日立地域における社会変動から見た 鈴木正氣の「地域に根ざす教育実践」
一教育実践分析の視角としての地域社会変動分析一 木戸口正宏
はじめに
1.久慈町史と日立市史を概観する
一鈴木正氣の70年代実践の「成功」を支 えたもの
①久慈町史素描(〜1960年)
②日立市形成史素描一「日立市」の成立 と久慈町合併まで
③日立市下における久慈町の地域変動と 鈴木の70年代実践一久慈地域における 産業構造転換の独自な現れを中心に 2.80年代における地域社会の急激な変動と 鈴木の実践の「80年代」への転換 ①鈴木の80年代実践への「転換」
②「低成長」の時代における地域変動一 その1 地域経済再編がもたらした子ど も・青年の将来展望の不安定化と急激な 進学競争の広がり
③「低成長」の時代における地域変動一 その2 日立製作所の労働力再編に深く 規定された地域コミュニティの脆弱性に ついて
3.90年代における久慈地域と日立市一90 年代における「地域に根ざす教育」の構想 に向けて
①久慈地域の直面する状況と住民の意識 ②久慈の漁業の現在一地域共同体の相対 的自立性を支えるものとしての漁業
おわりに
はじめに
茨城県の小学校教師である鈴木正氣氏が 1973年から1977年にかけて茨城県日立市立久 慈小学校において取り組んだ一連の教育実践1)
(以下、鈴木自身の区分に従って鈴木の「70年 代実践」と表記する)は、子どもたちととも
に久慈という地域、特にその地場産業である 漁業の変遷を追うことを通して、日本社会の 産業の特質を捉え、また地域の現実を捉え直 そうとしたものであり、当時から「地域に根 ざす教育実践」の典型的な事例として高い評
価を受けてきた。例えば77年に取り組まれた「川口港から外
港へ」(4年生)は、久慈漁港(外港)の建設
と日立港(日立製作所の原料輸入・製品出荷
等を目的に57年に建設された港)の開発に伴
い、さびれてしまった旧川口港(久慈川河口
の浅瀬を利用した港。当時、日立港の建設に
伴い久慈川の流路が変えられたために、港で
あった部分だけが取り残されていた)の、漁
業が盛んだった頃の復元図を、当時の様子を
知っている父母や漁業関係者などの地域住民
に子どもたち自身が聞き取りをしながら作り
上げ、そこから「こんなに栄えていた川口港
を捨ててまでどうしていまの港(外港)にう
つってしまったのか」ということについて、漁
業の盛衰や旧川口港の様々な問題点(浅瀬の
急流に位置するための操業の危険性や、漁船
の大型化への不適応等)を調べていく中で考
えていくという実践である。外港の開発は、停
滞する漁業の状況を打開する筈のものであっ
たが、にも関わらずその直後の久慈町の日立
市への合併以降、日立港の開発に伴って久慈
の漁業が急激に衰退していくという形で地域
住民の願いが「裏切られて」いくことを、子
どもたちは調査や授業における議論のなかで
自らつかんでいく。子どもたちはまた、漁業
の発展の基盤を掘り崩していった企業の開発
に対しても「計画を変えてはいけないのか」と
批判の目を向け、地域の再開発の中で旧川口
港が埋め立てられるという計画に対しても
「せめて川口港公園に」「漁業博物館を作って 欲しい」と、その使い道について意見を述べ
る。実践の中で子どもたちが獲得していく社 会認識の確かさと、授業における子どもたち の主体的な調査・学習の組織、また子どもた ちの学習を支えた親や地域住民の教育実践の 過程への参加、といった特徴は多くの論者か ら評価の対象となり、また90年代の「地域と 教育」をめぐる議論の中で、再び注目と評価
を集めている。ところで、鈴木の実践を評価する論者の多 くは、実践を支えた「地域の教育力」に着目 しているが、これらの「教育力」が地域のど のような状況の下で形成され、また維持され てきたのかということについての考察はほと
んどなかった。筆者は、鈴木の70年代実践の「成功」が、
その舞台となった久慈地域と日立市の歴史的 な変遷一経済的・政治的・文化的・生活史的 変遷一と深く関わっていたこと、またそうで あるが故に、その後の地域社会の変動の中で、
鈴木が実践の「転換」一実践の舞台としての
「地域」から離れる形での一を余儀なくされた のではないかとの仮説に基づき、鈴木の実践 を直接・間接に支えあるいは制約した動向を 軸に久慈地域および日立市の歴史的変遷の素 描を行ない、それとの関わりで実践の再評価 を試みた2)。その際、鈴木の70年代実践を支 えた「地域性」が形成される過程を、大要次
のように分析した。(1)急激な地域開発に伴う農業・漁業の衰退 と第2次・第3次産業への転業、新規住民 の流入など急激な産業構造の転換一地域動 向や住民意識の動向が日立製作所を中心と した第2次産業の動向により強く規定され ていく基盤の形成
(2)その一方での、開発の進行に伴う、漁民 を中心とした地域住民の開発への反発や抵 抗の形成一地域住民の意識や行動様式を深 いところで規定している漁業が、地域開発 に対する抵抗・対抗の軸として意識されて いく過程が生み出される
(3)久慈地域における産業構造転換の独自な
現れ(第1次産業から第2次産業への転業 の多くが下請けの中小・零細企業の経営
者・従業員および大企業の現業(生産工程)
労働者への転業として現れるという階層的 な労働力再生産の形態)が結果としてもた らした地域共同体の「再編成」一(2)で述べ たような意識を背後から支える基盤の形成 (4)並行しての日立市における教育運動・環 境運動等の高揚、政治的革新意識の広がり 一実践者の積極的な地域把握を支えた地域 住民の活動の生成・発展
本論は、以上のような分析を、以下の諸点 に基づいて再構成し、鈴木の実践を支えた地 域性をより広い視点から捉え直すことを課題
