『岡山大学法学会椎誌』第54巻第l号(2004年9月)
3l
法というものは︑私たちの社会生活の営みを支える公共的な枠組みとしての役割をもつ︒法という脊景的枠組み
があるかゝりこそ︑私たちは安定した社会生活を円滑に営むことができる︒このことは︑少なくとも自由で平和な時
代であれば︑ほとんど自明の事実であるかのように考えられ︑私たちはその恩恵をと︿に意識せずに享受している︒
三一
法を支える政治︑政治を律する法
− マイケルマン=ハーバーマス法理論をもとに 一
大 森 秀 臣
一 はじめに
九 八 七六 五 四 三 二
はじめに
共和主義の法理論〜−⊥公♯性の再構成プロセス
マイケルマンの法理論 − 仮想的代表
マイケルマンの法理論∩−法生成的政治
法生成的政治論の曖昧さ
マイケルマン⁚︑︑1ツ・ハーバーマス
ハーバーマスによる理論的精緻化
法と政治の循環的関係
マイケルマン対ハーバーマス〜
的 法(54−1)32
三二
ところが︑こうした時代が長期にわたる場合︑法は︑必ずしもいつまでも誰からも背景や枠組みとLて受け容れら
れ続けるわけではない︒法が創設された時代の記憶が失われ︑あるいは法に関わる諸々の実践が硬直化・ルーチン
化することによって︑法がもつ本来の意義が見失われてしまうからであるゥ これには︑法が従来の解釈によっては
新たに生じて︿る様々なリスクや問題に十分に対処できな︿なったり︑あるいは法の文言か現在では難解になって
いるなどの諸事情があるのであろう︒近年の‖本において︑憲法改正論議が以前に増して活発に行われ︑様々な法
制度の改革や再構築が実際に行われてきているのは︑こうした事情と無関係ではあるまいり
このように法その他の社会的制度が公共的な枠組みとしてみなされな︿なっているのは︑日本に限った局所的な
問題でもないし︑あるいは現代に限った一時的な問題でもないり それは︑自由主義的憲法体制をもつ多くの国々に
おいて時代を関わずしばしば見られる現象であって︑その意味ではかなりの程度まで普遍的な問題であると認めて
もよいだろう︒憲法を規範的階層の頂点に据える法体系が︑それ自体で不動の所与1﹁不磨の大典﹂ − として
おかれる場合︑たとえ仮にそれが創設時においては民主的に制定されたとしても︑何世代にわたって時代を経れば︑
遅かれ早かれ本来の意味で法制度が﹁公共的﹂であることが忘却されることになるだろう︒本質的な問題は︑法制
度が安定Lた社会生活の中で﹁当然のもの﹂﹁所与のむの﹂として受け容れられるようになる反面︑法が真に公共的
なものの枠組みとして受け容れられな︿なることにあるっ
こうした問題に対処するために︑幾つかの手段が考えられるであろう︒ひとつには︑専門家や有識者集団の主導
で︑議会や裁判所などにおいて︑法律や判例などを変更・修正することによって︑いわば微調整する道が考えられ
るであろう︒あるいは︑もっと巨視的・根本的に︑以前の法削度をすべて取り払って︑国民の直接参加や投票その
他の手段で︑新たな憲法を制定L直し改めて法体系を創出することもありえるかもしれない︒しかしながら︑いず
れにせよこれらの選択肢は本質的な問題解決になるわけではない︒どちらにしても︑法が将来にわたっていつまで
33 法を支える政治、政治を律する法
も公共的な枠組みとして受容されるとは限らないからである︒前者の手段では︑法制度の改革が公職者や専門家主
導による制度圏内部の改革に止まる限り︑法創設時の精神を再現するどころか︑むしろ公的制度と市民の意識の乗
離を助長し︑法の公共的正統性を根底から損なってしまうかもしれない︒後者の手段では︑確かに一時的には創設
時の精神を再現できるかもしれないが︑しかしまたさらに時代を経ることで︑いずれ再び法が公共的に受け容れら
れなくなるかもしれない︒そうなれば︑再び憲法再構築以前の時代に逆戻りすることになりかねない︒
これらの可能性を避けて考︑えてみれば︑本質的な問題は︑次のようなところにあると言えよう︒すなわち︑現存 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ する法制度が市民の側からつねに受容可能なものとしてみなされるにはいかなる方法があるか︑である︒言い換え
れば︑︵法的枠組みの公共的正統性︶ を永続的■恒常的に保障するのはいかにして可能なのか︑である︒法は︑市民 一り′ 視点から受け容れられるとみなされてはじめて ﹁公共的﹂ であると言える‖ このことが恒常的⁚水続的に保障され
るならば︑法は︑市民たちの生活を規律するとともに︑社会構成員たち自らによって作成されたものとして受容さ
れ︑真の意味で公共的な枠組みとしてつねに機能すると考えることができる︒そうすれば法的枠組みは︑私たち個
人の基本的な自由と権利を保障するとともに︑民主的に制定されたものとみなされ︑私的領域における自由と公的 ノ ︵ご 領域に関わる自由とい︑ユ壷の意味において︑私たちは自由であることができるであろ︑㍗
このように法が公共的な枠組みとして社会構成員たちの側からつねに受容されるプロセスの仕組みを考察するこ
と︑すなわち ﹁法的枠組みの公共的正統化﹂ のプロセスの考案が︑法哲学上の問題として要請されることになる︒
これはたんに現行の法体系の分析や︑あるいはその前提・目的たる価値構造の解明という枠内に収まるような問題 ヽヽヽヽヽ ではない︒それは︑法の公共的正統性をいかに政治の営みとの繋がりで捉えることができるか︑憲法の民主的な基
礎とは何か︑法を支える政治のあり方に関わる問いであり︑その意味では憲法理論や政治哲学にも重合する問題領
域である︒こうした中でとりわけ︑これらの問題の解明に寄与しえるのは︑近年米国を中心に大きな流れとなりつ
二三
同 法 一:54・−1)34
近年︑﹁現代共和主義﹂と呼ばれるひとつの大きな潮流がある︒ この潮流は︑その名が示すごとく︑共和主義とい
う古典的な思想を現在に受け継ぐものである︒もともと共和主義は︑思想史的に言えば︑古典古代のギリシャに起
∵1 源をもつ極めて伝統的な思想であるり この系譜にある代表的な論者を挙げれば︑アリストテレス︑ニコロ・マキヤ 三相
つある共和主義の法理論であると思われる︒というのも︑それは︑民主的な政治を法の公共的正統性を支えるため
の手段や基盤として捉えており︑この間題の解明のために多くの理論的資源を提供するであろうと考えられるから
であるり
そこで本稿では︑近年の共和主義法理論の業績をもとに︑法の公共的正統性を支える政治のあり方を見出すこと
を目的とする︒以﹁の二では︑共和︑モ義の法理論が政治をいかに捉えているのかを説明する︒三と四では︑共和主
義の理論家の一人であるフランク・マイケルマンの議論を彼自身の変遷を追いながら概観する︒五では︑マイケル
マンの法理諭にある幾つかの曖昧な点を指摘するし 六では︑この欠陥を補いうるのが討議理論の論者ユルゲン・ハ
