明治期における兵庫瀬戸内の延縄漁業 : 『兵庫県 漁業慣行録』の記載
著者 田和 正孝
雑誌名 人文論究
巻 68
号 2
ページ 1‑30
発行年 2018‑09‑20
URL http://hdl.handle.net/10236/00027191
明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
││
﹃ 兵 庫 県漁 業 慣 行録
﹄ の 記載
│
│
田 和 正 孝
は じ め に 延縄
は︑ 幹縄 に多 数の 枝縄 をつ け︑ その 先端 に釣 針を 結着 した 道具 を横 に長 くの べて おこ なう 釣漁 業の 総称 であ る
︵金 田 二〇
〇五
︶︒ 一 本釣 りの 集合
︑さ らに はそ の発 展 形態 と 見 るこ と が でき
︑こ れ ら の 点か ら す れば 一 本 釣り の 創 出 に先 行す るも ので はな い︒ とは いえ
︑こ の漁 法の 歴史 は古 く︑ すで に古 事記 にも 記載 があ る︒ すな わち
︑上 つ巻 葦 原 中国 平定 の大 国主 神の 国譲 り の 条に
﹁栲 縄 の︑ 千 尋縄 打 ち 延へ
︑釣 り せ し 海人 の
︑口 大 の︑ 尾翼 鱸
︑佐 和 佐和 邇
︑ 控 き依 せ騰 げて
﹂︵ 倉 野・ 武田 校注
一 九五 八︶ とあ る︒ 漁師 がク ワ科 の高 木で ある カジ ノキ の繊 維で 編ま れた 縄を 延 え て︑ 口が 大き く尾 や鰭 が立 派な スズ キを 釣り あげ るの であ る⑴
︒ 江戸 時代
︑日 本の 漁業 は著 しく 発達 した
︒と くに 中期 以降 の発 展は 顕著 で︑ 日本 の代 表的 な沿 岸漁 業は 極限 近く ま で 発達 をと げた とい われ てい る︵ 山口
一九 五七
︶︒ 釣漁 業も 近世 を通 じて 相当 発達 した
︒た とえ ば︑ 一八 世紀 末の 作 と いわ れる
﹃日 本山 海名 産図 会﹄ 巻之 三に 掲げ られ た若 狭小 鯛は
︑延 縄に よっ て漁 獲さ れた
︒そ こに は﹁ 是延 縄を 以 て 釣る なり
︒又 せ縄 とも 云︒ 縄の 大さ 一握 許︑ 長さ 一里 許︑ 是に 一尺 許の 苧糸 に針 を附 け︑ 一尋
! "
を隔 てて 縄に 列 一
︵ ママ
︶
ね 附て
︑両 端に 樽の 泛子 を括 り︑ 差頃 あり てか の泛 子を 目当 に引 あぐ るに
︑百 糸百 尾を 得て 一も 空し き物 なし
︒飼 は 鯵
︑鯖
︑鰕 等な り﹂ とあ る︵ 千葉 註解 説 一 九七
〇︶
︒漁 具・ 漁法 の説 明と とも に︑ 釣魚 率が きわ めて 高か った こと が 記 され てい る︒ 延縄 漁法 は︑ 一本 釣り に比 べれ ば︑ 大量 の漁 具を 必要 とす るも のの
︑選 択的 に魚 種を 獲得 でき る可 能性 を高 め︑ し か も多 獲を 可能 にし た︒ 漁法 の性 格上
︑場 合に よっ ては 一定 時間
︑漁 業者 が漁 場に 必ず しも 居あ わせ なく とも よか っ た
︵日 本学 士院 日本 科学 史刊 行会 編 一 九五 九︶
︒と くに 海底 に敷 設す る底 延縄 の場 合︑ その 地点 に到 達し うる 漁網 が 十 分に 発達 しな い時 代に は︑ 漁場 空間 の競 合は ほと んど みら れな かっ たで あろ う︒ その 結果 とし て︑ 延縄 は︑ 近代 期 を 迎え ても
︑漁 法の 優秀 さゆ え各 地で 広く 使用 され たの であ る︵ 農商 務省 水産 局編
一九 一二
︶︒ この よう な延 縄漁 業に 蓄積 され た﹁ 技術 知﹂ や漁 業者 の漁 場環 境に 対す る認 識は 極め て精 緻で ある
︒た とえ ば︑ 漁 業 者は 潮汐
・潮 流の 変化 とこ れに 伴う 魚群 の行 動に 対す る豊 かな 知識 を有 する
︒そ うし た知 識に 基づ いた 漁業 活動 や 漁 業者 が有 する 技術 の体 系が
︑人 間│ 環境 関係 にか かわ る漁 業地 理学 的研 究と して これ まで 取り あげ られ てき た︵ 田 和 一九 八一
︶︒ とこ ろで 兵庫 県の 漁業 に注 目す ると
︑延 縄は 瀬戸 内海 の 主 要な 漁 種 の一 つ と して 長 年 に わた っ て 続け ら れ てき た
︒ し かし なが ら︑ 現在 では 衰退 の一 途を たど って いる
︒主 な原 因と して 漁獲 効率 が高 い小 型底 曳網 への 移行 や資 源量 の 減 少が ある
︒漁 業者 の高 齢化
︑後 継者 の不 足︑ さら には 縄を さば く煩 雑さ など も関 係し てい る︒ この よう に急 激に 減 少 して いる 延縄 漁業 を目 の当 たり にし て︑ 筆者 は︑ 近年
︑兵 庫県 瀬戸 内海 側の 漁業 地域 にお いて
︑文 献調 査と とも に 延 縄漁 業者 に対 する 聞き 取り 調査 や漁 業活 動に 関す る調 査な どを 続け てき た︒ いま だ十 分に 解明 され たと は言 い難 い 漁 業技 術と その 継承 や﹁ 環境 知﹂ など に関 して 記録 を残 す必 要が ある と考 える から であ る︒ 兵庫 県に は︑ こう した 調 査 研究 に手 がか りを 与え てく れる 明治 期の 史資 料が 残さ れて いる
︒一 八八 九︵ 明治 二二
︶年 に刊 行さ れた
﹃兵 庫県 漁
明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
二
業 慣行 録﹄ と一 八九 七︵ 明治 三〇
︶年 に完 成し た﹃ 兵庫 県漁 具図 解﹄ であ る︒ 小論 では これ らの うち から
﹃兵 庫県 漁 業 慣行 録﹄ を取 りあ げ︑ 近代 期に おけ る延 縄漁 業の 漁具
︑漁 業活 動︑ 漁場 利用
︑し きた りな どに つい て考 察す る︒ 一
﹃ 兵 庫県 漁 業 慣行 録
﹄ にお け る 延縄 漁 業 の記 録 兵庫
県に おけ る近 代期 の漁 業に つ い て 分析 を 試 みる 際
︑﹃ 兵 庫県 漁 業 慣 行録
﹄︵ 以 下︑
﹃ 慣行 録
﹄と 略 記す る
︶は き わ め て 重 要な 資 料 であ る
︒こ れ は︑ 一八 八 九
︵明 治 二二
︶年 に 兵 庫県 勧 業 課 が編 纂 し た︑ 当 時 の 県 内 各 地 の 漁 業 慣 行
︑漁 業 実 態 に関 す る 調査 書 で ある
︒現 在 は
︑兵 庫 県公 館 内 にあ る 県 政 資料 館 が 所蔵 し て い る︒ 鹹 水 漁 業 之 部 一 九 巻
︑同 参考 書一 七巻 と淡 水漁 業之 部二 四巻
︑同 参考 書五 巻な らび に附 録図 解二 巻か らな る大 部の もの であ る︒ 基本 的 に 旧国 別・ 郡別 に編 まれ てい る︒ 附録 図解 は鹹 水漁 業之 部と 淡水 漁業 之部 が別 々に 編纂 され たが
︑現 存す るの は淡 水 漁 業之 部の 巻之 上と 巻之 下の みで ある
︒
﹃ 慣行 録﹄ の編 纂に 関す る事 業は
︑一 八八 六︵ 明 治一 九
︶年 の 漁業 慣 行 調査 に 端 を 発し て い る︒ 同年 一
〇 月に 県 か ら 県内 各地 の副 区長 と戸 長あ てに 漁業 慣行 の調 査を 命ず る兵 庫県 訓令 第一 九号 が発 せら れた
︒調 査内 容は
︑漁 制︵ 掟 類
︑規 約 及 慣例
︑犯 則 違 例ノ 処 分︶
︑ 漁撈
︵種 類
︑漁 期︑ 漁 場 区 域・ 潮流
水 底 ノ 概状
