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第4回広島平和記念式典中学生派遣団 概要

第4回広島平和記念式典 派遣団員名簿

派遣中学生 報告文

私が広島で学んだこと 袋井中学校 2年 友田 歩乃加 ・・・4 忘れてはいけないこと 袋井中学校 2年 山梨 結生 ・・・5 広島平和記念式典中学生派遣に参加して 袋井中学校 2年 鈴木 花純 ・・・6 広島平和記念式典に参列して 袋井中学校 1年 由利 一純 ・・・7 平和な未来へのつなぎ目に 周南中学校 3年 佐藤 円 ・・・8 広島に行って感じたこと 周南中学校 3年 大庭 瑞希 ・・・9 広島で感じ、学んだこと 周南中学校 3年 川副 柚衣 ・・・10 手と手を取り合うこと 周南中学校 3年 根津 名々星 ・・・11 広島の思いを世界へ 袋井南中学校 3年 桒原 羽月 ・・・12 広島の平和への願い 袋井南中学校 2年 金原 華香 ・・・13 これからの平和は日本が築く 袋井南中学校 2年 早川 莉那 ・・・14 平和 袋井南中学校 2年 門名 真悠 ・・・15 みんなが願う平和 浅羽中学校 3年 松下 みらい ・・・16 戦争のない未来のために 浅羽中学校 3年 鈴木 彩萌 ・・・17 大きな傷 浅羽中学校 3年 江口 未桜 ・・・18 平和への第一歩 浅羽中学校 3年 稲本 愛奈 ・・・19

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広島から 平和を学ぼう・平和を伝えよう

第4回広島平和記念式典中学生派遣団

目 的 広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式典に中学生を派遣

し、原爆の投下された地で様々なものを自身で感じてもらうと

同時に、平和への思いを継承することを目的とする。

主 催 袋井市

日 程 平成 30 年8月5日(日)、6日(月) 1泊2日

中学生団員 16 名(袋井市立中学校生徒)

事前、事後研修会等

・事前説明会 7月 16 日(月・祝)

10:00~11:30

・結団式、事前学習会 7月 23 日(月)

15:00~16:30

・事後報告作文の提出 8月末

1,000 字~1,200 字

・袋井市戦没者戦災死者追悼平和祈願式典

8月 15 日(水)

・校内報告会 2学期に各学校で計画

事前研修会等でお世話に なっ た方々

○事前学習・講師 磯部 典子 さん

(静岡県原水爆被害者の会 二世部会代表)

○広島平和記念公園内・ガイド(語り部)

大中 伸一 さん

(広島市原爆被害者団体協議会・被爆体験伝承語り部)

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団長

整理 № 学年 学校名 整理 № 学年 学校名

平成30年度 第4回広島平和祈念式典中学生派遣

派遣団員名簿

氏   名 氏   名 1

3

さとう まどか

佐藤 円

3

浅羽中

袋井市立浅羽中学校校長

3 2 すずき あやめ 10

袋井南中

9 ねず ななせ  企画財政部企画政策課企画係主査  教育委員会学校教育課主幹兼指導主事  袋井市立周南中学校教諭

沼野 伸一

事務局(随行)

藤江 祐子

3

大庭 瑞希

かわぞえ ゆずい

川副 柚衣

3

川村 恵子

大石 和正

おおば みずき まつした みらい いなもと あいな

稲本 愛奈

3

3

くわはら はづき

3

桒原 羽月

松下 みらい

6 きんぱら はるか

2

金原 華香

4 5 はやかわ りな

2

早川 莉那

周南中

3

11

3

鈴木 彩萌

えぐち みお

江口 未桜

根津 名々星

12 8 もんな みゆ

2

門名 真悠

7

袋井中

16 ゆり かすみ

1

由利 一純

14 やまなし ゆう

2

山梨 結生

2

友田 歩乃加

15 すずき かすみ

2

鈴木 花純

13 ともだ ほのか

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-3-- 4 -3--

私が広島で学んだこと

袋井中学校 友田 歩乃加

平成 30 年8月6日広島に平和の鐘が響きました。その 73 年前、一つの原子爆弾によ って一瞬で町は破壊され、無差別に人々を殺していきました。そして今もなお、心に傷 を負い、重い後遺症に苦しんでいる人がいます。 私は広島の、平和記念式典に参列しました。そこには、世界のさまざまな国の人が訪 れていて、参列者は数えきれないほどでした。私は、こんなたくさんの人が犠牲者の追 悼のために、世界の平和のために集まってくれたことにとても感動しました。赤と黒だ けの町になってしまった広島が、がれきの山となってしまった広島が、そこにあったの です。今では想像もつかないほどでした。式典での小学生の平和への誓いは、とても心 に刻みこまれました。私たちよりも幼い子が平和を祈り、それをたくさんの人に伝えて いく、これは、私たちの使命であると思います。 私は平和記念資料館を見学しました。そこには血がついたワンピース、被爆者が描い た絵など、衝撃的で、悲惨なものでした。その中でも印象に残ったのは人影の石です。 熱線と放射線の恐ろしさを物語っています。しかし数多くの展示物を実際に見たことで、 原子爆弾のこわさを思い知らされました。戦争というものがとても身近に感じられまし た。 私たちの歳で被爆した人は 80 歳代になりました。本当はあの恐怖を語りたくないは ずなのに、私たちのために、平和な未来のために語ってくださります。そんな方たちの ためにも、私たちは、核兵器のおそろしさを知り、学び、後世に伝えていかなくてはい けません。 平和の鐘に描かれている地図には国境がありません。互いを認め合い、一丸となって いかないといけないという思いがこめられていると思います。しかし、今でも内戦や紛 争で苦しむ人や核兵器の保有を正当化する人がいます。けれど、私は絶対にやってはい けないことだと思います。私は戦争というものを知りません。しかし、語りつがれてい る事実を知り、世界に広めていかなくてはいけません。世界の人と共に、核兵器のない 平和な世界のために。

