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いま、考えていること・伝えたいこと

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《追悼・森本佳樹先生 最終講義より》

いま、考えていること・伝えたいこと

〜何をして、何を読んで、何を考えてきたか〜

森本 佳樹

MORIMOTO, Yoshiki

趣旨

平成29(2017)年11月10日、森本佳樹先生が肺癌のため逝去されました。享年68歳でした。

ここに哀悼の意を込めて、森本先生の生前のご意思に沿い、平成28(2016)年4月17日に行わ れた「立教コミ福社協の会・公務員の会 森本佳樹先生退職記念講義・パーティー実行委員会」

主催、「森本佳樹先生退職記念講義」の講義録を遺稿として掲載いたします

(1)

。当時の講義をそ のままに、先生の歩んできた道のり、メッセージを受けとめ、噛みしめていただければと思いま す。森本先生から生前いただいたご厚情に深謝し、心からのご冥福をお祈りいたします。

はじめに

皆さんどうもこんにちは、森本です。たくさんの人がいらしていて、ちょっと緊張しています。

しかもですね、お知らせした覚えがない人が聞きつけて来ている、しかも隠しておきたいことを 知っている人も来ていて、なかなか難しいなあと思っています(笑)。まだ外は雨が降っている んですかね。大雨で、風で、28歳ぐらいまでの人生がちょうどそういう感じだったんですけど、

その後は割と順風満帆だったのかもしれません。徐々に晴れて、お酒を飲む時間にはちょうどい い感じになっているんじゃないかなと思います。今日は足元の悪いところお集まりいただきまし てありがとうございます。

学科としての最終講義は1月に、その時は松山学科長が真面目にやれということでしたので、

地域福祉論というのを割と真面目に話をしました。その話を読めるような形にしたものを、学部 の紀要に寄稿しています

(2)

。そういう意味ではそれがある種の集大成、行き着いたところでして、

それは今日お話しないですし、お読みいただければと思いますが、今日はそういうのにどうやっ

て行き着いたかということについてお話をしたいと思っています。今九州が大変なことになって

いて

(3)

、そういう意味では、東日本(大震災)のこともありますが、引き続きそういうことをや

れということなのかなとは思います。知っている人もかなりその辺で仕事をしていたり住んでい

たりするので、またあとでこのことについてはお話したいと思います。

(2)

[写真1 講義中の森本佳樹先生]

ということで全体として70 〜 80分の時間で、半分ぐらいはこれまで何をしてきたかという話 をします。色々関係者の人もいるので、ずっと隠していた東京に戻ってくるまでの話を今日しよ うと思っています(笑)。でもそれが実は今の考えを作っていくのにすごく役立っていて、今の 若い人は、色々なことをやっておくとあとで、あの時のあれがそれなりに役立っているな、みた いな時がきっと来ると思いますので、そういうことも含めて聞いていただければと思います。

スライド操作の関係で、座ってお話をさせていただきます。前半は、何をして、何を読んで、

何を考えてきたかということを中心に話をして、後半は今何を考えているかということと、これ からどうしなきゃいけないかということの話をします。今日は自治体や社協や色々な組織の方が いらしています。普段はそこの自治体や社協、あるいは組織の中で委員長とかを仰せつかること が多いのですが、自分の意思としての発言はなかなかしにくい部分もあります。その流れの中で ベストを尽くしているわけですが、今日は私個人がどう思っているかということを、かなりはっ きり申しあげることになると思います。「あいつこんなことを考えていたんだ」と思われる方も いらっしゃるかもしれませんけども、こういう考え方もありながら、いつも色々なことを考えて いるということを、知っていただければと思っています。

Ⅰ.何をして、何を読んで、何を考えてきたか 1 少年・青年時代(小学校〜高校)

今日の資料に生まれ・略歴というのを書けと言われて、小学校、中学校、高校というのが書い てあります

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。知らない人もいるかもしれませんが、結構ちゃんとした受験校にいて、勉強してい たんですね。ただ、もう3年前に亡くなった母親なんかから言わせると、小さい時から正義感が 強くて、兄貴がケンカでいじめられると私が出ていってそいつとケンカをしていたとかあったよ うで、いじめられている人とか弱い人、あるいは貧しい人とか、そういうことに関しては非常に 関心が強かったというふうに聞いています。聞いていますと自分のことを言うのも変ですが(笑)。

それで、自分の中で一番大きな社会的な要因になっているなと思うのは、1960年、小学校4年

の時に、一つは60年安保というのがありましたが、それと同時に1960年はアフリカの世紀とい

われて、新聞を見ると本当にしょっちゅうアフリカの国が独立をしていました。最初は独立する

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のはいいことだと単純に思っていたのですが、独立をした後に内戦になるんですね。これはどう いうことだろうというのを、ませガキだったんだと思いますが、友達と誘い合ってアフリカ研究 会というのを作って、なんだかよく分かんないけど内戦をしているな、みたいなことを新聞で読 んだりしていました。そういう意味では植民地支配とか戦争であるとか、安保もそうですけども、

そういう関心はずっとありました。結果としてはこっちが悪い事しているのかもしれませんが、

クラスをまとめて教員に全体でストライキをしてみたり、そんなことをしていました。そういう 意味ではいわれない差別とか抑圧みたいなものにすごく抵抗を持っていたと思います。

中学校から高校にかけては、父親は普通のサラリーマンですが割と読書家で、母親は小学校の 先生を元々やっていたりしたので、家に色んな本が置いてあって、それをずっと読んでいました。

一番大きく影響を与えているのは『次郎物語』です。自分が3人兄弟の真ん中だからということ ではないのですが、第1巻より第2巻以降の、戦時下で次郎がやっぱりこの戦争はおかしいとい うふうに思って色々なことを考えるところだとか、それから『橋のない川』という被差別部落の 話の本も読みました。それで高校の頃は岩波新書とか中公新書、特に社会科学系と人文科学系の 本なんかをかなり乱読をしていましたが、その頃から1年間で200冊本を読むぞって決めて読ん でいました。熊本学園大に行って、実習をやるようになってからそれは潰れたのかな。20年ぐら いは多分そんな感じで、本を読んでいたと思います。

それと同時に、これも卒業生の人はあまり知らないかもしれませんが、今日来ている須永さん とか林さんとか東社協の人は知っていると思います。昔は割とスポーツが上手でした。今は全然 できないですし、山手線で転んだりしていますが(笑)。昔は結構色々やっていたという感じで す。高校は中高一貫校なのでそのまま継続で進んで、ちょうどその頃からベトナム戦争だとか70 年安保というのがあって、特にベトナム戦争については、アメリカがどういう立場でやっている かとか色々なことを考えていました。高校3年くらいの時から、ベトナム反戦のデモとかは参加 をしていて、70年代にちょうど安保の自動延長ということで、そういうことについても関心を 持っていた高校生です。