︑入 会 漁 船ノ 数
︑漁 具︑ 漁 法
︑有 害漁 法︶
︑ 蕃殖
︵生 産期 節︑ 生産 場︑ 有害 物︑ 蕃殖 ヲ謀 ル場 所︶
︑漁 民︵ 営業 ノ景 況︑ 営業 ノ種 別︶ であ った
︒ 訓令 に基 づき 各地 で調 査さ れた 報告 書は
﹃漁 業慣 行調 査書
﹄あ るい は﹃ 漁業 慣行 取調 書﹄ とい った 名称 で県 に提 出 さ れ た︒ そ の 内 容 に 基 づ き︑ さ ら に 一︑ 二 の 参 考 書 を 引 用 し な が ら
﹃慣 行 録
﹄が 編 ま れ た の で あ る︵ 田 和 二
〇 一 六
︶︒ 漁制 や漁 撈の 記載 内容 をみ ると
︑当 時お こな われ てい た各 種の 漁業 の状 況を 知る こと がで きる
︒た だし
︑記 述方 法 明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
三
は
︑一 郡内 の数 村落 で同 一の 慣行 であ る場 合に は村 名を 併記 する が︑ 全郡 内で 同一 の慣 行で ある 場合 には 村名 を記 載 し ない とい う方 法を とっ てい る︒ 各町 村か ら提 出さ れた 膨大 な資 料を もと に一 書に 編ん だわ けで ある から
︑各 地の 状 況 をす べて 網羅 的に 取り あげ てい るわ けで はな く︑ 代表 的な 一町 村の 事例 のみ を記 述す るも のが 多い
︒な かに は国 や 郡 を越 えて 参照 する よう 指示 して いる 箇 所 も散 見 さ れる
︒し た が って 本 来 な らば
︑﹃ 漁 業 慣行 調 査 書﹄ や﹃ 漁業 慣 行 取 調 書
﹄に 立 ち返 っ て 種々 検 討 すべ き で あ るが
︑残 念 な こと に こ れ らの う ち 現存 し て いる も の は わず か に す ぎ な い
︵田 和 二〇 一六
︶︒
﹃ 慣行 録﹄ に依 拠し なけ れば なら ない 理由 がこ こに 存在 して いる
︒ 小論 では 以上 の諸 点に 留意 しな がら
︑瀬 戸内 海側 各地 の延 縄の 状況 を旧 国別
︑郡 別に みて いき たい
︒使 用す るも の は
︑鹹 水 漁 業 之 部 一 九 巻 の う ち︑ 摂 津 国 五 巻
︑播 磨 国 八 巻
︑淡 路国 二巻 の計 一五 巻で ある
︒ な お︑
﹃ 慣行 録
﹄が 発 刊さ れ た 一 八 八 九 年 は︑ 行 政 区 域 の 原 型 と い わ れ る 本 格 的 な 市 町 村 制 が 施 行 さ れ た 年 で あ る
︒各 町村 から の調 査書 は一 八八 六年 に提 出さ れて いる こ と か ら
︑﹃ 慣 行録
﹄に 記 載 の郡 お よ び 町 村 は︑ や や 混 乱 が あ るも のの 一八 八九 年以 前の いわ ゆる 明治 行政 町村 であ る
︵図 1︶
︒以 下で はこ れを その まま 使用 する
︒ ま た
︑﹃ 慣 行 録﹄ で は﹁ 延 縄﹂ を﹁ 拼 縄﹂ と 記 載 し て い る 場 合 が ほ と ん ど で あ る︒
﹁ 拼﹂ は﹁ ハ ウ﹂ や﹁ ヘ イ﹂ と 読 み︑
﹁ つ か う
﹂﹁ せ し め る﹂
﹁ さ せ る﹂ な ど の 意 で あ る
︒ 以 下で は︑ 混乱 を避 ける ため
︑表 記を
﹁延 縄﹂ に統 一し て
図1 兵庫瀬戸内の概略図(明治行政町村期)
1.川辺郡 2.武庫郡 3.莵原郡
4.神戸区 5.八部郡 6.明石郡
7.加古郡 8.印南郡 9.飾東郡
10.飾西郡 11.揖東郡 12.揖西郡
13.赤穂郡 14.津名郡 15.三原郡
明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
四
論 を進 める
︒魚 名の 表記 につ いて は基 本的 に地 方名 をカ タカ ナで 表記 する が︑ 初出 の際 には 必要 に応 じて
︵
︶つ き で
﹃慣 行録
﹄の 漢字 表記 およ び標 準的 な 和 名の カ タ カナ 表 記 を添 え る︒
﹃ 慣 行録
﹄に は
﹁漁 具 現数
﹂と し て 各漁 種 の 漁 具総 数が 漁村 ごと にま とめ られ てい る︒ 延縄 は桶 とい う単 位で 記 載さ れ て い る⑵
︒ 縄を 収 め る容 器 を ナワ オ ケ︵ 縄 桶
︶と 呼ぶ から であ る⑶
︒ 漁具 の基 本的 な数 値は この 桶数 によ って い る︒ 記載 内 容 に 従い
︑旧 暦 を 用い る こ とも あ ら か じめ 断っ てお く︒
二 摂 津 国の 延 縄 漁
︵1
︶川 辺郡 現 在 の 尼 崎 市 域 に あ た る 尼 ヶ 崎 町︑ 別 所 村︑ 大 物 村 に 漁 業 集 落 が あ っ た
︒イ カ
︑チ ヌ︵ 海 鯽
:
ク ロ ダ イ︶︑ カ ニ
︵ワ タリ ガニ
︶な どを とる 流網 や雑 魚 を対 象 と する 各 種 の網 漁
︑延 縄 漁︑ ハ マグ リ
︑ア ケ ミガ イ
︵イ ソ シジ ミ
︶採 取 な ど が お こな わ れ てい た
︒漁 業 者数 は
︑尼 ヶ 崎 町二 四
〇 人︵ 普通 漁 者⑷
八
〇 人
︑雇 夫 一六
〇 人
︶︑ 別 所 村 三
〇 人︑ 大 物 村二 一人
︵い ずれ も普 通漁 者︶ であ った
︒ チヌ
・ヒ ラメ 延縄 およ びタ イ︵ マダ イ︶ 延縄
︑カ レイ 延縄 が尼 ヶ崎 町に おい てお こな われ てい た︒ 従事 者は 一三 二 人
︑漁 具現 数は 二〇
〇桶 を数 えた
︒チ ヌ延 縄は
︑漁 船一 隻に 二人 が乗 り組 み出 漁し た︒ 縄桶 三桶 を夜 間に 敷設 し︑ 約 二 時間 後に これ をあ げた
︒使 用漁 船の 大 き さ は特 定 で きな い が︑
﹁ 壱間 漁 船
﹂や
﹁弐 間 漁船
﹂と い う よう な 船 長一
・ 八
〜三
・六 メー トル 程度 の木 造の 手漕 ぎ船 がほ とん どで あっ た︒ 大漁 時 には 一 晩 で 一円 の 収 益を 得 た とい う⑸
︒ヒ ラ メ
・カ レイ 延縄
︑タ イ延 縄の 漁法 につ いて は︑ 詳細 は記 載さ れず
︑﹁ 海 鯽漁 ニ仝 シ﹂ と記 すに とど まっ てい る︒ 明
治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
五
︵2
︶武 庫郡 西新 田村
︑鳴 尾村
︑今 津村
︑西 ノ宮 町に おい て漁 業が おこ なわ れて いた
︒主 要な 漁種 はイ ワシ 地曳 網で あっ た︒ そ の ほか
︑ハ マグ リを 採る 桁網
︑コ ノシ ロ建 網︑ 雑魚 手繰 網な どが おこ なわ れた
︒漁 村の 規模 は小 さく
︑漁 業者 数を み る と︑ 普通 漁者 が西 ノ宮 町に 八九 人︑ 今津 村に 五〇 人︑ 西新 田村 と鳴 尾村 には それ ぞれ 二人 ずつ が記 録さ れて いる に す ぎな い︒ イワ シ地 曳網 の場 合︑ 曳子 が数 多く 必要 とな る︒ 西ノ 宮町 では 普通 漁者 がこ の仕 事に あた った よう であ る が
︑他 地区 の曳 子の 多く は広 島県 から 出稼 ぎに きた 雇夫 であ った
︒ 延縄 につ いて は︑ 西ノ 宮町 に䩲 延縄 が二
〇桶 あっ たと の記 載が ある
︒䩲 はエ イ︵ アカ エイ
︶の こと であ る︒ これ は 鰈
︵カ レイ
︶の 誤記 であ ろう
︒カ レイ を対 象と する 漁業 種類 の説 明の なか に延 縄に つい ての 記述 があ るも のの
