〈『労働者文学 85』(2019.07)より転載〉 医療・福祉労働の経験を通して「事件」を考える
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(2) 社会臨床雑誌 第 28 巻第 1 号(2020 年 10 月). ちと会えなくなりどんなに寂しく辛かっただろう。 両親が離婚してすぐに、秀治ちゃんは遠く離れた難病専門の病院に入れられ、そこで二〇歳で亡くなっ たという。今、秀治ちゃんのことを思い出しても、涙が出てくる。それは彼が障害や病気を抱えていたから でなく、それを理由に、自分の意思ではない親の都合ですべての関係を断たれて入院させられたことに対す る哀しみである。子供の私にはどうすることもできなかったが、せめて後で病院をさがして会いに行くことは できたはずだった。自分の生活に追われていて、秀治ちゃんのことをすっかり忘れていたのだ。そのことが 今でも悔やまれる。 私が小学五、六年生のころ、隣のクラスに「智子ちゃん」(仮名)という小児麻痺の子がいた。クラスは 智子ちゃんを中心にまとまり、トイレは女子たちが率先して付き添い介助していた。先生の指導があったの かもしれないが、クラスは智子ちゃんのためにどうしたら良いかを自主的に話し合い、少し大人びた優しい 雰囲気があった。智子ちゃんはそれが嬉しかったのか、 よく笑う可愛い子だった。私は隣のクラスが羨ましかっ た。 当時の小学校には「特殊学級」というものがあったが、智子ちゃんは「普通学級」で友達の助けを受け ながら充分学校生活を送れていた。周りの子供たちにとっても、智子ちゃんを特別視することなく友達として 当たり前のように関われたことは、貴重な体験だっただろう。私も智子ちゃんと彼女をとりまくクラスを見て いて、それが当たり前の光景のように認識するようになった。 その後、中学校に入ってから、智子ちゃんは突然見えなくなった。今でいう「特別支援学校」に行ったの だろうか。これも智子ちゃんやクラスの友達にとっては、哀しい別れだったに違いない。私も智子ちゃんのこ とを、すっかり忘れてしまっていた。 私の家族に喘息で臥床しがちの祖父がいた。いつもゼイゼイと咳をしているのに、煙管で煙草をすって いた。祖父はヤンチャな孫(私の従兄)に手を焼き説教すると、「クソジジイ!」と言われ、「なにをー」と 煙管をもって追いかけるのだが、逃げ足の速い従兄を決してつかまえることはできなかった。 まだ小学生で体重の軽かった私は、「躰の上に乗ってくれ」と頼まれ祖父の躰の上に乗って全身を踏んで あげた。躰全体の痛みがあったのだろうか、踏んであげると気持ち良さそうにしていた。バリカンで自ら頭 を刈るときに、頼まれて祖父の手の届かない部分の散髪も手伝った。そうした肌と肌のふれあいのなかで、 私は祖父の優しさや辛さ、切なさを感じることができたように思う。 祖父はテレビの相撲とプロレスを好んで観ていた。目が真剣になり躰に力が入って一緒に闘っている様子 が、可笑しかった。「闘う強い男」に憧れていたのだろうか。躰が弱かった祖父は、戦争に征かずにすんだ という。 臥床しがちの祖父に対して、誰かが付き添って介護するというより家族全員でそれとなく見守り、祖父も 自分で出来ることはしていたように思う。「押しかけ女房」だったという祖母は、家事、孫の世話、畑仕事、 内職などで忙しく働いていた。父も母も日中は仕事に出かけていて、不在がちだった。 家が狭かったせいか、祖父は家族の顔が見える居間の片隅の布団の上で、座って背を曲げた姿勢でたび たび咳き込み、痰を吐き出し、荒い呼吸に喘ぎながら終日過ごしていた。それが家庭における祖父の「位置」 だったように思う。病をかかえながらも高齢者としてそれなりに尊重され、孫を見守るなどの一定の役割は あったのだろう。六〇歳のころ、祖父は心臓発作を起こしてトイレで倒れ、小柄な祖母が祖父を背負って医 者に駆け込んだという。そこでとうとう帰らぬ人となった。「病」が生活のなかに、家族のなかに、自然に受 け入れられていたのどかな時代だった。祖父の記憶は今も私の中に生きている。 -83-.
