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第1章:「近代性の使徒」

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‑‑1920年から1940年における近代への道の創設‑‑』

第1章:「近代性の使徒」

著者 源馬 英人

雑誌名 GR‑同志社大学グローバル地域文化学会紀要

号 1

ページ 127‑153

発行年 2013‑10‑25

権利 同志社大学グローバル地域文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013317

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『広告:アメリカの夢

― 1920 年から 1940 年における近代への道の創設―』

第 1 章:「近代性の使徒」

源 馬 英 人

【解説】 本書は1997年に亡くなったローランド・マーチャンド氏(当時カリ フォルニア大学デイヴィス校教授)が1985年に出版した、広告の学術的研究 の大著である。それ以前は、広告に関する書物の大半は、広告業界の側から の擁護論か、誇大宣伝や虚偽等の弊害を告発する批判論の何れかに偏る傾向 が強かった。本書は、歴史学者の立場から、豊富な資料の分析と、時代考証 に基づく立論とその精緻な検証により、広告の功罪両面を文化的・政治経済 的に考察した画期的な研究書であり、広告研究の記念碑的著作であると評価 できる。本書が扱う時代は、1920年から1940年という、二つの世界大戦に挟 まれた時代であり、この時期に先進諸国は、国民の期待と不安の中、目覚ま しい速度で近代化を推進した。こうした環境で、広告もまたその技法を変化・

発達させ、時代を反映した最新の生活情報であると同時に、新たな文化に消 費者を導く強力な文化媒体としても機能したのである。広告の文化媒体機能 に着目したマーチャンド氏の慧眼は、カリフォルニア大学がその公式ホーム ページで本書を高く賞賛していることによって裏付けられよう。

 なお、原著には豊富な注や、印刷広告の引用と解説が付されているが、翻 訳に当たっては紙数の都合上、残念ながらこれらの注および引用・解説を割 愛した。その一方、商品名、人名、社名など、読者に馴染みのない固有名詞 で説明が必要と判断されるものについては、簡単な訳注を付した。

『GR―同志社大学グローバル地域文化学会 紀要―』1, 2013, 127−153頁.

同志社大学グローバル地域文化学会 ©源馬英人

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 1920年代アメリカの広告マンは、当時いちばんの近代人だった。彼はこの 定義を大みえ切って吹聴したが、確かにそれには一理あった。活躍の場は摩 天楼、タクシー、快楽に飢えた群衆などがひしめく近代都市だったし、最新 ファッション、はやり言葉、娯楽の専門家を自任してもいたからだ。近代の 熱烈な使徒として、彼は消費者に新製品を熱く語り、製造業者には巷の気ま ぐれな流行を耳うちした。ご自慢のプロの技を支えていたのは、大衆の好み の変化をかぎ分ける鋭い嗅覚だった。

 他の職業エリートたち――科学者、技術者、工業デザイナーなど――もま た、われこそは近代化の力の象徴だと主張したが、広告業者は決定的役割を はたしているのは自分だと言って譲らなかった。確かに発明と技術の進歩は、

変化への期待と革新への組織化を促し、それが近代社会の特徴となっている。

だが発明とその応用がダイナミックな衝撃を生むのは、大衆がその利点を学 んで己の生活に取りこみ、より多くの新製品を望むようになって、はじめて 可能なことなのだ。近代技術にはそれを告げる使者が必要だし、近代のスタ イルと生き方には伝道師が必要だ。われわれは近代の到来を告げてまわる

「触タ ウ ン ク ラ イ ヤ ー

れ込み屋」であり、進歩についての朗報をもたらすのだ。これが広告マ ンの言い分だった。

 構造的に見れば、広告主がわれこそ近代の立役者だと胸を張る根拠は、発 展理論に従って経済の近代化を促す彼らの役割に根ざしていた。規模の利益、

職場の合理化、職能の専門化、高速で統合的な物流とコミュニケーションに 基づく生産効率重視の組織経済は、消費者の商品購入にも「急速な流れ」を 求めていた。広告制作者はそのプロセスを促す専門家だったのだ。1920年代 に入り、ビジネス界のリーダーたちが過剰生産の危険性を心配し始めると、

たゆまぬ進歩の擁護者を任じる広告業者に寄せられる尊敬が、次第に増して いった。

 1920年代には新たな産業が目白押しに現われた。この時代の魅惑産業――

自動車、ラジオ、化学製品、映画、薬品、電気冷蔵庫――のほとんどすべて が、ジョージ・モウリー曰いわくの「消費者と向き合った」関係を築いていた。ジェ ネラルエレクトリックやウェスティングハウスのようにかつては他社への設 備供給を主要業務としていた巨大企業が、製品を個人に直接売るようになっ

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た。大企業と大衆の間に新たに生まれたこの動的関係の接点という戦略的位 置こそが、広告業者の特別な近代性を象徴するように思われた。

 消費者の抵抗による摩擦をなくし、全国市場への商品流通を加速させるた めに広告主たちが頼ったのは、近代化のあらゆる特徴を徹底して実現すると いう手段だった。アメリカを世界一の近代社会に押し上げたのは、巨大な非 個人市場の存在だった。彼らはその巨大市場の座長として、効率化、専門化、

合理化をさらに押し進めた。より多くの製品に関するより多くの情報が市場 の合理化をさらに推進する。そうなれば「通商ルートの無駄や損失」はなく なるだろう。より多くのブランドが全国で認知されれば、買い手は選択の幅 が広がって喜ぶ。消費者から選ばれた最良の企業は売り上げを伸ばし、さら に大規模な増産を行える。そうすると商品の値段が下がり、結果として全員 が生活水準向上の機会を得ることになるのだ。これが彼らの主張だった。

 こうして広告主たちは近代社会の複雑さと相互依存性を祝い、市場の合理 化と潤滑化を進めるとともに、市場機能をより確実に掌握しようと努めた。

工業化が一定の成熟を遂げた今、経済システムの中でもっとも予測困難で破 壊的な要素は消費者だった。もし広告業者が彼らを誘導することができれば、

すなわち彼らを、不特定多数向けの製品で己の欲求を満たし、新製品を熱狂 的に求める、予測可能な集団へと教育することができるならば、近代ビジネ スシステムの合理性と躍動性がさらに強化されるはずだった。

テンポを上げる

 1920年代および30年代の広告界のリーダーたちにとって、近代の福音をわ ざわざ出しゃばって説く必要はなかった。もし近代社会が都会的だというの なら、広告界の人間はまさに都会人の精髄だった。もし近代性の意味が若々 しさ、動きやすさ、楽観主義、多様性と速い変化への順応力だとすれば、彼 らのほとんどはそうした資質を自画像の中にたちまち見いだした。コピーラ イターのA. B. カーソンが、ジョン・スミスという「この忙しい共和国の典 型的市民」の1日を同僚に描いて聞かせたとき、近代のテンポに乗った人間 のモデルとして彼が本能的に選んだ人間は、広告マンだった。

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 ドカーン! バーン! ガチャガチャ、ガッチャーン! 現代のテンポを語る のなら、ジョン・スミスがよく知っている。毎日毎日それは彼の脳みそ、血、魂 の中でさえ、ブンブン回り続けている。

 目覚まし時計に叩き起こされ、ジョンは大急ぎでひげを剃る。8分間で朝食を 丸呑みにし、鉄道か路面電車に乗ろうと駆け出す。職場に向かう途中、彼の目は 新聞紙面をさまよいながらスポーツ欄、漫画、政治のまやかし記事、密造酒をめ ぐる殺人事件の愉快な顛末などを次々とあさっていく。

 8時から12時まで摩天楼の事務机で背を丸め、タイプライターの音、電話のベ ル、その他ひっきりなしに響く20世紀商業の鼓動に囲まれて仕事と取っ組み合

う。1時間だけ外に出ると手早く昼食をとり、煙草を2・3服。そして大通りを気どっ

て歩く美女をうっとり眺める。1時から5時まで再び騒々しい退屈仕事との格闘。

それから再び通りに出て、押し寄せる人波に揉まれる。

 ガチャーン、ドカーン、ガラガラ、ワーッ! ブブーッ!ブブーッ!ブブーッ!