︑エ イ 延 縄に つい ての 説明 は一 切な いと いう のが その 根拠 であ る︒ 西ノ 宮町 でカ レイ 延縄 に従 事し てい たの は 八 人で あ っ た︒ 漁期 に は 一隻 に 二 人 が乗 り 組 み︑ 朝夕 二 回︑ 漁 をし た
︒ 餌 料は 小エ ビの 殻を むい たも のを 使用 した
︒ま ず親 縄⑹
の 一端 に小 石を つ け︑ これ を 海 中 へ沈 め る とと も に 船を 走 ら せ
︑そ の動 きに 応じ て縄 を入 れて いっ た︒ 一桶 分の 縄五
〇〇 尋︵ 約七 五〇 メー トル
︶を はえ 終わ ると
︑親 縄の 末尾 の 部 分と 次の 桶に 収め た親 縄の 最初 の部 分を 結わ えて
︑三 桶分 を敷 設し た︒ 縄は 最後 に入 れた 方か ら繰 りあ げた
︒
う ば ら
︵3
︶菟 原郡 現在 の芦 屋市 およ び神 戸市 東灘 区に 相当 する
︒沿 岸部 には 芦屋 村︑ 深江 村︑ 青木 村︑ 葺合 村は じめ 合計 一七 村が あ っ た︒ まと まっ た漁 業者 がみ られ たの は深 江村
︵九 二人
︶︑ 青 木村
︵五
〇人
︶︑ 葺合 村︵ 三三 人︶ の三 村の みで
︑他 村 に は数 人の 漁業 者が いる にす ぎな かっ た︒ イワ シ地 曳網
︑イ カナ ゴ網
︑ボ ラ沖 取網 など が主 要な 漁種 であ った
︒ カレ イ延 縄が 葺合 村に てお こな われ てい た︒ 正確 な従 事者 数は わか らな い︒ 漁具 現数 は三 五桶 であ った
︒漁 船一 隻
明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
六
に 二人 が乗 り組 み︑ 五桶 を載 せて 出漁 した との 記述 があ る︒ した がっ て︑ 漁具 現数 三五 を五 で除 して
︑漁 船数 は七 隻 以 下︑ 従事 者数 は二 人乗 り組 み七 隻で 一四 人か それ 以下 と推 察で きる
︒餌 料は エビ およ び雑 魚で あっ た︒ 日没 前後 を ね らっ て縄 を海 中に 敷設 し︑ 翌朝 未明 に引 きあ げた
︒
︵4
︶神 戸区 兵庫 港と 神戸 港の 沖合 を漁 場と して 利用 する 漁業 者が いた
︒兵 庫港 の漁 業従 事者 数は 普通 漁者 一四 五人
︑自 村雇 夫 三
〇人
︑他 村雇 夫三 五人
︑手 間取 六〇
〇人 とい う規 模で ある
︒こ れに 対し て神 戸港 側は 普通 漁者 三人 が記 録さ れて い る に す ぎ ない
︒兵 庫 港 では 主 た る漁 種 が イ ワシ 地 曳 網と ボ ラ・ チ ヌ・ コ ノシ ロ
・コ シ ョウ ダ イ を 対 象 と す る ま か せ 網
︑雑 魚打 瀬網 であ る︒ 特に 地曳 網が 一五 畳︑ まか せ網 が三 畳あ り︑ いず れも 網子
︑曳 子を 要す る大 型網 であ るこ と か ら雇 夫や 手間 取を 多く 要し た⑺
︒ 神戸 港に はイ ワシ
・マ マカ レ︵ ママ カ リ︶ 建網 四
〇
〇 畳と ま か せ網 五 畳 があ っ た と 記載 され てい るが
︑漁 業従 事者 数と 漁具 数と は合 致し ない
︒ ハモ
︵鱧
︶延 縄︑ カレ イ延 縄︑ アナ ゴ︵ 海鰻 䩻︶ 延縄 もお こな われ てい たが
︑漁 具数 につ いて の記 載は ない
︒ハ モ 延 縄は 播磨 国明 石郡 にて おこ なわ れて いる 漁法
︑カ レイ 延縄 とア ナゴ 延縄 は淡 路国 津名 郡の それ と同 様で あっ た⑻
︒
や た べ
︵5
︶八 部郡 現 在 の神 戸 市 兵庫 区
︑長 田 区︑ 須磨 区 の 大 部分 と 灘 区︑ 中央 区
︑北 区 の 一 部 に あ た る︒ 本 郡 で は︑ 駒 ヶ 林︑ 東 須 磨
︑西 須磨 の三 村で 漁業 がみ られ た︒ 瓢箪 網と いう イワ シ網 漁が 中心 であ った
︒ ハモ 延縄 およ びグ チ︵ イシ モチ
︶延 縄が 西須 磨 村 でお こ な われ て い た︒ 同村 の 漁 業 者数 は
︑普 通 漁者 が 一 二〇 人
︑ 雇 夫が 六〇 人の 計一 八〇 人で あっ た︒ この うち 延縄 従事 者は 一五 人︑ 漁具 現数 は八
〇桶 と記 録さ れて いる
︒ハ モ延 縄 明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
七
の 漁法 は明 石郡 でお こな われ てい るも のと 同じ であ る︒ 三 播 磨 国の 延 縄 漁
︵1
︶明 石郡 明石 郡に は︑ 現在 の神 戸市 垂水 区塩 屋町 から 明石 市魚 住町 まで の区 域が 含ま れて いた
︒当 時︑ 漁業 集落 を有 する 町 村 は︑ 東は 塩屋 村︑ 東垂 水村 から 西は 魚住 村︑ 西 岡 村ま で 一 七町 村 あ った
︒各 町 村 の 漁業 者 数 は表 1の 通 り であ る
︒ 新 濱︑ 林 村
︑戎 町 に は 普 通 漁 者 が 特 に 多 い
︒雇 夫 が 多 い の は
︑新 濱 と 山 田 村 で あ る
︒新 濱で は釣 およ び延 縄が 主た る漁 種と な って いる こと から
︑雇 夫も ほと んど がこ れ らの 乗り 子で あっ たと 考え られ る︒ 山田 村 の主 たる 漁業 はイ ワシ 地曳 網︑ イカ ナゴ 地 曳網 であ り︑ 雇夫 や手 間取 はこ れら の操 業 に網 子お よび 曳子 とし て携 わっ てい たの で あろ う︒ 明 石 郡の 沖 合 は良 好 な 釣 漁 場 で あ っ た︒ 旧 藩時 代に は多 くの 地区 で禁 止さ れて いた タ イ延 縄漁 も︑ 明治 維新 後に なっ て解 禁と
表1 明石郡の地区別漁業者数
単位:人 資本主 普通
漁者
雇夫 手間取 自村 他村 東垂水村
西垂水村 山田村 塩屋村 大蔵谷村 相生町 當津町 新濱 戎町 林村 藤江村 江井島村 松江村 谷八木村 中尾村 魚住村 西岡村
3 3 2 4 6 1
50 20 40 60 41 3 51 309 150 273 12 51 4 5 6 22 6
30 80 141
59 101 43 12 7 3 3
50 3
20
計 19 1103 479 53 20
『兵庫県漁業慣行録 鹹水漁業之部 巻之七』より 作成。
明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
八
表2明石郡における延縄漁業従事者数と漁具数 町村名 ハモ延縄 ハマチ延縄 チヌ延縄 カレイ延縄 タイ延縄 ノソ延縄 フカ延縄 ブリ延縄 エイ延縄 アブラメ延縄 アナゴ延縄 アナゴ・ブリ延縄 スズキ延縄
東垂水村12(30)16(30)6(10)
西垂水村7(20)
山田村3(201)
塩屋村1(10)
大蔵谷村3(4)1(5)3(15)3(8)
相生町3(24)3(60)3(20)
當津村10(200)6(6)15(50)30(200)30(200)3(10)15(40)20(45)10(60)12(40)
新濱40(200)210(350)210(560)1000(1000)73(600)18(60)150(175)120(800)110(800)90(175)
戎町15(100)30(50)30(100)33(220)9(45)9(45)15(75)15(100)9(60)9(60)
林村2(18)
藤江村6(9)
江井島村12(96)
魚住村2(20)1(10)1(30)6(25)
