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家電製品の製品企画に関する事例研究

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Academic year: 2021

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1.は じ め に 大量生産・大量消費を前提とした製品開発に変化が生 じつつある。コモディティ化した製品の中国への生産移 管は,日本の製造企業に対する高付加価値製品の生産を 余儀なくさせており,業界によってばらつきはあるもの の,企業の経営が製品企画という機能に大きく依存し始 めていて,企画→ 設計 → 製造という製造企業における 工程順位とは逆に,製造→ 設計 → 企画の順に企業にお ける経営上の重要度が増している1) 。モノが売れないの は需要が足りない(買う側の意欲が足りない)のが原因 と想定し過去 15 年間にわたって総需要管理政策がとら れてきたが,消費者の欲求がモノに対する欲求から精神 的欲求を満たす方向へと変化していることを考えれば, モノを売る方法にも発想の転換が必要となってきた。開 発の川上に位置する製品企画の重要さがますます高まっ てきているわけで,成熟社会への移行と共に企業におけ る製品企画の重要さがあらためて認識されている。 消費財を扱う製造企業にとっては製品企画が成功した かどうかの目安は,製品がどれだけ多く市場に受け入れ られたかどうか,すなわちヒット製品を創出し得たかど うかに関っている。モノあまり時代と言われる現代に あって,ヒット製品自身を生むことは極めて難しくなっ ているが,ヒット製品がない訳ではない。これまでと違 うのは,売れる製品と売れない製品,儲かる企業と儲か らない企業に明確に分かれるようになってきたことにあ る。どうしたらヒット製品を生み出すことができるのか は企業にとって最重要課題であり,最大の関心事である。 本稿では,その有効な方法を見出すひとつの手段として 最近ヒットした製品やプロジェクトを調査するのではな く,過去においてヒット製品を数多く出した特定の人物 に焦点をあてて調査することで,現代にも普遍的に通底 する製品企画における有効な要素の抽出を試みた。筆者 の専門領域が MOD (Management of Design)2)

であるため, 本稿では MOD 視点から標題についての考察を試みた。 2.神谷昭美に関すること 本研究の調査対象として注目したのは,1947 (S22) 年 に三菱電機(株)に入社,専務取締役商品事業本部長を 担当後,1993 (H05) 年に同社を退職した神谷昭美(現在 同社社友)という人物である。神谷は総合電機メーカー である三菱電機在籍中に家庭用電化製品(以下家電製 品)を直接間接に一貫して担当,扇風機,ダクト用換気 扇,ウィンドファン,FF 式温風暖房機クリーンヒー ター,スチームオーブン,フトン乾燥機,オーブンレン ジ,電子温風コタツ,石油ガス化ファンヒーター等の ヒット製品を数多く生み出し,家電業界で稀代のヒット メーカーと言われた人物である。ヒットさせた製品の大

家電製品の製品企画に関する事例研究

和 田 精 二 *

A case study on product planning of home appliances

Seiji WADA*

I carried out a detailed investigation of an engineer who had successfully designed and produced numerous new prod-ucts for the consumer electronic industry in japan. I was able to clarify the need for on site collection of marketing data, confirmation of venture capital, and the recruitment of engineers with skills suited to the project, among other aspects.

Key words: Management of Design, Product planning, Home appliance

Vol. 41, No. 1, 2007

*機械デザイン工学科 教授

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半がこれまで市場に存在しなかった製品であること, ヒットさせた製品の種類や販売数量,販売額,ヒット製 品を出し続けた期間,家電市場に与えた影響等,どれひ とつとっても家電業界の常識を超えていた。 1977 (S52)年度の全ヒット製品を紹介した日経流通新聞 の記事では,上位 3 製品のうちの 2 製品が神谷が手掛け た新製品(フトン乾燥機とファンヒーター)であった3) 神谷は,日本経済が高度成長時代を迎える前から最盛 期を経て衰退期に至るまでの長期間にわたり新製品開発 に関った。本研究に関しては社史,工場史,関連文献, 学会誌,業界誌,神谷自身に対する数度のヒアリング, 神谷が保有していた資料等で神谷個人の新製品開発に関 る経営思想等を調査した。 神谷は,入社時に配属された三菱電機名古屋製作所か ら 2 年後には同製作所の太平洋戦争中の疎開工場(分工 場)である岐阜県の中津川工場へ異動を命じられ,27 年 間にわたって同工場に勤務することになった。彼が担当 したのは,1945 (S20) 年に名古屋製作所が見限り,中津 川工場への生産移管を決定した扇風機の開発であった。 農林業以外に産業のない中津川市という工場立地に加 えて,戦前は三菱商事に販売を全面委託していたために, 戦後は極めて脆弱な営業基盤から販売を再開せざるを得 なかった三菱電機にあって,販売網にも恵まれない上に 資金すら潤沢でない最悪の状況からスタートした同工場 のたどった道は決して平坦ではなかった。従業員 946 名 を擁していた中津川工場は,電熱航空服や航空機用の音 響機器を製造したが,戦後疎開工場が本工場に戻ってい く時点で名古屋製作所内に戻る部門がなく,閉鎖される 運命にあった。農林業以外に産業のない中津川住民によ る工場存続に対する強い要望や中津川出身の間常務の働 きかけもあって,閉鎖の危機を脱した中津川工場は仕事 量確保に駐留軍向け電気レンジで食いつないでいたため, 扇風機の生産移管は工場経営の大きな救済となった。 名古屋製作所分工場からスタートした中津川工場の黎 明期の歴史と,工場の操業開始直後に入社後間もない身 で異動してきた神谷の開発技術者としての歴史はほぼ重 複していた。戦後のスタートにあって,重電を強みとす る三菱電機にとって家電製品の社内におけるプライオリ ティは低く,親元工場の名古屋製作所も自ら生き残るた めに扇風機はやや荷が重かったようで,製作所内の生産 アイテムから外され,中津川工場への生産発注が決まっ た。この決定は中津川工場にとっては極めて有難いこと で,「仕事らしい仕事もなく,その日その日をしのぐだ けで精一杯だったから,扇風機をやれると決まったとき は工場中が 1 度に生き返ったように盛り上がった」4) 1947 (S22)年に中津川工場は名古屋製作所から独立し たが,基本的には名古屋製作所の下請け工場であったた めにマーケティング部門や設計部門は存在せず,扇風機 の図面を渡されて製造することだけを許された。しかし, 時間の経過と共に扇風機づくりのノウハウが蓄積され, 工場独自に設計できる技術的な基礎が形成されていった。 「扇風機のモーターの巻き線やシャフトの作り方,塗装 の工夫など,かなり自由奔放にやらせてくれた。伝統的 な手法に従って実施せよと設計図に書いてあるが,いか ようにでもやりなさい,自分で発案して自分でやってみ なさいといわれた」5)といった具合に管理はかなり緩やか であった。1952 (S27) 年から中津川製作所は独自路線をと るようになり,翌年に設計部門が設立された。中津川工 場が中津川製作所に昇格したのは 1960 (S35) 年であった。 表 1 神谷の社内履歴 年 度 職制変更等 1947 (S22) 名古屋工業専門学校電気科卒業後, 三菱電機に入社 1948 (S23) 名古屋製作所で研修を受けたあと, 翌年中津川工場に異動。製造部技術 課標準品係長になって以来,継続的 に扇風機開発に携わる。技術部長の 時に群馬製作所への異動を命じられ る。中津川製作所には通算 28 年勤務 1976 (S51) 群馬製作所副所長として赴任。中野 所長と共に工場の改革に取組む 1978 (S53) 群馬製作所所長 1983( S58) 取締役・商品事業副本部長 1984 (S59) 群馬製作所の調理家電や理美容機器 を分離独立させた三菱電機ホーム機 器㈱発足と共に同社社長を兼任 1985 (S60) 専任(三菱電機ホーム機器(株)社 長)となって本社を離れた 198 7(S62) 常務取締役・商品事業本部長として 本社に戻る 1993 (H05) 専務取締役担当後三菱電機を退職, 現在社友