 交差点はどこもかしこも交通渋滞だ! 押し合う群衆で路面は唸りを上げて いる! 冒険とロマンのぞくぞくする感覚が空気を満たしている! スピード、

欲望、興奮――1日の終わりに生まれる自由の幻想! たそがれ時の街灯の光――

「燃える心のクララ・ボウ」! 号外!号外!――「酒の密売人が恋人の蓮フ ラ ッ パ ーっ葉娘 を殺す」! ガタンゴトン、ガタンゴトン――ジョン・スミスは吊革につかまり、

最終版の記事を流し読みながら家路につく。

 カーソンの描写は、当時のコピーライターたちの自画像に共通した雰囲気 をみごとに捉えている。それらのすべてが目まぐるしい生活ペースと激しい 競争のことを語っていたが、「騒々しい退屈仕事」や「押し合う群衆」など の表現とは逆に、彼らは近代のテンポを熱烈に歓迎したのだった。都市生活 の急激なペースは、仕事のテンポにぴったり合っていた。都市の複雑さと多 様性は、新しい「切り口」やアイデアのための刺激を提供した。彼らは己の 世コスモポリタニズム

界主義を誇り、また伝統的道徳や処世訓からの独立と、流行のどんな「洗 練」をも受け入れる能力についても大いに誇った。

 1920年代の広告界のリーダーたちは、変化の兆しに対する油断なさと、彼 らの知識なしには時代の嗜好を理解できないと顧客に思わせるその迫力にお

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いて、まさに超高速で変わる新社会の先触れとなっていた。「何という時代だ。

写真がラジオから流れてくる。機械が考える。光線が濃霧を切り裂く ……

自動販売機がセールスマンをお払い箱にする …… 近代の驚異を数え上げれ ばきりがない」と述べて、『アドヴァタイジング&セリング』誌の記者は驚 嘆した。また、あるコピーライターは、あらゆるものが「手っ取り早さ」を 求められていることを見て取った。「喫茶カウンターでの手っ取り早い昼食

…… 手っ取り早い調理法 …… 手っ取り早く読めるタブロイド新聞 ……

ニュースの手っ取り早い要約 …… 手っ取り早く読める小説 …… 手っ取り早 く乾く家具用ペンキ ……手っ取り早く吸える紙巻タバコ …… 手っ取り早い 応対のガソリンスタンド。」 一方、ロバート・アップデグラフ(1920年代の

『アドヴァタイジング&セリング』誌にもっとも多く引用された記事の筆者)

は、国民の生活に「乱水流」を生じさせたアメリカの「新たなテンポ」につ いて、以下のように警告した。次の瞬間に何が大衆の熱狂的歓迎を喚起し、

何が顧みられなくなるのか、誰にも予言できない。人々は、「生活の潮流」

が自分を追い越し、隣人が自分を置き去りにしていくのではないかと悩んで いる。そのためにみな、「より手っ取り早く新しい考えをとり入れ、より手っ 取り早く新製品や新サービスを試すようになったが、それらを捨てるのもま た、ずっと手っ取り早くなった。」 一方、広告代理店社長のアーネスト・エ ルモ・コーキンズは、広告は「製造業者が迅速に照準を合わせ直せる唯一の 手段」であると警告した。

 広告業者とメディアが企業家の大殺到をたくらみ、「新しいテンポ」を煽っ たのは確かだが、新しい生活ペースという認識は、単に広告界の誇張という だけではなかった。すでに過去1世紀以上にわたり、アメリカ人は社会変化 の加速を慢性的に自覚していたが、1920年代にはそれが新たな強迫観念とし て一挙に襲いかかった。どこを見回しても驚くべき技術革新があり、日々の 生活は社会変化の破壊的衝撃にさらされた。全国に延びた真新しいハイウェ イ網は、今や世の中が自動車のスピードで動いていることを視覚的に象徴し た。突如として国中の都市に、摩天楼の輪スカイライン郭線と環状の郊外が出現した。工 業生産の倍増に伴い、電気設備と生産ラインがまたたく間に進化し、すべて がまったく新しい規模で動いているように思われた。社会学者のリンド夫妻

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が、「ほとんどのコミュニティに共通した特徴をもつ」見本として、インディ アナ州マンシー市をモデルにつくった架空の町「ミドルタウン」では、最も 大きな工場の雇用者数が一昔前には約200人だったのに較べ、今では1000人 から2000人に増えていた。管理職の技術訓練によって職業階級制が複雑にな り、経営者はもはや自分が雇った労働者のことを知らなくなっていた。「個 人的」要素の希薄な大規模チェーンストアが、次々と個人商店に取って代わっ ていた。小さなマンシー市にも1924年から25年にかけての10ヶ月間に、4軒 のチェーンストアが新たに進出した。消費者信クレジット用という新しい販売形式が経 済活動を加速させていた。1920年代の終わりまでにアメリカ人は、自動車、

ラジオ、家具などの60パーセント以上を分割払い方式で買うようになってい た。

 技術革新と経済活動の新たなペースが生みだす陽気さには、社会の無秩序 に対する強い不安がつきまとっていた。それは、禁酒法、移民受け入れ制限、

「新しい女」や「燃える若者」への警戒という形で象徴的に現わされた。ジャ ズ、ボブカットの髪、化粧品、尻 ポケット用酒瓶、性的率直さなどのすべて が伝統的な道徳規範をあざ笑い、家族の安定と父親の権威を脅かすように思 われた。映画とラジオという新たなメディアがアメリカ文化を国中に浸透さ せ、国家の幻をつくり上げていたが、その民は流行にたやすく振り回される 大衆だった。

 広告制作者は、新たなテンポに興奮し戸惑う大衆の気持ちを巧みに利用し、

己の目的のためにそれを増幅させた。彼らは、広告の威力と地位を高める経 済の力を歓迎した。新時代の生活ペースと組織規模が不安とディレンマを生 みだしていたが、彼らは顧客の製品をその解決手段に変える戦略を模索した。

まさにこの過程で、アメリカの広告は様式と内容の両面で成熟し、今日われ われが疑いなく近代的だと認める性質を徐々に獲得していった。

実用的誇張と融通性

 1920年代のアメリカ実業界の先鋒という地位を確立するために、広告は何 よりまず、経済面での実用的価値を証明しなければならなかった。すでに長 年にわたり、鉄道から朝食にいたるさまざまな領域でこれは行われていたこ

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とではあったが、1920年代になると、はるかに広範な製品の販売や大義の浸 透に全国広告が利用され、印象的な成功を収めたのだった。

 広告を単なる製品販売以上の目的に利用しはじめる大企業は、第1次大戦 以前にも、すでにあった。例えばアメリカ電話電信会社(AT&T)は1908年 に長期の企業広告キャンペーンを開始し、私企業による市場独占の利点を訴 えた。キャンペーンは電話利用のエチケットを大衆に教えると同時に、自社 の交換手には大衆に対する責任を自覚させた。他にも公益企業や鉄道会社な どが、より限定的な政治目的で同様の広告を行った。また精肉業者は、政府 の調査とトラスト禁止法の脅威から身を護るために広告を利用した。こうし て、広告は製品を売るだけでなく世論に影響を与えることもできるのだ、と いう考えが次第に定着していった。