ー バーマスであること︑七ではマイケルマンの法理論がいかにしてハーバーマスの討議理論によって補われるかを
説明するノ 八では︑以上の作業をもとに︑マイケルマンとハーバーマスの双方の理論を接合することによって︑法
の公共的正統性を支える政治のあり方を提示する︒九では︑マイケルマンとハーバーマスの立場の相違が︑以上の
ような本稿の関心からどのように評価できるかについて若干の検討を付け加えておく﹁︺
本稿は︑ともに共和主義的政治のポテンシャルを期待する二人の論者の理論を接合することにより︑法の公共的
正統性をめぐる問いにアプローチする理論的試みであるト
二 共和主義の法理論 − 公共性の再構成プロセス
35 法を支える政治、政治を律する法
4こ ヴュッリ︑ジェイムズ・ハリントン︑ジェイムズ・マディソン︑卜−マス・ジェファーソン︑ハンナ・アレントを
はじめとして︑枚挙に暇がないだろう︒また近年においても︑ジョン・ポコック︑クエンティン・スキナ1︑ベン
ジャミン\ハーバー︑ ロナルト・ビーナー︑エイドリアン・オールドフィールド︑ジャン=ファビアン・スピッツ︑
フィリップ・ペティット︑マウリツィオ・ヴィロリなどもこの旗のもとに分類される場合もある︒このような現代
に受け継がれ歴史的に深い含蓄のある共和主義という思想を一言で定義することは容易ではないが︑一応︑次のよ
うな定義で理解しておこう︒すなわち︑共和主義とは︑人々が真の意味で自由であるためには︑自分たち自身で自
分たちに関わる公共的な事柄を決定しなければならず︑そのためには人々が公共心に溢れる市民として備えてお︿
べき徳性を育成・発揮し︑政治の営みに関与しなければならないとする見解である︑と︒共和主義が引き合いに川
されるときにしばしば用いられるキータームは︑﹁円己統治としての自由﹂︑﹁公民的徳性の陶冶﹂︑﹁政治への参加﹂︑ 二︺﹂ などである︒
ただし︑現代の共和主義と呼ばれる立場は︑必ずしもこのような思想史上の共和主義のすべての要素を引き継ぐ
わけではない︒それは︑ここで挙げた定義の諸要素を幾つかに分けた上で選択的に継受するのである︺ このように
従来の共和主義との系譜上の関係を捉えてみれば︑現代共和主義は大きく次のような二つの立場に分派していると
理解できるであろ︑つっ
ひとつは︑徳性の陶冶を中心にして共和主義を捉える立場である︒これは︑どちらかと言えば従来の古典的な共
和主義の直接の系譜上に位置しており︑八〇年代以降の英米圏の政治哲学でしばしば見られる﹁共同体論﹂に比較
的類似した立場であると考えることができる︒この見解は︑公民的徳性を備えた人間を特権祝するある種のエリー
ト主義に基づいて︑政治が公民的徳件の陶冶の役割をもつこと︑つまり政治的共同体は構成員たちに徳性を陶冶す
ることを自らの義務とし︑場合によっては両二的・強制的に市民に同化を強いることをも厭わない︑とする︒こう
二五
開 法(54−1)36
三六
した立場を︑徳性と陶冶を強調する︑より達しい共和主義のバージョン︑すなわち﹁徳性−陶冶塑﹂共和主義と呼 ト ぶことにしよう︒
もうひとつは︑むしろ審議への参加を中心に共和主義を受け継ぐ立場である︒これは︑従来の共和主義の伝統に
対Lて∵定の距離を取り︑その思想のうち現代にそぐわない側面を意凶的に削ぎ落としながら食け継ぐものであり︑
近年の英米圏の政治哲学の領域で言えば﹁審議的民主主義∵古eHberati詔demOCraCy︶﹂論に︑あるいは憲法理論の
領域で言えば﹁共和主義的﹂豊畢王義︵repubHcancOnStituこCna詳ヨ︶﹂に大幅に重なり合う︒この見解は︑従来疎外・
排除されてきた人々の声や要求に耳を傾け︑こうした声や要求を取り挙げる対話やコミュニケイションの営み︑そ
してそのプロセスへの市民全員の参加に価値をおく︒この立場を︑審議と参加を重視する︑より穏健な共和︑干義の
バージョン︑すなわち︑﹁審議−参加型﹂共和主義と呼んでおこう︒
この二つの共和主義の立場は︑両者とも民主主義が機能不全に陥り︑法的枠組みが﹁私たち﹂ の手から離れてい
ること − 自己統治の欠如 − に危機感をもっており︑共和主義の伝統がこうした危機に対する処方となりえる
と考える点で共通している︒両者とも︑共和主義の思想的資源に依拠しながら︑法や社会制度などの﹁公共的なも
の﹂をもう一度﹁私たち﹂ の手に取り戻すための理論枠組みを模索する点で一致している︒法という公共的な枠組
みは︑﹁私たち﹂ から疎遠な議員や判事らによって制定あるいは適用されており︑﹁私たち﹂は私的領域の中に追い 7 ′⁚ やられ︑こうした公的制度を運営する術を奪われている︒このような公/私の分離を根本的に打破し︑私的領域に
いる﹁私たち﹂が︑政治の営みを通して︑﹁公共的なもの﹂にアクセスするにはいかなる可能性がありえるか︒この
ように ︵政治︶という回路によって︑公と私とを新たな形で架橋しょうとするのが︑現代共和主義の法理論なので
ある︒
現代共和主義はこのように公私の架橋を目的とするが︑先述の共和主義の二つの類型は︑この目的に関して︑す
37 法を支える政治、政治を律する法
なわち︑どのようたして政治が公と私を架橋しえるかについて︑﹁公的なもの﹂と﹁私的なものしとを橋渡しする政
治のあり方とは何かについて︑それぞれ考えを異にしていると考えることができる︒
徳性1陶冶型共和主義は︑﹁公的なもの﹂と1私的なもの﹂とを橋渡しする方途を︑徳性の陶冶︑あるいはその前
提としてのアイデンティティの育成という共同体の教育的役割に委ねる︒すなわちそれは︑共同体が個人を政治に
関わらせることを通して︑私的な人間を公的な市民に生まれ変わらせ︑共同体の構成月にアイデンティティを共有
させることによって︑﹁私たち﹂自身が﹁公的なもの﹂を担っているのだという意識をもたらそうとする︒いわばそ
れは︑私的領域にいる﹁私たち﹂の範困とその集合的アイデンティティを拡張する1I過去あるいは現在の法の制
定者もまた﹁私たち﹂の一月なのだという意識をもたせる1ことによって︑法その他の﹁公的﹂諸制度を取り戻
︵サリ す方途を模索している︒すなわち︑徳性1陶冶型共和主義においては︑政治は﹁公共性の教育プロセス﹂として捉
︑えられているのである︒
q∴ ′ これはひとつのやり方ではあるが︑残念ながら普遍的な戦略ではない︒もちろん︑自分たちが現在もつ法体系が
自分たちの祖先らによって創設された輝かしい記憶をもつ国であれば︑有効な方途であるかもしれない∪ 共同休の
政治を通して﹁私たち﹂という集合的アイデンティティが育まれ︑それが国民的アイデンティティにまで直結する
ならば︑創設者たちもまた﹁私たち﹂の中に含められるとみなされ︑憲法を頂点とする法体系が確かに﹁私たち﹂
の手によるものだと再確認されるだろう︒ところが︑必ずしもすべての団にこのような輝かLい記憶があるわけで
はない︒敗戦や占領統治などの理由で︑必ずしも社会構成員が望んでいたとは限らない法的枠組みを不承不承に課