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神谷の技術者としての最初の本格的なプロジェクトは, 扇風機用モーターの開発にあった。神谷はステータスの 溝数を 24 本から 8 本に減少させると共にモーター出力 の向上を狙いコンデンサーを組み込んだ 8 スロットコン デンサーモーターを開発した。扇風機用のモーターの小 型化を達成したこの開発はその後,巻線の完全自動化実 現に寄与し,今日の扇風機用モーターの原型となったが, 開発時点では競合他社のクレームにより権利化できな かった。翌年から全社が同じモーターに切り替えたこと は,神谷に大きな自信を与えると共に市場競争の厳しさ を痛感させた。この苦い経験は先行開発製品によって工 場の経営を牽引していくべきとする神谷の経営思想の原 点となった。 三菱電機時代における神谷の経営思想に大きな影響を 与えた人物として,行動面では,中津川製作所長の鴨川 正雄(長崎製作所に養成工として入社。後に中津川精神 と呼ばれる中津川製作所特有の行動規範をつくった。 1960 (S35)年中津川製作所初代所長),理論面では,西岡 勝(戦後いち早く米国のマーケティング理論を独学で修 得し,社宅の自室を開放した勉強会を通じて工場の後進 に米国直輸入の理論を伝授,中津川製作所近代化の理論 的な基盤をつくった技術部門の管理者)6)の存在が大き い。中津川製作所が後年扇風機市場で業界トップメー カーの地位を確保した背景には,前述の鴨川,西岡,神 谷といった人物が製作所の開発・製造・販売を中心とし た業務体制の基盤構築と共に中津川精神と呼ばれる特有 の精神的風土をつくったことが大きく影響している。 鴨川初代所長の時代に出来上がった行動規範である ①「一番手商法」②「市場志向」③「他人の力を借用」 ④「誠心誠意」⑤「顧客・販売店を大事に」が神谷や大 森敦夫7) その他の経営幹部の体質として本格的に根付い た結果,中津川工場出身の経営幹部が同社の家電事業に 大きく寄与することになった。 3.中津川製作所における扇風機開発 図 1 は,4 社の扇風機のメリットを時系列的に並べた ものである8)。 印はメーカー単独で市場初の仕様を市 場導入した場合を示している。鴨川所長の方針のひとつ 「一番手商法」の実践事例が現れている。家電製品の販 売ストア数が松下電器の 4 分の 1,東芝,日立製作所の 2分の 1 に過ぎないという圧倒的に不利な状況下で「風 の三菱」というブランドを確立し,1968 (S43) 年に松下電 器に抜かれるまで約 20 年にわたり扇風機のトップシェ アを堅持したのは同社にとって極めて異例なことであっ た。 神谷がトップシェアをとるための作戦として一番手商 法を徹底的に採用したことが図 1 から容易に読み取れる。 毎年同じ時期に市場に投入されるために季節商品と呼称 されていた扇風機の新製品に最低ひとつは新しいメリッ トを搭載することで消費者の購買意欲を高めるこうした 販売競争のスタイルは現在まで引き継がれており,日本 における大量生産された家電製品競争の最初の例として, 扇風機はラジオと共に特筆される9) 1971 (S46)年を境に扇風機市場のボリュームが下降を始 め,1970 (S45) 年のダイエー誕生により価格の主導権を川 下がもつ流通革命が発生,やがて扇風機市場は衰退期に 入っていくことになった。扇風機のみに経営を依存して きた中津川製作所にとって喫緊の課題となったのは扇風 機に代わって工場経営を支える新製品の創出にあった。 換気扇,空気清浄機,イオナイザー等を市場投入したも のの,新たに工場を支える主力機種に育つまでには至ら なかった。やがてエアコンが普及するまでのリリーフ役 的製品として位置づけられるウィンドファンの成功によ り開発資金を得て,強制給排気式暖房機クリーンヒー ターの製品化を達成することになった。その後,神谷が 技術部長のときに当時の中津川製作所長との意見の対立 がきっかけとなり,突如万年赤字家電工場と言われてい た同社群馬製作所への異動を命じられた。扇風機に始 まった中津川製作所の事業をクリーンヒーター等に至る 新製品開発によって安定した経営軌道に乗せた神谷技術 部長の次なる仕事は中津川製作所所長として采配をふる うことと大方の人間が信じていただけに群馬製作所への 異動は極めて予想外の人事と受け取られた。 4.群馬製作所への異動 神谷が赴任したとき同製作所は毎年 10 数億円の赤字 を計上する三菱電機家電担当製作所の中でもワーストワ ンを競う製作所であった。群馬製作所は,三菱電機の主 力家電製品以外の機種を担当する雑物・小物引受工場で あったので赤字になっても仕方がないという被害者意識 が工場内に浸透していた。神谷が赴任した 1976 (S51) 年 も 10 数億円に達する赤字を計上していた。神谷が異色 なのは,予想外の異動で通常は士気が下がるところを工 場経営再建に積極的に取組んで結果を出したことにある。 翌年,フトン乾燥機,オーブンレンジ,電子温風コタツ, 新しいごみ処理装置つきのクリーナーを市場投入するこ

