Title
土からみたグスク時代3.尚巴志の台頭基盤
Author(s)
外間, 数男
Citation
沖縄農業, 49(1): 31-49
Issue Date
2018-05-28
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/24307
Rights
沖縄農業研究会
沖縄農業 (J.Okinawa agric.)
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土からみたグスク時代
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尚巴志の台頭基盤外間数男
Kazuo HOKAMA: Gusuku period of Okinawa that experimented from the soil. 3. Fundamental base of rising Syo hashi. はじめに 尚巴志は. 15 世紀始めに沖縄にあった 3 勢 力・三山(図 1) を統ーし,琉球王国の礎を築 いたことで知られている.巴志は第ー尚氏 (1406
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1469 年) 2 代目の中山王として, 1422 年に 即位し. 1424 年に冊封を受け. 1428 年に尚姓 を賜り, 1439 年に没するまで 18 年間王位にあっ た.その間首里城内外を整備し.明と室町幕府 との仲介.明との進貢.自由貿易シャム(夕 ィ)やジャワとの貿易を盛んにし.道教総本山 天妃宮の創建.琉球古典芸能の端緒を開くなど 多くの功綾を残している(新屋敷,1
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浦伍グスク 〇中城グスク 犀;。 o r;•r 城~
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図 1. 三山の勢力範囲と主要なグスク. 2016年 11 月 25 日受付32 沖縄1足業第49巻第l号 (2018) 沖縄最初の正史「中山世鑑」 (1650年)によ ると, 尚巴志は 1372 年に生まれ, 1402 年に佐 敷按司となる.身丈 5 尺に満たないことから佐 敷の小按司と呼ばれた彼の政治は先王に迩わ ず,万人を慈しみ謙虚で緊らず,欲のないこと から近隣諸按司が帰順したと記される. 佐敷按 司となった尚巴志は南山を破り南山王となる. 1421年に中山王武宗(浦添グスク)
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1422 年に 北山王攀安知(今帰仁グスク)を滅ぽし三山を 統ーしたとする しかし珠温「中山世譜」 (1726 年)は, 1406年に中山王武寧, 1416年に北山 王攀安知, 1429 年に南山王他魯毎(南山グスク) を滅ぽし三山統一を果たしたとする. 三山統ー への過程は 「中山世鑑」と異なるが「中山世譜」 が通説となっている. また第一尚氏先祖の伝説記である「佐銘川大 主由来記」には,尚巴志の祖父佐銘川(鮫川) 大主が伊平屋島伊是名で孤児であったと記され る. 佐銘川大主は 10歳の頃から 1:.! 業に就き, つくる米,粟はいつも数作であったある年飢 饉に見舞われ,食糧が逼迫し,菩えた米,粟が 強蒋され,身の危険を察して島を抜け出す. 今 帰仁、辺戸岬を経て佐敷馬天に流れ行きその 地で漁をしているとき大城按司(大城グスク) の目にとまり諸われて婿となる. 男女の子を もうけ,男が苗代大親女は馬天大ノロクモイ になったという(中山, 1978). 苗代大親は尚 巴志の父思紹である.また今でも同じ趣旨が佐 敷に伝わっている(原田, 2004). 佐銘川大主は馬天に流れ着き,大城按司の知 遇を得て地域の実力者となる.その子,孫の思 紹,巴司が佐敷按司となり沖縄にあった中山, 北山,南山の各王を滅ぽし統一を果たした佐 敷の外から来て 3 代にして短期問で沖縄にあっ た 3 勢力を統ーしたことになるその台頭拠点 が南城市佐敷地区(旧佐敷町)(写真 I) である. 写真 1. 南城市佐敷地区(旧佐敷町)の遠景 稜線右端中腹に佐敷グスク,左端に須久名森 佐敷地区は丘陵に囲まれた海沿いの狭小な地 である(図 2). そこを拠点にして沖縄を統ー するほど力を得た背蚊はわからない.馬夭港や 与那原港での悔外交易鉄の祁入による 1謀具の 製造と配布などで経済的な碁盤を築き, 近隣諸 按司の信望を得て成し遂げられたとされる し かし尚巴志の三山統ーについては今なお伝承 や推測の域を出るものではない. ここでは思紹 ・ 巴志が勢力基盤を築いたとさ れる佐敷地区を土の視点からながめ.そこで経 済活動を構築特に/設業生産をするうえで必要 な知識技術.それを得た背敗などを探ってみ た 1 . 14 世紀の東アジアと日本の農業技術 1) 14 世紀の東アジア 第ー尚氏の礎を築いた思紹(-1421), 巴志 (1372-1439) 父子が佐敷按司として台頭し基 盤を確立するのは 14 世紀の中後期そこを拠 点に三山統ーヘの動きを加速するのは 15 世紀 初めである.この時期は国内外とも動乱の時代 であった 1333 年には鎌倉硲府が滅亡し.後 醍醐天皇の建武の中典を経て. 1336 年に室町 硲府が IJり府する しかし室町硲府は安定するこ となく内乱が勃発し. 南北朝時代 (1336~外間:上からみたグスク時代
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島添大 ,r, グスク ロ D 佐敷 佐恢グスク 沖純島南部 [城地区z
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0 1km 1 』 図 2. 南城市佐敷地区 1392) の混乱期を経て, 1392 年に全国は統一 される. また中国では 1368 年に元王朝が滅亡し,明 王朝が成立する.朝鮮では 1392 年に高麗王朝 が滅亡し,李氏朝鮮王朝が成立するなど歴史的 に大きな転換期であった.さらに 14 世紀には 中国,朝鮮沿岸部を倭寇が荒らしまわり,沖縄 では 3 勢力がしのぎを削る群雄割拠の時代で あった. 1368 年に成立した明王朝は私貿易を禁止し, 朝貢国との公的貿易のみを許可した.明の太祖 洪武帝は 1372 年に琉球に楊載を派遣し朝貢を 促す.中山王察度は,それに即座に応えて泰期 を使わし馬,方物を献じた.また明は 1374 年 に李浩を遣わし,高級絹織物,陶磁器と硫黄, 馬との交換を行った. 1392 年には,台風で中 国に漂着した琉球人を送還し,閻人三十六世を 水先案内人として那覇に定住させる(徐, 1991) など,中国・明との関係が急速に展開す る頃である. 朝鮮との通交は, 1389 年に中山王察度が高 麗国に使節を派遣したのに始まる. 1393 年の 李氏朝鮮成立後も引き続き使者を遣わし, 1394 年には朝鮮亡命中の南山王子承察度の送還を要 請した. 1398 年には南山王温紗道が朝鮮に亡 命し,倭寇に捕らえられた朝鮮人の送還を行う など李氏朝鮮との交流が活発になった頃である (高良•田名, 1993:
吉成, 2011). この頃,沖縄は 3 勢力に分かれて相争う三山 時代であった. 1374 年に来琉した明の李浩は, 「琉球は三王が覇権を争い,戦が絶えない」と 報告し, 1383 年には明の江武帝が梁民を迎わ し停戦を求めている(孫, 2016). 14 世紀の東 アジアは波乱に満ちた時代であった.2)
14 世紀の日本の農業技術 日本で本格的な典耕社会が成立するのは灌漑 を伴う稲作農耕が渡来した後である(石川.3
