戦国大名島津氏の権力構造に関する一考察二一 はじめに本稿においては、戦国大名島津氏における「奏者」の人員構成の変遷から、戦国大名島津氏の権力構造の一端を明らかにしたい。奏者とは、一般に朝廷・幕府・諸大名家等において主君への取次を務める役職の事を指し、戦国大名島津氏における「奏者」も大名当主に対する取次を務める存在であった。こうした「取次」役については、大名との意思伝達を媒介した豊臣政権の取次の構成から同政権の構造や変遷を論じた山本博文氏の研究 ((
(以降、権力構造を論じる上での重要な考察対象の一つとされてきた。「取次」から権力構造を論じる右のような視角は、その 後、戦国大名研究にも取り入れられており ((
(、近年大名間外交における「取次」から戦国大名武田氏の権力構造を論じた丸島和洋氏は、特に「取次」を構成する人間一人一人の立場や役割を探る事の重要性を指摘している
((
(。右のような研究動向の中で、戦国大名島津氏においても、大名の「取次」を担う奏者が、権力の中枢を担う奉行人として、権力構造を考える上での主要な検討対象の一つとされている。そして、そうした中で最も代表的な研究として位置づけられるのが、山口研一氏による研究
((
(である。山口氏の研究は、島津義久の奏者を務めた家臣上井覚兼の日記を基に、島津氏における奏者の役割について検討したものである。
戦国大名島津氏の権力構造に関する一考察
奏者層の変遷の視点から
久下沼 譲
史観第一七八冊二二山口氏は、戦国大名島津氏の「奏者」の役割として、①家臣・国人領主と島津氏当主との間の意思伝達における取次を務めること、②老中とともに中央行政機構を構成し、その補佐役としての島津氏の意思決定へ関与すること、の二つを挙げている。また、山口氏は、老中の変遷から戦国・織豊期の島津氏の権力構造について論じる中で、「奏者」から登用される老中(=出世老中(に注目し、出世老中の登用には旧本宗家家臣団出身の老中の影響力削減の意図があった事を指摘している。そして、出世老中の登用は戦国期段階では限定的であり、譜代家臣・側近の官僚機構への大量登用は豊臣政権のテコ入れの下で実現したと評価している。以上のように、山口氏による一連の研究は、戦国大名島津氏における「奏者」の役割を明らかにするとともに、「奏者」の老中への登用を軸に、「奏者」が島津氏の権力構造に及ぼした影響の一端を指摘したものであったといえる。一般に「取次」論が大名・国衆間外交の「取次」の視点から論じられる事が多いのに対し、『上井覚兼日記』などの史料に基づき、「取次」の島津氏家臣団内部における役割や位置づけの追及が進められている点が、島津氏の奏者を巡る研究の大きな特徴といえるだろう。しかし、山口氏の論考は、あくまでも老中の変遷から島 津氏の権力構造を論じたものである関係上、「奏者」についての検討は老中へと登用された者に限られており、「取次」の構成員個々の立場・役割の追究という点では、なお課題を残している。戦国大名島津氏における「奏者」が、老中とともに島津氏の中央行政機構を構成し、その意思決定に関わる存在であったことは、既に山口氏の指摘にみられた通りである。戦国大名島津氏の権力の中枢は老中と奏者によって構成されていたのであり、島津氏の権力構造の問題を考える上では、やはり「老中への登用」に関わらず奏者層全体の動向にも目を向ける事が必要であると考えられるのである。そこで、本稿においては、右のような課題に取り組む上で、戦国大名島津氏の当主である島津貴久及び義久の下で「奏者」を務めた人物を抽出し、その出自や登用前後の動向に注目したい。一人一人の奏者についてどのような出自を持つ人間であったのか、奏者に就任する前後においてどのような経歴を持ったのかをふまえた上で、「奏者」の人員構成やその変化を追うことで、「奏者」を構成員とする島津氏の権力中枢の性格やその変化をも明らかにできると考える。以下、貴久期
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(・義久期
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(に分けて、戦国大名島津氏における奏者構成員たちの位置づけを考察する事で、戦国大名島
戦国大名島津氏の権力構造に関する一考察二三 津氏の権力構造の一端を明らかにしていきたい。
1.貴久期の奏者
本節においては、貴久期の奏者について考察を行っていきたい。この時期の奏者に関しては、関連する史料の数が非常に限られており、特に奏者を務める人物の名前について明確な記述がみられるのは、永禄六年(一五六三(頃の「島津家の役人」として老中五名・奏者三名の名を挙げた『日我上人自記 ((
(』のみとなっている。この史料には、当時の奏者として上原兵庫助・新納刑部大夫・阿多若狭守の三名の名前が挙げられている。そこで、まずは、この三名の出自・経歴について確認していき たい ((
(。
●新納刑部大夫忠元(武蔵守(新納忠元は、新納氏四代新納忠治の三男是久を祖とする新納氏庶流の出身である。是久の娘は伊作島津氏に嫁ぎ島津忠良を生んでおり、この庶流は、伊作島津氏時代から島津忠良とは姻戚・血縁関係にあった。忠元の父祐久は、是久の娘に従って幼年から伊作島津氏に仕えていた叔父忠澄の仲介で、忠良に仕えたとされる。 忠元の貴久奏者としての具体的な活動は、史料にはほとんど確認できないが、弘治年間の菱刈氏・蒲生氏との合戦について記した軍記「山本氏日記」において、貴久の使者を務めていることが確認される ((
(。当主の使者としての活動は、奏者の主要な役割の一つであり、忠元が貴久の奏者を務めた事を窺わせる事例といえる。なお、忠元の奏者としての活動は、永禄九年(一五六六(に貴久から島津氏家督を相続した島津義久の下でも確認される。また、永禄十年(一五六七(には薩摩国大口の地頭に任じられており、天正年間も一貫して同地の地頭を務めたことが確認できる。
●阿多若狭守阿多氏の一族には、島津忠良の御内人とされる人物が確認されることから、譜代被官であったと考えられ、一族に当主の近習を務めるものを多く確認できる。奏者としての具体的な活動としては、新納忠元と同じく、弘治年間の「山本氏日記」において使者としての活動が確認される ((1