西岡村1(2)1(2)1(2)1(4)
合計77(530)246(406)294(904)2(12)1066(1480)112(845)30(115)3(17)180(290)161(955)136(985)3(201)134(341)
注)数値は漁業者数:人、()内の数値は漁具数:桶。1886(明治19)年調査による。原本にある漁業者の種別統計表のうちのチヌ延縄に従事する漁業者数は284人となっているが、明らかな表記ミスと判断されるので修正した。新濱のタイ延縄漁業者数1,000人は、表記ミスと推察される。『兵庫県漁業慣行録鹹水漁業之部巻之七』より作成。
明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
九
表3明石郡の延縄漁業 延縄名調査地漁期(旧暦) 乗組人数 使用桶数 餌料漁場漁業活動備考 ハマチ延縄新濱八十八夜〜6月末35イカナゴ 摂津一の谷沖〜明石郡内沖 ハモ延縄 新濱春・夏420タコの足、アブラメ 鹿ノ瀬〜江井島、鹿ノ瀬〜淡路島鳥飼西垂水村38アブラメの幼魚 チヌ延縄 林村 5月中旬、潮に濁り、流速が緩なとき。 2―エビなど1時間後に引きあげ。
新濱4、5月ころ38明石郡沖合西垂水村24エビ
タイ延縄新濱夏・秋320イイダコ 鹿ノ瀬〜摂津一の谷沖 津名郡に同じ。
ノソ延縄新濱夏〜12月220 イカナゴ、イワシ、タコなど 明石郡沖合〜摂津一の谷フカ延縄新濱夏310タコ明石郡沖合 ブリ延縄江井島村―― 小ダイ、ボラ、チヌ、イワシの活き餌 東西に並行して配置し、1日おいて引きあげ。 使用法はアナゴ漁に同じ。
エイ延縄新濱6月〜10月315イワシ、イカナゴ 明石郡沖合〜淡路島沖合 アブラメ延縄 當津村初冬〜翌年初夏320エビ 摂津一の谷沖〜明石郡内沖、淡路島沖西垂水村241時間後に引きあげ。
アナゴ延縄大蔵谷村320 イカナゴ、イワシ、イイダコ 海藻のところを中心に九折形に配置。干満を一期。 漁具について詳述(田和注)。 雑魚延縄江井島村4月〜12月――イソベ、シャクエビ 南から北に何回か往復して縄を投じる。浮樽を使用。
スズキ延縄藤江村 6月の夜中の潮が緩のとき。 23アブラメの活き餌 浮樽を使用。潮上から直線的に潮下にはえる。2、3時間後に引きあげ。
『兵庫県漁業慣行鹹水漁業之部巻之七』より作成。
明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
一
〇
な った
︒延 縄の 種類 を漁 獲対 象魚 種別 にみ ると 一四 種類 にの ぼる
︒表 2に は︑ 漁具 数が
﹁数 詳ナ ラサ ル﹂ 雑魚 延縄 を 除 く一 三種 類の 延縄 の従 事者 数お よび 漁具 数を 掲げ た︒ 漁業 者は 時期 によ って 漁獲 対象 を替 え︑ また その 魚種 にあ っ た 漁具 を選 択し て漁 に従 事し たと 考え られ る︒ ただ し︑ どの 時期 にい かな る延 縄を 選択 した のか
︑あ るい は延 縄専 業 と は限 らず 時期 によ って は釣 漁や 網漁 に従 事し たの かな ど︑ 操業 実態 につ いて は明 らか にで きな い︒ 延縄 は當 津村
︑新 濱︑ 戎町 の三 地区
︑な かで も新 濱で 特に 盛ん であ った こと がわ かる
︒新 濱の タイ 延縄 従事 者数 が 一
〇〇
〇人 とな って いる が︑ 新濱 の場 合︑ 前掲 表1 から もわ かる よう に︑ 漁業 者数 は普 通漁 者と 雇夫 を合 わせ ても 四 一
〇人 であ るこ とか ら︑ この 数は 誤記 であ ると 判断 され る︒ 一二 種類 の延 縄の 漁具
・漁 法に 関す る説 明が 記載 内容 から 得ら れた
︒表 3は それ らを まと めた もの であ る︒ 六種 は 新 濱 の 調 査事 例 を 中心 と し た記 述 で あ る︒ 漁場 は
︑摂 津 国の 一 の 谷 沖か ら 明 石海 峡
︑明 石 郡 沖︑ 播 磨 灘 に あ る 鹿 ノ 瀬
︑淡 路島 西浦
︵播 磨灘 側︶ 沖を 利用 した
︒一 隻に 乗り 組む 漁業 者数 は︑ 最低 で二 人︑ 最高 で四 人で ある
︒二 人の 場 合
︑縄 を敷 設す る際 には
︑一 人が 楫を 操作 しな がら 山立 て⑼
に よっ て漁 場 の位 置 を 判 断し
︑も う 一 人が 舳 先 ある い は 船 べり から 縄を 海中 に放 り込 んだ
︒一 回の 操業 で使 用す る桶 数は 三〜 五桶 から 最大 二〇 桶ま で様 々で ある
︒親 縄の 太 さ や長 さ︑ 枝縄 の長 さと 一桶 に収 める 釣針 数に 関す る記 述は ない
︒ま た︑ 各魚 種の 漁期 につ いて の記 載は ある が︑ 各 漁 業者 がど の延 縄を 選択 し︑ 年間 の操 業形 態を かた ちづ くっ てい たの かは 正確 には わか らな い︒ 餌料 は主 とし てイ カナ ゴや タコ など であ る︒ ブリ 延縄 では 小ダ イ︑ ボラ
︑チ ヌ︑ イワ シの 活き 餌︑ スズ キ延 縄で は ア ブラ メの 活き 餌が 使わ れて いた
︒雑 魚延 縄で はイ ソベ とシ ャク エビ が使 われ た︒ イソ ベは イソ メの 地方 名︑ シャ ク エ ビは シャ コの 地方 名で あろ う︒ 特徴 的な 漁業 活動 につ いて みて おこ う︒ アナ ゴ延 縄漁 では
︑満 潮と なり 転流 が始 まる まで の停 潮時 が漁 獲に もっ とも 好適 であ った
︒海 藻が 繁茂 する とこ ろ 明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
一 一
を 繰 り か えし 跨 ぐ よう に し て︑ 縄を つ づ ら 折︵ 九折 形
︶に 敷 設し た
︒親 縄 五
〇尋 ご と に 重 量 一
〇
〇 目︵ 三 七 五 グ ラ ム
︶程 度の 石の 沈子 をつ けた
︒縄 の端 には 二升 樽を 浮標 とし て結 わえ てお いた
︒雑 魚延 縄の 場合 にも
︑ア ナゴ 延縄 と 同 様に
︑南 から 北に 向か って 何回 か往 復す るよ うに して 縄を 敷設 した
︒ス ズキ 延縄 は︑ 潮上 から 入れ はじ め︑ 潮の 流 れ る方 向に した がっ て直 線的 に潮 下へ と入 れた
︒
︵2
︶加 古郡 沿岸 町村 には
︑東 から 東二 見村
︑西 二見 村︵ 以上
︑現 在は 明石 市︶
︑ 古宮 村︑ 本荘 村︵ 以上
︑加 古郡 播磨 町︶
︑別 府 村
︵加 古川 市︶
︑ 高砂 町︑ 荒井 村︵ 以 上︑ 高砂 市
︶が 含 まれ た
︒各 種 の網 漁
︑釣 漁︑ 延 縄 漁の ほ か タコ 壺 漁 など が お こ なわ れて いた
︒ 各町 村の 漁業 者数 は表 4の 通り であ る︒ 西二 見村 の資 本主 の数
︑高 砂 町の 普通 漁者 数︑ 東二 見村 の雇 夫数 の多 さが 際立 って いる
︒資 本主 は
︑一 般に 網主 や船 主で ある
︒西 二見 村で は﹁ 出買 い﹂ と称 して
︑沖 合 をま わり
︑出 漁中 の漁 業者 から 漁獲 物を 直接 買い とる 取引 方法 があ っ た︒ 資本 主に はこ のよ うな 業者 も含 まれ るの では ない かと 推察 され る
︒高 砂町 では 明治 初年 頃ま では チヌ 延縄 と吾 智網
︑漕 網を 主と して 営 んで いた が︑ その 後漁 獲量 が減 少し たこ とか ら他 の漁 種を 兼ね るよ う にな った
︒漁 業者 は︑ 明治 中期 には