 だが広告の主要機能はあくまで製品の売り込みであり、この分野で第1次 大戦直前から驚くべき柔軟性を示しはじめた。大規模な広告キャンペーンと ともに発売された新型家電製品はウナギ登りに売上げを伸ばし、それがキャ ンペーン効果の証明だと考えられた。プロクター&ギャンブル社はクリスコ

(訳注:菓子作り用ショートニング)の発売に300万ドルかけて段階的キャン ペーンを展開し、新製品に対する計画的プロモーションの威力を業界に教え た。旧製品の販売促進においても、広告はその筋力を見せつけた。織物業界 は製品に商標やラベルをつけ、全国広告を通じてブランド忠ロイヤルティ誠心を追求しは じめた。カリフォルニア果実生産者交易会社(サンキスト)は、生鮮食品に さえブランド広告が可能なことを示した。こうして1920年代初頭までに、ク ルミから石炭にいたるまで、さまざまな製品が巧みに商標登録され、全国に 広告された。1909年には国民棺ひつぎ会社が雑誌キャンペーンを行うという特異 な例も現われはしたが、それ以降はほとんどの製品が広告の守備範囲に納 まった。

 単体で購入されることのほとんどない製品までが、消費者の意識内に居場 所を求めはじめた。ティムケン・ローラーベアリング会社とティムケン・デ トロイト車軸会社が、1912年にその開拓者となった。車軸やボールベアリン グは消費者が購入する自動車や機械の構成部品であり、彼らがそれだけを買 うことはまずない。だがティムケンは、全国的名声を築くことにより自動車

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メーカーの忠誠心を自社部品に定着させようと望んだ。こうして1920年代初 頭には、シート表皮からドアハンドルにいたる半ダースほどの部品メーカー が、『サタデーイヴニングポスト』誌の高価な全ページ枠を買うようになっ ていた。これは、広告に対する彼らの信頼表明にほかならなかった。

 第1次大戦はアメリカの広告に、その威力と柔軟性を示す新たな機会を与 えた。業界のリーダーたちは国家戦時諮問委員会に進んで加入し、政府を助 けた。彼らは政府の広報プログラム(ジョージ・クリールを長とする民衆情 報委員会の広告部門)に加わり、戦時公債の販売、陸海軍の新兵募集、労働 者の士気高揚、食料および各種資源の節約などで感動的なキャンペーンを展 開した。彼らの宣伝は情緒の力にあふれ、とりわけ戦時公債のキャンペーン は大成功を収めた。J. ウォルター・トンプソン社が分析したように、戦争は 広告人に愛国的奉仕の機会を与えただけでなく、有力者たちに広告の本質と 重要性を示す機会ともなった。『プリンターズインク』誌は後に、広告がこ の好機を最大限に利用したと結論した。戦時広告が示したのは、「広告は全 国民の心を揺さぶることも、生活習慣を変えさせることも、どんな政策や考 えを信じ込ませることもできる」ということだった。「そればかりじゃない。

愛国的キャンペーンのおかげで、広告にはどんな表面的仕上げも、またどん なアプローチも可能だという考えが、人々の間に定着したんだ」と、キャデ ラック広告の天才、セオドア・マクマナスは回顧した。

 広告支出は戦時超過利潤税の定義で非課税事業費とされていたため、企業 は広告予算の拡大を試みた。代理店社長でもあった広告史研究家フランク・

プレスブリーによれば、1921年末まで続くこの税政策は、「スペース利用の 新たな基準を確立」した。小心者だった広告主が、にわかに全面広告を出し はじめた。彼らはそうした「支配」がもたらす自己満足を、売り上げ高に劣 らず好んだ。1919年と20年に、広告取引の金額は過去の記録をことごとく破っ た。1921年の小規模な景気後退の後、経済は好況に沸いた。ほとんどの国民 の実収入は増加し、割賦販売が勢いを増した。『プリンターズインク』誌は あるエッセイの副題で、1922年という年を「流通時代の夜明け」と呼び、広 告が中枢的役割をはたす時代の到来を告げた。

 広告がその実効力の証明に大成功を収めたことは、統計の膨大な量が示し

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ていた。ダニエル・ポープは過去の不正確な統計を修正し、アメリカ合衆国 の広告総額を、1914年の6億8200万ドルから、19年の14億900万ドルを経て、

29年には29億8700万ドルに上昇したと見積もった。彼によれば、流通総経費 に広告支出が占めた割合は、1919年の8パーセントから、29年には14パーセ ントに上がった。新勢力の全国広告主は、広告予算を幾何級数的に増やした。

例えばマックスウェルハウス・コーヒーは、1921年から27年までの期間だけ でも、雑誌広告の予算を1万9955ドルから50万9000ドルに拡大させた。また、

配管設備のクレインカンパニーは、1921年にわずか7万9000ドルだった広告 予算を、25年には43万6000ドルに引き上げた。事業の急成長は、代理店社員 の給料や、画家や写真家の報酬を、前例のないほど底上げした。ある批評家 が述べたように、広告制作の支出は「天井にぶつかり、それを突き破って天 に舞い上がった。」

 その間、広告事業は徐々に統合され、複雑化していった。第1次大戦終結 から1年以内に、バートン・ダースティン&オズボーン、およびニーウェル・

エメットという、強力な新興代理店2社がニューヨーク市に出現した。ニュー ヨーク最大の代理店であるJ. ウォルター・トンプソン社は、大戦後2年以内 に従業員を177人から283人に増やした。それまでの10年間は、フィラデルフィ アと特にシカゴが全国広告の覇権をニューヨークと争い、1926年になっても 最大手3社中、2社が本部をニューヨーク以外の場所──N. W. エヤー社が フィラデルフィア、ロード&トマス社がシカゴ──に置いていた。だがここ に至り、両社ともニューヨークに支店を出した。1923年から「マディソン 街アベニュー

」が広告業界の代名詞として通用しはじめ、マンハッタンのアップタウン への専門家たちの集中現象を確実に反映するようになった。

 1920年代が進行するにつれ、ラジオ広告の興隆と頻発する企業合併の結果、

より多くの企業がウォール街の影響下に置かれるとともに、全国広告の本拠 地のニューヨーク集中がますます進んだ。20年代末には、パーク街247番地、

マディソン街285番地、および42丁ストリート目とレキシントン街の交差点脇にあるグ レイバービルディングが、活発な広告三角地帯の頂点となった。代理店と顧 客の数は増加の一途をたどり、代理店相互間における顧客や社員の移動も激 化した。1926年6月、『アドヴァタイジング&セリング』誌は、読者への新た

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なサービスを宣言したが、それは、優秀代理店と社員移動を早見表で示した ニュースダイジェスト欄の新設だった。

 1926年には、広告の影響力と成熟を示すもう1つの重要な証拠が現われた。

広告の見本市ともいえる全米最大の週刊誌、『サタデーイヴニングポスト』が、

記事索引と並んで広告主索引を毎号、掲載しはじめたのだ。同誌はその年に はじめて、4色刷広告を1ページ当たり1万1000ドルの料金で提供した。すで に雑誌や新聞は広告で膨れ上がっていた。1926年には1冊の『サタデーイヴ ニングポスト』が、しばしば200ページを超えていた。『レディーズホーム ジャーナル』の1926年4月号は、これまでに出版された最大の号だが、全270 ページ中、162ページを広告が占めていた。全国雑誌に掲載される広告は、

