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統一学校論 : 全面発達理論からの一試論

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Academic year: 2021

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(1)Title. 統一学校論 : 全面発達理論からの一試論. Author(s). 門脇, 正俊. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 20(2): 44-53. Issue Date. 1970-01. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4597. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 (第一部C). 第 20 巻 第 2 号. 5年1月 昭和4. 統一学校論-全面発達理論からの一試論- 門. 脇. 正. 俊. 北海道教育大学岩見沢分校教育学研究室. Masat。shi KADOWAKI: Uber der Einheitsschu1e iger Entwicklul l lg betrachtet -- seit -- Aus der Theorie al. は じめに 第二次大戦後, 西欧諸国において, 中等教育の制度改革が叫ばれ実施されてきてから久しいの にもかかわらず, 中等教育は, 現在なお改革の途上にあり, その結論を得る に至 っ ていないよう である. それは, 中学校 系統と小学校系統という歴史 的にそれぞれ別個のものとして発 達してき た二つの学校 系統を統 一することのむ ずかしさをあらわしているといえよう. 加うるに, 中等教 育 が, 実生活と高等教育の両方の接点にあり, そしてまた個人差 が顕在化しがちな青年期の教育 圧力によっ て, ますます渋滞を余儀なくされ である ために, 統一への努力が, 多様化を要求する ・ て いる と い え よ う. い や, 渋 滞 を 余 儀 な く さ れ て い る と い う よ り, 説 得 の 論 理 を も ち え な い で い る と い う べ き か も し れ な い.. こう した事態は, わが国においても類似している. 教育の機会均等を旗印に, 戦前の複線型学 校制度を破棄し, 6 。3制という, 単線型学校制度を樹立 したはずの戦後日本の学校制度が, そ の実施の過程に おいて, 後期中等教育段階を中心に, しだいに多様化への道を歩まざるをえなか っ たことは周知の通りである. すなわち, 新制高校発足時に目標とされ たはずの総合制高校の理 ) が単なる普通科, 職業科-併置の高校に歪曲され, やがて普通高校と職業高校の分離へ, さら 念1 には, 普通高校, 職業高校それぞれにおける細分化へと進行してきた戦後高校教育の歴史がそれ である, それの意味するものも, 結局は, 異なる目的の もとに異なる階級に対応して発達してき た戦前の伝統 的な二つの学校系統, つまり初等教育以後の普通学校系統と職業学校系統を統一す ることのむずかしさに他ならない, 加うるに, 戦後の教育改革が多分に上からの改革という性格 をもたざるをえなかっ たために, そ してまた, 二つの学校系統の統 一 を日指したはずの総合制高 校の理念や 具体像が必ず しも明確でなかっ たために, 伝統的学校制度の破棄は, ますますむずか しかっ たといえよう, このむ ずかしさは, 高校教育大衆化の進行に伴っ て現象している高校での ) という厳 しい現実の中で, ますます深刻化してきている. すなわち, いわゆる 学力差 の顕在化2 3 ) は, ますます説得力を有して きているようにも思われる のである. 「多様化の主張」 こ の よ う な 事 態 を, わ れ わ れ は, 一 体, ど の よ う に 考 え た ら よ い の で あ ろ う か. そ の た め に は. 学校制度統一の理論の再検討も, その一方法として要請されるであろう. 1, 伝 統的統一学校論 4- -4.

(3) . 統一学校論-全面発達理論からの一試論- 学校制度統一の理論は, 19世紀末から20世紀にかけて, ヨーロッ パ の近代国家, とりわけ ドイ ) Einhe i ツ と フラ ンス に お い て 展 開 さ れ た 統 一 学 校 運 動4 bewegung の 中 で 深 め ら れ そ の t sschul ,. 後の学校制度の発展に一つの方向を与えてきた, それは, 初等学校を統一し中等教育への機会均 等を保障していく際の指導理念にはなりえたが, しかしなから, 中等段階の諸学校の統一に対し ては必ずしも明確な方向を示し得ず, 高等教育への道は伝統的中等学校 (ギムナ ジウ ム Gyl l l l la- i L s um, リ セ ー yce6 等) への進学を中心に考えられた, その際, 高等教育に対しても機会均等 の理念は決して放棄されていたわけではなく, 伝統的中等学校への機会均等を保障す ることによ って, 能力あるものには, 高等教育への道が開かれると考えられていたのである. 