【査読論文】
社会運動家パール・バックと
GHQ 占領下から日中国交回復期の日本人
─ バックが起こした社会運動を事例に ─
The Impact of Social Movements Conducted by Pearl S. Buck on Japanese People, 1945–1972
佐川 陽子*
SAGAWA Yoko
[要旨]
本稿は、「ノーベル文学賞」受賞作家であるパール・バック(Pearl S. Buck,
1892
–1973)
(以下、バック)が、太平洋戦争後に社会運動家として日本人と関りを持ったことに着目し、バックと日本人がどのような関わりを持ったのか、
また、日本人の間でどのような反響があったのかを明らかにすることを目的と する。バックは、幼少期から約
40
年間中国で暮らしたが、日本軍の中国侵略 等の複合的な要因により1934(昭和 9)年にアメリカに帰国し永住した。その
後
38(同 13)年にバックは「ノーベル文学賞」を受賞し、20
世紀を代表する作家としての地位を築き、その受賞を機に、文筆活動の傍ら、社会運動家とし て活動を開始する。アメリカでは、日本軍の批判を目的とした作品の出版、東 西間の文化交流の推進、人種と性差別の撤廃、中国の中国人救済、核兵器反 対、原爆後遺症の日本人女性救済、障がい児を持つ親の救済、世界初の孤児の 里親斡旋施設設立、国際孤児団体設立等の多岐に亘る活動を行ったが、その活 動が戦後の日本にも波及していた。日本における業績としては、発言者として の主張、被爆者支援、アメリカ人男性と日本人女性との間に生まれた混血孤児 の救済、障がい児を持つ親の救済等であり、バックから影響を受けたと思われ る日本人が、後に社会貢献活動を行った事例もある。本稿では、日本人と関わ りを持った事例を、文献、雑誌・新聞記事から収集し考察を行う。
キーワード:被爆者、混血孤児、障がい児の親の救済、山崎豊子、近藤紘子
1.はじめに
バック(1)が、初めて日本の新聞に登場するのは、1930年代半ばのことである。バッ
* 立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科博士課程前期課程修了生
クの代表作『大地(The Good Earth)』が日本でベストセラーとなったのが
1934(昭和 9)年であり、その後、映画化された『大地』も日本全国で大きな興行成績を収め、そ
れらの関連記事が新聞に掲載されたのである。大きな反響の理由は、当時全くと言っ ても良いほど知られていなかった中国と中国農民の生活を、西欧諸国や日本の人々に 知らしめたことである。バックが中国を書くことができたのは、1892(明治25)年か
ら約40
年間中国で暮らした希少なアメリカ人であったことに由縁がある。アメリカで 生まれたバックは、両親が宣教活動を行っていた中国に生後3
ヵ月の乳児期に連れて 来られ、幼少期から多くの時間を中国人の乳母や使用人と過ごした。バックが育った 家庭には、使用人、参集する信者、近隣住人等の中国人が常に出入りし、中国人とア メリカ人が共存していた。また、自宅には多国籍の友人達が来訪し、それが世界の縮 図となり、バックは、幼い頃から人種差別の無い平和な世界を描いていたという(バッ ク 1958:8–9)。中国人が通う小中学校に入学し、語学的才能に優れ学習する労を厭わ
なかったバックは、儒学者の家庭教師や、宣教師であった両親から多くのことを学び、アメリカの大学進学と中国で起きた新文学革命を経て、米中両国語のリテラシーと教 養を身に付けた。その一方で、バックは、「義和団の事変」、「辛亥革命」、1920年代か ら
30
年代に起きた度重なる内戦や米英軍艦からの砲撃、日本の傀儡政権である満州国 建国と日本軍による南京砲撃等の近代中国の歴史を見つめ、時には命がけの避難を余 儀なくされたのである。バックの
80
年の生涯は、幼少期から42
歳まで中国で過ごした前半生と、1934(昭和
9)年にアメリカに帰国し永住した後半生で二分されているが、本論文では、後半
生に焦点を当て、帰国後に開始した多岐に亘る社会運動に着目する。アメリカにおい て展開したバックの社会運動が、日本人にも波及していた事例があり、コン・ピーター
(Peter Conn 1942–
)
(2001a. b)(以下、コン)や松坂清俊(2008)が著作に記述してい る例や、於保真理(2004)、Augustine Jonathan(2014)、川端理恵(2016)が福祉の視 点から考察した研究例があるが、網羅的に詳細が記述された研究例は、筆者が調査し た範囲では今のところ見当たらない。また、バックに作家以外の顔があることは、意 外に日本では知られていないことから(バック 2013b:256)、日本人との関わりにお いて行った諸活動の詳細を考察することは、バックが日本人に残した業績を知る重要 な手掛かりとなると考えられる。そこで、本論文では、社会運動家バックが日本人と どのような関わりを持ったのかについて研究を行う。研究を進めるにあたり、まず、バックがアメリカに帰国後から開始した社会運動を概観し、次に、GHQ占領下から 日中国交回復期までの間に社会運動家バックが日本人と関わった主な事例について網 羅的に考察する。最後に、バックが日本人との関わりを通して日本人に残した業績に ついて総括し、本論文の課題を記す。方法は、バック自身の著作、バック研究の第一 人者と目されるコンのバックに関する伝記と、当時の新聞・雑誌記事から具体的な事 例を収集し考察を進める。本稿における「日本人」とは、バックと個人的に接触した 人々、原爆の被爆者とその家族、アメリカ人男性と日本人女性との間に生まれ後に孤 児となった子供達、障がいを持って生れた子供を持つ親、戦争未亡人、そして、バッ クの作品・提言等に感銘を受けた日本人とする。また、GHQ占領以降の期間を設定し た理由は、日本の新聞・雑誌にバックが日本人に向けたメッセージを発信し始めるの
が
GHQ
による日本占領以降であり、日中国交が回復した1972(昭和 47)年の翌年 3
