本稿は、陸軍大将鈴木荘六の「西比利亜日記」の紹介である。
鈴木荘六は明治から昭和にかけて活躍した陸軍軍人である。
一九一九
(大正八)年八月、
鈴木は広島第五師団長
(当時中将)として、
極東ロシア
領三州の一つ、ザバイカル州チタへ出征した。いわゆるシベリア出兵であ
る。
「西比利亜日記」は主として出征地チタで書かれた記録である。
人物
鈴木のおもな経歴は次の通りである。
一八六五
(慶応元)年、
鈴木高治
の三男として新潟県三条市に生まれる。新潟県師範学校
陸軍教導団を経
て、一八八八年一一月陸軍士官学校に一期生として入学、一八九〇年七月
騎兵科を卒業、一八九三年陸軍大学校に第一二期生として入学、一八九八
年一二月に卒業した。日清戦争では騎兵第四隊長を、日露戦争では第二軍
参謀
参謀副長を務めた。その後陸大教官、参謀本部作戦課長などを経て、
一九一四年八月陸軍少将
騎兵第三旅団長、一九一七年八月には騎兵監と
なる。一九一八年七月に陸軍中将、一九一九年三月に広島第五師団長とな
り、シベリア出兵に参加した。その後は大阪第四師団長、台湾軍司令官を
歴任、一九二四年八月には陸軍大将
朝鮮軍司令官、一九二六年三月には
参謀総長となり、一九三〇年二月まで務めた。後備役編入後は大日本武徳
会会長、帝国在郷軍人会会長、枢密顧問官などを務め、一九三七年四月に
退役している。一九四〇年二月に死去した。
士官学校の同期生には、のちに陸軍大将になった宇垣一成
白川義則な
どがいる。
史料について
「西比利亜日記」は現在、国文学研究資料館が所蔵しており、
「鈴木荘六
文書」
内
に存在す
る
1。
鈴
木に関する史料は鈴木の死後、
坂
本貞枝氏
(鈴木 の長男重雄の長女)の邸宅で長年保存され、二〇〇三年に、鈴木重徳氏
(重 雄の長男)により同館へ寄贈された。
鈴木は継続的には日記を書いておら
ず、ある役職に就任した際のみ、特別に日記を書いている。そのうちの一
つが
「西比利亜日記」
である。
そ
の他史料の来歴、
保
存状態については
『史料目録第九五集
近現代文書目録
(その一)』
の
「
鈴木荘六文書解題」
に詳し
い
2。「西比利亜日記」
は第五師団出兵中
一九一九年八月から一九
二〇年九月まで、約一年間の日記である。罫線ノートにインクで縦書きさ
れており、
「西比利亜日記Ⅰ」
(一九一九年八月一三日~一九二〇年二月五日)、
学苑 近代文 化 研究所 紀要 第九一一 号 (一〇)~(三九) (二〇一六 九)Sib
er
iaN
ik
ki
byS
or
ok
uS
uz
uk
i(
1)
T
omo
koK
ur
ok
awa
an
dS
hin
ob
uM
at
su
da
鈴木荘六「西比利亜日記」
一
黒
川
智子
松
田忍
〔史料紹介〕
「西比利亜日記Ⅱ」
(一九二〇年二月六日~七月一四日)、「西比利亜日記Ⅲ」
(一九二〇年七月一五日~九月七日)の三巻で構成されている。本稿では「西
比利亜日記Ⅰ」を紹介する。
鈴木と同じく師団長として、シベリアへ出征した人物の史料には、大井
成元
(小倉第一二師団長、のち浦潮派遣軍司令官)の「西比利亜出兵ニ関スル
思出ノ一端
3」、大庭二郎
(名古屋第三師団長)の「西伯利の惨状
4」、西川虎次
郎
(宇都宮第一三師団長)『西伯利出征私
史
5』
などがあり、
いずれも回顧録
である。これらに対して「西比利亜日記」は出征地で書かれており、当時
の鈴木の行動や所感、様々な人物との交流の様子について具体的な内容を
知ることができる。師団長を任じた将校の日記は今まで確認されておらず、
貴重な史料と言えよう。
背景
先行研究
6を参照しながら、第五師団出征当時の国際情勢を見る。
一九一七年
(大正六)、
第
一次世界大戦の最中、
ロシア革命が勃発した。
二月革命ではニコライ二世が退位、十月革命では臨時政府が崩壊し、レー
ニン率いるボリシェヴィキ党による共産党政権が成立した。翌年三月、ボ
リシェヴィキ政権は、ドイツとの単独講和条約
ブレスト
リトフスク条
約を締結し、東部戦線は崩壊した。ドイツは対ロシアの兵力を西部戦線へ
と投入したため、英仏の戦場は激化した。このため英仏は、親独的姿勢を
見せるボリシェヴィキ政権に対抗するための反革命政権を擁護させ、東部
戦線の再建を試みた。しかし長期化した戦争により疲弊していた英仏に、
反革命政府を支援するための余裕はなか
っ
た。
そ
こで英仏は、世界大戦に
本
格
的な介入をせず、
経済
力
兵力ともに余力を
残
していた日本およ
び米
国に対し、対ドイツ政
策
を
理由
に、
極
東ロシア
シベリアへの
協
同出兵を
促
した。
英仏の
要請
に対し、
日本政府
( 寺 内正 毅 内 閣 )は当
初
、ド
イ
ツ
オ
ース
トリアから、シベリアの
居留民保
護の
自衛措置
という
点
での出兵を
考
えて
いた。また
陸
軍では、独
自
の出兵構
想
が
練
られていた。
陸
軍は「
満蒙
権
益
の
保
護」という大
陸
政
策
の一
環
として、ロシア革命の
機
に
乗
じ、シベリア
の
バ
イ
カ
ル
湖以
東に親日政権
緩衝
国の
樹
立を
目標
としていた。
そ
のため
陸
軍はロシア革命勃発
直
後
から、シベリアにおいて、反革命政権の中
心
と
なる「
穏健分
子」の
選定
を行
っ
ていた。
そ
の人物の一人が
満
州
里
から
ザ
バ
イ
カ
ル
州
チタ
に
拠
点
を
置
く
ザ
バ
イ
カ
ル
コ
サッ
ク出
身
の
グ
レ
ゴ
リー
M
セミョ
ーノフであ
っ
た。政府内でも
セミョ
ーノフに対する支援は容認され、
軍
資金
や
武器
の援
助
を行うようにな
っ
ていた。日本単独での出兵も
考
慮
さ
れていたが、政府内からは、日本の出兵には
米
国の
経済
的支援は
不
可欠
で
あり、対
米
協
調
の
点
からも
米
国との
協
同出兵を
希望
する
声
が
強
か
っ
た。
一
方
米
国は、反革命政府の支援には関
心
がなく、出兵には
消
極
的な姿勢
を見せていた。しかし、一九一
八
年五月、
オ
ーストリアの
圧
政から独立す
るため西部戦線への
合
流を
目
指
していた
チ
ェコ
スロ
バ
キア軍団とドイツ
俘虜
がシベリア
鉄道上
の
チ
ュ
リェ
ビ
ンスク
駅
で
衝
突
すると、
米
国は
友
軍で
ある
チ
ェコ軍の
救
出を
目
的として日本との
協
同出兵を
決意
した。
こうして一九一
八
年
八
月二日、日本と
米
国はロシアの内政に対する
不
干
渉
兵力の
制限
チ
ェコ軍団およ
び
ロシア国
民
の
救
済
などを条
件
として、
シベリアへの
協
同出兵を行
っ
た。日本からは
ウ
ラ
ジ
オ
ストクへ派遣軍司令
部、
沿海
州
へは第一二師団、
黒龍
州
ザ
バ
イ
カ
ル
州
に第七師団
第三師団
が派遣された。
日本はチェコ軍の救済という目的とは裏腹に、セミョーノフへの独自の
援助を続けていた。しかし一方で、連合国が反革命政府の中心に選んだの
はセミョーノフではなく、元黒海艦隊司令長官コルチャークであった。英
の肩入れにより反革命連立政権の陸相に就任したコルチャークは、同年一
一月、オムスクにてクーデターを起こし、反革命政府は事実上コルチャー
クによる軍事独裁政権
(オムスク政府)となった。
連合国はオムスク政府
の援助を開始した。
一九一九年一月、