されたかもしれない囲も歴史上確かに存在している︒こうした場合︑もし共同体が﹁国民﹂というアイデンティテ
ィの育成や公民的徳性の陶冶に失敗するならば︑たとえ小規模な共同体の構成月にアイデンティティをもたらすこ
とに成功したとしても︑現実には国家の制度圏とのつながりを欠いた﹁積み分け的﹂政治を招来しかねない︒棲み
三七
同 法(54、1)38
三人
分け的な政治とは︑地方分権によって地域や自治体などが二疋?王権を担いながらも︑地方レベルと国家レベルで
のそれぞれの公的機能を両立可能な状態とLて分離・維持し︑国家や連邦政府の公共的機能の独占をそのまま温存
︵川∵ させ︑公共性の階層・区画を固定化してしまうような政治のあり方である︒それは︑社会構成員の内面にアイデン
ティティや特性を育むだけで︑現実には国家の制度圏の政治過程にアクセスする手段を失われたままにしてしまう︒ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 一三口わばそれは︑公/私の分離を超えようとしながら︑別の分離を新たな形で再生産してしまっている︒その意味で
は︑徳件−陶冶型共和主義は︑法の公共的正統性を現実に支える政治のあり方を提示できる︑優れたアプローチで
あるとは必ずしも言えない︒
むしろ前述の問いへの鍵は︑審議−参加型共和主義にある︒それは︑﹁公的なもの﹂と﹁私的なもの﹂とを結びつ
ける要を︑審議への参加︑言い換えれば市民すべての参加者からなる対話やコミュニケイションという現実の政治
の営みに託す︒すなわちそれは︑私的な領域にいる人々が︑臼分たちの生活に関わる事柄について話し合う場に関
与することによって︑従来﹁公的なもの﹂とされてきた事柄が︑﹁私たち﹂自身が決定したものであるとみなされる
ような営みとして民主主義の政治を評価する︒いわば︑私的領域にいる﹁私たち﹂が現実に﹁公共的なもの﹂を対
話やコミュニケインョンによって創山あるいは受容する方途を考察している︒すなわち︑審議−参加型共和主義に
おいては︑政治は ﹁公共性の再構成プロセス﹂として評価されているのである︒
では︑政治的審議が﹁公共性の再構成プロセス﹂であるということは︑厳密にいかなる重要な意味があるのだろ
うか︒この点を説明するために︑政治的審議が公/私を架橋するために二つの仕方があると仮定しよう︒一方で︑
公/私の分離を原理的な前提にした上で︑それに照らして︑公//私の分離の現実態の適・不適を検討し︑それらの
間の適切な関係を設定するプロセスとして︑政治的審議を捉える道がある︒この場合それは︑公私の再結合方法で
洲爪 ある︒他方で︑公/私の分離を原理的に放棄した上で︑あるいほそれをはじめからないものと仮定した上で︑公的
39 法を支える政治、政治を律する法
領域と私的領域とが末分離である状況から︑公共性を根底から構成するプロセス ー この場合︑﹁公的なもの﹂﹁私
的なもの﹂のいずれも実体化されていない ー として︑政治的審議を捉える通があるウニの場合それは︑公私の再
︵12︶ 結合方法ではな/\ 公共性の純粋な構成方法である︒
このように公私の架橋に二つの方法があると仮定する場合︑審議−参加型共和主義における政治とは︑公私の再
結合方法であると言えるのか︑あるいは︑公共性の構成方法であると言えるのか︒やや逆説的な言い方をすれば︑
どちらでもないし︑どちらでもあると言える︒審議−参加型共和主義において︑一方で︑政治的審議は公私の再結
合方法ではない︒というのも︑公私の再結合方法は︑﹁公的なもの﹂と﹁私的なもの﹂を実体的に存在するものとし
て前提にした上で︑それらをもう一度結びつける方法であるが︑政治的審議はこの公/私の分維を実体的な与件と
しないからである︒また他方で︑政治的審議は公共性の純粋な構成方法でもない︒というのも︑公共性の構成方法
は︑純粋にカオス的状況から公共性を純化・摘出する方法であるが︑政治的審議は︑公私領域が完全に末分離の状
況から︑法や社会制度を一から組み立てる手段としては限られた方法であるからであかひだからこそ︑政治的審議
は公私の再結合方法でもある︒というのも︑それは︑純粋に公私末分樅の状況を想定しておらず︑つねにすでにそ
こにある公/私の分離を暫定的な所与 − 実体的な与件ではなく ー としながら︑その現実の形態を別の形で結
びつける手段であるからである︒圭た同時に︑政治的審議は公共性の構成方法でもある︑し というのも︑それは︑純
粋な形で公共件を一から抽出するのではないとしても︑公/私の分離の現実の形態をいったん括弧に入れた上で︑ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ あたかもそれを有在Lないものとして扱うかのように改めて公共性を構成し続ける手段であるからである︒
こうした逆説的な意味で︑審議−参加型共和︑工義において︑政治は﹁公共性の再構成プロセス﹂ − 公私の再結
合プロセスであると同時に︑公共性の構成プロセスでもある−I予なのである︒これを要約して一言えば︑政治的審議 ヽヽヽ は︑つねにすでにそこにある公/私の分離の具体朝形態を︑実体的な所与とせず暫定的に前提としながら︑何度も
三九
開 法(54−1)40
四〇
問い直すことによって組み換︑え︑批判的に再考し続ける手段である︒したがってそれは︑厳密に言えば︑公共性の
構成方法であるかのような公私の再結合方法である︒すなわち︑それは︑ある特定の公/私の分離の形態が現実に
存在していることを承認しっつ︑あたかもそれがあらかじめ先行して存在しないかのように︑つまり︑公/私の分
維の具体的形態を一度括弧に括った上で︑現存の公的 ︵とされている︶ 領域・機関・機能の ﹁公共性﹂を何度も問
い直すプロセスである︒言い換えれば︑それは︑公/私の分離を理念として前提にした上で︑それに照らして︑つ
ねにすでにそこにある公的 ︵とされている︶ ものを︑社会構成員の側から本当に﹁公共的なもの﹂とLて受容され ﹁﹂一ノ るかどうかを繰り返しチェックし続けることのできる回路として捉えられていか︒
もちろん︑このように政治が﹁公共性の再構成プロセス﹂として捉えられることには重要な意味がある︒本稿は︑
先述の ﹁法的枠組みの公共的正統性を永続的・恒常的に保障するのはいかにして可能なのか﹂という問いに対して︑
こうした審議1参加型共和主義の政治観が最も適切にアプローチしえると考えるからであるゥ徳性−陶冶型共和主
義の構想では︑政治は﹁公共性の教育プロセス﹂として捉えられるが︑これは十分な解答を提示しないり結局は︑
自ら克服しようとしている公/私の分離を不適切な形で再び導入してしまうであろう︒さらにそれは︑﹁公私の再結
合方法﹂ でも﹁公共件の構成方法﹂ であってもならないっ それは︑歴史的には偶然にすぎない公/私の分離のある
特定の形態を実体的な所与とLてはならないし︑他方で法その他の公的制度を一から生み出すことではないからで