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忘れてはいけないこと

袋井中学校 山梨 結生

73 年前、8月6日の午前8時 15 分に投下されたその爆弾は、一瞬の光とともに無差 別に罪のない多くの人々の命をうばっていきました。原爆です。原爆は熱線、爆風、放 射線を出し、広島の町を地獄へと変えました。 僕は、広島で父親が原爆の被害にあった大中さんの話を聞きました。大中さんは原爆 のおそろしさなど多くのことを僕に教えてくれましたが、その中でも一番印象に残って いる言葉は、「戦争では、人をたくさん殺した人が英雄になる。」という言葉です。そん な考えは間違いだと思います。そして、そんな考えを持つ世の中をこれから二度とつく らないようにしていくべきだと思います。 広島には、平和の 灯ともしびというものがあります。平和の灯は、核兵器がこの世からなく なることを祈り、燃え続けています。そして核兵器がこの世からなくなったときにその 灯は消されます。ですが、灯は今でも燃え続けています。雨の日も、台風の日も。まる で「核兵器をなくしてくれ」と必死に主張しているかのように。僕たちはいつかその灯 が消されるように原爆のおそろしさを胸に刻み、伝えていかなければなりません。 8月6日に行われた式典には、約5万人もの人が参加し、80 をこえるいろんな国の 人々が参加しました。それだけ多くの人が式典に参加することはとても価値のあること だと思います。そして、戦争をなくし、核兵器をなくしたい。という多くの思いが集ま っていることを知り、とても感動しました。式典に参加した多くの人たちがしっかりと 原爆のおそろしさを胸に刻み、まわりの人たちにそのことを伝えていければ、さらに世 界での核兵器の製造や使用などを抑える抑止力につながると思います。今よりもっと核 兵器のおそろしさを知ってくれる人が増えたら、核兵器のない世の中に少しずつ近づい ていけると思います。 73 年という長い時間がたち、被爆者の方が減っていると同時に原爆のおそろしさを 伝える人も減ってきています。そして、今、世の中では多くの人が、原爆がもたらした 惨劇を忘れかけてきています。 日本は初めて核兵器を使用された国です。そして、日本の国民がされたことはいつま でも私たちが忘れてはいけないことです。だから、次の世代の人間がさらに次の世代の 人間へ伝えていく必要があります。その役割を僕たちは忘れてはいけません。次の世代 である僕たちが核兵器のおそろしさを知り、伝えていくことは、今僕たちにできる一番 の核兵器撲滅運動になるのではないでしょうか。世界にはまだ核兵器を所持している国 や核兵器の製造を続けている国が数多くあります。なぜ核兵器が世界からなくならない のか。どうしたら核兵器をなくすことができるのか。という考えを僕の文章をきっかけ にもってくれると、とてもありがたいです。

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広島平和記念式典中学生派遣に参加して

袋井中学校 鈴木 花純

昭和 20 年8月6日、午前8時 15 分。空は青く、よく晴れた日でした。一発の原爆は 広島を赤と黒の地獄へと突き落としました。何の罪もない人々が、なぜ死んでしまわな ければいけないのでしょうか。皮膚は焼け、肉がむき出しになりながらも、「お母さん、 お母さん。」と助けを求める子ども。「水をください、水をください。」と叫ぶ人々。ど うしても水が欲しく、油が浮き出た水を飲んだ人もいるそうです。原爆の熱の影響で体 中が熱くてたまらず、川に飛び込む人々。郵便局の開店を、朝早くから腰をかけて待っ ていた人が、原爆の熱で一瞬にして溶けてしまい、その人の影だけが残ったそうです。 私はその話を聞き、改めて原爆の怖さを感じました。人が溶けて無くなってしまう。一 体、どれだけの熱さだったでしょう。想像しただけでも、胸が痛みました。 資料館には、戦争がどれだけ恐ろしいものかを示す写真や、実物などが沢山有りまし た。ワンピースが、血だらけになり、ひどく破れているものが展示されていました。特 に衝撃的だったのは、全身に火傷を負い、皮膚は破れ人だったかどうかさえ、分からな くなってしまった女性の写真です。 原爆の爆心地から、約4キロ離れた場所にも大きく被害をもたらしました。直接、被 爆をしていなくても、放射線を浴びてしまった水や、食料を口にしてしまった場合も、 被爆してしまうのです。 そして、被爆者の方から産まれた子にも、影響は出ます。生後から、いつ被爆の影響 が出るのかは分かりません。急に、高熱が出て体中に、斑点ができ髪は抜け、苦しみな がら亡くなってしまう子どもがいたり、指が、一本足りなかったり、手足が変形して産 まれてきたりしました。 まだ今も、自分がいつ被爆の影響が出るか分からず、苦しんでいる人々がいます。 原爆を実際に体験し、語ってくれている人たちは、減り続けています。戦争や、原爆の 恐ろしさ、罪の無い人々が死に、苦しんでいるという事を、私達が、伝えていくべきだ と強く思います。

