Title
[巻頭論考]一九世紀の首里上流士族の家と女性 : 伊江親方
日々記を中心として
Author(s)
小野, まさ子
Citation
琉球王国評定所文書, 17: 7-46
Issue Date
2001-03-27
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/19223
Rights
浦添市立図書館
︹ 巻 頭 論 考 ︺
一九世紀の首里上流士族の家と女性
伊江親方日々記を中心として
野 まさ子 はじめに 伊波普猷の﹃沖縄女性史﹄など、沖縄の歴史研究者は、 その著書の中で以前から、女性の行動や歴史に触れてきて い る 。 そのことは日本の歴史の状況に比較して、信仰の面でも、産業の面でも、女性の行動を無視しては著述できな い状況があるからである 。 それは、国家信仰の中での聞得大君を頂点とした神女組織も、また﹁男逸女労﹂という 言 葉で表現される女性の労働でもそうである。 その記述は古代から近世まで女性のカの認められている社会として評価 するものが多い 。 し か し 、 それは女性の歴史がこれまでの歴史の中で解明されてきたということではない 。 というの も、様々な面でまだわかっていない部分が多い。その一つに家庭の中での女性達の姿がある 。 伊波普猷の﹃沖縄女性 史﹄には、﹁上流社会の女子に至つては、深窓の下で起臥して、外出することが稀で、その上教育もなく、手芸もな ( 一 一 ) かったために、多情多感なる男子に満足を与えるこん﹂が出来なかった﹂とある 。 上流士族社会の女性達が外出するこ 巻 頭 論 考 ともなく、教育もなく、技術も持たず、夫である男性を満足させ得なかった 。 それは、家の中の妻と遊女達を役割ご とに使いわける社会を作りあげていくことにもなった 。 また技術の面については、伝承などでも、首里城内の女性逮 七)¥. であっても織物をすることが述べられるが、文芸や書画などの芸術面の活動はほとんど語られることがない。このよ ( 一 一 一 ) うな士族女性への考え方は以後も踏襲されて今に至っている 。 また伊波は﹁沖縄の午後﹂の中で、自分の母が里方の こで(戸婦) となった経過や、 母 、 が ﹁ こ で ﹂ と な っ た 以 後 、 里方の祭杷に自分も参加したことや、 母の神がかりの様 子を恐ろしいものとして書いている 。 この伊波の記述のように、近代の初期の女性も、またそれにさかのぼる近世琉 球の女性達も、 そのプライベートな部分での生活は、 その多くを伝承の中から拾いあげ作りあげ、想像されるばかり であった 。 それは女性が当事者となって書いた記録が確認できないばかりでなく、男性の記録でも、個人生活の部分 を描いた日記の類 、 が少ないことに由来していた 。 しかし、近世琉球の文書を分類していくと、意外にも﹁日記﹂とついた文書群は非常に多い 。 現在の我々は 、 ﹁ 日 記﹂と﹁日誌﹂を使い分け、 日誌を業務などの記録に、 日記を個人的な記録とすることが多いが、近世琉球の﹁日記﹂ は、琉球王国評定所文書でも、﹁亜船来着日記﹂や﹁進貢船仕出日記﹂ のような業務日誌の性格を持っている 。 ま た 、 ﹁親見世日記﹂や﹁仮屋守日記﹂などは、個人の記録として残るものの、親見世や在番仮屋という役所に関する業務 ( 四 ) ( 五 ) 日誌である 。 これらの ﹁ 日記﹂の中で、より個人の記録に近いものが、﹁仲尾次盛隆翁日誌﹂﹁御 三 代伊江親方日々記﹂ ( 六 ) であり、家や門中に関する記録が多少記述されているものに ﹁ 福地家文書﹂がある 。 ﹁仲尾次盛隆翁日誌﹂は、那覇 士族仲尾次盛隆の日記である 。 日記の中心は 一 向宗法難事件で罪に問われ、 八重山 へ 流刑になる時の記録である 。 次 の ﹁ 御 三 代伊江親方日々記﹂は首里上流士族の日記である 。 この日記は乾隆四七年( 一 七八 二 ) から嘉慶七年( 一 八
O
こ ま で 三 司官を勤めた向天迎伊江親方朝睦により記録されたもので、 日記には、伊江親方朝睦の 三 司官在職時の 一 部と、首里王府の職務を隠居し、家中で隠居の身として家政から 一 歩引いた生活の部分が記録してある 。 また﹁福 地家文書﹂は、道光 二 八年の 他 見無用の ﹁日記﹂など純粋な個人記録ではないものの、家や門中の行事 、 女性の動きもみることができる点で個人記録の性格の強いものである 。 し か し 、 これらの ﹁ 日 記 ﹂ から女性達の姿を読みとるヤ とは容易ではない 。 こ の 論 で は 、 ﹁ 日 記 ﹂ の中でも特に女性の記録が多く、 しかも伊波などのいう﹁上流社会の女子﹂ の代表例として、 ﹁ 御 三 代伊江親方日々記﹂を中心にして、上流社会の女子の実際の姿を見ていくことにする 。 さ て 、 日 記 か ら 、 それぞれの状況を読みとる前に、﹁御 三 代伊江親方日々記﹂(以下 ﹁ 伊江親方日々記﹂とする) ついて内容を概観したい。まず本日記は、 七冊からなっている 。 一 冊目は、伊江朝睦が 三 司官時代の乾隆四九年( 七八四)と乾隆五 二 年 ( 一 七八七) の業務日誌を中心としている 。二 冊目は、嘉慶八年( 一 八
O
三 ) から 一 二 年 ( 一 八O
七)までの五年間の記録で、﹁進物留﹂、 三 冊目は嘉慶 二 二 年 ( 一 八O
八 ) か ら 一 四年(一八O
九)までの日記、 四冊目は嘉慶 一 五 年 ( 一 八 一O
)
か ら 一 六 年 ( 一 八 一 一 )までの日記、 五冊目は嘉慶 一 八 年 ( 一 八 二 二 ) 中 の 日 記 、 六冊目は嘉慶一九年( 一 八 一 四 ) か ら 一 二 年(一八二ハ) の日記である 。二 冊目を除いて、残りの 三 冊目から六冊目 までの四冊は、同様の形式で記録されている 。 た だ 、 三 冊目には、途中に﹁嫡孫蒲戸動方ニ付め諸事日記﹂が挿入さ れている 。 七冊目は、また少し性格を異にしており、 二 つの病中日記からなる 。 前半は嘉慶 二O
年 ( 一 八一五) の 伊 江朝陸自身の病中日記であり、後半は時代が戻るが、乾隆六O
年 ご 七 九 五 ) の俸の嫁である真加戸(先妻、幸地家 より嫁ぐ) の看病日記となっている 。 この日記は分析の方法により、伊江家を中心とした家族の様々な状況を明らか にすることが可能だが、今回は、 その中でも、この日記を通して、伊波のいう﹁深窓の下で起臥﹂ し 、 ﹁ 外 出 も 稀 ﹂ な女性達の実態を描くために、上流士族の女性も含めたの贈答の問題、女性達の外出の例とその理由、 そして女性達 巻 頭 論 考 の関わる家に関する信仰の一面としての先祖拝みと、 その職能としての ﹁こで﹂について論ずることにする 。 九。
一 、贈答する女性たち 康照 二 八 年 ( 一 六八九)に敷かれた家譜による百姓と士族という 二 分された身分制度の中で、士族身分は王府の官 僚として位置づけられ、家譜にあらわされるような血縁の直系による系統の相続という縦の関係と共に、婚姻を通じ て士族達が結びついていく横の関係を強めていくことになる 。 縦の関係は、時代を経ると、同氏の集団となり、門中 または 一 門を形成する。横の関係も、﹁伊江親方日々記﹂ の内容だけでなく、家譜などをみても、問中や 一 円以外の 姻戚関係のつながりも複雑で、首里の士族社会が婚姻関係の網に包まれているといってもおかしくない状態ではな かったかと推定することができる 。 しかし、このような縦横の関係は、 日常的なつきあいをもってそれを維持し、再 成していく必要がある 。 そこで、この関係を潤滑につないでいく方法として、 一 門や門中の場合では、祖先を中心と した同族の年中行事があり、また加えて日常の交際に付随した人の行き来とそれに伴う贈答習慣がある 。 贈答は、贈答する側とされる側の互いの関係を無視しては存在し得ない 。 誰から誰へ贈られるのか、 また、誰がも ら う のかを見ることや、その品の種類や多少によ っ て 、 互いの関係を計ることもできるからである 。 ﹁伊江親方日々記 ﹂ 二 冊目 ﹁ 進 物 留 ﹂ は 、 五年間の贈答記録が主に記録されており、また日記の他の部分にも贈答に関する記録が見られ る 。 これらの贈答例は日記の当事者である伊江朝睦に関するものだが、多彩な贈答例がある 。 次にあげる表は嘉慶八 年 の 二 月から嘉慶九年 一 月まで 一 年間の贈答を表にしたもの で あるが、も っ ぱ ら 朝睦よりの贈答となるが、相手先も ( 七 ) その理由も多 彩 である 。