月にバックが病没したことに拠る。なお、本文と表中に記した「原爆乙女」、「精神薄 弱児」、「精薄児」、「異常児」、「発育不活発な子供」等の用語は原文のままとし、古い 漢字を現代語へ修正した。2.アメリカにおける社会運動家パール・バックの業績
バックは、複合的な要因により
1934(昭和 9)年にアメリカに帰国し永住した
(2)。 その後、38(同13)年に「ノーベル文学賞」を受賞し、20
世紀を代表する作家として の地位を築き、その受賞を機に、バックは社会運動を開始する。本章では、「ノーベル 文学賞」がバックにもたらした意義を考察し、アメリカにおけるバックの社会運動の 業績を辿る。(1)「ノーベル文学賞」がバックにもたらした意義
バックの受賞は、バック自身を含めた多くの人にとって予期せぬことであった。受 賞の知らせを聞いたバックが、その驚きを英語よりも先に中国語で「本当かしら?」、
次に英語で「なんですって? ドレイサーがもらうはずじゃなかったのかしら」と述 べ、新聞やラジオのニュースで全米および世界中に流れたという(コン
2001b:8)。
この受賞については、「実際、広大な国アメリカで、ベストセラーズの目録には確かに よく載っていたこのアメリカの女流小説家の名前が、文学的に高い優れたものという 評価のある賞に関係を持とうなどとは、誰一人思ってもいなかった。(中略)この時 ノーベル文学賞を巡る討論にもまた、政治的考慮が一躍を演じたことは当然であろう
(スウェーデン・アカデミー・ノーベル財団後援 1971:100)。」と報告されている。帰 国後
4
年余りのバックにとって、アメリカは異国であり、それに加え「中国帰りの女 性作家」としてアメリカの文壇から差別的な扱いを受け、バックが「よそ者」意識を 強く感じていた頃である。中国から持ち帰った原稿に基づき、バックは両親に関する 伝記小説を1936(昭和 11)年に出版しており、それまでに出版した中国と中国人を
描いた複数の作品と共に「ノーベル文学賞」評価の対象とされたが、バックは「中国」から離れることは未だできていなかったのである。従って、受賞により
20
世紀を代表 する作家の地位を築き、アメリカ人としての誇りと自信を持つことができたことは、受賞に至る選考過程に如何なる事情があろうとも、バックにとって大きな意義をもた らしたと考えられる。
(2)アメリカにおける業績
「ノーベル文学賞」受賞を機に、帰国直後は馴染めなかったアメリカの地に足をつけ たバックは、日本軍に対する批判を目的とした作品の執筆を通して抗議活動を開始し、
多岐に亘る社会運動に着手するのである。
太平洋戦争前は、執筆活動の傍ら、東西の文化交流と啓蒙を深める「東西協会」設 立と雑誌『アジア』の買収、日本軍により被害を受けた中国本土の「中国人救済」、中 国人を差別している「中国移民制限法の撤廃」、「黒人に対する人種差別撤廃」、バッ
クのフェミニストとしての「男女同権」、「日系アメリカ人の収容所送りと財産没収に 対する反対」、「英国による植民地主義撤廃」等の運動を行った。戦後には、混血孤児 の里親斡旋施設「ウェルカム・ハウス」設立、「障がい児を持つ親の救済」、「原爆後遺 症の治療支援」、原子爆弾開発に当たった科学者たちの苦悩と被爆の恐ろしさを描いた 小説の出版、「核兵器廃止運動」を行い、晩年には、「パール・バック財団」を設立し、
アジア諸国に残されたアメリカ人男性とアジア女性との間に生まれた混血孤児達を救 済した。
バックのアメリカにおける社会運動の特色として「人種と差別に対するこだわり」
を指摘したい。例えば、「日本軍に対する批判」、「日系アメリカ人救済」、「日本軍の攻 撃で負傷した中国本土の中国人救済」を同時に行い、全米規模の人種差別撤廃組織の 議長にバック自らが就任した上で「黒人の公民権運動」も行う。その結果、特に黒人 指導者からは、自分達の苦しい生活実態を本当に理解してくれた二人の白人の一人と してバックが挙げられているのである(コン 2001a:23)(3)。また、真珠湾攻撃直後に 出された大統領令とされる「日系アメリカ市民の収容所送りと財産没収に対する反対 運動」において、バックは、ほとんどのアメリカ人が沈黙を守る中で闘った数少ない 米国市民の一人(コン 2001a:22)であるが、イタリア系、ドイツ系アメリカ人が収 容されていないことを指摘し「日系人を黄色人種として差別している」と訴え、実際
に
1944(昭和 19)年に大統領令を廃止させ、戦後の損害補償を受けられる力となっ
た(4)。また、「中国移民制限法の撤廃」もルーズベルト大統領夫妻に理解を求め
43(同 18)年に実現させた。バックが「人種と差別」にこだわり多民族文化主義を貫く要因
について、白人であるバックが長年暮らした中国における「少数派」としての経験が 指摘されている(コン2001b:329)。
3.日本におけるパール・バックの社会運動とその反響
1945(昭和 20)年の GHQ
による日本占領以降に日本の新聞・雑誌に登場したバックは、もはや『大地』の作家ではなく、日本人への忠告を行い、アインシュタイン
(Albert Einstein 1879–
1955)と肩を並べて国連に対し提言を行う社会運動家であっ
た(5)。本章では、バックと日本人の関りにおいて、特に反響の大きかった社会運動の 事例を表にまとめ考察する。なお、大きな紙面の記事は概要を記した。(1)発言者として(表 1)
事例
1
の「日本人への忠言」は、新聞社からアメリカ在住の何人かの有識者に対し て取材が行われたものであるが、他の事例にも見られるように、日本のメディアがバッ クの知名度を活かして、読者を引き付けるような大きな記事に仕上げようとしている 姿勢が見受けられ、バックが日本において発言者としての地位を確立している様子が 窺える。特に、事例4
の戦争未亡人の手記に寄稿した「序文」で、バックは「彼女た ちの失ったものはすべてお国のため」、「他の文明国では戦争未亡人が生まれたのは国 家の責任としている」と発言しており、読者は戦争未亡人に対する認識を改め、翌日 に施行された「援護法」の理解を深める効果があったのではないかと考える。また、全般的に戦後の日本を背負う青年や、平和を願う女性に対する温かい激励が目立つ。
(2)被爆者に対する支援活動(表 2)