︑各 種の 網︑ 釣︑ 延縄 を兼 業し て い た よ うで あ る︒ 東 二見 村 に つい て は
︑﹃ 慣 行録
﹄の も と にな っ た
﹃漁 業慣 行調 査書
﹄︵ 明石 市教 育委 員会 編 一 九八 八︶ が現 存し てい る︒
表4 加古郡の地区別漁業者数 単位:人 資本主 普通
漁者
雇夫 自村 他村 東二見村
西二見村 本荘村 古宮村 別府村 高砂町 荒井村
47 1
51 50 28 86 16 301 14
129 80
28 10
60 計 48 546 237 70
『兵 庫 県 漁 業 慣 行 録 鹹 水 漁 業 之 部 巻 之 八』より作成。
明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
一 二
こ れ に よ れば
︑雇 夫 は 普 通 漁 者 に 雇 わ れ︑ 年 中雇 われ る者 と漁 期中 だけ 雇わ れる 者と が いた
︒同 村に は普 通漁 者の みに よる 個人 漁 業と
︑雇 夫を 用い る漁 業が あっ た︒ たと え ば︑ 貝壺 引・ タコ 壺引 漁業 では 一隻 に二 人 ない しは 三人
︑ハ マチ
︵䩍
︶網 漁業 では 一 畳に つき 九人
︑追 竪︵ 建︶ 網で は一 畳に つ き二 七人 の雇 用が 生じ た︒ 表5 は︑ 延縄 の漁 業従 事者 数と 漁具 数を 掲 げ た も の で あ る
︒延 縄 は 本 荘 村︑ 古 宮 村
︑別 府村
︑高 砂町 で盛 んで あっ た︒ 東二 見 村︑ 西二 見村
︑荒 井村 では 操業 され てい な かっ た︒ 本荘 村の 場合
︑い ずれ の延 縄も 従 事者 は五 二人
︑別 府村 では 同様 に一 六人 で あっ た︒ これ らの 数字 から
︑両 地区 の延 縄 漁業 者は 漁期 に合 わせ て漁 具を 取り 替え な がら
︑周 年に わた って 延縄 漁に 従事 して い たと 考え て誤 りは ない であ ろう
︒図 2は 本 荘村 と古 宮村 にお ける 漁獲 対象 魚種 の漁
表5 加古郡における地区別の延縄漁業従事者数と漁具数 ハマチ・
ブリ延縄ハモ延縄 チヌ延縄 カレイ
延縄 タイ延縄 ブリ延縄 アナゴ 延縄
スズキ 延縄 西二見村 0(7)
本荘村 52(182)52(520) 52(78) 52(130) 52(182) 古宮村 86(860) 20(60) 40(5) 20(100) 86(301)
別府村 16(216) 16(64) 16(120) 16(96) 16(120) 16(165) 16(120) 高砂町 8(20)30(200) 80(120) 60(240) 30(100)
計 60(209)184(1796)168(322) 56(125)148(566) 16(120) 46(265)154(603) 注)数値は漁業者数:人、( )内の数値は漁具数:桶。1886(明治19)年調査による。
『兵庫県漁業慣行録 鹹水漁業之部 巻之八』より作成。
図2 本荘村と古宮村における漁獲対象の漁期 注)チヌについては記載なし。
『兵庫県漁業慣行録 鹹水漁業之部 巻之八』より作成。
明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
一 三
期 を示 した もの であ る︒ 各魚 種は 延縄 漁の みに よっ て漁 獲さ れて いる とは 限ら ない が︑ 両村 では 年間 を通 じて 延縄 の 操 業が 可能 であ った こと が理 解で きる
︒ 古宮 村で はハ モ延 縄と スズ キ延 縄︑ 西隣 の高 砂町 でも チヌ 延縄
︑タ イ延 縄︑ ハモ 延縄
︑ア ナゴ 延縄 がよ く行 われ て い た︒ ただ し︑ 漁法 につ いて の記 述は
︑﹁ 明 石郡 ニ仝 シ﹂ とい う表 記に とど めら れて いる
︒ 本郡 の沖 合に は︑ 他地 域か らの 延縄 漁船 の入 漁が 頻繁 に見 られ た︒ 有害 漁法 の説 明の 中に は︑ 東二 見村 では 一八 七 五
︵明 治八
︶年 頃か ら飾 東郡 飾磨 津お よび 淡路 島の 津名 郡岩 屋浦 の漁 業者 がカ レイ 延縄
︑泉 州堺 浦の 漁業 者が アナ ゴ 延 縄を
︑沖 合の カイ ガラ セ⑽
と いう 漁場 にお いて 操業 しは じめ たこ とが 記 され て い る︒ こ れら の 延 縄が 手 繰 網の 操 業 を 妨害 する こと にな った ため
︑手 繰網 は大 きく 衰退 した とい う︒ 東 二 見村 の
﹃漁 業 慣行 調 査 書﹄ によ る と︑ カ レ イ延 縄 お よび ア ナ ゴ延 縄 は︑ 大 糸︵ 親 縄︶ に 釣 針 を つ け 南 北 に 延 べ
︑二 時間 をお いて 引き あげ る形 態で あっ た︒ これ に対 して カレ イや 手長 ダコ を漁 獲す る手 繰網 は網 を海 中に 沈め た の ち︑ 潮流 に沿 って 流し た︒ 一回 の曳 網時 間は 約三
〇 分 間で あ っ た︒ カイ ガ ラ セに お い て 利用 空 間 およ び 操 業時 刻
︑ 漁 獲対 象が 競合 した と考 えら れる
︒他 地域 から のカ レイ 延縄
︑ア ナゴ 延縄 の入 漁が あっ た場 合に は︑ 軽快 で速 度の 速 い 船を 疾駆 させ てこ れら の漁 船を 追捕 し︑ 漁を 取り 締ま って いた
︒明 治維 新後
︑旧 慣が 廃絶 され たこ とか ら︑ 侵漁 す る 漁船 が年 々増 加し た︒ これ らの 漁船 を十 分に 取り 締ま るこ とが でき ず︑ その 結果
︑東 二見 村の 漁獲 量は きわ めて 減 少 した とい う一 連の 流れ を読 みと るこ とが でき る︒ 現存 する 西二 見村 の﹃ 漁業 慣行 調査 書﹄
︵ 明石 市教 育委 員会 編 一九 八八
︶に よる と︑ 同村 沖合 の通 称瀬 ノ上 漁場 に お いて も侵 漁が みら れた
︒
明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
一 四
︵3
︶印 南郡 伊保 崎村
︵現 在は 高砂 市︶ にお いて チヌ 延縄 とタ イ延 縄︑ 曽根 村︵ 現在 は高 砂市
︶に おい てチ ヌ延 縄が おこ なわ れ て いた
︒ 伊 保 崎村 に は 普通 漁 者 三五 人
︑雇 夫 五 人が い た︒ チ ヌ延 縄 に 従事 す る 者 は一 八 人︑ タ イ延 縄 に は 一 二 人 が 従 事 し た
︒漁 具数 はチ ヌ延 縄が 三〇 桶︑ タイ 延縄 が二
〇桶 あっ た︒ チヌ 延縄 の操 業形 態は 明石 郡の それ と同 じで
︑一 人が 二 桶 を積 み込 んで 出漁 した
︒餌 料に はア ナジ ャコ が使 われ た︒ 片手 で櫂 をと りな がら
︑も う片 方の 手で 縄を 海藻 の繁 茂 す る場 所に 敷設 した
︒タ イ延 縄の 操業 形態 も明 石 郡 のも のと 同じ であ った
︒漁 場は 鹿ノ 瀬や ツマ リ ノ セと 呼ば れる 浅瀬 が利 用さ れた
︒ 曽根 村の 漁業 は普 通漁 者が 一二 人と 小規 模で あ っ た︒ チヌ 延縄 に従 事す る者 が三 人︑ 漁具 数が 二 一 桶記 録さ れて いる
︒
︵4
︶飾 東郡 本郡 には 木場
︑白 浜︑ 妻鹿
︑阿 成︑ 下中 島の 五 村 と飾 磨津 の七 町︑ さら には 家島 諸島 の宮 浦︑ 坊 勢 浦︑ 真浦 の三 浦が 含ま れた
︒現 在は いず れも 姫 路 市域 であ る︒ イワ シ曳 網や ボラ 走網
