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建保三年『内裏名所百首』小考建保三年『内裏名所百首』小考

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(1)

建保三年﹃内裏名所百首﹄小考︵田仲︶ 恋二十首・雑二十首というオーソドックスなものであるが︑春部巻頭

の﹁音羽川﹂から雑部末尾の﹁御津浜﹂に至るまで︑計百箇所の名所

歌枕を題として立てる︒この百首について論じた主要な先行研究とし

ては︑田尻嘉信

・田村柳壹 1︶

・田中初恵 2︶

・三木麻子 3︶

・渡邉裕美 4︶

・寺島恒世 5︶

・赤瀬知子 6︶

・小山順子 7︶

氏等の論があるが 8︶

︑中

でも田村柳壹氏の論は網羅的かつ詳細であって︑拙稿も多くを負って

いる︒また︑順徳帝歌壇における名所や難題への志向を分析する唐澤

正実氏の研究も重要である

︒ただ︑先行する﹃最勝四天王院障子和歌﹄ 9︶

の名所選定やその配列については︑主宰者後鳥羽院の王者性の問題や

国土観との関わりが具体的に論じられているのに対して

︑本百首全 10

体の設題の在り方を巡っては必ずしも明確な見通しが得られていない

というのが︑研究の現状である︒本稿では︑主として藤原定家の発想

に寄り添う形で︑﹃内裏名所百首﹄の名所選定の問題について少しく考

えてみたい︒

周知の如く

︑ 本百首の名所選定は

︑ 承元元年

︵一二〇七︶の

﹃ 最勝

四天王院障子和歌﹄の名所選定と密接な関わりがあり︑例えば﹁吉野

山﹂が﹁吉野川﹂になるというような違いを無視するならば︑﹃障子和          一

稿者は︑二〇一七年十月に開催された和歌文学会第六十三回大会に

おいて﹁建保三年﹃内裏名所百首﹄小考﹂と題する研究発表を行ったが︑

論文化する機会を得ぬままであった︒その後︑二〇二〇年十月に開催

された中世文学会二〇二〇年度秋季大会において﹁新古今歌人の時空

意識について

藤原定家を中心に

﹂という題目の講演を行ったが︑

その論旨は前記の﹃内裏名所百首﹄に関する研究発表の内容を踏まえ

るものであった︒さらに︑その講演の概略を同題の文章として﹃中世

文学﹄第六十六号︵二〇二一年六月︶に発表したが︑紙幅の制約もあ

り︑﹃内裏名所百首﹄の内実を具体的な事例に即して述べることができ

なかった︒本稿はその欠を補うものであり︑実際の詠歌等を紹介しな

がら﹃内裏名所百首﹄について論述するが︑前記のような事情もあって︑

﹃中世文学﹄に掲載された講演内容と重複する部分があることを諒とさ

れたい︒

建保三年

︵一二一五︶十月に成立した

﹃内裏名所百首﹄は

︑主催者

の順徳天皇を筆頭として︑藤原定家以下計十二名の歌人による百首で

ある

︒百首歌としての部立は春二十首

・夏十首

・秋二十首

・ 冬十首

   仲

   洋

   己 建保三年﹃内裏名所百首﹄小考

(2)

歌﹄の名所四十六箇所中の四十四箇所までが﹃内裏名所百首﹄に採用

されている︒これに加えて無視できないのが︑同じ建保三年九月に成

立した﹃内大臣家百首﹄の存在である︒この二つの催しの内実に論及

する前に︑両百首の成立経緯について略述したい︒まず﹃内裏名所百

首﹄であるが︑﹃明月記﹄に拠れば︑定家は建保三年九月十日に順徳天

皇の要請を受けて名所を選定してこれを注進し

︑同月二十三日にま 11

ず五十首を詠進している

︒その後︑十月二十四日になって百首を完 12

成させるようにという命があり

︑それを承けて二日後の二十六日に 13

詠進︑献上している

︒もっとも十月二十五日の記事によれば︑定家 14

が最初に名所を選び定めて以降︑題が改められることがあったようで

︑定家自身︑新たに歌を詠み出している︒この題の改変は順徳天皇 15

によって為された可能性が高いが確証はなく︑現存する資料からは︑﹃最

勝四天王院障子和歌﹄の場合とは異なって︑改題の経緯を具体的に知

ることはできない︒田村柳壹氏が推論されるように︑前半五十題は定

家の立案に従い︑後半の五十題に順徳帝の手が加わっていることも考

えられるが︑文献上の明確な裏付けはない︒ただ︑﹃最勝四天王院障子

和歌﹄の折に後鳥羽院から二度の要請を受けて名所の入れ換えを行なっ

たものの︑実際に入れ換えた名所の数が計二箇所もしくは三箇所にと

どまっている事実を考え併せるならば

︑歌道の師としての定家への 16

尊崇の念が強かった順徳天皇が︑定家の当初の立案を一方的に無視し

て大幅な改題を行なったとは考えにくいであろう︒建保三年の時点で

順徳天皇は十九歳で︑定家との年齢差は三十五歳︒これに対して﹃最

勝四天王院障子和歌﹄成立時の後鳥羽院は二十八歳で︑定家との年齢 差は十八歳になる︒順徳帝の家集﹃紫禁和歌草﹄には建暦元年︵一二一一︶

十五歳の折からの詠歌が収められているので︑初心の段階は既に抜け

出しつつあったと言ってよいであろうが︑歌壇の第一人者に委嘱した

名所の選定に年若の天皇が大きく手を加えることは︑部立の入れ換え

や配列の手直し程度であればあり得るものの︑やはり憚られるのでは

あるまいか︒唐澤正実氏が考察されたように︑建保期前半の順徳帝内

裏歌壇に名所や難題に対する積極的な関心が窺われるのは確かであり︑

その流れの中に本百首を位置付けることにも十分な必然性は認められ

るが︑その一方で建保期の定家の志向の方から説明できる部分も少な

くないのであって︑現時点ではそれを截然と区別して跡付けることは

困難である︒現存する﹃内裏名所百首﹄の設題に順徳帝の手が加わっ

ているとしても︑当初の定家の提案から大きく逸脱したとは考え難く︑

本稿においては定家主導のもとに名所の選定が行なわれたということ

を前提として論を進めることとしたい︒

一方

︑藤原道家の主催による

﹃ 内大臣家百首﹄については

︑同じ年

の九月十三夜︑つまり﹃内裏名所百首﹄の名所を定家が注進した三日

後に披講されている︒﹃内大臣家百首﹄の恋歌二十五首については全て

名所に寄せて詠み出されており︑他の部立においても地名を詠じた歌

が少なくないのであるが︑九月十三夜の披講の計画が事前に立てられ

ていたという﹃明月記﹄の記事を踏まえるならば

︑﹃内大臣家百首﹄ 17

の定家詠百首が詠み出されたのは︑おそらく九月十日以前に遡ると推

論される︒相継いで企画されたこの二つの百首の名所選定の間に関連

がないとは考え難く︑﹃内大臣家百首﹄の詠出が僅かに先行するとした

(3)

