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教育研究者のために︵最終講義第亘︶

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教育研究者のために︵最終講義第亘︶

三 井 為 友

︿はじめに﹀ 定年退職の直前になって︑唯一回の最終講義でさよならでは︑あまりに物足らないので︑定年を来春

にひかえた最終学年一年にわたって︑すくなくとも年間数回以上﹁最終講義﹂をやって欲しいという大学院生からの要

望に答えて︑この集会を持った︒まだ退職の日までには︑たっぷり十ヵ月以上もあるので︑どうもピントがあわない気

持であるが︑考えてみると︑この約四分の一世紀にわたる本学での講義の毎時間毎時間が︑私にとって最終講義であっ

たともいえるし︑それにもかかわらず︑今日まで本学で私の講義をきいてくれたはずの数千の学生や︑とくに教育学を

専攻して出ていった多くの学生にも︑教育の根本問題ξいてまだ何一つ語っていないという悔恨を禁じ得ない︒.﹂れ

は一体どうしたことだろうか︒

こんな課題意識をもって︑き・うの竺回最終講藷仮りに﹁警研究者のために﹂と題してみたが︑.﹂の二時間も︑

またまとまりのない述懐に終ることを惧れる︒

×      ×      1

(2)

 教育研究者は︑言うまでもなく教育をその研究対象にしている者である︒しかし︑その研究対象は明確なものであろ

うか︒  現在わが国では︑教育不在ということがいわれている︒これをその字義通りにとるならば︑研究者にとって︑研究対

象が存在しないということになる︒対象がないのに研究することはあり得ないのだから︑現在の多くの教育学徒は︑過

去の教育や外国の教育を研究しているものは除くとしても︑教育の名のもとに︑似而非なるものを︑あるいは全く異質

なものをつかまえて︑これを究明しようとしているといえるかもしれない︒

 第二次世界大戦後十数年で世界的に教育過熱の時代を迎えた︒それはまた数年のうちに極限状況にまで達して︑遂に

教育爆発の時代がやって来たといわれるようになった︒このことは︑全世界的に教育要求が一般化したということであ

り︑またその要求が高度化したということであり︑さらに要求のなかみが質的な変化を来たして︑極めて切実なものに

なってきたということを意味するだろう︒この世界的状況の原因の解明には︑いまは立ち入らない︒ただ︑このような

状況の中で︑わが国での教育不在とは一体どういうことなのか︒それをこそ問題にしたい︒

 教育不在は︑教育空洞化ともいわれている︒このような事態はどうして招来されたのか︒教育空洞化にたいして︑教

育研究者は全く責任がないのかどうか︒

 研究というと︑何の研究と限らず︑できるだけその研究対象を固定化し︑静止の相に置いて︑しかも研究者は対象に

対して一定の距離をもって︑その対象の事態を解明しようと企てることが一般におこなわれている︒しかもこの場合︑

研究者は自らをも固定的な位置におこうとする︒教育を例にとるならば︑教育を人間の現象︑社会現象の一つとして︑

第三者的位置において﹁見る﹂という立場をとろうとするのである︒﹁見る﹂者は︑ふところ手していても見ることが

できる︒決して﹁働らく﹂者ではない︒行為する者ではない︒研究者は︑研究するということそのことが︑行為である

2

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  というかもしれないが︑静観という静止状態を目ざしての行動を︑行為者の行為ということはできない︒

   教育以外の他のさまざまな学問研究は︑ほとんどすべて︑研究対象を固定の相でとらえ︑研究者自体も静止の状態に

  いることにょって︑科学的︑客観的把握が可能であると信じている︒科学は全般にこういう前提に立っている︒文化諸

  科学は︑文化を創造するという行為そのものを研究対象にするのではなくて︑主として創造活動の結果である作品を研

  究対象にするのである︒自然科学は人間を離れても客観的に実在する自然界の事物を研究対象とするか︑または自然界

  の動態としての自然現象を研究対象とするが︑この後者もまた対象を静止の相に於てとらえることによって︑法則の把

  握が可能になると考えるのである︒

   教育もまた︑その客観的・科学的な解明のためには︑それを人間の﹁現象﹂︑社会の﹁現象﹂として︑自然現象にも

  類比できるような静的把握を企てるのが一般的である︒教育科学成立の初期において︑教育史学が中心の位置を占めた

  のは当然のことである︒現在の教育がどんなに流動的であるにせよ︑過去の﹁事実﹂は動かない︒既知と未知の別はあ

  るにしても︑動かない事実であることは争われない︒それ故に︑教育学の科学性を目ざす者は︑まず第一に教育史学に

  研究の目をむけた︒

   私はこのような立場での教育史研究は︑一般歴史学の一領域として︑とくに教育の史実をえらび扱っているものであ

に って︑教育学の一領域としての教育史学の名に値するものでは無いといいたい︒そのことは︑教育社会学や教育心理学

吐についても言い得る︑﹂とであるが︑その理由はのちにふれるであろう︒ め

鵠ともかく︑右のような態度をとるかぎり︑教育を科学的・竃的に把握しようとする響学が盛んになればなるほど︑

醐教育そのものは空洞化したといえよう・なぜなら・動的であるのが警の本質であるからである・ 教また警は・それをふところ手して見てい薯が何万人・何千万人いようとも・それだけで出現するものではなくて・3

