摯虞『決疑要注』をめぐって
著者 佐藤 達郎
雑誌名 関西学院史学
号 38
ページ 63‑82
発行年 2011‑03‑20
URL http://hdl.handle.net/10236/00025740
摯 虞
﹃ 決 疑 要 注 ﹄ を め ぐ っ て
佐 藤 達 郎
は じ め に 西
晋︑ 摯虞 の編 にか かる
﹃決 疑要 注﹄ 一巻 は
︑﹃ 隋 書﹄ 経籍 志 で は儀 注 篇 に 分類 さ れ︑ 漢 魏時 代 の 職官 と 礼 制 に関 わる 注解 書︑ いわ ゆる 儀注 書と して 唐代 に至 るま で広 く読 まれ たも のら しく
︑唐 宋の 類書 に多 くの 佚文 を見 いだ すこ とが でき る︒ 本稿 は︑ 摯虞 によ る﹃ 決疑 要注
﹄執 筆の 経緯 と︑ その 内容 の検 討を 通じ て︑ 漢代 の職 官書 から 魏晋 時代 のそ れら への 展開 を跡 づけ ると とも に︑ 魏晋 時代 にお ける 官制 と礼 制を めぐ る意 識の
︑一 側面 を窺 おう とす るも ので ある
︒
1 泰始 礼 の 編纂 と 摯 虞﹃ 決 疑 要注
﹄ 摯
虞︵
?〜 三一 三頃
︶は 西晋 時代 の文 学者
︑礼 学者 とし て名 高く
︑文 学者 とし ては
﹁思 游賦
﹂な どの 詩作 の他
︑詞
︵!
︶
華集
・文 学理 論書
﹃文 章流 別集
﹄の 編者 とし ても 知ら れる
︒若 い頃 には 博学 の哲 学者
・歴 史家 の皇 甫謐 に師 事し
︑ま 六 三
たや はり 博学 者か つ博 物学 者と して
﹃博 物志
﹄な どの 著を 残し た張 華の 門人 でも あっ た︒ 張華 との 関係 につ いて は後 に再 び触 れる が︑
﹁ 摯虞
・束 皙等
︑並 びに 載 籍を 詳 覽 し︑ 多く 舊 章 を 識り
︑秦 議 觀 る可 く
︑文 詞 雅贍 た り︑ 博 聞 の士 と謂 うべ きな り﹂
︵﹃ 晋 書﹄ 本伝 史臣 曰︶ と評 され る当 代随 一の 博学 者と して の摯 虞の 学問 は︑ これ ら先 学の 影響 に多
︵!
︶
分に よる であ ろう
︒
﹃決 疑要 注﹄ の成 立に つい て︑
﹃晋 書﹄ 礼志 上に は次 のよ うに 記さ れる
︒ 晉國 の建 つる に及 び︑ 文帝 又た 荀顗 に命 じて 魏代 の前 事に 因り
︑撰 じて 新禮 を為 り︑ 今古 を參 考し
︑其 の節 文を 更め しむ
︑羊 祜・ 任愷
・庾 峻・ 應貞 並び に共 に刊 定し
︑百 六十 五篇 を成 し︑ 之を 奏す
︒太 康の 初め
︑尚 書僕 射朱 整︑ 奏し て尚 書郎 摯虞 に付 して 之を 討論 せし む︒ 虞︑ 宜し く損 增す べき 所を 表し て曰 く︑
⁝⁝ 虞︑ 新禮 を討 論し 訖り
︑元 康元 年を 以て 之を 上る
︒陳 ぶる 所は 惟だ 明堂 五帝
・二 社六 宗及 び吉 凶王 公制 度の み︑ 凡そ 十五 篇︒ 詔有 りて 其の 議を 可と す︒ 後︑ 虞︑ 傅咸 と其 の事 を纘 續す るも
︑竟 に未 だ成 功せ ずし て中 原覆 沒す
︑虞 の決 疑注 は是 れ 其の 遺 事 なり
︒江 左 に 逮び
︑僕 射 刁協
・太 常 荀崧
︑舊 文 を 補 緝 し︑ 光 祿 大 夫 蔡 謨︑ 又 た 其 の 事 を 踵 修 す と 云 う︒ や や補 足し て説 明す れば
︑次 の通 りで ある
︒二 六五 年の 魏か ら晋 への 王朝 交替 に際 して
︑漢 代以 来︑ 累加 を重 ねて きた 雑然 とし た法 体系 を整 備す べく
︑刑 法典
﹁律
﹂と 行政 法典
﹁令
﹂の 二種 を主 体と する 法典
︑い わゆ る泰 始律 令が 編纂
・発 布さ れた
︒律 と令 とを 基軸 とす る法 体系 は︑ その 後の 中国 法の 基調 をな すの みな らず
︑東 アジ アの 法体 系に
︵"
︶
も大 きな 影響 を与 える こと にな り︑ 法典 編纂 の歴 史上
︑泰 始律 令の 持つ 意義 はき わめ て大 きい
︒こ の泰 始律 令と 同時 に勅 命に より 編纂 され たの が﹁ 新礼
﹂百 六十 五篇 であ り︑ 荀顗 以下
︑羊 祜ら 大官 たち の参 与の もと
︑吉
・凶
・賓
・軍
︵#
︶
・嘉 の﹁ 五礼
﹂の 体系 を備 えた 礼典 がは じめ て成 立し た︒
﹃ 晋書
﹄武 帝紀 にも
﹁︵ 咸煕 元年
︶秋 七月
︑帝
︵受 禅前 の司
摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
六 四
馬炎
︶︑ 司 空荀 顗を 奏し て禮 儀を 定め しめ
︑中 護 軍賈 充 は 法律 を 正 し︑ 尚 書僕 射 裴 秀は 官 制 を議 し
︑太 保 鄭 沖︑ 總じ て焉 を裁 る﹂ とあ るよ うに
︑行 政法 典︑ 刑法 典と 同時 に礼 典が 編纂 され たこ とは
︑こ の三 者が 相ま って 国家 の体 制の 根幹 を形 作る とい う︑ 為政 者た ちの 明確 な認 識を 示す もの であ ろう
︒ こ の礼 典の 成立 から 約一 五年 後︑ 太康 年間
︵二 八〇
│二 九〇
︶の はじ め︑ 摯虞 らに 礼典 の内 容を 審議 する 勅命 が下 り︑ 元康 元年
︵二 九一
︶︑ 摯 虞は その 結果
︑整 理刪 改す る必 要の ある 箇所 を十 五項 目に わた って 上奏 した
︒﹃ 晋書
﹄礼 志か ら︑ それ ら各 項目 の概 要を 確認 する こ と がで き る︵ そ の一 部 は3 章 で 紹介 す る︶
︒ さら に そ の後
︑彼 は 傅 咸 とと もに
︑ま た傅 咸が 元康 四年 に没 した 後は 一人 で︑ 儀礼 の細 節に 至る まで の考 証作 業を 続け
︑彼 が西 晋末 期の 動乱 の中 で餓 死し た後
︑東 晋時 代の 学者 たち がそ の遺 業を ま と め︑ さら に 摯 虞の 後 の 議 論を も 追 加し て 成 った の が︑
﹃ 決 疑要 注﹄ であ る︒ なお
︑摯 虞と とも に考 証に 携わ った 傅咸 が﹁ 剛簡 有大 節︑ 風格 峻整
﹂と 評さ れる 正道 派の 官僚 であ り︑ また
﹁咸 累自 上稱 引故 事﹂ と言 われ るよ うに 故事 律 令 に明 る い 学者 で も あ った こ と は︑