建保三年﹃内裏名所百首﹄小考︵田仲︶ 上で︑まずこの両者の関係について検討したい︒

         二

﹃内大臣家百首﹄における定家の百首と﹃内裏名所百首﹄に選ばれて

いる名所を比較すると直ちに気付くことは︑﹃最勝四天王院障子和歌﹄

と﹃内裏名所百首﹄ほどの強い相関関係はないものの︑相当数の名所

が共通するという事実である

18

︒﹃内大臣家百首﹄の題の立て方につ

いては︑既に指摘がある如く寄物的な性格が明瞭に認められる

︒九 19

条家の父祖が主催した治承二年の﹃右大臣家百首﹄や建久元年の﹃二

夜百首﹄との共通点も留意されるが︑実質的な百題百首として︑主催

者道家の父良経がかつて営んだ建久四年の

﹃六百番歌合﹄の設題を

もっとも強く意識し︑継承するものであると理解される

︒恋部の歌 20

二十五首を全て名所に寄せて詠むというのもその一環であり︑﹃六百番

歌合﹄の恋部後半二十五題が全て寄物題になっているのに倣ったと考

えられる︒建久五年夏に良経主催で︑定家自身も参加した名所題の歌

合が開かれていることも注意される︒建保期の定家が名所歌枕への関

心を以前にもまして深めつつあったことは諸資料から見て確実である

が︑自身三十代の時期に経験した良経家歌壇の記憶がさらにその背中

を押すような形で︑﹃内大臣家百首﹄における歌枕の積極的な摂取が行

なわれたと考えられる︒﹃内裏名所百首﹄の当初の企画は︑その﹃内大

臣家百首﹄の詠進と並行するように進行したと推察されるのであって︑

﹃内大臣家百首﹄の定家詠に見える名所延べ四十八箇所中半数を超える

二十五箇所が﹃内裏名所百首﹄の設題と一致するのは︑両者の志向に

共通するものがあった証左と言ってよい

︒その中には無論

﹁龍田山﹂

や﹁宇治川﹂のような著名歌枕も含まれているが︑﹁玉島川﹂﹁水茎岡﹂﹁緒

絶橋﹂のような王朝和歌における出現頻度のそれほど高くない名所も

見られるのであって︑これは偶然の一致とは考えにくい︒また︑﹃内大

臣家百首﹄の名所からの振替の可能性が考えられる事例も見受けられ

る︒例えば︑﹃内大臣家百首﹄の定家の神祇詠で﹁五十鈴川﹂が詠まれ

ているのに対し︑﹃内裏名所百首﹄の夏部には﹁御裳濯川﹂が立てられ

ている︒同一の河川に対する呼称としてこの二つの川の名は言わばバー

ターの関係にあり︑﹃内大臣家百首﹄の名所選択から差し替えられたこ

とが推測される︒

このように

︑﹃内裏名所百首﹄の名所題の過半は

︑﹃

最勝四天王院障

子和歌﹄の名所選択を基盤に据えつつ︑定家自身が直前に取り組んだ﹃内

大臣家百首﹄における地名の取捨をも踏まえる形で定められて行った

ものと考えられる︒その﹃内大臣家百首﹄における定家の名所選択は

どのような形で進められたのか︑事実上二十五の名所題が設けられて

いるに等しい恋部を中心に概観したい︒まず気付くのは︑﹃万葉集﹄に

見える地名が散見されることである︒この傾向は﹃内裏名所百首﹄に

も継承され︑﹃内大臣家百首﹄で取り上げられた﹁玉島川﹂﹁松浦川︵﹃内

裏名所百首﹄では松浦山︶﹂﹁水茎岡﹂が重出する以外に﹁由良御崎﹂﹁田

籠浦﹂﹁伊香保沼﹂等の﹃万葉集﹄に由来する地名が題に立てられている︒

以下に︑両百首における﹃万葉集﹄由来の地名とそれを詠じた定家歌

を掲出するが︑まず﹃内大臣家百首﹄の恋部における事例を示す︒

︽内︾やすらひに出でけん方も白鳥の飛羽山松のねにのみぞなく

21

(4)

︵恋・一一六八︶

︻参考︼白鳥能   飛羽山松之   待乍曽   吾恋度   此月比乎

22

︵万葉集・巻四・五八八・笠女郎︶

︽内︾かたみこそあだの大野の萩の露うつろふ色は言ふかひもなし

  ︵恋・一一七〇︶

︻参考︼真葛原   名引秋風   毎吹   阿太乃大野之   芽子花散

︵万葉集・巻十・二〇九六・秋雑歌・作者未詳︶

︽内︾忘れ貝それも思ひの種たえで人を見ぬめのうらみてぞ寝る

  ︵恋・一一七二︶

︻参考︼珠藻刈   敏馬乎過   夏草之   野嶋之埼尓   舟近著奴

︵万葉集・巻三・二五〇・柿本人麻呂︶

︽内︾真木の葉の深きをすての山に生ふる苔の下まで猶や恨みむ  

  ︵恋・一一七四︶

︻参考︼安太部去   小為手乃山之   真木葉毛   久不見者   蘿生尓家里

︵万葉集・巻七・一二一四・作者未詳︶

︽内︾忘られぬ真間の継橋思ひ寝に通ひし方は夢に見えつつ

  ︵恋・一一七五︶

︻参考︼安能於登世受   由可牟古馬母我   可都思加乃   麻末乃都芸波思

夜麻受可欲波牟  ︵万葉集・巻十四・三三八七・下総国歌︶

また︑恋部以外の部立においても︑左のように万葉歌に由来する地

名を詠じた事例が見出される︒

︽内︾初瀬のや齋槻が下に隠ろへて人に知られぬ秋風ぞ吹く

︵夏・樹陰納涼・一一二五︶ ︻参考︼長谷   弓槻下   吾所隠在妻   赤根刺   所光月夜迩   人見点鴨

︵万葉集・巻十一・二三五三・旋頭歌・作者未詳︶

︽内︾みかの原久邇の京の山越えて昔や遠きさを鹿の声

︵秋・原鹿・一一三一︶

︻参考︼三香原   久迩乃京者   荒去家里   大宮人乃   遷去礼者

︵万葉集・巻六・一〇六〇・田辺福麻呂歌集︶

︽内︾光さす玉島河の月清みをとめの衣袖さへぞ照る

︵秋・河月・一一三六︶

︻参考︼麻都良河波   可波能世比可利    阿由都流等   多多勢流伊毛河

毛能須蘇奴例奴  ︵万葉集・巻五・八五五・遊松浦河序十一首︶

地名を詠じた歌以外にも︑﹃内大臣家百首﹄の定家詠においては﹃万

葉集﹄との関りが以下のように認められる︒

︽内︾さゆり葉に交る夏草繁り合ひて知られぬ世にぞ朽ぬと思ひし

︵夏・夏草・一一一七︶

︻参考︼夏野乃   繁見丹開有   姫由理乃   不所知恋者   苦物曽

︵万葉集・巻八・一五〇〇・大伴坂上郎女︶

︽内︾敷妙の衣手かれて幾日経ぬ草を冬野の夕暮の空

︵雑・旅・冬・一一七九︶

︻参考︼敷栲之   衣手離而   玉藻成   靡可宿濫   和乎待難尓

︵万葉集・巻十一・二四八三・作者未詳︶

続いて︑﹃内裏名所百首﹄において﹃万葉集﹄に由来する地名選択を行っ

ている事例を掲げる︒

︽名︾梅が香やまづうつるらん影清き玉島川の花の鏡に

(5)

建保三年﹃内裏名所百首﹄小考︵田仲︶ ︵春・玉島川・一二〇二︶

︻参考︼麻都良奈流   多麻之麻河波尓   阿由都流等   多多世流古良何   

伊弊遅斯良受毛  ︵万葉集・巻五・八五六・遊松浦河序十一首︶

︽名︾花鳥のにほひも声もさもあらばあれ由良の御崎の春の日暮し

︵春・由良御崎・一二一五︶

︻参考︼為妹   玉乎拾跡   木国之   湯等乃三埼二   此日鞍四通

︵万葉集・巻七・一二二〇・作者未詳︶

︽名︾短夜の猪名の笹原かりそめにあかせばあけぬ宿はなくとも

︵夏・猪名野・一二二三︶

︻参考︼志長鳥   居名野乎来者   有間山   夕霧立   宿者无而

︵万葉集・巻七・一一四〇・作者未詳︶

︽名︾夕涼み大江の山の玉かづら秋をかけたる露ぞこぼるる

︵夏・大江山・一二二七︶

︻参考︼丹波道之   大江乃山之   真玉葛   絶牟乃心   我不思

︵万葉集・巻十二・三〇七一・作者未詳︶

︽名︾おしてるや難波堀江にしく玉の夜の光は蛍なりけり

︵夏・難波江・一二二八︶

︻参考︼保里江尓波   多麻之可麻之乎   大皇乎   美敷祢許我牟登  

可年弖之里勢婆  ︵万葉集・巻十八・四〇五六・橘諸兄︶

︽名︾蝉の羽の衣に秋を松浦潟ひれふる山の暮ぞ涼しき

︵夏・松浦山・一二三〇︶

︻参考︼夜麻能奈等   伊賓都夏等可母   佐用比売何   許能野麻能閇仁  

必例遠布利家無  ︵万葉集・巻五・八七二・後人追和歌︶ ︽名︾泊瀬女のならす夕の山風も秋にはたへぬしづのをだまき

23

︵秋・泊瀬山︑一二三一︶

︻参考︼泊瀬女   造木綿花   三吉野   滝乃水沫   開来受屋

︵万葉集・巻六・九一二・笠金村︶

︽名︾水茎の岡の真葛をあまの住む里のしるべと秋風ぞ吹く

︵秋・水茎岡・一二三五︶

︻参考︼水茎之   岡乃葛葉緒   吹変   面知児等之   不見比鴨

︵万葉集・巻十二・三〇六八・作者未詳︶

︽名︾面影はひもゆふ暮に立ちそひて野島に寄する秋の浦波

︵秋・野島崎・一二四八︶

︻参考︼粟路之   野嶋之前乃   浜風尓   妹之結   紐吹返

︵万葉集・巻三・二五一・柿本人麻呂︶

︽名︾ともしびの明石の沖の友舟も行く方たどる秋の夕暮

︵秋・明石浦・一二四九︶

︻参考︼留火之   明大門尓   入日哉   榜将別   家当不見

︵万葉集・巻三・二五四・柿本人麻呂︶

︽名︾葦穂山やまず心は筑波嶺のそがひにだにも見らくなきころ

︵恋・筑波山・一二六四︶

︻参考︼筑波祢尓   曽我比尓美由流   安之保夜麻   安志可流登我毛  

左祢見延奈久尓  ︵万葉集・巻十四・三三九一・常陸国歌︶

︽名︾梓弓磯間の浦に引く網の目にかけながら逢はぬ恋かな

︵恋・磯間浦・一二七一︶

︻参考︼月余美能   比可里乎伎欲美   神嶋乃   伊素末乃宇良由  

(6)

