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*横浜における弘報委員会の変容過程

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(1)

* 横 浜 に おけ る 弘 報 委 員 会 の 変 容 過 程

‑‑再編から統廃合へ‑ 青

原 直 樹

(2)
(3)

横浜における弘報委員会の変容過程 (吉原直樹)

はじめに

周知のように'一九五一年一

月三日'地方自治庁は法務府を通じ内閣に対し「町内会'部落会またはその連合会

等に関する解散'就職禁止その他の行為の制限に関する昭和二十二年政令第十五号は廃止すべきである」という意見(1)書を提出した。それはサンフランシスコ講和発効に伴い'ポツダム政令が自動的に失効する日(翌五二年一

月二五日)

の一年以上も前のことであった。町内会'隣組等の禁止解除を事実上‑ち出したこの自治庁意見書は、しかし予想し

ていた以上に大きな反響を呼び起した。地方自治庁じたいが'三日後の同月六日に「これは禁止を解‑というだけの

話であって'戦時中のような町内会や部落会の復活を意味するものでな‑'またその結成を奨励するものでもない」(2)という意向を明らかにせざるを得ないほどであった。総じて世論の動向は町内会の復活に警戒的であり'ジャー(3)ズムは町内会・隣組反対論で沸き立った。反対論の基調は概ね戦前・戦中の「強圧」を倶れ'ボス支配の再来を懸念

するというものであった。

だが政府の措置は'一方で現実の動向をl定程度踏まえた上でのものであった。すなわち'町内会の復活があちこ

ちで見られ'(政令第1五号)失封以前にその動きが公然化するであろうことは避けられないとみていたのである。こ

の予測は見事に的中したといっていい。因に、東京都北区では一九五二年七月時点で総世帯数七万五千のうち約四万(4)三千が町内会に加入するまでになった。むろんこの場合'行政はただ座視していたのではない。多‑の自治体で'さ

すがに直接的なテコ入れは行わなかったものの'政令失効後の上からの整備に向けて一定の準備がなされていたので

ある。詳述は措き'この期間'多‑はインフォーマルなサゼスションという形で何らかの対策が講じられていた。行

313

(4)

政にとって'肥大化する一方の行政機能を処理するためにも町内会の復活が求められていたのである。

さて'本稿でみる横浜市の場合も例外ではない。横浜市では'町内会禁止後'いわゆる空自期間をカバーする形で

種々の協力団体が半ば上から'そして半ば自治的組織に似せてつ‑られた。これらの団体は地域的に偏りをみせなが

ら'ある場合には他団体と競合しっつ'それ自体で包括的な機能を担ったが'たいていの場合'諸団体間で相互浸透

しながら往時の町内会機能を代替した。他方'こうした動きを対向に据え部分的に交錯しながら、フォーマル・レベ

ルで弘報委員会が全市域にわたって結成された。旧連合町内会区域を布置単位とする弘報委員会は'当然のことなが

らその機能領域を先の協力団体と分かちあった。だからときとして'両者は鋭い緊張関係に立った。しかし大部分のヽヽヽヽヽ地域では'両者のいずれかがヘゲモニーを握って町内会なきあとの地域統合機能を担ったのである(因に、本稿でとり

あげる富岡地区の場合'弘報委員会が地域統合の中核に位置している)0

ところで、弘報委員会は結成後二㌧三年経ってから、すなわちサンフランシスコ講和が政治的日程に上る時期と符

節を合わせるかのようにして、そのあり様が取沙汰されるようになる。一つは'その活動が停滞期に入ったことから'

そしていま一つは'講和以降の日本経済の復興1自立化の課題と‑ンクしつつ'マクロ・レベルから下降してきた地

方制度の整備というとからんで、その再編が強‑要請されるようになったのである。折しも'この時期は全

国的に町内会の復活(そして再編)の動きが政治的に争点化する時期である。そしてマスコ、、、に轡導された論壇が挙っ

てこの間題をとりあげたことは'先に述べた通りである。

そこで本稿では'以上の点を念頭に置き'横浜市における弘報委員会の再編過程を検討することにしよう。まず最

初は'全国的動向と交差するその一般的局面をさぐるために'禁止期間における地域住民組織の動向からはじまって

「講和」以降における町内会の再編過程を一瞥することにする。そして次に'その一般的局面とリンクしながら特殊

横浜的展開をとげる弘報委員会の再編過程を、まず市レベルでおさえ'その後に富岡地区の事例でフォローアップす

(5)

横浜における弘報委員会の変容過程 (吉原直樹)

ることにする。そこでのわれわれの着眼点は、一に県1市1区1弘報委員会という順序で作用する上からの行政効率

化の論理をえぐり出すことにあるが'同時にそうした論理の浸透がそれに対抗的な社会力を実際にはぐ‑んでいるの

かどうかを検証することにも置かれている。再編期の弘報委員会の性格規定は'おそら‑はこの両者の弁証法的な交

錯過程を‑1タルに捉えるところからきり拓かれよう.もっとも本稿では'そのための1つの予備的考察を行うもの

であり'より直接的には先に発表した拙(5)稿との連続的地平において弘報委員会の

いわばライフヒス‑リーを描述するもの

である。

*

弘報委員会の「弘」と「広」の使い

分けについては'かなり早い段階より

問題になっていた。たとえば'﹃横浜

弘報﹄第六号二九五

年四月)では、

年四月三日の弘報委員長会議で「﹃弘﹄と﹃虜﹄の問題について」議

論がなされたことが記されている。詳

述は措き実際には'広報委員会という

言葉が1般に広‑用いられていたよ

うだ。しかしここでは'﹃横浜弘報﹄

﹃弘報よこはま﹄の記述にしたがって、

弘報委員会の表記に統一した(ただし'

町内会復活 に反対す る新聞論調 表 1

見 出 し

掲 載 月

隣組 は封建 の遠別 隣組 な どの復活

"強圧 "が一番心配

町会隣組復活 に警告 入 る,入 らぬ も自由 隣組復活の危険性 隣組悪用はお断 り 隣組の効用 ヒソヒソ話 し 隣組の復活 に反対す 隣組復活 を排す 町内会 の復活 に反対す る

「隣組」 と 「聖慮」

隣組復活 に一言 隣組復活 に主婦たちが反対 選挙 と町内会復活の傾向 隣組復活 も大 っぴ ら?

