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沖縄戦で流出した旧王家の宝物: 沖縄地域学リポジトリ

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Academic year: 2021

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Author(s)

真栄平, 房敬; 平川, 信幸

Citation

沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE

HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(40): 5-14

Issue Date

2017-03

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/22067

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沖縄戦で流出した旧王家の宝物

真栄平房敬 編集:平川 信幸 首里城復元や調査研究などに尽力した真栄平房敬(1921 ~ 2015)氏は戦前首里城内の 首里第一国民学校で教鞭を執り、戦後は首里城復元期成会理事、那覇市文化財調査審議会 委員などを歴任した。また、戦前の首里城や尚家関係の行事などを実際に見聞しており、 首里城復元に際して設計段階から携わり、歴史考証上の貴重な助言を多く与えている。 本稿は、2001 年(平成 13)沖縄県教育庁文化課において、真栄平房敬氏よりの聞き取 りを書き起こしたものである。 私は真栄平房敬であります。1921 年(大正 10 年)3月 27 日に首里に生れ、首里で育ち、 現在、那覇市首里汀良町に住んでおります。満 80 歳であります。 旧王家に関係する場所は、現在沖縄県那覇市首里大中町1丁目1番地で、元、中城御殿 ( ナ カグシクウドゥン ) とよばれた跡地であります。中城御殿は琉球王国の世子の御住居殿で、 廃藩置県以後は「尚侯爵家」又は「尚家」とも呼ばれていましたが、1945 年の沖縄戦で猛 砲撃をうけ、建物は全焼し、お屋敷の囲いの石垣は色々姿をかえ、現在、沖縄県立博物館 になっております。 このお屋敷は私にとりまして大へん感慨深いものがあります。戦前、お屋敷には琉球王 家の伝世の宝物が継承されておりました。私は、その宝物が沖縄戦の中でどのようにして 避難させ、守られていたか、そして戦争でどうなったかについて鮮明に覚えております。 戦況が悪化した 1943 年から 44 年にかけて、沖縄県では米軍の空襲に備えて防空壕を掘っ たり、「非常持出」といって大事なものを選別して非常の場合何時でも外へ持ち出せるよ う県民に呼びかけていました。そのような情勢の下で尚家でも宝物の疎開避難に関して尚 家の管理運営に当っていた家扶の佐久真正文氏は顧問の尚順男爵や尚家職員に相談された そうでありますが、その内容は尚家の上の方々がご存知で、尚家の職員でもなかった若年 の私にはわかりませんでした。しかし、時々尚家に参殿して佐久真家扶との会話の中から

MAEHIRA Bōkei, ed. HIRAKAWA Nobuyuki: On the Treasures of the Shō Royal Family Missing since the Battle of Okinawa

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宝物の疎開避難には多くの困難な問題があったことが容易に推測されました。 最も大きな問題は宝物が余りにも多く、しかもそれらの宝物は簡単に屋外に持出すと損 傷の恐れがあり、たとえ持出したとしてもそれら大量の宝物を保管するには相当の困難が 予想されたことであります。 次に、大きな問題は 1944 年に国の職業安定法が改正され、一個人が 16 才以上 55 才ま での男性を庸うことは出来ないということになりました。尚家も一個人ですからその法律 の改正で大きな打撃をうけたことであります。それまで尚家に仕えていた事務局の職員は じめ労務の掃除人や給仕の少年に至るまで若者は皆別の部署に転職させられ、尚家は老人 ばかりになってしまいました。又、その頃は沖縄では多くの若者が防衛隊として日本軍に 召集され、更に残った若者の多くが日本軍の労務者として徴用されました。そのような中 で民間では労務者を庸うことは甚だ困難であったのであります。その上、尚家のお屋敷の 外に宝物を移そうとしても首里及び首里周辺にあった尚家の別荘や尚家所有の山野などは 何処もみな日本軍が入りこんで宿舎や陣地になっていたことであります。そのようなこと で尚家の方では宝物を疎開避難させる適当な場所も見つからず、労務者も庸えぬ状況に追 いこまれておりました。 そのような多くの問題をかかえる中で、当時尚家の建物の一部が日本軍の作戦参謀 「長な が の ひ で お野英夫少佐」の宿舎になっていましたが、その参謀の「大丈夫」という言葉を過信し て宝物をお屋敷内で守ることになったと考えられます。幸いお屋敷には安全であると考え られる場所がありました。 お屋敷は大きく東西に二つに分かれていました。東側の 2000 坪余りの空間は建物が群 がる日常生活の場でありました。西側の7m程地盤が高くなっている高台は約 700 坪位の 空間で、そこは大きく枝を広げ、うっそうと繁ったガジュマルの木や福木などの緑でおお われ、日の光もさしこまない遮しゃへい蔽された空間でありました。その空間には御う た き嶽とよぶ岩が あり、上 う え の う ど ぅ ん 之御殿とよぶ一棟の建物がありました。その空間は緑でおおわれているので飛行 機からも中が見えない安全な場所だと考えられていました。それでその建物の中とその周 辺に宝物を分散して移すことになったと考えられます。 幸い、上之御殿のすぐ近くに堅固な防空壕として使える地下排水路がありました。上之 御殿の高台の厚い岩盤の地下には、自然の洞穴に入口の石積みと石敷きを加えて細長いS 字型の地下排水路が造られていました。その排水路は、上之御殿へ登る石段入口の側にあ る井戸端の排水のためのものでありました(井戸があった場所は、現在コンクリートの円 筒形の蓋がかぶせてあります)。 入口は頑丈に石組みされ、内部の両側もきれいに石積みされていました。この溝はこの