例えば, 「輝 ) と評価される1919年のワイマール憲法の教育条項においても 民衆学校 5 かしい統一 学校宣言」 , 1ks VO schul e と 並 列 し て 存 在 し て い た ギ ム ナ ジ ウ ム へ の 予 備 学 校 Vor schul e の廃 止が規 定 され. (第147条) e) 終 了 後 は, 「何 れ の 学 校 に ど の 児 童 を 入 , 共通の初等教育 (共通学校 Grundschul 学させるかは, 当該児童の素質と志向を基準とすべきであっ て, その子の両親の経済的および社 会的地位, または宗派を基準としてはならない」(第146条)という教育の機会均等宣言のもとに 「多様な」 中等教育に選別されることが前提とな っている, 従来の統一学校の理論が, このような論理を打ち破 って, 中等教育制度の統一 を推し進める力 となりえてこなかっ た原因 (教育理論の側の) は, それが単なる教育機会均等の保障原理として 把握されていたことにあっ たといえないであろうか. そのことが, 教育機会均等をも, 形式的な ものあるいは中途半端なものとし, それを実質的にあるいは完全に保障しえない原因にもなっ て いたと思われるのである, 統一学校の理論が, 単なる教育機会均等の保障原理として把握されて いる限り, それは, 能力の個人差を強調し, 高等教育機関と生産労働への準備の分化を当然のこ と, あるいは, やむをえないことと考える多様化の理論を圧倒するほどの力をもちえないであろ う, も と も と,. ドイ ツ や フ ラ ンス で 展 開 さ れ た 統 一 学 校 運 動 は, 民 主 主 義 と ナ ショ ナ リ ズ ム と い う. ) 近代国家を支える二つの原理に立脚していた6 . すなわち, 前者は教育制度の民主化つまり教育 の機会均等を要求する原理として, 後者は国民精神を統合するための国民教育制度の樹立を要求 する原理として, 統- -学校運動を推し進める力となっ ていっ た, しかしながら, 統 一学校運動が 初等段階から中等段階へと発展するにつれて, ナショ ナリズムは, 教育制度改善の指導原理とい うより, 一 部教育内容 (国語, 歴史等) 改革の問題として, 統一学校運動とは切り離して理解さ れ る よ う に な っ てい っ た, そ れ は, ナ シ ョ ナ リ ズ ム に お け る 主 体 が 資 本 主 義 社 会 に お け る 資 本 家. 階級であっ たために, 国民精神の統合を国民の諸階級への分 裂という状態の克服にまで発展させ ) る意欲をもちえず7 , 制度的に は初等段階の統 一で満足しえたからであると指摘できよう. つま り, 国民が階級分裂している限り, 階級分裂に対応した二 つの学校系統 の残存は不可避となるの である, それに ‐対して, 教育の機会均等を要求する民主々義の場合は, それを推し進める主体が むしろ労 働者階級を中心とする民衆の側にあっ たために, そしてまた資本家階級の側から ・も, 階 級分化に対応した学力差の存続に対する確信のもとに, 換言すれば, 経済的不平等つまり家庭に おける教育投資の不平等の前提の上に, 妥協が行なわれたために, その後も学校制度改善の指導 原理 となり続けてきた, しかしながら, そこでの機会均等に対する理解は, 伝統的学校つまり大 学を頂点とする普通学校系統へ の機会均等が支配的であり, 従 っ て, 資本家階級の一員になるた め の 機 会 を 均 等 に し て い く も の に と ど ま ら ざ る を え な か っ た と い え よ う. こ の よ う な 事 情 の た め. か, 統 一学校の問題は, 大学への機会均等を保障する単線型学校制度設立の問題として単純に理 一 45 -.

(4) . 門. 脇. 正. 俊. 解され, 大学への準備教育と生産労働への準備教育を統一して行なう学校制度設立の問題として は理解されていないようである. すなわち, 普通学校 系統における大学への準備教育と職業学校 系統における生産労働への準備教育が, それぞれに もっ てきた普通教育偏重 (労働蔑視) と普通 教育不足 (労働への埋没) という欠陥を克服しな がら, 新しい人間を形成していく学校制度設立 の問題としては理解されていないようである. 単なる機会均等原則に立脚した統一学校論におい ては, 資本家と労働者への国民の分裂という現状を克服していく方向が乏しい, ナショ ナリ ズム における国民精神の統合が, 国民のこのような分裂の克服へと発展せず統一学校運動から姿を消 していっ たことも, 統 一学校の理論を単純化し, その単純化が, 個人差の存在 (頭脳労働と身体 労働にそれぞれ適した国民能力の存在, 結局は資本家階級の一員になれる能力の持主と労働者階 級の一員にしかなれない能力の持 主の存在) を強調する, 現代のいわゆる 「多様化の主張」 に対 して, 説得力をもちえない理由, 教育の機会均等を実質的 に保障しえない原因になっているとい えよう. 結局, 統 一学校の理論は, 現実の生徒 の個人差と深い関 連を有しているはずの, 国民の 階級分裂という現状を克服していく問題と結びつけて検 討されてはじめて, 新たな説得力をもち うるようになる と思われる, ナ ショ ナリ ズムにおける国民精神の統 合から国民の階級分裂の克服 への発展は, ナ ショ ナリズムに おける主体の転換を意味し, 教育の機会を要求してきた主体に一 ) 致 し て い く こ とは い う ま で も な い8 .. ところで, 国民の階級分裂を克服していく教育理論の側の努力は, 国民の全面発達を実現して いく 教育論の展開に他ならないように思われる. なぜなら, 国民の階級分裂は, 結局のところ, 管理者と被管理者への分裂, あるいはまた 頭脳的な仕事の従事者と身体的な仕事の従事者への分 裂として現象しているからである. 「心を労する者は人を 治め, 力を労するものは人に治められ 9 ) とい る. 人に治められる ものは人を養い, 人を治めるものは 人に養われる。 天下の通 義なり」 う孟子のことばは, そのような事情を端的に 指摘したものに他な らない, 「心を労する者」 と, 「力を労する者」 への分裂は, 頭脳と身体の両方を有し, 本来 「心と力を統一的に労する」 はず の人間からしてみれば, 結局, 両方の一面的な発達に他ならず, 当然, ひとりひとりの国民の一 面的でない発達, つまり全面発達が要請されるからである. 