同朋大学佛教文化研究所紀要
第三十五号(二〇一六年三月)抜刷
法隆寺における一切経事業の歴史的意義について
―史料的価値の在りかを考える
藤
井
由紀子
法隆寺における一切経事業の歴史的意義について―史料的価値の在りかを考える(藤井) 一
はじめに
新しい史的研究は、新しい史料評価によってしか生まれない。歴史学 の基本は文献史料に基づいて過去の歴史を復原することにあるが、現存 す る 文 献 は 限 ら れ て い る た め、 実 際 に は 史 料 批 判 と い う 手 続 き の も と、 信 憑 性 が 高 い と 判 断 さ れ た 史 料 を 補 完 的 に 用 い る こ と に な る。 し か し、 その史料批判にしても、ややもすれば、各研究者が各自の関心に適った 部分にのみ信憑性を認める、といった恣意的な状況を招きかねない。史 料の信憑性や成立年代を問うことは確かに重要であるが、史料の真偽ば かりが問われてしまうと、そこから引き出される情報も、このように矮 小化される危険性があるように思う。では、信憑性を問う以外に、史料 の価値を広げることはできないのだろうか。本稿はこうした問題意識を法隆寺における一切経事業の歴史的意義について
―史料的価値の在りかを考える
藤
井
由紀子
念頭に、法隆寺一切経を史料としてどう価値づけていくか、法隆寺関係 の、その他の史料も含めて、改めて論じていくことを主な目的としてい る。 視座は大きくふたつある。ひとつは、平安時代末期という、古代から 中世への移行期に注目することである。国の財源で運営されてきた古代 の寺院が、社会の大きな変化に何度も直面しつつ、千年以上もの時間を どうやって生き残ってきたのか。本論で述べていくように、中興という 言葉で表現されてきた寺院復興の内実を具体的に洗い出してみると、喜 捨 に 結 び つ く よ う な 新 た な 信 仰 を 作 り だ し、 人 々 と 寺 院 と を つ な い で、 直 接 的 な 財 源 を 確 保 し よ う と し た 工 夫 が、 そ こ に は あ っ た こ と が わ か る。その意味で、寺院における信仰とは、新しい価値の創出であり、そ れを人々に享受させる仕組みの構築であった、とみることができる。法同朋大学佛教文化研究所紀要 第三十五号 二 隆寺の場合もまた、一切経が書写された期間と、法隆寺が中世にむけて 大 き く 復 興 を 遂 げ る 時 期 と は 重 な っ て お り、 聖 徳 太 子 五 百 回 忌 を 契 機 に、一切経だけでなく、これらが納入された聖霊院という堂舎が新たに 寺内に創建された、その歴史的意義をこうした視座で考察し直してみる 必要があ る ( 1 ) 。 もうひとつは、昭和初期以降、同朋学園に所蔵されてきた法隆寺一切 経を、史料として再評価することにある。そもそも当学園に法隆寺一切 経が所蔵されていること自体、一般にあまり知られておらず、これまで に簡略な目録の形で紹介されてはいるが、史料的な価値づけについては む ろ ん、 そ の 歴 史 的 意 義 に も ほ と ん ど 触 れ ら れ て き て は い な い。 そ こ で、 本 稿 で は、 法 隆 寺 一 切 経 を 復 興 と い う 視 座 か ら 探 っ て い く と と も に、当学園所蔵の一切経をいかに史料として活用するか、その可能性を 論じてみたい。なお、平成二十七年秋、仏教文化研究所では、そうした 試みを手助けするツールとして、デジタルアーカイブスを立ち上げてい る( 図 表 1) 。 そ こ で、 ま ず 以 下 で は、 法 隆 寺 一 切 経 研 究 に 対 す る そ の 有効性について本論で論ずる前に、このデジタルアーカイブスの簡略な 概要について、少し言及しておきたいと思う。 こ の デ ジ タ ル ア ー カ イ ブ ス は、 同 朋 大 学 の 前 身 と な っ た「 閲 蔵 長 屋 」 に ち な ん で、 「 ア ー カ イ ブ ス 閲 蔵 」 と 命 名 し て い る ( 2 ) 。 研 究 者 を 対 象 と す るだけでなく、一般の利用も想定した画像一体型データベースを中心に したもので、当学所蔵の史料類や、研究所で過去に行ってきた寺院調査 の内容を、画像情報とテキスト情報を一体化させた形で管理し、再利用 できるよう加工している。そして、今回、その最初のコンテンツ(内容 物)として、法隆寺一切経十九点のデータベース化を試みたわけである が、撮影や計測などの基礎的作業はむろん、データベースの設計も外部 業者には委託せず、すべて研究所内で作成し た ( 3 ) 。ただし、デジタルアー カイブスの公開をめぐっては、解決しなければならない問題が残されて おり、残念ながら、現在のところは、研究所内部でしか公開されていな い。したがって、本稿でも、法隆寺一切経の書誌データの分析に基づい て論を展開する形はとらない。今回は、当該データベースによる一切経 分析整理の可能性を 提 示 す る に と ど め、 デジタルアーカイブ スの立ち上げを通し て同朋学園所蔵経の 分析・整理に着手し たこの機会に、過去 の先行研究を改めて 振り返り、その歴史 的意義について再考 の 余 地 を 探 り た い、 と考えてい る ( 4 ) 。 (図表1)「アーカイブス閲蔵」トップページ
法隆寺における一切経事業の歴史的意義について―史料的価値の在りかを考える(藤井) 三
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アーカイブス事業」の企図との連携〉
学校法人同朋学園には、現在、十九点の法隆寺一切経の関係史料が所 蔵 さ れ て い る。 そ の 内 訳 は、 経 巻 類 が 十 三 点、 目 録 類( 「 貞 元 新 定 釈 教 目録」 )が六点で、これらはすべて山田文昭氏の旧蔵になるものである。 氏の生前、その蒐集品は「夢白廬文庫」という彼個人の文庫に保管され ていたが、その没後、ゆかりの学校や学友に贈られたといい、同朋大学 の前身にあたる真宗専門学校にも、その創設者である住田智見氏との深 い交友関係によって、法隆寺一切経十九点を含む二〇〇点あまりの蒐集 品 が 寄 贈 さ れ る こ と に な っ た ( 5 ) 。 当 学 園 所 蔵 の 法 隆 寺 一 切 経 の ほ と ん ど に、 「 夢 白 廬 文 庫 」「 山 田 文 昭 蔵 」「 真 宗 専 門 学 校 図 書 」 の 朱 陽 角 印 が 捺 されているのはそのためである。 ここで、山田文昭氏の人物像について少し紹介しておくと、明治十年 (一八七七) 、愛知県碧海郡矢作町大字上佐々木字梅ノ木(岡崎市上佐々 木 町 字 梅 ノ 木 ) の 正 福 寺 に 生 ま れ て い る ( 6 ) 。 明 治 三 十 七 年( 一 九 〇 三 )、 同寺の第十四世住職となる一方、東京巣鴨の真宗大学(大谷大学前身) 、 お よ び 真 宗 大 学 研 究 院 を 卒 業、 そ の 後、 同 学 の 図 書 係 や 図 書 館 長 を 経 て、大正元年(一九一二)に図書館長との兼務で同学の教授に就任して いる。同朋との関わりについては、大正十三年(一九二四)に真宗専門 学 校 の 教 授 に 就 任 し て 以 来、 昭 和 二 年( 一 九 二 七 ) ま で 奉 職 し た ほ か、 昭和八年(一九三三)に死去するまでの間、大谷大学と真宗専門学校の 教 授 を ふ た た び 務 め る こ と も あ っ た ら し い ( 7 ) 。 代 表 的 な 著 作 と し て、 『 真 宗史 稿 ( 8 ) 』、 『真宗史之研 究 ( 9 ) 』、 『日本仏教史之研 究 )(( ( 』の三部作があり、その 研究は「基礎的史料の影写や翻刻を早くから手がけ、根本史料に基づく 真宗史学を樹立した」というように評されてい る )(( ( 。また、貴重本や貴重 史料の蒐集につとめたことで知られ、法隆寺一切経もそのような彼の関 心から蒐集されたもので、彼の旧蔵になる法隆寺一切経のほとんどは大 谷大学に寄贈され、その数は百点あまりを数え る )(( ( 。 さて、法隆寺一切経に言及した最新の論考によると、その現存巻数は 管 見 で、 断 簡 を 含 め て 千 五 百 巻 余 り で あ る と い う )(( ( 。 次 章 で 述 べ る と お り、 書 写 さ れ た 一 切 経 は『 貞 元 新 定 釈 教 目 録 』 と い う 経 録( 仏 典 目 録 ) に基づいて、全部で七千余巻にものぼったと推定されているが、その全 体の規模からすると、同朋学園にはわずか十九点が残されているにすぎ ない。加えて、これら所蔵品を対象とした法隆寺一切経の研究は、ほと ん ど 本 学 で は な さ れ て き て い な い に 等 し く、 昭 和 四 十 七 年( 一 九 七 二 ) に 山 田 文 昭 コ レ ク シ ョ ン の 一 部 と し て 目 録 化 さ れ て 以 来 )(( ( 、 平 成 十 八 年 ( 二 〇 〇 六 ) の 文 昭 コ レ ク シ ョ ン 関 係 の 展 覧 会 に い た る ま で の 間、 目 立った成果と呼べるものはわずかに二つしか挙げることができない。 ひとつは、平成九年(一九九七)七月、東海印度学仏教学会に関連し て、同朋大学で催された「第一回大蔵会展観」の目録で、山田文昭氏の同朋大学佛教文化研究所紀要