(。その後は、島津歳久に召し出されて吉田地頭を務めたとされており、島津氏当主の奏者を辞し、島津歳久の家臣となったと考えられる。
史観第一七八冊二四●上原兵庫助(長門守尚近か(上原氏は、観応二年(一三五一(に足利直冬から伊作田地頭職を安堵され、伊作田氏を名乗った一族とされるが、戦国期に活動した上原尚信・尚近の兄弟以前の系譜関係や動向は不明となっている。上原氏の史料上の初見は、天文六年(一五三七(九月の上原長門守宛ての島津貴久署判の坪付 (((
(である。この坪付において日置荘内の所領の安堵を受けていることから、同時期には相州家家臣となっていた可能性が高い。上原兵庫助については、管見の限り『本藩人物誌』・『西藩烈士干城録』を含め、史料上にその活動を全く確認することができない。但し、弘治年間には上原長門守尚近という人物が阿多若狭守・新納忠元同様に貴久の使者として活動しており (((
(、兵庫助とはこの尚近のことを指すと考えられる。なお、上原尚近の奏者としての活動は、義久期にも確認することができ、永禄年間から一貫して奏者の地位にあったものと考えられる。その後は、天正五年(一五七七(に日向国高原地頭、次いで日向国飫肥地頭に任じられており、奏者としての活動は確認できなくなる。
以上数少ない史料から、貴久期の奏者層について検討を 行った。貴久期の奏者について、その出自に注目した場合、新納忠元・阿多若狭守は島津氏家督を巡る内紛以前から貴久の父である忠良と関係を有した家の出身であり、戦国大名島津氏にとっての譜代家臣と位置づけられる。また、上原氏についても、遅くとも内紛の初期において相州家に属した可能性が高く、そのため貴久期の奏者は、譜代被官の家の出身者を中心に構成されていたと考えら れる。また三人の経歴について注目した場合、いずれも地頭としての経歴を有しているものの、それらは全て、奏者を務めた貴久期以降のことである点が注目される。山口氏は、奏者を地頭から登用される存在と位置づけ、地頭→奏者→老中という出世ルートを想定しているが、この点については再検討が必要であると考えられる。
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義久期の奏者について島津貴久から、その嫡男である島津義久に家督が継承されたのは、永禄九年(一五六六(のこととされる。したがって、天正年間の記録である『上井覚兼日記』に確認され、これまで主に研究対象とされてきた奏者は、主に島津義久の下での奏者ということとなる。
戦国大名島津氏の権力構造に関する一考察二五 本節では以下、先行研究や、前節で明らかにした貴久期の奏者の動向をふまえつつ、義久期の奏者について検討を行いたい。
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『上井覚兼日記 ((( 奏者の抽出については、既に山口氏の先行研究でも、 津氏の「奏者」層の抽出を行いたい。 本節においては、まず、考察の前提として、戦国大名島 構成 1戦国大名島津氏における「奏者」層の抽出とその
(』を基に試みられている。『上井覚兼日記』は、島津氏家臣である上井覚兼が記した日記であり、天正二年から同四年(一五七四~一五七六年、以下「前半部」とする(、及び天正十年から同十四年(一五八二~一五八六年、以下「後半部」とする(の二つの時期の記録が残されている。記主である覚兼は島津義久の下で、奏者・老中を務めた人物であり、日記には、彼以外の奏者・老中の活動についても多くの記載を確認できる。山口氏による抽出作業は、この『上井覚兼日記』を基に、奏者を示す「奏者」「御使衆」「申次」の三つの語句を基準に奏者層の検出を行ったものである。山口氏は、この方法に基づき、伊地知重秀・伊集院久治・上原尚近・上井覚兼・鎌田政廣・税所篤和・白濱重政・新納忠元・新納久 饒・比志島国貞・本田親貞・町田久倍・山田有信・吉田清存の十四名を奏者として検出している。右のような山口氏の検出結果は一定の妥当性を持つものと評価できるが、なお不十分な点も残していると考えら れる。これは、『上井覚兼日記』以外にも、奏者を確認できる史料が存在するためである。こうした史料の例として第一に挙げられるのが、『西藩烈士干城録』・『本藩人物誌』などの近世に編纂された島津氏家臣の略伝集である。これらの史料には、「使衆」として山口氏による作業結果にはみられない奏者を多数確認することができる。また『旧記雑録』に収録される「肥後水俣陣立日記 (((
(」は、天正九年に肥後国の水俣城を攻撃した際の島津軍の陣容を記した史料であるが、出陣した諸将の役職に関する記載があり、当時の老中・奏者の構成を窺える貴重な史料となっている。当然ながら、後世の編纂物であるこれらの史料は、慎重に扱う必要がある史料といえ、史料中にみえる奏者についても検証が必要となるだろう。しかしながら、これらの史料から新たに検出された奏者の中には、『上井覚兼日記』内において「奏者」としての
史観第一七八冊二六活動を確認できる事例も少なくないのである。一例として、『本藩人物誌』・『西藩烈士干城録』に「使衆」を務めたと記載される本田親治について確認してみ たい。史料一『上井覚兼日記』(以下『上』(天正三年十一月六日条一、此日、従豊 (島津朝久(州御申候也、使ハ新納意月斎・柏原権介也、本 (本田親治(田因幡守・拙者両人にて意趣承候、(中略(、即御老中へ申入候、達上聞候へと承候条、両 (親治・覚兼(人申上候、(後略(史料一においては、島津朝久が上申のため鹿児島に使者を派遣しているが、この際、本田親治は上井覚兼とともに、朝久からの上申内容を老中・義久へ取り次いでいる事が確認できる。この史料における親治の役割は、山口氏によって指摘された奏者の役割そのものであり、また親治と行動を共にする覚兼が奏者であった事は先述の通りで ある。以上の点から、親治が実際に奏者を務めていた事は明らかであり、親治に関する『本藩人物誌』・『西藩烈士干城録』の記述は確かなものといえるのである。もちろん、検出された奏者全てに関して、同時代史料による裏付けをとることができるわけではないが、近世の編 纂史料に基づく奏者の抽出は、山口氏による検出結果を十分に補いうるものであるといえる。そこで以下、本稿では、近世の編纂物から検出される奏者についても、『上井覚兼日記』により裏付けがとれる場合に限り、考察の対象として取り上げることとする。さて、右のような方針のもとに、『上井覚兼日記』の前半部・後半部それぞれについて、奏者の検出結果をまとめたものが左記の表となる。