としている。
(1)鈴木の70年代実践の舞台となった久慈地 域について、その形成史を整理することに より、鈴木の70年代実践の「成功」を直接 的・間接的に支えた地域社会の諸要因がど のように生成されてきたのかを明らかにす ること。
(2)これらの諸動向が、その後の地域社会の 変動に伴ってどのように維持・再編、ある いは衰退していったのかについて、特に地 域社会の人口動態に即して描き出すこと。
なお本論では、地域変動および人口動態の 追跡を90年代まで行なっている。これは、鈴 木の実践を支えあるいは制約した動向のその 後を明らかにすることで、90年代における「地 域に根ざす教育実践」の可能性について検討 するための土台を準備したいと考えているか
らである。
1.久慈町史・日立市史を概観する 一鈴木正氣の70年代実践の「成功」を支 えたもの
①久慈町史素描(〜tg60年)
鈴木正氣の70年代の一連の教育実践の舞台 となった茨城県日立市久慈町は、鈴木の『川 口港から外港へ』において次のように紹介さ
れている。
「上野から常磐線を北上し、水戸を過ぎ
て20分ほどすると、関東平野が終わりをつ
げ、西に阿武隈の起伏がはじまる。その小
高い山頂に、現代のお城一日立製作所研究
所一がそびえ、『企業城下町」日立市に入っ
中里村
3,130鮎川村
2,249国分村
3,499日高村 2,293
(2,222)
日立村
25,265(2,415)
高鈴村
8,400(3,353>
坂上村
2,773(2,103)
久慈町
5,685(4,206)
河原子町
2,816豊浦町
3,647現日立市域における市町村制施行後(1889)の町村 界及び第1回国勢調査(1910)における各町村の人
口。久慈町は日立市域の最南端に位置する。
()内には1905年時の人口を分かるものについ てのみ記した。久慈町については1907年。
市町寸制1豊浦町 施行当時
阻211 195 215
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百議[「日立村 高鈴村
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鮎川村 東小沢村
1哩村1
コ
図1 町村合併の過程
たことを知らせてくれる…この日立市の最 南端部、久慈川が太平洋にそそぎ込んでい る一角に久慈地域がある。この地域は、茂 宮川が、久慈川の流域にあたる低地と、海 岸線にそう狭い海浜を、三方から30〜40 メートルの台地でかこむ漁村特有の地形を 示し、かつては、下関、八戸とともに日本 三大漁場とまでいわれるほど栄えた港町で
あった」3)
この一文から、久慈町の70年代〜80年代に おいて地域社会の変動に大きな規定力を持っ たいくつかの力を読みとることができる。こ の地域の独自な発展を規定した漁業と、この 地域に急激な変動をもたらした日立製作所を 中心とした工業である。
漁業の町としての久慈の歴史は古く、明治 40年前後の人口で比較すれば、後に日立鉱山 の開山によって発展していく日立村(2415人)
や、日立製作所の発展に伴い日立市の中心地 域となっていく高鈴村(後の助川町。3353人)
を上回る4206人が、久慈町に住んでいる
(図1)。大正末期から昭和初期にかけて最盛 期を迎えた漁業は、その後終戦を経て、他港
との水揚げ競争や沿岸資源の枯渇の中で幾分 かげりを見せたが、久慈町の住民は、太平洋 に直面する海岸に新しい漁港(久慈漁港)を 建設することで、久慈町の漁業が抱える困難 を打開し、さらなる漁業の発展の展望を見い
だそうとした。久慈漁港の建設は46年に始まり、54年に一 定の完成をみるが、その翌年に久慈町は日立 市に合併され、57年には日立製作所の拠点港 としての「久慈商港」(後の日立港)の建設が 開始される。鈴木の77年の実践「川口港から 外港へ」は、この新漁港建設をめぐる、久慈 の漁民の「願い」と日立製作所の地域開発と の矛盾が大きなモチーフになっているが、こ の55年の日立市への合併以降、久慈町と漁業 の変遷は、日立製作所の地域開発と背後から それを支える日立市の政策というもう一つの 力の影響を大きく受けていくことになる。
②日立市形成史素描
一「日立市」の成立と久慈町合併まで 行政区域としての日立市は、その成立自身
が日立製作所の企業展開と深く結びついてい
る。日立市の中心地はもともと日本鉱業日立
鉱産を中心に発展した日立町と、その鉱山機 械の修理部門を前身とする日立製作所の拡大 に伴い急速に発展した助川町の二つの地域か らなっていたが、事業の拡大に伴う工業用地 の買収や労働者の居住地域の拡大に伴い、日 立製作所にとって、二つの行政区域が桓桔と 感じられるようになり、日立製作所は県など の協力も得ながら、半ば強引に合併を進め、日 立市という行政区域を成立(39年)させる。
これ以降、日立市の行政は、日立製作所と 対立・妥協しながら市政に影響を及ぼそうと していく日立鉱山との対立を孕みながら(こ の力関係は戦後のエネルギー政策の転換、産 業構造の転換の中で急速に日立製作所に傾い ていく)、70年代初頭まで、基本的に日立製作 所の意向に強く規定されて展開されていくこ
とになる。55年の久慈町の合併もまた、地元 に製品輸出・原材料輸入のための拠点港を欲 していた日立製作所の意向が強く働いていた
のである4)。
③日立市下における久慈町の地域変動と鈴木 の70年代実践一久慈地域における産業構造 転換の独自な現れを中心に