巻 頭 論 考 年 月 日 内 廿~ 贈 答 先 贈 答 人 数 盆 嘉 慶8・2・14 進 覧 米 須 毅 方 朝 陸 塩 豚1切15斤 裏 腹8・2・14 進 新 崎 里 之 子 親 雲 上 朝 陸 境八豚寸4重斤・黒砂結1 嘉 康8・2・2A 暇乞いにつき/く 西 江 に や 朝 陸 琉 た は く 入l り 嘉 慶8・2・2A 以 後 飽 り 登 る 節 / や か 東 江 に や 朝 陸 手 本 か み くり 嘉 慶8・2・25 暇乞いにつき/くり や下やしき番知念、に 朝 陸 百聞紙把く3 1帖・たは 嘉 慶8・2・26 宜島寿へ/次進用 事 で 伊 江 佐上久 真 里 之 子 親 雲 朝婦陸・朝 安/蜜・ 銭00貫文文ずず つ / 10貫 つ 嘉 慶8・2・26 罷出、くり 幸地親方娘恩、かめ 朝 雄 縮 手 掛1 嘉 慶8・2・27 2階 へ 揃 う ( 学 問 一孫才共、かまと 朝 陸 自唐紙3枚 ず つ か / く り (1*) 嘉 慶8・関2・1差 上 母 様 朝 陵・朝 安 銭10質文ずつ 嘉 慶8・閏2・3/地頭進所 頂 戴 致 さ れ 村 田 親 雲 上 朝 陸 茶-茶和茶わ 11束・唐 嘉 慶8・関2・9越用経'し、事で金武乞間切差の た め 精暇 ・碁 入写方/進出 謝 礼 の 喜 久 里 子 朝 陸 銭00質 文 嘉 慶8・関2・12役 出 / 到 来 朝 陸 五 ら 東 江 文 子 h匝豚など 嘉 慶8・閏2・12喜出名/普く請り入念、 役 五 ら 東 江 文 子 朝 陸 おたはこ入lたはこ41折・琉 嘉 慶8・閏2・11代合で館下/くり 山村にや 朝 陸 百 回 紙は く 入11帖・琉 た 嘉 慶8・閏2・ 病 気 / 差 遣 上泊有銘筑登之親雲 朝 陸 たす演七 寸 重1・な 3 ? ら 2かけ 治山城れ に や 腫 れ 物 療頼 慎布絹中きせる1本・ 嘉 慶8・閏2・28入進 みの心(入以後れ頼)/み 仲 間筑 登 之 親 雲 上 朝 陵 たはく入1・葛 手 掛1 嘉 慶8・間2・28暇 乞 い 内田にや 朝 陸 手口扇子1本 嘉 慶8・閏2・28砂 糖・泊 到 来 内問にや祖母 朝 陸 多葉粉5把 嘉 慶8・3・15 御神 御 立 願 前川親 雲 上 妻 朝 健 和刻みたはこ3折 嘉 慶8・3・15 霊差前遣へ (35日 ) /上泊有銘筑登之親雲 朝 陵 菓 子・香・酒代 嘉 慶8・3・15 病 気 / 差 上 富 盛 御 曾 祖 母 朝 雄 吉野葛1包 嘉 慶8・3・16 病 気 / 差 上 富 盛 御 曾 祖 母 朝 陸 散 砂 糖 六 寸 重1 此 進の間段 々 心 入 / 雲医者上宮 城 筑 登 之 親 唐扇桐子2本斉色々箱長 嘉 康8・3・18 朝 陵 入・ 板 1反 8尋 半 基 普 請 に つ 進き細工 新 崎 里 之 子 親 雲 上 黒砂糖八寸熊箆1重茶 嘉 慶8・3・18 共 へ 馳 走 / 朝 陸 51斤包ほど・ 上 嘉 慶8・3・17 熱 あ り つ り / 差 遣 勝(速家按。)司 嫡 子 朝 陵・伊 江 親 雲 上 もくさ ・把飽丸 嘉 慶8・3・17 熱 あ り つ り / 差 遣 勝(連家按。)司 嫡 子 朝 陸 た す1包
かまどあん由緒上中 かまどよりくり候 葉和扇粉入子11本・琉多 慕慶8 ・3 ・18 婚礼/くり 里 筑 登 之 親 雲 男 筋(朝陸 子 嘉. 8・3 ・29 イ昔銭 5 ・入用依頼氏/氾進貧文 寡陽祖母 朝陸・伊江親雲上 銭1∞貫文 中尾勝次・伊連し・伊村・集/ し 嘉慶8 ・3・
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くり し・ し 浦 朝陸 白唐唐紙3枚枚ずずつ / 崎 粟し 渡 白 紙1 つ 国し・かま戸 嘉!i8・3 ・29 差遣 村田親雲上 朝陵 諸白1瓶 親隣所雲諸上御見里老母皇之子 唐和茶2包散(半砂 嘉慶8・4 ・1 安否尋/もたせ上 朝睦 山・重煎茶)・ 締 八寸 1 嘉康8 ・4・2 死去/合力 伊上集?筑登之親雲 朝陸 銭笈わ貫文 先碁え/強島十枚苦手写し方・ 中ヨ2告E書15-枚唐・墨安2田 嘉康8・4・8 べ 状番き翻 喜久里子 朝陵 -m 2本 くり 丁 嘉慶8・4 ・11 あんま/くり 包丁宮城筑登之 朝陸 たはこ3把・蝋引 多薬粉入1 天願り唐皇之子親雲来上 持ち登りの夫/宰 たはこ2把/琉た 嘉!U・4 ・12 よ はし到 / 領の文子 朝睦 はこ入1 くり 嘉腹8・4 ・12 帰島 内諾内聞にや 朝陸 琉たはく入はこを入れて1 ・た あふしはらい集、夜 嘉. 8・4 ・13 入夜銭り此の方へ ま 朝陸・朝安 銭15質文 米 り めし馳/走の答、 払 底 見 次 嘉. 8・4・17 病進気 、 安 否 尋 ね / 祖宮城母筑登之親雲上 朝陸 たす七寸重1 嘉慶8・4・26 見廻い/進 天界寺月湾長老 朝睦 上々渋扇子上たはこ入1本1 ・ まんて陸う代銭a
貫 嘉慶8・5 ・3 差浜上うりの安否尋/ 勝連御殿 朝雲上陸・室・伊江親 文室 (10貫文・朝 10伊貫文江親・ 雲上10質文 嘉慶8・5・4 波飽舟見物 かま戸(嫡孫) 朝陸 銭5貫文 嘉慶8・5・4 馳入 渡 す/走用まんてう貿 我喜屋親雲上 朝陸(内より) 銭文)5貫文(外 5貫 嘉慶8・5・7 街(に湿の様/なかさ病気) もたせ 妹加む戸たしゃ・孫真 朝陸 合唱ま丸1 嘉慶8・5・8 御き国許への書/進状苦手 鯛え頼み 嶺星筑評定之所登子親量之産者上阿波親雲雲上・中根{ 朝陸 一麻絹本た10入は帖扇く入子各11々箱・白・ 華客慶8・5 ・14 灸/いたしくり (13日) 前)11かな 朝陸・室 銭10貫文ずつ 嘉慶8・5・14 手 /り あたえ作のいも7つく 下人島袋 朝陸 たはこ2把 嘉慶8・5・19 揚字持ち来る/くり 宮盛 朝陵 百聞かみ1帖巻 頭 論 考 津はた検覇者勤めの 嘉慶8・5・19 ため乞那 へ進下るた 浦崎筑登之親雲上 朝隆 絹たはこ入1 め 暇 い / 嘉慶8・5・19 仕/那覇せ詰めのため進上へ下る暇乞い 池原筑登之親雲上 朝雄 包和刻紺みたはこたはこ入31 嘉慶8・5・19 はら進帯1つ譲上 りう 佐久/真里之子親祭 朝陵 渋扇子1本/同1 け / ・差 上 同 母 本 嘉康8・5 ・
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仕上せ詰/めのため暇乞 い 進 岡村筑笠之親雲上 朝陸 業渋葉扇粉粉入子2包11本・和・刻絹多多 嘉慶8・5・21 阿波む根た親しゃ方御方妹 .娘此の・ 朝陸 合主主丸1・同1 嘉慶8・5・22 佐久其し 朝陸 絵半紙1巻 嘉118・5・22 喜名し 朝縫 白唐紙3枚 嘉慶8・5 ・23 御し願結に調縄出え馳ため構/ 野 原 に へ、夜走やのめ 内問・富盛 朝陵 銭10質文 渡 れ療治(方頼みの代/心進入銭 銭1∞ 貫 文・上々 嘉慶8・6・4 しやかう 村閏親雲上 朝睦 無に遣わし入 国分たはこ1斤 物 朝陸療合治の念│剤、諸 銭1∞ 粉質文・中国 嘉慶8・6・6 伴見 わ せ 入 れ 葉国皇之子親雲上 朝安(報i陵?) 分多業 1斤 を よ り 頼 み 嘉慶8・6 ・6 重来払め帳、勘去年促森定出安) 岡譜全念 入立間切ち の之進褒よ美のり催申( 筑/進登 金城筑登之親雲上 朝陸 桐国板分たはこ斉1反5把・ 生まれ島へ帰る、 たはこ3 /把・~J多 嘉慶8・6・12 今様御綴年まで8カ年母 宜寿次のかまあん 朝陵/室・婦 業3粉把2包 たはこ 奉公念知入/れ、 まあ 母 も 承 くり 多葉粉な入れをもつ 持ち懸けのたはこ 嘉慶8・6・17 て い か っ た の で 小浜筑登之親雲上 朝睦 /譲 入れ1 嘉慶8・6・21 穣 上嘉味田里之子親雲 朝睦・伊江親書Z上 者1四枚長/枚けの白萌糸地か衣す裳衣 裳1 嘉慶8・6・22 帰島/くり い並里にや前山城にや・さか 朝陸 百回紙はこ入1帖1 ・琉た 嘉慶8・6・25 用27/日進年上回忌に入り 勝連御殿 朝陵・室 室5)茶尺・・手ー・散森掛半砂茶山2糖茶1(1私包1 重・・ J 包習 嘉慶8・7 ・11 先に島たはこ下さる/差上1斤 富盛御曾祖母 朝陸 散砂糠六寸重1 嘉慶8・7・11 先にからい/も給差上う お礼の心入 御崎母吉里之子親雲上 朝睦 散砂厳重1 嘉慶8・7・2A 娘追々婚礼/進 大宜味御殿 朝陸 源氏多業白粉木小方・ 綿1箱布1 反小禄・按大宜司味・伊親親方江按/ 干菓は子天1漬(伊1壷江按添 嘉慶8・8・12 /15差日上伊江島へ差越 朝態 司え)/絡分門5尺手粉掛 立 司津里之子 雲上 1・ 園 多 葉 7 把 嘉慶8・8・22 病気/差上 嘉陽御曾祖母 朝陸 たす葛1包1重・よし野 嘉康8・8・24 安否辱/差上 嘉陽御曾祖母 朝陸 吉野葛1包 嘉康8・8・'z7 見廻/差上 鶴 朝陸 刻多葉粉1包 嘉慶8・8・23 神波水/進で伊江島へ縄 池原筑登之親雲上 朝陵 刻多葉粉5折 嘉康8・8・00 伊江島へ差遣/進 金城筑登之親雲上 朝睦 刻多掛薬粉手 l 3折・縮 弟 上浦崎筑登之毅雲 朝雲上陸/夫室婦・伊江親 刻掛東多葉粉筋品10折・尺I 嘉慶8・8・00 久米島へ砲渡/進 手 1 ・百田紙 1JIV 々 裏 腹8・9・3 御り発安熱否)尋/(差昨上日よ 嘉陽 朝睦 たす七寸重1・煮 機1朱具 嘉康8・9・4 御立願/差上 嘉陽御曾祖母 朝睦 千餅1∞枚 松き川進親物方用招/諮進につ 上杉原1東箱・壱之 嘉慶8・9・5 喜名親雲上 朝陸 扇子3本包 共・む し茶1 嘉慶8・9・11 御安否御尋/差上 嘉陽御曾祖母 朝睦 真黍1重 嘉慶8・9・12 御安否御尋/差上 嘉陽御曾祖母 朝陵 塩魚重1煮折・散砂朱勝具 1m. 