﹃決 疑 要 注﹄ の性 格 に も 影を 落と して いる よう に思 われ るの で︑ ここ で付 言し てお きた い︒ 彼の 当時 の官 銜は 司隷 校尉 であ り︑ 狭義 の礼 官で はな いが
︑そ れに も拘 わら ず彼 がこ うし た作 業に 参与 した のは
︑個 人的 な意 向に よる もの であ った に違 いな い︒
﹃決 疑要 注﹄ が泰 始礼 の検 討に 際す るい わば 副 産物 と し ての
︑個 人 的︵ 官 撰 では な い︶ 著 作で あ っ たこ と を 以 上確 認し たが
︑後 に具 体的 に見 るよ うに
︑そ れは 礼典 の各 儀節 の根 拠︑ 意味
︑歴 史的 由来 を説 明し た︑ 一種
︑考 証学 的な 内容 を持 つも ので あっ たと 見ら れる
︒元 康元 年の 上奏 に﹁ 所陳 惟﹂ とあ るよ うに
︑こ のと きは 国家 祭祀 と吉 凶の 礼制 のみ にし か及 んで いな かっ た検 討を
︑さ らに 学制
︑服 制︑ 殿堂 の制
︑廟 制︑ 等々 の委 節に 至る まで 考論 しよ うと した もの が同 書で あっ たと 考え られ る︒
﹃ 決疑 要注
﹄の 書名 がも とか らの もの であ った かは 分か らな い︵
﹃宋 書﹄ 礼志 では
﹁ 決疑
﹂︑
﹃ 南斉 書﹄ 礼志 では
﹁決 疑注
﹂と し︑
﹃隋 書﹄ 経籍 志に 至っ て初 めて
﹁決 疑要 注﹂ の名 が確 認さ れる
︶が
︑儀 摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
六 五
節上 の疑 わし き点 につ き︑ その 由来
・根 拠を 経典
・故 事に 徴し て考 証し
︑旨 要を 注解 する とい う同 書の 性格 を︑ この 表題 は的 確に 表し てい るで あろ う︒
﹃決 疑要 注﹄ がい つの 頃ま で単 行本 とし て通 行し てい たか 正確 には 言え ない が︑
﹃新 唐書
﹄芸 文志
︵儀 注類
︶に
﹁摯 虞決 疑要 注一 巻﹂
︑﹃ 通 志﹄ 芸文 略︵ 礼儀 類︶ にも
﹁決 疑要 注一 巻 摯虞
﹂と あり
︑唐 宋の 頃ま では 一巻 の整 本と して 流通 して おり
︑そ の後
︑散 逸し たら しい
︒明 の陶 宗儀 は同 書を 輯佚 し﹃ 説郛
﹄に 収め たが
︑六 項目 の各 条文 とも 出処 が不 明で 節略 が多 く︑ かつ 十分 に佚 文を 集め てい ない など
︑問 題が 非常 に多 い︒ それ に対 し民 国期 の張 鵬一 は﹃ 摯太 常 遺書
﹄︵
﹃ 関 中叢 書
﹄所 収︶ 巻 二に
﹃決 疑 要 注﹄ を 輯佚 し
︑出 典 を明 記 し た 上 で 十 数 項 目 の 佚 文 を 集 め る︒
﹃説 郛﹄ の輯 本に 比べ れば 大幅 に信 頼が 置け るが
︑﹃ 芸 文類 聚﹄ の佚 文を 収め ず︑
﹃初 学記
﹄の 佚文 をよ く見 てい ない
︵た とえ ば下 述︵ c︶ の佚 文を 収め ない
︶な ど︑ 依然 問題 を残 す︒ また 項目 ごと の佚 文の 分類 にも
︑や や妥 当性 を欠 くと 思わ れる 箇所 が散 見さ れる
︒そ こで 次に
︑改 めて 諸書 より 佚文 を集 め︑ 初歩 的な 整理 を加 えて 提示 する こと にす る︒ 2
﹃決 疑 要 注﹄ 佚 文 以
下︑ 諸書 から 集め た決 疑要 注の 佚文 を︑ 同一 ない し一 続き の内 容と 見ら れる 文ご とに 分類 して 掲げ る︒ 複数 の典 籍に ほぼ 同一 の文 が載 せら れる 場合 は︑ 最も まと まっ たテ キス トを 提示 し︑ 大き な異 文の み併 記す る︒ 輯佚 とい う作 業の 性質 上
︑訓 読 はあ え て 加え な い︒ 引 用 文は 旧 字 体を 使 う︒
﹃ 文選
﹄は
﹃文
﹄︑
﹃ 北 堂書 鈔
﹄は
﹃北
﹄︑
﹃ 初 学記
﹄は
﹃ 初﹄
︑﹃ 太 平御 覧﹄ は﹃ 御﹄ と略 記す る︒
摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
六 六
︵ a︶ 流蘇 の制 天子 帳以 流蘇 為飾
︒凡 行為 流蘇
︒︵
﹃ 北﹄ 一三 二︶
/ 凡下 垂為 蘇︒
︵﹃ 文
﹄三
・張 衡東 京賦 李善 注︶
︵ b︶ 玉珮 の制 漢末 喪亂
︑絕 無玉 珮︒ 魏侍 中王 粲識 舊珮
︑始 復作 之︒ 今之 玉珮
︑受 法於 粲也
︒︵
﹃ 三国 志﹄ 二一 王粲 伝注
︶
︵ c︶ 尚書 台の 文字 の制 尚書 臺召 人︑ 用虎 爪書
︑告 下用 偃波 書︑ 皆不 可卒 學︑ 以防 矯詐
︒︵
﹃ 初﹄ 二一
︶
︵ d︶ 廟主 の制 凡昭 穆︑ 父南 面︑ 故曰 昭︒ 昭︑ 明也
︒子 北面
︑故 曰穆
︒穆
︑順 也︒ 始祖 特於 北︑ 其後 以次 夾始 祖而 南︑ 昭在 西︑ 穆在 東︑ 相對
︒︵
﹃ 続漢 書﹄ 祭祀 志劉 昭注
︶/ 毀 廟主 藏廟 外戶 之外
︑西 牖之 中︵
﹃初
﹄一 三作
﹁凡 廟之 主藏 于戶 外北 牖之 下﹂
︶︒ 有 石函
︑名 曰宗
!︒ 函中 有笥
︑以 盛主
︒親 盡則 廟毀
︑毀 廟之 主藏 于始 祖之 廟︒ 一世 為"
︑"
猶四 時祭 之︒ 二世 為壇
︑三 世為
#︑ 四世 為鬼
︑$ 乃祭 之︑ 有禱 亦祭 之︒
$於 始祖 之廟
︑禱 則迎 主出
︑陳 於壇
#而 祭之
︑事
マ マ
訖還 藏故 室︒ 迎送 皆 蹕︑ 禮也
︒︵
﹃ 続 漢書
﹄祭 祀 志 劉昭 注
︶/ 古 者︑ 帝 王出 征
︑以 齊 車載 遷 廟 之主 及 社 主 以行
︑故 尚 書甘 誓 曰
︑用 命 賞 于 祖︑ 不 用 命 戮 于 社︒ 秦 漢 及 魏︑ 行 不 載 王
︵当 從
﹃御
﹄五 三 一 引 佚 文 作
﹁主
﹂︶ 也
︒︵
﹃ 御﹄ 三〇 六︶ 摯
虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
六 七
︵ e︶ 朝会 の制 漢 制︑ 正會 於 建 始殿
︑晉 制
︑大 會 於 太 極 殿
︑小 會 於 東 堂
︒其 會 則 五 時 朝 服︑ 庭 設 金 石︑ 虎 賁 旄 頭︑ 文 衣繡 尾︒
︵﹃ 御
﹄五 三八
;﹃ 芸
﹄四 九も ほぼ 同︶
/讌 之與 會︑ 威儀 不同 也︒ 會則 隨五 時朝 服︑ 庭設 金石 懸︑ 虎賁 着旄 頭︑ 文衣
