ベーム−バヴェルク対J.B.クラークの資本論争
著者
田中 敏弘
雑誌名
経済学論究
巻
67
号
3
ページ
1-23
発行年
2013-12-10
URL
http://hdl.handle.net/10236/11516
ベーム−バヴェルク対
J.B.
クラークの
資本論争
The Capital Controversies:
B¨
ohm-Bawerk vs. J. B. Clark
田 中 敏 弘
The purpose of this paper is to shed new light on the capital controversy, Eugen von B¨ohm-Bawerk vs. John Bates Clark. Especially the fundamental difference of views concerning Clark’s “true capital” is stressed.
Toshihiro Tanaka
JEL:B31
キーワード:資本論争、ベーム−バヴェルク対 J.B. クラーク、「真の資本」
Keywords:Capital controversy, B¨ohm-Bawerk, John Bates Clark, capital goods vs. Clark’s “true capital”.
1. まえがきと著作年表
かつて、筆者はThe Correspondence of John Bate Clark Written to Franklin Henry Giddings, 1886-1930 を編集し、W.J. Samuels, ed., Research in the
History of Economic Thought and Methodology, Vol. 18-B, New York :
El-sevier, 2000, 245p,として出版されたさい、その解説論文として“Introductory Essay to the Correspondence : the Development of John Bates Clark’s Eco-nomic Thought and Franklin Henry Giddings”, pp7-31を書いた。そのと き、クラークとギディングズとベーム−バヴェルクとの関係、とくに資本をめ ぐるやりとりに強い関心をいだいていた。
でこの論争を「ベーム−バヴェルク対J.B.クラークの資本論争」と、クラーク とその線に沿ったアーヴィング−フィッシャーの新古典派資本理論を批判した ヴェブレンとの間に行なわれた資本論争を取り上げて、全体として、19世紀末 から20世紀初期における資本論争のもつ意義を明かにすることを試みたい。 本稿では、まず「ベーム−バヴェルク対J.B.クラークの資本論争」を取り上 げることにする。 そもそも資本とは何か、資本の測定問題、資本蓄積の均衡分析がもつ妥当 性、および資本論争におけるイデオロギーの役割りなどをめぐって、さまざま な論争が展開されてきた。それは、資本理論史を特徴づけた三大論争、すなわ ち、(1)1930年代のハイエク、ナイト対カルドア論争と、(2)もっと最近では、 1950年代中葉と1970年代中葉の間に生じた、ケンブリッジ論争、さらにそ れらに先立つ、(3)1893年から1907年におけるベーム−バヴェルク対J.B.ク ラーク論争、ならびにそれに続く20世紀初期のヴェブレン対J.B.クラーク/ I.フィッシャー論争にみることができよう。これまで、これらの諸論争は、論 争点の類似性もあってか、ただ手短かに要約的な形で取り扱われるに留まって きたと言える1)。 とくに、ベーム−バヴェルク対J.B.クラーク論争と、それに続いた20世紀初 期のヴェブレン対J.B.クラーク/I.フィッシャー論争については、コーエンの 1) 例えば、以下の文献を参照。
1.Cohen, A.J. and Harcourt, G.C.,2003. “Whatever Happened to the Cambridge Capital Controversies ?”, Journal of Economic Perspectives, 17(1) , Winter, pp.199-214.
2.Kurz, H.D., “Capital Theory : Debates. J. Eatwell, M. Milgate and P. Newman, eds., The New Palgrave” : A Dictionary of Economics, 1987, vol.Ⅰ, New York : Norton, pp.357-63.
3.Solow, R.M., Capital Theory and the Rate of Return. 1963, Amsterdam : North-Holland.
4.Valiente, W. “Is Frank Knight the Victor In the Controversy Between the Two Cambridges?”, History of Political Economy 12(1), 1980 Spring : pp.141-64. 5.Weston, J.F., “Some perspectives on capital theory”, American Economic
次の論文を除けば、余り知られていない。Cohen, A.J. “Veblen takes on Clark and Fisher in Early 20th Century Capital Controversies”, paper presented at HES Meetings, University of California, Davis, June 2000, revised Nov, 2002. そこで以下では、1. 1893年−1907年におけるベーム−バヴェルク対J.B. クラーク論争と、2. それに続いた20世紀初期のヴェブレン対J.B.クラーク /I.フィッシャーの資本論争に分け、これらの論争の全体像を捉えなおすこ とを試みたい。そのためはじめに、ベーム−バヴェルク対J.B.クラーク論争に 関連した年表をかかげておく。
2. 論争以前のベーム−バヴェルクと J.B. クラーク
ベーム−バヴェルクとクラークの資本論争は、各々が資本理論に関する主要 著作を出版する以前に始まっている。クラークの資本理論は1888年以降1892 年までの諸論文に現われているが、それらは『富の配分』(1899年)において統 合された。ベーム−バヴェルクの資本理論は、1889年にドイツ語で現われる。 クラークとベーム−バヴェルクは直ちにお互いの論文を読み始め、多くの共通 した点を認めている。とくに限界効用価値説にもとづく点である。 1889年2月16日付のギディングズ宛の手紙で、クラークは次のように書 いている。 「私はベーム−バヴェルクに深い関心をもっている。彼の文体は、私が読んだ どのドイツ語よりもフランス語に似ている。彼の考えは非常に明確であり、 その理論は、もし私の判断が正しければ、明確な光を私に与える助けになる でしょう。私は彼の著作を参照することによって、私の資本・賃金・利子理 論を強化できると思います。」2)2) Tosihiro Tanaka (ed.) “The Correspondence of John Bates Clark written to Franklin Henry Giddings, 1886-1930”, Research in the History of Economic
Thought and Methodology, Vol. 18-B, American Economics, edited by Warren
Samuels, 2000, JAI, Amsterdam, New York, Oxford, Shannon, Singapore, Tokyo. pp.129-30.