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稲作が渡来したのは紀元前 4, 5 世紀の 縄文晩期.その渡来ルートは明らかでないが, 水田迫構や穂摘み,斧などから朝鮮半島南部経 由で九州に渡来したことが有力視されている (石川, 2010). 北九州に伝わった稲作は,1
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年ほどの間に約 500km離れた近畿地方に伝播す る.その後溢尾平野までは約 100 年間を要した. 北九州から瀬戸内海を経て伊勢湾東までは, ルート上に花湖岩や成層岩由来のケイ酸質非火 山灰土壌が分布し,それを伝って広がっていっ た.水を保持するケイ酸質土壌は稲作に適し. 稲作導入に有利であった. しかし火山灰土地帯 に入ると東進は阻まれ.伝播も停滞することに なったという(藤原, I9
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稲作の技術は,渡来とともに完成されたかた ちで入ってきた.農具の材質や形状は変化した が,機能は変わらず,作業の手順も弥生時代か ら現在まで変わっていない(土肥, 2001). 渡 来当初の農耕具は木器,石器が中心であったが, 古墳時代に鉄製(一部)農具が登場する.鉄の 登場は木工具の発達を促し,農具が著しく進歩 したことで農業への依存度を増すことになった (小野, 1942). しかし鉄製農具は奈良,平安時 代初期を通して貴族階級が所有し,農民は貴族の農具を用いて耕作するにすぎなかった.貴族
は鉄を大最に所持し,豪族などに報償として与 えた.鉄製農具が農民の基本要具となったのは 平安時代後期からである.その基本農具は鍬で あるが,鋤,黎もこの頃から広く用いられてき た(古島, 1951,1
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平安時代には播種前に種もみが浸漬され,田 地への野草のすき込み,除草,獣害対策,鋤耕 の普及,田植えの組織化,湯水機の利用,根刈 りの一般化,稲架による乾燥が行われた.脱穀 過程も分離した.また苗代の位骰や用水,水管 理などが徹底されるようになった.鎌倉時代に なると武士が地頭として荘園や公領の管理年 貢の取り立てを行い,私有地で農民を使うなど 経済的な力を強めていった.武士は経済力を強 めるために農業の生産力を高め,水車や溜池, 水路の整備,河川下流域や湿地帯などの開発を 行い水田が拡大した(土肥會 2001:
古島,1
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鎌倉時代は腹業技術の進歩,開墾の進展に よって農業生産力が著しく増大する時代であっ た.泄漑排水技術の進歩により,収穫後落水し 乾田とし,裏作に麦をつくる二毛作が近畿や瀬 戸内海の先進地で行われ(井上, 1981), 水田 裏作として麦作が普及した.牛馬の飼育と農耕 への利用,草木灰が利用され,山野の利用に関 心が裔まった頃でもある(東大日本史研,1
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14 世紀までには,畿内や西国で定培してい た水稲の二毛作が東国にも広がり,早稲,晩稲 などの品種が普及し,水稲の浸種法,苗代が全 国的に広がっていった.稲の新品種や肥料の進 歩で反当収凪は増大し,水車の普及,用水路の 拡充など瀧漑施設の進歩が著しく,干ばつ害は 少なくなり,新田が開発されるようになった(東 大日本史研, 1965). また牛馬耕が普及し,集 約的管理技術や草木灰,草木葉のすき込み,厩 肥などの施用も拡大していった(古島, 1951,1
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稲作技術の著しい進歩にかかわらず平安時代 までの畑作技術は遅々として進まなかった.平 安時代の貴族の直営地である内膳司園では,当 代最高技術を駆使した集約的な農業が行われて いた.栽培されている種類は多く,厩肥が施さ れ,牛耕をなし中耕,除草,除虫が行われ,条 播,点播,移植栽培もあった(古島, 1951,1
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それに比べ畑作は腹民の自給的色彩が 強く,条件不利地で小規模に粗放的・放任的に外間:土からみたグスク時代
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行われていたにすぎない.鎌倉時代になると, 農村では手鍬の改良普及で棚田の開発や焼き 畑,山田が開発され,手工業の分化に伴い新し い職業が創出された.また農業生産の増加に伴 い市も拡大し,各地に特産物が生まれた(井上,1
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しかし 14 世紀の南北朝時代の内乱で,荘園 は守護と家臣に奪われ,荘園領主は無力化し, 守護は支配地を拡大していった.戦乱は農村に も波及し,領主に抵抗するかたちで寄り合い組 織の「惣」や「郷」を拡大させ,地侍,農民た ちの地域統合として武装蜂起と集団逃散が頻発 した.荘園制の崩壊とともに封建領主は戦国大 名として支配力を強化し,河川管理や用水路開 発を行っていったまた灌漑排水などの土木工 事に領国民を動員するなど農業生産力の向上を 促し,牛馬耕が小農民にも普及し,畑二毛作, 三毛作も普通になっていった(井上, 1981). 3) 14 世紀の沖縄の農業技術 沖縄で農耕が始まったのは 8/9-10 世紀のこ ろである(高宮, 2003). 狩猟採取経済から一 挙に腹耕へと転換する.その転機となったのは 農業を生業とする人々の植民であったと推測さ れている(高宮, 2002). またグスク時代に先 行して沖縄本島では,畑作による穀物栽培が行 われていた(甲元 2003).1
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4 世紀には城 塞的グスクが登場する.その出現は生産経済を 基盤とした社会の政治的統合が進展したことに よるという.その拠点が石灰岩台地とその縁辺 である.そこはグスク時代的な農業に適し,農 業生産力が高く,集落も密に分布し,政治権力 の発生する基盤になった.そこでの農業は「水 稲作+麦作」の複合経営であり,当時としては 農業生産の先進形態であったいう(安里,1
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考古資料などから沖縄での農耕の開始時期や 様子が徐々にわかってきた. 13 世紀の迫跡か らは炭化米や麦が出土し,穂積みの鉄製小型鎌 や畑耕作用の骨製ヘラ,牛骨が出土している. 穀物収納用の高床倉庫も確認されていることな どから,石灰岩台地には麦畑作を中心として稲, 粟作を伴う農耕社会が成立していた.畑の耕転 にはヘラが使われ,鉄製小型鎌による穂積み収 穫が行われていた.また台地ふもとにある谷底 低地や海岸低地では稲が栽培されていた(安里,1
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この時期の腹耕の中心は畑作であり, それを踏まえて社会の階唇化が進んでいったと いわれる(木下, 2003). 沖縄での鉄製腹具の使用時期は明らかでな ぃ.鉄器は弥生・平安並行期に九州弥生土器と ともに持ち込まれたと推測されている.それが 広く使用されたのは 12-13 世紀以降である. 鉄器は主として工具,武具,釘,生業用具の鎌, 釣針,鋏など消耗品的な小型製品であった(大 城 1997). 14 世紀は沖縄の農具革命の時代ともいわれ る. この頃石や木,骨製農具から鉄製農具に変 わっていった(新里, 1975). しかし鉄製品が 多数出土するにかかわらず,鉄製農具は鎌やヘ ラだけで,耕地の拡大につながる股具は検出さ れていない(大城 1983). また 15 世紀後期の 朝鮮漂流民の記録でも鋤鍬は使用されず,ヘラ で耕起をしていると記される.朝岡 (1991) は, 沖縄の鍬は近世以降に使用されたのではと推測 している. しかし沖縄の正史は中山王察度や尚巴志が海 外交易による鉄塊の導入と農具の製作,配布に より人心をつかみ政権交代を果たしたと記す. 明の李浩は 1376 年に馬,硫黄を買い求めるた め高級絹織物を持ってきたが,磁器や鉄鍋を欲 しがつていると報告している.また城塞的グス3