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1 扇風機市場における新仕様出現年表   中津川製作所作成の図および業界誌「 季節商品情報」 を元に作成    1 社のみが導入した場合 ◆  複数の企業が同じ年に導入した場合 S27 S28 S29 S30 S31 S32 S33 S34 S35 S36 S37 S38 S39 S40 S41 S42 三菱電機  プラスチック  前面首振 羽根  コンデンサ  リモート SW  自動給油  前面パネル  キュービッ  リモート  コード巻込  スチロール  コンパック  自由上下  お好み羽根  若葉色 ーモータ ◆タイム SW  コード着脱 ク形 アップ ◆ピアノ SW ワンパック  コード格納  リモート角調  流線型  押ボタン SW  前面角調  二重首振  タイム  大型クリッ  リモート首振 ◆お座敷扇 リモート  新モータ ◆ロータリー  新羽根 ベース 東 芝 プラスチック  コード巻込 押ボタン SW コンデンサー コード着脱  前面首振  自動給油  羽根着脱 キュービック  ハンディパッ 羽根 お座敷扇 モータ シリ角調 タイム SW リモートアッ ピアノ SW 形ク ◆ロータリー ◆オイルレス プ前面パネル  おやすみ SW  フリーネッ ベース メタル  ハンディパッ 自由上下 松下電器 コンデンサー モータ プラスチック  押ボタン 前面首振 ◆ピアノ SW  リモートア Q 羽根 ◆タイム SW 羽根 首振 ◆オイルレス キュービック形 ップ ◆お座敷扇 ◆シリ角調 メタル  ワンパック ◆ロータリー コード着脱 コード格納 ベース 大型クリップ Q 羽根 自動給油 日立製作所 プラスチック 羽根 コンデンサー ◆シリ角調 タイム SW オイルレスメ 前面角調 二重首振 ピアノ SW フリーネック モータ 押ボタン SW 前面パネル タル 前面首振  フリースラ コード着脱 お座敷扇 キュービック形 イド ロータリーベ  フリーアン ース グル 全周首振

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とで工場の生産量を倍増させ,対前年比 180% の売上げ 増を果たし 10 数億円の赤字から 2 桁の利益を出すとこ ろまで工場経営を回復させた。 当時,三菱電機の家電部門には開発設計,営業,製造 部門等で構成される 6 つの製作所があった。これらの製 作所を統括している商品事業本部が本社(丸の内)にあ り,損益をもって評価を行っていた。従って各工場は独 立会社のごとく,何をつくってどう販売し利益を上げる かを考え生産を行った。工場は自分の力でアイデアを求 め,シーズを求め,ニーズを探し,需要の大きさを測り, 成果をあげることを義務づけられた。このうちの何をつ くるかを決めることこそ製品企画そのものであり,神谷 が最も重視したことであった。神谷が赴任してからの売 上高の伸びを表 2 に示す。神谷の作戦は中津川製作所の 一番手商法等を群馬製作所に場所を変えて実践すること にあった。販売力のない三菱電機の家電製品で市場競争 をする場合,基本的には他社よりも早く新製品を開発 し,他社が追いつく前に次の新製品を市場投入する販売 戦略で勝負する以外に策がなく,経費節減や作業性向上 等による損益改善では勝てないと神谷は考えていた10) フトン乾燥機は神谷が群馬製作所に赴任した翌年の新製 品である。初年度に 75 万台の販売を達成,工場出荷価 格で 100 億円を売上げ 30 億円の利益を稼ぎ出すヒット となった。製作所の経営建て直しに効果があっただけで なく,従業員の意識改革の起爆剤となった。しかし,フ トン乾燥機は神谷の音頭により中津川製作所をあげてア イデア募集を行った結果出てきた新製品開発アイテムで あったことから,中津川製作所所員にしてみれば心中は 複雑であった。しかし,神谷にとってこうした製作所間 の製品テリトリーを侵すことは初めてではなかった。 「風の工場」と言われた中津川製作所の時代に,群馬 製作所の製品テリトリーである調理機器のスチームオー ブンを開発・販売させヒットさせている。既存のテリト リーを破壊する神谷の行為は,三菱電機の社風の中で反 発も大きかった。「群馬工場に仁義を切りに行き,群馬 のテリトリーを侵した。昭和 51 年に今度はその群馬製 作所に赴任,昭和 53 年には反対に中津川製作所に仁義 を切りに行った。テリトリーが必要なこともあるが,お 役所みたいな感覚でモノを作っていたら何も育たない。 魂が入っていなければ枯れてしまう。自分で生んで事業 にしなければ成功しない。だから,工場の担当が違うと いって外すのには大反対した。そんなときには本部へ 行って対決した。自分で開発したからこそ命がけで商品 にする。タテ割りのセクションで,ヨコにもすべってい く感性にブレーキをかけてしまうことはマイナス。むし ろヨコにすべるためにタテ割りのシステムがある」こう した神谷の発言は,世間常識で言えば喧嘩を売っている ようなものであったから,三菱電機でなくても社内で軋 轢を生んだことは容易に想像できる。 「原理・原則・規則・組織・前例・年功・序列・学 歴・年齢を無視せよ」と主張する神谷の存在は社内では 異質であったため,本人の表現によれば,会社生活の中 で何回も左遷を経験した。名古屋製作所から中津川製作 所,中津川製作所から群馬製作所,本社から三菱電機 ホーム機器㈱への異動は神谷にとって左遷同然の人事異 動であった。しかし,神谷が幸運だったのは彼が同社の経 営幹部のときの社長であった進藤貞和11) という人物の個 性による。進藤が社長・会長を務めていた時代と三菱電 機の家電事業が業界で注目されていた時代はそのまま重 なる。進藤は 1934 (S9) 年の入社後一貫して重電分野を担 当したが,社長昇格後に重電出身者としては珍しく家電事 業を全社業績に寄与させる戦略を大胆に打ち出した。進 藤がとった戦略の内で特徴的なのは,非三菱電機型の人 材を経営幹部として積極的に登用したことにあった。進 藤自身も組織の三菱よりも人の三菱が大事であるとマス コミを通じて喧伝した12)。その進藤が起用し事業を成功 に導いた典型的な人物の例が大森と神谷であった。進藤 の期待に応え大森と神谷は担当した工場の経営をダイナ ミックに立て直したが,大森も中津川製作所出身である。 進藤,大森,神谷が三菱電機の要職を去った後,同社の家 電事業が勢いを失っていったことからも経営者と企業経 表 2 神谷異動後における群馬製作所売上高(工場 出荷価格)推移 年度(昭和) 売上高 主なヒット製品 1976 (S51) 250億円 1977 (S52) 450億円 フトン乾燥機,オーブンレン ジ,電子温風コタツ 1978 (S53) 600億円 ファンヒーター,キッチンク リーナー 1979 (S54) 800億円 1980 (S55) 1000億円 (出典:日本マーケティング協会)