日本政府
(原敬内閣)も
「秩序維持
の責務を任すへき統一政府
7」としてオムスク政府の援助を本格化させた。
また同時にオムスク政府よりザバイカル州軍管区司令官に任命されたセミ
ョーノフへの直接的な支援を打ち切った。しかしその半年後、ボリシェヴ
ィキとの戦闘によるオムスク政府の衰退を理由に、英仏はシベリアからの
撤兵を決定する。連合国の足並みが
わない中、鈴木率いる広島第五師団
はザバイカル州チタへ向けて出征した。
特色
以下、
「西比利亜日記Ⅰ」
(以下、 「日記」 )の紹介である。
今
回は、
「兵力
問題」
、「日本の中立的立場」
、「軍紀問題」の三点に着目し、日記を見る。
1
、兵力問題
到着当初鈴木は、先任の第三師団長大庭二郎より「東北部の掃蕩事情、
セメノフ軍の状況」を聴取している
8。
当時ザバイカル州では、オムスク政府の弱体化に伴い、ボリシェヴィキ
(以下革命軍)が勢力を拡げていた。セミョーノフ軍も革命軍との衝突が生
じ、ザバイカル州東部バグダットスカヤでは交戦状態にあった。しばらく
は優勢を保っていたセミョーノフ軍だったが、第三師団が撤兵のために後
退すると戦況は日に日に悪化していき
9、ザバイカル州はこれまでにない混
乱に陥っていた。
日本にとって、ザバイカル州は「過激派ノ東漸ヲ捍禦スル」ための「緩
衝
地帯
」であり「緩衝国」
擁
立の
候補
地
として
重要
な
土
地
であった
。ザバ
イカル州の「秩序の
崩壊
」は
極
東三州に混乱を
招
き、
満蒙
権
益
そのものに
影響
を
与え
る
恐
れがあった。そのため、ザバイカル州の秩序の回
復
は「
帝
国自
衛
の
為緊急
の
要
件
」であった
。第五師団の第一の任務は、ザバイカル
州の秩序を
速や
かに回
復
することであった。
しかし、
セミョーノフ軍が
対峙
しているのは、
革命軍だけではない。
「日記」にも、九月
四
日にはダ
ウ
リヤに
お
ける
富陛額
の「反
逆
」、
翌
五日に
は
ネ
ルチ
ン
スキザオー
ド
方
面
に
お
ける
3.K
の半部が「
逆
」の
報告
が見られ
るように、
各
地
で反乱が
発
生していた。セミョーノフ軍の
特
徴
はコ
サ
ック、
ブ
リヤート、
モ
ン
ゴ
ル、
ツ
ン
グースな
ど
の
様々
な
民族
や
階級
で
組織
されて
いたことであるが、そこには
意思
の
疎
隔
が生じ、軍紀が
甚
だしく
紊
乱する
欠
陥があった
。革命軍の優勢に伴い、セミョーノフ軍からは
離脱者
が
多
発
していた
様
子
が
伺
え
る。これに伴い、セミョーノフ軍からは第五師団に
対
し、
頻
繁
に派兵の
要
請
がされるようになる
。しかし、鈴木は
容易
に派兵を
行
わ
ず
、また
浦潮
派
遣
軍司令部からの派兵
要
請
に
つ
いて「兵
数不
足の今日
誠
に
困
たものな
り
」と
苦言
を
呈
している。
また九月一五日の日記では、
「
予
の直下にある部隊は
歩
兵
七
大隊半に過
ぎ
ず
、
而
も一中隊
百
四
十余人
の
ものを以て
七百里
の
鉄道
保
護
、
治安
の維持を
為
し、
他
方にはバグダスカヤ
ー
付近
に
於
ける過軍の
根拠
を掃蕩せんとす。
果
して
成効
す
べ
き
や
、
否
、大
に
疑
はる
ゝ所
なり」と記した。
当時日本は、ロシア人救済のための手段として、経済的援助
いわゆる
「救恤
」を優先させており、
軍事的行為はなるべく避ける傾向にあった。
「治安を紊乱するものある」ときは
「露国軍をして之に当ら」せ、
必要が
あれば、反革命軍への「支援」として派兵を行う方針を取っていた
。しか
し、
「緊急の要件」であるザバイカル州の秩序を回復するには、
第五師団
の兵力は不足していた。これは第三師団から見ても「少きに過ぐる」状態
であり、鈴木は第三師団から一部隊を借り受けている
。だが第五師団の兵
力不足は、革命軍の「掃蕩」以外にも影響を及ぼしていた。一一月一〇日
の
「日記」には、
参謀総長上原勇作に対し、
「オムスク方面の情況如何に
依り、当師団主力を西方に集中せんとするに当り、西部アムール線を放棄
せば、大約七大隊の歩兵を集め得べし。状況右を要求するに至れば、アム
ール線の大部を放棄するを至当とせん」と伝えている。出兵中、鈴木を悩
ませた一つの要因は「兵力不足」であったことが伺える。
2
、日本の中立的立場
一〇月二四日の「日記」には、浦潮派遣軍司令官大井成元との談話の内
容が記されている。鈴木が大井と会談するのはこの日が初めてであり、主
題は日本軍の対露政策であった。
大
井は最初に
「
帝国軍隊の価値
(有形無 形凡ての点)を世界に紹介すること」の重要性を述べた。
前述のとおり、
日本は出兵に際してロシアに対する「救恤」を優先させていた。ロシア国
民の趨向を察し、ロシア国民の支持を得ることは、同時に国際社会におけ
る日本の地位を向上させることにも
がった。また大井は同時に「帝国は
決して一方に偏することなく厳む中立の位置に立つ」ことの必要性も説い
た。出兵の本質は「穏健分子」によるシベリア自治政府の樹立である。オ
ムスク政府に変わる政府が樹立した際には、速やかに支援を開始する必要
があった
。この「中立の位置に立つ」という認識は、その後鈴木が、連合
国間で生
じ
る
問
題への対
応
に
示
される。そしてそれは
問
題の
解
決以上に重
要な
役割
を
果
たした。
一〇月二五日の「日記」からは、
米
国からオムスク政府へ
輸送
される
小
銃
を
巡
り、
両者
の間で
衝突
が生
じ
たことが分かる。鈴木はその際「
両者
の
中間に立
ち
」、
仲
介を行っている。
またオムスク政府の
崩壊
時には、
セミョ
ー
ノフ
軍と
チェコ
軍の
衝突
も生
じ
た。オムスク政府より
極東
軍司令官に
任
命された
セミョ
ー
ノフ
は、オム
スク政府の「
貴
重
品
」をイルクー
ツ
クから避
難
させるため、ス
キペト
ロ
フ
支隊をイルクー
ツ
クの
停車
場へ急行させた。イルクー
ツ
クでは当時、革命
軍と連合国
代表
者
による
協議
が行われていた。
セミョ
ー
ノフ
軍と革命軍の
衝突
を
危
惧
した連合国総司令官
ジャナン
は、連合国
代表
者
の生命
保
護
のた
め、
指揮下
の
チェコ
軍を
停車
場
守備
に
充
てた。これに対し、
セミョ
ー
ノフ
軍は「
ジャナン
将
軍
並
に
其配
下
の
チェ
ッ
ク軍は革命軍に同情を
寄
せ、
隠然
之を援助せるもの」と
判断
し、一方
チェコ
軍およ
び
ジャナン
は「
セ
メ
ノフ
は
鉄道運
行を
妨害
し
チェ
ッ
クの
東
方
輸送
を
故意
に
遅延
」し
兼ね
ないと
判断
、
ス
キペト
ロ
フ
支隊の
武装
解
除
を行った
。この
武装
解
除
問
題は、鈴木や
仏
国
を
除
く連合国においても
予想
外のことであった。ザバイカル州の緊
張
は
高
まる中、
チェコ
軍の
東
進
は始まった。
一月一二日の
「日記」によると、
「
近
時に
於
ける
チ
ヰ
ツ
ヒ
及
セ
メ
ノフ
両
軍は
共
に
神
経過
敏
となり、
動
もすれば
衝突
」を
起
こしか
ね
ず
「時
局
の
紛糾
益々拡
大せん」状況であった。そのため鈴木は、ザバイカル
鉄道
沿
線
停車
場に部隊を
配
置し「
応
急の
姿勢
