける特殊な 才能でもない。それらはすべての人間が自然への親しみという形で生来持っている普遍的感覚 なのだということを、春夫はハーンという実例から学び取っていたようなのである。
3.田部隆次『小泉八雲』と「田園の憂鬱」
それではここからデビュー作「田園の憂鬱」を取り上げ、春夫の出発期にハーンが果たした 内面的な役割を検証してみたい。本作の主人公は都会生活に疲弊した芸術家志望の青年である。
彼は郊外の農村に安息を求めてやってくるが、感性がますます過敏になり、かえって幻視や幻 聴に悩み始める。ある秋晴れの朝、自分の芸術的才能を象徴する存在として丹精してきた庭の 薔薇が、哀れな虫食いの姿で発見されたとき、彼の身体は〈おお、薔薇、汝病めり!〉という
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謎の声を繰り返し奏で始めるという内容である。本稿での引用は、決定版の『田園の憂鬱』
(1919.6、新潮社)に基づくものとする。
さて、本作の主人公が病的に見える理由を一口に言えば、それは自然現象をことごとく彼自 身の象徴に見立ててしまう思考習慣の問題と言える。克明な自然観察がすぐに自己省察へと折 り返し、観察する自分がいつの間にか観察される側にまわっているという反転現象。そこには 観察対象への同化という自己溶解の願望が現れていると同時に、同化した自分を外から観察す る別個の自分を生み出す所に自己分裂の契機が含まれている。溶解と分裂を繰り返す運動体と しての彼の心の状態は、ランプに来た馬追いをじっと観察する次のエピソードに集約的な形で 現れている。
この青い細長い形の優雅な虫は、そのきやしやな背中の頂のところだけ赤茶けた色をして 居た。彼は螢の首すぢの赤いことを初めて知り得て、それを歌つた松尾桃青の心持を感ず ることが出来た。この虫は、しばらくその円いところをぐるぐると歩いた。さうして時時、
不意に、壁の長押や、障子の棧や、取り散した書棚や、或は夜更しをしすぎて何時になれ ば寝るものともきまらない夫を勝手にさせて自分だけ先づ眠つて居る彼の妻の蚊帳の上 のどこかなどへ、身軽に飛び渡つては鳴いて見せた。「人間に生れることばかりが、必ず しも幸福ではない」と、草雲雀に就てそんなことを或る詩人が言った「今度生れ変る時に はこんな虫になるのもいい。」
こうして観察が内省を招き寄せると、彼の眼には〈シルクハットの上へう す ぱ か げ ろ う
薄羽蜉蝣のとまつて 居る小さな世界〉が見え始め、自分もその世界の中で電燈の光に照らされているような気分に 浸りはじめる。しかし、ふと振り仰いだ目にランプの燈が見え、そこで初めて空想と現実とを 混同していた自分の錯覚に気付いて愕然となるという場面が続く。
文中の〈詩人〉がハーンを指すことは言うまでもないだろうi。ただし、この一文は「草雲 雀」(“Kusa-Hibari”)ではなくii、同じ単行本『骨董』に収録された「餓鬼」(“Gaki”)
の末尾にある一節、“In fact I have not been able to convince myself that it is really an
inestimable privilege to be reborn a human being. And if the thinking of this thought, and the act of writing it down, must inevitably affect my next rebirth, then let me hope that the state to which I am destined will not be worse than that of a cicada or of a dragon-fly”
の方に近い。さらには、引用中に示唆される伝・松尾芭蕉作の俳句〈昼見れば首筋赤き螢かな〉
も、ハーンが「螢」(“Fireflies”『骨董』所収)の中で“Oh, this firefly! –seen by daylight,