孟子の指摘する 「天下の通義」 とは 階級分裂した社会における通義に他ならない, このよ うな 「通義」 を通 義でなくするための理論 こそ, 通 義に適っ た理論といえよう. 階級分裂の止揚と結 合して, 全面発達実現の方向 を指し示 した マ ル ク ス 主 義 の 登 場 は, ま さ に こ の よ う な 意 味 で 注 目 に 価 す る と い え よ う.. しかしながら, 従来のマルクス主 義教育学の研究においては, 全面発達の概念が必ずしも明確 ではなく, 単なる多技主義と同じ意味で用いられるこ とも少なくない. それゆえ, マルクス 主義 の創始者, マルクスとエンゲルスの全面発達 論について, 若干の考察を行ない, そのあと, その 全面発達論に立脚 した統一学校論を論じてみるこ とにしたい, ロ. マ ル ク ス, エ ン ゲ ル ス の 全 面 発達 論. 全面発達とは何 か, この問題を 考察するためには, 何より もまず, 全面発達す べき人間とは何 か, という問題を考察 しなければならない. 人間とは何か, すなわち人間の本質を明らかにする問題は, 一 般には, 人間と人間以外の動物 と の 間 の 差 異 を 明 ら か に す る 問 題 と し て 理 解 さ れ る, マ ル ク ス と エ ン ゲル ス は, こ の 問 題 に は っ. きりとした解答を与えた. すなわち, 人間と動物の本質的差異は労働にある, と. この見解は, マルクスと エンゲルスの全思想を貫く基本的見 解であり, 彼らの多くの著作の中で言及されてい - 46 -.

(5) . 統一学校論-全面発達理論からの一試論- るが, 特にエンゲルスの論文 「猿が人間化するにあたっ ての労働の役割」 の中で明解に説明され て い る,. 「労働は人間生活全体の第一 の基本条件であり, しかもある意味では, 労働が人間そのものを l o ) という指摘で始ま も創造したのだ, と言わなければならないほ どに基本的な条件なのである」 るその論文は, 労働が人間を動物界の上に高めた 原因であり, 労働の過程で人間 たる属性が発達 してきたことを具体的に説明 しながら, 人間と動物との本質的差異を, 次のように結論 づけてい る,. 「要するに, 動物は外部の自然を利用 するだけであっ て, たんに彼がそこにいあわせるこ とで自然のなかに変化を生じさせているだけなのである, 人間は自分 がおこす変化によっ て 自然を自分の目的に奉仕させ, 自然を支配する. そしてこれが人間を人間以外の動物から分 ID かつ最後の本質的な区別であっ て, この区別を生み だすものはまたもや労働なのである」 このように労働を通して動物より人間へと移行し, すでに人間たる属性を賦 与された生物は, 引き続き, 労働を通して自己を発達させていく, この, すでに人間たる属性を賦与された生物を 前 提 と しな が ら, マ ル ク ス も, 人 間 の 本 質 と し て の 労 働 過 程 に つ い て 次 の よ う に 説 明 し て い る.. 「労働は, まず第一に, 人間と自然とのあいだの一過程である, この過程で人間は, 自分 と自然との物質代謝を自分自身の行為によ っ て媒介し, 規制し, 制御するのである, 人間は 自然素材に対して彼自身一つの自然力として相対する, 彼は ・ , 自然素材を, 彼自身の生活の ために使用されうる形態で獲得するために, 彼の肉 体にそなわる自然力, 腕や脚, 頭や手を 動かす. 人間は, この運動によっ て自分の外の自然に働きかけてそ れを変化させ, そうする 1 2 ) ことによっ て同時に自分自身の自然を変化させる」 ここで説明されているように, 労働の過程で人間は自然を変革し, 同時に自分自身を変革し発 達さ せていくのである。 しかしそれだけではない, その労働の過程は, 意識を伴う過程, 換言す れば, 身体と頭脳を統一して働かせる過程でもあるのである, すなわち, 「労働者は, 自然的なものの形態変化をひき起すだけではない, 彼は, 自然的な もののう ちに, 同時に彼の目的を実現するのである. その目的は, 彼が知っ ているものであり, 法則 として彼の行動の仕方を規定するものであっ て, 彼は自分の意志をこれに従わせなければな ら な い の で あ る. そ し て, こ れ に 従 わ せ る と い う こ と は, た だ そ れ だ け の 孤 立 し た 行 為 で は. ない, 労働する諸器官の緊張のほかに, 注意力として現われる合目的的な意志が労働の継続 1 3 ) 期間全体にわたっ て必要である」 合目的的な意志を伴う活動 のである. このように労働は, , つまり身体だけでなく頭脳を も働か せる活動なのである, このような労働を通して人間の身体と頭脳はさらに発達してのである, ま さに, 人間の身体と頭脳は, 労働を通して発達し, 労働の中に統一されていくということが強調 さ れ てい る と い えよ う.. しかしまた, 労働の過程は, 人間は自然との間の過程であるだけでなく, 同時にまた彼と社会 との間の過程でもある. すなわち, 「労働 における自己の生の生産にしても, 生殖における他人の生の生産にしても, およそ 生の生産なるものは, とりもなおさず或る二重の関係として-- 一面では自然的関係として 他面では社 会的関係として--現われる。 ここで社会的というのは, どのような条件のもと であれ, どのような仕方においてであれ, そしてどのような目的のためであれ, ともかく 幾 1 4 ) 人かの諸個人の協働という意味である」 - 47 -.