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唯一人でもよいから﹁教育実践者﹂が存在することによって出現するものなのである︒教育実践者の存在しないところ 4

に教育はない︒ここではあくまでも﹁見る者﹂よりも﹁働らく者﹂に優位がおかれる︒

 しかし︑教育という実践は︑他のさまざまな人間の実践がそうであるように︑実践者即単に﹁働らく者﹂かというと

必ずしもそうではない︒ここに教育の基本的性格がある︒﹁見るもの﹂ばかりで﹁働らく者﹂がいなくなったところに︑

教育の空洞化が出現したことは上述の通りであるが︑﹁働らく者﹂がまた﹁見る者﹂でなかったところに︑同じような

空洞化がもたらされたといえないであろうか︒もしも︑学校の教師をすべて安易に﹁教育実践者﹂と名づけることを許

容するならば︑実にわが国には数十万の教育実践者がいるはずである︒にもかかわらず︑教育不在︑教育の空洞化がお

こったのはなぜだろうか︒

 もちろん︑戦後三十年に及ぶ保守党の教育政策が︑この教育不在1これを多くの人は教育の荒廃とも呼んでいる

ーに責任があることは明らかである︒本来わが国の保守政党は民主主義と両立し得ない性格のものであり︑もしも民

主教育が徹底して行なわれるならば︑晴天の朝もやのように雲散霧消してしまう運命をもつ政党である︒それ故︑かれ

らは何としても民主教育の進展を阻止し︑これを破壊しなければならなかった︒それは自らの生存を賭けてのたたかい

でもあった︒この三十年の間に︑教育政策として打たれた措置の中に︑民主教育を育てるような種類のものをさがすこ

とは困難である︒時には︑国民の大多数を敵にまわして︑国会に警官数百を導入しても︑強行突破してきたいわゆる

﹁逆コース﹂教育政策は︑民主教育の圧殺のためであったが︑当然のこと結果的には教育そのものをも圧殺してしまっ

た︒なぜなら︑前世紀ならばいざ知らず︑二十世紀も後半の段階に入っている今日において︑一旦民主教育の匂いをか

がせられた民衆から︑再びこれをとりあげて︑戦前のような全体主義教育に復帰させることは︑不可能事に属するから

である︒

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  三十年の保守党の教育圧殺政策を免罪にするつもりは毛頭ないが︑その中で圧殺されて︑教育不在を招き︑演奏者の

 ないコンダクターとして︑人間不在の真空の中でタクトを振っている教師や教育者ばかりであるとしたら︑余りに情な

  いことというべきではないであろうか︒教育は︑表面は政治に敗北したように見えるかもしれないが︑それを正しく掌

 握しているかぎり︑絶対に政治の風下に立つものではない︒むしろ政治をその足下に踏みしめてこそ︑真の教育が存立

  するのではないか・事実︑人間の歴史は︑教育の勝利の歴史であった︒もっとも現在のわが国のように︑教育がすっか

  り政治によって息の根をとめられてしまったか覧える状況で︑果たして自らの存妾確立す三ネルギが出てくる

  かどうか︑これは大いに疑問とするところであるがー︒

   しかし三﹂では・戦後政治の責任を問うま・えに︑研究者︑すなわち貢る者Lの責任を明らかにしたい︒﹁見る者﹂

  に扇らく者﹂としての籍が欠けていたζ﹂うに︑警不在の;の根本原因がひそんでいた・﹂とは言.うまでもない︒

  その上二見る者Lの見る対象としての教育概念もまたひどく覆していたことは否定できない︒いわば︑極めて大ざ

  っぱな教育概念把握の上に立って事象をつかまえ︑その是非を論じていたということである︒

   それは・われわれの使用している﹁水﹂という概念に似ている︒海の水も川の水も︑雨水も泥水も︑はなみずも︑み

  んな水であるとし三括して論じているうちに︑真にわれわれの命の糧であるべき﹁まみず﹂は何なのかがわからなく

になったようなものである・われわれの警概念の混濁を︑まず教育と単なる﹁影響﹂との混同から着手してみたい︒

⁝人間は・他の動物と同楚︑模繁能を持っている.たえず︑周囲の者の行動をまねすることを通して︑外面的パ行

鵠動糞だけでなく︑意識の走も大きな影響を3ている︒それによって︑た・えず変化していくものである︒また人

酬間も生物の一讐して・その内部に発達要因をもっている︒これもまた外面的にもたえざる変化を促進している︒ 教しかし・発達や影響による人間の変化を︑その董警の藁と見ることは危険である︒発達という事実があるから︑

5

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おそらく教育がどこかでおこなわれているのであろうというような︑極めて大ざっぱな結果論的推論さえおこなわれて