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沖縄農業第49巻第 1 号 (2018) クが登場する 13, 4 世紀は,農業生産が安定化 し.農耕集落も急増することから鉄器の供給拡 大があったとされる(安里, 1991a). 鉄器は典 業生産の安定と拡大につながり,社会変革する ほど強力で.支配者の権力強化のためには必須 であった. グスク時代には鉄製腹具として耕起用のヘラ や収穫用の鎌しか出土していない.鉄製農具は 小型であっても石灰岩台地の島尻マージでは 石.木.骨製農具より威力を発揮する.また鉄 斧や刃物類は木製農具の製作を容易にし.硬質 材を利用することで強固な木製農具をつくるこ ともできる.小型鉄製農具や木製農具を併用す ることで島尻マージでの畑耕作は可能である. しかし鉄製の小型農具は島尻マージなど軽しょ う土壌の耕起や根掘り.除草などに使用するこ とも容易であるが.重粘質のジャーガルでは使 用が困難である.また水田など全面耕起するに はヘラなど小型農具では難しい. ジャーガルは島尻マージに比べて排水が悪 く,重粘質で粘りつきやすい.また乾くと硬く なることから木製農具では歯が立たない. ジャーガルの畑地化は排水対策など物理性の改 善が必須となるが,水田は比較的容易に造成す ることができる.ジャーガルの基盤岩は不透水 層で内部排水が悪く,保水力も強いことから表 面水の流出防止を図るだけで湛水化はできる. 水漏れしない畦畝をつくり,水を引くことで田 はできるが,島尻マージで使用するヘラなど幅 の狭い殷具では耕起が難しい.八重山地方など で最近まで使用されていた木鍬はジャーガル田 でも利用できる.西表島で田を起こすキーパイ は刃を梅,柄をイヌマキでつくった木鍬であり, 久米島のマーグエーは刃先だけを鉄製にした田 鍬である(沖縄県, 1974). また本島南部の田 では幅広の木製ヘラ・ウズンピーラが使用され ていた(上江洲, 1980). これらの木製農具と 牛馬の踏耕を組み合わせることで田の耕起はで きたと思われる. しかし開田は,掘削や瀧漑排 水など土木工事を伴うことから鉄製農具や斧, 運搬手段が不可欠である.また水利にかかる知 識技術も必要となる.石灰岩台地の島尻マー ジで確立された農業技術をジャーガルなど重粘 質,湿地の多い沖積地に適応することは難しい. ジャーガル低地で典業するには,その土壌に適 応できる木製,半木製の農具と技術が必要であ る.また牛馬など役畜利用を組み合わせること でジャーガル低地での腹業は展開できると思わ れる.その中心になったのは水田である.畑地 化するにはなお時間を要したと思われる. 「李朝実録」の「朝鮮漂流民見聞記」は, 15 世紀後期に沖縄で行われていた農業を克明に記 している(中山, 1978). 見聞記は朝鮮の済 州島から与那国島に流れ着き,那覇に送られる までに滞在した島々の様子を聞き書きしたもの である. この記録から与那国島や西表島祖納な ど水利の良いところでは稲が専らつくられ,水 利の悪い島では黍や粟麦など畑作中心の腹業 が行われていたことがわかる.その栽培は秋か ら冬に種を播き,春から夏に収穫する冬作のシ ステムであった.安里 (l 998) は,夏の台風や 干ばつを回避するために,自ずと冬作システム になったという.その成立は 13 世紀以前のグ スク文化形成期にあったと推測している.また 漂流民記録から 14 世紀後半には水稲二期作が 行われ始めていたと推測し,そこで用いられる 農具は骨製のヘラ,鉄製の穂摘鎌であった.古 琉球王国時代の農業技術もグスク時代とほとん ど変わらないという. また 14 世紀の沖縄には馬がかなり飼われて いたことが「明史録」など中国史料などからわ かる. 1372 年の明の招諭に応えた中山王察度外間:上からみたグスク時代 37 は馬を貢ぎ, 1374 年には明の李浩が馬 40頭を 購入し. 1377 年には泰期が炭賀使として馬 16 頭を献上している. 1382 年, 1386 年にも馬を 貢いでいる特に 1386 年には120 頭も献上す るなど.短期間に多くの馬が明に渡っている(中 山, 1978). 14世紀から 15 世紀初期の琉球は 明の軍馬供給地であったという(高良 • 田名. 1993). この時代の琉球には多くの馬が飼われ ていた. 馬は 5 世紀頃朝鮮経由で北九州に入り.
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世紀頃沖縄に伝わった沖縄に伝わったのは体 高 120cm 前後の小型馬である現在でも宮古 馬や与那国馬として現存し, 沖縄の在来馬とし て重宝されている(新城 2010). この系統の 小型馬を駆使して倭寇は.中国朝鮮沿岸部を 焼らしまわったといわれる(藤原, 1991). 馬 は明への貢ぎ物役畜.肉用として飼われてい た しかし 15 世紀の朝鮮標流民の記録には沖 縄島以外みることがない. 潔流民の記録には. 牛,鶏猫が各島で飼われているが.馬や山羊. 緬羊.豚は沖縄島だけである. また牛は与那国 以外のすべての島で食されるが.馬珀は沖縄 だけで食されていた.当時の那覇市場には馬肉 が売られていた(中山. 1978). 14 世紀の沖縄の I設業は,石灰岩台地の島尻 マージでの畑作が中心であったまた台地縁辺 の消水地や谷底低地では小規模に水稲がつくら れていたが. J塁業の主体は粟や麦などの畑作に あったそこで用いられる 1没具は木製や竹製の 堀棒. 一部鉄製のヘラや鎌などであった.鎌は 穂刈用として使われた 堀棒やヘラなど小型/盟具は,島尻マージなど 軽しょう土壌の部分耕起には有用であった幅 広の鍬や鋤などは石礫や残根の多いなかで利用 することが難しく.堀棒や幅の狭い小型ヘラが 効率的であったまた牛馬による流起こしは. 土附が浅く基盤岩が蕗呈する島尻マージでは利 用が難しい.島尻マージは排水良好であるが. 保水力がないことから干ばつの被害を受けやす い. 焼畑耕作をすると地力の低下が著しく,畑 作物を長期に連作すると収杖の低下は避けられ ない. また連作障害の発生などで数年おきに移 動せざるを得ない. しかし石灰岩台地ではス ペースの限界から移動できる範囲も狭まり,よ り低地へと移る必要があった低地への移動は 14世紀中頃から行われていたと思われる.2
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尚巴志の台頭基盤 1) 佐敷地区の自然環境 南城市佐敷地区(旧佐敷町)は,洵岸沿に広 がる沖棟地(低地)と南側にある台地(知念台 地)の縁辺及びその斜而からなる地区面梢の 40.7% は沖梢地(低地)である. また丘陵地(小 起伏)が 48.6% を占めることから.佐敷地区の 地形は低地と丘陵地に二分される台地は 10.7% にすぎない(国土庁, 1977).丘陵地は 知念台地の北斜面であり,沖禎地はこの台地の 崩落と侵食によってできたものである. 沖梢地 は主として海岸線に沿って広がるが.浜崎川 (写真2) など小河川沿いにも小規模に形成さ れている. 写真 2. 浜崎川流域に広がる膜耕地3
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沖縄農業第49巻第 l 号 (2018) 浜崎川は須久名森と知念台地の縁辺を源とし て中城湾に流れ込む地区内最長の河川である. しかし総延長は約 3km にすぎない.また知念 台地の傾斜面を源として大井川をはじめ,幾つ かの小河川が中城湾に流れ込む.その多くが台 地やその北斜面に降った雨水を源としている. 知念台地の南東側には垣花桶川や仲村梁桶川な ど有名な湧水も多いが.佐敷地区に流れ込む地 下水脈はない(佐敷町,1