ある︒政治は︑現有の法制度だけが﹁公的なもの﹂ の唯一の形態であることを追認する営みでないし︑現にある法
的枠組みを根底から破壊し︑一から創出し直すことでもない︒それは︑市民が審議のプロセスに参加することを通
して︑現在の法的枠組みが1公共的﹂であることを何度も確認する︑法制度の公共性を再構成するプロセスである︒
政治は︑審議のプロセスとして︑法的枠組みの公共的正統性を支えることができる︒こうした視座を審議−参加型
共和主義は提示しているのである︒
41法を支える政治、政治を律する法
このような視座を適切に提示している論者はけっして多くはないが︑米国の憲法学者・法哲学者のF・マイケル
マン︑そして独国の社会学者・哲学者のJ・ハーバーマスは︑このような視座を鮮明に共有している数少ない審議
−参加型共和主義の論者である︒本稿は︑この両者の理論を適切に接合することによって︑法の公共的正統性を支
L7
︵15 える政治のあり方を見出すことができると考える︒まずこの作業の前段階として︑マイケルマンの理論的変遷を追
いながら︑以上の観点から︑審議−参加型共和主義が提示する政治についての基本構想を見出していこうっ
︵沌︶ 三 マイケルマンの法理論HII仮想的代表
マイケルマンは︑GO己maコ一1.Weiコberger事件判決において︑法廷意見が︑宗教的服装の着用を禁止する空軍の
規則が合衆国憲法修正第一条で保障された信教の自由を侵害しないとしたことに反対して︑共和主義の立場から︑
その批判の体系的な根拠として以下のような独特な憲法理論を提示しているっ
マイケルマンによれば︑主権が行催され自己統治が実現するためには︑統治者と非統治者との関係がつねに政治
的な問題になる︒ある民主的な政治体が自己統治的である − すなわち︑市民全員が自分たちに関ることを自ら取
り決める − ためには︑その前提として政治共同体の構成員たちにアイデンティティが共有されていなければなら
ない︒すなわち︑政治休を統治する側の人たちと彼らによって統治される側の人たちが︑たとえ恒常的に入れ替わ
り可能な関係にはないとしても︑少な︿とも両者の間にある種の一体感や連帯感がなければならない︒この一体感
やアイデンティティがあるからこそ︑政治体の構成員たちは自分たちが自己統治的であると了解することができる︒
ところが︑たと︑与﹂うしたアイデンティティが観念上受け入れられているとしても︑代表していると主張している
統治者側の人たちが︑必ずしも代表されている非統治者の意思を本当に代表しているとは限らない︒ここに代表=
四一
糊 法(54 1142
四二
表象 ︵represel鼻atiO︻土 の困難な問題がある︒
マイケルマンは︑この代表=表象の問題にアプローチするには一一つの方法あるという︒ひとつは︑︵仮想的代表︶
のアプローチである︒仮想的代表とは︑ある人が︑﹁誰か似た別の人の参加を通して︑現実の参加的な役割をもたず
に︑選挙人としてでさえなくても︑代表される﹂ことであり︑こうした﹁仮想的代表を通して︑一般人︵cOmmOコOr︶
︼旧l の観点が政体バランスの中に含まれる﹂ ことが可能になる︒仮想的代表は︑たとえ被統治者が現実に政治的意思決
定に参加していないとしても︑統治者が民主的な選挙その他の制度的機会を通して︑披統治者に代わってその意思
を尊重し︑伝達し︑あるいは公的決定に反映しているのだから︑それだけで十分に民主的な意思が代表されている︑
という考えである︒それに対して ︵現実的代表︶ は︑それだけでは十分ではない︑とする︒すなわち︑たとえ統治
者が民主的で公止な手続きに従って選出され︑政治体の統治に関して公的な責任を負うとしても︑それだけで十分
に代表されたことにはならず︑被統治者白身が何らかの現実の形で政治的意思決定の過程に関与することによって
はじめて代表されたとする考えであるrノ マイケルマン自身がいずれのアプローチを取るかは︑やや迂回の多い込み
いった議論になるが︑彼の論述をできる限り忠実に追いながら︑以下で明らかにしておこう︒
マイケルマンは︑現実的代表を支持する見解には二つあるという︒ひとつは﹁ハリントンを彷彿させる﹂見解で
あるむ この見解によれば︑公式の﹁議会は︑ミニチュアにした人民の像でありえるのであって︑人民がその多元性
すべてを含むように感じ考えるのと同じように感じ考︑え︑もし仮に人民がそこにいれば行為Lたであろう︑それと
まったく同じように行為している﹂と捉えられる︒この場合︑統治者の側と被統治者の側の関係は仮想的ではなく︑
立法議会の意思決定は人民のそれと現実に連動している︒重要なことに︑この場合﹁人民参加は疑いな︿現実的で
あって︑そ?王な場は正式の立法議会ではないが︑選挙民の間の︑あるいは選挙民と代表者の間の分散した継続的
な政治的討論のプロセスである︒その特徴的なイメージは︑飲み屋やタウンミーティングであり︑人々が屋外で候
43 法を支える政治、政治を律する法
︑q二 補者を選び︑政策について議論し︑有益な情報を定式化しあうのである﹂Uたとえ︑被治者たちが公式の議会の場に
直接足を運ばなくても︑非制度圏の日常的な場における対話の営みが現実的代表を支える︒この見解は︑発想の上
では﹁直接民︑手王義﹂や﹁国民投票的︵p︼ebiscitary︶民主主義﹂のそれに近く︑現実的代表を最も強く支持するも
のである︒もしマイケルマンがこの見解を支持するならば︑法の公共的正統性を支えるのは︑﹁飲み屋やタウンミー
ティング﹂など市民にとって身近な討論の場であり︑こうした多様な場での対話やコミュニケイションを含む広範
な政治的審議のプロセスであることになるだろう︒
現実的代表を支持するもうひとつの見解は﹁ブルース・アリカーマンの二元論的構想﹂であか∩アッカーマンに
よれば︑政治は︑﹁通常政治﹂と﹁憲法政治﹂ の二つのレベルに区別される︒﹁通常政治﹂ のレベルでは︑代表者た
ちは︑彼らが代表している人たちの利益や声を政治過程に反映させるべく︑取引や交渉を行う︒この政治は︑日常
的に見られる政治のあり方であり︑Lばしば﹁多一花 ︵主義︶ 的政治﹂とか ﹁利益集団民︑幸主義﹂などと呼ばれる︒
他方で﹁憲法政治﹂のレベルでは︑代表者ではなく︑人民が直接的に政治的意思決定に関わる︒﹁憲法政治﹂は歴史
的には稀な事件であり︑数少ない憲法的時期に動員された人民は﹁アメリカ人とは何か﹂というアイデンティティ
の問題を真剣に考え︑その意思を国家の基本法に反映させる︒したがって︑国家S根幹を定める︵憲法︶ こそが人
民の直接の政治参加の痕跡を残し︑真実の民主的な意思を表すものである︒こうした人民志思の表れとしての憲法
に基づいて︑﹁通常政治﹂ において取引・交渉の結果制定された通常法が憲法の精神に合致しているかどうかをチェ
ックするのが︑いわゆる︵司法審査︶の制度である︒したがってこの制度は︑裁判所 − とりわけ最高裁判所 −