the nape of its neck is red!”と英訳紹介した一句なのである(ただし芭蕉の作という記述は
ない)。ちなみに、前述の「小泉八雲に就てのノート」で言及されていた「或る女の日記」(“A59
Woman’ s Diary”)も『骨董』収録の文章である。春夫が原書で同書に親しんでいたと推測
されるゆえんであるiii。
もっとも、引用個所により直接的に関わるのは、田部隆次の『小泉八雲』第
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章「刻苦精 励と趣味」の一節だろう。なぜなら、ハーンの思想と人柄を紹介したこの章では特に「餓鬼」が大きく取り上げられ、〈実際、再び人間と生れ代ることを非常の恩沢とばかり考ふることが できない。もし、かう考へて、かう書いて置くことが、来世の因縁をつくるものなら、自分は 蝉か蜻蛉になつて生れたい〉(p.338)という、先の英文に対応する箇所の訳文が示されてい るからである。しかもこれは「草雲雀」の紹介文(p337)の直後に、同じ文脈の中で登場す る。春夫が出典を取り違えた理由もこれで十分説明できるのである。
さて、田部は「草雲雀」の思想を、〈生命の大海では此一微細の小虫のうちに動いて居る魂 も自分の魂も同じいことを述べた〉と要約している。「田園の憂鬱」や「「風流」論」の成立 を考えるとき、田部の解説を経由したハーンのこの汎神論的な発想がどれほど重要かはいくら 強調してもし過ぎるということがない。自然への没我的な愛好心は春夫文学の全体を特徴づけ る要素だが、その発想源には国木田独歩と並んで、ハーンの存在を想定すべきだろう。
馬追いを観察する場面で、主人公がランプの光と電燈の光とを混同しているのは、ごく常識 的に解釈すれば、〈都会に対するノスタルジア〉を感じ始めた無意識領域からのシグナルと見 なすことができる。だが、ここでわざわざハーンが引用されたことの意味を重視するなら、こ れこそ虫を見つめるうちに、自分がその虫になってしまうという生まれ変わりの幻想を語った 場面なのだ。田舎暮らしを始めた当初、主人公は羽化したばかりの蝉の生命力に感動し、〈こ の小さな虫は己だ!〉という無言の叫びを発して蝉になり切ろうとしている。その祈りはこの 場面にも反復されているのである。
春夫が蝉への祈りやこの場面で試みたのは、凝視(精神集中)によって個体の殻から解き放 たれ、己が他なるものに成り代わってしまうという一種の催眠状態、あるいは仮死状態の感覚 を言葉に置き換えてみせることだった。『仏の国の落穂』(Gleanings in Buddha-Filds, 1897)
所収「生神様」(“A living God”)において、ハーンにも同様の試みが見られることは、二 人の作家に共通の資質が存在することを裏付けるものだろう。この文章の中で、ハーンは神社 に参拝するとき何かに憑依される感覚に陥ると言い、その何者か(日本の神)になってしまっ た場合の実に奇妙な知覚作用を様々に想像してみせるのである。
空気の鳥に対するごとく、水の魚に対するごとく、あらゆる物質は私の本質に対して透過 性のものとなる。それだから私は自分の住居の壁を思いのままに通り抜けて金色の陽光を 浴びて長く泳ぐこともできれば、花の芯の中にふるえながら忍びこむこともできる。また やんまの首に跨って飛び廻ることもできる。(平川祐弘訳)
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日本の神になった自分は小さな社の中で、そこを訪れる様々な人々、例えば若い娘の恋の願 いを聞きながら、自分もまた切ない願いを持つ若者だった時分の記憶を蘇らせている。
仮にこの文章を、「田園の憂鬱」とほぼ同時代の志賀直哉の一文「城崎にて」(『白樺』
1917.5)
と比較してみると、三者の想像力の親疎は歴然としている。
