日清間琉球案件交渉の挫折
著者 安岡 昭男
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 7
ページ 57‑69
発行年 1955‑06
URL http://doi.org/10.15002/00010654
日 清 間 琉 球 案 件 交 渉
序
日本と中国との聞に両属関係を続けて来た琉球も︑日本が明治
維新を迎えてからは︑否応なくその去就を決せられる事となった︒
日本政府は明治五年九月︑琉球審を置き務王に前泰を封じたが︑
更に同八年七月には琉球が従来行って来た清国への朝貢を禁止し
た︒琉球の訴えにより清国は日本に抗議を申入れ︑ととに数球問
題は日清両国閣の交渉案件となった︒しかるに日本は更に領有の
実を一不すため︑同十二年四月には沖縄霞県の挙に出るに至った︒
日清両国は互に自説を主張して解決の見込みが立たなかった︒清
国では折から来遊の前米国大統領グラジト
(d
守
g
g
m w
品 目 HM
g
の Oロ 己 格蘭
芯 ︑
嘉蘭
) に
調停を仰ぎ︑その斡旋で日清阿国聞に
一つ の解
決案が成り︑将に調印の運びにまで進展した︒此の案に
よると︑日本は台湾に近い宮古
・八
重山両群島を清固に譲
り ︑
代
りに最恵国待遇に均濯する事になっていた︒しかるに清国では調
印を 延期 し︑
事を設けて之を回避する態度に出たので︑日本全権
宍戸於も不信を詰って帰国し︑協約案は遂に成立するに歪らなか
った︒その後
二三 の
交渉はあったが︑後年日清戦争で日本が勝刺
の 挫 折
安
問 昭
男
を収めた結果︑琉球所属問題も自然的に解決の形となった︒従っ
て日本としては︑一旦は割譲と決した両群島まで保有し得たので
ある︒その意味で︑比の清国の解決案回避は︑琉球所属に関する
日清交渉の事実上の終点となったものとして重視される︒
一旦
成約した解決案を清国は何故に回避したか︒此の事情につ
いて
︑三
浦周行博士は
﹁明
治
時代に於ける琉漆所属問題﹂ハ])で
概括され
︑三
国谷宏氏は﹁琉球所属問題に関する
グラ
yト
の調 停﹂
︹2
v で ︑
不成立に終るぺき種因は解決案自体にあるとせられた︒
要するに解決案自体に医した内部的素因
と ︑
当時の国際関係と
いう内外両国の要素が併せ考えられる︒双方の比重に軽重はあるにせよ︑此の両面の原因を追及する事により︑不成立も止むを得
なか
った
理由を把握できよ
う ︒
小稿は此の辺の消息を更に検討し
よう
とす
る・
もの
であ
る︒
註
( l )
史学雑誌四二編七︑二
一 号
(昭
和六
年﹀
( 2 )
東方午報京都第十
品川
第三
分
(昭和十四年)
一 北 京 会 商 の 経 緯
グラントの斡旋論述の関係上︑協約案成議に至るまでの経過
五七
を一応略述しておきたい︒
琉球問題に関する日清交渉が停頓していたのは︑明治十一年十
月七日に清国公使何如暖から外務卿井上撃に送った照会のす︿面に︑
無礼の措辞があったというので両国聞に応酬があり︑とれが水掛
論に終っていたからである︒グラソトは李鴻章の動さにより一私
人として調停の労をとる事に応じた︒調停に当ってグラγトは先
ず日本の主張する﹁照会撤鎗﹂を清固に認めさせようとして︑李
鴻章にも
﹁如比交不背撤錦︑以後恐難商談︑如背先行撤回︑則日人悦
服﹂
ハ
ld
と説
いて
いる
︒清
一史
稿は日清両国の主張の食違いについて
﹁格
蘭芯
語口
力派
大員
会商
︑十
ムナ
鴻章
国達
総署
︑誇
照会
日本
外務
省
誇其男派大員来華会商︑而日本則欲中国男派大員前往東京﹂︹
2u
と記している︒結局清国は明治十二年十二月一一←t四日附の照会で
﹁将従前禁論各節︑暫置弗提︑願照美国前統領信内所称情事︑次
第耕
理﹂
(3 v
と提案して来た︒これは照会の前言を取消したとい
うより︑関上げを申出たものと見る方が妥当であろう︒翌十三年
六月二十八日︑井上外務卿は清国総理各国事務街門(以下総理街
門と
略称
︑引
用文
中に
抗日
山田有とあるのも同じ﹀宛に左の通り譲歩の
旨を明かにしている︒
﹁琉球一索︑本自貴国発端︑今欲商鉾之︑貴国先級消行交叉先
派前来︑於理為宜︑但貴国似不審先行比二事︑倣国一以保全和
好為
回目
︑不必要求貴国所不喜﹂
2 )
照会
撤錦
︑会
商地
の一
向
問題とも︑グラシトの説いた互譲の実を挙 五八
げるため譲歩したものと云える︒ととに会商地を東京でなく北京
