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「記憶の場」から捉えたマイエ蜂起

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Academic year: 2021

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1.マイエ蜂起の一般的蜂起像

当該蜂起についての実証的な研究は,ペラン F.-T. Perrens(1),ミロ L. Mirot(2),コヴィル A. Coville(3)の仕事によって20世紀初頭までに完成の 域に達していたと考えられる。その後は,これらの先行研究で固定化され た蜂起像に依拠しながら,百年戦争史やフランス史の中でそれが取り上げ られるだけであって(4),彼らが作り上げたマイエ蜂起の正史はナショナ ル − ヒストリー上の一事件として記憶化されて来たといえる。 それによれば,蜂起の概要は次のようなものであった。1382年3月1日, パリの中央市場で物品税が徴収されたのがきっかけとなり,蜂起が発生し た。蜂起衆はその後税徴収人達のところに駆けつけ彼らを殺害し,また, 市門を閉鎖し,シャトレを攻撃して約3,000挺の鉛製の小槌を奪うなど乱 暴を働き,パリの街区を駆け巡ったという。パリの大ブルジョワたちは, 攻撃されるのを恐れ,彼らに追従した。 セーヌ右岸地区全体を手中に収めた蜂起衆の数は約4,000人で,マレー 地区のユダヤ教徒街での16人の犠牲者を含め死者は30人に達していた。

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ブルージュの南,ルーズベック Roosebeke の戦いに勝利したブルゴー ニュ公らの国王軍はパリに引き返し,1383年1月11日にサン − ドゥニ門か らシテ島の王宮に戻り,抑圧を開始している。その後,4日間の間に15人 から20人を処刑して,最終的には前年にアルル蜂起を起こしたルーアンと 同様に都市自治権を剥奪している。 以上の蜂起内容からして,マイエ蜂起は,パリの手工業者層が中心とな り多くの都市下層民層を巻き込んで展開された反税蜂起であったと捉えら れている。なお,マイエの呼称は同時代人が蜂起の扇動者(fauteur)た

ちを“Maillets”(« des Maillez »)と呼んだからであり(4),また,その理

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ヴァリエ Bernard Chevalier(8)による14世紀の王国都市研究から捉えられ た都市民蜂起においても確認される。 もう一つの研究の流れとしては,マイエ蜂起も含めた民衆蜂起研究の多 様な分析視角の提示という試みがある。代表的な研究としては,領主制の 危機の深化の中で増大する都市貧民への無慈悲な排除の動きと民衆蜂起の 絡みをクローズアップし,蜂起衆の暴力行使に注目 す る ギ = ボ ワ Guy Bois(9)の研究や,蜂起した人々の暴力行使を公的秩序との関係性の中で問 題にし,その制限された王権による儀礼的行為に着目したクロード = ゴ ヴァール Claude Gauvard(10)のそれがある。さらには民衆蜂起の「諸原因」 を明らかにしつつ,蜂起を合法性の表現と捉えるフランソワ − オリヴィエ = トゥアティ Francois-Olivier Touati(11)の問題提起は社会経済史や政治史 と民衆蜂起論を結合させるものとして注目される。

2.

『勅令』Ordonnances と『年代記』Chroniques が描く

記憶としての蜂起像

これまでのマイエ研究の中でも使用され,当蜂起の記憶として正史の座 を裏付けていたのは,言うまでもなく1383年1月27日付けの『フランス王

の勅令』Ordonnances des Roys de France(12)である。まず,この史料から見

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害した。その後,市庁舎に移動し,そこでは門扉・金庫を破壊し,そ こにあった元パリ奉行のユグ = オブリオが作らせた大量の鉛製の槌を 奪った。また,同様に,税や他の援助金を徴収すべく,徴税事務所に 雇われた役人や他の者を殺害した。さらには,パリにある彼らの家屋 を取り壊し,金庫を破壊し,葡萄樽を叩き壊すなど,そこにあった財 産をぞうさもなく強奪した。それと同時に,パリのシャトレなどの牢 獄を破り,重罪人をも含めそこにいた罪人を解放した。さらに,書類 ・特許状・帳簿・それ以外の書付や文書を破り捨て大損害を与えた。 また,数多くのユダヤ教徒を襲い殺害し,書状や財産を奪い,散らか し台無しにした。 その後,悪意(mauvaise voulenté)を持つ者はそうした行動をとり 続けながら,数回の会合を持ち,我々の許可なく,彼らの権限で市門 を閉ざし,幾度となく我々の自由な出入りを拒否した。(中略)それ と同時に,他の叛徒たちも,前述の3月から現在の1月11日にかけて 国王に対し幾度となく反抗し,強奪するなどの犯罪を犯した。パリ以 外の多くの王国都市でも他の方法で幾度となく悪いことが起こっ た。» この史料からは蜂起展開のあらましが見えてくるが,ここで注目すべき は,« 何人かのパリの平民(manans)と住民(habitans),さらには悪意