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地区内を縦横 に流れる小河川は,台地北傾斜面の雨水を一挙 に集めて流れることから,降雨後は急流となり. 下流域ではしばしば氾濫を繰り返していたと思 われる. 知念台地は佐敷地区の南側に広がり, 150m 前後の稜線が地区を取り囲むかたちで伸びてい る.台地の北•佐敷側は急傾斜となり,一部は 急崖をなし地滑り地帯となっている.この北斜 面は農地利用が少なく.雑木林や草地など防災 林となっている. しかしかつては採草地や薪炭 林,用材林として活用していたと思われる.一 沖純島南部 方その反対側・南側は台地が緩やかに南に傾斜 し集落や農耕地が広がつている. この台地の南 東側には玉城グスク,南西の縁辺に糸数グスク, 北西に島添大里グスクなど大型グスクが位慨す る.現在この地は南城市域となっているが,か つては玉城村であり,一部は大里村であった. 現在佐敷地区には湿地が見られない.古くは 地区内に湿地が広がり,サガリバナなど湿性植 物が群生していた.河川周辺の陸地化に伴いオ オハマポウ,クロヨナなどの河辺林が発達し, 河口域にはメヒルギやアダンなどの海岸林が陸 域と海域を分けていた.河川と沼地には淡水性 動物,潮間帯にはヒジキなどの海藻類ウニ, ナマコ,貝類,魚類の棲息する多様な生態系が 維持され,好漁場であったという(佐敷町,1
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2) 佐敷地区の土壌 佐敷地区に分布する主要な土壌は灰色低地土 と残梢性未熟土壌である(図 3). 灰色低地土 は海岸沿いの沖積地に広く分布し,地区内面積 図 3. 知念半島の土壌図. 亡残積性未然t~目灰色低地t 芦褐色低地 i:llIIIIIl 暗赤色 t壌 ltiJJ:Ji'(1977)l:地分類図(沖縄限)から作成外IUI
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上からみたグスク時代 39 の42.6% を占めている. それを取り囲むかたち で残栢性未熟土壌が分布する. 分布而梢は 37% である. この 2 種土壌が地区内の 80% 近 くを占めている. いずれも母材(基盤岩) は泥 灰岩(クチャ)(写真 3) であり.典型的なジャー ガル土壌(写真4, 5) である. また海岸沿い の与那原町と南城市知念地区との境には褐色低 地土壌 (2.6%) が分布し.後背の知念台地に は暗赤色土壌 (17.8%) が分布する(国土庁, 1977). 褐色低地土壌は,地下水位が低く,排 水は良好であるが下府が緻密になると湛水し やすい. 土色は黄褐色を呈し,粘土質で,粘培 性,可塑性が強い. また暗赤色土壊は石灰岩に 由来する島尻マージである. この土壌は物理性 が良好で.透水性の良いことから畑地利用が多 <. 水田利用は少ない. また耕土が浅く. 保水 カが弱いことから狂雨時には千ばつの被害を受 けやすい. 写真 3. ジャーガルの母材(甚盤岩)・泥灰岩(クチャ). 写真4. ジャーガル畑 バワーシャペルによる深耕で甚盤岩が露出した畑. 写立 5. ジャーガルの断面 表展は褐色ジャーガル,下層が灰色の泥灰岩(クチャ). 灰色低地土は佐敷地区の沖積地に広く分布 し. 1謀業上極めて重要な土壌である. この土壌 は後背にある丘陵地の泥灰岩が崩壊し.侵食さ れて海岸沿いの低地に堆枝したものである. 土 色は灰色を呈し.粘沼性.可塑性が強く. 地下 水位の高い土壌である. また透水性の悪いこと から,長雨で圃場が冠水しやす<,降雨後は数 日を待たねば耕起すらできない. この土壌は物 理性が極めて悪いが.土壌没分に窃み,養分の 天然供給凪も大きいことから.県内では肥沃な 土壌である. 同土壌は排水対策や有機物の投入 など土壌の物理性の改善で最良の田畑にするこ とができる現在土地改良区ではサトウキピ の単収が裔く.長期連作にも耐える地城である. 同土壌は沖縄本島中南部の沖梢地に広く分布 し.サトウキピの店収地域となっている. 残梢性未熟土壌は. 知念台地の北斜面や台地 縁辺.須久名森一弗に分布し.畑地として一部4
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沖縄農業第49巻第lサ (2018) 利用されるが.ほとんどは草地雑木林帯となっ ているこの土壌は明瞭な肘位分化のみられな い未熟土である. 土壌の粘土含駄は揺く.内部 排水が不良で. 粘滸性. 可塑性が強く.耕転が 困難で機械化し難い土嬢である. 沖縄本島中南 部の波状丘陵地に広く分布し.主として畑地に 利用されている 灰色低地土は, 全国的に広く分布する土壌で あり,全国耕地面禎の 22% を占めている.主 として沖積地や谷底平地扇状地に分布し.そ の殆どが水田利用である. 九州では福岡県や佐 四県.熊本県の沖梢地に分布し,筑後平野や熊 本平野八代平野の主要な土壌となっている. 福岡県,佐賀県の水田の約 60% はこの土嬢で ある. この土壌は畑地への利用が極めて少なく. 九州で 1% 以下,全国でも約4% しか利用され ていない.また残積性未熟土壌は樹園など畑地 に利用されているが.全国的には 1% 以下の利 用である(士嬢保全協, 1979). 現在佐敷地区の沖梢地はほとんどが畑地利用 であるが,かつては水田も多かった(佐敷村, 1964). 排水不良の沖梢地を畑地にしたのは排 水対策など土地基盤の撒備である.また水田利 用に当たっても.安定生産のためには排水対策 がイ<可欠になる.水稲は湛水条件下での栽培で あるが,常時湛水では収駄が上がらない.生育 期間中に湛水と落水を紐り返すことで収杖増が 図られる. 現在沖縄本島中南部の沖栢地に水田を見るこ とはないが,かつて中城湾沿いの沖栢地は県下 有数の水田地帯であったまた我が国古代稲作 の発祥地は小河川の沖梢地にある. 涅地帯は居 住域として不適であるが,植物辿体や没分の集 積微生物作用の活発なことから水田としては 最適である. また沖禎地は丘陵地からの窒索成 分の流れ込みなどで放分の天然供給駄が大き<
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水稲を連作しても地力が落ちることがない. 水田は連作障害が生じ難いことから長期に水稲 を連作することができるジャーガルの沖栢地 は水田化することで水稲を長期間,安定的に収 穫することができる. 島尻マージの畑作に比べ て生産性は極めて裔い. ジャーガルは水稲を安 定的に, 長期間生産できる点で島尻マージを圧 倒している 3) 佐敷地区での農業 17 世紀中ごろ編鋲された「琉球国高究帳」 には.佐敷問切が佐鋪村, てどこん村,屋びく 村の 3 ヶ村からなることが記されているその 後に津波古.新里小谷が大里間切から分離さ れ編入された佐敷按司・尚巴志のころは佐敷 手登根屋比久の 3 ヶ村が勢力の範囲であった のであろう. 手登根村.屋比久村は浜崎川沿いの沖和地に あり(写真6), 佐敷村も涌岸沿いの沖梢地に ある. この 3 ヶ村は古<からの稲作村であり. 「琉球国高究帳」では総石高の 70% 以上を田高 が占めている佐敷村では 80% 以上が田高で あり畠証は 20% にすぎない(表 I). またこ の 3 ヶ村は近年まで裕福な村として知られ市 場にものを売りに行くこともなかったという (佐敷町, 1984). 写真 6. 佐敷地区の手登根(手前)と屋比久集落(奥). 向いは須久名森外間:上からみたグスク時代
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表 1.