︑ボ ラ建 網 な ど多 種の 網︑ 各種 の釣
・延 縄な どが 主要 な漁 業
表6 飾東郡の漁業者数 単位:人 資本主 普通漁者 雇夫 見習 木場村
白浜村 妻鹿村 阿成村 下中島村 飾磨津宮町 飾磨津大町 飾磨津天神町 飾磨津須賀町 飾磨津田町 飾磨津上英賀町 飾磨津御幸町 家島宮浦 家島坊勢浦 家島真浦
20
2 1 45
2 20 17 21 15 86 11 12 24 6 2 1 209 105 289
40 240
185 90 163
50
76 計 68 820 718 126 注)坊勢浦は『慣行録』中の統計には防勢浦と誤って
記載されている。
『兵庫県漁業慣行録 鹹水漁業之部 巻之十』より 作成。
明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
一 五
で あっ た︒ 漁業 者数 は表 6の 通り であ る︒ 妻鹿 村を 除く 四村
︑飾 磨津 の宮 町を 除く 六 町 はい ずれ も規 模は 小さ い︒ これ に対 して 家島 諸島 の三 つの 浦は 規模 の大 き い 漁村 であ った
︒と くに 家島 本島 の真 浦は 資本 主が 多く
︑諸 島に おけ る漁 業 経 営の 中心 を担 って いた
︒ 延縄 がお こな われ てい たの は︑ 阿成 村︑ 飾磨 津の 宮町
︑大 町︑ 須賀 町︑ 家 島 宮浦 の五 地区 であ った
︒表 7に は︑ これ ら五 地区 の延 縄従 事者 数と 漁具 数 を 掲げ た︒ 漁種 の中 心は ハモ 延縄
︑タ イ延 縄︑ アナ ゴ延 縄で
︑従 事者 が多 い の は宮 町と 宮浦 であ る︒ 宮浦 を除 く四 町村 は︑ 延縄 にか なり 特化 した 釣漁 村 で あ っ た こと が わ かる
︒宮 町 は 規 模 の 大 き な 延 縄 専 業 の 漁 村 と い っ て も よ い
︒阿 成村
︑大 町︑ 須賀 町は
︑一
〇人 前後 の漁 業者 数で ある
︒漁 獲対 象を 替 え なが ら︑ 周年 にわ たっ て延 縄を おこ なう 小規 模な 釣漁 村で あっ たと 推察 さ れ る︒ 大町 の場 合︑ 普通 漁者 が合 計一 一人 であ るに もか かわ らず
︑タ イ延 縄 と アナ ゴ延 縄を おこ なう 者が 一二 人と 記載 され てい る︒ 操業 に関 する 記述 を以 下に とり あげ よう
︒ 家島 宮浦 にお ける ハモ およ びタ イ延 縄漁 場は 島の 南北 にあ り︑ 海岸 すぐ の 沖 合五
〇メ ート ルあ たり から 二〇 キロ メー トル ない しは 三〇 キロ メー トル 前 後 まで 広が って いた
︒東 南方 向あ るい は北 方向 に縄 を敷 設し た︒ アナ ゴの 漁 場 は︑ 島嶼 間に 形成 され た暗 礁で ある
︒﹃ 慣 行録
﹄に は二
〇以 上の 暗礁 名が
︑
表7 飾東郡における地区別の延縄従事者数と漁具数 ハマチ
延縄 ハモ延縄 チヌ延縄 チヌ・
カレイ延縄 カレイ
延縄 タイ延縄 アナゴ 延縄 阿成村 12(35) 12(21) 12(35) 12(21)
飾磨津宮町 21(16) 82(608) 82(186) 82(240) 60(320) 60(520) 飾磨津大町 10(8) 10(68) 10(24) 10(32) 12(64) 12(104)
飾磨津須賀町 8(12) 8(60) 10(18) 8(24) 9(48) 9(78) 家島宮浦 120(800) 120(800) 42(280)
計 39(36)232(1571)102(228) 12(21)100(296)213(1267)135(1003) 注)数値は漁業者数:人、( )内の数値は漁具数:桶。1886(明治19)年調査による。
『兵庫県漁業慣行録 鹹水漁業之部 巻之十』より作成。
明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
一 六
島 嶼の 位置 と距 岸距 離と とも に示 され てい る︒ アナ ゴ延 縄は
︑八 月か らお こな われ た︒ 一隻 に二 人ま たは 三人 が乗 り 組 み︑ 一五 桶を 載せ て出 漁し た︒ 海岸 部に 停泊 し︑ 日没 を待 って 岸か ら五 メー トル ほど のと ころ から 縄を 入れ た︒ 餌 料 には イワ シ︑ サイ ラ︵ サン マ︶
︑ アカ ギス
︵シ ロギ ス︶⑾
など を使 用し た︒ 敷設 した 縄は 直ち に引 きあ げた
︒ 飾 磨 津宮 町 で は二 一 人 の漁 業 者 が ハマ チ 延 縄に 従 事 して い た
︒漁 期 は九 月 か ら一
〇 月 で︑ 一隻 に 三 人 が 乗 り 組 ん だ
︒狩 引船 と呼 ばれ る小 型船 を使 用す る場 合に は︑ 二人 が乗 り組 み︑ 二桶 を載 せて 出漁 した
︒ハ モ延 縄に は八 二人 が 従 事し た︒ 漁具 の総 計は 六〇 八桶 にの ぼっ た︒ 漁は 夜間 であ る︒ 一隻 に三 人が 二六 桶を 装備 のう え出 漁し た︒ 狩引 船 に は二 人が 八桶 を載 せた
︒沖 合で は潮 流が 緩む まで 待機 し︑ 餌の アジ
︑タ コ︑ イカ を釣 針に つけ
︑よ い潮 時に なっ て か ら縄 を入 れ︑ 約一 時間 後に 引き あげ た︒ カレ イ延 縄の 漁期 は二 月か ら八 月に かけ てで あっ た︒ 一隻 に三 人︵ 狩引 船 で は二 人︶ が八 桶を 携え て出 漁し た︒ 餌料 には ツボ コと 呼ば れる 貝の 剥き 身を 使用 した
︒日 の出 を待 って
︑家 島諸 島 の 各島 の近 傍に 縄を 敷設 し︑ 約一 時間 を経 過し た後 に引 きあ げた
︒ 阿成 村の チヌ 延縄 は一 隻二 人乗 り組 みで あっ た︒ 餌料 とし てア ナジ ャコ を用 いた
︒縄 は︑
﹁ チド リ様
﹂︑ すな わち 左 右 ジグ ザグ に敷 設し
︑し ばら くお いた 後に 引き あげ た︒ 妻鹿 村で は延 縄の 操業 実態 を﹃ 慣行 録﹄ に記 載さ れた 漁業 従事 者数 や漁 具数 から は確 認す るこ とが でき ない
︒し か し スズ キ延 縄漁 の記 録が 残さ れて いる
︒漁 法は 淡路 国三 原郡 にて おこ なわ れる もの に等 しい
︒餌 料に はア ナシ ャク が 用 いら れた とあ る︒ これ はア ナジ ャコ の地 方名 であ ろう
︒ 延縄 には 特徴 的な 操業 上の 慣行 があ った
︒妻 鹿村 では
︑二 隻の 船が 操業 中︑ 自船 の縄 を他 船の 縄の 上に 誤っ て配 し て しま った 時に は︑ 両船 が並 列し て漁 具を あげ た︒ 互い の敷 設場 所を 離す 場合 には
︑双 方の 船か ら一 人ず つが 他船 側 に 乗り 込み
︑立 ち合 いの うえ 縄を あげ るこ とに なっ て い た︒ 家島 宮 浦 では 抽 籤 によ っ て 縄 を敷 設 す る順 番 を 決め た
︒ 操 業船 が多 数の ため 漁場 をそ れら の数 に応 じて 十分 に分 割使 用で きな い場 合に は︑ ひと つの 漁場 に関 わる こと にな っ 明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
一 七
た 二隻 が示 談の うえ
︑時 間を ずら せて 縄を 敷設 する こと もあ った
︒こ の場 合に は後 で敷 設し た船 から 縄を あげ るこ と を 慣例 とし てい た︒ 仮に ある 船が 事前 に話 し合 うこ とな く縄 を入 れ他 船に 被害 を与 えた 場合 には