日立市への合併とそれに伴う日立製作所の 地域開発は、久慈地域を大きく変貌させてい く。しかし、それは開発の進行と地域共同体 の解体という一方向的な過程をたどったので はなく、先に述べたような様々な地域諸力を 生み出す契機ともなった。
久慈地域の日立市への合併以降の就業人口 でみる産業構造の転換を一例として検討して みたい。久慈小学校の保護者職業調査によれ ば、65年には第1次産業21.2%、第2次産業 44.2%、第3次産業34.6%であったものが、75 年には、それぞれ12.7%/51.7%/35.5%と 変化している5)。50年当時の久慈町の就業構造 は産業別に第1次47.7%、第2次21.2%、第 3次31.2%であったから、高度経済成長を通 しての急激な産業構造の転換は明らかである。
しかし、この産業構造の転換は、先に指摘 したように日立製作所などの大企業従業員へ の転業という形では現れず、多くの場合、日 立製作所の下請けを行なう中小・零細企業従 業員への転業、もしくは日立製作所勤務の場
合でも現業(生産工程)労働への転職という 形で進行した6)。やや時期が異なるが、74年か
ら97年にかけての久慈小学校における職業別 保護者数の割合の変化が、水産業13.3%→6.7
%、日立製作所各工場16.0%→22.0%となっ ているのに対してその他中小企業従業員16.0
%→265%となっていることも7)、久慈地域に おける第2次産業就労者の増加が、中小零細 企業従業員の増加として主に現れていること
を示している。
このような産業構造転換の独自な現れは、
日立製作所の労働力政策に強く規定された日 立市内の労働力形成および再生産の特殊性一 相対的に地元出身者の多い下請け・現業労働 者と、県外出身者の多い管理・技術労働者と の階層的構成一をその土台にもっていた。
従ってそれは、一方で日立製作所と地域との 明確な格差構造の客観的な基盤ともなったが、
同時に久慈地域における産業構造の独自の変 化をもたらし、漁業を基盤にした地域共同体 を完全に解体するのではなく、地域共同体の 維持・再編成という結果をもたらす基盤とも なったのである。そしてそのことが、第1次 産業従事者の急激な減少にも関わらず、まさ に漁業を題材に地域の歴史を描き直そうとし た鈴木の実践に対する父母・住民の参加を支 えた「地域性」を生み出したもう一つの背景 になったと言えるだろう。
また急激な産業構造転換にも関わらず、こ の時期久慈地域の漁業がなおも産業として
「健在」であったことも見落とすことはできな いが、この点については後述したい。
ここで指摘しておきたいのは、このような 産業構造転換の過程の中で生み出された、鈴 木の実践を支えるような「地域性」が、それ 故に内部に含み込んでいた「矛盾」である。
第1に、このような地域共同体の「再編成」
は、同時に産業構造の転換に伴う生活様式の
急激な変化や新規住民の流入による生活様式
の多様化を伴いながらの再編成であり、その
ことは子どもたちの意識に、単純には地域共
同体とそれを支える価値・生活展望に共感で
きないような非常に複雑な感情を生み出して
いた。それは、例えば漁師を父親に持つ鈴木
の教え子が、鈴木の実践を非常に「否定的」に
振り返って述べていることにも端的に示され
ている。
付言すれば、このような親の職業に対する 否定的な見方や自分の住んでいる地域に対す る相反する思いというものは、逆説的にだが、
鈴木の実践が生徒たちが持っていたそれぞれ の生活基盤に深く突き刺さるような実践で あったからこそ、引き出されてきたものであ るようにも思われる。そしてこのような「思 い」は、その後の地域社会の変動とも関わっ て、鈴木の教え子たち一久慈地域の青年たち 一の進路選択や生き方において大きな位置を
占めることになったと思われる8)。第2に、先に指摘したことであるが、久慈 地域における産業構造の転換は、その後の地 域社会の変動、特に経済的な好不況や産業構 造の転換等に、地域社会の動向が深く規定さ れていく基盤を生み出していく。特に下請け の中小・零細企業の経営者・従事者が相対的 に多い久慈地域においては、地域社会の経済 的な変動は、自身のみならず家族の生活や将 来の展望に、非常に大きな動揺をもたらした ことは疑いない。実際に、70年代末からの経 済の「低成長」は、この層の生活展望に大き な変化を及ぼしている。
以上の「矛盾」は、その後の70年代末から 80年代かけての久慈地域および日立市の社会 変動の下で、鈴木の70年代実践を支えた「地 域性」がどのように「再編」されていくかを 見ていく上で重要な鍵になっていく。そして、
それはまた、地域に深く「根ざ」したことが、
その「成功」を支えることになった鈴木の実 践が、それ故にその後の地域社会の急激な変 動の影響を受け「転換」していった過程を解 きあかす鍵ともなる。地域社会の動向が鈴木 の実践にどのような変化と「転換」をもたら したのかについては、ここでは詳述出来ない が、以下では、これまで見てきた地域社会の 動向がこれ以降の社会変動の中でどのように 変化していったのかを引き続き見ていくこと
にしたい。
2.80年代における地域社会の急激な変 動と鈴木の実践の「80年代」への転換
①鈴木の80年代実践への「転換」
まず簡単に鈴木の実践の「転換」について 触れておきたい。
70年代の鈴木の実践は、様々な否定的状況 が地域にあることを見据えつつ、しかし地域 開発の進行に対する抵抗や、高度経済成長の 破綻に伴っての「成長」に代わる新しい価値 観の模索に支えられた父母や地域住民による
「地域の教育力」に根ざして実践を展開するこ とを志向していた。しかし80年代の実践では、
このような地域認識は影をひそめ、むしろ高 度経済成長の中での地域社会の急激な変化が 子どもたちに様々な否定的影響を与えている
