企画院創設に関する考察
著者 河原 円
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 47
ページ 75‑94
発行年 1995‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011207
企画院は昭和十二年から同十八年まで戦時経済の企画と推進にあたった、内閣直属の総合国策立案機関である。ここでは各省の経済関係部局から革新官僚・軍人を集め、戦
企画院創設に関する考察(河原) 一はじめに二企画院創設前史1資源局2内閣調査局三行政機構改革論四内閣調査局の改組五企画院の創設六おわりに 目次
はじめに
企画院創設に関する考察
(1)時法〈戸の作成にあたった。企画院創設は内閣の脆弱性に端を発した行政機構改革論の結果であり、そこに至るまでには資源局、内閣調査局、企画庁と、試行錯誤が行われてきた。そして国策統合機関設置構想は、時局の進展に促されて完成度の高い機構として実現されていく。ここでは国策統合機関設置問題を軸に、企画院創設に至る政治的力学を見ていくことによって、国家総動員機関の性格を考察すフCO
1資源局第一次世界大戦後の世界的な軍縮世論に従って、日本でも宇垣一成陸相主導のもとで軍縮が行われたが、各国が軍 二企画院創設前史
河原円
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備および総動員施策の充実に努めていることが明かにされるにつれ、国内でも再び総動員機関設置の議論が盛んに(2)なってくる。大正十五年七月に内閣に設けられた国家総動員機関設置準備委員会では、「国家総動員ノ事務ハ其ノ及ブ所頗ル広汎多岐」であるから「各庁ノ事務卜密接ナル関係」があり、従ってその事務は「関係各庁の協力二俟シ一一非ザレバ到底所期ノ目的ヲ達成」することができないと結(3)論づけた。そして「両者ノ中間二介在シーナ資料調整シ|ナ事務ノ連絡統一一一当夕」り、「各庁ノイズレニモ属セシメナイ」「自ラ執行機関タルコトアルニスギ」ない機関の設置を上申したのである。その結果、昭和二年五月に国家総動員機関設置準備委員会の約一年に及ぶ検討を経て、資源局(4)(5)が設置された(図l)。資源局は長官以下二十一名で構成され、賞勲局総裁の宇佐美勝夫を長官として法制局の松井春生を中心に、有力官庁から集められ、陸海軍からは松井春生が「資源局設置日(6)的に添うような人材」を求めた結果、原漬海軍中佐や横山勇陸軍少佐(整備局課員)がまわってきた。資源局では基本的に陸軍からは整備局系の人材が入ってきているが、これは大正十五年に国家総動員・軍需品整備に適応する機関(7)として陸軍内に新設されたものである。資源局の設置には 法政史学第四十七号
整備局長・松木少将や動員課長・永田鉄山中佐が尽力したこと、また松井春生総務課長の強い要望から察して、思想的には穏やかな人物がまわされてきたといえる。一方海軍からは軍務局系が入ってきているが、そこの第二課は陸軍の整備局に相当する。松井総務課長は海軍からの出向者を(8)全般的に「地味な事務家」と感じたが、それは海軍の性格をも表しているといえる。さらに「参与」や「仰せ付けられ事務官」などを創設し、陸海軍に限らず各省局・部長、書記官等から幅広く人材を集めるなど、当時としてはかな(9)りリベーフルな人事を行った。 長官
図1
総務課人事、文書及会計に関する事項
庁
資源の統制運用に関する制度施設の研究及必要なる法令の準備立案に関する事項他の主管に属せさる事項調査課H餓鮒、鰯露緋酬吋朏鵠事項 施設課H熊燗鯆瀧川簾繩騏鶴資する平時
施設に関する事項企画課H熊鰕糊鯛畿雌舳洲鯛川Ⅶ洲剛鱸
する事項七六
資源局は以前の軍需局や国勢院と比較されるが、「軍需充足」が強く打ち立てられていた軍需局・国勢院より大幅(Ⅲ)に範囲が広がったことがわかる。軍需充足のための国家総動員法を制定施行することを前提として調査研究し、その(u)一部として軍需充足を考一えるようになったからこそ、資源局は民需充足(国力充足)を図ることを表に掲げ、局首脳部には文官をあてて文官主導型の体制を敷いたのである。資源局官制にみられる「資源の統制運用計画の設定及施行のための調査と施設事務の統轄」は、軍部の間でも必ずしも軍需を示していたわけではない。それは軍部内における国家総動員の発想および軍需工業動員法案が、もともとは満蒙その他に十分な物資を充実させるための調査から生じ(皿)た国力滋養論に端を発していることを思えば、少なくとも資源局が設置されたこの頃は、後の企画院時代と異なり、戦時体制へ移行したいがための施策ではなかったと思われるのである。また、資源局の性格を考える上で、昭和四年一月の陸軍(旧)内部の通牒・回覧を史料としてみることができる。一月十一日、資源調査法案に関して阿部信行同省次官は、南次郎参謀次長に、軍部は同案に関し必要あるときは第一条を発動できるという条件付きで同意する回答をした。これに対
企画院創設に関する考察(河原) し南参謀次長は、二十八日に、同案の内容には異存ないが、「国家総動員準備二緊密ナル関係ヲ有スル此種事項一一関シテハ予メ協議相成度」と通牒、それをうけて陸軍省動員課では「本法案ハ資源調査一一関シ人民卜政府トノ権利義務ヲ規定シタル純然夕ル行政事項」であると、付菱を付けて省内に回覧した。ここでは陸軍中央自らが、この資源調査法案は純然たる行政事項であって、軍需施策を前面に押し出したものではないと明言しているのであり、またこの時点では陸軍内部においても、部内調整が終わっていなかったことが窺えるのである。根本的に官僚と軍部側ではその思想に決定的な違いがあった。「総力戦的観点から総動員施策がなくては国防は(M)成り立たぬ」という考えは一致していたものの、官僚側としては「時の流れに拘らず本当に円満な資源を発展・育成していく立場で政党政派にも軍部・警察関係にも捉らわれ(旧)ないもので一つ進めていきたい」という一息向であった。|方軍部側は「総動員機関設置準備をリードしたものは陸(川)軍」だという自負があり、国家総動員機関を内閣に設置することによって「強力なリード」をしようとすると考えたのである。このようにして出発した資源局は、文官主導である以