?と決定したのについては︑グラソトの意向も尊重した結果と考え
られる︒グラソトは明治十二年八月十目︑明治天皇に謁見の際に
琉球問題に触れて日清両国の互譲を説いた上
﹁清一回ト談判ヲ遂サセラル︑ニ当テハ︑成ヘグ外国ヲシテ之一一
干渉セシメラル可ラス︑夫ノ欧洲諸国ハ︑(中略)若γヤ日清
聞こ章一千起ルアレミ却テ圭トジ白ラ利益ヲ占シト欲﹃ヘルニ外ナ
ラス
﹂戸
5)
と述べている︒グラシトは謁見に先立つ同年七月二十二日の︑琉
球問題を評議した日光会談でも同様の趣旨を内務卿伊藤博文︑陸
軍卿西郷従道等に忠告している︒円
6)
グラ
γトは東京で交渉を行
う持は︑英国公使パI
グス
( ω
山門 司ミ ミ
ω
・HUM肖w g
巴夏礼)が
策動するのを慎れていた稼である︒
さて日本は正式の商談に先立ち︑明治十三年四月四日︑当時天
津に派遣されていた大蔵少書記官竹添進一郎に命じ︑直隷総督兼
北洋大臣として天津に在った李鴻章と会談させ︑琉球問題につい
て予備的交渉を進めた︒李鴻章は比の時︑何如嘩からの書簡に︑
﹁美便所称︑与統領熟商︑南島帰中国︑北島帰日本︑中島帰琉球︑
復国
立君
﹂ハ
74
とあるのを一示し︑宛もグラシトが日本駐在の米国
公使ピシガム
Q C } 5 b
・ 盟国 間E S
平安)と協議した上で︑何公
使に提示したかのような口吻であった︒日本としては比の所謂琉
球三分案は始めて接したものであったので︑早速駐米公使吉田清
成に命じて︑当時米国イリノイ州ガレナ(の丘町
B ‑ )
に在ったグラソトに照会させた︒その結果グラットからは関知しない旨の返事
を得た︒またピソガム公箆も同様矧らない草干が判明した︒そこで
日本としては北京での正式会談開始前に︑竹添から李に対して︑
三分案反対の意向を伝えさせた︒李自身も此の三分実には疑念を
抱いており︑とれは何公使の担造によるか︑或は李が一応牽制策
として用いた程度ら
しく
︑ハ
E)
そのまま立消えになっ
て了 った
︒
一方北京での会商は明治十三年六月二十九日︑日本側全権委員
として
駐清 公使 宍一 戸際 が任 命さ れ
︑同年八月十八日︑宍戸公使と
清国
総理
街門
大芭
沈桂
十分
︑吾
︑
JEZ︑王文詔等との聞に交渉が開始さ
れた︒宍戸公使は
﹁琉 球島
ノ議連年結テ解ケス︑
今ヤ 善後 ノ日 開法 ヲ商 ラシ ト欲 ス︒
而ルニ玖島旧ト我カ征服ノ地一一シテ︑之ヲ処詩スルハ豆口カ分内
‑ 一在 リ
︑
他屋ノ干渉スヘキ所‑一非ス︒故ヲ以テ我国ヨD
意 見 /
以テ比ログ可キ者ナシ︒先ツ貴国ノ意見ヲ聴キ︑而ル後一一之ヲ議
セ ジ
﹂ (9
﹀
と日本の立場を示した︒とれに対し沈桂芥も
﹁我
カ
鉾法ハ琉球ヲ存スルノ外別ニ意見アルコト無シ
﹂(
巴
と答え︑ととでも互に自ら発議するのを好まない態度であった︒
結局は日本側から鉾法を提示して︑以来八回にわたる商議に三ヶ
月を要して結く双方意見の一致を見た︒
との
協約案は琉球諸島のうち︑最も台湾に近い宮古︑八重山
一 阿
群島(先島諸島を成す)を清国に劉き︑代りに日本は清国から最
恵国待遇を得るという内容である︒
明治四年日清聞に辛来修好条約締結の際︑全権伊達宗城は最恵
国条款を認めさせるのに失敗した︒日本は是非共とれに成功しょ うとし利益均需を主張した︒清国は琉球問題解決の交換条件とする事を好まなかったが︑結局増加条約の形で同意したのである︒
二島分割宇品川は日本としては相当の譲歩だったと云えるが︑日本
政府独自の案ではない︒グラyトは前述吉田公使の照会に対して
も
﹁ 二
島分割のことは︑日本滞在中に発論したものであるが︑三
分案については嘗て言及したことがない︒二島を清国に制割譲す
れば︑清国は無論その報酬として最恵国待遇の均認に同意せぬ
こと はな い﹂ ハ
Ud
と明
言し
てい
る︒
とに角︑一応両民間に該が成る所まで進んだのは︑ひとえにグ
ラシトの調停に負うものと一云って過言ではない︒
清国の態度中変北京会商は明治十三年十月二十一日︑談判結
了となり︑一︑球案専条二︑加約一二︑窓単を約定した
0 2 v
一は 宮古 八
重山二島を清国の管轄とし
︑そ の
他は日本領として
﹁彼此永遠不相千預﹂を官としたもの︒こは辛未修好条約の増加
条款で最恵国待遇に関するもの︒三は日本が諸外国と条約を改正
する場合︑清国も改正年限を短縮して﹁彼此酌議﹂する事を保証
したものであるo此の際︑沈経芥vと宍戸公使との聞に
﹁ 洗
協議ニハ相成侯共猶一応内奏致侯手続
一一
付此
先キ
!?