ことが指摘され、「地域」は根ざすべき所では なく、むしろ学校や学級がそこから「相対的 に独立」して形成されるべき場として認識さ
れるようになる。このような、「地域に根ざす」という点での 鈴木の実践構想の急激な「後退」は、これま で見てきた久慈地域や日立市の状況の変化と 深く関わっている。この点については、既に 他の稿において、高度経済成長の終焉下での 地域社会の再編、特に日立製作所を中心とし た企業の労働力流動化政策や下請け企業への 支配強化・下請け構造の再編、急速な基軸部 門の転換等が地域にもたらした諸影響への分 析を軸に、それが久慈地域および鈴木の実践 を支えた諸力にもたらした変化一鈴木の実践 を支えていた地域諸力の衰退という形での変 化一への分析を試みているので9)、本稿では以 下の視点にしぼってこれらの動向を見ていく
ことにしたい。
②「低成長」の時代における地域変動 一その1 地域経済再編がもたらした子ど も・青年の将来展望の不安定化と急激な進 学競争の広がり
第一の点は、このような地域社会の変動が、
子ども・青年の将来展望にどのような影響を およぼしたかである。
日立市の高校進学率は、70年代の終わりま では、全般的に全国平均を下回る形で推移し
ているのが、77年には前年度の89.4%から92.7%に上昇し、急激に全国平均へと接近した(全
国平均の推移は92.6%→93.1%)。その後増減を繰り返し、鈴木の80年代実践の最後の年に あたる81年には全国平均を上回る94.5%を記 録する(全国平均は94.3%)。以降、86年まで 全国平均をやや下回る形で推移するものの、
それ以降再び全国平均を上回るようになる
(図2)。
このような進学率の上昇に端的に示される 教育熱の上昇は、久慈地域でも例外ではな かった。久慈地域の進学率は、65年63%→70 年89%→75年90.4%と、もともと日立市の平 均を上回る値で推移していた(日立市全体で
は65年63.8%→70年795%→75年89.5%)豆゜)
が、この時期の進学率の高さはむしろ高度経 済成長の過程で漁業や地域の農業が産業とし て衰退し、子どもたちが「義務教育よりも一 段階上の学歴を取得することによって、新た
な職業的地位へと移動する」11)。という、高度経済成長の過程で全国の農漁村で見られた状 況が久慈地域において現象化したものであっ
たと言える。しかし、70年代末から80年代にかけての日 立市全体の進学率の急激な上昇は、相対的に 進学競争に巻き込まれていなかった工業労働 者層の家庭もまた、経済成長の停滞と「低成 長」への移行によって、進学競争へと巻き込 まれていったことを示すものであった。この ような状況は、前で指摘した産業別人口構成 の転換を経験した久慈地域においても、新た な進学競争への圧力として受け止められたと 思われる。特に久慈地域の場合、先に指摘し たように「第二次産業」従事者の中でも中小 零細の下請け企業の経営者やその従業員、あ るいは生産工程労働者が多く、生活への不安 や職業選択を含んだ将来展望の動揺はより激 しかったことが推測される。そのことはこれ までとは違った形での進学圧力として、親や 子どもたちに受け止められることになっただ
ろう。
加えて新しい住民の流入もまた、進学競争 を見通した教育要求を地域の中に顕在化させ ることになった。そのことは、学校に関心を 持つ親の層の変化と、親自身の要求の変化を もたらし、さらに漁業の衰退や中小零細企業 の経営難によって比較的これまで学校に関心 を持ち、そこに参加してきた住民の参加を、学
%
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1971
一N4Lニー
−kこ一,;一..一・一一(=1T
一一
mZ進学率
一一・一一一一 mZ進学率(全国)
1976 1981 1986 1991
図2 日立市高校進学率 1970−1995
年度
校自身の地域での位置の変化もあり、より困 難にさせていったのである。このことは鈴木 の80年代実践における「転換」の一つの重要 なモメントになっていたと推測される。
このことを別の角度から見てみたい。日立 市における高校生の進路・就職状況は、日立 製作所に代表される製造業の動向一好不況や 基軸部門の変更に伴う新規採用人数の増減一 に強く規定されているが、それ故高度経済成 長下における60年代の日立市の第2次産業の 雇用吸収率の高さは結果として、高校進学や 高等学校進学に対する要求を緩和する役割を
果たしていた。このことは、同時期の日立市周辺の都市の 高校進学率と比較してみれば瞭然である。75 年の数字で比較した場合、周辺の工業都市で
ある古河市(94.6%)や工業都市化しつつあった勝田市(94.2%)、また県庁所在地で商業拠 点であった水戸市(96.5%)がいずれも95%
前後の高校進学率であるのに対して日立市の 高校進学率は89.9%と90%に達していない
(同年の茨城県全体の高校進学率は88.6%)。
当時の研究においても、日立市内の中学卒業 者・高校卒業者の就職者に占める県内就職者 の割合の高さが指摘されているが、この県内 就職率の高さを支えていたのは、第2次産業
の雇用吸収力の高さであった12)。しかし石油危機に伴う不況に突入した75年 には、第2次産業への就業者は急減し、日立 市内でも県外就職者の割合が増加している。
これ以降日立市の高校進学率は増減の山を繰
図3 日立市高校卒業者進路状況 進路別比較71−95 図4 日立市高校卒業者進路状況 就職者/進学者比較
3500一
30002500 2000
1500 1000 500 0一
憲
翼
マ葦 .