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上、官僚側の本旨、すなわち平時における円満な国力の充物的資源の統制運用準備といいますか、そういうふうなヵ(旧)実が主目的とされていたが、「軍部の意向をまったく無視モフーフージュされたんじゃないか」という文官の見解からするわけにはいかない」ということで「統制運用準備」ともわかるように、資源局は、配される人物によっていくら(Ⅳ)いう一一一三葉が編み出された。これは本来の平時業務のほかにでも変化しうる、非常に暖昧な意味合いの機関であったと非常時に備えるための事務をも扱うことを意味した。したいえよう。がって「国家総動員という名前を消して、あるいは人的、昭和四年、それまでの課制に代わり部制が導入された
長官 図
2 法政史学第四十七号
総務部
企画部
Ⅲ
(旧)(図2)。同時に松井春生が総務部長兼企画庶務課H川獺謝放撹削峨馴眈燗肘靴孵項
部長として昇格し、海軍の原清中佐が企画部長第一課長、陸軍の横山勇少佐が企画部第二調査課H鯛鯆鰯露緋騨肌栂鯛事項
(別)課長に任ぜられた。これはトーップが文官であるとはいえ、武官が国家総動員準備としての施設課H鯛鰍鱸醐服洲舳川朏蕊成に資する平時施設「資源の統制運用」を推進することが容易に
に関する事項なったことを示しており、設置当時より軍部資料課l各種資料の蒐集、整理、保管に関する事項制度課l資源統制運用に関する制度施設の研究及必要なるの影響力が増したといえる。それは昭和六年
法令の準備立案に関する事項の満州事変、翌年の上海事変に促された「応(皿)第一課【’’’一鱗蝋蠅醐鱗淵綱熟灘蝿鵬柵醐碩耐墹誘琲轤順湘酬纐耐鷆川潤
「真二実施シ得ベキ計画トシテハ尚遺憾ノ点画に関する事項勘ナカラズ将来大成スベキ理想二比較スレパ第一一課Hlll稽剛削鯏哨鰯洲騨椰栂猟事項
僅カニ其ノ最初ノ段階二到達シタルニ過ギ(皿)ズ」1として、翌月に松井春生を兼任の企画部 七八(函)長からはず-し、かわって篠塚義雄陸軍少将を任じたことにもあわられている。そしてこれ以後資源局内部では、しだいに武官による軍事理論主体の機関に傾倒していこうとする動きが活発化していくのである。2内閣調査局昭和十年五月に「諸政の根本的更新を企画し、基本国策を設定する』使命を持った内閣審議会と、その事務総局(別)を兼ねた内閣調査局」が設置され、資源局総務部長の松井春生は、首席調査官として内閣調査局に移った。調査局は、以前から唱えられていた内閣総理大臣の権限強化問題に付随して新たに唱えられた、総理大臣直属の補佐機関設置として審議会と共に設立されたものである。(閲)審議会は「複雑微妙な当時の政局の所産」であれソ、国策統合機関という点では調査局のほうが重要性を帯びている。審議会は岡田啓介首相のリードのもとに設置され(沁)たが、調査局は当時内閣書記官長であった士口田茂の意向が(”)強/、働いていた。士ロ田内閣書記官長は当時の内相後藤文夫や馬場銭一貴族院議員(勧銀総裁)とも親しく、永田鉄山少将とも交流があった革新派官僚である。吉田茂が内閣書記官長という大任に就いていながら調査局の創設を熱望した理由を、松井春生は以下のように察し
企画院創設に関する考察(河原) ている。「このときほど一般情勢が内閣の大番頭に厄介なときはなかったと思う。(略)せっかく進んできた政党内閣制確立の勢いがほとんど断たれてしまった時でありますが、それでも政党関係とは折衝しなければならないわけで、ちゃんと審議会には政党のりっぱな代表が出ている。といって軍の意向は最もくまなければならない情勢であり、そして実際には吉田さんの理想もあるし、また若い者の時局に処する要望をくんで、中正ないわゆるほんとうの革新ということが生み出されなければならぬわけですし、(羽)それは実に大変なものだったと思うのです」。そのような時にできた調査局の人事について、調査局に入った陸軍の鈴木貞一大佐は「革新官僚というものもだんだん連絡を相互に取りまして、そしてそれの頭みたいに動く人が内閣書記官長の吉田さん」であり、したがって「主として書記官長とおそらく軍務局長の間で人選が進められ」たのだろう(油)と述べている。集まった局員たちが「最も親しい方々」や「考えられたとおり」の人々、馬場や吉田の推薦する人物(卯)であったことは当然であった。(則)また調査局には、内閣調査局官制第五条や文官特別任用令(昭和十年五月)により民間人が調査官や委員に任用さ(犯)れた。なかには奥山貞二郎(中外商業新報記者)などのよ
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うな左翼前歴者もいて、後の企画院事件で検挙された人々の名を見ることができる。このように様々な思想傾向の人々が集まった調査局の雰囲気について、当時常勤専門委員であった正木千冬は以下のように述べている。「局全体トシテ|貫シタモノガナイ卜云ヒナガラ(略)資本主義的自由主義ノ弊害ヲ認メ、強度ノ統制経済主義二傾キ、之ヲ実現スル為メノ政治機構トシテ各省ヲ整理併合シテ行政ヲ簡素化スルト共一一内閣中枢部ノ指導力企画カヲ強化シ強力政治ヲ行ハウトスルモノノ如クデアリマシタ」。また、「統制主義ノ中一一モ色々ニュアンス」があり、マルクス主義経済やナチス理論を研究したのは「統制経済ノ理論ヤー歩進メテ計画経済ヲ研究スル必要」からであったにすぎないと(羽)述べている。このような人事のもと、調査局の特徴である全体会議制の採用は、身分の上下を問わず、どんどん発言していくことで運営が活発になるとして、「思想傾向に相当のへだたりもあるわけだが、革新の情熱に甲乙はない。(略)あるいは我々が書記官長や法制局長官等からいろいろな示唆を受けて機密に事をやっていたようなことではとてもだめだ。大いに火花を散らしてやっているうちに初めてほんと(弧)うの革新案というものが生まれるのだと思う。」という考 法政史学第四十七号