梅1 嘉慶8・9・11 くり 真富a山E戸・/与真那城銭御仁殿 朝陸 一之扇子手掛1 1本/縮 嘉慶8・10・10 女子平産/差遣 佐上久妻真里之子親雲 朝陸 銭::n貫文 内問親雲上女子真 事箱E島翻形刻たはこ1 嘉慶8・10・25 来月婚礼/くり うし 朝睦 小 ・白木綿布 1反 馬緩那尋船覇/作詰遺事奉行に 嘉慶8・11・5 て へ め の 安 幸地皇之子親雲上 朝陵 雲餅こう4箱 否 差 嘉慶8・11・'z7 御見廻/差上 嘉勝 朝陸 御茶こ1包1包・刻たは 嘉慶8・12・10 差飯明米後遣も日御不位断奉御公拝/、 保栄茂里之子 朝陸 銭50貧文 嘉慶8・12・00 停書へさせ渡す/寄譲付りの清 喜久里し 朝陸 小文筆2本 嘉. 8・12・14 へ下され用としてうしへ渡す 上ら原/被司おなちゃ 朝態 銭60質文 嘉. 9・1・2 母す傑世統へ差/を上作綴候るり調たんえ 佐久真壁之子親雲 朝陸 ら1う・引白多本き葉き粉ゃ入くき たので 上 せる1 嘉康9・1・1 / 官話写方申し付け簸る 惣度し 朝睦 一番小文筆2本, 嘉慶9・1・1 かて物料/渡 嫡雲子上親泊筑登之親 朝陸 銭1∞貫文, 四 / 医沓写方飼え差出 杉原紙巻l帖・絵半 嘉.9・1・10 譲る 嫡子浦崎し 朝睦 紙1 ・一番小文 策2本,
巻 頭 論 考 嘉慶9・1・11 忌中/くり 真つる 朝陵 ~J多業粉 1 包, 嘉慶9・1・8 今内帰惣仁中在/番進出立前、 金城筑登之親雲上 朝睦 こ銭11
∞
0把質,文・たは 嘉慶9・1・19 簸揚字る持参、 望 み / 嫡子浦崎し 朝睦 中奉書14枚, 本部按親之司上/村宜上山里 渋 毛5把E扇Z子1・多枚2軍本事・車干1・甘束地菓官香布子・ 嘉慶9・1・23 御餓/差上 之 子 雲 ・ 野 朝陸 1反箱8唐呑尋・ 山里 子 親 雲 本 蕉1・/官 扇5把子2・練 布1反, 嘉慶9 ・1・23 差遣 慶受之良親間在雲番上仲村筑 朝陸 手掛10把,1ツ、たばこ 嘉慶9・1・2A 差遣/手薬料 上原按司御室 朝陸/室 銭10質文ずつ, 進/や上原組御の殿むた 親次男雲阿上波/根同人星之内儀子 絹上たばこ入れ1 /、 嘉慶9 ・1・25 し 縁 肝煎頼 朝陸 々渋扇l"i子1本 みにつき 国 分 た こ1斤, 手草掛十ば把こ1ツ、 圏分煙 嘉慶9 ・1・2:l 差遺 度登之良親間在雲番上仲/村枠筑 朝陸 た /きせる入れ・多~・ 粉3把, 五ー
ノ、 表をみてのようにそれは、方法により 、 多様な分類を考えることができる。例えば、贈答例で分けると、婚 礼 ・ 出 産 ・ 昇進 ・ 病気見舞などがあり、また贈る品別では、金銭 ・ 煙草入れ ・ 紙 ・ 食物 ・ 織物または衣服が、贈答方法では 相手先を訪ねる場合、訪ねてきた者への贈答とあるが、右の例は、朝睦だけが行っているのではない。また贈答者に よる分別や贈答先での分別が重要なことは、先に 触 れた通りである 。 次の例は、朝睦が家内の 他 の人物とともに行つ ( 八 ) た贈答の例である。 ( 二 月 中 ) 一廿六日、佐久真里之子親雲上事、宜寿次用事ニ伊江島 M H 罷越候付、左之通進候事、 一 銭 三 拾貫文ツツ、私井親方 ぷ 一 同拾貫文ツツ、室井婦 8 これは嘉慶八年( 一 八O
三 ) 二 月 二 六日の佐久真里之子親雲上の伊江島への出発に際して、館別の贈答である。銭 三 拾貫文宛は私(朝睦) と親方(伴) から、銭拾貫文宛は室(朝睦妻)と婦(伴萎) から贈られている。このように、 男性からの贈答に加えて、女性もその 一 部に加わる例は、本日記の中では多く見られる。次の例は、銭ではなく、物 ( 九 ) 品を贈答した場合の例である 。 一 麻疹之時左之通差遣候事、 私 -親 方商人ニ 奇 一 繍壱重 惣慶子巻 頭 論 考 私夫婦ニ 奇 一 大冬瓜壱粒 一 冬 瓜 二 粒 私 S 一 たす 一 重 私 8 一 た す 一 重 私 S 一 たす 一 重 私 S 一 大 冬 瓜 二 粒 両度 ニ 差 遣 申 候 一 たす一重 一 いり米 一 重 私 S 一 たす一重七寸 私 d 一 たす一重 私 S 一 大冬瓜 二 粒 私 S 一 たす一重完 牛 房 折 蜜 S 一 いり米 一 重 室 S 一 いり米 一 重 室 S 一 いり米 一 重 いり米 一 重 室 S 一いり米一重七寸 室 S 一いり米一重七寸 嘉 陽 内 問 前川 黒胡麻 一 重 勝連御殿 知花 知念 宮里按司 何かし両人 但 、 三 男阿波根里之子親雲上内儀 臼 一 通 、 通 私親方ニ奇 一 冬瓜一ツ 私親方ニあ 一 一 銭 弐 拾 貫 文 ツ ツ いり米一重 瀬底里之子 四男阿波根里之子親雲上夫婦井女子疹ニ付 一 通 真志喜 喜久里里之子 蜜 S 米 弐升 伊集里之子 兼ケ段里之子夫婦 一 七
八 一 私 栄た
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内国す 儀芝一 子重 ツ ツ 室 S 一 いり米壱重ツツ 喜如嘉家内 屋部里之子親雲上家内 一上下屋敷中子共疹ニ付、 いり米五合完くり候事 但、供之者孫乳母共いり米玉合完くり候事 右の記録は、嘉慶 一 五 年 ( 一 八 一O
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七月 一 一 日の日記の 一 部である。この年は琉球もしくは首里内に麻疹(天然 痘)が流行した年で、首里士族達も一部は自分の地頭地や親類を頼って流行をさけたり、静養をしたりするために首 里 を 離 れ た 。 そのような背景の中で、進物留にも麻疹流行のための見舞が多くなる。この記録も伊江親方から惣慶子 をはじめとした二O
名近くの人々に銭及び食物を贈答した例である 。 この例で注目したいのは、贈答先と贈答者である。まず、贈答先であるが、最初に惣慶子や西平、嘉陽などが並ぶ 。 これは惣慶子以外は、筑登之などの位階が付いていないので、男性個人へであるのか、家全体への贈答なのか特定で きないが、その後の方を見ていくと、 三 男阿波根里之子親雲上内儀及び四男阿波根里之子親雲上夫婦井女子とか、兼ケ 段里之子夫婦へとして、 また栄悶里之子内儀や喜如嘉家内、 屋部里之子家内が贈答先になっている。このように贈答 先として夫婦や女子、内儀、また家族をさす﹁家内﹂ へ行なわれている例が多い一方、贈った側にも、﹁私﹂﹁私 ・ 親 方両人﹂といった伊江朝睦本人や朝睦と息子の両名という男性側からの贈答と並んで、﹁私夫婦﹂﹁室﹂からの贈答が 見られる 。 ﹁ 私 夫 婦 ﹂ は朝睦夫婦、﹁室﹂は先の例と同様に、朝睦の妻である 。 先の銭贈答の例も同様であるが、 そ の 贈答の方法は、朝睦が ﹁たす一重﹂と妻が ﹁ いり米 一 重 ﹂ を贈る例が多く、贈答品を分担している 。 このように、贈 答者として、男性が表に立ち家を代表するのでなく、夫婦列記や妻の名での贈答が行なわれる例は﹁伊江親方日々記﹂には多い 。 さ ら に 、 これを他の贈答例もあわせると、伊江 家 の使用人や役人の位階昇進などは、朝睦単独での贈答が多いのに 対して、病気見舞や婚姻祝儀、出産見舞や安産祝儀などのより女性に近い生活の部分に関する贈答の部分にその例が 多 い 。 次の例がそれにあたる 。 ① ( 一 O ) 一 十八日 、 明日内間親 雲 上娘真いぬ婚礼ニ付、 私 S 、 外紋縮緬桐 衣之 代 弐百貫文先日差支 候 室 S 一 刻たわく十折 一 木綿取切布 一 反 親 方 S 真つる S 一 白木綿布 二 反 一 とんす 宝 蔵 一 真つる S 一 国分たわく 一 斤 左之通相譲候、 ② 十 二 月中 ( 中 略 ) 一 十 二 日 、 御隠居勝連按司御子 ・ 勝連按司同 巻 頭 論 考 をなちゃら御洗骨ニ付、 私 S 一 赤むしかう 一 重 室 d 一 かうらい餅 一 重 左之通 差 上 候 、 御香 ・ 御酒代 九