ただ、その頃は一応外交官になろうと思っていたんです。そんなにはっきりなろうと思ってい たわけではないんですが、東大の文一、法学部に行って外交官になるというのが、なんとなく考 えていたルートでした。ですが、1969年の3月に高校を卒業して、その年の1月に今年東大入試 はありませんという話になりました。東京大学ができて150年ぐらいのなかで入学試験をやらな かった年が1回だけあって、ちょうどその年に当たったんですね。まあそんなに深く考えてな くって、東大じゃなかったら京大かみたいな感じで、受かるとは思ってなかったんですけども、

なんか受かって。そこで一人暮らしを始めて、親の監視の目から外れて、むちゃくちゃになった という感じです。本来のものが解き放たれたと言ったほうがいいのかもしれませんが(笑)。

2 京都時代(大学)

入った途端にこれまた、大学やってないんですね。無期限バリケードストライキというのを

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やっていて、大学に受かったのに大学に入れないとなると、そのバリケードストライキをやって いる側に立てば入れるんですね(笑)。それで、そっち側へ入ってやっていたんですけども、ちょ うど内ゲバとか始まっていた頃で、それが私はすごく嫌でした。本当に悪い奴は誰なんだって考 えた時に、少しの違いの仲間同士でやりあっている。その調整をしようと「1回生連絡協議会」

というのを立ち上げて、色々なセクトを調整しようとしたんですが、なかなかそれがうまくいき ませんでした。

それからこれも信じられないかもしれませんが、その頃に私は教会へ通っていました。それで 1970年に大阪で万博があった時に、日本のキリスト教会がキリスト教館を出すという。それ自体 は別に問題ではなかったのですが、お金が出せないというので、アメリカの南部バプテストのビ リー・グラハムという偉い人、その人にお金をもらうという話になったんですね。そのビリー・

グラハムという人は、当時のサイゴンでアメリカ兵を激励して、ベトナム戦争はホーリーウォー だ、聖戦だ、ベトコンをやっつけろみたいなことを言っていた南部バプテストの右派の人ですね。

その人からお金をもらってキリスト教館を大阪で作るという全くよく分からない話をしていて、

私はバプテスト連盟というところの教会に行っていたんですが、そこが日本キリスト教会だった んですね。西日本で毎週日曜日に色んな教会で集会があって、そこに行ってこういうことを進め ているけどおかしいんじゃないかと、岡山のある教会で話をし始めた途端に「サタンよ去れ!」

と。とうとうサタンになっちゃったんですね(笑)。

私がいた教会自体は、そこで非常にいい牧師さんと出会えて、今もその人はひょっとしたら唯 一、人間として奥深いところで影響を与えてくれた先生なのかなと思います。そういう先生には 出会えたんですけども、結局教会に行けなくなりました。その牧師さんも最初は私たちが突き上 げて「あんたも毎週1回説教するだけで給料もらっているのはおかしいんじゃないか」とか言っ たら、その人その頃40歳ぐらいだったと思うのですが、突然牧師を辞めちゃって印刷工になった んですよね。もちろん日曜日の牧師のコーディネーターはしながら印刷工になって、「これから は情報の時代だ」とか言って自分でタイプ印刷を買ってきて、ミニコミ印刷を始めて、そういう 人でした。

じゃあ交代で自分達が毎週壇上に立って話をすればいいんだっていうことで、実際に話をしよ うとしたら、説得力もないからなかなかうけないわけですね。やっぱり話をして金もらうのはあ る意味当然かとか思ったのですが、その頃にはもう印刷工になっていましたからね。そういう先 生に会ったので、立場で人を見ない、やっぱり人は本質で見なきゃいけないなっていうようなこ とは思いました。

ただちょっと学生運動のほうで色々あって、学校に行けなくなっていた時代があって、結局10 回生まで大学にいました。2回生から9回生までは、大学ほとんど行ってないんです。最初は色々 あって怖くて行けないというのもあった、追いかけられてとかですね。だんだんそういう人たち が卒業していなくなって行けるようになったんだけど、今度は行くことを忘れてしまって(笑)。

ずっと色々なアルバイトをしていました。それは、山内さんが記念冊子にまとめてくれましたが、

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土木建設、運輸関係とか、飲食関係のもの。5回生ぐらいまではそういうことをしていました。

だから料理が色々できるとか、コーヒーが淹れられるとかはその頃に学んだことですね。

[写真2 当日配布された記念冊子]

それであんまり不健全な暮らしをしているので、ドランカーズという野球チームを作って、

もっと不健全な暮らしになったんですけども(笑)。大学を留年している人たちや大学院の人た ち、地域の人たちとで野球チームを作って、マネージャーをしていました。大学のグラウンドは 使えるけどメンバーが確保できない人、反対に、地域の中には野球はしたいけどグラウンドが確 保できないみたいな人がいるので、それを結びつけて一緒にチームを作って町内の大会に出ると か、色々仕掛けていました。あとで、その時からコミュニティワークをやっていたんだと思いま したけども、そういうことをしていました。

その中の一つの野球チームにイエスタデイズというちょっと辛気臭い坊さんのチームがあっ

て、その内の1人が拾ってくれることになって、岩屋山志明院という所と栂尾山高山寺という所

で半年ずつぐらいいて、寺男をやっていました。これが5回生・6回生ぐらいの時ですね。高山

寺というのは私の中では、かなり一つの転機になっているんですね。行ったことがある人もいる

と思いますが、『鳥獣戯画』という国宝がある所です。石水院という国宝の建物があって、13世

紀の前半に明恵という人が再興するんですね。実質明恵が作ったと言ってもいいんだと思いま

す。見にくいかもしれませんがこの『樹上坐禅図』、ここに明恵さんがいます。それで、寺で何

をしていたかというと、薪を割って坊主のお風呂を沸かすとか、賽銭を集めるとか、掃除をする

とかですね。秋は紅葉がきれいで修学旅行生が来るので、そのチケットを配るとか、そういうこ

とをしていましたが、その他は暇なんですね。で、色々な仏典とかがあって「何読んでもいい

よ」って言うので、そういうのを読みふけっていました。

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[当日スライド1 明恵上人「あるべきようわ」]

そこはサロンになっていて、白洲正子さんっていう随筆家とか、カメラマンの人とか、色々な 方が出入りされていました。その横でお茶を淹れたりしているだけなんですが、一緒にお話を聞 いたりしていました。そういう中で知った『あるべきようわ』っていう、『栂尾明恵上人遺訓』

という中に書かれている、『人は阿留辺畿夜宇和の七文字を持(たも)つべきなり』と『僧は僧 のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり』と『乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきよう、

臣下は臣下のあるべきようなり』と『このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり』というの があるんですね。これは色々な解釈があるんですけども、河合隼雄さんは、あるがままにという のでもなく、それからあるべきようにというのでもない、その場その場であるべきようは何かを 問いかけるのだと言っている。あとで私はこれをダブルスタンスというように捉えて、今どうす るかという話と本来どうあるかっていう両方を考えながら進むべきなんだというふうに考えまし た。まあ勝手に受け取っていると言ったほうがいいかと思いますが。そこが一つの転機というこ とになるのかなと思います。