佐鋪間切の村別田畑の石高 o_ 村 合高•石 田高• 石(%) 畠翡•石(%) 屋ぴく村3
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てどこん村1
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佐鋪村3
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佐鋪間切 (3 ヶ村)9
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い「琉球国裔究帳」(沖縄県史料前近代 I. 首里 E 府仕憫)から作成. この 3 ヶ村のある沖積地は海岸沿いに灰色低 地土と褐色低地土壌が分布し,その外側の内陸 部に残積性未熟土壌が分布する.いずれも泥灰 岩由来のジャーガルである.沖積地は地下水位 が高く,排水が悪い.また地区内を縦走する小 河川は丘陵北斜面の雨水を集めて中城湾に流し 込み,多雨時には濁流となって下流域を氾濫さ せる.丘陵地にある泥灰岩が崩壊し侵食され海 岸沿いに堆積してできたのが佐敷の沖積地であ る. この沖積地は,地下水位が高く,治水対策を 行わないと安定した農業経営はできない.排水 対策で停滞水を除去し,水の流出入調整で乾田, 畑地化を行い,適宜の注水で安定生産を導<こ とになる. これらを組み合わせることで沖積地 の湿地帯は良田,良畑となり大幅な生産増が期 待できる. 佐敷地区にある沖積地は重粘質のジャーガル が広く分布する.地区内の沖稜地には,かつて は湿地帯や沼地が散在し,小河川が縦横に走っ ていたものと推測される.治水など土木工事を しないと腹業などできない.そのためには土木 工事に必要な鉄製殷具や工具,水利の知識・技 術が必要となる.石灰岩台地の島尻マージ地帯 で行われた農業技術は沖積地のジャーガル地帯 に即適応することは難しい. 島尻マージ地帯の典業では,排水対策は不要 である.必要なのは灌漑対策である.島尻マー ジは土壌の物理性が良好で,雨水も表面を流れ ることなく地下に浸透してしまう.保水力が弱 いことから畑の水もちは悪く,乾燥しやす<旱 魃にあいやすい.降雨量が農業生産を大きく左 右する.島尻マージ地帯では田の造成ができず, 石灰岩台地縁辺や谷底低地の湧水地に限られ る.小区画小規模とならざるを得ない. 島尻マージは土壌が軽しょうであり,石礫が 多いことから,堀棒など木製や骨製の道具でも 十分用立つ.広幅の鍬や鋤は石礫の多い地で耕 転することは難しい.鉄製であれば耕転も容易 であるが,損耗の激しいことは難点である.島 尻マージ地帯で確立した農業技術はジャーガル の分布する沖積地に即適応するのは難しい.鉄 製農具があっても島尻マージの様なドライラン ドの農業からジャーガルの様なウエットランド の農業に移ることは容易でない.ジャーガルな ど湿地帯に適応可能な農業技術が必要となる. ジャーガルは重粘質で排水が悪く,乾くと硬 ぃ.降雨後数日待たなければ畑地に入ることも できない.多湿の畑地に入ると土は粘土塊と なって硬く耕転が難しくなる.畑地としての利 用は難しいが,田地の造成や利用は比較的容易 である.排水不良であることから淵水が少なく, 田の床締めも難しくない.田の荒起こしは粘着 性のため容易でないが,田に水を湛え,牛馬な どによる踏耕で容易に耕すことができる. しか し排水対策がないと浸水・冠水で収量増は望め42 沖縄農業第49巻第l号 (2018) ない. 佐敷地区の 1謀業地帯はジャーガルの分布する 沖梢地にある. この沖和地を木製や酋製/!)!具で 開田や開畑することは難しい.また瓦や樹木な ど草木の生い茂る涅地での作業は鉄製農具がな いと容易でないまたこの作業を数人で行うこ とは難しく.数十人規模の共同作業が必要とな る.共同作業を行うには腹業や土木の知識 ・ 技 術を持ち.統率力のある有力者が成功を消くも のである. ジャーガルなど湿地を開<には1塁業 土木や水利の知識技術が必須となる. 佐敷地区に分布するジャーガルは.土壌の物 理性は悪いが.化学性.微生物性が良好である. ジャーガルは投分に冨む土壌であり.後背の丘 陵からは小河川によって投分が運ばれるなど没 分の天然供給杖も大きい. この沖稜地では鉄製 腹具,湿地帯に合った 1謀業や土木の知識技術 があれば開田. 開畑は容易である.土壌は旋分 に富み.養分の天然供給虻も大きいことから. 持続的に安定した I塁業経営が可能である.それ を成し遂げるのは島尻マージ地帯の技術ではな <. 重粘質で涅地帯に合った腹業と土木の技術 である.