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広島平和記念式典に参列して

袋井中学校 由利 一純

73 年前の「原爆」について私はくわしく知りませんでした。「原爆」とは、ただ落ち て爆発し、たくさんの人が死んだと広島に行く前の私は思っていました。 実際に広島に行ってみて、私の想像をこえた光景が待っていました。目の前には、鉄 骨がむき出しになった原爆ドーム、けずれた石など、73 年前と変わらない建物が残っ ていました。けずれた石は原爆ドームの一部分で、広島市原爆被爆者団体協議会の大中 さんの話によると、残った建物の様子から「原爆」の爆風がどのように吹いていたかわ かるそうです。けずれた石とけずれていない石があり、石がけずれていた部分は、物が 当たったあとだと聞きました。つまり爆風は、石がけずれているところに向かって吹い たということです。しかし爆風は、不思議な動きもしていたそうです。爆風とは反対側 に木が倒れていたそうです。爆風が折り返してきたということです。この話を聞き、私 は爆風のこわさとすごさを感じました。 資料館には、たくさんの実物や写真が置かれていました。私が一番印象に残ったもの は、8時 15 分で止まった時計です。その時間の 73 年前に広島で起こったことを考える と、鳥肌が立ちます。その時間は忘れてはいけません。忘れることより、広めていくこ とが大事だと思います。原爆ドームや、8時 15 分で止まった時計をはじめ、すべてが 73 年前を語っているように私は、見えました。 平和記念式典に参列しました。世界中の人たちがきていました。私たちと同じように 他の県や市から代表してきている小学生、中学生もいました。平和記念式典に参列した 誰もが、平和を強く願い、核兵器をなくすべきだと思っているに違いないと思いました。 なぜ、私たち中学生が、市の代表として広島に行ったのか、考えてみました。まわり の友達に「広島に原爆が落ちた日って何日か知っている?」と聞いてみました。すると、 「8月 15 日」や「知らない」など「8月6日」と即答してくれる子はいませんでした。 まだ、私の周りには、広島の原爆について知らない人がいるのです。私自身、今回広島 に行って初めて知ったことがたくさんありました。なぜ、中学生が市の代表として広島 に行ったのか。それはたくさんの人に伝えることができるからだと思います。家族で「原 爆」のことについて話すことがありませんでした。今回私が広島へ行ったことにより、 「原爆」の話を父や母、妹そして、友達に話し、戦争に関するテレビを見ることが多く なりました。そうやって「原爆」について広めていくことが私たちの役割だと思います。 「原爆」がもたらした被害は今もなお、続いています。何も知らずに広島に行った私 が、「原爆」は他の爆弾以上にこわいものだと強く感じました。これからも、世界中で 核兵器廃絶を実施していくことを私たちが進めていくべきだと思いました。

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平和な未来へのつなぎ目に

周南中学校 3年 佐藤 円

多くの人であふれる原爆ドーム。真夏の太陽の日差しが、原爆の悲惨さを映し出して いました。広島の路面電車から降りて、最初に見た光景に、私はとても驚きました。ド ームの周りをたくさんの外国人が見学しており、高く、大きな建物が取り囲んでいます。 しかし、柵で囲まれた原爆ドームは、ほぼ原爆が投下された時のまま痛々しい傷跡を残 して佇んでいました。 ガイドの大中さんのお話で、原爆は爆心地の上空約 600 メートルの地点で爆発し、わ ずか3秒で 4000 度の熱線、爆風が吹いたということを知りました。当時のことを想像 してみると、本当におそろしいことだと思います。なぜ、何の罪もない多くの人が殺さ れなければいけないのか。なぜ、こんなに恐ろしい兵器をつくってしまったのか。原爆 や原爆による被害を知れば知るほど、私の怒りは大きくなりました。そんな中で、平和 記念資料館で私が一番印象に残ったのが、幼い子どもが被爆によって全身にやけどを負 った写真です。やけどだけでなく、他にもたくさんの被害を受けた子どもたちの写真が ありました。子どもたちは、たとえ戦争中であったとしてもこれからの未来を一生懸命 生きようとしていたはずです。それなのに戦争という人間のつくり出した醜い争いによ って、そんな子どもたちの未来が壊されてしまったことを私は本当に許せません。私は 今こうして平和な世の中で生きていることができます。資料館での写真を見て、子ども たちの分まで明るく精一杯生きていこうと思いました。 そして8月6日、広島に原爆が投下された日、平和記念式が行われました。記念式で は子ども代表による平和への誓いが行われ、平和の鐘が世界へと響きわたりました。平 和への誓いの中で、『人間は、美しいものをつくることができます。人々を助け、笑顔 にすることができます。しかし、恐ろしいものをつくってしまうのも人間です。』とい う文がありました。戦争を起こしたのは私たち人間。恐ろしい兵器をつくり出したのも 人間です。けれど、同時にまた平和をつくることもできるのだと強く感じました。人は 戦争をする前、本当の平和が何なのか、気づけていなかったと思います。物、お金、軍 事力などに心が奪われて一番身近で幸せな「平和」を忘れてしまっていたことをとても 悲しく思います。 戦争が終わってもなお、苦しみ続けている人々はもう二度と戦争を起こしてほしくな い、と強く平和を願っています。これらの思いを、私たちのような戦争を見たことがな い、体験したことがない人が語りついでいかなければいけません。 今、世界には核爆弾が2万発以上あると考えられています。しかし、非核兵器地帯も 100 カ国以上に広がっています。被爆者たちの平和への願いが広まっているのだと実感 しました。これからも核兵器が減り、地球から消えることを望んでいます。 私は平和記念式典に参加して改めて平和の大切さ、命の尊さを感じました。私が感じ たことを多くの人に伝え、核兵器のない、平和な未来へのつなぎ目になります。