。
③ 十 一 月中 ( ) 日 去月廿九日渡嘉敷し妻嫡子誕生ニ付、 左之通差遣候事 私 ・ 枠 S 一 銭 三 拾貫文 室 -婦 S 一 米 三 升 ①の例は、内間親雲上の娘真いぬの婚礼への贈答であるが、朝睦や室との関係が近くなれば、贈答の量や質が上がる ということにもなっているようである 。 真いぬの場合には、朝睦から刻煙草、親方より白木綿布を贈答しているのに 対して、室からは木綿取切布という緋文様の木綿布を贈っているし、真つるからは、中国製の織物である椴子製の宝 蔵(袋状の煙草入れ)と煙草の中でも上等品である国分煙草を贈っている 。 女性達は真いぬの婚礼に対して男性達よ りはより心を入れた 口 聞 を 贈 っ たと考えてよいのではないだろうか 。 婚礼の後に、来るのが③の誕生や出産の例である が、出産は後でも触れるが、産婦の養生料として産前と産後に 二 度の贈答を行っている例がほとんどであり、 また他 の部分でもそのような贈答が慣例となっていた 。 ただ通例は、銭の場合が多く、これは規定があって、男性からは銭 三 十貫文、女性からは銭十貧文の例が多いが、 互いの関係が近くなると、他にえらぶうなぎや漢方薬などの滋養のつ く食物を贈答することもあ っ た 。 また、贈答とは、祝の場合だけではなく、葬礼などの場合にも遣わされる 。 ②のよ う に 御牒居勝連按司御子と同おな ち や ら の御洗骨という葬の部分に関する贈答もある 。 出産によ っ て死亡した母子な の で あ ろう か 。 この例では 、 御香 ・ 御酒代として朝睦からは赤むしこう、室からはこうらい餅という菓子が贈られて い る 。 以上のような例を見ても、朝睦と室がそれぞれ銘々に出す場合がある 。 それに、最初に触れたように、 一 門 の 年中行事の時などにも夫婦 で 品々を出す例が記される場合も多い 。 例えば、嘉慶十五年の九月 二 四日に行なわれた﹁はし か 御 結 願 ﹂ では、酒代を﹁私夫婦﹂と﹁伴夫婦﹂という世代の違う夫婦で出している。 では、﹁室﹂や﹁夫婦﹂といった男女での贈答に使用される金銭や物品はどのような財源で調えられるのだろう。 このような女性に関する財産については‘これまでその史料が確認されていない。わずかに、聞き取りとして、婚姻 に際して、婚家先では着物など自由に調達されないために、実家で相当の生活に使用する品は用意してもっていった というような近代以降の例のみばかりである。近世の上流士族の女性達は、婚家で自分独自で利用できる金銭を持つ ことができたのか、また婚家先での金銭の管理を行ったのは誰であったのかなどを検討する必要がある。たいへん少 ない例ではあるが、次にあげる史料でその検討をしてみたい。 あ る が 、 まず、女性が独自の金銭を持ち得たかであるが、これには直接の史料はない。
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士族女性が実家から遺産を相続している次のような例がある。 しかし、首里ではなく、那覇の例で 覚 当成年相渡候外 一銅銭壱万貫文 但、真嘉戸養子取究別家いたし候時可相渡候 右同 一 同壱万貫文 但、唯賀江銭かね者至而大切成物之段返々申諭、私死後百ケ日等相済候ハハ可相渡候 巻 頭 論 考 一 同 三千質文 但、女子思戸江右同一私死後相成候ハハ家中所帯向之儀、其方等請取愚妻井妹真亀等江も時々案内之上諸事上夫ニ可取行事 ( 中 略 ) 右条々無違背様可被取行候、申度儀者山々候得共、先節々遺言知件 同治拾 三 年成 九月吉日 唯善 唯 述 受取証 銅銭壱万貫文 笑巳旧 六月十 三 日 右者亡兄唯延御遺 言書 之趣ヲ以テ私江被御与候ニ付、本行之金額惜ニ受取申候儀相違無御座候、 受 取人亡高 里唯守妻 高里マカト 保証人亡高里唯紀女子 高里マカメ 右同唯善 三 男 福地唯功 以 上 血 判 血 判 血 判 右之通リ承届相違無之候、 以 上 仲地唯順 印 同 日 仲地唯易 印
請取 一銅銭三千貫文 但、亡父様御遺 言書 通私本年分として 一 同百八拾貫文 但、右本年分亡父様百ケ日相済早速可被御渡之処、是迄御延引相成候付、去未旧七月ヨリ同十 二 月迄之利銭として 右本行但書之通憐ニ誇取申候、以上 申 旧 妻 恩 戸 名 代 久 米 村 四 男 正月十 一 日 勢 理 客 筑 登 之 福地筑登之親雲上 証拠之為 仲地親雲上 印 嫡 子 仲地筑登之親雲上 印 こ の 史 料 は 、 同 治 一 三 年(一八七四) の福地唯善による遺言書であるが、 そ れ に よ る と 、 二 人の女性への遺言の相 続が見られる 。 この時代は、琉球国が琉球藩に変わったばかりの頃で、 日本ではすでに明治に入っているが、琉球の 場合は、沖縄県になるまでに、まだ五年あり、 王国の仕組みは国王が藩王に変わったものの、 まだ大きな変化のない 時期である。本文書も近代の新しいシステムの上に生まれたのではなく、 二 人の例を、細かく見ていくと、 近世からの継続例であるとみてよい。この 巻 頭 論 考 一 人は、高里唯守の妻である 。 彼女は、本来の相続者である高里唯守、唯善から見 て、弟にあたる人がすでに亡くなっており、 いまだ跡継ぎの養子を決めて別家していないので、受取人になった者で あ る 。 この場合は、本来の受取人である男性の代理としての受取となるが、保証人にも福地唯善と並んで、 亡高里唯
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四 紀女子である高里マカメという女性が立っている 。 受取人としてだけでなく、女性でも保証人として立ちうるのであ る 。 もう 一 人は、女子恩戸で、成年受取分として銅銭 三 千貫文を受け取っている 。 思戸は唯善の娘であるのだが、す でに久米村四男勢理客筑登之へ嫁いでいる 。 しかし、実家の父親の遺言により、遺産を与えられているのである 。 但 し、これは前者の例とは反対に、思 戸 の代理人として、夫の勢理客筑登之が受け取っている 。 思戸個人への遺産では なく、娘夫婦への遺産という意味を持つのであろうか 。 しかし、あくまでも婿への相続ではなく、娘の名義での相続 の代理人という書式に、女性が実家から嫁家にいてなお実家との強力なつながりがあったことを示している 。 た だ 、 福地家は那覇士族であり、伊江家のような首里の有力士族ではなく、 その蓄財の仕組みも違いがあるのだが、実家と 女性という意味では同様に考えていきたい 。 さらに、伊江家のような有力士族達も、地頭地からの品を換金すること による蓄財の例はあるので、この福地家のような遺産の相続が行われた可能性がないとはいえない 。 これからの課題 ( 一 四 ) 日本女性史では、士族層においては、近世の初期に女知行という特殊例はあるものの、近世の体 であろう 。 し か し 、 制が確立安定してくると、徐々に女性 へ の相続例は見られなくなるのに対して、 四世紀までこの例のような状況が続 いたのか、またはそれとは切り離して 、 新しい状況として考える べ きであるのかもあわせて課題とせざる得ない 。 さて、伊江朝睦の室の場合、高齢故であろ う か日記の中には、あまり 実 家の事が出てこないのが、勝連按司室など 伊 江家 に頻繁に訪ねてくる女性の例を見ても、実家の役割の大きさを現しているのではないかと考える 。 それから考 えて、贈答例を見ると、朝睦が泊まりに 来 た親戚の女性に対するかて物料などを、わざわざ自分か ら 室 へ 銭を渡して いる例がある 。 それが記録の上に記載されることから、以外の室からの贈答や、室とあわせての贈答は、室の自己宰 領によ っ て行われ、またその資金も室の 宰 領から出すことがあ っ たと考えて良いのではないだろうか 。
二 、贈答をうける女性たち と こ ろ で、贈答者である朝睦の贈答例は、先に述 べ た 通 り で あ る が 、 で は こ の贈答例の中に見える女性への贈答か ら は 、 ど の よ う な事が見えるだ ろ うか 。 次に述 べ る例は 、 日記の第 二 冊にあたる嘉慶八年か ら 十 二 年までの﹁進物留 ﹂ か ら 女 性 を 対 象 、 または理由とした贈答の例である 。 ( 一 二 ハ ベ