本活動においては、バックが築いた広い人脈が功を奏した。日本から被爆者支援の 啓蒙に訪れた広島の流川教会牧師で被爆者の谷本清(1909–
1986)
(以下、谷本)に対 し、バックは、ノーマン・カズンズ(Norman Cousins 1915–1990)
(以下、カズンズ)を推し、被爆者支援活動は急速に進むことになる(6)。1952(昭和
27)年 4
月28
日に 日本のGHQ
からの独立後に掲載された事例3
以降、記事数が急増したことは、GHQ による情報統制(プレス・コード)により、原爆に関する報道が禁止されていたこと を物語っており、事例1
の映画の話題は、後に途絶えている。その統制が、被爆者に 対する支援を大幅に遅らせたことは、明白な事実である。(3)混血孤児の救済活動(表 3)
「(戦後の)日米混血児第
1
号の誕生」というニュースが1946(昭和 21)年 6
月末に ラジオで流れ、戦後間もない日本に衝撃が走った。GHQが日本に上陸したのが、45(同
20)年 9
月15
日のことで、それから9
ヵ月後のニュースである(7)。その後、生後 間もない混血児の置き去りや遺体の遺棄といった事件が日本各地で相次ぎ、大きな社 会問題になっていた(本庄 2014:9–10)。本項では、バックが澤田美喜(以下、澤田)
と協働した混血孤児救済活動と、バックがアメリカで設立した国際孤児支援団体によ る混血児支援について考察する。表 3の通り、本活動も GHQによる情報統制を受け ていたことが明白である。
①澤田美喜との協働
上述の社会問題に胸を痛め、1948(昭和
23)年に混血孤児救済施設「エリザベス・
サンダース・ホーム」を設立したのが澤田である(8)。バックも混血孤児の里親斡旋施 設「ウェルカム・ハウス」を
49(同 24)年に設立しており、二人は交流した。バック
は、澤田の施設から8
人の孤児をアメリカの里親に引き渡し、自らも黒人の孤児を引 き取り(事例6)、澤田が設立した小・中学校に送った育英資金により、4
人の卒業生 がアメリカに留学した。また、混血孤児達の高校卒業後の職場として澤田がブラジル に農場を作ったが、バックは建設資金として5
万ドル(当時の換算で1,800
万円)を 寄付している(9)。澤田は後に「私は、この仕事を通じて、パール・バックを親友に持 つことができたことは、このうえもないしあわせなことでした(澤田 1963:253)。」と述べている。
②国際孤児支援団体「パール・バック財団」による日本の混血児支援
1964(昭和 39)年にバックがアメリカで設立した本団体は、65(同 40)年から 5
年間に、韓国、台湾、返還前の沖縄、フィリピン、タイ、ベトナムに支部を開設し、韓 国ソウルには後に混血児教育センターを設立した。日本における支援としては、澤田 が設立した学校に毎月約
40
万円と、ブラジルの農園に対する上記寄付金の事例がある。仏文学者・平野威馬雄氏にも支援を約束しているが(事例
11)
(10)、その後の情報が途絶えている。一因として考えられるのは、69(同
44)年に起きた財団の内部スキャ
ンダルである。この件により、州から「業務一時停止命令」が下され、代表者であっ たバックは、77歳という高齢の身でありながら他州に移住している(バック 2019:388)。筆者の調査では、この情報が当時の日本で報じられた形跡は見当たらない。
(4)障がい児を持つ親の救済(表 4)
キャロルについては註(2)–①に既述の通りであるが、自身のプライバシーとキャ ロルを民衆の容赦ない好奇心から守るために、バックはキャロルのことを徹底的に伏 せていた。しかし、キャロルが
30
歳になった頃、意を決して小説『母よ嘆くなかれ(The Child Who Never Grew)』(1950)を出版し全容を明かしたのである(事例
1,2)。
日本でも同年に出版された本書は、70年経った現在でも出版が継続しており、今後増 刷の可能性があるという。事例
3〜5
の通り、バックは、障がい児を持つ親に対する協 力を惜しまなかった。バックによる激励文の全文が手記『手をつなぐ親たち』の「序 文」として掲載され(11)、1万部を超えるベストセラーとなっており、東日本大震災後の
2012(平成 24)年に復刻版、翌年にその第 3
刷が出版されている。手記の純益金は、すべて同会の運動費に充てられている。
(5)パール・バックから影響を受けたと思われる日本人と社会貢献活動
バックと直接、間接的に接触し、その後の人生において社会貢献の一端を担った日 本人が居り本節では、以下の二人の女性について触れることとする。それは、社会派 小説作家・山崎豊子(1924–
2013)
(以下、山崎)と、谷本の長女・近藤紘子(1944–)
(以下、近藤)である。両者ともバックの逝去後に活動を開始しているが、その社会貢 献の大きさから事例として挙げることとする。
①山崎豊子の「山崎豊子文化財団」、「大地の子小学校」、『約束の海』(表 5)
山崎は、多くの長編小説と話題性のある映画やテレビドラマを生み出した社会派小 説作家として日本の文壇に名を馳せたことは周知のことであるが、雑誌のインタビュー で山崎が「バックの『大地』を超える作品でなければという気負いがあった(山崎
2012:307
–308)」と述べた小説『大地の子』を描いている。本作品は、8
年の歳月をかけて完成させた大作となり、NHKは開局
70
周年記念と戦後50
年の節目の番組とし て、1995(平成7)年に同名の日中合作スペシャルドラマを制作し、その後、何度も
再放送しているのである。山崎は、『大地の子』の題名について、「『大地』は女学生時 代からの愛読書ですから、やはり意識していた。(中略)とにかく、パール・バックの 書いていない現代中国を書けたことに満足している(山崎 2012:295–296)。」と述べ
ている。表 1–事例1
に示した毎日新聞の記事が掲載された時、山崎は、大阪毎日新聞 社に記者として入社後2
年目であり、女学校時代からの愛読書の作家・バックによる 日本人に対する忠告に目を通したのではないかと推察される。その時、山崎は、バッ クの社会運動家としての顔を垣間見たのではないだろうか。山崎がバックから影響を 受けていると筆者が考える事項は表 5の通りであるが、特に事例12
