彙 報
2015(平成 27)年度内陸アジア史学会大会記事
2015(平成 27)年度内陸アジア史学会大会は下記の通り開催された。 日時:2015 年 10 月 31 日(土) 場所:京都外国語大学 1.理事会(8 号館 2 階 B 会議室) 2.研究発表(1 号館 7 階 小ホール) 伴真一朗(大谷大学・嘱託研究員)「甲種本『華夷訳語』にみる明朝の内陸アジア統治理念 —— 洪武朝のモンゴル政策と関連して ——」 塩野崎信也(京都大学・教務補佐)「ロシア帝国の「イラン・ナショナリスト」アーフンドザ ーデの帰属意識」 ボルジギン・ブレン(布日額)(京都大学・博士課程)「『モンゴリン・ソニン・ビチク』新聞 の発行の経緯と実態—— 史料「モンゴル語の新聞発行する件 1906-1916」(ロシ ア歴史文書館)を手掛かりに——」 上村明(東京外国語大学・非常勤講師)「彼らはなぜアルタイを越えたのか? ——1930 年アルタイ・オリアンハイ人の「集団逃亡」について ——」 3.公開講演(1 号館 7 階 小ホール) 松田孝一(大阪国際大学・名誉教授)「モンゴル帝国史の研究と調査40 年」 4.総会(1 号館 7 階 小ホール)公開講演・研究発表要旨
甲種本『華夷訳語』にみる明朝の内陸アジア統治理念
——洪武朝のモンゴル政策と関連して
—— 伴 真一朗 13 世紀に登場した大元ウルスは東アジアにおいて多種多様な民族の接触を活発にさせ,それま では敦煌や遼朝・金朝治下の一部の地域に存在していた多言語環境が拡大し,それによって多くの 人々の知識や価値観に大きな変革を与えた可能性がある。 それを示す史料が大元ウルス時代に作成され明朝にも継承されたバイリンガル文書・碑刻(漢語・ モンゴル語/ チベット語 / ペルシア語等)である。20 世紀末より,史料状況が激変し,多くの文書・ 碑刻が管見できるようになった。これらの史料は同一の内容を異言語で記したものであり,これら を作成する上で多言語の接触が行なわれたことが想像できる。 この大元ウルス時代の多言語接触の環境が清朝そして現在に至るまでの諸民族の政治的な統合, さらにそれらの再編成にどのような影響を与えたのだろうか。それを探る手がかりとなる史料の一つが,明朝によって作られたモンゴル語の学習書であり,かつモンゴル語・漢語の対訳文によって 構成されたバイリンガル史料である甲種本『華夷訳語』である。 明朝は漢人によって成立した王朝であるが,その制度や政策がモンゴル人によって成立した大元 ウルスを継承していることも従来から指摘されてきた。甲種本『華夷訳語』は北元のハーンであっ たトグステムルが死去した翌年の洪武22 年(1389)に刊行されており,明朝に帰順したモンゴル 人に発給した詔勅やモンゴル人が明朝に提出した上奏文が例文として収録されている。そのため本 書はモンゴル語の学習書ではあるが,かつて大元ウルスの支配下にあったモンゴル人に対する明朝 の政策を考察する上で,非常に重要な史料であると考えられる。しかし,同史料に関する研究は文 献学と言語学が主であり,歴史研究においては断片的に例文が用いられることがあっても,その全 体を歴史学の観点から詳細に検討することは行なわれていなかった。 発表者は大谷大学における共同研究班「元朝~明朝初期の言語接触に関する文献学的研究」班(科 学研究費補助金:基盤研究C,研究期間:2010 ~ 2012)に参加して元朝や明朝のバイリンガル史 料の解読に関わっていく過程において,甲種本『華夷訳語』の漢語・モンゴル語双方の例文を詳細 に検討することによって,内陸アジアのモンゴル勢力に対して明朝がどのような統治理念を示そう としていたのかがわかるのではないかと考えた。本発表では,同史料の中で大元ウルスの統治とそ れを明朝が継承したことについてふれている記述に注目することで,明朝が大元ウルスの支配下に あったモンゴル勢力を統治する際に,自らを遊牧民であるモンゴルの後継者としていたのか,それ とも中華王朝としていたのかを明らかにしようとした。
ロシア帝政期南東コーカサスにおける
「イラン・ナショナリスト」アーフンドザーデの帰属意識