が過去の人民の意思を確認ないし表現することに他ならず︑その限りで︑たとえ日常的には人民が直接的に登場し
なかったとしても︑司法が人民の意思を代表しているとされるのである︒
マイケルマンは︑この二つの種類の現実的代表を挙げているが︑どちらに対しても好意的あるいは批判的な評価
四三
開 法(54−1)44
四四
を即座に下すわけではない︒彼は︑むしろこれら二つの現実的代表の間にある重要な相違を問題にしている︒確か
に両者とも︑現在においてであれ過去においてであれ︑︵現実︶の人民の政治参加こそが意思の代表を保証するとい
う考えに依拠している︒ところが︑マイケルマンによれば︑後者のアッカーマンの立場は︑実は根本的に﹁瞑れ﹂
た仮想的代表である︒というのも︑それは前提として過去の人民の意思に依拠しながら︑結局︑現実の日常的な場
面での人民の参加を完全に否定してしまうような結論を導いているからである︒
アッカーマンは︑政治を二つのレベルに区別したうえで︑﹁憲法政治﹂レベルに人民の意思の表れを限定し︑それ
を日常の世界においてどのようにして実現するべきかという議論枠組みで考察しているトニの場合︑日常的な政治
の場面I﹁通常政治﹂ − では︑政治は︑あ︿まで私的利益の取引▲交渉に還元きれるので︑取引・交渉という
手段を経由せずに︑政治共同体にとって真に﹁公共的なもの﹂について審議する余地がほとんど認められないこと
になるrU政治的審議は︑むしろ﹁憲法政治﹂の稀な時期に人民が意思を表明した場面か︑あるいはこうした人民の
意思の反映である憲法に基いて法律や行政行為の合憲性が審査される場面で見られるにすぎず︑ハリントンの解釈
に見られるような︑日常生活の市民のふれあいや話しあいの場面で見られることはない︒すなわち︑アッカーマン
の構想は︑現実的代表の名をかたるにしても︑現在の通常時では︑人民の意思を代表する役割は司法審査を街う裁 ′りこ 判所に限定されているのであり︑結局のところ﹁アッカーマンにとって対話の自己統治的な実践は司法府にある﹂
二とになる︒
ところが︑マイケルマンによれば︑﹁アッカーマンのモデルは︑法令を違憲とする最高裁が︑制定憲法の実現の真
︵22︶ の意味を伝︑えていることに何ら保障を与えていない﹂︒たとえ歴史的に稀な時期に人民の意思が憲法に反映されたこ
とを認めるにしても︑時代的に隔絶された最高裁の裁判官たちが︑人民の意思をまったく損なうことなくありのま
まに代表することはできない︒法の解釈の問題が常につきまとうからである︒アッカーマンは︑法の解釈の手段と
45 法を支える政治、政治を律する法
r∵ 二 して﹁物語的︵コarra︷iくe︶﹂方法を提示しているが︑この﹁物語的﹂な解釈方法がつねに唯一の正しい解決をもたら
すわけではないり たとえ裁判官たちが︑法の解釈を通して︑アメリカ人民の物語を整合的に紡ぎだすことに成功す
るとしても︑﹁私たち﹂主人公を誰にするのか︑憲法の中に何をどのような考えで定めたのか︑こうした数々の事柄
を様々な形で意味付ける物語が複数生じてしまうことは不可避である︒いったい ﹁物語が唯一であることを保障す
るものは何か﹂︒﹁誰が著者なのか﹂.﹁﹃私たち﹄ とは誰でどこにいるのか﹂︒稀な憲法的時期において︑人民がすべ
ての過去の憲法的山東事の意味を意識的に責任をもって再統合し︑変更することに関与したと想像することは︑﹁歴
史 ︵histOry︶ ではなく︑幻想 ︵faコ︷asy︶ である﹂︒結局︑憲法典が人民の直接的な意思表明であると認めたとして
も︑裁判官が憲法解釈を通してその意思を代表することはできない︒裁判官は︑それ自体としては民主的な選挙に
ょって選ばれた代表者ではないし︑その限りでは﹁私たち﹂にとって疎遠な他者である︒﹁最高裁判所は︑結局︑人 二ノ一﹂ 民が宣言した意思の代表なのではなく︑人民不在の自己統治の代表であり痕跡なのである﹂︒
こうした﹁ひどく振れた﹂仮想的代表の考え方は︑実はアリカーマン個人のオリジナルではない︒マイケルマン
によれば︑司法を担い手とした仮想的代表の考えは他の論者によっても支持されており︑その中には﹃法の帝国﹄
を著したロナルド・ドゥオーキンも含まれる︒アッカーマンの物語的解釈方法はもともとドゥオーキンに由束する
ものであり︑ドゥオーキンはアリカーマンの物語的解釈の手法をより明確な形で提示していると考えることができ
るっ
ドゥオーキンは︑政治的物語として統合的に解釈された現代の法実践の全体︑このことを﹁インテグリティとし h ての法﹂と呼んでいか︒法におけるインテグリティとは︑諸々の法的決定を倫理的一体としての共同体の歴史全体
に適合させることを意味する︒法的主張・命題は︑﹁それが共同体の法実践の最良の構成的解釈を提示する︑正義・
公正・手続的デュープロセスの原理に適合ないし由来する限りで﹂真実なものとなる︒裁判官は︑共同体の歴史と
四五
開 法(54−1)46
共同体の歴史・物語を一体として語ることのできる技能や資源さえあれば︑倫理的共同体の内部構成員のうち誰で
もよさそうなものだが︑実際にはこうした作業は一般市民に委ねられているわけではな頼ひ﹁連鎖小説﹂の続きを著
ノ
四六
いう文脈から︑その内答に全休として最良の意味を与えるような首尾草した原理を見出すことが求められる︒こ
の解釈は︑裁判官の主観的な責任と共同体の歴史の客観的な制約の結合である︒それは︑裁判官が︑以前に他の裁
判官が下した諸々の判決を長大な物語の一部として捉え︑自らの判決をそれら判決とできるかぎり適合させ︑正当
化する解釈作業である︒これはいわば﹁連鎖小説﹂ のようなものである︒こうした解釈方法は︑たとえ現実の裁判
官には不可能であるとしても︑しかしハーキュリーズという﹁超人的な知的能力と忍耐力を兼ね備えた一人の想像
上の裁判官﹂を想定すれば可能なのだ︑という︒
重要なのは︑ドゥオーキンにとって︑インテグリティは﹁市民たちの道徳的な生活と政治的な生柄を融合させる﹂ ・︑ ことであり︑カントとルソーの自由︑すなわち﹁自己立法﹂を通して実現されるn由の条件であることである︒イ
ンテグリティは﹁規範的な対話﹂を含意するのであって︑こうした物語的な解釈方法が﹁政治的な白L統治の説明
の一瓢﹂になっている︒ドゥオーキンにおいては︑裁判官︵しかも理想的=仮想的な︶ がこうしたn已統治の役割
を代行することに何の疑いもない︒この意味では︑ドゥオーキンは︑アッカーマンよりもいっそう ﹁撮れ﹂ た仮想
的代表を主張していることになるウ
マイケルマンにとって︑こうしたドゥオーキンの議論で問題であるのは︑アッカーマンのそれと同様に︑いった
い ﹁誰のインテグリティであるか﹂についてである︒確かにドゥオーキンは︑インテグリティが市民たちに共通の
正義について解釈することを求めていると言っているが︑﹁法解釈の仕事を直接に求められているのは︑結局のとこ
るヨ!・ろ
」 ヽ