ただ、もう一方で『あるべきよう』なんだから飲んでいてもいいじゃないかというような感じ で、飲んでいたのも確かでした(笑)。お寺は一応表向き飲んではいけないことになっているん ですけども、お酒と米はタダみたいなものなので。それであんまりやることがなくなって、紅葉 の季節が終わり春になって、ちょっともう用事がないから出ていってくれと言われて、檀家の呉 服屋みたいな所に回されたわけです。呉服屋には4年間いました。そこでも、物を仕入れて売る ということ自体が初めてで勉強にはなって、これがあとで話をしますが、今につながっているな と思っています。

京都の時に何を読んでいたかというと、最初は学生運動とか共産主義とかそういうこともあっ て、キリスト教の本だとかマルクス主義の本だとかを乱読していました。それから、日本の古典、

『日本書紀』とか『六国史』と呼ばれているようなものだとかですね。それから自分の関心でい

うと、今は『むすぶ〜自治・ひと・くらし〜』という雑誌になっていますが、当時は『月刊地域

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闘争』という雑誌でした。私が2回生の時に、京都の下鴨神社のそばにあって、京都の先輩が作っ たロシナンテ社という出版社が作っていました。ロシナンテは、ドン・キホーテが風車に向かっ て立ち向かう、そのドン・キホーテを乗せている馬の名前ですね。『月刊地域闘争』と勇ましい ですけど、当時から公害の問題であるとか、地域の子育ての問題であるとかそういうのをやって いて、そこの結成というのに少し参加をしたりもしていました。

それから、日本の中の朝鮮文化社。これは金達寿(キム・タルス)という人が、司馬遼太郎さ んとか、森浩一さんとか上田正昭さんらと作っていました。上田先生はこの間亡くなられました けども、京大の横の元田中という所で日本の中の朝鮮文化を掘り起こすということをしていまし た。上田正昭さんは文学部の先生でしたから、立教の全カリみたいなものでゼミをやっていて、

私は2回生から9回生まで他のことはしなかったんだけど、上田先生のゼミだけはちょっと出て いたりしていました。日本の中の朝鮮文化ってちょっと強引なところもあるんですが、その金達 寿さんとかが日本と朝鮮との融合みたいな話をずっとされていて、その辺はすごく今に影響を与 えているものもあると思っています。

それで、その呉服屋に暴走族の職員がいっぱいいたんですね。大体丹波とか丹後の問屋さんの 息子さん・娘さんを預かって教育をして、一人前にして帰して、得意先にするみたいな構造が西 陣の問屋ではありました。高校を出てきてすぐ車の免許をとって配達をさせると、最初のボーナ スで車を買って暴走族になるんですね。それが大体のルートになっていて、時々、ある日突然10 人ぐらいいる若い人が全員パクられて配送ができなくなるんです。それで社長が同志社の人で、

「おまえ暇なんだから寮監やって一緒に住んで、なんであいつらが暴走するか聞いて、なんとか してくれ」みたいな話をされて、「要するにじゃあ飲ませちゃえばいいんだ」って言って、飲ま せていたんですね(笑)。その頃にちょうど岩倉病院っていう精神病院のPSWの人がその飲み屋 にいて、「お前それは乱暴だよ」みたいな話になって、あ、ソーシャルワークというものがある んだって、そこで知るんですね。自分も大学をドロップアウトしたようなものですが、多分家で は何とか会社のお嬢ちゃんお坊ちゃんが京都に来て苦労をしてちょっとすねるとか、そういうこ とも含めて非行だとか不登校とかが生まれていました。

今で言うと発達障害と言うんでしょうけど、自閉とか、それから精神障害の話とか、色々なこ とがあって。こういうので食えるほうが、呉服売っているよりいいかな、福祉のことを考えよう かなというふうに思って…。で、今日はもう触れないようにしますが、私のその時の知り合いで 福祉をやっている人が2人いました。その内の1人に、福祉ってどんなことなのかっていうのを 知ろうと思って電話をしたのが、今その後30年40年ぐらい一緒にいる妻です(会場、拍手)。そ れはまあ、この話はこれで終わりにします(笑)。

そういうわけで、大学10年の中で、1回生の時に学校が始まったのが12月でした。ずっとバ

リケードストライキをしていて、8月に時計台に機動隊が入って整理をして、12月に履修登録を

したら1月にはもう試験で、実質履修登録をしただけで30単位もらえたっていうのがあって。そ

れから2回生から9回生まで1単位も取ってなくて、10回生に105単位を取って卒業したってい

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う…。その頃はまだOA化とかされていないので、要するに、立教でいうと全カリで登録をして 同じ時間帯に学部の授業を登録しても分かんない。だからそうしてダブルで受講しないと足りな いんだけど、とりあえずどさくさで卒業しました。だから法学のことは一切知りません。それで ソーシャルワークをやろうっていう話になりました。

3 社大から東社協時代

ここからはその辺に知っている人がいたりして、あまり嘘は言えないなとは思っているんです けども。日本社会事業大学という所に3年次編入で入りました。不登校や非行とか自閉とかそう いうものに関心があったので、もともとの出は児童福祉学科なんですね。28歳で入ったので、年 齢的には八つぐらい下の若い人たちと一緒に学ぶことになり、実習は児童相談所に行きました。

ちょっと残念なことにこのあいだ亡くなったんですが、落合君という、中学、高校のときに視野 狭窄かなんかでだんだん見えなくなってきて、それで社会事業大学に入った彼が同学年にいまし た。それで開成高校の後輩だとたまたま分かって、彼とやりとりしている間に「いや、森本さん も年齢障害だからね」とかいう話になって、身体障害者研究会という所に連れ込まれました。そ の連中が今会場のあの辺にいますけども、そこで身体障害者問題のことを少しやっていました。

まあ、ほとんど飲んでいたんですけども(笑)。

それからボランティアで、不登校のことをやっていましたから教育相談所と、その落合君が 行っていた特別養護老人ホームなんかに手伝いに行ったりとかですね。あとは落合君の教育実習 を助けるというか、見えないけど板書をしたいっていうので、一生懸命放課後に練習をして、地 理の時間にアメリカ大陸の横断図というのを落合君が書いて、子どもたちがすごいびっくりして

「本当は見えているんじゃないですか!」とかいう話をして、そういうのをやっていました。社 大に行って、さすがにその時は自分で学費を稼いで自分で払っていましたから、比較的真面目に 授業に出ていて、若い人にも色々と教わることもあったし、楽しいこともいっぱいありました。

そう思ったら、学ぶということ自体には年齢の制限はないなということと、障害だとか児童だと か色々なことをやっていたのが結果として社協に入って色々なことに役立ったなという感があり ます。そういう意味では何がどこでどう役に立つかよく分からないですね。