」を取った。
チェコ
軍に対し、
セミョ
ー
ノ
フ軍への
「暴行を阻止」
し衝突を避けるため、
「予の貝加爾州に於ける立
場を言明し、武力に訴へても其非行を抑止」することを宣告している
。さ
らに一月一七日の「日記」では、チェコ軍の先頭車両がチタに到着するに
際し、
「露国人心恟々として避難を企画するもの等ありて不穏の形勢を呈
す。依りて師団は先日の如く部隊を沿線停車場に配置す。然れとも露国軍
隊は尚動揺止ます、
独
断を以て出動せるもの等ありて由々敷大事を醸生
〔成〕
せんとする勢となれり。
依りて極力セ軍側を圧へると同時に、
万一
を顧慮してペスチャンカの部隊をも招致せり。
」とある。
以上のように鈴木は、主にセミョーノフ軍と連合国軍が衝突する際に中
立的位置に立ち、問題の解決を図っていたことが分かる。
元来連合国はセミョーノフ軍の不軍紀を問題視していた。特にコサック
による鉄道妨害は、チェコ軍の救済
ロシア国民の保護を名目に出兵した
米国の行動を阻害していたため、両者の関係は著しく悪化していた
。両者
の対立は日本にとっても好ましいものではなかった。日本は「救恤」にお
いては米国と競争関係にあったものの
、一方では「米支両国と堅く提携」
し、極東における資源開発を行う計画を立てていた。そのため米国との良
好な関係を保つ必要があった
。しかし、米国のセミョーノフ軍に対する不
満の矛先は、
同時に日本にも向けられていた
。
鈴木にとって
「中立の位置」
を保つということは、日本にとって「穏健分子」であるセミョーノフと、
協力関係にあるべき米国との関係を保つための対応策であった。またセミ
ョーノフ軍が、出兵の大義名分を背負うチェコ軍と正面衝突することは、
避けたかったであろう。それは連合国も同様であった。鈴木によるセミョ
ーノフと諸外国の仲介はザバイカル州の秩序を保ち、緩衝地帯を守ること
に
がった。それは時として連合国に「帝国軍隊の価値」を認めさせる行
為であったことが分かる。
3
、軍紀問題
「日記」
中には、
第五師団の軍紀に関する記述がたびたび見られる。
九
月
二
日の「日記」には
青年
将校
の行為に対する
困惑
の
念
が
綴
られている。
出兵に際し、兵
士
の軍紀
弛
緩は問題の一つとされていた。
革命
の
勃
発した
国への出兵という事もあり、
現
地においての兵
士
の「
赤
化」は
世間
の
注
目
するところであった。
実
際に
現
地での、上
官
に対する
侮辱や抗
命
行為な
ど
が
確
認されていた
。第五師団も
例
外ではなく、鈴木が
丁種勤務演習
の際に
与え
た「
訓示
」の
内容
に対し、
在郷
軍人が「
下
士
以
下
を
侮辱
せるもの」で
ある、と
反
発する出来事が生
じ
た
。鈴木は出
征直
前
の
八
月一一日、
将校
に
対し、出兵先での言
語
不
通
や
習
慣
の
違
いによる衝突
や
、出兵地を「
我占領
地」のように
振
る
舞
う行為は日本の
威信
を
失墜
させ、また外
交
問題に発
展
する
危
険性
もあるため、
充
分
注
意
をするように
訓示
を
与え
ていた
が、
砲
兵
大隊による鉄道
従業員
への
威
嚇
行為の
詳報
に
接
したことが
八
月
三〇
日に記
されている。
また第五師団が出
征
して
間
もない
八
月一九日の「日記」には、
広島留
守
第五師団からの
電
報
「
松山
の
細
木大
尉
中隊不穏の
件
」について記されて
いる。第五師団の
管轄
である
松山留
守第
二二
連隊の中隊
長
細
木大
尉
が、
命
令
に背いた
下
士
官
に対し
過剰
の
処罰
を行ったため、中
尉
と
下
士
官
の衝突が
起
こっていた
。出兵地に
だ
けでなく、
内
地でも軍紀
弛
緩による問題は発生
していたことが分かる。鈴木はこれらに対し、
青年
将校
の
指導
は難しく、
また「
世
の中も
随
分
六
ヶ
しきものとなれり」
( 九月一一日 )と述べている。
「
デモ
ク
ラ
シーの
思潮
」が
高揚
する大正時
代
において、
軍隊の
指
揮
官
が
常
に統御上の問題を抱え、苦悩していた様子が伺えよう。
以上の三点以外にも、鈴木の「日記」からは次のようなことが分かる。
十二月二六日の「日記」では、鈴木は露国中将フレシチヤに対し、日本軍
の国事に対する姿勢と「露国の大難来る能く此心を以て上下一致団結」の
必要性を説いた。また鈴木はロシア国民の「大難」に対する姿勢をロシア
国民の礼儀や素行から感じ取っていた。鈴木は「元来露国なるものは帝政
時代の如く」統治されるよりも「独立自治を為さしむるを有利得策」とす
るのではないか、
と記している。
またもし大露国の復興を目指すにせよ
「一般人民の意向素質に鑑みるに旧時に於ける如き大露国の復興は前途甚
た遼遠」であり、反革命軍やロシア国民の「大難」に対する認識の不一致
に苦言を呈している
。これは「西比利亜日記」全巻を通して見られる記述
である。
さらに「日記」からは、日本の資源開発計画や、満蒙権益の保護問題に
関する米国
中国との会談の様子が伺える
。特に中国との会談中、ヨーロ
ッパの矛先は再び「戟先は一斉に東洋に向はん」とし、これからは「黄色
人種対白皙人種」の時代になる、そのためには「同種同文」である日本と
中国が団結
協力し、日支親善を増進させる必要がある
(九月二四日)、と
しているのは興味深い。
以上が
「西比利亜日記Ⅰ」
における特色である。
「日記」
の後半部分で
ある「西比利亜日記Ⅱ」および「西比利亜日記Ⅲ」の史料紹介については、
別稿に譲る。
〔付記〕 本稿執筆にあたり、史料の翻刻掲載については国文学研究資料館から許可をい ただいた。鈴木荘六の令孫 坂本貞枝氏には今回の翻刻掲載を快諾していただき、 様々な助言をいただいた。記して御礼申し上げます。 注 1 「鈴木荘六文書」 (史料番号九 一~九 三) 。 2 『 史料目 録第 九 五集 近現 代文書目 録 (その一) 』(人 間 文 化 研究 機構 国文学 研究資料館、二 〇 一二 年 )。 3 大 井成 元 「西比利亜 出兵ニ 関 スル思出ノ 一 端 」( 『 近 代外 交 回 顧 録 四 』、 近 代 未完 史料 叢 書 五 、 ゆ まに書 房 、二 〇〇〇年 、本文は一九三九 年 の復刻 版 )。 4 大 庭 二 郎 「西 伯 利の 惨状 」( 『 戦友 』 一四九号 一六二号、軍人会館 出 版 部、 一九二二 年 一九二四 年 )。 5 西 川虎 次 郎 「西 伯 利 出 征私 史」 (西 川虎 次 郎 、一九二四 年 )。 6 原 暉之 『 シ ベリ ア 出兵 : 革命と 干渉 一九一 七 一九二二 』( 筑摩 書 房 、一 九 八 九 年 )、 細谷千 博 『 シ ベリ ア 出兵 の史 的 研究 』( 岩波 書 店 、二 〇〇 五 年 )。 7 防衛省防衛 研究 所 「 浦 潮派遣 軍 司 令 官等 に 訓 令 及 指 示 の 件 」( C 06 03 20 08 60 0) 。 8 「日記」一九一九 年 八 月二 五 日。 9 参謀 本部 編 『 大 正 七 年 乃至 一一 年 西比利亜 出兵 史 』(上 513頁 、 新 時代 社 、一 九 七 三 年 、本文は一九二四 年 の復刻 版 )。 