『上井覚兼日記』前半部 『上井覚兼日記』後半部 「肥後水俣陣立日記」
伊地知雅楽助 伊地知雅楽助
伊地知重秀 伊地知重秀 伊地知重秀 伊集院久治
上原尚近 上井覚兼
白濵重政 白濵重政 白濱重政
新納忠元 本田親貞
本田親治 本田親治 本田親治
伊地知重元
伊地知備前守 伊地知備前守
稲留長辰 稲留長辰
鎌田政近
鎌田政廣 鎌田政廣
税所篤和 税所篤和
新納久饒 新納久饒
比志島国貞 比志島国貞
本田正親 本田正親
町田久倍 町田久倍
山田有信
吉田清存 吉田清存
表 義久期の奏者一覧
戦国大名島津氏の権力構造に関する一考察二七 注目されるのは、『上井覚兼日記』の前半部と後半部では、奏者として確認される人物の構成に大きな変化がみられる点である。これに関しては前半部と後半部では、六年の隔たりがあるため、一見すると当然のことのようにも思われる。しかし、日記後半部の奏者を、天正九年の「肥後水俣陣立日記」のものと比較した場合、若干の増員が確認される以外に大きな変化はみられない。つまり、後半部の奏者の構成は、概ね天正九年頃までに固まっており、以降、大きな入れ替えはなかったのである。この点をふまえれば、前半部と後半部の間に確認される違いは、島津氏の奏者を巡る大きな変化を意味する可能性が高いと考えられる。そこで、以下では『上井覚兼日記』の前半部と後半部、それぞれの時期の奏者について、その出自・経歴を明らかにした上で、比較・検討を行っていきたい。
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伊地知雅楽助・伊地知重秀・伊集院久治・上原尚近・上井 表一からこの時期の奏者を抽出した場合、その構成は、 から四年にかけての時期の奏者に関して検討したい。 本節では、『上井覚兼日記』の前半部を基に、天正二年 2.『上井覚兼日記』前半部に確認される奏者 に義久への取次を務めている事が確認され ((( 一致しているが、『上井覚兼日記』においては覚兼らと共 両書とも伊地知雅楽介を奏者(「御使衆」(とする点では 別人としており、出自の詳細は不明である。 る一方、『西藩列士干城録』は右の説を示しつつも両者を に始まる庶流の出身で、伊地知重政の子重次にあたるとす 『本藩人物誌』は、下大隅伊地知氏五代重豊の四男重基 ●伊地知雅楽介 の出自と経歴から確認していきたい。 な人物であったのであろうか。以下においてはまず、各人 新たに奏者として確認されるこれらの人物は、どのよう 認される人物は、残りの七名となる。 らの続投と考えられるため、義久期に新たに奏者として確 なる。九名の内、新納忠元・上原尚近については貴久期か 覚兼・白浜重政・新納忠元・本田親貞・本田親治の九名と
(、実際に奏者を務めていた可能性が高い。なお、『上井覚兼日記』後半部においても引き続き奏者としての活動が確認される。
●伊地知重秀(勘解由左衛門尉、伯耆守(下大隅領主伊地知氏の庶流の出身。祖父久純は本宗家家老を務めたとされるが、父又八某は天文十八年(一五四
史観第一七八冊二八九(に相州家方として戦死しており、島津氏の内紛の中で相州家に属したものと考えられる。管見の限り、重秀の名が初めて史料上に現れるのは、元亀二年(一五七一(八月九日の事で、義久主催の連歌会の参加者の一人として確認される (((
(。連歌会の参加者には伊集院久治らの名前もみえることから、この時期には義久の側近家臣であった可能性が高い。『上井覚兼日記』においては、前半部・後半部ともに奏者としての活動を確認できるほか、「肥後水俣陣立日記」からは、大隅国姶良の地頭を兼ねていた事を確認できる。
●伊集院久治(右衛門兵衛尉、下野守(島津氏の一族伊集院氏の庶流の出身。父である久通については、弘治年間に野村民部少輔是綱と共に義久の使者を務めている。この時、久通が行動を共にした是綱は、天正期に義久の近習としての活動が確認される (((
(人物であり、両人ともにこの時期から義久の側近の立場にあった可能性が高い。久治については、既に山口氏が、義久の側近の地位にあった事を指摘しているが、久治のこうした立場は、父以来の義久との関係に基づくものであったと考えられる。その後「肥後水俣陣立日記」には日向国櫛間の地頭とし てみえ、『上井覚兼日記』の後半部でも、同地の地頭としての活動が確認される。●上井覚兼上井氏は、大隅国上井を本貫とする在地領主で、天文十七年(一五四八(の大隅守護代本田薫親の反抗に際し、島津氏方に服属した。覚兼の活動については、覚兼が自身の来歴等について記した随筆「伊勢守心得書 (((
(」によれば、永禄三年(一五六〇(十月に幕府上使との面会に赴く貴久の供を務めたのが初めとされる。同史料には、永禄四年を初陣として各地に従軍した事が記されるが、覚兼が従軍した戦いには義久が指揮を執ったものも多い。なお、『上井覚兼日記』の記述に従えば、奏者就任は、天正元年前後からとされている。
●白濱重政(次郎左衛門尉、周防守(白濱氏は、渋谷一族東郷氏の七代右重の二男重貫を祖とする庶流で、東郷の内の白濱の地を領有したことから「白濱」を名乗ったという。重政は、白濱氏五代周防守某の二男で、貴久の妻(入来院重聡の娘(が重政と従妹の関係であった縁で、幼くして貴久に召し抱えられたとされる。
戦国大名島津氏の権力構造に関する一考察二九 なお、『本藩人物誌』などによれば、義久の下での奏者就任は、元亀二年(一五七一(に死没した島津貴久の遺言によるものとされている。●本田親貞(弥六、下野守(島津氏の根本被官本田氏の庶流の出身で、島津貴久と対立する旧本宗家(奥州家(の島津勝久の家老を務めた本田親尚の二男とされる。親貞の動向が初めて確認されるのは、天文二十三年(一五五四(の岩剣合戦関連の史料の中であり、同合戦において親貞は、初陣を果たした義久の太刀役(=太刀持(を務めている (((