市民ではない︒インチグリティとしての法の物語的理論は︑裁判官の道徳的自由の正当化であるように思われ
とマイケルマンは述べている︒ドゥオーキンの法解釈論の含意からすれば︑法のインテグリティを示すのは︑
47 法を支える政治、政治を律する法
作し︑共同体の物語に統一的な意味を与える原理に基づいて判決を下す仕事は︑あくまでも裁判官であり︑理想的
にはハーキュリーズという観念上のひとりの裁判官なのである︒したがって︑﹁ドゥオーキンの解答は結局︑仮想的
代表であるとしか私には思われない1 ドゥオーキンの見方では︑裁判官は自分の自己統治に上って私たちの失われ
た自己統治を代表し︑自分の実践的理性で私たちの対話を代表している﹂ ことになる︒ところがこうした裁判官た
′3︑h ちによる代表の考えは︑﹁私たちが価値をおくものでありえるだろうか﹂︑とあくまでも否定的な評価が下されてい
か︒
マイケルマンの理解では︑ドゥオーキンの法解釈諭はアッカーマンと同じくらい︑あるいはそれ以上に﹁握れ﹂
た仮想的代表の理論である︒ドゥオーキンは︑法的実践を倫理的共同体の歴史や物語と統合させ︑それを通して市
民たちの自己統治を実現しょうとしながら︑実際にはその作業を裁判官の特権にしてしまっているからである︒ア
ッカーマンにおいても︑ドゥオーキンにおいても︑市民か現実的に政治に参加することを要しない︒裁判官が︑過
去の人民の意思の表れである憲法に基づいて法令の妥当性を判断すれば︑あるいは以前に下された判決を正当化す
る原理と連続的・整合的な法的判断を下せば︑たとえ市民が一度たりとも現実に法の制定や創設に関与していなく
ても︑自己統治は実現しているとされる︒仮想的代表の考えのもとでは︑市民が直接的に政治参加する必要はなく︑
裁判官たちが自己統治をいわば代行してくれる︒結局︑自己統治の実現を日精すものとはい︑え︑﹁仮想的代表は︑自 ■ 已統治を否定してしまうかもしれない﹂ のである︒
マイケルマンは︑このようにアッカーマンやドゥオ2キンの理論を現実的代表ではなく﹁探れ﹂た仮想的代表と
して位置付け︑それらにかなり批判的な評価を下している︒ここでの眼目は︑仮想的代表は言うまでもなく当然に
自己統治を実現するものではないが︑一見現実的代表に見える﹁振れ﹂ た仮想的代表もまた同様に自己統治を実現
しない︑ということである︒ここには︑極めて強く現実的代表を支持する考えが前提とされていると推測される︒
四七
岡 法 し54〉1)48
四八
マイケルマンは︑こうした批判的評価の裏側に︑むしろ﹁酒場やタウンミーティング﹂ に自己統治の場があるとす
る︑﹁ハリントンを彷彿させる﹂見解を支持する考えがあると予想されようn﹂ ところが︑ここまでマイケルマンの議
けへ﹂− 論に付き合った読者はその予想を完全に裏切られることになる∩ノ マイケルマンは︑以上のような長々とした批判を 提示してきたにも関わらず︑結局ほ予想に反して仮想的代表の側に立ってしまう︒
マイケルマンは︑次のように述べている︒﹁裁判所︑とりわけ最高裁は︑市民たちが現実には辛が届かないと考え
ている︑活動的な自己統治のモデル化を自らに与えられた役割のひとつとして受け入れているように思われる﹂∵私
たちは︑﹁少なくとも理想主義的に解釈する限りで︑司法府の自己統治と同一化できるのである﹂︑と︒アッカーマ
ンとドゥオーキンに対する批判を見る限りにわかには信じがたい推論であるが︑マイケルマンは二のように裁判所
によって︑民主的な意思が仮想的に代表されることができると明言するご﹂れは﹁裁判所の盲目的崇拝の病理︵pathO−Ogy
OfcC亡rTfetisFism︶﹂であるように思われるかもしれない︒これは︑悲観的に解釈すれば︑あたかも市民か裁判官に
自己統治を手渡Lてしまうことであると思われるかもしれないが︑実はそうではないn︑裁判所を自己統治の場とす
ることについて︑楽観的な解釈がありえる︑というのである︒
こうした解釈が成り立つ理由として︑第一に︑裁判官による自己統治の自由の実現は︑他の人々の自由にとって
補足的でありえる︒確かに︑裁判官は ︵私たち︶ の中には含まれないかもしれないけれども︑裁判官は︵私たち︶
の自由を損なうことはなく︑むしろ増進するかもしれない︒また第二に︑現在のアメリカは︑ジュノヴァのような
小規模な共同体であればともかく︑巨大な共同体である以上︑人民の自己統治など実際のところ不可能である︹ 裁
判官であれ議員であれ︑いずれにせよ︵私たち︶の中から選ばれた誰かが︵私たち︶を代表をしなければならない︒
さらに第三に︑主権国家における市民たちは︑国家の機関であり究極の法の神託着であるところの裁判所の権威に
対して尊重を払っている︒とりわけ法的決定に人民の意思を反映させるのに最も通しているのは︑たとえ選挙など
49 法を支える政治、政治を律する法
いるのである︒
マイケルマンは︑こうした楽観的な解釈に基づいて︑最初に挙げたG〇ldヨan事件判決の法廷意見を以下のよう
に批判する︒法廷意見は宗教的服装の着用を禁止する空軍の規則を内部規律として尊重し空軍組織に敬譲している︒
しかしこれは︑裁判所が︑裁判官以外の﹁専門家の判断﹂に沈黙することに他ならない︒軍人が宗教上の服装の着
用を禁止されることで実現される空軍の利益と着用禁止しないことで実現される本人の利益を考慮する場合に︑こ
うした﹁専門家の判断﹂ への敬譲とは別の理由が与︑ろられなければならない︒もし裁判所がこうした判断を回避す
︵36⁚ るならば︑それは︑市民たちによって委ねられた自己統治代行の役割を放棄することに他ならないのだ︑とり 自己
統治の担い手は︑人民を代表している裁判官であり︑裁判官による自己統治の実現が︑特定の組織や機構の自立的
判断よりも優先されなければならないからである︒
こうした観点から︑マイケルマンは︑ドゥオーキン∴リーーーーJもちろん︑アッカーマンも射程に入れた上で11Iの
仮想的代表との相違を際立たせることで︑自分の仮想的代表の特徴を示している︒すなわち︑彼らの議論に﹁欠け
ているのは対話である︒ドゥオーキンの架空の裁判官ハーキュリーズは︑単独老である︒彼の物語的解釈は独自で
ある一日 彼は判例集を除いて誰とも会話しない︒彼には遭遇者がいないノ︒彼は他者なるものに出会わない﹂︒﹁結局︑
彼は人間にすぎず︑共同体そのものではないのである﹂としている︒そしてドゥオーキンが︑陪席に﹁複数性︵plura−ity︶﹂
があることに注意を払っていないことを批判する︒この﹁複数性﹂は︑︵対話︶のためにあるのであって︑司法の自
へユ7 己統治の一側面として︑私たちの自由の利益のためにあるのだ︑と︒マイケルマンの仮想的代表が︑ドゥオーキン
槻九 市民に代行して自己統治する によって選出されていないとしても︑やはり公的責任を負い︑最も社会的に信頼されている裁判官に他ならない︒ これら三つの理由から︑市民は裁判所に対して自己統治の自由を委ねているのであり︑裁判所はこの委任によって︑