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広島に行って感じたこと

周南中学校 大庭 瑞希

広島には、雲一つない鮮やかな、美しい空が広がっていました。しかし、そこにあっ た原爆ドームは、原爆の恐ろしさを確かに物語っていました。73 年前の8月6日、午 前8時 15 分、広島にたった一発の原子爆弾が投下されました。むき出しになった鉄骨、 吹き飛んだレンガの壁を目の当たりにし、原爆の被害の大きさを感じました。資料館で 見た写真や絵、真っ黒に焦げたお弁当箱、ガラス片が刺さって血のついたぼろぼろのワ ンピース。自分の子供を焼く母親の絵を見て胸が締め付けられました。核兵器の恐ろし さは、私の想像をはるかに超えていました。原爆投下後は、被爆者にとって原爆の記憶 を呼び覚ます原爆ドームを残すかどうか、賛成と反対、両方の意見があったそうです。 しかし、この恐ろしい原爆の脅威を伝えていき、二度と核兵器による被爆者をつくらぬ ように原爆ドームを残すことを決意したそうです。 平和記念式典には、大勢の人が参列していました。その人数は約5万人で、参列国も 80 ヵ国を超え、世界の核兵器廃絶への想いの強さを感じ、とてもうれしく思いました。 昨年、核兵器禁止条約の成立に貢献したICAZが、ノーベル平和賞を受賞しました。 しかし、日本は核兵器禁止条約に参加をしていません。世界に核兵器廃絶の声が広がる 一方で、未だたくさんの核兵器がこの世界に眠っていることも事実です。私は、核の傘 という考え方を正当化し、保証されない安全を頼る限り、この世界から核兵器がなくな ることはないと思います。 原爆は、罪のない子供たちの未来を、夢を、命を一瞬にして奪いました。しかし、私 たちには未来があります。戦争をしない道を選ぶことができます。 終戦から 73 年が経ち、日本が戦争をしていないことがあたりまえになりつつありま す。しかし、平和はあたりまえなものではないのだと学びました。広島に行って、二度 と過ちを繰り返さないように、二度と被爆者をつくらないように、日本の未来を担う私 たちのような若い世代が、戦争の悲惨さ、平和の大切さを次の世代に継承していかなけ ればならないという使命、責任を感じました。そのために、戦争を知らない私達が戦争 についてもっと学ぶべきだと思います。 平和とは、全ての人が幸せで、人の幸せを願うことだと思います。平和な世界の実現 に向けて私たちができることは、原爆投下後の惨状を風化させないことです。その惨状 は心が痛むものです。しかし、絶対に目を背けてはならないと思いました。私たちが伝 えていかなければならないのです。 平和記念公園には、「平和の灯」という炎が赤々と燃えています。この火は、昭和 39 年から今まで、ずっと消えることなく燃え続けています。この世界から核兵器がなくな ったとき、この火は消えるのです。私は一日でも早くこの火が消えることを祈ります。 核兵器廃絶と恒久平和の実現を願って。

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広島で感じ、学んだこと

周南中学校 川副 柚衣

私がこの広島平和記念式典中学生派遣に参加するにあたり、一番学びたいと思ってい たことは原爆が落された当時広島県はどのような様子や状態だったのか、原爆で広島に 住んでいた人はどのような影響を受けたのかでした。この派遣に参加してそれを学ぶこ とができました。原子爆弾は原爆ドームの地上から 600 メートルの空中で爆破しました。 死者は 14 万人、広島周辺の県だけでなく遠く離れた県にまで影響し死者が出ました。 たった一発の原子爆弾で 14 万人の死者が出たこの出来事は絶対に忘れてはいけないな と強く感じました。原爆が落された広島県は、一瞬にして焼け野原になり、水や食べ物 がなく道ばたには死体があり「お母さん」と呼ぶ声や「助けて、水をください」とうめ く声がいろんなところである、そんな状態に変わりました。路面電車で原爆ドームまで 行き、電車を降りると目の前に原爆ドームがありました。私はドームを見た瞬間言葉が 出なくなりました。修復は何回もやっていますが、爪跡から当時の状況がとても分かり 原子爆弾の怖さやひどさが見ただけで伝わりました。原爆ドームの中にはたくさんのレ ンガが落ちていて原爆の強さも伝わりました。平和記念館に行くとスロープがあり、そ の回り方は時計と反対回りで、あのときへ時間がさかのぼっていくというものでした。 その先には爆心地付近からみた被爆後の街並みを死没者数 14 万人と同数のタイルを用 いて表現されていました。その空間のまん中には原爆が落とされた 8 時 15 分を表すも のがありました。その空間にいると落とされた当時にいたような気がしました。次に資 料館に行くと当時被害にあった人が着ていた服や家の中にあった時計、自転車、置物が 展示してあり、服を見ると破れ、こげている部分もありよく見ると血がついているとこ ろもありました。実物を見ることで当時の状況がよりいっそう分かりました。火事で焼 けた三輪車、8 時 15 分で止まっている時計など、どれを見ても悲しく、とても苦しく 思いました。佐々木禎子さんの遺品の中にある禎子さんの両親がプレゼントしたぞうり はとても使いこまれていて、気に入っていたのだなと思いました。禎子さんが病気が治 ると信じて折り続けた折り鶴もあり、とても鶴は小さく禎子さんは器用だったのかなと 思いました。禎子さんが闘病していたときのカルテがあり、そこには不思議なものがあ りました。そのカルテには白血球、血小板、赤血球の数値が書かれており、赤血球だけ 血小板や白血球をはるかに上回るとても大きな数値が書いてありました。この数値は禎 子さんが夜中に自分で書いたといわれています。 この派遣を通し、広島に行く前から戦争の怖さや原爆のひどさは知っていましたが、 実際に現地に行くことで、そのひどさなどをよりいっそう感じることができました。こ の出来事は絶対に忘れてはいけないものだと思います。この派遣で知ったり学んだりし たことを何らかの形で自分の言葉で世界中の人に教えたいと思いました。