(6) . 門. 腐 る. 正. 俊. のである. このように, 労働の過程は必ず社会的な性格をもつ. 人間は, 孤立した個々の存在と しては全く無力であり, 征服するどころか滅ぼされてしまう. 協力してのみ生存し, 労働するこ とができるのである. 協力して行なう労働が言語を生ぜしめ, その言語が頭脳を発達させてきた ことはいうまでもない, さらに, このような労働の社会的性格は直接的協力だけによるものでは ない. それは, 生産力の発展とともに拡大される間接的協力 (分業, 伝達) を通してますます深 められるのであり, そのことがまた人間をますます社会的にしていくのである. 人間は社会全体 の労働の成果 に他ならない, このように, 労働は, つねに 人間と人間との間の一定 の関係の中で行なわれ, 人間による自然 界に対する頭脳と 身体の統一的働きかけという側面と同時に, 人間相互の間の働きかけという側 面を含むのである, つま り, 労働 (の発達) は, 人間の頭脳と身体の発達, しかもそれらの統 一 的発達の基礎であると同 時に, 人間と人間の間の関係, すなわち人間集団とその発展の基礎でも あるのである, 人間の本質としてのこのような性格は, 人間の発達に対して, 頭脳と身体の統一 性, そ してまた集団性を不可欠なものとして要求するのである, と こ ろ で, マ ル ク ス や エ ン ゲル ス は, 人 間 の 本 質 と し て の 労 働 一 般 を 考 察 し た だ け で は な か っ. た. 彼らは, 資本主義における労働, とくに手工業から近代的大工業に発展して行く状況におけ る労働の分析を行ない, 同時にまた資本主 義的生産様式における人間の崎形化の状況をつぶさに 認識することによっ て, 人間の全面発達の必要性を痛感したので もあっ た, -つの活動を発 達させるため 「労ィ動が分割 されるとともに, 人間もまた分割される, ただ- に, 他のす べての肉体的および精神的能力 が犠牲にされる. 分業が進むにつれて, 人間のこ のような発達の阻害はますます強まる, ……大工業の機械は, 労働者を一個の機械たる地位 5 ) か ら, 一 個 の 機 械 の た ん な る 付 属 物 へ と 落 し て しま う」1. すなわち, 資本主義社会においては, 頭脳労働と身体労働の分離を基礎とした分業が, もっとも 残酷な, もっとも非人間的な形態に達する, 労働者は, もはや以前の職 人のように, 完全な製品 を作るのではない, 労 働者は, 機械の単純な 一部門を操作するだけなのである, このような単純 な操作は知性への要求をほとんど提起しないから, 労働者の頭脳の発 達は著 しく制限される, ま た労れ働者は, 身体的にもかたよ っ た発達しかできない, 何故なら, 彼はつねに同 じような動きを しな け れ ば な ら な い か ら で あ る.. しかしながら, このような労 働者の崎形化の状況を生み出したものは, 大工業の本性そのもの ではない. マルクスによれば, 労働の資本主義的形態こそが, 大工業の本性と矛盾するにすぎな いのである. すなわち彼は, 大工業の本性こそは, 労働の転換, 機能の流動, 従 っ て労働者の全 面的な可動性を不可欠な条件とするものであることを明ら かにしたのである, すなわち, 「近代工業は, 一つの生産過程の 現在の形態をけ っ して最終的なものとは見ないし, また そのようなものとしては取り扱わない, それだからこそ, 近代工業の技術的基礎は革命的な のであるが, 以前のすべ ての生産様式の技術的基礎は本質的 に保守的だっ たのである, 機械 や化学的工程やその他の方法によっ て, 近代工業は, 生産の技術的基礎とともに労働者の機 能や労働過程の社会的結合をも絶えず変革する, したが っ てまた, それは社会の中での分業 をも絶えず変革し, 大量の資本と労働者の大群とを 一 つの生産部門から他の生産部門へと絶 えまなく投げ出 し投げ入れる, したがっ て, 大工業のォゃ性は, 労働の転換, 機能の流動, 労 6 ) 1 働者の全面的可動性を必然的にする」 と. マルクスは, このようして大工業の本性が, ある部分的機能の単なる担い手たる部分労働者 - 48 -.