日程
御猶予有之度侯
公使無拠候左候得共御互‑二調印ノ後三ヶ月内‑一批准交換ヲ約
シ侯様可致候其旨御書入被成度侯﹂
2 4
との話合いがあり︑更に両島照受及び加約施行の期も定められた︒
五 jL
かくて宍戸公使は︑本国から交渉に当り派遣されていた内閣大書
記官井上毅に成議案を携え帰朝報告させ︑久しい閣の難問題も漸く解決したかに見えた︒
しかるに清国側は読印期限を越え︑十一月に入っても何等通報
せず
︑市
一八
一戸
公使
から
屡次
催促
の末
︑十
一月
十七
日に
至っ
て漸
く
︑
総弁葉続桐を公使館に遺して来た︒書記官田辺太一に面会の上提出した照会
主 国 文面
には
﹁欽奉諭旨︑前拠総理各冨事務街門奏接
結琉
球一
実各摺片︑若
交南
北洋
大臣
等一
妥議
具奏
︑倹
覆葵
到日
一再
降論
旨 欽此
︑相応恭録照会責大臣可也﹂臼)
とあ
り
︑上
諭に
より北洋大臣李鴻章︑南洋大臣劉均
一に
妥 議さ
せる
一事
にな
った
とい
う︒
日
一 ハ
戸公
使も始めは清国側の意
中を
探り︑兼
ね¥
翌十
八日井上外務
卿に
宛て
﹁余
Dニ毎
弄ヲ
極侯稔成致
万 二 ノ或
ハ中
変ノ
地ヲ為候タメニモ可宥之
裁ト
モ擬念被致侯へ共只今迄ノ景況一一テハ右様ノ悪意モ有之間敷被存
共 忠 一 息
中探得仕カ
タグ
被存侯﹂包)'と報告している程
であ
る︒
よって井上外務卿も十一月三十日︑宍戸公使に対する訓令で
コ阿
国
全権ノ特任ヲ受ケタル大臣ハ意見相同ノ後︑即チ調印シ︑調印己ニ終テ︑始メテ批准
ヲ誇
フヘ
キノ
理一
一シ
テ
︑調
印ノ
前一
一上諭ヲ誇ヒ及南北洋通信大臣ノ意見ヲ待yノ要用ナシ﹂元)
との
趣意を以て
総 混 一
衛一
門を
詰責せよと達した︒日本としては光緒六年六月三十日(明治十三年八月五日)附の﹁欽奉諭旨︑著該街
。
ノ、門主大臣︑会同妥商耕理欽此﹂
ハ 己
云々の清国総理街門照会により︑総理街門を以て︑我が全権委員と同様全権を有するものと認
めて交渉して来たのである︒それ故あらためて全権委任状の提出
も求めていなかった︒今に及んで調回を遷延し︑本問題の委任に関係のない南北洋大臣の意見に倹つというのでは︑﹁公法上からも自ら全権の任を破り前一言を食むものである︑
とし て
難詰し
た ︒
宍宵公使は十二月二十七日︑総理街門に対し﹁須期
十日
有所答回﹂白﹀と期限付で替促したが︑翌十四
年一 月一 一一 日の 照覆 では
︑
琉球案件について南北洋大臣の意見を徴するのは上諭
の旨
趣により慎重を期するためであり︑放さらの延引ではないと弁疏するのみであった︒自﹀
一月十一日︑宍一戸公使は帰国の意向を総理街門に報じ︑田辺書記官を臨時公使代理とする旨を伝え︑同十六日に告別のため総理街門を訪問した︒此の時の会談には新任の駐日清国公使許景澄も出席し︑宍戸公使に対し次の様に主張した︒
一︑条約締結の際︑各国でも上下議院に付議するが︑南北洋大臣妥議の事も同様の筋である︒
ご︑調印期日の延引も各国約定の後︑批准に手聞
いと る事
が少く
? ぁ ︑
︒
J
りに成立するかも知れな通具奏の上︑成約議三︑妥 ︑/h v
いの に︑
使命不達成として帰国するの
は早
計ではないか︒お)宍戸公使は之に反論し
﹁南北洋大臣ノ妄議ヲ被要候トノ事
即チ
便事
不成
/在
一一
有之
侯︒
成程各外国ニモ議院ノ議ヲ采y叉ハ批准延
引ノ
事モ
可有之候得
共︑両国棄権大臣既‑一議協侯モノ︑其大臣全権ヲ以テ画押為拠
不及別‑ 一
他人/コレニ参侯トノ事ハ承リ不申侯︒左侯‑ 一
ヘ ハ
菜権大芭
‑ 一 其
権ナキモノト︑是権ナキヲ以テ権アDト
シ ︑
他ノ
一方ノ使臣ヲ欺キ侯モノニ同シ﹂
2 )
と述
べ ︑
侮弄の態度は甘受出来ない旨を明かにし︑引続いて
﹁
且 支
国
ノ慣例
トハ 一国 ノ私 法‑ 一一 ア万
国会商ノ通義
一一 無之 上︑ 貴
国ノ属国ハイサ知ラス︑対頭ノ国ニ対シ可被申陳儀トハ不被心
得侯
﹂ ( 召
と清冨の慣例といっても︑日本がそれに応ずる謂れのない事を付
言した︒﹁反覆ノ挙動﹂ム﹂﹁遷延ノ詐
術 ﹂
とは井上外務卿も前記宍戸への訓令中で﹁清国政府常用ノ手段一一シテ︑目前其近例ヲ見ルコト少カラス﹂(告と非難している︒一月十七日︑宍一戸公使は総理街門に対
し ︑
琉漂案件の破約は清国側の責任なる回目を最後的に通告し︑︿包同月二十日に北京を引揚げ帰朝復命した︒
日本としては清国側が自ら議を捨てたものと見倣
した ので ある
︒
清国側では逆に
﹁日本使臣宍戸勲一︑覚所欲難遂︑即謂由我自棄前談︑俸惇
一 間 帰
︑
詞意 決絶
﹂
2 d
との上諭が出て︑むしろ日本の意図は細川鴎にあると見ており︑軍
機大 臣左 宗門 呆な
どは沿海の戒備を上申して
いる
︒ハ お)
なお比の閣の中国の態度について︑批准の延期とか拒否とか
述ぺているものを散見する︒しかし如上の経緯を見ても明かな通
り ︑
E
確には調印延期或は調印回避というべきである︒ 批准は調印の後に︑条約文で規定のある場合︑条約発効に必要な手続きであり︑調田のないままに批准という
ことはあり得
ない︒秒︑に批准云々の諾は調印の後︑之を承認しない場合に用