そんなんで、最初は自閉症の相談センターみたいな所に行く予定でしたがうまくいかなくて、

東京都社協という所に入ったのが1981年になります。そこで本屋をやっていたので、最初はよそ の出版社の本を預かって売っていたのと、それと同時に調査研究事業というのをさせてもらいま した。図書販売は、物を仕入れて売るという、モノが変わるだけでほとんど呉服屋と同じ構造で、

そういう意味では違和感なくやれました。もっと儲けるにはどうしたらいいかということを考え

られて、だから呉服屋の経験もまあ無駄ではないというか、あんまりそこの部分は福祉、福祉と

いう感じではなくて割とビジネスライクにやっていました。それから調査研究の方では、今日来

ていただいていますが、もうものすごい、いくら感謝しても足りないほどですが、林さんに色々

なノウハウを教えていただきました。あと今日事情があって来られていないんですが新米さん、

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そのお二人にものすごく色々な事を教えていただきました。その調査研究では、一番ヶ瀬先生と か仲村先生とか三浦先生とか奥田先生とか、そうそうたる委員長の人たちがやる事務局をさせて もらって、研究事業ってどうやってやるかということを学ばせてもらいました。

また途中からですけども、資料室の担当ということで図書資料の分類の仕方なんかもやってい ました。1985年から事務所が茗荷谷から飯田橋に移るんですけども、社会福祉総合センターとい うのを東京都から受諾してデータベースを作るということで、資料室も大きくなりました。そこ でも調査研究事業をさせてもらって、ここで田端先生とか谷口先生とか、太田先生とかのご指導 をいただいて、研究員ということで渡辺裕美さんとか、山本美香さんとかそういう人たちと一緒 に仕事をしていました。

それで、ずっとその隣に座っていたのが飯村先生なんですね。研究室の隣でずっと飯村先生に 叱られているという構図は立教でもあんまり変わらなかったですね(笑)。それで、ここで太田 先生とか飯村さんとか山本美香さんとかとずっと在宅ケアの研究をしていて、それが今につな がっていたり、あるいはデータベース開発をする時に、当時は今みたいにフリーワードでポンと 検索できるということではないので、キーワードを決めるとかコードを作るとか分類をするとい うようなことをせざるを得なくて、そういうことをやっていた当時の第一人者というのが、同志 社にいた岡本民夫先生ですね。岡本先生が東京に来られている時にお訪ねして、そしたらその場 のどさくさで実践理論学会という所に入れられて、そこで高橋重宏さんとか牧里さんとか白澤さ んとか色々な人と知り合いました。結局終わった後に飲みに行ってぐちゃぐちゃ議論するんです が、白澤さんや牧里さんて大体一つか二つ年上なんです。キャリアは全然違うんですよ、こっち は30歳で卒業してまだ何年目かの職員で、向こうはもう新進気鋭の学者なんだけど、まあ飲んだ ら一緒だから(笑)。それで私は情報のことをやっていたので、福祉の研究者は情報のことをど う思っているんだみたいなことをずっと議論して「もう少し皆さんが情報のことを研究してもら わないと困る」みたいなことを言ったら、高橋重宏さんが突然東洋大学の大学院の入試要項を 送ってきたんですね。

これはもう完全にケンカを売られたという感じで、締め切りまで3日くらいだったかな、研究 計画書を書いて、落ちたらかっこ悪いから、上司には言わないで勝手に出しました。それで受 かってから上司に報告して、ちょうど月曜日が休みで週に1回は昼からの勤務という状況があっ たので、1.5日は学校に通えるなと。37歳のときに東洋大の大学院の修士課程に行きました。今 日も来てくださっていますが渡辺裕美さんとは同級生で、ドクター(博士課程)も一緒に出てい ます。まあそういう感じで東社協にいながら東洋大で勉強していました。売られたケンカという のもありましたけども、社大に編入していた経験があったから、学ぶのに歳は関係ないっていう のがあった気はしています。

それで、ドクターに行くときに総務に異動になって、庶務とか人事とか予算とか理事会とかそ

ういう部署に急に変わって、私もひどい話でドクターに4年間いましたが授業は1回も出ていな

いです。山下袈裟男先生が主査で、4月の最初に行って、「異動になって総務の主任になったの

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で授業出られません」って言いに1回だけ出ただけです。そしたら2年半たった頃に山下先生か ら電話がかかってきて「おまえ博士論文どうなってんだ」とか言って「いや論文どうなってん だって言ったって、全然やっていません」って言ったら「いや、俺はもう定年になるから書け」

とか言うんですね。それで残業していると山下袈裟男さんと園田恭一さんと山手茂さんの「3ジ ジ」が東社協の事務所に来るんです(笑)。8時ぐらいに来て局長室で指導を受ける。ありがた いと言えばありがたいし、とんでもないと言えばとんでもないんですけども。来月までにこれ やっとけみたいな感じで無理やり書かされたというか、それで博士号を取らせてもらいました。

だからあんまり悪口言っちゃいけない、ありがたいことですが、園田先生もお亡くなりになって、

山下先生は時々お会いして元気ですけども、山手先生もまだお元気だと思います。そんなこんな で東社協の最後の年に、博士論文を書いていました。

その間、総務で何をしていたかというと、東京都社協の中長期計画の策定をメインでやってい て、それからちょうど新基本要項、社協の基本要項の改訂というのが全社協から出て…今日全社 協の人来てないですよね、渋谷さんとかいないよね(笑)。それで、めちゃめちゃな案が出たも のですから、それはおかしいじゃないかというので、都内の社協関係の人とかを集めて東京都社 協としてはこういうふうに思うということをまとめたり、それを元に全国の社協のネットワーク みたいなのを作って、大阪とか静岡の社協の人とかと、新基本要項にこういうことを反映してほ しいというようなことをしたりしていました。それが東社協でやっていたようなことですかね。

あとは、今日来ているかどうか分かりませんが、長谷部さんとか来ているのかな、若い人を集め て、10時ぐらいになったら当時ワープロ専用機ですけども、飲み行くぞって言ってワープロの電 源を落とすんです(笑)。飲みに連れていって1時間か2時間でわーって飲んで帰るみたいなこ とをしていました。

その頃に何を読んだかというと、これは林さんとか須永さんとかの色々な影響があるんです が、イヴァン=イリイチとかレヴィ=ストロースとか、玉野井芳郎とか、一番影響を受けている のは高木仁三郎さんの『いま自然をどうみるか』という、西洋の近代主義っていうのはなんだっ たのかというような本ですね。それからその裏付けとして、立花隆の『宇宙からの帰還』とか、