えにより、松井春生主席調査官が主催した。これは資源局時代の経験から提案されたものであろう。資源局において、総務課(文官)と企画課(武官)の対立は熾烈を極め、陸軍の「資源局Ⅱ総動員機関」化構想を阻む要因ともなっていた。したがって胸襟を開いて論議するという方式は、局内の方針を一本化する効果もあったと思われる。事実その効果について、局員であった和田博雄は以下のように述べている。「意見は確かに違いましたよ。それでもあと何も残らぬですからね。その点が非常によかった。また軍にたいしてもその点は非常によかったと思いますよ。わ(弱)れわれはみんな遠慮せずに一一一一口いましたからね」。このような「革新」的人々によって、調査局は「『挙国内閣』の中(鍋)枢政策立案・審議装置」として発展していくのである。調査局は馬場蔵相との連携のもと、広田弘毅内閣の政綱を手掛け、また「電力統制策」や「貿易振興策」を作成するなど、意欲的に活動を行った。前者は逓信省と、後者は商工省と連携しての活動であり、調査局はまさに「各省総(羽)掛かりの機関」であったとい一える。ここで特筆すべきは、調査局設置当初からの各界人の認識の違いである。言論界と岡田啓介に代表される一部政界(兜)が審議会を「本尊」として主体を置いていたのに対し、陸 八○
軍や吉田茂調査局長官を筆頭とする調査局の革新官僚たち(羽)は、こちらこそが「実質上の内閣」であるとして調査局のほうに主体を置いていた。このような意識の差異は、官制を立案する段階ですでに表れていた。審議会・調査局両官制の立案に携わった横溝光暉調査官(内閣書記官兼法制局参事官)は「内閣調査局ハ内閣審議会ノ下部組織二非ズシテ、内閣総理大臣ノ管理二属スル補助機関」であるとし、また調査局の役割について「内閣審議会ノ庶務ヲ掌ルノミナラズ、之卜並ンデ、重要政策二関スル調査及特二内閣総理大臣ヨリ命ゼラレタル重要政策案ノ審議ヲ行フヲ以テ重(Ⅲ)要ナ職責卜為ス」と述べている。ここでは、当初か一b調査局が実質的な国策立案機関であったことを明言しているのであり、つまり調査局は巷でいわれていたほど、審議会との連携は強くはなかったのである。調査局は総理大臣の直属として重要国策の立案審議にあたるという、政府全体の規模で調査研究する唯一の機関であった。それ故に軍部の期待も大きかったが、調査局は軍事・外交に関する権限を持たず、また内政の総合立案といっても各省庁に対する指揮命令権は持っていなかった。広田内閣成立後、「陸軍自ら国政全般に関する直接の発言を避け、これを活用するこ(い)とによって目的を達しようと一一一ごふ、斬新的合法的改革」を
企画院創設に関する考察(河原) 行政機構改革論はかねがね宿題とされてきたが、陸軍が二・二六事件を機に、政府に対し「革新」の推進力的立場をとり始めたことで、改革の方向は定まったといえる。その意味で昭和十一年三月に成立した広田内閣は、組閣人事の段階からして非常に興味深い。当初広田は吉田茂(外交官)を外相に迎え、その上で組閣人事を行っていたが、陸相内定の寺内寿一大将が陸軍首(枢)脳部の見解として不満を表明した。しかしその裏には馬場蔵相とのつながりがあったに違いない。陸軍は馬場の革新財政に期待したのである。そのため広田内閣は組閣人事に難航し、結局吉田茂(外交官)、小原直、下村宏の三人を(蛆)閣僚名簿から外すことで軍部との折り〈□いがつけられた。この三人はそれまでの高橋財政を支えた、いわゆる「既成(Ⅲ)エリート」であり、代わりに頼母木桂士□(逓信大臣)、有田八郎(外務大臣)、小川郷太郎(商工大臣)といった「革新派」を配したあたりに、陸軍と馬場の連携を見るこ 狙った陸軍のリードによって、行政機構改革論を軸に調査局改組の動きが活発化したのはこうした理由からであった。
三行政機構改革論
八
一
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とができる。そして馬場蔵相は「革新政策を敢行する為には大蔵省事務当局の陣容を刷新整備せざるべからず」と考え、次官以下各局長の更迭など、大胆な省内人事を行っ(帽)た。こうして大蔵省内の「革新」陣営が形成され、以後調査局や軍部と連携しながら革新的「馬場財政」を断行していくのである。広田内閣は組閣直後の三月十七日、庶政を一新して難局に当たる決意と政綱を発表し、八月七日に四相会議にて外交方針を、五相会議では国策の基準を決定したが、それ以前の三月十一日、広田内閣の政綱政策を議した臨時閣議において、広田内閣の政綱をすべて馬場蔵相にまかせ、内閣および調査局、法制局とが連携して政綱の作成・整備を行(相)うことが決められた。これにより新参の調査局は法制局と同等の立場になったのである。六月二日、十二年度予算編成方針が定められ、その中で予算の優先分配順位決定は五相会議にまかせられた。まず重要国策を決定してから予算を配分するというこの方法により、調査局は吉田長官と馬場蔵相のつながりによって、かなりの発言権を得た。馬場財政は軍事費主導型で陸軍の支持を受けており、その下で「内閣の両番頭」と称された内閣書記長官と法制局長官、そして「影の内閣」と言われ 法政史学第四十七号
昭和十一年九月五日、陸軍は「政治行政機構改善刷新要(相)綱」を纏め、「国策の策定及び之が運用の総合的統一化」をはかり「官制の対立不統一」を是正するために「内閣の中央統制機能を強化」することを目的として、調査局・資源局・情報委員会等を拡大強化した「総務院」の新設を提案した。海軍はこの「総務院」案は急進的として警戒的であったが、九月二十一日に広田内閣に提出された陸海軍共 た調査局が共に政策立案を合法的に行うことになったのである。この段階ですでに、軍部の望む総動員のための、内閣における国策総合機関としては、かなりの完成度であったといえよう。「老人内閣のようなものではとても問題にならない、どうしても若手が実質を握ってやらなければな(灯)らぬ」という雰囲気の中で、馬場蔵相I士□田調査局長官という指導ラインが生じたことは必然的に調査局の役割の比重を大きくなさしめた。しかし調査局改組を中心とした行政機構改革論が盛んになるにつれ、国策の名で各省から提出された諸項目と軍部が構想していた「国策大綱」との間にズレがみいだせるようになり、それに従い文官と武官の認識の差が大きくなっていくのである。