自分は別にゐ も り蠑螈を狙はなかつた。狙つても迚も当らない程、狙つて投げる事の下手な自分 はそれが当る事などは全く考へなかつた。(略)蠑螈にとつては全く不意な死であつた。
自分は暫く其処にしやが踞 んでゐた。蠑螈と自分だけになつたやうな心持がして蠑螈の身に自 分がなつて其心持を感じた。可哀想に想ふと同時に、生き物の淋しさを一緒に感じた。
〈蠑螈の身に自分がなつて其心持を感じた〉と志賀は言う。だが、そのように感じる〈自分〉
には、〈生き物の淋しさを一緒に感じ〉る一方で、〈可哀想に想ふ〉気持ちも〈同時に〉存在 し続けている。志賀が説く対象への共感は揺るがぬ〈自分〉を根拠とするもので、それは決し て「没我」を意味しない。知覚の主体を全面的に他なる存在へと明け渡す「個の放棄」の発想 は、思えば「風流」を脱意志の享楽と規定するいかにも春夫らしい想像力であった。この発想 を育てる上で、春夫が理想的〈文人〉と述べたハーンからの思想的摂取は重い意味を持ってい る。とりわけ「田園の憂鬱」は、ハーンからの影響があるどころか、その世界観自体がまるご とハーンの思想を母胎に生み出されていると言っても過言ではないほどなのである。
4.文体獲得の試行―「孟沂の話」の翻訳
春夫は『田園の憂鬱』の決定版を上梓した直後に「孟沂の話」を訳した。中村三代司はこの 訳業を、春夫が唐代の妓女・薛濤に関心を抱く契機になったと論じているがiv、ここではより 具体的に、春夫がハーンから何を汲み取ったかを表現面から問題にしてみたい。
春夫は訳出にあたり、ハーン自身が典拠にしたと明かす『今古奇観』(
Kin-Kou-Ki-Koan
) の第三十四巻「女秀才移花接木」を自分も参照したと〈訳者附記〉で述べている。また春夫は、ハーンが拠ったフランス語訳の原訳者(Gustave Schlegel)が、『情史』第二十「情鬼類」の 類話も参考にしたと考えられることから、これも〈併せ見た〉と称している。中国語(白話文)
からフランス語経由で英語に移されたテクストを日本語に訳すという、重訳に次ぐ重訳の問題 を孕んだ本作であるが、ここでは『今古奇観』をハーンがどう改変したかという問題と、春夫 の翻訳は何を目指したのかという
2
点の問題に絞って考察したい。なお、引用に付した記号は、〔原典〕が『今古奇観』を、〔ハーン〕が“The Story of Ming-Y”(
Some Chinese Ghosts,
1886
所収)を、〔春夫訳〕が「孟沂の話」(『解放』1919.7)を、〔参考訳〕が平川祐弘訳61
「孟沂の話」(講談社学術文庫版『クレオール物語』1991.5所収)を指すものとする。
まず、〔原典〕と〔ハーン〕を比較した時、ストーリー上特に重要な改変が三点あることに 気付く。一点目は、孟沂と薛濤の馴初めの場面である。〔原典〕では妓女の薛濤が若い学生の 孟沂を寝室に誘うが(美人延入寢室,自薦枕席)、〔ハーン〕では孟沂の方から薛濤に口づけ する(Ming-Y could not restrain himself from putting his arm about her round neck and
drawing her dainty head closer to him, and kissing the lips that were so much ruddier and sweeter than the wine)。また〔原典〕には、薛濤が「独り寝が久しいので平静ではい
られぬ」と言い(妾獨處已久,今見郎君高雅,不能無情)、露骨という程ではないが、着物を 脱いで歓を尽くすエロチックな描写がある(兩個解衣就枕,魚水歡情,極其繾綣)。しかし〔ハ ーン〕にはこの閨房の描写が存在しない(the night grew old, and they knew it not)。二点目は、二人の密会が露顕する場面である。〔原典〕では、夜間の外出を父に咎められた 孟沂が、「誘ったのは薛濤だ」と卑怯な言い訳をするのに対し(此乃令親相留,非小生敢作此 無行之事)、〔ハーン〕では“the son refusing to obey his father shall be punished with one