いられるのが妥当である︒
しかるに李鴻章の奏議でも﹁曽声明白御筆批准︑於一一一箇月限
内互換︑務調間限満之時︑准不准之権︑何在朝廷︑比時似宣用支度之
法 ﹂
ハむと批准の遷延を説いている︒実際批准の如何は其
の国次第なのであるから︑とれを拒否されても致し方のないも
のである︒一字の奏議は事実上調印をも延期させたものである︒
尤も清国の云い分としては沈桂芥が宍戸公使に説明した言葉に
﹁中
国/
訂約
‑一
一向
側ア
D︒外国若グハ他省‑一於テスル者ハ︑鈴印ノ後一一批准シ︑本街門エ於テスル者ハ︑
批准
ノ後
一一
鈴回
ス︒
況ヤ此案ノ係ル所重大ナルヲヤ﹂ハ哲と清国の締約慣例に調印よりも批准を先にすることがある回目を明かにしている︒しかしそれならば予め︑十日以内の調印を約した時に︑当然一言その由を断っておくぺきで︑との主張は表面を糊塗する
為の 一一A
い逃
れと見る他なか
ろう
︒
註
( 1 )
李文忠公外部函稿管一
二谷
一八
葉
(光綜六年七月六日)
( 2 )
清史稿邦交志六ノ六
( 3 )
山 一 羽 倉公 実記
下巻五九九頁
(4﹀日本外交文書第二=春一
二七 項
( 5 )
グヲシト府軍との御対話筆記(国民精神文化研究所刊﹀
八
l
九頁~ ノ、
(6
﹀
げ‑ゾペ話相琉球事件(明治安化事総史篤
二
六頁
﹀
(
7 )
李文忠公外部函続二ニノ一七
(8
﹀ 三
浦周行﹁明治時代に於ける琉球所属問題﹂(史学雑誌
四二 ノ 一 一
一 ︑
一一一
一 員
)
三国谷宏
﹁琉
球帰
問問に関するグラントの調停
﹂
(東方学鞍
京都
一
O
ノ=
一︑
五九
頁)(9
﹀ ︿
ω )
岩 倉 公 実 記 下 谷
l
六Oニ三頁
︿日
)
世外弁
と公
伝第
三年
官四
一
七一 貝
(ロ
)(
日)
日
本外交文書館町二ニ各一二九項
( H H﹀ ( 日
) h
v h v
一 三
O項
( 日
﹀ グ
HM一三三項
( げ ) グ グ 一 二 八
項
(時 ) グ ッ 一 三
五項
(凶
)MM第一四巻
一 一一
一 環
(却
)(
幻
﹀ ハ 幻
) グ グ 一 一
点項
︿ お
) H
H第
一 一 一 一
答
一三
三
項
( 但
﹀ ワ
第一
四谷
一一
二
項
(お
﹀
清季外交史料第ご五巻六葉
( お
) H J H H
八葉
( 幻 ) 李 女 忠 公
会一番奏稿第三九巻五葉
︿m
m)台湾琉球始末(外務省続)各七
ニ 調 印 回 避 の 事 情
清国は何故に此の様に態度一変し認印を回避したか︒その直
接導因は李鴻章の反対にあると一玄える︒それ故︑李の反対理由
ムノ、
を明かにすれば︑調印回避の事情もほぼその全貌を把めよ
う ︒
李鴻章の不満︑総理衛門の意図
抑々 琉球 問. 題に 関す るん 寸次 の
交渉
は︑
森一
d鴻章と竹添進一郎との間の予備的会談に始まっ
てい
る︒
琉球三分論を持出したのも十字に他ならない︒日本側は比の提案を
斥ける一方︑宍戸公使に北京で総理街門と交渉させた︒とれは明
かに李を出し抜いたものである︒当時李は直隷総替兼北洋大臣と
して重要な外交案件を処理し︑琉球問題にも腐心していた︒しかも改約交渉の進められた日清修好条約は
︑十
字が
日本
代表
の
主張を抑えて︑最恵国条款を允さなかった'ものである︒折から露
清交渉でも自一己の意見が容れられず面白くなかった際で︑李の悪
感情は相当に強いものがあった︒
一大
泣い
領事
とな
った
竹添(
四
時
ι
一 紳
)が︑明治十三年十一月二
十日︑井上外務卿に送った情報中にも︑
一 学 刊 か
竹添の﹁留守中へ怒
鳴リ 込︑
︑︑ 竹添 飯事 ハ脱 走セ
リヤ実‑一洋鬼子ノ如グ他ノ間際ヲ鏡ヒ
人ヲ
困難ニ陥ラシムル様ノ事ヲ為ス勿レト悪口﹂ハるしたと報じ
ている︒李は更に﹁留守居の書記生に対して宍戸は無学だと罵り︑
竹添は詩文は少し位やるが悪智恵が多い﹂
(2
﹀と前駐清公使柳原前光まで引合いに出
して
攻撃したという︒竹添は﹁李氏不快﹂の因を次の四点に求め
てい
る︒
一︑
﹁
辛宋ノ条約ハ全グ李鴻章一人一一一ア取結ヒ李氏ハ十分ノカヲ極メテ内地通商ヲ拒絶シ夕日︑然ルニ
今日
‑一
至
D李氏ノ手ヲ経
スシテ辛未ノ条約ヲ改王増加スルハ︑総理街門ノ手抜ケ土玄ヘ
シ ﹂
二︑﹁琉球ノ一案内談ト
ハ乍 申︑ 小官 ヨリ 昌弘
政府ノ主意ヲ最初李
民二申入レ︑談判
/端
絡ヲ関キ︑李氏ヨリモ小官‑一鷹托セシ要件有之︑然ル‑ニ六戸公使航清ノ節︑十字民ノ不在ヲ幸トシ面会無
之 ︑
一直進京シ総署ニ向テ琉案ヲ開談一一相成タD﹂一二︑﹁加フルニ小官ハ李氏トノ内談ヲ中止シ︑
進京
シテ
陰‑
一公
使
ノ談判ヲ賛助セシヲ以テ︑李民ハ出シ抜ケニ逢タルノ憤リヲ挟
ミ ﹂
四︑﹁グラント氏八全グ清国ニ左和一セDト李民ハ心得居候処︑臼
本ニ渡航ノ後却一ア日本‑一左祖セシ姿有ルヲ以テ︑大二憤鍍ヲ懐
キ夕
日
︒のテグラyト氏ヲ怒罵スル所以一一シテ︑小官就任ノ時
李民
一
一向
ヒ
︑グラソト氏モ米国一一
公使
モ決
シテ
一二
分説
ヲ唱
ヘタ
ル
事ハ無之段言明候節︑反復常ナシ小人ノ恒態ト答ヘタル旨意ト大略符合致シ候﹂
右の事由から﹁憤怒ノ余ヮ日本一一向テハ手負獅子ノ荒レ廻ル如