ベーム−バヴェルク対 J.B. クラーク資本論争年表 それから1ヶ月後の1889年3月26日付の手紙で、ベーム−バヴェルクは クラークに次のように書いている。 「どうぞ、あなたのご親切な手紙とあなたの諸論文に対する心からの感謝を お受け取り下さい。私はそれらの論文をすぐに、多大の関心をもって読みま した。私の印象では、資本と労働に関するわれわれの分析には、多くの類似 点があります。われわれは共に、利子・賃金問題は同時に解けるものと確信 しています。われわれは二人とも同じ理論的出発点である最終効用理論を もっています。したがって、われわれのアプローチは、他の多くの点で類似
しています。」3)
クラークは、ベーム−バヴェルクの著作について、比較的短い書評を書いている。 すなわち、1つは、“Review of Kapital und Kapitalzins,” Political Science
Quarterly, 4(2), June, pp.342-346であり,他は“Book Noteon Capital and Interest,” (vol. 1, Smart translation), Annals of the American Academy of
Political and Social Science, 1(2), October, pp.310-12.である。クラーク
は、1889年3月7日付のギディングズへの手紙が示しているように、Political
Science Quarterlyの編集者、Munroe Smithから「手短かに書評することを 求められ、時間と紙面のプレッシャーを受けていたので、非本質的な部分を多
少とばすことになる」4) と書いている。
批判的論争は、ベーム−バヴェルクに対するクラークの1893年の批判に始ま
り、個人的文通と、Quarterly Journal of Economics誌上に移行していった。
1895年の各々の2論文で、賛成と反対は明確に焦点が絞られてくるが、論争 者たちは、そのときには問題の手がかりを未解決のまま論争から一時的に手を 引いている。これは主としてベーム−バヴェルクが大蔵大臣の仕事に精力を傾 けざるをえなくなったからである。 この後、彼はクラークの『富の分配』(1899年)に対する遅れた反応を見せ た1906年のQJEにおいて、この論争に復帰する。1906年と1907年の間の 4篇の論文の後、論争は未解決のまま終了することとなる。 ベーム−バヴェルク対クラークの資本論争は、他の資本論争と同じく、その 起源は資本の二重性質にある。両者も含めて、経済学者たちは、長きにわたり、 一方で資本を生産において使用される個々の異種の資本財の集合物と考えると 共に、他方では均一の収益率をもたらす選択的用途の間に流れる金融価値をも つ同質の資金と考えてきた。したがって、論争は、資本の二重の概念が特有の 仮定をもつ経済モデルに統合され、一方の概念がもうひとつの概念を相対的に
3) Cohen, A.J. & Drost, H. 1996. “B¨ohm- Bawerk’s Letters to J.B. Clark : A Pre-Cambridge Controversy”, Post Keynesian Economics and the History of
Eco-nomic Theory : Essays in Honour of Geoff Harcourt vol. 1, London : Routledge,
p.85.
無視して強調される場合に始まると言える。 クラークは、具体的な資本財を超えた「真の資本」(true capital)という貨 幣資金の方を強調する。これに対して、ベーム−バヴェルクは、『資本の積極的 理論』(1889)の大部分で、具体的な資本財を強調するけれども、利子率決定 の数量モデルでは、資本は貨幣で呼ばれたひとつの賃金財貨からなる同質の生 存基金の形をとる。両者の論争は、クラークの「真の資本」という概念に集中 する。クラークの静態均衡モデルでは、具体的な資本財のもつ物理的生産力が 重要な役割りを果たすが、最終的には、クラークは資本の収益である利子を永 続的、同質的で、かつ完全な展性をもつ「真の資本」という抽象的資金の力に 帰している。 ベーム−バヴェルクは、「真の資本」では、時間は排除されてしまうため、そ れに反対する。時間は、現在財が同量の将来財を超えるプレミアムを支配する 理由を説明する彼の打歩説において中心的役割りを果たすからである。「真の 資本」というクラークの静態均衡モデルは、時間要素を避けているため、ベー ム−バヴェルクは、それを「資本の神話」と言う。これは「静態均衡の神話」と してのクラークの資本理論に対する彼の反対を特徴づけるものと言える。 この論争の議論に焦点を合せるために、まず両者の資本理論を概観しておき たい。
3. J.B. クラークの資本理論
クラークの資本理論は、彼の有名なQJE論文の表題「レント法則によって 決定される分配」によってよく記述されている。リカードウが地代を取り除く 方法をとったのとは対照的に、クラークは社会を静態に帰すことによって純利 潤を排除し、その後、レント法則の限界生産力原理を賃金と利子の説明に使用 した。 クラークの静態は「諸力の均衡」、すなわち内的変化を排除するひとつの均 衡状態である。仮定により、クラークは「欲望、技術、産業組織、資本および 労働の数量と所在の変化を排除する」5)5) The Distribution of Wealth, 1899, p56. 田中敏弘・本郷 亮訳『富の分配』, 2007 年、日 本経済評論社、56 頁。