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岩盤下の排水路に向かって幅を広げながら次第に深くなり、地下排水路の入口では幅約 60 ㎝、深さ約1mぐらいありました。この深い溝はこの地下排水路の入口のところを通りこ して更に先へ1mほどのび、排水路入口の左手は幅約1m、深さ約1mぐらいの四角い箱 形になって掘り下げられていました。そして内側の三面はきれいに石積みされ、底にきれ いに石がはめられていました。 尚家ではその地下排水路を防空壕にしました。そして壕入口左手の四角い箱形の溝の上 に松の丸太を数本架け渡し、その上に畳をかけ、更にその上を松の枝葉で偽装して、その 中に王冠大小二つ、烏 う さ ん も う 紗帽とよぶ世子冠、『中山世鑑』、『中山世譜』、『おもろさうし』等 の重要文書をそれぞれの格納箱に入れたまま避難させてありました。 注目すべきことはここに避難させてあった『おもろさうし』、『中山世鑑』、『中山世譜』 がアメリカから返還されたことであります。 一方、上之御殿の建物の中には、国王の皮弁服の儀礼装束の一式、王妃の儀礼装束一式 等をそれぞれ個別に入れた長持、中国皇帝御下賜の緞子等の未使用の反物の入った長持、 その他中身不明の大きな布袋や箱など数個、それから中国大家の書や絵画の軸物、冊封の 儀礼や接待に使われた道具類、その他王府の儀礼や祭礼の道具類などを上之御殿の八畳の 二間一杯、天井すれすれのところまで高く積み上げ、ぎっしりつめこんであと雨戸を閉め 図1 戦前の屋敷配置図 (「屋根伏図」 沖縄県都市計画 ・ モノレール課提供)