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二 九 ペ ー ジ ) 贈 答 の 代 表 に 、 見舞の贈答がある 。 その他は婚礼や出産が次に多くなるのだが、まずは贈答先をみてみると、贈答 先に ﹁ おなちゃ ら ﹂ や ﹁ 室 ﹂ ﹁ 御 前 ﹂ ﹁ 内 儀 ﹂ の よ う に、妻をさす用語の多くの例が見られる 。 贈答先の位や格によ っ て、妻の呼び名が変化する 。 上記のいづれもが、妻であるが、按司の場合﹁おなちゃら﹂、親方の場合、 ﹁ 室 ﹂ 、 親 雲 上の場合が ﹁内儀﹂や﹁妻﹂と使い分け ら れている 。 しかし、このように呼びかえられる女性達の実際の名前が何で あったのかは、この記録で知ることは難しくなる 。 男性が位階を付けた ﹁ 親方﹂や﹁親雲上﹂と呼ばれるのに対応し て、女性も同様に名前で表されるととはない 。 しかし、贈答の内容はこの格とはあまり関連がなく、朝睦との近親度 が優先されている 。 一 方 、 ﹁ むたしゃ﹂や ﹁ 真 つ る ﹂ のように、名前が記されている場合もある 。 この名前で記され る女性達に関する法則は見つからないが、この表を中心とした日記をみると、伊江朝睦に近い女性で、 しかも目下で あることが条件のよ う である 。 ﹁真つる﹂は枠親方の妻であり、﹁むたしゃ﹂は妹と記されることは、 その条件に合致 巻 頭 論 考 している 。 ほかに、子供たちの呼称として、﹁孫うし ﹂ などがある 。 しかし、伊江家の使用人であ っ て も 、 ﹁ 下 女 う し ﹂ のように名前で出てくる女性と、﹁乳母﹂や﹁はあ前﹂ のように記される場合があるので、 必ずしも身分の上下では ないよ う で ある 。 名前を呼ぶとい う ことの意味など、他の史料も併せて再検討の必要がある 。 五嘉慶8年 か ら 10年 ま で の 女 性 を 対 象 と し た 贈 答例 日 目 答 先 贈 答 の 理 由 白目 答 品 御病気、立願、御安否 たす6寸1重餅・よし野 l 嘉腸御曾祖母 辱 葛真黍1包l重、千 100枚、 2 佐久真里之子親雲上妻 女子平産 銭
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貫文 3 内問親雲上女子真うし 婚 礼 鹿児木島調布自 綿 ~J たばこ1反 1 箱、 4 真つる(枠嫁) 忌中 刻勺)たばこ1包 (2合5 5 上原按司御室 産前手薬料 銭朝質文睦10、と寅室10文よ質、り文他なにど銭、ω
6 内問親雲上妻 嫌気養生のため滞在 上々刻たばこ1包 7 蜜(朝腹婆) 在富養盛祖生母嫌気のため料滞 のためかて物 銭a
貫文 8 嫡妻子知花里之子親雲上 猫見出し相しらせ 銭10貫文 9 勝連按司おなちゃら 料耳の痛み、頭痛の手薬 銭50貫文 10真つる(枠嫁) 産前手薬料、来月産月 銭3J貫文 11上(原御被室)司おなちゃら 卸14祝日平産手薬料、川 銭3J貫文、昆布1折 12 室(拶1陸委) 不和上により 相 料 夫内婦問親雲上妻嫌気滞養在生、 鮫 の 帰 宅 、 か て 物 銭10貫文 13 前川里之子女子うし 衣裳形付そめちん 銭36貫文 14勝連按司おなちゃら 産前手業料、朝陵と室より 銭a
貫文、 10質文 15 室(穆1陸委) たはこ不自由 国分たばこ半斤 16勝連按司おなちゃら 25日夜中女子平産 銭3J貫文 11与那城敏司・おなちゃ 御御孫慰共み癒癒で夜起きの 北源包御茶巻 1旬ば、w御・3煎司l茶 ら ばこ1 、 た 」 た 18上原鉄司おなちゃら 癒と癒室のよ物り入り用、 朝陸 銭5・0米貫5文升、かつう節 2 見次 19勝ら連)按司室(おなちゃ 見次 銭a
貫文 20内間続雲上妻 見次 銭a
貫文 21 嘉陽御曾祖母 御安否尋 茶1包、銭a
貫文 22 富盛御曾祖母 病気御尋 たばこ1包、白1重砂糖、よし野葛1包 23真つる(枠妻) 嘉料陽御曾祖母への手薬 銭3J貴文 24宮盛祖母 銭a
買文 25前川親雲上妻 銭a
貫文 26雲室 (之子上姿朝内、儀殴婆喜名)、 前皇之川子│里親 朝き陸の到先年来酒立願代祝よ儀りのと 銭10貫文ずつ 年 月 日 嘉慶8年 8月a
日、 9月 4目、 11日 嘉慶8年 10月 10日、 裏腹8年10月 25日、 嘉慶9年1月 11日 嘉2慶月9 年1 月24 日、 1日? 嘉慶9年1月末 嘉. 9年 2月 9日 嘉慶9年 2月 9日 嘉慶9年 2月10日 嘉慶9年 2月 17日 嘉慶9年 2月 17日 嘉慶9年 3月 6日 嘉慶9年 3月 24日 嘉度9年 9月 5日 嘉慶9年 9月 14日 嘉. 9年9月 27日 嘉康9年 12月 23日 嘉慶9年 12月 23日 嘉慶10年 1月 2日 嘉慶10年 1月 5日 嘉慶10年 1月 17日 嘉慶10年 1月 21日 裏腹10年 2月 11日 嘉慶10年 2月 8日 嘉慶10年 2月 8日 嘉康10年 3月 25日 ー 』 ノ、巻 頭 論 考 27 上原按司おなちゃら 昨日まで滞在、手薬用 銭2)貫文 嘉慶10年 4月 5日 28 富盛祖母 朝を陸生年祝に孫真加戸つれ慢出 ~こJたばこ 3 折1、そうめん・巻たぱ1折 嘉慶10年 4月13日 29 妹むたしゃ 歯しし痛みなの代くす料 り用いらぷう ぎ 銭2)貫文 嘉慶10年 5月 5日 30 続波按司加那志 美里王子御4男御誕生 卵ro 嘉慶10年 5月2)日 31 妹むたしゃ 孫裳真加戸の七へたり衣仕 立 昆 布1折 3斤 嘉慶10年 5月 26日 32 宜寿次親方室 手薬料、病気 朝陸夫婦後(で銭度いえ、り以こ も海何)30か3質煮調文鯛え、 鼠 第!f10年 6月 15日頃 33 嘉腸御曾祖母 御安否尋 熊上茶半斤 姦慶10年 7月 8日 手が薬料気色、病気ではない 銭売こお5り0物り質代方文、内1証(400銭質貫よ文文りはは) 34 真つる(枠妻) が悪く、やせ 第慶10年 7月 25日 たように見えるので 35 内閲親雲上女子むたる 病気 よしの葛1包 嘉慶10年8月18日 36 宜(寿室)次親方おなちやら 玉子焼具餅1朱 1箱・胡戸丸 嘉慶10年 9月 14日 37 嘉勝御曾祖母 御続当き兼迫、ね朝夕の御飯も 朝態と枠で米 3升ずつ 嘉!f10年11月5日 38 喜嘉久原里里之子親親雲雲上母、名 里之子 上母 伊宜寿江家次御へ見泊舞まのるため、 ~Jたばこ 3 折ずつ 嘉慶10年 11月 28日 39 喜名親雲上内儀 上原尾御調殿えむたしゃ婚礼 首 の礼 室陸より銭朝より2)貫文30貫文、 嘉!f1O年12月 1日 40 ~地親方御懐 極 豚1折 7斤ほど 裏 腹10年12月 2日 41 故松田里之子内儀 嫡子誕生祝 昆 布1折 3斤 嘉康10年 12月 14日 42 嘉陽御曾祖母 熊朱具上茶1包、 散砂糖1 華客慶11年1月15日 43 嘉陽御曾祖母 脇御の下引きつり不快、窮迫 朝枠親睦方よ銭り散10砂貫糖文1朱具、 嘉慶 11年 1月 28日 44 前川里之子妻 産後薬用 いらぶうなじで貿いいれくり、13貫産文前 嘉!f11年 2月 18日 にも2)貫文くり 45 知花里之子親雲上妻 迫見廻に組兼出、家内差しりを 々承る付 朝陸と枠で銭10貫文 嘉慶11年2月 25日 首里之妻大主部保栄茂里 御婚品礼を御此規式毎差ご遣馳 走 46之子 の の 方 へ の 縮手掛 1つ 姦!f11年 3月 4日 お礼 47 真鶴 手薬料 銭30貫文 嘉慶11年 3月 14日 48 前川里之子寮 頼次郎みへ父呑ませ候様相 たばこ 5把 嘉度11年 3月 28日 章子共へみやげ買い求 室より銭乞いに付き、 49 うたあ(下女か?) めくり、 質2質文文、朝陸よりも3 嘉慶 11年 5月 4日 50 幸地里之子をなちゃら 女子誕生 報よ睦り牛よ努り玉1子折ro、枠 嘉慶11年 5月 9日 七 51 次郎あん 料乳の出候様薬羊肉質入 銭 5貫文 嘉慶11年 6月?日 52 嘉陽内儀 産後手薬料 朝室陸より銭2)貫文、より 10貧文 l!慶11年 6月 18日