﹁自己統治の代行﹂という概念が自己オ盾であるとしても 役割が担わされて
開 法(54【1)50
五〇
とアッカーマンのそれと異なるのは︑まさにこうした陪席の ﹁複数性﹂を認めており︑この ﹁複数性﹂ によって自
己統治のひとつの条件としての ︵対話︶ の余地を認めていることにある︑というわけである︒
マイケルマンは︑この点について︑さらに踏み込んだ議論を展開していないが︑陪席の﹁複数性﹂ということに
よって何を意味しようとしているのだろうか︒それは文字通り︑陪席に裁判官が複数いることを意味しているのだ
ろうか︒もしそうならば︑裁判所において複数の裁判官たちによって判決をめぐる審議が成立しさえすれば︑人民
の意思が仮想的に代表され︑自己統治が代行されるというのだろうか︒マイケルマンかドゥオーキンを批判してい
たのは︑﹁ハーキュリーズ裁判官﹂がただひとりであることでしかないのか︒問題は︑たんに裁判官によって仮想的
に代表されるかどうかことではな︿︑ひとりの裁判官個人によって仮想的に代表されることであって︑複数の裁判
官によって仮想的に代表されれば︑自己統治にとって十分であるのか︒つまり問題は︑現実的代表か仮想的代表か
ではなく︑仮想的代表の形態が単数であるか複数であるかにすぎないのか︒複数の裁判官がいることさえ認められ
れば︑裁判所を自已統治の唯一の場であるとすることについて︑マイケルマンは︑ドゥオーキンやアッカーマンに
同意しえるのだろうか︒結局︑マイケルマンは︑アッカーマンとドゥオーキンの仮想的代表を批判しながら︑自ら
も形を変えた仮想的代表を支持するというのか︒だとしたら︑アッカーマンとドゥオーキンの立場が﹁ひどく振れ
た﹂仮想的代表とされるならば︑マイケルマンの見解は﹁二重に振れた﹂仮想的代表ということになろう︒マイケ
ルマンが︑最高裁に複数性と対話を与えていることの﹁真意﹂をどのように考えればよいのか︑これを一貫した考
えであると解釈しなければならないならば︑まったく見当がつかなくなか︒
もちろん言うまでもなく︑マイケルマンが仮想的代表の考えを採用するならば︑当然マイケルマン自身が提示し
た批判が跳ね返ってこよう︒すなわち︑﹁最高裁判所は︑人民不在の自己統治の﹃代表﹄にすぎない﹂のであり︑﹁裁
判官は自分の自己統治によって私たちの失われた自己統治を代表するにすぎない﹂のである︒マイケルマンは︑ア
5t 法を支える政治、政治を律する法
マイケルマンは︑必ずしも以前の見解を完全に改めたというわけではないのだろうが︑しかしその後仮想的代表
の主張を掘り下げて展開するよりも︑むしろそこから次第に枚を分かってきているように思われる︒彼は︑BOWerS
′14﹂ く.Hardwick判決事件を契機に︑当判決において︑同性愛行為を禁止したジョージア州法が合衆国憲法修止一四条
に違反しないとした法廷意見に反対して︑共和主義の立場から︑以前とはやや論調の異なる立憲主義理論を展開す
?二 るようになか︒ここでマイケルマンが仮想的代表の理論からいかに離反してきたかを検討したいCただしマイケル
マンの叙述は︑以前にもまして錯綜しているので︑以下ではマイケルマン自身の議論の道筋からやや距離を取って︑
それを再構成した上で検討しておこう
マイケルマンは︑共和主義の立場に立脚して︑﹁私的なもの﹂をかなり独特な仕方で理解する︒彼は︑公/私の分
離論に基づいて︑﹁私的なもの﹂を︑公共性の領域から独立・隔離されるものとして︑また保護されるものとして捉
五一 ッカーマンやドゥオーキンに向けた批判を︑自ら甘受する二とになるだろうか︒
マイケルマンの議論展開を忠実に辿っていけば︑マイケルマンが仮想的代表の複数性を問題にしているのは︑や
はり的外れであるように思われる︒マイケルマンが実際どこまで意識的かは必ずしも明らかではないが︑こうした
議論展開に無理があると反省してか︑これ以降の彼の憲法理論は︑仮想的代表から次第に遠ぎかってきているよう
に思われる︒それは︑むしろ現実的代表の考えに︑とりわけ﹁飲み屋やタウンミーティング一に自己統治の期待を
かける﹁ハリントンを彷彿させる﹂見解に近づいていく︒こちらの方が︑マイケルマンの﹁真意﹂にそくした議論
であると考えることができるであろう︒
﹁刑
四 マイケルマンの法理論0 − 法生成的政治
同 法(54−1)5Z
五二
えない︒彼は﹁私的なもの﹂をけっして所与の実体として捉えない︒政治的審議の対象として︑はじめから﹁私的
なもの﹂であるという名自で排除されるような事項はありえない︒ただ公的審議のアジェンダに載らないものが︑
結果として︑私的な領域に属するものとみなされているにすぎないゥしたがって後にとって︑﹁私的なもの﹂とは︑
たんに結果とLて﹁非公共的なもの﹂あるいは﹁公的ではないもの﹂に分類されるにすぎないのである︒
マイケルマンは︑このように﹁私的なもの﹂を脱実体化することによって︑﹁公的なもの﹂と﹁私的なもの﹂との
間の関係を抜本的・根底的に捉え直す︒従来︑プライバシーの権利は︑公的保護の対象としてのみ理解されてきた ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︐︐︑︑︐︑︑︑′JY が︑しかしそれは﹁政治的な権利﹂として理解されなければな︑りないい確かに︑プライバシ1の権利を﹁政治的な
権利しとして解釈する彼の理解は︑かなり奇妙で突飛なものにみえる︒ ここでの彼の趣旨は︑今まで﹁私的な場﹂
とするのではなく︑もし とされてきた領域を︑たんなる公的保護の対象1−−二二には︑公/私の分離がある ー
かすると何らかの政治的影響を与えることになるかもしれない人間関係の発達の場として捉えることにある∩ こう
して︑﹁私的なもの﹂と﹁公的なもの﹂との新たな関係においては︑私的領域における自由は︑目的・対象としてで
はなく︑政治的な関係の﹁はじまり﹂としてみなされることになかりこのように﹁個人的なもの﹂を﹁政治的なも
の﹂ の出発点として公私の関係を捉える方法は︑彼の共和主義的な憲法理論の骨幹をなしているっ
このような観点から︑マイケルマンは︑Hardwick判決における最高裁の意見に反対する︒最高裁の意見は︑同
性愛行為を禁止する州法が合衆国憲法修正十四条のデュー・プロセス条項に反せず︑したがって州が同性愛行為を
禁止することを実質的に認めている︒しかしこれは︑マイケルマンによれば︑同性愛行為におよぶ人たちに彼ら彼
女らのシティズンシップを否定することに他ならない︒それは︑彼ら彼女らが政治的共同体の意思形成プロセスに
参加する法的権利を剥奪するばかりか︑彼ら彼女らの性的選好やアイデンティティを表明する機会を実質的に喪失
させることで︑彼ら彼女らの道徳的地位をも敗めるものである︒もちろん︑最高裁の意見に反対するには︑同性愛
53 法を支える政治、政治を律する法
行為者には州政府の介入を禁じ︑私生活において放っておかれる1プライヴァシーの権利﹂がある−−修正一四条