いる︒これは︑教育概念の混濁をもたらすものである︒

わが国で︑教育という.Σばを使いはじめたのは︑明治維新以来と見られるが︑それまでわが国には﹁をしへ﹂とい

う昔口葉が通用していた︒.ら.﹂とばも極めてあいまいであった︒荻師の警﹂を﹁師のをしへ﹂というのはよいとし

ても︑﹁駅へいく道をおしえて下さい﹂というところを︑﹁駅へいく道を教育して下さい﹂といったら笑われるだろう︒

すなわち︑﹁教育﹂の方が︑﹁をしへ﹂よりも概念が限定されてきたように見える︒すくなくとも維新のさい・英語のエ

デュケ←︒ンが︑日本の﹁をしへ﹂よりも限定されて使用されていることに気付いたからこそ・﹁をしへ﹂という在

来のことばによって反訳せずに︑﹁教育﹂という漢語を持ってきたものと察しられる︒︵もっとも当時は︑すべて漢語に

訳す.﹂とによって︑外来概念を新しく日本人の意識に定着させようと考えたものと見られるがー︒︶

 しかし︑この教育という漢語も︑原典としての孟子の中に使われるばあい︑真にエデェケーションという概念に妥当

したかどうかは問題である︒﹁世の俊秀を集めて﹂と︑既にエリートのみについて教育を考えていたし︑﹁人生の楽しみ

の一つ﹂として教育を考えるとき︑果たしてそのように趣味的なものであってよいのかどうかも問題である︒教育のき

びしさが孟子にも感じられない︒それは︑教育が特権階級の専有物であった時代の観念である︒

 英語の教育︵エデュケーション︶ということばも︑その起源は相当古いのであるから︑概念の中に捨て去るべきもの

が多々あることは当然であろう︒にもかかわらず︑英語の方がわが国の現在の教育概念よりも遙かに厳密に使用されて

いる︒例えば︑英語で明確に区別している以下のことばを︑わが国では同じ﹁教育﹂ということばで通用させようとし

ている傾向が強い︒すなわち︑仲︒①6匡ロoq巨ω障賃n寓oP・円巴§09合ωo■目ロP合吟oo江oロ︑oo目日ロ巳o巴声oPσq已庄①ロoP

け﹃①ロω目ωωSPpロロoロロoo日o暮等々をあげることができる︒とくに︑学校の教師に至っては︑しばしばアナゥンスメ

6

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  ソトと教育とをとりちがえる誤りを犯すようである︒まして︑ティーチソグと教育をとりちがえるのは極めて一般的で

  さえある︒学校の教師は︑ティーチャーであって︑エデュケーターではないのだから︑ティーチングに満足してよいの

  だというかもしれない︒しかし︑それは教育の本質を忘れた者の言いわけである︒たといイソストラクターであろうと

  トレーナーであろうと︑ エデュケーターを目ざすことによって︑はじめて﹁人間の﹂訓練や教授︑﹁人間による﹂訓練

  や教授たり得るのである︒相手は馬や犬ではないのである︒このことの確認の上に立たないと︑動物相手の場合との混

  同がおこり︑﹁人間不在﹂になってしまう︒

   わが国には︑﹁軍隊教育﹂ということばが使われているが︑あれは英語では正しくは﹁ミリタリ・トレーニング﹂で

  あって︑訓練︑調教︑馴致ということばなのである︒すなわちトレーニングは︑相手が人間であろうと動物であろうと

  通用することばである︒それ故︑もしも人間を相手にして︑トレーニングだけを目ざしていると︑相手の人間は動物化

  する︒わが国の﹁軍隊教育﹂がまさにその動物化への好見本を示していた︒人は︑﹁上からの命令がないから﹂といっ

  て︑ジャングルの中に三十年も頑張った軍人を見て︑﹁教育の力は恐ろしいものだ﹂という︒ このばあいの教育という

  ことば位︑誤用の典型はない︒﹁調教の力はおそろしい﹂というべきである︒

   なぜなら︑調教とか訓練とかは︑それを実施する主体のために︑客体を﹁使いよく﹂馴らすものである︒いわば︑主

に 体に奉仕する奴隷をつくるのが︑トレーニングのねらいなのである︒教育は全くこれと反対に︑客体の人間性の増大を

吐目ざしておこなわれる行為なのである︒その人間性の中には︑主体性︑藁性︑自発性︑理性等々があることは当然で め

蠕ある︒しかも︑これらの増大において終着点はない︒これが︑人間性増大の限度であるという地点は無いのである︒そ

育 れ故に︑人間は生存している限り︑たえず人間性を高めることが可能なのであり︑そのことに人間として最大の喜びを 教岳す存套のである・      7

(8)