舩出須和礼波  ︵万葉集・巻十五・三五九九・作者未詳︶

︽名︾時の間の夜半の衣の浜木綿や歎き添ふべき三熊野の浦

︵恋・三熊野浦・一二七七︶

︻参考︼三熊野之   浦乃浜木綿   百重成   心者雖念   直不相鴨

︵万葉集・巻四・四九六・柿本人麻呂︶

︽名︾吉野川岩戸堅磐を越す波の常磐堅磐ぞ我が君の御代

︵雑・吉野川・一二八一︶

︻参考︼能野河   石跡柏等   時歯成   吾者通   万世左右二

︵万葉集・巻七・一一三四・作者未詳︶

︽名︾天の原富士の柴山しばらくも煙絶えせず雪も消なくに

︵雑・富士山・一二八三︶

︻参考︼安麻乃波良   不自能之婆夜麻   己能久礼能   等伎由都利奈波

阿波受可母安良牟  ︵万葉集・巻十四・三三五五・駿河国歌︶

︽名︾手づくりやさらす垣根の朝露を貫きとめぬ玉川の里

︵雑・玉川里・一二九二︶

︻参考︼多麻河泊尓   左良須弖豆久利   佐良佐良尓   奈仁曽許能児乃

己許太可奈之伎  ︵万葉集・巻十四・三三七三・武蔵国歌︶

︽名︾寄り来べき方もなぎさの藻塩草かきつくしてし和歌の浦波

︵雑・和歌浦・一二九八︶

︻参考︼若浦尓   塩満来者   滷乎無美   葦辺乎指天   多頭鳴渡

︵万葉集・巻六・九一九・山部赤人︶

︽名︾待ち恋ひし昔は今も偲ばれて形見久しき御津の浜松

︵雑・御津浜・一三〇〇︶ ︻参考︼去来子等   早日本辺   大伴乃   御津乃浜松   待恋奴良武

︵万葉集・巻一・六三・山上憶良︶

万葉歌と同一の地名を直接に取るわけではないが︑表現の組立の点

で﹃万葉集﹄との接点を有する歌も︑以下のように見出される︒

︽名︾生駒山あらしも秋の色に吹く手染めの糸のよるぞかなしき

︵秋・生駒山・一二四一︶

︻参考︼河内女之   手染之糸乎   絡反   片糸尓雖有   将絶跡念也

︵万葉集・巻七・一三一六・作者未詳︶

︽名︾二見潟伊勢の浜荻しきたへの衣手かれて夢も結ばず

︵恋・二見浦・一二七九︶

︻参考︼神風之   伊勢乃浜荻   折伏   客宿也将為   荒浜辺尓

︵万葉集・巻四・五〇〇・碁檀越妻︶

両百首の地名選択に然るべき関連性があることを窺わせる事例とし

て︑﹃内大臣家百首﹄の﹁敏馬浦﹂と﹃内裏名所百首﹄の﹁野島崎﹂が

注意される︒いずれも︻参考︼に掲げた柿本人麻呂の著名歌に同時に

出る地名であるが︑﹁野島崎﹂もしくは﹁野島﹂の方が平安和歌にも作

例多く︑﹁敏馬浦﹂から初心の歌人にも比較的取り組みやすい﹁野島崎﹂

に置き換えたと考えることが可能である︒さらに︑その直後に位置す

る﹁明石浦﹂の歌では︑人麻呂の同じ歌群中の別の名歌の詞続きを取

り込んでいる︒承元から建保にかけての定家がそれ以前にもまして﹃万

葉集﹄への関心を深めつつあったことは︑例えば承元三年の﹃万物部

類和歌抄﹄の編纂や万葉取の詠歌の増加に窺うことができるが︑﹃内大

臣家百首﹄や﹃内裏名所百首﹄の名所選定にもそのような志向の反映

(7)

建保三年﹃内裏名所百首﹄小考︵田仲︶ が明瞭に見られると言ってよい︒

         三

次に留意されるのが︑王朝物語との接点を持つ名所が両百首に相当

数取り入れられているという点である︒まず︑﹃内大臣家百首﹄の恋部

における事例を掲出する︒

︽内︾暮るる夜は衛士の焚く火をそれと見よ室の八島も都ならねば

  ︵恋・一一五二︶

︻参考︼●かくばかり思ひ焦がれて年経やと室の八島の煙にも問へ

24

︵狭衣物語・巻一・狭衣大将︑源氏狭衣百番歌合・四十二番右︶

︻参考︼いかでかは思ひありとも知らすべき室の八島の煙ならでは

︵詞花集・恋上・一八八・藤原実方︶

︻参考︼御垣守衛士の焚く火の夜は燃え昼は消えつつものをこそ思へ

︵詞花集・恋上・二二四・大中臣能宣︶

﹁室八島﹂自体は下野国の著名歌枕であり︑難義としても知られてい

て定家以前の作例も数多いが︑自らの恋情を室八島から立ち昇る煙に

よそえるという発想については︑﹃詞花集﹄に収める藤原実方歌ととも

に︑﹃狭衣物語﹄中の著名歌である﹁かくばかり思ひ焦がれて﹂の歌に倣っ

た可能性が考えられてよい︒都では実見することができない室八島の

様を︑﹃百人一首﹄にも採られる能宣歌の発想や詞続きに依拠して火焼

屋のそれに擬えるところに︑定家詠の作意がある︒

︽内︾龍田山ゆふつけ鳥のおりはへてわが衣手に時雨降るころ

︵恋・一一五五︶ ︻参考︼誰がみそぎゆふつけ鳥か唐衣龍田の山にをりはへて鳴く

︵古今集・雑下・九九五・詠人不知︑大和物語・一五四段︶

︽内︾わが袖にむなしき浪はかけそめつ契りも知らぬ床の浦風

︵恋・一一五六︶

︻参考︼うべこそは急ぎ立ちけれ床の浦の浪のよるべはなかりけりやは

︵浜松中納言物語・巻四・式部卿宮︶

︽内︾葦の屋に蛍やまがふ海人や焚く思ひもこひも夜は燃えつつ

︵恋・一一五八︶

︻参考︼晴るる夜の星か河辺の蛍かも我が住む方のあまの焚く火か

︵伊勢物語・八十七段︶

﹁葦の屋﹂﹁蛍﹂﹁海人﹂等の道具立てに拠った定家詠の趣向は︑芦屋

の里を舞台とする﹃伊勢物語﹄八十七段を踏まえて構想されたもので

ある︒︽内︾白玉の緒絶の橋の名もつらし砕けて落つる袖の涙に

︵恋・一一五九︶

︻参考︼妹背山深き道をば訪ねずて緒絶の橋にふみ迷ひける

︵源氏物語・藤袴巻・柏木︶

︻参考︼陸奥の緒絶の橋やこれならむ踏みみ踏まずみ心まどはす

︵後拾遺集・恋三・七五一・藤原道雅︶

︻参考︼に掲げた藤袴巻の柏木詠の主旨は︑異母妹であることを知ら

ずに玉鬘に懸想してしまったことを恨むものであるが︑その詞続きを

取り込むようにして詠まれた﹃後拾遺集﹄の藤原道雅詠は︑前斎宮当

子内親王との恋に関わる一連の歌の中でも

﹁今はただ思ひ絶えなん﹂

(8)