隣保組織 をどう作 るか 押 しつけ規則 の隣組 外紙,隣組 に警告

"昔風の隣組は真 っ平"

隣組復活の是非 1951年107日

1012日 1018日 1020日 1025日 1028日 1029日 1952年52日 54日 55日 57日 515日 520日 530日 719日 923日 928日 106日 1022日 1024日

朝 日 新 聞

読 売 新 聞 時 事 新 報 産業経済新聞 朝 日 新 聞 時 事 新 報 日本経済新聞 産業経済新聞 読 売 新 聞 東 京 新 聞 産業経済新聞 朝 日 新 聞 読 売 新 聞 朝 日 新 聞 東 京 新 聞 朝 日 新 聞 社会 タイムス 日本経済新聞 朝 日 新 聞

315

(6)

直接引用の場合はその限りでない)0

(1)地方自治庁は禁止解除の方針をきめた理由として'次の点を指摘した(﹃朝日新聞﹄一九五一年一〇月四日)0

「一'現在は地方自治が確立しているので戦時中のような国の末端行政機関にはなり得ない。

一'町内会'部落会などはわが国の伝統的な自治団体で、翼賛会のような上部機構がなくなった現在'民主化を阻むものと

はならない。

一、町内会の類似団体まで一律に禁止しているのは行過ぎである。

一'町村などでは部落の活用によって自治の運営が円滑に行われる。」

(2)﹃朝日新聞﹄1九五1年10月七日。

(3)この時期'各紙は町内会の復活の動きをきわめで批判的にとらえた。またそうした読者の声をすすんで掲載した。因に'

その見出しだけとりあげでも、表1のように多数に及ぶ。(4)﹃読売新聞﹄一九五二年七月一九日。(5)拙稿「占領期横浜における町内会の一動向‑弘報委員会の創設過轟を中心として

I

L神奈川大学人文学会﹃人文研

究﹄一〇三、一九八九年。

[「講和」前後における町内会の動向

1

禁止期間における地域住民組織

いわゆる敗戦直後の混乱期に'町内会・部落会等が翼賛体制下に見られたような権力的統制の面を著しく希釈化さ

せ'生活の防衛的側面での活動‑生活必需品の斡旋'食糧増産'防火・防犯、衛生活動等Iに特化したことは広

‑知られているところである。むろん横浜の場合も例外ではな‑'敗戦がもたらした生活そのものの窮乏‑衰退に加

(7)

横浜における弘報委員会の変容過程 (吉原直樹)

えて占領軍の接収、駐屯に伴う諸々の地域間題の噴出によって、町内会が「街灯町内会」の様相を呈するようになっ

たことは'いみじ‑も以下に指摘されている通りである。

「横浜市には'終戦直後から昭和二二年五月に'政令一五号が公布されるまでの問に町内会が一

七団体結成さ

れていた。政令の公布により'これらの団体は形の上では'一時その機能を停止されたのであるが'横浜市は'

その都心の大部分が戦災のために焼野原となり'その上大規模な米軍の進駐と'長期にわたる土地'建物、港湾

施設等の接収をうけたので'数年間は横浜の都心は﹃外人部隊の町﹄と化し'住民の精神的な虚脱状態につけ入

って犯罪が続出し'住民は暗黒の町で'恐怖と混乱におののいていたのである。

そこで住民は'自衛手段の第一歩として'まず町を明る‑して犯罪を防止するため'これらの団体が﹃明るい

会﹄の名称のもとに街灯を建設し﹃明るい町づ‑り﹄の事業に努力をかたむけたのである。

これが横浜市における‑‑町内会の終戦直後における姿であって'戦災接収都市としての横浜市の自治会'町(1)内会が﹃街灯町内会﹄と言われたゆえんもここにあるわけである。」

これ以降'町内会を核とする遅配解消を求める運動が'またそれを一つの契機として食糧対策協議会の発足'町内コ‑ユニテイ会運営懇談会の開催が主に一九四六年四月から六月にかけてみられ'地域住民の間でいやがおうにも地域共同体への

関心が昂まることになった。しかし'指摘されるよ‑な活動はそれまで維持してきた町内会体制のあり様を根底から

っき崩すというよりも'むしろその枠内で住民の不満とか要求を処理する'すなわち非政治化すると同時に行政の補

(2

)足的役割を果たすものとしてあった'といわれてい

。そしてそうした意味では'こうした活動の背後に地域有力者

層が見え隠れしていたことは注目されよ‑。もっとも'こうした地域社会レベルで要求処理機能を果たした町内会等

もフォーマルには政令第一五号によって廃止され'区の下に旧来の町内会連合会の区域を単位にして設けられた地区

事務所によって'その機能の一部が代替されることになった。この地区事務所を単位にして後に弘報委員会が設置さ

317

(8)

れ'それがサンフランシスコ講和以降の連合町内会再編の布石を成したことは先に述べた通りである(詳細は後述)。注

目すべきは'上からの町内会等の廃止1弘報委員会の設置にもかかわらず'何らかの形で町内会の機能を担保する諸(3)々の地域住民組織が存続したことである。因に'横浜市が一九五三年一

月に行った「地域自治団体」調査によれば'

四七年六月

四八年五月'同年六月

四九年五月において'それぞれ四五'五五団体が結成されており(﹃弘報よこは

ま﹄第六六号'五四年六月、及び横浜市総務局﹃地域自治団体実態調査報告書﹄一九五四年)'上述の事態の1端が読み取れ

る。むろんこうした団体は'地域によって一定の布置構成の偏りをみせていたが(たとえば、鶴見区では防犯防火協力会、(4)金沢区では日赤奉仕団'西区、磯子区では混在型というように)'実際には市全域にわたってきわめて多様な組織形態をと*ってあらわれたのである。が'いずれにせよ、如上の「自治団体」=地域住民組織が'いわゆる〝禁止期間におい

てインフォーマルもし‑はセ、、、フォーマル・レベルで'時として弘報委員会を対向に置きながら'しかし大抵の場合ヽヽヽヽそれらと相互浸透しながら旧来の町内会機能を(部分的にせよ)下支えしていたことは確かである。そしてそうであれ

ばこそ、「講和」以降の'以下に見るような町内会の「蘇生」‑再編が可能となったのである。

*

前掲の「地域自治団体」調査によれば'これら組織名称の種別は'全市を通じて九四種類に及び'自治会'協力会という代

表的なものから陸会'互助会'交友会、共栄会などがあり、名称のないものも五団体あった'とされている。問題は'その組

織形態の如何にかかわらず'それぞれの団体が行政協力団体としての内実をなにほどか担いながら多かれ少なかれ包括的機能

を果たしていることである。因に、「自治団体」が遂行する活動は'防犯・防火、各種募金'土木'保健衛生'社会教育'福

利厚生'祭礼その他町内行事に及んでいる。

2

「講和」以降における町内会の再編過程

既述したように、横浜では〟禁止期間においても'様々の「自治団体」の結成によって実質としての町内会は切ヽヽヽヽヽヽヽヽれ目な‑存続したわけであるが'新たな文脈における町内会結成のテンポがはやまるのは'一九五一年

五四年にお

(9)

横浜における弘報委員会の変容過程 (吉原直樹)

いてである。こころみに'横浜市総務局が六一年三月に発表した報告書によって「町内会・自治会の設立年月」をみ

ると'四七年五月以前一

七、五

年二一月三一六、五五年二一月七九二'五七年六月九

四'五九年三月一

一四'(5)六

年七月一

四1'となっており'上述の期間はまざれもな‑結成のピーク時であることがわかる。しかし'それ

は単なる量的な画期を示しているのではない。この期間は周知のように'サンフランシスコ講和条約締結(至年九

月)1同条約発効(五二年四月)1政令第一五号失効(同年一

月)'さらにそれに先立つ追放解除(五一年五月)によって全

国的に町内会の再編がすすんだ時期であるが、横浜の場合'加えて指摘される「再編期」の内実が行政機構の縮減1

地区事務所の廃止を一糸とする市政合理化の一環を鋭意に担っていたことが注目される。

五一年に「工業立市」の政策を掲げて登場した平沼市政は'工業生産力の増強と港湾の整備・拡充を二本柱とする

横浜経済の復興を至上課題としたが'その実現のために'一連の市政執行体制にかかわる合理化施策'すなわち新規

採用抑制'行政機構改革地区事務所の廃止(五二年)'職員定数条例の制定(五三年)'職階制給与の導入(五四年)等をペイオフ強行した。そしてその一方で'如上の市政合理化から派生する末端行政のブランクを埋め'生活環境整備の貴を担う