1916年からの10年間で600パーセント増加し、新聞広告は倍増した。広告の 力に対して実業界が示した信頼の証に、国民はいやでも気づかざるを得な かった。産業界首脳陣に加え、労働長官までもが景気循環の終わりを宣言し、

「広告の大胆な適用が景気後退を中和し、今後の不況を防止するだろう」と 主張した。

 1927年初頭、広告の経済的威力を示す最大の事件が起こった。もっとも頑 強な抵抗者だったヘンリー・フォードが降伏したのだ。1924年から25年にか けて行った臨時の大キャンペーンを除けば、フォードは広告をほとんど拒否 してきた。広告を究極の経済力だと考える信奉者にとって、彼の成功は脇腹 に刺さった棘だった。1926年半ばに彼は広告予算をほぼすべて削除し、激昂 しながら、「全部削れ。そんなものは経済の無駄だ。私はそんなものを1度だっ て信用したことはない」と叫んだ。彼の言動に苦汁を飲まされた業界の出版 関係者は、その翌年、フォード社が新しいA型の販売に大規模な広告キャン ペーンを展開すると発表したとき、大喝采した。最後の巨大な不信心者が帰 依した瞬間だった。

バーナム的イメージの払拭

 1920年代の広告界のリーダーたちは、広告の経済的威力が広く認められる だけでは満足しなかった。もし広告が自らを、世界を動かす「アルキメデス の梃」であると証明したのならば、その梃子の力は広告業の地位向上にも

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利用できるだろうと思われた。19世紀アメリカの広告では、怪しげな特許薬 が幅をきかせていた。その連想が今でも尾を引き、広告マンのイメージは相 変わらず祭りの客引きやヘビ油売り、さらにはP. T. バーナムのような騒々し いインチキ興業主の記憶と混同されていた。彼らは、己の技巧に向けられる 疑惑の目に苛立っていた。広告を科学だと主張した第1次大戦前の運動や 1912年の「真実広告」運動など、広告の専門職化と敬意獲得をめざした過去 の運動は、このイメージの問題に対する業界リーダーたちの深い懸念を如実 に物語っていた。

 第1次大戦中の民衆情報委員会(CPI)による貢献が、広告人に新たな名声 をもたらした。CPI議長のジョージ・クリールは、この貢献で広告人が新た な威信を獲得したと結論した。自由公債の販売、兵士募集、市民の士気高揚 などでの成功を通して、彼らは広告が人々に新しい考えを吹き込み、愛国的 行動を呼び起こせることを国民に確信させた。イギリスでも同様の戦争貢献 が、広告人の地位を大きく引き上げていた。こうした戦時下の献身により、

広告は単に商業の道具であるばかりでなく、道徳や教育という「利他的な社 会的目標」に仕える偉大な力にもなることが証明された。

 戦時中の地位向上に乗じ、広告界のリーダーたちは、ことあるごとにハイ カルチャーや「政財界」との関係を強調しはじめた。1921年にニューヨーク のアートディレクターズ・クラブは、芸術に対する広告の貢献度を示すため に展示会を開始した。1924年には「ハーバード・コネクション」が確立され、

ハーバード経営大学院から優れた広告表現に対して賞が授与された。こうし て、1920年代中期までに代理店各社は、一流のイラストレーターや写真家を 引き寄せるだけの魅力を獲得し、マックスフィールド・パリッシュ、ノーマ ン・ロックウェル、ウォルター・ブリッグズ、エドワード・スタイケン、ア ントン・ブルエル、バーニス・アボット、フランク・ライエンデッカーなど が集まった。彼らは雑誌の表紙やスタジオでの仕事から引き抜かれ、広告ペー ジの威信と魅力に貢献することとなった。メトロポリタン美術館のような文 化施設までが専門の連絡係を置き、資財提供による支援を申し出た。代理店 は威厳と高潔さを誇示しながら、E. R. スクイブ社(訳注:サッカリンで有 名な大手医薬品製造会社)、ジェネラルモーターズ社、ジェネラルエレクト

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リック社、メトロポリタン生命保険会社などの企業広告キャンペーンを展開 した。ジェネラルエレクトリックとジェネラルモーターズの広告で一躍成功 した新興代理店の経営者、ブルース・バートンが、『誰も知らない男』──

この中で彼は、イエスを広告精神に満ちたビジネスマンの原型として描いた

──を書き、ノンフィクション部門の1926年度ベストセラーを取ったとき、

広告は、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いを誇り、その輝きが曇る日はないように 思われた。

 広告が勝ち得た新たな影響力と名声は、1926年秋、全米広告代理店協会の 年次総会に招かれたカルヴィン・クーリッジ大統領の講演で頂点に達した。

リーダーたちはすでに10年以上にわたり、広告を文明化と近代化の推進力と して承認するよう求め続けていた。彼らは歯磨きの使い方、上品な服装基準、

美を愛すること、「精神と社会的品位の陶冶」など、生活の全領域で消費者 を教育し、アメリカの近代産業システムを市民文化向上に役立たせてきた。

クーリッジ大統領は近代社会に対する彼らの貢献を、この上なく感動的に定 義した。もし「通商の生命」が昔は競争であったとするなら、今日その役割 をはたしているのは広告である、と大統領は述べた。「広告人は人間精神を 鋳造する」のであり、広告業は「商業世界に霊感と高貴さを与えるという大 きな責任」を負っているのだ、と広告作家もおよばぬ表現で大統領は彼らの 職業を神聖化し、最後に、「人類の復興と救済という、かの偉大な御み わ ざ業の一 部なのです」と定義して演説を結んだ。

広告が「近代的」になる

 経済促進力としての広告を「近代化」させ、かつ衛生、服装、スタイルな どへの意識を通して新たな都市習慣を助長する広告を「近代化」したものと、

広告の内容と技術を「近代化」したものは、まったく別だった。経済促進力 としての広告は効果的なマスコミュニケーションであり、巨大な非個人市場 の合理化と潤滑化に貢献した。広告は、互いに他人である無数の者同士の商 品とサービスの交換を、全国規模(ときには国際規模)で促進した。その結 果として生じた巨大な経済力と効率的専門化が、アメリカの生活水準を向上 させたのだ。クーリッジ大統領が「人類の復興と救済」と語ったとき、そこ

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には明らかにこうした背景がある。広告はまた、大衆を刺激し、「新しいも のはよいものだ」と信じ込ませた。これは、J. H. プラムによれば近代性の 受容にもっとも重要な姿勢であり、同時に、20世紀広告界のリーダーたちが 大量生産と経済成長に不可欠と見なした考え方だった。それゆえに広告は、

「近代化」という語によって表現される「近代」の概念に、ぴったり当ては まるのだ。

 しかしながら、「近代」には、「現代、またはごく近い過去の特性」という 意味もある。1920年代および30年代においても、それ以前の時代と同様に、「現 代の特性」である人々の態度、ファッション、芸術表現、大衆心理の変化な どは、経済や産業の近代化に寄与する一方で、ともすればそれと矛盾した。

広告の「近代性」──広告にとって「現代の特性」──はしばしば、効率と 合理性が支配する大量生産・大量流通の経済下では満たされない願望にあえ て応じる様式とアピールという形で現われた。こうしてアメリカの広告は、

経済的マスコミュニケーションとしての本質を自ら乗り越え、あるいはそれ を否定し、主観性と「個人的」な声を獲得することによって、内容的にも技 巧的にも名実ともに「近代化」したのだ。近代性の使徒を自任する一方で、