(3) 社会臨床雑誌 第 28 巻第 1 号(2020 年 10 月). 看護の道へ 秀治ちゃんや智子ちゃん、祖父が、生活のなかに身近にいた時代。あれから半世紀あまりが経過した。今、 障害者の多くは、病院や施設、グループホーム、作業所、特別支援学校(学級)に、入院、入所、通所(学) するようになった。「健常者」とは別の、分けられた場。「病気や障害に応じて」、 「治療、看護、介護、支援、 教育、配慮」される特別の空間。それ故に「障害者」として特別視され、人間同士の相互理解がより困難 になっているのだろうか。そして、日常的に関わる家族、医療・福祉関係者たちと障害者との、「する側」と 「される側」との、特殊な関係性。 先日、入院中の叔母を見舞うため、一年ぶりに郷里へ帰省した。八八歳の叔母は入浴中意識が消失し肺 炎と低温火傷を併発した。救急搬送された病院で、家族の意向により人口呼吸器が装着されて三ヶ月が経 過した。今も人工呼吸器、酸素吸入、点滴などにより生命が維持されている状態である。 私が見舞いに行き手をさすりながら声をかけると、叔母は微かに目を開けて私のいる方を見、涙を流し た。入院当初にかなり手を動かしたのだろうか(?)両手が硬い拘束帯でガッチリと拘束されていて、グロー ブのようにひどく腫れていた。自力で手を動かせる状態には観えないのに、何故こんなにガッチリと拘束す る必要があるのか疑問に思い、叔母の家族と話し合った。 「せめてもう少し拘束帯を緩めてもらえないものだろうか?」 叔母の家族も同意見だった。病院で看てもらっているのであまり苦情は言えない、とのことだった。しか し叔母の息子は意を決して、医師に話した。拘束を緩めることは、容易に認められた。こんな簡単なことが 医療者には判からないほど余裕がないのだろうか。それとも意識レベルが低下している患者は、もはや「人 間」として見られていないのだろうか。 叔母の家族は、毎日のように見舞い、長時間共におり、声をかけ、躰をさすって励ましている。家族とし ては、 たとえ一%でも「希望」はもつものだ。本人にもそれは必ず伝わる。意識レベルが低下していても、 「人 間」として対応することは本人にどこかで伝わっている、と経験上おもう。 看護(介護)者たちは、叔母に対して声かけもマッサージもせずに、ただ生命を維持させるためのルーティ ンワークを淡々とこなしているように見える。一人ひとりに「手厚い看護」をしていては、心身ともに長くは 続かないのだろう。慢性的スタッフ不足と過重労働の現場ではしかたのないことかもしれないが…。 私は昔、どうしていたのだろうか? 同じような組織で、同じような場面で、同じようなことをしていなかっ た、と言い切る自信は正直、ない。 もともと私は明確な「使命感」をもって看護の道を選んだのではなかった。子供のころの、秀治ちゃんや 智子ちゃん、祖父との思い出が何らかの影響を与えていたようにも思うが、その動機はもっと現実的なもの だった。 これからの女性は、経済的に自立しなければならない。自立のためには「手に職を」持った方が良いだ ろう。そのような理由だった。 父も母も労働者として同じように働いているのに、父は帰宅後お酒を飲んで寛いでいるのに対し、帰宅後 も家事に追われている母を見ていて、女性の奴隷状態と母の苦労を感じていた。また父の、「お前たち子供 のために離婚しないで我慢している」という言葉を聴いて、父や母を哀れに思い、その親に依存している自 分自身を許せなかった。「一刻もはやく自立しなければ」、 「私は父や母のようには生きない」と強く願い想っ た思春期であった。 そして、高校三年生になる前の春休みに計画的に「家出」をして一人東京に出てきた。手持ちのお金八 千円で住むところもなかったので、まずは住み込みの「お手伝いさん」から始めることにした。そこで働き -84-.
(4) 社会臨床雑誌 第 28 巻第 1 号(2020 年 10 月). ながら自立の道を模索した結果、「人の役に立つであろう」看護の道を選んだのだ。 二年後、私はお金をためてアパートを借り、外科医院で働きながら准看護婦学校に通うことになった。午 前中、外来の仕事をして午後は学校へ。五時過ぎに医院へ帰って、夕食後、九時ごろまで働いた。緊急手 術があるときは、深夜にまで仕事が及ぶこともあった。 とにかく忙しい職場だった。一日の外来患者は、多いときには一〇〇人以上にもなった。入院のベッド数 は約二〇床あり、患者の看護やケアの仕事もあった。 医院の隣が消防署だったこともあり、度々救急車がきて、その対応にも追われた。交通事故、火傷、骨折、 外傷、胃穿孔、吐血、下血、脳卒中などなど。 しかし今、当時を振り返っても、特別の重症者以外の外来患者の顔を思い出すことができない。多忙の あまりに、一人ひとりの患者というより「患部」と対応していたのではないか。そしてその「患部」を、物を 「修理」するようにマニュアル通りに仕事をしていただけではないか。 患者の死に遭遇しても涙を流さなくなり、人間的な感情が徐々に麻痺していく。親しい友人からは「無表 情」と指摘されるようになった(それは、救急患者の痛み、 ショック、脅え、恐怖といった感情が伝わり「受容」 する一方で、緊張感と集中力をもった救急対応が要請される現場に適応するための「防衛反応」だったと、 今は分析できる)。 睡眠時間は平均四時間ほどで、週休は一日だけだった。午後五時からの勤務を残業とするなら、その残 業時間は今でいう「過労死ライン」の月一〇〇時間をこえていた。 頭痛、倦怠感、眩暈などの症状が持続し疲労が蓄積していくとともに、喜怒哀楽の感情が麻痺し気分も 落ち込んでいった。バリバリの看護婦のように「割り切って」働けないことにも自責感をおぼえた。今でいう 「過労うつ」の状態だったのだろうか。看護労働を辞めてしまえばどんなに楽だろう、といつも考えていた。 しかし生活があり自立して働き続ける必要があった。親に心配はかけられない。 唯一支えられたのは、入院患者たちとの人間関係や看護学校の友人関係だった。 病をかかえた人生の先輩の話は、世間知らずで未熟な私にとって興味深く深遠で、教えられることが多々 あった。とくに高齢の患者からは、苦難の戦争体験や生活体験を聴くことで、「なまの歴史」を追体験でき たように思う。多忙な看護労働の中にあって、どこかで人間的なつながりを求めていたのだろう。そうした 関係の中で、個々の患者たちの苦境を教えられ、自らも痛みをともなう「生命を支える」仕事を通して、社 会を同じ側から見、考えることをも教えられたように思う。 医師会設立の准看護婦学校では、午後の授業中、疲労困憊して睡魔に襲われ、私も含めてほとんどの人 が眠っていた。皆、同様に過重労働の疲労や悩みを抱えており、お互いに励まし合っていた。沖縄や東北 などの貧しい家庭出身の女性が多く、住み込みの「見習い看護婦兼お手伝いさん」として働いている人が 九割以上いた。皆、「帰りたくても帰れない」人たちばかりだった。私たちは二四時間監視されている「女 工哀史」のようなものだ、 と話し合っていた。医師会に対して、看護学生の処遇改善要求などの運動も行った。 そうした仲間とのつながりの中で、 自らの置かれた環境や社会的立場を客観的に考え学習できたように思う。 ともあれ私は、過重労働やストレスで自らの人間性が破壊されつつあることを意識しつつも、入院患者や 看護学校の仲間たちに支えられながら、少なくとも患者への虐待やネグレクトに向かうことなく、そして過労 死せずに何とか「生き延びる」ことができた。 「する側」の独善性とその背景 先に私は、「ともあれ私は…少なくとも患者への虐待やネグレクトに向かうことなく」と記したが、これは 正確ではなかった。「少なくとも」の後に、「主観的には」という言葉を入れるべきであった。患者の立場で -85-.
