特集論文
金融化の原理的考察のために
衽衲貨幣的経済学の批判的検討
清水真志
専修大学はじめに
現代資本主義の置かれている歴史的位相を探る上 で,金融化の傾向についての分析を避けて通ることは できない。金融化という用語の学術的定義はいまなお 統一されているわけではないが,頻繁に引用されるの は,「金融化とは,国内経済および国際経済の運営に おいて,金融的動機,金融市場,金融的アクター,お よび金融機関の役割が増大していることを意味してい る」というEpsteinの定義である(Epstein[2005]:p. 3)。 この定義から考えると,金融化に直結する理論領域 は,何よりもまず信用論であり,貨幣論であることにな ろう。以上 2つは,改めて振り返るまでもなく,マルクス 経済学が長年にわたって特に力を入れてきた理論領域 でもある。信用論は,マルクス経済学のなかでも先行 研究の蓄積が多いことで際立っているが,この蓄積を 背後から支えてきたのが,他学派には見られない価値 形態論を中核に据えた個性的な貨幣論であった。マル クス経済学には,本特集の標題にもあるように,資本 主義における貨幣の意義を重視する貨幣的経済学の 伝統が息づいている。 この伝統のもつ強みは,たとえば 19 世紀後半以降 の資本主義の構造変化をめぐって,ヒルファディングの 『金融資本論』がいち早く貨幣信用論的観点からの分析 に成功したことからも知られる。ヒルファディングの考察 は,マルクスから受け継がれた貨幣的経済学の伝統を 確認するかのように,価値形態論を扱った「貨幣の必 然性」の章より始まっている(Hilferding[1955])。金融資本 の登場は,いわば資本主義が本格的に経験した 1 度 目の金融化であった。今日の金融化が,貨幣的経済 学の強みが発揮される2 度目の機会になっても不思議 ではない❖1)。 ただ本稿は,貨幣的経済学には継承されるべき強み がある反面,克服されるべき弱みもあるのではないかと 考えている。そしてその弱みは,貨幣の意義が重視さ れるあまり,時として商品の意義が軽視されがちになる 点にあると考えている。 この考えは,そう簡単には受け容れられないであろう。 そもそもマルクス経済学の貨幣論は,商品貨幣説の系 譜に属し,全ての商品のうちに潜在的な貨幣性を読み 取るというスタンスに立脚していたはずである。このスタ ンスからすれば,貨幣の意義が重視されるほど,潜在 的な貨幣である商品の意義もいっそう重視される結果 になるのが普通ではないか。なるほどマルクス経済学 が,貨幣の産みの親としての商品の意義を重視してい ることに疑問の余地はない。そのことは,価値形態論 が説かれるのが貨幣章のなかではなく,商品章のなか であることからも明白である。 しかしマルクス経済学の貨幣論は,他方において, 商品と貨幣との非対称性(商品販売の困難)を強調する というスタンスを貫いてきた。これは,売れた途端に市 場から姿を消す商品の短命さと,いつまでも市場に滞 留し続ける貨幣の長命さとの格差を強調するスタンスで もある。貨幣を王のような崇高な存在に喩えるのはマル クス経済学の慣例であるが,かかる貨幣との格差を強 調しようとすると,どうしても商品を有象無象の存在とし て印象づけざるをえない。奇しくもマルクスは,この印 象を「商品賤民」(Marx[1962]:S. 72)といういい方で表現し ている。 貨幣が資本主義における絶対的な富であることばか りに力点を置くと,商品が資本主義における「富の基本 形態」(Marx[1962]:S. 49)であることの意味は形骸化しか ねない。ひとたび現実の貨幣が登場した後では,全て の商品はもはや潜在的な貨幣性を失って,「商品賤 民」の列から抜け出せなくなるかのような印象も生まれる。 「富の基本形態」という語句も,現実の貨幣が登場する 前の「富の原始的形態」という意味に読まれかねないの である。このことは,金融化の原理的考察を進める上での大きな障害になる。 現代の金融市場で売られている金融商品の多くは, その時々の相場価格で即座に換金売りができる点では 一般的な商品と違うものの,貨幣にたいして売られるポ ジションにある点では一般的な商品と違わない。この ポジションには,価格変動のリスクがつき纏う。金融商 品の価格変動のリスクを積極的に取ろうとする動きが強 まるにしたがって,将来の価格上昇を見込んで売り控 えられたり,買い貯められたりする金融商品も増える。 こうした現象を分析する上で,ポイントになるのは未実 現の商品価値の取り扱いである。販売待ちの商品はた だの「商品賤民」にすぎない,「蓄財のつもりで商品を 蓄積するのはただの愚行であろう。大量の商品の蓄積 は,流通の停滞か過剰生産かの結果なのである」(Marx [1962]:S. 615)という見方を脱却しない限り,このポイント に光を当てることは難しい。現代の金融市場では,大 量の金融商品の流通と,それを上回る大量の金融商品 の集積とが並立しているのである。 ただ,もとより金融化にはさまざまな側面があり,そ の全てが商品論のなかで処理できるわけではない。そ こで本稿では,商品論プロパーの論点としては商品の 物神性を扱うだけに止めて,原理論体系のそれ以外の 箇所からもできるだけ幅広く,金融化の諸側面衽衲金 融取引の投機化,金融市場の機関化,金融的動機の 大衆化,金融資産の多様化など衽衲に結びつく論点を 拾い集めることにする。 第 1 節では資本規定・資本家規定を,第 2 節では物 神性論を,第 3 節では資金論を,それぞれ取り上げる。 これら3つの箇所における議論を総合させた内容をもつ のが,信用論を含めた市場機構論である。第 4 節では 結語に代えて,市場機構論を取り上げ,金融化の最大 の側面といってよい産業資本(実体経済)との関係性の 変容を論じるための枠組みを考察する。 以上 4 つの箇所においてマルクス経済学が積み重ね てきた議論には,貨幣的経済学の強みだけでなく,弱 みも現れている。この弱みを批判的に検討することは, 迂遠なように見えても,金融化の原理的考察のために は欠かせない作業になるのである❖2)。
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資本規定・資本家規定をめぐって