近代の圧倒的非人格性への緩衝装置となることで近代の複雑さに大衆を順化 させようと画策するという、相矛盾する役割を引き受けるにいたって、1920 年代および30年代のアメリカ広告は、今日、われわれが明らかに近代的だと 認める特質を帯びていった。

 20世紀の最初の20年間に広告の内容と様式は、徐々にではあるが確かに変 化していた。古い様式や技巧は完全には捨てられず、ときおり復活すること もあったが、変化の主流は見逃しようがなかった。世紀初頭の広告主は

ジ ン グ ル復語やポスター的表示によって、単純にブランドの周知効果を追求した。

その後、コピーライターが「活字による販売術」に頼り、韻文やスローガン の代わりに理由と議論を詰め込んだ強ハ ー ド セ ル硬販売型のコピーを武器とするように なった。ダニエル・ポープやジャクソン・リアーズが考察するように、必ず しもこれらの理由と議論が「理性的」である必要はなかった。コピーライター や広告心理学者はすでに、消費者が論理よりも「非理性的な憧れ」から行動 するという結論に達していた。当時、新登場した「そリ ー ズ ン ・ ホ ワ イ

の理由は」型の説得法

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は、玄関から1歩中に入り、事実や情緒を満載した熱弁で客の抵抗心に打ち 勝とうとするセールスマンがモデルだった。読者を無名の群衆と考えるので はなく、自分が1人の客に製品を売っている場面を想像すべきだ、とコピー ライターたちは互いに忠告し合った。冗長な議論になりがちなコピーを何と か消費者に読ませるため、セールスマンとしての広告主は、想像力と「人間 的興味」を駆使して消費者の情緒に訴えるよう督励された。

 1914年頃には、製品より恩恵を売ることの利点を認める広告主が現われは じめた。彼らは照明設備の代わりに明るさを、自動車の代わりに威信を、石 鹸の代わりにセックスアピールを売った。(ウッドベリー社の「触れたくな る肌」という、この分野の先駆的スローガンが最初に現われたのは、1911年 のことだった。) だが大多数の広告は、相変わらず製品中心につくられてい た。子供や動物や商業キャラクターなどの魅力的なイラストによって人間的 興味をかき立てる例は、ごくまれだった。1915-16年の広告を同じ製品の10 年後の広告と比較すれば、強烈な対比が認められる。第1次大戦の直前から 心理学が強調されていたにもかかわらず、この時代の広告は主に製品そのも のを取り上げ、それを所有することによる心理的副産物に注目した例はほと んどなかった。

 1920年代初頭になっても、ほとんどの広告は相変わらず宣言的性格を保っ ていた。蓄音機の音楽に合わせて踊ったり、車を走らせたりして製品を楽し む人々の姿を示すこともときにはあったが、仲間うちの会話、家族の団らん、

社会的勝利や屈辱の瞬間などを克明に描いたドラマによって読者の情緒的関 与を誘うようなことは、めったになかった。1920年代中期以降の主流様式と 比較すると、これらの広告がより多く提供したのは、希望や不安に関する主 観的情報よりも、製品に関する客観的情報だった。

 『プリンターズインク』誌は1920年代の広告の新しさを、「工場的視点から 消費者心理に対する関心へ」の推移であり、「客観性から主観性へ」、「説明 的な製品データから究極の購買動機に関する会話へ」の推移だったと定義し た。一方、リチャード・ポレーは、消費による恩恵の強調、製品を使ってい る消費者の描写、「情緒的」コピースタイルなどへの変化を、「生産・販売指 向」から「マーケティング指向」への推移だと論じた。広告が「参加型」の

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小話やイラストを利用する度合いが次第に高まった。こうした変化は、1920 年代中期にはすでに明白だった。「あなたは自分がどのタイプなのか、本当 にわかっていますか?」、「寝室のドアから漏れるむせび泣き」、「そして彼は、

なぜ彼女がノーと言ったか考えた」、「しーっ、彼が来るわよ」、などの見出 しはその好例だった。潜在的顧客としての読者に主人公の役割を代行させる という広告主のもくろみによって、製品よりも人間がイラストの中心となっ た。「この小さな現代ドラマの主役におなりなさい」という1928年の見出しは、

多くの広告主が中に織り込もうとした消費者参加の誘惑を、あからさまに表 現したにすぎない。

 広告主は、誘導によって読者に「ある体験をした4 4 4 4 4 4 4と情緒的に感じさせる ことが有利だと認めるようになった。その体験とは、「うたい文句の正しさ を証明するため、広告主によって考案された体験」だった。一方、「人間的 尺度」で製品を理解したいという消費者側の訴えは、商品の販売結果、手紙、

回収クーポンなどを通して広告主に届けられた。この訴えは、膨張する大衆 社会の中で個人的な自律能力を確信したいという、消費者の切実な願いだっ た。

 アメリカ人は伝統的に近代化を喜び、繁栄や便利さ、快適さ、高い生活ペー スなどをもたらす新技術を祝福してきた。だが今や多くの人々は、技術的進 歩が生みだす新たな社会生活や経済生活を不安の中でおくっていた。新しい 輸送手段とコミュニケーションが社会を襲ったとき、人々の対応には興奮と 疑惑の両方が入り混じっていた。ロバート・ウィーブが考察するように、強 い外力が生活への支配を増してきたと感じたとき、人々は、「非人格的な世 界に己の生活を調和させるために、その巨大な環境と個人的に関わる方法を 手探りで求めた」のだった。最新技術に伴う巨大な産業組織は、個人の自律 感を容易に縮減した。ダニエル・ベルは、「巨大組織が支配する新世界──

協調と官僚主義の世界──は、人間がしばしば物として扱われる世界だった。

なぜなら人間にとって、人より物との協調の方がずっと容易だからだ」と指 摘している。こうして合理化と非個性化が人々の生活領域を浸食し、満足感 の獲得はいっそう困難になっていった。19世紀末から「進歩の時代」である 20世紀の初頭にかけて、多くのアメリカ人は、ますます複雑で大規模になっ

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ていく社会への不安を露わにした。それは、津波のような移民の無制限受け 入れに対する抗議、巨大企業に対する独占禁止の攻撃、政治改革から精神療 法にいたるあらゆる手段による自律達成と人格尊重の保証要求などの形で具 体化した。

 蔓延する大企業不信に第1次大戦が終止符を打ち、戦後立法が移民の殺到 に歯止めをかけた。だが1920年代における変化の加速は、新たな複雑さに順 応できず「群衆の中に埋没してしまう」のではないか、という人々の恐怖を あおった。巨大な官僚機構、移動性、匿名的で断片的な関係へと向かう傾向 は、さらに度合いを増していた。すでに19世紀末の時点で、経済関係や社会 関係が網の目のようにもつれ、共同体、倫理、宗教などの意味基盤が信頼を 失っていたため、多くのアメリカ人は堅固な「自我の感覚」をもつことがで きず、漂流していた。多くの国民がアイデンティティや「自己実現」のヒン トと助言を、もっとも手近で便利なものから得ようとした。それはマスメディ アだった。急速に都市化され、専門化され、相互依存度を増す複雑な生活様 式が、叶えられない欲求の残留物を生みだしていることを、広告主たちは徐々 に悟っていった。さまざまな人間関係の中に生じた新たな真空状態の存在を 知ると、彼らは名乗りを上げ、近代がつくり出した不満に対する解決法とし て己の製品を提供した。それゆえ、何が広告を「近代的」にしたのかといえ ば、皮肉なことにそれは、近代生活の徹底した合理性と官僚性に抵抗し、そ れを不完全にしか受け入れられない大衆への共感を示す技巧の発見だった。