もう一方で司馬遼太郎の『空海の風景』とか、そういうのをずっと読んでいました。あと図書の 販売をしていたと言いましたけども、研修会とかで本を売るときに、自分で読んでないと勧めら れないので、ほとんど扱っている本は読んでいました。それが大学院を受ける時にはすごく役 立ったんです。特に受験勉強をしたわけではないんですが、用語説明とかは大体それで書けまし た。太田先生の名著も売らせてもらいましたけども、色々な先生ともそういう感じでお付き合い していただくようになったという感じです。

4 熊本学園大学

博士論文を書いた段階で熊本学園大の話がありました。全国の社協のネットワークで色々提案

すると、「東京だからできるんだよ」とか言われてちょっと癪だったので、機会があったら地方

(11)

に行きたいと思っていました。それで具体的にはいくつか話があったんですが、水俣があること と、三井三池の旧産炭地があることと、それから中山間、それから離島、そういうのが全部そろっ ているのは熊本だってことで、熊本にお世話になることにしました。

ただ長いこと行くつもりはなかったので、東社協の当時の大坪常務に「4年間休職って駄目で すか」とか言ったら「馬鹿」とか言われて、駄目だったんですけども。結局行っている間に、水 俣は今も社協のアドバイザーさせてもらっていますし、大牟田との付き合いもずっとできていま す。離島はなかなか難しくて、授業がある時に行くと帰ってきたくなくなるし、行ってすぐ帰っ てだとなかなか生活が分からないんですけども、中山間地は産山村とか波野村とかああいう所を ずっと回ったりして、熊本を好きになりました。

もう一つは、都道府県社協ってなかなかやっぱり住民の人と一緒にやるっていうのはないので すが、そういう意味では九州で初めての社会福祉学部でそこで地域福祉論を教えるっていうふれ こみで行ったので、熊本市社協とか周りの社協は住民座談会のやり方を見せてくださいとかって 来るんですよね。やったことねえよって言えないので、全社協のビデオか何か見て、ああこうやっ てやるんだとか言ってやったら失敗するんですね、やっぱり(笑)。向こうもそれは分かっている と思うんだけど、「じゃあ次のとこでもう一回お願いします」とか言って、やっぱり馬鹿じゃない から何回かやるとだんだん上手になって「ほらみろ」みたいにいばって、だんだん慣れてきました。

あまり人前で喋るのは好きじゃないんですが、座談会なんかだと顔が見えるから何となく何回 も行っていると知り合いになってくるんですね。そう思っていたときに特養の変な指導員がい て、「施設を地域に開きたいから手伝ってくれ」って依頼が市社協経由できて、そこで会ったの が今全国小規模多機能型居宅介護事業所連絡会の代表をやっている川原さんです。施設の指導員 をやっていた時から「こんな施設じゃ駄目だ、地域でやんなきゃ駄目だ」と言って。地域で住民 を集めて住民座談会をやるというんで、それでお手伝いをしていました。今日来るって聞いてい たんですが、さすがに飛行機が飛ばないというので来られないようです。

そういうことをして、熊本では本当に、これは東社協の人には悪いけども東社協にいた時より も普通の社協のようなことをずっとさせてもらったという感じです。ただ、今日川原さんと一緒 に来る予定だった田尻さんという、川原さんとこで働いていて私の教え子でもあるんですが、そ の人も来られなくなって…来ているとしたら中島君は来ているかな。単身赴任で、学生が毎晩の ように私の部屋に来て「3DKの部屋を借りて6畳をぶち抜くと12畳になって宴会場になるよう な部屋を借りろ」と言うもんですから、そういう部屋を借りて、ずうずうしいやつはそこにボト ルを置いているやつが何人かいて。もう一部屋だけが私の部屋なんです。寝るのと仕事するのは その部屋でやっていて。

皆勝手に来て、大学の横なので、帰りに電気ついているとピンポンて鳴って「どうしたん」っ

て言ったら「安否確認」とか言って入って来るんですね。で、「飯まだですか」とかって言われ

るから「まだ」って言ったら「じゃあ食いませんか」とか言って人がだんだん増えて、多い時に

は15人ぐらいで、ずっとそこで1時2時まで飲んでしゃべってとかしていました。「明日授業が

(12)

1限からあるから、俺先寝るから」とか言ったら「どうぞ」とか言って。それで、朝7時過ぎぐ らいに起きて飯炊いてみそ汁作って「じゃあ学校行ってくる」って、寝ている学生があとで飯食っ て来るんですけど、よく考えたら私が9時からやる授業にそいつらも出なきゃいけない(笑)。

そんなんで楽しかったんですけども、子どもと妻を東京に残したまま勝手に楽しんでいちゃいけ ないと、4年ぐらいで帰ってきました。毎週東京と熊本を往復して、金、土、日、月ぐらいは東 京にいて火、水、木、金ぐらいで熊本にいる。木曜日の晩とかが大体宴会日でその週に買ったも のを皆が食べてくれるから、ちょうど良かったんですけども。そんなことをしていました。

熊本の時は、大学に行くと本読めるかと思ったら授業で読まなければいけない本がいっぱいあ るもんですから、好きな本はなかなか読めませんでした。仕事上の資料が増えて、ちょうど介護 保険を作る・作らないっていう頃で、そういう政府の報告書とか資料も読まなきゃいけなくなっ て。なかなかその頃から200冊っていうのは崩れ始めてですね。社協にいた最後のほうで大体崩 れて、11月末ぐらいになるとブックレット50冊ぐらい読んで、帳尻合わせをやっていましたけど、

だんだんそれもできなくなってきました。

5 立教大学コミュニティ福祉学部

1998年に皆さんご承知のように立教に来ました、この辺の時から何も本を読めていません。立 教も本当は1998年の4月から来るはずだったのが、半年着任が遅れました。向こうがいなくなら れたら困るということもあって。ですから当時、金曜日に基礎演習があって、立教でコマを持っ ていて、火、水は熊本でゼミと授業を持っていました。熊本の方が前期で1年分全部やれという ので、それで毎週行ったり来たりしていましたが、立教からはもちろん交通費は出ませんし、熊 本は出さないですから。給料は立教からは非常勤の1コマ分しか出ないので、1年分教えたのに 熊本からは半年分しかもらわなかった。あとで気が付いてえらい損をしたなと思いました。そん なんでやってきて、10月から立教の常勤の教員になったということです。

それで、立教で何をやってきたかっていうのは、資料の後ろにいくつか抜粋した文章をつけて

います。実習についてどういうふうに考えてやってきたかということと

(5)

、18年間何をやってき

てこれから何がしたいのかっていうのと

(6)

、5年前の東日本大震災のときに復興支援プロジェク

トというのを学部で立ち上げてプロジェクト委員長ということで5年間やらせてもらって、この

間本を作りました

(7)