グ必ス其爪牙ヲ試ミyトスルヤ疑ナシ一言)?とし︑他にも例証と
して清国官員が竹添の許に来往するのを回避している色が見える
事実
を挙
げ︑
これも李の憤怒を知つての喜一一であろうと見て﹁南北洋大臣ニ下議セシムルノ上諭ハ︑
会一
グ李
民横
矢ヲ
入レ
タル
ヨ
D起
η J候
事﹂
( 4 d
と推
察し
てい
る︒
以上の如く︑李鴻章の悪感情は︑日本側の竹添・宍戸に対する
ものだけでなく︑総理街門の行動︑更にはグラシトに対する不満
が重
なり
合っ
た'
もの
であ
った
︒
竹添は李を無視して北京会商を進めたのを総理街門の手抜かり
としている︒しかしこれは総理街門がむしろ本一Jの介入は約案成立
への障害?となる裏一を意識して交渉を進めたと見るべきである︒と こに総理街門と本?との闘が円滑を欠いていた事を窺えるが︑卒の不満を承知の上で解決案を急いだのには︑やはり相当の理由がある答である︒一つには何といってもグラシトの好意に応える為であるが︑更に大きな影響を及ぼしたのは︑伊型事件に関連して︑
日本がロシア(俄国﹀と連繋するのを警戒した事である︒
伊型地方を占領したロシア軍の撤兵に関する露清交渉は︑当時
清国を悩まLた重大な外交問題であった︒清国要路には比の際︑
日本に多少の譲歩をしても︑ロシアと結ばせないようにせよとの
論が出た︒左庶子張之洞は明治十三年八月十五日の上奏で︑琉球
事件を速かに解決し﹁勝目孤俄﹂ハ
5)
の策を採るため︑条約改訂
にも譲歩を︑主張し﹁商務可允者允之︑使彼中立不助俄勢﹂
( 6 )
と云
っている︒この張之洞の建議に動かされたか︑総理街門の恭親王
突訴も一撲諸現在事勢︑中国若拒日本太甚︑日本必結俄益深﹂
( 7 )
と上
奏し
た︒
日本の方でも既に北京での開議前から井上外務卿は宍戸公使に
宛て﹁清魯葛藤ハ殊ノ事五口琉球事件/完結ノ
景況
一一
一関
係侯
問
︑第
ト御探偵候テ御報告有之度候﹂
( E d
と達しているように︑露清関
係の動向には注意を払っている︒北京での交渉中にも井上外務卿
は吉田駐米公使宛︑明治十三年九月三十日附の書状に
﹁最早余程ウイ1
キポ
イソ
トも
顕点
候故
一柑
日清
ム口
縦ヲ
世間
喋々
fe
ル 疑 ヒ 候 気 味
この機三来ジ︑終局ニ到リ候様︑斤一ハ戸えも厳敷迫り立申候﹂(と
と報
じて
いる
︒
清国側でも亦逆に︑日本が此の情勢を利用している事は承知し
ており︑李も光緒六年十月九初日の上奏で
ムノ ¥
﹁旋聞日本公使宍戸崎屡在総理街門︑催結球案︑明知中俄之約
未定︑意在乗比機会図佑便宜﹂品)
と述ペている︒
とにかく露清交渉の成行きをめぐって︑
清国
内か
日
本の動向を顧慮した事が︑北京での琉球案件交渉の成約到達を促進した葛寸実が認められる︒
李 鴻 章 の 友 対 理 問 前
述の如く清国側の﹁中変﹂が李鴻章の意
見に因るものである事は︑直ちに竹添がそれと祭した通りであっ
た︒のち明治十四年二月卒は竹添に対して
﹁総署が定約を破ったのは︑自分がさせた一所であって︑決して
不条理ではない︒仮令総署が議決しても︑皇帝から必ず日分に
街下問があるので︑白一分が承知せねば決して解決するものでない︒自分はダラγト圧に両国和好のため速かに収局するととを
望むとの主意を日宏政府に陳述することを誇間糊したが︑排法については談話を交した
こと
はない︒旦つ絵署からは一々通知がないので︑談判については一切知らぬ︒仏代︑署から葵問
に及
び︑
自分に御下問があったので︑
反対 の回 日夜 奏
した
迄で
ある
﹂ハ
凡﹀
と語っている︒
李としても解決案が当を得た・ものであれば︑もとより単なる感情C故に反対するわけもない︒日清両国の得失を比較して︑此の解決案では清国にとって不利であり︑反対すべき相当の理由があ
れば
こそ
︑
総理衛門の困惑︑日本側の憤慨︑かいてはグラ)ノトの
失望に対する考慮を押切って︑成立を阻止したのである︒
李の反対趣旨は大体次の三点に要約される︒
ノ ¥
四
一︑最恵国待遇均需には慎重を要する︒
ご︑琉球主国復活即ち朝貢名儀存続の見込みがなくなった︒
三︑日露連衡につき総理街門と異り︑その虞れはないと見る︒夫Hについて︑主として光絡六年十月初九日(明治十三年十一月十一日)の李鴻章の上奏(凱灯時枕上)に拠り検討してみる︒
第一の最恵国待遇均需の件は︑二島分割の交換条件の形となっ
たものである︒前にも触れた通り︑とれは李自身が先年修好条約
取極めの際極力反対して遂に認めなかった所である︒上奏でも内
地通商について
﹁日
本
密遡東隅︑文
法合
同一
一古
田同
町問
︑其
人貧
容貧
利無
恥
︑一
開此例︑
勢必紛至務来︑ぷ五口民争利︑或更包捷商税︑為作好犯科之事︑閥的代佼宏之興︑即白失業商人旬結内地肝民︑
不可
不防
其掘
削︑
此
設改旧約尚宜的度之情形也﹂危)
Tど
強く
答戒している︒とれは李に限ったものでなく︑上一笑後文にも﹁適接出使大臣何如萄来書︑並紗所寄総理街門両函︑力陳利益均即刻及内地通商之弊︑語多切実﹂完)と何公使の同様な意見を引
いている︒但し李守としても︑全く反対というのではなく︑﹁酌度之情形﹂としているのである︒