(7) . 統一学校論-全面発達理論からの一試論- におきかえるに, そのものにと っ ては種々の社会的諸機能が相交替する活動様式であるような全 面的に発達した個人をもっ てくることを, 客観的に要求するものであることを, つまり, 「生死 の問題」 とすることを明らかにしたのである, 大工業の本性の分析から, 人間発達にお ける可動 性, あるいは多面性という資質 が導き出される, 以上考察してきたように, マルクス 主義の創始者 --マルクスとエンゲルス一一は, 人間の本 質を労働に見出し, その人間の本質としての労働の分析から, 人間の本質の全面的発現 方向-- 全面発達の方向--を明らかにした, ここで, 以上の考察から明らかになったことをかんたんに 整理してみよう, まず第一に彼らは, 人間の本質は労働にあることを明らかにした, ここから, 人間の発達にお ける労働性が指摘され, 人間は労働的人間でなければならないことが強調される, 第二に, 彼らは, 人間の本質としての労働は頭脳と身体の統一的活動であることを明らかにし た, ここから, 人間の発達における統一性が指摘され, 人間は統一的人間でなければならないこ とが強調される, 第三に, 彼らは, 労働一般を分析しただけでなく, 大工業下の労働を分析し, 大工業下の労働 は, 流動的かつ総合的活動であることを明らかにした, ここから, 大工業下の人間の発達におけ る可動性が指摘され, 大工業下に生きる人間は, 可動的人間でなければならないことが強調され る,. 第四に, 彼らは, 人間の本質としての労働は, 集団的活動であることを明らかにした. ここか ら, 人間発達における集団性が指摘され, 人間は集団的人間でなければならないことが強調され 7 ) る1 ,. 以上見てきたような諸点から, 人間の全面発達は, マルクスやエンゲルスによる労働の分析を 通して, 人間の本質の全面的発現, すなわち, 労働性, 統一性, 可動性, 集団性の総合的発達と して理解されるのである. したがっ て, 全面発達した人間とは, 労働性, 統一性, 可動性 集団 , 性の資質を総合的に発達させた人間, 換言すれば, 労働的人間, 統一的人間, 可動的人間, 集団 的人間の総合体として理解されよう, し か し な が ら, こ の よ う な 全 面 発 達 に つ い て の 理 論 を マ ル ク ス や エ ン ゲル ス に 展 開 さ せ て い っ. たものは, 労働一般についての分析に対する単なる 好奇心では決してなく, すでに指摘したよ う に, 現実の資本主義社会における人間発達の崎形化 という事実に対する真剣な対決に他ならなか った, 彼らを対決せしめ ていっ た資本主義社会における人間発達の崎形化の状況を, 以上考察し てきたことばで表現す るならば, 次のように現象してきたと指摘できよう, (労働性) ごく少数の非労働的人間と多数の労働的人間の存在 (統一性) ごく少数の知的人間と多数の身体的人間の存在 したがって, 頭脳と身体を統一して働く本来的意味での労働的人間は少ない.. (可動性) 固定的, 部分的人間の圧倒的存在 大工業の本性に適応できる可動的人間は少ない.. (集団性) 非集団的人間と没集団的人間の圧倒的存在 労働によって成立し労働を発展させていく集団の自覚的構成員としての本来の意味で の集団的人間は少ない. 人間集団における階級的・政治的抑圧←→解放 資本主義社会においては人間集団は階級集団であるから, 集団的人間は, 階級的, 政 治的人間に他ならない, 抑圧←→解放の増大とともに自覚されてくる,. - 49 -.