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法隆寺における一切経事業の歴史的意義について―史料的価値の在りかを考える(藤井) 五 紹介のほか、法隆寺一切経一点一点の書誌情報と簡略な解題が付されて い る )(( ( 。 お そ ら く、 “ 昭 和 資 財 帳 づ く り ” と い う コ ン セ プ ト の も と、 法 隆 寺で行われてきた宝物調査の成果が刊行され、同年の三月、法隆寺一切 経の全貌も明らかになっているか ら )(( ( 、そのことを承けて、同朋大学でも 同朋学園所蔵の法隆寺一切経を東海印度学仏教学会の開催にあわせて公 開したもの、と推察される。 も う ひ と つ は、 平 成 十 二 年( 二 〇 〇 〇 )、 二 年 間 の 計 画 で、 法 隆 寺 一 切経関連の史料十九点すべてを修復した、その修復時の知見に基づいた 書誌学的な論考である。伊東ひろ美氏が執筆したものであるが、内容か ら推して、おそらくは修復を依頼した滋賀・坂田墨珠堂の専門的知見に 基 づ い て 成 稿 さ れ た も の か、 と 推 測 さ れ る。 形 状 を 中 心 に、 今 ま で わ かっていなかった書誌情報を、詳細に、かつ、合理的に、わかりやすく 解説した非常に有意義な論考であるが、対象が「貞元新定釈教目録」の みにとどまっており、残念ながら、経巻については言及がないことが惜 しまれ る )(( ( 。 以上のように、同朋学園に所蔵されている法隆寺一切経について、簡 単に振り返って記述してきたが、研究という観点からすると、いずれも 史 料 紹 介 の 範 囲 に と ど ま る も の で し か な く、 史 料 的 な 価 値 づ け に つ い て は む ろ ん、 そ の 歴 史 的 意 義 に つ い て も ほ と ん ど 論 じ ら れ て き て い な い。そこで、今秋のデジタルアーカイブスの立ち上げを通して、改めて 同朋学園所蔵の法隆寺一切経を整理し、分析する作業に着手することに した。データベースのサンプルを参考図表として引用しておいたように (図表2) 、法隆寺一切経の全紙をデジタル画像で閲覧できるようにした ほか、調査内容は他の研究機関における典籍調査等で一般的に行われて いるような調査カードの形式で示し、名称、形状、法量、奥書などの書 誌情報を一覧にして表示している(図表3 ・ 4) 。 それでは、この画像一体型データベースが、法隆寺一切経の考察にな ぜ有効だと考えるのかというと、奥書の記載内容を中心に考察が進めら れ が ち で あ っ た 従 来 の 研 究 に 対 し て、 奥 書 以 外 の 潜 在 的 な 情 報 を 副 次 的 に 利 用 す る 活 路 を 新 た に 開 い て、 歴 史 史 料 の レ ジ ー ム( 慣 行、 制 度、 ルール)に変化をもたらす契機にできるのではないか、というビジョン を 抱 い て い る か ら で あ る。 特 に、 法 隆 寺 一 切 経 の よ う な 知 識 経 の 場 合、 巻 頭 か ら 巻 末 ま で 全 体 に 目 を 通 し て い く と、 「 写 経 体 」 と 呼 ば れ た 国 家 機 構 に よ る 整 然 と し た 写 経 と は 異 な り、 文 字 の 粗 密 や 筆 致 の 乱 れ な ど、 民間写経ならではの特徴を抽出することができる。また、法隆寺一切経 は法隆寺僧が主体となって、一巻を一人で書写しているケースがほとん ど で あ る。 と す れ ば、 奥 書 部 分 だ け を 切 り 取 る の で は な く、 “ 経 巻 一 巻 まるごとの姿”というものを注意深く観察し、視覚的情報に置き換える ことができれば、そこから何かしらの歴史的情報を引き出していくこと も全く不可能ではないはずである。むろん、方法論としては未知の段階 の も の で は あ る が、 今 回、 画 像 一 体 型 デ ー タ ベ ー ス の 構 築 に あ た っ て、 一点一点の史料を一紙一紙、自分たちで撮影していく作業を通して、新
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同朋大学佛教文化研究所紀要 第三十五号 八 しい評価軸をプラスできないか、その余地を前向きに検討してみること とし た )(( ( 。 その一例として、同朋学園所蔵経のなかから、最も古い書写年代を持 つ、長和元年(一〇一二)八月十九日、行教によって書写された『能断 金 剛 般 若 波 羅 蜜 多 経 』 を 挙 げ て み た い( 巻 頭 口 絵 参 照 )。 と い う の も、 この経巻については、大谷大学にも長和元年(一〇一二)八月二日の行 教の奥書を持つ『十地経論』巻十が蔵されていて、比較史料に恵まれて いるだけでなく、承徳年間(一〇九七~一〇九九)に開始されたとされ る法隆寺の一切経書写事業の期間に比すると、八十年も早い奥書を持つ 点で特異な位置を占め、法隆寺一切経史に書き換えを迫る可能性を持っ て い る か ら で あ る。 た と え ば、 大 谷 大 学 の 法 隆 寺 一 切 経 プ ロ ジ ェ ク ト ( 平 成 8 ~ 平 成 10年 度 科 学 研 究 費 補 助 金 基 礎 研 究( B )( 2)) で 研 究 代 表 を つ と め た 竺 沙 雅 章 氏 も、 同 校 所 蔵 の 長 和 元 年 経 に つ い て、 「 現 在 考 えられている書写開始時期より一世紀ほどさかのぼるものであり、注目 される。法隆寺一切経では、奈良時代あるいは平安時代前期に書写され た経巻を尋ね求めて一切経の一具として編入することが多く行われてい るので、これもそれと同様なものとも想定できるが、十一世紀初頭とい う他に類例がないこと、承徳三年に時期的に近接していることから、法 隆 寺 一 切 経 書 写 の 開 始 年 次 を 検 討 す る 上 で 極 め て 重 要 な 史 料 と い え よ う 」 )((( と述べており、議論の進め方次第では、法隆寺における一切経書写 の開始時期を遡らせる材料ともなりうる一方で、法隆寺一切経には奈良 から平安時代初期の古写経を利用した、いわゆる転用経の存在が知られ て い る か ら )(( ( 、 長 和 元 年 経 も ま た 転 用 経 で あ っ た 可 能 性 を 示 唆 し て い る。 なお、これら両巻の奥書を紹介しておくと、まず同朋学園所蔵の長和元 年経の巻末には、 能断金剛般若波 羅 (蜜脱力) 多経 長和元年 子八月十九日 僧行教 書写 了 )(( ( というようにある。また、大谷大学蔵の長和元年経の巻末にも、上記と まったく同筆で、 十地論巻第十 長和元年 子八月二日 僧行教 書写 了 )(( ( と記されている。 と こ ろ が、 残 念 な が ら、 書 写 者 で あ る 行 教 に つ い て は、 ど の よ う な 人 物 か が わ か っ て は お ら ず )(( ( 、 長 和 と い う 元 号 に つ い て も、 実 は 寛 弘 か ら 改 元 し た の は 十 二 月 二 十 五 日 で あ る か ら )(( ( 、 厳 密 に は「 長 和 元 年 八 月 」 は 存 在 し な い こ と に な り、 奥 書 か ら だ け で は 問 題 を 解 決 で き な い。 そ こ で、 経 巻 全 体 を 改 め て 見 て み る と、 同 朋 学 園 所 蔵 経 の 場 合 は、 「 聖 教 序」の部分にあたる第一紙と第二紙、および奥書の部分はまったくの同