 このような人間性増大のための働きかけは︑実は人間のみが可能とする行為なのである︒人間以外のものが︑どんな 8

に努力してみても︑働らきかける客体の人間性を増大させることはできないのである︒

 しかもここで警戒しなければならないことは︑多くの教育思想が︑教育の客体としての人間を︑孤立的なものとして

とらえ︑単独でも人間性を増大することができるかの如く考える誤謬である︒理性も尊厳性も︑自発性も主体性も︑

﹁窓のない単子﹂︵ライプニッ︶のような個体にたいして属性たり得るものではない︒人間のみが人間を教育し得るとい

うとき︑その教育という行為は︑教育する主体と教育される客体との間につくりあげられる新しい関係を目ざすもので

ある︒まことに︑人間ということば自体が︑人と人との間を示すことばであるように︑﹁人間らしくなる﹂とか﹁人間

性を高める﹂とかいうことは︑両者の間に出来あがった新しい間柄をさしていうことばである︒﹁人間らしくなる﹂と

は︑つねに﹁新しい間柄をつくりあげる﹂ということなのである︒教育を本質的に主体と客体における新しい間柄の創

造として把握しないかぎり︑教育の問題は人間の問題としてとらえられないであろう︒教育を単一個体の問題︑﹁窓の

ない単子﹂の問題としてとらえているかぎり︑教育と調教との区別があいまいになるばかりでなく︑現在の我が国の多

くの学校が陥れられているように︑教育と飼育との区別すらあいまいになって︑相手が人間であることを忘れてしまう

であろう︒﹁人間のための教育﹂などという本が︑ 一種ならず発刊されるという事態は︑わが国の教育が人間のための

ものでなくなっている事実を立証する︒エデュケーションということばを﹁人間による︑人間のための︑人間の営為﹂

に限定して考えている英語国民には︑想像もできない事実である︒

 もちろん︑私は英語国民についてだけ述べてきたが︑このことはドイツ語国民にとっても︑フランス語国民にとって

も全く同様である︒

 ﹁人間のための︑人聞の﹂教育という表現は︑しばしば言われてきたように︑﹁人間を人間にするのが教育である﹂と

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  いうような言い方と混同される危険があるので︑修正されなければならない︒このような︑定義にもならない教育の定

  義は︑問題にするに値しないというかもしれないがぺ今日でもまだこのような表現にとらわれている者が少なくないの

  で︑このさい教育概念の明確化のために問題にしておきたい︒人間を人間にするとは何なのか︒はじめから人間である

  ものを人間にする必要がどうしてあるのか︒出発点における人間と︑到達点における人間とは異っているのだと弁解さ

  れるならば︑なぜ異った内容を全く同一のことばで表現するのかと反問したい︒これこそ︑教育における自己満足の合

  理化であり︑無為の許容ではないか︒出発点も到達点も同一語で表現することによって︑何もしなくてもよいというこ

  とを許容しているのではないか︒

   そもそも︑人間は生れおちたときから人間であるという表現が正しくない︒人間ということば自体が﹁間柄的存在﹂

  あるいは﹁社会存在﹂をあらわすものとして把握されなければならないかぎり︑出生と共に決して﹁間柄﹂は意識され

  ていない︒それ故に正しくは︑人間は生れ落ちたときは﹁ヒト属の一人﹂にすぎないと表現すべきである︒イヌ属︑サ

  ル属があるように︑ヒト属の一人として生れてきたのである︒﹁ヒトは教育によってヒトとなる﹂という表現も正しく

  ない︒﹁人間になる﹂というべきである︒しかもその人間たるや︑﹁なり終えた﹂という終末を持たない﹁なる﹂なので

  ある︒教育的な間柄︵人間関係︶をつくりあげるという意味で﹁人間になる﹂というのである︒このような関係から絶

に 縁しているかぎり︑人間になったというべきではない︒

た  ヒト属は︑その出生と共に︑他の種族と異って本来的に矛盾をかかえている︒それは同一個体の中に誰でも自主性と め

鵠麓性をもつという.﹂とであり︑勤労性と怠惰性を聾とい三﹂とである︒その他差多くの矛盾するものを内にかか

酬えているのがヒト曇のである︒ 教これに﹁人間﹂が働らきかける・それは・働らきかける者と働らきかけられる者との間に・新しい関係をつくりあげ9

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るものではあるが︑働らきかける者の主体的意識において︑ヒト属の中の自主性や勤労性を伸長しようという意図をも