塩野﨑 信也 本発表では,ロシア帝政下の南東コーカサス(現在のアゼルバイジャン共和国に該当する領域) で活躍したミールザー・フェテリー・アーフンドザーデ(Mirzə Fətəli Axundzadə / Mīrzā Fatḥ ‘Alī Āḫvondzāde, 1812-1878)の民族観と帰属意識のあり方を分析した。 先行研究において「イラン・ナショナリスト」とみなされているように,アーフンドザーデは, 自身が「イラン民族」の一員であることを誇り,「我らの祖国イラン」に対する熱烈な愛情を示し ていた。とりわけ彼が賞賛したのが,イスラーム化以前の古代イラン人である。そして,偉大であ った彼らが,アラブ人による征服とイスラーム化の結果,衰退の一途を辿っていることを嘆くので あった。 一方で,アーフンドザーデは周囲から「トルコ人」とみなされる人物であった。また,ロシア語 で著した作品や書簡においては,自身を「タタール人」と表現していた。これらの非「イラン」的 な属性を有しながら,それでもなお「イラン」の一員でありたいと望んだ彼の帰属意識は,必然的 に多重的・複合的なものとなった。アーフンドザーデにとっての「我々」と「他者」の感覚は,時 と場合によって変化する。「イラン民族」,あるいは「ペルシア人」は,彼にとって「我々」であると同時に,「トルコ人」,「タタール人」でもある彼にとっての「他者」でもあった。「トルコ人」は, 啓蒙すべき「我ら」であると同時に,イラン民族に荒廃をもたらした忌避すべき「外国人」でもあ った。また,彼は「イラン」を祖国とする一方で,イランの外側に位置する「カフカース(コーカ サス)」の住民であるという意識も有していた。 このような帰属意識を有していたアーフンドザーデは,自身の属する民族の名としては,「イラン」 よりも,「イスラーム」という伸縮自在な言葉を好んだ。これは,彼の帰属先であるイラン人とト ルコ人の両方,イランとカフカースの両方,ペルシア人とタタール人とオスマン人の全てを含むこ とができ,これらをまとめて示すことのできる言葉であった。ただ,この言葉は,最も忌避すべき「外 国人」であるところの「アラブ人」を「我ら」に含みかねず,また,古代ペルシア人の末裔である が別宗教の信徒であるパールスィーをはじいてしまうという欠点を有していた。 それ故,アーフンドザーデは文脈に応じて,あるいは語りかける相手によって,「イラン民族」,「イ スラーム民族」,「トルコ人」,「タタール人」などを使い分けたのであった。そういった意味で,彼 は「イラン民族主義者」でもあった,とするのがより正しい見解であると言えよう。
モンゴル語新聞『モンゴリン・ソニン・ビチク』の発行の経緯
——モンゴル人知識人の思惑とロシア政府の企図との関係に着目して
—— ボルジギン・ブレン 本発表では,清朝末期のハルビンで発行された,初のモンゴル語の活字新聞である『モンゴリン・ ソニン・ビチク』(1909-1919)の発行に至った経緯を明らかにしようした。そこで,ロシア歴史文 書館で新たに発見した史料「モンゴル語新聞を発行する件」(1906-1916)を中心として,『モンゴリン・ ソニン・ビチク』創刊に際してモンゴル人が編集に参加した経緯と,ロシア東清鉄道会社の側の意 図を併せて検討した。 発表では,まず,清朝末期,ハラチン王が実施した学校創設などの改革をめぐって旗内に対立が 生じていたことに触れ,梅林の地位にあったアルマスオチルがハラチン右翼旗から亡命しなければ ならなかった経緯をのべた。次に,「アルマスオチルの建議書」を利用しながら,アルマスオチル にとって,チベット仏教こそはモンゴル民族としての紐帯の基盤とみなされていたと論じ,そのた めに宗教的に寛容と思われるロシアに接近していったことを明らかにした。 他方,同じ時期,ロシアの側でも,モンゴルに影響力を浸透させようとする動きが生じていた。 1905 年頃,ウタイ王や一部の知識人が,「モンゴル統一」の手段としてモンゴル語の新聞の創刊を 提起し,翌1906 年 5 月,新聞創刊にかかわる援助をロシア陸軍のバラノーフに依頼した。バラノ ーフは,前指揮官デムボブスキーを通じて財務省に提案した。この提案をめぐって,ロシア帝国の 財務省と外務省の間,鉄道管理部と財務省の間で,時に激しい議論が交わされた。そうした議論の 中で,モンゴル知識人や王公がチベット仏教を利用してモンゴルの統一を呼びかけようとしたのに 対して,ロシアの側もチベット仏教に対して寛容な姿勢を示すことにより,協力関係を築こうとし たことがわかる。しかし,モンゴルの王公や知識人が求めていたのが「モンゴル統一」であったのに対して,ロシアが求めていたのは日本人や漢人の影響力に抗してモンゴル地域にロシアの影響を 浸透させることであり,ロシアの商品の市場としてモンゴルを開拓することであった。このような 「同床異夢」ともいうべき関係の中で『モンゴリン・ソニン・ビチク』が刊行されたことを明らか にした。
彼らはなぜアルタイを越えたのか?