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手と手を取り合うこと

周南中学校 根津 名々星

終戦から 73 年、私たちの生活には戦争の面影はありません。平和とは何か、どのよ うなことを私たち若い世代が学び発信していけばよいのでしょうか。今回の研修で、大 きなことを学びました。 「戦争とは恐ろしいもの」、「核兵器は二度と使用してはいけない」、私は戦争の恐ろ しさも、戦争の悲惨さも、学校の歴史の授業で学び、分かっているつもりでした。しか し、教科書や書籍で学んだ知識は、一瞬で覆されてしまいました。現代の建物が建ち並 ぶ市街でした。一部が崩れ、骨組がみえるドームに「この建物の上に原子爆弾が落され たのか。今、この場にもし落ちたら。」そう考えると、私は体が震えました。資料館に は、体中の皮膚がボロボロになっている人の写真や全身がやけどになり、川に入ろうと する人の写真などがありました。毎日を精一杯生きている人々の命の光を奪う、原子爆 弾の光にはそれ程の力があることを知りました。 終戦から 73 年経った今でも、平和記念式典には日本や海外から多くの人々が集まり ました。なぜこれだけ多くの人々が広島に集まり、平和を願うのでしょうか。私は命の 尊さを改めて思い返すためだと感じました。原子爆弾によって家族の光を無くした人、 放射線によって、自分の人生の光を消されてしまった人、そしてその事実に心を痛め集 まった人々、その場に集まったすべての人の願いは命の光を大切にすることです。 今年、大雨により広島や愛媛をはじめ、全国の多くの場所が被害を受けました。自衛 隊やボランティアなど多くの人々が手と手を取り合い、復興をしています。困った人に 手をさしのべる、人と人が手を取り合うことは、大きな力を得ることができます。今の 私にできること、それは教科書や書籍などでは感じるとることのできない、肌で感じた 命の光の尊さを友達や家族に発信し、またその友達からも発信をして平和の輪を広げる ことだと思います。私たち若い世代も一緒になり手と手を取り合い、そして、平和の輪 が世界の輪になれば、きっと光が絶えることのない世界になると確信しています。

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広島の思いを世界へ

袋井南中学校 桒原 羽月

青々とした自然豊かな大地。青く光る海。今私たちが暮らす日本は多くの美しい自然 に満ちています。 しかし、1945 年8月6日午前8時 15 分。広島に投下された原子爆弾により多くの人々 の命が奪われました。小さい子供も大人も老人の方も一瞬にして闇に襲われ、生活やこ れからの未来を失いました。 そして今、終戦から 73 年が経ちました。私は、今回袋井市を代表して広島平和記念 式典に参加しました。初めて近くで見た原爆ドームは核兵器の恐ろしさを物語っていま した。また、原爆の子の像の周りにはたくさんの千羽鶴が飾られていました。私たちも 千羽鶴を納め、平和への思いを託してきました。 平和記念資料館では戦争に苦しむ数多くの人の写真・破壊された建物の写真・遺品の 展示を見てとても心が締めつけられました。多くの人の悲痛の叫びが聞こえてくるよう な展示ばかりで戦争の恐ろしさを深く胸に刻むことができました。私が特に心に残った ものは、被爆したとき着ていたワンピースや衣服の展示です。ワンピースには血がつき ボロボロになっていました。一発の原子爆弾により多くの人が重く・苦しい被害を受け たことを想像させるものでした。 そして式典の日の8時 15 分。私たちを含め多くの人々が原爆による犠牲者を哀悼し、 これからの平和を強く願い黙祷をしました。また式典にはたくさんの外国の方々も参列 していました。私は日本以外の国々の方も「平和」に目を向けている姿にとても感動し ました。 「核兵器」は多くの人の命を奪い、今もなお放射線による後遺症により苦しんでいる 人たちがいます。しかし私は現在核兵器が世界に 14000 発を超えるほどあることを知り ました。私たちは世界で唯一原子爆弾が落とされた国として核のない世界へ、平和へ向 け進んでいかなければいけません。そのためにも私は今回の貴重な体験で「伝える」と いうことの大切さを学びました。私たちは戦争を体験していませんが、戦争当時の様子 を写真・遺品・被爆者の話を見て聞いて知ることができます。それは今までたくさんの 人々が伝え残してくれたおかげです。また多くの人々が苦しく悲惨な戦争に目を背けず まっすぐと平和への願いをつなげてきてくれたおかげです。私たちは伝えてくれた人々 の願い・思いをこれからの未来に語り継いでいく必要があります。私も体験したことを 学校の友達・まわりの人に伝えていきたいと思います。そして世界平和の実現に向け貢 献していきます。「核兵器」は一発たりとも使われてはなりません。たくさんの人の心 と体を傷つけてしまうからです。 世界全体が核兵器廃絶に現在まで私たちは伝え続けていきます。忘れてはならない過 去を。あの日、あの一瞬に起きたことを。未来の平和に向けて発信し続けます。