(5) 社会臨床雑誌 第 28 巻第 1 号(2020 年 10 月). なければ、本当のところは解らないのだ。このような独善性は、 「される側」に指摘されなければ「する側」 にとってはなかなか気づかないものである。 「社会的弱者のために、病者、障害者のために、自分は自己犠牲的に善いことをしてあげている」と、 言葉にせずとも内心思っている「心優しき正義の専門家」がなんと多いことだろう。ほとんどの医療・福祉 労働者は、そのようなアイディンティテイをもって自らの過重労働を支えている。過重労働がそのような「思 想」を要求しているのかもしれない。それは私自身も例外でなかった。 前述の外科医院で二年間働きながら学び、准看護婦資格を取得した私は、その後さらに大きな民間の救 急病院で働くことになった。大きな病院ならば法律に基づいた労働条件が整っているだろう、という少しの 期待と、もっと専門的な経験を積みたいという意欲もあった。当初の私の期待は全く外れ、労働はより過酷 なものになっていった。 救急車は一日平均三~五台は来院し、毎日のように緊急手術があり、現場は人間の生と死が日常化しそ れに翻弄される「野戦病院」の様相を呈していた。 スタッフの配置は、外来、入院病棟、手術室と分かれており、私は入院病棟の担当だった。そこで何より もきつかったのは、緊急患者の看護と、朝九時から翌朝九時すぎまでの連続二四時間勤務であった。 緊急患者の看護は、人間の生死を争う一刻の猶予も許されない状況において、常に緊張感、スピード感 をともなう観察力、判断力、実践力が要求される。患者の命を救うための「神の手」を自負するプロフェッショ ナルな医師の下、その手足となり「チーム一丸となって闘う」といったうるわしきスポーツ選手のような「精 神」で、スタッフ全体が動いていたように思う。仕事はあくまでもチームワークなので、まだ「ひよっ子」の 私自身もそのモチベーションの中に否応なく巻き込まれざるを得なかった。 夜勤では、通常の日勤の九時から五時までの勤務のあと夕食をとり、休む間もなく仕事に入る。仮眠時 間は交代で認められていたものの、救急車が来ればすぐに対応しなければならないので、一~二時間横に なれば良い方であった。徐々に近づいてくる救急車のかん高いサイレンの音が、「すぐに覚醒せよ」の合図 であった。 入院患者の看護の仕事もあり(患者一〇〇人に対して夜勤のナースは三人) 、とにかく急変患者に対応す べく点滴や血圧計をもって、一晩中走り回っていたように思う。この二四時間労働は、看護婦不足によるも ので一時的なものとされていたが、病院では常に看護婦を募集してもなかなか応募がなく、すぐには改善さ れなかった。(民間病院における看護師不足は今も常態化している) そうした過酷な看護労働を支えるためには、何らかの「誇り高き思想」が必要となる。「決して間違わな いプロとしての自覚」、 「限りない患者への献身」、 「人間性あふれる看護」、 「医療チームとしての自覚」等々。 そのような「正しい医療者」にとって、患者は自分たち専門家の指導に従うのは当然とされ、患者も医療 の専門家に任せれば良い、といったある種の権力関係が生まれる。それは一見、暴力的には視えないが、 治療、看護、ケアされる立場の患者にとっては、自分の意見や訴えが抑圧されかねない。「面倒をみてもらっ ているのだから」、「素人だから」…と。そうした患者のジレンマに気づく医療者は少ない。「患者のために こんなに自己犠牲的に働いているのに、何が問題なんだ」と。とくに、患者の生殺与奪の権を握っている 医師は横柄、傲慢、不遜な人間が多く、看護者や患者に対しても命令的、支配的であった。 私はそうした「権力関係」のなかで働くことに圧迫感をおぼえ苦痛を感じていた。また過酷な労働条件を 問題視していたものの、それを同僚と話し合い経営側に改善要求するだけのエネルギーはもはや枯渇し、 医療ミスを起こさずに仕事をこなすことだけで精一杯であった。 自分の同僚とはいえ、医師、正看護婦、准看護婦、看護助手(学生)など、立場や役割が分断され、 待遇面でも差別されている医療組織(ヒエラルキー)においては、「仲間」同士のつながりを創ること自体 -86-.