・重
♂ 菱
馨 巽
… 箋
雛雛
茎 二虎 卓
♂
1971 1975 1980
1985 1990 199
年度■就職者数■進学者数團専門学校圏無業者数
2500
2000
1500
1000
500
0
■就職者男■就職者女團進学者男團進学者女
図5 日立市高校卒業者進路状況 進路別比較(女子) 図6 日立市高校卒業者進路状況 進路別比較(男子)
㎜醐㎜㎜㎜㎜㎜姻㎜。
1995
■就職女 ■進学女 囲専門学校女圏無業者女
り返しながら全体として上昇し、ついには全 国平均を上回るまでに至るのである。高校進 学率が全国平均を上回る第2の時期は87年の 円高不況時に当たっており、以降は全国平均
を上回ることが多くなる。日立市における雇 用吸収力の低下が、新たな進学圧力として現 れていることは明らかだろう。
さらに、80年代後半から90年代にかけては、
円高不況を契機にした日立市の海外への事業 展開もあり、日立市における雇用吸収力は急 激に低下している。例えば、例年卒業生の多
くが日立製作所及び関連会社に就職している 日立工業高校でも、86年の円高不況の際に日 立の各工場が高校卒の採用を控えた際には、
日立及び関連企業への就職者はわずか一人に 過ぎなかったという13)。比較的景気の良かっ た90年代の初頭には、それでも製造業が高校 卒の青年の就業先として依然主要な位置を占
1400
1200 1000
800 600 400 2000
■就職男 ■進学男 國専門学校男國無業者男
めていたが、近年の不況の中でこのような関 係も崩れつつある。
日立市の高校卒業者の進路の統計を見てみ ると、90年以降男女とも就職者数が減少して いる(図3〜6)。就職者数の減少は女子が特 に激しく、全国的な就職難が日立市において も女子生徒に顕著に現れていることが見て取 れる。そのことと並行して女子無業者の増加 が顕著である。業種別に見ると、男女とも事 務従事者、販売従事者の減少が激しい。技能 工・生産工程作業者は、先に触れた円高不況 期の87年に前年度4割減(299人→180人)を 経験した後、再び88年230人、89年279人と 急増した。その後も90年229人、91年243人、
92年279人と順調に推移したが、93年に再び
145人と半減し、以降94年167人、95年209
人と推移している(図7)。全体的な数字もさ
ることながら、職種ごとに見た場合、この10
年間進路先として安定した数字を確保してい る職種はほとんどない。また、91年以降専門・
技術職従事者は統計上0となっており、こう いったことも背景となり進学者、特に専修・各 種学校・職業訓練校進学者(統計としては76 年以降)が増加していることが伺えるのであ
る(図8)14)。
③「低成長」の時代における地域変動一その 2 日立製作所の労働力再編に深く規定され た地域コミュニティの脆弱性について 第2の点は、70年代末以降の日立製作所の
事業展開一主要事業部門の転換、海外での事 業展開一の下での労働力再編が、日立市内に おける地域コミュニティの形成・維持にどの ような影響をもたらしたかという問題である。
一例を挙げてみよう。まず、日立市の人口 動向である。日立市の人口は、75年まで基本 的に増加を続け、75年の国勢調査において人 口20万人を突破した(20万2383人)。しかし その後人口は伸び悩み、85年の人口は20万 6074人と75年人口に比して4000人程度の増 加にとどまっている。さらに、これ以降日立 市の人口は減少に転じ、90年には20万2141人 と4000人の減少を記録した。95年の国勢調査 では19万9241人と20万人を割るまでになっ
ている(図9)且5)。
人口動態のこのような推移を日立製作所の 事業展開と重ね合わせてみるだけでも、日立 市の人口が日立製作所の動向に深く規定され ていることが見て取れるが、これらの数字を もう少し詳しく見ると興味深い事実に突き当 たる。それは日立市における「人口増加」の 内訳の変遷と人口動態そのものには現れてこ ない人口移動の激しさである。
日立市が87年に発表した市の「基本構想』
によれば、62年までの人口の増加は基本的に 企業の雇用の拡大による転入人口の増大によ るところが大きい。しかしその後「大企業」の
「工場の他都市への分散拡張、オートメーショ ン化による従業員の削減など経営合理化が進 められ」ることとなり、65年以降転出人口が 転入人口を上回るようになる。人口動態にお ける転出人口増=社会減の傾向はその後も一 貫して続いており、この間の人口増加は出生
による自然増が社会減を上回ったことによる ものである。しかし、83年にはついに社会減 が自然増を上回り (これは、出生数の減少と 同時に、高齢化による死亡者数の増加による
ものである)、以降細かい人口増減が続くもの の、基本的には人口の逓減傾向が定着し、現
在に至っている。この社会減が自然増を上回るという状況を さらに詳しくみてみると、「社会減」という結 果としての数字が示す以上の転入人口および 転出人口が存在していることが分かる。65年 以降の転入・転出人口を見ると、少ない年で も6000人が、多いときには15000人を越える 人口が、毎年転入・転出を行なっていること が分かる。75年から95年までの20年間の人 口動態は、結果としては3142人の減少に過ぎ ないが、この間の総転入・転出人口はそれぞ れ15万2626人、18万9005人に及んでいる
(図10)16)。日立における定住者層を軸にした
地域コミュニティの形成の困難さが、このこ
とからもうかがえよう。