の百人一首歌

とともによく知られた作である︒定家詠はこの先行両 25

歌を踏まえつつ︑袖の涙を白玉に見立てて縁語の﹁緒﹂に言い掛ける

という修辞の洗練に一段と意を凝らしている︒なお︑﹁緒絶橋﹂は﹃内

裏名所百首﹄の恋部の題にも立てられているが︑そこでの定家詠﹁琴

の音も歎き加はる契りとて緒絶の橋に中も絶えにき﹂

︵恋

・緒絶橋

一二七六︶も︑断絃の漢故事を踏まえつつ﹁琴﹂と﹁緒﹂の縁語関係

を措辞の中軸に据えた艶麗巧緻な作である

26

︽内︾今よりの行き来も知らぬ逢坂にあはれなげきの関を据ゑつる

︵恋・一一六〇︶

︻参考︼逢坂の関やいかなる関なれば繁き歎きの中を分くらん

︵源氏物語・関屋巻・空蝉︶

︻参考︼これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関

︵後撰集・雑一・一〇八九・蝉丸︶

叶わぬ恋を恨みつつ︑成就することのない逢瀬の意を寓する逢坂関

﹁ なげき

︵﹁嘆き﹂と

﹁ 投げ木﹂の掛詞︶

﹂を取り添える定家詠の発

想や詞続きは︑蝉丸の百人一首歌以上に関屋巻の空蝉歌と密接な関り

を有している︒

︽内︾思ひ出づる後の心にくらぶ山よそなる花の色は色かは

  ︵恋・一一六三︶

︻参考︼何ごとをかは聞こえ尽くしたまはむ︑くらぶの山に宿も取ら

まほしげなれど︑あやにくなる短夜にて︑あさましうなかなかなり︒

︵源氏物語・若紫巻︶

︽内︾里の名を身に知る中の契りゆゑ枕に越ゆる宇治の河浪 ︵恋・一一六七︶

︻参考︼●里の名を我が身に知れば山城の宇治のわたりぞいとど住み

憂き  ︵源氏物語・浮舟巻・浮舟︑拾遺百番歌合・三十五番左︶

定家詠の上二句の詞続きは浮舟巻の著名歌に想を得たものであり

﹁宇治﹂に﹁憂し﹂を響かせつつ︑枕を濡らす涙を﹁河浪﹂に見立てる︒

︽内︾しるべせよ虫明の瀬戸の松の風ほか行く浪の知らぬ別れに

︵恋・一一六九︶

︻参考︼●流れても逢瀬ありやと身を投げて虫明の瀬戸に待ち心みむ

︵狭衣物語・巻一・飛鳥井女君︑源氏狭衣百番歌合・五十一番右︶

︽内︾袖の浦かりに宿りし月草の濡れての後を猶や頼まむ

︵恋・一一七一︶

︻参考︼人は皆急ぎたつめる袖浦に独り藻塩を垂るる尼かな

︵源氏物語・早蕨巻・弁尼︶

また︑恋歌以外の部立においては︑以下のような事例が見出される︒

︽内︾かざすてふ浪もて結へる山やそれ霞吹きとけ須磨の浦風

︵春・海霞・一一〇四︶

︻参考︼のどやかなる夕月夜に︑海の上曇りなく見えわたれるも︵中

略︶︑ただ目の前に見やらるるは淡路島なりけり︒﹁あはとはるかに﹂

などのたまひて︑

   あはと見る淡路の島のあはれさへ残るくまなく澄める夜の月

︵源氏物語・明石巻︑歌は光源氏詠︶

︻参考︼淡路にてあはとはるかに見し月の近き今宵は所がらかも

︵新古今集・雑上・一五一五・凡河内躬恒︶

(9)

建保三年﹃内裏名所百首﹄小考︵田仲︶ ︻参考︼わたつ海のかざしにさせる白妙の波もて結へる淡路島山

︵古今集・雑上・九一一・詠人不知︶

︻参考︼として掲げた﹃源氏物語﹄の文章は︑明石入道に迎えられて

明石浦に移住した光源氏が︑初夏の宵に淡路島を遠望する場面である︒

同じく︻参考︼に掲げた躬恒歌の一節を口ずさみつつその詞続きを踏

まえて源氏自身も歌を詠ずるが︑定家は当該の場面を春の須磨浦に転

じ︑﹃古今集﹄詠人不知歌の発想・詞続きをも取り込んで一首を構想する︒

﹃源氏物語﹄に想を得ての名所選択と場面設定であると考えられてよい︒

︽内︾古りはつる身にこそ待たね桜花植ゑ置く宿の春な忘れそ

︵春・栽花・一一一〇︶

︻参考︼

﹁大人になりたまひなば

︑ ここに住みたまひて

︑ この対の前

なる紅梅と桜とは︑花の折々に心とどめてもて遊びたまへ︒さるべ

からむ折は︑仏にも奉りたまへ﹂と聞こえたまへば︑うちうなづきて︑

御顔をまもりて︑涙の落つべかめれば立ちておはしぬ︒

︵源氏物語・御法巻︶

桜に懐旧の念を寄せるのは定番の発想であるが︑自らの遠からぬ死

を覚悟しつつ匂宮に遺愛の紅梅と桜を託す御法巻の紫上の心情に重な

るところのある一首である︒

︽内︾春はただ霞ばかりの山の端に暁かけて月出づるころ

︵春・残春・一一一五︶

︻参考︼明日とての暮には︑院の御墓拝み奉りたまふとて︑北山へま

うでたまふ︒暁かけて月出づるころなれば︑まづ入道の宮にまうで

たまふ︒  ︵源氏物語・須磨巻︶ ︽内︾よそにのみ聞きかなやまむ郭公高間の山の雲のをちかた

︵夏・嶺郭公・一一一九︶

︻参考︼思ふらむ心のほどややよいかにまだ見ぬ人の聞きかなやまむ

︵源氏物語・明石巻・明石君︶

︽内︾面影にあらぬ昔も立添ひて猶しののめぞ旅は悲しき

︵雑・旅・暁・一一八〇︶

︻参考︼その日は︑女君に御物語のどかに聞こえ暮らしたまひて︑例

の夜深く出でたまふ︒︵中略︶げにさぞ思さるらむといと見棄てが

たけれど︑明け果てなばはしたなかるべきにより︑急ぎ出でたまひ

ぬ︒道すがら面影につと添ひて︑胸もふたがりながら︑御舟に乗り

たまひぬ︒  ︵源氏物語・須磨巻︶

︽内︾神も見よ賀茂の河浪行き返りつかふる道にわけぬ心を

︵雑・神祇・賀茂・一一九三︶

︻参考︼賀茂の下の御社をかれと見わたすほど︑ふと思ひ出でられて︑

下りて御馬の口を取る︒

   ●ひき連れて葵かざししそのかみを思へばつらし賀茂のみづがき

︵源氏物語・須磨巻・歌は右近将監詠︑源氏狭衣百番歌合・八十七番左︶

前出の﹁かざすてふ浪もて結へる﹂の一一〇四番歌もそうであったが︑

﹃内大臣家百首﹄には﹃源氏物語﹄須磨・明石両巻中の場面や登場人物

の詠歌を踏まえての詠歌が散見される︒一一一五番の残春詠の下句の

詞続きは︑須磨巻の桐壺院陵墓参詣場面に同一の文言があり︑下鴨社

を詠じた一一九三番歌は︑陵墓参詣の途次に同社を遠望して源氏の従

者が歌を詠ずる場面に想を得たと考えられる︒また︑﹁面影にあらぬ昔

(10)