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営の関係が明確に現れたひとつの例と言える。神谷は 「進藤さんに何度か救われた」と語っているが,後述す るファンヒーターの製品化の時にも,大所高所からの経営 的判断をした進藤に助けられた。結果的に社会に大きな 影響を与え,三菱電機に大きな利益をもたらした進藤は, 神谷同様に社内で波風を立たせない調整よりもマーケッ トで結果を出すことを選択する決心があった人物である と言える。 神谷が大きな決心をするときの心境は,マーケットを 読み取ることができるという永年の経験からくる自信に 裏づけられていた。終身雇用制度が定着していた時代の 企業人にとって,組織外との軋轢に耐えることはそれほ ど難しいことではなかったが,組織内でそれを行うこと にはかなりの勇気が伴ったことは容易に想像できる。「私 は中津川から群馬に転勤した。上司との喧嘩で左遷され たのである。当時の三菱電機は商品の開発を担当する技 術部と商品の販売を担当する営業部に分かれていた。こ れが垣根をつくる。よく売れないのは営業のせい,よい 製品をつくらないのは技術のせいと,互いに責任を擦り 付けていた。これではよい製品は生まれない。互いの垣 根を越えた総合的なところから新しい商品は生まれる」 と語っている13) 5.フトン乾燥機の開発 フトン乾燥機で当初狙っていた市場予測が見事に外れ たことは,神谷にとっては大きな教訓となった。「科学 的調査の結果では 5 万台が限度と出たが実際には年間 75 万台の販売となった。これをみると,科学的調査は無力 のように見えるがデータは真実だと思う。要は,それを 読み取る人の頭の構造が問題だと思う。予測はよほど心 眼を開いてみないといけない」と語っている14) 。発売前 の狙いは冬季の少ない日照時間に悩む日本海側地域の ユーザーにあったが,発売してみると関東地方など都会 の高齢者が寝る前にフトンを暖めるために使用する目的 が販売を押し上げていることが分かった。神谷の対応は 早く,雪国の夜の風景を背景に扱った最初のリーフレッ トを 3 ヵ月後には青空を背景としたものに変更した。 マーケットの読み方が管理者の資質によって異なること について以下のように述べている。 「ある新製品の市場調査に関する情報を営業部の課長 2人に提供したとする。ある課長は 1 万台,一方の課長 は 5 万台,私は 10 万台以上と答えが異なった。この差 によって,企業に莫大な利益をもたらすか,利益を出す 新製品の芽をつむか,儲からない新製品に執着する等に 分かれる。この価値観の差は資質,すなわち優れた判断 力によるものである」「5 万台の予測のもとに 5 万台の体 勢で作っていたのでは 5 万台以上の達成はみられないと 思う。即ち,商品開発者がこれこそわが命という考え方 と気迫をもち,工場は市場に対して弾力的に対応してい くという考え方で進んでいけばどんどん膨張していくも のである」15)。しかし,優れた判断力をもった人材を育て るのは神谷にとっても難しく,彼は所員にこのような資 質を発揮しうる機会をできるだけ与えることで人材を発 掘する手立てとした。工場全体の意識レベルを上げるこ とは出来ても製品開発を牽引していく人材の育成につい ては具体的な方法論はなく,むしろ人材発掘のほうを大 事に考えていたことになる。「新製品開発に向いた人材 は 300 人に 1 人」「30 歳前後までに金字塔を打ち立てら れない人は手遅れ」と当時の関連資料に多く発見される 表現は自らの体験に基づいたものであるが,300 人とい う数字自体は比喩的なものであった16) 6.ファンヒーターの開発 フトン乾燥機は 1977 (S52) 年 2 月に新製品として市場 に導入された後,その年の 12 月に大手電機メーカー全 社に中小企業が加わり,30 社以上が参入したことでダイ ナミックな値崩れが発生,市場が壊滅状態に陥り,短命 製品として終わってしまった。この経験は神谷にアイデ ア製品に工場経営が頼ることの危険性と,先端技術に裏 付けられ他社の追従を許さない製品開発の必要性を痛感 させた。群馬製作所赴任後,神谷が注目したのはプロパ ンガスの爆発事故であった。家庭内のガス爆発事故に関 する 1 年間にわたる新聞記事を分析させたところ,圧倒 的にプロパンガスが原因の爆発事故が多かったことに注 目,石油のガス化コンロを開発させ販売したが全く売れ なかった。灯油をガス化するためにかかる 3 分間が主婦 の我慢の限界を超えていたことを知った神谷は,石油の ガス燃焼化によるヒーターの開発を目指すことにした。 この開発のために,開発本部応用技術研究所の技術者と の接触を意図的に強め,群馬製作所の技術者 3 名を 1 年 半にわたって同研究所の技術者のもとに派遣した。ファ ンヒーター燃焼機構開発の推進技術者は,ロケットの燃 焼理論が専門であり,神谷の中津川製作所技術部長時代 にクリーンヒーターの燃焼機構を開発した野間口有(現 会長)であった17) ファンヒーターはクリーンヒーターと同じ燃焼技術が