と13
に示したバッ クと類似の社会貢献と執筆による訴えに注目する。また、新聞・雑誌記事には見当たらなかったが、山崎は、テレビドラマ『大地の子』の撮影現場となった重慶近くの村 に小学校が無いのを知ると、日中両国の制作関係者と共に「大地小学校」を設立し
96
(同
8)年に寄付している。事例 13
の小説『約束の海』は、山崎が病をおして執筆し、その途上で「書きながら棺に入る」ことになった作品である(12)。愛読書だったバック の作品と、学徒動員や大阪大空襲等の戦争体験が時間をかけて実を結び、山崎は、戦 争三部作(『不毛地帯』、『二つの祖国』、『大地の子』)を生み出し、社会貢献活動を行っ たのではないかと筆者は考える。山崎は「シベリア抑留者」、「戦争孤児」、「真珠湾」
を、バックは「原爆の恐ろしさ」と「広島、長崎」をそれぞれ書き残したことになる。
②近藤紘子の「国際養子縁組活動」と、被爆者としての「語り部運動」
近藤は、上記3–(2)で既述の谷本の長女である。生後
8
ヵ月の時に広島で母と共に 被爆したが、奇跡的に助かった。後述するテレビ番組に被爆者として出演するために10
歳の時に渡米し、その際にバックの自宅で3
ヵ月間夏休みを過ごすことになった。これが、バックとの運命的な出会いとなる。近藤は、「ウェルカム・ハウス」の孤児た ちと仲良く遊び、そこで喜々として孤児を育てるバックの姿を脳裏に焼き付けること になった。「パール・バックから学んだことはあまりに膨大すぎて、とても語りつくせ ません(近藤 2005:158)。」と述べる近藤は、バックの影響で二人の養子を育てあげ たことと、「どの子もこの世に生を受けた子供は必ず意味がある。それを絶対に忘れな いでほしい」というバックから告げられた言葉を心の支えにしてきたことを、日本の テレビ番組で明言している(13)。
アメリカに留学した近藤は、頻繁にバックの自宅を訪問し、その際に「戦争になっ たら多くの人が傷つく。でも、その中でも一番傷つくのは子供達。そのことを紘子、
忘れないで。将来あなたには、大人の犠牲になった子供達の為に何かしてほしい(近 藤 2005:158–
159)。」と、遺言のような言葉を告げられ、近藤は、後に「国際養子縁
組」というプロジェクトを推進し、40人以上の孤児を海外に送り出したのである(14)。 また、被爆者として平和の大切さを語る「語り部運動」を30
年以上続け、国内はもち ろん世界各地での講演活動となっている。これらの諸活動は、オバマ元大統領の耳に も届いたと思われ、2016(平成28)年 5
月に広島平和記念公園でオバマ元大統領は、次のような演説を行ったのである(15)。「我々はこうした物語を被爆者から学ぶ。原爆 を落としたパイロットを許した(被爆者の)女性は、憎むべきはパイロット個人では なく戦争そのものだと理解していた。(抜粋)」この演説には次のような背景がある。
近藤が
10
歳の時にアメリカのテレビ番組に出演した際、原爆を投下した戦闘機「エノ ラ・ゲイ」の副操縦士ロバート・ルイスと期せずして面会した。番組司会者の「広島 に原爆を投下した時、あなたはどう思いました?」との質問に、ロバート・ルイスが「おお神よ、私達は何ということをしたのか、そう思い、すぐに飛行日誌に書きまし た。」と涙ながらに語る姿を見た近藤は、憎むべきは操縦士ではなく戦争であることに 気づき、その場で彼を許したのである(近藤 2005:116)。現在
75
歳となった近藤は、活動を継続しており、2020(令和
2)年 8
月6
日の「原爆の日」にもその姿が見られ た。それは、8月6
日に向け広島県とICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が開催し
た公開セミナーにおいて、ゲスト講師として被爆証言を行い、「この地球の未来のために、あなたたち若者に期待しています。」と、海外からウェブで参加した若者達に語る 近藤の姿であった。
4.社会運動家パール・バックと日本人との関わり
本稿では、社会運動家バックと日本人との関わりについて考察したが、以上の考察 により、次のことが明らかになった。バックが展開した社会運動は、一人の人間が為 すには不可能と思われるスケールの大きさである。また、バックと関わった人々の人 心を掌握できたことは、バックに備わった高い人間性の証左であると考える。バック の日本人との関わりは、GHQ占領後からバックが来日する
1960(昭和 35)年までの
間、主に日本の新聞・雑誌社の仲介によりバックがアメリカに居ながらにして太平洋 を越えて種々のやり取りが行われていた。終戦後の日本においてバックの知名度は戦 前と変わらず健在であり、バックが前面に立つことで、アメリカに対する日本人の認 識を好転させる効果があったと考えられる。バックが行った諸活動に対する日本人の 反響は大きく、多くの日本人が直接的・間接的な支援、激励、影響を受けた。バック に対する批判的な文献や記事が本研究を通しては見当たらなかったことから、当時の 日本人がバックに対して抱いた感謝と共感の気持が、アメリカ人であるバックに対す る反米意識を超越したものと考える。最後に本論文の課題について言及する。本論文の課題は、原書を通読していないこ とと、資料収集に限界があったことである。本論文は、バック作品の邦訳本に基づき 論じ、記事は日本の新聞・雑誌からの引用に留まっている。また、バックが後半生を 過ごしたアメリカにおける情報は、主にコンの著作に依拠したが、その脚注に記され たアメリカの新聞・雑誌記事を原文で収集するところまで範囲を広げることはできな かった。これらを今後の研究課題の一つとして、バックに関する研究を継続する所存 である。
本論文は、立教大学大学院
21
世紀社会デザイン研究科比較組織ネットワーク学専攻 博士前期課程2019
年度修士論文「社会運動家パール・バックとGHQ
占領下から日中 国交回復期の日本人 ─ バックが起こした社会運動を事例に ─ 」の一部を加筆・修正し たものである。■註
(1)パール・バックという著者名は、最初に結婚したアメリカ人農業学者ジョン・ロッシング・