も﹂の一一八〇番歌は︑紫上を京に残して早朝須磨に出立する光源氏

の心情を想起させ︑嶺郭公題の一一一九番歌の第二句﹁聞きかなやまむ﹂

は︑明石巻に見える明石君の歌の詞続きを取り込む︒

続いて︑﹃内裏名所百首﹄の名所選択やそれを詠じた定家詠について︑

王朝物語世界との接点を有すると考えられる事例を掲げる︒

︽名︾伊勢海玉寄る浪に桜貝かひある浦の春の色かな

︵春・伊勢海・一二〇八︶

︻参考︼●伊勢島や潮干の潟にあさりても言ふかひなきは我が身なり

けり︵源氏物語・須磨巻・六条御息所︑源氏狭衣百番歌合・五十一番左︶

︽名︾三島江の波に棹さすたをやめの春の衣の色ぞうつろふ

︵春・三島江・一二一〇︶

︻参考︼知らずとも尋ねてしらむ三島江に生ふる三稜の筋は絶えじを

︵源氏物語・玉鬘巻・光源氏︶

︽名︾朝霜も白木綿かけて大原や小塩の山に神祭る頃

︵冬・小塩山・一二五二︶

︻参考︼大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひ出づらめ

︵伊勢物語・七十六段︑古今集・雑上・八七一・在原業平︶

︻参考︼その十二月に︑大原野の行幸とて︑世に残る人なく見騒ぐを︵中略︶

   ●雪深き小塩の山に立つ雉の古き跡をも今日はたづねよ︵冷泉帝︶

    小塩山み雪積れる松原に今日ばかりなる跡やなからむ︵光源氏︶

︵源氏物語・行幸巻︑冷泉帝歌は源氏狭衣百番歌合・九十九番左︶

定家歌は冬季に行われる大原野神社の祭礼を詠うが︑神さびたその 情景の設定には︑﹃伊勢物語﹄第七十六段の著名歌とともに︑﹃源氏物語﹄

行幸巻に語られる冷泉帝の大原野行幸の晴儀の投影が考えられてよい︒

︽名︾おき明す霜ぞ重なる旅衣田蓑の島はきてもかひなし

  ︵冬・田蓑島・一二五五︶

︻参考︼雨により田蓑の島を今日行けど名には隠れぬものにぞありける

︵古今集・雑上・九一八・紀貫之︶

︻参考︼露けさの昔に似たる旅衣田蓑島の名には隠れず

︵源氏物語・澪標巻・光源氏︶

︽名︾春霞霞の浦を行く舟のよそにも見えぬ人を恋ひつつ

︵恋・霞浦・一二六二︶

︻参考︼﹁故宮のつらう情けなく思し放ちたりしに︑いとど人げなく人

にも侮られたまふと見たまふれど︑かう聞こえさせ御覧ぜらるるに

つけてなん︑いにしへの憂さも慰み侍る﹂など︑年ごろの物語︑浮

島のあはれなりしことも聞こえ出づ︒﹁我が身一つとのみ言ひあはす

る人もなき筑波山の有様もかく明らめきこえさせて︑いつもいつも︑

いとかくてさぶらはまほしく思ひたまへなりはべりぬれど︵後略︶﹂

︵源氏物語・東屋巻︶

﹃内裏名所百首﹄が恋題に立てる﹁霞浦﹂は︑﹃能因歌枕﹄﹃和歌初学

抄﹄﹃八雲御抄﹄等が常陸国の地名として立項するものの詠歌例の乏し

い名所であるが︑この地が選ばれている背景には︑後述するように本

百首における東海道筋の重視という要因があるのではないかと考える︒

有名な﹃古今六帖﹄の古歌にあるように︑常陸国は﹁東路の道の果て﹂

であり︑﹃最勝四天王院障子和歌﹄や﹃内大臣家百首﹄の定家詠が常陸

(11)

建保三年﹃内裏名所百首﹄小考︵田仲︶ 国の名所を採らないのに対して︑本百首では二箇所を選抜して︑東海

道の東端に位置する国として重視する姿勢を示す︒その中の一つは筑

波山で︑これは文句の付けようのない著名歌枕であるが︑これに加え

て敢えて先例の少ない﹁霞浦﹂を採る背景には︑﹃源氏物語﹄がしばし

ば常陸国を話題に取り上げることからの連想が働いた可能性があると

考える︒とくに東屋巻において︑浮舟母の中将君が宇治中君に対して

自身の来歴を語る一節に﹁筑波山﹂と並んで﹁浮島﹂が出るところから︑

筑波山に比較的近い位置にあり︑島々を浮べる広大な霞ヶ浦に想到し

たという道筋を考えてみたい︒名所歌枕としての﹁浮島﹂は陸奥国の

地名であり︑東屋巻に出る﹁浮島のあはれなりしこと﹂についても︑﹁浮

き﹂に﹁憂き﹂を言い掛けつつ︑中将の君の現在の夫常陸介が陸奥守

に在任していた時期の出来事を意味しての発言であると見るのが通説

であるが︑その直後に﹁筑波山の有様も﹂と出るのに引かれて︑これ

を常陸国の名所と解する説もあった︒例えば︑﹃花鳥余情﹄はこの東屋

巻の一節を引いて︑﹁今案︑常陸国に信太浮島といふところあり︒これ

を浮島と云ふにや︒又︑塩がまの浮島は奥州也︒それをいふにや﹂と

施注している

︒現在は陸続きになっているが霞ヶ浦にはかつて﹁浮島﹂ 27

という名の島が存在し︑﹃常陸国風土記﹄にも登場する

28︶

こ れらに言

う浮島は霞ケ浦の中の小島と目されていたようであるが︑本百首には

﹁浮島﹂と類似︑あるいは同一視されることもあった﹁浮島原﹂が同じ

東海道に属する駿河国の名所として採られたために︑混乱を避けて﹁浮

島﹂ではなく﹁霞浦﹂を立てることになったのではないかとも想像さ

れるのである︒東屋巻に見える﹁浮島﹂の所在を定家がどのように理 解していたかについては不明であるが︑常陸国の歌枕として知られて

はいたものの実際に歌に詠まれることは稀であった﹁霞浦﹂を当該の

場面から想起し︑それを名所題に立てたという可能性は考えられてよ

いのではあるまいか︒

︽名︾袖の浦たまらぬ玉の砕けつつ寄せても遠く返る波かな

︵恋・袖浦・一二六五︶

︻参考︼人は皆急ぎたつめる袖の浦に独り藻塩を垂るる尼かな

︵源氏物語・早蕨巻・弁尼︶

︻参考︼●袖の浦に波寄せかくるうつせ貝空しき殻といつかなるべき

︵海人苅藻・権大納言︑拾遺百番歌合・九十九番右︶

﹁袖浦﹂は出羽国の歌枕で﹃拾遺集﹄や﹃新古今集﹄に先例があるが

29

王朝物語にも登場し︑とくに﹃物語二百番歌合﹄にも採られた﹃海人刈藻﹄

中の一首は︑情景設定や詞続きの上で定家歌の発想の源となった可能

性がある︒なお︑﹃内大臣家百首﹄においても定家は﹁袖浦﹂を自詠に

取り込んでいる︒

︽名︾人心いとど益田の池水に上は茂れる名を恨みつつ

︵恋・益田池・一二六六︶

︻参考︼ねぬなはの苦しかるらむ人よりも我ぞ益田の生けるかひなき

︵拾遺集・恋四・八九四・詠人不知︶

︻参考︼遠く下りなんとするを︑さすがに心細ければ︑思し忘れぬる

かと試みに︑﹁承り悩むを︑言に出でてはえこそ︑

  ●問はぬをもなどかと問はでほどふるに如何ばかりかは思ひ乱

   るる

   益田はまことになむ﹂と聞こえたり︒

(12)

︵源氏物語・夕顔巻・歌は空蝉詠︑拾遺百番歌合・三十七番左︶

﹁益田池﹂は大和国の歌枕で︑︻参考︼に掲げた﹃拾遺集﹄詠人不知

歌に代表されるように恋歌によく用いられるが︑この拾遺集歌を引歌

として空蝉が内心の苦衷を源氏に訴える夕顔巻の一節を踏まえて︑定

家詠は発想されたと考えられる︒

︽名︾鈴鹿川八十瀬踏み渡るみてぐらも君が世永く千代の長月

︵雑・鈴鹿川・一二八二︶

︻参考︼●

  振り捨てて今日は行くとも鈴鹿川八十瀬の波に袖は濡れじや

︵光源氏︶

   