って働らきかけているからである︒もしも反対に隷従性や怠惰性を伸長しようとして働らきかけているものであるなら

ば︑これを教育と呼ぶことは正しくない︒

 ヒト属は誰でも自分の考えできめたい︑自分の責任で遂行したいという意欲をもつと同時に︑何でも他の者の指示を

うけてその通りにハイハイと従っていたいという意欲ももつ︒この前者の意欲に助力するのが教育なのである︒他面︑

訓練とか調教とかいわれるものは︑自主性に助力するものではなくて︑反対に隷従性に助力するものなのである︒それ

は︑働らきかける主体にとって都合のよいように﹁飼いならす﹂ものだからである︒ヒト属には本来的に隷従性がある

が故に︑たやすく飼い馴らされるのである︒そしてこの隷従性と怠惰性とが緊密に結びついている︒働らきたい︑勉強

したい︑努力したいという意欲があると同時に︑怠けたい︑遊びたい︑何もしたくないという意欲もある︒

 ヒトは労働によって人間になった︑ヒトを人間にまで成長させたのは労働であるという表現が真理であるかぎり︑労

働なしに人間への成長はあり得ない︒すなわち︑怠惰性に助力するのでなく︑勤労性に助力するのが教育なのである︒

 軍隊−とくに我が国の軍隊のように︑人間の自主性を抹殺すべく努力したものを﹁教育﹂の名で呼んではならない︒

軍隊では勤労の方面では激しい勤労を強制したから︑怠惰性に助力したのではないというかもしれないが︑それは誤っ

ている︒自主性のない労働を勤労と名づけてはならない︒奴隷労働は勤労ではない︒これをどんなに累積しても︑﹁人

間になる﹂ことはあり得ないのである︒

 明治政府は︑﹁軍隊調教﹂あるいはせいぜい﹁軍隊訓練﹂というべきところを︑﹁軍隊教育﹂と呼ばせることによって︑

教育概念を極めて巧妙に混濁させた︒そして︑学校教育の中にまで調教を持ちこむことを可能にした︒戦前の学校は︑

ほとんどすべて教育と調教とをすりかえられていたのである︒

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   ﹁スパルタ教育﹂などといって︑調教と教育をすりかえる動きがあるかと思うと︑他方教育において﹁放任主義﹂が

  奨励される異常事態もうまれている︒放任主義とは︑主体における勤労性の放棄であり︑怠惰性の合理化である︒主体

  が勤労性を放棄して︑どうして客体を人間にまで高めることができよう︒放任主義からは︑ヒト属のイヌ属への転落し

  か結果されない︒

   しかしここでルソーの消極教育︵レデュカシオン・ネガチフ︶との区別を明らかにしておく必要がある︒ルソーが

  ﹁最善の教育は教育しないことである﹂というとき︑かれは放任主義を肯定したのでは決して無い︒かれの当時も︑教

  育の名のもとに︑隷従性の強制が余りに横行していたが故に︑しばらくこのような﹁野獣的人間﹂の手を阻止しようと

  思ったのである︒現にかれほど慎重に客体の環境条件を配慮した者はないし︑環境とのたたかいや︑環境からの応報を︑

  あたかも自然の法則であるかのように受難させ︑とりくませた者はいないといってよい︒放任どころか︑細部にわたっ

  て︑見えない手が伸ばされていたのである︒

   最近学校の教師の中にも︑﹁子どもには何でもやりたいことをやらせておくのがよい﹂といって︑授業を放棄してい

  る者さえあるときく︒勉強はしたくないならするな︑学校へ行きたくないならサボれ︑一日中遊びたいなら遊ばせてお

  け︑という事態で︑人間がうまれると思っているのであろうか︒教育不在もついにここまで来たのである︒わが国の学

に 校からけもの︵アニマル︶が続出するのも︑故なしとしない︒

吐  以上︑教育と訓練との混同について︑ながながと述べてきたが︑教育概念の混迷はこれに止らない︒それは︑教育と

鵠 知識や技術の伝授︵伝達︶との混同である︒英語ならばティーチソグまたはインストラクションとエデュケーションと

醐の混同である︒︵ドイッ語ならばξ゜民曇とヒゥ§ぎσq︶わが国ではテ﹃チングニシンを不用意にも警機器

教      1   と訳している︒これは教授機器または授業機器と訳すべきである︒もっと正確には﹁伝達器﹂と訳すべきである︒教育 −

(12)