10 外 務 省 外 交 史料館「 原 内閣 成 立後自 第 二十回 至 第 二十二回 / 二 第 二十一回 大 正 八 年 八 月一 五 日一 」( C 03 03 00 29 20 0) 。 11 注 7 に同じ。 12 富陛額 は モンゴ ル 軍 兵 士 であり、この時 期セミョ ー ノ フ軍に 参 加 し ダ ウ リ ヤ での 活動 をしていた。 防衛省防衛 研究 所 「 附 録第 一 五 号民 国 陸 軍 参謀 駱 斌 ニ 関 スル 件 報告 」( C 13 11 02 58 70 0) 。13 防衛省防衛研究所「西伯利出征間の状況上奏の件」 ( C 07 06 08 49 00 0) 。 14「日記」一九一九年八月二六日、九月四日、同月五日。 15「日記」一九一九年九月六日。 16「救恤」については井竿富雄『初期シベリア出兵の研究』 「新しき救世軍」 構想の登場と展開 (九州大学出版会、二〇〇三年)に詳しい。 17 注 7 に同じ。 18「日記」一九一九年九月一五日、九月一七日。 19 注 7 に同じ。 20「日記」一九二〇年一月三日。 21 外交史料館「七 大正八年末ヨリ九年始ニ亘ル「イルクーツク」政変ニ関ス ル調書二( B 03 05 12 27 10 0) 。 22「日記」一九二〇年一月一三日。 23 加藤博章「シベリア出兵における軍事関係」 米国シベリア派遣軍司令官を 中心に (『軍事史学』第四八巻 第三号、二〇一二年) 。 24 注 16と同じ。 25 注 7 に同じ。 26「日記」一九一九年九月一日。 27 藤村道生「シベリア出兵と日本軍の軍紀」 (『日本歴史』二五一号、吉川弘文 館、一九六九)に詳しい。 28「日記」一九一九年九月一一日。 29「鈴木荘六文書」 (史料番号二五六 一二 四) 。 30『読売新聞』 (一九一九年八月二九日付記事) 。 31 浅野和生『大正デモクラシーと陸軍』 (関東学園大学叢書九、関東学園大学、 一九九四年) 。 32「日記」一九一九年一二月九日。 33「日記」一九一九年九月二三日、九月二四日。 凡例 本日記の翻刻にあたっては、原文に忠実であることにつとめたが、読みやすさ を考慮し、以下の準則を定めた。 一、字体は原則として、本文中のカタカナ 変体仮名は平仮名に改めた。但し、 人名 地名等の固有名詞についてはそのまま用いた。また、漢字は概ね、新 字体および通用の字体に改めた。 二、 句 読点は適宜付し、 段落 改行は原文に従いつつ、 適 宜整えた。 ま た、 闕字 平出は詰めた。 三、修正部分については、修正された部分のみ起こし、明らかな誤字と判断でき る部分は〔 〕で訂正した。また、固有名詞(外国人名 地名など)のカタ カナ表記については、表現の揺れや誤植の判断がつきにくいため、原文通り とした。編者注記は〔注〕とした。 四、人物に関しては初出時に[ ]を付して、適宜補った。 五、欄外の記述は(欄外)とした。 六、解読不能の箇所には□を付した。 七、原文中の一部に現在の視点からは不適切な表現が見られるが、歴史史料とし ての性質上、原文のままとした。
日記表紙 第五師団長 西比利亜日記 Ⅰ Sa uz ou ki 自大正八年八月十三日至大正九年二月五日 本文 大正八年八月西比利亜出征日記 八月十三日 晴 炎暑焼くが如し 午後二時、侍従武官[松下東治郎]より宇品埠頭に於て左の御沙汰を受く。 師団長以下一般のもの丈夫にして任務を果すべし。 将卒乗船出発の模様を見て帰れ。 右に対し予は、 優渥なる御沙汰を賜り臣等感激の至に堪へす。臣等益奮励、聖旨に添へ奉ら んことを期す。 右言上を乞ふ。 午後三時、解纜す。 此日見送者の主なるもの加藤海軍大将 [定吉、 呉鎮守府司令長官] 、 広 島山口両 県知事[若林来蔵 中川望] 、志方[鍛]控訴院長等なり。 半巾を揮つゝ送る群のうちに目につくものがある哉 八月十四日 晴 風稍強し 未明馬関を過ぐ。六連島にて停泊す。 午前九時、六連島を出発北向す。 此日浪高く船の動揺甚し。 騎兵用乗馬一頭斃死す。蓋し心臓強きに拘らす風入悪き場所に置きしに因るなら ん。 八月十五日 風強く浪高し 正午、鬱陵嶋附近を過ぐ。該島は往年日鮮間の国際問題を起せし所にして又日露 役敵提督[ロジェストウエンスキー]の捕獲せられし所感不尠。 此頃より風稍凧〔凪〕ぎ浪低し。 八月十六日 風強く浪高し 船内の大部分、頭を抬ぐるものなし。 新高の山の如くに功を 掲 んと 勇む 大 和男 の 子 等 八月十 七 日 風強く浪高く 雨降 る 午前十時三十分、 浦塩 埠頭 着 。 降雨 の 為め 大部分上 陸 を見 合 はす。 予 及び副 官は 憲 兵司令官 宿舎 に 投宿 す。 揮り かざ す大 和男 の 子 の 太刀 風に 掃ひ清 め ん西比利亜の 原 十年 余 り 秘 め 蔵 め た る 我 太刀 を 今ぞ試さ ん西比利亜の 原 午後二時三十分、軍司令官[大 谷喜久 蔵、 浦 潮派遣 軍司令官]に 伺候 す。此 夜 軍 司令部 催 の 歓迎会 に 臨 む 。 八月十八日 晴 午前十一時、軍司令部に出頭。 参謀 長[ 稲垣 三郎、 浦 潮派遣 軍司令部 参謀 長]よ り一般 情況 其他 の 件 に関し 承 知す。 此 夜 軍司令部上 陸 一 周 年記 念 会 に 臨 席 す。午後、 歩 兵第二十二連 隊 宿 営地 を 巡視 す。 此日午後、 参謀 長をして 22i長[ 井 上 弟 五郎]の 統 御上に 就 て 注意 を 与 へし む 。 22i 長も自 覚 にありて 修養 を 積 む 気 ありとのことなりき。 八月十九日 晴 午前十時、軍司令官の 訪 問を受く。 留 守 参謀 よりの左の 電報 あり。 松山の 細木 大 尉 中 隊 不 穏 の 件 。 細木 大 尉 は従来 統 御 訓導 の上に於て 属 し 処罰 せられ、又 訓戒 を受 け た ることあり
と云ふ。然るに今日此事あるは監督者の不注意の罷免るべからす。 午後一時半、明二十日師団司令部出発に関する時刻の指示を受けたり。 鯉のほる勢もてる兵士の 行くてさへきるものはあるまじ 午後三時より各国武官を訪問す。仏少佐ルノンドに邂逅す。 八月二十日 晴 午前九時二十分、浦塩停車場発特別列車にて西行の途に就く。見送人大谷軍司令 官、其他多数ありたり。 広陵たる大平原綿原峰涯なり。野花満開毛氈の如き観あり。 かぎりなき野原色どる萩の花 夜半国境を越て支那領に入る。 此日暑きこと日本内地と異ならず。 八月二十一日 晴 騁行依然然し時に停車場にて罷工上問題ありたるも大なる支障を生するに至らす。 午後九時、ハルピン着出迎者多数なり。十時半 石坂氏[善次郎、浦潮派遣軍司 令部附 ( ハルビン特務機関長) ] 宿 舎にありて快談す。 午後十一時三十分発、 西 行す。此日暑し。 八月二十二日 曇 微雨あり 午前六時、安連にてセメノフ[グレゴリー M セミョーノフ]乗車汽車と会す。 黒沢大佐 [ 準、 浦潮派遣軍司令部附 (チタ特務機関長) ] の 訪問を受く。 セメノ フと会談するに至らざりしは遺憾なり。 午後九時、興安嶺に入る。山又山なるも高からず。十時過、例の堕道を過ぐ。 音に聞く興安嶺も何のその 一夜に過ぐる汽車の旅哉 八月二十三日 晴 午前八時三十分、満州里に着す。 〔午前〕十時半、発車す。 白樺の木の間を る汽車の旅 音づるものゝなきそ寂しき 百千里行けと果なき大野原 人里稀に飛ぶ鳥もなし 細野旅団長[辰雄、第二一旅団長]は交代引受家屋の不備に就て不平を唱へ居れ り。