べ‑主体として町内会の存置形態に注目し'その再編成に着手したのである。むろんそうであればこそ'みられるよイツシユ1ぅな市政合理化'とりわけ'その要諦を成す機構改革1人員合理化ついては開始前から鋭い政治的争点を構成する

ことになったのである。

たとえば'五二年の横浜市会第三回定例会で市民局廃止の問題に関してなされた次のような質問の基底には'あきらかに予想

される生活環境整備の放棄にたいする危機感が伏在していたといえよう。

「聞‑ところによりまするというと'この度の機構改革につきまして'市民のサービス機関であるところの地区事務所を廃

止するといううわさを聞いております。この市民サービス機関であるところの地区事務所を廃止しますと'市がこれに対す(6)る財源がどれほど浮いて来るのか'̲I)れをお伺いしたいのであります。」

319

(10)

因に'この質問に対して'市当局(助役)は以下のように答えている。

「地区事務所の廃止につきましては、先般来皆様におかれましても種々御研究をしていただきましたし'また市民の中から

もいろいろな陳情が市長の手元に参っておるのでございますが'これはかりにこの地区事務所を廃止いたしましても'末端

における市民のサービスというものを非常な不便を来さないような適当な措置をとって参りたい、そうして市民に御迷惑を

かけることがないように努力いたしたいと思っておりますし'従ってこれによっていくらの経費が節約できるかということ

は、詳細に検討いたしますれば必ずしもはじき出せないことはないと思いますけれども'むしろそういうことよりは単に金(7)額をもって表わしがたき行政簡素化の利益というものが大きいということを御了承願いたいと存じます。」

詳述は措き'ここでは市政合理化の内実がきわめて抽象的に語られているにすぎないが'却ってそのことが'前提となる基本

枠組み(前出)の「規定力」を浮彫りにしているといえよう。因に'実施された市政合理化の性希については'五三年三月五日付﹃神奈川新聞﹄の以下の記事が参考になろう。

「さきに定数条例によって人員の節減をはかったので'こんどはその代りに事務能率をあげて欠点を補おうと横浜市では管

下全行政体の事務改善を策し'まず各区役所に手を染めたところ'大きな効果をあげたので'これに力を得て①各部局にモ

デル課を設け'現有事務の分せきを行いその結果及び簡略化の方法を市長に報告する。④各局長'次長'庶務課長、同係長(不明)などに対し二十一日東京都総務局能率課長池口武氏から能率向上の講話を聞かせるのを手始めに能率講習会を随時実施する。

③区役所に対しては引続き事務内容の検討を行うなどの諸対策を決定'近‑実施に移すことになった。当局の目算だと'こ

の調子で事務の整理'能率化を実施すれば相当量の人員が節約でき'これを他の積極的な政策面に振り向けられることにな

っている。」

いうまでもな‑横浜市としては'こうした市政合理化によってもたらされた地域生活次元での矛盾の集積について

は最小限に留める必要があったし'何よりもそうした矛盾の政治的争点化を避けねばならなかった。結果的に切り捨

てられた末端行政が下方転嫁され'その受皿としての町内会にテコ入れがなされた所以である。もっとも'市当局に

(11)

横浜 における弘報委 員会 の変容過程 (吉原直樹)

表 2 連合町内会 の結成状況 (年次別)

呂 警 1 1

2

E 3封 11… L l 1喜… 三 L l.ll

注)増加率は前年 を100とした指数.

出所)今井清一 「横浜市町内会 の歴史的特質」横浜市総務局調査室 『住民組織 と自治意識に 関す る実態調査』 1965

,2 9

ページ,表

1 ‑

10に加筆,修正.

よ る 町 内 会 の 整 備 育 成 策 は 当 初 の 裡 は ' そ し て 少 な く と

も フ ォ ー マ ル ・ レ ベ ル で は き わ め て 慎 重 で あ っ た と い え

よ う 。 こ こ ろ み に ' 五 二 年 一 一 月 二 六 日 の 「 郷 土 を よ ‑

す る 研 究 会 」 の 席 上 で ' 二 俣 川 弘 報 委 員 会 代 表 が 行 っ た

発 言 ' す な わ ち 「 現 在 町 内 会 が な ‑ な っ て る が ' 弘 報 活

動 を や る に は 組 織 的 な も の を も つ こ と が 必 要 だ と 思 う 。

今 後 の 指 導 方 針 に つ い て 伺 い た い 」 と い う 質 問 に 対 し て '

市 総 務 局 長 は 「 十 月 二 十 四 日 ポ ツ ダ ム 政 令 の 禁 止 政 令 が

効 力 を 失 ‑ た の で 町 内 会 を 作 っ て 惑 い と い う 制 限 が な く

な っ た ' 市 と し て は こ の 間 題 に つ い て 目 下 研 究 に 着 手 し

て い る 。 現 在 の 自 治 会 ' 振 興 会 の 実 態 を 調 査 し て い る の

で 役 所 側 と し て は た だ 今 指 導 方 法 に つ い て 適 確 な 答 弁 が (8 ) 出 来 な い 」 と 答 え て い る 。 ま た ' 五 五 年 六 月 二 二 日 の 本

大 岡 弘 報 委 員 会 で ' 同 じ く 市 総 務 局 長 は 「住 民 組 織 は 全

市 的 に な っ て き た の で ' こ れ に 対 す る 市 の 方 針 と し て は '

あ ‑ ま で 住 民 の 自 主 性 ' 自 律 的 運 営 に 任 せ て そ の 実 態 を

活 か し つ つ 住 民 か ら の 要 求 が あ れ ば こ れ が 育 成 発 展 に 対

し て 協 力 も 指 導 も す る と い う 態 度 で 臨 ん で い る 」 と い う (9 ) 趣 旨 の 説 明 を 行 っ て

いる。

い う ま で も な ‑ 両 者 の 間 に は '

321

(12)

現実の町内会結成の進捗状況に規定されて'その‑1ンに微妙な違いが見られるが'総じていえば'両者に共通して

ある種の「行政的配慮」が看取されるのである。

こ‑した「行政的配慮」がまった‑後景に退き'町内会へのテコ入れが公然化するのは、五六年の﹃広報よこはま﹄(10)の町内会を介しての全世帯配布、「地域社会における新しい市民組織について」の発表を経て'五九年の半井市政に

入ってからであると考えられる(因に'半井市長は'六一年五月一〇日付﹃市庁内報﹄第一四号で「町内会'自治会の組織は市

政を行なう基盤である」と明言している)。おりしも'横浜復興が軌道にのり'日本経済の「高度成長」期への突入とと

もに「工業立市」政策が本格化する時期を迎え、連合町内会の再編に一つの画期が訪れる。因に'連合町内会の結成

数は、六二年八月までのところで一

〇 〇

カ所が確認されているが'そのうち五六年三月から六

年八月までの間に七

六を数えるに至っている(表2参照)。そしてこの段階で'戦後住民の登場を対向に据えた'地域社会に対するイニシ

アティグが'市・区政と連合町内会=地域有力者との相互依存関係の裡に確立されるのである。と同時に'みてきたnnような町内会の再編に底礎する如上の相互依存体制の確立に至るまでの過程には'弘報委員会の再編過程が大き‑与