それを行った広告主たちは、まさしく「近代性の使徒」だったのだ。

 広告制作者の中には、この新しい戦略について、人間心理をコピーライター が理解しはじめた結果だと単純に考える者もいた。だが大方の者は、主観的 で個人的な「参加型」技巧が成功したのは、近代の規模とテンポに対する大 衆の曖昧な反応の結果だと理解した。J. ウォルター・トンプソン社の顧客部 長ウィリアム・エスティは、1930年の社内会議で、劣等コンプレックスが「広 告の貴重な武器」になったと述べ、その原因は「この規格化された時代が人々 に劣等感を抱かせているという事実」にあるのではないか、と問うた。

 新しいコピースタイルの広告は、人生における苦闘の例を描いた。それは、

己の願望が巨大組織とその非人格的判断に左右されることを知っている人々

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に強く訴えるよう、緻密に計算された物語だった。この物語は、社会で仕事 や目標達成に奮闘するある人物という具合に、典型的庶民の人生を描いてい た。主人公――消費者の代役――が試練に打ち勝てるか否かを決定するのは、

客観テストや非人格的裁定だった。無関心で批判的な人々が、仕事、人望、

地位、美しさ、愛などの競争に主人公が勝つかどうかを決めた。「彼ら」は 主人公の歯や息、胆力、バスルーム設備、銀食器、自動車ワックスが「試験 に合格する」かどうかを、硬直した基準だけで決めるのであり、そこに個人 的好意や欠点に対する同情が入る余地は微塵もなかった。こうして消費者が 非人格的な試練に立ち向かうという筋書きをつくっておき、広告主は直ちに 消費者の味方をした。彼はコーチや相談相手として消費者に助言を与え、いっ しょに外部世界の試練と戦おうと励ましたのだった。

消費者と手を取り合って

 コピーライターはセールスマンから相談相手に進化するにつれ、この新た な「手を取り合って」型の説得の別の利点に気づきはじめた。どんなに優し い口調でも、議論というものは分極作用を起こしがちであり、そのために執 拗な説得は購買者の抵抗にあった。理性的議論への過度の依存は、読者を反 理性的感情へと導いた。反対に、助言や「個人指導」は、対決すべき仕事や 問題に対して、消費者と同じ側4 4 4に広告主を立たせた。増大する社会の圧力と 複雑さに消費者が不安を抱いたとき、広告主は、どうすれば近代世界の非人 格的判断に打ち勝てるかという親切な助言を携え、そこに割って入った。

 1920年代の進行に伴って顕著となった「脅迫コピー」は、この「手を取り 合って」型の変形にすぎなかった。業界用語で「ネガティヴ・アピール」と 呼ばれたこの脅迫コピーは、社会的失敗や非難の物語を劇的に演出すること で消費者に衝撃を与え、新たな意識に導くことを目的とした。仕事はなくな り、恋は破れ、結婚は危機に瀕する。ばい菌が攻め立て、車はスリップして 制御できず、隣人は咎めるような視線を投げかける。どの例でも製品が名乗 りを上げるが、それは読者と議論するためでなく、友として救いの手を差し のべるためだ。脅迫コピーは1つの宇宙を提示した。それは、消費者の運命 が外部の冷酷な力と無情な観察者の手に握られている世界であり、また、無

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慈悲な厳格さに支配された規格の世界だった。それと対照的に、広告主は優 しく思いやりのある、本当に必要な友人なのだった。

 この友人は、しだいに名前で知られるようになった。それはベティ・クロッ カー(訳注:ジェネラル・ミルズ社の架空の宣伝用女性)だったり、メアリ・

ヘイル・マーティン(訳注:リビー食品の架空の宣伝用女性)だったり、エ レン・バックランド看護師(訳注:セルコットン社の架空の宣伝用女性)だっ たり、その他多くの(たいていは架空の)助言者や相談相手だったりしたが、

彼らは会社の広告に「自筆でサイン」した。場合によってその友人は、社交 界の名士や映画スターなど、人々が「よく知っている」人物だったりもした。

人々はおなじみの人物の姿を見ることで、まるで本人から助言をもらうよう な感覚を抱いた。

 登場する推薦者は、新たなリアリズムを獲得した。ほんの数年前までの伝 統的な人物像──ステンシル印刷された、いかにも典型的な医者、ビジネス マン、薬局店主や主婦など──は姿を消しつつある、と『プリンターズインク』

誌の美術リポーターは1926年に述べた。写真家がプロのモデルから目をそら し、画家が洗練された表現法を完成させたので、広告の中の人間が商業的に 見えなくなってきた。今や「おなじみの顔があなたに微笑みかけ、昔からの 友が会釈する……。靴の広告に出てくる幼い少女は、郊外に住む友人の娘に そっくりだ。」 広告に描かれる顔は、平凡で親しみやすくなっただけではな かった。それらはまた、読者に「いっしょに微笑ませ、眉をひそめさせ、耐 えさせる」力を獲得しつつあった。1930年代初頭にある批評家は、アングエ ンティン(訳注:外傷の応急処置用軟膏)の広告を絶賛し、「表現研究があ まりに 魅力的 なので、読者は思わずそれに圧倒されてしまう」と評価し た。

 コピーはまた、平凡な「実在の人物」をつくり出し、助言を擬人化した。

プロクター&ギャンブル社による洗濯石けんの広告は、「P&G家庭訪問」シ リーズを、うち解けた話し口調で伝えた。第3回のP&G家庭では、「ミセス・

ルイス」が、「おちびのドロシー」のロンパースにまつわる体験を回想した。

また、第5回のP&G家庭に登場した「ミセス・ムーア」は、友だちにアイロ ンがけのヒントを教えた。ウィリアム・エスティはこのキャンペーンの数年

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後に、名前は決定的だったと結論づけた。クーポン回収率に基づく比較テス トでは個人名を使った広告が、メッセージの内容とは無関係に、名前を使わ ない広告より必ず優秀な成績を示した。読者は個人的な接触感に飢えていた のだ。社会の移動性、世代間の断絶、近代生活の複雑さなどが、個人的助言 の届かない真空状態をつくり出していた。広告主は消費者の切実な要求に応 えるべく、己と彼らの関係を擬人化する新方法を開発したのだった。

 近代様式の広告の特徴ともいえる、主観的で個人化された「写実的」挿絵 に消費者が飢えていることを、広告制作者はどうして知ったのだろうか。商 品のパンフレットや見本につけたクーポンの回収率を詳しく調べたり、映画 やタブロイド新聞など急成長する大衆文化メディアに反映される世間の嗜好 に注目したことは、間違いない。だが何にも増して彼らは、もっとも劇的な 成功を収めた他の広告キャンペーンに注目したのだった。業界は1910年代に 人間的興味によるアプローチを試していたが、多くの広告主に争ってこの近 代様式を採用させたのは、20年代初期におけるいくつかのキャンペーンの大 成功だった。

広告制作の3つの伝説

 1920年代初頭の1年間に、売り上げの落ちていた無名の3製品に対し、大規 模な広告キャンペーンが行われた。そのいずれの製品も、20年代半ばまでに 目を見張るような売り上げ増加を達成した。どの例でも広告が成功の最大要 因だと思われたので、他の広告主たちは、それらが近代広告の内容と技術に 与える教訓について熟慮した。

 フライシュマン・イースト(訳注:フライシュマンはジン醸造でも有名な 1868年創業のイースト会社)は1920年代最初の広告伝説となったが、この製 品は、「広告が別のことを言うまでは、単なるパンを焼く材料」にすぎなかっ た。フライシュマン社はこの製品に「パンの魂」という高尚な性格を与えて いたが、それも家庭におけるパンづくりの恒常的減少という現実の前では、

売れ行き低下を止める役に立たなかった。社会の流れからは、家庭の手づく りパンが復活する望みはほとんど得られなかった。禁酒法がイーストのもう 1つの販路を大々的に破壊していた。伝統の中で特定の機能と結びついた製

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品が新たな用途で売り上げを伸ばすことなど、はたして可能なのだろうか?

