• 検索結果がありません。

ハイデガーにおける真理と芸術 ── ピュシス概念を中心にして ──

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "ハイデガーにおける真理と芸術 ── ピュシス概念を中心にして ──"

Copied!
6
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

優秀修士論文概要

はじめに

 本論文は、マルティン・ハイデガー(1889-1976)の芸術論におけるかたちの問題をピュシスという 概念を中心に据えて考察したものである。

 『芸術作品の根源』(1935)(以下『根源』と略記)では、芸術の本質は詩作であるとされ、造形芸術 に関する言及も少ないことから、従来の研究においては、造形芸術やかたちに関する問題は中心的な主 題とされてこなかった。本論文は、造形芸術をはじめとしたかたちの問題を明確にすることによって、

それが存在の真理と芸術の問題を考察する上で重要であることを提示するものである。

 本論文では、主なテクストを『存在と時間』(1927)、『根源』とし、二つのテクストにおける真理論 の論じ方の違いを移行として位置づける。また、この移行期の講義録である『形而上学入門』(1935)、

「ピュシスの本質について、アリストテレス自然学 B, 1」(1939)等を参照することによって、移行後の 真理論とピュシスの関係を考察した。ピュシスがいかにして芸術と関わりをもつのかという点について は、パウル・クレー『造形思考』における芸術家の規定を手掛かりとし、『根源』にて論じられるハイ デガーの芸術家の規定との類似を指摘する。創作する者の非主体的なあり方を媒介として、かたち

(Gestalt)がピュシスの自己形態化の力と関係していることを明らかにした。

 第1章では、『存在と時間』において現存在の開示性の文脈で展開された真理論がいかなるものであっ たのかを概括し、第2章では、上記の真理論がピュシス解釈を通して存在の真理へと移行したことを論 じた。第3章では、存在の真理への移行をふまえて、ハイデガーの芸術家規定、そして、かたちに関わ る〈裂け目(Riß)‐大地(Erde)〉という概念がいかにピュシスと関わるかを考察した。

第1章 『存在と時間』(1927)における存在の意味への問いと真理論

 第1章では、『根源』以前の著作、『存在と時間』の主要な問いである「存在の意味への問い」と第44 節で展開される真理論を概観し、両者の関係を考察した。『存在と時間』の既刊部分では基礎的存在論 として現存在の分析がなされたにとどまるが、本来『存在と時間』において解明が目指されたのは、存 在の意味への問いであった。そのため、第44節の真理論も基礎的存在論の一部として、現存在を中心と した考察となっている。真理は、従来の伝統的形而上学において知性と事物の一致や陳述の在り処とし て論じられてきた。これらに対するハイデガーのアプローチはたんなる批判にとどまるものではなく、

むしろ両者の事態を成立させている根拠を現存在の開示性として自らの基礎的存在論のうちに位置づけ ようとするものであり、さらには古代ギリシアにおけるἀλητείαを引き受ける態度でもある。第44節に て展開されるハイデガーの主張は、知性と事物の一致や陳述に先立って事物が暴き示されていなければ、

何かが真であるという事態は不可能だというものである。ハイデガーにとっては、何かを暴き示しつ

ハイデガーにおける真理と芸術

── ピュシス概念を中心にして ──

阿 達 佳 子

(2)

82

つ‐ある(Entdeckend-sein)現存在が、真理を論じる上では、第一次的に要請されるべきものであり、

何かが暴き示されてあることを可能にしているのは、現存在の現の開示性(Erschlossenheit)(情態性、

了解、語り)である。しかし平均的日常性において現存在は〈世界〉に没入し、世人(das Man)の公 共性のうちへと自らを喪失している頽落(Verfallen)の様態にあるとされる。その際、現存在をとり まく存在者は日常的な自明性のうちに埋没し、覆い隠されてある、あるいは偽装されている。それゆえ、

何かが暴き示されるという事態を成立させるためには、存在者が隠されてある状態から隠れなさ

(Unverborgenheit)のうちへと奪取されねばならない。このことから現存在のある種の能動的なあり 方をみてとることができる。『存在と時間』の主題であった存在の意味とは、現存在によってなされる