第二の琉球王国復活の問題は︑解決案不成立の重要因子となっ
た・
もの
であ
る︒
清国としては自国の領土として琉球の一部回復を望む
もの
では
なく︑属領として朝貢の名儀を継続させたい為であると称してい
る︒明治十三年四月四目︑李は竹添との筆談で﹁中国之争琉球︑
原為
興一
概絶
護持
弱小
起見
︑
︒立るいてべ述と﹀﹂塁心之地土人利無一一 一
琉球王匿を復活し︑前審王尚泰でも復位させようとの考えは︑もとより李に限らず︑
当時
の清国章一臣遠の一致した意見であった︒
李は分島の議が出た際︑総理街門に対し﹁謂中国若分球地不便
収管︑只可還之球人﹂(さと琉球を琉球人に返還する意向を示し
ている︒しかるに李としては迂潤ともいえようか︑﹁此時尚未知
南島之枯痔也﹂自)という程度の認識であり︑その後﹁近接総理
街門
図抗日本所議︑巨因伝説在津之琉球官向徳宏︑始知中島物産
較多
︑南
且句
会
{ h M
‑僻盤︑不能
自立
﹂
G d
と確認した
ので
ある
︒
しかも此の援な経済的事由k共に︑致命的な事には︑社稜の保
存に必要な旧恋王尚泰一の復帰が実現不能と判明した︒尚泰と嗣子
尚呉は沖縫置県の後︑明治十三年五月遂に相ついで上京を余儀な
くさ
れ︑
東京居住を命ぜられ
てい
た︒
尚泰侯笑録によれば
﹁清
国政
府は
︑琉球の陳情を酌量し︑南阪の二群島に琉球王国
を経治せしめ︑封貰の因襲を行はしめむと欲せしが︑旧葎王己
に華
=族に列するを以て他に王族を再立せんとし︑議して宜野︑
湾王子を之れに援せり︑然るに︑
旧藩
臣枯
一寸
の意
見両
分 し可
否区
疋決せず︑遂に侯の裁断を仰ぐに至りしが︑侯其の児戯に類す
るを以て叱して之を斥くるに及び︑議即ち罷めり﹂
2 )
という事である︒琉球王及び世子は日本が釈放
しな いの で︑
尚姓
のものが復位不能ならば︑代りに尚泰
の姉
即
切であり︑審王密使と
して天津の李に救援を誇いに来た向徳宏(辛池親方朝恒)をおく
事も考えられ
﹁詞 以球
王及子嗣︑堅称不能交出
︑乃
謂球王宗族遊尚姓為
向姓
︑
向之人各処皆有云点︑似明指在津之向徳宏﹂白)
という消息もあった︒
一学
は上
奏の
中で
﹁臣思中国以存続琉球宗社為重︑本非利其土地︑今得南島以封
球︑而球人不願︑勢不能不派員管理
︑既
踊義始利終之嫌︑不免
為
日人 分諺
﹂( 色
と名分の立たなくなる事を憂え︑また仮に琉球王国が復活し
得た
場合でも︑直ちにその存立が脅かされては意味ないので
﹁旦以有用之兵錦︑守此酎脱不毛之土︑労費正自無窮︑而道呈
滋速︑立円間隔絶︑実覚孤危可慮︑若慣其労費而棄
之不
守︑
適堕
日人絞謀︑且恐西人路之︑経営墾闘︑犯我太平洋咽喉︑亦非中
国之
利﹂
2 )
と日本或は西洋諸国の進出を招く事を慎れている︒それ故︑仮に
日本が修好条約改訂を交換条件とせず︑単に琉球問題解決のため
にのみ︑二島の分譲を申出たとしても︑猶進退両難に陥り悔を胎
す事を恐れる︒しかるに日本は改約という交換条件をつけている
﹁僕能覚釈球王︑昇以中南両島︑復為一園︑其利害尚足相抵︑
或可勉強允許︑如其不然︑則彼享利而我受其害︑且並失我内地
之利︑臣籍有所不取也﹂宕)
と︑ その
得失を論じて︑意のある所を明かにしている︒
なおことで二一目しておきたい事は︑李の名分尊重論が首尾一貫
したものでない点である︒さきに明治十︑十一両年にわたり琉球
審王の密使向徳宏が日本の対清進貢阻止を清国に訴えた時︑
李は
何公使から書信で︑日本に対して強硬策に出る事を進言して来た
六五
のに答え
﹁琉球以黒子弾丸之地︑孤懸海外︑遠於中国︑而遡於日本︑︿中
略﹀中国受琉球朝貢︑本無大利︑若受其貢而不能保其国︑国為
諸国
所軽
︑
a
(中略)争小田区区之賞︑務虚名而動遠路︑非憐不
暇︑亦且無謂﹂︹包
と冷淡な態度を示している︒朝貢にそれ程拘泥していない︑とい
うよりむしろ問題にしていないとも見られる︒しかるに後になっ
て朝貢名儀存続を固執するに至った︒しかしこれには琉球来訴当
時の清国の立場を考慮する必要があろう︒何公使の返簡でも﹁非
惟不暇﹂としているようにロシアと伊型地方に関する応接に寧日
なく︑琉球の件まで落着いて交渉する余裕げかなかったといえる︒
との情勢が李の上奏当時にはどの程一度に緩和されていたか︒これ
は次の間題とつながる︒
第三一の日露連繋に対する情勢判断に於て︑総理街門との聞に梧
違があった点であるが︑李は上奏当時︑日本はロシアと提携する
虞れはないと観ていた︒日露要絡を替戒する見方を一応﹁老成持
重之見﹂としながら︑日本のロシア援助説は多く香港日報及び日
本の伺喝に出たものであるま?を察せず︑遂にはつ験日拒俄﹂を望
み︑商務均搭の待還を与えるのは妥当でないと
L
た︒上奏中には他に後掲陳宝珠の説も援用しているが︑また何公使からの来阪に
﹁亦底称日本外張中乾︑内変将作︑譲之不能助我︑不譲亦不能難
我 ﹂
a v
と日本への譲歩を不得策としているのを︑まことに﹁確
論﹂であるとしその趣旨を強調した︒
﹁与
甘門
会
J譲於倭而倭不能助我以拒僚︑則一校既失之於倭︑所叉将 失之於俄︑何如精譲於俄︑而我因得借俄以慨倭﹂(包と頼りない日本と結ぶより︑﹁強弱之勢︑相去百倍﹂のロシアに当面些少の譲歩をしても日本を牽制する方が有利であるとした︒