hundred blows of the bamboo”(父の命に叛く子は一百の鞭撻を以つて罰せらるべし〔春夫
訳〕)という律法を恐れた孟沂が、孝行心と愛情の板挟みに苦しんだ経緯を強調している。三点目は、後日談である。〔原典〕では、すでに進士に及第して大を成した孟沂が、薛濤か らもらった2つの記念品を証拠に、自分の情史を好んで人々に語り聞かせたとされるのに対し
(常對人說,便將二玉物為證)、〔ハーン〕では、子供たちが記念品の由来を尋ねたときでさ えも、孟沂は薛濤との思い出を口外しなかったとされる(he never spoke of her,—not even
when his children begged him to tell them)。
以上を比較してみると、〔原典〕の孟沂は軽薄かつ受動的で、無節操に薛濤の愛情を踏みに じるのに対し、〔ハーン〕の孟沂は薛濤に心からの敬意を捧げ、秘めた愛を貫く男とされてい る。〔原典〕の薛濤は飽くまでも妓女としての粗略な扱いしか受けていないが、〔ハーン〕の 薛濤は純愛の対象であり、孟沂にも騎士道的な責任感が与えられているのである。
このようなハーンの創意は、春夫の関心を十分惹き付けたに違いない。1919 年当時、春夫 は近隣に住む親友の谷崎潤一郎と親密に往来するなかで、夫に冷遇される谷崎千代に同情を深 めていた。1920年末、離婚を決意した谷崎の勧めで春夫は千代と交際するが、結局谷崎の翻 意で夫妻と絶交を余儀なくされる。その苦しみの中から生まれた『殉情詩集』(1921.7 新潮 社)の第一章には、薛濤の「春望三」にちなむ〈同心草〉のタイトルがつけられ、エピグラフ にも同詩の全文〈風花日將老/佳期猶緲緲/不結同心人/空結同心草〉が掲げられることにな った。春夫は別にこの詩を〈しづこころなく花散れば/な げ き長息ぞながきわがたもと/なさけをつ くす君をなみ/摘むやうれひのつくづくし〉(「支那の詩より」『蜘蛛』
1921.8)と訳し、「つ
み草」に改題して『我が一九二二年』(1923.2、新潮社)に収録、さらに「春のをとめ」に改62
題して『車塵集』(1929.9、武蔵野書院)に収録している。会えない恋人に思いを寄せる男の
「殉情」のテーマは、まさにハーンが造型した孟沂像に自らをなぞらえたものだろう。同様の 心情を現実の薛濤が詠っていたことも、春夫の関心を深く捉えたに違いない。『殉情詩集』の 自己演出には、ハーンのテクストが大きく関与していたと言えるのである。
さて次に、〔ハーン〕と〔春夫訳〕を比較してみたい。春夫の訳は厳密すぎるほどの逐語訳 で、いわゆる名訳ではない。例えば森の中で薛濤の姿を初めて見る場面、“a sound caused
him to turn his eyes toward a shady place where wild peach-trees were in bloom”を春夫は
〈物音が彼をして、花盛りの野生の桃のある日蔭の所へ、彼の目をそむけさせた〉と、無生物 主語の構文をそのままに訳し下している。〈振向くと向うに影深い場所があって野性の桃の花 が咲き乱れているのが見えた〉という〔参考訳〕と比較すると、どちらが自然な日本語かは明 白である。日本語を不自然なものにしてまで、春夫は逐語訳にこだわったということだ。
別の問題もある。例えば、薛濤の眼の美しさを形容した〔ハーン〕の、“the brightness of
her long eyes, that sparkled under a pair of brows as daintily curved as the wings of the silkworm butterfly outspread”の部分が、〔春夫訳〕では〈蚕の蝶のつき延した翅(勿論蛾