!尾
︑以 列 陛︒ 讌則 服 常 服︑ 設絲 竹 之 樂︑ 唯宿 衛 者
︑列 伏︒ 大 會於 太 極 殿︑ 小會 於 東 堂︒
︵﹃ 御
﹄五 三 九︶
/ 漢末 喪亂
︑絕 無金 石之 樂︒ 魏武 帝至 漢中
︑得 杜"
︑識 舊法
︑始 復設 軒懸 鍾磬
︑至 于今 用之
︒︵
﹃ 芸﹄ 四一
︶
︵ f︶ 朝堂 の制 凡太 極殿 乃有 陛︑ 堂則 有階 無陛 也︒ 右# 左平
︑平 者以 文塼 相亞 次︑
$者 為陛 級也
︒九 錫之 禮︑ 納陛 以登
︑謂 受此 陛以 上殿
︒堂 之正 者為 路寢
︒凡 殿堂 坐位
︑以 近尊 為上
︑無 尊者 則巳
︑東 向者 以北 為上
︑南 向者 以西 為上
︑西 向者 以南 為上
︑北 向者 以東 為上 也︒ 殿堂 之上
︑唯 天子 居牀
︑其 餘皆 鋪幅 席︑ 席前 設筵
︒凡 天子 之殿
︑東 西九 筵︑ 南北 七筵
︒︵
﹃ 御﹄ 一七 五
︶/ 在 殿堂 之 上︑ 惟 天子 居 牀︑ 其 餘 皆鋪 席
︑前 設 筵几
︒天 子 之 殿︑ 東西 九 筵︑ 南 北 七筵
︒故 曰︑ 度 堂以 筵
︑度 室 以几 也
︒禮
︑堂 上 接武
︑堂 下 布 武︒ 一 曰︵
*︶
︑堂 上% 於 百 里︑ 堂下
%於 千 里
︑門 庭% 於 萬 里︒
︵﹃ 初
﹄二 四︶
︵
*
︶﹁ 一 曰
﹂ 以 下 は 他 書 に 同 様 の 佚 文 が 見 え ず
︑ 決 疑 要 注 か ら の 引 用 で は な い か も し れ な い
︒
︵ g︶ 朝会 執贄 の制 古 者 朝 會 皆 執 贄
︑侯
・伯 執 圭
︑子
・男 執 璧︑ 孤 執 皮 帛
︑卿 執 羔
︑大 夫 執 鴈
︑士 執 雉
︒漢
・魏 粗 依 其 制︑ 正 旦
︵﹃ 通 典
﹄七
〇 作正 朝
︶大 會︑ 諸 侯執 玉 璧︑ 薦 以 鹿 皮︑ 公 卿 已 下 所 執 如 古 禮︒ 古 者 衣 皮
︑故 用 皮 帛 為 幣
︒玉 以 象
摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
六 八
德︑ 璧以 稱事
︒不 以貨 沒禮
︑庶 羞不 踰牲
︑宴 衣不
#祭 服︑ 輕重 之宜 也︒
︵﹃ 続 漢書
﹄礼 儀志
︶
︵ h︶
$冕 の制 秦除
$冕
︵﹃ 御
﹄六 八六 作﹁ 六冕
﹂︶ 之制
︑唯 為玄 衣絳 裳一 具而 已︒ 漢興 亦如 之︒ 中興 後︑ 明帝 永平 中︑ 使諸 儒案 古文
︑依 圖 書︑ 始 復造
$冕 之 服︑ 至 于今 用 之︒
︵﹃ 御
﹄六 九
〇
︶/ 中 興後
︑明 帝 永 平中
︑使 諸 儒 案古 文
︑依 圖 書︑ 始復 造冕
$︑ 火龍 黼黻
︑以 奉祀 郊廟
︒︵
﹃ 北﹄ 一二 八︶
︵ i︶ 博士 弟子 の制
マ マ
漢初 置博 士而 無弟 子︑ 後置 弟子 五十 人︑ 又増 滿五 百︑ 漢未 至數 千人
︒魏 之務 學︹ 者︑ 始詣 太學 為門 人︑ 二歳
︺通
マ マ
二經 者
︑補 文 學掌 故
︑滿 三 歳︑ 通三 經 者︑ 櫂 為 太子 舍 人︒
︵﹃ 御
﹄五 三 四;
﹇
﹈ 内 は割 注
︶/ 太 常弟 子
︑通 二 経︑ 補 文 学︑ 三 経︑ 補 太 子 舎 人
︒晋 置 十 六 人
︑掌 表 啓
︒︵
﹃ 御﹄ 二 四 六︶
/ 太 子 舍 人︑ 晉 置 十 六 人︑ 掌 表! 也
︒︵
﹃ 北﹄ 六六
︶/ 漢 末弟 子五 千人
︑與 博 士習 禮 儀︒ 弟 子滿 二%
︑ 通二 經 者
︑補 文 學掌 故
︒魏 時︑ 募 學者 好 誦 大學 為 門 人︑ 滿三 年︑ 通一 經者
︑稱 弟子
︒︵
﹃ 北﹄ 六七
︶
︵ j︶ 某祭
︵*
︶の 制
︵ 禘︵
*︶
︶豐 於四 時之 祭︑ 而約 於禘
"
之 祭︒
︵﹃ 北
﹄九
〇︶
︵
*
︶ 孔 広 陶 の
﹃ 北 堂 書 鈔
﹄ 校 本 で は 豊 上 に 禘 字 を 補 う が
︑ そ れ で は 文 意 に 矛 盾 を き た す
︒ こ の 文 は 禘 祭 と は 別 の 某 祭 に つ い て 述 べ た も の と 解 す る べ き で あ る
︒ 摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
六 九
︵ k︶ 髦頭 の制
マ マ
世祖 曰︑ 髦頭 之義
︑何 謂邪
︒彭 權曰
︑國 有奇 恠︑ 觸山 截水
︑無 不崩 潰︑ 難畏 髦頭
︑故 使虎 士服 之︑ 以衞 至尊 也︒ 張 華 對 世 祖 曰︑ 臣 以 為
︑壯 士 之 怒
︑髦 湧 衝 冠
︑義 取 于 此 也︒
︵﹃ 北
﹄一 三
〇︶
/晉 武 帝 時
︑彭 權 為 侍 中︑ 帝 問 侍 臣︑ 旄 頭之 義 何 謂邪
︒權 對 曰︑ 秦 紀云
︑秦 國 有 竒 怪︑ 觸 山 截 水︑ 無 不 崩 潰︑ 唯 畏 旄 頭
︑故 使 虎 士 執 之
︑以 衛 至 尊︒
︵﹃ 御
﹄二 一九
︶
︵ l︶ 喪服 の制
︵1
︶ 禮︑ 故臣 為舊 君齊 衰三 月︑ 謂策 名委 質稱 臣吏 者也
︒見 察舉 而不 為吏 者︑ 弔服 加麻
︒︵
﹃ 御﹄ 五四 七︶
︵ m︶ 喪服 の制
︵2
︶ 禮︑ 臣喪 其父 母︑ 則赴 於君
︑君 弔之
︒漢 太傅 胡廣 喪母
︑天 子使 謁者
︑以 中牢 弔祭
︑具 送葬
︒魏 司空 陳群 喪母
︑使 者 弔 祭 如 故 事
︑又 使黃 門 侍 郎 杜 恕︑ 奉 詔 慰 問︒
︵﹃ 芸
﹄四
〇︶
/凡 使 弔 祭
︑同 姓 者︑ 素 冠 幘︑ 白 練 深 衣︑ 器 用 皆 素︒ 異姓 者︑ 服色 器用 皆不 變︒
︵﹃ 通 典﹄ 八一
・八 三︶
︵ n︶ 喪服 の制
︵3
︶
マ マ
古者
︑男 子皆 衣綵
︑有 故乃 素服
︒秦 漢以 來︑ 服色 轉變
︑令 唯朝 廷五 服用 綵︒
︵﹃ 御
﹄八 一四
︶
摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
七
〇
︵ o︶ 喪服 の制
︵4
︶ 父亡
︑服 竟︑ 繼母 還前 親 子 家︑ 當為 何 服︒ 此 有問
︑﹁ 有 夫 婦 生男 女 三 人︑ 遭荒 亂 離 散︑ 不知 死 生︒ 母 後 嫁︑ 有繼 子︒ 後 夫未 亡
︑得 親 子 信︑ 請 就 親 子 家
︑後 夫 言 可 爾
︒後 數 年
︑夫 亡
︑喪 之 如 禮︑ 服 竟︑ 隨 親 子 去︑ 別 繼 子 云︑
﹁ 我則 為絕