——1930 年アルタイ・オリアンハイ人の「集団逃亡」について
—— 上村 明 1930 年夏モンゴル西部の集団アルタイ・オリアンハイ人が大挙してモンゴル側からアルタイ山 脈を西に越え現在の中国新疆に移動した。この出来事は,中国国境に接するほかの地方の中国領へ の大規模な越境行動を誘発し,モンゴル人民共和国における全国的な「集団逃亡」と内乱の時期の はじまりを象徴する事件となった。 本発表は,清代からのアルタイ辺境の帰属問題などを指摘したうえで,モンゴル国立中央文書館 および旧モンゴル人民革命党文書館所蔵の史料と,1990 年代半ばにモンゴル国西部でおこなった 体験者への聞き取り調査にもとづき,この出来事において彼らがなぜアルタイを越えるに至ったか, その要因としてつぎのようなアルタイ・ホブド辺境の歴史状況および彼らの帰属意識・モンゴル人 民政府に対する評価を明らかにした。 彼らの祖先は,乾隆20 年前後に清朝に服属し,アルタイ・オリアンハイ七旗に編成され広い土 地を割り与えられた。しかし,同治年間からの清露界約と,清朝がカザフ人を「安挿」したことに よって,その土地の大半を失った。1907 年ホブドから分治されたアルタイ辺境は,1915 年のキャ フタ条約によって中国に帰属することが決定したが,アルタイ・オリアンハイ人の多くはモンゴル 国に帰属していた。 当初モンゴル政府は,アルタイ山脈の向こう側にいるアルタイ・オリアンハイ人をモンゴル側に 移動させることで,この人的帰属と地理的帰属のねじれを解消する方針であったが,20 年代国家 大ホラル,小ホラルでこの問題が度々取り上げられるようになると,しだいに新疆モンゴル人地域 の統一を究極の目標として言及するようになった。 当時のアルタイ・オリアンハイ人は,現在のモンゴル国の研究者が前提とするような「母国」へ の帰属意識は持たず,モンゴル人民政府がハルハのものであって自分たちのものでないと認識して いた。また,国境も明確に形成されておらず,彼らは年に何度かアルタイ山脈を越えて移動してお り,自分たちの土地の中を移動するという感覚であった 。モンゴル帝国史の研究と調査 40 年
松田 孝一 私は立命館大学文学部及び大阪大学大学院修士課程途中まで突厥史を研究した後,山田信夫先生 のご指導でモンゴル帝国史~元朝史研究に変更,1975 年に修士論文を提出してから今年で 40 年となります。調査としては1996 年に森安孝夫先生がモンゴル国のアヨーダイ・オチル教授とともに 始められたモンゴル国での共同遺蹟・碑文調査に現在も従事しています。拙文を分類しますと,1 「チンギス・ハンとその国づくり」,2「オゴデイ・ハンの漢地支配体制」,3「モンゴル高原史」の 3 つになるかと思います(拙文題目及び調査一覧は配布資料に記載)。1 としては,所属の大阪国際 大学経営情報学部で「意思決定」(経営判断)プロジェクトに参加,テムジン[後のチンギス・ハン] は軍事的な重要局面で,協議を重視し,部下を競わせ,最終的には天命により意思決定する形を取 ったと結論しました。またテムジンの勃興期,西遼と金がモンゴル高原で対立しており,テムジン は金朝派として,西遼派から金朝派へ転換したケレイトのトオリルとともに行動して勢力の存続を 図った状況をセルベン・ハールガ岩壁碑などを利用して考えました。2 では,2 代のオゴデイ・ハ ンが旧金朝領で行った諸王侯への「分地・分民」の分地配置や配分戸数が,チンギス・ハン時代の モンゴル高原での体制を基準としたことや,また「分地・分民」は5 代のフビライ時代以後にも維持, 継承されていたことを安西王の例やフレグ家の漢地の分地・分民経営の例で検討しました。