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てありました。 また、御嶽の岩の北側には、岩陰に予め掘ってあった幅約 1.5 m、長さ約3m、深さ約 1mの穴の中に中国伝来の古い陶磁器類、古伊万里の陶磁器類、壷屋焼の名品等を一杯入 れ、上から布団をかけてありました。 御ウ後影(絵)とよばれる尚円王以下歴代国王の肖像画は、王位につかれなかった世子のグ イ 分まで含めて 20 点程ありましたが、その大きいものは学校の地理の授業で壁にかける掛 図大程もある大きな軸物でありました。御後影は、歴代毎に2m程の細長い茶色の箱に納 められていました。それらの御後影は、井戸の側に尚家を宿舎としていた日本軍が仮に建 てた風呂場(二間四方トタン葺)の天井の梁に架け渡してありました。 御座楽の楽器一式、路次楽の楽器一式は、中国から伝来したものでありますが完全なセッ トとして残っているものは中国にはなく、尚家のものだけだといわれていました。とりわ け御座楽の楽器は約六百年前の察度王代に伝わったものを王朝が変わっても大事にうけつ がれてきたもので国宝に価するものだといわれていました。それで特に損傷をおそれて屋 外には出さないで各楽器毎に格納箱に入れ、御側仕御座の中央に積み上げ、万一の場合は 直ぐ中庭の瓦石垣の影に持ち出せるようにしてありました。 さらに、この御側仕御座の中庭の竜眼の木の下には沖縄戦が始まらない前から銅製の高 さ 1 m程の大きな獅子型の香炉二つを避難させてありました。 次に、国王、王妃の黄金簪、その他盃などの黄金製品、それに曲玉、皮弁冠を繕う時の 予備の宝石類(小壺入れ)などは、二つの大型金庫(今日の洗濯機大)と一つの中型金庫 の計三つの金庫に厳重にしまってありました。その金庫は 2000 度の熱にも堪えるという ことでそのまま前之御座の建物の中に置いてありました。 ここでも注目すべきことは、この金庫の中にしまってあった聞得大君御殿の簪が『おも ろさうし』と一緒にアメリカから返還されていることであります。 このように七ヶ所に分けて避難させてあった宝物以外の他の宝物及び沢山の文書は、適 当な避難場所がないので、御殿の中にそのまま置いてありました。そして家扶の佐久真正 文(戦没)、職員の花城清安(戦没)、美里安資(戦没)、仲真朝信(戦没)、豊見城朝□昂 ?( 戦 没)の五名の職員が御殿及び宝物を守っていましたが3月の末頃から私も手助けを頼まれ ました。 当時、私は首里城内にあった首里第一国民学校の教員でありました。いよいよ米軍が上 陸して間もなく、日時ははっきり記憶していませんが4月6日(10 日?)頃だったと思い ます。その日、尚家は朝から猛砲撃され、群がって建っていた御殿は全焼しました。とこ ろが西側の高台に離れて建てられた一棟の上之御殿は砲撃されずに無事でありました。防

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空壕入口左手の溝に避難させてある王冠、『中山世譜』、『おもろさうし』等も無事でした。 焼跡の広場には大型金庫だけがきわ立って残っていましたが中身は無事でしたのでそのま まにしました。井戸の側にあった風呂場は、爆破されて跡方も残っていませんでしたが、 不思議にも風呂場の天井の梁に架け渡してあった御後影は上之御殿の高台のところへ高く 飛ばされ、木の枝にひっかかっていたり、岩下に落ちたりしていました。 御殿が全焼した翌日、日本軍からお屋敷を機関銃陣地にするから防空壕も明け渡して立 退くよう命令されました。それでその日の夕方砲撃が少しとだえた頃、佐久真家扶と私は 飛び散った御後影を集めましたが全部無傷であるのに驚き、不思議なこともあるもんだと 話し合いました。そうこうしているうちに再び砲撃がはじまり、辺りに炸裂する音が響き、 身の危険を感じました。その上集めた御後影をかくす場所もないので急いで岩陰に重ね、 そのまま放置しました。そして日本軍の命により立入禁止となったお屋敷を後にし、職員 も四散しました。 それから私は戦場をさまよい、6月 23 日摩文仁の海岸で捕虜になり、点々と収容所を まわされ、7月 10 日頃国場川の岸辺にあった古波蔵の収容所でアメリカのCIC の検問を 受けました。その時私は学校の教員であるといったら反米教育をしたとして殺されるだろ うと思い、尚家の職員であるといいました。ところがCIC 将校も通訳の二世も尚家という ことを知らないので私は首里にあったかつての琉球王家だというとCIC 将校は通訳の二世 に向かって「じゃ、三郎を呼べ」といいました。間もなく三郎が姿を現して「尚家は昔の 王様の家で、正四位侯爵尚昌の家です。」といいました。私が知っていない「正四位」まで知っ ている三郎の言葉に驚いた私は、2、3日後に三郎にあって「どうして正四位侯爵とわか るか」と問いました。すると彼はアメリカのCIC 等と一緒に首里の円覚寺へ行き破壊され た竜渊殿に正四位侯爵尚昌と書かれた位牌があるのを見たといいました。そして尚家跡に も行ったと話していました。 彼の話に私は驚き、尚家のお屋敷に避難させてあった宝物が荒らされ、持ち出されたの ではないかと不安をいだきました。そしてどうにかして尚家跡に行って見たいと思いつづ けていました。幸いその機会を見付けることができました。 それから一週間ほどたって私は佐敷村屋比久の検問所へまわされました。そこで再び検 問をうけて兵隊でないことがわかり、佐敷の収容所に入れられました。そして毎日トラッ クにのせられ首里から4キロほど離れた大里村の大 お お み た け 見武に駐屯していたアメリカ軍のとこ ろで作業させられました。そこで作業係のディクソンという軍曹と親しくなり、8月下旬 のある日、彼に首里城を見たいからつれていってくれ、日本も降伏して戦争はすんでいる