法隆寺における一切経事業の歴史的意義について―史料的価値の在りかを考える(藤井) 九 筆で、かつ、非常に丁寧な書きぶりが見てとれるが、第三紙以降から奥 書直前の第十九紙までは、別筆かと判断されるほど、字体や筆致が乱雑 に変化している。したがって、これがもし本当に別筆だとすれば、一部 残されていた行教筆の写経を用いて、後世にこれを補って一巻としたと いうケースが想定でき、既存経のかなり逼迫した転用状況を窺わせる史 料となる。しかし、大谷大学所蔵経の場合は、丁寧に書記されているの は奥書のみで、本文は最初から乱筆であるばかりか、途中からは約五行 ごとに筆の調子が激しく変化するなど、その書写の様子はまったく安定 せず、筆致がめまぐるしく変化している。二つの長和元年経を比較する と、奥書は一見して同筆とわかるものの、経典本文については筆致の変 化が著しく、即断できない。ただ、文字によっては書き癖が一致する箇 所もあるから、もし両巻ともすべて行教が書写したものであるとするな らば、先に想定したような状況は成り立たなくなる。むしろ、元号に誤 認があるこのような民間写経がどこで写され、どこに伝わったのか、法 隆寺も含めて、その状況を想定していくことが、当然のことながら、長 和元年経の歴史的位置を知る手掛かりとなる。いずれにせよ、現段階で は単なる仮定にすぎないが、今後、料紙の大きさや罫線の具合など、そ の他の要素も含めて視覚情報として抽出し、総合的に比較、判断できる ような形でデータベースを改訂していくことで、このような特異な位置 にある長和元年経が持つ意味など、一定の研究成果に結びつけていきた い、と考えている。 か つ て、 堀 池 春 峰 氏 は、 「 法 隆 寺 一 切 経 の 奥 書 に わ ず か に 遺 さ れ た 近 里、 住 民 と の 関 係 は 両 者 の 史 的 関 係 を 示 す 唯 一 の も の と い う べ き で あ る」と述べ た )(( ( 。確かに、一切経の奥書が示す事実は、中世法隆寺の姿を わ れ わ れ に 最 も よ く 教 え て く れ る 材 料 で あ る こ と に 疑 い は な い。 し か し、当学園に所蔵されている関連史料が十九点という点数にとどまるこ ともあり、一巻一巻の筆致などを通して書写者と向き合い、奥書だけで な く、 経 巻 全 体 を 一 つ の 史 料 と し て 見 る 視 座 が 確 立 で き れ ば、 法 隆 寺 に お け る 一 切 経 書 写 を め ぐ る 状 況 に つ い て、 今 ま で と は 違 っ た 切 り 口 か ら 理 解 を 深 め る こ と も で き る の で は な い だ ろ う か。 近 年 で は SAT や CBETA な ど、 『 大 正 新 脩 大 蔵 経 』 関 連 テ キ ス ト の デ ー タ ベ ー ス 化 が 進 み )(( ( 、それを承けて仏典や古写経の画像データベースへの取組みも意欲的 に な さ れ て い る か ら )(( ( 、 そ う し た 先 行 例 を 参 考 に し つ つ、 「 ア ー カ イ ブ ス 閲 蔵 」 の 設 計 を さ ら に 充 実 さ せ る と と も に、 試 行 錯 誤 を 繰 り 返 し な が ら、この問題について可能性の幅を広げてみたい、と思ってい る )(( ( 。
〈第二章
平安時代後期の法隆寺復興と法隆寺一切経〉
第 一 章 で は、 「 ア ー カ イ ブ ス 閲 蔵 」 に お け る 画 像 一 体 型 デ ー タ ベ ー ス の構築過程を通して、同朋学園所蔵の法隆寺一切経を史料としてどう価 値づけていくか、その方向性について、現段階での可能性の道筋を示し同朋大学佛教文化研究所紀要 第三十五号 一〇 た。では、そもそも法隆寺一切経とはどのような歴史的背景をもって書 写されたものなのだろうか。本章では、こうした法隆寺一切経の歴史的 意義をめぐって、どのような議論が過去になされてきたか、現代に至る までの研究史を簡略に踏まえながら、問題点を整理していくことにした い。 法 隆 寺 一 切 経 の 研 究 史 に お い て 最 も 注 目 す べ き は、 昭 和 初 期、 法 隆 寺 管 長 の 佐 伯 定 胤 氏 の 手 に よ っ て、 寺 内 の 中 院 文 庫 の 中 か ら 保 安 三 年 ( 一 一 二 二 ) 三 月 二 十 三 日 付 の「 法 隆 寺 林 幸 一 切 経 書 写 勧 進 状 」( 以 下、 「 林 幸 勧 進 状 」 と 略 す ) が 発 見 さ れ た こ と で あ る )(( ( 。 こ の 平 安 時 代 後 期 の 法隆寺僧による勧進状は、保安三年(一一二二)以降、一切経書写事業 の 中 心 人 物 で あ っ た 林 幸 が 過 去 の 経 緯 を 振 り 返 っ た も の で、 永 久 二 年 ( 一 一 一 四 ) 頃 か ら 法 隆 寺 僧 の 勝 賢 に よ っ て 書 写 が 開 始 さ れ た こ と を は じめ、いくつかの具体的な事柄が記されている。果たして、この発見以 来、法隆寺一切経の研究は、この勧進状の内容をベースに、各経巻の巻 末に記された奥書の内容を加味しながら進められていくこととなった。 ま ず、 こ の「 林 幸 勧 進 状 」 の 発 見 と あ わ せ て、 法 隆 寺 一 切 経 の 存 在 に い ち 早 く 注 意 を 促 し た の は 大 屋 徳 城 氏 で あ る。 大 屋 氏 は「 林 幸 勧 進 状 」 の 全 文 を 翻 刻 し て 紹 介 す る だ け で な く、 法 隆 寺 蔵 の 経 典 の な か か ら、 『行信経』と呼ばれる奈良時代の古写経など、 「法隆寺一切経」の黒 方印を捺したものをいくつか拾っているほか、天治元年(一一二四)法 隆寺僧が一切経音義料として書写した『新撰字鏡』十二巻にも言及して い る。 ま た、 法 隆 寺 に 蔵 さ れ て い る も の 以 外 に、 『 古 経 題 跋 』 に み え る 零巻のことや、宋版の版経のことなどにも触れているが、いずれも紹介 の範囲にとどまるもので、氏自身、今後の研究に期待する旨を記して稿 を締めくくってい る )(( ( 。 その後、法隆寺一切経の研究史にとって大きな画期となったのが、堀 池春峰氏の研究である。平安時代における一切経書写全般の流れを押さ えたうえで、期間、内容、特色、動機、意義など、多岐にわたって考察 を進めており、氏の研究成果は現在に至るまで法隆寺一切経研究の基盤 と な っ て い る と い っ て 過 言 で は な い。 特 に 重 要 な の は、 「 林 幸 勧 進 状 」 と 法 隆 寺 伝 存 の 一 切 経 の 奥 書 に 基 づ い て、 法 隆 寺 の 一 切 経 は 承 徳 年 間 ( 一 〇 九 七 ~ 一 〇 九 九 ) か ら 大 治 六 年( 一 一 三 一 ) 頃 ま で の 約 三 十 三 年 間を要して書写されたもので、これを三つの時期に分けて把握している 点にあ る )(( ( 。 まず、第一期については、法隆寺蔵の『大宝積経』巻第七十四に、承 徳三年(一〇九九)八月の頼円書写の奥書が見えることをもっ て )(( ( 、承徳 年間(一〇九七~一〇九九)を法隆寺における一切経書写の創始期とみ て い る。 そ し て、 「 林 幸 勧 進 状 」 に 記 載 さ れ た 勝 賢 の 勧 進 を 十 五 年 ほ ど 遡 る と い う 意 味 で は 注 目 す べ き だ と し な が ら も、 勧 進 僧 名 は 明 記 さ れ ず、 「 法 隆 寺 結 縁 一 切 経 」 と 記 載 さ れ る に と ど ま っ て い る こ と か ら 推 し て、この時期の経巻書写はまだ勧進組織による積極的なものではなかっ たのであろう、と推定している。