四内閣調査局の改組
八一 一
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(ぬ)同の改革要綱案『一打政機構改革辻〈同意見書』では、「調査局その他の機関を改廃し新たに各機能を増大、拡大、強化した国策樹立遂行の総合的統制機関」の設置を求めている。この時点では拡大強化の対象機関名は明確にされていなかったが、「各省間に重複、競合せる行政機構、所轄事務及び研究機関」の整理統合が挙げられていたことから、(卯)各省局に波紋を投げかけた。特に資源局は、篠塚少將の後任の星埜守一企画部長(海軍少将)が中心となって調査局(別)の拡大強化による資源局併〈ロには反対した。彼は独自のビジョンを持って資源局の「国家総動員機関」化を積極的に押し進めようとした人物であり、資源局が調査局と併合されることによって、吉田「松井という文官主導体勢に組み込まれることを警戒したのである。この時期において国策統合機関設置の必要性は誰のも認めていたが、問題は具体的な内容であった。たとえば十二(犯)月二十一日に政友会政務調査委員会の改革案が東京新聞に発表されたが、このうちの「国策調査機関の設置」において「内閣調査局は現行制度を改組し一名以内の人材を簡抜し、内閣のブレーントラストを構成し、その下に調査官を置く」と決められた。それに関して四相および法制局の次田大三郎長官は「|、内閣調査局を拡大強化した企画局に
企画院創設に関する考察(河原) 資源局、統計局、情報局を加えて『総務庁』を新設するが、予算局、人事局、法制局をこれに属せしめることはしない。」「三、総務庁の長官に無任所大臣の資格を認める必要はなく、従前どおり書記官長、法制局長官と同様の地位(兜)を付与すれば足りる」とした。それに対し軍部および内閣調査局の吉田長官は。、企画局、予算局、人事局、情報局の創設合併を中心に法制局等を加えて『総務院』を設置する。」「三、新設機関の長官は無任所大臣の資格で閣員に列する権限を有してはじめてその意義をもつ」と不満を述(別)べた。また、それより少し一別に軍部や調査局および法制局(開)で調査研究された改革案では、調査局の「局長官に副総理格の人物を起用」することにより、調査局を各省の上位に付けて実質上の国策統合機関たらしめようと位置付けている。このように調査局の拡大強化問題は行政機構改革の焦点となっていたが、当の調査局内ではどう動いていたのであろうか。昭和十二年一月、調査官の正木千冬、勝問田清一、奥山貞二郎、井口東輔らによる常勤専門委員懇談会では、調査局を「内閣総理大臣が行政各部の統一を保持する補助機関」から「強力なる国策統合機関」へと拡大強化す(卵)ることが決められている。これは、官僚機構としてありが
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(印)ちな、事務化による「ん工名的政治機構」となるのを避け、総合的国策立案のための基本調査の実施を容易にする機構を創ろうとしたものであった。すなわち陸軍の、即時適用可能な国家総動員機関としての改組とは一線を画すのである。このような状況下で、陸軍大将宇垣一成内閣の流産を機に、海軍では陸軍内部のイデオロギーに対する反感が強まっていき、それが行政機構改革案にも影響するのである。昭和十二年一月二十一日、星埜守一企画部長は「資源局(卵)改組二関スル意見ノ件」を、組織室未を添えて検討案として軍務局に提出した。そこで星埜企画部長は資源局を「努メテ政治的圏内一一吸入セラルルコトヲ避クル」ことを強調した上で局長武官制を提唱するなど、陸海軍両案の中間を提(卵)案している。そしてそれを》つけて作成された陸軍案では、資源局を総動員局と改称して星埜企画部長案を採用すること、これを陸海軍案として決定し、局長は陸海軍適宜の時期に交代するが、当初は陸海軍武官が任に当たる、総動員保護法は法制局においてただちに陸海軍共同で提出準備に着手すること、等が提案されている。つまり陸軍は星埜案を採用することで、海軍案と妥協しようとしたのである。さらにその編成において商工省との連携が求められ、「長 官ノ人選二付テハ商工大臣ハ予メ陸海軍大臣二協議スルモノトス」「松井長官ハ資源局関係ハ勿論内閣関係方面へ轤出セサル如クス」など、人選にはかなり慎重になっている。しかし海軍省は陸軍の上記案に対して「総動員局卜特一一改称ノ必要ヲ認メズ」とし、また総務部の部長は文官に(㈹)する旨を述べた。その理由として、資源局の仕事は陸海軍が中心であるとはいえ、実行に移すのは各官庁なので、文官の局長のほうが連絡がスムーズであること、武官局長ではただちに戦時統制を始めるといった誤解を生じる恐れがあること、武官は文官より異動が頻繁であり、文官の方が適任であることなどを挙げている。そしてこれを参考にし(肌)て作成されたものが資源局組織案である。ここでは資源局は総務庁内に包括せず、内容を整備充実し、局長は陸海軍大臣の協議によって決定するとあり、資源局の現状維持(総務庁への統合拒否)という海軍側の主張がはっきり表れている。以上の経緯から資源局改組問題は脱落し、調査局拡充問題のみに焦点が絞られるのである。同年二月に成立した林銑十郎内閣では、結城豊太郎蔵相l池田成彬日銀総裁という「既成エリート」ラインが成立した。これは馬場の強引な「革新」が宮・財界から反発を招いた結果であり、結城蔵相の就任には反「馬場財政」の 八四
