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1 慶 応 元 年 初 頭 、 横 濱 佛 蘭 西 語 學 傳 習 所 あ る いは横 濱 表 語 學 所 な ど の 名 称 D をも つ フラ ン ス 語 の学 校 が 開 校 した 。 こ の学 校 の所在 地 は 当時 の辨 天 社 の北 隣 り で、 現 在 の 横 浜 市 中 区 本 町 六丁 目 附 近 と みら れ るの 。 高 島 嘉 右 衛 門 は、 後 年 、 彼 の私 塾 藍 謝 堂 に 触 れ た 文章 のな か で 、 ﹁ 維新 後 巳 に數 年 を經 たが 、 學校 と稱 す べ き も のは 政 府 の手 に な れ る は僅 に 一 の大 學 南 校 あ る のみ 、 民 間 に も 又芝 新 錢 座 に福 澤 氏 の 塾 あ り て生 徒 五 、 六 十 人 を養 成 し 、横 濱 辯 天 地内 に通 辨 傳習 所 の 設 あ り て 四 〇 人 許 り の生 徒 を容 る る に過 ぎ ず 紛 ﹂ と 、 こ の語 学 所 に も 言 及 し て いる 。 た だ フ ラ ン ス語 の 授 業 が行 な わ れ て いた と いう だ け な らば 、 す で に 江 戸 の開 成 所 でそ れ は始 め ら れ て い た ので あ り、 決 し て珍 し くも な か っ た が 、 語 学 所 の 場 合 、 フラ ン ス人教 師 に よ る直 接 授 業 法 に よ る フラ ン ス語教 育 が フラ ン ス 政 府 の 協 力 で な さ れ た こ と にき わ め て大 き な 特 色 が あ っ た ので あ る 。 語 学所 の 授 業 が フラ ン ス人 に よ っ て行 な わ れ た こ と は こ の学 校 の創 設 理 由 に 深 く結 び つ いて いる 。幕 府 が フラ ン スの陸 軍 將 校 団 を 招 い て 軍事 力 を強 化 し 、横 須 賀 に製 鉄 所 (造 船 所 ) を 造 るた め に フラ ン ス 人 技師 を雇 入 れ た り す る よう な状 況 下 にあ っ て は、 フラ ン ス 語 に通 じ る 日本 人 の 育 成 は急 務 で あ っ たの 。 栗 本 鋤 雲 は、 そ の ﹃ 匏 菴 十 種 ﹄ で、 語 学 所 創 設 の事 情 に触 れ て、 つ ぎ のよ う に記 し て いる。 ﹁ 佛 國 陸 軍 教 師 聘 入 の件 は 既 に 定 ま り た れ ど 、 我 國 に て 佛 語 に 通 せ し者 、僅 に鹽 田 三郎 立 廣 作 の二 人が 箱 館 に在 る の 日 ﹃ メ ル メデ カ シ ュ ン ﹄ に從 ひ受 覺 へ た る のみ な る に、 而 も 両 人 は 英 語 に 通 じ た るを 以 て、夫 々 既 に職 に就 き居 れば 、 教 師 來 る の 目必 ら ず 唖 聾 事 を 授 く る の 迂緩 を免 か る べ か らず 、 且外 國 締 交 の 上 は、 名 其 語 に通 ず る者 を 作 り て 用 に供 す べ き は條 約 書 既 に明 文 あ り、 況 や 師 を 延 て衆 生 徒 に 業 を授 け し む る 、 惡 ん そ其 語 に 通 ず る を 待 て、 然 る後業 を 受 る の 理 あ ら ん や 、於 是 予 ﹃ レヲ ン ロセ ス ﹄ と謀 り 、 其 論 意 に基 き 、 佛 國 語 學 傳 習 所 創 設 せざ る可 か らざ る の 意 見 書 一 編 を 草 し、 小 栗 、 淺 野 二 氏 に 示 せ し に 、 二 氏 一 見 し て 至極 然 る可 し と 同 意 し 、 直 に連 署 し て 上 申 せ し か ば 、 又忽 ち允 許 あ り、 見 込 の 通 り然 る べき 地 を 見 立 、 成 る可 き 丈 け 簡 易 に設 立 す る樣 と て 、 三 人共 に其 掛 りを 命 ぜ ら れ た り の 。 ﹂)﹀ ♪ O U心 \ 冖 前 お 長 ・仏 ● 凶 ミ 敏