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広島の平和への願い

袋井南中学校 2年 金原 華香

1945 年8月6日午前8時 15 分、一発の原爆で罪のない人の命が一瞬にして奪われま した。原爆によって広島の町は焼かれてしまいました。 現在私たちは、唯一の被爆国として世界に原爆をなくそうと訴えています。しかし、 世界にはまだ核兵器をたくさんつくっているような国もあり、未だに核兵器はなくなり ません。どうしたら核兵器のない平和な世界ができるのかと思っていました。 そんなとき、私は広島平和記念式典に参加できる機会を得ました。私は広島で原爆の おそろしさを学んできたいと思いました。 平和記念資料館では、被爆直後の様子の絵がありました。そこには水を求めて川に入 っていく人の絵や、やけどで全身がまっ黒になった人の絵などがあり、正直目を背けた かったです。中でも一番衝撃だったものは一枚のワンピースでした。そのワンピースは、 爆風でガラスが割れ、その破片が刺さり、血がついたものでした。私の想像以上の展示 物ばかりでとてもおそろしく感じました。しかし、私はテレビなどで見るよりも実際に 見た方が原爆による被害をより強く感じました。 今回広島を訪問する機会を得てたくさんのことを学びました。私は戦争を経験してい ませんが、これからもっと戦争のことを学ぶ必要があると私は考えます。たった一発の 原爆でたくさんの死と、苦しみや悲しみがあることを知りました。実際に見たり、被爆 二世の方の話を聞いたりして戦争のことを深く知ると同時にもう二度と戦争を起こし てほしくないという願いもありました。私はきっと広島の人たちも平和を願っていると 思います。そのためには、世界中の人に戦争について深く理解してもらいたいです。核 兵器のおそろしさを実際に感じてみればきっと戦争はしてはいけないと思うはずです。 次の世代を担う私たちができることは何でしょうか。平和記念式典には私と同じ中学 生もいましたが、外国人の方も大勢来ていました。私たちができることは、戦争によっ て起こってしまったことに関心をもち、原爆によって失ってしまったものなどを学んで いくことだと思います。失ってしまったものはもう戻りません。だからこそ、その経験 を生かし核兵器のない平和な未来を築き上げる必要があると思います。そして平和な未 来を築き上げるのは次世代を担う私たちの使命だと思いました。

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これからの平和は日本が築く

袋井南中学校 早川 莉那

8月6日、午前8時 15 分、平和の鐘の音が鳴り響く中、沢山の人々がそっと目を閉 じました。73 年前、この日、午前8時 15 分、この場所に投下された一発の原子爆弾に よって、広島の街が一瞬にして破壊されました。多くの人々の命を奪い、家族、友達、 思い出までも原子爆弾によって失われてしまったのです。目に見えない放射線により、 今なお、多くの人々を苦しめ続けているのです。 広島平和記念式典に参加して、私の平和に対する願いが大きく変わりました。本やテ レビなどで戦争のことを知っていると思っていたけど、実際に広島に行ってみると本や テレビからは伝わってこなかった戦争の被害の大きさや、原爆のおそろしさを感じまし た。自分の目で戦争の凄惨さを知るとともに、今、私たちが平和に毎日を過ごせている ことを誇りに思います。私たちだけではなく、何万人という参列者が、広島平和記念式 典に参加していました。日本だけでなく世界中から広島の犠牲者を追悼するため、そし て二度と 73 年前のように罪のない人々を過酷で凄惨な暮らしに追い込んではいけない という強い思いをもってくれています。 私は、この広島平和記念式典に「平和」という一つの目的のために世界中から訪れて いるということを感じて、とてもうれしくなりました。また、広島を訪れた人々の手か らは平和を願った、色鮮やかな千羽鶴が数多く見られました。「鶴を千羽折ると病気が 治る」という伝説を信じて鶴を折り続けていた 12 歳の佐々木禎子さんの叶わなかった 願いを、日本人をはじめ、世界中の人々が「世界の平和」という願いを込めて禎子さん の死から今日まで千羽鶴が折り続けられてきました。そして、これからも平和を願って 折り続けられていくことでしょう。一つのスイッチで投下された一発の原子爆弾。一発 の原子爆弾によって何の罪もない子どもたちの命が奪われ、家族、友達そして未来まで もが奪われていきました。ついさきほどまで家族や友たちとの話し声や笑い声がとびか っていたのに。大勢の人々がここ日本という私達と同じ国で生活していたのに。明るか った街は一瞬にして奪われてしまったのです。黒焦げになった死体は、年だけでなく性 別はおろか、伝えたいことがあっても伝えられない、感じとってあげられないという有 り様です。亡くなってしまった人を生きかえらせることは私たち人間には不可能です。 ですが、被爆者の無言の叫びを感じとり、平和を世界に訴えることはできます。73 年 前、日本に起きてしまったという現実と私たち一人一人が向き合い、生涯平和な世の中 を願って、言葉にしていくことが大切だと私は思います。私たちは戦争を知りません。 しかし、過去日本に起きた事実を知り、世界の沢山の人々と共に、日本から世界中の平 和を築いていくことが何万人もの被爆者から与えられた使命であると強く感じました。 これからの日本の平和は願うものではなく、築きあげるものだと胸を張って世界に言え るような日本でありたいです。

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平和

袋井南中学校 門名 真悠

「安らかに眠って下さい。私たちはこのような過ちは、二度と繰り返しませんから。」 73 年前、原子爆弾の犠牲になった人たちに今を生きる私たちは胸を張って言えるでし ょうか。 今回、広島平和記念式典中学生派遣に参加して、私は戦争や核兵器というものを改め て考えました。今はインターネットが普及し、クリック一つで、「戦争」「核兵器」とい う言葉を調べられます。写真や絵などを見ることもできます。しかし、今回、私が目の 当たりにしたものはパソコンやスマートフォンで見られるものとは全く違っていまし た。広島平和記念資料館を訪れてそれを見たとき、私は言葉も出ませんでした。血がべ っとりとついた少女のワンピース、黒こげになってしまった弁当箱、影だけが残った石 段・・・その一つ一つが実在していたものでした。写真だけでは伝わらない、原子爆弾 のおそろしさでした。 8月6日、午前8時 15 分。スイッチ一つで投下された一発の原子爆弾が、何の罪も ない人々の命を奪い、人々の家族を奪い、人々のふるさとを奪い、人々の笑顔を奪い、 人々の未来を一瞬で奪っていきました。原子爆弾は一瞬で罪のない人々を地獄へ突き落 としました。そして、今も放射線による病や心の傷を抱えたまま生きている人がいるの です。 戦争はおかしいと思いませんか。普通、人を殺した人は警察につかまり、その罪を反 省し罪を償うものです。人を殺した人は悪者扱いされるものです。でも、戦争は違いま す。対戦している国の人を多く殺した人が、勇者となるのです。たくさんの人を殺した 者が勇者となるこんなことは本当におかしいと思います。 広島の原爆ドームの前に「世界中から核兵器がなくなったら消える火」がありました。 私はこの火のことを聞いて、核兵器がゼロになったら安心できる本当の平和、近い未来 に火が消えてほしいと思いました。そうしたら、原爆で家族を失ってしまった人や傷を 負っている人が少しは安心できる世の中になると思いました。本当の平和な国、世界、 きっと人それぞれ思うことはちがうと思います。私が思う平和は、核兵器や戦争で亡く なる、人間や動物がいなくなることだと思います。 私は今回、広島平和記念式典に参加して、一番強く心に残っていることは、広島の小 学六年生による「平和への誓い」です。特に心に残っている文は、「平和とは、自然に 笑顔になれること。平和とは、人も自分も幸せであること。平和とは、夢や希望をもて る未来があること。」です。私はこの文を聞いて心を打たれました。自分は今、夢が叶 えられる場所にいます。だから、自分の夢を大切にして、叶えたいです。 そして、世界中が理想の平和に近づいてほしいです。