法隆寺における一切経事業の歴史的意義について―史料的価値の在りかを考える(藤井) 一一 次 に、 第 二 期 は、 「 林 幸 勧 進 状 」 の 内 容 に 基 づ い て、 永 久 二 年 か ら 元 永 元 年( 一 一 一 四 ~ 一 一 一 八 )、 法 隆 寺 僧 勝 賢 に よ っ て 勧 進 さ れ た 時 期 とする。元永元年(一一一八)十月二日、勝賢は勧進一切経の開題供養 を営んでいること、それまでに二千七百余巻が完成していたことが勧進 状から知られるほか、法隆寺に伝存する一切経中に当該期間の奥書を持 つものが六十五巻あり、書写自体は法隆寺僧によって行われたが、その 施主名から推して、勝賢は権門勢家を対象とせず、勧進聖として法隆寺 近傍の郷里の有力者層を施主に募って勧進喜捨を求めたことなどが知ら れるとする。また、この期間、法隆寺別当は経尋であったが、保安二年 (一一二一) 、経尋が前任別当の時に転倒した東室の南端を改造して聖霊 院を新建していることに注目し、その創建には三昧堂衆の先駆的な聖徳 太子信仰が影響したかもしれず、経尋の聖霊院創建計画と平行して進め られた勝賢の一切経書写も三昧堂衆と関係があった可能性を示唆してい る。 つ づ く、 第 三 期 に つ い て は、 同 じ く「 林 幸 勧 進 状 」 の 内 容 に 基 づ い て、 保 安 三 年( 一 一 二 二 ) 勝 賢 の 勧 進 を 継 承 し た 林 幸 に よ っ て 開 始 さ れ、 さ ら に 大 治 六 年( 一 一 三 一 ) 二 月 の『 成 唯 識 論 掌 中 枢 要 』 奥 書 に 基 づ い て、 大 治 六 年( 一 一 三 一 ) を そ の 活 動 の 最 下 限 と 推 定 し て い る )(( ( 。 林 幸 は、 聖 霊 院 本 尊 の 開 眼 供 養 を 経 た 翌 年 の 三 月、 太 子 命 日 を 期 し て、 聖 徳 太 子 の 菩 提 を 弔 う た め、 こ の 新 し い 一 院 に 一 切 経 を 奉 安 し、 残 り 四千四百余巻の書写達成を目指して勧進を始めたが、宮内庁書陵部に所 蔵 さ れ て い る 天 治 元 年( 一 一 二 四 ) の 『 新 撰 字 鏡 )(( ( 』 が 法 隆 寺 一 切 経 料 として書写されていることに着目すると、勝賢当時の動機と、林幸当時 の 動 機 と で は、 明 ら か な 相 違 が あ り、 林 幸 が 継 続 し た 一 切 経 書 写 事 業 は、その三年目に新しい自主的な方向に進展していた可能性を指摘して いる。すなわち、これは『新撰字鏡』十二巻を、林幸や静因ら、法隆寺 僧 が 分 担 し て 書 写 し た も の で あ る が、 国 語 学 の こ の 著 名 な 資 料 が 一 切 経 中 に 包 含 さ れ た 例 は 他 に な い こ と、 ま た、 た と え ば 静 因 奥 書 に み え る「為字決」という一句は、聖教を正確に写して忠実に解読することを 意味しており、法隆寺で一切経書写が行われていくうち、学侶の間に漢 字、 音 義、 訓 読、 釈 義 な ど に つ い て の 疑 問 が 生 じ た と み ら れ る こ と な ど、 『 新 撰 字 鏡 』 と い う 書 の 存 在 に よ っ て、 法 隆 寺 一 切 経 に は 学 術 書 と しての活用が考慮されていた、とする。そもそも法隆寺一切経は一切経 書写の風潮に刺激されたものではあったが、一切経を転読して太子追福 に資するという信仰的な面だけにとどまらず、学侶を養成し、学問寺と しての伝統を維持継承しようとした意図がそこにはあったという点、院 政期に盛行した一切経書写の風潮とは一線を画するものとして、法隆寺 一 切 経 に 固 有 の 歴 史 的 意 義 を 見 出 し て い る。 そ し て、 「 一 切 経 の 欠 除 (ママ) に 対 す る 仏 法 根 本 寺 と し て の 反 省 」 と、 「 法 隆 学 問 寺 と し て の 寺 僧 の 自 主 的見地によって書写された」のが法隆寺一切経であったと、その性格を 規定し、価値づけたのである。 さて、法隆寺一切経の研究史において、次に注目すべきは、法隆寺昭
同朋大学佛教文化研究所紀要 第三十五号 一二 和資財帳の調査結果をうけて、同寺に蔵されている経典類を詳細に紹介 した、山本信吉氏の論考であ る )(( ( 。法隆寺蔵の一切経は、重要文化財指定 の九百二十六巻と、文化財未指定の約六十八巻の、合わせて九百九十四 巻であり、それらの奥書に注目して、書写年月日、法隆寺勧進僧、結縁 執 筆 者、 書 写 発 願 の 趣 旨、 修 理 の 歴 史 な ど を 明 ら か に し て い る。 そ し て、聖霊院の新建、および本尊である聖徳太子像の造立時期と重なるこ とから、平安時代後期の末法思想のなかで、急速な高まりをみせた釈迦 信仰と、庶民の間に高まりつつあった聖徳太子信仰を背景に、一切経書 写 は 行 わ れ た も の で あ る と す る。 特 に、 そ の 事 業 開 始 の 経 緯 に つ い て は、 承 徳 二 年( 一 〇 九 八 ) 校 合 奥 書 の あ る『 大 般 若 波 羅 蜜 多 経 』 巻 第 二十 四 )(( ( が『大般若経』書写本のなかに残っていることに注目 し )(( ( 、この奥 書 に は 一 切 経 に 関 す る 記 事 は な い も の の、 『 大 般 若 経 』 の 書 写 事 業 が 発 展して一切経の事業となることは他に例があることから、法隆寺興円の 発 願 し た『 大 般 若 経 』 書 写 が 勝 賢 の 一 切 経 へ と 発 展 し て い っ た と み る。 さ ら に、 『 南 海 寄 帰 内 法 伝 』 な ど、 学 問 研 究 に 関 係 深 い 典 籍 類 が 法 隆 寺 僧 に よ っ て 書 写 さ れ て い る こ と や、 『 寺 要 日 記 』 な ど に は、 こ の 時 代、 法隆寺内で様々な法会が行われていたことが記されているが、一切経中 のいくつかはそうした法会の料経などに転用されていたらしく、その意 味では法隆寺の教学興隆に寄与しているとして、当該一切経は学術書と しての活用を考慮したものであった、とする堀池氏の見解を補強してい る。 また、これら一切経は僧俗や庶民が力を合わせた結縁一切経であるこ とが特徴であるが、奥書によると、書写者の結縁の趣旨は、聖徳太子を 讃仰し、父母、縁者、恩師などの亡者追善と極楽往生を願ったものが多 く、聖徳太子に結縁した施主や筆者は、神官の子女、法隆寺の役僧、興 福寺や薬師寺の僧侶、法隆寺近在の豪族や農民などであったとして、堀 池 氏 の 見 解 を 継 承 し な が ら、 法 隆 寺 僧 が 大 和 国 を 中 心 と す る 神 社、 寺 院、地方官人、地方豪族、農民などに結縁書写を勧進した様子を具体的 に跡づけている。なお、興福寺との関係については、薬師寺との協力関 係 を 視 野 に 入 れ な が ら も、 実 態 は 不 明 で あ る と す る。 た だ し、 天 仁 二 年(一一〇九)以降、法隆寺別当をつとめた経尋には注目しており、勝 賢 が 一 切 経 の 勧 進 を 始 め た 永 久 二 年( 一 一 一 四 ) 頃 は 経 尋 に よ る 聖 霊 院 造 営 が 行 わ れ て い た 時 期 に あ た っ て い る か ら、 勧 進 途 中 の 元 永 元 年 (一一一八) 、二千七百余巻しか完成していない段階で勝賢が供養を行っ たことは、聖霊院完成と関連があったかもしれないとみる。一方、薬師 寺との関わりについても、奥書中に薬師寺が一切経の勧進書写の一部を 分担請負していたように考えられる記事があること、結縁筆者の中にも 薬師寺僧の名が見えること、奥書中に薬師寺本をもって校合したとする 記事があることに注目し、書写のテキストとして用いる経典をいかに確 保するかという問題に対して、薬師寺の経典がテキストとして利用され た可能性を示唆している。 これ以降、法隆寺一切経の研究史で注目すべきものとしては、前章で