バック(John Lossing Buck 1890–1975)の姓に由来する。彼とはアメリカ帰国後に離婚し、
バックの著作物の出版を手掛けた男性と再婚したが、バックはパール・バックという名を 生涯貫いた。バックの墓標には「寶珍珠」という中国名だけが刻まれている。
(2)筆者が考える複合的要因①バックが生涯に一人だけ出産した娘・キャロルには重度の知的 障がいがあり、9歳の時に中国から遠く離れたアメリカの知的障がい者施設に入所した。② バックは、母亡き後に父を引き取り10年間同居したが、父の逝去により中国に居留まる理 由が失われた。③蒋介石が南京に政府を樹立したため、バックが暮らす南京が軍閥や満州 から南下する日本軍の標的となり身の危険があった。④アメリカの出版社がバックの作品 を出版することになり、その社の編集者・ウォルシュと出会いロッシングとの離婚を決意し
た。
(3)バックが逝去するまでの36年間、黒人の公民権運動家としてFBIから監視を受け、現在 でもFBIにはバックに関する膨大な資料が保管されている。
(4)大統領令は、「米国に謀反を起こす可能性のあるグループを米軍の留置所に監禁せよ」とい う国防長官宛の指令で、「日本人および日系アメリカ人」の文言の記載は無い。
(5) 『世界』(1948):アインシュタインは、ジョン・ハーシー(John Hersey 1914–1993)作
『ヒロシマ(Hiroshima)』(1946)を2,000冊購入し、友人知人に配ったという。亡命科学 者としてナチスのユダヤ人弾圧に心を痛めていたアインシュタインは、「ドイツの原爆使 用を回避し、あらゆる戦争を廃絶するためにアメリカも原爆を開発するしかないこと」を 他の亡命科学者たちと確認し、ルーズベルト大統領に所謂「アインシュタインの手紙」を 送った。これを生涯最大の過ちとして、その後の人生を平和運動に捧げた。
(6)本活動は次の人々の協働作業である。原爆投下から9ヵ月後に広島で取材を行い、その
取材ルポ Hiroshima が全米100社の新聞に掲載され、同名の書籍を出版したジャー
ナリスト・ジョン・ハーシー、その取材を受け、後に「広島の構想」を書く谷本等であ る。カズンズが編集長だったSaturday Review誌に1949(昭和24)年3月5日付で上述 の「広島の構想」を掲載、同月23日には「第1回 ヒロシマ・ピース・センター協力会組 織委員会」をニューヨークで開いた。出席者は、バック、ジョン・ハーシー、カズンズ、
Reader’s Digest編集長、Newsweek編集長といった第一線で活躍するジャーナリスト達で あった。
(7)日本全国に配置されたアメリカ人スタッフは6千人を超えた(本庄 2014:11)。
(8)澤田は明治以来の大財閥・三菱合資会社社長の男爵・岩崎久弥(弥太郎の息子)の長女で ある。財産税で国に物納されていた東海道線・大磯駅前の岩崎家別荘(別名「岩崎山」総 面積30,460.77m 2 9,230.54坪)を、澤田は戦後に集めた募金から400万円で買い戻し、そ こに本施設を設立した。
(9) 「混血児の新天地ひらく」、『読売新聞』、朝刊、1965年11月21日、14面
(10) 平野氏は父がアメリカ人で母が日本人であり、日本で差別に苦しんだ経験がある。戸籍を
持たない混血孤児達が将来アパートを借りることも就職も出来ないことを危惧し彼らを自 分の戸籍に入れる活動を行い、混血児に関する書籍も出版し理解と支援を訴えた。長女は 料理愛好家・平野レミで、2020(令和2)年7月のテレビ番組に出演した際、子供の頃に バックが自宅に来訪したことを明かした。
(11) バックの手紙には「子どもたちへの適当な施設の必要性、世間がこうした子供達に残酷で
あること、障がいのある子供達は生まれつき善良な性質を持っていること、会が活動して いる内容や新たに見出したことを伝えて欲しい、アメリカの同じ立場にある親たちにも知 らせる」と、具体的に会の活動に協力する意向が記されている。
(12) 山崎の恩人・新潮社の齋藤十一氏から「山崎さん、芸能人に引退はあるだろうが、芸術家
にはない。書きながら棺に入るのが、あなたの宿命だ」と言われた。
(13) NHK教育テレビ「こころの時代」(2017)に近藤が出演した際に、バックが近藤に伝えた 言葉を紹介した。2020(令和2)年5月28日にも本番組は再放送された。
(14)「(ニッポン人脈記)親になる、子になる:12『日本のおば』に見守られ」『朝日新聞』夕 刊、2011年11月21日、1面
(15)「オバマ氏 広島での演説の全文」『日本経済新聞』、朝刊、2016年5月28日、8面。日米 両政府関係者から近藤に対して何も通知が無かった為、近藤はオバマ元大統領のスピーチ 内容が自分のことであるかどうか明言を避けているが、スピーチを聞いていた時に驚いた ことも同テレビ番組で述べており、本スピーチの被爆女性が近藤のことであることは周知 の事実なのである。
■参考文献
Augustine, Jonathan (2014) THE HUMANISM OF PEARL S.BUCK: THE THREADS OF SORROW. Bulletin of Kyoto Institute of Technology 7: pp.1–12
川端理恵(2016)「Pearl S. Buckと障害をもつ登場人物 ─ Disability Studiesの視点でThe Good Earth(1931)とSons (1932)を読み直す」『Nagoya American Literature/Culture』(4)
pp.1–22
コン、ピーター(2001a. b)丸田他訳『パール・バック伝 上・下』舞字社(=Conn, Peter
(1996)Pearl S. Buck: A Cultural Biography, Cambridge: Press Syndicate of the University of Cambridge)
近藤紘子(2005)『ヒロシマ、60年の記憶』リヨン社
澤田美喜(1963)「親友パール・バック」、『黒い肌と白い心 ─ サンダース・ホームへの道 ─ 』日 本図書センター