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みんなが願う平和

浅羽中学校 松下 みらい

8時 15 分黙祷。私たちは8月6日の広島平和記念式典に参加しました。 「平和になることは難しいことではない。でも、平和を壊すのも人間だ」こども代表 の小学六年生の生徒の言葉に、私の心は動きました。平和を壊すのも人間なら、平和に することができるのも人間だと気付いたからです。こんな簡単なことに気付けていなか ったのです。小学六年生の考える平和の考えに感動しました。戦争時、「人をたくさん 殺した人が英雄」だと言われていました。英雄とはどんな人物でしょうか。私は人々や 地球を守ろうとする正義感のある人こそ、英雄だと思います。間違った考えが滅ぼした ものはあまりにも大きすぎて取り返しがつかないものです。間違った考えにならないよ うに、戦争がどんなに無意味であるか訴え続ける必要があります。戦争時だからしょう がないのではなく、こんな時代は絶対にあってはならないと思いました。そして、原爆 ドームが物語っている戦争や核兵器の怖さを自分の目で見てほしいと思いました。 「水をください。助けてください。お母さん」この言葉を聞いたとき、胸がすごく締 めつけられました。きっと子どもの言葉だろうと思います。急に周りの人たちが一気に 亡くなっていく怖さ。その怖さは私たちには分かりません。実際に体験した人の話を聞 き、実物を見ない限りなにも分かりません。私たちが分からないとこれからこの時代に 生まれてくる子はもっと分かりません。私たちの見た原爆ドームは残すか残さないかで 賛否が起こったそうです。でも、残してほしいという人が、60 パーセント以上もいて、 残すために必要な一億円を世界中に呼びかけたのです。集まったお金は四億円。私は、 平和になってほしい、原爆ドームを残してほしいと願っている人がどんなにたくさんい るのか思い知らされました。原爆ドームは、熊本地震の規模の地震がくれば壊れてしま うと言われています。そんなときがくるまでに今ここに生きている人に、必死に原爆ド ームを残してくれたたくさんの人の思いを、感じてほしいです。一人一人が原爆に関心 を持ってほしいです。 式典には、外国の方もたくさん参列しており、平和を願ってくれていると思うとうれ しくなりました。しかし、外国の方よりもまず先に日本に住む私たちが平和を祈り、平 和をここから伝えていきたいと強く思いました。そうなるためにはまず、私たち中学生 の派遣団が友達、家族、学校の人たちに伝えていかなくてはなりません。たくさん人が 自分の目で見ることや、知ることでしか、この平和は守られていかないと思います。核 兵器の無くなる平和な未来を信じ、できるだけ多くの人に伝えていきたいと思います

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戦争のない未来のために

浅羽中学校 鈴木 彩萌

73 年前。8月6日の午前8時 15 分、広島にたった一発の「原子爆弾」が投下されて、 一瞬にして多くの命がうばわれました。罪のない人々の命だけでなく、夢や希望もうば った「原子爆弾」という核兵器は、まだ世界にたくさんあります。また、「北朝鮮の核 実験」や「憲法改正」という言葉も最近よく耳にします。そんな中、私は広島記念式典 に参加し、多くのことを学びました。 1日目、私は初めて原爆ドームを見ました。原爆ドームは、レンガが崩れ落ち、鉄骨 がむき出しになっていました。まるで、被爆した人たちがのりうつり「もう二度と戦争 をしないで。」と訴えているようでした。私たちは、広島市原爆被爆者団体協議会の大 中伸一さんから戦争の話を聞きました。私が大中さんの話で一番印象に残ったことは 「目から消えるものは、心からも消えてしまう」という言葉です。たしかに、原爆ドー ムがなかったら、戦争の悲惨さが一目で分かるものがなくなってしまいます。そして、 こんなに心に残るものが簡単に消えて、薄れていってしまうなと思いました。また、こ の1日目で心に残ったものは、原爆ドームだけではありません。それは、資料館にある 原爆についてのたくさんの写真です。それらは、戦争の悲惨さや過酷さが伝わってくる ものばかりで、目をそむけたくなるほどでした。水をほしがる人々、子を抱きながら死 んでしまった母、やせ細った人、やけどを負った人、親を探す子供たち。幅広い年代の 人々が、苦しんでいる写真を見ると、戦争は二度とくり返してはいけないものだと強く 感じました。 2日目は、平和記念式典に参加しました。本当に多くの人が参加していました。私は 外国人の多さに驚きました。歩いていると、アメリカ人や韓国人、他にもたくさんの国 の人が参加していて、世界中の人たちが平和を願っているのだなと思うと、とても感動 しました。「戦争をやめましょう。」と小学生6年生の男女二人が、大きな声で必死に訴 えている姿を見たとき、私はすごくかっこいいと思いました。自分よりも小さいのに、 こんなにも戦争をなくそうとしていて、私はもっとたくさんの人に戦争について知って もらいたいと思いました。そして、戦争をなくし平和な世界になるために、皆で訴え続 けることが大事だと感じました。そしたら、私が小学6年生の訴えを聞いて感動したよ うに、たくさんの人が感動して、平和な世界に近づくと思います。 私は、平和記念式典に参加し、今までテレビや新聞でしか、戦争の悲惨さを読んだり 聞いたりしていなかったことを実際に見ることができました。核兵器をなくし、戦争が 世界からなくなって平和な未来になるために、平和を訴え続けることが大切だと分かり ました。被爆した人たちが減っていく中、私たち若い人たちが、自分から戦争について 知り、深く考え、たくさんの人に伝えていくことが一番大切だと思います。