日立市において地域コミュニティの形成を 困難にしているもう一つの要因は、市内での 人口移動の激しさである。人口数の増減を日 立市内にある6つの管区別に見ると、市役所 や日立駅などがある本庁管区では、75年から 95年の間に76459人から58578人と、17881人 の人口減少が起きている一方で、住宅開発の 進行した市北部の日高地区・豊浦地区では、人 口増加が続き、それぞれ17441人から26075人
(8634人増)、4435人から9029人(4594人増)
へと増加している(表1)。この間の日立製作
所における重点産業部門の転換や福利厚生政
策の転換、工場移転などがこれらの人口移動
に大きな影響を与えていることは言うまでも
ない。このような急激な人口移動は、住宅団
地における「二山型の人口構成」と呼ばれる
年齢別人口構成の特異さをもたらし(入居者
となる従業員とその妻の年齢層とその子ども
たちの年齢層の二つの山が突出する人口構成
を指す)、若年労働者層が地域に定住すること
を困難にし、同時に地域コミュニティの中心
的な担い手となる層の「高齢化」の進行を促
進し、地域コミュニティの形成の困難さの基
底的な要因となっている(図11)。このような
図7 高校卒業就職者職種別進路分布 85−95
笥
loo
085 86 87 88 89 90
事務従事者 技能/生産工程
91 92 93 94 95
−一一
フ売従事者
一一一一 Tービス業
図8 日立市高校卒業者進路状況 1970−1 995
0.6
0.3
0。2
・・11 /
oL___二_一__
1971 1976 1981 1986進学率男 一一一一進学率女
一一一一一A職率女 一一一一専門率男
1991
…就職率男 専門率女
250000「
200000
1
1500001.
100000
50000図9 日立市内総人口推移 1940−1995
0
1940 1950 1960 1970 1980 1990 1995
一市内人ロ ー一一一一合併以前人口の総計
図10 日立市人口動態75−95 転出数/転入数
12ooo
レ
4000_L八沢 一!『N−一一 一
0 −一 一一/\一一 x−一〜___一一/\一一 (?
.4000L
75 77 79 81 83 85 87 89 91 93 95
転入数 一一一一一一転出数 一一一一転入一転出 一 一一出生一死亡
自然増一社会減
表1 地区別人口の推移 (国勢調査)
図11 青葉台・堂平両団地の年齢別人口構成「地医鷲
1970年 1975年 1980年 1985年1511人 女且574人 計3085人
1本庁 82439 7645gi 70414 67279
世帯数827
j
198710,1現在
L逆部 1 ・69177751(昇i7753777678
i
e聾1−…226 2§←5! 日高 ll5 1744 21276 23406 一慧塑117
(歳>
X5−
X0・94 W5−89 W0−84 V5−79 V0・74 U5・69
U0イ}4T5・59 T0−54
S549 S044
R5−39 R0−34 Q5−29 Q0.24 P5.19
P0・14 T−9徊3卦
1豊浦 4133 触肋r
U042 6960
西部 3262 _幽_2210 2100
(単位:人)
04
250 200 150 100 50 0 0 50 100 150 200 250(人)
人口移動が、近年においては、日立製作所に よる工場展開、特に重点業種の転換による「工 場ごとの」労働力移動によって、市外への急 激な人口流出という形で現れていることも指
摘しておく必要があるだろう17》。このように、日立市において市政や日立製 作所の意向に対して相対的に力を発揮し得る
ような地域コミュニティが非常に形成されに くい状況にあるということは、これまでの日 立市の歴史に端的に示されるように、その影 響力の行使のされ方やその強弱の違いはあり
ながらも、基本的に日立製作所の意向に市政 が強く規定されてきたことに対する市民の不 満が集団的・持続的な力として現れてくるこ とを妨げてきたと同時に、近年の日立地域研 究が多く指摘するような、日立製作所の事業 展開の転換・多国籍化による住民の流動化の 加速化と、その下での住民の行政参加に対す る「受動性」と「無力感」の広がり、という 状況を作り出す大きな要因ともなっているの
である。
3.90年代における久慈地域と日立市一 90年代における「地域に根ざす教育」の 構想に向けて
①久慈地域の直面する状況と住民の意識 さて、このような日立市の状況は鈴木の実 践の舞台であった久慈地域においてはどのよ
うに現れているだろうか。ここで注目すべき ことは、久慈町の人口動態が、日立市全体の 人口動態の影響を強く受けつつ、これとは相 対的に独自の動きを見せ、そのことがなおも 総体として久慈地域を一つの地域コミュニ ティとして成立させ得ているということであ
る。
若年層の流出と高齢化の進行という日立市 全体の動向が、久慈地域においても同様に現 れていることは事実である。人口の流出とい う意味で言えばむしろ日立市全体の動向より も急激である。小学校区単位の人口動態で見 れば、65年から87年の間に12133人から9333 人へと2800人減少している。年齢別人口でみ れば、0〜15歳層(3483人→1630人)と30
〜45歳層(2791人→1860人)の減少が激し く、45歳以上は逆に増加している(45歳〜60 歳層1688人→2000人、60歳〜75歳711人→
1250人、75歳以上178人→390人)。そのこと は久慈小学校の児童数の減少に端的に現れて