。そういう実習と東日本のプロジェクトと学生の教育ですかね。この立教コ

ミ福社協の会も公務員の会もその一環だと思っていますが、卒論を書いた学生数と修論を書いた

学生数と博論を書いた学生数の表も載せさせてもらいました。そういうことで自分の研究自体も

それほどたくさんやったわけではないんですけども、色々な所の委員会に出てそれを学生や院生

に還元するような形で、一緒に研究や活動をしてきました。これまで関わった自治体も資料に載

せていますが、今日も色々、武蔵野市、高畠町、和光市の方も来られていますし、武蔵野市の笹

井さんも来られていますし、横浜市からも来られていますから、そういう意味ではずっと色々ご

指導というか親しくさせていただいていて、こちらもすごく感謝をしています。

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そんなことで、立教に来てから読んでいたので言うと、どっちかというと岡田君に影響を与え られたと言ったほうが近いかもしれないな、与えてんのかな、分かんないけど。宮本常一とか網 野善彦とか。そういう日本って何かっていうこと、それは昔からそうなんですけども、そういう のを読んできています。

Ⅱ.皆さんにお伝えしたいこと、知ってもらいたいこと 1 計画の意味と位置

これで与太話が大体終わりで、あとは若い人を中心に少しお話をしたいと思います。大体皆さ ん組織の中で仕事のどこか一端を担っていると思いますが、これは、全社協が職員管理ハンド ブックというものを作った時に私もその委員をさせてもらって、検討をしたものです。

[当日スライド2 組織が仕事をするとは何か]

組織というのは理念を実現するためにあるので、理念とか使命というのが非常に大事だと。組 織が仕事をする上でその根底にある根本的な考え方が理念、果たすべき基本的任務というのが使 命。だから理念と使命を実現するために組織は存在しているので、組織としてそのことができな かったら組織が存在する意味がないということです。

目的というのはその使命を実現するためにその組織が目指す最終的・具体的なゴールです。そ

れを果たすために元々その組織が持っている固有の役割というのが機能。それで当面それを達成

するのに障壁となっているものに対して具体的に解決した状態を目標と言って、その方向を示す

のが方針で、計画というのはすごく大きなことのように見えますが、それを解決する具体的なプ

ログラムに過ぎないということなんです。だから計画というのはそれが単発にあるわけではなく

て、その理念や使命や目的を実現するために作っていくということがまずあります。そういう意

味では私も最初分からなかった部分もたくさんありますが、各地の社協の活動計画や行政の地域

福祉計画等をお手伝いさせてもらっている中でだんだん見えてきたし、それを途中でやめちゃ

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う、一生懸命やらなくなる自治体とか社協があるんですね。そういう意味ではなかなか成果はす ぐに見えないんだけど、愚直に3期4期やっていく、横浜市とか練馬区社協とか、そういうとこ ろがあります。

だんだんやっていく内に、やっている人たちもだんだん分かってくるし、それから地域も動い てくる、形になってくる。10年ぐらいやっているとそういう感じになるのかなというふうに思い ます。そういうことを通して組織の使命、理念を実現する。そして、そもそも職員としてそこの 組織にいるということはその理念や使命に共鳴しているからそこにいるわけだから、職員として はその理念や使命を実現するために仕事を通して自分を自己実現させていく。ともすれば本当の 理念や使命があるのにそう動いていない自治体や組織がたくさんあって、だからといってその仕 事の手を抜くっていう話にはならない。そうするとその理念や使命というのを実現するために は、ちゃんとした方向性と方針とそれからデータとかで動かしていかなきゃいけない。そういう 意味では、計画というのを年度ごとの事業計画も含めて、大事にしてかなきゃいけないというの は、30何年そういう自治体や社協と関わって、今思っているところです。

2 問題を計画的に解決する

それで問題を解決するという時に、これはよく授業でも言っていたので覚えている人もいるか もしれませんが、まず「問題とは何か」ということですね。あるべき姿と実際の姿というのがあっ て、そこに差がある。本当はこうでなきゃいけないのに実際はそうなっていない、あるべき姿と 実際の姿にズレがある。その差があるということを誰かが感じている、「ズレ」を認識する主体 が必要ということです。

[当日スライド3 問題を解決するとは何か]

それで私がこの「問題とは何か」という定義を見たときに、さっき言いました明恵さんの『あ

るべきようわ』を思い出しました。『あるべきようわ』がダブルスタンスだと言いましたが、実

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際の姿の中で今どうしなきゃいけないかって話と、理念・使命というレベルであるべき姿は何な のかっていうのを、両方を思い浮かべながら解決活動をとっていくということが大事です。それ が長期的な課題であると、きれいに太い矢印でドンといくわけではないので刻んで対処してい く。そう刻んでいくとちょっとズレたりします。ズレるからそこで評価をしたり見直しをしたり、

軌道修正することでジグザグしながらでも何回か重ねてあるべき姿に持っていく。それを計画的 な解決活動だとすれば、問題を解決するということ、ないしはその差をどう埋めるかということ は、そもそもあるべき姿をイメージしていない人に問題は解決できないわけですね。

そのあるべき姿が組織の中ですり合わせができているかどうか。これは次の問題としては非常 に大きな話で、それぞれが一つのセクションの中であるべき姿を違って捉えている。だからそこ のすり合わせから始めないといけないというふうに思います。となると、差を感じる誰か、この 誰かっていうのがすごく大事で、それは自分であったり、人であったりするけども。その主体み たいなものがどう自分たちのあるべき姿をきちんと説明できるか、そこに裏付けを持っているか が重要になる。だからそれは、自分を磨いていくしかないわけで、自分が思うあるべき姿をきち んと提示をして、これを皆で共有してやっていきましょうということが問題の解決ということに なるのではないかと思っています。

問題の類型と解決手段ということで言えば、日常的問題というのは、例えばあまり人のことは 言えませんが、いついつまでに原稿を書かなきゃいけないが書けてないとか、そういう既に分 かっている問題だとかがいっぱいあるわけですけども。少なくとも今日私が話をしたような将来 型の問題で、ほっとくとこうなってしまうのではないかということについては、今説明をしたよ うに問題を解決するために組織が存在していて、それを計画的に解決していくとは何かと考えた ときに、やはりそのあるべき姿というものをどうやって思い描けるかということが、すごく重要 になってくると思うわけです。お前そんなこと言うけど、人生全然そんなふうに動いてねえじゃ ねえかって言われると、おっしゃる通りでございますが、それで学んだんだから許してください みたいな話ではあります。

次の話は今日来ている川森さんとか前田さんのほうが専門で、IT系の人たちのほうが得意な んでしょうが、皆さんよくご存じのPDCAのサイクル、それから、取り組みの優先順位ですね。

緊急性が高くて重要性が高い、それはすぐにしっかり取り組まなきゃいけないんだけど、緊急性 も低くて重要性も低いのは、できるならば取り組まないということですね。こういうことを判断 し、帳尻合わせをしながら、何に取り組まなきゃいけないかということを計画に下ろしていくと いうことなんだと思います。