クラークにとっては、「純粋な静的状態は現実を扱う。それは、ただその省 略によってのみ仮想的なのである。というのは、それは『現実の動的世界』に おいて作用する諸力の本質的な部分を現わすからである。クラークは彼の動態 分析の段階と歴史的経済研究との間のきわだった関係にも注目している。 「世界の現状は、明らかに50年前の状態とも、これから50年後のそれとも 異なる。歴史経済学はそのような相違を記録し測定するであろうが、これに 対して経済動態理論は、これらの利益の原因を調べ、経済的進化の根本原理 を提供するであろう。」6) 動態的で複雑なものの復帰がなければ、静態的結果は「非常に不完全」とク ラークは記述している。にもかかわらず、彼は、静的諸力は動態的諸力によっ て導入された複雑なものを支配すると固く信じている。彼の主著の最後におい て、彼はこう述べているからである。「にもかかわらず、どのような運動を経 済学の動学部門が発見し説明しようとも、静態法則は支配的であるのをけっし てやめないであろう。運動の法則に関するすべての真の知識は、休止の法則に 関する適切な知識にかかっているのである。」7) クラークの不正確な動態概念には、比較静学、つまり、安定性分析と同様な動 態と呼ばれるものが含まれている。『経済理論要綱』(1907年)(The Essentials of Economic Theory)における経済動学への素描的な試みという例外はある ものの、クラークの著作は、こうしたテクニックをすべて排除し、静態法則を 解明することだけに焦点を絞っている。 静態状態内でクラークは、具体的資本財としてと共に、富の抽象的資金であ る「真の資本」として、資本を分析している。さらに彼は、説明なしに、「真 の資本」によって稼得されたすべての利子の総額は、具体的生産用具によって 得られるすべてのレントの総計に等しいと主張している。」8) さらにまた、クラークは労働についても、二つの観点から分析し、具体的な 6) Inid., p.73. 前掲田中・本郷訳、72-73 頁。 7) Ibid., p.442. 前掲訳 448 頁。
8) “Capital and Its Earnings”, Publication of the American Economic Association,
労働行為と純粋な労働能力とに同様な区別を行なっている。 資本および労働に対する収益は、いずれも限界生産力によって決定される。 「社会資本の最後の単位は、· · · · ·その生産物によって一般的利子率を決定す る· · · · ·[これは]労働の最後の増分がその生産物によって賃金率を決定する のと同様である。」9) そして、それにより前の資本(労働)のより生産的諸単位によって創出され る剰余総額は、労働(資本)に支払われる総所得に等しい。
4. ベーム−バヴェルクの資本理論
ベーム−バヴェルクは利子を、すべての価格と同様、稀少性と効用によって 決定される価格として扱っている。彼は、メンガーの時間を含まない稀少性と 効用価値論に時間を加え、永続的な価値論を創り出している。この追加が、「人 間が財に置く価値への時間の影響10)」という彼の利子説明の核心といえる。 彼は利子説明において、生産にとっては、資本は具体的用具、物理的な生 産力の源と考え、分配にとっては、それは所得を生み出す資金であり、利子の 源と考えている。これらの資本は生産的であり、それは利子を生むという概念 は、「資本はそれが生産的であるゆえ利子を生む」という議論に合成される。11) ベーム−バヴェルクは、このような生産力利子論のすべてを、それが主観的 説明を欠くゆえに拒ける。 どの生産要素にも、· · · · ·生産物に直接あるいは必然的に価値を吹きこむこ とができる力はない。生産要素はけっして価値の究極的な源ではありえない。 · · · · ·価値は人間の欲望とそれを満たす手段との関係のうちに、その究極の原 因をもつ。条理にかなった利子説明は、この究極の源に戻らねばならない12)。 資本財が物理的な付加産出物と収益を生み出すことを論証することは容易 だが、資本財の価値はなぜ利子支払いを排除するまでせり上からないのか。説9) “Distribution as Determined by a Law of Rent,” QJE, 5(3), p.312.
10) B¨ohm-Bawerk, 1959. Capital and Interest, vols.Ⅰ-Ⅲ, translated by George D.
Huncke. South Holland : Libertarian Press, vol.Ⅰ, p.354.
11) B¨ohm-Bawerk, Ibid., vol.Ⅱ, p.22.
明されねばならないのは、総収益ではなく、資本に対する純利益である。 ベーム−バヴェルクは、なぜ利子が存在するのかという質的説明と、利子の 高さを説明する数量モデルの両方を与えている。質的説明は、将来財を越える 現在財のプレミアムの三つの理由からなる。すなわち、1)将来の所得に対す る現在の所得の供給不足、2)将来に対する過少評価、3)生産性の増大は、よ り一層の「迂回的」すなわち、時間のかかる生産である。 彼は具体的資本財と迂回的生産をメンガーの価値論の供給(稀少性)側に統 合し、一時的生産構造を創出し、時間選好を需要(効用)側に統合し、永久的 選好構造を創出する。 一層の迂回は常に総生産物の価値の一層の増大を約束するゆえ、ゼロの利子 率は、生産期間の無限の撹張を促進するであろう。これは現在財の稀少を意味 し、利子の再出現と逆もどりの第一ないし第二の理由を経て、直接的生産方法 へと導くであろう。