(8) . 門. 脇. 正. 俊. 結局, このよ うな現象を生ぜしめてきた原因は, 資本 主義的生産関係に, つまり国民が資本家 階級と労働者階級に分裂している 結果に他ならない, しかしながら, 国民 が階級分裂している原 因もまた, 教育が固定的, 部分的な人間の, 再生産を行なっ てきたことに もあるといえるのであ る. それゆえにこそ, 国民の階級分裂を教育理論の側から克服していく努力, 換言すれば, すべ ての国民の, 全面発達を実現していく 教育論の展開が必要とされよう. すなわち, 労働性, 統一 性, 多面性, 集団性という資質 を, す べ ての国民に, 総合的に発達させ ていく教育論の展開, そ のような学校を軸とし た統一学校制度を設立して いく理論の展開も, そのために必要とされるで あろう, m, 統一学校試論 すでに指摘したように, 統一学校論は, 教育の機会均等論に終始してはならない. 統一学校論 が, 教育の機会均等論に終始する限り, それは単なる単線型学校制度の設 立を論じるにすぎない であろう. もちろん, 単線型学校制度の設 立は, 民主主 義の原則からいっ て大切な課題であり, その実現のために努力されなければならない, しかし, そのさい見落されてならないことは, 単 線型学校制度の中味なのである. すなわち, どのような 学校を軸とした単 線なのかということ, 換言すれば, どのような学校に対して機 会均等が保障されなければならないの かということ も, 同時に検討されなければならない, 子どもの能力を一面的にしか発達させ えない学校に対して, 仮に機会均等が保障されていても, 子どもの学習権が保障されることにはならない, 子どもの学 習権の正しい保障は, 子どもの全面発 達を可能とするような学校に対して就学が保障されるとき に, はじめて可能となるの である, 子どもの全面発達を保障しうるよ うな学校を設 立していく課 題と結合して検討されてこそ, 統一学校論は, 真に学校制度を統 一し, 民主的な学校制度を設立 していく方向を示し得るのである, それでは, 労働性, 統一性, 可動性, 集団性という資質の総合的発達と して理解される全面発 達は, その実現のため に, 一体, どのよう な教育を保障するのであろうか, 発達を保障されるべき第 一の資質, 労働性は, 人間の本質 が労働にあるということ, 換言すれ ば労働することによ っ てのみ 人間は本来の人間たること ができるという認識から導き出されたも のであり, すべての人間が人間である 限りそれぞれの発 達段階に応 じて労働しなけれを な ら な い ということを 前提とする. すなわちそれは, 自然的環境 に働きかけ, 同時に自らを変革していく 動実 いう労働実践にそれぞれの段階において直接に参加すること であり, つねにそのような労i と・ 践を軸として学 び行動する姿勢を意味する. このような 労働性の強調は, 児童・生徒に対する労 働実践の重視となり, 労働に従事可能な段階から, 学校での課業と統合させな がら, 労働に従事 す ることが要求される. 「合理的な社会 制度のもとでは, 9才に達したす べて の子どもは生産労 厳格に規制し, また ) 1 8 働者とならなければな らない」 , 「種々な年令の段階に応 じて労働時間を か 合するこ ら生産労働と教育とを結 その他の児童保護の予防手段を実行しさえすれば, 少年時代 ) と い う マ ル ク ス の 指 摘 は, そ 9 と は, 今 日 の 社 会 を 変 革 す る も っ と も 有 力 な 手 段 の 一 つ で あ る」1. のような労 働性の強調に他ならない, すなわちそれは, 人間の存在とその成長の基礎である労 働 実践への参加を, す べての児童・ 生徒に, その基本的権利として, 全社会体系の中で, 全教育体 系の中で, 承認することなの である, それゆえ, 当然, そのような承認が (それにふさわしい配 しなければならない, とこ 慮 が) , 児童・生徒の生産実践への参加に対して, その前提として存在 ろで, 学業と結合したそのような労 働実践への参加をす べての児童・生徒に保障するという発 想 - 50 -.

(9) 統一学校論-全面発達理論からの一試論- は, 閑暇をその語源にもつ学校その ものの発生史を想い起すとき, きわめて重要な意味をもっ て くるといえよう. 社会が労働する人間と労働しない 人間に分裂したあと, 労働しない人間が閑暇 を過す場として, あるいは労働する人間を支配するための方法 を学ぶ場として登場した学校の発 生時の性格が, その後の発達史 においても, 基本的にはぬぐいされず, そのような事情が, 生産 力の発展とともに 登場した働く人間 (労働者や農民) を対象とする学校 (小学校系統あるいは職 業学校系統) と伝統的学校 (中学校系統あるいは普通学校系統) との完全な統一を, 今日なお妨 げていることを考えれば, 労働可能な年令に達したすべ ての児童・生徒に労働実践への参加の権 利を保障するということは, われわれの統一学校論の中で, きわめて重要な位置を占めるといわ ざるをえない, 同時にそれが, 労働しない人間を認めず, 国民の階級分裂を止揚する方向を指し てい る こ と は い う ま で も な い.. 発達を保障される べ き第二の資質, 統一性は, 労働性に立脚した頭脳と身体の統一を意味し, 人間の本質としての労働が, 本来, 頭脳と身体の統一的活動であるところから導き出された. 