  ●鈴鹿川八十瀬の波に濡れ濡れず伊勢まで誰か思ひ起せむ

︵六条御息所︶

︵源氏物語・賢木巻︑光源氏歌は拾遺百番歌合・九十四番左︑

六条御息所歌は源氏狭衣百番歌合・四十一番左︶

﹁鈴鹿川﹂に﹁八十瀬﹂を取り合せる先例は﹃万葉集﹄や催馬楽に求

められるが︑賢木巻で源氏と六条御息所との間に詠み交される贈答歌

はとりわけ著名であり︑伊勢奉幣使派遣の季節として定められた長月

を詠み出す点においても︑﹁九月十六日﹂の日付を明示する賢木巻の当

該場面との符合は無視できない︒

名所題そのものが物語に由来するわけではないが︑定家詠の発想や

表現に王朝物語世界の投影が認められる事例を︑以下に掲げる︒

︽名︾葦の屋の我が住む方の遅桜ほのかに霞む帰るさの空

︵春・葦屋里・一二一三︶

︻参考︼須磨には︑年返りて日長くつれづれなるに︑植ゑし若木の桜 ほのかに咲きそめて︑空のけしきうららかなるに︑よろづのこと思

し出でられて︑うち泣きたまふをり多かり︒

︵源氏物語・須磨巻︶

︽名︾渡りする遠方人の袖かとや美豆野に白き夕顔の花

︵夏・美豆御牧・一二二九︶

︻参考︼切懸だつ物に︑いと青やかなる葛の心地よげに這ひかかれる

︑白き花ぞ

︑おのれひとり笑みの眉開けたる

︒﹁遠方人にもの申

す﹂と独りごちたまふを︑御随身ついゐて︑﹁かの白く咲けるをなむ︑

夕顔と申し侍る︒花の名は人めきて︑かうあやしき垣根になん咲き

侍りける﹂と申す︒  ︵源氏物語・夕顔巻︶

︽名︾遙かなる月の都に契りありて秋の夜明かす更級の里

︵秋・更級里・一二四六︶

︻参考︼●見る程ぞ暫し慰む巡り逢はむ月の都は遙かなれども

︵源氏物語・須磨巻・光源氏︑拾遺百番歌合・一番左︶

︽名︾何ゆゑか底のみるめもおふの浦に逢ふことなしの名には立つらん

︵雑・生浦・一二九三︶

︻参考︼君

︑﹁何心ありて海の底まで深う思ひ入るらむ

︑ そこのみる

めもものむつかしう﹂などのたまひて︑ただならず思したり︒かや

うにても︑なべてならずもてひがみたること好みたまふ御心なれば︑

御耳とどまらむをやと見たてまつる︒  ︵源氏物語・若紫巻︶

右に掲げた四例の中で﹃源氏物語﹄の世界をもっとも濃密に踏まえ

るのは﹁渡りする遠方人の﹂の美豆御牧詠であるが︑他の三首につい

ても︑﹃源氏物語﹄の場面設定や詞続きに想を得た可能性が考えられて

(13)

建保三年﹃内裏名所百首﹄小考︵田仲︶ よいであろう︒﹃内裏名所百首﹄の名所題の中に﹃伊勢物語﹄に登場する地名が散見

されるという事実については既に先学の指摘があるが

︑これは﹃最 30︶

勝四天王院障子和歌﹄を継承するものである︒陸奥から西国に至る各

地を舞台とする﹃伊勢物語﹄の空間的な広がりは︑多数の名所を網羅

する﹃障子和歌﹄と﹃内裏名所百首﹄の世界が孕む空間性とよく呼応

する︒しかしながら︑﹃内大臣家百首﹄においては﹃伊勢物語﹄世界と

の照応はそれほど顕著ではない︒代わって目に付くのが︑﹃源氏物語﹄

に見える地名との相関である︒とくに︑歌枕としては必ずしも高い知

名度を誇るとは言えない﹁袖浦﹂﹁緒絶橋﹂﹁後瀬山﹂といった名所が︑﹃源

氏物語﹄の世界との接点を有することが注意される︒﹃障子和歌﹄や﹃内

裏名所百首﹄が取り上げない﹁暗部山﹂を﹃内大臣家百首﹄が取って

いることも留意される︒これは勿論︑﹃源氏物語﹄若紫巻における光源

氏と藤壺との密会の場面を象徴する名所である︒また︑﹃伊勢﹄﹃源氏﹄

以外の王朝物語に登場する地名を取り込んでいる事例も見受けられる︒

その典型が﹁虫明瀬戸﹂である︒この歌枕は新古今時代に入ってから

用例が飛躍的に増えるが︑その多くが﹃狭衣物語﹄巻一の末尾におけ

る飛鳥井女君入水の場面を踏まえての作である︒定家自身その場面を

本説に取った経験があり

︑﹃ 31︶

内大臣家百首﹄における詠歌も当該場

面を踏まえて構想されていると考えられてよい︒既述の如く︑著名歌

枕の﹁室八島﹂についても︑﹃狭衣物語﹄中にそれを詠み込んだ登場人

物の詠歌があることを意識しての選択である可能性がある︒それ以外

にも︑﹃浜松中納言物語﹄や﹃物語二百番歌合﹄にも採られた﹃海人苅 藻﹄の作中歌︑あるいは定家自作の﹃松浦宮物語﹄に登場する地名が﹃内

大臣家百首﹄の定家詠には見出されるのであって︑﹃内大臣家百首﹄に

おける地名選択を促した要因の一つとして︑王朝物語世界に対する定

家の関心と造詣を見過ごすことはできない︒

さらに留意すべきは︑﹃万葉集﹄由来でかつ王朝物語にも登場する地

名を詠じた歌が︑両百首の中には散見されることである︒﹃内大臣家百

首﹄の定家詠には︑以下のような事例が見出される︒

︽内︾頼め置きし後瀬の山のひとことや恋を祈りの命なりける

  ︵恋・一一六五︶

︻参考︼云云   人者雖云   若狭道乃   後瀬山之   後毛将念君

︵万葉集・巻四・七三七・大伴坂上大嬢︶

︻参考︼後湍山   後毛将相常   念社   可死物乎   至今日毛生有

︵万葉集・巻四・七三九・大伴家持︶

︻参考︼

﹁いとかく憂き身のほどの定まらぬありしながらの身にて

かかる御心ばへを見ましかば︑あるまじき我頼みにて︑見直したま

ふ後瀬をも思ひたまへ慰めましを︵後略︶︒﹂  ︵源氏物語・帚木巻︶

︻参考︼人やりならず飽かぬ心地して

︑﹁あひ思せよ

︒いと心憂くつ

らき人の御さま︑見ならひたまふなよ﹂など︑後瀬を契りて出でた

まふ︒  ︵源氏物語・総角巻︶

﹁後瀬山﹂は若狭国の地名として﹃万葉集﹄に見えるが︑その万葉歌

以来︑後日の逢瀬を願う︑期待するといった文脈で恋の歌に用いられ

て来た︒﹃源氏物語﹄の両例は地名そのものとして出現するわけではな

いが︑帚木巻では光源氏と契りを交した空蝉の揺れる心情を訴える一

(14)

節に登場し︑総角巻では実事のないままにともに夜を明かした宇治中

君に薫が言葉を掛ける場面で用いられる︒﹁頼め置きし﹂の定家詠は︑

万葉歌のみならず︑これら﹃源氏物語﹄中の諸場面をも踏まえて構想

されたと考えられてよい︒

︽内︾命だにあらば逢ふ瀬を松浦川返らぬ浪もよどめとぞ思ふ

︵恋・一一七三︶

︻参考︼和可由都流   麻都良能可波能   可波奈美能   奈美迩之母波婆

和礼故飛米夜母  ︵万葉集・巻五・八五八・遊松浦河序十一首︶

︻参考︼君にもし心違はば松浦なる鏡の神をかけて誓はむ

︵源氏物語・玉鬘巻・大夫監︶

定家が直接に踏まえるのは

﹃ 万葉集﹄の遊松浦河歌群であろうが

地名﹁松浦﹂に寄せて恋人との逢瀬を希う発想を得た背景として︑﹃万

葉集﹄に見える松浦佐用姫の古伝説とともに︑筑紫を舞台とした玉鬘

の流浪の物語とそこに出る大夫監詠の存在は見過ごすことができない

と考える︒そしてこれらが︑定家自作の﹃松浦宮物語﹄の源泉となっ

ていることにも注意が必要であろう︒

﹃内裏名所百首﹄には︑以下のような事例がある︒

︽名︾川波も待つ宵過ぎば遠ざかれ八十宇治人の秋の枕に

︵秋・宇治川・一二三七︶

︻参考︼物乃部能   八十氏河乃   阿白木尓   不知浪乃   去辺白不母

︵万葉集・巻三・二六四・柿本人麻呂︶

︻参考︼網代のけはひ近く︑耳かしがましき川のわたりにて︑静かなる

思ひにかなはぬ方もあれど︑如何はせん︒花紅葉︑水の流れにも︑心 をやるたよりに寄せて︑いとどしくながめたまふより外のことなし︒

︵源氏物語・橋姫巻︶

︻参考︼いといみじとものを思ひ歎きて︑皆人の寝たりしに妻戸を放

ちて出でたりしに︑風は激しう川波も荒う聞こえしを︑独りもの恐

ろしかりしかば︵後略︶︒  ︵源氏物語・手習巻︶

﹁八十宇治人の秋の枕に﹂という定家詠の下句の詞続きが著名な人麻

呂歌を踏まえることは言うまでもないが︑宇治川の波音に注目しての

一首の発想には︑宇治十帖の幾つかの場面への連想が働いていると考

えられてよい︒

︽名︾神奈備の岩瀬の杜の言はずとも知れかし下に積る朽葉を

︵恋・岩瀬杜・一二六三︶

︻参考︼神奈備乃   伊波瀬乃社之   喚子鳥   痛莫鳴   吾

恋 益

︵万葉集・巻八・春雑歌・一四一九・鏡王女︶

︻参考︼

︵前略︶かの

︑ 他人とな思ひわきそと譲りたまひし心おきて

をも︑少しは語りきこえたまへど︑岩瀬の杜の呼子鳥めいたりし夜

のことは残したりけり︒  ︵源氏物語・早蕨巻︶

︻参考︼恋しくは来ても見よかし人づてにいはせの杜の呼子鳥かも

︵源氏釈︑奥入︑紫明抄︑河海抄︑花鳥余情︑細流抄他︶

﹁岩瀬杜﹂はその所在について諸説ある名所であるが︑大和国と見る

のが通説で

︑﹃万葉集﹄の鏡王女歌以来

︑呼子鳥を取り合せて自らの

恋情を寓するのが定番の詠法であった︒また︑﹁岩瀬﹂に﹁言はせ﹂や

﹁言はず﹂等を言い掛けて恋歌に用いることも多く︑定家詠もその流れ

を汲んでいる︒︻参考︼に掲げた早蕨巻の﹁岩瀬の杜の呼子鳥めいたり

(15)