またオ ゴデイは漢地(など帝国辺境の)確保のために全帝国から新兵を徴集し,タンマチ[探馬赤]とい う新軍を配置しましたが,タンマチの例として「河南淮北蒙古軍」の歴史を跡づけ,また那珂通世 『成吉思汗実録』以来のタンマチについての諸説を整理,「鎮戍の兵に諸部族を用いた」という那珂 の見解に帰着しました。3 では,チンギス・カンの末子トルイの家は首都カラコルム近くのハンガ イ山中を遊牧地としていたことや,現地のタイハル大岩で確認した題記の筆者「史格」はトルイ家 分地,真定の長官史天沢の長男で,トルイ家の遊牧地へ人質として来ていたと考えました。また元 朝と諸王家とが対立した「シリギの乱~ハイドの乱」前後のモンゴル高原西北部の軍事情勢や,乱後, 元朝側へ流入した人口維持のため華北から大量の穀物輸送が行われたこと,またその配給管理のた め設立された「嶺北行省」の官僚の列記した碑文の復元案を考察しました。小生の研究・調査は「モ ンゴル帝国とは何か」という問題を種々探った試みということになるかと思います。(時間不足に て割愛しましたが,遺蹟調査の主なものとして,チンギス・カンの大臣チンカイ城とその屯田の位 置について2001 年以来数回モンゴル西部ゴビアルタイ県ハルザンシレグ遺蹟等で調査し,その間 村岡倫,松川節,白石典之,鈴木宏節,中田裕子,オチルの各氏やモンゴル側の協力を得て進めま した。)
総 会 議 事 録
林俊雄氏を議長として総会が開催され、以下の諸件について報告が行われ、承認された。 1.会計報告 2014 年度決算報告が行われ、承認された。また 2015 年度予算案が提出され、承認された。 2.庶務報告 会員数の現況について、総会員数277 人、新入会員数 13 人、退会者数 5 人という報告が行われた。 3.その他(1)幹事の交代について報告が行われた。 (2)2016 年度大会は駒澤大学において開催予定であることが報告された。 (3)役員の退任について取り決めをする必要性があることが報告された。 (4)国立情報学研究所電子図書館事業(NII-ELS)によるデータベース・サービス、学術情報ナ ビゲータ(CiNii)が 2016 年度末をもって本文を提供するサービスを終了予定であり、バッ クナンバーは科学技術振興機構(JST)が提供する J-STAGE に移行されるものの、新刊雑誌 の加工サービスは提供されないことを受け、今後『内陸アジア史研究』のPDF 加工を安価 に外注する方向も含めて議論を続けることが了承された。 4.編集報告 柳澤明編集委員長より、『内陸アジア史研究』第30 号の刊行報告および同誌第 31 号の編集状 況についての報告が行われた。
内陸アジア史学会 役員名簿
(
2016 年 4 月 1 日現在)
(* 印は常任理事) 顧 問 長澤 和俊 吉田 順一 会 長 小松 久男 副会長 荒川 正晴 柳澤 明 理 事 石橋 崇雄 石濱 裕美子 稲葉 穰 宇野 伸浩 梅村 坦* 宇山 智彦 岡 洋樹 小田 寿典 小沼 孝博 片山 章雄* 加藤 直人* 華 立 楠木 賢道* 澤田 稔 澁谷 浩一 新免 康* 杉山 清彦 中見 立夫* 中村 淳 萩原 守 濱田 正美* 林 俊雄* 二木 博史* 舩田 善之 堀 直* 堀川 徹* 松井 太 松田 孝一 村岡 倫 森部 豊 森安 孝夫* 監 事 北川 誠一 村上 信明 幹 事 植田 暁 前野 利衣 河原 弥生内陸アジア史学会編集委員名簿
荒川 正晴 宇野 伸浩 岡 洋樹 小沼 孝博 澤田 稔 新免 康 杉山 清彦 舩田 善之 松井 太 森部 豊 柳澤 明内陸アジア史学会賞規定