マルクス経済学における資本規定のキーワードになっ てきたのは,姿態変換という概念であった。資本は「価 値増殖する運動体」と定義されるが,その運動の本質 は,商品と貨幣との姿態を取っては捨てる姿態変換を くり返すことにある。姿態変換をつうじた価値増殖は, G衾W衾G' と図式化される。この図式こそが,投資分 野の違いを超えた普遍性をもつ「資本の一般的定式」と 考えられてきたのである。 ただむろん,資本の価値増殖は,商人資本的な G 衾W衾G'というパターンに固定されるわけではなく,産 業資本的な G衾W…P…W'衾G' というパターンに発展 を遂げる。宇野によれば,真の価値増殖過程をなすの は中間の W…P…W' という生産過程である。とはいえ, 生産過程も「実質的な姿態変換」であるから,「形態的 な姿態変換」である流通過程と異質ではない(宇野[1950・ 52]:138頁)。「資本の一般的定式」からその完成形であ る産業資本を導き出すためには,最初から一貫して姿 態変換という概念を用いる必要がある衽衲およそ以上 が,マルクス=宇野の資本規定の基本線であった。 しかし,こうした資本規定によっては,未実現の商 品価値をも含めた資本価値全体の評価値が増えること による価値増殖を捉えることはできないであろう。この 価値増殖は,貨幣支出 G衾W に始まるわけではなく, 貨幣回収 W衾G' をつうじて出発点の貨幣に戻るわけ でもないから,商人資本的形式や産業資本的形式の 図式には適合しない。とはいえ,対外的に貨幣を貸し て,その見返りに貨幣利子を取得するわけでもないか ら,金貸資本的形式の図式にも適合しない。適合する 図式を考えるとすれば,W…W になろう。中間の「…」 は,形態的にも実質的にも姿態変換が行われないこと を意味する記号である。そこで W…Wという価値増殖 の方式を,非姿態変換型と呼ぶことにする。 非姿態変換型 W…W だけに特化した資本を思い浮 かべるのは,手持ちの商品を全く売らない資本を思い 浮かべることに等しいから,いかにも現実離れした想定 になる。しかし実は,姿態変換型 G衾W衾G' だけに特 化した資本を思い浮かべるのも,それと同程度に現実 離れした想定になろう。どれだけ姿態変換に注力して も,手持ちの商品が全て売れることはきわめて稀であり, たいていは会計期末の時点でも一定量の売れ残りが出 る。そして資本は,この売れ残った商品(棚卸資産)の 価値も含めて,資本価値全体の増殖を追求するのであ る。G衾W衾G' の裏側には,どうしても W…W が貼り つくことになる。 したがって現実の価値増殖は,姿態変換型と非姿態変換型という2 つの方式を何らかの比率で組み合わせ たものとして捉えるべきであろう。そのように捉えること で,個別資本のレベルでも市場全体のレベルでも,価 値実現をつうじた価値増殖( G の数量が増えること)と 価値評価をつうじた価値増殖( W の評価額が増えるこ と)とが同時に進行する現象を記述できるようになるので ある。このことは特に,金融市場における価値増殖を 論じる上では重要な意味をもつ。 もともとマルクスの資本規定は,「商品の使命」は「最 終的に売れる」こと,すなわち最終需要者に売却されて 流通部面から消費部面に移り,社会的な物質代謝 W 衾W を媒介することにあるという命題と深く結びついて いる(Marx[1964]:S. 281-285)。マルクスはこの命題から出 発して,まず商品流通を W衾G衾W と図式化した後に, これを反転・変形させて G衾W衾G'という図式を導き出 していた。「最終的に売れる」ことが「商品の使命」であ るとすれば,「最終的に売る」ことはいわば「資本の使 命」といえるであろう。 しかし金融市場には,物質代謝という概念が当ては まらない。また,「最終的に売れる」ことなく何度でも転 売される金融商品には,「商品の使命」という命題が当 てはまらない。たとえば株式市場では,最初から「商品 の使命」を免れた既発行株式が大量に保有されており, 流通するのはそのなかの一部の株式だけに限られる。 そして,この一部の株式の価格変動をつうじて,保有 株式全体の評価値が上昇ないし下落するのである。そ のことを踏まえると,今日の金融取引の投機化は,現 実の価値増殖に占める非姿態変換型の比率が増え, 現実の利潤に占める含み益の比率が増える現象として 捉えられよう。 ただこの現象には,それと相反するように見える現象 が随伴する。相対的に比率の減った姿態変換型にお いて,ますます姿態変換の速度が上昇し,結果として 一定期間における市場全体の出来高(商い)が増えると いう現象である。普通に考えると,売れる商品が増え れば,それだけ売れていない商品は減るのが道理であ ろう。しかしそれは,商品が「最終的に売れる」ことに重 点が置かれた物質代謝型の市場の通則でしかない。 商品が何度でも転売される滞貨形成型の市場では, 販売される商品量が増えるのと同時に,販売待ちの商 品量も増えるという現象が起こるのである。 姿態変換の速度が上昇することは,一定期間におけ る貨幣の流通量が増えることを意味している。この流通 量の増加には,2 つのパターンがある。従来の原理論 が主に扱ってきたのは,個々の資本における貨幣資本 の投資額が増えるというパターンであろう。しかしそれ 以外にも,投資額に達しない少額の貨幣しかもたない 主体,つまり個別に見れば資本家の基準を満たさない 主体が,集合体になって多額の貨幣を市場に投じると いうパターンがある。2 番目のパターンは,今日の金融 化の特徴をなすものとして多くの論者が共通に挙げてい る現象,金融市場で運用される年金基金や保険基金 の増加(金融市場の機関化)と,一般世帯への金融的 動機の浸透(金融的動機の大衆化)という現象とつな がってくる❖3)。 かくして議論は,資本規定と対をなす資本家規定に まで及ぶことになる。従来の原理論は,G衾W衾G' を 資本の典型とみなしてきたから,資本家の典型とみな されてきたのも,自前の貨幣を投じて商品を安く買い, それを自分の手腕で高く売ることで利潤を上げる商人的 な存在であった。またこの資本家規定に照らして,自 分で経営に携わらない貨幣資本家と,自前の貨幣をも たない機能資本家とは,どちらも資本家の基準を満た さない存在と見られてきた。この見方を結実させたもの が,マルクスの利子生み資本論にたいする宇野の批判 である。 