そのとき、プラスの利子率の真の機能は、生産期間の拡張 し過ぎによって現在の欲望を無視する傾向の歯止めの役割りを果す。利子率は 現在財と将来財の相対的価値に関する社会の評価に従って、諸個人の間に現在 財の限られた供給を割り当てる。 この論争にこれは直接入らないけれども、ベーム−バヴェルクの利子率決定 の数量モデルは、次のものを仮定していると言える。すなわち、所与の生存基 金、唯一の生産要素としての同質的労働、耐久的生産財のないこと、唯一の (消費)財、一様に流れる生産、および逓減的比率で生産力を増大する迂回の 拡張である。 このモデルは四つの未知数を同時に決定する。すなわち、賃金率、生産期 間、産出量、および利子率である。仕事を求める労働者間および労働者を求め る資本家間の競争と共に、固定された生存基金という諸仮定は、賃金と最適な 生産期間を決定する。雇用水準、生産関数、および生産期間の長さは、産出高 と利子率(打歩)を決定する。
5. 両者の同意点
以上に述べた論争の手短かな要約は、意見の相違に焦点が当てられてきたが、ベーム−バヴェルクとクラークの間には多くの同意点と理論的類似点があ る。二重の資本概念を分かちもっていたうえに、彼らは二人とも主観的価値論 をもっていたし、両者とも具体的資本財の限界生産力の逓減を受け入れるが、 それを異なる抽象的概念に帰している。 ベーム−バヴェルクは、彼の第三の理由を支持するに当り、資本の測定に生 産期間の概念を展開して、それは資本の限界生産力に反比例すると主張してい る。時間、すなわち迂回は生産力を逓減的比率で増大する。クラークは資本財 の物理的生産性を強調する。しかし、なぜ競争が資本財の価格をせり上げて純 価値収益を取り除かないかという問題を取上げていない。その代りに、クラー クは、永続的で時間を超越した利子を「真の資本」の結果に帰している。 時間選好の問題については、著者たちには後にみるように、真の理論的相違 点にもかかわらず、実際上の相違は考えるほど大きなものではない。ベーム− バヴェルクの利子の最初の二つの理由は、明白な時間選好概念に対する有力な 貢献と言える。にもかかわらず、彼は時間選好を彼の利子率決定の数量モデル から明らかに省き、それをただ暗黙のうちに持ち込んでいる。クラークは彼の 静態モデルで、時間選好の役割りを明確に否定しているが、しかし同じくそれ を暗黙のうちに持ち込んでいると言える。 ベーム−バヴェルクは、クラーク宛の手紙で、次のように書いている。 「この何ヶ月かにわたり、私は私の新しい利子論に関して賛成する多くの表 現を受けました。しかし、あなたほどの多大の喜びを私に与えてくれたもの はほとんどありません13)。」 そしてその年の後半には、彼は次のように書いている。 「われわれの主張は、資本と利子、および最終効用に関するだけでなく、正 しい研究方法に関しても、非常に多くの点で同じである14)。」 ベーム−バヴェルクはまた、「われわれは資本理論に関連した大部分の具体的 問題に関して、まずほとんど一致していると信じます」と述べてQJE論争を
13) Letter of 19 May 1889. Avi J. Cohen and Helmar Drost, op. cit., p.86.
14) “Capital and Interest Once More Ⅱ. A Relapse to the Productivity Theory,” QJE, 21(2), February, 1907, p.248.
開始し、クラークを「学説を異にする私のすべての批判者のうち、おそらく、 その結論において私と異なることの最も少ない論者」と述べている。クラーク は考慮中の二つの理論は多くの点で一致していることを認めている15)。 こうした一致は論争の結果、消滅することはなかった。クラークを論評し た、クラーク−ペイパーズの中にあるベーム−バヴェルクの最後の手紙では、次 のように述べられている。 「経済現象を分析するわれわれの方法には、相違点よりもはるかに多くの共 通点がある。確かに、科学の進歩は、ほとんどいつでも、人が共通した見解 をもつ問題よりも、むしろ一致しない問題を論じることを求めるものであ る!16)」
6. 「真の資本」に関する根本的な意見の相違
クラークの「真の資本」概念は、両者の間の明白な不一致の源である。ク ラークは、このことを彼が『資本の積極理論』を論評するために読み始めるや 否や感じとったのである。ベーム−バヴェルクがクラークの著作を論評するで あろうということを聞いたのち、クラークはギディングズに書いている。 「わたしは彼の論評がどのような論調になるのかと思っています。というの は、彼は『資本を抽象的概念にし』、概して『難点を迂回するために、経済 的要素を非物質化する』人々を非常に軽蔑して述べているからです。私はそ のようなことをした覚えはありませんが、私の主張しているのは、資本をみ るわれわれの必要な方法は資金としてであるということです。この見解はさ しあたり資金が具体化される形式を見失うけれども、その見解は物質的体現 という事実を少しも無視しない。ベーム−バヴェルク教授の論調はこうした 全体的な見方にまったく反している。したがって私は、生産と分配上の一要 素としてこの資金の働きが徹底的に分析されるまでは、問題は解決されると は思えません。それは賃金・利子理論に直接本質的なものと思われます。私 がQuarterlyの論文で、ある仕方でカバーしたいと思うのはこの論点なので15) “Real Issues Concerning Interest”, QJE, 10(1), October, p.101.