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尚巴志の土木工事 1) 首里遷都 尚巴志の最初の居城は佐敷グスクである(写 真7). 佐敷グスクは後背にある知念台地の北 斜面.標高 40m ほどの舌状台地に築かれている. グスクは自然の谷間や斜面を削り落して造った 切岸を障壁とし,所どころ石を梢み上げた土築 (塁)のグスクである(岱碩 2012). グスクは 4 段の築成面から成る連郭式山城で,南北約IOOm
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最大幅約 70m (7,300 面)である. グス クからは中国製の胄磁器や白磁器,中国古銭, 武具炭化米,麦が出土している(詣蹂 2012). 写真 7. 佐敷ク'スクに建つ月代の宮. 土堅グスクは沖縄本品北部や奄美大島にみら れ.非石灰岩地域に分布する佐敷グスクのあ る舌状台地は.島尻府の泥灰岩で投われ. 石灰 岩が少なく粘土府を削平して城壁にすることは 簡便であったという.舌状台地からは集落や耕 作地(水田)が一望でき.馬天港が見下ろせる など優れた位附にある. しかしグスクから北西 3kmにある品添大里グスクとの比店差は IOOm 以上もある(写真 8). その眼下に位骰し. 規 模も小さ<.縄張構造も単純で軍事的に不利な 立地条件にあったという(岱碩 2012). この 島添大里グスクは尚巴志が最初に滅ぽした南山 王の居城ともいわれている <1:,政 2012). 写真 8. 佐敷ク’スクから品添大里グスク方面を望む. 稜線右側に島添大里グスク 尚巴志は浦添グスクの武寧を滅ぽしたあと, 首里城の整備を手がけた. 首里城は尚巳志以前外間:土からみたグスク時代 43 の 14 世紀頃に築城されたが,王城として整備 あることから排水が悪く, 湛水も容易である. したのは尚巴志である.首里城は何度かの拡張 しかしジャーガルは重粘質で湿ると粘りつき, 工事が行なわれ,現在面稜は IO.Shaである. 乾くと硬い. また甚岩である泥灰岩は刃物や柏 内城中城外城の 3 郭からなるが,尚巴志の 状なものでないと掘削が難しい.木製殷具では ころは内城中城だけであった. 1428 年に首 用をなさない. 里城外に中山門が建てられ,綾門大道が王都の 主要道路として整備された 2) 土木工事 1427 年に建立された「安国山樹華木記」碑は. 1417 年に国王の命を受けた懐機が明に渡り, 名山大山荘を参考にして首里城外延に安国山を 築き,池を掘り,樹華木を植えたと記している 15 世紀初期に首里城外延に大規模な土木工事 が行われていたことを示している. その池が龍 涼(写真 9) であり.鮒.鯉が多いことから魚 池(イユグムイ)と呼ばれた.龍涼は首里グス クからの消水で水が満々と湛え,首里森を映す 名勝といわれた池の面籾は 8,400rri である. 写真 9. 龍溢. 池の右が安国山,左上に首里城. 写真10. 龍滋 龍深北側の堤(約 140m). 造成には鉄製牒具や鉄斧が不可欠であり. 掘った土の運搬や租み上げなどの土木技術,水 利の知識がないと難しい.またそれを行う労働 力と指揮体系がなくてはできない.龍泣池が造 られてから.数回浚裸されている. 1678 年の 2 回目の浚裸には,延人員 4.6 万人, 172 日間を 要したという(中山, 1978). 池の造成には. 浚裸の動員数に見合うか,それ以上の人数を要 し,鉄器などの典具や工具を大品に用い.先端 技術を駆使することで成されるものである. ま た北山や南山との相次ぐ戦に備えながらの整備 でもあった.尚巴志は.鉄製 •木製(半木製) の 1盟具を大屈に保持し.土木工事の知識・ 技術 を有し.それを成し遂げる経済力と労働力を擁 龍邪は島尻府の泥灰岩に由来する小丘陵の谷 していたものと思われる. 間にある.谷問には首里グスクからの消水が流 また尚巴志は三山統ー後にグスク間を結ぶ道 れ込む小川が北に走る.そこを掘り進め谷間を を整備し,「はやうま」を首里に走らせる体制 堰き止めて池を造り(写真 10), 掘った土を西 を築いたともいわれる(名嘉. 1993). 海外交 の丘陵に盛り上げて安国山とした.池を造成し 易の窓口として那覇港を整備し.第一尚氏 5 代 た谷間は泥灰岩(クチャ)由来のジャーガルで の尚金福の時代には.那覇と本島を結ぶ海中道
44 沖縄J足業第49巻第 l 号 (2018) 路「長虹堤」 (1452 年)が第かれている.「長 虹堤」を造ったのは懐機であるが,尚巴志代に はすでに構想にあがつていたかもしれない. おわりに 尚巴志の台頭拠点は南城市佐敷地区(旧佐敷 町)である.同地区は海岸に沿った沖栢地およ び後背にある台地(知念台地)とその斜面から なる沖梢地は台地の崩落と侵食によってでき たものであるが.浜崎川など小河川沿いにも小 規模に沖栢地が形成されている(写真 II). 沖 梢地は地区内面梢の約40% を占め, I謀業など 経済活動の中心地である. また台地は知念台地 北側の一部分にすぎないが,その台地の崩落に よってできた北斜面は地区面段の 50% 近くを 占めているこの斜而は急傾斜をなし地治り地 域となっている. 写頁 11. 浜崎川上流域に広がる農地 伊原区と右上の須久名森 同地区は台地の一部を除き,すべて泥灰岩(ク チャ)由来の灰色低地土と残租性未熟土壌で税 われているこれらは通称ジャーガル土壊であ る. この士壌は肥沃であるが粘沼性が強く, 下屈土は緻密であることから透水性が極めて悪 い. 排水不良で乾き難く,乾媒すると非常に硬 くなり.耕転砕土など管理作業が土壌水分に 著しく左右される(大城・束江: 1970). ジャー ガルは浬ると粘沿性を増し.I盟具にへばり付き, 乾くと硬く木製や竹製J謀具では歯がたたない. ジャーガル畑の耕起は土塊を切り,反転し乾い て砕くことにある(写真12). ジャーガルは鋭 い刃先で土塊を切るかたちに耕転することから 木製や刃先の狭い I!!!具では用をなさない. しか し湛水し牛で踏耕することは可能である. 写真 12. ジャーガル畑の耕起作業. シャペルで土を切るように耕す. 大型グスクの登場する 13, 4 世紀は石灰岩台 地やその縁辺での水稲と粟麦の複合経悠で あった(安里 199
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1998). そこで用いら れる 1悶具は木製や竹製. 一部鉄製の小型殷具で ある. I盟具としては堀棒やヘラなどが耕作の主 役であった. 堀棒やヘラは礫質土壌の耕起に威 力を発揮するが. 幅広の I設具は石礫のために難 しい. 石灰岩地域で用いられる刃先の狭いイシ グエーや台浩の先住山岳民蘭嶼品民が用いる 堀棒は礫質土壌の耕転に適応したものである (外問, 1998, 2013). また島尻マージは透水性 の良い土壌であることから排水対策は不要であ る. むしろ泄漑による 111!業生産の安定化が必要 である. ジャーガルの沖梢地で水田開発を行い.稲作 殷耕を定沼させるには.鉄製/謀具と泄漑排水技 術などの土木技術が必要である. 13 世紀に大 型グスクが登場する大きな原動力は島尻マージ外間:土からみたグスク時代