︑死 不就 汝家 葬 也︒
﹂ 而名 戶籍 如 故︒ 母 今亡
︑繼 子 當 何 服︒ 服之 三 年 則不 來 葬︑ 服 之周 則 無 所 嫁︒
﹂博 士淳 于睿 等以 為︑ 當依 繼母 嫁
︑從 為 服周
︒博 士 孫 綽議 曰
︑﹁ 父 答 雖有 可 爾 之語
︑夫 妻 枕 席相 順 之 意︑ 固 非決 絕之 辭也
︒繼 母喪 父如 禮︑ 服竟 之後
︑不 還私 家︑ 踰歲 歷年
︑循 養無 二︑ 母恩 不衰
︒適 見親 子︑ 專自 任意
︑無 所關 報︑ 私隨 其志
︑絕 亡夫
︑背 繼子
︑違 三從 正義
︑亦 為大 矣︒ 今母 雖不 母︑ 子何 緣得 計去 留輕 重而 降之 哉︒ 夫五 服有 名︑ 不可 謬施
︒施 之為 出︑ 出義 不全
︒施 之於 嫁︑ 嫁義 不成
︒欲 降服 周︑ 於禮 何居
︒名 在夫 籍︑ 私歸 親子
︑喪 柩南 北︑ 禮律 私法
︑訂 其可 知︑ 便決 降服
︒許 令制 周︑ 頗在 可怪
︒﹂ 博 士弟 子北 海徐 叔中 難孫 云︑
﹁以 前問 不立 甲乙 為名 稱︑ 於 議不 便
︒今 以 母為 甲
︑先 夫 為 乙︑ 後 夫 為 丙︑ 先 子 為 丁︑ 繼 子 為 戊︒ 丙 言 可 爾
︑必 慮 事 宜
︑順 其 至 情
︑非 虛欺 也︒ 臨終 不命
︑知 死之 後︑ 制不 在己 故也
︒甲 不重 求︑ 信之 前言 也︒ 本有 求還 之計
︑去 誓不 還葬 之辭
︒生 則己 不得 養︑ 死則 不與 己父 同穴
︑就 不成 嫁︑ 當為 去母
︑附 之於 嫁︑ 不亦 宜乎
︒﹂
︵﹃ 通典
﹄九 四︶
︵ p︶ 発哀 の制 國家 為同 姓王
・公
・妃
・主 發哀 於東 堂︑ 為異 姓公
・侯
・都 督發 哀於 朝堂
︒︵
﹃ 通典
﹄八 一︶
︵ q︶ 王公 の簡 冊へ の記 名の 制 尚書 名王 公及 位班 王公 者︑ 皆用 尺一
︒︵
︵
*︶ 杖作 用尺 一也
︶︵
﹃ 北﹄ 七〇
︶ 摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
七 一
︵
*
︶ 孔 広 陶 の 校 本 で は 尺 一 の 下 に 六 字 を 補 う が
︑ こ れ で は 文 意 が 通 じ な い
︒ 校 訂 の 案 語 が 誤 入 し た も の で あ ろ う
︒
︵ r︶ 日蝕 に際 する 斎戒 の制 凡救 日蝕 者︑ 著赤 幘︑ 以助 陽也
︒日 將蝕
︑天 子素 服避 正殿
︑內 外嚴 警︒ 太史 登靈 臺︑ 伺候 日變
︑便 伐鼓 於門
︒聞 鼓音
︑侍 臣皆 著赤 幘︑ 帶劍 入侍
︒三 臺令 史以 上皆 各持 劍︑ 立其 戶前
︒衛 尉卿 驅馳 繞宮
︑伺 察守 備︑ 周而 復始
︒亦 伐鼓 於社
︑用 周禮 也︒ 又以 赤絲 為繩 以繫 社︑ 祝史 陳辭 以責 之︒ 社︑ 勾龍 之神
︑天 子之 上公
︑故 陳辭 以責 之︒ 日復 常︑ 乃罷
︒︵
﹃ 晋書
﹄礼 志上
︶/
︵ 前段 とほ ぼ同 文を 引い た上 で︶ 此義
︑按 晉摯 虞決 疑注 云︑ 約魯 昭公 時叔 孫昭 子說 天子 救日 之法
︒︵
﹃ 通典
﹄七 八︶ 以
上︑ 筆者 の確 認し 得た 十八 項の 佚 文 を示 し た︒ こ れら は も と より 便 宜 的な 区 分 であ り
︑た と え ば︵ e︶
︑︵ f
︶︑
︵ j︶ は朝 会と それ に付 随す る制 度と して 一連 の内 容を 構成 した 可能 性も ある
︒︵ l︶ から
︵o
︶な いし
︵p
︶に つい ても 同様 のこ とが 言え よう
︒ま た輯 佚に 当た って 史料 捜索 を尽 くし てお らず
︑見 落と した 佚文 のあ ろう こと も無 論否
︵補 注
︶
め ない
︒し か し︑ こ こに 挙 げ た 諸 例 か ら
︑﹃ 決 疑 要 注
﹄の 内 容 的 傾 向 や 特 徴 を あ る 程 度 う か が う こ と は 可 能 で あ ろ う︒
摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
七 二
3
﹃決 疑 要 注﹄ の 内 容的 傾 向
⑴
﹃ 決疑 要注
﹄と 経典
・故 事
﹃決 疑要 注﹄ に現 れた 摯虞 の典 制に 対す る基 本姿 勢 をう か が う上 で
︑先 に 触 れた
︑彼 の 泰 始新 礼 に 対す る 十 五 条の 検討 意見 がよ く彼 の考 えを 表出 して いる と思 われ るの で︑ 次に それ らの 中か らい くつ かの 例を 挙げ たい
︒
︵ イ︶ 魏氏 の故 事︑ 國に 大 喪有 ら ば︑ 群 臣凶 服 し︑ 帛 を 以て 綬 囊と 為 し︑ 布を 以 て 劍衣 と 為 す︒ 新 禮︑ 傳に
﹁喪 を去 れば 佩び ざる 所無 し﹂ と稱 せば
︑明 らか に喪 に在 りて は則 ち佩 無き を以 て︑ 更め て制 して 齊斬 の喪 には 劍綬 を佩 びず
︒摯 虞以 為ら く︑
﹁ 周禮
︑武 賁氏
︑士 大 夫の 職 な り︑ 皆な 兵 を 以 て王 宮 を 守り
︑國 に 喪 故有 れ ば 則 ち衰 葛に て戈 楯を 執り て門 を守 り︑ 葬な れば 則ち 車に 從い て哭 す︒ 又た
︑成 王の 崩ず るや
︑太 保︑ 諸大 夫に 命じ て干 戈を 以て 內外 警設 せし む︒ 明ら けし 喪故 の際
︑蓋 し宿 衛の 防を 重ん ず︒ 喪を 去れ ば佩 びざ る所 無し
︑と は服 飾の 事を 謂い
︑防 禦の 用を 謂わ ず︒ 宜し く新 禮 を 定め 布 衣 劍は 舊 の 如 くし
︑其 の 餘 は新 制 の 如く す べ し︒
﹂ と︒ 詔し て之 に從 う︒
︵ ロ︶ 漢魏 の故 事︑ 將に 葬ら んと せ ば︑ 吉凶 鹵 簿 を設 け
︑皆 な 鼓 吹を 以 て す︒ 新禮
︑禮 に 吉 駕導 從 の 文 無く
︑臣 子は 宜し く其 の衰 麻を 釋き 以て 玄黃 を服 すべ から ざる を以 て︑ 吉駕 鹵簿 を除 く︒ 又た
︑凶 事に 樂無 く︑ 八音 を遏 密せ ば︑ 凶服 の鼓 吹を 除く
︒摯 虞以 為 ら く︑
﹁葬 に 祥 車曠 左 有 り︑ 則 ち今 の 容 車な り
︒既 に 葬れ ば
︑日 中 に 反虞 摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
七 三
し︑ 神を 逆え て還 る︒ 春秋 傳に