フライシュマン社は1919年に、薬効的アピールを利用してその可能性追求を はじめた。

 それから1年以内に、新たな代理店となったJ. ウォルター・トンプソン社 に促され、同社の広告は、この製品をビタミンの宝庫として箱からそのまま 食べられる食品に変化させた。さらに2年後、市場にビタミン製品があふれ 出すと、フライシュマン・イーストは再び進化し、今度は天然の緩下剤となっ た。キャンペーンの一環として実施されたコンテストには、うたい文句の効 果に対する証言が多く寄せられた。代理店は受賞者153人の手紙を、「わが社 がぴったりだと考えるイラストを添えて」使用する許可を、本人たちから得 た。

 フライシュマン社の広告は、高価だが注目度の高いグラビアページに移動 した。より強いリアリズムのオーラが得られるよう、絵の代わりに写真が使 われた。そして間もなく、従来のモデル写真は、実際の推薦者の「気どらな い」写真に取って代わられた。コピーライターはフライシュマンのキャンペーン を、大衆ジャーナリズム的なタブロイド形式でつくり上げた。彼らは、複数 の写真と簡潔な一人称の証言を使うことで、最大限の人間的興味と視覚的ア ピールをそこに注入した。ときには雑誌や新聞のレイアウトの模倣があまり に完璧だったため、読者は、それが特集記事でないことに気づかず、広告を 読みふけるのだった。

 1926年にフライシュマン社は、雑誌広告主の最大手10社に入り、また、新 聞広告欄の大口購入者となった。それ以外に新たな販売努力は何もしなかっ たが、売り上げは上昇した。1926年春期の売り上げは、「気どらない一般人」

の証言が始まった1923年と較べ、130パーセント増加していた。

 売り上げ低下の危機が訪れると、トンプソン社は医者に助けを求めた。白 衣の権威をまとった医師が、近代文明の圧力と複雑さがどのように便秘を引 き起こすか説明し、「腸疲労」の防止のために半塊のイーストを1日3回食べ るよう、読者に勧めた。トンプソン社のある重役は、この新しい病気の原因 として突き止められるのは近代テンポの影響だと断じ、「今や疲労は社会の 隅々に広がっている。われわれは、それが腸にあると考えなければならない。

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ただそれだけのことだ」と述べた。代理店は、ヴィクトリア朝的エチケット を侵すという批判も顧みず、「問題がはじまる場所」という大胆な図解を可 憐な娘の写真に重ね合わせ、腸の役割を劇的に示した。読者にとってこの種 の図解は、近代社会で己が抱える問題の発生源を鮮やかに想像する助けと なったことだろう。全米医学会の激怒と医師の証言禁止という措置にもひる むことなく、トンプソン社は、今度はヨーロッパの医師に証言を求めた。発 音困難な珍しい名前、所属する病院の威信、いかめしい風貌などが、証人と しての彼らの権威を強化した。

 1920年代のフライシュマン・イーストの成功は、広告の威力を保証するよ うに思われた。この製品は、その障害の大きさにもかかわらず、大人気の治 療法となった。値段が高く味もひどかったので、脱落者が出るたびに製品の 医学的利点を再三力説して復帰させる必要があった。「それ以外では、頻繁 に買わせる必要があったことと、迅速で明瞭な4 4 4 4 4 4結果がほとんど皆無だったこ とが難点だった」と、コピーライターは回想している。こうした困難や家庭 でのパンづくりの衰退にもかかわらず、会社が売り上げを伸ばすことができ たのは、ひとえに広告のおかげだった。

 だがフライシュマン社のキャンペーン成功も、より華々しいリステリンの 物語の前では影が薄くなった。リステリン消毒剤の製造元だったランバート 製薬会社の収益は、1920年と21年の約10万ドルから27年には400万ドル以上 に急成長した。この会社が採用した様式と戦略から、それ以後の広告全体の 手法が生まれたと言っても、驚くにはあたらない。

 リステリンは1920年代に初登場した製品ではなかった。それは万能消毒剤 としてすでに数年間、あまり熱を入れずに売られていた。リステリンを広告 界の奇跡にした3人の男たち──コピーライターのミルトン・フェズリーと ゴードン・シーグローヴ、そして社長のジェラード・B. ランバート──は もともと、製品に新たな使い道を与えたというよりも、製品に対する新たな 必要性を大衆に発見させたのだった。リステリンを口内洗浄剤として1年間、

野暮で古風な「人間的興味」様式の広告によって宣伝した後、コピーライター の頭に勝利の方程式がひらめいた。絵の中の可憐な娘が、「彼にはその理由 がわからなかったの」という謎めいた題の物語を紹介する。物語の主人公は、

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出世街道を邁進する若者だ。彼は、「華やか」だが「魅力的に控えめな」理 想の少女とのたった1度のデートの後に、彼女から拒絶される。彼には人生 の勝利者となる美点がすべて備わっているように思われたが、1つだけ克服 不能な悪条件をもっていた。彼には「口臭」があったのだ。

 「口ハリトーシス臭」という言葉(古い医学事典から発掘された)には、科学的な響き

があり、それゆえ吐息の臭いに関する議論から下品さを除く作用があった。

広告は、タブロイド新聞によくある個人的興味の物語や恋愛相談欄を模倣し て、速いテンポの社会ドラマという形をとった。読者はこのドラマの中で、

社会的恥辱という悲劇の犠牲者と己を一体化させるように仕向けられた。今 や主人公は製品ではなく、登場人物の身代わりに愛や幸福や成功を失って苦 しむ、潜在的消費者としての読者だった。『プリンターズインク』誌は、ミ ルトン・フェズリーへの賛辞の中で次のように考察している。「彼は、商品 よりも人間的要素を多く扱った。彼が書いたのはビジネス的な告知宣伝とい うより、むしろ広告ドラマだ。そのドラマは日常体験とぴったり一致してい るので、読者は自分を主人公や犯人として、容易に話の筋にはめ込むことが できた。」

 フェズリーとシーグローヴは、可変項目の操作という科学的作業に似た方 法でリステリン広告をつくり上げた。物語の主人公は男も女も例外なく、富、

美貌、魅力的な性格、高い地位といった、成功への必要条件をすべて備えて いた。それゆえ、もし個人として失敗する原因があったとすれば、それは口 臭という、弁解不可能な過失以外にあり得ないのだった。

 1926年に『プリンターズインク』誌は、人々の身だしなみを向上させた功 績でフェズリーを賞賛し、「彼は朝のうがいをシャワーやひげ剃りと同じほ ど重要にすることで、高潔な市民としてのわれわれの朝の習慣を改善した」

と述べた。だが、ジェラード・ランバートは、己の製品の幸運をただ1つの 新習慣に結びつけるだけでは満足しなかった。勢いを維持するため、彼は直 ちにリステリンの新たな用途を紹介した。口臭が広告の決まり文句になるや 否や、彼はリステリンがフケの治療にも効くと主張しはじめたのだ。1921年 から29年までの間、アメリカの大衆はリステリンがアフターシェーブロー ション、風邪薬、のど薬、化粧水、さらには消臭剤としても効能があると教