此日 冬服 を着 用 す。 八月二十 四 日少 雨 后 晴 午前六時、 ア ンチビー パ に着し、 茲 に 下 車準備を 整 ふ。 午前九時、 知 多着官 民及コサ ック中隊 の出迎を受く。 到 着時の 手順甚 た不 可 なり き。 茲 に今日より西 比利亜 生 活 の第一 歩 に入れり。 知 多は西 比利亜 の 京都 にして 市 街 の 中 央 を 流 るゝ 知 多 川 は 恰 も 加茂川 の如くして 而 して三 面 山に 掩 はれ 森林緑 翠滴 ら ん とす。 想 はりき西 比利亜 原の 真 中 に 京都 に 似 たる 都 ありとは 午前十時過、第三師団長[大 庭 二郎]より 当該 師団の今日 に 於 ける 任 務 並 に 情 況 の 変遷 の大 要 を 聴取 す。 要 は 中 央 部の 方針 に 導由 し、 軌 道 外 に 逸せ ず、 任 務の 遂 行に 全力 を 尽 すに 在 り。 此日午後三時半に 於 て 華 氏六十 五度 なりき。師団司令部の交代準備に関しては、 第三師団長 以 下 の 好 意に依り 万 事 整 頓 し 心 地 能 く受 継 を 為 し 得 る 姿 勢にあり。 八月二十 五 日晴午 後 降 雨あり 午前九時半 頃 に 於 て第三師団長より 東北 部の 掃蕩 事 情 、セメノフ軍の 状 況 等 を 聴 取 す。 午前十一時三十分、 挙 行のセメノフ軍、過 激 派軍 撃退 一 週年 観兵 式 に 臨む 。 驟 雨至る時は本 街 道 河 の如く 流 る。
八月二十六日 朝少雨後晴 午前十一時、セメノフ軍の新指揮官及参謀長[ズブコブスキー]来訪す。 其言に曰く 過日来バグダート方面討伐コサツク軍は目下敵と接触、攻撃中なるも日本軍の 後退に依り進捗せず。又該地付近は密林にして騎兵砲兵の運動に適せず。今後 協力援助を乞ふ。 予は左の如く言明せり。 適当なる好時機に於て協力するを辞せす。尚研究すべし。 右通訳鈴木訳官。 午後一時、衛生上の連絡として当司令部に派遣のセメノフ軍附二等軍医正来訪す。 午後三時三十分より大庭師団長の嚮導にて左記のものを訪問す。 セメノフ司令部 後貝加爾州長[セルゲイ A タスキン] 知多市長[タバーチン] (留守) 英国両大尉(米領事に邂逅す) 米国少尉 チヱック少尉は第二知多にあるも曽て来たことなしと云ふ。依て訪問せす。 今日ボルチヤに於て露国将校に汽車中拳銃を窃取せられんとせる電報ありたり。 八月二十七日 晴 昨日訪問せし諸外人答訪し来る。米領事[ロナルド S モーリス]も然り。 此日初めて露式浴場に行く。 夕刻、第三師団長以下諸幕僚部長等を招待し会食す。 松本砲兵大隊汽車輸送中擬似コレラ患者一発生の報あり。 八月二十八日 晴 華氏七十度 午前十一時、ブリヤート族頭領来訪し左の言あり。 西比利亜には過激主義放蔓しカザツク兵と 雖 とも 何 時 蜂 起 する や もしれず。然 れともブリヤート族人は 決 して右 様 のことなく 若 し右 蜂 起 の場 合 ありとせ ば ブ リヤト人は団 結 して 之 に当らんとす。其時には 何 なりと 用 命 せられたし。 予は右に 対 し 右 様 の場 合 ありとせ ば 協力を 望む ことあるべし。 要 するにブリヤート族は 我帝 国に 対 し好 意 を 有 するもの ゝ 如く 解 せらる ゝ も 果 し て如 何 に や 。通訳 秋 草 中尉。 午後 四 時、 3.D長と 共 に米領事を訪問したるも留守なり き 。 八月二十 九 日晴 今日初めて市中を 自働 車にて 見物 す。 周囲 の 光景頗 る 佳 にして 殊 に 白樺 の 森 林中 の 散跚〔策〕 騎 乗極 めて 可 なるを 想 はし む 。 帰途古沢 領事[ 幸吉 、チタ 副 領事] 住宅 に 立寄 り 喫茶 の 后 、 帰 宿 す。 河 西大 佐 来訪。トロックに機 関 銃 搭載巡視必 要 談 あり。 ( 挿入 午後 井 上砲兵少 佐 [ 九 郎 、 野 砲兵第 五 連隊第二大隊長] 申告 に来り。 安 連 駅 長に 対 する 処置 を 略述 せり) 八月三十日 払暁 前 微 雨 后 晴 正午七十度 モーリス大 使 今明日中来知。第三師団長訪問の通知ありたり。 此夕 井 上砲兵大隊の 安 連に於 け る 鉄道従業員威嚇 の 詳 報に接す。 同 少 佐 は 出 発前 の 訓示 を 承 知し 居 らず。 驚 き 入 りたる 次 第なり。 八月三十一日 晴 日中七十度 此日 天 長 節 に 就 き 、 差支 な き ものは事 務 を 執 るに及 ば ざ る 旨 一 般 に 達 せり。 昨 夜 セメノフ軍参謀長、 鳥 居 翻 訳官 [ 忠 恕 、外 務 省 翻 訳官] 同 行、 3.D長を訪 ひ 、 今朝三時 旧 露 帝 室親王 、 内親王 、大官等 公 人の 死体 を汽車にて輸送に来るを以て、 過派に 覚 られ ざ る 為 め日本 自働 車にて 寺院 に送りたしと。 3.D長 之 を 快諾 し午前 三時、三 輌 の 自働 車にてチタ 駅 より 寺院 送り 届 け たり。 蓋 し此 屍 体 は エ カ テ リ ンブルグ 撤 退の 際持 来りたるものにして 皇 帝 並 に 皇 后 の 屍 体 は 到 底 見 当ら ざ りし と云ふ。一時 隆盛 を 極 め 天 下に 覇 たりしロ マ ノフ朝も 実 に 惨 の 極 に 達 せりと云 ふべし。 〔 注欄 外に あり 〕
九月一日 晴 午後二時、 米国陸軍少将 Gr av es [ウィリアム S グレーブス、 アメリカ派遣 軍司令官]来部。 3.Dと同務上に於て左の要旨の談話ありたり。 オムスク政府は薄弱にして若し敵がトボル河を〔渡〕るに至れば巓覆の外なか るべし。軍隊に戦意なし。今後の形勢頗る悲観すべきなりと。 午後三時三十分、米大使 Mo rr is を 3.D長と共に汽車中に問ふ。彼の談話中、特に 銘記すべきこと左の如し。 一、鉄道守備に米兵を加用すること。 二、オムスク方面の依頼不可能のこと。 三、セメノフ軍の行動不可なること。且日本の陰に之を擁護しあることに関す るイヤ味のこと。 四、ダウリヤに配兵せざることの不審。 五、セメノフ軍隊の慮〔虐〕殺行為。 六、セメノフの小人物たること。 七、鉄道守備に関する任務の見解を毎東京に於て決定すること。 右要旨は之を総長[上原勇作、参謀総長] 、大臣[田中義一、陸軍大臣] 、軍司令 官に宛て 3.D、 5.D長二人の名を以て報告(電信)し置けり。 満州里に残置しあるA及Kの二兵卒は、共に悪性虎列剌に決定したり。噫。 満州里の交代に関する細野少将の詳細報告に接す。亦□□の発祥〔症〕困たもの なり。 九月二日 払暁前降雨 後時々曇る 本日初めて家庭通信に接す。 22i留守隊のことに就て書記報告あるも未た其要を委さす。留守司令部は何故に速 に幕僚を派遣せざりしや。理事一人の出張は其処置緩漫〔慢〕なりと云ふべし。 又倉本週番中尉の処置其 馬鹿 さ加 減 に至りては 言語 の外に 在 り。 青年 将 校 の 指導 亦 難哉 、噫。 九月三日 晴 二、三日前 よ り 咽喉 部 風邪 の 気 味にて今 朝 、 崎 田軍 医 の 診察 を 受 けたるも、 体温 平常 の如 く 大したることなし。 九月四日 曇後少雨 続く 六十 八度 午前九時三十分、セメノフ中将[グレ ゴ リー M セ ミョ ーノフの 叔父 ]及参謀 長を 招待 してアルグ ン 河 谷 の 情況 を 聴取 す。