「ある」という事態の了解であり、同時に現存在によって企投される意味である。そして、それは暴き 示すという仕方で現存在によって奪取されるということを本章では明らかにした。

第2章 「存在の意味への問い」から「存在の真理」へ

 第2章では、『存在と時間』が中断された理由、そして『存在と時間』以降のピュシスに関する論述 に焦点を当て、「存在の意味への問い」から「存在の真理」への移行を考察した。『形而上学入門』(1935)

をはじめ、『存在と時間』以降、ハイデガーの論考のうちには、ピュシスを主題にした講義録等がみら れるようになる。一般的に、ピュシスとは、古代ギリシアで自然を表す語であり、現代においてわれわ れが使用する「自然(Natur)」という語の起源とされている。アリストテレスは、ピュシスを外在的 な力によって生じる人工物と区別し、自己自身のうちに運動と静止の根源をもつもの、すなわち自己形 成のできる存在者として規定した。自己形成可能な存在者とは、自らを存在者として存在せしめる力を 内在させているということでもある。これに対して、ハイデガーはピュシスを、隠されたものから自ら を連れ出し、そしてそのようにしてはじめて隠されたものを存立状態(Stand)へともたらす、生じ出 ること(Ent-stehen)として解釈する。このことから、ハイデガーの解釈するピュシスとは、現代的な 意味での自然物(Natur)ではなく、ピュシスのもつ動性のほうであるということが見てとれる。さらに、

ピュシスの動性は、隠されたものから自らを連れ出し、存立状態へともたらすとされていることから、

存在者の側の隠れなさとしての真理との連関を指摘することができる。

 第1章において、存在の意味は、現存在の奪取というあり方によって獲得されるものと結論づけられ た。しかしながら、ピュシスの動性に焦点を当てたハイデガーの解釈には、現存在による働きかけは介 在していない。このことをふまえるならば、『存在と時間』において論じられた現存在のあり方は、あ る種の人間中心主義的な論じ方であったという木田元の解釈は妥当性をもつであろう。現存在によって 奪い取られるとされた存在者の真理は、『存在と時間』以降、ピュシスの動性として、自ずから生じる という仕方で論じられるようになる。このような移行を本論では「存在の意味への問い」から「存在の 真理」への移行として位置づけた。

第3章 『芸術作品の根源』における真理論に関する諸問題

 第3章では、これまでの議論を踏まえた上で、『根源』における真理論、そしてかたちをめぐる問題 へと展開する。『根源』では、芸術作品における真理の動性は、明け開き(Lichtung)と隠すこと(Ver- bergung)の原‐闘争(Ur-Streit)であると述べられる。明け開きの動性から、開けの場が生じ、それ によってわれわれ人間は存在者へと近づくための通路を獲得することができるとされる。ここで再び、

(3)

優秀修士論文概要

明け開くことだけではなく、隠すという契機が提示されている。自らを隠すことはピュシスのあり方で もあることから、明け開きと隠すことの原 ‐ 闘争という芸術の真理が、ピュシスと密接に関係してい ると考えられる。このような真理の動性は、作品の作品存在における本質動向として、世界と大地の闘 争を闘わせること(Bestreitung)と換言される。人間は能動的に芸術作品に関わるのではなく、芸術 作品を中心として繰り広げられる闘争という出来事、すなわち作品の作品活動性に引き入れられている ことになる。

 前章のピュシスに関する議論では、ハイデガーの人間中心主義的なあり方からの脱却を指摘したが、

そのような態度は芸術家に関する言及においても同様である。ハイデガーにとって創作することは、芸 術家個人の意志をもった主体的行為に基づくのではなく、存在の隠れなさとの連関のうちで、すなわち ピュシスのうちで何かを受け取ること(Empfangen)、そして取り出すこと(Entnehmen)というなん らかの受動的なあり方を指している。本章ではこのようなハイデガーの芸術家についての言及が、パウ ル・クレーの芸術論と類似している点を指摘した。