(6) 社会臨床雑誌 第 28 巻第 1 号(2020 年 10 月). 困難で、ある種の緊張関係もあった。徐々に過労うつ状態に陥っていた私にとって、そのような組織での看 護労働は苦痛でしかなく、二年が限界であった。 その後、私は、内科、婦人科、小児科などの病院を転々とし、季節労働者のように、一~二年働き疲労 困憊して退職し、少し回復したらまた働く、というパターンを繰り返すようになる(このような「季節看護労 働者」は意外に多い)。 二七~二八歳のころ、自らが過労うつ状態に陥ったこともあって「精神病」というものに関心を持ち始め た私は、ある民間の精神病院で働くことになった。 精神病院というところ 精神病院の実態については新聞の報道などである程度知っていたが、それは一部の悪徳病院の問題、と いう認識だった。 実際に就職して現場を見た私は、それまでの人生観・世界観がひっくり返るほどの衝撃を受け恐怖をお ぼえた。〈こんなところで働き続けられるのだろうか?〉と不安になり深く悩み始めた。 閉鎖病棟の出入り口は常に施錠され、そこを出入りするスタッフは鍵を腰にぶら下げている。病棟の中に はさらに鍵が掛けられた独房のような「保護室」がある。患者たちは、背を曲げ、手が震え、よだれを流し、 または横臥している人が多く、明らかに薬漬けの状態が観られる。密かに電気ショックも行われている。掃 除や洗濯、配膳などに一部の患者が使役されている。長期入院患者が多く、外出・泊の制限、通信・面 会の制限がある。ここは「病院」とは名ばかりの隔離収容施設であると直感的に判った。 患者たちは、この社会(職場、学校、家族、地域)から疎外され、差別され、いじめられ、疲弊して「落 ちこぼれた」人たちが多く、まさにこの社会の縮図をみる思いがした(実際に山谷などから「患者集め」が 行われていた)。 自分も友人や家族に恵まれなかったら、精神病院というところを全く知らなかったら、ここに「入院」して いたかもしれないと想像すると、とても他人事には思えなかった。 一人ひとりの患者は、まさに仕事に疲弊し過労うつ状態に陥っていた私であり、懐かしい友に再会したよ うな親近感さえ覚えた。 組合活動に参加し、同じ問題意識を共有する仲間ができ、現場を少しでも改善していこうと話し合うよう になった。 クリスチャンであるらしい院長(経営者)は、「限りない心の奉仕をクランケ(患者さん)に…」などとい うお題目を放送で流して、職員たちに「教育」していた。恐らく「善意」のつもりだったのだろう。毎週の レクレーション、絵画教室、俳句の会や、運動会、盆踊り会、クリスマス会などの年中行事を催し、患者と 職員の有志で創る「院内誌」も発行されていた。私自身もそれらの「善意の会」に参加し、そうすることで 日常の看守のような仕事の暴力性が「緩和、軽減」されているような錯覚をしていたように思う。 日常の勤務場所であった男子閉鎖病棟では、患者に暴言を吐き反抗する患者に暴力をふるっていた巨漢 の医師に対して、小柄で臆病な私は、戦慄し恐怖を覚えながらも立ち向かっていった。患者への暴言と暴 力に抗議した。薬の副作用と思われる患者の状態を報告して、説明をもとめた。患者が「保護室」から早 く出られるよう要求した。「電気ショック」に反対し、何故それが必要なのか説明をもとめ、その介助は拒否 した。 当初、医師は意外にも私の疑問に答え、患者への暴言と暴力を自制するようになり、保護室の使用機会 は減り、電気ショックを控えたような感触もあった。そのようにして私は、精神医療の暴力性を問いかけるこ とによって、医師の側でなく患者の側に立ち、少しでも患者の人権を守ろうと「首をかけて」必死にもがい -87-.
(7) 社会臨床雑誌 第 28 巻第 1 号(2020 年 10 月). ていたように思う。 しかしながら、他病棟や他職種の仲間とは話し合っていたものの、自分の働く病棟の同僚たちと話し合う ことについては、全く不充分であった。現場で無視され嫌がらせを受けていたこともあって、同僚たちに敵 対的な感情をもっていたのだ。そして、実際には白衣を着て鍵を使用する立場であったにも拘わらず、「自 分は他の看護者と違って、患者の味方であり善意の看護者である」と思い込んでいたところもあった。その ような私の独善性に対する痛烈な批判、糾弾となったのは、ある患者Aさんの思いがけない行動であった。 Aさんとはそれまで、お互いの過去について語り合い、人生の先輩として教えられることも多く、病院の 処遇や医師の問題についても意見が一致していると思っていた。そこで、自分の行動に対する患者の立場 からの意見を聴いてみたいと思い、その旨を手紙に書いてAさんに手渡した。その結果、Aさんはなんと、 その手紙をあの暴力医師に手渡してしまったのである。 当初、私はその理由が全く解らなかった。後に仲間から間接的に聴いた話によると、私との関係(病院 側に批判的であるという)が知られて強制退院になってしまうかもしれないと、懸念したとのことだった。私 は頭をガーンと殴られたような強い衝撃を覚えた。「患者の立場」や「立場の違い」について、本当は何も 解っていなかったのではないかと、自信喪失に陥った。 Aさんへの手紙が病院側に渡ったことにより、私は、 「入院患者を煽動して病状を悪化させた」との理由で、 老人病棟への「配転処分」を受けた。 それに対しては後に、裁判で争うことになるのだが、現場では「就労闘争」という行動で配転を拒否して いた。病棟医師は、一時軟化していた態度を一変させ、今度は私に対して暴言をはき、階段から突き落と すという暴挙にでた。私はすぐに告訴した。 しかしながら内心では、医師や同僚たちの冷たい視線の下、たった一人で闘うことについて、心身ともに 限界を感じていた。