︑鄭 の大 夫公 孫蠆 卒し
︑天 子︑ 大路 を追 賜し
︑以 て行 かし むと あり
︒士 喪禮 に︑ 葬に 稿車 乘車 有り
︑以 て生 の服 を載 すと あり
︒此 れ皆 な唯 だに 柩を 載す るの みな らず
︑兼 ねて 吉駕 有る の明 文な り︒ 既に 吉駕 を設 れば
︑則 ち宜 しく 導從 有り 以て 平生 の容 を象 り︑ 死を 致さ ざる の義 を明 らむ べし
︒臣 子の 衰麻 は身 が為 に釋 くを 得ざ るも
︑以 為ら く君 父な れば 則ち 可な らざ る無 し︒ 顧命 の篇
︑以 て之 を明 らむ るに 足る
︒宜 しく 新禮 を定 め︑ 吉服 導從 を設 くる こと 舊の 如く し︑ 其の 凶服 鼓吹 は宜 しく 除く べし
︒﹂ と
︒詔 して 之に 從う
︒
︵ ハ︶ 漢魏 の故 事︑ 大喪 及び 大臣 の喪 に
︑! を執 る 者︑ 輓 歌す
︒新 禮 に 以 為ら く
︑輓 歌 は漢 武 帝 役人 の 勞 歌 に出 で︑ 聲哀 切な れば
︑遂 に以 て送 終の 禮と 為す
︒音 曲摧 愴な ると 雖も
︑經 典の 所制 に非 ず︑ 禮に 銜枚 を設 くる の義 に違 う︒ 方に 號慕 に在 れば
︑宜 しく 歌を 以 て 名と 為 す べか ら ず と︑ 除 きて 輓 歌 せず
︒摯 虞 以 為ら く
︑﹁ 輓 歌 は倡 和に 因り て摧 愴の 聲を 為す
︑銜 枚は 哀を 全う する 所以 なれ ば︑ 此れ も亦 た以 て衆 を感 ぜし む︒ 經典 の所 載に 非ざ る と雖 も
︑是 れ歷 代 の故 事 な り︒ 詩に 稱 す ら く﹃ 君子 歌 を 作 し︑ 推 し て 以 て 哀 を 告 ぐ
﹄と
︑歌 を 以 て 名 と 為 す も︑ 亦た 嫌う 所無 し︒ 宜し く新 禮を 定む るこ と舊 の如 くせ ん︒
﹂ と︒ 詔し て之 に從 う︒ いず
れの 例も
︑泰 始新 礼で 経典 の記 載に 従っ て削 除さ れた 漢魏 の故 事に 対し
︑摯 虞が 改め て経 典解 釈お よび 故事 に則 って 存続 を主 張し
︑そ の意 見 が裁 可 さ れた も の であ る
︒︵ イ
︶の 事 例で は
﹁伝
﹂︵
﹃ 礼記
﹄間 伝
︶の 記 載に 拠 り 服 喪中 の佩 剣を 禁じ た新 礼に 対し
︑摯 虞は
﹃周 礼﹄
︵ 夏官 旅賁 氏︶ や﹃ 尚書
﹄︵ 顧命
︶を も引 きつ つ同 伝を 服喪 中の 佩剣 を必 ずし も禁 ずる もの では ない と解 し︑ 魏の 故事 に倣 って 質素 な布 帛の 剣衣 を用 いる こと を説 く︒ また
︵ロ
︶で は凶 事に 際す る吉 駕を
︑礼 典に 明 文 なし と し て廃 止 す る 新礼 に 対 し︑ 摯虞 は
﹁春 秋 伝﹂
︵﹃ 左 伝﹄ 襄 四︶
︑﹃ 儀 礼﹄ 士 喪 礼︑
﹃尚
摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
七 四
書﹄ 顧命 に根 拠を 見い だし て︑ その 旧来 通り の存 続を 主張 する
︒さ らに
︵ハ
︶で は︑ 大喪 での 挽歌 を漢 武時 の労 役人 夫に 出ず るも のと し廃 止す る新 礼に 対し
︑摯 虞 は 確か に 経 典に は 記 載 がな い も のの
︑人 心 に 合し
︑﹁ 歴 代 の 故事
﹂で もあ り︑ かつ
﹃詩
﹄︵ 小 雅四 月︶ に説 く歌 の主 旨 にも 叶 う とし て
︑そ の 存 続を 説 く︒ こ れら の よ うに
︑彼 は 漢 魏 の故 事を 重ん ずる 一方 で典 制の 根拠 を複 数の 経書 に広 く求 め︑ 時に その 意を 敷衍 しつ つ︑ 常識 的節 度の 上に 故事 と経 典と の調 和を 図ろ うと する ので ある
︒そ の点
︑彼 は原 理主 義的 な革 新派 であ るよ りは 保守 的な 伝統 主義 者で あっ たと いう
︵!
︶
こと にな ろう
︒興 善宏 氏は 文学 理論 に見 られ る彼 の姿 勢を
﹁古 典的 正統 主義 への 志向
﹂と 呼ん だが
︑礼 制に 関し ても そう した 志向 は底 流し てい たと 見ら れる
︒た だ︑ 彼の 伝統 主義 は決 して 漫然 とし た旧 説の 墨守 の上 に立 つも ので はな く︑ むし ろ典 拠を 博引 し︑ とき に拡 大解 釈を も伴 いな がら 積極 的に 展開 され たも ので あっ たこ とに
︑こ こで 注意 して おき たい
︒彼 は杜 預に 宛て て喪 制を 論じ た書 簡 の 中で こ う も述 べ て い る︒
│﹁ 制 を變 じ 理 を通 じ
︑將 來 に垂 典 せ ん︑ 何ぞ 必ず やこ れを 古に 附し
︑老 儒を して 爭い を致 さし めん や﹂
︵﹃ 晋 書﹄ 本伝
︶︒
﹁ 老儒
﹂ら の硬 直し た旧 説に 拘ら ず︑ 代々 の制 度の 転変 を通 じて 不変 の﹁ 理﹂ を求 め︑ その 意を 今に 生か すと とも に将 来に 伝え るこ とに
︑彼 の本 意が あっ た︒ この よう な彼 の思 想の 背後 には
︑当 時の 社交 界を 風靡 した 浮華 の風
︑国 家と 社会 の崩 壊へ の危 機意 識が 強く 働い てい たと 考え られ るの であ るが
︑そ の点 につ いて は後 述し たい
︒ 彼 のこ うし た伝 統主 義的 傾向 を︑ 我々 は﹃ 決疑 要注
﹄の 中に も容 易に 見て 取る こと がで きる
︒先 章で あげ た諸 佚文 を見 れば
︑経 典の 古制 とと もに
︑前 代と りわ け漢 魏の 故事 がそ れら の中 で重 きを なし て扱 われ てい るこ とは 明ら かで ある
︒た とえ ば︵ g︶ 朝会 執贄 の制 にお いて は
︑﹁ 古 者﹂ とし て 古 制が 挙 げ ら れる 一 方︑ そ れに 基 づ く漢 魏 の 制 度が 述べ られ
︑ま た︵ h︶
"
冕 の制 では 秦以 来︑ 前漢 を経 て後 漢以 後現 在に 至る まで の制 度の 沿革 が詳 説さ れる
︒以 前︑ 筆者 が後 漢・ 胡広 の﹃ 漢官 解詁
﹄に つい て論 じた 際︑ そこ に漢 制を 歴史 的・ 実証 的に 考証 しよ うと する
︑換 言す れば 摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
七 五
︵!