 ハイデガーの思索は、伝統的形而上学を踏まえながらもその枠組みには収まらないものであり、かた ちに関する論考においてもそれは同様である。伝統的形而上学の領域では、かたちの問題は〈形相 ‐ 質料〉の概念構造で捉えられてきた。しかし、ハイデガーにとってこのような枠組みは、ある種の有用 性を根底におく存在構造であり、芸術を論じるのにふさわしいものではない。本論文では、『根源』で 使用される「裂け目」と「大地」という概念に着目し、これを〈形相‐質料〉という概念構造の捉え直 しとして解釈する。「裂け目」とは、世界と大地のせめぎ合いによって生じる不完全な輪郭である。また、

「大地」は素材的なものという意味でのみ用いられているのではなく、自ずから立ち現れ、立ち現れた ものを元の場所に戻すという動性と自己閉鎖的な性格、すなわちピュシスとしての性格をもつとされる。

そのような大地の内に、裂け目が戻し置かれたものがかたち(Gestalt)となる。〈裂け目‐大地〉とい う構造における芸術作品の規定には、有用性に回収されないものとして芸術作品を考察するという意図 があったと考えられる。以上のことから、ハイデガーがピュシスの動性から芸術として導き出したもの は、ピュシスのあらゆるものを現前させるという自己開示と形態化の力であると結論づけられる。

(4)

85 優秀修士論文概要

はじめに

 『純粋理性批判』第1版(1781年)刊行以降のイマヌエル・カント(1724-1804年)の哲学は「形式主 義(Formalismus)」の哲学と呼ばれる。この名称を与えたのはカント自身でなくこの哲学への反対者

(ヘーゲルやシェーラーがその代表である)だが、一概に的外れな蔑称である訳でもない。何となれば、

カントは晩年の著作『哲学における最近の尊大な口調』(1796年、以下『尊大な口調』)で自身の哲学を 振り返りながら「我々の認識における形式的なもの」の探求を「哲学の最も4 4重要な仕事」とよび、畢竟

「形式的なもの」の軽視は哲学を廃止するとまで揚言するが(vgl. VIII404)、ここに「形式(Form)」

に関する極めてラディカルな主張を看取し得るからである。本論文は、こうした「形式」の絶対的重視 と不可分に展開されるカントの哲学を、その内に消極的な意味合いを背負いこまされた「形式主義」と いう表現から区別して「形式4 4」主義4 4とよぶ。

 本論文は、カントがこうした「形式」主義を採用する理由、ひらいて言えば、カントが〈我々の認識 における形式が軽視されるなら哲学が廃止される〉と考える理由について、カントの理論哲学のテクス トを用いて解明する。なお本論文がこれを検討する際、カントのテクストだけに依拠し、「形式」概念 の背後にある歴史的文脈はあえて考慮しなかった。何となれば、確かにカントの「形式」重視の理由を

〈形式−質料〉で物事を切り分けるというアリストテレス以来の西洋哲学の伝統の継承ないし影響とし て説明することは可能かもしれない(事実、17世紀以来ケーニヒスベルク大学はアリストテレス主義の 牙城であった)が、それでもこの観点によっては、数ある概念の中で、なぜカントがほかならぬ4 4 4 4 4「形式」

を重視したかは説明しがたいと思われたからである。

 カントの「形式」重視の理由を問題とした従来の研究(Pippin[1982]、久保[1989]、Pollok[2017]

など)は、カントのテクストに依拠してこの問題に取り組んだものの、このほかならぬ4 4 4 4 4という点の解明 には至らなかった。その理由は、これらが「形式」の重視を「質料」との関係においてだけ問題とした からであろう。確かに、これも重要な論点ではある。しかしこの論点だけでは、「形式」が「哲学の最44重要な仕事」と言われる理由までは説明できない。これを説明するには、「経験の可能性の原理」を 論じる際に、ほかでもない〈形式−質料〉という枠組みを用いる必要性の所以がともに4 4 4解明されねばな らないのだ。「形式」の「質料」に対する重要性にとどまらず、「形式」概念の他の哲学的概念に対する 重要性をも明らかにすること、ここに本論文の特色がある。