中将は 頻 りに日本兵の 赴援 を 請求 せ り。 同時右参謀長は、ダウリヤに於ける 昨 三日の 富陛阿 [ 富陛額 ]将軍 射 殺に関する 電報を通 牒 せり。之に依れば同将軍の 反逆 に依り、之を 捕獲 せ ん とせし よ り 遂 に 戦 闘 を 開始 するに至りしが如し。 午後五時 半 、東 西仏教統 一官長 第 八 代 バ ン ジドハ ム バラ ム来 訪 す。ブリヤー ド族 会頭 も同行あり。 単 に 敬 意を 表 するに 止 れり。 今日は 微 雨 粛 々 感慨 を 催 す。出き ら す。 筒煙 見 ゆ る ひ もなし 矢叫 の 声 も 聴 へじ い と ゞ寂 しき 九月五日 晴 前十時 六十三 度 午後四時 半 、中将セメノフの代理来り。 ネ ル チエ ン ス キザ オー ド 方面に於て 3.Kの 半 部 逆 を為し人 心 不 穏 のことを 陳述 し 援 兵を要 求 せり。故に不 取 敢 満州里及 ネ ル チ ン ス キ ー よ り 準 備出来 次 第 支 援 隊を派遣することを 言 明 せり。 午後七時 半 、中将セメノフ来り。 シ ルカ河 谷 の不 穏 状態 を通報せり。 九月六日 晴 午前九時、 緒 方少将[ 多賀雄 、 第 九 旅団 長]来 知 す。一 般 の 情況 を 知 ら せたり。 オムスク方面の形勢 容易 な ら ざる為め可 成早 く 任 地 に 赴く べ く 話し置けり。 午後十時三十分、軍参謀長 よ りダウリヤに一部隊派遣 、電報あり。 対 米 対露 と云ふ。其 真相果 して如何。 只去 三日の 露 軍 側 の 騒擾 に 恐畏 したるにあ ら ざるな きか。兵 数 不 足 の今日 誠 に困たものなり。 午後十一時 過英 大 佐 エ リオ ッ ト、 チ タ 通 過 したるも中 谷 参謀[ 勘 作、 第 五 師 団 司 令部参謀]をして名 刺 を 伝 へ しめ置きたるの み 。
九月七日 晴 朝霧深し 午後三時、英大尉レーナ氏、第三師団長来訪、左の要求あり。 ノックス少将[アルフレッド ノックス]よりの命令に曰く、ウヰルフネー付 近には過激派の陰〔隠〕匿せる兵器弾薬沢山あり。日本軍の協力により之を探 し出し置くべし。 依て予は直に騎馬、第一知多へ行き緒方少将に右の赴を伝へ応分の協力を為すべ きを命せり。 此日初めて松山事件の詳報来る。之に依り当時の聯隊長大隊長等の本人に対する 指導監督の甚た不可なりしを知るゝ。是れ然れども、今日にありては已に五日の 菊十日の菖蒲〔六日の菖蒲十日の菊〕に過ぎざるのみ。 九月八日 晴 此日中村大隊(二中隊)をスレテンスクに急派せり。蓋しシルカ河水運の保護と 該水運の起点を保護せんが為なればなり。 九月九日 晴 高波資源調査班員より貝加爾州東側及東南地区の偵察状態を聴取す。之に依れば 該方面は概して肥沃にして大軍の陣地占領に必しも不可なるなきが如し。而して 寡を以て衆に当るには貝加爾湖とキャフタ間を適当とするが如し。然れとも此線 は庫倫方面を目前に開放するを以て一考を要すべし。此夕高波と会食す。 九月十日 晴 此朝オムスク軍の有利なる電報に接す。 午後二時半、当地官民二百二十名を招待して宴会を催す。 3.D長及予の挨拶あり。 次てセメノフ中将の謝詞あり。極めて盛会なりき。相も変らず青年将 校 相当官の 失望 筬 に 値 す。 困 たものなり。 又露 人の行 儀 も 感心 せ ぬ もの多し。要するに 彼 らは 者 の水に対するが如し。 矢張西比 利 亜 式 なりき。 今夕 満 月 皎 し 転 て 旅情 に不 堪 。 西比 利 亜 の 荒野 を 照 らす月 影 も 都 大 路 に変ら さ り け り 今日、 歩 11i長[本 庄繁 ]来り。将 卒元気 時盛 皆々 今 度 の 討伐 に 従 へ 度 き 旨申居 け り。 兵 士 が事 安 れ か しと 剣太刀 磨 く 心 根 の 勇ま しき 哉 九月十一日 朝霧深し 前八時六十五 度 午前九時、 細 野 旅 団長来知。 討伐 に 関 する 打合 を為したり。 此日松山分会員 曹 長本 田 八 太 郎 と 称 するものより 丁種勤務演習 の 際 、 与 へたる 訓 示 の一 句「在郷 将 校 の 志操 堅確 ならん か 、 下 士 以 下 の 統 一 易 したる 云 々 」 は如 何 にも 下 士 以 下 を 侮辱 せるものなり、今日の将 校 彼 等 台ぶ 今日の 下 士 以 下 は 昔 日の 其 にあらず 云 々 とあり。蓋し デモ ク ラ シー 主義 者 の 誤解 より 生 すものならん。之 を 陸 軍 省 及 留守司 令官[ 上 田 太 郎 、第五師団 留守 隊 司 令官]に 送 付したり。 世 の 中も 随 分六 ヶ しきものとなれり。 九月十二日 少 雨 午前九時三十分、今 田 少 佐 [ 荘 一、 歩 兵第 四 二 連 隊第一大隊長]より 砲 兵 小 隊 損 害 の報あり。 元 来 砲 兵 小 隊に 歩 兵一 小 隊を付して派 遣 するが如きは大に考 慮 を要 すべき 所 なりき。然れども事 情 茲 に出たるものは 守 備 歩 兵方の寡少に 固 らずんば あらず。 基 督 教 青年会 慰問部 幹 事菊 池愛 二なるもの九月七日付 郵便 を以て 3.D長に 送 りた る 手紙 に左 記 要 旨 の こ とあり。 実 に 困 たものなり。 植 民地の大 発展 を為 さ ゞ るべ か らす。 朝 鮮 を 君 主 的 の 独立 を為 さ し む るを要す。 印 度 交跡支那 馬来 ヒリ ッ ピ ンを 解 放せよ。 ( 欄外 )此日 戦 死 者 のあるを 聞 きて 君 の為めき え にし人の 音信 を 聞 く 親 人の 心 い か に ぞ 九月十三日 晴 高 柳 少将[保 太 郎 、 浦潮 派 遣 軍 司 令 部 参謀 ]来知し、オムスク方面の 観 察 談 あり。
此日モコーチャ方面と連絡する為め、織田少佐[恭造、第一一連隊第一大隊長] の指揮する歩兵二中隊工兵二小隊を急派す。夜半十二時発車す。 九月十四日 晴 高柳少将出発の際、稲垣中将宛打電封書受領、開封して正午発送す。 九月十五日 晴 前十一時六十三度 午前十時頃、 参謀長 [二子石官太郎] は 3.D参謀長 [奥村拓治] に左の要旨を内 談せる筈なり。 今月下旬の討伐に関し、知多兵力少きに過ぐるは貴官の諒解せらるゝが如し。 已に貴官の諒解あるものとせば貴師団より 5.Dに協力する為め、 当地に一部を 残置するの必要を具申せられて如何。 午後五時 3.D長を訪問す。 3.D長曰く、 討伐協力は決して辞せす。心配することなく注文ありたし。今日、貴官に示し たる如く、軍司令官に 5.Dの兵力不足に関する意見具申を為し置きたく云々。 実際上、予の直下にある部隊は歩兵七大隊半に過ぎず、而も一中隊百四十余人の ものを以て七百里の鉄道保護、治安の維持を為し、他方にはバグダスカヤー付近 に於ける過軍の根拠を掃蕩せんとす。果して成効すべきや、否、大に疑はるゝ所 なり。況んや知多は当師団の根拠地一朝兇徒の蜂起あらんか、列国に対しては甚 だ不面目なり。故に徹底的掃蕩を為さんとせば、兵力甚た寡弱なるを感するなり。 若し 3.Dの一部を知多に残置するを得ば、此目的を達するを得るに至らん。 〔注 欄外に あり〕 九月十六日 晴 前九時六十二度 午後九時半、後宮参謀[淳、第五師団司令部参謀]偵察終りて帰還す。其労察す るに余りあり。 