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えられた。(仮にリステリンの多用途性の主張が厚顔無恥なものだとしても、

長年にわたり洗濯糊として宣伝されていたリニットが新発見の美容入浴剤効 果をうたい、「特別にきれい好きな女性」に売り込まれた事実と較べれば、

その顔色も薄れるというものだろう。) ランバートはリステリンの名声を大 いに利用し、新製品のリステリン練り歯磨きを市場に出した。これはさらに 大きな財政的収益をもたらした。リステリンの広告予算は1922年の10万ドル から、28年には500万ドルにまで跳ね上がった。

 リステリン・キャンペーンの偉業は、広告界を魅了した。ランバート自身 は、会社の収益増大は革新的な経費節減と生産効率の結果だと主張したが、

広告の威力が成功の要因だと見る観察者たちの洞察が正しかった。「口臭式 スタイル」、「口臭式アピール」、「口臭式影響力」などの語句が業界の標準用 語となった。御やくに預かろうとするコピーライターたちはたちまち無数の 新病を発見し、名前を付けた。それらの中には「ブロモドーシス」(汗をか いた足の悪臭)、「ホモトーシス」(魅力的な家具の欠如)、「アシドーシス」(胸 やけ)などのように露骨な模倣もあれば、「事オ フ ィ ス ヒ ツ プ

務椅子尻」、「 灰アツシユトレイブレス皿 息 」、

「アア ク セ ラ レ ー タ ー ト ウ

クセル爪先」などのように、苦心の末にひねり出された病名もあった。

当然ながら、これらの新病のほとんどは専門の医師から一顧だにされなかっ た。戦略として口臭それ自体よりも大きな影響力があったのは、裁判官とし ての消費者を主人公にしたコピーの効果的使用だった。近代生活の干渉的で 非人格的な尺度によって自分の肌、歯、容姿、服装、家具、さらには自動車 ワックスから壁用ペンキまで批評されていた読者の前に、無数の「リステリ ン・コピー」帰依者が現われ、同情や助言を与えたのだった。

 リステリンの仕掛け人が社会ドラマを広告に利用した最初の人間でなかっ たのと同様に、恥辱や恐怖によるアピールを開拓したのも別の者たちだった。

すでに、制汗消臭剤のオドロノ(訳注: Odo-ro-no は Odor, O, No! の加 工)が、「女性の腕の曲線の中で」と題した広告によって、腋の汗がロマン スの敵である事実を突きつけていた。だがリステリンは、オドロノよりさら に多くの出版物に、より大きな広告スペースを買った。その膨大な予算と華々 しい利益は業界に強烈な印象を与えた。1926年にJ. ウォルター・トンプソン 社はこの新たな戦略技術を要約し、「商品4 4を売るために、われわれは言葉4 4

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売らなければならない。のみならず、もう1歩前進し、われわれは人生を売 らなければならないのだ」と述べた。リステリンは広告の中で、「ロマンティッ クな生き方」の王道と障害物の両方を消費者に身代わり体験させることに よって彼らの「味方になる」という戦略を、みごとに示したのだった。

 1920年代初期に大勝利を収めた第3の広告例は、セルコットン社の新製品 コーテックスによる、ほとんど発売と同時の成功だった。広告は自らの社会 的貢献の1つとして、優れた新製品にはそれにふさわしい即座の成功を保証 すると、長年にわたり主張してきた。発明家エライアス・ハウが貧困のうち に死んだのは、彼の発明したミシンが広告されず、19世紀の人々がその素晴 らしさを知らなかったからです、とコピーライターは説いた。だが、1920年 代の使い捨て衛生ナプキンの場合は違っていた。確かに、月経という主題の 繊細さがキャンペーンの厄介な障害となっていたが、ロード&トマス社は敢 えてそれに挑戦した。

 1921年に登場した最初のコーテックス広告は、慎重な婉曲表現を使った。

『グッドハウスキーピング』誌に載った最初の例は、「いちばん厳しい要求も 満たします」と題され、スケートをする若い娘の絵を示した。広告は、コー テックスが活発な女学生の「身だしなみの必需品」であり、「とっさの事故 を防ぎ」、「この種の製品の中でいちばん高く支持されている」とだけ述べた。

小売店に送られた広報書類には、この製品の全般的価値と便利さについて、

広告が不快感を与えぬ科学的方法で簡潔に示している、との説明がつけられ ていた。事実が「完全に、しかも不要な詳細は省いて」示されているので、「で きれば読者である女性がこの主題を内密に理解し、彼女自身で結論を引き出 すようにさせたいのです。」 こうした内密さに関わる製品を広告することに 対して、抗議の手紙が何通か届いたが、製造会社や広告代理店の予想に較べ れば、否定的反応はずっと穏やかなものだった。

 この反応に勇気を得て、セルコットン社はさらに突き進んだ。会社は「正 看護師エレン・J. バックランド」の署名をコピーに加え、個人的で科学的な プロの人物像を提供した。読者は彼女に手紙を書き、この内密な主題につい て述べた小冊子を送ってもらうのだった。近代のテンポというテーマを踏ま え、広告代理店のロード&トマス社はコーテックスを、「人生の毎日4 4を生き、

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毎日を活動で満たす」近代女性のイメージと結びつけた。1923年にバックラ ンド看護師は、「今はコーテックスがあれば、あなたは大切な時を1時間4 4 4も無 駄にしません」と約束した。彼女は時代の変化にもちゃんと即応し、1925年 には「あなたは一瞬4 4たりとも魅力を失いません」と保証している。コーテッ クスは数年後、より親密でうち解けた助言をする「メアリー・ポーリーン・

カレンダー」をバックランド看護師と交代させ、近代広告の技法をさらに発 展させた。

 1927年にロード&トマス社は、「今アメリカでは、良家の女性の80パーセ ント以上がコーテックスを使っています」と主張した。推測される水増しを 差し引いてもなお、売上げ結果は印象的だった。セルコットン社は名称をコー テックス社と改めた。ロード&トマス社のアルバート・ラスカー社長はコー テックス・キャンペーンを大いに誇った。それはまさに、「見出しに1語たり とも明確な描写を許さない」タブーの主題で達成された、広告の「正真正銘」

の勝利だった。広告は新たな実用品を普及させただけでなく、さらに歩を進 め、コミュニケーションや助言に潜む真空領域の1つを埋めた。適正な製品 を使えば社会変化についていけるという保証を、親密で打ちとけたおしゃべ りを通じて女性に与えたのだった。

満足を売る

 フライシュマン、リステリン、コーテックスという3つのキャンペーンの 華々しい成果は、1920年代末までに多くの模倣者を生み出した。個人的な相 談相手や助言者が急増し、他人の詮索についての警告が増え、個人証言が劇 的な復活をはたした。『プリンターズインク』誌は、すでに1928年にはフラ イシュマンの「ニュース写真」形式が「大歓迎」されていたことを報じた。

無数の商品の広告主がこれらのキャンペーンに習い、消費者の不安につけ込 んだ。近代生活のテンポに遅れまいと、またその非人格的判断に打ち勝とう と必死になっている消費者に対し、彼らは共感を示すことでそれを行った。

 とはいえ、これら3つのキャンペーンは、まだ当時の典型からかけ離れて いた。製品中心の「告知」コピーが、いつもお決まりのように現われた。す でに数年前からジョーダン自動車会社が、「単なる交通手段以上の喜び」、「あ

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