宇野の批判の主眼は,周知のように,利潤以下の 利子で満足する貨幣資本家は原理的には「ありえない (存在しえない)」というポイントに置かれていた❖4)。し かし宇野の批判には,もう一つのポイントがあった。貨 幣資本家は現実には「ありうる(存在しうる)」,しかしそ れは俸給生活者や新中間層と同様,三大階級からな る純粋資本主義では「ありえない(説けない)」というポイ ントである❖5)。 改めて考えてみると,2 つのポイントは微妙にずれて いる。1番目のポイントの限りでは,貨幣資本家が現実 に存在することも理解しがたいことになろう。利潤以下 の利子で満足するという行動自体が,原理的にも現実 的にも背理となるからである。これにたいして2 番目の ポイントでは,貨幣資本家が現実にはどう存在しうるの かが問題となりうる。そして宇野はこの問題にかんして, 貨幣資本家と機能資本家とは,株式会社制度の下で の「所有と経営との分離」の結果として存在しうるように なるという説明を行っている箇所がある。 宇野によれば,配当を得るだけで満足する中小株主 は貨幣資本家に当たり,部分的所有で全体を支配する 大株主(または経営者)は機能資本家に当たる。しかし 原理論では,そもそも株式会社制度を説くことができな
い。また,自ら所有し自ら機能するという原理論の資 本家概念に照らすと,機能資本家としての大株主は 「過剰」であり,貨幣資本家としての中小株主は「過少」 であるという❖6)。 しかしこの説明を,「貨幣資本家+機能資本家=過 不足なき資本家」というように翻案すると,従来よりも資 本家概念の外延は広くなる。貨幣資本家と機能資本家 とは,なるほど宇野がいうように,それぞれ単体では資 本家未満の存在でしかない。しかし,「貨幣資本家+ 機能資本家」という異種混合的な主体としては,その限 りではないであろう。一般世帯が共同で積み立てた諸 種の基金が,機関投資家に委ねられて金融市場で運 用されるとき,一般世帯はいわば現代版の貨幣資本家 の役割を,機関投資家はいわば現代版の機能資本家 の役割を,それぞれ演じていると見ることができる。こ れら二種類の脇役がタッグを組んで,本来の主役であ る商人的な資本家を脅かすほどの存在感を示している のが,今日の金融化の構図であろう。 もっとも宇野自身は,株式会社制度を原理論で説く ことに高いハードルを設けていたから,以上の議論に同 意を示すとは考えにくい。ただ今日では,このハードル はもっと下がっており,経営参加目的の出資を行う資 本(α型資本)と配当取得目的の出資を行う資本(β型 資本)との結合関係までは,原理論でも説けるという考 え方が優勢になっている❖7)。 この考え方に従うと,α型資本家は「過剰」な資本家 になるはずであり,β型資本家は「過少」な資本家にな るはずである。β型資本が産業資本の遊休資金から捻 出されたものであったとしても,出資先の経営に参加 する能力も余裕もない産業資本家なるものは,対外的 なあり方でいえば産業資本家よりも貨幣資本家に区分 されるべき存在であろう。α型資本とβ型資本とが 1つ の結合資本を作り上げることが可能であるとすれば,貨 幣資本家と機能資本家とが 1つの「過不足なき」結合資 本家を作り上げることも可能であると考えなければなら ないのである。
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物神性論をめぐって
物神性論は,一頃は価値形態論と並んでマルクス経 済学の代名詞とみなされ,汗牛充棟といえるほどの研 究成果を生んできたが,今日では話題に上ることも少 なくなってきた。しかし物神性論には,むしろ現時点で こそ汲み取られるべき理論的含意が残されているという のが,本稿の考えである。 現時点で振り返ると,原理論研究における物神性論 の取り扱いには,かなり広範に認められる2つの傾向が あったように思われる。1つは,貨幣の物神性を重視し て,そこに資本主義社会のすべての物神性の根源を読 み取ろうとする傾向である。もう1 つは,物神性を古く からある偶像崇拝的なイデオロギーとしてではなく,資 本主義社会に固有のイデオロギーとして論じようとする 傾向である。これらの傾向には長所も短所もあるが, 本稿の主題からすると,必要になるのは短所について の考察であろう。 まず,貨幣の物神性を重視しようとする傾向の短所 について考察しよう。たとえば宇野は,商品の物神性 にかんするマルクスの説明を,早すぎる価値実体説の 副産物として否定的に評価していた❖8)。それゆえ流通 論で説かれるのは,何でも買えるという貨幣の物神性 だけである。また宇野は,商人資本的形式 G衾W衾 G' を,Gよりも多くの G' を手にしようという貨殖志向を 体現したものと説明していた(宇野[1950・52]:72頁)。この 説明に基づくと,資本を駆り立てる無際限の致富衝動 は,貨幣蓄蔵の情熱と同様,貨幣の物神性から生じる ものと理解することができよう。 これにたいしてマルクスは,貨殖志向を純粋に体現 するのは,G衾W衾G'よりもその短縮形である利子生 み資本 G衾G' であると説明していた(Marx[1962]:S. 170)。 これまで資本の物神性は,果樹に果実がなるように資 本にも利子がなるという観念的倒錯にあるとされてきた が,マルクスの説明に基づくと,果樹はあくまで貨幣資 本であり,果実はあくまで貨幣利子であることになろう。 そして,マルクスの利子生み資本論を批判した宇野も, 資本市場で「それ自身に利子を生むものとしての資本」 が売買されることを説明する際には,果樹に果実がな るように云々というマルクスの文言をそのまま借用してい る(宇野[1969a]:443頁)。 要するにこれまでは,資本の物神性は,貨幣の物神 性の延長線上に捉えられてきたといってよい。しかし本 稿の第 1 節で述べたように,資本の価値増殖が姿態変 換型 G衾W衾G'と非姿態変換型 W…Wという2 つの 方式を組み合わせたものであるとすれば,こうした捉え 方には疑問が出てくる。 100 円の貨幣価値はいつまで貨幣を握り締めていて も100 円のままであるが,100 円の商品価値は商品を握り締めている間に120 円に増えることがある。商品は 貨幣と違って,何でも買えるという物神性をもたない代 わりに,それ自身に含み益を生むという物神性を固有 するのである。