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れる。 この点に関して,『サン = ドゥニ年代記』Chronique de St. Denys(13)はど のような記述をしているのか次に見ていこう。『年代記』を史料として使 用する際にも,記述内容の批判的理解が前提となるが,他の史料との違い に着目することが重要である。 « 3月1日の朝の6時,彼らは中央市場に集まり,クレッソンと いわれる野菜を少量売ったある婦人より税が取り立てられるのを見て から,王国税徴収人に突進し,その者を何度も突き刺し死に至らしめ た。ひとたび行使された犯罪でもあるこの騒動はもはや中央市場に止 まることなく,町中のあちこちに拡がった。すべての街区から人々が 中央市場へと凄まじい騒々しさではせ参じた。群衆(foule)があち こちに増え,巨大な叫びが四方に響き渡った。天の怒りにも似た陶然 となった一揆(sédition)の火がいたるところに拡がったために,民 衆の怒りがパリの自由のために彼らを戦闘へと誘い,剣やその他の武 器で武装した者たちが恐ろしい叫びを発しながら町の辻々や通りを走 り回った。

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央市場に止まることなく,町中のあちこちに拡がった » という。次いで, « 群衆があちこちに増え,巨大な叫びが四方に響き渡った »,そして,そ こに « ある少数の者たちがこのように群民を混乱に引き込む » などした。 その結果,« 不運な者500人 » が登場したが,それは « お互い誘い合い, 至るところで自発的に蜂起の味方 » になったからだという。 この, « ある少数の者たち » は,『勅令』の中の « 悪意を持つ者たち » と見ることもできる。彼らが,マイエ蜂起の指導層であったとの捉え方も できそうである。しかし,異国人だとされるブオナッコルソ = ピッティ Buonaccorso Pitti の « 目撃証言 » としての記憶が,そうした解釈に待っ たをかけている。つまり,「下層民(petit peuple)がパリで蜂起した。こ の蜂起の発端は,季節野菜を商う行商婦人である。というのも,果物や野 菜にたいする物品税を徴収するため,ある税徴収人が商品を押収しようと したからであった。これにこの婦人は « 税を下げろ » と叫んだ。つまり, 物品税にたいしてである。これが,総ての人々が蜂起し,税徴収人の家屋 を襲い,掠奪し,彼らを殺害した理由である」(14)ということからすれば, 勃発時の状況説明としては『サン = ドゥニ年代記』と類似してはいるが, « le petit peuple » であるという点を見過ごすわけにはいかない。『続サン = ドゥニ年代記』Partie inédite des chron. de St. Denys(15)でも,« さらに,

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核となって蜂起をリードしていたことが見えてくるので,勃発以降の動き としてはこの彼らの存在を注目しなければならない。しかし,いずれにし ても蜂起衆の顔が見えないところでは彼らの経済状況や社会的関係は藪の 中に隠れたままである。

3.

『特赦状』Les lettres de Rémission が語る多様な記憶

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勃発時のことに言及しているものから見ていこう。嘆願者の一人,職業

不明のジョナン = ル−フール Jehonnin(Jehan)le Feure のそれ(20)ではこ

のように記憶を辿っている。

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た。….»(36)という行動の背景にあった蜂起衆の思いが,富裕都市民家屋 の打ち壊しの場面に象徴的に表れていたという点である。 蜂起衆の貧困の度合いをさらに確定するためには,14世紀の80年代の領 主制の危機現象が,パリなどの王国都市ではどのような問題として顕在化 していたのかが明らかにされねばならない。この点では,ブロニスラウ = ゲレメク Bronislaw Geremek の社会的周縁者研究(37)や,G. フルカン(38) G. ボワ(39)らの社会経済史研究の成果に学ぶ必要がある。ただ,残念なが ら本稿で検討することは出来なかった。今後の課題としたい。

(1) F.-T. Perrens, La Démocratie en France au moyen Age, t. II, Paris, 1875,pp.42∼ 59.