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大きな傷

浅羽中学校 江口 未桜

8月6日8時 15 分、平和記念公園内の人々が平和に祈りをささげました。聞こえる のは平和の鐘とセミの声。私たちが黙とうをしている 73 年前、どんな悲劇があったか 想像できないでしょう。広島での二日間、たくさんの想いがあふれている場所で、私た ちはたくさん学び、たくさん恐ろしさというものを感じました。 一日目には原爆ドーム、資料館を見て回りました。私がそのときにびっくりしたのは たくさんの人がいたことです。被爆者・被爆者家族の方々や、私たち各県の代表学生は もちろん、外国の方々が多くいたのはとてもすごいなと思いました。それと同時に、こ れだけの人々が平和について考え、平和を祈っていることについても驚きました。そん な多くの人の中で見たのは原爆の恐ろしさを伝えてくる数々の展示物でした。焼けこげ た三輪車、熱でとけたガラスのビンなど、たくさんのものがある中で私の心にとても深 くつきささったのは女学生の服です。原爆の恐怖に逃げまわり、亡くなるまで着ていた 服です。私たちと同じくらいだったり、小さかったりする女学生が状況も分からない中 で「お国のために」、「日本のために」と、一生懸命に働いていました。悪いことは一つ もしていないのに、一つのきっかけで恐怖と苦しみにむしばまれたことをこれらの服は 見ていたのでしょう。そうやって亡くなっていった 14 万人を超える人々を想うととて も悲しくなります。私たちと同じように楽しい生活はできずに原爆が落とされるまでも 苦しく厳しい日常をおくっていたと思います。原爆が落とされたか、落とされていない かという問題ではなく平和であるかどうかということが大切だとすごく思いました。私 たちが今のように暮らせているのも平和があるおかげ、そして平和というものはもろく、 はなかないものだということを感じました。 二日目は平和記念式典に出席しました。一日目に見た人よりもたくさんの人がいまし た。公園内に入らないほどの人数でした。そして式典が始まると話し声がなくなりまし た。平和式典では広島市長、安倍総理大臣など国か広島の代表する人たちが平和につい ての考えを言葉にして観衆に伝えていました。その中で私が一番感動したのは子ども代 表で平和宣言をしていた広島市内の六年生二人の言葉です。とても大きな声で力強く伝 えるその声はすごくかっこよかったです。そして、小学生でも平和というものがわかる のになぜ昔は偉い大人がわからなかったのだろうと思うと、とても悲しい気持ちになり ました。 二日間の派遣を通してたくさんの原爆による大きな傷跡を見ました。一つの爆弾で何 千人、何万人、何十万人その人々を 73 年間傷つけてきました。すごく大きい殺傷力が あるものを作ってしまったこと、そして、それを実験として罪の無い数知れない人々を 苦しめ続けていることは世界の罪だと思います。核兵器は世界中にまだたくさん存在し ています。世界に平和というものの大切さというものを知ってもらいたいです。そして、 二度と罪が起こらないように祈ります。

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平和への第一歩

浅羽中学校 稲本 愛奈

1945 年8月6日、8時 15 分。何の罪もない多くの人々の命を一瞬にして奪ったのは、 たった一発の原子爆弾でした。実験をかねて落とされたその原爆は、アメリカの力を誇 示するためのものでもありました。 あれから 73 年が経ったこの日、私は広島平和記念式典に参加していました。式典に は、86 ヶ国もの国の人々が参加していると聞きました。私が思っていたよりも、日本 以外からの参加者が多くいたことに驚きました。その中は、アメリカからの参加者もい て、原爆を落とした国の人もこんなに関心を持ってくれていると思うと、とても感動し ました。 言葉も文化も違う国の人々が「平和」を目指すためにこの式典に参加しているという ことを知りました。その式典に自分も参加できているということが、とても誇らしく感 じました。 慰霊碑には、多くの花が供えられていました。ここに来た人たちが何を思って花を手 向けていったのかは私には分かりません。しかし、「平和」を目指すという想いは、こ こに来た人全てに共通しているのではないかと思います。 8 時 15 分、黙とう。平和の鐘が鳴り響きました。辺りから全ての「声」が消えまし た。沈黙の一分間は、今までで一番長く感じました。 私がこの式典に参加して改めて感じたことは、私たちは戦争や平和について何も知ら ないということです。 友達と遊べること。安心して眠れること。ご飯を食べられること。「平和」という言 葉の定義は人によって違うと思います。しかし、全ての人がお互いの幸せを考えること ができたのならそれは、平和への第一歩になると思います。 今私たちに出来ることは、被爆して今もまだ苦しんでいる人がいることや、平和のた めに活動している人が世界中にいるということを忘れず、今この瞬間もがんばっている 人がいることを多くの人たちに伝えることだと思います。

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