頭 脳と身体の諸能力はそれぞれ知育と体育 によっ て育成されるが, それらの育成された能力は技術 教育によっ て技術にまで高められ, 労働の中で統一されていく。 このように, 統一性の育成の前 提として, 知育, 体育, 技術教育が要求される, 「自然体系においては頭と手が一組にな っ てい 2 0 ) 「われわれの理解する教 るのと同じように, 労働過程は頭の労働と手の労働とを結合させる」 1 ) とい 育 と は, つ ぎの 三 つ の も の で あ る. 第 一, 知 育. 第 二, 体 育 … …. 第 三, 技 術 教 育 … …,」2. うマルクスの指摘は, 人間の本質としての労働における頭脳と身体の統一性, およびその統一性 を育成する前提としての知育, 体育, 技術教育の重要性を端的に示 しているといえよう, ところ で, この知育と体育を労働に結びつけ, 労働の中で統一するということは, 中学校系統あるいは 普通学校系統としての性格を有してきた資本家や地主の子どもの学校系統における教育が, 労働 から遊離し, それゆえに, 知育と体育を並列的にあるいは別個のものとして担う傾向が強かっ た ことを考えれば, そしてまた, 小学校系統あるいは 職業学校系統としての性格を有してきた労働 者や農民の子どもの学校系統における教育が, 労働に埋没し, 知育と体育を低次の段階での機械 的な訓練にとどめてきた傾向が強かっ たことを考えれば, それは, 知育と体育を真に結合し, そ してまた両者を高次の段階での科学的な教育に高める方向を指し示しているように思われる. ア タマを使っ て労働者や農民を支配 o 搾取する資本家や地主を養成してきた学校系統と, カラダを 張っ て労働に従事する労働者や農民を育成してきた学校系統を真に統一する方向は, す べ ての児 童・生徒の知育と体育を科学性に貫かれた教育にまで高め, 同時に両者を技術教育を通して労働 の 中 に 統 一 し て い く こ と で あ ろ う,. 可動性は, 大工業下の労働が流動的かつ総合的であるところから要求されたのであるが, これ は, 統一性の育成の前提としての知育, 体育, 技術教育を, さらに水準の高いものに, そしてま た 総 合 的 な も の に す る こ と に よ っ て 育 成 さ れ て い く. こ こ で, 「さ ら に 水 準 の 高 い も の に」 と い. うのは, 労働過程への科学の適用の増大によるものであり, とりわけ, 知育と, それの労働への 意識的適用としての技術教育の水準を高めることが要請される. すなわち, 近代工業の発展にと もない, 知育と体育の労働への適用の上で知育への比重が増大し, 頭脳と身体の統一は, 頭脳に より力点のおかれた, 本来の意味での 「技術教育」 (身体に力点のおかれた技能教育ではない) を主要な媒介として行なわれるのである. 頭脳と身体の統一性は, 近代工業の発展にともない, 頭脳により力点のおかれた統一性へと変化していく, 「総合的に」 ということは, 大工業下の本 性が流動的かつ総合的であるということから, 単純に理解できるのであるが, 統一性との関連で 一 51 -.

(10) . 門. 脇. 正. 俊. 指摘すれば, 統一性ということが, 知育と体育を技術教育 を通 して労働と結合し, 労働の中で結 合することであり, その強調は, 知育, 体育, 技術教育を, それぞれ特定の領域において強調す る こ と も あ る か ら で あ る, と い え よ う,. 集団性は, 人間の本質としての労働が集団的活動であるところから要求されたのである が, そ れは, 何よりもまず集団 についての正しい理解が, つまり社会科 学の知識が必要とされる. そし て同時に, 集団主 義的教育方法が重視される, ところで, 全面発達を準備するそのような教育は, 統一学校論の焦点になっ ている後期中等教 育 段 階 に お い て,. ど の よ う な 形 態 を と る の で あ ろ う か,. 労働性の育成のため には生産実践が要求される, 統一性の前提としての知育, 体育, 技術教育 は, 技術革新の絶え間ない大工業下の現代においては, 水準が高く, 総合的なものに, つまり知 育, 体育は完全中等普通教育 に (集団性から要求される社会科学的知識も当然含まれる) , 技術教 育は総合技術教育に置 きかえられていく, しかしな がら, 生産実践は特定分野におけるそれであ り, 若千の職業教育が行なわれる. しかしそのさい, 領域は異な っても, 同じ水準の職業教育が すべての生徒に要求される, 集団性は, 知育における社会科学的教科の 重視と集団主 義的教育方 法を要求する. 