眉の誤り)のやうに繊美に曲つた眉の下で閃めいた、その長い目の耀き〉と訳されている。黙 って〈蛾眉〉に直しておけば良いものを、あえてそうしなかったのは、春夫の目的が流麗な訳 文を目指すのとは違う所にあるからだと考えざるを得ない。同様の例は、〈彼の女に関しての 何事かを君が知らうと思ふならば、誰かKiang-kou-jin――多少の tsien(伝?譚?)即ち過
去の伝説を参酌して、耳を傾けてゐる人人に夜話をする名高い支那の物語作者たち――から、それを知るがいい〉という冒頭部分にも指摘できる。中国語の発音がアルファベット表記され ているため文意が摑めない箇所でも、春夫は省略してごまかす手段をとらないのであるv。 そもそも、もしこの翻訳が薛濤の故事の紹介を目的とするものならば、『今古奇観』を直接 日本語に移せば済む。それをわざわざフランス語訳に基づくハーンの英文から訳出したのだか ら、春夫の関心は、東洋の物語が西洋人の眼からどのように異化されているか、それを対訳作 業によって検証する所にあったことは明らかである。その一つの収穫として、春夫はハーンが 改変した孟沂の性格の中に、「殉情」という理想を見出したことになる。
一方、日本語としての自然さを損なったり、不明な箇所を原文のまま残したりしてまで忠実 な逐語訳を心掛けたのはなぜだろうか。そこで得るものがあるとすれば、英語にあらわれたハ ーンの文体に学ぶということ以外には考えにくい。春夫は「孟沂の話」発表に続く
1919
年11
月、同じ『解放』誌上にエドガー・アラン・ポーの「アモンチリャドウの樽」を発表している。後年春夫はその動機を、〈一度自分で訳してみる(といふことはつまり最も詳しく読み味ふこ とだと思ふが)、ことによつてポオの文体をよく知りたいと思つたから〉と述べ、その結果、
ポーの文章が〈簡潔明確〉な〈柳宗元や韓退之の文〉に似通う趣を持つこと、またその特徴で
63
ある〈余情ならぬ余情〉が、〈読者の空想力を刺戟して置いて、わざと書き残し飛躍して表現 力の隙間を読者自身に補はせる〉省筆の手法にあることを学び得たとしている(「幽玄の詩人 ポオ」『ポオ全集』月報②1963.8)。後年「しやべるやうに書く」をモットーに掲げた春夫が、
デビュー当座、〈ドライな金石文か法律文書か何かのやうな、今日自分の書く文章とは全く対 蹠的な文体を求めてゐた〉(「うぬぼれかがみ」『新潮』
1961.10)ことはよく知られている。
つまり、当時の春夫にとって、翻訳とは流麗な訳文を読者に提供するためのものでなく、自分 の日本語を改造するための手段だったことになる。それは訳し方を見る限り「孟沂の話」にも 全く当てはまる。ハーンは文体獲得の面でも春夫にとっての手本だったのである。
本稿では、1918年前後の出発期の佐藤春夫にとって、ラフカディオ・ハーンがいかに目標 となり、また発想の源となる存在だったかを確認してきた。課題として残された、1934年の
『妖魔詩話』『尖塔登攀記』の出版を中心とする春夫と小泉家との関りや翻訳の問題について は、稿を改めて考察する機会を持ちたいと考えている。
〔付記〕本稿は、「富山大学ラフカディオ・ハーン研究国際シンポジウム」(2017 年
12
月23
日於富山大学)における研究発表「ハーンと大正日本の想像力―佐藤春夫を中心に―」に 基づくものです。会場から数々の貴重なご意見を頂戴しました。心から感謝申し上げます。i
後年の随筆『白雲去来』(1956.2、筑摩書房)の中で春夫は同じ言葉を引用し、〈ラフカデ ィオ・ハーンは人間に生れるばかりが幸福とも限るまい。次の世には鳴く虫になるのもよいと 言つてゐる〉と述べていて、これが出典の確実な種明しになっている。ii
強いて言えば、“There are human crickets who must eat their own hearts in order tosing.”(歌うためには自分の心臓をくらわなくてはならない人間の姿をしたこおろぎもいる
のである)という末尾の一文に類似の発想が窺われる。iii
ただし『佐藤春夫記念館所蔵 佐藤家旧蔵洋書目録』(2011.3新宮市立佐藤春夫記念館)に『骨董』は含まれておらず、その他のハーン著作も後年購入したものが多い。