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からつれていってもよいだろうといって頼みました。ところが彼は首里はoff limits(オフ・ リミットゥ)だからMP に見られたら大へんだといって断りました。それでも私は首里は すぐ近くであるし、首里城の近くまでいって見るだけだから是非つれていってくれとしき りに頼みました。すると彼は「じゃ、ジープから絶対おりないこと、たとえMP にあって 問いかけられても絶対話はしないことを約束できるならつれていこう」といいました。 その約束をして彼は昼食後の僅かに残された休憩時間を利用して私を首里へつれていっ てくれました。彼は廃墟の丘と化し、星条旗がひるがえっている首里城を遠くから指さし、 あれが首里城だといいながらジープを走らし、龍潭の近くまで行きました。私は尚家跡を 見るのが本心でありますから、首里城はすっかり破壊されているからそこにはジープは通 れない筈だ、ここから眺めたからそれでもうよい。この辺りでUターンして帰ろうといっ て尚家の焼跡にジープをのり入れさせ、焼跡の広場で大きくジープをUターンさせながら 宝物を避難させてあった場所に目を向けました。大型金庫はこじあけられて中は空っぽに なっているのを見て驚き、王冠等を避難させてあった溝の中も空っぽになり何一つ残って いないのを見て大へん驚きました。御側仕御座の中庭に出してあった獅子型の大型香炉は 尚家が全焼して後も確かに残っていましたがそれも見つかりませんでした。 ディクソン軍曹は焼跡の広場でジープを大きくまわしただけで高台のところへは行こう としませんでしたので下の広場から高台を見上げましたが上之御殿の建物は傷ついてはい るが殆どもとの姿で建っているのが見えました。 それから約二ヶ月後の 10 月 30 日に私は収容所から解放され、知念村に行きました。そ してそこの役所に配属されていた二世アメリカ兵の三木実氏と知り合い、彼に尚家跡につ れていってもらいました。その時上之御殿へ行きましたが建物は戸が飛ばされ、所々壁板 がはがれているだけで直接砲撃された跡方はありませんでした。ところが中の宝物はすっ かり持ち出されていました。陶磁器を避難させてあった岩陰の穴の中には陶磁器のかけら さえ見つからず、かぶせてあった布団だけが残され、砲撃はされていないが中身はすっか り持ち出されているのに驚きました。 その日は二世の三木氏が時間がないから早く帰ろうと急がしたので御座楽、路次楽をお いてあった御側仕御座の焼跡を見る余裕はありませんでした。尚家が全焼した際御座楽、 路次楽も焼失したのか、それとも職員の誰かが中庭へ持ち出したのかはわかっていません。 沖縄戦が終わって8年後の 1953 年5月にペルリ来琉百年祭が行われました。その式順 の中で記念館献呈に先立ち、琉球文化財の贈呈として、アメリカから『おもろさうし』、『中 山世鑑』、『中山世譜』など琉球王府の重要文書や聞得大君御殿の簪などが返還されました。 私はその式に招かれ、その時の招待状を今でも保管しております。裏面には式の英文のプ