以上李の反対根拠を一通り当ってみた︒李としては︑先に三分案を提示した点からも︑琉球の分島そのものに当初から反対であ
ったのではない事は明かである︒以上の諸条件が重なったので解決案に異議を唱え
﹁所 有日 本
議結球案牽渉改約暫宜緩允遵己日妥簿縁
由 ﹂
B J
と専ら延期の策を奏した︒所謂﹁延宕之法﹂である︒延期の具体
策としては︑批准期限である三ヶ月自になった時に遷延貨をとり
﹁専聴俄事消息︑以分緩急︑倹三月限満︑熊俄議未成︑而和局
可以予定︑彼来催問換約︑或与商展限︑或再交廷議﹂(己
とし︑もしロシアとの交渉が三ヶ月以内に結了した場合は﹁擬誇
旨明指其不能批准之由︑宣一不該使﹂免
)と
︑
ロシアとの関係が悪
化した場合は換約を認めよと積極的には云っていないが︑好転す
れば拒否せよとの方針を建議している︒
露清交渉の好転と延期繁の採用李鴻章の上奏より前に既に清
国要路には換約に賛否両論が起っていた︒ハ付表参照﹀右庶子陳宝探は締約に反対し
︑北
京会商結了一週間目に当る明治十三年十月二十八日の上葵中に
﹁白人畏俄如虎︑中国之力︑終不能禁日本之通俄︑日本之親我
与否︑亦視我之強弱而己︑中国而強於俄則日本不招而自来︑中
国而弱於俄雄甘言厚路︑与立互相保護之約︑一旦中俄有粋︑日本之勢必折而入於俄者︑気所先儲也︑高一中国為俄所挫︑日人
見有隙可一乗︑必背盟而趨利便者︑叉勢有所必至也﹂(竺
と︑日本を持むべきでない事を力説し︑﹁為俄事一五定︑日案不宜
濯結︑日約不宣軽許﹂品)・としている︒
醇親王突諒は﹁日本与俄相結︑叉与間協削相近︑若更動成局︑白
人未
必甘
心﹂
2 d
と警戒し己成之局を動かす事に反対した︒
また左庶子張之洞は日本との条約改訂は許してよいが︑琉球案
件は延期されるようにと上奏した︒
a u
総理街門も一時は困惑したが︑折からロシアとの交渉は︑露都
ペテルプルグに派遣された曽紀沢の努力で解決に近付いた︒そこ
で琉球問題も持重論の方に傾いて︑ここに総理街門も態度を一変
する事になった︒しかし故なく延期も出来ない︒それで口実とし
て前述の如く全権資格を無視して︑南北洋大臣の妥議を要する旨
を︑李の上奏六日後に︑日本公使館に達したのである︒
井上外務卿も宍戸公使宛︑明治十三年十一月三十日の訓令中に
清国の態度を﹁言ヲ左右‑一托シ故意ニ遷延シテ以テ清容葛藤ノ了
局ヲ待タシトスルノ詐謀アルカモ﹂(告知れぬと察した通り︑露
清交渉の成行きは次第に清廷を延期策に傾けさせた︒
その後も琉球案件については賛否の論があり︑南洋大臣両江総
替劉坤一︑所江巡撫謹鍾蔽は速結を奏し︑両広総督張樹声︑広東
巡撫俗寛は﹁不必A一思議﹂と奏した︒しかし李鴻章の上奏が最も有
力であった事は云うまでもあるまい︒
一方明治十四年二月二十四日(光緒七年一月二十六日)には京
都に於て露清聞にペテルプルグ条約ハ第二伊型条約)調印の運び
となった︒ロシアとの関係を安定させた清国では︑同年三月五日 に至り次の上諭が出た︒﹁商務一体均語︑為日本約章所無︑今欲援照西国約章緋理︑尚非必不可行︑惟此議因球案而起︑中国以存球為重︑若如所議劃分両島︑於中国存球之意︑米諸掛妥善︑着総理街門玉大臣︑再与日本健邑悉心妥商︑琉案妥商︑琉案妥結︑商務自可議行﹂(む利益均震を必ずしも否定しておらず︑それに関連する琉球問題の方が︑中国としては妥善でないから︑日本・と再議せよとの趣意である︒しかし既に宍戸公使は清国の不信を憤って本国に引揚げており︑琉球案件は敢えなく挫折の形となってしまった︒
清国はその後︑朝鮮問題︑或は安南問題と重大な外交案件に忙
殺された︒李鴻十一手も明治十五年に至って︑前︐誌を一切取消しての
交渉を竹添領事に申出たが︑その解法は尚家復封のむし返しであ
り︑日本としては応じ得ないものであった︒李が明治十八年四月
二十日︑駐清公使榎本武揚と諮った際にも﹁該案ハ市一八戸公使負担
セシトキ結局セハ都合好カHシニ今日トナリテハ予モ別ユ策ナ
シ﹂
岳﹀
と匙
を投
げ'
た体
であ
る︒
註︿
1)
日本
外交
文書
第二
一一
巻一
一一
一一
項
ハ2﹀驚藤良衛﹁近世東洋外交史序説﹂一二三頁
(3
X4
)
日本
外交
文書
第一
三巻
一一
一一
一項
(5
﹀王芸生﹁六十年来中国与日本﹂第一審一四一一一頁
( 6 )
援文
袋公
金集
奏議
鼻持
ニニ
ノ一
一一
一実
(7
﹀皆
同季
外交
史料
品川
絞靭
巻一
一一
一一
ノ一
五葉
(8
﹀日本外交文書第一三谷一二六項
六七
ハ9 )
世外弁上公伝第三巻四二
O
一 貝
(叩
) 李文 忠公 会一 番奏 稿山 在三 九ノ 二葉
(日)世外弁上公伝
第三 '径 四
一一 一 一
li 三頁
(ロ)李文忠公金書奏稿三九ノ二
( 日
﹀ グ グ
一一
一九 ノ三
(弘)李文忠公外部函稿第
一 三
巻一七素
(お﹀︿日﹀李文忠公金書奏積三九ノ二
( 口
﹀ グ ゲ 三
九ノ 三
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)東恩納究惇﹁山川泰侯実録﹂四
一 一 一 一 一 頁
(叩