むろん後者の物神性は,それ自身に含 み損を生むというリスクと紙一重であるから,市場の安 全性志向が高まるにつれて効力を失う。しかし市場の 収益性志向が高まり,100 円の貨幣では 100 円の商品 しか買えないことに不満が募るとともに,100 円の商品 を120 円に値上がりするまで売り控えようとする動きが強 まる。非姿態変換型の価値増殖を物神性論の射程に 収めるためには,資本の物神性を商品の物神性の延 長線上に捉え直すことが必要になるのである。 次に,物神性を資本主義社会に固有のイデオロギー として論じようとする傾向の短所について考察しよう。こ れは,物神性の特殊歴史的側面を強調しようとする傾 向といいかえてもよい。マルクスがロビンソン・クルー ソーの物語にある自給自足の生活や中世の生産関係 などを例に引きながら,資本主義社会以外の経済社会 に逃げ込めば商品(および商品生産)の神秘的性格は いとも簡単に霧消してしまうと述べているのは,この傾 向を示す好例であろう(Marx[1962]:S. 90-93)。 宇野の場合,この傾向はいっそう顕著である。宇野 は,商品論のなかで早急に「商品の物神的性格」を説く よりも,生産論のなかで剰余価値生産の秘密が解明さ れた後に,改めて「商品経済の物神崇拝的性格」また は「商品生産の物神崇拝的性格」を説いた方がよいとい う見解を示していた❖9)。この見解からすれば,「商品 経済の物神崇拝的性格」は,あくまで「商品生産」が全 面化された資本主義社会に固有のイデオロギーである ことになろう。 このことは,普通に考えると,物神性が資本家階級 に固有のイデオロギーであることと同義になりそうに思え る。また実際,「資本家的観念」や「資本家的倒錯」な どの用語は,これまで物神性の同義語として用いられ てきた。この用語法に照らしても,物神性の特殊歴史 的側面は,そのまま特殊階級的側面に置き換えること ができそうに思える。ところが,マルクスの議論をもう少 し注意して読むと,それほど一筋縄ではいかない点が 出てくる。 たとえばマルクスは,「資本主義的生産によって支配 されている社会状態の内部では,非資本主義的生産 者もまた資本主義的観念によって支配されている」と指 摘している(Marx[1964]:S. 49)。資本主義社会に固有の 「資本主義的観念」が,資本家以外の階級をも支配す る普遍的なイデオロギーになるというのである。物神性 が,かかる「資本主義的観念」の最たるものであること は明白であろう。 この限りでいえば,マルクスにとって物神性の特殊歴 史的側面は,そのまま特殊階級的側面に置き換えられ るものではなかったと考えられる。したがって,マルク スが「資本主義的観念」という場合の「資本主義的」とい う形容詞には,同じくマルクスが多用する「ブルジョア 的」という形容詞よりも,いくらか広い意味が込められて いたと考えられる。なるほど,資本家階級に固有の「ブ ルジョア的」イデオロギーであれば,歴史的に見て資本 主義社会に固有であることは確かであろう。しかし,資 本主義社会に固有の「資本主義的」イデオロギーが,社 会関係的に見て資本家階級に固有であるとは限らない かもしれないのである。 宇野の場合はどうか。宇野もマルクスとともに,物神 性の特殊歴史的側面を強調する。しかしまた宇野は, 経済学(科学)によって可能であるのは,物神性という イデオロギーの根拠を暴露するところまでである衽衲と いう主旨の記述や発言を多数残している❖10)。たとえ 根拠を暴露しても,物神性という「社会生活にともなうイ デオロギー」(宇野編[1967・68]I:267頁)から自由になること は容易ではない,というのである。宇野もマルクスとと もに,物神性の特殊歴史的側面と特殊階級的側面とを 慎重に区別しているように読める。 このように物神性の階級的基礎を見直すことは,金 融化の原理的考察を進める上でも決して無駄な作業で はない。 もともと経済的領域は,人間の社会生活を形づくるさ まざまな領域のなかでも,各人の属する階級間の違い が特に浮き彫りになりやすい領域である。資本家と労 働者とでは,商品や貨幣にたいするスタンスにも明確 な違いが現れる。商品の使用価値にたいする関心の有 無,営利目的外の貨幣支出にたいする抑制の有無, 等々の違いである。しかしこの領域においても,階級 間の違いが曖昧になる局面がないわけではない。そう した局面の1つが,商品投機の過熱する好況末期であ ろう。株式を始めとする金融商品の投機的取引も,商 品投機の一種と考えてよい。 この局面では,労賃や地代(または土地価格)の騰 貴を受けて,労働者や土地所有者の一部までもが商品 投機の渦のなかに巻き込まれる可能性が出てくる。マ ルクスは,この渦のなかで貨幣支出の箍が外れてし まった人間の観念的倒錯を,「商品こそは貨幣だ」とい
うスローガンで表現している(Marx[1962]:S. 152)。このス ローガンの下,それまで貨幣が独占してきた物神性の 主位の座は,「商品賤民」と蔑まれてきた商品へと明け 渡される。商品の物神性が,資本家階級に固有の「ブ ルジョア的」イデオロギーを超えた「資本主義的」イデオロ ギーとしての広がりをもつことが,如実に示されるわけ である。 むろん通常の原理論では,好況末期の商品投機も, 商業機構や信用機構によって産業資本の過剰資金が 動員されるために生じるものとして論じられる。したがっ て資本家以外の階級は,この局面にあっても依然とし て蚊帳の外に置かれるものとして論じられる。しかし歴 史的に見ると,商品投機の渦のなかに資本家以外の 階級までもが巻き込まれることは特に珍しい光景では ない。 たとえば,国民的熱狂と称された 1920 年代のアメリ カの株式ブームでは,「雑貨屋,電車の運転手,鉛管 工,お針子,もぐり酒場の給仕までが相場をやった」と される(Allen[1931]:414頁)。この種の光景は,1990 年代 の先進諸国でのITバブルを始めとして,現代資本主義 においてはむしろ定番の光景となりつつある。商品投 機の理論と現実との間には齟齬があり,その齟齬は大 きくなる一方であることを思い知らされるのである。 従来の商品投機の理論(もっと狭い意味では恐慌 論)では,産業資本の資本蓄積の鈍化やそれによる遊 休資金の過剰化,生産部門間での利潤率の不均衡な ど,総じて商品投機の背後にある実体経済的な要因へ と議論が集中しがちであった。