悩んだ末の結論は、 「配転処分」に応じて働きながら裁判闘争を継続するということであっ た。そうしたなかで唯一、私にとって大きな励ましとなったのは、病棟患者たちの自主的な「配転処分反対」 の署名活動であった。 患者の立場 病棟患者たちの自主的な、私への「配転処分」反対の署名活動。これに対して経営側は何ごともなかっ たかのように黙殺していたが、私の裁判闘争の根拠は署名だけで充分であった。署名活動をしてくれた彼ら は、おそらく、「自分の立場への影響」を恐れなかった人びとであろうと想うと、それを何よりも大切にし決 して忘れてはならない、と肝に命じた。患者たちはまさに、差別、疎外、いじめ、暴力の被害者であり、そ の経験から私への「配転処分」をいち早く理解してくれたのだと思った。またその方法が稚拙であったにせ よ、少しでも患者の側に立とうとした私の「闘争」を支持してくれたものだと思うと、涙が出るほど嬉しかった。 精神病院に入院した(させられた)ということは、社会から大きな烙印を押されたに等しく、たとえ退院し てもそれを一生背負っていく運命におかれる。「ここに来たらもう、人生終わりだよ」、「刑務所の方が、まだ ましだよ」、「自分はもう、死んだことになっている」、「家族に騙されて、ここに連れてこられた」、「酒を浴び るほど飲んで、気が付いたらここにいた」、「入院したら一方的に離婚された。子供にはもう会わせてもらえ ない」…。という患者たち。この、社会の「圏外」に突き落とされた、という感覚は当事者でなければ解ら ないだろう。 入院直後に「保護室」に入れられた、患者の驚きと衝撃の表情を、私は憶えている。 「こんなところが世の中にあったとは知らなかった」、「自分は何も悪いことをしていないのに、何故こん なところに入れられるの?」という若い患者。彼に謝り自分も体験するべきと思い、一緒に保護室に入ったこ -88-.
(8) 社会臨床雑誌 第 28 巻第 1 号(2020 年 10 月). ともあった。すぐに出られることを前提にした体験は一%も解らないと思ったが、それでも冷たい部屋の圧 迫感、恐怖と戦慄を感じた。 退院直前に自死した人も少なくない。退院することを心から待ち望んでいたにせよ、家族との葛藤や何ら の社会的支援もない退院後の生活に、大きな不安と社会への「恐怖」を覚えたのだろう。 ある夜勤の日の夜、開放病棟に転棟したBさんが看護室に訪ねてきてくれた。いつも、困っている患者 のことを気にかけ、看護者にも伝えてくれるリーダー的な存在だった。人生の先輩で博識だった彼からは、 多くのことを教えられた。私に人生の苦悩を教え「大人」にしてくれた患者たちの中でも、指折り数えるほ どの稀有な人だった。 久しぶりの再会だったので、看護室で一緒にお茶を飲みながら話をした。「病院の問題、社会の問題、 いろいろあるが、まあ仕方がないな」というような話だったと思う。いつものせっかちな彼とは違って、妙に 落ち着き何か達観したような穏やかな表情が、印象的だった。翌朝、彼がトイレで自殺したという報せが仲 間から届いた。彼は恐らく、最期に私に会いにきてくれたのだろうと思うと、あの時何故気づくことができな かったのか、と深い自責の念にかられた。 「良い病院に転院したい」と離院したCさんを、友人の手をかりて一時匿ったこともあった。彼は希望ど おり転院できたものの、その後「病状悪化」し突然亡くなったと聴いた。死因の真相は不明だったが、転 院したことが果たして良かったのかどうか、悔やまれた。 そして、Dさん、Eさん…。いったい何人の人が病院で死に追い込まれたのだろう。私も彼らを追い込む 側の一人だったのだ。 精神病院における生活は、医(衣)・食・住の全てにおいて、医師と看護者、介護者の指示、命令、支 配のもとに行われている。そして、任意入院でない限り自らの意思による退院は極めて困難である。「刑務 所は刑期があるが、 ここにはそれがないので、いつ退院できるか判らない」 という人。早く退院したい人は「従 順な良い患者」を装う。奴隷生活への我慢の限界から医療者に抗議すると、「病状の悪化」、「暴力的」と 見なされ、薬、「保護室」、電気ショックなどの懲罰が待っている。まさに奴隷収容所である。 そのような環境の中で生活していると、医療者は自らを特別の権力を持った人間として認識し、患者に対 しては「そこにいるのに相応しい奴隷」として見るようになる。こうした実態的な差別と偏見は、精神病院 に限らず施設全般にも見られるだろう。表面的には患者(入所者)の人権を尊重し言葉遣いも丁寧な人であっ ても、その内心は変わらないだろう。最近では、後者の人間が、ホテルのような新しい建物とともに増えて きている。狡猾な偽善は露骨な暴力よりも判りにくいので、逆に始末が悪いのかもしれない。 前述の、Aさんの行動による私への批判・糾弾を受け実質的に老人病棟への処分に応じてから、男子閉 鎖病棟の彼らとの関係は断たれ、敢えて自らも断とうとした。裁判闘争はおもに、病院の人権侵害的な「医 療」の内容、患者処遇の問題、労働の内容とその条件の問題をめぐって争われ、「配転処分」の不当性を 訴えた。しかしながら、病院内の仲間や地域の支援者との意見の違い、組合との対立、いじめなどもあって、 裁判闘争を続けること自体、困難をきわめた。しかも老人病棟での夜勤を含む労働を続けながらであった。 結局、私(たち)の裁判は提訴後数年で「和解」し、心身ともに疲弊した私は退職した。 地域の中で 精神病院の社会的入院の問題を解消するためには地域に患者の「受け皿」をつくる必要がある、と考え る人々が出現し、一九八〇年代頃より、作業所、グループホーム、訪問看護などの事業所が徐々に増えていっ た。私自身も自らの苦い病院経験から地域の「受け皿」つくりに関心をもち、その後、グループホームや訪 -89-.