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ログラムが刷り込まれております。 式の様子を当時の呼び名で説明しますと、先ず、琉球警察バンド隊の演奏で幕をあけた 式場には軍政府の高官、琉球の行政官らが並び、式場の中央には軍政府副長官、琉球列島 司令官のオグデン少将が直立不動の姿勢で立っていました。その式場にMP を先頭にデー ヴィス軍曹が進み、その後に二列になって将校と下司官の6名が白い布に包まれた文化財 を捧げ持ってつづき、その後に二名のMP が護衛して入場しました。どの将兵も肩にモー ルをつけた礼装姿で厳粛な雰囲気を漂わせていました。やがてオグデン少将の前の机上に 文化財が置かれ、少将の辞 ことば のあとアメリカ大統領の名のもとに尚家の代理護得久朝章立法 院議長に文化財が贈呈されました。護得久氏は感謝の辞をのべられ、琉球中央政府行政主 席の名のもとに博物館に保管することを誓い、厳粛の中に式を閉じました。 ここで注目すべきことは、大統領の名のもとに贈呈という形で文化財が返還されたこと であります。そして返還された『おもろさうし』『中山世鑑』等の文書は沖縄戦のとき尚 家の防空壕入口の溝の中に避難させてあったものであり、返還された聞得大君御殿の簪は 沖縄戦のとき尚家の大型金庫の中に避難させてあったもので有るということであります。 私は式の後、その日に、この目で返還された文化財の実物を確かめました。その時、私 は沖縄戦で『おもろさうし』などと一緒に避難させてあった王冠や聞得大君御殿の簪と一 緒に金庫の中に保管してあった国王の黄金簪など沢山の黄金の文化財、その他王家の宝物 がアメリカに渡っていると確信しました。そこでそれから数日後に軍政府情報部に戦争中 王家の宝物を避難させてあった状況を詳しく書き、所有主である尚裕氏と沖縄のためにア メリカに流出したと思われる宝物の捜索願を提出いたました。その捜索願は二世のテリ・ アダニヤ中尉によって翻訳されました。そのコピーが琉大図書館に寄贈されたジョージ・ カー博士の資料の中に残っております。 それから数日後、返還された文化財を直接アメリカから持参したデーヴィス軍曹にも同 じような捜索願を出しました。その捜索願の和文、英文両方の控えを今でも保管しており ます。これがその控えであります。 私は沖縄戦直後、宝物を避難させてあった跡をこの目で確かめ、又、避難させてあった 宝物の一部が 1953 年にアメリカから返還されたのもこの目で確かめております。そこで いえることは宝物を避難させてあった場所の殆どが直接砲撃されていませんので首里での 戦がすんだ時点では大部分の宝物が確かに残っていたといえます。ただ残念でならないの は心ない者によって宝物が持ち出されたことであります。それで私は宝物の一部がアメリ カに流出していると確信し、軍政府に宝物の捜索願を出したわけであります。

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その後、1975 年に沖縄の人々にも訴えようと思い、「戦争と王家の宝物」と題して沖縄 タイムスに投稿しました。ところが何一つ反応はありませんでした。それから 15 年ほどたっ て喜舎場静夫氏がジョージ・カー博士の資料の中にある捜索願のコピーのことで私をたず ねあて、そして私は彼のボランティア活動に感動して協力し、1998 年 10 月 13 日、宜野湾 市にあるコンベンションセンターでの「流出文化財に関するシンポジウム」で「沖縄戦で 流出した旧王家の宝物」と題して講演もしました。 私の講演や証言が流出した文化財の返還に少しでも役立つことを心から願っております。 以上

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『正門正面』鎌倉芳太郎撮影 (沖縄県立芸術大学附属図書 ・ 芸術資料館所蔵) 『玄関』鎌倉芳太郎撮影 (沖縄県立芸術大学附属図書 ・ 芸術資料館所蔵) 『大広間東面と庭園』鎌倉芳太郎撮影 (沖縄県立芸術大学附属図書 ・ 芸術資料館所蔵) 『大広間東南面と庭園』鎌倉芳太郎撮影 (沖縄県立芸術大学附属図書 ・ 芸術資料館所蔵) 中城御殿から持ち去られた文化財(一部) 『皮弁冠』鎌倉芳太郎撮影 (沖縄県立芸術大学附属図書 ・ 芸術資料館所蔵) 『皮弁服』鎌倉芳太郎撮影 (沖縄県立芸術大学附属図書 ・ 芸術資料館所蔵) 戦前の中城御殿

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『尚円王御後絵』鎌倉芳太郎撮影 (沖縄県立芸術大学附属図書 ・ 芸術資料館所蔵) 『尚真王御後絵』鎌倉芳太郎撮影 (沖縄県立芸術大学附属図書 ・ 芸術資料館所蔵) 『尚貞王御後絵』鎌倉芳太郎撮影 (沖縄県立芸術大学附属図書 ・ 芸術資料館所蔵) 『尚純公御後絵』鎌倉芳太郎撮影 (沖縄県立芸術大学附属図書 ・ 芸術資 料館所蔵) 『尚敬王御後絵』鎌倉芳太郎撮影 (沖縄県立芸術大学附属図書 ・ 芸術資料館所蔵) 『尚育王御後絵』鎌倉芳太郎撮影 (沖縄県立芸術大学附属図書 ・ 芸術資料館所蔵)

参照

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