(。以降も度々、義久の太刀役を務めている事が確認され ((1
(、義久の側近家臣として活動していたと考えられる。その後は、天正八年(一五八〇(ごろまでに老中に就任しており、鹿児島を中心に対琉球外交の窓口としての役割などを果たしたとされる。
●本田親治(因幡守(大隅守護代本田氏の庶流の出身。天文十七年(一五四八(の嫡流家の本田薫親相州家島津氏に反抗した際、父親知が島津氏側に味方し、以降相州家島津氏の家臣となった。親治に関しては、弘治年間に鹿児島衆に属していること が確認でき (((
(、永禄年間以降は、島津氏当主主催の連歌会への参加も確認される。また天正四年(一五七六(の高原攻めにおいても覚兼らとともに使者の義久への取次を務めていることが確認できる。天正六年、大友氏との耳川合戦に従軍し、戦死した。
以上ここまで、『上井覚兼日記』の前半部を基に、島津義久の奏者の構成について検討を行った。その構成を、前項で確認した貴久期のものと比較した場合、島津忠良以来の相州家の譜代被官を中心としていた貴久期と異なり、島津氏家督を巡る内紛の中で新たに島津氏に服属した家の出身者からも登用が行われていたといえる。この点と関わり注目されるのは、この時期の奏者の多くは、家督相続以前から義久の下で側近家臣としての活動が確認される点である。本田親貞は、義久の初陣とされる岩剣合戦以来、度々義久の太刀役(=太刀持役(を務めており、家督相続以前から義久の側近くに仕える家臣の一人であった可能性が高い。また、伊集院久治についても、その父久通は、家督相続以前から義久の側近として活動した可能性が高く、義久と密接な関係をもつ家の出身者であったと考えられるので ある (((
(。
史観第一七八冊三〇この他、本田親治や伊地知重秀についても、久治とともに義久主催の連歌会への参加が確認されるなど、義久との結びつきの強さを窺う事ができる。唯一の例外として、白濱重政は、貴久と密接な関係を持つ家臣であったが、先に確認した通り、彼の奏者就任は貴久の遺言に基づくものとされている。この逸話の真偽は明らかではないが、このような逸話を伴う奏者は重政一人であり、逸話の存在そのものが、重政の事例の特殊性を示しているのである。以上のような点をふまえれば、義久期奏者が、貴久期に比して幅広い家臣により構成された背景には、義久との結びつきを重視する方針があったと考えられる。この時期の奏者は、基本的には家督相続以前からの結びつきに基づく義久の側近家臣により構成され、彼らの側近としての活動の延長線上に位置する存在であったといえ よう。
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『上井覚兼日記』後半部に確認される奏者3
次に『上井覚兼日記』後半部に確認される奏者について検討したい。表一から、同時期の奏者を抽出すると以下のような構成となる。伊地知雅楽助・伊地知重秀・伊地知重元・伊地知備前 守・鎌田政近・鎌田政廣・税所篤和・白濱重政・白濱重治・新納久饒・比志島国貞・本田正親・町田久倍・山田有信・吉田清存既に述べた通り、天正年間初頭と比較した場合、伊地知重秀・白浜重政といった一部の奏者を除き、その多くがこの時期に新たに確認される人物となっている。そこで、以下においてはまず、この時期に新たに確認される奏者について、その出自と経歴を確認していきたい。●伊地知重元(勘解由左衛門尉(伊地知重秀の嫡男。「御使衆」「申次」「奏者」としては明記されないが、『上井覚兼日記』後半部に、義久の上意の伝達など、奏者としての役割を果たしている事が確認される。『上井覚兼日記』前半部では、覚兼らと共に使者への応対を務めており (((
(、この段階で鹿児島衆として活動していたと考えられる。また、天正十年(一五八二(・天正十四年に、島津氏当主の正月儀礼を取り仕切る「年男役」として義久に対する島津氏家臣らの年頭御礼の取次を務めており (((
(、この頃には奏者として活動していたと考えられる。
●伊地知備前守(伊地知重豊カ(
戦国大名島津氏の権力構造に関する一考察三一 「肥後水俣陣立日記」においては薩摩国川内山田地頭兼御使衆とされる。中世から近世までの薩摩藩各郷の地頭についてまとめた「諸郷地頭系図 (((
(」には、天正八年頃の川内山田地頭として「伊地知備前守重豊入道休可」の名が確認され、この人物に該当するものと考えられる。その出自・経歴についてはほとんど明らかではないが、『上井覚兼日記』の後半部においては、伊地知重秀・白濱重政らと並んで義久の使者を務めており、奏者としての活動を窺うことができる。
●稲留長辰(新介、姓は稲富とも(天文五年に、稲留傳翁の子として生まれる。稲富氏は、肥後相良氏の一族で、室町期、島津忠国の代に島津氏に仕えたとされ、その後、忠国の庶長子で相州家の祖となる島津友久の傅役を務めたとされる。相州家は友久の嫡男運久の後、その養子となった島津忠良によって継承されており、稲留氏は、そのまま相州家家臣として忠良に仕えたものと考えられる。長辰についての記載は、『上井覚兼日記』前半部を始めとした天正年間初頭以前の史料からは、ほとんど窺えない。「肥後水俣陣立日記」には紙屋地頭兼御使衆としてみえ、その活動は、『上井覚兼日記』後半部において実際に 確認することができる。●鎌田政近(出雲守(鎌田氏の庶流で、嫡流鎌田政経の二男政末に始まる政末流の出身。鎌田氏は、島津忠良が相州家を継承する以前からの譜代被官家である。政近の名は、『上井覚兼日記』前半部では、大隅国新城の地頭として確認される。その後、「肥後水俣陣立日記」には、日向国都於郡地頭としてみえる。また、『本藩』『西藩』に「義久使衆」とみえ、『上井覚兼日記』後半部に、伊地知重秀とともに奏者としての役割を果たしている事が確認される (((
(。
●鎌田政廣(刑部左衛門尉(政近と同じく相州家島津氏の譜代被官家である鎌田氏の庶流の出身で、鎌田政年の子。父政年は、弘治年間の蒲生氏との合戦に際して、貴久の太刀役(=太刀持(を務めたほか、戦後には帖佐地頭に任じられるなど、島津貴久の下で活動した。政廣の動向は、『上井覚兼日記』前半部などの天正年間初頭までの史料にはほとんど窺えない。「肥後水俣陣立日記」に志布志地頭兼御使衆とみえ、『上井覚兼日記』後半