第一章 アプリオリな表象と根源的獲得

 本章では、カントが「形式的なもの」(すなわち、それ自身は端的に何ものにも規定されないもの)

とよぶアプリオリな表象(空間・時間・カテゴリー)について、それらが「形式的」たり得る所以を明

カント理論哲学と「形式」主義の問題

道 下 拓 哉

(5)

らかにする。そのために、カントが『純粋理性批判』への非難に反駁すべく著した『純粋理性の全ての 新しい批判は古い批判によって無用とされるべきである、という発見について』(1790年)で論じた「根 源的獲得(ursprüngliche Erwerbung)」(VIII221)という事態に着目し、分析を行った。「根源的獲得」

とは Oberhausen[1998]と山根[2005]が指摘するように、本来「法論」に属する術語であるが、こ れが理論哲学に転用された場合、表象が経験にも神による植えつけにも依存しないで認識主体自身の内 からもたらされるという事態を表すようになる(vgl. ebd.)。アプリオリな表象がそれ自身何ものにも 規定されないもの、つまり「形式的」という性格を持ち得るのは、こうした経験及び神へ依存せずに獲 得されるという獲得様式に基づくのである。

第二章 「形式」の先行と「総合」の先行

 本章では、なぜカントは「アプリオリな総合的認識の可能性」が「質料」ではなく「形式」に基づく と主張したのか、という問題に回答する。そのために、まずはカントの理論哲学における〈形式−質料〉

という対概念の位置づけと使用とを、『純粋理性批判』「経験的な悟性使用と超越論的な悟性使用との混 同による反省概念の多義性」節(以下「多義性」節)に基づいて確認し、それらは我々がすでに持って いる表象の所属を識別する「超越論的反省(transzendentale Überlegung)」で用いられる概念、すな わち「反省概念(Reflexionsbegriff)」であることを明らかにした。次に、「多義性」節で展開される〈形 式−質料〉の先行関係の議論を整理し、表象が純粋悟性に属すとき(つまり純粋悟性だけで対象に関係 すると考えるとき)には「形式」に対して「質料」が論理的に先行し、反対に表象が感性に属するとき

(つまり感性と悟性の協働によって対象に関係すると考えるとき)には「質料」に対して「形式」が論 理的に先行するという理路を見出した。さらに「演繹論」で展開されるカントの「総合」についての議 論を検討することで、我々の対象認識において4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4は「総合」が「分析」に必然的に4 4 4 4先行することを確認し た。以上の議論を総合し、本章の問いへはこのように回答した。つまり〈我々の認識においては「総合」

が「分析」に必然的に4 4 4 4先行するがゆえに、我々の認識において4 4 4 4 4 4 4 4 4は「質料」に対して「形式」が必然的に4 4 4 4 先行するのである〉、と。

第三章 超越論哲学にとって〈形式−質料〉とは何か

 本章では、「経験の可能性の原理」を論じる際に、ほかでもない〈形式−質料〉という枠組みを用い る必要性の所以を解明する。そのために、まずは「演繹論」をもとに、カントが実際に〈形式−質料〉

という対概念を用いて我々の「経験の可能性の原理」を論じていることを確認した。次に、「多義性」

節で展開されるライプニッツ批判の理路を整理し、我々が「経験の可能性の原理」を論じるときには「超 越論的反省」が開示する感性と悟性との絶対的区別を用いて行わねばならぬことを明らかにした。さら に、「超越論的反省」という働きをカテゴリアールに分節化すると、そこには根拠づけ関係が存し、他 のあらゆる「反省」の根底には〈形式が質料に先行するか、質料が形式に先行するか〉という「反省」

があることを明らかにした。以上の議論を総合し、本章の問いへはこのように回答した。つまり〈我々 が「経験の可能性の原理」を論じるときには「超越論的反省」が我々に開示するものを用いて行う。「超 越論的反省」をカテゴリアールに分節化すると、その根底には〈形式が質料に先行するか、質料が形式 に先行するか〉という「反省」がある。要するに、これが「超越論的反省」の開示する最も根本的な問 題である。それゆえカントは、他ならぬ「反省概念」としての〈形式−質料〉を用い、「経験の可能性