3 いま、何が起きているか

さて、じゃあ今私が将来的な問題として何を思っているかということについて話をします。皆

さんご承知のように高齢化と将来人口の推計です。2010年前後を境に人口が減っていくわけです

ね。それで、2060年には人口が今の3分の2になって、人口は減るわけですが、高齢化率は今の

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2分の3くらい上がって、40パーセントぐらいになるということですね。いわゆる生産年齢人口 というのがすぼまっていく。それから世帯人員と世帯数を見れば、一世帯あたりの平均人員が下 がっていく。1953年に私が生まれた頃は5人だったのが、2015年の国勢調査はまだ出ていません が、今は2.5人ぐらいじゃないかなと思います。一方で、世帯数はずっと上がっていくというこ とですね。

こういう高齢化と世帯数のこととか考えて、普通にまっさらな頭で考えたときに、これ以上1 人あたりの生産国民所得、国全体のGDPが上がるわけがない。人口が3分の2減るってことは、

要するに2分の3倍以上みんなが生産しないと上がらないわけですね。今それを無理やり上げよ うとしています、それでゼロ金利とかマイナス金利とか金融を操作して市場に金をばらまいてい る。それでも成長しない。

社会保障給付費を見ると、2014年の予算ベースで115兆円。内訳は年金と医療と福祉その他で、

年金は基本、ほとんどが高齢者対策です。医療も高齢者医療が占めているし、福祉その他の中で 介護保険が今8兆円ぐらいまでいっているのかな。保育所が足りないっていう話がブログかなん かで出ていますね。田端先生が訳されていたりするアメリカのキャンベルという日本ウォッ チャーの社会政策の学者ですが、日本は高齢者政策だけは一人前だというふうに言われているん ですね。それはそのとおりなんだけども、その高齢者政策自体も今、どうも自信を持って進めて 行けないという状況です。

[当日スライド4 社会保障に係る費用の将来推計について]

これも国が出している将来推計ですが、さきほど110何兆円と言った社会保障給付費が2025年

には150兆くらいになるだろうという予測がされています。私もこの間、無事に定年退職できるこ

とになったんですけども。恵まれていると言えば恵まれているんですが、買いたいものなんかな

いんですよね。家自体はもうローンが終わっちゃってお金の使いようがないんだけど、何となく

不安だから大量消費にはいかない。そもそも買いたいものがない。飲みたいものはいっぱいある

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んだけど(笑)。そんな感じなんですね。全部使えば使えないことはないんだけど、もうちょっと 普通の高齢の世帯でいうと、不安だからやっぱり使わないということになってくると、やっぱり それは消費に回らないですよね。ましてや、若い30代40代でこれから子育て、あるいは家を買っ てとかしていく人たちの消費が回んないというようなことが実体として起きているわけですね。

[当日スライド5 ジニ係数]

ジニ係数という所得格差を表す数字で、各国のジニ係数の比較の表があります。今日出してい る表は、ほとんど国が出している資料から取ってきているので、私が勝手に作っている捏造デー タではなくて、国もそうだと思っているってことですね。アメリカの所得格差が高いのは有名で すけども、日本は着実にと言っていいかどうか分かりませんが、ジニ係数が上がっていって所得 格差が開いている国になっているということですね。

そしてもう一つ、ちょっと古い統計ですが平成22年の国民生活基礎調査で、世帯人員1人当 たりの所得を見ると、20代の人の1人当たりの平均所得が163万、70代以上が186万。これ20代 をどういう統計で取っているか、学生なんかも入っているのかもしれないですが、それでも30代 が179万で70歳以上が186万と、30代の所得より70代の所得が高い。そういう意味ではなかなか 若い人が使えるだけお金が入ってこない。それから、お年寄りには入ってくるけど使わないとい う、そういう構造の中で金を回して経済を潤すということが、本当に発想としていいのかどうか ということが疑問としては残っています。

これは内閣府が出している研究会の資料ですが、見てもらいたいのは一番下に非正規雇用者割

合というのがあります。1980年には20代の人の10%くらいが非正規雇用だったんだけど、2010

年は47.8%。つまり20代の人の非正規雇用者が10%から50%ぐらいになっているんです。これを

何とかしなきゃという話なわけです。そうは言いながらまだまだ非正規雇用が緩やかに増え続け

ている状況です。それで、その非正規雇用の中でも働きたいという人に対して、今度はそれこそ

保育所がないというような話が出たりしてきている。

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[当日スライド6 コーホート別 20代の頃の労働状態]

それから次の図は、2010年から40年というスパンで、東京周辺の75歳以上、後期高齢者の人 口の増減率ということで、2010年を100とした時の2040年の後期高齢者が何倍になっているかと いう地図ですね。赤く塗ってある所、市原、千葉、成田、船橋、松戸、春日部、さいたま、和光、

所沢、八王子、川崎、横浜、相模原、上尾もありますけど、これは増加率で言うと2倍以上にな るということなんです。一番高いのが三郷市だったと思いますが、3倍になるんです。

今の介護保険の統計を見ると、要介護認定率が65歳から75歳が大体3%ぐらいなんですが、

後期高齢者になると30%ぐらいになるので、介護認定を受ける率が10倍になるんですね。です から、介護サービスが必要になるというのは高齢化率よりも後期高齢化率で見る。そうすると松 戸や春日部、さいたま辺りは今のサービスの水準を落とさないでいようとしたらその倍以上の サービスを今から作んなきゃいけないということになります。ただ、介護保険の財源構成だとか、

実際に介護保険料がどれだけ取れるかということを考えていくと、これ以上なかなか倍とか3倍 にするというのは、現実的には難しい。それでも日本の高齢者福祉はまともで、もっと児童や障 害がひどいっていうのがキャンベルさんの分析です。

じゃあどうするんだという話ですね。トリクルダウン効果という話もありますが、結果、介護 労働や保育にお金が回ってきているかというと回ってきちゃいないですね。緊急対策で、上乗せ で人件費補助したりしていますが、あれはいつも加算でついているから、政権が変わったり景気 が悪くなったらいつでも切られる可能性がある。

少し話を変えます。これはあんまり皆さん知らないと思います、私も知ってびっくりしました が、今のまま掘っていくと金属がいつなくなるかという図です。金はあと20年しか掘れません。

銀が19年、スズが18年、鉛が20年、亜鉛が18年、つまりこれが2007年とかの数字ですから2025

年ぐらいには多くの金属類がなくなる、掘れなくなるんですね。だから今どこに一番埋まってい

るかというと、都市鉱山って言われるように携帯だとかパソコンだとか、ああいうとこで使われ

ている金属をもう一回再利用するということです。

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[当日スライド7 世界の主な地下資源の確認可採埋蔵量・年間生産量及びその可採年数]

これを見ると、石油がなくなるとか石炭がなくなるという話ではなく、むしろ金属がなくなる。

つまりレアメタルどころじゃないんです。レアメタルというよりもこういう普通にあると言われ ていた鉄でさえ、あと70年、21世紀で掘り尽くしてしまうということです。そのレアメタル、