史観第一七八冊三二部においては、実際に奏者として、主に日向地頭衆に対する取次を務めていることが確認できる。
●税所篤和(新介、越前守(大隅国曽於郡の郡司に始まり、後に大隅国税所職を世襲した税所氏の出身。父篤辰は、天文七年に加世田において相州家方として戦死したとされ、この段階で税所氏が相州家家臣であった事が確認される。天正年間初頭以前の篤和の地位を確認することのできる史料は少ないが、『上井覚兼日記』の前半部には、島津氏領内の地頭を務めている事が確認される。その後、「肥後水俣陣立日記」には、大隅国曽於郡地頭・御使衆とみえ、『上井覚兼日記』後半部において、実際にその活動を確認することができる。
●新納久饒(右衛門佐(新納氏四代新納忠治の三男是久を祖とし、その子友清の二男忠澄から分出した庶流の出身で、忠澄は久饒の祖父に当たる。忠澄は、伊作島津家に嫁いだ叔母に従い、幼年から伊作家へ仕えた。この叔母こそが島津忠良の生母であり、忠澄及びその子孫と、相州家とは非常に深い関係にあった。 久饒の動向については、『上井覚兼日記』の前半部に確認され、天正二年(一五七四(以降、比志島国真から引き継ぐ形で、薩摩国隈之城の地頭を務めている事が確認される。
●比志島国貞(宮内少輔(比志島氏九代比志島義重の二男比志島義信を祖とする庶流の出身で、天文十四年(一五四五(に比志島国真の子として生まれる。「島津忠昌社参随兵人数書上 (((
(」に、義信あるいはその嫡男義住と比定される「比志島源左衛門尉」がみえ、同家が本宗家家臣であったことが確認される。一方、天文四年の棟札銘 (((
(には、大旦那島津忠良と共に義住の名が確認され、本宗家家督を巡る内紛の中で相州家に属したものと考えられる。国貞については、天正年間前半まではその活動をほとんど確認できないが、「肥後水俣陣立日記」には市来地頭・御使衆とみえる。国貞の父国真は、『上井覚兼日記』の前半部に市来地頭として確認されることから、父の地位を継承したものと考えられる。
●本田正親(刑部少輔(天正年間初頭の奏者の一人である本田親治の子。『上井覚兼日記』の前半部においては、義久の祐筆としての活動
戦国大名島津氏の権力構造に関する一考察三三 が確認され、この時期、既に義久の側近家臣としての立場にあったと考えられる。また、天正六年(一五七八(の耳川合戦について記した「大友御合戦御日帳写 (((
(」には、義久の取次として、白濱重政・本田親貞らと並んで「吉田刑部少輔」がみえるが、これは「本田刑部少輔」の誤記とみられ、同時期までに奏者として活動するようになっていた可能性がある。
●町田久倍(助太郎、出羽守(島津氏一門町田氏の第十八代当主。町田氏は伊集院石谷を領し、石谷氏とも称した。久倍については、福島大明神の永禄七年(一五六四(十二月五日付の棟札 ((1
(に「石谷助太郎」の名がみえ、同時期に伊集院地頭(「伊集院由緒記」(であったことが確認される。『上井覚兼日記』前半部では、伊作八幡社参詣に際して義久の御剣役を務めるほか、天正三年(一五七五(の犬追物では覚兼・本田正親とともに太刀の請取役を務めており、鹿児島において義久の側近家臣として活動していた可能性が高い。その後、『上井覚兼日記』後半部においては、奏者としての活動が確認され、天正十三年以降は老中に登用される。 ●山田有信(越前守・新介(薩摩国日置山田の領主山田氏の出身で、山田有徳の子。有信の祖父有親は、島津氏家督を巡る争いに際して相州家と敵対しており、その子有徳の代に相州家家臣となった。有信は、天文十二年(一五四三(生まれで、幼少時より島津貴久に近侍したとされる。貴久の死後、『上井覚兼日記』前半部では、薩摩国高江の地頭として確認される。その後は、天正九年(一五八一(の「肥後水俣陣立日記」には日向国高城地頭とみえ、『上井覚兼日記』に実際に同地の地頭としての活動が確認される。「御使衆」「申次」「奏者」としての記載は確認されないが、税所篤和とともに談合の使衆を務める (((
(など、奏者に准じた活動を確認することができる。
●吉田清存(美作守、一説に清孝とも(大隅正八幡宮の神官で大隅国姶良郡吉田を領した吉田氏の出身で、吉田若狭守宗清の二男。清存の祖父位清は島津忠良の姉(伊作家島津善久の娘(を妻に迎えており、宗清はその子とされるため、相州家とは血縁関係にあった。清存については、「肥後水俣陣立日記」に阿多地頭兼御使衆とみえ、『上井覚兼日記』後半部にも、奏者としての活動が確認される。
史観第一七八冊三四 以上ここまで、『上井覚兼日記』の後半部において、新たに確認される奏者各人の出自・経歴について確認した。前節において、天正年間初頭の奏者が、家督相続以前からの義久の側近家臣を中心に構成されていた事を指摘したが、『上井覚兼日記』後半部においても、町田久倍や本田正親のように奏者就任以前から義久の側近としての活動する家臣を確認することができた。また、天正年間前半から継続的に奏者を務めている者(伊地知重秀・白濱重政・本田親治(に目を向けた場合、その子供(伊地知重元・白濱重治・本田正親(も奏者としての活動が確認されるようになることも注目される。子供の活動開始に伴って、直ちに親の活動が確認されなくなるわけではないが、明らかに役割の世襲を意識した動きと考えられる。重元・重治・正親らが義久側近としての活動を経て奏者となっている事もふまえれば、天正十年代においても、奏者の役割は、当主側近としての活動の延長線上に位置づけられるものであったと考えられる。一方で、鎌田政近・税所篤和・新納久饒・山田有信らのように、奏者就任以前に地頭としての経歴が確認される人物が現れる点も注目される。彼らの多くは、相州家島津氏 にとっての譜代家臣の家の出身者であるが、奏者就任以前の段階において、義久側近としての目立った活動を窺うことはできない。したがって彼らは、先行研究において山口氏が指摘したような、地頭から取り立てられた奏者であった可能性が高く、奏者への登用を契機として義久側近となったものと考えられる。以上のような点をふまえれば、当主側近の活動の延長線上に位置づけられていた奏者の役割は、徐々に独立した役職としての性格を強めていったものと考えられる。この点で、『上井覚兼日記』後半部に新たに確認された奏者の多くは、元来、当主側近によって担われてきた役割を果たすべく、新たに登用された存在であったといえるだろう。では、それまでの当主側近に代わって彼らが登用された背景には、どのような事情があったのであろうか。次節ではこの点について考えたい。