︶
制 度の 根 拠 を経 典 の 世界 よ り は 歴史 的 堆 積に 求 め よう と す る 傾向 の 強 いこ と を 指 摘し た が︑ 同 様の 傾 向 を
﹃決 疑 要 注﹄
︵ b︶
︑︵ e
︶や
︵i
︶に つい ても 認め るこ とが でき よう
︒ 彼 はこ うし た考 証的 作業 を 単な る 知 的遊 戯 と して 行 っ た ので は 無 論な い
︒︵ b︶
︑︵ e
︶︑
︵ h︶
︑︵ n
︶で 制 度 の 転変 の後 に﹁ 今﹂ 制が 述べ られ るよ うに
︑こ れら 歴史 的叙 述の 畢竟 の目 的は
︑現 在の 制度 の根 拠と 意味 を説 くに あっ た︒ その 点で は︵ c︶ も同 様で ある
︒彼 にあ って 現・ 西晋 王朝 の制 度こ そは
︑西 晋末 の天 下土 崩へ の渦 中で あれ ば一 層︑ その 由緒 を経 典と 歴史 的先 例に よっ て確 かな もの とし
︑今 にあ って その 本来 の光 輝あ る姿 に戻 すと とも に後 代に 伝え る必 要が あっ たの であ る︒ 事実
︑西 晋の 最末
︑懐 帝が 戦乱 で久 しく 廃れ てい た郊 祀を 挙行 した 時の こと
︑摯 虞は 太常 とし て﹁ 舊典 を考 正し
︑法 物粲 然た り﹂
︵﹃ 晋 書﹄ 本伝
︶と いう
︒彼 の泰 始新 礼に 対す る検 討意 見の 一つ をま たこ こで 挙げ よう
︒
︵ ニ︶ 漢魏 の故 事︑ 王公 群妾 の夫 人に 見 うる や
︑夫 人 は答 拜 せ ず︒ 新 禮に 以 為 らく
︑禮 に 答 えざ る 無 し と︑ 更め て制 して 妃・ 公侯 夫人 は妾 に答 えて 拜 す︒ 摯虞 以 為 らく
︑﹁ 禮 に︑ 妾 の女 君 に 事 うる や 婦 の姑 に 事 うる が 如 く︑ 妾 の女 君 に 服す る や 期︑ 女君 の 報 ぜ ざる は
︑則 ち 敬は 婦 と 同じ き も 又 た賤 を 加 うれ ば な り
︒名 位 同 じ か ら ざ れ ば︑ 本よ り酬 報無 し︒ 禮に 答え ざる 無し とは
︑義
︑此 を謂 わず
︒先 聖︑ 嫡庶 の別 を殊 にし
︑以 て陵 替の 漸を 絕て り︒ 其の 防を 峻明 にす るも
︑猶 お僭 違 有 り︒ 宜し く 新 禮を 定 め︑ 自 ら 其の 舊 の 如く せ ん︒
﹂ と︒ 詔し て 其 の 議を 可と す︒
﹁ 陵替 の漸
﹂﹁ 僭違
﹂に 対す る鋭 い危 機意 識︑ それ に対 する
︑礼 的差 等を 設け ての 防遏 の主 張は
︑当 時の 浮華 の徒 らに 代表 され る風 教の 頽廃 を背 景と して
︑一 層そ の立 ち位 置を 鮮明 にす るで あろ う︒ 先に も触 れた よう に︑ 摯虞 とと もに
﹃ 決疑 要注
﹄の 考証 に携 わっ た傅 咸が
︑父 の傅 玄と 同 じく 朝 野 の綱 紀 粛 正 を叫 び 実 行し た
︑硬 骨 の正 道 派│ い わ ゆる
摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
七 六
﹁ 礼教 の徒
﹂│ であ った こと
︑さ らに 傅咸
・摯 虞と もに 官箴 を残 して いる こと
︵摯 虞﹁ 尚書 箴﹂
〜﹃ 北
﹄五 九︑ 傅咸
﹁御 史中 丞箴
﹂〜
﹃ 御﹄ 二二 六︶ から も︑ 礼教 の弛 緩に 対し て彼 らが 立場 を共 有し たこ とが 推測 され る︒ こ のよ うに
﹃決 疑要 注﹄ にお ける 事物 の考 証は
︑机 上の 学術 議論 では なく
︑第 一に 礼楽 の崩 壊に 向か う世 にあ って の経 世の 営み であ った
︒そ うで なけ れば
︑摯 虞ら が晩 年に 至る まで 同書 の作 業に 注い だ心 血を 理解 する こと は難 しい であ ろう
︒
⑵
﹃ 決疑 要注
﹄と 談辯 事 物の 縁起 に関 する
﹃決 疑要 注﹄ の説 明と して
︑興 味を 引か れる のは
︵k
︶の 例で ある
︒西 晋の 武帝 はあ ると き︑ 天子 の行 列の 先駆 をな す︑ 逆立 てた 髪を かた どっ たか ぶり 物を 身に つけ た儀 仗兵
﹁髦 頭﹂ の由 来に つい て侍 臣ら に問 うた とこ ろ︑ 侍中 彭権 は﹁ 秦国
﹂の 怪物 に縁 起を 求め
︑対 する 張華 は︑ 壮士 の怒 髪を かた どっ たも のと 解し た︑ とい う︒
﹃ 決疑 要注
﹄の この 一条 は﹃ 宋書
﹄礼 志で も言 及さ れて いる
︒ 晉武 嘗て 侍臣 に問 うら く︑
﹁ 旄頭 は 何 の義 な る や︒
﹂と
︒彭
︑推 し て 對 えて 曰 く︑
﹁ 秦國 に 奇 怪有 り
︑山 に 觸 れ水 を截 てば 崩潰 せざ るは 無し
︑唯 だ旄 頭を 畏る れば
︑故 に虎 士こ れを 服す
︑則 ち秦 制な り︒
﹂ と︒ 張華 曰く
︑﹁ 是の 言有 れど も事
︑不 經な り︒ 臣謂 え ら く壯 士 の 怒る や
︑髮 踊 り て冠 を 衝 く︑ 義︑ 此に 取 る なら ん
︒﹂ と︒ 摯 虞 の決 疑は 是非 する 所無 きな り︒ 徐爰 曰く
︑﹁ 彭
・張 の說
︑各 おの 意義 を言 うも
︑承 據す る所 無し
︒⁝
⁝﹂ と︒ 徐爰
︑沈 約の 見た テキ スト でも
︑議 論の 顛末 は記 され てい なか った ので あろ う︒ 彭権 の持 ち出 した 説話 を張 華は
﹁是 の言 あり
﹂と 認め てお り︑ 世間 では 知ら れた 話柄 であ った らし い︒ 荒唐 無稽 な説 話を
﹁不 経﹂ と退 ける 張華 の説 も︑ 劉宋 随一 の礼 学者 であ った 徐爰 から 見れ ば︑ 彭権 のそ れと 同じ く根 拠を 欠く 推測 に過 ぎな かっ た︒ 摯虞 はや はり 碩学 摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
七 七
︵!
︶
らし く両 者の 是非 につ いて は判 断を 保留 して おり
︑鄧 国光 氏は それ を師 であ る張 華へ の遠 慮ゆ えと 解す るが
︑敢 えて
﹁ 不経
﹂の 説︑ それ をめ ぐる 議論 を記 録に とど めた こ と の背 景 に︑ 当 時︑ こう し た 事 物の 縁 起 や意 味 に つき 士 人 間︑ さら には 皇帝 と臣 下と の間 で盛 んに 問答 が交 わさ れて いた こと が想 定さ れる
︒摯 虞自 身︑ 次の よう に伝 えら れる 談辯
︵ 清談
︶の 担い 手で あっ た︒ 東平 の太 叔廣
︑清 辯に 樞機 たり
︑廣 の談 ずれ ば虞
︑對 うる 能わ ず︑ 虞の 筆す れば 廣︑ 答う る能 わず
︑更 も相 い嗤 笑し
︑世 に紛 然と すと 云う
︒︵
﹃ 晋書
﹄本 伝︶ 摯虞 自身 の関 わっ た︑ 典礼 の由 来に 関す る談 辯の 例と して
︑次 のよ うな 話が ある
︒ 武帝 嘗て 摯虞 に三 日曲 水の 義を 問う に
︑虞 對 えて 曰 く︑
﹁ 漢の 章 帝 の 時︑ 平原 の 徐 肇︑ 三月 初 を 以て 三 女 を 生む も︑ 三 日に 至 り て俱 に亡 か る︑ 邨 人以 て 怪 と 為し
︑乃 ち 招 攜し て 水 濱に 之 き 洗 祓 し︑ 遂 に 水 に 因 り 以 て 觴 を 汎 ぶ︑ 其の 義︑ 此に 起る
︒﹂ と
︒帝 曰く
︑﹁ 必ず や所 談の 如く んば
︑便 ち好 事に は非 ず︒
﹂ と︒ 皙︑ 進み て曰 く︑
﹁虞 は小 生に して
︑以 て知 るに 足ら ず︑ 臣請 うら くは 之を 言わ ん︒ 昔︑ 周公
︑洛 邑を 成し
︑流 水に 因り て以 て酒 を汎 ぶ︑ 故に 逸詩 に云 う﹃ 羽觴
︑波 に隨 う﹄ と︒ 又た 秦の 昭王
︑三 日を 以て 河曲 に置 酒し
︑金 人を 見て 水心 の劍 を奉 じ︑ 曰く
︑﹃ 君 をし て西 夏を 制有 せし めん
︒﹄ と︒ 乃ち 諸侯 に霸 たり
︑此 に因 りて 立て て曲 水と 為す
︒二 漢相 い緣 り︑ 皆な 盛集 と為 す︒
﹂ と︒ 帝大 いに 悅び
︑皙 に金 五十 斤を 賜う
︒︵
﹃ 晋書
﹄束 皙伝
︶ これ と同 じ話 は︑ いわ ゆる 志怪 小説 であ る梁
・呉 均の
﹃続 斉諧 記﹄
︵﹃ 文 選﹄ 四六
︑顔 延之
﹁三 月三 日曲 水詩
﹂李 善注 所 引︶ に も 見 え る︵ な お
︑既 に そ れ よ り 早 く 南 斉
・臧 榮 緒 の﹃ 晋 書﹄ 佚 文
︵﹃ 御 覧
﹄一 五 八︶ に も 同 文 が 見 え る の で︑ 現行
﹃晋 書﹄ が﹃ 続斉 諧記
﹄の 記事 を採 録し たの では なく
︑共 通の 話柄 を一 方で は臧 氏﹃ 晋書
﹄と それ に基 づく 現行
﹃晋 書﹄ が︑ 一方 では
﹃続 斉諧 記﹄ が採 録し た も のと 推 測 され る
︶︒ こ う した 巷 間 の俗 話 や︑ 荒 外迂 誕 の 説 に至
摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
七 八
︵!