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二月四日の国策研究会理事会において「調査局を拡大強化して真の国策参謀本部とし、此れに軍部と政党人も加えて充分に議論せしめて徐々に意見が近づけば結局事は無くなるべき」として「そうする様林内閣を動かすこと」を決(皿)議した。二月二十四日には林首相が前内閣の「総務庁」案(田)の継承を表明したのに続いて、一二月十一日には内閣において具体的な管制案の検討に入った。そして五月十四日に公(M)布されたのが企画庁官制であった。調査局同様に全体会議制および副調査官制の採用はあたかも調査局時代を思わせるが、官制によりその権限は大幅に拡大され-段と閣議への影響力を強化したのである。企画庁が資源局との合併までのわずか五カ月間に行った(開)ことは『生産力拡充五カ年計画」の骨子作りであり、これは戦時を考慮にいれた「統制」のための計画であった。当初は「戦争に関係なく、経済力をつけるための統制」であったが、支那事変によって「戦時統制がかぶさってき 意向が強く影響していた。この大蔵省主流派の復活は、それ以後の行政改革問題にも革新勢力の衰退という形で影響してくるが、表面上は馬場の革新財政を少々修正したにとどまった。それほどまでに国政において軍部の影響力は強どまった。それほどま一くなっていたのである。
企画院創設に関する芳察(河原) 昭和十二年六月に成立した近衛内閣において、吉野信次商相が推す賀屋興宣蔵相と、杉山元陸相が推す馬場内相が企画庁総裁の座を巡って対立し、結局副総理格の広田外相(的)が兼任することになった。これは事実上の総裁欠員を意味し、企画庁はその内外から「企画庁の改革」を求められ(わ)たが、陸軍はこれを契機に「企画庁を拡大強化して新に総(、)務庁を設置す」べく要求した。すなわち陸軍は国策統合機関Ⅱ国家総動員機関と捉えており、その観点から、企画庁ではまだ役不足と考えたのである。|方主流にたった「既成エリート」グループは、各省庁の上位機関たる事実上の国策統合機関を考えていた。しかし、当時企画庁は大蔵省および商工省の勢力圏内にあって庁内の革新勢力の勢いは弱まったとはいえ、革新勢力の筆頭と目されていた馬場鎮一はなお蔵相として健在であり、松井春生も既成勢力から独立的であった資源局の長官として頑張っていた。そうし (船)た」‐と当時企画庁次長であった井野碩哉は述べているが、企画庁が調査局と異なり「戦争によって権力の主流の座に(、)ついた軍部」によって発展した以上、「調査局時代より総(閉)動員体制に近/、なった」ことは当然であった。
五企画院の創設
八五
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た状況下において支那事変が勃発し、それを契機に企画庁と資源局の合併問題が浮上するのである。総動員機関の設立について、この時点での陸海軍は共に積極的であった。その主張の差異にしても、文官の主張との差に比すれば小さなものであった。陸軍はコハ以テ戦時二傭ヘーハ以テ平時国策ノ推進及之二伴う革新興隆ノ原(泥)動ターフシム」「平戦時ヲ通スル機関」と述べているのに対し、海軍は臨時調査課案と軍務局第二課案との間で細部に差異があるものの、「有事総動員庁タラシムル前提ノ下二(ね)其ノ組織」すべしとしている。しかし海軍臨時調査課長の阿部嘉輔大佐が陸軍案について「重要ナル地位二武官ヲ置(別)キテ大イニヤルベシトノ主義ハ|応異存ナキ」と述べているように、陸軍案は海軍側の認識から全くはずれているというわけではなかった。しかし総動員機関化の対象になっている資源局の改組問題については、海軍は細部にわたって敏感になっている。海軍において資源局問題が大きくなったのは何故であろうか。海軍は資源局を「陸海軍ノ国防軍事的要求ヲ調査立案ス(両)ルノ機関」と捉壹えていた。陸軍も同様に認識してはいた(刊)が、「必戦必勝ノ対策ヲ確立」するためには資源調査と国策立案をリンクさせた統合機関Ⅱ総動員機関化を考えてい 法政史学第四十七号
た。それは資源局の政治機構化を意味するが、ここで問題となったのは陸軍内部の急進的イデオロギーであった。ましてや資源局の企画部長は海軍の星埜守一少将であったから、局内における海軍の優位は想像に難くない。陸軍の(万)「政治的進出ヲ助長スル」ことを警戒した海軍にとって、資源局の政治機構化は容認できるものではなかった。そうした陸軍との膠着状態は、九月二十二日の「総動員(耐)二関スル官制ノ件・軍務一課長」と「資源局及企画庁ノ所(ね)掌事務二関スルー忌見」により破られた。海軍は資源局・企画庁の合併反対論から、企画庁解散による資源局拡大論へと転じたのである。しかしその問題における高田利種海軍中佐の意見をみると、現行内閣制度のもとでは陸軍が求める機能は発揮できないのだから、「機能発揮二重キヲ置ズ(帥)単二理論的二両庁ヲ〈口併スルトセバ夫モー案ナーフン」と、合併に対しては形だけの機関となることを客観的に分析している。海軍は、たとえ併合しても陸軍の求める機能は発揮できないと予想した上で併合論に傾いたのであり、この問題に関して海軍の姿勢を定めているのは、あくまでも陸軍の動向なのである。そして九月二十七日、米内光政海相(別)は正式に両庁の併ムロに賛成の一息を表した。(皿)五月に更迭されていた星埜少将はこの日、阿部海軍大佐 八六