そしてこれらの要因は, 根本的には「労働力の商品化」という無理に由来するも のと説明されてきた。 この説明に従うと,資本主義社会の階級関係も「労 働力の商品化」に由来する実体経済的な関係に他なら ないから,どれほど商品投機が大規模化しようとも,そ の背後にある階級間の違いが曖昧になることはないと いう見方に傾かざるをえない。商品投機の渦のなかに 資本家以外の階級までもが巻き込まれるという現象, いわば投機の大衆化という現象については,最初から 理論的な説明を断念せざるをえなくなる。 もとより,商品投機の規模を測るための尺度は1つだ けではない。どれだけ多くの資金が商品投機に動員さ れているかということに加えて,その資金がどれだけ広 範な層から動員されているかということも重要な尺度に なる。そしておそらく,商品投機が資本家階級の内部 で拡張するだけでなく,それ以外の階級をも巻き込んで 深化する場合にこそ,この商品投機に「ブーム」という特 別な名称を与えることが相応しくなろう。 今日の金融取引の投機化は,「ブーム」の理論化と いう困難な課題に着手することをマルクス経済学に求め ている。その求めに応じるためにも,物神性論の意義 は再評価されてよい時期を迎えている。
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資金論をめぐって
以上の考察を踏まえると,投機資金の出所について も,もはや産業資本の遊休資金だけに限定して考える ことはできなくなる。資本家以外の階級までもが商品投 機の渦のなかに巻き込まれるとき,産業資本の遊休資金 以外の「極めて広汎なる種々なる社会層の貯蓄資金」 (宇野[1950・52]:513頁)までもが投機資金と化すのである。 もっとも宇野は,この「極めて広汎なる種々なる社会 層の貯蓄資金」を原理論のなかで説くことには否定的で あった。ただその一方で,たとえば銀行預金にたいし て利子がつくようになると,「資本家,土地所有者の (実際上は商人は勿論のこと,小生産者,俸給生活者, 賃金労働者等の零細なる貯蓄まで利用せられるのであ るが,ここではそういうものは別として)個人的消費資 金の一時的遊休資金」までもが貨幣市場に動員される ことに注意を促していた(宇野[1950・52]:472頁)。これらの 資金は,預金利子では満たされない収益性志向を帯 びた場合,商品市場や資本市場でのリスクテイクを行う ことになろう。銀行預金の大衆化,および株式投資の 大衆化である。ここまで話を進めることができれば,本 稿の第 2 節で述べた商品投機の大衆化も,もう少しで リーチの届きそうな距離に近づいてくる。 この距離を詰める上で考え直さなければならないの は,従来の貨幣蓄蔵の説き方である。原理論のなかで 貨幣蓄蔵が説かれるのは流通論の次元であるが,そこ で説かれる貨幣蓄蔵者の欲望は,資本家の致富衝動 に昇華されそうでされない「黄金欲」という内容になって いる(Marx[1962]:S. 145)。「非合理的な資本家」対「合理 的な貨幣蓄蔵者」という古典的図式である(Marx[1962]:S. 168)。またこの図式のために,貨幣蓄蔵それ自体も, 資本蓄積の劣化版といった方がいいような内容になっ ている。つまり,資本家以外の階級の貨幣蓄蔵,わけ ても労働者階級の貨幣蓄蔵までをカバーできるような内 容にはなっていない。現に,宇野の前引の文言においても,労働者の「零細なる貯蓄」は,資本家や土地所 有者の「個人的消費資金の一時的遊休資金」とは別扱 いにされている。 以上は,いわば資本という目的地の側から後方を振 り返るかたちで与えられた貨幣蓄蔵の説明といってよい。 この説明において,蓄蔵貨幣はいわば目的地に着くま での通過点とみなされ,資本主義以前の埋蔵金(歴史 的残滓)として語られるだけか,せいぜい資本の下での 準備金として語られるだけかになる。すでにマルクスに おいて,「独立な致富形態としての貨幣蓄蔵はブルジョ ア社会の進歩につれてなくなるが,反対に,支払手段 の準備金という形では貨幣蓄蔵はこの進歩につれて増 大するのである」という認識が見られる(Marx[1962]:S. 156)。 この認識は,「貨幣の蓄蔵はそのままの形では資本主 義社会では消滅するものと思う。……戦後のインフレ景 気時代に農村などでいわゆる『尺祝い』などといわれた り『簞笥貯金』といわれたのは,資本家的商品経済から はずれた現象と見てよい。原理的には貨幣の蓄蔵は, 資本の蓄積の原始的発現と考えてよいのではないか」と いうように(宇野編[1967]:220-221頁),宇野にも忠実に受 け継がれている❖11)。 しかし貨幣蓄蔵は,歴史的沿革に照らしても,また 現状に照らしても,資本蓄積よりも遙かに広い裾野を有 している。宇野が「そのままの形」での貨幣蓄蔵を否定 的に評価しているのは,上引の一文からも知られるよう に,「資本の蓄積の原始的発現」としての貨幣蓄蔵を肯 定的に評価していることの裏返しと受け止められる。し かし,小幡道昭が近年指摘しているように,そもそも貨 幣増加と価値増殖との間には超えがたい懸隔があり, 貨幣をどれだけ貯め込んでも資本への転化の契機は生 まれてこない❖12)。おそらく,資本を正しく理解するため の第一歩は,「資本の蓄積の原始的発現」としての貨 幣蓄蔵なるものを明確に否定することであろう。しかし そのことは,貨幣蓄蔵全般を否定することには直結しな い。むしろ,「そのままの形」での貨幣蓄蔵のなかに固 有の意味を探ることに結びつくのである。 価値増殖動機を欠いた労働者階級にも,「貯蓄資 金」を増やそうとする貨幣増加動機は生じるのであり, それはこの階級への金融的支配を推進する原動力にな る❖13)。宇野は「貯蓄・支払・新規の購入にあてられうる 貨幣をすべて資金といってよい」と定義しているが(宇野 編[1967]:219頁),このフラットな定義には,「貯蓄・支払・ 新規の購入」の主体を資本家階級だけに限定しなけれ ばならない理由は含まれていない。 そもそも宇野が資金概念を提唱したのは,蓄蔵貨幣 といえば流通から引き揚げられた貨幣というニュアンス が強くなりすぎることを懸念したからであった。