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.奏者を巡る変化とその画期・背景について本節では、前節までにおける考察をふまえた上で、『上井覚兼日記』の前半部・後半部の間で、奏者の構成が変化した背景について考察する。
戦国大名島津氏の権力構造に関する一考察三五 『上井覚兼日記』の前半部分においてのみ奏者としての活動が確認されるのは、上井覚兼・上原尚近・伊集院久治・本田親貞の四名である。これらの四名に関して、その後の島津氏内における地位を確認すると、以下の通りとなる。上井覚兼…老中兼日向国宮崎(現宮崎県宮崎市(地頭上原尚近…日向国飫肥(現宮崎県日南市(地頭伊集院久治…日向国櫛間(現宮崎県串間市(地頭本田親貞…老中四名の内、覚兼・親貞が「出世老中」として登用された事は既に指摘されているが、今回注目したいのは、四名の内、親貞を除く三名が、日向国に島津氏の直轄領支配を担う地頭 (((
(として配置されている点である。日向国は、島津氏一族の北郷氏の支配する庄内(現宮崎県都城市一帯(や永禄七年に島津義弘(島津貴久二男、義久弟(が入部した真幸院(現宮崎県えびの市一帯(を除くと、その大部分が天正年間初頭まで日向伊東氏の支配下にあった。前述の宮崎・飫肥・櫛間といった地域も、伊東氏の支配領域に含まれる地域であり、覚兼・尚近・久治の地頭としての配置は、島津氏によって直轄化された旧伊東氏領(以下便宜上これを「日向国直轄領」と呼ぶこととする (((
((の支配と密接に関わるものであったと考えられる。 加えて注目されるのは、旧伊東氏領に対する島津氏の直轄領化が本格化するのは、天正六年(一五七八(の耳川合戦で、伊東氏を支援する豊後大友氏に勝利した後の事とされている点である。前述の通り奏者を巡る変化の画期が天正四年~天正九年の間であったとするならば、覚兼らが地頭として「日向国直轄領」に配置された時期はまさにこの期間に合致する可能性が高い。つまり、奏者の構成が大きく変化する背景には、日向国の旧伊東氏領への領国拡大及び島津氏直轄領化があったと考えられるのである (((
(。そこで、以下においては、「日向国直轄領」に配置された三人が、同地において果たした役割について考えたい。まず、上井覚兼が「日向国直轄領」において果たした役割については、既に福島金治氏による詳細な考察が存在している。福島氏は日向における上井覚兼について、宮崎地頭として現地支配に当たるとともに、老中として日向国の地頭衆の軍事統率・鹿児島への申次・日向国内の訴訟の裁許を担当し、島津氏の「日向国直轄領」支配に関して中心的な役割を果たしたことを指摘している。以上の指摘にみられるように、覚兼は、「日向国直轄領」の支配を統轄する役割を担うべく、同地に配置されたと考
史観第一七八冊三六えられるのである。次に伊集院久治・上原尚近に関しては、覚兼のように老中職を兼務していた形跡はみられない。しかしながら、彼らが地頭として赴任した飫肥・櫛間には、他の「日向国直轄領」の地頭にはみられない共通した特徴を見出すことができる。それは、両地域が日向国の地頭衆を統率する上井覚兼の管轄対象外とされている点である。宮崎における覚兼の役割の一つとして、日向国の地頭衆の統率があった事は先に触れた通りである。しかし、覚兼による統轄は、宮崎平野を中心とした山東地域の地頭に限定されており、飫肥・櫛間はいずれもその対象外となっている。『上井覚兼日記』の記述をみる限り、飫肥・櫛間へは鹿児島から直接命令が下されており、上原尚近・伊集院久治の両人は、日向国に配置された他の地頭とは異なる独自の地位にあった可能性が高いといえるだろう。日向国における彼らの地位の独自性を、実際にうかがう事のできる史料が存在する。史料二 『上』天正十三年二月十二日条
十二日、(中略(、南林寺客殿作之事、日州より可仕候、然者悉皆拙者挍量申候へ、伊 (伊集院久治(集院下野守殿・上 (上原尚近(原長門守殿・山 (山田有信(田新介殿、此衆別而作事奉行之由 也、(後略(史料二においては、鹿児島の義久から日向の島津氏家臣らに対して、鹿児島南林寺の客殿造営が命じられているが、この際、全体を取り仕切る覚兼に加えて、伊集院久治・上原尚近・山田新介の三名が作事奉行に任じられている事を確認できる。久治・尚近は、覚兼とともに日向国の島津氏家臣団の活動を統轄する側の存在として位置づけられていたのであり、その地位は、他の日向国地頭とは一線を画するものであったと考えられるだろう。尚近・久治が地頭を務めた飫肥・櫛間は、ともに日向国の南部に位置し、覚兼が拠点とする宮崎とは山によって隔絶された地域となっており、覚兼が直接統括することは困難であったと考えられる。それゆえに、義久の側近として信頼の厚い上原尚近・伊集院久治が配置され、独自に地域支配に当たったと考えられるのではないだろうか。この点と関わって、史料二において久治・尚近と並んで作事奉行に任じられた山田有信にも注目してみたい。山田有信が、日向国高城地頭と奏者を兼ねる立場にあった事は先に確認した通りである。有信が地頭を務めた高城は、覚兼の管轄範囲に含まれる地域となっており、有信は、久治・尚近と異なり、覚兼の