法隆寺における一切経事業の歴史的意義について―史料的価値の在りかを考える(藤井) 一三 も触れた、大谷大学の研究プロジェクト「法隆寺一切経の基礎的研究― 大谷大学所蔵本を中心として―」がある。このプロジェクトは、同学が 当該一切経のまとまったコレクションを所蔵していることから、その基 礎的な調査研究を行うことによって、日本における一切経(大蔵経)の 受容と展開を解明し、日本古代仏教史に重要な考察材料を提供すること を目的に進められたものである。特に、書誌データや現存目録が充実し ており、大谷大学以外に所蔵された法隆寺一切経もできるかぎり網羅さ れ、この調査段階での残存状況をつぶさに知ることができる点、非常に 有意義な内容となってい る )(( ( 。 さらに、その後、この大谷大学のチームメンバーとして一切経の整理 分析の作業に携わった宮﨑健司氏が、法隆寺一切経の書写で重要な役割 をはたした『貞元新定釈教目録』の書写例の分析を通して、これまであ まり明らかになっていなかった法隆寺一切経の書写状況の解明を試みて い る )(( ( 。また、氏は転用経の意味を重視しており、大東急記念文庫に蔵さ れている『大乗広百論釈論』巻十の承和八年(八四一)の識 語 )(( ( に基づい て、こうした平安時代前期の古写経を、大治二年(一一二七)に法隆寺 僧静因が修治を加えて一切経に編入していることについて、法隆寺では もともと『貞元新定釈教目録』の入蔵録に基づいた五三九〇巻だけでな く、さらに『続貞元釈教録』をも含んだ七一〇〇巻の書写勧進が目指さ れ た が、 法 隆 寺 一 切 経 事 業 の 最 終 段 階 に あ た っ て い た 当 該 期 に お い て、 完成が急がれたため、古写経の具備という方法をとるようになったもの で、このことは書写事業にとって大きな方針の変更であった、と意義づ けている。 以 上 の よ う に、 法 隆 寺 一 切 経 の 研 究 は、 「 林 幸 勧 進 状 」 の 発 見 以 来、 大方その内容をベースに、各経巻の奥書の内容をそこに加味して進めら れてき た )(( ( 。わけても、堀池氏の研究は大きな画期をなしており、法隆寺 一切経をあらゆる角度から考究したきわめて有意義なものであるが、特 に「法隆学問寺」と呼称された法隆寺の性格に着眼しつつ、三つの時期 に分けて一切経を分析し、後半期は学侶養成という新たな目的が加わっ ていたことをもって、当時の一切経書写ブームのなかにあって、法隆寺 一切経の独自性を提示したことの意味は大きい。 しかしながら、この堀池氏をはじめ、諸氏が指摘してきたように、確 かに法隆寺一切経書写は当時の一切経書写ブームと聖徳太子信仰の昂揚 を受け、法隆寺僧が中心になって勧進を行ったものではあるが、法隆寺 一寺として見た場合、おそらく単発で行われた事業ではない。次章で論 じていくように、聖霊院が創建された保安二年(一一二一)は、聖徳太 子五百回忌という法隆寺にとって大きな節目にあたっており、かつ、こ の 聖 霊 院 が 鎌 倉 時 代 に か け て 法 隆 寺 復 興 の 重 要 な 拠 点 と し て の 役 割 を 担っていくことを考えると、聖霊院に安置された当該一切経もまた、法 隆寺復興の動向を視野に入れたうえで、その歴史的意義を問い直すべき だと考える。また、一切経書写当時、法隆寺別当をつとめた経尋という 僧侶は、後に興福寺別当に昇った人物であり、こうした寺外の有力僧が
同朋大学佛教文化研究所紀要 第三十五号 一四 聖霊院創建や一切経書写事業に関わりを持っていたことを、もう少し積 極的に評価する必要があるように思う。さらに、堀池氏が、法隆寺一切 経の独自性を学問寺としての性格に起因したものとした、その考察は以 降の諸氏の研究に影を落としているが、次章でも述べるように、法隆寺 の学問寺としての内実が伴うのは、一切経以降のことといって過言では なく、第三期の林幸の時期に書写目的に変化があったと堀池氏も指摘し ていたように、一切経の書写が進むなか、寺僧の間に教学への深い関心 が次第に醸成されていった、と考えたほうがよい。 では、そうした教学への関心が醸成される以前、聖徳太子の五百回忌 と い う 大 き な 画 期 で も あ っ た 保 安 二 年( 一 一 二 一 )、 従 前 の 信 仰 を 踏 ま えつつも、西院と東院の中間地点に聖霊院という形で、しかも経尋とい う 寺 外 か ら 送 り こ ま れ た 僧 侶 に よ っ て、 新 た に 信 仰 の 拠 点 が 設 け ら れ た、 そ の こ と に は い っ た い ど ん な 意 味 が あ っ た の か。 「 林 幸 勧 進 状 」 や 一 切 経 の 奥 書 だ け で な く、 法 隆 寺 に 関 連 す る 他 の 史 料 に も 目 を 向 け て、 そこから書写事業が行われた時期の法隆寺の動向を拾い上げてつきあわ せみれば、法隆寺一切経をもっと広角的に捉えることも可能になるので はないだろうか。そこで、次章では、この点に留意しながら、法隆寺近 在の官人や豪族、農民などを多く施主として、七千巻という民間写経と しては異例の巻数を目指した法隆寺の一切経について、これが安置され た聖霊院の創建意義とあわせて改めて考察していくことにしたい。
〈第三章
平安時代後期の法隆寺復興と興福寺
―第三の霊場としての聖霊院創設〉
永久二年(一一一四)以降、本格的な一切経の書写勧進を行なった勝 賢 に よ る 勧 進 の 背 後 に、 法 隆 寺 別 当 経 尋 の 存 在 が あ っ た こ と は、 堀 池 春 峰 氏 以 来、 諸 氏 の 注 目 し て き た と こ ろ で あ る。 す な わ ち、 保 安 三 年 ( 一 一 二 二 ) 三 月 二 十 三 日 付 の「 林 幸 勧 進 状 」 に は、 林 幸 が 新 た に 創 建 された聖霊院に一切経を安置することを敬白するなか、勝賢の勧進の功 績 を 語 る よ り も 前 に、 「 長 吏 法 眼 和 尚 」 と い う 呼 称 で 経 尋 が 登 場 し て い る。 法 隆 寺 勧 進 僧 林 幸 敬 白 〔 朱 印 : 法 隆 学 問 寺 中 院 五 師 印 〕〔 朱 印 : 良 訓 〕 請特蒙十方檀主知識助成。書写一切経論等。 奉安置寺家新聖霊院 □ 事 右 一 切 経 者。 是 一 代 所 説 教 法。 其 部 類 亙 十 二。 而 然 阿 難 結 集 之 後。 五 天 流 布 以 降。 大 唐 入 蔵 所 伝 之 目 録。 大 小 乗 経 論 律 等。 惣 七 千 余 巻 也。 而 能 説 釈 尊。 早 隠 双 □ 林 間。 過 二 千 年。 所 説 経 典 伝 尚 扶 桑 之 下。 余 五 百 歳。 適 値 釈 教 流 布 之 時。 豈 非 宿 福 深 厚 之 身 乎。 今生若不結縁者。来世将□何時哉。因茲当寺禅侶。毎礼誦之次朱尅 □ 念 云 (カ) 。 奉 崇 一 切 経 論 律 等。 諸 山 近 日 熾 盛 也。 於 仏 法 根 本 当 寺 如 何。 闕 斯 事。 将 今 法 燈 不 滅 之 前。 争 再 挑 光 哉 云 々 。 而 猶 於 満 □。 衆 僧 雖 竭力励心。尚難成其功歟。爰林幸酬諸衆之歎念。催随順之緇素。寔法隆寺における一切経事業の歴史的意義について―史料的価値の在りかを考える(藤井) 一五 如 以 蚊 虻。 唯 乃 吸 海 水。 以 螻 蟻 力。 傾 大 山 也。 但 所 仰。 当 伽 藍 是 救 世 観 音 垂 下 之 聖 跡。 釈 迦 遺 教 初 伝 之 鴻 基 也。 尋 夫 仏 日 照 漢 縁。 法 雨 澍 周 地。 留 光 於 彼 土。 莫 流 洽 於 □ 朝。 尓 時 我 日 本 国 邪 風 盛 扇。 正法之炬未暉。黒雲厚聳。三宝之名号未現。掛畏 聖徳太子誕生用 明天皇宮。伝莫伝之仏法。化難化之衆生。仍作十七之憲章。定群臣 道俗之階。製三経之義疏。示凡聖三乗之異。建立七所之伽藍。化度 一 千 之 僧 尼。 三 宝 名 号 従 此 而 創。 □ 域 中 三 乗 学 徒。 自 尓 而 羅 於 国 内。凡知善悪。悟因果。莫不聖王広恩。尊法帰仏。緇素誰不被崇敬 斯砌乎。就中当時長吏法眼和尚位新締構聖霊院。安置御影像。再 □ 曜 法燈。専営脩治。而則書写件経論。副安彼花殿。防霧雨之難。捧香 花之供矣。所以聖教揚響。資登霞聖 □ 霊 慧日増光。照 聖朝宝質。功 徳之沢。普沾結縁者。伝燈之祥。広及遍法界矣。抑以 〇 去 永久二年之 比。 依 僧 勝 賢 勧 進。 所 奉 書 写 之 経 論 二 千 七 百 余 巻 □。 雖 未 究 其 功。 且 為 開 題 以 元 永 元 年 十 月 二 日。 小 田 原 上 人 供 養 先 了。 其 残 経 論 四千四百余巻。未被書写。漸経五箇年焉。終為満衆徒之願。始自今 年三月之比。更所令勧進都鄙耳。仰願十方□檀主。致随分助成。奉 加一帙一巻一帖一紙。被令遂其願者。共出三界火宅。同到安楽宝刹 矣。敬白 保 安 三 年 壬 寅 三 月 廿 三 日 勧 進 僧 林 幸 権 都 (維脱) 那 法 師 〔 花 押 〕 都維那法師〔花押〕 権 寺 (主脱) 大法師〔花押〕 寺主大法師〔花押〕 上座大法師〔花押〕 戒師法師〔花押〕 戒師法師〔花押〕 大法師〔花押〕 大法師〔花押〕 大法師〔花押〕 大法師〔花押〕 大法師〔花押〕 ※以下 欠 )(( ( これがその全文である。七千余巻の完成を目指したという一切経の書 写に関する経緯は、前章と重複するので省くが、法隆寺が聖徳太子ゆか り の 日 本 仏 教 根 本 の 聖 地 で あ る こ と を 綴 っ た 後 に、 経 尋( 長 吏 法 眼 和 尚)が聖霊院を新建して聖徳太子像を安置したこと、そしてその聖霊院 に一切経を安置することで聖徳太子(登霞聖霊)の菩提に資せんとした ことが記されている。また、元永元年(一一一八)十月二日、勝賢が営 んだ勧進一切経開題供養では小田原上人が導師をつとめたことにも触れ ているが、この僧侶は興福寺の別所であった小田原山寺の迎接房経源の ことを指すか ら )(( ( 、こうしたところにも一切経事業と興福寺との深い関わ りが予測される。 それでは、法隆寺一切経勧進の中心にあって、興福寺のバックアップ を 受 け て い た で あ ろ う 勝 賢 と は、 ど ん な 僧 侶 で あ っ た の だ ろ う か。 残