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での農業生産の向上にあったとされる(安里. 1998). しかしその技術を沖積地のジャーガル に適応することは難しい.ジャーガルのような 重粘質,排水不良地で典地を開き.農業を行う にはそれに適応した技術が必要になる.石灰岩 台地の島尻マージで行われていたドライランド の技術よりウエットランドの技術がジャーガル の沖積地には合う. 江坂 0967) は水田で稲をつくる稲作農耕は 高度な殷業技術であるという.大陸渡来の稲作 文化が急速に広がったのは.縄文人がそれを受 け入れる知識・技術をもっていたという.縄文 後期.晩期に稲以外の作物栽培を想定している. また石田・泉 (I 968) は.技術的に高度な稲作 農耕が自然採取生活から突然現れることは不可 能であるとし.高宮 (2002) も 8/9..., IO 世紀 の沖縄で突然典耕が始まるのは農耕を持った 人々の移住によるものではと示唆している.ま た藤原 (I 991) は,「人は意識することなく環 境の象徴として土を感得し.移動も故郷と似た 土壌や景観の地に入植する.同じタイプの土壌 であれば.同じ技術体系で定着できるが.土壌 型を踏み外すと未知の世界で手の打ちようがな い」という.宮島 (1999) は.中国江南に発祥 する稲作農耕が自然的条件の類似する九州の有 明海沿岸に直接渡来したとし.その定着には稲 作にかかる一連の技術と農具および専門の技術 者が大最に渡ることが必要であり,それが欠け ると定着し得ないという.稲作農耕が新天地で 定着を果たすのは,その技術と農具およびそれ を行う稲作農耕民の移動することなしには不可 能という.おそらくジャーガルの沖積地で水田 を開き稲作を定着させたのも.その技術と農具 を持った集団の渡来によってなされたものであ ろう. 14 世紀の東アジアは動乱の世紀であった. 室町時代初期・南北朝時代は内乱が勃発し,明 国,李氏朝鮮の建国,倭寇の朝鮮,中国沿岸部 での略奪などが頻発していた.内乱は農村にも 波及し,村ごと逃散することもあった.ー方こ の時代までには鉄製農具が全国的に普及し,灌 漑・排水技術の進歩や作物品種の多様化,施肥 技術の改良,牛馬耕の普及など農業技術が進歩 したまた荘園の崩壊は領主層の農民の直接指 導を促すことになり沖積地の開田などで農業生 産も拡大した. この内乱に乗じて島伝いに沖縄 に逃れ,佐敷の地で沖積地を開き水田殷耕を広 げていった人々もいたと考えられる. 折口 (1976) は,佐敷尚氏(第ー尚氏)の出 自が肥後深北の佐敷(熊本県芦北町佐敷)を支 配下とした名和氏一党にあるとしている.肥後 華北は菊池氏が支配し,その後名和氏が領有し たが南北朝の内乱で敗走し,南に逃れて沖縄の 佐敷に流れ着いたという.その根拠として地名 の類似,月代,八幡信仰との関係をあげている. また谷川 (2008) は喜界島城久迫跡の発掘調査 から,琉球の国家形成には喜界島など外部から の影智を考えるべきだとしている.吉成 (2009) は琉球王国の成立に北からの渡島者が重要な役 割を果たしたとし,吉成・福 (2006) は倭寇勢 力の関与を示唆している.また吉成 (2011) は 13 世紀後半に突如として大型グスクが築城さ れるのは,石工や土木技術者の渡来を想定する 必要があるとして折口説の再評価をすべきとい う.琉球の国家形成には外部からの影響や渡来 集団の関与などが指摘されている. 藤原 (1991) は九州の稲作適地として,松浦 半島から島原半島東側に引いた線と大分県中津 から水俣市に引いた線の間にある沖稜地(筑後 平野,佐賀平野,熊本平野,八代平野など)及 び宮崎,延岡平野をあげている.筑後や佐賀, 熊本,八代の各平野は有明粘土層からなり,灰4
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沖縄農業第49巻第 l 号 (2018) 色低地土やグライ土の分布する地域である.こ の地を九州に渡来した稲作民は故国の俯景に合 わせて定着し広がっていった.故国に似た土壌 や地形は,渡来人にとって容易に農耕すること ができるという.肥後珠北の佐敷は沖積地にあ り,前面に八代海,後背に台地をひかえ,土壌 は灰色低地土とグライ土からなる. この屎蜆は 沖縄の佐敷にも共通する.入植民が地形や土壌, 景蜆が同じであれば容易に農業することができ るといわれることから,肥後佐敷を出て沖縄の 佐敷に渡り水田を開き稲作腹耕することもた やすいことであったであろう.沖縄の佐敷の地 に渡来した集団は稲作殿耕を定着させ,経済的 基盤を構築し地域の実力者としてのし上がるこ とも可能であった.それが佐敷尚氏であったと の推測もあながち無理な話ではないと思われ る. 水田は義分の天然供給母が畑土壌に比べて極 めて大きい.低地の水田はアップランドから養 分を含んだ水や表土が集まることで持続的に高 生産を維持することができる(若月, 2001). また湛水することで土壌は肥沃化し,土壌侵食 もなく,長期の連作にも耐えるが,畑作は土壌 侵食が激しく,養分も失われ,連作も難しく, 生産は不安定である.稲作は畑作に比べ生産カ が高く會手作業の範囲で家族食料を賄うことが できるが,畑作はその倍以上の面稜を必要とす る(池橋 2005) など,畑作に比べて稲作の優 位性が言われている.佐敷地区の低地は,知念 台地やその傾斜地から土砂の流れ込みでできた 沖積地である.この低地には台地や傾斜面から 表土や蓑分が流れ込み,持続的に安定した水田 経営ができたと考えられる. またジャーガルは保水力が強い.それが広く 分布する佐敷の沖梢地は干ばつ被害が少ない. むしろ多雨による冠水が問題となる.石灰岩台 地の島尻マージは保水力が弱いことから干ばつ 被害を受けやすい.常にその脅威に曝されてい た.その縁地での水稲栽培は干ばつを受け難い が,規模拡大が難しく,台地の作物を補うほど にはなかった.石灰岩台地を拠点とする按司に とって,常に干ばつなど自然災害が大きな脅威 となっていたと思われる.それに対し佐敷の沖 積地では稲作が安定的につくられ,持続的に食 料を確保することができた.それを基盤として 尚巴志は 14 世紀末までに経済的,軍事的に力 を強めていったと考えられる.そのことで近隣 諸按司は脅威を感じ,尚巴志に帰順し隣接する 島添大里按司を滅ぽすことになったと思われ る. ダイアモンド (2005) は,古代マヤが帝国を 築かず小王国で乱立したのは農業生産性の低さ と輸送の限界からという.またニュージーラン ドのマオリ族は近隣の部族間で争いが絶えな かった.それはサツマイモの生産性の低さおよ び長期間,遠距離行軍に必要な食料の確保が困 難であったことによるという.マヤの軍事行動 も農業生産と荷役動物の不在により期間,距離 が制限され,帝国に至らなかった.尚巴志の台 頭する 14 世紀の沖縄には馬がかなり飼われ, 穀物生産も安定し生産性も高まつていた. この 時期に三山統ーがなされたのは,穀物の生産性 の高まり,荷役用馬による輸送手段の発達によ ると思われる. 沖縄の 14 世紀は農業が本格化し,生産性の 向上したころである.それを踏まえて各地に大 型グスクが築城され,群雄割拠の時代をむかえ ていた.この時代に尚巴志の祖父•佐銘川大主 は伊平屋島伊是名から渡来し,佐敷の地で勢力 基盤を築いたと伝えられる.佐敷の馬天で漁を しているときに大城按司の知遇を得て婿とな る.その子,孫が佐敷按司となって地域の有力外問:土からみたグスク時代
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者となってい<.その権力基盤が佐敷であった. しかし尚巴志の治めた佐敷は屋びく村,てどこ ん村,佐敷村の 3 ヶ村である. 17 世紀中ごろ 作成された「琉球国高究帳」は,佐敷間切をこ の 3 ヶ村とし,その総石高は田畑合わせて 928 石である.隣接する島添大里間切の 3.029 石に 比べて 1/3 程度と少なく.知念間切の 898 石, 玉城間切 1,369 石とほぽ同じである.また島尻 の他の間切に比べても高い石高とはいえず.む しろ低い間切である(表 2). これは尚巴志代 から約 300 年後の石高であり.尚巴志の台頭す るころの生産高ではない.しかし佐敷の沖積地・ ジャーガルで水田を開き.稲を安定的に生産し 続けていたなら経済力を高める大きな原動力に なったことは考えられる. 表 2. 島尻地域の間切別田畑の石高'). 間切(村数) 合裔•石 田裔•石(%) 畠高•石(%) 島添大里 (14)3
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7
(
2
5
.