から導かれる1と主張する道もあるだろう︒しかしマイケルマンにとって︑この権利にはただたんに﹁放ってお
かれる﹂以上の意味があるのであって︑同性愛行為をも含む多様な私的関係は︑公的領域にとっても関連性のある︑
政治的関係の発起点であるご﹂のような公私の捉え方からすれば︑最高裁望息見は︑同性愛者から政治的審議に対
する影響力を奪い︑彼らを審議プロセスに算入・包括しようとする意図を否定する︑反共和主義的な結論であると
︹46し して受け入れられないのである︒
このような公私関係の独特な捉え方は︑Hardwick判決における最高裁の意見への批判の根拠であるばかりでな
く︑マイケルマンの憲法正統化論の全体を特徴付けている︒彼の議論で特徴的であるのは︑それが︑政治共同体の
基本法たる憲法が︑﹁私たち﹂という語によって想起される身近な人たちの審議的実践によって−−すなわち︑公
共的な法や社会制度が︑﹁私的﹂関係の中での対話やコミュニケインヨンによって1下から支えられるというモ
チーフによって彩られていることである︒彼は︑民主的な政治が︑公共的な規範的言明の蓄え︵fu已︶を再集=想
起する︵r?C︒︼訂t︶ことを基盤とし︑規範的に自己命令的な政治的共同体として歴史を描く規範的言明の積み立て
︵d2pOSit︶を背景とするものであることを強調する︒この蓄えや積み立てという語を用いて彼が暗示しているのは︑
憲法の妥当性を享える政治的審議が︑底辺から−−−公的審議でアジェンダ化されてこなかった様々な記憶︑共通の
経験︑声なき声から ー なされるべきであるという彼の規範的主張である︒実際︑マイケルマンが描く政治的審議
のイメージは︑選挙によって選ばれた議員たちによる公式的な手続に則った討論などではなく︑それよりはるかに
裾野の広い日常的な対話である︒彼は︑全体のパラダイムが社会の主流から外れた他者から変革される可能性を示
唆しながら︑周縁の人々・−−−すなわち従来︑公共圏から除外されてきた人々 − に大きな変化をもたらす潜在力
︵瀾︶ を期待する︒すなわち︑後にとって︑周縁から対話に参加する老たちを審議のプロセスの中に含め︑今まで公の場
五三
同 法(54 1)54
‖
五四
から無視されてきた声を法的ドクトリンの中に反映することが民主的な政治の役割である︒
こうして︑政治を担う主体は︑主に︑私的関係にある私たち市民であって︑私たちから疎遠なところにいる制度
圏の公職者ではないことになる︒このように政治㌫∵王体が市民にあるとしている点は︑仮想的代表の考えと決定的
に異なっている︒仮想的代表の考えにしたがえば︑たとえば代表者たちが法案を審議し可決するだけで︑あるいは
裁判官が過去に人民の意思が表明された証であるところの憲法に基づいて法令の合憲性を判断するだけで︑人民の
意思は十分に代表されている︒ところがマイケルマンの考えでは︑それだけでは民主主義的な統治を実現すること
にはならない︒﹁裁判官﹂ではなく﹁市民﹂が何らかの仕方で政治的審議のプロセスに現実に関与しなければ︑白山
は一幻想﹂や空想でしかありえないからであるリ マイケルマンにとって︑法が﹁公共的﹂なものとして受容可能に
なるのは︑疎遠な公職者ではな︿︑﹁私たち市民﹂ が現実に代表していることが必要なのであるU
マイケルマンの議論の図式からすれば︑裁判官をはじめとする公職者たちの役割は︑むしろ私的関係における政
治的な対話を活発化することによって︑政治的審議の発生と維持に役立てることであを裁判官は︑最終的な法的
判断を下すことにより︑市民たちの潜在的な見解を統合・代弁するというよりも︑むしろ法的判断を暫完的な見解
として例一小することにより︑問題を周知させ︑論点を明確化にし︑参加のチャンネルを広げることで︑市民たちの
さらなる対話やコミュニケイションを促進・助成しなければならない︒この場合︑法廷は︑政治的論争に対して中
立的で不偏な立場にいるのではなく︑むしろ正義のルールそれ自体を争い︑再考し︑改定するための﹁民主的正当
︵帥ノ 化の公共的参加プロセスの場﹂と化すし市民による政治的審議は︑裁判所から独立・隔稚された場で行われるので
はなく︑むしろ法廷の場を通して行われる︒裁判は︑当事者の権利義務関係や刑罰の有無の確定作業に制度的に限
定されるとしても︑裁判所で扱われる当事者?王張や論点を示し︑あるいは適に世論や公共的意見から様々な形で
フィードバックを受けることにより︑社会全体における政治的論争をシ︑こユレイ卜する︑いわば審議の模擬実験の
55 法を支える政治、政治を律する法
場となるのである︒
さらに︑現代の政治社会においては︑裁判官をはじめとする公職者が憲法判断や解釈に携わらざるをえないとし
ても︑彼らの判断は︑多様な意見やパースペクティブをもつ社会の構成員たちの激しいチェックのもとに晒されな
ければならない︒﹁体制の基本法の扱いを︑民主的政治の批判的厳格さに継続的かつ信用できるように晒し続ければ︑
全員が体制に従い︑その体制への尊重から憲法を遵守することになるだろ︑γ﹂︒憲法判断に関与し︑そ望貝任を負う
のは︑公職者ではなく︑最終的には市民である︒公職者を市民の監視の下におくことで︑法に関わる諸々の判断は︑
究極的には民主的になされたと受け容れられるのである︒
したがって︑マイケルマンが底辺からの対話がなされる場として着目するのは︑立法・行政・司法という公式的 ヽヽヽヽヽヽヽヽ な機関からなる領域−1−制度圏 −ではなく︑むしろ制度圏の枠外にある市民社会の諸制度に他ならない︒こう
してマイケルマンの考えは︑アッカーマンやドゥオーキンのような﹁顕れ﹂た仮想的代表の見解ではな︿︑﹁ハリン − トンを彷彿させる﹂現実的代表のそれに近づいてくる︒すなわち︑政治的審議の場として重視されるのは︑﹁タウ︑ノ・
ミlアィングや地方自治体︑市民団体やボランティ7団体︑社交クラブや余暇クラブ︑公立学校や私立学校︑あら
ゆる種類の経営者・管理職・首脳部集団︑職場や作業現場︑催しものや路上生活などで生じる様々な出会いや対立︑
ふれあいや討論﹂である︒これらは︑﹁当然ながら代表者の領域に伝えられ﹂るので︑共和主義的な自己統治と民主
︵53一 的な政治の ﹁源泉と回路の一つとして注目されなければならない﹂ ことになるのである︒
マイケルマンの議論は︑つねに︑これらの周縁の人々をも含む︑連帯的な人間関係が様々な場を通して積み重ね
てい︿政治的な対話が︑自らの社会生活を枠付ける憲法に対する遵守に昇聾するような審議のプロセスを描き出す︒
封︶ 彼は︑民︑宇主義の理想あるいは共和主義の伝統を︑﹁法生成的︵jurisgenerati完︶﹂な政治として解釈する︒この﹁法
︹55︶ 生成的﹂という語は︑一見奇妙な形容詞である︒その意味するところは︑法を制定あるいは創出する蕃議の中で︑
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