していたのである。そこで次節では'さしあたり如上の再編過程を垣間みることにしよう。

322

(1)塩野毅「住民組織と広報活動」﹃広報研究﹄一九六二年七月号'二四

五ページ。なお'塩野は続けて次のように述べて

いる。「横浜市の自治会'町内会の事業のうちでも'防犯灯の建設並びに推持管理の事業が大きな比率を占めているのは'終

戦当時に横浜市がおかれた特殊事情によるものであると思う」(同'二五ページ)0(2)たとえば'区長'警察署長'政党代表、町内会長'連合会長等を構成メンバーとする食糧対策協議会の性椿について'山

田操は「食糧問題解決に向って下からの住民運動が発展拡大してゆ‑のを回避するため'もりあがってきた町内会組織を官民

を含めた協議機関の構成メンバーに包みこんでゆくことになった」と指摘している(山田﹃現代日本の地域社会﹄世界書院'

一九六七年'九三ページ)0

(13)

横浜における弘報委員会の変容過程 (吉原直樹)

(3)この場合の「地域自治団体」とは'「一般的な市政に協力している団体であって'①町または丁目を単位とする一定の地

域をもち'④その区域内の住民により自主的に結成され'運営されている」団体のことである。ところで'こうした調査によ

る地域住民組織の実態把握そのものが'市当局による町内会再編の「具体的な第一歩」をしるしたことを銘記すべきであろう。

これ以降'横浜市では'他市に例をみないほどにポジティブに地域住民組織調査を行っている。

(4)今井清一「横浜市町内会の歴史的特質」横浜市総務局調査室﹃住民組織と自治意識に関する実態調査﹄一九六五年'二〇‑1一ページ。因に'防犯防火協力会鶴見連合会(四八年三月発足)の初代の会長であった横山健一(現横浜市会議員)は'防犯

防火協力会発足の経緯及び組織の実態について次のように述べている。「僕は昭和二〇年二月二五日に復員してきたのです

が'町内会は親父がやっていました。それがマッカサーが来て町内会解散というふうになってきたんですよ。だけれども'

町内会が解散された後'地域にまとまりがな‑ては困るということでこれは何かつ‑らねばならない'ということになったん

です。幸い堅剛'僕は親父の手伝いでいろいろやっていたし。で、警察とか消防と相談して'治安維持のために防犯防火協力

会の名称で鶴見ではじめて地域をまとめる組織をつ‑ったんです」「防犯防火だけでなくいろんな事をやりましたよ。本当

に町内会と同じようなものですね。食糧の配給があればそれを配給したり‑‑それがやっぱりあるんで弘報委員会をつくった

んですね。物資をアメリカからもらっても配り方がないでしょう。で'町会は解散されちゃった、そこで弘報委員会なんかを

っ‑ったんでしょうが'われわれの方は自主的に防犯防火協力会というものをつ‑ったんですよ」(拙稿「弘報委員に関するヒ

ヤリング・ノー‑」﹃神奈川大学人文学研究所報﹄第二一号'一九八九年)0(5)横浜市総務局﹃自治会・町内会実態調査報告書﹄一九六一年'五ページ。なお'山田の集計によれば'四七年五月以前一

七'五

年二万二九四、五五年一二月七七九'五七年六月九

四'五九年三月一

一四'となっている(山田'前掲書'

一〇二ページ)0

(6)﹃横浜市会第三回定例会会議録﹄第六号'一九五二年'七一二

三ページ。

(7)同右'七一四‑五ページ。

(8)﹃横浜弘報﹄第四八号'一九五二年。しかし'この時点で既に'市当局は町内会の整備育成の方針を固めていた'という

3 2 3

(14)

(今井'前掲論文'二四ページ)。(9)﹃横浜弘報﹄第七七号'一九五五年。同総務局長は'五五年五月五日の青木弘報委員会(神奈川区)の席上でも「自治会'

町内会に対しては色々とちがった見方があると思うが市としてはもっともっと市民の中から盛上る気運の醸成をまっている'

民主的にできあがるこれらの地域団体に対しては大いに指導'協力を措しまないし良いことと考えている」と述べている(﹃横

浜弘報﹄第七六号'一九五五年)。また'市長じたい'五二年の市会第二回定例会で'市民組織に対する市当局の考えを問われ、

次のよ‑に答えている.「市民組織の問題をいろいろ御議論になりましたが'この間題につきましては私どもはひとり市民組

織を市の方といたしましては組織しょうという考え方を持っておりません。しかしながら健全なる市民組織が'市民の間に自

主的な意味において生れて来ることに対しましては'希望をいたす次第でありますので'その仕方によりましては市の万もこ

れに対して協力をする考えを持っておることを申し上げておきたいと思うのであります」(﹃横浜市会第二回定例会会議録﹄第

四号'一九五二年'三一‑二ページ)0

(10 )

「地域社会における新しい市民組織について」は'一九五四年と五六年の前後二回にわたる地域住民組織の実態調査報告

に基づいて作成された'といわれる。そこでは、一方で町内会の急増をにらみながら'他方で戦時町内会の忌まわしい印象を

払拭しっつ'何らかの態度決定を行わねばならないとい‑当時の行政当局の立場が深い影をおとしている。詳述は措き'報告

書では'「民主的住民組織」の三つの原則'すなわち加入脱退の自由'隣保性・共同性の保持'民主主義の確立がいわれたの

ちに隣組の効用が説かれる。そして'山積する地域間題を前にして'行政の限界が指摘され'「民主化」された住民組織台頭ヽヽヽの現実的必然性が強調される。しかしこの段階では'行政の具体的な「関与」については慎重に忌避されている。詳細は'山

田'前掲書'九九‑一

〇 〇

ページを参照のこと。

二 弘 報 委 員 会 の 再 編 過 程 ( 1 )

(15)

横浜における弘報委 員会 の変容過程 (吉原直樹)

1

変質する弘報委員会

先にみたように、サンフランシスコ講和の締結前後から横浜では町内会等が公然と復活して‑る。一連の行政合理

化の動きがその背後要因を成していたことは、既に触れた。ところでこうした行政合理化は'基本的には町村合併'

数次に及ぶ地方行政改革に代表されるような'中央集権化に向けての地方制度の見直しの許に進展したのである。し

たがってより直接的には'町内会等の復活と符節を合わせて弘報委員会の再編が日程に上ってきたものであるにして

も'その基底にはマクロ・レベルから下降して‑る行政効率化の論理が伏流していたことを忘れてはならない。

さて、「再編期」の弘報委員会が具体的に貌をみせるのは一九五五年頃からであるが'それ以前より既に行政から

弘報委員会に対して一定のがなされていた。まず'政令第一五号の失効後、県はいち早‑「広報委員会の組(1)織を町内会'部落会の整備という現実に即したものに改めるよう正式に呼びかけをはじめた」.そしてその一方で'*弘報委員会の「補助金陳情」に応えるという形で'一九五三年から弘報委員会に対する交付金を増額していった。こ

ころみに'1九四八年から五五年までの広報費(弘報委員会助成)の推移をみると(単位万円)'六・七'七・二一五・四'