︶
るま で広 く材 を取 り︑ 事物 の起 源を 説こ うと する 姿勢 は︑ 応劭
﹃漢 官儀
﹄に 既に 見ら れた 傾向 に連 なる もの であ ると と もに
︑摯 虞 自 身が 関 わ った 当 時 の 談辯 の 風 を色 濃 く 反映 し た も ので も あ った
︒牟 潤 孫 氏 は︑ 六朝 期 に お け る 談 辯
︵"
︶
の︑ 社会 文化 から 政治 制度 に至 るま での 広範 な影 響 を 指摘 し た が︑
﹃決 疑 要 注﹄ も そう し た 当時 の 知 的環 境 の 産 物で あっ たこ とを
︑以 上か ら指 摘で きよ う︒ 談 辯と の関 係で いえ ば︑
﹃ 通典
﹄に 引く
︵o
︶の 佚文 に も注 目 せ ねば な ら な い︒ 遭乱 に よ り元 の 夫 子と 離 別 し 再婚 した 女性 が︑ 再び 元の 夫の 許に 帰し た場 合︑ 再婚 先の 継子 が彼 女の ため にい かな る服 喪を 行う かを 問う 設問 に対 し︑ 博士 淳于 睿・ 孫綽
︑博 士弟 子徐 叔中 らが 議論 の応 酬を 行う 内容 であ る︒ 複雑 な状 況を 想定 した 設問 は︑ 西晋 末期 の戦 乱下 の情 勢を リア ルに 写し たも のに 違い ない が︑ また 敢え て議 論を 導く ため に設 けら れた もの でも あろ う︒
﹁ 此有 問﹂ な る問 い か けに 対 し 博士 ら が 意 見を 交 わ して お り︑ こ れは 現 実 の 政策 審 議 に際 す る 礼 官の 集 議 のた ぐ い であ る よ り も︑ 学官 らの 集う 講学 の場 で催 され た討 論に 基づ く記 録と 考え られ る︒ 知的 議論 を楽 しむ 談辯 の影 響が 公的 な礼 学討 論の 場に も及 んだ こと
︑そ の記 録が
﹃決 議要 注﹄ にも 取り 込ま れて いる こと を︑ ここ から 推測 する こと がで きる
︒因 みに 孫綽 は孫 楚の 孫︑
﹃ 晋書
﹄本 伝に よれ ば太 学博 士 とな っ た のは 征 西 将 軍庾 亮の 参 軍 を経 た 後 なの で
︑東 晋 時 代の 事に 属す る︒ 摯虞 の死 後︑ 東晋 の学 者が 補筆 整理 した 際に 追加 され たも ので あろ う︒ な お︑ 先述 のよ うに 曲水 の義 に関 する 摯虞 らの 問答 が﹃ 続斉 諧記
﹄に も見 える 話で ある とす ると
︑換 言す れば 摯虞 の議 論と 志怪 小説 との 接点 を想 起す ると
︑﹃ 説 郛﹄ が﹃ 決 疑要 注
﹄佚 文 とし て 輯 録 する 次 の 出所 不 明 の文 章 に も 注意 せね ばな らな い︒
︵ s︶ 漢武 鑿昆 明池
︑極 深︑ 悉是 灰墨
︑無 復土
︒舉 朝不 解︑ 以問 東方 朔︒ 朔曰
︑﹁ 臣愚
︑不 足以 知之
︒可 試問 西域 胡︒
﹂ 帝︑ 以 朔 不 知︑ 難 以 移 問︒ 至 後 漢 明 帝 時︑ 外 国 道 人
︑入 來 洛 陽
︑時 有 憶 方 朔 言 者︑ 乃 試 以 武 帝 時 灰 墨 問 摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
七 九
之︒ 胡人 云︑
﹁ 經云
﹃天 地大 劫將 盡︑ 則劫 燒︒
﹄此 劫燒 之餘
︒﹂ 乃 知朔 言有 旨︒
︵﹃ 説 郛﹄ 一二
〇巻 本︑ 巻六
〇︶ 実は これ と全 く同 じ話 がや はり 志怪 小説 であ る﹃ 捜神 記﹄ 巻十 三に も見 える
︒陶 宗儀 が﹃ 決疑 要注
﹄輯 佚に 当た って
﹃ 捜神 記﹄ の文 章を 誤入 した
︑も しく は逆 に 明の 胡 応 麟が
﹃捜 神 記﹄ 輯 佚 時に
﹃決 疑 要 注﹄ のそ れ を 誤入 し た 可 能性 も無 論あ る︒ しか し︑ さら に同 じ文 章が
﹃初 学記
﹄巻 七で は東 晋・ 曹"
の﹃ 志怪
﹄佚 文と して 引か れる こと
︑加 えて 先述 の︑ 髦頭 の義 をめ ぐる
﹃決 疑要 注﹄ 佚文
︑ま た﹃ 続斉 諧記
﹄に も収 める 曲水 の義 をめ ぐる 摯虞 の議 論を 念頭 に置 く な ら︑ こ の 場 合︑ 同 じ 劫 火 の 余 塵 の 話 が
﹃決 疑 要 注
﹄と
﹃捜 神 記﹄
︑両 者 に 収 め ら れ て い た と 考 え る こ と が で き る︒ 思う に両 晋代
︑こ の伝 承が 東方 朔の 外伝 など とし て人 口に 膾炙 して おり
︑そ れを 摯虞 は何 かの 縁起 を説 くに 当た って 引用 し︑ また 干宝 はそ れを
﹃捜 神記
﹄に 輯録 し た ので は な かろ う か︒
﹃ 決 疑要 注
﹄が 当 時の 志 怪 小説 と も 取 材源 と関 心を 共有 した こと
︑更 に言 えば 両者 に同 じ時 代の 精神 が底 流し てい たこ とを
︑こ こか ら推 測す るこ とも 許さ れよ う︒ 同じ 観点 から
︑や はり
﹃説 郛﹄ 輯本 にの み見 える 次の
﹃決 疑要 注﹄ 佚文 にも 注目 した い︒
︵ t︶ 辛繕
︑甞 隱居 華陰
︑光 武 徴不 仕
︑至 有 大鳥
︑高 五 尺︑ 五 色 備擧 而 多 青︑ 棲繕 槐 樹︑ 旬 時不 去
︑弘 農 太 守以 聞︑ 詔問 百僚
︑咸 以爲 鳳︑ 太史 令 蔡 衡對 曰
︑﹁ 凡 象鳳 者 有 五︑ 多 赤色 者 鳳︑ 多 青色 者 鸞︑ 多 黄色 者 雛︑ 多 紫 色者 鶴︑ 多白 色者 鵠︒ 此鷄 多青 色︑ 乃鸞
︑非 鳳也
︒﹂ 上 善其 言︒ ほぼ 同じ 文章 が︑
﹃ 太平 御覧
﹄巻 九一 五︑ 九一 六 に同 じ 摯 虞の
﹃三 輔 決 録﹄ 注 とし て 引 かれ て い る︒ これ も 陶 氏 の誤 録と して 片付 ける より は︑
﹃ 決疑 要注
﹄﹃ 決録
﹄注 いず れに せよ
︑摯 虞が こう した 博物 学的 関心 を持 って いた こと の現
︵!