(6)

87 優秀修士論文概要

の原理」を論じたのである〉、と。

 これにて、はじめにで掲げた二つの問題に回答が与えられ、カントが我々の認識において「形式」を 重視する理由も明らかになった。我々の「経験の可能性の原理」の探求は「反省概念」としての〈形式

−質料〉を根底に置いて行わねばならず、またそれゆえにこそ、「形式」と「質料」が天秤にかけられ、

「形式」の重要性が主張されるのである。

第四章 「形式」と哲学の不可分

 本章では、本論文の最終的な問い、なぜカントは〈我々の認識における形式が軽視されるなら哲学が 廃止される〉と考えたのか、に回答する。そのため、まず我々が我々の「経験の可能性の原理4 4」を探求 し、それを「形式的なもの」に見定めることがいかなる営みであるかを問うた。この検討により、この 営みが「原理4 4からの認識」を行う「理性」と不可分であることを示した。次に、カントにおける「理性 認識」とは何か、また「理性認識」と「哲学」との関係を問うことで、「理性認識」の中でも「概念に 基づく認識」が「哲学的」な認識であり、この認識はそれ自身「哲学」と呼ばれ得ることを確認した。

そして最後に、『尊大な口調』における「理性によって事物の何たるか(Wesen)が認識されると考え る限り、事物の何たるかは形式にある」(VIII404)という一文を検討し、「理性」によって認識される ところの「事物の何たるか」とは我々の「アプリオリな認識の可能性」であることを明らかにした。以 上の本論文の議論を総合し、本論文の問いへは次のように回答した。つまり〈我々の「アプリオリな認 識の可能性」(事物の何たるか)を理性的に認識する限り、その可能性は「形式」にある。「アプリオリ な認識の可能性」を理性的に認識するということは、「哲学的理性認識」とよぶことができ、その営み はそれ自身「哲学」と呼ばれ得るものである。それゆえ、我々の認識の「形式」を軽視することは「哲 学的理性認識」すなわち「哲学」を蔑することと同断であるのだ〉、と。

おわりに

 この論文は、カントの〈我々の認識における形式が軽視されるなら哲学は廃止される〉という主張(こ の論文ではこれを「形式」主義と呼んだ)を正面から受け止め、カントの理論哲学のテクストに依拠し て理解することを試みたものである。最後に、この論文の課題と展望を示して結びとしよう。

 その課題とは、この論文の議論形式を用いて、残りの二つの批判、すなわち『実践理性批判』及び『判 断力批判』における「形式」主義を説明してみせることである。この試みにとって大きな困難であろう ことは、これらの著作に「超越論的反省」という語が一度も登場しないことであろう。そのため、これ らの著作に「超越論的反省」という働きを正確に位置づけることがこの試みの第一の課題となる。だが、

この課題が果たされるなら、我々の「表象」を〈形式−質料〉という「反省概念」で分節化し、さらに

「形式」の「質料」に対する先行性を説くことでアプリオリな総合判断の可能性を論じるという「形式」

主義を、カント批判哲学を貫くひとつのダイナミズムとして切り出すことも可能となるはずである。

参照

関連したドキュメント

市場を拡大していくことを求めているはずであ るので、1だけではなく、2、3、4の戦略も

うのも、それは現物を直接に示すことによってしか説明できないタイプの概念である上に、その現物というのが、

ƒ ƒ (2) (2) 内在的性質< 内在的性質< KCN KCN である>は、他の である>は、他の

「臨床推論」 という日本語の定義として確立し

2.1で指摘した通り、過去形の導入に当たって は「過去の出来事」における「過去」の概念は

「エピステーメー」 ( )にある。これはコンテキストに依存しない「正

ハイデガーがそれによって自身の基礎存在論を補完しようとしていた、メタ存在論の意図

1.基本理念