宇野によ れば,「本来の蓄蔵貨幣では寧ろ流通から引上げられ るということがその基本的性質をなすのであって,これ を資金といってよいか否かにはなお疑問の余地がある。 それは資金として役立つものには相違ないが,なお資 金としての性格が明確でないといった方がよいように考 えられる」という(宇野[1950・52]:457頁)。 では,この「資金としての性格」が何を意味している のかといえば,それは貨幣がたんに流通外に貯め込ま れていることでなく,「流通過程への復帰の方向をとっ ている」ことを意味しているというのが,宇野の説明で ある(宇 野[1959]:184頁)。しかし改めて考えてみると, 「流通過程への復帰の方向をとっている」ことと,文字 通りに「流通過程への復帰」を果たすこととは同義では ないであろう。それでは,「流通過程への復帰の方向 をとっている」ことが何を意味しているのかといえば,残 念ながら,宇野自身による明確な説明はない。 ただ,「貯蓄・支払・新規の購入にあてられうる貨幣 をすべて資金といってよい」という定義に立ち戻ってみる と,朧気ながらヒントらしきものが見つかる。「支払・新 規の購入」は「流通過程への復帰」を果たすことと同義 になりそうであるが,「貯蓄」は明らかにそうではない。 しかも宇野によれば,「貯蓄」は貨幣蓄蔵とも同義では ないという。 「貯蓄」であるが貨幣蓄蔵ではなく,かつ資本でもな いということになると,開業資金,生活資金といった辺 りが思い浮かんでくる。これらの資金は,守銭奴的な 情熱によって盲目的に貯め込まれているわけではなく, 支出時期や支出目的を予定されて貯め込まれていると いう意味では,「流通過程への復帰の方向をとってい る」といえなくもない。そして開業資金は兎も角として, 生活資金は労働者階級や地主階級によっても貯め込ま れるものと考えなければならない。資金概念の輪郭を 明確にするためには,むしろ資本家階級以外の「貯蓄」, 「極めて広汎なる種々なる社会層の貯蓄資金」を例に取 るのが有効なのである。 もっとも従来の「貯蓄」の説明には,資本家階級だけ が「貯蓄」の主体になるという強い限定の他にも,貨幣 だけが「貯蓄」の対象になるという強い限定が掛かって いた。本稿の冒頭でも引用したように,『資本論』には 「貨幣を流通から締め出すことは,貨幣を資本として増 殖することとは正反対であろうし,蓄財のつもりで商品
を蓄積するのはただの愚行であろう。大量の商品の蓄 積は,流通の停滞か過剰生産かの結果なのである」と いう記述がある(Marx[1962]:S. 615)。商品蓄蔵は全くの不 合理であり,それに比べると貨幣蓄蔵はまだしも合理的 である,しかし最も合理的なのは資本蓄積であるという のが,マルクスの「貨幣の資本への転化」論を支えてき た基本命題なのである。 この基本命題は,宇野の「資金の資本への転化」論 にも受け継がれている。そもそも資金とは,蓄蔵貨幣に 取って代わるものとして提唱された概念であるから,貨 幣論のなかで貨幣機能の一つとして説かれるのが通例 である。現に宇野は,「資本に転化する資金」と「資本 に転化しうる貨幣」とをほとんど区別していない(宇野 [1970・73]:799-801頁)。さらに端的に,「自由に使える貨 幣の余裕」のことを資金と呼んでいる箇所も散見される (宇野[1972]:91頁)。 しかし資金が,果たして貨幣に固有の機能といえる かどうかには再考の余地がある。資金が価値をもつの は,それが「貨幣の一定期間にわたる使用権」であるこ とに決定的な理由があるかといえば,必ずしもそうでは ない。土地や労働力や資財も,それらの「一定期間に わたる使用権」は価値をもち,資金と同様に商品化する ことが可能である。先述したように,資金が「流通過程 への復帰の方向をとっている」といえるのは,その支出 時期や支出目的が予定されていることに理由があった。 貨幣はいつでも何でも買えるが,いつ何を買うか分か らない貨幣は資金とはいえないのである。 したがって,たとえば開業資金を形成しようとしてい る主体にとっては,業務用品を買うための貨幣を貯め 込もうと,業務用品そのものを貯め込もうと,どちらも 等しく目的に適った行動になる。むしろ,将来の価格 変動のリスクを勘案すると,業務用品そのものを貯め込 んだ方が有利と判断される場合さえあろう。同じ関係 は,生活資料を買うための貨幣を貯め込むことと,生 活資料そのものを貯め込むこととの間にもある。また, 原料を買うための貨幣を借りることと,原料そのものを 信用で買うこととの間にもある。業務用品や生活資料 の備蓄は,販売用商品や原料の在庫と同様,れっきと した資金機能をもつのである。 かかる資金概念の拡張は,実物資産の運用(現物 出資)に始まる「資金の資本への転化」をどのように説く かという問題を提起し,改めて資本概念や資本家概念 を見直すきっかけを与えよう。ただこれは,原理論プロ パーの問題として狭く解釈されるべきではない。むしろ 金融化という現象そのものに,資金概念を拡張させる 因子が内在しているのではないか。 今日の金融化の下では,産業用地や商業施設のよ うな固定資本だけでなく,個人の持ち家や自家用車な どの固定資産にたいしても,金利をベースにして算定さ れた擬制資本価値が付与される。また,それらの資産 を担保に組み込むかたちで,住宅ローン債権担保証券 や自動車ローン債権担保証券,リバースモーゲージな どの金融商品が派生する。投資の原資が「極めて広汎 なる種々なる社会層」の貨幣貯蓄から動員されるだけで はなく,投資の対象までもが「極めて広汎なる種々なる 社会層」の実物資産から動員されるのである。これは 明らかに,銀行預金の大衆化はおろか,株式投資の 大衆化をも超えた次元にある現象であろう。大衆化し た金融的動機を受け止める受け皿自体の多様化,金 融資産の多様化である。この現象に接近するためには, 資本家以外の階級の貨幣貯蓄に目を向けることに加え て,貨幣貯蓄以外の資産ないし資金に目を向けること も必要になるのである。
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結語に代えて
衽衲市場機構論をめぐって