5
)
具志上 (5)8
2
9
.
5
3
7
3
.
0
(
4
4
.
9
)
4
5
6
.
5
(
5
5
.
0
)
東風平 (5)1
,
5
8
4
.
4
1
,
0
8
5
.
1
(
6
8
.
5
)
4
9
9
.
2
(
3
1
.
5
)
豊見城 (17)3
,
1
3
7
.
7
2
,
3
0
2
.
8
(
7
3
.
4
)
8
3
4
.
2
(
2
6
.
6
)
島尻兼城 (8)9
7
0
.
1
5
9
6
.
1
(
6
1
.
4
)
3
7
3
.
9
(
3
8
.
5
)
島尻大里 (4)1
,
8
3
2
.
8
1
,
0
6
5
.
2
(
5
8
.
1
)
7
7
7
.
5
(
4
2
.
4
)
島尻真加比 (4)8
5
5
.
3
3
3
4
.
2
(
3
9
.
1
)
5
2
1
.
1
(
6
0
.
9
)
喜屋武 (6)5
8
5
.
5
1
1
7
.
7
(
2
0
.
1
)
4
4
7
.
7
(
7
6
.
5
)
摩文仁 (4)5
8
3
.
4
1
3
9
.
7
(
2
3
.
9
)
4
4
3
.
7
(
7
6
.
1
)
南風原 (9)1
,
3
7
5
.
4
1
,
0
2
9
.
2
(
7
4
.
8
)
3
4
6
.
2
(
2
5
.
2
)
真和志 (17)2
,
3
6
8
.
2
l
t
6
3
5
.
3
(
6
9
.
1
)
7
3
2
.
7
(
4
4
.
8
)
1) 「琉球国商究帳」(沖縄県史料前近代 1. 首里王府仕囮)から作成. 尚巴志が台頭する 14 世紀後半は,日本の稲 作技術も格段に進歩し,鉄製農具の普及や乾, 湿田の開発技術,灌漑,排水工事.水稲の栽培 技術など水田農耕に係わる技術は完成の域に達 していた.それらの技術を持った集団が佐敷に 渡来し,沖積地を開き水田の造成や瀧漑,排水 路の整備などで水稲を安定的に生産することも 容易であった.それを成し遂げたのは尚巴志に つながる一党である.尚巴志の祖父佐銘川大主 が佐敷に来て,短期で地域の有力按司にのし上 がるのは,佐敷の沖積地を開く農具や知識,技 術を持っていたのであろう.鉄製農具や土木技 術があれば,当時未開であった湿地帯を開き水 田腹耕を定着させることも容易であった.それ を踏まえて海外交易を活発にし,経済的基盤を 構築していったと推測される. 尚巴志は北山,南山攻めを企てながら首里城 内外を整備している.特に龍滋の造営はかって ない大規模な土木工事であった.その造営地は 泥灰岩からなる丘陵の谷間にあり,木製・骨製4
8
沖縄良業第49巻第 l 号 (2018) 農具では難しい.鉄製農具を大量に使用し.運 搬や積み上げ用具,多人数の人夫を動員しなけ ればできない.また水利の知識・技術も必要と なる.石灰岩台地の島尻マージ地帯のようなド ライランドから生まれた技術ではなく.沖積地 などウエットランドから出た技術によってなさ れたものである.尚巴志は大型土木工事をする だけの知識技術があり,人夫を動員できる政 治的.経済的な権力基盤と統率力をもっていた と思われる. 尚巴志につながる佐敷尚氏の出自は伝承や推 測の城を出るものではないが.佐敷外から渡来 したことは事実と思われる.その出発点が伊平 屋島伊是名と沖縄の正史は記すが.それより北 の九州辺りを想定することも難しくない.特に 九州西岸の有明海,八代海沿岸からの渡来も土 壌の共通性などから想定できる.その出発点が 肥後の佐敷ではないかと折口は示唆し.九州の 倭寇勢力の関与を指摘している.ー方稲作農耕 は専門分化した高度の技術を伴うものであり, 一朝ータにできるものではない.また畑作から 稲作に転換することも容易ではない.稲作腹耕 が定着するのは,その技術,農具を持った集団 が大挙して押し寄せて可能になるといわれる (宮島, 1999). 佐敷の地で稲作農耕を定着させ たのは九州辺りから渡来した集団によってなさ れたものであろう.その筆頭が佐敷尚氏である. 謝辞 本稿をとりまとめるにあたり貴重なご助言と 参考文献を貸していただいた大城喜信氏(元沖 縄県農林水産部長)に感謝の意を表す. 引用文献 朝岡康二 1991. 南島鉄器文化の研究.渓水社. 安里進 1991a 考古学からみた琉球史• 上.ひ るぎ社. 安里進 1991b. 考古学からみた琉球史・下.ひ るぎ社. 安里進 1998. グスク・共同体・村.椿樹害林. ダイアモンド・ジャレド 2005. 楡井浩一訳. 文明の崩壊• 上.草思社. 土肥鑑裔 2001. 米の日本史.雄山閣出版社. 土壌保全調査事業全国協議会編 1979. 日本の 耕地土壌の実態と対策土壌保全調査事業全 国協議会. 江坂輝禰 1967. 日本文化の起源.講談社. 藤原彰夫 1991. 土と日本古代文化.博友社. 古島敏雄 1951. 日本農業技術史• 上.時潮社. 古島敏雄 1956. 概説日本農業技術史.旋賢堂. 徐恭生 1991. 中国・琉球交流史(西里喜行・ 上里喪一訳).ひるぎ社(那覇市). 原田信之 2004. 沖縄県佐敷町の第一尚氏史跡 群とその伝承.新見公立短期大学紀要 25: 275-293. 比嘉春潮 1959. 沖縄の歴史.沖縄タイムス. 外間数男 1998. 台湾・蘭嶼島の農業とタロイ モの水田栽培南方資源利用技術研究会報 14-1 : 33 -41. 外間数男 2013. 台湾腹紀行.沖縄農業 46:41 一 52. 池橋宏 2005. 稲作の起源ーィネ学から考古学 への挑戦講談社. 井上消 1981. 日本の歴史• 上.岩波書店. 石川日出志 2010. 日本古代史①農耕社会の成 立.岩波密店. 石田英一郎・泉靖ー 1968. シンポジウム日本 農耕文化の起源.角川書店. 木下尚子 2003. 貝交易と国家形成木下尚子編. 先史琉球の生業と貿易- 1ft 美.沖縄の発掘調 査から.熊本大学. pp. 11 7 -144. 国土庁土地局 1977. 土地分類図(沖縄県).国外問:上からみたグスク時代