す17)。」 このようにクラークが論争上最初に公表した批判に答えて、ベーム−バヴェ ルクはクラークへの1893年12月15日付の手紙では、遠慮せずに批判するこ とはしていない。すなわち、「われわれの意見の違いは要するに『真の資本』と 『資本財』とに関するあなたの区別なのです。それを自分としては表面的で実 に危険だと考えています」と、彼は述べている。 クラークの「真の資本」による利子説明に関して両者相互の賞賛は終る。そ れは具体的資本財の特徴を強調せず、利子は直接に資本という資金の生産性が 原因だとするからである。 ベーム−バヴェルクの理論は具体的用具だけを研究する。それは、それら具 体的用具の働きが定める期間を測定し、利子を、このようにして測定される特 定の時間差による打歩に帰する。これに対して、クラーク自身の理論は、これ らの用具とその質を認めるが、用具の無限の継続が本質をなす永続的資本の研 究に主要な場を与える。それは利子問題を資金によって明確にし、その率を資 金が年々生み出すそれ自身の分数とする。それは生産力理論であり、それは 個々の生産期間を従属的な場に追いやるものである。 こうした意見の相違は印刷物と文通による交流によって焦点が絞られていった。 クラークは、「真の資本」という抽象的概念を、経験と説得的な隠喩に訴え ることにより、討論での効果的な武器に変形させている。この概念についての 最初のクラークの記述は、実業上の見解を用い、大きな効果をあげていると思 われる。 「製造業者に、『あなたの資本は何ですか』と聞けば、彼はおそらく答えをド ルで表現するであろう。『彼に投資したあなたの資本とは何ですか』とたず ねるなら、彼の資産資金が現在たまたま投資されている建物、機械、土地、 材料などを特定するだろう。こうした具体的なものは、彼の考えでは、彼の 資本の容れ物を表象する。ところが、その内容自体は彼にとってひとつの価 値、抽象的な富の量として現われる。彼は、たとえそれがたった1日しか、
体現された現在の正確な形をとらないとしても、それを永続的に彼のもので ある資金と考えるであろう。· · · · ·資本は、このように見ると、抽象的資金 であり、その運動は無限に続く外的形態を移動するものである18)。」 ベーム−バヴェルクは、こうした貨幣資本という資金概念に反対しない。資 本の生存基金という彼自身の概念は、クラークの「真の資本」の特徴をほとん ど分けもっている。「私も、資本は貨幣によって測られねばならない“資金”あ るいは“物量”であると信じる19)。」 ベーム−バヴェルクは、価値をもった資本としての資本概念について論争し ているのではなく、クラークが、具体的資本財の属性ではない「真の資本」に 帰す特徴 永続性、同時化性、およびパテのような完全な可動性といった特 徴 に対して論争しているのである。
7. 資本の永続性と資本財の一時的性質
クラークは、「真の資本」という資金の永続性と資本財の一時的性質とを対 比する。ひとたび創出されると、「真の資本」は「生産的富の永続的な社会的 資金20)」としての無限の寿命をもつと、クラークは主張する。 間違った投資や景気循環によって引き起された資本の損失という動態から 抽象して、資本財には生産期間があるのに対して、資本には生産期間はなく、 無限に作用すると、クラークは信じている。 「真の資本」を体現する資本財は、「真の資本」の資金が存続し利子を生むた めに絶えず使い古されねばならない。「真の資本」の永続性を例証するために、 クラークは有名な滝のメタフォールを使用しており、これが将来の論争の焦点 ともなる。 「滝は微小量の水から成っている。水を落すとわれわれは滝と同じことを言 うことができるか。水は動くが、これに対して滝はそこに留まる。水は大気中18) Clark, J.B. “Capital and Its Earnings”, Publication of the American Economic
Association, Monographs vol. 3, no. 2. Baltimore : A.E. Association. pp.9-10.
19) B¨ohm-Bawerk, “Capital and Interest Once More : I. Capital vs. Capital Goods,”
QJE, 21(1) November, 1906, p5.
で凝縮した水のしたたる粒のように見える。そして最終的には、それは海にの みこまれる。資本財は水の粒と似て消え去る要素である。真の資本は滝に似て いる。それはその物体を不断に使い古し、再び補充することを継続することに より留まる要素である21)。」 再び、ベーム−バヴェルクはこの記述に同意している。彼は、クラークの理 論では、資本を構成する財は絶えず取換えられるのに対して、資本の総額は留 まると言うのと同じと見ている。したがって、ベーム−バヴェルクは、自分の 理論もこの事実を認めると、付け加えている。ベーム−バヴェルクの反論は、 「真の資本」は滝のように持続するであろうが、物理的もしくは機械的影響の すべては、落下する具体的水滴によって生み出されるのである。彼は、これに 対応した例によって、もし落下する石が水を一時的にはね返し、具体的な水が 水車の輪に当たらなければ、滝全体はその場を動かず、干上がることもなく、 水量の減少さえもないけれども、水車は停止すると主張する22)。
8. 同時化(Synchronization)
個々の資本財を「真の資本」という永続的資金から区別して、クラークは、 個々の財には生産期間があるのに対して、「真の資本」は、すべての迂回すなわ ち生産過程の開始と終わりの間の待つことを除くと主張する。「真の資本」は 事実上資本財により作られた迂回の合い間をなくす。それは産業上の行為を実 行するとき断えず得られるべき労働の所産を生じさせる23)。 これはクラークが初めて使用した同時化という概念である。すなわち、 「真の資本という資金はすべての勤労とその成果を同時化する。· · · · ·もし 資本主義的生産が理解されるならば、第一義的に考慮に入れられねばならな いのは、一時的に資本の構成要素となる個々のものよりもむしろ、資本とい う資金の全体である24)。」 21) Ibid., p.308.22) “The Positive Theory of Capital and Its Critics Ⅰ,” QJE, 9(2), Jan., 1895 p.128.
23) “The Genesis of Capital,” ibid., 1893, p.309.