機器などといっていると︑危険なことに教育が人間の営みであることを忘れて︑機械が人間に代って教育をするかのよ

うな錯覚に陥る︒しばしば教師不用論さえ登場する︒事実︑機械が人間にとって代って教育をしてくれると信じている

教師さえ少なくない︒主体の側での人間不在である︒これでは人間不在の教育が一般化するのも無理ないことである︒

 また︑放送教育ということばも使われている︒ラジオやテレビの放送を教育活動にどう生かし利用するかという意味

と思われるが︑実は放送が人間を教育するかのように錯覚させるから問題である︒放送は電波であり︑それが結ぶ映像

なのである︒そこにどんなに生き生きと映像がうつし出されていようとも︑そしてたとい現実の人間の発言よりききと

り易いものであろうとも︑映像が教育するということは絶対にあり得ない︒映像は伝達するにとどまるのである︒それ

は情報の一方交通であるということだけではない︒たとい質疑応答が可能なシステムが完成しても︑映像はあくまで映

像であって︑生きた人間ではない︒映像と人間関係を結ぶことなどあり得ない︒教育が︑人間関係の創造であるかぎり︑

放送教育などという誤解を産む用語は避けるべきであろう︒

 さらに︑厳密にいえば︑社会科教育とか国語科教育とかいう用法も正しいとは言えない︒それは﹁教授﹂であるはず

だからである︒もっとも︑社会科という教科目を通して︑﹁教育﹂活動にまで持っていこうとするもので︑教授の終局

の目標を目ざしての用語であるということならば︑あるいは許容されてもよい︒しかし︑終局目標に使うべきものとす

るならば︑この用語を出発点の到るところに使用するという大ざっぱさも警戒さるべきものであろう︒

 学校は︑いうまでもなく単なる知識・技術の伝達所であってはならない︒しばしば教師たちのなかには︑伝達あるい

は伝授をもって能事足れりとしている誤りがないわけではない︒しかも︑小学校よりも中学︑中学校よりも高校︑高校

よりも大学と︑学年段階が進むに従って︑伝授をもって能事足れりとする傾向は濃厚になる︒もしも︑そのような伝授

で事足るならば︑速やかに学校の看板をおろして︑教習所あるいは伝達所とすべきであろう︒

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   自動車教習所は︑自動車運転に必要な技術とそれに関連した知識とを伝授するところである︒決して教育するところ

  ではない︒もしもこのごろ出現してきたように︑自動車学校を名のるならば︑教育の場らしく︑運転の技術と関係知識

  の伝授に終ってはならない︒もっとひろく一般教養や生命の科学をも教えて︑全面的な﹁人間の発達﹂を目ざさねばな

  らないであろう︒しかも︑単に知識や技術を﹁教えこみ﹂さえすればよいのではなくて︑それらがその一人一人の人間

  の中にどう定着し︑人間的生存を高める要素となり︑生きて働いて︑﹁人間関係を濃化して﹂いるかという点まで配慮

  せねばならないであろう︒それであってはじめて教習所は教育所たり得るのであり︑自動車をして︑人間の生活を高め︑

  より人間らしい生き方に寄与する道具として利用できる人間を産み出し得るのである︒

   こう考えると︑自動車教習所もまた願わくば自動車学校︑あるいは自動車による教育の場になって欲しいものである︒

  それによって︑運転者の人間性が高められるはずだからである︒現状では︑あの街道に氾濫している車のハンドルを握

  っているもののうち︑極めて多くの者が猿にすぎないということは︑何とも悲劇的な事態である︒

   教育という事象は︑生きた人間と生きた人間との間に結ばれる一種特別な関係であるということは︑ここでもまた再

  確認しておく必要がある︒人間以外の動物や︑他の無生物と人間との間の関係では絶対にあり得ない︒人間が犬を教育

  するといっても︑これは用語の誤りであるし︑自分は牛に教育されたといっても誤りである︒まして無生物tたとえ

に ば美しい大自然1は人間に強い﹁影響﹂を与えるかもしれないが︑これをさして﹁自然界に教育された﹂と言ったら

た 誤りである︒書物という無生物から教育を受けたという表現も誤りである︒人は書物の背後にはそれを書いた人がいる め

鵠 というかもしれない︒その人は極めて偉大で︑数千年にわたって後世の人に影響を与える力があるから︑その人の書い

醐渠霧育されるということは事実お・﹂り得るはずであるし︑教育の語をこのように使うことは誤りではないというか

教      13   もしれない︒しかし︑これもまた誤りである︒なぜなら︑書物の筆者は生きていないし︑たとえ生きているとしても︑

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ここにいま現在する者ではない︒ ︑      ︑︐    ︐      4        1  教育はあくまでも血のかよった︑なま身の人間と人間との﹁現存﹂の関係の中におこり得るものであり︑しかもこの

関係は教師から生徒へというように一方交通的に流れる何物かではなくて︑相互交通的に流れるものである︒そして新

しい人間関係を創造することによって︑相互に自らを変革していく関係なのである︒なま身の人間の現存という条件を

とくに強調する理由はここにある︒

.このように﹁まみず﹂としての教育をとらえ︑一さいの爽雑物を除き去ってみなければ教育が何であるかを見失い︑

教育不在を一般化してしまうのである︒教え子も一たん卒業させてしまえば︑もう教育関係は絶たれたと考えたり︑絶

つべきだという考え方もある︒これは︑教育を一方交通的な伝達と考える誤りから来ている︒なかには︑卒業とともに

個人名簿を破棄したり︑採点簿を焼却したりする教師もあるときく︒このような教師こそ︑まさしく﹁教育しなかった

教師﹂の典型である︒教育関係は実に人生において稀有なものであり︑しかもその関係は生涯抹殺できないものである︒

たとえその後地球の反対側に別れ住まおうとも︑抹殺できるものではない︒まして採点簿を焼いたからといって︑抹殺

できるものではない︒それなるがゆえにむしろ自らの採点を生涯の負い目として忘れずに身の周りにおき︑別れ住まお

うとも︑たえざる採点の修正を心掛くべきではないか︒

 教育概念を混迷に陥れているもう一つの問題をここで検討してみよう︒それはさいきんとくに非実践的教育研究者の

間にかつぎ廻られていることば﹁自己教育﹂についてである︒自己教育とは一体何なのか︒自分自身の中において︑教

育主体と客体とを分裂させ︑この両者の間に教育作用をおこせということなのだろうか︒若しそのような事態をさすと

すれば︑それは教育の名を借りた魔術である︒

 なるほど︑さきにもふれたように︑人間の中には矛盾する二つのものが共存する︒勤労性と怠惰性︑あるいは自主性

(15)