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(閉)に「資源局及企画庁,ノ機構二関スル意見」を提出している。そこでは「企画庁創立当時小官ハ資源局ヲ之二統合スルコトニ反対」であったが、「今ヤ時局益々進展シ事変卜云フテモ実ハ戦争同様ノ事態」であり、「平和的予算並一一事業一一最モ関係深キ機務ヲ掌握スル企画庁ノ仕事閑散トナリタルノ感ヲ生ジ|方資源局ハ今コソ最モョク利用」され、以上から鑑みて「企画庁ハ余カヲ総動員ノ企画考察二用上資源局ハ主カヲ当面ノ総動員一一集中シ両者連絡シテ餘穂ナカラシムルヲ賢明ナリト信ズ」と主張している。これは海軍側の、資源局を主軸とした合併という姿勢と共通するものであると同時に、陸軍側とは反対の姿勢であった。すなわち陸軍においては、政治的色彩の強い企画庁に実務機関たる資源局を合併させ、同時にその合併機関を首相直属にすることにより、陸軍にとって都合の良い行政機構をつくりあげようとしたのである。企画庁創設までは官僚側との折り合いが問題であったが、合併問題ではむしろ海軍の反対が壁となって陸軍側の望むような国家総動員機関創設にはこぎつけなかった。しかし九月二十八日、米内海相の賛意表明に従い、資源(別)局・企画庁の併〈ロが閣議決定された。新機関は当初、陸軍がかねがね設置を主張してきた統合機関の名称の「総務
企画院創設に関する考察(河原) (妬)庁」と命名されたが、海軍が「政治的ニモ気分転換二有利(師)ナリ」‐こして「総動員庁」とするよう要求した。名称はその後も変転したが、これは陸海軍の新機関における主導権争いの一つの表れであった。つまり主軸を資源局と企画庁のどちらに置くかという問題である。陸軍は企画庁を主軸として首相に直結する総動員政策の総合統制機関として併合し、陸軍の力を背景として各省に対するコントロールを強化しようとした。それに対し海軍は、一月五日作成した(師)文書の中で「憲法及現行内閣官制ヲ其ノ侭トシーナ本勅令案ヲ承認スルコトハ不可能ナリ」と、その反対理由もいくつか述べた上で「海軍ガ従来ノ内閣統制カノ強化ヲ主張セシ趣意ハ首相一一有力ナル『ブレーン・トラスト』ヲ従属セシメ其ノ調査立案ノ質的優秀性卜各省一一対スル説得ノ熱意トヲ以テ現行官制並一一憲法ノ精神ヲ活用セシムトスルニ外ナラズシテ生硬独断的ナル思想ヲ官制ソノ他ノ権力背景ヲ以テ強行セントスルーー非ザルナリ」と、「万事ヲ陸軍イデオロギー化センガ為強制引セントスル思想」を強く批判している。以上のような軍部内の激しい駆け引きを経て、昭和十二(朗)年一月一一十一二日に企画院官制が公布された。それにより企画院の各省に対する優越性は否定されることとなり、また
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企画庁の全体会議制ではなく資源局の部課制が取り入れられたことから、海軍側の主張がかなり通った官制案であると見ることができる。企画庁と資源局の合併問題は陸軍と海軍の対立でもあった。陸軍の目的は軍人による国政の運用、すなわち国家総動員の中枢機関の設立にあったが、海軍は陸軍内部のイデオロギーに危険を感じ、陸軍の設定する独裁色の濃い総務庁案を最後まで拒否するのである。「(陸軍の)政治的進出ヲ助長スル如キ案ニハ反対シテ謬ナシ、コレヲ是正スルハ(w)海軍アルノミ」と海軍側も自負しているように、陸軍を牽制できるのは同じく軍事力を持つ海軍のみであった。海軍も、上海事変を機に積極的姿勢に傾いていくのであるが、宇垣内閣が陸軍の反対により流産した時、貴族院議員の大(例)蔵公望が嘆いた如く、当時の政党や官僚には、軍部を抑壹える力はもはやなかった。
以上見てきたように、国策統合機関設置問題は国家総動員機関設置問題に置き換えられてきた。そして企画院設置以後は完全なる軍部統制下におかれてしまう。そもそも資源局の設置自体、陸軍はドイツの陸軍省戦備 六おわりに 法政史学第四十七号
局に模範を採っていた。「日本では直接に軍がやるわけにはいかないから、内閣の局にしようと考えた。ただ、内閣の文官諸公は民需を守るのに急であるから、軍としてみれ(別)ばリモート・コントロールの必要がある」。もともとそのような思惑がある上に、陸軍内部でも複数の派閥が対立しており、このような混沌とした状態を纏めていったのは度重なる事変であった。いわば戦間期の国策統合機関設置問題とは内政の混乱を統一に導く一つの要因であったといえる。しかし資源局にしる調査局にしろ、設置当初は平時の機関であり、軍部の発言権もあまりなかった。問題はそこにあったのである。文官主導の平和官庁が様相を変えていったのは、調査局が企画庁になった頃からである。その陰には二・二六事件以後の陸軍の粛軍およびそれと表裏一体の国政への「革新」的関与がある。革新派官僚との提携、内閣の内局への武官参画は陸軍が積極的に進めていったことであり、企画庁がたった五カ月で企画院となった時、軍政一致という宿願が達成されたのである。そして国政が完全な戦時体制におかれて以降は軍が先導して戦争を行っていく。結局のところ、当時陸海軍を動かした世代は日露戦争当時の日本の勝利をもって日本の国運を推し量っていたのであり、軍部
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主要年表高崎正男『軍需動員・国家総動員について』より作成 八九企画院創設に関する考察(河原) 図3
年度 法令 管掌機関
内閣部局 陸軍省 海軍省 '917
1918 1919 1920 1921 1922 1923 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940
〃の〃ロリさ{一二ノ。 51m軍需調査令
614軍需工業動員法
的八次ヒエブ 事変適用 別国家総動員法I3
0軍需工業動員法I2、資源調査令
1
14資源調査法 4保護法23軍用資源秘密
内閣 5.31計統
統計 局 内閣 統計
4.22 局
国家総動員機関 設置準備委員会
5.27 源資 局
10.25 企画 院
9.30 総力研 戦究所
5.11 内閣調査局
畑兵器局工政課
帥整備局統制課・動員課●9 課課備備局戦整整備局跳同u軍務局
●●71 艦政局第六課l釦軍務局第三課9 軍務局第二課 第二課四課第一課同局第l兵備局