53御雲物上内当儀阿波線星之子親 来此の節安、 生産の女子不出否尋ね 量E御ふし 2 嘉慶 11年6月 初 日 54 母織 紫金提(漢方薬) 裏 腹11年7月 12日 様宣寿次普方請のため、御母 いらぶたうなあじ 1本 7貫貫 55 母様 此のお泊まり、 文文、ぶ ぐら骨4 嘉康 11年7月 17日 廻料 買い入れくり 56 姦陽曾祖母 御病気、 私と枠両人で銭 00貫文 嘉慶 11年7月 21日 57 下女うし 縮機あや古着1つ 嘉慶 11年7月 25日 58 瀬底星之子親雲上内{義 総出豆腐 6箱持参 ~J たばこ 3 折 嘉慶 11年7月 25日 59喜名親雲上女孫真うし 来月婚礼 布 1反白細上布 1反、白木綿 嘉慶 11年8月 3日 60 妹むたしゃ 母亀様紫養立いて方方家入念内感務事心、 八丈島1端 嘉慶 11年8月 3日 61 上原被司御娘真加戸 婚礼前 縮銭緬am1反貧差150譲文遣質のり文代内はと 1、し50て 嘉慶 11年8月 3日 貫文、 7月 2日に 62書名はあ前 病気 胡 麻1重 嘉慶 11年8月 7日 63 成与那る者覇親雲上女子 2つ 風痛毒ましい7つ出、全快無し、薬用万掛つ、手寿栄菜、まり 11つ 嘉慶 11年8月 00日 64 上原御殿お戸 腫れ物催がしにつ準たき備見びれ腫母体つれ、物る世娘話婚で礼く 廻と 、物室へ相両談の上、、 人で銭
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生貫魚文煮 嘉慶 11年10月 5日 65 城間あんしたれ 先日品物持参 刻茶みたばこ 2折、清明1 包 嘉.11年10月 9日 66 上原御殿むたしゃ 婚裳礼之立無にて付方くてき木式は綿叶に形及わ付ずば衣ず、 室より木綿布 2反差遣 嘉.11年10月 15日 仕由承り、染手め賃 筈 67 兼本里之子親雲上妻 度前 銭a
貧文 嘉慶 11年10月 19日 68 司雲上按司 御病気御尋ね ひき鱗 1重真塗巻絵 7 嘉慶 11年10月 29日 寸 69 母様 諸白 8合5勺 嘉慶 11年11月 5日 70 勝連按司おなちやら 産前 銭a
貫文 嘉慶 11年11月17日 71 上原御殿あんしたれ へ参るにつきむたしゃへ付き、新里 木綿形付布を 42貫文で買入くり 嘉.11年11月a
日 72むたしや 明日婚礼 朝践より玉折子 50、枠 より昆布 1 嘉慶 11年11月 21日 73 嘉腸妻 腫料れ物差し発し、養生 銭 00質文 嘉慶 11年11月 27日 74 勝連按司をなちやら 去薬手 料る24日男子誕生、 銭 00貫文 嘉慶 11年12月 29日 75 前川親雲上妻 夜寝薬できずくたびれ、手 料 銭a
貫文 嘉慶 12年2月 12日 76 上江洲盟主をなちやら 折譲りの力日1昨日刻み追たばこ 15 5折 嘉慶 12年2月 23日 }¥. 77前川親雲上妻 病気快、今日帰宅 銭a
質文 嘉慶 12年2月 26日 78上江洲塁主おなちやら 安否尋ね 赤むしこう1重 嘉康 12年2月 27日巻 頭 論 考 雲 前川親妻雲上妻盛・内問親 去る亥す年結舌願の痛み立願 刻みたばこ 2折ず銭つ、 79 上 ・富 組 母 に 対 る のため寵 かて物室料として 10 嘉 慶12年 3月 5日 出、とまり 貫文 へ 80 新上星里主をなちゃら江洲をなちゃら ・ 総出 国分たばこ5把ずつ 嘉 慶12年 3月 17日 81 大宜見按司をなちゃら 去月 3男誕生 朝陵と室商人旬、 へん豆1で玉重 子 嘉 慶12年 3月 29日 82 高嶺里之子内骨量 昨儀 承 り朝とより肩引きつり難 たす7寸1重 姦 慶12年 3月3J日 83 宜寿次親方御前 始めて寵出 朝枠陸より銭3J貫文、より3J貫文 嘉 康12年 3月3J日 84伊是名親方御懐 御く病気、真鶴見廻に行 大白砂葛しの 精1重1重 6寸、よ 嘉1112年 4月 11日 刻 草へ花1焼たVJどんぶ折り小形1つ、 85 富盛祖母、富盛母 寵出 ぱこ1 折、宮磁母 嘉 康12年 4月 12日 たばこ2 86 前川│里之子親雲上御懐 箔疹発し、御安否尋ね へん旦1袋 嘉 慶12年 4月 20日 87上原御殿女子お戸 下しあり 反魂丹1袋 嘉 慶12年 5月 15日 88内問・前川・上原御殿女子共 総出 琉ず焼つ どんぶり小形1つ 嘉 慶12年 5月 28日 89儀豊見城里之子親雲上内 くぱうちわ1つ 嘉 慶12年 6月 1日 90次郎あん、亀乳母 宜寿大ませ骨量次亀病気毎夜乳呑 枠朝陸より銭より米310質文、 升 嘉.12年 6月 1日 復母ば八磨和包茶2包
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刻 冨盛家上冨感夫内人数崎)吉(冨盛祖 た こ3 折糖雲、上冨 崎 91 親母雲、 婦・ 里之子 風の御願に商森へ髄出 刻吉里之子親 へ 嘉!f12年 7月 3日 Tこぱこ3 、 と 富盛へ散砂 8 重 92与な那ち原ゃ塁ら之子親雲上を 御女子誕生 朝陸大方より玉子~、冬 瓜 2つ 嘉 慶12年8月 7日 93 勝連按司をなちゃら 明日間切差越へ差)は6日 越(按司 朝室陸なずよら10つぴり質銭親、文方伊3J江よ貫親り文方2、0 室 貫よ文り 嘉 康12年 8月 10日 与那原や里之子親雲上を 朝重香陸、あ御御かよ香り御黄酒むし、こ室うよ1 94な ち ら 35日のご焼香 御り むしこ代う1虫、 嘉 慶12年 9月 16日 御酒代 95内問親雲上女子真いぬ 来月婚礼 紘縮緬胴衣笈x)質文 1つ代銭 寡 慶12年 10月 11日 96 うた k昏礼 白木綿布1反 嘉 慶12年 11月 12日 朝折睦室より刻たばこ10 反 より木綿取白切木布綿 97 内問親雲上女子真いぬ 明日婚礼F
1 、親真方より 嘉 康12年 11月 18日 ん2反宝蔵、 つるよりぱど す 1・国分た こ1斤 98江田里之子委 婚礼以後安否尋ね 赤むしこう1重 嘉 慶12年 11月 21日 九 99 新里里主をなちゃら 嫡子誕生、手薬料 銭3J貫文 嘉 慶12年 11月 23日 100儀阿波線里之子親雲上内 腫れ物快気、宜寿次罷出 へ 銭~質文 嘉 康12年 11月 29日。
贈答の内容について少し触れると、贈答先で多いのが、嘉陽曽祖母である、嘉陽家は伊江家と一門の関係にあるよ うで、祭把などさまざまなところで登場する。とくに、この 二 冊目の記録の時期には、嘉陽曾祖母が高齢の上、健康 を害していることもあり、朝睦から頻繁に見舞の品が遣わされている 。 次に、前川親雲上妻への贈答も多く出てくる 。 後で述べることになるが、前川は 一 門の祭施に関わる女性として登場する 。 さ ら に 、 それ以外の婚礼や出産に対する 贈答は、伊江家の交際範囲を知るものとして興味深いが、家譜の残存状態の悪い現状では、 その関係を知ることは難 し い 。 もちろん婚礼や出産は家の行事でもあるので、これらの贈答が当事者の女性のみで他の家族と何ら関係がない というつもりはない 。 しかし、贈答の理由として女性が上がっていることは、贈答品の対象者としての女性を考える に際しでも重要である 。 その贈答の品物だが、贈る側の女性達の所でも述 べ たことではあるが、銭と物品の両方がある 。 銭の場合は、病気 見舞や産前産後の手薬料としてのものが多く、銭五十貫文から十貫文までの間で、定例の金額に基づくようだ 。 ﹁ 例 の 通 ﹂ のような表現が目立つ 。 しかし、関わりが深いと、病気等の見舞も、海鼠や茶、 よしの葛などの日常では手に 入りにくい養生食の材料が出てくるようになる 。 えらぶうなぎや鰹節などの高価な品もあり、銭よりも品物の場合が、 より貴重であったりする 。 また、女性にも煙草が多く贈答されているが、煙草も噌好品として高価なものであった 。 表の印や印のよ う に、織物を贈る例もあるが、親方により関係の近い相手には、銭ではな く 、 手に入りにくい物品を 贈答する例が多か っ たと考えてよいであろ う 。 またその贈答の対象も、銭のような 一 般的なものを除けば、家族全体 への贈答品と考えるよりは、当事者の女性を対象とした滋養口聞であ っ たり、噌好品であることは明かである 。 さらに 今後男性への贈答や、夫婦への贈答もあわせて、考える必要がある 。三 、外出する女性たち 以上で述 べ た よ う に、贈答のやり取りの 主 体者として登場する女性達であるが、伊波は﹁深窓の下で起臥し、外出 することが稀﹂な女性達であるとする。その 一 方 で 、 伊 波 は 、 母親が伊波を連れて実家をよく訪ねていることを記憶 している 。 伊波の母親の場合は、﹁こで﹂としての役割故に実家 へ の訪問が多か っ たとも考えられるが、 それ以外の 女性達は本当に、﹁外出することが稀﹂ であったのかということを考えながら、﹁伊江親方日々記﹂をみていくと、仕 事をもっ男性の外出に比較すると、少ないのは確かだが、女性達が伊江家を訪ねてくる例が多く登場する。次の表は、 嘉慶十 三 年から嘉慶 二 十 一 年 、 日 記 の 三 冊目から六冊目までから抜き出した女性の外出に関わる記事である 。 ( 一 中 ハ ) その内容を見ると、女性の外出を約五十件ほど拾うことができる 。 ( 三 二 ペ ー ジ