今夜通訳官と会食す。 九月十七日 晴 前八時三十分 六十一度 午後二時、黒沢大佐来部。大庭師団長の 同席 の前に於て、 先 達 浦塩行 に関する 結 果を内談せり。其大要左の如し。 一、 アタマンセメノフ の みアタマン の長となりたること。 二、黒 龍 方面にて 歓迎 せられたること。 三、 ロザノフ と意 志 の 疎 通せしこと。 四、 オム ス ク政府 に 反 意を 有 せさる 言明 のこと。 五、 奉天 訪問は他の意 志 なきこと。 六、対 米 に 就 て稲垣 等 より注意ありしこと。 等 なりき。 今夜、 両 師団長の 名 を以て セメノフアタマン 一 行 を将 校 楽 部に 招待 せり。 相互 打開け 話 しもありて成効なりき。 此日午後、 軍司令官より 3.Dの歩兵一大半を今月 末 知多に残置して 差支 なき電 報 ありたるを以て、師団は今 回 の討伐に於て大に 好都合 となり。 益 々 抜本 的打 撃 を 加へ ん為め、第十一 聯 隊の六中隊を シル カ 河谷 に派 遣 することとせり。 〔注 欄外に あり〕 九月十八日 晴 ブシュレ ー 附 近に 遺棄 せし 死体 発見の 報 告( 織田少佐より ) ありて安心せり。 昨 日午前、 井 上 砲 兵少佐 ネ ル チ ン ス ク より来り。一 般情 況 ( ブシュレ ー 戦) を 話 せり。要するに 敵情 を 軽視 し 宿営 地の 定並 に 警戒 の不 充 分なるに 基因 するもの と 判断 せらる。 乍併各 人の 戦 闘動作 に至りては実に 勇敢 にして 間然 すべき所なし。 午後二時三十分、 アタマンセメノフ を訪 ふ 。 快 感ありたり。 彼 の 風息 は当時の 那 翁 を 確想 せし む 。前 途 有 嘱 云々。 午後九時三十分、 音 楽 演奏 会に出 席 し中 途 帰る。 九月十九日 晴 前八時 六十一度 午前十時三十分、 セメノフ 中将来部。討伐に関する打 合 を為す。 曽 て 両 参謀長内 議 の 件 に 就 ては 異存 なし。 彼 等 も今度は大分 奮 発するものゝの如く 案 せらる。 九月二十日 晴 午前十一時、 3.D長帰 途 に 就 く。
一、露国の一中隊整列、我軍楽隊出場す。居留民、露国文武官、我将校皆見送 る。 二、 3.D長は先づ露軍の前を閲兵、 而して健康を祝すを述べ次に凡ての文武官 に握手の挨拶あり。 三、居留民に挨拶あり。 四、 陛下の御稜威に依りて任務を果したりとて、 3.Dの将校と共に主唱万歳三 唱。 五、露将校、文官等に挨拶して茲にウラーを唱へ、 六、乗車にて分袂す。 此時同乗工兵中(小)隊、車前に整列して到着の吹奏之を迎へたり。要は順序正 しく予定して行ふにあらざれば整然たるを得ざりき。 此日英将校来り。ベリョゾフカの状況を咄せり。 〔注 欄外に あり〕 九月二十一日 晴 正午五十七度 シルカ河谷の攻撃に関する報告来る。戦死四を出したるは遺憾なり。何故に第一 線に露軍を使用せざりしや。 午後九時、戦死の報を聞きて遺憾に想へたるも、其後の報告には負傷者なりと。 要は電文の不明了〔瞭〕にあり。 九月二十二日 晴 正午五十七度 此日、鳥居翻訳官及黒沢大佐を問ふ。共に当方面の大勢に就て聴く所ありたり。 九月廿三日 晴 前五十七度 午後二時、 米国武官 De bu dc eu r 中尉及仝領事来部。 同武官は今夕出発、 帰米の ことを告げたり。本人に在任中の所感を聞きたるも何等話す所なかりき。即オム スク方面の情況、後貝加爾州の今後の趨向等に就て語る所なかりき。 。彼等曰 く、当地方には米人は投資しても見込なし、即露人の信用、懇誠、従業の精神に 欠くるを以てなりと。予はウヰルフネーより庫倫方向に鉄道敷設の あり、如何。 彼等答て曰く、何等聞く所なし、但此鉄道の必要なることは従来聞く所にして予 等も亦然りと想ふと。 午後四時半、同武官を訪問す。 午後六時、文官通訳を集 め て 会飲 す。 是 軍 司令 部の 口[艶 之 助 、 浦潮 軍 司令 部 陸教援] 及 新 任通訳の 為 なり。 (欄外)後任者 未 定なりと 云 へり 九月廿四日 晴 前 八 時六十三度 午前十一時、 在 賣買俄 〔 城 〕、 参謀 本部 調査員 大尉、 張占鰲 及 恰克図副 使 公署秘 書 長 路邦 道 両 人、 歩 兵大尉 江副濱 二に 伴 はれ来部す。 午後六時、 右両 人と 会 食 す。其 節 予の挨拶の大要 左 の如し。 今 回 両 君 の 遠 路 態々 の来訪を 多 とす。 今や 世界 の大戦 りたるも今後彼等の 戟 先は一 斉 に 東洋 に向は ん とし つゝ あり。 換言 すれば 黄色 人 種対白皙 人 種 の 争 なり。中 華 民国と日本 帝 国は同 種 同文なり。 更 に 能 く 提携 握手し 能 く 団結協力 して之に当らざるべから ず 。即 ち 今後 益 々 日 支親善 を 増進 せざるべからす。此 際 両 君 が 遠 路 を 遠 しとせ ず 来 知 せられ我軍隊 其 他 の状況を 伺 はれたるは予の 最 も 欣快 とする所なり。 仍 て茲に中 華 民国の 繁 栄 と 両 君 の健康を祝する 為 め に 乾杯 せ ん とす。 此 夜 半、 帝 国軍 艦ブ リ ヤ ー ト 、ス レ ー テ ン スクに着す。 快 哉 。 九月廿五日 晴 前 八 時六十三度 午前十一時、 アタマ ン セメノ フ来訪し、戦場へ向ての 門 出を祝する 為 め に英 種 の 馬 一 頭 を 贈 りたり。 午後十時、 汽 車中に 寝 る。 九月廿六日 晴 午前六時、 知 多 駅 発ス レ ー テ ン スクに向ふ。 セメノ フ中将、 ズ ブ コ ブ ス キ ー 参謀 長等之に同行せり。 午前十一時、 ウルリ ヤ 駅 に 於 て大 学 校の 広瀬 [ 猛 ]、大 江 [ 亮 一 ] に 会 し ブ リ ヤ ー ド 艦 航 中の 経過 の大要を 知 るを得たり。 午後一時三十分、列車中にて セ 軍の午 を 受け たり。
汽関に故障ありたる為め速力遅く、遂に夜零時半スレーテンスクに着す。 九月廿七日 晴 午前九時下車し、守備隊一隅の家屋に入る。 スレーテンスクは本市街右岸にありて、山を控ひ一般の風量佳なり。水量多く航 運の利大なり。 二十五日付本庄の手紙を受領す。 九月廿八日 晴 バグダットスカヤー攻撃進捗預定の如し。 九月二十九日 晴 夕方少雨あり モゴチヤとの通信杜絶にて、已に十日に至り之を以て武装船を以てチヤッワヤに 至り、連絡を取らしめたり。歩一小隊搭乗す。 午後五時、露国将校を晩 に招待す。 此日遂に電報来らずしてバグダット方向の情況分らす。電線不長〔調〕の為なり と云ふ。 九月三十日 曇 午後一時、細野支隊との電線相通するの報ありて、シワーチ通信所はバグダット 方向に盛なる砲声を聴くとの報あり。依之観れば今日も尚攻撃続行中なるが如し。 午後五時、列車に乗り明早朝知多に向はんとするに際し、細野支隊東部支援隊の 悲報に接し、帰還を見合はすこととせり。 先是本庄支隊は道路険悪の為め糧秣弾薬を途中に半減し、行進を急ぎつゝあるも 進出意の如くならざるが如し。而して正面の情況右の如しとせば、過軍は東部支 援隊に向ひ、断然攻勢を取り南方に脱出せんと企てしにはあらざるか。又該支隊 の戦況意の如くならざるに乗じ、彼は更に転して本庄支隊に向はんとするにあら ざるなきか。今田支援隊は彼の陥穽に引込まるゝにあらざるなきか。