五三・四'一七・六'七六・四'七五・六'九

・六となっており'やはり五三年からの助成金の急増ぶりが目立ってい

る。

*

一九五三年一月二五日付﹃神奈川新聞﹄では'「経営難の広報委が悲鳴」という見出しの許に'弘報委員会の県・市への補

助金陳情のあり様を'次のように報じている。「市町村広報委員会に対して'お役所が出している金は'全‑の雀の涙程度で'横浜市の七十七広報委をはじめ、全県下二

三〇の広報委員会(委員六千人)は'その運営は困難を極め'毎月の会合も委員長などが身銭を切って開くという実情にある。

占領中は、命令で補助出費はとめられていたのでやむを得ないが'今となってもそのままの放置では'い‑ら民間の組織でも'

その性格上あんまりだと'熱心な広報委ほど県市の援助を望んでいる。特に県からは全‑援助がないのは'あれほど太鼓を叩

3 2 5

(16)

いていながら'とんと解せぬと'各広報委は県への陳情を猛烈化している。何ともお金がないのでと県では弁解につとめてい

るが'その金のないのもわれわれが実情を県民に徹底さしてこそ政治だと広報黍では反ば‑'この始末を新年度予算でどうつ

けるかが問題となっている。」ヽヽヽヽヽヽ詳述は措き'こうした上からの措置がきわめて有効であったことは'前者の方向提示'すなわち従来の(少な‑とも

初期の)職能代表を中心にした委員会構成を町内会等の地域代表中心に切り替えるとい‑指導がスムースに浸透したこ

とからも明らかである。そしてそ‑した意味で'たとえば'一九五四年六月二一日に開催された中区弘報連絡協議会

の席上で'「弘報活動について篠原課長より新しい制度により芽ばえた民主主義思想を普及徹底させるために最近各

地域に誕生しっつある町内会'自治会の役員及び町内'自治会から推せんした学識経験者等を委員に充て推進せるこ(2)とは大変よいと考える旨の説明があ」ったことは注目される。因に'一九五七年二月現在で、県下一八七委員会のう(3)ち'発足当初の委員構成を保持していたのは、僅か二二カ所であったといわれている。

ところで'以上のような単位レベルでの組織の変質過程と相倹って'より上位のところで連合化の動きが進展した

ことが注目される。先の拙稿でもみたように'一九四八年二一月の金沢弘報委員会の発足を嘱矢として'翌四九年か

ら五

年にかけて地区事務所(旧町内会連合会)の区域を単位にして七四の地区弘報委員会が設立された。そして中区I

保土ヶ谷区'港北区の三区では'ほぼ同時に区レベルの弘報委員会連絡協議会(以下'連絡協議会と略称)が結成された。

しかしその後、磯子'金沢の両区では連絡協議会が結成されたものの'五五年時点で依然として他の五区では未結成(4)という状態であった。同年二一月七日の横浜市弘報委員長会議でこの点がとりあげられ'未結成の五区は早急に区内

の連絡協議会を設けること'そして横浜市弘報委員長協議会(以下'市協議会と略称)の設立準備をすすめることが決議(5)された。この決議は即座に実行に附され'同年1月末までに全区に連絡協議会が結成され'翌五六年1月には市協(6)議会の発足をみたのである。

(17)

横浜における弘報委員会の変容過程 (吉原直樹)

因に'市協議会では、研究機関として'その内部に三専門部会'すなわち第一専門部会(広報伝達組織とその方法に関する調

査研究)'第二専門部会(広報技術に関する理論と実際についての調査研究)'第三専門部会(住民組織と弘報委員会活動iJに関す(7)る調査研究)を設けた'という。これらの専門部会が実際にどの程度活動したかは不明であるが'その後の状況から推測して'

第三専門部会がそれなりの役割を果たしたのではないかと考えられる。

こうした上部機構の整備が'先の組織じたいの変質と相倹って'行政主導の広報・公聴活動を地域と密着させ'そ

の1層の浸透をはかってい‑上できわめて適切な組織体制となったことはいうまでもないが'より重要なことは'如

上の整備によって弘報委員会と町内会との調整がよりスムースに行われ、結果として以下にみるよ‑な弘報委員会の

再編(いわゆる切替え措置から発展的解消へ)のための素地が形成されたことである。また行政としては'こうした上部機

構を把握しているかぎり、弘報委員会再編のイニシアティヴをとり損ねるということはなかったのである。むろん'

こうした動きに対して全‑批判がなかったわけではない。事実、先の弘報委員長会議では'一、二の弘報委員長から(8)疑義が出されている。しかしこうした批判じたいが'より上位の機構‑委員長によって調整され解消されるという点

に'実はみてきた上部機構整備の一つの根拠もし‑は効用があったのである.因に'この間'県'横浜市'県広報協

議会共催の「郷土をよ‑する研究会」が少な‑とも1九五二年二月二六日と翌五三年一月二八日の二回にわたって(9)開催され'そこに弘報委員が多数(第一回七

余名'第二回二

〇 〇

名)参加して討議していることは、上述した動向を促

迫したという点で'さらに以下にみる弘報委員会再編の伏線を成したという点でやはり注目されよ‑0

(10)なお'この時期と‑に一九五三年頃、全国的に「町内会」の法制化が取沙汰されてお'横浜でも弘報委員会でこの間題がし

ばしばとりあげられている。たとえば'五五年一月一三日開催の市場弘報委員会では'「自治会'町内会に対し市当局において(ll)市条例等により法的な裏付を考へ各種の住民組織団体を整理統合し自治会を綜合的な住民組織団体として統一し一本化す」こ

との要請が'また同年五月五日開催の青木弘報委員会では'「他都市に例をとると自治会に一さいの団体が含まれ運営している

327

(18)

(12 )

が'横浜市においても自治会に対し公的資格を与えて‑れな

い か

」という要望が出されている。しかし市当局は'「法制化」に

はきわめて消極的な姿勢をみせ'むしろ組織の一元化(‑弘報委員会の町内会への切り替え)を狙って弘報委員会に対する援助・(13)補助を強めたのである。こうした方針が県レベルから下降してきた「広報活動の一元化」の要請に基本的に応えるものであった

ことはいうまでもない。

ともあれこうして'市協議会

連絡協議会に轡導された弘報委員会体制ができあがり'連合町内会への切り替え措

置が行われ'つまるところ弘報委員会の発展的解消へのプロセスが培われることになったのである。こうしたプロセ

スの基底に'既述した行政合理化

(=

能率化)の論理が伏流していたことは'あらためていうまでもない。

2

弘報委員会の発展的解消へ

先に一瞥したように、町内会等の叢生をにらんでの広報活動の一元化という課題は'市政合理化の一環として「講

和」以降かなり早い段階より日程に上っていたが'一九五六年四月から﹃弘報よこはま﹄が町内会を介して全世帯に

配布されることになったのに伴い'「広報紙伝達の機能が町内会に'公聴の機能が弘報委員会にという広報活動の二(14)元的な形が‑まれ」'弘報委員会と町内会との調整(1一元化)という課題がもはや避けて通ることのできないものとな

った。

因に、如上の二元的構成の結果'弘報委員会はもっぱら公聴部門を担当することになった。﹃市政概要﹄一九五八年版によれ

ば'その公聴活動(年間)は、弘報委員会開催数五七六回'市民の集い七九回'その他四二回'そして取り扱った課題は市の行政

全般にわたり一五

〇 〇

件となっている(八六ページ)。注目すべきは'再編後もしくは再編途上にある弘報委員会が表面的には'