同朋大学佛教文化研究所紀要 第三十五号 一六 念 な が ら、 こ の 点 に つ い て は、 詳 細 を 知 る 手 が か り は あ ま り 残 さ れ て い な い。 法 隆 寺 一 切 経 の ひ と つ で、 法 隆 寺 蔵 の 永 久 三 年( 一 一 一 五 ) 『 腹 中 女 聴 経 』 奥 書 に「 勧 進 聖 人 僧 勝 賢、 ~( 中 略 )~ 大 和 国 平 群 郡 目 安 里 住 人 也 」 )(( ( と あ っ て、 そ の 出 身 地 が わ ず か に 判 明 す る ほ か、 大 治 元 年 ( 一 一 二 六 ) の「 紀 姉 子 文 書 紛 失 状 」 に「 大 法 師 」 )(( ( と あ る こ と で、 そ の 地位が確認できる程度にすぎな い )(( ( 。では一方、勝賢を支援し、聖霊院を 創 建 し た 経 尋 は い っ た い ど ん な 僧 侶 で あ っ た の か。 こ ち ら に つ い て は、 まず『法隆寺別当次第』という寺内の史料が参考となる。これは各別当 の代ごとに寺内でどんな出来事があったかを記録したもので、各項の冒 頭にはそれぞれの別当の任期や所属、補任年次などが記されている。経 尋の場合は、 経尋律師 治廿一年。興福寺黄苑。天仁二年己丑十一月晦夜任之。印鎰京白河 御坊持 参 )(( ( 。 とあって、天仁二年(一一〇九)十一月三十一日に法隆寺別当に補任さ れたこと、法隆寺僧ではなく、興福寺の黄苑に所属した僧侶であったこ と、二十一年ものあいだ、法隆寺別当の地位にあったことなどが判明す る。また、経尋の本来の所属先である『興福寺別当次第』によると、彼 は中納言藤原伊房の子息で、保安五年(一一二四)の興福寺権別当への 補 任 を 経 て、 大 治 四 年( 一 一 二 九 ) に は 興 福 寺 別 当 に 補 任 さ れ て い る。 このように、経尋は出自も高貴で、後に興福寺のトップになっているこ とからしても、かなりの有力僧であったと推測され、法隆寺の聖霊院は こうした寺外の有力僧が主導して創建されていたことが判明する。 そして、これに関連して把握しておくべきことは、別当補任という手 続きを介して、この時期、興福寺と法隆寺とが本末関係にあった、とい う事実である。先の『法隆寺別当次第』を見てみると、別当が法隆寺僧 から補任されることは十一世紀半ばを境になくなり、東大寺僧が連続的 に着任する時期を経て、次第に興福寺僧が独占的に着任する状況へと移 行していく。一般に、本末関係における末寺は、得分という一種の財産 としてみなされる傾向にあったが、法隆寺の場合も当初は同様で、別当 職の象徴ともいうべき印鎰すら興福寺の住院に保管されたことからする と )(( ( 、 補 任 後 も 別 当 は 下 向 せ ず、 興 福 寺 内 の 自 分 の 住 院 に 居 住 し て い た、 と考えられる。ところが、聖霊院創建や一切経書写に関わっていた経尋 は、別当に補任された翌年、実際に法隆寺に下向したことがわかってい る )(( ( 。従来、この点についてはあまり留意されてこなかったが、中世に向 けて法隆寺が四天王寺をしのぐ聖徳太子信仰の一大霊場として急成長を 遂げていくそこに、興福寺から下向した経尋の存在があったことは、や はり見逃されてはならないと思う。実際、法隆寺一切経の書写が行われ た十二世紀初頭は、聖霊院の建立だけでなく、経尋がさまざまな施策を 法隆寺内で試みていた可能性が高い。 た と え ば、 経 尋 が 法 隆 寺 で 行 っ た も っ と も 大 き な 試 み は、 西 院 と 東 院 と を 統 合 し、 一 元 化 し た こ と に あ る。 そ の 契 機 は、 永 久 四 年
法隆寺における一切経事業の歴史的意義について―史料的価値の在りかを考える(藤井) 一七 ( 一 一 一 六 ) に 勃 発 し た 法 隆 寺 僧 の 反 乱 に あ り、 経 尋 は そ の 機 会 を 利 用 して、近年来、興福寺僧が就任してきた東院の院主職すら廃止して、別 当が東院を直接支配できるよう制度を改めている。別当が興福寺から補 任されるようになって以降も、実質的な寺務に関しては法隆寺の三綱た ちが一定の力を持っていたと考えられるから、別当が法隆寺に下向する という状況変化によって、寺務に携わってきた寺僧との間に確執も生ま れ、 次 第 に そ れ が 表 面 化 し て い っ た の だ ろ う。 す な わ ち、 『 法 隆 寺 別 当 次 第 』 に よ る と、 永 久 四 年( 一 一 一 六 )、 五 師 僧 の 暹 尊 を は じ め、 二 十 余 人 の 法 隆 寺 僧 が 蹶 起 し て 東 院 を 占 拠、 こ れ に よ っ て 三 年 も の あ い だ、 東院の院主職が停止されるという事態に陥ってい る )(( ( 。そこで、経尋は暹 尊らを追却するとともに、同じく興福寺から補任されていた院主の隆厳 をも廃して、東院をその管掌下に置いたのである。経尋が別当として断 固とした措置をとることで、本寺として興福寺の優位性が発揮されたこ とを、この一連の経緯はおそらく示すものとみてよ い )(( ( 。果たして経尋の 任期中には、東院経営と直接的、間接的に連動するような出来事が相次 い で い る )(( ( 。 特 に、 保 安 二 年( 一 一 二 一 )、 長 い あ い だ 行 方 知 れ ず に な っ ていたという天平時代の『東院資財帳』が、経尋によって田舎小屋の反 古文書の中から発見され、これに感嘆した経尋は重ねて紛失することの ないよう丁重に安置したということが、後世の識語として資財帳に追筆 されてい る )(( ( 。おそらく、このタイミングでの資財帳再発見は、東院の由 緒を正しく裏打ちするものとして法隆寺の霊場化の過程に大きな意味を 持っただけでなく、資財帳を管理する立場となることで、東院の新たな 統括者である別当経尋の正当性をも裏打ちしたのではないか、と思われ る )(( ( 。 とすれば、聖徳太子の五百回忌にあたる保安二年(一一二一)を中心 とした時期、興福寺でも有力な地位にあった僧侶が法隆寺に下向し、別 当として寺内を一元的に管理するかたわら、新しく聖霊院を創建し、一 切経の書写安置にも関わったことをどう捉えるべきだろう か )(( ( 。これにつ い て は、 『 法 隆 寺 別 当 次 第 』 経 尋 条 に も「 此 任 中。 東 室 大 坊 新 造 立 之。 即 南 妻 為 堂 殿。 被 安 置 聖 霊 御 影 像 并 仕 者 総 五 体 」 と あ る の み で、 直 接、 事の推移を跡づけられるような史料は残っていない。そこで、少し視点 を 変 え て 再 考 し た い の が、 「 法 隆 学 問 寺 」 と い う 呼 称 に つ い て で あ る。 というのも、この呼称は天平十九年(七四七)に勘録された『法隆寺伽 藍縁起并流記資財帳』の冒頭、縁起部分に登場しているもの の )(( ( 、広く用 いられるようになるのは、それよりもずっと後、ちょうど一切経の書写 あたりを境にしているからである。すなわち、 『法隆寺別当次第』など、 寺内の史料をみると、経尋によって西院と東院の一元化が図られていく 過程と平行して、法隆学問寺(西院)と上宮王院(東院)という対置的 な形 で )(( ( 、この呼称が一般化していることがわかる。特に、その最も端的 な例が、鎌倉時代、聖霊院の院主となった顕真が著した『聖徳太子伝私 記 』 で )(( ( 、 上 巻 冒 頭、 「 上 宮 王 院 者 太 子 御 住 所 故 名 上 宮 王 院 」 と し て 東 院 に 関 す る 事 項 を 書 き 出 し た 後、 「 次 法 隆 学 問 寺〔 又 鵤 里 故 云 鵤 寺 云 々〕