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コアとなっている点で,中津川製作所の製品テリトリー となるが,この場合も神谷は本社へ何度も赴き,群馬製 作所が製造することを納得させることに成功した。彼は, 製品をどの製作所でつくるかよりも早く市場に出して先 行者利益を獲得することが第 1 と考え,結果はマーケッ トが決めるべきことで社内の既存体制に気を遣う必要は ないと考えた。その結果は明確に現れ,ファンヒーター は初年度に 30 万台を越える販売実績をあげ,その後の わが国の暖房機市場の流れを変えることになった。当時, 群馬製作所は利益の出ない石油ストーブを生産し赤字累 積の一因を作っていた。中津川製作所でクリーンヒー ター事業に関わってきた神谷は,その燃焼機構を開放式 機構とすることで石油ストーブに代わる新製品を構想し た訳である。ファンヒーターはその後,群馬製作所の利 益を生み出す基幹商品となり 2005(H17)年の 4 月までの 26 年間にわたって同製作所の利益の源泉となった。 7.ヒット製品創出のためのマネジメント 神谷がフトン乾燥機のヒットで学んだことは,製品に 先端技術を取り入れることで他社の追従を避ける製品を 開発し,長期間にわたって利益を確保することの必要性 であった。三菱電機の開発本部に所属する研究所技術者 を活用することは中津川製作所時代に発想し実践してい た。中津川製作所の技術部長時代に研究所の開発者の支 援を受けて開発した FF 式温風暖房機クリーンヒーター は「切り売りをします。セントラルヒーティングの快適 さ」のコピーで登場した室外給排気式温風暖房機であっ た。当初の都市ガス方式に始まり,プロパンガス方式を 経て最後に石油のガス化方式製品にまで発展した。世界 8カ国の特許を取得し,世界初の「燃焼かんづめ」と称さ れた燃焼部は小さな空間で空気とガスを細かく分けて混 合し,必要最小限の空気で完全燃焼させる方式であっ た。ガスの炎が通常 800°C であるのに対し,この方式は 1400°Cに達し,熱利用効率が 90% と高いのが特徴で同 じ体積の中で 10 倍のカロリーを燃焼させることができ るため,バーナーを 10 分の 1 にすることができ,製品全 体のコンパクト化に役立った。問題は 65 mm の直径の穴 を家の外壁にあけ排気パイプを設置するために工事費が かかることにあった。6 年間で 50 万世帯に普及したが, 工事の手間や費用がネックとなり,それ以上普及しない 状態が続いた。 神谷が群馬製作所で研究所の技術者の支援を受けて再 び挑戦したファンヒーターは芯を使わずに燃やす「石油 ガス化燃焼方式」と呼ばれた新製品であった。点火操作 もツマミを回して押すだけで 4–5 分後に 3 重に遮断した 燃焼部の熱だけを温風吹き出し口から取り出す方式でそ れまでの石油ストーブの芯上下式やポット式と根本的に 違う灯油の燃やし方を採用した。具体的には,灯油を 「霧吹きの原理」を応用して空気圧送で微粒子化し,気 化最適温度に保たれた気化室に送りこんで気化し,空気 との理想的な混合ガスにして完全燃焼させた。神谷は中 津川製作所で手懸けたクリーンヒーターの基幹技術を改 良してファンヒーターという完成度の高い製品を群馬製 作所で完成させたことになる18) 以上の開発は神谷が意図的に研究所の技術者と工場の 技術者を組み合わせて活用し,ヒット製品を創出した事 例である。「エンジニアは勉強しさえすれば商品開発の リーダーシップをとる資質が一番あるはずだ。しかしエ ンジニアも行き過ぎると研究所タイプとなる。いろいろ 研究所があり工学博士もたくさんいて難しいことを結構 知っている。狭い範囲を大変深く知っている。そのこと をきけば神仏のようであるが,ではこの人たちがヒット 商品を生み出せるかと言うとそうではない。研究所から ヒット商品が生まれたなどとは聞いたことがない。開発 に大事な総合性が欠如してしまっている。しかし,最高 の知恵が詰まっている研究所は積極的に利用しなければ ならない。群馬でファンヒーターを作ろうとしたとき, 群馬は風の工場ではなかったので,研究所を利用した。 燃焼をテーマにしていた研究所に群馬のエンジニア 2 名 を研修に出した。野間口氏に頼み込んで,2 名の技術者 を半年間教育してもらった。専門家でもない群馬のエン ジニアを何名集めても役に立たない。されどこれを研究 所に頼んでファンヒーターを作れといっても,そういう 価値の低いことはやらない。市場と世の中を勉強した工 場の技術者と,あることを深く掘り下げて研究していた 研究所の研究者を見て,それを組み合せて,妙味を見出 し開発に利用した。それがヒットに繋がるベースを作っ たということになる」19) 。ヒット製品を生み出すための企 業内技術者の適切な活用の仕方について,どちらに重き を置くかは開発する製品によって異なる。リーダーの采 配の問題であり,マネジメントの問題である20) 工場技術者の市場に対する勘を醸成させるために,神 谷は工場の設計者を秋葉原の販売店に長期出向させた。 「お前がつくった製品ではなく他社のものが消費者に選 択されるのであれば何故そうなのか,秋葉原の店頭で見 て来いといった。一定期間そこに駐在させた。私はこれ