なお以前の活動を継続しているように見えながら'広報本来の'あるいは少な‑とも当初の理念であった「交流過程」からはま

すますかけ離れてしまったことである。いうまでもな‑'こうした動向は行政の対弘報委員会認識に一定の変更(修正)をもたら

(19)

横浜における弘報委 員会の変容過程 (吉原直樹)

ヽヽヽヽし'結果として、行政をして上からの弘報委員会の解消(=弘報委員会の連合町内会への切り替え措置)を急がせることになった

と考えられる。

ところで'住民組織と弘報委員会活動との関係については'市協議会の第三専門部会でかねてより検討をすすめて

いた。そして五六年二一月二一日の全体会議での討議を経て'同月二二日開催の市協議会の席上で以下のような結論

が出されたのである(総広第三

六号「住民組織と広報委員会活動との関係について」)

「市内の住民組織も漸‑全市的に確立を見、自治会・町内会等の連合会も順次結成されつつある実情にかんがみ'

この際この種の連合体の結成されている地域については出来得れば広報委員会の機能を連合町内会に移行し'そ

の中に広報部(仮称)等を設けて広報活動を一本化して推進することが好ましい。

但し地域にあっては未だ連合町内会の未結成の所もあり'また自治会町内会の連合体の組織せられた地域に於

いても住民組織と広報委員会が充分とけ合うまでに至っていない地域もあるので'それぞれ地区の実情に即して(15)地域の会合を開きこの間題を充分に話し合いの上結論を見出すようお互いに理解し協力することが好ましい。

ここにも述べられているように'この時期は連合町内会の結成が急速に進展しており(表2参照)'上述の結論が実

施に附される条件は既に整っていたといえよう。弘報委員会の機能を連合町内会に移行するというこうした方針案は'

翌三二年八月の区長会でも事実上承認され'その支援体制が協議された。すなわち'この席上で'各区ごとに連合町

内会の連絡機関をつ‑り'これを縁由して行政(役所

)‑

市民問の協力体制を強化・促進するという統一見解が打ち出(16)されたのである.もっともこうした支援体制の確立にもかかわらず'先の方針案が実施に附されるまでには若干の曲

折を経なければならなかった。一つには'日常的に行政の下請業務に忙殺される単位町内会・白治会の幹部のなかかヽヽヽら'二刀化によって結果的に上からの仕事が1層増えるのではないかということを危供して'如上の方針に抵抗を示

す者が立ちあらわれたのである。因に、こうした動きに対しては'弘報委員長がきわめて重要な役割を果たした'と

329

(20)

い う 。

ヽヽ「広報委員会の会長が'その単位区域内の町内会幹部に対して'市当局の意向を説明し説得することによって'

その目的を達することができた。このケースに限らず'一般的に市区当局が直接に個々の町内会と接触するとき

には'町内会側からかなりの反発があり'伸々まとまらない例が少な‑ないという。そ‑した際に'その連合会

にまず働きかけ'この連合会を通じて個々の町内会幹部に市当局の意向を依頼するときは、結局連合会長を媒介(17)にして個々の町内会の反発をうけないで市の意向を達する場合が多い。」リクル‑トメソトここではいみじ‑も'弘報委員会の二重的性格(もし‑は媒介的機能)に着目した、行政による弘報委員長の動員

が見事に功を奏したことが示されているが'実は弘報委員会の連合町内会への切り替えの意図も一つはそこにあった

のである。が、いずれにせよ'先の市協議会で打ち出された方針案が具体化するのは時間の問題であった。一九五九

年二一月'各区連絡協議会の代表一

名が会議をもち'「広報委員会を発展的に解消し、その機能を昭和三五年三月(柑)未までに連合町内会の広報部会に移行する」ことが最終的に確認された。そして翌六

年四月に'弘報委員会の解消(19)とともに連合町内会広報部会が発足したのである。またこうした動きに符節を合わせるかのよ‑にして、同年五月'

市の行政機構改革が行われ'従来の広報課(広報係、市民連絡係'市民相談室)の機能が新設された市民課(広報係'市民相(20)談窒)に移された。ここに'広報・公聴機能が町内会'自治会に冗的に集中するのに伴い'そ‑した住民組織を日

常的にキャッチアップするべ‑行政環境もし‑はそのための庁内体制の整備がはかられるようになるのである。

さてこうしてみると、弘報委員会の再編過程は'一にこの組織を行政広報活動の「伝達組織」として純化し、末端

行政活動の協力団体化を自らおしすすめるものとしてあったといえよう.まことに「再編後の委員会は企画'編集へ(21)の参加を完全に喪失し'たんなる広報紙の配布組織となった」といわれる所以である。そしてこの場合に'「財政の(22)窮乏した今日これが活動を敏活かつ能率的にいたし最低経費をもって諸施策の徹底を期」すという行政能率化の論理

(21)

横浜における弘報委 員会の変容過程 (吉原直樹)

を背後要因として、地域有力者層の動員・発掘を介して(再編が)強行された点にその体制(読)的意味合いを読み取る

ことができよう。しかしそのことは'弘報委員会が住民の共同生活の側面においてことごと‑無力であったというこ

とを必ずしも意味するものではない.弘報委員会によっては'むろん大筋としては既述したような「再編期」の状況イツシユ‑に規定されていたにしても'その折々において住民生活にかかわりのある諸問題を住民の共同の力で解決しょうと

する'いわば日常的媒体組織の積極面が貌をあらわしている。以下'この点について'富岡弘報委員会の場合を例に

とり検討してみょう。

()堀池慶l「神奈川県における広報委員会の現状Iと‑に町内会等の住民組織の関係を中心として

」﹃広報研究﹄1

九六

年九月号'一一ページ。

(2)﹃弘報よこはま﹄第六八号'一九五四年。

(3)堀池、前掲論文'二ページ。なおこの点については'次節でとりあげる富岡弘報委員会の場合においても確認される。

(4)弘報委員長会議がいつ頃から開催されるようになったかは定かでないが'一九五

年四月六日に既に開催されている。な

おこの時点で早‑も'「横の連絡即ち各委員会の連絡を緊密にする」ことが日轟に上っていたことは注目される(﹃横浜弘報﹄

第六号、一九五

年)0(5)今井、前掲論文、二五ページ'および佐藤雅売「横浜市における区制の歴史」﹃調査季報﹄第1

0

号'1九六六年'五八

ページ、参照。(6)(7)横浜市﹃市政概要﹄一九五八年版'八六ページ。

(8)たとえば'会議出席者のひとり平山伊三雄(弘明寺弘報委員長)は'如上の上部機構結成の動きに対して'「公聴優先か'

広報優先か'公聴あっての広報ではないか」と批判している(今井'前掲論文、二五ページ)0(9)﹃横浜弘報﹄第四八号'1九五二年'および﹃神奈川新聞﹄1九五三年1月二九日号を参照。(10)こぅした動きの社会的'政治的性格については'高木鉦作「東京都・区政と町会連合会」日本政治学会編﹃年報政治学﹄

331

(22)