戦国大名島津氏の権力構造に関する一考察三七 統率下に属する地頭であったと考えられる。しかし、『上井覚兼日記』にみえる有信の活動に注目した場合、他の日向国の地頭には見られない特徴的な点が確認される。それは、談合への参加の多さである。『上井覚兼日記』においては、島津氏が日向地頭衆に対して談合への招集を行う場合があるが、この際、以下のような形で有信が名指しで招集対象とされる事例が少なからず確認されるのである。史料三『上』天正十三年四月十八日条一、十八日、(中略(、此日、かこしまより書状到来候、遮而御談合可有子細候、鎌 (鎌田政近(雲・山 (山田有信(新同心申必来廿三日参着申候様可参之由也、(後略(史料三においては、宮崎の覚兼が鹿児島における談合への招集を受けているが、この際、覚兼は、日向国の地頭である山田有信・鎌田政近を同行するように命じられている。この時の談合は島津義弘の当主「名代」就任に関わるものであり、有信は、老中覚兼と並んで島津氏家中の重大案件に関与すべき存在として位置づけられていたと考えられるのである。こうした有信を巡る談合招集の傾向は、鹿児島での談合だけでなく、日向国内で開催された談合においても窺う事ができる。 史料四『上』天正十三年十二月六日条一、六日、早朝佐土原へ参候、即御使給候間、軈而指出候、食籠肴にて御酒進覧候、奥へも同前、御談合衆、鎌 (鎌田政近(田出雲守・山 (山田有信(田越前守・拙者也、史料四は、豊後大友氏の家臣で島津氏への内応を表明した入田氏への対応について、日向国佐土原の島津家久の下で談合が開催された際のものである。いずれの事例においても、談合への参加者は、覚兼・山田有信・鎌田政近の三人であり、鹿児島での談合に招集された三名と全く同じである事が確認されるのである。以上の点をふまえれば、「日向国直轄領」内に配置された島津氏家臣の中でも、有信を含むこれらの三人が、他の日向国地頭とは一線を画する特別な位置づけをなされていたのは間違いないと考えられる。また、これらの事例において特に注目されるのは、覚兼・有信と共に鎌田政近の名前が確認される点である。彼もまた、日向国都於郡の地頭と奏者を兼ねる立場にあったためである。したがって、覚兼の管轄地域では、覚兼自身に加えて、その管轄下の地頭を兼任する有信・政近という二人の奏者が領国支配の中核を担っていたといえるので ある。以上ここまで、島津氏による「日向国直轄領」支配に果
史観第一七八冊三八たした役割から、天正年間初頭の奏者である上井覚兼・上原尚近・伊集院久治らの政治的地位について考察した。天正年間前半段階において奏者を務め、後に地頭として「日向国直轄領」に配置された上井覚兼・上原尚近・久治は、いずれも島津氏の「日向国直轄領」支配に際し、同国家臣団の統率などに重要な役割を果たしていた。島津氏は、日向国の旧伊東氏領の直轄支配を進めるにあたって、側近として信頼の厚い初期の奏者層を新領国支配の中核に据えたものと考えられる。その結果として新たな奏者の登用が行われたのであろう。
おわりに以上ここまで、本稿においては貴久期及び義久期の奏者について、その出自・経歴や人員構成の変化を中心に考察を行った。貴久期において確認された奏者の多くは、貴久の父に当たる島津忠良の段階から深い関係を有した、戦国大名島津氏にとっての譜代家臣というべき家の出身者で構成されていた。また、彼らの経歴に注目した場合、奏者としての活動が地頭としての活動に先行しており、必ずしも山口氏によって指摘された地頭から奏者への出世ルートに当てはま らない事が確認された。一方で、義久期について、まず天正年間初頭の奏者の出自・経歴に注目した場合、永禄九年の家督相続以前から義久付きの家臣として活動する側近家臣が多く確認された。こうした家臣の中には、本田親貞のような相州家島津氏に敵対した家の出身者も確認され、この時期の奏者は、特に義久個人との関係性に基づいて構成された、側近家臣の延長線上の存在であったと考えられる。側近家臣を中心に構成された同時期の奏者層は、義久の信頼も厚かったとみられ、島津氏による日向国進出の本格化に伴い、その多くが支配の中核的役割を担うべく日向国に配置されることとなった。こうした従来の奏者の日向国への配置に対応する形で、新たに奏者として登用されたのが、天正年間中頃以降に、新たに確認される奏者であったと考えられる。彼らの多くは、遅くとも義久の祖父に当たる忠良の段階において相州家島津氏と関係を持った譜代被官の家の出身者であった。しかしながら、彼らには、天正年間初頭の奏者にみられたような、家督相続以前からの当主義久との関係性が窺える事例は少なく、奏者への登用により当主側近としての性格を強めていったものと考えられる。こうした点をふまえれば、当初義久付きの側近家臣の延
戦国大名島津氏の権力構造に関する一考察三九 長線上に位置した奏者は、この時期までに独立した役職としての性格を強めていったと考えられるのではないだろうか。さて、以上のような義久期の奏者の特徴をふまえた上で最後に、戦国期島津氏の権力構造について考えたい。本稿の冒頭において触れたように、老中の変遷を基に島津氏の権力構造について検討した山口氏は、戦国期における譜代・側近層の登用を不完全なものとし、その実現の画期を豊臣政権によるテコ入れにみている。しかし、視野を奏者層にまで広げてこの問題について考えた場合、義久期の奏者は、当初、家督相続以前から義久付の家臣として活動した側近家臣によって構成されて いた。山口氏が「本宗家家老」輩出家としての出自を重視した「出世老中」本田親貞も、そうした家臣の一人であったのであり、彼の老中への登用は「側近家臣の登用」として評価されるべきであろう。そして、天正六年以降、島津氏による日向国支配が本格化すると、「出世老中」覚兼をはじめとした彼らの一部は、日向国支配の中核を担う存在として同国各地に配置されることとなった。奏者層の動向にまで目を向けた場合、天正年間の島津氏 の領国拡大に対応する形で、島津氏内における側近家臣らの重要性が大きく高まったといえるのであり、島津氏の権力構造を巡る大きな画期として評価することができる。また、右のような日向国支配の中核を担う家臣の中に、伊集院久治・山田有信・鎌田政近などの、山口氏が豊臣政権下で登用が進められたとする家臣が含まれている点は注目される。これらの家臣についても、既に天正年間の段階で、領国支配の中核を担う存在として位置づけられていたのであり、彼らの登用は、決して豊臣政権の後ろ盾を契機としたものではなかったと考えられるのである。山口氏の論考は、天正期・豊臣政権期における島津氏の権力構造の変化の問題について、旧本宗家家老への対抗という視点を軸にして評価したものであった。そうした側面が全くなかったとは考えないが、本稿における考察をふまえれば、天正期における権力構造の変化は、日向への領国拡大に対応するための拡充・再編の動きとして理解可能であろう。これは、山口氏の重視した文禄期の動向についても同様で、山口氏自身が同時期の老中登用について、既存老中の朝鮮在陣により「領国統治のため、新たに官僚層を増員させる必要があった」とも指摘している。戦国大名島津氏の権力構造を巡る変化の画期は、直面し