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を秋葉原大学と呼んだ。半年くらい留学させた。帰って くるとがらっと考えが変わる。ヒットするものはどんな ものか身をもって解かる。そこには技術も営業も混在し 総合して存在する。売っていただけるという姿勢がとれ る。つくったから配給してやるということではない」「秋 葉原大学に送り込まれて全員が優等生になって帰ってく るわけではない。ピンからキリまでいる。いい人はそれ でぐんと伸びる。目からうろこが落ちたと言う。その一 方で,なんで俺をこんなところに送り込むのだ,おれは 設計するために会社に入ったのに俺のやる仕事ではない などと目の覚めない人もいる。そういう人は重要なポジ ションから外れてもらった」21) 又,神谷は工場技術者に利益に対する考え方も徹底し てたたきこんだ。「利益は開発商品につくりこむがゆえ に,あとから利益を出そうと原価低減を言い出すのでは なくて最初から利益がでるようにつくりこむ必要性があ る。設計者は,原価計算なんか設計者のやる仕事ではな いと思っていた。彼らに対し利益は経理が出すんではな く,自分達が利益が出るように原価の計算をしなければ ならない。利益を出すためにはいくらで原価を設定しそ のためにはいくらの部品をつかってやるかなど設計者自 らが計算しなければならない,としっかり教えた21) 一方で,ヒットする新製品開発を達成するためには起 業家マインドに富んだ人材を開発部門のリーダーとして 配置する必要があった。しかし,その人材育成に適切な 方法がないことから,起業家マインドに富んだ人材を探 すことに注力した。出る杭が打たれる時代に出る杭を探 したところが発想的に新しかった。よい知恵は 30 代に 期待でき,40 代になるとフレキシビリティがなくなるた め,プロジェクトをまとめる業務で資質を発揮させるこ とが肝要であると考えた。ヒットを飛ばすには失敗を恐 れず数をこなすことが大切で,時には朝令暮改的決断も 必要であるとも考えていたが,それを実践できるには神 谷のような人並み外れた強い意志が必要であった。その 神谷には成功も多いが失敗も多かった。中津川製作所以 来,数多くの売れない新製品をつくった。ラインフロー ファンを使ったキッチンジェットフードファン,エアー カーテン式フードベンチレーターは神谷氏のアイデア だったが失敗した。決断も早かったがあきらめも早かっ た。神谷の次の言葉にそのあたりの苦労が読み取れる。 「ヒットはさせるもの。ヒットしなかったら,なんて考 えない。ヒットしなかったら仕方がない,次の商品を ヒットさせればよい。アイデア 1000 に対して試作してみ るのが 3。1 つの試作に億という金がかかるから試作は 慎重にすべきである。選択したものの中からヒットする のが 1 割。量産して初めて確信がもてるのがその半分。 社内にアイデアの専門家がいるわけでなく普通の人間の 汗の結晶である。」23) 。神谷に関する雑誌,社内報や講演 録,ヒアリングを通して拾い出した彼の言葉には「ホン 物」「ヤマカン」「心眼」「肌で感じる」「非合理」「感性」 といった抽象的表現が多いのが特徴である。神谷の方法 論で興味があるのは,「勘」のよい人材を探し出すこと の重要さとその人材の起用の仕方である。管理職には, 挑戦する気概を求め,挑戦には勇気が必要であり勇気は マーケットを見抜く力を醸成することで生まれることを 説いた。 神谷が実践したところの顧客志向を徹底しマーケット にできるだけ接し観察する姿勢には中津川工場における 鴨川所長の影響が大きいことは前述した。ダイエーが家 電業界と対峙して以来,流通業界と家電業界の力関係が 反転し,神谷の時代と同じように考えることは不可能と に思えるが,顧客志向,すなわち買う側の論理がつくる 側の論理に先行するという思想は今でも通用する。「放っ ておくとみなハイテクをやりたがる。群馬を卒業して本 社へ戻り(商品事業本部長となって)傘下の製作所をみ ると,みんな気取ってハイテクをやりたがる。光ピック アップをやらせてもらいたい,パソコンをやりたい,世 界に雄飛したいという。誰かが発明したものつくったも のを,あとから追っかけているに過ぎない。それでもハ イテクなので格好よくみえる。付加価値を考えないで工 場運営するような所長が多い。人の先を行けといいたい。 顧客に近づけ,顧客あってこその商品である」24) といっ た表現に神谷の思いが凝縮されている。 製品の社内テリトリーをめぐる神谷の反骨精神は,市 場論理を貫けば市場で勝てるという自信に裏付けられて いた。生来の体質に中津川という風土,鴨川所長との出 会いと薫陶,扇風機用モーター開発で培った大きな自信 が影響していると考えられる。彼は丸の内本社よりも部 下の方を向いてリーダーシップを発揮したが,そのこと ひとつとっても所員の扱い方が並外れてうまかったと言 える。働く喜び,他社に勝つ満足感,業績を達成したと きの至福感など,社員が賃金だけを目的にして働いてい るのではないことをよく知っていた。本社に逆らい所員 の利害代表者として戦うところに彼なりのバランス感覚 が働いていた。神谷の特異性は,自分の属する組織のた めには本社でもどこでも喧嘩を売っていく一方で,組織