一九六

年版'が有益な分析を行っている。

(n)﹃弘報よこはま﹄第七三号'1九五五年。(12)﹃弘報よこはま﹄第七六号'1九五五年。(13)﹃神奈川新聞﹄一九五三年一月一

日号。(14)塩野、前掲論文'二三ページ。

(15)なお'同文書では'参考資料として、以下の但書が付記されている。「但書について

3:連合町内会の未結成の所では誰が働きかけて連合体を結成するとよいか。(莱)区広報委員会連絡協議会と区内の自治会・町内会長との協議会を開催して連合体を結成する9

日住民組織と広報委員会が充分とけ合えない地域についてはどんな方法をとるべきか。(莱)両者が自由に研究討論し話し合って結論を出すこと。

地域によっては連合町内会の広報部として広報活動をするところと広報委員会を存続して広報活動を行う所が出来で

も当分の内やむを得ない。

臼現在の広報委員会の委員はすべて町内会の組織から選出しているので両者の間に支障はないと思うが。(莱)広報活動の徹底は末端組織を持つ(即ち班・組・隣組等)町内会の中で活動す㌢言が効果的である。

この点については各地元でよく話合いの結果'よい方向の結論を見出すとよい。」(16)「昭和三二年八月二八日の区長会では'連合町内会およびその区連合会の結成について次のような方針をきめている。連

合町内会については、会長の人選等で行き悩んでいる面もあるので'土地の事情を勘案して会長制と会長をおかない連絡会と

の二本建で行‑。区役所との連絡については'仝町内会長を構成メンバーとする町内会連絡会をつ‑り、連合町内会長でその

理事会を構成する案と'連合町内会長(正・副)を構成メンバーとする町内会連絡会をつ‑るという案とがあるが'自主的に後

者に落着かせる空気を作ってゆくことが望ましいと。要はいかなる方法によって役所が地域自治団体を援助し'いかにして役

(23)

横浜における弘報委員会の変容過程 (吉原直樹)

所に協力し易い地域自治団体を育成するかにある'というのがそのねらいであった」(今井'前掲論文'二八ページ)0(5)高木鉦作「地方自治体広報と地区住民組織(下)」﹃自治研究﹄第三七巻第二号二九六一年'六五‑六ページ(但し'傍

点は原文)0

(S)塩野、前掲論文'二三ページ'および山田'前掲書'九八ページ.(eO奇しくもこの段階二九六

年四月一日現在)で連合町内会数は七四となり(﹃市政概要﹄一九六

年版'六二ページ)、弘

報委員会結成完了時の七四と一致している。しかし'弘報委員会が当初から町内会連合会的な性格を帯びていた(高木,前掲

論文(「地方自治体広報と地区住民組織(下)」)'六三ページ)ことを考えると'上述の事態は何ら偶然の一致ではない。(cqo)同時に'区では総務課が庶務課となり'市民課が新設され市民係と地域振興係の二係が置かれた.こうして'区役所機構

は庶務課、市民課'戸籍課'課税課'徴税課'農政課'区収入役室の六課一室体制となった。因に'如上の機構改革について,

佐藤雅売は次のように位置づけている。「占領体制下をすぎて'二七年一〇月の区役所機構改革が第一次の完成であるとすれ

ば'こん回は大都市間題の強化のなかでの区住民組織をとおしての第二次的な整備であった」(佐藤'前掲論文'五八ページ)0(eq..)山田'前掲書'九八ページ。むろんそうであればこそ'「地域住民組織と同一物になってしまった」弘報委員会は,「住民

の声を汲みあげる広報本来の﹃交流過程﹄は切断され二万的に流される行政組織の一環としての意味しかもっていない」と

いうことになるのである(同上書、同ページ)0

(SS )

﹃神奈川県議会二月定例会会議録﹄1九五一年'一

〇 〇

ページ.

三 弘 報 委 員 会 の 再 編 過 程 (2 ) ‑

富岡地区弘報委員会の場合

1

他律的な再編過程

古くより半農半漁の集落として存在しながら、いわゆる横浜の都市域の拡大と京浜急行沿線という立地上の特性が

333

(24)

相乗作用を成して戦前よりすでに郊外化の兆しをみせ七いた金沢区富岡地区に弘報委員会が設立されたのは'一九四(1)九年三月二一日のことである。前章でみたよ‑に'この頃は全市的に弘報委員会が設立され'各地区の活動の諸相が

﹃横浜弘報﹄等で活発に伝えられた時期である。しかし富岡地区弘報委員会(以下、富岡委員会と略称)の場合、草創期

の活動は全‑明らかでない。ただ、発足まもない弘報委員会が町内会解散後雨後の筒の如‑叢生するに至った諸団体(2)を緩やかに統合するという役割を担ったことは確認されている。そしてそうした意味で、富岡委員会の委員が日赤奉(3)仕団(分団)役員、衛生奉仕委員等を広汎に兼ねていたことは注目される(﹃諸団体関係記録簿﹄一九五一年一

)0

ところで、﹃富岡地区弘報委員会書類綴﹄によれば'富岡委員会で組織としての転成期が訪れるのはおおむねサン

フランシスコ講和以降のことと思われる。まず'こうしたプロセスに連なる一つの目立った動きとして'富岡吏員派

出所長(区職員)の呼びかけで、政令第一五号の失効を目前に控えた一九五二年一月二五日に'弘報委員を中心に地区(4)内の諸団体の役員が寄り集って懇談会がもたれたことが指摘される.この懇談会で政令第1五号失効以後の地域社会'ヽヽヽヽ地域住民組織のあり様が上からのサゼスションのもとに議論され、これ以降'地域社会'地域住民組織の見直しが弘

報委員会を中心にして急速にすすめられることになったのである。そしてこの見直し1再整備の線上において'たと

えば富岡地区弘報委員会規約の制定(1九五四年三月三一日)が行われた。注目すべきは'如上の見直し1再整備のプロ(5)セスが行政による数次にわたる弘報委員会の活動状況調査に付随し、それらに照応する形でみられたことである。詳(6)述は措き'この活動状況調査は一に「助成金の資料にするため」の実態把握という性格を有しながら、より深いとこ

ろで'弘報委員会の再編を上から轡導してい‑という意図を伏在させていた。この点はいみじ‑も'「一ヶ年の活動

状況につき‑‑御報告を願った調査書により‑‑所要経費の一部を助成いたす」ことを通知した一九五七年二月二

九日付文書「広報委員会に対する助成金交付について」(県企画渉外部企画広報課長1弘報委員長)で次のよ‑に記されて

いるところから明らかである。

(25)

横浜における弘報委員会の変容過程 (吉原直樹)

「今後の広報委員会の運営につきましては‑‑広報委員会と地域住民組織との一体化をはかり'地域組織を通じ

て広報活動の濠透をはかり得るよう委員会の構成に更に検討を加えて'活動が有効適正に行われるよう各位の御

研究と精進をお願いいたす次第であります。」

いずれにせよ'指摘される行政主導の一連の(弘報委員会に関する)活動状況調査を媒介環として'「各種地元団体とヽヽヽヽヽの円満なる協力体制のもとに総じて主旨の徹底に回覧の遵守と特に婦人団体町内会等は異身同体的の役割を果して行(7)く協力状態」に1層の整序が加えられ'勧告された組織的一体化1富岡委員会の解消1富岡地区連合町内会(広報部