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横 濱 の佛 蘭西 語 學 校 傳習 所 学 生 とメル メ ・ ド ・カ シ ョン(中 央)の ポ ンチ絵(「ジ ャパ ン ・パ ンチ 」 よ り) ( ① )研究 紀要 第18集 佛 蘭 西 語 學 傳習 所 の 設 立過 程 の ︼ 端 が こ こ に示 さ れ て い るが 、 文中 に登 場 し て い る日本 人 の 後 者 二名 、 フラ ン ス 人 二名 、 これ に栗 本 鋤 雲 を 加 え た 計 五 名 の人 物 が こ の語学 所 の 生 み の 親 で あ り、 育 成 者 であ っ た 。 と り わ け 、 レ ヲ ン ロセ ス こと レオ ン ・ロッシ ュ は第 二代 駐 日 フラ ン ス 公 使 と し て対 日 外 交 政策 を意 欲的 に押 し す す め た 人 で あ り、 語 学 所 開 設 に は看 過 す る こと の でき な い 役 割 を 果 し た 人物 で あ る。 ま た、 メ ル メデ カ シ ョン、 す な わ ち メ ルメ ・ ド ・ カ シ ョンは こ の 語 学 所 の 中 心 的 人物 と し て直 接 運 営 の任 に 当 っ た 。 彼 は栗 本 と は箱 館 時 代 以 来 の 旧 知 の 仲 で、 語 学 所 の設 立 にあ た って は両 者 の 協 力 が 見事 に実 を結 ん だ。 ﹁ 其 の學 校 の 教 師 と いふ も のは、 差 詰 め佛 蘭 西 公使 館 の 書 記 官 で あ り ま し た メ ル メ ード 、 カ シ ョン。 是 は其 の當時 有 名 な 人 であ り ま す 。 ロ セ スを補 助 し ま し て、 非 常 に外 交 上 勢 力 のあ っ た 人 であ り ま す 。此 の人 は 日本 語 にも 精 通 し、 又 支 那 語 にも 精 通 し て居 り ま し た 。当 時 外 交 文 書 は 目本 文 で假 名 交 り で書 い て居 り ま し た が これ を讀 み分 け て飜 譯 も し ます し、 日本 語 に は充 分 通 じ て居 る人 で、 な か な か話 な ど は旨 い。 又漢 文 な ども 多 少 出 來 た の であ り ま す 。 漢 詩 な ど も能 く讃 分 け る ことが 出 來 た。 此 の 人 は元 來 が 宗 教 家 で カ トリ ッ ク 宗 の僭 侶 で、 僭 の 中 では今 の 僭 官 の 方 で何 と譯 し て宜 しう ご ざ いま す か ﹃ アベ ー﹄ と い ふ も ので あ っ た ので あ り ます 。 當 時 佛 蘭 西 の勲 章 な ど も 持 って居 り ま す し 、随 分 有 名 な 人 で あ り ます 。 其 の當 時 、 日 本 で は基 督 教 は 一 概 に 耶蘇 教 と稱 へて 居 り ま し たが 、 外 交 官 の中 に立 交 って出 ま し ても 、 其 の僭 服 を着 け て 居 っ て は甚 だ不 便 な の で、 僭 服 を 止 め て 普 通 の 物 を着 て、 さ う し て全 く普 通 の 書 記 官 のや う な裝 ひを し て居 り ま した が 、 實 際 は 、 僭 侶 であ り ま す 。 此 の人が 前 申 上 げ ます や う に 目本 語 にも 能 く 通 じ て居 る。 な か な か博 學 の人 で あ り ま し た。 之 を直 に學 校 の教 師 に ロセ ス 溺 選 ん だ の であ り ま す 。 