同時化の最善の例示を、クラークは再び重要なメタフォールである、まきを 供給する森に求めている。 「木は20年で成熟するであろう。森は、広さや成熟期間の点で損なわれない ように保たれねばならない。さもなければ、木の供給に失敗するであろう。 毎年われわれは、森の一方の端に沿って1列の木を植え、他方から1列を伐 採する。植林と伐採は、ある意味では同時的である。われわれは、今日植え た木を今日燃やすわけではない。しかし、われわれは確かに木を1本燃やす のであり、その消費は今日の植林によって実行可能になる。だから、植えら れたばかりの木は、樹齢20年の木の消費を可能にする原因なのである。若 木を植えてその成熟を待つのは、火の遅いおこし方になろう。しかし、それ を植え、この植林と森の成熟とによって、使用する別の木を同時に取得する のは、火をおこす速やかな方法である。その森は、労働とその実質的果実と を同時化するものなのである25)。」 クラークは生産期間をもたない具体的資本財を研究する正当性を認めてい る[例えば、“The Genesis of Capital”(1893年)p.313等において]。
しかし、ひとたび永続的資本の資金が創出され、経済が静態均衡のうちにあ れば、待つことは同時化によって除かれ、生産期間は無関係となると、クラー クは主張している。ひとたび森が出来上れば、森が1本の木を成熟させるのに 20年かかろうが、10年かかろうが、差はない。こういうわけで、「誰もいわゆ る生産期間中、所得を待つ必要はなく、したがって· · · · ·[ベーム−バヴェル クが]行っている現在と将来の比較はまったく行なう必要はない26)。」 こうした真の資本とその同時化という特徴の強調は、クラークにベーム−バ ヴェルクの鍵となる概念、 生産期間、つまり具体的資本財を用いる迂回的 方法の生産性および待つことに対する明白な時間選好が引起す補償は、利子率 の決定とは無関係なものとなる。 ベーム−バヴェルクは、同時化に対して、クラークが真理から最も危険なほ
25) The Distribution of Wealth 1890. 田中・本郷訳『富の分配』(2007 年、日本経済評論社), pp.317-18.
どはるかに離れた概念というラベルをはり、クラークの見解を極めて強固に拒 否している。ベーム−バヴェルクの拒否には、二つの主要なポイントが含まれ ている。ひとつは、彼は、クラークの概念は静態においてのみ適用されると、 正しく指摘している。すなわち、「動態の場合には、われわれは生産期間と待 忍をもつ資本財を扱う。真の資本の同時化効果に関する主張は、静態において のみ当てはまる。そこでは、仮定により攪乱は現われないからである27)。」
ベーム−バヴェルクは例えば、1895年には、“The Positive Theory of Capital and Its CriticsⅠ”, QJE, 9(2), p.126. において、新産業の始動、需要の増大、 および労働ストライキといった動態的諸例を与えている。その場合には、同時 化は役にたたず、待忍が必要となるからである。これに対してクラークは、こ れらを同時化の例外と見、その重要性を軽視する一方で、それらの存在を認め ている。 第二に、ベーム−バヴェルクは、静態においてさえ、投入と産出の同時化は 幻想であり、「真の資本」ではなく、具体的資本財での以前の投資によるのだ と言う。樹木を植える労働と交換に今日燃やされた木は、20年前に植えられ た若木の生産物だからである。 「人は、それ自体の生産期間が、より以前に始まったがため、交換に与えら れる未完成の生産物の生産期間よりも早く終わらせるという事実は、生活の 幸運な結果であって、何か神秘的な永続的な資金の結果ではなく、まさに具 体的資本財の生産期間がそれよりも早くきれる結果なのである28)。」
9. 完全な可動性をもったパテ資本
「真の資本」という資金は、同時化によるのみならず、具体的資本財の物理 的変質を許すことによっても、この分析から時間を排除する、有名な箇所で、 クラークは「真の資本」が一連の異なる資本財を貫く、「真の資本」の自由な フローを述べている。 「捕鯨船に木綿をつむがせることはできない。しかし、資本は、実際、ニュー27) “Capital and Interest Once More Ⅱ”, QJE, 21(2), pp.270-71.
イングランドの捕鯨から木綿紡績に移動した。船は朽ちるのを許され、工場 がそれに代って建てられた29)。」 彼はこのフローの要点を次のように述べている。すなわち、資本は完全に 可動的である· · · · ·実際、具体的な形を変えることにより、資本の究極的な力 には限界はなく、このようにして産業のグループ組織内で位置を変えるのであ る30)。 もしクラークが自らを静態分析に限定していたとすれば、彼は、資本ストッ クの流れの変化を記述する必要はなかったであろう。彼の生産力的利子論は、 永続的資本資金量の変化を含む比較静学の課題に基礎をおいている。 「利子率に影響を与える原因は、資本量自体の変化であって、生産期間の長 短ではない。社会的資金を増大させれば、利子率は低くなる31)。」 クラークは諸均衡間の移り変りが分析上の問題を生み出すことを認める。な ぜなら、それらの移り変りは、資本の永続性と静態についての基本的前提に反 するからである。「真の資本」の可動性と移転は実際には容易でなく、何らかの 資本の浪費なくしてはなされえない。こういうわけで、静態間の移転問題は、 資本資金の永続性を小さくする。 クラークの明白な静態分析は、前提によって、資源の量および形態上の変化 を排除する。クラークは、もし労働量が固定されているときに、「真の資本量 が増大すれば、資本と労働が新しい静態においてとる形は、増加した資本量に よる作業に最も有効な形に変化しなければならない。二つの静態間の生産要素 量の変化は、生産要素の質的、具体的特徴の変化を引起こす。 クラークによれば、こうした同時的変化は、研究をさしあたり動態的なもの にし、労働者数の変化に加えて、固定された資金がとる形の変化が含まれる。 しかしながら、こうした動態分析は静態研究への序論として許される。われわ れは、その状態に到達する仕方に注目することにより、利子と賃金はいかに静 態で決まるかを、よりたやすく理解するのである。
29) “Origin of Interest”, QJE, 9(3), p.265.
30) The Distribution of Wealth, 1899, p.118, 田中・本郷訳、p.117.