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上層と若手将校との意見の相違は戦争観という背景に基づいていたのである。国家総動員体制はそのような状況にあって皮肉なことに纏まらない勢力を纏める役割を果たしたといえる。資源局から企画院までの流れを見てくると、軍部や官僚・政治家の望んだ国家総動員機関像が見えてくる。後者のそれは決して戦時総動員機関ではなかった。時局の進展に伴い、調査局が拡大強化されたことは仕方がないとしても、企画庁から企画院への改組は明らかに軍部独善による総動員機関化である。昭和十二年以降の施策が軍事理論一色であったことは疑いのないことであり、このように内閣の割拠性から生じた矛盾は、最終的に軍部内における陸軍の優越性を決定していくのである。 法政史学第四十七号 参考文献・参考資料御厨貴「国策統合機関設置問題の史的展開」『昭和期の軍部』山川出版社、’九七九年山口利昭「国家総動員研究序説」『国家学会雑誌』九二l|~’二、’九七九年鳥海靖『日本近代史講義』東京大学出版会、’九八八年赤木須留喜『翼賛・翼壮・翼政』岩波書店、’九七○年今井清一「総動員体制と軍部」『ファシズム期の国家と社会 ・六運動と抵抗・上』東京大学社会科学研究所編、’九八二年井出嘉憲「日本官僚制と行政文化」『ファシズム期の国家と社会・六運動と抵抗・上』(同右)纐纈厚『総力戦体制研究』三一書一房、’九八一年宮地正人「企画院事件」『日本政治裁判史録・昭和・後」第一法規、’九七○年中村隆英・原朗「経済新体制」『近衛新体制」の研究」岩波書店、’九七二年古川隆久『昭和戦中期の総合国策機関』吉川弘文館、’九八二年「資源局から企画院へ(松井春生氏を囲むご「商工行政史談会速記録第一分冊』「日本行政の回顧(その四)」「行政と経営』昭和三七’三号石川準吉編『国家総動員史』上巻、資料編一、資料編三、資料編九、清水書院、’九七五年防衛庁防衛研修所戦史室編『陸軍軍需動員(ご計画編』朝雲新聞社、一九六七年防衛庁防衛研修所戦史室編『大本営陸軍部(ご昭和十五年五月まで』朝雲新聞社、’九六七年石川準吉編「総合国策と教育改革案11内閣審議会・内閣調査局記録』清水書院、’九六二年粟屋憲太郎・小田部雄次編『資料日本現代史』九巻、大月書店、一九八四年 九○
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企画院創設に関する考察(河原) 「昭和社会経済史料集成海軍省史料』第一一巻、第三巻、第四巻、御茶ノ水書一房、’九八○年朝日時局讃本『現代政治の動向』朝日新聞社、一九三七年山浦貫一『非常時局と人物』信正社、’九三七年松井春生『経済参謀本部論』日本評論社、’九三四年吉田茂伝記刊行会編「吉田茂』「内閣調査局時代」一九六九年吉富重夫『行政機構改革論』日本評論社、’九四一年岡田啓介述『岡田啓介回顧録』毎日新聞社、’九五○年『内閣制度百年史下』大蔵省印刷局、’九八五年秦郁彦『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』東京大学出版会、’九八一年上法快男監修・外山操編『陸海軍將官人事総覧』陸軍編、海軍編、芙蓉書房、一九八一年日本近代史料研究会編『日本陸海軍の制度・組織・人事』東京大学出版会、’九七一年安藤良雄『近代日本経済史要覧』東京大学出版会、’九七五年青木信光『馬場鎖|伝』凸版印刷株式会社、一九四五年読売新聞社編・刊『昭和史の天皇』第十六巻、第十七巻、一九八一年内政史研究会・日本近代史料研究会「大蔵公望日記』第二巻、’九七四年内政史研究会『内田源兵衛氏談話速記録』’九七○年内政氏研究会『横溝光暉氏談話第三回速記録』一九七一一一年
註 (企画庁)設置の件」昭和一二年 国立公文書館蔵『内閣官一房総務課資料目録』「国策統合機関 政審議会第五号」 国立公文書館蔵「昭和六年行政制度整理要綱』「臨時行政財 国立公文書館蔵「枢密院審査報告』昭和一○年、同一二年 室蔵、’九六五年 高崎正男『軍需動員、国家総動員について』防衛庁戦史史料 年、帝国議会二十四 防衛庁防衛研究所図書館蔵『公文備考』大正一五年・昭和元 第二冊 類、大正一五年第六類、昭和二年第四類、昭和三年第四類 防衛庁防衛研究所図書館蔵『大日記甲輯』大正一五年第四 第一冊 防衛庁防衛研究所図書館蔵『密大日記』大正一五年六冊ノ内 木戸日記研究会『鈴木貞一氏談話速記録上』’九七○年
(1)鳥海靖『日本近代史講義』’’六九’二七一一一頁(2)『陸軍軍需動員(|)』一一三一頁「国家総動員準備に就て」松木直亮整備局長調査(3)石川準吉『国家総動員史」資料一一一、一一一一八頁「第二国家総動員機関設置準備委員会」の「国家総動員準備機関組織案要綱」(4)(2)に同じ、一三八頁、資源局官制によれば「資源局
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法政史学第四十七号 は内閣総理大臣の管理に属し左の褐ぐる事項を掌る。|、人的物的資源の統制運用計画に関する事項の統括の事務二、前号の計画の設定及遂行に必要なる調査及施設に関する事項の統括の事務三、前一一号の統括の為に必要なる事項の執行の事務(中略)前項の事務官は内閣総理大臣の奏請に依り陸軍佐尉官同相当又は海軍佐尉官の中より内閣に於て之に補す。第一項の職員の外内閣総理大臣の奏請に依り関係各庁高等官の中より内閣に於て事務官を命ずることを得」とされていた。(5)(3)に同じ、’八頁「附ノ三(其ノ|)」(図一)(6)『商工行政史談速記録』三七頁(7)(2)に同じ、二四頁、陸軍省整備局の設置(8)『行政と経営』七頁、松井春生談(9)(3)に同じ、宇佐美勝夫(長官)の他、法制局から松井春生(総務課長兼企画課長)、商工省から植村甲午郎(調査課長)、農林省から宮島信夫(施設課長)が任ぜられた。(皿)(2)に同じ、二五一頁「軍需局(国勢院)と資源局の相違点」(、)(6)に同じ、三四頁(胆)読売新聞社「昭和史の天皇』’六巻、’四二頁「奇抜な対馬海峡トンネル」小磯国昭回顧(旧)(2)に同じ、一一六二頁(u)(2)に同じ、二四一頁、安井陸軍中佐談 (旧)(6)に同じ、三八頁(旧)(2)に同じ、二四一頁、安井藤治陸軍中佐談(Ⅳ)(6)に同じ、三八、頁松井春生談(旧)(8)に同じ、一○頁三段目、内田源兵衞談(旧)(3)に同じ、’八頁「附ノー一一(其ノー)」「図二」(別)(8)に同じ、一五○頁「資源局主要人事異動」。