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内人間には人望が高いというところにあった。自分の理 想とする方向に組織のメンバーを束ねていくには場合に よってはカリスマ的な行動も必要となるが,神谷にはそ れが備わっていた。群馬製作所に赴任直後に所員を集 め,事務机の上に駆け上がって行った演説で所員を驚か せたのもひとつの例である。 神谷が手掛けた製品には神谷のユーザーに対する思い が強く打ち出されている。扇風機からファンヒーターに 至るまで技術先行でなくユーザー先行思想が先にあり, それを実現するために技術の革新を促すことに努めた。 世間の評判や社内の格付けを入社時から無視したのは, 格付けを気にしていたら失敗の伴う可能性のある新製品 開発は不可能と考えたからである。本当に創造的な人材 は社内よりも市場を見る,創造性は事後概念であり,最 初に必要なのは市場に対する情熱であると神谷は考えて いた。神谷のマネジメントの特徴は,所員に対して何を するのか,その方法,場所,時期などについて具体的に 指示を与える指示的行動にあったように思える。神谷は 市場競争で勝てると思ったら強気で攻める方を好んだ。 負けると思ったらできるだけ早く決断する。負けてし まったら早く忘れる。経験から多くを学びそれを次の競 争に生かす。以上の行動はマーケット中心に考えるから 判断の基軸がぶれにくい,決断はマーケットが教えてく れると考えていた。それだけにマーケットに通う回数も 多かった。社員が萎縮しないで発言する風土をつくり, 自らがアンチ官僚主義だから部下も同じ体質になった。 8.考   察 本研究の最終目標は企業内デザイン部門に対する効果 的なマネジメント論の構築にあり,その前段階の研究と してデザイン部門と極めて関係の深かった神谷の新製品 開発活動に焦点をあてて調査した。製品企画という領域 でデザイン部門は技術部門と重複すると共に,ヒット製 品を出すことはデザイン部門にとっても最大の目標であ るからである。本研究を通して神谷から得られたヒット 製品創出のための様々な情報をもとに,他の事例と比較 することなしに考察することにはやや無理があるが,あ えて以下に列挙する。 8.1 一歩先へ出る 神谷は他社よりも一歩前へ出る一番手商法にこだわっ た。彼が意図的に市場投入した新製品の大半はマイナー チェンジではない。前例のない新製品は成功の確率が低 いが,たまにでも大きなヒット製品が出れば損を取り返 して次の利益を生むことができる。小さな失敗を繰り返 しながら大きな成功を勝ち得る神谷の方法論には賭けの 要素が強い。数回に 1 回当たればよいとしていく風土を 工場内につくったために所員もより挑戦的傾向になれた。 神谷は官僚的体質を批判したが,所員に対しても同じ理 念や態度で管理する度量があった。 8.2 最初に顧客を考える 神谷が手掛けた製品には神谷のユーザーに対する思い が強く打ち出されている。扇風機からファンヒーターに 至るまで技術先行でなくユーザー先行思想が先にあり, それを実現するために技術の革新を促すことに努めた。 世間の評判や社内の格付けを入社時から無視したのは, 格付けを気にしていたら失敗の伴う可能性のある新製品 開発は不可能と考えたからである。本当に創造的な人材 は社内よりも市場を見る,創造性は事後概念であり,最 初に必要なのは市場に対する情熱であると神谷は考えて いた。 8.3 生の現場情報を集める 神谷は勘やひらめきを大事にしたがそれがうまく働く ためには基本としての情報が必要となる。その情報源を, 提供されるデータ類に頼らず,現場に足繁く通って生の 情報を得るように努めたことが神谷の勘のよさを醸成し た一因と思われる。一般に,マーケティングにおける成 功要因として,市場調査,ユーザーニーズの把握,競合 他社に対する状況調査等が重要とされているが25) ,生の 情報に触れる必要性はもっと強調されてよい。 8.4 起業家型人材は発掘すべし ヒット製品を創出するという視点で神谷から得られる 最大のヒントは,継続的に新製品を出すために工場にお いて人を動かし新製品開発へとモチベーションを上げて いく総合的なディレクション能力にある。大企業等にお ける起業家型研究開発がうまくいかない代表的ケースと して,(1) 組織の壁によって顧客ニーズへの十分な対応が 出来にくくなっているケース (2) 従来からの技術的固定観 念にとらわれて技術的ブレークスルーができないケース があげられている26)。神谷の場合は,技術者としての立 ち上がり時の成功体験がその後の経営思想を決定づけて いるが,やはり生来の資質が基盤にあり,それが上記の 体験で顕在化のきっかけをつくったものと思われる。彼 が主張するように,起業家型の人材の育成は難しく,い かに発掘していくかの仕組みが重要となる。 8.5 総合的に考える 神谷は総合という言葉を多用したが,群馬製作所にお

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いて技術部と営業部を解体しメンバーを混ぜて市場部を 設置したのも,総合力という概念にこだわったからであ る。ヒット製品を創出するためには技術の力とマーケ ティングの力が必要であるという考えに基づいている。 研究所と工場の技術者の棲み分けも開発に関る企業の総 合力を出すためのマネジメントと思われる。 9.む す び 一般的に日本の経営層に占める技術者の割合が低い理 由のひとつに技術者がマネジメントやマーケティングよ りも専門技術そのものに興味があるためとする考えがあ る。その考え方の是々非々はともかくとして,群馬製作 所に赴任後,4 年間で工場の売上げを 250 億円から 1,000 億円に増大させた実績は技術者出身の企業人であった神 谷の非凡さを示している。神谷には,人・モノ・金を含 めて総合的に企画し判断していく行動理念とそれを実践 できる精神的な強靭さ,所員を牽引していけるカリスマ 的な体質と統率力が備わっていたように思える。自らコ ントロールできるコミュニティを工場を対象に形成でき たことがヒット製品を数多く生み出すことができた理由 として考えられる。 神谷の事例を日本の自動車メーカーが得意としている 本社も工場も一体となった部門横断型(クロスファンク ション)プロジェクトのような重量級の製品開発体制と 比較するにはスケールも時代も製品分野も違い過ぎて意 味が薄いが,家電製品のようなスケールで生産される製 品分野におけるヒットするモノづくりを考える上でもう 一度基本に返って考えるという視点からは得るところが 多いと考える。 蛇足ながら,起業家として成功した経営者である本田 宗一郎,松下幸之助,盛田昭夫,稲盛和夫などに共通し ている要素として,勇敢さ,明るさ,自分はついている という思い込み,思慮をつくす根気,情熱や思い等があ るというが27),一脈通じるものが神谷にもあるように思 える。 参 考 文 献 1) 日本のデザイン運動,出原栄一,pp. 296–300,ペリ カン社,1989. 堺屋太一「工程分業における工程順と賃金のカー ブ」の表も同じ視点にたっている。日中「工程分 業」のすすめ,Voice, 2004,5 月号,pp. 82–84. 2) MODとはデザイナーの保有する知識や思考力を活 用することで製品に付加価値をつけ,市場で売れる 表 3 神谷が手掛けた主要なヒット製品 年 度 新製品名 トピックス 1955 (S30) コンデン 次年度より全メーカーが採用 サーモー に至る ター 1965 (S40) 分解梱包式 流通段階の配送や在庫スペー 扇風機コン スの問題に着目,業界初の分 パック 解組立式投入で扇風機市場の トップシェアを堅持 1968 (S43) ダクト用換 高層集合住宅の建設進展に伴 気扇 い,業界に先駆けて開発し, 住宅公団とタイアップし, トップシェアを続けた。 1969 (S44) ウィンド 扇風機とエアコンの端境期を ファン 乗り切るために開発。 1970 (S45) FF式温風 世界初の燃焼缶詰・室外給排 暖房機ク 気式温風暖房機。発売後 10 年 リーンヒー 間で 100 万台強の販売実績。 ター 1975 (S50) スチーム 電子レンジの普及の遅れに着 オーブン 目,価格を半分に抑えてヒッ ト製品とした。 1977 (S52) フトン乾燥 初年度 75 万台販売。100 億円 を売上げ,30 億円の利益を出 す。 1977 (S52) オーブンレ 電子レンジに業界初でヒー ンジ ター組み込み 100 億円の売上 げ達成。それまでの売上げは 20–30億円程度。 1977 (S52) 電子温風コ 従来の赤外線式に代わる半導 タツ 体ヒーターの採用でコタツの 概念を変えた。 1978 (S53) 石油ガス化 世界初の温風式ストーブ。初 ファンヒー 年度 30 万台(売上げ 100 億円) ター を販売後,11 年間連続トップ シェアを堅持,1989 年時点で 累積 500 万台を記録。 1987 (S62) ダニパンチ 掃除機の排気を本体内で循環 クリーナー させモータ熱を紙パックに伝 えて 50°C 以上にすることでダ ニ退治するクリーナー。従来 年間 50 万台以下の生産量が発 売年に 70 万台,翌年 80 万台 に増加。初年度単品で 100 億 円強売上げ。