スウェーデン・アカデミー・ノーベル財団後援(1971)「パール・バック」川端他編『ノーベル 賞文学全集7』(佐藤他訳)主婦の友社pp.100–122
Spurling, Hilar y (2010)Burying the Bones – Pearl Buck in China, London: Profile Books Limited
精神薄弱児育成会(現・全日本手をつなぐ育成会)編(2013)『手をつなぐ親たち ─ 精神薄弱児 をまもるために ─ 』国土社
野上孝子(2018)『山崎豊子先生の素顔』文藝春秋p.183
バック,パール(1939)内山敏訳『愛国者』改造社(=Buck, Pearl S. (1939) The Patriot, New York: The John Day Company)
─ (1948)「平和の危機に面して『国際連合よ、民の声に耳を』」『世界』4月号pp.20–28
─ (1958)吉武他訳『私の歩んだ世界』伊藤尚志編『現代アメリカ文学全集15』荒地出版社 pp.3–251(=(1954)My Several Worlds, New York: The John Day Company)
─ (2007)小林政子訳『神の火を制御せよ ─ 原爆をつくった人びと』積信堂(=(1959)
Command the Morning, New York: The John Day Company)
─ (2013a)伊藤隆二訳『母よ嘆くなかれ(新訳版)』法政大学出版局(=(1950)The Child Who Never Grew, New York: The John Day Company)
─ (2013b)小林政子訳「解説」『私の見た日本人』国書刊行会p.256(=(1966)The People of Japan, New York: Simon & Schuster)
─ (2019)戸田章子訳『終わりなき探究』国書刊行会(=(2013)The Eternal Wonder, New York: Open Road Integrated Media)
本庄豊(2014)『シリーズ戦争孤児②混血孤児 ─ エリザベス・サンダース・ホームへの道』汐文 社
松坂清俊(2008)『知的障害の娘の母:パール・バックノーベル文学賞を超えて』文芸社 山崎豊子(1973)『華麗なる一族』新潮社
─ (1991)『大地の子』文藝春秋
─ (2005)『二つの祖国』新潮社
─ (2012)「戦争はまだ終わっていない」『作家の使命 私の戦後』新潮社
─ (2014)『約束の海』新潮社
■ Website
於保真理(2004)「文学にみる障害者像 パール・バック著『大地』─ 知的障害のある娘への親 の眼差し─ 」『ノーマライゼーション』第24巻277号:
https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n277/n277013.html、2019年10月
8日アクセス
公開セミナー「核兵器と安全保障を学ぶ広島 ─ ICANアカデミー」(2020):
https://peaceboat.org/35181.html、2020年9月27日アクセス
■新聞記事
詳細は註と表に記した通りである。
表 1 発言者として 事例 年/月/日
紙面詳細新聞社 記事タイトル 概 要
1
1945/10/02 毎日新聞朝刊 1面
「日本への忠 言」すべての人に 与えよ 責任 ある 自由 力を持て善な る人々
紙面中央に縦長の8段抜きで大きく掲載された。「バックの示唆多 き一文である」との記者による紹介文から始まる。バックは、これ からの日本の「言論の自由」と「正しい裁判」の必要性を訴え、「日 本の善なる人々よ、あなた方は安閑と身体を横たえて眠ることはで きない。あなた方は一時間の休息さえとることはできない。何故な ら、善なる人々は至る所であなた方の周到な関心、あなた方の決断 が彼等のそれに加えられることを必要としているからだ」と述べた。
2
1949/11/13 朝日新聞朝刊 4面
アメリカ批判 に答える日本の一女性 へ四通の便り
紙面の半分を覆う記事。日本の一女性が日本在住のアメリカ人家 庭を「物質的には恵まれているが、知的レベルが低い」と批評しア メリカに対する希望を書いた手紙がバックに送られた。バックはそ の手紙をルーズベルト元大統領夫人、上院議員の女性、雑誌編集者 の女性に転送し意見を求めた。この記事はバックを含む4人全員か ら届いた次の返信を掲載したもの。「アメリカの主婦は忙しく本を読 む暇はない。子供達も知的生活をすることや読書の大切さは教えら れておらず、これが我々の文化の真の欠如」、「人は同じ言語を話す 相手を最も理解する。互いの理解を妨げるものは言語ではないか」、
「真珠湾のことをアメリカ人は忘れていない。アメリカ人は戦争を起 こした責任は日本人にあると思っている。その考えを消し去るには 暫く時間がかかる」、「お互いの隔たりを埋める為に欲しいのは、善 意と知性の橋である」
3
1950/08/01 読売新聞朝刊 3面
パール・バッ ク女史 愛の 手紙病む未知の青
「マイシン」斡旋年へ
胸を病む一青年と主治医の青年医師が結核特効薬ストレプトマイ シンの入手についてパール・バック女史に直接依頼する手紙を出し たところ、早急にバックが手配し無償で14人分の治療薬が病院に届 いた。以下のバックの手紙も紹介された。「私は戦争が本当に無用に なる時代がやって来ることを望む。軍国主義が何処の国においても 排除されなければ真に幸福な生活を営むことは出来ない」
4
1952/03/31 読売新聞朝刊 4面
林房雄(1952)
「時評的書評―
生きている犠 牲者」
手記『いとし子と耐えてゆかむ』は戦争未亡人50人の手記を収め たもの。バックは、その手記に寄稿した「序文」の中で「日本の戦 争未亡人が政府から何の援助も受けていないことをうかがって、全 く驚き入りました」等コメントし、日本における法律の施行が遅き に失していたことが露呈されている。
5
1953/01/06 毎日新聞夕刊 2面
自由を守る道