(9) 社会臨床雑誌 第 28 巻第 1 号(2020 年 10 月). 問看護の仕事に携わるようになる。 グループホーム(以下「G・H」とする)は法人または任意団体が公的補助金を受け、地域のアパート を借り上げて入居者と個別に契約し、職員である「世話人」が生活や各種手続きなどの支援を行う。おお むね入居者約六名に対して世話人は一,五人程度とされている。 G・Hの仕事は当初、私にとって、長い暗闇のトンネルから外に出たときのような眩しさと新鮮さ、解放 感をおぼえた。 何十年も入院生活を余儀なくされていた人が「娑婆に出て」、バスや電車にのり、買い物に行き、皆と料 理や食事をする。そうした当たり前の生活を奪われてきた人々に寄り添い、苦楽をともにする喜び。患者を 管理する立場から、同じ地域の生活者として、より「対等な」関係にあることの解放感。 ここで私は、G・Hを「病院化・施設化」させないよう、入居者が希望することは殆ど何でも一緒に行っ た。夕食会、料理会、ミーティング、畑仕事、アパートさがし、仕事さがし。そして、地域の関係者を交え ての夕涼み会、忘年会、旅行、カラオケ、フリーマーケットへの参加、等々。しばらく忘れていた「仕事が 楽しい」という感覚を、何十年ぶりかで味わったような気がした。 一方、入居者にとってのG・Hの生活はどのようなものだったのだろうか。 とくに長期入院していた人は、「退院できて本当に良かった。二度と入院したくない」、「ここで死ぬまで暮 らしたい」という人がほとんどだった。しかしながら、「浦島太郎」状態での新たな生活は、不安や緊張、 戸惑いの連続だったのだろう。薬の飲み忘れや「状態悪化」による再入院という場合も少なからずあった。 「再 入院しないこと」を本人や世話人の大きな目標にしていたにもかかわらず…。 比較的若い人は、これまでの「遅れ」を取り戻そうと、単身生活や一般就労を希望しアルバイトを始めた 人もいた。が、社会の厳しさとその焦りからか、「病状が再燃」する場合も少なくなかった。 いずれの入居者も、精神障害者に対する社会の差別と偏見、生き辛さを改めて実感している印象だった。 結局のところ、G・Hと作業所を往復するか、G・Hに「引き込もる」ことで、かろうじて「安定」を維持 できると本人が気づくのに、それほど時間はかからなかった。 「世話人」の仕事は、各会議、事務作業、会計、関係機関との連絡調整、食事作り、入居者のケア、 外出同行、各行事など多様であり、「何でも屋」の多忙さがある。ボランティアや関係者の支援、協力が得 られたとはいえ、利用者六人に対して一,五人の世話人では、とても足りない。運営委員会との相談の結果、 何とか二人体制を維持することができたが、これはあくまでも例外的な措置であった。 多くのG・Hは、 「手のかからない」利用者を選び、事務作業中心の「管理型」が増えてきているという。 実態的には、その内容においても全体数においても、本来の「社会的入院の解決(受け皿)のため」とい う形には程遠いものといわざるを得ない。 〈精神病院の社会的入院の問題の解決のために、少しでもG・Hを地域に根付かせていこう。そして、 同じ地域の生活者として利用者とともに苦楽をともにしていこう〉という当初の私の熱い想いは、仕事に熱 心になればなるほど空回りし、疲労困憊し、数年後には「燃え尽き症候群」となって消失した。 その後少し間をおいて、私は、おもに精神障害者を対象とする訪問看護ステーションに就職した。その 仕事内容は、利用者との契約の下、自宅に訪問して、健康チエック、相談、傾聴、家事支援、ケアと、家 族や関係機関との連絡・調整を行う。一日あたり四~五件の訪問件数で、その合い間にケース会議や報告 書作成などの仕事もあった。 利用者一人ひとりに対して、じっくり傾聴し共に考える関係を継続することで状況が改善する場合もあり、 仕事の手応えを感じた。「心の病」が家族や学校、職場などの環境問題と深く関わっていることを、改めて 教えられた。医療・福祉問題、生活保護、住居や地域の事情、作業所等の労働事情、いじめや虐待、D・ -90-.