若し此攻撃 にして水泡に帰せば、討伐各部隊と四分五裂或は潰乱の運命に陥るかも知らず。 想ふて茲に至れば、 預め之が収拾の道を傭せざるべからす。 即 3.Dの 3.Yの一大隊 半を 独 断を以て 使用 するに 決 し、之を 当地 に招 致 命 令 を 発 したり。 又モゴチヤ守備隊との連絡尚 未 た 復旧 するに 到 らずして 71〔 71i〕長、 土人 の報と て 伝 ふる所に依れば糧 食 欠乏 の為め 全滅 せりと。 右の如き、各方面の 状 況なるを以て 終 夜 安眠 することなく遂に夜を 徹 するに至れ り。 十月一日 晴 此日 何等 の報 告 に接せす。 益々煩悶 を 加 ふるの み 。 但 今田支隊の進出、本庄支隊 との連絡を想 像 し 得 ら へ たり。 十月二日 晴 セ 軍 側 の報に依り、バグダット 占 領のことを知りたるも 未 た 確 信するに至らす。 連絡の為め 騎兵 半中隊を急行せしめたり。 十月三日 晴 今田支援隊の 勝 報に接し、茲に 始 めてバグダトスカヤ 占 領の 確実 なるを知るを 得 たり。 又夜半細野支隊の報 告 来り。大勢を 了 知するを 得 たり。 列車中にて露将校の招待に依り午 を 共 にす。 十月四日 晴 本庄支隊の 勝 報 並 に今田、細野支隊の報 告 到 着し、茲に本討伐の 終 局並 に 成 果 を 知るを 得 たり。 帰知の為め、午後五時搭車す。 十月五日 晴 午前二時、スレーテンスク 発 車。 露国 側 と午 を 共 にす。 午後四時四十分、知多着。
十月六日 晴 Ⅲ/ 51iスレーテンスク発帰還の途に就く。 英大尉レナーを午 に招待す。上機嫌なりき。 十月七日 晴 午前七時十五分、加藤大使[恒忠、特命全権大使]着知、之を出迎ふ。同大使の 来訪あり。 古沢邸にて鳥居、古沢両主人にて午 あり。 午後六時、大使及アタマンセメノフを招待す。 旧姓徳重、金子六蔵氏[鉄道局参事] 、大使と同行。久 にて面会せり。 十月八日 晴 稍 曇気時風あり 〔注 記述なし〕 十月九日 晴 屋外零点下三度。 十月十日 晴 屋外零点下五度。 十月十一日 晴 後微雪降る 日中屋外零点下三度にして風強く寒し。 英国将校来訪す。 十月十二日 晴 71iの行動に就て万事類欠を来し、甚た心痛の至なり。特に宇多大隊に於て然りと す。 英国将校答訪す。 十月十三日 晴 軍直属部隊長を集め会食す。先立黒沢大佐の講話ありて露国特に後貝加爾の事情 に就て説明する所あり。 十月十四日 晴 近頃の天候は、午前は概して静穏なるも午後は風強く砂塵を飛ばす。 午後四時、支那連絡将校張大佐の訪問を受く。 彼は我士官学校二十一期の出身なり。 十月十五日 晴 夜半雪降り四面皚 銀世界を呈す。 十月十六日 晴 暖かし 午前五時四十五分、大井軍司令官[成元、浦潮派遣軍司令官]を列車に訪問す。 面謁せず。 此日、貝加爾湖附近地形偵察、植田大佐[謙吉、浦潮派遣軍司令部参謀]一行来 知す。 十月十七日 晴 〔注 記述なし〕 十月十八日 晴 稍 曇 細野少将を招致到着し、戦況の詳細を説明す。之に依ればバグダトスカヤの攻撃 にして本庄及今田両支隊の進出預定、遅くも 廿 九日 晩 なりせば 其 効果 、 更 に大な りしな らん 。 十月十九日 晴 風寒し 午前八時三十分 よ り 第 一 第 二 チ タ直属部隊を 巡視 す。特 別 部、司令部、本部の 不 仕末 を知るを 得 たり。 午後二時、士官学校主 催 の 凱旋祝賀 会に出 席 。アタマンも来会す。
十月二十日 晴 午前九時出発、ペスチヤンカ方面北東部隊を巡視す。冬営設備中にして今月末 には完成の預定なり。 昨十九日及同日を以て各部隊の巡視を了る。歩兵隊は将校以下総員を集め左の要 旨を述べたり。 先日大討伐の際の労苦を多とす。 将校以下の奮闘に依り大成果を得たり。 今後尚より以上の場合に遭遇することあるを覚悟し身心の鍛錬に努むべし。 騎兵及砲工兵に対しては、兵卒作業現在員の寡少の為め、将校丈を集めて右同様 のことを述べ、之を部下に伝ふべく命じたり。 一昨夜、 香取旅館に過激派の暗殺団投宿、 昨朝捕縛せられたりと。 (古沢領事の 談)仝行三十人位の如し、爆弾其他の兵器を有せり。 午後六時、支那大尉張天驥より将校 楽部に招待を受けたり。 十月二十一日 晴 無線電信にて寺内伯[正毅、前内閣総理大臣]の薨去並に明石総督[元二郎、台 湾総督]危篤の報に接す。 午后四時、米国領事及グラーブス少佐来訪す。グラーブス曰く、鉄道全部は日本 軍隊の掌中にあるにあらざれば運行意の如くならずと。蓋し御世事〔辞〕ならん。 十月二十二日 晴 午前九時、軍司令官来着。預定の如く進捗す。 午後六時三十分、将校 楽部に於て軍司令官の招宴あり。彼我の挨拶了りたる后、 牧田軍医監 [太、 第 五師団司令部軍医部長] 、 突 如 卓 上 演 習 を 始 めんとして司令 官の 叱咤 を受け中 止 せり。蓋し同監は、司令官は第五師団の為め 戦勝祝杯 を 挙 け しに 拘 らず、 セ 軍の為め 何等 の 言 及な き を以て 自 ら 僭越 を 省み す之を為 さ んとせ る も のなり。 洲 長 補 佐官は 此言 及な き 為め ホ ー ク を投し 席 を 蹴 て 退 出せりと 云 ふ。 果して 然 りし や否 。 十月二十三日 晴 午前 八 時出発、ペスチ ャ ンカに行く。 午後六時、軍司令官一行を 食堂 に招待す。 十月 廿 四日 晴 午前九時より第一 知 多 へ 行く。 午後 零 時 半 、 セ メノ フ の招宴 会 ( 劇 場) へ 出 席 盛 大なり き 。 午後六時、 ワゴ ンにて軍司令官と 食 会 す。 主 なる談 話 の要 点 左の如し。 一、 帝 国軍隊の 価値 (有 形 無 形凡 ての 点 )を世 界 に 紹介 することに 注 意せざる べ か らす。 強 き 一方の み にては 不可 なり。 又目 前の 利実 に 眩惑 すべ か らず。 二、軍 直属 部隊の 改善 、軍令 系統 。 三、支那軍の 騁 〔 驕 〕 慢 。 四、 セ メノ フ の 自 重 を要する 件 。 五、兵 力配置 上の 不 足 。 六、 止 むを得ざる時は 蹶 起 して大 打撃 を 加 ふること。 七 、鉄道隊を 地区 司令官に 配 属 すること。 八 、軍 直属 部隊の 不 軍 紀 。 九、 売買 酒保 の取 締 。 十、 指揮 官の前進 力 如 何 。 、 22iを 返 すこと、 即 9iの 問題 預 期 の如く 解決 せる后。 、帝 国は 決 して一方に 偏 することなく 厳 む中 立 の位 置 に 立つ べく、 換 言 すれ ば オム ス ク 政府斃 れ他の有 力 なる、より以上の 政府 立つ も のとすれば そ れ にて 可 なり。 即 何 時に も 政 策 に 余 地 ある如く 渉 内事 項 を 処 理せんとす。 決 して 或 一部に 執 着する も のにあらざることを 承 知 しあらざるべ か らず。 、ハルピ ン以 西 の 特 務機関 は 動 も すれば其部面の も のに 捉 はれ、其部 局 の人 と為る 傾向 あり。 従 て前 項 の 嗣 后の 活躍 を 狭 める 模 様あるを 感 す。 十月 廿 五日 晴 昨日来、米国より オム ス ク 政府 に 宛 、 輸送 中の 小銃 五 万挺 知 多に 到 着せり。 セ 軍 側 は オム ス ク より其内一 万 五 千挺 の 交付 命令に接しあるを以て 茲 に下 車 せしめん