  と隷従性とが︑自己の内部で対立し︑相争うことは起こり得よう︒しかし︑この内部の抗争を﹁自己教育﹂というので

 あろうか︒若しもそのように考えているとするならば︑教育とは価値と価値との交渉関係︵あるいは抗争関係︶である

  という事実を無視している︒同一個体の中で︑自主性が価値ならば︑隷従性は無価値であり︑怠惰性が︵もしも︶価値

 ならば︑勤労性は無価値である︒内部抗争はつねに価値と無価値の争いなのである︒

   しかるに︑教育における交渉︵あるいは抗争︶関係は︑価値と価値の間におこるものなのである︒価値と価値との間

  の戦いなのである︒個体がちがえば価値もまたちがうのである︒そこに教育関係の開始の根拠がある︒価値と価値とが

  ぶつかりあって︑何が真理なのかを探求すべく手をたずさえる関係をつくりあげるのが教育なのである︒

   自己教育という語の氾濫は︑教育が複数の人間の間に成立するものであるという基本的事実をことさらに抹殺しよう

  とする企図に発するもののようでもある︒それは︑わが国のエリートとか︑インテリとかいわれる︑いわゆる﹁突出者﹂

  の好みに極めて適合した概念だからである︒﹁突出者﹂は︑自分自身で︑全くの自力で突出し得たのであると錯覚し︑

  この錯覚を自分に押しつけることによって︑ 一層突出を強化しようとしている︒こういう突出者に限って︑﹁自分はど

  んな教師の世話にもならなかった﹂とか︑﹁自分はひとり学んでここまで到達した﹂とか言いたがるのである︒

   突出することは︑現在の体制のもとで︑生活の資を得るためには有利な条件であろう︒しかし︑﹁突出者﹂は︑突出

に において多くの大衆を踏み台にしている者であり︑その上多くの大衆が自らのところまで向上することを願わない者で

吐ある︒なぜなら︑大衆が自らのところまで進めば︑自分はまた大いに冒己誓Lをしてさらに突出しなければ︑存在

鵠の意味が薄れるし︑生活の資も有利に入って委いからである︒.﹂うした突出者は︑根本的に誓関係からは無縁であ 酬る︒       5 教藁団読書などということをこの頃きくが・読書などとい毛のは天でするものだ︒L     −

(16)

 と揚言した評論家もいるし︑

 ﹁とかくメダカは群れたがるものだ︒﹂

 といって︑教育関係の創造を目ざそうとしている大衆を嘲笑した作家もある︒

 しかも根強い突出者尊重の風土の故に︑わが国には講演とか講義とかいう伝達だけが横行し︑しかもそれがほとんど

不毛に終っているのである︒伝達を手がかりとして︑教育関係を創造するという行為はほとんどおこなわれない︒突出

者は遙かの高壇から言いたいことを言って去っていく︒聴衆は讃仰の念で突出者をさらに彼方遠く押しあげてしまう︒

 教育関係は平等の関係であり︑同一平面上に実現するものであるが︑壇上と壇下では到底実現の足がかりもない︒

 英語にもセルフ︒エデュケーションということばはある︒これを自己教育と訳しているのだというのかもしれないが︑

セルフ.エデュケーションは﹁自学自習﹂と訳すのが適当であり︑臨時的な︑やむを得ない状況に名づけているもので︑

決して教育関係を成立させるべき﹁他﹂を排除しているものではない︒

 自己教育を唱えるわが国のエリートたちの気持を善意に解するならば︑教えられる側としての大衆の自主性の乏しさ

を改造し︑教育の内容や方法について︑大衆の自己主張をもっと強化したいという意図からであるといえるかもしれな

い︒それならば自己教育などという教育破壊用語を使用せずに︑自主的教育というべきではないか︒まして自己教育運

動などというに至っては︑運動という用語の意味を知らぬものというべきである︒なぜ自主的教育運動というてはいけ

ないのであろうか︒

16

 くりかえすことになるかもしれないが︑自己教育という用語の普及に危険を感ずるのは︑単に教育関係創造を破壊す

るということだけでなく︑教育の目的を自己の完成とか自己の確立とかに置くことによって︑教育を個体の問題にすり

かえてしまうからである︒さきにもふれたように︑教育は決して個体としての自己完成や自己確立を目ざすものではな

(17)