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モノまたはシステムを作り出すためのマネジメント 技法と筆者は定義する。 3) 日経流通新聞, 1977, 12 月 26 日, 1 面記事特集 「52 年ヒット商品番付」。相撲の番付表に模して東 西企業に分けて評価。東が横綱:フトン乾燥機,大 関:ブーツ,関脇:石油温風暖房機(ファンヒー ター),西が横綱:人間の証明,大関:スポーツ ファッション,関脇: TV ゲーム,の順位。フトン 乾燥機に対するコメントとして「発売以来じわじわ と白星をふやし,他メーカーが追随するに及んで火 がついた格好。元来,重電ではともかく,弱電では 弱かった三菱電機。当初,日照時間の少ない雪国で 売れればと販売姿勢も消極的だった。それが太平洋 側の都心部で売れ出したのだから当の三菱もびっく り。これには口コミが果たした役割も大きい」と記 されている。 4) 週刊サンケイ,1979,11 月 8 日号。シリーズ企業の 時代「三菱電機の革命」pp. 36–41. 5) 電気店 1989,5 月号 pp. 24–27, 6) 三菱電機㈱中津川製作所創立 60 周年記念誌,三菱 電機(株)中津川営業所営業部,p. 38, 2003. 7) 東京高等工芸卒,第 6 代中津川製作所所長,定年 後他社への出向人事を進藤社長に説得されテレビ製 造が中心の京都工場へ赴任。工場の生産・従業員 等に 2 分の 1 主義を唱え,大形ブラウン管市場投入 等で工場を立て直した人物。神谷同様に中津川製作 所における事業体験が大きく影響している。 8) 出典「季節商品情報」1968 (S43) 年発行,発行所不 9) 日本の家電製品で大量生産・大量消費・大規模な 市場競争を創出したのはラジオと扇風機が最も早 い。 10) 週刊サンケイ,1979,11 月 8 日号。シリーズ企業の 時代「三菱電機の革命」p. 37. 11) 進藤は 1970 (S45) 年から社長を 10 年続けた後会長に なった。 12) 日経ビジネス,1977,12,日経 BP 社,p. 22. 13) 日本感性工学会誌「事例に見る商品開発と市場・ 技術・デザイン」神谷氏講演記録,日本感性工学 会,2005,6,p. 41. 14) 電気店,1989,4 月号,電波新聞社,p. 27. 15) 商品開発・差別管理のすすめ,群馬経協,1979,群 馬経営者協会,pp. 6–7. 16) 私の新製品開発の理念,そだとう,1979 秋季号,東 京中小企業投資育成(株)1979,pp. 9–10. 17) 技 術 の 壁 ・ 研 究 所 と の 連 携 で 開 発 , 朝 日 新 聞 , 1980, 1, 30. 18) インハウスデザイン部門の成立過程が MOD に及ぼ す影響,(学位論文,信州大学)和田,2004, 3, pp. 108–110. 19) 日本感性工学会誌「事例に見る商品開発と市場・ 技術・デザイン」神谷氏講演記録,日本感性工学 会,2005, 6, pp. 41–47. 20) 日本感性工学会誌「事例に見る商品開発と市場・ 技術・デザイン」神谷氏講演記録,日本感性工学 会,2005, 6, pp. 41–47. 21) 週刊現代,1977, pp. 148–151. 22) 日本感性工学会春季大会講演記録「事例にみる商品 開発と市場・技術・デザイン」神谷,2005, 6,(日 本感性工学会誌第 4 巻 1 号ではこの部分は割愛され 掲載されていない) 23) シンクアップ,第 21 号,1987, 11,学習研究社, pp. 38–43. 24) 日本感性工学会誌「事例に見る商品開発と市場・ 技術・デザイン」神谷氏講演記録,日本感性工学 会,2005, 6, p. 46. 25) 技術系ベンチャーのイノベーション評価法,ダイヤ モンド社,2005, pp. 43–44. 26) 技術系ベンチャーのイノベーション評価法 松井憲 一,ダイヤモンド社,2005, pp. 235–257. 27) これからの 10 年,日下公人,PHP ソフトウエアグ ループ,1997, pp. 114–116.

参照

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