建保三年﹃内裏名所百首﹄小考︵田仲︶ し夜﹂も同様の趣意で︑薫が匂宮に宇治中君との経緯を打ち明けるに

際して︑実事には及ばなかったものの一夜をともにしたことまでは明

かさなかったという事情を寓している︒また︑﹃源氏釈﹄﹃奥入﹄以来︑

諸注釈書はこの場面の引歌として﹁恋しくは来ても見よかし﹂の古歌

を掲げる︒定家詠の発想や詞続きは︑これらの先例を踏まえることに

よって得られたと考えてよいが︑定番の﹁呼子鳥﹂の利用を封じつつ︑

忍ぶる恋心を﹁森﹂に所縁のある﹁朽葉﹂に見立てるのは巧みである︒

︽内︾大伴の御津の浜風吹き払へ松とも見えじうづむ白雪

︵冬・浜雪・一一四八︶

︽名︾待ち恋ひし昔は今も偲ばれて形見久しき御津の浜松

︵雑・御津浜松・一三〇〇︶

︻参考︼去来子等   早日本辺   大伴乃   御津乃浜松   待恋奴良武

︵万葉集・巻一・六三・山上憶良︶

︻参考︼●日の本の御津の浜松今宵こそ夢に見えつれ我を恋ふらし

︵浜松中納言物語・巻一・中納言︑拾遺百番歌合・二十一番右︶

﹃内大臣家百首﹄定家詠及び﹃内裏名所百首﹄名所題の双方で取り上

げられている﹁御津浜﹂についても︑山上憶良の歌で知られている万

葉以来の名所であると同時に︑その憶良歌を踏まえての作であり物語

名の由来ともなっている﹃浜松中納言物語﹄の一首を念頭に置く可能

性が考えられてよい︒

このように︑﹃内大臣家百首﹄や﹃内裏名所百首﹄における地名選択

や定家の和歌表現には︑自身の王朝物語の読書経験が様々な形で投影︑

作用していると推論されるのである︒          四

ここまで見て来たように︑建保三年の﹃内大臣家百首﹄における名

所の選択は︑﹃最勝四天王院障子和歌﹄において﹃伊勢﹄﹃源氏﹄の物

語世界が投影されての地名選択が行なわれていたことを継承しつつも︑

﹃伊勢物語﹄の比重をやや下げて﹃源氏物語﹄との接点を有する地名を

積極的に採用し︑さらに﹃狭衣物語﹄や﹃浜松中納言物語﹄等の物語

世界を通じても馴染みのある名所を或る程度意図的に取り込んでいる

と理解される︒かかる地名選択の背景には︑﹃内大臣家百首﹄の主催者

道家の父良経の依頼により︑かつて定家が編纂した﹃物語二百番歌合﹄

の記憶が投影しているのではないかと考える︒前篇の﹃源氏狭衣百番

歌合﹄については無論のこと︑後篇に当る﹃拾遺百番歌合﹄では右方

に﹃浜松中納言物語﹄からの歌を十五首取っているが︑他方︑﹃伊勢物

語﹄は﹃物語二百番歌合﹄の選歌の対象となっていないという事実が

あるからである︒﹃内裏名所百首﹄の名所選定はこの流れを承ける形で︑

王朝物語の世界が内包する空間性といったものをさらに意識しながら︑

名所を選び定めて行ったと推測される︒

﹃内裏名所百首﹄の名所題が﹃源氏物語﹄を意識していたことを窺わ

せるささやかな傍証として︑北陸道の名所の選定が注意される︒﹃内裏

名所百首﹄では︑北陸道の名所として﹁田籠浦﹂﹁有乳山﹂﹁還山﹂の

三か所が選ばれている︒このうち︑﹁田籠浦﹂は﹃万葉集﹄以来の名所

で︑藤の花が名物とされている︒駿河国の﹁田子浦﹂と混同しやすい

が︑富士山麓の地名﹁浮島原﹂を題に立てるのと引き換えに︑地理的

にも近接する同じ駿河の﹁田子浦﹂を外し︑越中の﹁田籠浦﹂を入れ

(16)

たとも考えられる︒同様に﹃万葉集﹄に由来する名所として﹁有乳山﹂

を選び︑さらに同じ越前の名所として著名な﹁還山﹂を選んだと思わ

れるが︑これに対して︑かつての﹃最勝四天王院障子和歌﹄では北陸

道の名所は選ばれていない︒また︑﹃内大臣家百首﹄には若狭国の﹁後

瀬山﹂はあるものの︑所謂越の国の名所は見えない︒その欠けていた

北陸道の名所を選ぶに際して意識されたのは︑﹃万葉集﹄だけではなく︑

紫式部の家集であったのではないかと思われる︒紫式部が父為時に同

行して越前に下った経験を有することはよく知られている︒﹃紫式部集﹄

の中には︑その越前下向の際の体験を踏まえて詠まれた歌が数首収め

られており︑左に掲げる﹁還山﹂の歌や︑所在としては東山道の扱い

になるが﹁伊吹山﹂を詠じた歌が見出される︒

︽名︾いかばかり深き仲とて還山重なる雪をとへと待つらん

︵雑・還山・一二八四︶

︻参考︼故郷に帰る山路のそれならば心や行くと雪も見てまし

︵紫式部集・二七︶

︽名︾秋を焼く色にぞ見ゆる伊吹山燃えて久しき下の思ひも

︵秋・伊吹山・一二四五︶

︻参考︼名に高き越の白山ゆき馴れて伊吹の岳を何とこそ見ね

︵紫式部集・八一︶

﹃源氏物語﹄浮舟巻に﹁武生の国府に云々﹂という一節が出て来るのも︑

催馬楽﹁道の口﹂の詞章を踏まえると同時に︑物語作者の現実体験の

投影が想定されているが︑﹃新古今集﹄撰進の折に﹃紫式部集﹄を熟読

した体験を持つ定家が︑﹃源氏物語﹄に関わるそのような連想の道筋を 辿って﹁還山﹂を選んだ可能性は小さくないと考える︒

併せて︑﹃内裏名所百首﹄は﹃最勝四天王院障子和歌﹄の名所を幅広

く取り込むことによって︑﹃内大臣家百首﹄では一旦影を潜めていた﹃伊

勢物語﹄世界との関わりが再浮上する︒﹃伊勢物語﹄には筑紫から陸奥

に至る日本各地を舞台とする話が鏤められ︑就中東下り章段に顕著に

窺われるところであるが︑王朝人が想い描いていた日本の国土の原像

めいたものを読み取ることができる︒このように王朝物語に内包され

る空間世界を意識しつつ︑これも﹃内大臣家百首﹄の傾向を受け継い

で﹃万葉集﹄に見える多様な地名をも併せて取り込み︑最終的にはそ

の各地の情景を詠歌によって具現化する工程を経ることによって︑﹃最

勝四天王院障子和歌﹄とはまた異なった形で諸国の地名を網羅し日本

の国土の在り方を総覧せんとする本百首の企画が構えられたのではな

いかと推論する︒前にも触れたが︑この時期の定家が﹃万葉集﹄に見

える地名に積極的な関心を抱き︑﹃万葉集﹄を通じて浮かび上がって来

る日本の国土の在り方について意識的であったことを窺わせる証左の

一つが︑﹃最勝四天王院障子和歌﹄の約二年後︑承元三年︵一二〇九︶

三月下旬に成立した﹃万物部類倭歌抄﹄である︒周知の書物であるの

で本稿での細述は控えるが︑﹃万物部類倭歌抄﹄の記事内容には︑﹃万

葉集﹄に出現する歌枕・地名に定家が極めて意識的であったことが明

瞭に看取される︒

また

︑これも紙幅の都合で本稿での詳述を避けるが

32

︑﹃万物部類

倭歌抄︵五代簡要︶﹄の志香須賀文庫本︵﹃日本歌学大系﹄別巻三底本︶

には﹃古今名所﹄及び﹃源氏名所﹄と称される文書が付随する︒﹃古今

(17)