  い︒その点では教育基本法第一条の教育の目的も問題になる︒﹁教育は人格の完成をめざし﹂と書いてあるが︑この﹁人

 格﹂を孤立的個人と考えるならば︑教育の拡大は望めないであろう︒教育の名のもとに︑伝達や訓練が横行して︑罪

 社会的完成人格Lの出現を待望するということにもなろう︒もしもこうした誤解を避けようとするならば︑基本法第一

 条は﹁教育は真の人間関係の拡大をめざし﹂と修正されなければならぬ︒

   このような意味の真の人間関係の拡大︑すなわち教育関係の深化があってこそ︑人は﹁自らの幸福﹂と﹁全体の幸福﹂

  とを別種のものと考えない状況が生まれ︑人間らしい生き方の盲の向上と︑そのための環境条件の改造のために︑一

 致協力して立ちあがる基警出来上るのである︒このような羅会づくりLこそが︑人間教育の目標である.﹂とを確認

  しておきたい︒

   さて・教育空洞化の基本原因となっている教育概念の混迷を正すために︑以上ながながと述べてきたが︑私の言口おう

  とするところがおわかり頂けたであろうか︒従来の常識的な教育観にたいしてはコペルニクス的転回ともいわれるよう

  な思惟の転換であるから・あるいはまだよくのみこめずに︑混乱を一層増してしまったという人もあるかもしれない︒

  しかし・それならそれでよい嘉もう︒混沌︵ケーオス︶を誘発したというだけで意味があったといわねばならないだ

  ろう︒なぜなら︑創造はつねにケーオスからうまれてきたからである︒

にさいごに・極めて常識的なことかもしれないが︑研究者の研究推進上の注意を少しばかり述べて︑.﹂の嚢を終りた 髄い・

⁝それは・最近若い研究者諸君の研究が︑極めて微琴細にわたっξ︑新しい事実や法則の発掘も少なくない点

醐で︑同学の徒として大いに感謝するところではあるが︑しばしば木を見て森を見ないという弊に陥っていないかと憂︑兇η 教 るのである︒研究発表を読んだりきいたりしていて︑﹁一体この研究は︑日本の教育現実にどういう意味を持つのです

(18)

かLと問いたくなる.﹂とがしばしばである︒教育学の追求は︑他の学問分野のそれと異って︑単に興味があるからとい        うような︑好事家の追究であってはならないであろう︒どんなに何千年前の教育をつつくにせよ︑追究の動機はつねに −

日本の教育現実に発し︑追究の結果はいずれ日本の教育改造に寄与するのだという確信をもって研究するのでなければ

ならないと思う︒そういう問題発想を持たないかぎり︑教育学の領域に属する研究とは言えないであろう︒むしろはじ

めにもふれたように︑一般歴史や︑一般社会学や︑一般心理学などの領域に所属替えすべきではあるまいか︒

 それ故に︑研究を推進するまえに︑問題発想の検討が必要不可欠である︒明らかにしたい問題は何か︑なぜそれを明

らかにしたいのか︑それを明らかにすることは︑日本の教育現実にどのような意味をもつかーそのようなさまざまな

角度からの発想検討である︒

 そしてそのさい︑教育学研究といわれている一つの巨大なビルの全体像を掌握しておくことはとくに必要なことであ

る︒その全体像は︑どのような組織を持ち︑どのような構造ででき上っているかの問題である︒

 前世紀のはじめ︑教育学が哲学から分化してきた当座は︑それは単一科学と考えられていた︒しかし︑学問の進歩と

共に︑今日ではそれは巨大な麹・科学となった︒それは︑医学とか工学とか農学などということばと同様に・極めて多

様な科学をそのうちに包んでいる︒ただそれらの多様な科学が︑雑多なものとして押しあいひしめいているのであれば・

その集合名詞としての教育学もまた科学の名に値しないであろう︒

 それでは教育学に内包される分科科学は︑どれだけあり︑どのように組織化されるのか︒たとえば教育社会学は︑教

科教授学は︑教育法学は︑学校経営学は︑等々と挙げてくるとおそらく数+の分科科学があげられるだけでなく・それ

らは日々新しいものを加えているといえるであろう︒

 しかもこれらがどう組織化され︑全体像としての巨大なビルの中にどう位置ついているのかーこの観点の追求は︑

(19)

最も重要なことである︒

 もちろん︑若くて新しい学問としての教育学に︑まだ公認されたシステムとか︑全体像というものは無いといってよ

い︒これは研究者各人が︑その研究推進の道すがら︑つねにふりかえって自らのものとして構築していくほかは無い︒

それによって︑自分がいま追求しつつある一つのテーマが︑全体像という巨大なビルの︑ここにこそ位置つくべき一枚

の煉瓦として︑ビルの強化に︑増大に︑一つの大切な役割を演ずるのだという意識をもって︑追究を進めていきたいも

のである︒

 私自身︑四十年をこえる教育学徒としての歩みにおいて︑自ら構築し︑修理してきた全体像を持たないわけではない

が︑これの開陳は後日に譲りたい︒若い研究者諸君の洋々たる前途に多くの望みを托してこの第一回最終講義を終りた

いとおもう︒

      ︵一九七四︑五︑二五︶

た め

教       1 育       9

参照

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