其 のカ シ ョンと 云 ふ 人 が 、 學校 の 教 師 のみ な らず 、 學校 一 切 の こ と を 其 の入 に委 任 した 、 今 日 で申 し ま す と 丁度 校 長 み た や う な も のに な っ た の であ り ま す 。 併 し な が ら 其 の當時 校 長 は 目本 人 で別 に あ っ た 。 川 勝 近 江 守 な ど と 云 ふも のが 始 め の校 長 で績 い て 森 川 と 云 ふ 人 が校 長 に な り ま した が 是 は特 に校 長 と し て横 濱 に 在 勤 し て、 學校 内 に住 居 し て居 り ま した 。 併 しな が ら 是 は、 學 校 の經 理 と 生 徒 の取締 を す る だ け の 事 で、 學 問 上 の こ と に付 い て は、 少 しも 干 渉 じ な い。 學務 上 の こと に付 いて は専 ら カ シ ョンと 云 ふ人 が 全 權 を 持 って居 って、 其 の人 の 自 由 に任 し てや ら せた ・ : ・の 。﹂ 以 上 は語 学 所 第 三期 の生 徒 と な っ た 田 島 應 親 の談 話 か ら の引 用 であ るが 、 メ ルメ ・ ド ・ カ シ ョ ンの語 学 所 で の役 割 を き わ め て簡 略 だ が適 切 に述 べ た も のと し て注 目 さ れ る。 栗 本 鋤 雲 の ﹃ 匏 菴 遺 稿 ﹄ (明 治 三 十 六年 刊 ) の 巻 頭 に 掲 げ ら れ た 年 譜 に、 ﹁ 嘉 永 五 年 先 生 卅 一 歳 、 先 生 汽 船 觀 光 丸 試 乗 の募 に 應 ぜ ん と し 、 御 匙 法師 岡 櫟仙 院 の 劾 す る と ころ と な り、 譴 を う く 、 幾 も な く 蝦 夷 移 住 を 命 ぜ ら れ る。 此年 六月 家 を擧 げ て 蝦 夷 に移 る、 在 住 諸 士 の頭 取 とな る、 爾 來 十年 間 函館 に あ り 、採 藥 、 藥 園 、 病 院 、 琉 水 、 養 蠶 等 施 設 の 事 業 多 し佛 人 メ ル デ ルカ シ ョンに 日本 語 を教 へ 、 交 親 を 結 べ り 。 っ ﹂
メ ル メ ・ ド ・カ シ ョ ン に つ い て と 、 カ シ ョ ン ど の関 係 が 記 述 さ れ て い る 。 カ シ ョ ン に つ い て の数 少 な い紹 介 のう ち 、 と く に 、 神 長 倉 真 民 著 ﹃ 欄 梺 セ ス と 小 栗 上野 介 ﹄ の 中 のそ の 経歴に 触れた 文章 は き わめ て重 要 な も の であ る。 ﹁ こ こ でカ シ ョンと いふ 人物 を御 紹 介 し て置 く 必要 が あ るが 、 教 法 師 と あ る如 く 、 彼 は元 來 が ゼ ス エ ッ ト 派 の宣 教 師 だ 。 か な り古 く か ら 目本 に來 てゐ て 、 月 本 語 も 巧 け れ ば 、 目本 文 を讀 め ると いふ ロ セ スに と っては 、實 に お 誂 ひ向 き の人間 だ っ た 。 目本 で は、 メ ル モ ッ チ 大 僭 正 だ と か、 メ ル メド ウ ・ カ シ ョンな ど と 云 は れ て ゐ たが 、 これ も 本 當 は メ ルメ ・ デ ・ カ シ ョ ン ( 諺 び び び ζ Φ 巴 白霧 餌 ① O p o ゲ o ロ ) と い ふ のだ 。 栗 本 等 は和 春 と書 い て ゐ る。 は つ き り した こと は判 ら な い が 、 弘 化 或 は嘉 永 年 間 と覺 し き項 に、 佛 國 海 外 布 教 協 會 ( ミ ッシ ョン . ヱト ラ ン ぜ ー ル) か ら派 遺 さ れ て支 那 に來 て ゐ たも のだ 。 