「善を信じ勇気 をもて戦争は必要で も不可避でも ない無敵の精神で 運命を打開」
「私は日本の友人に今年はよいことが起こることを何よりも心から 希望している。人間は自由でなくてはならない。生活の恵みはあら ゆる人々の為である。戦争は必要でも不可避でもない。あらゆる個 人の権利である健康と自由が失われてはならない。皆様の精神がそ れらを堅持し続けていくよう私は願い、望み、そして祈っている。
何物にもまして善を信じ善の為に働く勇気を持って。私は以上を日 本の皆様と私達すべてに望む」
6
1955/08/13 毎日新聞朝刊 2面
戦後十年の日 本の青年へ 取戻してほし い「アジアの 精神」パール・バッ ク女史の言葉
終戦十年の記念日を前にして、新聞社がアメリカでバックにイン タビューを行った。
①今の若い世代への世界観を:ここでみんなが人間に立ち帰る時 がきている。人間本来の基礎とは「正直」「親切」「正義」の三つ。
②日本降伏の第一報の感想:私は日本降伏の知らせを聞く前に もっと恐ろしいニュース「広島の原爆」を聞いた。その衝撃があま り大き過ぎて私は終戦という現実を考える余裕もなかった。(アメリ カ人として)はずかしいやら、不幸やらで。
③世界の政治家たちの間で原水爆が大戦防止に役立つと考えてい る人が居る:私は全然違う。原水爆は人類への脅威。脅迫で平和を つかまえようとは何と悲しい考えか。文化・教育という手段で勝ち 取った平和でなければ本当の幸福はやってこない。
④日本の原爆実験禁止運動について:全く賛成。その運動がもっ と活発になれば良いと思う。
⑤もう一度中国へ帰ってみたいと考えるか:とても帰りたい。で も今の中国には帰りたくない。
⑥最後に:もし私が今の若い日本人だったらやりたいことがある。
それはアジアのスピリット(精神)を取り戻すということ。今の日 本はスピリットを失っている。そのスピリットは中共の共産主義に 代るものであってほしい。私は中共の政治を憎むが中国人を愛して いる。
7
1956/01/03 朝日新聞朝刊 6面
新春メッセー
「女こそ平和のジ 力」パール・バッ ク
「親愛なる日本の皆さま」から始まる新春メッセージ。「平和への 道はまだ暗雲に閉ざされている。世界の男たちはなお武器を捨てよ うとはしない」、「心の美しい女性はアメリカの女であろうが他のど この国の女であろうが、基本的にはみな同じ心情を持っている。そ の心情とは私どもの子供たちが平和に生活し十分に成長のできる世 界」として、女性こそが平和の力となることを強調している。
8
1961/02/23 読売新聞朝刊 3面
「世界におくる 日本の平和提 案」バックからの 回答
同年1月1日付で、世界平和に大きな責任を持つと思われる各国の 政治家、ならびに世界的な影響力を持つ学者、思想家などに「日本の 平和提案」を発送し、パール・バック女史ら、世界の知性から回答が 寄せられた。立教・京都・一橋の各大学の総長や教授が提案者となり、
自由陣営と共産陣営の対立抗争に対し、両陣営の敵対的共存ではなく、
相互理解の上に立つ平和共存をもたらすという願望から提案を行った もの。バックは、「この提案の趣旨には、おそらくすべての人々が賛意 を表するにちがいない。今日われわれに課せられた最大の問題は、こ の世界的に望まれている目的を実現するために、どのような具体策が 必要なのかということだ」と回答した。
9
1963/02/24 読売新聞朝刊 13面
「世界人と平和 問答」パール・バッ ク女史へ「戦 争を憎む心を」
澤田美喜夫人 へ「世界は一 家と考えて」
バックと澤田との書簡による問答が行われ、二人の書簡とバック が孤児達と共に過ごす写真が掲載され、記事は紙面をほぼ全面覆っ ている。(澤田)あなたは、その半生を東洋で過ごし私達の気持をアメリカ 人の誰よりもよく理解している。私達一人一人が真の平和を真剣に考 えていながら、なぜそれが実現できないのか。私達は、母、また女性 として、真剣に平和の問題に取り組みたい。そのために次の提案をす る。①一人でも多くの優れた国際人の排出②戦争を憎み平和を愛する 心を人々に植え付けること③世界の女性と手をつないで共に平和を守 ること。(実現するためには)貴方のご協力が私にも私の国の女性達 にも必要。
(バック)すべての国の人々が平和を望んでいることは真実だが、
平和な精神の調和を覆し乱してしまう危険で落ち着きのない動静が 世界中に存在している。その理由は、食物、健康、教育の機会に飢 え、満たされない人々が多いからだ。(平和実現に)次のことが必要
①多くの国々の深刻な食糧不足に備えて合理的な分配機構を作る② もっと良い食糧が供給できれば、健康は改善されると信じるが、そ の前に、世界を一つの共同体として考えてみること。病気は一国だ けで流行するものではなく、世界の全ての国々の生命を危険にさら す。国連の保健機関が充分な援助と、世界を共同体として考える訓 練を受けた医者の努力によって、より一層強化されるだろうし、ま たそうならなくてはいけない③子供達への教育内容について、あら ゆる国の教師が会合を持つこと。道徳と倫理の基盤が同じになるこ とが望ましい④すべての人々が生計の手段を得ること。そのために、
より多くの仕事口を提供する大規模な産業を導入し発展させること
⑤女性は、もっと視野を広げて世界を自分たちの家庭だと考えるこ と⑥相互の理解を育てるため、もっと市民の交流をはかること。
筆者作成
表 2 被爆者に対する支援活動 事例 年/月/日
紙面詳細新聞社 記事タイトル 概 要
1
1949/8/7 読売新聞朝刊 2面
「ノーモア・ヒロシマズ」
日米合作で平和映画 6日に平和祭を行ったヒロシマへの関心は「ノーモア・
ヒロシマズ」を合言葉に極めて強く、アメリカのユネスコ 大会でも、さる三月「広島」を議題に取り上げ、ピース・
センター組織委員会を作った。同委員会は国際的にも拡が る気運にあるが、委員には前駐日大使グルー氏、パール・
バック女史、『ヒロシマ』の著者ジョン・ハーシー氏らが 名を連ねている。
この記事では、大映の社長が渡米しアメリカのプロ デューサーと会見すること、「映画各社が利害を超越し協 力、実現させるべき。利益金は平和運動に投じるべき」と 社長が述べたことを報じている。