ここでクラークが「動態的」という用語で意味するものは明らかではない。 とういのは、他のところでは、彼は比較静学分析を行ない、それに静学という レッテルをはっているからである。とは言え、それが動態、比較静学あるいは 安定性分析と呼ばれようと、彼は生産要素量の変化には、説明が必要であるこ とを認めているようである。 クラークは、自分が静学、動学、および安定性分析を間に合せ的に挿入して いることを認めることは功労に値する。しかし、新しい均衡への収れんに対す る彼の洞察力の主張にもかかわらず、彼は、ひとつの静態から別の静態への移 行過程については、なんら動態的な所説を与えていない。移り変りと結果は、 それに依存する道筋であることを、われわれは知っているが、クラークのテク ニックは、こうした複雑なことがらを無視し、動態過程の結果は新しい静態均 衡と同じものであろうと主張する。再度、それはあたかも諸変化が新しい均衡 に帰着するかのようである。 これに対するベーム−バヴェルクの見方は、こうした分析上の問題を認識す る功をクラークに与えているが、しかし批判的な含みを押しつけている。彼は 再び例えば完全な可動性のような、資本財がもたない諸性質を「危険」な帰結 を与えるものとして、「真の資本」に与えることに反対している32)。 次いで、ベーム−バヴェルクは、はじめて可動性の帰結を述べるのに、パテ 資本というメタフォールを使用している。彼はこう述べている。 「クラークは資本を物的財に『帰された』価値量と考えている。彼は物的存 在を示唆すると思われるあらゆるものをはぎとり、ただ、永続的に存在し、 けっして破壊されないゼリー状の価値だけを保有する33)。」 ベーム−バヴェルクは、古い資本財が摩もうと新しい異なる資本財への投資 により、部門に可動性があることを認める。しかし、彼は次の二つの反論を述 べている。第一に、この過程は制限されていて、全部一度に大規模に起りえず、 クラークの完全で絶対的な可動性の主張に反ばくしている。
32) “Capital and Interest Once More,” Ⅰ. “Capital vs. Capital Goods,” QJE, 21(1), p.19. 同じく、“Capital and Interest Once More: Ⅱ”, QJE, 21(2), p.278.
第二に、資本の可動性と移行が可能であることを一方で受け入れているもの の、彼は、それは、言葉のあやに過ぎないとしている。 「それ(クラークの陳述)は言葉のあや以上のものではなく、言葉のあやは、 現実の状態がそれによって促進されるとは考えられない。ましてや、以前に 理解されなかったことが理解されることはない34)。」 ベーム−バヴェルクの関心は、「真の資本」概念と結びついた静態均衡間の 費用をともなわない移行は、古い均衡から新しい均衡への歴史的時間の道筋を 理解することを許さない。この移行の動学を詳しく述べたり理解するために、 ベーム−バヴェルクは、「資本の移転」という主題の全体は、資本財との関連で 研究されねばならないと主張している。
10. 制欲と「真の資本」の起源
クラークの見解では、利子は「真の資本」への利益である。彼の静態モデル では、「真の資本」の特徴 永続性、同時化性、およびパテ可動性 では、 時間の問題は排除されることになる。投資と収益の間の待忍がなければ、残る 唯一の利子説明は「真の資本」の生産力である。しかし、時間選考と制欲の問 題がクラークの資本の起源の動学理論によって、この論争に入ってくる。 シーニョアやJ.S.ミルが利子を資本資金を生み出した制欲の収益と説明し てきたのに対して、クラークはそうではなく、制欲を資本資金を起こしたり生 み出す行為と見る。しかし彼は、資本の発生の動態的説明を利子の静態的説明 から分離している。 「制欲は新しい資本を作り出す。すなわち、それは、貨幣所得を、消費財を 得る支出から生産用具を獲得するそれに転換する35)。」 制欲者はいつでも消費効用を相殺するものとして利子を受け取る。しかし、 クラークはけっして制欲を利子の源とは見なさず、制欲をもたらす説明を動学 の領域に委ねている。 クラークは言う。ひとたび制欲が「真の資本」を創出するや、その資本は永34) “Capital and Interest Once More: Ⅰ”, QJE, 21(1), p.18.
続的に取って替られ、なんら追加の制欲なしに利子を生む。新しい資本の発生 には制欲を必要とする。その維持には制欲を必要としない36)。 利子は静態では制欲なしに存在するので、制欲は利子の原因ではありえない と、クラークは述べている。 クラークの利子の説明は、もっぱら資本の技術的生産力にある。すなわち、 「要するに、事物の法則が資本を生産的にするのである。生産的であるので、 資本はその生産物を直接その所有者に引き渡すか、あるいはその所有者に支 払う他の誰かに引き渡すことができる。利子を支払うことは、賃金を支払う ことが労働の生産物を購入することであると同じく、資本の生産物を購入す ることである。だから、生産物を創り出す資本の力は、利子の基礎である37)。 クラークの分析の欠陥は、静態における制欲の欠如を弁護するさいに明るみ に出る。 「静態では制欲、すなわち新しい資本の創出はない。なぜなら、今手許にあ る資本では、人は快楽を断念し、そうすることで得られるよりも彼の元本を 大きくしようとすることによって、より多くの損失をこうむるだろうからで ある。資本の創出という課題の全体は、今しがた述べたように、経済科学の 動学部門に属している38)。」 静態での貯蓄ゼロを仮定するさい、クラークは、既存の利子率はまさに現在 の快楽を求める時間選好を相殺することを暗に仮定している。もし個人が貯蓄 するとすれば、彼は、先立った快楽は収得される追加的利子よりも少ないこと をほのめかしているのである。彼の静態の仮定は明確な時間選好にひそかにも ぐりこみ、利子は生産力によってのみ決まるという彼の主張を無効にしてしま う。しかしクラークは、時間選好と制欲との関係の問題について明確には述べ ていない。 クラークにおいて時間選好のこっそりとした持ち込みが注意を引くのは、 ベーム−バヴェルクが、彼の第三の利子理由─迂回的生産方法の生産力─だけ