支 那 から 目 本 へ 渡 っ て來 る 計 書 だ っ た ら し いが 、 當時 は、 そ ん な こ と は出 來 な い から 、 そ の中 間 工 作 と し てひ と ま つ琉 球 に渡 っ た 。 こ こ で、 日本 語 を 練 習 しな が ら 、 お も む ろ に内 地 潜 入 の 機 會 を ま つこと に し て 、ジ ラ ー ル、 フ ェ レー と い ふも のと 都 合 三人 、 琉 球 は那 覇 の 港 に押 し渡 っ た のは 、 一 八 五 五年 二月 と いふ から 、 安 政 二年 の正 月 頃 の話 だ 。 彼 等 は 那覇 の 聖 現 寺 と いふ お寺 に 止宿 し て、 布 教 の 傍 ら 目本 語 の 稽 古 を し て ゐ る。 (中 略 )彼 は 、 一 旦香 港 へ 引 上 げ て後 ・ : ・安 政 五年 に、 今 度 は條 約 締 結 の た め に 派遣 さ れ たグ ロ r男 爵 の 通 譯 と し て、 神 奈 川 ま で來 て ゐ る。 こ れ が 、彼 が 日本本 土 を踏 ん だ始 め だ、 そ の 時 に は、 す ぐ 香 港 へ 帰 っ た が 翌 安 攻 六 年 九 月 に、 駐 日總 領 事 ベ レク ー ル : : 後 に 公使 に昇 任 : : に つ い て、 再 び 目本 へ や っ て來 た。 そ し て そ の年 の十 一 月 に函 館 に 去 って、 こ こ では じ め て目本 に ゆ っ く り腰 を 据 え た のだ 。 函 館 に は 一 八 六 二年 : :文 久 二年 の 秋 頃 ま で留 っ て ゐ た。 こ の間 に於 け る彼 の活 躍 は、相 當 のも のだ っ た ら し い 。 教 會 を 建 て ン 布 教 す る は勿 論 の こと 、 英 佛 語 の 教 授 も し てゐ る 。 彼 の家 に は在 留 外 人 は 勿 論 、 日本 政 府 の 役 人、 目本 の 僭 侶 な ども 、 盛 ん に出 入 した そ う だ から 、 瓧交 的 に も華 々し い 活 躍 を し た ら し い。 ま た英 佛 日野 譯 の辭 典 を 編 輯 した り 、 アイ ヌ語彙 を募 集 し た り し て ゐ る處 を見 る と、 相 當 學 才 も あ っ た 男 のや う だ 。後 目 、 ロ セ ス が 、 禮 を 厚 く し て彼 を 公使 館 に招 跨 した のも 、 單 に 目本 語 が 話 せ ると いふば か り で な く 、 か う い ふ彼 の學 問 や 、 瓧 交 的 技 倆 を 傳 へ 聞 い て ゐた か ら だ
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カ シ ョンが箱 館 に滞 在 し た と い う こ と は 目本 仏 学 史 研 究 上 き わめ て 注 目 さ れ る事 柄 で、 栗 本 鋤雲 、 鹽 田 三郎 の 、 立 廣 作 動 な ど へ の フラ ン ス 語 教 授 、 さ ら に は ﹃ アイ ヌ。起 原 、 言 語 、 風 俗 、宗 教 拗 ﹄ ( 一 八 六 三 年 ) 、 ﹃ 佛 英 和 辭 典 鋤 ﹄ ( 一 八 六 六年 ) の編 纂 、 ﹃ 養 蠶 秘 録紛 ﹄翻 訳 の 準 備 な ど も こ の地 で行 な わ れ て いた の であ っ た 。 カ シ ョン の 前 述 の 著 述活 動 に つい て は後 述 す る こ と にす るが 、 とも あ れ 、 カ シ ョン の こ の箱館 滞 在 は す こぶ る意 義 深 いも のを も っ て い る。 第 二代 駐 日 フラ ン ス公使 と し て来 日 し た レオ ン .ロ ッシ ュは、 ﹁ メ ルメ教 父 は、 何 故 か函 館 に於 け る事 業 を 捨 て 上 海 に歸 ら んと し て ゐ る處 であ っ た 。 