以上をまとめると, 全面発達に奉仕する後期中等教育は, 労働 (生産実践) , 普通教育, 総合技 術教育, 若干の職業教育 (生徒の希望により多様となる) の総合体として理解される. すなわち そのような教育は, 「若干の分化を行なう中等・普通・労働・総合技術学校」 で行なわれるので ある. このような学校は, 従来の如き普通学校でもなく, また職業学校でもなく, 両者を統一し た新しい中等学校であり, まさにそれは, 従来別々に行なわれてきた高等教育機関と実生活への 準備教育を統 一して行なうものに他ならない, 中等教育の後期段階の諸学校が, このような学校 に統 一されてはじめて, 全面発達に奉仕する後期中等教育制度が成立するのである. さらにまた, このような後期中等教育制度は義務制, つまりすべてのものに保障されなければ ならない, なぜなら, 後期中等教育を保障されたものと保障されないものが存在して いては, 頭 脳労働と身体労働の分離が不可避となるからである. つまり統 一学校論は, 統一きれた学校への 全員就学へ結合して論じられてこそ, 従来の統一学校論の弱さを克服しうるのである. なお, 全面発達諭に立脚した統一学校においても, ゆるい程度でのコース分化の導入 も考えら れるけれども, それは, 知育と体育の生産実践への統 一的結合を深める ために, 生産実践の分野 に関連した普通教育と総合技術教育の一部に 若干の強化が行なわれるときに登場するものとして 理解することができる, そのさい, 生産実践の分化が科学の分化に対応していることはいう まで もない. それゆえ, このような形で登場する多様化が従来の資本主義諸国のそれと異なる点は, 頭脳労働と身体労働の分離の方向ではなく, 両者の統一の方向を目指して, つまり, 普通教育と 職業教育の分離ではなく両者の統一の方向を目指して, さらに換言するならば, 高等教 育機関へ の準備と実生活への準 備との分離ではなく 両者の統 一を目指して構想されることにあるといえよ う, 高等教育機関への準備教育と生産労働への準備教育を統 一して行なうような学校制度の設立 は, 頭脳労働と身体労働の分離を克服し, 国民の階級分裂を克服していく上において, 教育の側 から努 力す べき課題の一つであるといえよう, 註 7年) に 1) 総合制高校の理念については, 木下春雄:戦後高校教育総括の視点(「国民教育研究所論稿9」1 96 詳しく論じられている,. - 52 -.

(11) . 統一学校論-全面発達理論からの一試論- 2 ) 結局は, 乳幼児期から積み重ねられてくる教育的・政治的環境の不平等に起因していると思われる , 3 ) 政府・独占資本による人的能力政策. その典型は, 1963年1月の経済審議会答申 「経済発展における人的 能力開発の課題と対策」 65年12月の雇用審議会答申 「産業および労働面における構造的変化にともなう ,19 雇用に関する政策」 にみることができる. 196 6年10月の中央教育審議会答申 「後期中等教育の拡充整備に ついて」 はその具体化として理解できよう, 4) 「そこに学ぶ者が, 社会階層的にいって全く異な っており, したがって歴史的には それぞれ別個のもの , として発達してきた, 二つの学校系統, つまり伝統的な複線型の学校体系を, 超階級的な単線型の学校体 系に改革することにより, すべての学校教育の有機的統一を図ろうとする運動 ふつうには 19世紀の末 . , 0世紀にかけ, ヨーロッパの近代国家とりわけ ドイ ツとフランスにおいてみられる学校制度改革をめ から2 ぐっての一つの大きな動向として, 理解される」(「現代教育事典」 志村鏡一郎: 統一学校運動 明治図書 , 1961 .458). ,p. この志村氏の論稿においても, 統一学校を, 後にこの小論で展開するような全面発達理論との関連にお いて展望するような方向は見られないように思われる. 能力あるものに高等教育への機会を保障していく 方向での, いわゆる単線型学校制度の問題が中心である. 5 ) 梅根悟著 「近代国家と民衆教育」 誠女堂新光社, 1967 442 , ,p . 6) 岩波小辞典 「教育」p 14 3 , . 7) むしろ, 階級分裂を隠蔽するために利用されている, 8) その具体例として, わが国において, 戦前の天皇制政府の側からの国民教育が, 戦後 労働者階級を中心 , とする民衆の側からの国民教育運動へと主体を転換し, 後期中等教育の多様化に反対しながら進められて いる高校全入運動となって展開している事実をあげることができよう, 9) 簡野道明著 「孟子通解」 明治書院, p 3 3 1 . , 10) 「マルクス・エンゲルス全集, 第2 0巻」(大月書店)p 82 4 , , 11) 向上書, p 91 ,4 . 12 3巻a」p 2 34 ) 「同全集第2 . . 1 3) 同上. 14 ) 「同全集第3巻」p ,25 . 15) 「同全集第2 0巻」p 00~3 01 .3 . 16) 「同全集第2 3巻a」p ,634 . 17 ) この第四の集団性ということには, 二つの意味が含まれている. すなわち, 人間が集団で自然に対して働 きかけ生産活動を展開するという意味での集団性と, 生産活動の発展を妨げるような集団の固定化を防ぐ (あるいは, 生産活動の発展を. 保障するような集団を創造していく) という意味での集団に対する働きか けである. この後者の意味での集団性は, 自然に働きかけ生産活動を行なうという意味での第一の労働性 と, 対象 (あるいは環境) に働きかけるという意味では同じであり, 両者を一括して 「実践 生」 という名 称で表現することもできよう, 18 ) 「マルクス・エンゲルス全集第18巻」p 6 ,17 . 19) 「同全集23巻a」p ,521 , 2 0) 「同全集4巻」p 2 ,37 , 2 1) 「同全集19巻」p 2 8 , 1 ,. - 53 -.

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参照

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