(2) Léon Mirot, Les Insurrections urbaines au début du règne de Charles VI, Paris,1906, pp.109∼139

(3) Alfred Coville, Les Premiers Valois et les début de la guerre de Cent

Ans(1328-1350), Paris,1910, pp.300∼310.

(4) Chronique du religieux de Saint-Denys contenant le règne de Charles VI de 1380 à

1422, M. L. Bellaguet éd. et trad., 6 vol., Paris, 1842, nlle éd., 3 vol., Paris, 1994, t. 1, p. 139; L. Mirot, op. cit., p.111.

(5) M. Mollat et Ph. Wolff, Ongles bleus, Jacques et Ciompi, les révolutions populaires

en Europe aux XIVe-XVe siècles,Paris, 172-180 (6) Ibid., p.177-178.

(7) G. Fourquin, Les soulèvements populaires au Moyen Age, Paris, 1972.

(8) B. Chevalier, Les bonnes villes de France du XLVe au XVIe siècle, Paris, 1982, pp. 299-302; id., « Corpolations, conflits politiques et paix sociale en France aux XIVe et XVe siècle », R. H., n. 543, 1982, p.31

(9) G. Bois, La Grande depression médiévale XIVe et XVe siècles, le precedent d’une

crise systémique,Paris, 2000, p. 103-112.

(10) C. Gauvard, Violence et ordre public au Moyen Age, Paris, 2005, pp. 206-213. (11) F.-O. Touati, « Révolte et société: l’exemple du Moyen Age », Actes du 114e

(15)

chronolo-gique, Sixième volume, éd., par M. Secousse, Paris, 1741, pp. 685-687; Isambert et alii,

Recueil général des Anciennes lois francaise,Paris, 1824, pp. 572-573. (13) Chron. du religieux., pp. 137-139.

(14) M. Mollat et Ph. Wolff, op. cit., p. 172.

(15) Partie inédite des Chroniques de Saint-Denys, suivie d’un récit également inédit de la

campagne de Flandres en 1382 et d’un poeme sur les joutes de Saint-Inglebert(1390), Paris, 1864, pp. 1-2.

(16) Ordonnances des Roys de France., pp. 685-686.

(17) S. Luce, Histoire de la Jacquerie, d’après des documents inédits, Paris, 1894, pp. 175-338; L. Mirot, op. cit., p. 114. その内,3月1日に係わって逮捕された人物に対し て出されてた「特赦状」は28通であるとしている:Adam Pellerin, ouvrier d’imagerie (Arch. nat., JJ. 123, n. 210, fol. 105v, et JJ. 125, n. 77, fol. 47 v); Colas Pavillon, coutu-rier(JJ. 132, n. 67, fol. 38 v); Colin Adam, coutelier(JJ. 126, n. 132, fol. 87); Di-manche Cruchet, formier(JJ. 146, n. 71, fol. 31 v); Etienne Bi?vre, dit le Hongre, ton-deur de draps(X2a 10, fol. 154 v); Gassot Mauparlier, id.(JJ. 136, n. 192, fol. 104); Guillaume Cabot, cordonnier(JJ. 128, n. 256, fol. 146); Guillaume le Maire, valet changeur(JJ. 118, n. 274); Guiot Manglout, pelletier(JJ. 128, n. 235, fol. 130); Jacot Maucorps, m?nestrel(JJ. 136, n. 220, fol. 122); Jaquot de Banville, aumussier(JJ. 135, n. 291, fol. 156);Jean le Conte, dit du Preel, vendeur de vinaigre(JJ. 131, n. 48, fol. 27 v);Jean Fromage, changeur(JJ. 131, n. 133, fol. 81);Jean de Louvre, orfèvre(JJ. 125, n. 129, fol. 77 v);Jean de Mons, collier(JJ. 131, n. 2, fol. 2); Jean Polet, doubletier(JJ. 135, n. 315, fol. 170);Jean de Sepmons, maréchal(JJ. 123, n. 159, fol. 83);Michel Ras-sigot, valet(JJ. 128, n. 152, fol. 86 v); Nicaise Preudhomme, cervoisier(JJ. 124, n. 3, fol. 7); Perrin Hure, graveur de sceaux(JJ. 136, n. 3, fol. 1 v); Philippe Mélite, valet pelletier(JJ. 142, n. 64, fol. 38); Philippot du Val, chandelier en suif(JJ. 135, n. 226, fol. 123); Pierre Guiot, corroyer(JJ. 119, n. 63, fol. 43 v); Pierre de la Mote, pâtissier (JJ. 125, n. 86, fol. 51 v); Remondin le Fessu, valet brodeur(JJ. 148, n. 70, fol. 42);