会)の発足が促されることになったのである。因に'このプロセスは表3によれば'五四年三月二二日'七月九日,

五六年三月一六日、四月一六日'六月一五日、五七年二月一六日'八月盲'八月二七日'六

年四月二八日の弘

報委員会の論議において表顕化している。3瓦R;nこころみに、そこでの論議の推移を一瞥すると'まず最初に「区役所・保健所・民生安定所・警察消防等は如時も

協力体制のもとに協調して防犯協力に社会福祉に保健衛生に募金会等総ての件に活動怠りなく故農業組合に町内会に(8)婦人会に漁業組合等地区内諸団体に全面的に協力している実情であります」という自己認識にはじまって二九五六

年末頃までは弘報委員会と町内会等地域住民組織との協力関係1機能分化に底礎した両者の二九化の方向に向いた議

論の深まりが見られるが'既述した五六年一二月二二日付文書「住民組織と広報委員会活動との関係について」(総広

第三

六号)の通達を契機として'かつ翌五七年二月一六日の弘報委員会でなされた「連合町内会を組織してその上に(9)広報部を設けて今後の広報委員会の運営に当るべ‑提案」を促迫要因として'先の二刀化の議論は連合町内会の組織

化'その広報部会への弘報委員会の編成替えという論議へとにわかに収飲するよ‑になるのである。そして事実,五

七年八月二七日に規約(莱)の成文を得て富岡地区連合町内会が発足し'さらに六

年四月二八日には、全市で弘報委

員会が解散し連合町内会広報部会に吸引・統合されるのと符節を合わせて'富岡委員会もまた発足以来一

年余にわ

335

(26)

表 3 富 岡地 区におけ る弘報委員会 (常会)及 び市民 の集いの開催状況

( 1 953

1 2

‑1 9 6 0

4

月)

1953.12.17 1954.1.15 1.23 2.ll 2.18 2.24 3.3 3.9 3.22 3.29 7.9

1955.1.10 2.26 3.7 3.26

4.1 5.19 6.6 6.27 7.7 7.17 7.25 7.29 9.20 9.23

1956.3.16 4.16

富岡会館

富岡会館

富岡会館

地 区祭礼 につい て 成人 の 日慰安演芸会 開催 地 区祭礼 につい て

自治警存置問題 につい て バ ス停留所 につい て

ヒナ祭子供幻燈会 開催 地 区祭礼 につい て 弘報委員のあ り方 につい て 地 区祭礼 につい て

弘報委員会 の構成 につい て/野島 山地域 の在 日米軍 に対 す る接収問題 につい て 皇居見学 につい て

司法保護 の活動状況の徹底化 について/募金 につい て

社会 を明 る く生活 を豊かに」 につい て/ねずみ退治 につい て 道路 の直線化 につい て

主 旨徹底 の活動広報 を基調 として赤十字募金 につい て 幻燈会 (社会教育協力委 員会 との共催 )

(対策全 員協議会) (駅対策委 員会) (全 員委 員会)

社会 を明 る くす る運動映 画会

映画会 (農協婦人部 との共催) 新駅存置の町民大会

広報活動 の運営 について/役 員改選

広報活動 について/ ガス問題 について/役 員改選 ・会計報告

(27)

(聾

)GO胡韻吋凝り1基撃

1956.5.15 6.15 7.17 10.16 11.19 1957.2.16 4.19 4.25 5.6 6.24 8.12 8.21 8.27 9.26 10.23 12.13 1958.4.19 4.29 6.9 9.1 10.23 12.7 12.15 1959.3.15 3.24 5.21 9.6 10.8 12.5 12.19 1960.4.28

3 12 10 12 23 ll 16 14 13 16 14 300 ll 13 300

300 350 17 25 14 ll 15 ll 12 12 12 16 ll 9

*出席者僅少 のため懇談会

町内会 につい て/ ガス引込 みについて 清潔 な横浜 をつ くる運動 について

ガス引込 みその後 の経過 について/敬老事業予算化 につい て/ その他 ガス引込 みの見通 しについて/下水料金 について/その他

ガス引込 みについ て/連合町内会 の組織化 について/ その他 防火 と消防団運営 について

昭和31年度共同募金実績報告 と昭和32年度 日赤募金 目標額 について 昭和32年度予算案 について/ その他

衛生 と今年 の大掃除 の 日割 につい て

昭和31年度収支決算報告/連合町会運営 について/消防団長推薦 について 青少年不良化 防止 についての映画会

弘報委 員会 と連合会 の運営 につい て/敬老事業予算化 について

昭和32年度 日赤推進運動結果 につい て/昭和32年度共同募金 目標額 について 防犯防火交通 についての映画会

横浜市水道70周年記念映 画会 映 画会

芸能 コンクール

昭和32年度共同募金実績報告/昭和33年度対 日赤芽金 目標額 につい て

祭礼 の寄附金及 び神宮奉賛会 の募金 について/開発展途上の地区 に対す る学校敷地 について/その他 火災発生 に対す る消防 ポ ンプ購入方法 について/学校敷地問題 に対す るその後 の経過報告

日用品市場火災発生緊急対策 につい て 消防 ポ ンプ購 入方法 とその資金割 当について 金沢 中学校学区編 入 について

金沢匡防火協会理事選任について/昭和33年度共同募金実績報告/昭和34年度日赤募金目標額について 消防 ポ ンプ購 入決算報告 と消防 自動車購 入について

昭和34年度共同募金 目標額 について

東洋化工爆発 に よる見舞金 につい て/年末 たすけあい運動 と募金方法 について 廃 弾荷揚問題 について/消 防17氏受賞者 に対 す る区民感謝 について 弘報委 員会解消 の経過報告/連合町内会規約変更審議 について/ その他 注)(1)表 中の 「委」は弘報委 員会 (常会).「市」 は市民 の集い の ことである・ (2)空欄 の箇所 は不 明である・

出所)『富岡地 区弘報委 員会書類梯』昭和29‑35年, よ り作成・

表 3 富 岡地 区におけ る弘報委員会 ( 常会)及 び市民 の集いの開催状況 ( 1 953 年 1 2 月 ‑1 9 6 0 年 4 月) 開 催 日 会 場 議 題 委 市 香 〟 〟 〟 市 香 〟 〝 〟 委 〝 〟 〟 市 委 〟 市 香 〝 〟 市 〟 〝 〝 義 〝 1 953.1 2.171954.1.151.232.ll2.182.243.33.93.223.297.91955.1.102.263.73.26〝4.15.196.66.277.77.177.257.299.209.231
表 4 富 岡地 区弘報委員の職能 団体 ・地 区別 出 自状況 就 任 時 期 性 公 職 三㌢ ‖ 1 , ?5 1 3・ll l . ?5 3 5 1・ . I i?iS : 備 考 ① ㊥ ③ ④ ⑤ ⑥ ① @ ⑨ ㊥ ㊤ ⑲ ⑲ ⑭ ⑯ ⑯ ㊥ ⑯ ⑯ ㊥ ㊨ ㊨ ㊨ ㊨ ㊨ ㊨ ㊨ ⑳ 男〝〝女男〝〝〝〝〝〝〝〝女男〝〝〝〝女男〝〝女男〝〝 〝 〟無 職 会 社 員神職漁業農〟業薪 炭 商(不 明)農業庭 園 業無職〟会 社 員(不 明)会社重役(不明)無(不漁̲二∠Zゝミ蘇杯杯無社職瑚業貝職

参照

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う意欲と力があればできるということである。 ○

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