他に小林采男が総務部庶務課長に任ぜられ、翌年には原清に代わって小西千比古が企画部第一課長に任ぜられた。(Ⅲ)(2)に同じ、四三一頁(皿)石川準吉『国家総動員史』資料編第九、七六頁、昭和七年度(羽)(3)に同じ、’五○頁「資源局主要人事異動」(別)(8)に同じ、’五頁、三段目、松井談(妬)(別)に同じ、’五頁(邪)読売新聞社『昭和史の天皇』一七巻、一○頁「初代長官に吉田茂」岡田啓介回顧(Ⅳ)(肥)に同じ、’六頁「フロム・ビロウ・アップ」松井談(肥)(閉)に同じ、’六頁「〃」(別)『鈴木貞一氏談話速記録・上』第七回二三○頁松井談(釦)吉田茂伝記刊行会編『吉田茂』一一○三頁、松井談(則)『内閣制度百年史」下巻、四八頁「内閣調査局官制」内閣調査局制によれば「内閣調査局は内閣総理大臣の管理に属し左の事務を掌る一、重要政策に関する調査二、特に内閣総理大臣より命ぜられたる重要政策案の審査
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企画院創設に関する考察(河原) 三、内閣審議会の庶務内閣調査局は関係各庁に対し調査又は審査に付必要なる資料の提出又は説明を求むることを得」「参与は内閣総理大臣の奏請に依り関係各庁勅任官又は学識経験ある者の中より内閣に於て之を命す」「常任委員は内閣書記官長及法制局長官を以て之に充つ」とされた。(皿)(肥)に同じ、二八五頁「民間人の履歴書」(別)宮地正人「企画院事件」三七五頁(別)(釦)に同じ、二○六頁、松井談(開)(3)に同じ、二○七頁、和田博雄談(稲)(3)に同じ、八九頁(師)(釦)に同じ、二一○頁、横溝光暉談(胡)岡田啓介述『岡田啓介回顧録』’二八頁「内閣に審議会と調査局」(羽)(釦)に同じ、二○二頁、松井談(如)石川準吉『総合国策と教育改革案』一三六頁、下談「内閣調査局官制要義」(虹)井出嘉憲「日本官僚制と行政文化」’○九頁(岨)(別)に同じ、二六四頁「激変する国内政局」ここでは寺内陸相の辞退理由を五つ挙げている。|、牧野伸顕の女婿である吉田茂(外交官)を外相に起用しようとしている。二、自由主義の急先鋒である朝日新聞の下村宏を入閣させようとしている。一一一、川崎卓吉のごとき党人を内相に据えんとすること。 四、小原直のごとき国体明徴の観念に懐疑のあるものを法相に留任させようとしている。五、中島知久平のごとき軍需産業に関係あるものを入閣させようとしている。(妬)「国策統合機関設置問題の史的展開」’三○頁下段(“)同右、’三○頁(妬)青木信光『馬場鋏|伝』二一二頁(岨)同右、二○二頁(幻)(釦)に同じ、二二六頁、松井談(岨)(蛆)に同じ、一四四頁上段(Ⅲ)(妬)に同じ、二六二頁(別)(岨)に同じ、’四四頁下段(別)(岨)に同じ、一四七頁(皿)(皿)に同じ、’○八頁(閃)(皿)に同じ、二○頁(M)(Ⅲ)に同じ、’一○頁(閲)(妬)に同じ、三八○頁、常勤専門委員懇談会(冊)(妬)に同じ、二六二頁(印)(蛆)に同じ、一三一頁、下段(冊)『昭和社会経済史料集成』第一一一巻、三九頁「○一一一四九」(羽)(冊)に同じ、五八頁「○三五四」「総動員局ノ編制二関スル件」(帥)(肥)に同じ、一○一頁「○一一’六三」
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法政史学第四十七号
(d)(詔)に同じ、一○一頁「○一一一六三」(田)内政史研究会・日本近代史料研究会『大蔵公望日記』第二巻、二七八頁(岡)(蛆)に同じ、’五三頁、上段(M)(3)に同じ、一三頁、企画庁官制によれば「企画庁は内閣総理大臣の管理に属し左の事項を掌る「内閣総理大臣の命に依り重要政策及其の統合調整に関し案を起草し理由を具えて上申すること二、各省大臣より閣議に提出する重要政策を審査し意見を具えて内閣に上申すること三、重要政策及其の統合調整に関し調査すること四、重要政策に関する予算の統制に関し意見を具えて内閣に上申すること前項の事務を行うに必要あるときは企画庁は関係各庁に対し資料の提出又は説明を求むることを得」「企画庁に特別の事項を調査せしむる為委員を於くことを得」とされた。(閃)(邪)に同じ、二八一頁「心細い”生産計画“」小金義照談(冊)(妬)に同じ、二七七頁「『大政翼賛会』構想も」井野碩哉談(研)(別)に同じ、三一一六頁「調査局をほぼ踏襲」和田耕作談(閉)(妬)に同じ、二八一頁「心細い”生産計画“」(的)(3)に同じ、’二○|頁「企画庁職員録」(、)『昭和社会経済史料集成」第四巻、一○四頁「○五○ 一一」(、)(皿)に同じ、’九頁「『三原則』を一一一分放送」吉野信次談(犯)(閉)に同じ、一一一三九頁「○四一九」(耐)(卵)に同じ、一○○頁「○三六一一」(刊)(肥)に同じ、’一一一頁「○三六八」(門)(知)に同じ、六四頁「○四八八」(畑)(肥)に同じ、三一一一九頁「○四一九」(Ⅳ)(わ)に同じ、’三七頁「○五○九」(耐)(、)に同じ、’三八頁「○五一一」(門)(Ⅶ)に同じ、’四○頁「○五一三」(別)(Ⅷ)に同じ、’四八頁「○五一六」(別)(、)に同じ、’四八頁「○五一六」(肥)(3)に同じ、一五一頁「資源局主要人物異動表」(冊)(、)に同じ、一四九頁「○五一七」(M)(2)に同じ、六三一頁上段(冊)(旧)に同じ、一五九頁(冊)(刊)に同じ、’五二頁「○五二○」(Ⅳ)(Ⅶ)に同じ、’一一七頁「○五三五」(冊)(机)に同じ、四九頁(的)(、)に同じ、一三七頁「○五○九」(卯)(肥)に同じ、二七○頁下段(別)(皿)に同じ、一八四頁「〃六か月“の動員計画」岡田菊三郎談 九四
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