同朋大学佛教文化研究所紀要 第三十五号 一八 伝云、宮西有寺、名法隆学問寺云々。惣此寺七名号在、所謂聖国寺、七 徳寺、宝龍寺、来立寺、法隆学問寺、鳥路寺、往生寺云々」と、つづけ て西院に関する事項を書き列ねてい て )(( ( 、両院それぞれの信仰空間として の特徴を呼称によって明確化した構成となっている。平安時代以降の法 隆寺では、太子の斑鳩宮跡に建立された夢殿を中心とする東院は、救世 観音垂迹の聖地である一方、金堂を中心とする西院は太子が建立した伽 藍 で あ り、 釈 迦 の 教 え が 初 め て 伝 わ っ た 仏 法 根 本 の 聖 地 だ と 謳 っ て お り、 そ れ は 先 に 紹 介 し た「 林 幸 勧 進 状 」 に も、 「 伽 藍 是 救 世 観 音 垂 下 之 聖 跡。 釈 迦 遺 教 初 伝 之 鴻 基 也 」 と 記 さ れ て い た 通 り で あ る。 し た が っ て、従来、法隆寺一切経については、白河院に代表されるような、一切 経 具 備 に よ っ て 寺 院 や 寄 進 者 の 威 光 を 示 そ う と す る 当 時 の 風 潮 に 対 し て、 学 問 寺 と し て の 性 格 を 象 徴 す る と こ ろ に 特 色 が あ る と さ れ て き た が、少なくとも「法隆学問寺」という呼称は、金堂の復興や聖霊会の整 備など、法隆寺の再霊場化のプロセスのなかで認知され、定着していっ たものと考えたほうがよく、それは必ずしも法隆寺が過去、学問寺とし ての性格を有してきたという事実を意味しな い )(( ( 。 そ し て、 こ う し た 一 連 の 霊 場 化 の 動 向 を う け て、 保 安 二 年 (一一二一) 、ひとつの極点に達したのが聖霊院である。東院と西院、双 方の信仰的特徴をあわせもったような堂舎として、それは建立されたと み ら れ る。 そ の こ と は、 本 尊 で あ る 聖 徳 太 子 像 が、 『 勝 鬘 経 』 を 講 讃 す る俗形の姿でありなが ら )(( ( 、金銅の救世観音像を、太子像の口の位置にそ の頭部を合わせる形で胎内仏として安置することで、太子の講讃の言葉 は観音菩薩の言葉でもあると暗示させるという、今までにはない画期的 な表現がとられていることによく象徴されてい る )(( ( 。したがって、法隆寺 一切経の書写がこの聖霊院を拠点として進められたことをより積極的に 捉えるならば、その歴史的意義は信仰という側面だけにとどまらないも のがあったのではないか、と想定することができる。 そこで、最後に、この点について、もうひとつ、考察の手がかりとし て、 近 年、 梶 浦 晋 氏 と 落 合 俊 典 氏 に よ っ て 翻 刻 紹 介 さ れ た 法 金 剛 院 蔵 『 大 小 乗 経 律 論 疏 記 目 録 』 )(( ( を 挙 げ て み た い と 思 う。 こ れ は 中 国 撰 述 書 や 日本の学僧の書を列記した厖大な目録であるが、残念なことに序跋や撰 者名がなく、どこの経蔵の目録であったかは不明ながら、法相宗の教学 盛行を反映する内容から、平安時代前期の興福寺経蔵の現存目録の写し ではないか、と推定されているからであ る )(( ( 。のみならず、巻上の奥書に は、 法隆寺僧静因之 巻下の奥書にも、 法隆寺沙門延清交 五師静因伝賜 之 )(( ( とあって、校正者と伝領者という形で、法隆寺僧二人の名前も見えてい る。 そ こ で、 こ の 二 人 の 僧 侶 に つ い て 調 べ て み る と、 い ず れ も 法 隆 寺 内 の 史 料 に 名 前 が 残 っ て い る。 ま ず、 延 清 に つ い て は、 梶 浦 氏 が「 前
法隆寺における一切経事業の歴史的意義について―史料的価値の在りかを考える(藤井) 一九 律 師 道 静 置 文 」 )(( ( と「 開 浦 院 住 僧 解 」 )(( ( を 挙 げ て 紹 介 し て い る が )(( ( 、 法 隆 寺 の『 金 堂 日 記 』 や『 寺 要 日 記 』 に も 延 清 は 登 場 し て お り )(( ( 、 承 暦 二 年 ( 一 〇 七 八 ) 以 降、 法 隆 寺 金 堂 に 四 天 王 像 を 施 入 し た り )(( ( 、 そ の 翌 年、 金 堂で初の吉祥御願がなされた際には六時導師のうちの一人として半夜導 師をつとめるな ど )(( ( 、延清は金堂再興に奔走した五師僧の一人であったこ とがわかる。なお、この金堂再興は、興福寺から補任された別当能算の もと、慶元や長好といった法隆寺の三綱たちと協力して行われていただ けでな く )(( ( 、元の薬師寺別当であ り )(( ( 、法隆寺に念仏別所として西別所庵室 ( 金 光 院 ) を 開 い た ほ か、 金 堂 再 興 の 功 績 に よ っ て 聖 徳 太 子 の 再 降 臨 と 謳われた道静(聖律師 ) )(( ( という僧侶も関わっていたことは興味深い。次 に、 静 因 は、 梶 浦 氏 や 落 合 氏 も 触 れ て い る よ う に、 法 隆 寺 一 切 経 の 書 写 事 業 が 盛 ん で あ っ た 時 期 に、 そ の 書 写 校 合 に 携 わ っ た 五 師 僧 で あ る。 最 も 早 い と こ ろ で は、 書 写 事 業 の 第 二 期 に あ た る 永 久 二 年( 一 一 一 四 ) 四 月、 勝 賢 の も と で『 無 量 義 経 』 を 書 写 し て い た こ と が わ か っ て い る し )(( ( 、 一 番 年 代 が 下 が る と こ ろ で は、 『 如 実 論 反 質 難 品 』 な ど、 大 治 二 年 (一一二七)まで一切経の書写校合を行っていたことがわかってい る )(( ( 。 ち な み に、 法 金 剛 院 へ の 目 録 の 伝 来 に つ い て は 未 詳 と さ れ て い る が )(( ( 、 伽藍復興という視座から眺めると、鎌倉時代、律僧として法隆寺復興に 尽 力 し た 導 御( 円 覚 上 人 ) の 存 在 が 浮 か び 上 が っ て く る。 『 法 金 剛 院 古 今 伝 記 』 な ど、 導 御 の 伝 記 を み る と、 文 永 八 年( 一 二 七 一 )、 導 御 は 法 隆 寺 夢 殿 に 参 籠 し て 聖 徳 太 子 の 託 宣 を 得 て 融 通 念 仏 の 道 に 入 る こ と に な っ た と あ り )(( ( 、 む ろ ん こ れ は 多 分 に 伝 説 的 な 文 言 で あ る と し て も、 実 際、法隆寺内の記録には、文永五年(一二六八)に西院西室を改造した 際の奉行をしたことをはじ め )(( ( 、法隆寺における導御の具体的な活動が記 されてい る )(( ( 。なお、この導御は唐招提寺系の律僧である が )(( ( 、鎌倉時代に おける法隆寺と律僧との関係は深く、円照、叡尊など、著名な律僧たち の出入りとその活動が確認でき る )(( ( 。このうち、東大寺戒壇院を律院とし て中興した円照は、法隆寺の東院内に律僧の活動拠点として北室を設置 したが、これが後に導御へと譲られたらし く )(( ( 、導御についてはこのこと をもって東院北室の最初の長老的な存在であったとする見解もあるほど で あ る )(( ( 。 ま た、 導 御 は 一 方 で、 融 通 念 仏 勧 進 に よ っ て 壬 生 寺、 法 金 剛 院、清涼寺地蔵院を復興 し )(( ( 、それらの住持を歴任したが、特に法金剛院 は導御の最大の活動拠点と目されているか ら )(( ( 、法隆寺旧蔵の目録の写し が法金剛院へと伝わった契機も、この導御という僧侶を介せば十分に説 明することができる。 以 上 の よ う に、 『 大 小 乗 経 律 論 疏 記 目 録 』 の 奥 書 に 記 さ れ た 僧 侶 の 名 前や、本目録の法金剛院への伝来に着目すると、一切経が書写された時 期をはさんで、法隆寺には複数の寺院から僧侶たちが出入りしていた状 況があり、その連携のもと、漸次、伽藍や法会の復興が果たされていっ た様子が見てとれる。なお、延清と静因との間には、四十五年ほど、活 動時期の隔たりがあったとみられるが、梶浦氏と落合氏が推測している よ う に、 も し 本 当 に こ れ が 興 福 寺 の 目 録 の 写 し で あ っ て )(( ( 、「 平 安 時 代 後