(10) 社会臨床雑誌 第 28 巻第 1 号(2020 年 10 月). Vの問題、母子家庭の問題等々、利用者を取り巻く様々な問題についても、本人と相談し合い、本や資料 を読み、現場とかけ合った。 一人ひとりの利用者と共に考え「伴走」することで、病をかかえて地域で生きていくことの困難さを改め て実感できたように思う。 ここでは週二~四日の非常勤で比較的時間的余裕もあったことから、それまでの職業経験の中でもいちば ん多くの時間をかけて幅広く学ぶことができたように思う。まさに、利用者は私の「生きた教科書」であった。 G・Hや訪問看護、作業所などの社会資源は、「精神障害者の社会的入院を解消するため」の過度的な 制度としては、たしかに必要なものだろう。しかし現実は、数的にも内容面、財政面でも全く不充分であり、 その社会的ニーズに応えるものとなっていない。職員の労働条件においても貧困であり、そこで働く労働者 の「自己犠牲的精神」に依拠しているのが現状であろう。諸制度ができて四〇年以上経過した今も、日本 の精神科入院者数に大きな変化はなく、依然として世界でトップの三十万人弱〈*1〉である(精神科患 者全体数は四〇〇万人以上〈*2〉に激増)という現実は、いったい何を物語っているのだろうか。 「事件」について これまではおもに、自らの医療・福祉労働の経験をふり返り、相模原障害者施設殺傷事件の背景にある と思われるいくつかの問題を考えてみた。最後に、「事件」の核心部分について考察してみたい。 社会の経済至上主義、能力主義にもとづいた優性思想。学校、職場、地域における障害者との分断と差別、 偏見。国の障害者隔離収容、棄民政策。施設(病院) における障害者への重大な人権蹂躙と劣悪な労働条件。 「する側」と「される側」との支配・隷属の関係。精神病院問題、とりわけ措置入院が治安対策として機 能していることの問題…。様々な問題が錯綜としていて、彼が何故あのような事件を起こしたのか、正直今 も理解に苦しむ。 専門家たちは、「自己愛性パーソナリティ障害」とか「大麻精神病」とかいうラベルを彼に貼って解説し ているが、それでは何ら事件の解明にはならず、逆に、精神障害者への差別と偏見を助長し「犯罪予備軍」 とする保安処分の流れを加速する結果になるだろう。 二〇一七年に発行された「創」という雑誌 9 ~ 11 月号で、編集長と植松被告との手紙のやり取りの内 容を知ることが出来た。植松被告の記述を一部引用する。 〈…私は意思疎通がとれない人間を安楽死させるべきだと考えております。…。世界人権宣言第一条に は「すべての人間は産まれながらにして平等であり、かつ尊厳と権利とについて平等である。人間は理性と 良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」とあります。 …世界には “ 理性と良心 ” とを授けられていない人間がいます。人の心を失っている人間を私は心失者と 呼びます。私の考えるおおまかな幸せとは “ お金 ” と “ 時間 ” です。…重度・重複障害者を養うことは、莫 大なお金と時間が奪われます。〉 〈私は支援をする中で嫌な思いをしたことはありますが、それが仕事でしたので、大した負担ではござい ません。しかし三年間勤務することで、かれらが不幸の元である確信をもつことが出来ました。〉 〈…「精神科医」はゴミクズです。その証拠に日本はうつ病と自殺者であふれております。「医者」と聞 けば立派な人間と思い込んでしまいますが、精神科医は善人のフリをして毒(精神薬)をばらまきます。製 薬会社と政治家は2コ1で、自分たちの金もうけしか考えていません。〉 (創9月号) -91-.
(11) 社会臨床雑誌 第 28 巻第 1 号(2020 年 10 月). こうした記述をみると、事件から二年以上経過しても、事件前の植松被告の考えとほとんど変わっていな いことに驚く。むしろ、自らの「思想」をより多くの人に「宣伝」したい、という自信さえ窺える。「反省」 しているのは、家族に「了解」をとったうえでの「安楽死」でなかったことについてだけである。 彼はそれなりの「思想性」(障害者施設での体験にもとづいた)と計画性をもって、「命をかけて」事件 を起こしたのだろう。 彼は社会(施設)の「空気」を鋭敏に受け止め、「社会が賛同してくれるはずだった」と確信していたと いう。実際、ネットの中では彼の考えに賛同する人も多いという。そして、犯行の数カ月前に、衆議院議長 に「犯行予告」の手紙を持参し、安倍首相の耳にも入れてほしいと懇願したという。事件の「正当性」を アピールし自らが社会の「代表(ヒーロー) 」として行動することによって、彼は社会や権力者に「哀しい忖 度」をしたのではないだろうか。 そして、それまでの人生におけるいくつかの挫折。「する側」から「される側」への急激な「転落」。彼 にとって、そこからの唯一の「脱出方法」が事件を起こすことだったのではないか。とりわけ措置入院体験が、 彼の行動を決定的なものにする引き金になってしまったのではないだろうか。 しかしながら、彼の「犯行予告」から事件まで数カ月もあった。その間の警察や周囲の対応にも疑問が 残る。いずれにしても、「犯行予告」後の措置入院によっては何ら問題の解決にはならず、逆に彼の暴走を 加速させてしまう結果になったのではないだろうか。 このような「残虐な事件」は、かつての戦争では日常茶飯事であったし、今も世界のどこかで起きている ことだろう。私は「事件」を知り、かつて日本軍が中国大陸に侵略したときの、あの、あまりにおぞましい「百 人斬り競争」の場面を想起した。 