これまで資本主義的な信用機構は,もっぱら資本家 階級内の資金融通を媒介するための市場機構と考えら れてきた。したがって労働者階級と信用機構とは,ほ ぼ疎遠な関係にあると考えられてきた。 こうした労働者向けの小口金融の取り扱いは,労働 者向けの小売商業の取り扱いと比べても特異である。 たとえば宇野は,「商業資本の考察にあたっては産業 資本家の直接の消費者に対する関係が先ず問題とせら れなければならない」と主張したり(宇野[1950・52]:496頁), 「信用制度による流通費用の節約が資本家と資本家と の間を基礎とするのに対して,商業資本はむしろ産業 資本家と直接の消費者との間の流通費用を節約すると いう点に重点がうつる」と主張したりしている(宇野編[1967・ 68]V:439頁)。宇野の商業資本論が本当に「直接の消費 者に対する関係」を重視していたかどうかは疑問である が,たとえ重視していたにせよ,それは信用論におけ る「直接の消費者に対する関係」の軽視の裏返しなので ある。 同じことは,より本源的な流通論の次元でもいえる。 流通論のなかで信用関係が論じられるのは,貨幣の支払手段機能にかんする説明と,金貸資本的形式にか んする説明のなかである。どちらの説明においても, 労働者の存在は明示的ではない。 まず貨幣の支払手段機能にかんしてであるが,これ は従来,資金の余裕のある売り手が商品を掛けで売り, 後日支払を受けるケースを取り上げて説明されてきた。 しかし,この掛け売買に労働者が何らかの立場で関わ ることがあるとしても,それは少なくとも売り手の立場で はないであろう。宇野の「資金の資本への転化」論の観 点からすると,労働者による資金形成はごく例外的な現 象でしかなく,しかも個人的な生活資金の形成衽衲宇 野のいう「簞笥預金」衽衲の域を出ないと考えざるをえ ないからである。しかしまた,従来の賃金生存費説の ように,労賃は一労働日の終わりに即金で支払われ, その日の内に全て生活資料に支出されるものと考えると, 労働者が掛け売買の買い手の立場に回ることも,原則 的には想定しがたいケースになろう。 次に金貸資本的形式にかんしてであるが,これは従 来,商人資本的形式の資本に貨幣を貸し付けるケース を取り上げて説明されてきた。問題は,労働者に貨幣 を貸し付けるケースを想定できるかどうかであるが,そ れが従来の原理論の想定を超えたケースになるのは明 白であろう。 宇野によれば,金貸資本的形式は歴史的実在として の金貸資本をベースに置いて説かれるべきものである。 しかしこの金貸資本は,歴史的実在としての高利貸資 本とは別ものである。高利貸資本であれば生活に窮し た労働者に貸し付けることもあるが,金貸資本は「資本 に対する資本」であり,あくまで資本家(商人)に貸し付 けるものと考えなければならない衽衲およそ以上が,宇 野の基本的な考え方であった(宇野[1964]:32-33頁)。こ の考え方の下,流通論次元から分配論次元に至るまで, 労働者はいわば終始一貫して金融排除の状態に置か れているという想定が厳守されてきたのである。 労働者の資産ないし資金を原理論のなかに組み込 むことは,こうした想定に一穴を穿つ。本稿の第3節で 述べたように,まとまった額の投資用資金も,生活の 支えとなる小口の貨幣貯蓄も,「貯蓄・支払・新規の購 入にあてられうる貨幣」であることに変わりはない。とす れば,労賃の支給日よりも前に,労働者が資本家から 掛けで生活資料を買って,その支払のために労賃の一 部を貯えることは,特に原理論の想定を超えたケースと はいえないであろう。 資産や資金の多寡は,まず労働市場における売り手 としての労働者のポジションを変え,次に商品市場に おける買い手としての労働者のポジションを変え,最終 的には信用機構における借り手・貸し手としての労働者 のポジションにまで影響する。そうした関連のなかで, たとえ貨幣貯蓄がない労働者でも,担保物件になるよ うな現物資産があれば,その資産価値に見合った金額 の資金融通を信用機構から受けることができる。また 貨幣貯蓄がある労働者は,それを信用機構以外の市 場機構で運用して高収益を上げることに成功すれば, 財産所得が増えた分だけ勤労所得に依存する度合い は弱まるから,労働市場におけるポジションを現在より もいっそう有利にすることができる。かつて宇野は, 「資金論」と題する有名な論考のなかで,労働力と資金 とを形式的に対比することで労働力商品の特殊性を明 らかにすることを試みたが(宇野[1959]:191-193頁),両者 の間にはたんなる形式面での異同を超えた結びつきが 潜んでいるのである。 そしてこのように,信用機構を含めた市場機構に動 員される資金の源泉が資本家以外の階級にまで広がる ことは,必然的に,市場機構にたいして産業資本から の相対的な独立性を与えることになる。 マルクスは,好況末期の商品投機における商業資本 の「外的独立性」を,産業資本への「内的依存性」をお おい隠す仮象として説明していた。商業資本はあくまで 産業資本の蓄積を補助するために存在しており,商業 資本がこの役割から逸脱することがあるにせよ,それは 好況末期における一時的現象でしかないと考えられて きたのである。マルクスはこの考え方を,商業資本は 「生産的資本の代理人」(Marx[1964]:S. 339)にすぎないと いういい方で表明している。 同じ考え方は,商業資本以外の市場機構にも適用さ れてきた。マルクスは,資本主義的生産の下にある利 子生み資本は,産業資本にたいする「従属的な存在形 態」にあると説 明している(Marx[1964]:S. 608)。宇 野も, 近代的な銀行資本は「あくまでも産業資本の運動にた いする付属機関である」と規定している(宇野編[1967]:424 頁)。 しかし今日の金融化は,明らかに産業資本の蓄積と いうベースから遊離したところで進展している。しかもそ れは,前世紀後半から今日まで続く長期的な趨勢をな しているのであって,特定の景気局面におけるイレギュ ラーな現象ではない。産業資本から資金を動員して, それを産業資本の要請に応じて運用する「代理人」にす ぎないという伝統的な市場機構像を,そろそろ根本から