同朋大学佛教文化研究所紀要 第三十五号 二〇 期の法隆寺が章疏集伝記類を蒐集しようとして、参考とした或る寺院の 目録を書写した 」 )((( という状況下に法隆寺に伝来したものだとすれば、延 清 が 校 正 し た と い う 事 実 か ら 推 し て、 承 徳 年 間( 一 〇 九 七 ~ 一 〇 九 九 ) の興円や頼円らによる一切経書写よりも前に、一切経書写にも関連する 経 律 論 疏 の 目 録 が、 す で に 興 福 寺 か ら 法 隆 寺 に 渡 っ て い た こ と に な る )(( ( 。 ところが、延清の時代、確かに別当は能算という興福寺から補任された 僧ではあったが、しかし、この別当能算のもとでは聖霊会が二度も厳修 されながら、法隆寺僧が別当に背いて十二ヶ条の奏状をもって訴申した こ と が『 法 隆 寺 別 当 次 第 』 に は 記 録 さ れ て い る )(( ( 。 治 暦 五 年( 一 〇 六 九 ) には太子絵伝を掲げた絵殿が建立されたり、聖霊会本尊も新たに造立さ れるなど、法隆寺では寺内僧らの努力によって霊場化が少しずつ進めら れていたことを考えると、法隆寺僧と興福寺僧との間には霊場化をめぐ る軋轢があり、経尋の時代にまでそれが尾を引いて、先に紹介した上宮 王院占拠事件へと発展したとも考えられる。 た だ し、 承 徳 三 年( 一 〇 九 九 )、 第 一 期 に 一 切 経 を 書 写 し た 法 隆 寺 の 頼円は、先に引用した聖霊院の院主顕真が記した『聖徳太子伝私記』に よ る と、 「 康 仁、 慶 好、 頼 円、 増 覚、 覚 印、 智 勝、 隆 詮、 顕 真 」 と い う 形で、聖霊院の代々の院主へと連なる系譜に名前が挙げられてい る )(( ( 。し かも、この系譜の最初に記された康仁という僧侶は、法隆寺三綱のなか で も 特 に 力 を 誇 っ た ら し く )(( ( 、『 法 隆 寺 別 当 次 第 』 の 記 事 に よ れ ば、 延 清 とともに金堂復興に名前の見えていた慶元や長好といった三綱僧たちも また、康仁の一族であったことが判明す る )(( ( 。とすれば、法隆寺三綱のな かには興福寺に反駁する者もいれば、反対に興福寺と連携した者たちも い て、 そ う し た 後 者 の よ う な 僧 侶 た ち の 存 在 が、 興 福 寺 主 導 の も と で、 聖霊院の造立や一切経書写が成し遂げられていく、その実質的な推進力 となっていたのではないか、と推察され る )(( ( 。奥書だけを読むかぎり、近 親者の追善など、法隆寺一切経は聖徳太子に結縁を願った人々の願いそ のものであったとみて過言ではないが、実はこの書写事業には割合早い 段 階 か ら 興 福 寺 が 関 与 し て い て、 経 尋 の 法 隆 寺 別 当 就 任 と、 聖 徳 太 子 五百回忌という契機を経て、聖霊院を拠点に法隆寺全体の再霊場化が加 速度を増していくなか、法隆寺一切経はそうした人々の結縁の願いを結 節点として、実際に法隆寺と周縁地域とをつないで喜捨を促す新たな仕 組みとして機能した、と考えるべきであろ う )(( ( 。 平安時代、法隆寺は聖徳太子信仰の霊場としては四天王寺の後塵を拝 し て い た も の の、 法 隆 寺 で 一 切 経 が 書 写 さ れ た 前 後 の 時 期 は、 興 福 寺、 薬 師 寺、 さ ら に は 律 僧 集 団 と い っ た 寺 外 僧 た ち と の 密 な る 連 携 の も と、 衰微した伽藍が次々と復興を遂げていくひとつの画期でもあった。聖徳 太子五百回忌に向けて太子信仰が一層の昂揚をみせていくなか、聖徳太 子自身によって斑鳩宮近くに建立された寺という法隆寺の放つブランド の魅力が、複数の寺院からの僧侶の関わりを誘発し、それが結果として 諸 堂 や 法 会 の 復 興 を 促 す 土 台 を 形 成 し て い た、 と 考 え ら れ る )(( ( 。 し か し、 そのなかにあって、圧倒的な優位性を発揮したのは、やはり興福寺であ
法隆寺における一切経事業の歴史的意義について―史料的価値の在りかを考える(藤井) 二一 る。ただし、それは単に興福寺が本寺としての立場にあったからだけで はない。おそらくは、法隆学問寺と上宮王院とを対置させることで、伽 藍全体の霊場コンセプトを明確化し、顛倒した住坊を改造して聖霊院と いう新しい信仰拠点をつくるといった、トータルな復興ビジョンを興福 寺が描きえたところに、他寺に抜きんでて優位性を発揮する機会を得た ものと考えられる。そして、それは何より、興福寺自身、藤原氏の氏寺 として、院政出現で強い危機感を抱きはじめた藤原氏との関係再構築と い う 厳 し い 課 題 に 直 面 し て い た こ と と 連 動 し て い る )(( ( 。 お そ ら く、 興 福 寺は、奈良時代以来、藤原氏が聖徳太子を特別に崇拝してきたことに着 目し、太子ゆかりの法隆寺を末寺としてとりこみ、それを魅力的な霊場 につくりかえることによって、自身の寺の付加価値を補完しようとした のではなかっただろう か )(( ( 。史料的価値をどう考えるか。寺院史料の場合 は、信憑性を問うだけでなく、時にこうした復興という視座で見直され る必要があるのであり、実際にどのような形で人々のなかに信仰という 新しい価値を生み出していくのか、寺院史料については、史実性いかん を離れたところで成熟した議論をする段階にきているのではないか、と 考えている。 [註] ( 1) 寺 院 縁 起 文 に 代 表 さ れ る よ う に、 復 興 期 に 作 成 さ れ る 文 献 は、 過 去 の 寺 院 の 姿 を 描 い て は い て も、 必 ず し も 史 実 に 基 づ い た 記 述 と は か ぎ ら な い。 復 興 に 向 け、 由 緒 と い う 形 で あ る べ き 姿 を 人 々 に 示 し、 それを信仰の形成や喜捨に結びつけていくこともあったと思われる。 ( 2) 閲 蔵 の 名 は、 僧 徒 に 仏 書 を 閲 覧 さ せ る 場 と し て 江 戸 時 代 に 名 古 屋 東 御 坊 内 に 開 設 さ れ、 同 朋 大 学 の 前 身 と な っ た「 閲 蔵 長 屋 」 に 由 来 し ている。この 「アーカイブス閲蔵」 は二部から構成される。ひとつは、 本 論 で 紹 介 し て い る よ う な、 史 料 画 像 と デ ー タ に 基 づ く 画 像 一 体 型 データベースで構成される部分、 もうひとつは、 研究会報告、 『紀要』 掲 載 論 文 一 覧 な ど、 研 究 所 の 活 動 内 容 を 一 覧 と し て 構 成 し た 部 分 で ある。 ( 3) 現 在、 仏 教 文 化 研 究 所 内 に は、 過 去 三 十 七 年 間 に わ た る 寺 院 調 査 の デ ー タ が 蓄 積 さ れ て い る が、 現 状、 画 像 デ ー タ( 資 料 写 真 ) と テ キ ス ト デ ー タ( 調 査 カ ー ド ) と は 別 々 に 管 理 さ れ て い る。 そ れ ら を 体 系 的 に 整 理 し、 学 術 情 報 と し て 学 内 外 に 発 信 し て い く た め に は、 こ れ ら を 一 括 の も の と し て 研 究 の 材 と し て 提 供 す る こ と が 当 研 究 所 に おける喫緊の課題であり、 そのための工夫として 「アーカイブス閲蔵」 で は 画 像 一 体 型 の デ ー タ ベ ー ス の 設 計、 構 築 を 試 み た。 な お、 こ の 画 像 一 体 型 デ ー タ ベ ー ス の 基 本 的 な 設 計 は、 工 藤 克 洋( 仏 教 文 化 研 究 所 所 員 ) が 行 っ た。 法 隆 寺 一 切 経 だ け で な く、 将 来 的 に 研 究 所 内 に 蓄 積 さ れ て い る 真 宗 史 料 の 分 析・ 整 理 を も 見 据 え た 形 で、 現 在、 適宜改変を進めている。 ( 4) 同 朋 学 園 所 蔵 の 法 隆 寺 一 切 経 の 書 誌 デ ー タ に 基 づ い た 分 析、 研 究 は、 いずれ稿を改めて論じたいと考えている。 ( 5) 同 朋 大 学 仏 教 文 化 研 究 所 編『 真 宗 連 合 学 会 第 53回 大 会 開 催 記 念 真 宗 研 究 の 先 駆 者 山 田 文 昭 コ レ ク シ ョ ン の 世 界 ―【 特 別 展 示 】 真 宗 史料の世界―』 (同朋大学仏教文化研究所、平成十八年) 。 ( 6) 平成二十七年 (二〇一五) 八月二十六日、 正福寺に実際に足を運んで、 山 田 文 昭 の 墓 碑 な ど、 同 寺 の 文 昭 関 係 の 史 資 料 に つ い て 簡 単 な 調 査 を 行 っ た。 調 査 メ ン バ ー は 以 下 の と お り。 宮 﨑 健 司 氏( 大 谷 大 学 )、