「…このような残虐非道のふるまいをしていたひとたちは、…そのときでも、けっして気がくるってなどい なかったのです。…そのとき、 〈みんな〉とおなじようなことを、 〈みんな〉とおなじように、 〈みんな〉といっ しょにやっていたにすぎなかったのです。 」 「…軍隊に猛訓練はつきものですが、 日本陸軍の訓練はとりわけ猛烈でした。死のしごきとさえ言われた。 兵隊はしごかなければ強くならないと信じられていたのです」 「もっともよくしいたげられた者がもっともよくしいたげる。これは普遍的真実です。しかも、しいたげら れた者の不満が真の抑圧者へと向けられることはめったにない。そのはけ口は、たいていのばあい、より弱 い者へと向けられる」 「戦争を支える文化というのは、明確な差別、 『志那人』は豚だ、 と。豚だと思えば殺せるわけね。差別。…」 「それにしても、なぜ、罪責感がないのか?いまのべたような教育をとおして自分の感情を完全に殺す習 慣がつく。あるいは、だれに出会っても、相手を対等の人間とは見ずに、すぐに上下関係をはかる。…。で、 上に対してはこびへつらい、下に対してはいばる。あるいは、あわれむ。ばかにする。そういう対人関係し か体験してこなかった人間にとっては、相手の感情がわかるかどうかよりもまえに、自分の感情そのものが わからない。その、自分の感情が解らない人間に、相手の感情がわかるわけがない。…」 (「文学をとおして戦争と人間を考える」彦坂 諦著 れんが書房新社 より) 現代における「残虐非道のふるまい」は、 「みんな」のなかにないのかどうか。「しいたげられた者の不満」 は「より弱い者」に向けられていないかどうか。「戦争を支える文化」~「明確な差別」は今の時代にも浸 透していないかどうか。日常生活のなかで、自分自身の感情が「殺されて」いないかどうか。「対等な人間 関係」がつくられているかどうか。「事件」を機に、一人ひとりが自分の問題として真剣に考える必要がある だろう。 また、現実の精神科病院においては、全国で月平均一,八一六人もの人間が亡くなっており、隔離・拘 -92-.
(12) 社会臨床雑誌 第 28 巻第 1 号(2020 年 10 月). 者数は二〇,一一二人/日で、年々急増している、という調査結果が報告されている(二〇一三年)〈* 1〉。死亡者の中には、純粋な「病死」以外の、薬漬け(薬害) 、隔離・拘束、窒息、自殺、暴行などの「医 療事故」によるものが多いと推測される。 とりわけ高齢者の、薬漬けによる被害は少なくない。転倒時の骨折、それによる「寝たきり状態」。嚥下 困難による窒息。誤嚥による肺炎。排便困難による腸閉塞などなど。さらに、パーキンソン病、糖尿病、 水中毒、長時間の拘束による肺動脈血栓塞栓症、悪性症候群、「保護室」での「自殺」、暴行…。これら の問題は高齢者に限らず、今も病院で、施設で、日常的に起きていることだろう。今後さらに増えると予測 される「認知症」患者も、このような形で「安楽死」させられていくであろうことが懸念される。 こうした「合法的殺人」と、植松被告の犯行とは、いったいどこが違うのだろうか。 マスコミや専門家、関係者たちは、今回のような「残虐非道な犯行」に対しては、犯人の「異常性」を 強調して、しかつめらしく、ジャーナリスティックに騒ぐ。そして事件は措置入院強化の方向で悪用され、い ずれ風化していく。しかし、「合法的殺人」の問題については、これまでずっと黙殺されてきたのである。 家族や学校、職場、地域に「棄てられ」、「忘れられた存在」となって、施設や病院で「ひっそりと」生 きることを余儀なくされた人びと。私にとって彼、彼女たちは、この社会の本当の姿を、人生の苦悩を教え られた大切な教師であり、かけがえのない一人ひとりであった。 経済や効率に左右されない、ゆったり、のんびり、マイペースの人からは、多忙な看護労働のなかでも 一時ほっとできる余裕とユーモア、笑いをもらった。「寝たきり状態」の人からは、清拭やおむつ交換、リハ ビリなどの仕事をしながら、「人間の苦痛」への想像力を教えられ、またいろいろな人生相談にものっても らった。「妄想の世界」への「避難」を余儀なくされた人からは、彼にとっての現実世界の「極限の苦悩」 を教えられた。もはや意識が消失した人からは、それでも話しかけたり触れたりすることで「通じ合える」と いう、命の尊厳のようなものを教えられた。 すでに亡くなっている人の方が多いであろう彼、彼女たちの魂は、いまも私のなかに生きている。それら の一人ひとりの顔を思い浮かべながら、「事件」の社会的背景を考えることができたことに感謝し、祈りを 捧げたい。 *1「精神科入院患者数三十万人弱」 「精神科病院~死亡者数一、八一六人/月平均」 「精神科病院~隔離・拘束者数二〇、一一二人/日」 以上は、「厚生労働省・精神保健福祉資料統計値」より。 *2 「精神科患者全体数四〇〇万人以上」=「厚生労働省二〇一四~二〇一六年『生活実態調査』」より。 これによれば、精神科患者全体数は、二〇一四年時点で「三九六,五万人」とされているが、これは 宮城県石巻市及び気仙沼市と福島県を除いた数値とされていたため、推定で「四〇〇万人以上」と表 したものである。 (まえざわ・ゆうこ 医療福祉労働者) 【転載の経緯】 本原稿は雑誌『労働者文学 85』(2019.7) に掲載された、 「労働者文学賞二〇一九」の〈評論・ルポルタージュ 部門〉の入選作品です。会員の方より転載の提案があり、『労働者文学』のご厚意により転載させていただ きました。(学会運営委員会) -93-.
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