Richard Langlois, chaudronnier(JJ. 124, n. 82, fol. 49 v); Maciot Testart, aumussier (JJ. 132, n. 82, fol. 45 v); Thomas le Barillier, tondeur de draps(JJ. 126, n. 281, fol. 174)。発給された66名の蜂起参加者の「特赦状」の概要については,近江「マイエ蜂 起(1382年)」146∼149頁を参照。

(18) 近江「マイエ蜂起(1382年)」145頁。

(19) Pierre Braun, « La Valeur documentaire des lettres de Rémission », Actes du 107e Congrès National des Sociétés Savantes éd., La Faute, la répression et le pardon, Paris, 1984, p. 208.;この点については,近江「マイエ蜂起(1382年)」;同『黒死病の時代 のジャクリー』未来社,2001年,191∼195頁で詳論している。フランスの国王尚書局

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されるが,「特赦状」が国王尚書局に登録され始まったのは14世紀初頭からであった (P. Texier, « La rémission au XIV siècle: Significations et fonctions », La Faute., pp. 193-205)。ほとんどの「特赦状」は,国立公文書館の JJ 系列に分類され王立文書保 管庫の244冊の記録簿に保管されている(M. Francois, « Note sur les lettres de rémis-sion transcrites dans les registres du trésor des Chartes », Bibliothèque de l’Ecole des

Chartes,t. 103, 1942, pp. 317-324)。

尚,歴史学の史料としての多様な価値を持つ「特赦状」や「赦免状」などについて, それを発給するいわゆる「国王特権」に注目しつつ,それらを国制史や社会史を中心 とした総合的な分析視角で捉えなおしたのは G. ゴヴァールである(C. Gauvard, « De

grâce especial », Crime, Etat et société en France à la fin du Moyen Age, Paris, 1991)。 この仕事に注目した研究としては,渡辺節夫編『王の表象―文学と歴史・日本と西 洋―』山川出版社,2007年,轟木広太郎『戦うことと裁くこと―中世フランスの紛争 ・権力・真理―』昭和堂,2011年があり,フランス法制史の分野から通史として恩赦

と大赦を描いたものに,福田真希『赦すことと罰することー恩赦のフランス法制史―』

名古屋大学出版会,2014年がある。また,民衆蜂起研究の中で「特赦状」を取り上げ ているものとして,S. K. Cohn, The Politics of Social Revolt in Medieval

Europe,1200-1425, Cambridge, 2006; Helen Lacey, “ Grace for the rebels’: fhe role of the royal par-don in the Peasants’Revolt of 1381”, Journal of Medieval History, 34, 2008が注目される。 (20) Archives nationales, JJ. 124 n. 332, Paris, oct., 1383

(21) Arch. nat., JJ. 123, n. 710, fol. 38v, St-Denis. (22) Ibid., JJ. 126, n.132, fol. 87, Paris, mars. (23) Loc. cit,.

(24) Arch. nat., JJ. 132, n. 82, fol. 45 v.

(25) Arch. nat., JJ. 123, n. 14, fol. 10v. St.-Germain-en-Laye, juillet, ’83. (26) Ibid., JJ. 131, n. 122, fol. 75, Gournay en Normandie, sep., ’87. (27) Ibid., JJ. 127, n. 65, fol. 42, Paris, juillet, ’85.

(28) Chron. du religieux., p. 141.

(29) L. Mirot, op. cit., p. 127; J. Favier, op. cit., p. 136. (30) Arch. nat., JJ. 125, n. 19, fol. 12v, dec., ’83. (31) Ibid., JJ. 123, n. 235, fol. 119

(32) Francoise Lehoux, Le Bourg Saint-Germain-des- Près depuis ses origins jusqu’à la

fin de la Guerre de Cent Ans,Paris, 1951, p. 341 et 353. (33) Arch. nat., JJ. 125, n. 19, fol. 12v, dec., ’83. (34) L. Mirot, op. cit., p. 170.

(35) Ibid., JJ. 135, n. 8, fol. 5. (36) Chron. du religieux., p. 137.

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(38) G. Fourquin, Les Campagnes de la région parisienne à la fin du Moyen Age, Paris, 1964.

(39) G. Bois, La Grande dépression médiévale : XIVe et XVe siècles, le précédent d’une

crise systémique,Paris, 2000.

(なお,本稿は2016年5月2日∼3日にソウル大学で開催された「第9回日韓西洋中

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