史観第一七八冊四〇た課題への対応にこそあったのであり、その中で、奏者層を構成する側近家臣・譜代家臣が重要な役割を果たしたのである。
註(
( 一九八九年。後に前掲山本氏著書に所収。( について―浅野長政と伊達政宗―」(『論集きんせい』一一、 倉書房、一九九〇年に所収。(、「豊臣政権における「指南」 一九八四年。後に同氏著『幕藩制の成立と近世の国制』校 期の『取次』の特質について―」(『歴史学研究』五三〇、 ((山本博文「家康の『公儀』占拠への一視点―幕藩制成立
( を背景とするものであった。 原型を戦国大名の大名間外交における「取次」に求めた事 ((こうした動きは、山本氏の論考が豊臣政権の「取次」の
( 〇一一年 ((丸島和洋『戦国大名武田氏の権力構造』思文閣出版、二
( 研究』一四、一九八七年( 四年に収録(、「戦国~豊臣期島津氏の奉行人制」(『戦国史 九八七年、新名一仁編『薩摩島津氏』戎光祥出版、二〇一 ((山口研一「戦国期島津氏の家臣団編成」(『史報』八一
家督を相続した大永六年(一五二六(から、出家し嫡男義 ((本稿では、貴久が奥州家の島津勝久の養子として島津家 ( して想定する。 久に家督を譲与したとされる永禄九年までを「貴久期」と
( 年までの時期を「義久期」として想定する。 したとされる永禄九年から、豊臣政権に服属する天正十五 津氏を主要な検討対象とする関係上、貴久から家督を相続 六〇二(のことであるが、本稿では、戦国大名としての島 ((義久が、養子家久に家督を譲与するのは、慶長七年(一
( したものであるとしている。 向に下向した際の記録を基に、その弟子の日侃が追記を施 『日我上人自記』について、日蓮宗僧日我が永禄六年に日 戎光祥出版、二〇一八年に所収(などがある。五味氏は、 一九七五年。後に同氏著『戦国・近世の島津一族と家臣』 家物語―日我上人自記―』について」(『鹿大史学』二三、 ((同史料について検討した論考として、五味克夫「『島津
( 〇九~二〇一一年(等を参考とした。 島県史料集』四九~五一、鹿児島県史料刊行委員会、二〇 史料刊行委員会一九七三年(、「西藩烈士干城録」(『鹿児 い限り、「本藩人物誌」(『鹿児島県史料集』十三鹿児島県 ((以下、本稿における奏者の出自・経歴は、特に注記のな
( 一』一四号( ((「山本氏日記」弘治元年四月二十四日条(『旧記雑録後編
(1 (「山本氏日記」弘治元年四月二十四日条(『旧記雑録後編
戦国大名島津氏の権力構造に関する一考察四一 一』一四号((
( (( (『旧記雑録前編二』二三一五号
( 一』一四号(。 (( (「山本氏日記」弘治元年四月三十日条(『旧記雑録後編
( ある。 (( (東京大学史料編纂所蔵。刊本として『大日本古記録』が
( (( (『旧記雑録後編一』一一六三号・一一六六号。
( (( (『上井覚兼日記』天正三年二月十六日条など。
( 五九五号( (( (元亀二年八月十六日付「名号之連歌」(『旧記雑録後編一』
( (( (『上井覚兼日記』、「肥後水俣陣立日記」など
( 下巻に所収。 (( (東京大学史料編纂所蔵。『大日本古記録上井覚兼日記』
( 刀役者本田弥六」とみえる (( (「義久公譜」(『旧記雑録前編二』二七三四号(などに「太
( 五一号(など。 (1 (「山本氏日記」弘治二年三月七日条(『旧記雑録後編一』
( (( (「山本氏日記」(『旧記雑録』後編一(
( される。 として取り立てる動きは、これ以降の時期においても確認 (( (詳細は後述するが、義久が自身の側近家臣の子息を側近
(( (『上井覚兼日記』天正二年九月二十七日条 (
( 拾遺伊地知季安著作史料集五』〉所収( 男日記」(ともに「御旧式類抄」〈『鹿児島県史料旧記雑録 (( (「伊地知又八重元御年男日記」・「伊地知勘解由重元御年
( (( (『旧記雑録拾遺諸氏系譜一』所収。
( (( (『上』天正十二年五月四日条など
( 随行者についてまとめたものである。 当時の島津氏当主島津忠昌が大隅正八幡宮に社参した際の (( (『旧記雑録前編二』一七九一号。本史料は、文亀四年に 地誌備考 (( (稲荷神社棟札銘写(「日置郡地誌備考〈『旧記雑録拾遺
( (』二〇一四年〉所収(
( (( (『旧記雑録後編一』一〇三九号
( 遺』一五一九七四年〉所収( (1 (福島大明神棟札銘写(「伊集院由緒記」〈『鹿児島県史料拾
( (( (『上井覚兼日記』天正十一年十月一日条 名島津氏の領国形成』吉川弘文館、一九八八年(などに詳 福島金治「戦国大名島津氏の家臣団編成」(同氏著『戦国大 本又次編『藩社会の研究』ミネルヴァ書房、一九六〇年(、 いては、桑波田興「薩摩藩の外城制に関する一考察」(宮 率」をその職務とした。なお、戦国大名島津氏の地頭につ 地の経営」及び「配下として付属させられた衆中の軍事統 直臣家臣を各地に配置したもので、基本的には「各任所 (( (戦国大名島津氏における地頭とは、直轄領支配のために
史観第一七八冊四二
しい。(
( の支配下に置いた「日向国直轄領」である。 は、日向国の中でも、島津氏が伊東氏との戦いを経て直接 たわけではないためである。以下、主な検討対象とするの は維持されており、島津氏が日向国全域を直轄支配してい に置いた後も、北郷氏・島津義弘による庄内・真幸院支配 (( (こうした呼称を用いるのは、島津氏が伊東氏領を支配下 注目される。 構成にとって一つの画期であった事を裏付ける史料として て島津氏の日向国支配が本格化する天正六年頃が、奏者の 守・伊地知備前守の八人が挙げられている。耳川合戦を経 守・本田因幡守・税所新助・比志島宮内少輔・吉田美作 衆」として新納右衛門佐・鎌田刑部左衛門尉・伊地知伯耆 重頼之旧記」(九五三号(には、「天正六年之比」の「御使 (( (なお、『旧記雑録後編一』所収の「加治木大村市兵衛