1
三 四 ペ ー ジ ) つ ま り 、 その用件や行き先を見ると、 三 つほどの例に分類できる 。 一 つ は、女性の信仰に関する部分である 。 表 の 1 の 前 川 親雲上妻が朝睦夫婦の厄年結願と室の立願を行っているのが、 それであり、これは 一 門 の ﹁ こ で ﹂ の役割と関連する ものである 。 ま た 、 3 や M などが類似の例である。 初 、 M は、男性が旅役についている聞に、留守家族を慰めるため に行っているのであるが、この例は多く、 し か も 、 その時には旅中の安全祈顕である﹁女共旅うとり(踊りごが行 われている。相互扶助と信仰の両面をあわせた集まりである 。 上級士族の場合、旅役が回ってくる例も少なくない 。 その留守を守る家族の中での女性達の役割ともつながる内容である 。 し か も 、 おのように、帰帆すると、帰りの道筋 巻 頭 論 考 へ出向いて迎える。これにも男性の一門のみでなく、室を始めとした女性達が出向いている。単なる情愛だけでなく、 旅中の祈願と関連するのではないだろうか 。 以上のように、女性が担う信仰の面に関する外出が確かに多い 。 し か し、女性の外出はそのような場合だけではない。二つ自の例は、季節の諸行事への参加も男性と同じように行われて伊 江 続 方 日 々 記 に み る 女 性 達 の 外 出 の 例 当 事 者 用 件 ・ 行 き 先 l 前川親雲上妻 御朝願陸所夫婦へ等の厄年結願と室等の立願のため 2 富ら盛、祖上母下や・勝し連き按中司おなちゃ 孫縛さら立祝 3 幸地殿内御人数惣中、上下や 親方帰帆待ち慰め、下やしきへ招請、女共 しき中、玉城はあ前、女共 手をうちおどり 4 I ~草、真つる、朝陵他 豊見城按司御元服拝祝儀 5 宜寿按次・御喜名室彼の供家内人数、 上 原 司 と子 冊封の勅使乗船出船、見物馳走 6 御奥方平伯母・垣、知花惣念人・数知花、御伊江前主此安司の 枠伊江親方冠船方首尾飽く済み帰宅 女子共 7 前川親雲上姿 孫うし病気平癒の立願のため、 観音量Z等へ 8 女御使 監F緒按司加那志様よりうし美御機 家次親中人方妹数以下惣中其外与、宜寿 9 むたしゃ真、加上 那原 本座に烏入り、浜卸 おまへ、上原御殿 戸 10 上原被司御室 借な銭く借、御り替室のえみの相談、按司との相談の上で 11 きゃん夫婦、他 宜野湾王子庭御見物、御来鴛、 馳走 12 上原按司御室・御子供 上之松原で御慰み、下やしきへ招き上げ 美御高前あや前前、佐敷御編殿御御殿御乳 孫蒲戸元服、若乞里之御子御出位いただく祝に招 13 母 宮 城 あ や 、 野 く、 三人 共 暇 い で なし 乳母嶺大あむしられ 14女衆御使 殿蒲戸元服御につ拝き領より 菓子 、上様、野寓御殿、佐敷御 15村上主内原問夫貌方始上下やしき中女子、按婦女司御子家、宜内人寿数次親、新方星・塁中 麻疹免りのため、間切敷弁之獄、拝殿、下屋 へ御越しの御見送り、 、富盛、前川 16 枠朝親陸夫方婦(真、つ宜寿るEはK貌忌方中夫)務、婦前、 勝連按司長病気平癒の立願 川│星之子親実上夫婦、 戸 宜姉寿妹次親方夫婦や、 中中村村親方夫 17 雲 む た し 、 里之子 枠親方仕上せ勤のため那覇へ下るので馳走 親上内骨量 18 上下屋敷次上郎中、あん内母問、 宮富盛里筑、豊登 親見之減親雲雲、上妻妻ます、叔父新垣筑登之 孫次郎七ひたり衣装仕立て、吉例 19勝連敏、真つる 司牛・御室・真加戸、真 子供麻疹治癒につき、皆連れ見舞総出 20 願人数女共子共 吉日にてはしか御結願 21 前川殿内家内人数、安谷屋内 メ疹-Fh 凌のため、六月二八日より下屋敷へ滞在、 儀子共 日帰宅 22
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宮
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訳
霊
祭
語
畳
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篠
年頭祝儀 月 日 慕慶13・3・8 嘉慶13・3・4 嘉慶13・閏5・21 嘉康13・9・12 嘉慶13・10・5 嘉慶13・10・17 嘉慶14・1・15 嘉慶14・1・28 嘉康14・6 ・10 嘉 慶 応・2 ・5 裏腹15・2・11 嘉慶15・2 ・13 嘉慶15・4・15 嘉 慶 応・4 ・15 嘉康15・6・3 嘉慶15・6 ・8 嘉慶15・6・9 嘉慶15・6 ・a
嘉慶15・9・3 嘉慶15・9 ・24 嘉慶15・10・10 嘉慶16・1・15一
一
一
一
一
一
巻 頭 論 考 23 屋比久はあ前 24 前精川戸親、雲亀上、妻次郎、富盛姐母、 孫 25 室上原、御富盛殿視真母銭、、 真其鶴外孫、前共川惣妻中、 室、 上感下、内屋祖粟{義母敷国、中上、内按問親司雲上 26妻 宮ちゃら 塁之子母、粟国原 お な 皇之子 他 27男女客 28 前川親雲上妻、前川し妻、 29 上下屋敷中女子共 30 上下やしき中英外女子共 31 久里里之子上雲上下屋妻敷豊中婦其見外城(親嫁前川雲)、里上浜妻之川子、子親喜 母 32 上下屋敷中女性方孫共 若 数男量詩見厳i
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平!] 33 真、加豊し 外垣妻花 人 問前、 夫婦、 之 ねはあ 34願人数名次内妹儀、、勝宜む寿連た按村次し親ゃ里司方始童豊子以親子見下城共雲、男 性雲宣内儀十寿上、 、仲 、之 親上 上上下原按屋城親敷司ほ上か中雲人男数内性儀女、子子嫡九名共相、連崎其次外れ、 35 豊見 共 男 内男問里之子内内像、 子浦 ・ 次 滞 崎 儀 36 幸地親方御室 37銭車か相
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亀拍:a寿伸、銭g山k車妹戸川む乏、仲fうE村近ししや真、櫛つ
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、まる、 戸、 城親子 38 永松里之子親雲上・屡比久留筑登今之の五主願 について、 二十日より滞 、 日協帰る 嘉慶16・1・25 富盛祖母信仰の御神を伊江御殿に移す 嘉慶16・3 ・25 朝睦病気全快、下屋敷へ行き、慰め 嘉慶16・9・21 枠伊江親方帰帆、浦添番所まで迎え 嘉慶16・9・25 御女{客立御今拝、今日祝客の予定、 親方が城勤め、 は 目 、 男 は 明 日 姦慶16・10・27 初めて飽出、 嘉慶16・11・29 正月十六日、霊前へ菓子とも手向け、焼香 嘉 慶 応・1・16 設方打誕ち生、 く日、え女な子三度といも相た招し き祝、 旅おどり 嘉慶18・6・2 下屋敷欠席で相慰め、喜久里里之子母は咳気の ため 嘉慶18・7・6 上運天筑登之立花立ち合い見物のため 嘉慶18・8・9 先樋川参拝、観音堂縄出、御水練で 嘉慶18・8 ・11 祝中月な祝らびに親女方旅帰帆う月、祈願所参符、家 軽 く い 、 共 とり三へん 嘉康18・9・1 節招句く、親方帰帆月につき、左の通り人数相 嘉慶 18・9・9 勝と連も歯按寵司出母幸よ地、り親上室方下屋御敷夫能婦中招人数関相し招たがき、、 親皆 嘉慶18・9・15 方 は の 痛 み の み 出 吉日にて普天女間参詣、 子供たちと豊見城夫 婦 、 子 供 に は の 子 も い る 嘉慶18・9 ・16 枠ね親寂方し帰き帆体前、、私下屋始敷へめ家遊内山人数昼夜待ちか 嘉慶 18・9・2539線上室雲内問下、屋親上敷豊雲見、減惣上中親人内EE儀数里雲之上、、套上子天願原親雲里之子按上司御、 親方帰帆近く、待ちかねのため、慰め 嘉慶18・10・1 40 親仲村方親家方内人、妹数む、たしゃ、 仲村 下船見物に石之辻へ、国学拝見、物見 嘉慶18・10・7 41 城上親下やし内き儀雲上 中其外女子、 重量見子共 朝睦歳目、軽く祝い 嘉.19・1・3 42 那覇志良堂筑登之内儀 安否尋ね、あんもち持参 嘉慶19・9 ・16 43 祖奥母浜税、よ雲妹め真上む内た儀しゃ、富盛勝外親連孫雲按共上司 保養のため下やしきへ差越し慰め 嘉慶19・10・6 母、 うし、其 御御妾女嘉之あこしたれ、御妾た腹の 事44 子、御乳た母あこし れ、 美里御殿参上、先日来駕の礼、しばらく噺、嘉慶21・3・15 比 あ ん し れ 45 女原内子儀按共、司破御、名仲室城井、親開里雲上之子女親孫雲、上上 御祭(麦の大祭かワ) 嘉慶21・3・18 46 奥浜親雲上妻 御焼香、嘉陽家内当迫の話あり、借銭の申 嘉慶 21・出 4・1 47 母富盛其親外雲上女子 (真牛)、乳 かしら撫 嘉慶21・閏 6 ・23 上前見減下、屋知貌敷花雲中御惣内儀人前数女、 知念之御差 祖日父朝様睦御先先室室五十百年年御御回回忌忌弔(正月三日)、 今 48 之 子五人、 嘉慶21・7・8 上 49 上下屋敷中又々女子共 女向子け恩、紙戸焼二十・焼五年香回忌、 弔い延期、 霊 具 手 嘉慶21・7・28 四