36) The Distribution of Wealth. op, cit. pp.133. 田中・本郷訳、131 頁。
37) Ibid., p.133. 田中・本郷訳、133 頁。
が利子率を正当化するのに十分である─を誤って主張するさいと、まさに同じ 問題のえじきになっていることである。 ベーム−バヴェルクの利子率決定の数量モデルは、固定的な生存基金を仮定 している。このモデルは彼の利子の第三理由(迂回生産の生産力)を明らかに 含んでいるが、明確な時間選好の彼の最初の二つの主観的理由に明確には言及 していない。これらの主観的理由は、暗に固定した生存基金量を含んでいる。 固定した基金は、資本が使用されてしまわず貯蓄も生じないことを暗に示して いる。時間選好は、限界では利子率に等しくなければならない。したがって、 固定された生存基金は明確な主観的時間選好にひそかにもぐり込み、生産の迂 回性は時間選好と調和する。 静態での時間選好の役割を見逃したため、クラークは、資本の永続的再投資 は制欲とは無関係なものとして静態において生じるであろうと見ている。 こうした生存基金モデルでの時間選好の軽視は、ベーム−バヴェルクに、利 子は静態所得であり、新しい資本の動態的な発生は、利子の説明から切り離す ことができると、クラークにまったく賛成することを許したのである。ベーム −バヴェルクはまた、損なわれない資本の単なる維持においては、なんら真の 制欲は行なわれないというクラークの命題を正しいと認めるのに同意した39)。 これらの時間選好の省略は、現代利子論となるべきものへの系列上欠けてい る要素、すなわち、主観的な不耐乏と客観的投資機会の相互作用を、アービン グ−フィッシャーに加えさせる扉を広く残したのであった。
むすび
ベーム−バヴェルクの利子率モデルから明確な時間選好が明らかに脱落して いるにもかかわらず、彼の利子の質的説明は、究極的には時間の影響─現在財 と迂回生産過程の生産力におかれた打歩─に根ざしていた。これとは対照的 に、クラークは、彼の静態的仮定と永続性、同時化、およびパテ可動性という、 時間を除去する特質をもつ「真の資本」概念によって、時間の痕跡のすべてを取り除いた。クラークにとって、利子説明の究極的説明として残されたもの は、資本の生産力である。果して生産的なのは何か。時間なのか生産用具なの か、ベーム−バヴェルクとクラークの答えは明らかに異なる。しかし、ベーム −バヴェルクの分析は、クラークからの次の言葉が現わしているように、驚く ほど類似した結論へと導くと言える。 「道具は生産的であるが、時間は道具を取得するための条件である これ は単純な文字通りの事実である。労働を用いる迂回的ないし時間消費的な 様式が、有効な資本財を保証している。時間がこの目的に用いられるとすれ ば、『時間は生産的である』と言えよう。しかし、生産を行うのは時間によっ て確保された道具であるという事実を視野に入れておくように注意せねばな らない40)。」 ベーム−バヴェルクは、クラークの抽象的な「真の資本」概念と、具体的資 本財の特質ではない、それに関連した特質を容赦なく批判した。彼は「真の資 本」を単なる抽象化と呼び、抽象化は糸を紡がず、利子を生むことはできない、 と述べた41)。 しかし、クラークの利子説明は最終的には、真の資本資金を使用する具体 的資本財の生産力に根ざしている。ベーム−バヴェルクは、辛抱強く生産過程 をより迂回的にすることにより生産力を高める具体的資本財の重要性を強調し た。しかし、彼の利子説明は、最終的には、具体的資本と主観的選好により働 く時間のような抽象概念の生産力に根ざしている。 各論者たちが時間を問題にしている間に、1893年−1907年のベーム−バ ヴェルク対クラーク資本論争は、クラークの「真の資本」という概念に焦点が 絞られていった。ベーム−バヴェルクは言う。 「クラーク教授の真の資本には何らの事実もともなわない。· · · · ·したがっ て、私の論争相手の知的性質にどこまでも敬意をもって、私は、資本の神話 に対して、合理的にして自然的な資本理論を弁護するために· · · · ·彼の学説
40) The Distribution of Interest, p.309. 田中・本郷訳、313-14 頁。
41) “Capital and Interest Once More : Ⅰ. Capital vs. Capital Goods,” QJE, 21(1), p.10.
に反対しなければならない42)。」 しかし、ベーム−バヴェルクが反対する「真の資本」の特質 永続性、同 時化、およびパテ可動性 は、時間の影響を取り除き、静態均衡を維持する 特質である。「真の資本」の永続性は、誤った投資や景気変動から注意をそら す。静態均衡においてのみ妥当する投入と産出の同時化は、それをあたかも、 生産期間が取り除かれたかのようにしてしまう。同時化は、動態的、歴史的な 生産経過の代りに、生産の均衡調整をもってする。完全な可動性をもつパテ資 本の仮定は、従属的経路と変遷問題を取り除くことによって、静態分析を異な る静態諸均衡の比較へと拡張することを許す。その純然たる結果は、時間の排 除である。しかも神話は資本についてではなく、分析から時間を取り除く静態 均衡に含まれる諸仮定についてである。 その他の資本論争もまた、いかにして蓄積・分配過程が本質的に静態均衡 の枠組み内で分析しうるかに関する論争に発展したことに注意を払う必要があ ろう。今はそれらの三つの資本論争間の関係を詳しく述べることは控えるが、 ベーム−バヴェルク対クラーク論争の完全な理解のため、最終的には、資本理 論と資本論争の歴史的継続のうちに置かれねばならないであろう。 42) Ibid., p.282.