いるだろう(70年1278人→97年545人)(図12)。一方で、日立製作所を中心とした若年労働 層の流入・流出や住宅団地の建設による人口 構成の急激な変動の影響を、久慈地域は比較 的受けにくい構造を持っている。久慈地区で は一人暮らしの老人世帯も多い反面(87年当 時、日立市全体で人口数の0.40%に対して人 口数の0。58%)、三世代同居の割合も高く、87 年・89年に行なわれた「市民福祉意識調査」お よび「地域福祉に関する子ども福祉意識調査」
では、久慈小学校の51.4%、久慈中学校の39.2
%の生徒が祖父母と「一緒に住んでいる」と 回答している。これは、高度成長期における 大量の労働者の流入によって主に形成されて きた地域における「高齢化」とは異なる様相 である18)。このことはまた、地域の価値意識 や行動規範が、祖父母や両親などの「身近な」
住民を通して、比較的次の世代に伝わりやす
蜘㎜㎜㎝㎜姻蜘㎜㎜o 入口数
図12 1987年度久慈町年齢別人口
0− 5−10−15−20−25−30−35−40−45−50−55−60−65−70−75−80−85−90−95−
(歳)
いことも示している。
また、この地域がこれまで見てきたような 歴史を経て形成されてきたことは、現在もな お、地域住民の意識や行動の中に様々な形で 反映している。例えば、日立港の拡張に伴い、
旧川口港が埋め立てられた際に、その埋め立 て地の活用を軸に地域の発展を模索しようと
した「久慈地区再開発協議会」(77.ll結成)の活動は、その後様々な紆余曲折を経ながらも、
その後の久慈地域の開発にあたって、日立市 や日立製作所による開発とは異なった独自の 発言力を、地域づくりにおいて持ち得ている
19)o
これらの事柄から伺えるのは、久慈地域が、
現在もなお、この地域において相対的な自立 性を持ったコミュニティとして成立・維持し 得ているということである。
同時にこれまで述べてきたように、久慈地 域においても新規住民の流入や日立製作所の 事業展開による生活基盤の動揺や将来展望の 不安などが、住民の意識や行動を強く規定し ていることも事実である。それらはこの地域 の中で、新しい行動様式を体現している新し い住民層と古くから久慈地域に住んでいる住 民との間の葛藤や対立なども含みながらこの 地域の住民の意識を強く規定している。
このような久慈地域の現状と住民の意識と は、そこで育つ子どもや青年の意識や行動を 現在でも強く規定している。先に引用した意 識調査等を見ても、久慈という地域に存在す る共同体的な人間関係が、あるいはそこに象 徴される地域での生活が、自分たちにとって
「心地よい」と受け止められ、肯定的に捉えら
れている側面と、そのようなものが「煩わし
木戸口正宏
表2 日立市における漁業従事者および漁船数の推移
緊薮+久.
」1,1一日懸
!_日立市
b−,。r 1久慈
(数字は漁業従事者数/漁船数)
7 i 78
518/183 3661165
831!369 552/33328/23 14/17
164/141 67/93 久慈 201/114 117/116 日立市 321/163 .!911190 84!17 62/15
鵠
一 1
83 88346/144 3591130 365
6響期
11㌶3197/亘
い」と受け止められ、否定的に捉えられる側 面とが混在し、せめぎあうような状況が存在
していることが伺えるのである。
②久慈の漁業の現在一地域共同体の相対的自 立性を支えるものとしての漁業
以上みてきた久慈地域の住民の日立市全体 とは異なる住民意識の形成の基盤には、また 久慈という地域が、行政や企業の動向に対し て現在もなお相対的に自立的で有り得ている 背後には、久慈の漁業がなお地域の産業とし て存続し、そのことが久慈地域において地域 コミュニティを形成する力として働いている ことがあるように思われる。
そのことを端的に示しているのは、久慈に おける漁業従事者数の推移である。確かに73 年の518人から83年には346人へと漁業従事 者は急激に減少している。しかし88年以降漁 業従事者はわずかながら増加に転じ、88年に は359人、93年には365人となっている(日 立市全体の漁業従事者は88年513人→93年500 人と減少)。これは直接的には、遠洋漁業に従 事するloO t以上の漁船が再び増加し(83年
13隻→88年17隻→93年21隻)、その乗組員 が増えていることが要因である(同じく132人
→197人→214人)が、一方でこれまで久慈町 漁協・久慈浜丸小漁協が取り組みを重ねてき た「水産動植物の増殖」や並行しての「沿岸 海域の環境保全とその回復」、直販施設「おさ かなセンター」の建設等の事業が軌道に乗る 中で、沿岸・近海漁業に携わる「零細」漁船 従事者が何とか生計を建てていける条件が生
まれつつあることが背景にはある(表2)2°)。このような漁業を維持するための取り組み は、鈴木の70年代の実践に端的に示されるよ
(「日立の統計」73〜96より作成)
うに、かつて地域を背後から支える力として 働き続け、またその後の地域社会の動向の中
で衰退を経験た漁業が、なおも現在の久慈に おいて地域の姿をリアルに捉え、そこに存在 する問題に継続的に取り組み、地域を作り続 けようとする力の源泉の一つとなっているこ とを示すものであるだろう。
おわりに
98年8月17日の日本経済新聞は、連載記事
「まちと生きる 第2部 岐路に立つ」で「明 日見えず漂う工場の街」と題して、日立市の 現状を取りあげている。そこでは長引く不況