あるいは普通のメタルも含めて、例えばモンゴルであるとか、ああいう所で争奪戦が起きている。

それは争奪戦に勝たないと成長しないからですね。

それで車もそうですが、例えば今、水素を使う燃料電池というのがたくさん作られてエコだと いう。確かに車を走らせている所では分解して水とCO

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しか出ないのかな。だけど燃料電池を作 るのに天然ガスをいっぱい炊いているんですよ。天然ガスが有限であるからには、よっぽどそれ 以上の技術革新がないと燃料電池の材料がなくなる。それから、次の図が何を述べているかとい うと、個人消費のエネルギーというのが、オイルショックが73年ですが、当時を100としたとき に個人消費が243まで増えている。それは何故かというと、昔は一家にテレビが1台とか、もち ろんパソコンとかはなかったんですが、今は各部屋にエアコンが入っているというのが一番大き いみたいです。

それからもう一つは、エネルギー消費で増えていくのは、家庭部門と産業部門と流通部門とい う分け方があるんですが、流通部門の占める割合が増えているんです。それは何かというと、旅 行が非常に盛んになっているということ以上に、宅配便なんですね。つまりお取り寄せとかテレ ビショッピングとか、ああいうものがものすごくエネルギー消費をしているということです。

3.11の後、原発がずっと止まっていて、石化燃料の消費が増えているんですが、じゃあ原発を

稼働したらいいかというと、原子力自体も、ウラン自体ももって70年ぐらいなんですね。それか

ら東社協時代に読んだ本の中で『エントロピーの法則』というのがありましたが、エントロピー

というのはニュートンの熱エネルギーの第2法則というのがあって、第1法則が有名で、エネル

ギーは不変であるというやつです。位置エネルギーが熱エネルギーに変わるとかですね。第2法

則が何かというと、使いやすいエネルギーから、使いにくいエネルギーに変わる。つまり石油な

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んかを燃やすと、燃やした分だけエネルギーが発生するわけですが、それは廃熱として空気中に 行って、使いにくくなっているわけです。だから、エントロピーというのは、そういう使えない エネルギーが増えることをエントロピーが増えると、簡単に言えばそういうことです。

そうするとどうも私的な感覚で、古い言い方をすると、江戸時代からずっと堅い商売をして一 生懸命ためてきた財産を、ばか息子が3日で飲みつぶして、将来までつけを残す。例えば放射性 物質なんかは将来へのつけですね。だからそういうのは3日で飲みつぶした挙げ句に将来へつけ もためるみたいなことをこの何十年かでしているんですね。

そういうのを前提として成長するということを考えていくことは、本当にありなのかどうか、

ということなんですね。それは今日色々な方が来ていて、個別な話としてはブレイクスルーもあ るかと思いますけども、全体で見たときに、つまり『あるべきようわ』を考えたときに、地球は 我々のものではないし、ましてこの世代の我々のものでもないと考えたときに、どういう形で次 の世代に残していくのかということでいうと、これはダウンサイジングしかないだろうというの が私の今の結論です。

ただやっぱりどうやってダウンサイジングするかというのは色々な知恵があってしかるべきだ と思いますし、自然科学や理科系的なダウンサイジングの仕方までは私は分かりません。けれど も、具体的にどうやってダウンサイジングしていくかを考えないで成長戦略を言っていること自 体、これは絶対に違うだろうと思います。それは瞬間的には潤うかもしれませんが、その瞬間的 に潤うのはどういうことかというと、過去からのつけを将来にもっとためる、あるいは地球規模 でどこかから取って来ている。そういう時代的・地理的なやりとりの中で回っているんではない かと思うわけです。

読んだ本のスライドの中には書いていませんが、『スモールイズビューティフル』というのを 1973年にシューマッハーという人が書いています。よく読むと適正、オプティマムですね。ス モールイズビューティフルじゃなくて、オプティマムイズビューティフルみたいな感じなんだけ ど、適正な規模というのを考えようということです。

Ⅲ.これからしなければならないこと 1 「あるべきようわ」を考える

それで福祉の話に戻りますが、今、国がこれからどうするかということに対しては相当な危機 感を持っていて、福祉の関係で仕事をしている人はぜひ目を通した方がいいと思います。2015年 の9月に『新たな福祉サービスのシステム等のあり方検討プロジェクトチーム』という、これは 老健局と社会援護局と児童家庭局と、障害福祉部部長、局長3人と部長1人の4人のプロジェク トで、もちろん文章を書いたのはそのプロジェクトチームを支えている事務方の人だと思います が。これまで地域包括ケアは高齢介護でやってきたけども、高齢介護だけじゃだめなので障害・

児童それから生活困窮者、そういうことも含めて全体的に地域でやっていきますよというような

ことの報告書が出ています。

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ただ具体的に今年度の予算でそれがどういうふうに出てきているかっていうのは、まだよく見 えてはいないですが、それに向けて色々な取り組みが始まっていくだろうと。これはある種の、

老健局と社援局のこの何年にも渡るいろんな格闘というか、歴史的な手打ち、組長同士が手を 打ったみたいな、そういう報告書として読んでいるのは私だけではないだろうと思います。

[当日スライド8 地域包括ケアシステム]

それで、とどのつまりはやっぱり地域包括ケアなんだろうと。具体的には、一方では効果の高 い効率化、例えば医療と介護の連携というような専門職の連携。これは今日、武蔵野市の笹井部 長が来られていますけども、ものすごく先進的にやっている。ところが地域包括ケアシステムの 図の下のほうにある生活支援・介護予防という、住民が地域包括ケアにどうやって関わっていく かっていうところが、実はこれはどこを見ても、なかなかうまくできていない。あえて言えば氷 見とか豊中はできているかもしれないけども、そういう意味では、この地域包括ケアシステムと いうのを小地域単位で作っていくということが一番、エントロピー的にも理にかなっているので はないかというふうに思っています。

そう言っている人は結構たくさんいます。直接的には言ってないし、色々批判もありますけど も、藻谷浩介さんが『里山資本主義』っていうのを言っていたり、広井良典さんが『定常型社会』っ て言っていたり、あとは内橋克人さんが『FEC自給圏』と言っている。FECというのはフード とエネルギーとケアは小さい単位で自給しようということで、確かにエネルギーって福島から東 京に電線を張るとエネルギーロスが4割ぐらい出る。つまり発電したときの6割しか電気が来な いので、発電は近い所でするほうが効率いいわけですね。だから一番使っている所に原子力発電 所を作るのがいいんじゃないかと、30年ぐらい前に広瀬隆さんが、新宿に原発をという本を書い ていましたけども、何で新宿に原発を作らないかっていうと危ないからですよね。何かあったと きに大変なことになるから、だから作らないと。

今熊本地震で川内原発のことが言われていますけども、実は伊方原発のほうが怖いなと私は

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