1.本学会賞は,内陸アジアに関わる若手研究者の研究活動の奨励および内陸アジア史学会の発 展を目指して設置するものとし,名称を内陸アジア史学会賞とする。 2.学会賞の対象は,『内陸アジア史研究』に掲載された論文とする。 3.学会賞は原則として 2 年に 1 度,1 名に授与する。 4.学会賞は,正賞(賞状)と副賞(賞金 15 万円)からなる。賞金には,原則として学会の基 金を当てる。 5.受賞の有資格者は,対象論文が掲載された『内陸アジア史研究』の奥付けに記された年月日 の時点で40 才以下である内陸アジア史学会員とする。 6.選考は,常任理事会の指名した委員からなる選考委員会が行う。選考委員会は責任をもって 選考に当たり,結果を会長に報告する。 7.会長は,受賞者にすみやかに選考結果を伝える。 8.授賞式は,選考年度の学会大会において行い,受賞者の発表と授賞を行う。 付則:第1 回の選考は 2002 年度に行う。選考対象論文は 2000 年度と 2001 年度に発表された ものとする。以下同様の原則に従って,2 年に 1 度選考を行う。原 稿 募 集
本会編集委員会では,会員の皆様の積極的な投稿をお待ちしております。以下の投稿規定をご参 照の上,ふるってご投稿くださるようお願い申し上げます。投 稿 規 定
1.投稿者は,原則として内陸アジア史学会会員に限ります。 2.他の学会誌,単行本その他に掲載済み,または投稿中の原稿は受け付けません。 3.使用言語は日本語とします。 4.原稿の分量は,43 字× 35 行(本誌の版組)を 1 ページとして,以下のとおりとし,これ を超過したものは受理しません。論文:16 ~ 22 ページ(400 字詰換算で約 60 ~ 80 枚相当); 研究ノート:14 ~ 16 ページ(約 50 ~ 60 枚相当);研究動向・史資料紹介:3 ~ 11 ページ(約 10 ~ 40 枚相当);紀行・調査報告・書評:6 ~ 8 ページ(約 20 ~ 30 枚相当) 5.原稿は原則として横書きとし,「MSWord」の文書形式により作成し,それを印刷したもの のみを郵送すると共に,電子ファイルを次のいずれかの方法により送付してください。 ①電子メールの添付ファイルとして当会編集委員会に送付する。②CD-ROM 等のリムーバブルメディアに保存したものを印刷したものと共に郵送で提出する。 なお,メール,あるいはメディアには,執筆者名・使用OS 等を明示してください。 6.原稿の書式については,下記の執筆要領をご覧下さい。 7.投稿の締め切り日は,10 月末日とします。ただし,当該年度の大会での講演・報告者がそ の内容を基に投稿する場合は,締め切りを12 月末日とします。 8.投稿された論文等の採否は,編集委員会において決定します。なお,掲載決定となった場合 でも,手直しをお願いする場合があります。 9.論文・研究ノートについては,掲載決定後,200 words 程度の英文要旨とそれに対応する和 文要旨,および英語のキーワード5 語をご提出いただきます。英文要旨は,極力ネイティブ・ チェックを受けた上でご提出ください。必要と認められる場合には編集委員会の責任で英文 校閲にかけ,実費を請求させていただきます。 10.投稿された原稿は,原則として返却しません。図版の返却を希望する場合は投稿の際にその 旨付記してください。 11.著者校正は初校までとし,誤植及び字句の修正に留めていただきます。 12.抜刷を希望するかどうかを付記してください。希望者には一律抜刷 50 部を贈呈いたします。 13.手書きの原稿も受け付けますが,編集委員会において電子化しますので,実費を請求させて いただきます。 14.本誌に掲載された論文等の著作権は,著作者に帰属します。ただし,著作者は本学会に対し, 著作財産権について無償で独占的に利用する(複製,公開,送信,譲渡を含む)権利を許諾 するものとします。著作者が転載や電子化媒体による公開を行う場合は,事前に本会に連絡 し,許諾を得てください。また,原則として,掲載号の刊行後1 年間は,転載等をご遠慮願 います。なお,投稿に際しては,第三者の著作権等を侵害することのないよう,特にご留意 ください。 15.原稿は,下記宛にお送り下さい。 〒162-8644 東京都新宿区戸山 1-24-1 早稲田大学文学学術院 柳澤明研究室気付 内陸アジア史学会編集委員会 E-mail: [email protected] 16.なお,本投稿規定および執筆要領については,本学会ウェブサイトにおいてもご確認いただ けます(http://nairikuajia.sakura.ne.jp/SIAS/)。