見直すべき時期に来ているのである。 今日の文脈で読み解くと,市場機構の「外的独立 性」からは,おそらく二重の含意が読み取れよう。第 1 の含意は,市場機構を構成する諸資本の利潤率が, 産業資本の利潤率から相対的に独立して変動すること にある。第 2の含意は,市場機構における資金運用が, 産業資本のための資金運用に特化していた段階よりも 運用方法の自由度を増すことにある。 まず第 1 の含意であるが,これまで市場機構の取得 する利潤の源泉は,年間のフローとしての産業利潤か らの分与にあると考えられてきた。しかしこれは,本稿 の第1節で述べた非姿態変換型の価値増殖の問題とも 関連するが,既存のストックの持手変換や価格変動か ら生まれるゼロサム型の利潤の存在を捨象した考え方 であろう。市場機構全体で形成されている実物資産や 金融資産の所有権が移転したり,資産市場の相場に 連動してそれらの資産の評価値が増加したりすることに よっても,個別の商業資本や銀行資本の価値増殖は 可能になる。産業部門における資本蓄積が鈍化しても, 直ちに市場機構の成長が行き詰まるわけではないので ある。好況末期において産業利潤の停滞と期待上の商 業利潤の上昇とが並立することは,そのことを示す好例 といってよい。 しかも金融化の下では,資産を担保物件化したり, 評価益自体を追加的に資産化したりするかたちで,既 存のストックの数量自体が自己膨張的な増加を遂げる。 原資産となる金融商品から別の金融商品が派生するデ リバティブ市場の拡大は,社会的再生産の規模が拡張 する速度に合わせて市場が拡大するという堅実な経済 成長のイメージからはかけ離れたところにある。 次に第 2の含意であるが,これまで市場機構で運用 される資金には,運用主体や運用時期によってむろん 違いはあるものの,全体として見るとかなり低いリスク許 容度しかないと考えられてきた。そもそも産業資本の遊 休資金には,流通資本や変動準備金を始めとして,生 産過程との関係からその遊休期間が短く限定されるも のが多い。これらの短期資金は,商品販売の動向を 睨みながら,必要に応じて一定以上の額で回収される 必要がある。そのため,安全性の低い運用方法を選択 することには,強い抵抗が働かざるをえないと考えられ てきたのである❖14)。 しかし産業資本の遊休資金と違って,資本家以外の 階級の貨幣貯蓄には,その遊休期間を短く限定せざる をえない技術的事情は生じにくい。老後のために積み 立てられる貨幣貯蓄は,老後を迎えるまでは遊休する 長期資金とみなすことができる。疾病や失業や不慮の 事故のための貨幣貯蓄も,個々の労働者世帯を超えて 労働者階級全体で積み立てられる場合は,大数の法 則からやはり長期資金とみなすことができる。これらの 長期資金には,安全性は低くても収益性の高い運用方 法を選択する余地が生まれる。 もっとも従来も,遊休期間が例外的に長期にわたる 産業資本の償却資金や蓄積資金には,資本市場にお けるハイリスクの運用の可能性があると考えられてきた。 この論理に従えば,帝国主義段階にそうであったように, 固定資本の巨大化とともに資本市場の規模も大きくなる という話になろう。反対に現代のように,生産投資が 軽薄短小化し,かつ産業部門での資本蓄積が鈍化傾 向をたどる場合は,普通に考えると資本市場の規模は 小さくなるという話になろう。現代の資本市場がボトル ネックから抜け出すためには,やはり年金基金や保険 基金など,資本家以外の階級の長期資金を動員できる かどうかが鍵を握るのである。 しかも本稿の第 3 節で述べたように,これらの基金の リスク許容度が高まり,資本市場に動員される資金の 種類が増えるにつれて,その資金で売買される商品の 種類も増える。先述したデリバティブ市場の拡大の根因 も,産業資本の遊休資金よりも遊離度の高い(拘束度 の低い)遊休資金が「極めて広汎なる種々なる社会層」 から動員されるようになったことに求められよう。産業 資本の発行した債務や出資持分が,資本市場におけ る主力商品の座を独占できなくなる代わりに,自治体や 個人債務者など,資本未満のさまざまな主体が関わる 金融商品が派生することになる。かかる状況の下での 資本市場の役割は,もはや「資本の商品化」という伝統 的な用語では語り尽くせないのである。 注 ❖1) もっとも,2度目の金融化がいつ始まったのかについては諸説が ありえよう。スウィージーは,1970年代以降の独占資本主義の 動向を「資本蓄積過程の金融化」と把握している(Sweezy[1997])。 ❖2) なお本稿は,引用文献に挙げた6本の拙稿の議論を基にしている。 ❖3) ブラックバーンの指摘によれば,今日の金融化の下では「家計が 企業のように,企業が銀行のように,そして銀行がヘッジファンド
のように行動すること」が奨励される(Blackburn[2008]:p. 100)。 ストックハマーも,今日の金融化の特徴の1つとして,「従来銀 行信用へのアクセスを制限されていたグループのアクセス機会の 増大」を挙げている(Stockhammer[2008]:p. 184)。 ❖4) 宇野[1959]:163-185頁,宇野[1964]:147-148頁,159頁を 参照せよ。 ❖5) 宇野[1950・52]:472頁を参照せよ。 ❖6) 宇 野[1950・52]:509-510頁,宇 野[1959]:209 頁,宇 野 [1964]:159頁,宇野編[1967]:448頁を参照せよ。 ❖7) α型資本・β型資本という用語法は,渡辺[1984]によった。 ❖8) 宇 野 編[1967・68]I: 266-268頁,宇 野 編[1967・68]V: 334 -335頁,宇野[1969b]: 72頁を参照せよ。 ❖9) 宇野[1950・52]:106頁,宇野編[1967・68]I: 266頁を参照せよ。 ❖10) 宇野[1948]:162頁,宇野編[1967]:263頁,266頁を参照せよ。 ❖11) 宇野[1950・52]:67-68頁,宇野[1964]:29頁も参照せよ。 ❖12) 小幡[2009]:64-65頁,304頁,小幡[2013]:108-159頁を参 照せよ。 ❖13) 伊藤誠は,先般のサブプライム・ローン問題の根底に,労働者 を金融面からも搾取・収奪しようとする「労働力の金融化」の動向 を読み取っている(伊藤[2009]:30-35頁)。Lapavitsas[2010]: 50-53頁も参照せよ。 ❖14) 山口[1984]:140頁,山口[1985]:235-237頁を参照せよ。 引用文献
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