︶
れ︑ と見 るべ きで あろ う︒ そし て︑ そう した 関心 が直 接に は師 の張 華や 皇甫 謐ら に由 来す るで あろ うこ と︑ さら に広 くは
︑同 時代 の知 的環 境が そこ に色 濃く 影を 落と して いた こと を︑ 推測 して もよ いで あろ う︒
摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
八
〇
お わ り に 冒
頭に 述べ たよ うに
﹃決 疑要 注﹄ は六 朝か ら 唐 代に 至 る まで 広 く 読 まれ
︑﹃ 宋 書﹄ 礼 志に 引 か れる よ う に︑ 当 時の 礼学 家に も影 響を 与え てき た書 物で あっ たら しい
︒同 書が 泰始 新礼 の注 解と して の性 格を 持っ てい たこ と︑ そし て泰 始礼 が大 唐開 元礼 に至 るそ の後 の礼 典編 纂に 大き な影 響を 与え たこ とを 思え ば︑ それ は当 然で もあ ろう
︒同 書に おけ る歴 史主 義的 傾向 は︑ 後漢
・胡 広の
﹃漢 官解 詁﹄ 以来 の傾 向を 継承 する もの であ り︑ また 志怪 小説 にも 通ず る方 外へ の博 物的 関心 は︑ 摯虞 の師 の皇 甫謐 や張 華の 学術 的影 響で あろ うと とも に︑ 後漢 末の 応劭
﹃漢 官儀
﹄に 現れ 始め てい た傾 向を 承け
︑そ れを 展開 させ たも ので もあ った
︒横 軸で 見る なら
︑そ れは 同時 代の 政治
・社 会上 の風 潮へ の鋭 い危 機意 識と とも に︑ 当時 の知 的関 心の 趨勢 を強 く反 映し たも ので もあ った
︒い わば 同書 は︑ 後漢 以来 の職 官儀 注書 の系 譜の 上に
︑そ れを 魏晋 時代 の政 治・ 社会
・文 化的 状況 に応 じつ つ発 展さ せた もの と言 える
︒後 漢の 職官 儀注 書が そう であ った よう に︑
﹃ 決疑 要注
﹄も すぐ れて 同時 代的 な問 題意 識 と文 化 潮 流の 産 物 で あっ た こ とを 改 め て強 調 し て 稿を 終え たい
︒ 注
︵ 1
︶ 摯 虞 の 文 学 理 論 に つ い て は 興 膳 宏
﹁ 摯 虞
﹃ 文 章 流 別 志 論
﹄ 攷
﹂︵ 同 氏
﹃ 新 版 中 国 の 文 学 理 論
﹄ 清 文 堂 出 版
︑ 二
〇
〇 八 年
︑ 所 収
︶ に 詳 し い
︒ ま た 摯 虞 に 関 す る 専 論 で は な い が
︑ 佐 竹 保 子
﹁ 西 晋 の 出 処 論
﹂︵
﹃ 日 本 中 国 学 会 報
﹄ 第 四 七 輯
︑ 一 九 九 五 年
︶︑ 井 波 陵 一
﹁ 寄 る 辺 な き 時 代 に
﹂︵ 冨 谷 至 編
﹃ 江 陵 張 家 山 二 四 七 号 墓 出 土 漢 律 令 の 研 究
﹄ 朋 友 書 店
︑ 二
〇
〇 六 年
︑ 所 収
︶ が 摯 虞 に つ い て 比 較 的 詳 し く 論 ず る
︒
︵ 2
︶ 鄧 国 光
﹃ 摯 虞 研 究
﹄︵ 学 衡 出 版 社
︑ 一 九 九
〇 年
︶ は 摯 虞 の 生 平 と 交 流
︑ 思 想
︑ 学 問 と 文 学 に つ い て 詳 述 し て お り
︑ 目 摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
八 一
下
︑ 摯 虞 に 関 す る 唯 一 の 専 論 で あ ろ う
︒ 但 し
﹃ 決 疑 要 注
﹄ に つ い て は ご く 簡 単 に 触 れ ら れ る に 過 ぎ な い
︒
︵ 3
︶ 泰 始 律 令 に 関 す る 専 論 は 多 い が
︑ 代 表 的 な も の と し て 堀 敏 一
﹁ 晋 泰 始 律 令 の 成 立
﹂︵ 原 載
﹃ 東 洋 文 化
﹄ 六
〇 号
︑ 一 九 八
〇 年
︑ の ち 同 氏
﹃ 律 令 制 と 東 ア ジ ア 世 界
﹄ 汲 古 書 院
︑ 一 九 九 四 に 再 収
︶ な ど
︒
︵ 4
︶ 六 朝 隋 唐 に お け る 五 礼 制 度 の 発 展
︑ そ の 中 に お け る 泰 始 新 礼 の 画 期 的 意 義 に つ い て は
︑ 梁 満 倉
﹃ 魏 晋 南 北 朝 五 礼 制 度 考 論
﹄︵ 社 会 科 学 出 版 社
︑ 二
〇
〇 九
︶ が 詳 論 す る
︒
︵ 5
︶ 興 膳 氏 注
︵ 1
︶ 前 掲 論 文
︒
︵ 6
︶ 拙 稿
﹁ 胡 広
﹃ 漢 官 解 詁
﹄ の 編 纂
│ そ の 経 緯 と 構 想
│
﹂︵
﹃ 史 林
﹄ 八 六 巻 四 号
︑ 二
〇
〇 三 年
︶︒
︵ 7
︶ 鄧 氏 注
︵ 2
︶ 前 掲 書
︒
︵ 8
︶ 拙 稿
﹁ 応 劭
﹁ 漢 官 儀
﹂ の 編 纂
﹂
︵﹃ 関 西 学 院 史 学
﹄ 第 三 三 号
︑ 二
〇
〇 六 年
︶︒
︵ 9
︶ 牟 潤 孫
﹁ 論 魏 晋 以 来 之 崇 尚 談 辯 及 其 影 響
﹂︵
﹃ 注 史 斎 叢 稿
︵ 増 訂 本
︶ 上
﹄ 中 華 書 局
︑ 二
〇
〇 九 年
︑ 所 収
︶︒
︵ 10
︶
︵ b
︶︑
︵ e
︶︑
︵ n
︶ の 佚 文 が 一 部
︑ 張 華
﹃ 博 物 志
﹄︵
﹃ 漢 魏 叢 書
﹄ 所 収
︶ を 引 く こ と も
︑ 張 華 の 摯 虞 へ の 影 響 を 傍 証 す る
︒
︵ 補 注
︶ 本 邦 残 存 典 籍 に は
︑ 中 国 の 伝 世 文 献 に 見 え な い
﹃ 決 疑 要 注
﹄ 佚 文 が 二 条 残 さ れ て い る
︵ 新 見 寛 編
︑ 鈴 木 隆 一 補
﹃ 本 邦 残 存 典 籍 に よ る 輯 佚 資 料 集 成
﹄ 京 都 大 学 人 文 科 学 研 究 所
︑ 一 九 六 八 年
︶︒ 辻 正 博 氏 の ご 教 示 に よ る
︒
摯 虞
﹃ 決 疑 要 注
﹄ を め ぐ っ て
八 二