︑そ の船 が被 害を 受 け た船 に対 して 償い をす るこ とが あっ たと いう
︒
︵5
︶飾 西郡 本 郡 には 英 賀 村︑ 今在 家 村︑ 広 畑村 が 含 ま れて い る︒ 現 在は 姫 路 市西 部 の 沿 岸 地 区 に あ た る︒ コ チ・ コ ノ シ ロ 壺 網
︑ハ マグ リそ の他 の採 貝︑ エビ を獲 る押 網に 従事 する 漁業 者が 数人 いる にす ぎな かっ た︒ 延縄 漁に つい ての 記載 は な い︒
︵6
︶揖 東郡 現在 は姫 路市 大津 区お よび 網干 区に 含ま れる 勘兵 衛新 田︑ 新在 家村
︑與 浜村 にお いて 漁業 が営 まれ てい た︒ 漁業 者 数 は勘 兵衛 新田 が普 通漁 者三 人︑ 雇夫 六人
︑計 九人
︑新 在家 村が 普通 漁者 二二 人︑ 雇夫 六二 人︑ 計八 四人
︑與 浜村 が 普 通漁 者三
〇人
︑雇 夫七 二人
︑計 一〇 二人 であ った
︒新 在家 村に タイ 吾智 網︑ 雑魚 打瀬 網︑ 雑魚 手繰 網︑ メバ ル釣 な ど がみ られ た︒ 與浜 村で はハ マグ リ掻 やカ レイ いさ りな ど︑ 干潟 や浅 海で 突具 や搔 剥具 を用 いて おこ なう 小規 模な 漁 業 が中 心で あっ た︒ 與浜 村で チヌ 延縄 がわ ずか にお こな われ てい た︒ 従事 者八 人︑ 漁具 九桶 が記 録さ れて いる
︒漁 法は 明石 郡に おい て み られ るも のと 同じ であ るが
︑一 桶の 釣針 数は 五〇 本で あっ た︒ 釣針 数に つい て記 載が ある のは 珍し い︒ 一隻 に乗 り 組 む漁 業者 は三 人で あっ た︒ 一人 につ き三 桶を あて て出 漁し た︒ 東は 加古 郡高 砂町 との 境界 から 西は 赤穂 郡加 里屋 町 と の境 界ま でを 漁場 とし た︒
明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
一 八
︵7
︶揖 西郡 濵 田 村︵ 現在 は 姫 路市 網 干 区︶
︑苅 屋 村︑ 岩 見 村︑ 室津 村
︵以 上
︑現 在 は た つ の市
︶が
︑表 8に 示す よう な漁 業者 を擁 して いた
︒苅 屋村 を除 く三 村に は漁 業 者の 構成 は異 なる もの の︑ いず れも 規模 の大 きい 網・ 釣を 主と する 漁業 集落 が 形成 され てい た︒ 延縄 漁と して はチ ヌ・ ハマ チ・ アナ ゴ延 縄が みら れた
︒従 事者 数は 濵田 村が 二
〇 人
︑岩 見 村 が 六 人︑ 室 津 村 が 三 人⑿
︑漁 具 数 は
︑そ れ ぞ れ 二
〇 桶︑ 三 六 桶
︑一 二桶 であ った
︒ 室津 村で は︑ ハマ チ延 縄は 磯漁 であ ると の記 載が ある
︒上 層を 泳ぐ ハマ チの 行 動性 から いう と︑ 漁法 は浮 延縄 であ る︒ 九月 から 一一 月ま でが 漁期 で︑ 一隻 に 二 人 が 乗り 組 み 出漁 し た︒ 一 人が 櫓 を 操 り︑ 別の 一 人 が縄 を 投 じ た︒ 餌料 は 小 ボラ
︑コ ノ シ ロ の 活 き 餌 を 使 用 し た
︒魚 が︑ 釣針 にか かっ た時
︑暴 れて 釣糸 を切 断し てし まう こと があ る︒ その ため 漁業 者は
︑魚 を自 由に 泳が せ︑ 魚 が 弱く なり 海面 に浮 かん でき たと ころ で︑ たも 網を 使っ てこ れを すく いあ げた
︒チ ヌの 漁期 には
︑一 隻に 二人 が乗 り 組 んだ
︒通 常︑ 三桶 を使 用し た︒ 餌料 には
﹁ジ ヤク
﹂と 呼ぶ
︑海 底の 砂地 に生 息す るム シを 用い たと いう
︒チ ヌの 場 合
︑餌 が海 底に 沈む まで にそ れを 食う 習性 があ るの で︑ 縄は
︑敷 設後 ただ ちに 手繰 りあ げた
︒ 縄あ げの 際︑ 自ら の縄 の上 に他 者の 縄が 過っ て配 置さ れた ため に︑ 自ら の縄 とと もに 他者 の縄 が重 なっ てあ がっ て く る場 合が ある
︒室 津村 では この 場合
︑他 者の 縄に かか って いる 魚も 取り 込ん だ後
︑縄 だけ その 場に 戻し てお くと い う しき たり があ った
︒ 岩 見 村で は ア ナゴ 延 縄 が周 年 に わ たっ て 操 業さ れ た︒ 一 隻が 三 桶 を 使用 し た︒ 餌 料 は︑ 春 は イ カ ナ ゴ︑ 夏 は 小 エ
表8 揖西郡の漁業者数 単位:人 資本主 普通
漁者
雇夫 自村 他村 濵田村
苅屋村 岩見村 室津村
5 8 10
29 6 100 261
105
40 40
計 23 396 145 40
『兵庫県漁業慣行録 鹹水漁業之部 巻之十 三』より作成。
明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
一 九
ビ
︑秋 はイ ワシ
︑冬 は小 ブナ
︵
!
︶⒀
を用 いた
︒
︵8
︶赤 穂郡 相生 村︑ 那波 村︑ 佐 方 村︵ 以上
︑現 在 は 相生 市 域︶
︑ 坂越 村
︑新 浜 村︑ 尾 崎村
︑中 村
︑赤 穂 上仮 屋 町︑ 赤 穂加 里 屋 町
︑折 方村
︵以 上︑ 現在 は赤 穂市 域︶ の一
〇町 村で 漁業 がお こな われ てい た︒ これ ら一
〇町 村の 普通 漁者 の総 数九 六
〇 人の うち
︑相 生村
︑坂 越村
︑中 村の 三村 の漁 業者 が全 体の 九割 以上 を占 めた
︒曳 網︑ 繰網
︑釣
︑採 貝な ど多 様な 漁 法 がみ られ た︒ 延縄 漁を おこ なっ てい たの は︑ 相生 村と 中村 の二 村の みで ある
︒相 生村 は資 本主 五人
︑普 通漁 者四 一五 人︑ 自村 の 雇 夫三 二二 人︑ 他村 から の雇 夫八 人か らな る大 規模 な漁 業集 落を 擁し た︒ イワ シ曳 網や ボラ 繰網
︑タ イ吾 智網
︑サ ワ ラ
・サ バ縛 網な どが 中心 であ った
︒サ メ︵ 沙魚
︶・ ア ナ ゴ延 縄 に 従事 し た 漁業 者 が 一 二人
︑漁 具 数 は三
〇 桶 あっ た こ と が記 され てい る︒ 漁具 はサ メ漁 とア ナゴ 漁と で兼 用し た︒ 餌料 には エビ を用 いた
︒一 隻に 五桶 を積 んで 出漁 した
︒ 中村 は普 通漁 者二 四六 人か らな る漁 村で
︑イ ワシ 曳網
︑タ イ吾 智網
︑雑 魚手 繰網 に従 事す る者 が多 かっ た︒ 延縄 も あ り︑
﹁ ハモ
・ハ マチ
・チ ヌ・ アナ ゴ延 縄﹂ と一 括し て示 され てい る︒ 従事 者は 六四 人︑ 漁具 数は 三〇
〇桶 であ った
︒ ハ モ漁 は津 名郡
︑ハ マチ 漁と チヌ 漁は 飾東 郡に 同じ との 記載 があ る︒ アナ ゴ漁 につ いて は﹁ 沙魚 漁ニ 仝シ
﹂と 不明 確 な 記述 に終 わっ てい る︒ 相生 村の サメ
・ア ナゴ 延縄 漁に 準ず ると の説 明と もと れる
︒
明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
二
〇
四 淡 路 国の 延 縄
︵1
︶津 名郡 津名 郡に は︑ 東浦
︵大 阪湾 側︶
︑ 西浦
︵播 磨灘 側︶ に それ ぞ れ 一一 ず つ︑ 計 二二 の 漁 業 集落 を 擁 する 村 と 浦が あ っ た
︒い ずれ も︑ 現在 の淡 路市 およ び洲 本市 内に 位置 する