いるということである 。 4 問、幻などの例がそれにあたる 。 吉例や節句などの行事には、夫婦や子供とともに出か けることが多く、招待するときも、 また訪問者の例を見ても、夫婦での例が多いことがわかる 。 家の代表として、男 性のみが参加するのでなく、夫婦が単位として招かれ、参加する例は、現在でも正月や盆など沖縄の社会には多くあ る が 、 それは近世琉球社会でも行われ、さらに頻度の高いものであった 。 また、夫婦で参加できない場合、女性はど うしたのであろうか 。 おの幸地親方御室は、 夫 の 幸 地親方は歯の痛みで参加できなか っ たが、御室のみで参加してい る 。 これから見ると、夫婦という単位での外出は、妻が夫の付け足しで参加していることではないことを現している のではないだろうか 。 ただ、この訪問が 一 門の婚家側へのものか、実家への訪問も入っているのかは、さらに検討す る必要がある 。 その上級士族女性の外出には、下級士族の妻達が市へ出て生計を賄うような広い社会性はないものの、 事には信仰の側面はもちろんのこと、多くの場面に参加していることがわかる 。 また、外出というには、狭い範囲で 一 門内の行 あるが、諸行事に﹁上下屋敷中女性方﹂が下屋敷へ朝睦とともに慰めに出かけるということがよく行われている。厳 密にいうと、他の家に行っているわけではないが、これも女性達の外出例である 。 また、行事は必ず上下屋敷中を 誘って行われている、家の中の構成者の範囲が見えにくいのだが、少なくとも伊江家は一家族だけでなく、 いくつか の家族の集合体として考えられているようである。 そ し て 、 三 つ目は女性を使いとする例である 。 ﹃羽地仕置﹄の中 に、国王からの使いに女性が派遣されたことを問題にする内容があるが、この日記中でも、 8や凶の様に、国王や野 巻 頭 論 考 嵩御殿 ・ 佐敷御殿からの使いとして、女御使や女衆御使が派遣されている 。 用向きは、見舞などの、 公的な権限の低 いものではあるが、存続してきている例である 。 ま た 、 幻のように、男性の役職への推薦の結果を、 その母親が心配 して問い合わせにきたり、また叩や却のような家の逼迫につき、借銭の願いなども女性が行っている例がある。とく 五
¥
ム ノ 、 に、叩の場合のように、夫である上原按司に相談のないままに御室が相談にきている例もあり、男性の持ち出せない 家計の逼迫の相談をも行う女性の姿を見ることができる。 このように、上級士族の場合であっても、女性の外出は全く行われていないわけではない 。 四、門中の祭杷に関わる女性たち 琉球王国の成立は、 一 六 世 紀 は じ め 、 王権に関わる祭把を主宰していた女性達をも組み込んで、 王国の体制をつく りあげた。その宗教的な部分での最高位が聞得大君であり、 その下に 三 十 三 君をはじめとして、各間切の祭把に関わ るノロまでが組織された 。 聞 得 大 君 は 、 王家の親族の女性で、初期は王の姉妹が任ぜられたが、近世も中期から後期 になると、前王妃などが就任することが通例になってくる。その就任儀礼として行われた御新下りの次第などは、史 料としてそのいくつかを見ることができるし、﹃女官御双紙﹄でも、 王府における女性達の役割の多くが信 仰に関す るものであったことが知られる 。 琉球王権によって中国からもたらされた儒教が、久米村 ・ 首里の士族を中心とする 男性の儀礼が中心であったのに対して、 王権の基盤としての女性を中 心とした祭杷も、多少の変化にも関わ らず近世 末まで続けられた 。 そ の 一 方 で 、 ユタといわれる民間座者の姿も近世の初期から史料の中に出てくる 。 王府はその活動を禁ずるのだが、 その禁令は近世を通じて頻繁に出されていることなどからも、 王府の禁止を越えた部分での民間の信 仰に関わるユタ の姿がかいま見える 。 このような王国の祭記と民間の信仰の間にあるのが、 王国を支える士族社会に存在した各門中や 一 門の祭加である 。この門中の祭把も、 王府の祭把と同様に、儒教的な男性の世界と並行していることなど、 王府祭杷との類似性はある が、ここではそれは主題ではない 。 と も か く 、 士族の門中や 一 門の制度が 一 七世紀後半に布かれた王府の家譜制度に よって確立し、近世を通じてより強固な結びつきとなっていくことは間違いない 。 この門中の家譜の構成は、﹁首里之印﹂が押された世系図が最初にあり、初代から記されていくのだが、特に大宗 家諸には、本文の最初に、その問中、 氏の先祖由来が記される場合がある 。 こ の 先 祖 は 、 門中の中では神として把ら れており 句こ れに関する祭杷も行われた 。 しかし 一 八世紀末から 一 九世紀の中期頃までの問、首里土族を中心とし て、﹁毛氏先祖由来記﹂などに見られるように先祖やその由来の記録作成が熱心に行われるようになる 。 本日記を記 録した伊江朝睦も、伊江家の先祖由来記を編集している 。 また、先祖さがしはさらに加熱し、 以前に門中で絶ってき た先祖のさらに古い先祖を捜す系譜さがしの動きも見られるようになる 。 このような状況の中で、門中の祭把に関わっ てきた女性達はどのように関与していたのかを見ていくことにする。 五月中 一 幸地親方那覇詰ニ付、安否尋何歎差遣候事、 一三日、謝名奥聞大親御元祖、 此 節 A b 御棚 御仕立御霊供差出儀共、昨日前 川 親雲上妻 ・ 富盛祖母奥平殿内江罷出、伊 江按司御伯祖母江御相談申上候処、弥此節 Ab 御棚御仕立、御霊供差上候筋御相談相決、罷帰候処、右様之儀跡々 8 巻 頭 論 考 無之候を、此節 8 相始、尤永々最通不申候問、不叶事候へ者、軽々敷取計得候而者如何敷儀ニ而、宜寿次親方 ・ 上 与那原親方相招相談いたし候処、謝名奥聞大相税者 察度王御代、国頭奥聞大親者 七
J¥.. 尚円様御代ニ而、御時代 8 相考候へ者、謝名奥聞大親者遥ニ御先之事ニ而候得共、謝名奥聞大親御始祖者国頭間切 御素生ニ而候哉、然々相分不申候問、得与相札御相談申上度候問、此節迄者此中之通執行ニ而ハ何様候哉、上与那 原里之子親雲上奥平江差遣候事、 一 入相時分、上与那原罷帰承候者、前文之通此方相談之趣逐一申上候処、此儀与風御考を以昨日前川親雲上妻 ・ 富盛 祖母江為被仰聞儀ニ市無之、此前 A b 段々御思慮被成候処、是非共謝名奥聞大親御元祖ハ御信仰無之候而不叶儀与御 決、此内右両人御召寄御相談被成候御含候処、仕合昨日右両人罷出候付、則此程御考之通為被仰聞事候、謝名奥間 大親御元祖者何共札方不及、国頭間切御素生之段者別条無之事候問、 一日も早く 御棚御仕立御信仰候方、 一 門 中 之 為筋与被思召候問、猶予不致 一 刻も早々相決其手当仕度儀与被思召由、事々敷被仰聞候由、 附、当分御棚御安置仕座敷無之由候ヘ者、富援祖母御信仰仕候御神者、兼市御相談之通急度御殿江御招請被成御 考候問、其内者何つ方江も不差障場所江かりニ奉居可然被思召由、 一 四日、昨日前文之通被仰聞候付、宜寿次親方 ・ 上与那原親方相招致相談候処、適伊江按司御伯祖母此程より御思慮 之上被仰聞、尤早々御信仰仕候方、 一 円中為筋ニ茂罷成候由、段々分而被仰聞候付市者、御同意仕候方可然与相決、 上与那原里之子親雲上差遣、昨日被仰聞儀、今日兄弟中相揃相談仕候処、愈御同意奉存候問、今度御棚御仕立、当 月御祭之日より御信仰仕候筋申上候付、別市御喜悦被思召由、御返調御座候事、 一 前川江上与那原里之子親雲上、富盛 ・ 内問江渡嘉敷を以右之趣申達候処、何連も安堵致大慶候由、返調承候事、 一御棚御仕立、其外御膳 ・ 御道具仕立方、文者御神御信仰日記等、上与那原里之子親雲上・渡嘉敷子両人江懸り申付 ( 一 七 ) 候問、入念可棺勤旨、何連も相談之上申付候事、