2
1950/1/6
「いずみ」読売新聞 朝刊 2面
「いずみ」
精神養子のアメリカ人里 親探しに奔走
谷本清(41)牧師がアメリカから帰国した。「ヒロシマ の孤児たちを(精神)養子にしようとハーシー氏やパー ル・バック女史らが懸命の努力をしてくれている。大きく なったら大学へも通わせ米市民権も与えようという。既 に150家族が是非里親になりたいと申し出があった。」と、
谷本牧師は涙ぐみながら微笑んだ。
3
1952/8/4 読売新聞朝刊 3面
「救え広島原爆障害者 あれから7周年」
全力あげ米国治療を 知らなかった不幸な娘達
ジャーナリスト・真杉静枝が原爆被害を綴った公開状を パール・バック女史あてに送ったところ、折りかえし電報 でメッセージを寄せるとともに、国際電話を通じて「若い 日の情熱を再び呼びもどし、全力をつくして原爆障害者を 救いましょう。私達は非難や困難など押しのけて、是非こ の仕事をやり遂げましょう。被爆者の娘さん達の傷の様子 をもっと詳しく教えて下さい」と、協力の誓いを電波に乗 せて来た。
4
1952/8/5 読売新聞朝刊 3面
「原爆犠牲者救済に全力 を」 パール・バック女史から メッセージ
(バックから届いた手紙とバックの顔写真入りで全邦訳 文が以下のとおり掲載された)
真杉さま、長い感動的なお便り大変ありがとうございま した。何度もなんどもお読みして全くそちらのご様子に胸 つぶれる思いです。あなたのお手紙はすぐに沢山印刷して アメリカの主要な人々に配布しました。きっとアメリカ人 はこれから不幸な少女たちやその他の犠牲者たちに何かせ ずにいられないと思います。アメリカ国民は事態が全く納 得できないでいるのです。もし知りさえすれば元来とても 親切で思いやりある国民ですから、きっと応えて立つと思 います。私は人々の関心をあなたの手紙に引き付けるよう 全力を尽したいと思います。
5
1953/12/13 読売新聞朝刊 7面
「原爆乙女に愛の手」̶
アメリカに留学 パール・バック女史らが 運動
「原爆乙女」をアメリカの学校に招いて、一人立ち出来 るような教育を身に付けさせたいというプランがパール・
バック女史たちの愛の手によって具体化している。
6
読売新聞①1954/04/19 朝刊 5面
②1954/07/15 朝刊 7面
「核兵器禁止」の訴えに
署名と協力 ①②の両記事で、「婦人団体が原子兵器禁止運動の要望 書を送る」、「原水爆の禁止運動 全国一本に盛上げる:署 名が集まり次第送付する」と報じられた。送付先にパー ル・バック、ルーズベルト夫人、ネール首相、ローマ法 王、アインシュタイン、シュヴァイツアー博士、トーマ ス・マンらの名前が挙げられている。
7
1955/01/05 毎日新聞朝刊 7面
「原子力時代と文明」
̶ 繰返すな死の灰の悲 劇(バック)̶
(アーノルド・トゥイン ビーと共に投稿)
私は、米国の爆弾の放射能灰で亡くなった善良な日本人 については一番悲しみ、将来も悲しみ続けるだろう。人類 の間の仲違いは、もはや国と国との間、あるいは政治的な ものばかりではなくなり、世界中にいる善良な心のひろい 人たちと利己主義な欲深い人たちとの間のものになってき た。各国の善良で寛容な人たちは、他の国の心を同じくす る兄弟や姉妹を捜し求め、すべての人の利益のために力を 合わせねばならない。
事例 年/月/日
紙面詳細新聞社 記事タイトル 概 要
8
1955/4/14 読売新聞朝刊 7面
「原爆孤児成人ホーム」
カズンズ氏 三万ドルの 募金計画
来日中のノーマン・カズンズ氏は「原爆孤児の成人ホー ム」を広島市につくる計画を明らかにし、パール・バック 女史らの賛成を得て全米に募金運動を行うこととなった。
戦後10年を経た今年から満18歳までの児童福祉法の適用 が切れ、いきなり世間の荒波に投げ出されることを知った 同氏は、ホーム建設を谷本牧師に申し入れた。募金の目標 額は3万ドル(約2千万円)で、敷地は広島市で斡旋。施 設の運営はピース・センターが行うことに決まった。
9
1958/10/31 読売新聞朝刊 2面
(広島発)「核実験停止の 訴え」賀川氏ら13ヵ国32人で ノーマン・カズンズ氏 広島市長へ便り
アメリカの適性原子政策全国委員会のノーマン・カズン ズ氏から、このほど広島市長渡辺忠雄氏に電報が届き「31 日からジュネーブで開かれる核実験停止協定に関する米英 ソ三国会議代表に13ヵ国の著名人32人が署名した原水爆 禁止の訴えを送る」と、承諾を求めて来た。32人の中に は、作家のパール・バック女史等の名前が併記され、日本 からは世界連邦支持者の賀川幸彦氏と渡辺広島市長が参加 を求められている。
10
1960/05/26 朝日新聞朝刊 7面
「平和について」
パール・バック女史 ユ ンク氏 対談」 (東京に て)
8段抜きで半面を覆う記事。「平和を愛する二人のアメ リカ人が、たまたま前後して日本にやってきた」という紹 介文から始まる対談。ロベルト・ユンク氏は原子物理学者 の悲劇を描いた『千の太陽よりも明るく』の著者である。
対談後にバックが次のメッセージを寄せた。「日本の人た ちが原爆の悲劇を平和に対する新しい哲学、強い願いに変 え、この15年間、世界中に訴えて来た。原爆の悲劇を訴 える日本の声を誰も忘れはしないだろう。そして、その声 が世界の歴史に大きな影響を与えてゆくことを私は信じて いる」
11
2003/8/7 大島新聞紙面情報なし
ケロイド治療を受けたア メリカ在住被爆女性が平 和記念式典へ
「『あの日』次世代に 米 で治療受けた
『原爆乙女』新たな誓い」
2003年8月6日の原爆の日、平和記念式典の会場には 米国で原爆のケロイド治療を受けた「原爆乙女」も居た。
米カリフォルニア州在住の笹森恵子(しげこ)さん(71)
だ。「シゲコ、人間の魂はみな同じ、いつも明るい気持ち で生きていきなさい」とのカズンズ氏の言葉がアメリカの 看護学校への留学を決意させた。今月2日、平和記念公園 の一角にカズンズ氏の記念碑が建立されたのを機に、氏の 長女と四女が来日した。笹森さんはこの日、かけがえのな い「もう一つの家族」とともに誓った。「再びあの惨禍を 繰り返さないように」
筆者作成