執 筆 要 領
(1) 表紙に論文・研究ノート・史資料紹介等の別,表題,執筆者名,連絡先(郵便番号・住所・ 電話番号・ファックス番号・E-mail アドレス),生年月日(学会賞資格確認のため),欧文タ イトル,執筆者名のローマ字表記を記すこと。また末尾に執筆者名のかな書きと所属を記し, カッコでくくること。(2) プリントアウト原稿は,A4 の用紙に印刷し,枠はタテ 237mm,ヨコ 169mm(上下余白 30mm,左右余白 20mm)とすること。
(3) 1 行あたりの字数は 43 字,行数は 1 ページあたり 35 行とすること。
(4) 使用するフォントは次の通りとする。和文は MS 明朝,英文は原則として Times New Roman とし,ともに10.5 ポイントとすること。 (5) 読点は「,」,句点は「。」を用いること。 (6) 章はローマ数字,節はアラビア数字で示すこととする。 (7) 西暦やイスラーム暦は,アラビア数字(算用数字)を用いること。なお,アラビア数字はす べて半角とする。 (8) 引用文を示す際は上下を半行ずつ空け,全体を 2 字下げること。 (9) 参考文献は,原稿末に一覧を付す。参考文献の記載方法は,下記に準ずる。同一著者同一年 の文献にはa,b,c などの添字を付す。 なお,言語によって巻号,頁数,出版形態等の一般 的な表示法が異なる場合もあるため,各言語に即した方法に則ることも可とする。少なくと も言語ごとに一貫性をもたせること。 〔単行本〕 松田壽男(1970)『古代天山の歴史地理学的研究』東京:早稲田大学出版部(増補版;初版 1956)
aubin, Jean (1995) Émirs Mongols et Vizirs Persans dans les Remous de l’Acculturation, Paris:
Association pour l’avancement des études iraniennes; Leuven: Diffusion Peeters Press. 〔雑誌論文〕
羽田亨(1957)「元朝秘史に見ゆる蒙古の文化」『羽田博士史学論文集 上巻歴史篇』: 137-156,京都:東洋史研究会;初出は『芸文』8(12), 1917.
護雅夫(1952)「Nökör 考序説―主として主従関係成立の事情について」『東方学』5: 56-68. Cleaves, Francis W. (1952) “Trois Documents Mongols des Archives Secrètes Vaticanes,” Harvard
Journal of Asiatic Studies, 15(3/4): 419-506+8pls. 〔論文集掲載論文〕
本田実信(1991)「ジャライル朝のモンゴル・アミール制」『モンゴル時代史研究』: 83-99,東 京:東京大学出版会;初出は護雅夫(編)(1983)『内陸アジア・西アジアの社会と文化』東 京:山川出版社.
Jackson, Peter (1999) “From Ulus to Khanate: The Making of the Mongol States, c. 1220-c. 1290,”
Amitai-preiss, Reuven and Morgan, David O. eds. The Mongol Empire and Its Legacy: 12-38, Leiden;
Boston; Köln: Brill.