) 李文忠公外部函特例一四ノニ
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幻﹀
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﹀李文忠公金書奏稿三九ノ三
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訳要函稿
八ノ
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グ グ 一 一 一 九 ノ 五
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清季外交史料光結朝二三ノニ
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グ ゲ 一 一 一 一
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一九 一
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ゲ二四/三
(詑﹀
張文 褒公 金集 奏議 三ノ 一一 一一
ハお﹀日本外交文書第一
一 ニ 各
一 三 三項
(ぬ﹀清季外交史料光絡剖・二
五ノ
八
(お
) 日
本外交文書第
一四
谷一
一二
項附記︑外務省縞琉球問慰
結 一 吉 田
琉球事件は一応解決案に対する両国代表の意見一致に迄到達し
六八
た︒とれはグラジトの斡旋に負う所が大きい︒しかしグラγ
トの
調停はその具体案よりも︑暗礁に乗上げていた日清両国を会商に
導いた所に︑むしろその真価を認むべきであろう︒グラyトの居中調停案が双方に
一不
され
て
交渉が進められたのではなかっ
た︒
グ
ラソトは清国滞在中には︑清国の意向は窺ったとしても具体実に
は触れていない︒二島分割案はグラソト滞日中の発論とされるが︑
とれ
が日本政府の案として清国に提示された︒グラγトには清国の名分論なるものが理解出来なかった為︑との解決案自体に不成立の種因を匹胎させたとするならば︑延いてその責の一半は日本政府も負わねばならない事になる︒尤も日本政府としてはグラシ
トの意向は尊重せざるを得なかった点も考えられる︒
二島分割案は成立の可能性を全く有していなかったとは
一支
えな
い︒現に総理街門は一応此の案で成議したし︑分島交渉は李鴻章が後までも固執した所である︒更に琉球王国復活の成否が協約成立の岐れ目となった観があるといっても︑露清交渉の帰趨如何に
よっては‑計り難いものがあった︒名分論だけで清国の態度を割切
ってしまえない事は︑日本の阻貢を琉球が清国に訴えた際に︑李鴻章の示した態度会見ても首肯できよう︒
一山 路清 交渉 の成 行き は
常に琉球問題に関する清国の対日態度を左右せしめている︒交渉の挫折を導いた要因としては︑やはり解決策自体の内部的要素よりも︑露清関係
ω
方を意視せねばなるまい︒( 拍 也 記 )
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T乙 oL~Sヰ も と た 、 の れ 。 李 な と そ 交 の 多 の 忠 で 少 後 公
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所 あ も 史 論る用料 を が い は 補 、 ら 三 足 本 れ1甫 し 稿 花 博 た は 搭 士 形 グ 回 ・
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一回
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三・
五 ム ー
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( 天
津で
竹添・卒予備的会談︑三分論出る)(日本側全権委員に宍戸公使任命)(北京会商開始)
卒鴻章函藷球笑緩結
ハ北京会商結了︑十日以内の調印を約す)総署葵琉球南島名属華実嵐日不定議無以善後右庶子陳宝探葵琉案日約不宣遮訂醇親玉突諜葵俄事既可堅持日事無廊遷就左庶子張之洞奏琉球界
︑宜
審緩
急
上諭
恕一
J鴻章係原議条約之人︑日本情事素所深怒︑・将此事応否照総理街門原奏緋理︑・:迅速具奏卒鴻章葵日本議結琉球案牽渉改約暫宜緩允上諭若交南北洋大臣等妥議具奏ハ総帥砕葉銃桐︑田辺書記官に上諭の件来報)両江総替劉坤一葵球案宜速結日約宜慎重図"紅新江巡撫讃鍾隣奏球案宜速結対日須戦守均有実力両広総電技樹声等奏球案不必缶思議日約未使牽速 李鴻章函俄約己定兼論球笑
(宍
一戸
公使
総理
街
門を訪問︑告別対話)(
宍一
円公
使北
京退
去)
(曽紀沢︑露都ペテルプルグで条約調回﹀軍機大臣左宗裳葵緋理琉球案説帖上諭商務一体均箔・::尚非必不可行:・王大臣再与日本使臣悉心妥商
ノ、
;IL
法 政 史 学 第 七 号
正誤表
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