︒郡 内の 漁業 者数 は︑ 表9 に示 した よう に︑ 資本 主六 人︑ 普 通 漁者 三四 六九 人︑ 自村 の雇 夫二 九三
〇 人
︑他 村か らの 雇夫 二三 人︑ 手間 取五 八
〇 人を 数え た︒ 活発 な漁 業地 帯が 形成 さ れ てい たこ とが わか る︒ 漁業 者数 から い う と︑ 東浦 では 由良 浦︑ 仮屋 浦︑ 岩屋 浦 の 三浦
︑西 浦で は冨 島村
︑斗 之内 村︑ 室 津 村︑ 尾崎 村︑ 郡家 村の 五村 の規 模が 大 き い︒ い ず れ に お い て も 多 種 多 様 な 網 漁
︑釣 漁が おこ なわ れて いた
︒ 各村
・浦 の延 縄従 事者 数と 漁具 数を 示 し た も の が 表儗 で あ る︒ 本 郡 の 延 縄 は
︑ お およ そ① 東浦 側の 由良 浦か ら岩 屋浦 ま で と西 浦側 の万 歳村 でお こな われ るハ モ
表9 津名郡の漁業者数 単位:人 資本主 普通
漁者
雇夫 手間取 自村 他村
東浦 由良浦 潮浦 洲本 塩田浦 志筑村 生穂村 佐野村 仮屋浦 久留麻村 釜口村
岩屋浦 6 400181 17040 2247 174275 14126 450
130017
3065 37 245130 58612
13
10 45080
西浦 冨島村 斗之内村 育波村 室津村 尾崎村 郡家村 垂井村 都志村 万歳村 鳥飼浦 草香浦
225108 111268 194167 10069 10675 120
22168 2472 4840
35
10 30
10
計 6 3469 2930 23 580
『兵庫県漁業慣行録 鹹水漁業之部 巻之十五』より作成。
明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
二 一
延 縄と タイ 延縄
︑② 東浦 北部 の仮 屋浦
︑岩 屋浦
︑西 浦北 部の 冨 島村
︑斗 之内 村を 中心 とし たア ナゴ 延縄
︑③ 上記
①︑
②の い ずれ の特 徴に も合 致せ ずチ ヌ延 縄の ほか カレ イ延 縄︑ エイ 延 縄が おこ なわ れる 西浦 の尾 崎村
︑の 三類 型に 分け るこ とが で きる
︒ 以下 では 詳し い説 明が ある 漁法 と漁 のし きた りに つい て検 討 して みよ う︒ ハモ 延縄 の漁 期は
︑岩 屋浦 では 夏・ 秋で あり
︑一 隻に 夜間 は 二
〇 桶 な い し は 二 五 桶︑ 昼 間 は 七 桶 前 後 を 載 せ て 出 漁 し た
︒餌 料は イワ シと イカ ナゴ の二 種で あっ た︒ 潮流 が緩 い時 を 選ん で縄 を敷 設し
︑数 時間 を経 過し てか ら引 きあ げた
︒ カレ イ延 縄漁 は︑ 佐野 村で は一 隻に 三人 が乗 り組 み︑ 七桶 を 載せ て出 漁し た︒ 餌料 には エビ を用 いた
︒二 人が 櫓を 漕い で
︑一 人が 縄を 投げ 入れ た︒ タイ 延縄 の漁 期は
︑岩 屋浦 では 春・ 夏・ 秋で あり
︑一 隻に 三 人 が 乗 り組 ん で 出漁 し た︒ 漁 場は 平 瀬 と 呼ば れ る と こ ろ︑ そ の他 の入 会 漁場
⒁
で あっ た
︒春 に は 字茶 間 川 の沖 合 北 東方 向 九五 丁︵ 約一
〇キ ロメ ート ル︶ の字 磯ノ 上︑ 夏︑ 秋の 間は 一 般漁 場に て操 業し たと の記 載が ある
︒漁 場に 到着 する と縄
表10 津名郡における地区別の延縄従事者数と漁具数 ハモ延縄 ハモ・タイ
延縄 チヌ延縄 カレイ
延縄 タイ延縄 エイ延縄 アナゴ 延縄 由良浦 320(1200)
潮浦 60(30)
佐野村 6(15) 6(15)
仮屋浦 37(410) 80(320) 11(80) 6(30)
岩屋浦 150(150) 60(80) 51(150)
冨島村 15(80)
斗之内村 6(15)
尾崎村 15(50) 21(70) 18(60)
万歳村 20(144) 鳥飼浦 16(30)
計 229(749)380(1230) 15(50) 21(70)146(415) 29(140) 78(275) 注)数値は漁業者数:人、( )内の数値は漁具数:桶。1886(明治19)年調査による。
『兵庫県漁業慣行録 鹹水漁業之部 巻之十五』より作成。
明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
二 二
に 浮標 と沈 子を 結わ えて 投じ る︒ 順次
︑縄 を繋 ぎ合 わせ
︑昼 間で は一
〇〜 一五 桶︑ 夜間 であ れば 一五 桶〜 二〇 桶分 を 敷 設し た︒ 餌料 はハ マチ
︑タ コ︑ ユウ と呼 ぶム シ︵ ユム シの こと であ ろう
︶を 使用 した
︒し ばら く待 って 引き あげ る か
︑一 昼夜 おい てか ら引 きあ げた
︒ エイ 延縄 の漁 法は ハモ 延縄 のそ れと 同様 であ ると いう
︒た だし
︑ど の村 の調 査に 基づ いて 記載 され てい るの か明 ら か でな い︒ おそ らく 由良 浦か 岩屋 浦の いず れか のも ので あろ う︒ アナ ゴ延 縄は 岩屋 浦で は昼 夜各 一回 の漁 であ り︑ 一隻 に三 人が 乗り 組ん だ︒ 餌料 には イカ ナゴ とカ マス を用 いた
︒ 櫓漕 ぎの 時代 には 漁船 の速 度に ほと んど 遅速 はな かっ た︒ しか し︑ 明治 初年 頃か ら帆 をあ げて 船を 漕ぐ よう にな っ た こ と か ら︑ 装備 が 十 分で な い 船は 縄 の 敷 設開 始 に 後れ を と り︑ 結 果と し て 漁獲 量 に 影響 が で た︒ そ こ で 由 良 浦 で は
︑一 八七 八︵ 明治 一一
︶年 四月
︑漁 場で 互い に待 ち合 わせ て操 業す ると いう 規約 を結 んだ
︒こ の規 約に 違反 した も の は︑ 三日 以上 三〇 日以 内の 漁業 差し 止め が科 され た︒ 由良 浦の ガシ ラ︵ 鮻
:
カサ ゴ︶ 延縄 では︑以 前は 数十 隻が 餌を 針に つけ 準備 を整 えた うえ で︑ 成山 海岸 に船 を停 泊 さ せ︑ 漁に よい 潮時 にな るま で待 機し
︑よ い潮 時に なる と一 斉に 漁場 を目 指し
︑そ こで 縄を 敷設 する とい う慣 行で あ っ た︒ しか し︑ いず れの 船も 好漁 場を 得よ うと 競い 合う あま り︑ 近く で操 業す る船 の縄 どう しが 絡ん だり
︑と もす れ ば 操業 を妨 害す る行 為も みら れた りし た︒ そこ で︑ 一八 八〇
︵明 治一 三︶ 年に
︑潮 待ち の間 にく じを 引い て︑ 各自 が 使 用す る漁 場を 事前 に決 定す るこ とを 漁業 者間 で申 し合 わせ た︒ これ によ って 妨害 行為 は止 み︑ 争う こと なく 操業 で き るよ うに なっ たと いう
︒規 約に 違反 した 者は
︑当 日︑ 漁獲 した すべ ての 魚を
︑く じに よっ てそ の漁 場を 使う こと が 決 定し てい た者 に供 する もの とし た︒ 由良 浦で は︑ 他人 の縄 を過 って 引き あげ た時 には
︑操 業を 五〇 日間 差し 止め るこ とに なっ てい た︒ また
︑縄 をあ げ た 時︑ 他船 の縄 が自 船の 縄の 上に 引っ かか って いる 場 合 には
︑か か っ た縄 に 自 身の 姓 名 を 記し た 木 札を 結 び 付け て
︑ 明 治 期 に お け る 兵 庫 瀬 戸 内 の 延 縄 漁 業
二 三