の中で、「名門」と呼ばれた下請け企業の倒産 が街に衝撃を与えていること、日立製作所の 事業再編やリストラの進行に伴う地域経済の 冷え込み、商店街の売上げの落ち込みが、街 に暗い影を落としていることが報じられてい る。かつて日立製作所の隆盛と共に急激に発 展した日立市は、その日立製作所の業績の悪 化によって先行きの見えない状態におかれて
いる。
日立市下の一つの「町」である久慈町もま た、このような現状と無縁ではない。しかし、
これまで見てきた久慈町の形成史に即して言 えば、久慈町は、日立市の全体的な停滞・衰 退傾向に対する何らかの「抵抗力」を発揮し 得る可能性を、なおも持ち得ている地域とし て現在も存立しているということが言えるの ではないだろうか。
もちろん、そのような力は、明示的な力と して存在しているわけではないし、今後の地 域社会の変動の中で充分な力を発揮し得ない
ということもあるだろう。また、先に指摘し
たように、これらの力は、そこに住む人にとっ て、時には自己の人生を束縛するものとして 否定的に捉えられることも少なくない。とは 言え、教育実践というものが、そのような地 域の形成作用に対する意識的な統御を目的と し、その上に一人ひとりの子ども・青年の自 己形成に関わっていく営みであるとするなら ば、地域に生み出され続けるこの力に「根ざ して」、少なくともそれと向き合って実践を構 想することが、これからの教育実践の不可欠 の課題として位置づけられなければならない
だろう。
そのような実践像を描き出すためには、小 論で取り上げた鈴木正氣の実践そのものに対 する内在的な分析が必要であろう。しかし筆 者の力量不足により、今回は果たせなかった。
別稿に譲ることにしたい。
註
1)実践の記録は『川口港から外港へ』78年(草土文
化〉にまとめられている。同書は81年に第一回教科研賞授賞作となった。
2)以上の仮説については、詳しくは拙稿「地域社会
変動と教育実践一鈴木正氣の『地域に根ざす教育実践』を手がかりに」『教育』98.lNo.622、「一
九九〇年代の久慈地域から一九〇年代の『地域 に根ざす教育実践』論の手がかりを求めて」教育実践検討会編『問い続けるわれら』所収 1998 年3月発行 教育実践検討会発行 を参照のこ
と。
3)前掲『川口港から外港へ』p.27。
4)以上の記述は雨宮昭一「日立市の歴史的形成一二
つの平準化・同質化」(茨城大学地域総合研究所/帯刀治編『企業城下町日立の「リストラ」』1993 (東信堂)所収)を参照した。
5)数字については『川口港から外港へ』p.31掲載の
表を参照した。6)茨城県(国土庁委託)『日立市における工業都市
機能』1977 は、日立市民の職業分布について 「…県外からの転入者は、主として事務職・技術 職および管理職の割合が高いのに比して…地元 出身者は、主として、農林水産業及び作業・技 能職に従事している割合が高く、いわば市内工 業労働力の主体的部分を形成している」と述べ ている。7)数字については鈴木正氣「『久慈の漁業』その後」
『教育』1997.11No.619を参照した。
8)以上の記述については、村井淳志『学力から意味
1998年12月
へ』第4章「産業学習における『親の職業のと
らえ直し』」p.183〜、および、前掲鈴木「『久慈 の漁業』その後」を参照のこと。
9)以上の点について、詳しくは前掲拙稿「地域社会
変動と教育実践」を参照のこと。なお、鈴木の80年代の実践は『学校探検から自動車工業まで』
1983(あゆみ出版)に収録されている。
10)久慈地域の進学率については前掲『川口港から 外港へ』p.31掲載の表を参照した。
11)苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』「第四章 大 衆教育社会と学歴主義」p.133参照。
12)前掲『日立市における工業都市機能』。
13)茨城新聞社『共生の時代』「就職は日立ブラン
ド」を参照のこと。
14)『日立市の統計』71〜96から作成。なお統計の 対象は日立市内に設置されている公立・私立高 校であり、日立市内に在住している高校生の進 路動向とは必ずしも一致しない。また、統計上
「専修学校・各種学校・職業訓練校」となってい
る中身は高校によって様々である。例えば卒業 者のほとんどが進学を希望する日立一高においても卒業者の半数がこの項目に含まれているが、
これは予備校進学者であると考えられる。
15)前掲『企業城下町日立の「リストラ」』所収およ
び日立市『基本構想』1987を参照した。16)この間、日立製作所は、内部部門間での急激な 労働力再編を行なっている。例えば、中枢管理
部門(本社及び支社、8186人→9714人)・本社
研究所(3564人→4893人)・情報通信機器部門(10406人→15055人)・電子部品部門(11341人
→12836人)は従業員が増加しており、一方重電部門(30771人→23274人)・国内家電部門(12033
人→10739人)は減少している。日立市の製造業 は主に重電部門・国内家電部門を中心に発展を してきており、これらの部門の衰退および他地 域(特に海外)への工場の移転は、日立市から の人口流出の大きな要因の一つとなっている。17)日立市における年齢階層人口の再生産、特に若 年齢層の「単純再生産」の「不安定さ」は、既に 70年代末の時点で指摘されていた。前掲『日立
市における工業都市機能』。
18)以上の記述は長谷川幸介「『企業都市』日立市の 住民生活構造(1)一日立市の人口構成と住宅
政策一」『茨城大学地域総合研究所年報』第22号 89年を参照した。19)詳しくは前掲拙稿「一九九〇年代の久慈地域か ら」を参照のこと。
20)数字については『日立市の統計』73〜96を参照