* 再版・再録がある文献で古い版を用いた場合は下記のように記す。
松田壽男(1956)『古代天山の歴史地理学的研究』東京:早稲田大学出版部(1970 増補版). 羽田亨(1917)「元朝秘史に見ゆる蒙古の文化」『芸文』8(12): 1-25;羽田亨(1957)『羽田博士
史学論文集 上巻歴史篇』京都:東洋史研究会に再録. 本田実信(1983)「ジャライル朝のモンゴル・アミールに就いて」護雅夫(編)『内陸アジア・ 西アジアの社会と文化』: 697-715,東京:山川出版社;本田実信(1991)『モンゴル時代史研究』 東京:東京大学出版会に再録. * 同一論文集の論文を多数引用している場合,その論文集自体を単行本の扱いで見出しとして 提示し,各論文には次のような要領で論文集を示す方式を採ってもよい。 本田実信(1991)「ジャライル朝のモンゴル・アミールに就いて」本田(1991): 83-99;初出 は護(1983).
Jackson, Peter (1999) “From Ulus to Khanate: The Making of the Mongol States, c. 1220-c. 1290,”
Amitai-preiss and Morgan (1999): 12-38.
(10) 本文または注における参考文献への言及は以下の要領に準じて行う。史資料類については執 筆者任意の略号を利用してもよいが,原稿内で統一した方式を用いること。また,文献の頁 数や葉数など出典箇所を明示すること。なお,下記の23-25,84,19-20 は頁数である。 すでに松田(1970: 23-25)が論じているように…… 本田(1991: 84)は,「……」と述べる。 ……とする見解を提示した(Jackson 1999: 19-20)。 (11) 注については,版下では脚注形式とするので,次の要領で作成する。 (a)「MSWord」附属の脚注機能を利用する。その場合,脚注機能の各種設定はデフォルトの ままとする。 (b)参考文献と頁の引用のためだけの注はつけず,前項で示したように本文に挿入すること。 (12) 図版は,大きめの鮮明なものを提出すること。キャプションは各々別紙に作成し,また,本 文中に挿入箇所と出来上がりの大凡のサイズを赤字で示すこと。あるいは,別紙で大凡のレ イアウトを示してもよい。可能な場合は,デジタルデータも提出すること。図中に文字を貼 り込む場合など必要経費を申しうけることがある。 (13) ページ番号は,プリントアウト原稿の余白に鉛筆で記入すること。 (14) 特殊なフォントを使用する場合は,プリントアウト原稿の当該箇所にフォント名を赤字で指 示すること。
第31 号は,論文 6 本,研究ノート 1 本,史資料紹介 1 本,書評 2 本という,多彩な内容になりました。 そのためもあって,査読・編集の作業にいささか手間取り,会員のみなさまにお届けするのが例年より 遅くなってしまったことをお詫びいたします。 巻頭に「特別寄稿」として配した吉田順一先生の論文は,昨年度(2014 年度)大会でのご講演の内 容を基にしたもので,このような形でご寄稿いただけたことは,まことにありがたい次第です。 また,今年度(2015 年度)より,大会での研究発表に公募制を導入しました。おそらくそのことと 連動して,複数の発表者が発表内容に基づく論文を投稿してくださり,誌面の充実にとって大きな力と なりました。ただし,これは例によって締め切りを延長したから可能になったことで,いわば怪我の功 名です。そこで,次号に向けて投稿規定の改訂をおこない,大会での講演・発表者がその内容を投稿す る場合に限り,締め切りを12 月末日とすることにしました。それなら全体を年末に統一すればよいで はないかという声も挙がりそうですが,それでは編集作業に大きなしわ寄せがきてしまいますので,一 般の投稿については10 月末締め切りを堅持させていただきます。どうかご了解くださるようお願い申 し上げます。 また,ハンガリー所蔵の写本をめぐる英文の史資料紹介は,寄稿に関する問い合わせを受けて,投稿 規定の枠外として受理したものです。現在の投稿規定は,使用言語が日本語に限られているなど,海外 からの投稿には対応しておりません。したがって,このようなケースについては,個別に編集委員会で 協議することになりますが,本誌の海外でのステータスを高めるためにも,学術的に価値のある内容で あれば積極的に掲載していきたいと考えております。 なお,次号より,舩田善之,松井太のお二人をあらたに編集委員としてお迎えすることになりました。 陣容を整えて一層充実した誌面作りに取り組んでいく所存ですので,よろしくお願いいたします(柳澤)。