建保三年﹃内裏名所百首﹄小考︵田仲︶ 名所﹄が﹃古今集﹄中に見える計百五箇所の地名の一覧であるのに対

して︑﹃源氏名所﹄は﹃源氏物語﹄に見える計八十箇所の地名を列挙す

る︒﹃古今名所﹄には定家自筆本が存在するが︑﹃源氏名所﹄の方は他

に写しもなく︑﹃万物部類倭歌抄﹄と元来一具であったのか否かについ

ても確証はない︒しかしながら︑﹃万物部類倭歌抄﹄の記事内容と﹃古

今名所﹄﹃源氏名所﹄に選ばれている地名の傾向を突き合せると︑この

二つの小篇は︑やはり﹃万物部類倭歌抄﹄の成立に伴う形で定家によっ

て書き留められたものと考えるのが妥当である︒﹃源氏名所﹄の存在は︑

﹃源氏物語﹄の世界に内在する空間の在り方と言ったものについて︑こ

の時期の定家が多大な関心を払っていたことを窺わせる証左として位

置付けることができる︒

このように︑﹃万葉集﹄﹃伊勢物語﹄﹃源氏物語﹄等の読書やそれらに

関わる幾つかの書物の執筆経験を通じて︑承元の末から建保期前半に

かけての定家は︑名所歌枕を通じて浮かび上がって来る日本の国土の

在り方について思いを深め︑その思索を﹃内大臣家百首﹄や﹃内裏名

所百首﹄における名所の選定に反映させたものと想像される︒その際

に大きな援けとなったのは︑無論﹃最勝四天王院障子和歌﹄において

自らが主導する形で行なった名所選定とそれに基づく詠歌経験であっ

たであろうが

︑加えて無視できないのが

︑ やはり往時の

﹃新古今集﹄

撰進の経験であったのではないかと考える︒﹃内裏名所百首﹄に取られ

た名所には﹃新古今集﹄に見える名所が少なくなく︑八割近くの名所

が﹃新古今集﹄と一致する︒﹃新古今集﹄には計二百二十六箇所に上る

名所が見出されるので

︑八割という数字は結果に過ぎぬのかもしれ 33 ないが︑選ばれた名所の扱い方にも﹃新古今集﹄所収歌を踏まえたと

推測される事例が散見される︒分かりやすい例が︑例えば﹁水無瀬川﹂

や﹁天香具山﹂の部立・季節の選択であるが︑既に指摘があるように︑

いずれもその名所を詠じた後鳥羽院や持統天皇の新古今所収歌の発想

を踏まえての措置であると判断される

34

︒﹃新古今集﹄の撰者を勤め

た経験が定家に齎したものは︑やはり大きかったと考える︒

本稿では具体例の提示を差し控えるが︑撰者たちが名所歌枕の持つ

象徴性に細心の注意を払っていた事情は

︑﹃

新古今集﹄の撰歌と配列

の随所に窺われる︒要所要所に歴史の在り方を喚起する歌枕詠を配し︑

集全体を通じても全国津々浦々の名所歌枕を取り込み鏤める﹃新古今

集﹄の撰進作業が︑実際に現地を訪問する機会を得ずとも︑日本の国

土の空間的な在り方に対する定家の認識を深めたことは間違いない

この﹃新古今集﹄の撰進︑部類の作業自体は︑竟宴後の切継を別にす

れば既に十年以前の出来事であったが︑実は﹃内裏名所百首﹄成立に

かなり近い時点で︑﹃新古今集﹄の撰進に類似した作業を定家は行なっ

ている

︒ それは

︑﹃定家八代抄﹄の編纂である

︒﹃

定家八代抄﹄は周知

の如く︑﹃古今﹄から﹃新古今﹄に至る八つの勅撰集から秀歌を選び︑﹃新

古今集﹄と同一の編成で二十巻に部類した撰集であるが︑奥書の記事

から︑一般によく知られている所謂精選本の成立は建保三年中の可能

性が高いと考えられている

︒編纂の意図が異なることもあって︑﹃定 35

家八代抄﹄に﹃新古今集﹄ほどの精密な配列意識を窺うことは難しく︑﹃内

裏名所百首﹄との成立の先後関係についても確言し難いが︑名所詠を

通じて日本の国土の在り方を俯瞰するような意識は︑﹃定家八代抄﹄の

(18)

編纂作業を通じても再度醸成されたのではないかと考える︒

         五

﹃内裏名所百首﹄の名所選定が﹃最勝四天王院障子和歌﹄や﹃内大臣

家百首﹄に倣いつつ︑また新たな形での日本の国土の姿を描き出そう

としていることは︑以下の三つの事実を通じても窺われる︒一つは既

に触れたところであるが︑﹃最勝四天王院障子和歌﹄では北陸道の名所

が欠けていたのに対し︑﹃内裏名所百首﹄では北陸道の名所を立てて︑

五畿七道の全てを網羅する形にしたことである︒﹃障子和歌﹄では数的

な制約もあって北陸道の名所を敢えて外したのかもしれないが︑名所

数が倍以上になって枠に余裕が生じた﹃内裏名所百首﹄では︑﹃万葉集﹄

や﹃紫式部集﹄からの連想も作用する形で北陸道の名所を選抜して整

えたものと推測される︒次に︑山城国の名所よりも大和国の名所を多

く選んでいることが注意される︒これは︑﹃万葉集﹄に由来する名所が

多数見られる事実や︑﹁大淀浦﹂﹁御裳濯河﹂﹁二見浦﹂といった伊勢神

宮周辺の名所が尊重されていることとも符合するが︑古代的なものと

の繋がりをより重視する尚古的な姿勢の表れであると理解される︒最

後に︑東海道の諸国をその全てではないが︑先行の企画に較べるとよ

り網羅的に連ねている事実がある︒これは︑やはり鎌倉の政権の成立

に伴い東国への往還ルートに当たる海道筋の重みが増したという︑当

時の権力体制を反映しての名所の選定であると考えられる︒この海道

筋の名所の重視は︑﹃新古今集﹄のそれを継承するものである︒﹃新古

今集﹄巻十羇旅部には諸国の名所が登場するが︑﹁宇津山﹂﹁佐夜中山﹂ の歌が多く見られること︑とりわけ源頼朝の富士山の歌が採られてい

ることには

︑畿内と鎌倉を結ぶ東海道の国土軸としての機能につい 36

て撰者たちが強い関心を抱いていた事情が窺われる︒﹃内裏名所百首﹄

における名所の選択についても︑同様の思考のプロセスを見出すこと

が可能である︒さらに言うならば︑如上の﹃新古今集﹄の名所選択や

配置との符合については︑深津睦夫氏が説かれた中世型組題の成立に

も通じるところがあるのではないかと考える

37

この東海道諸国の名所を網羅的に重視する姿勢と関わって留意した

いのが︑名所の選定と西行の和歌との関わりである︒田尻氏や田村柳

壹氏が指摘されるように︑﹃内裏名所百首﹄の名所題の中には﹃万葉集﹄

や先行勅撰集の中に典拠となる古歌を見出すことができないものが

僅かながら含まれている

︒﹁浮島原﹂もその一つであるが︑﹃万葉集﹄ 38

や八代集にも作例がなく︑﹃内裏名所百首﹄以前に成立した﹃能因歌枕﹄

﹃和歌初学抄﹄﹃五代集歌枕﹄等の歌枕書類にも見出すことができない︒

先行する用例としては︑僅かに﹃肥後集﹄﹃山家集﹄﹃秋篠月清集﹄に

見出される程度であるが︑富士山と取り合せて詠む先例としての西行

歌には注意される︒

︽名︾富士の嶺に目馴れし雪の積り来てをのれ時知る浮島が原

︵冬・浮島原・一二五七︶

︻参考︼いつとなき思ひは富士の煙にて起き伏し床や浮島が原

︵山家集・一三〇七︶

先述の如く︑本百首では東海道の諸国と名所が比較的重視されてい

るが︑東海道を経由して東国に赴いた経験を有し︑﹁佐夜中山﹂をはじ

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