予 は獪 豫 せ ず 氏 に協 力 を頼 ん だ處 が 、 氏 は、 無 報 酬 でな け れば 公 使 館 の公 職 に 就 く こと を 肯 ん じ な か っ た 。 予 は 日本 語研 究紀要 第18集 に堪 能 に し て、 且 目本 の肚 會 組 織 に通 曉 せ る氏 の 協 力 が 、 此際 絶 勤 必 要 で あ る こ とを 力 説 し て そ の應 諾 を 求 め 得 た 。 さ れ ば 予 は 氏 の 爲 に 、 住 宅 及 病 院 學 校 を 建 設 す る爲 に 幕 府 が横 濱 に 於 て貸 與 せ る 地 所 の 一 部 を 割 譲 せ ねば な ら ぬと 考 へ た 。 然 るに 何 故 か前 任 公 使 は 、 メ ルメ教 父 に野 す る不 平 を 洩 ら し、 且 つ 予 が 協 力 者 と し て氏 を 選 定 し た こと に就 て、 白 眼 を 向 け た の であ る瑚 。﹂ と、 カ シ ョ ンの協 力 の必 要 を 訴 え て い る。 これ は文 久 三年 ( 一 入 六 三年 ) に箱 館 を 去 っ た あ と、 一 旦 江 戸 に出 てか ら 、 目 本 を離 れ 、 元治 元 年 ( 一 入 六四 年 ) 三月 二 七 目 の レ オ ン ・ロ ッシ ュの赴 任 に随 行 し て 再 度 目本 の 地 を 踏 む に至 る事 情 を 述 べた も の で、 そ の後 、 カ シ ョンは 公使 館 付 通 訳 官 と し て幕 府 と の外 交 の場 でお お いに 手腕 を揮 う こと に な っ た のであ る。 カ シ ョンが 元 治 元 年 七月 四 日 、横 濱 鎖 港 談 判 の 席 上 、 旧知 の 栗 本 鋤 雲 と再 会 し、 それ 以 来 両 人 の関 係 の 親 密 さ に よ って目仏 交 渉 は円 滑 に 進 んだ の であ っ た 。 ﹁ 此度 鑑 察 に命 せ ら れ横 濱 表 立 合 と し て詰 居 る 處 豈 料 ら んや 右 カ シ ユン儀 も 彼 國 公 使 付書 記官 に て 同 港 に居 り候 故 應 接 の 度 度 面 會 致 し 公 事 終 り て 舊 話 に 及 ひ 其 縁 故 を 以 て自 然 公使 ロ セ ツ に も親 敷 相 成 た り : ・ : 諭 ﹂ 鋤 雲 はカ シ ョンと の再会 の こと に つい て こ のよ う に記 し て い る。 ま た 、 ﹁ 匏 菴 遺 稿 ﹂ でも そ の再 会 の よ ろ こび を つ ぎ のよ う に 述 べ て いる 。 ﹁ 此 日予 始 て四 國 公 使 に面 した るが 、 就 中 佛 の譯 官 は、 舊 識 の メ ル メ ッ ト カ シ ョンに て有 り し か ば 、 會 談餘 互箱 館 以 來 契 濶 の 情 を序 し、 併 せ て予 の 榮 轉 を賀 し 予 も亦 彼 が 膺 撰 の 幸 を 祝 し た い 。 ﹂ カ シ ョン の 滞 日中 の 活 動 に つい て は、 一 応 は上 述 の よう に伝 え ら れ て いるが 、 カ シ ョ ン の 生 い立 ち を 含 め て来 日以 前 と 帰 国 以 後 の経 歴 に 言 及 し て いる文 献 ・ 資 料 の類 はき わ め て少 な い。 カ シ ョン の生 涯 は 滞 日期 間 の 部 分 を のぞく と ほ と ん ど ま っ た く 判 って いな いと いう のが こ れ ま で の 認 識 で あ っ た 。 ﹁ ○ 餌 魯 o 口 の 帰 国 後 の動 静 に つい て は、 一 入 六 七年 の パ リ 万 国 博 の 当 時 、 一 五代 将 軍 の 代 理 と し て渡 仏 した 徳 川 昭 武 の通 訳 た ら ん と し て " 切 支 丹 " な るが ゆえ に し りぞ け ら れ て しま っ た こと 以 外 ほと ん ど 知 ら れ て い な いが 、 こ の辞 書 の編 纂 に従 って いた こと に よ って、 知 的 活 動 の 一 端 を 察 知 でき る わけ であ る助 。 ﹂ と、 高 橋 邦 太 郎 氏 は カ シ ョン の ﹃ 佛英 和 辭 典 ﹄ ( 一 入 六 六 年 ) に つ いて触 れ られ た 文 章 のな か で、 こ のよ う に カ シ ョン の帰 国 後 の活動 に 言 及 さ れ て い るが 、 き わめ て暖 昧 な 事 柄 し か判 明 し て いな か っ た ので あ る。 も っ とも 、 船 山 馨 氏 が そ の小 説 ﹃ 蘆 火 野 ﹄ に お い てカ シ ョン の 帰 国 後 の姿 を 描 い て い ると いう よ う な 例 外 も あ る が 、 これ は あ く ま で も創 作 であ って事 実 で はな い。 た と え ば 、 つ ぎ のよ う な 一 節 な ど 、 これ が事 実 であ っ た な らば 、 カ シ ョン の存 在 はも っ と 広 く 知 ら れ る こと に な っ た こと だ ろ う 。 ﹁ 私 は いま、 日 本 の見 聞記 を書 いて い る と こ ろ だ。 た ん な る 一 個 人 の 印 象 記 録 で はな く 、 トク ガ ワ末 期 の フラ ン スと 目 本 の交 流 に つい て も 、書 い てお き た い ことが 沢 山 あ る ので ね。 厄介 だ が 愉 し い 仕 事 だ
メ ル メ ・ ド ・カ シ ョ ン に つ い て よ の ﹂ カ シ ョ ン が パ リ を 訪 れ た 主 人 公 た ち に 語 る こ の 言 葉 が 事 実 を 語 る も の で 、 そ の よ う な 著 作 が 存 在 し て い る と し た ら 、 日 仏 交 渉 史 上 の 重 要 な 文 献 と な って い る は ず で あ る が 、 そ う し た 事 実 は な い の で あ る 。 ま し て 小 説 で の よ う に カ シ ョ ン が 妻 帯 し た と い う 事 実 も い ま の と こ ろ 確 認 さ れ て い な い 。 従 来 、 カ シ ョ ン の生 涯 に つ い て は 、 滞 日 中 の 経 歴 を の ぞ い て は 、 ほ と ん ど ま った く 不 明 と い って よ い ほ ど 判 って い る 部 分 が 少 な か った 。 来 日 前 と 帰 国 後 の カ シ ョ ン の経 歴 に つ い て は む し ろ 不 明 と 云 った 方 が よ か った の で あ る 。 今 夏 、 パ リ の海 外 布 教 団 を 中 心 に カ シ ョ ン の そ の よ う な 不 明 部 分 に つ い て の 調 査 を 試 み て み た 。 つぎ に そ の 調 査 報 告 を 含 め て カ シ ョ ン の 生 涯 を 素 描 し て み た い 。 2 ウ ー ジ ェ ヌ H エ マ ニ ュ エ ル ・ メ ル メ 、 あ る い は メ ル メ H カ シ ョ ン は 、 一 八 二 八 年 九 月 十 一 日 、 フ ラ ン ス南 東 部 、 ス イ ス国 境 に 横 た わ る ジ ュ ラ 山 中 の 一 寒 村 、 レ ・ ブ f シ ュー に 、 ア レ キ ス ・メ ル メ ーー カ シ ョ ン と マ リ ・ ク ロ デ ィ ヌ を 父 母 と し て 生 ま れ た 。 教 会 の 記 録 で は 彼 は 誕 生 と 同 時 に シ ャ ヴ ァ ン 司 祭 に よ り 受 洗 、 同 じ 聖 堂 区 の ク ロ ー ド ・ エ マ ニ ュ エ ル ーー ボ ン ヌ ヴ ィ ル と マ リ ・: : メ リ メ が 代 父 母 と し て こ れ に 立 ち 会 っ て い る 的。 レ ・ ブ ー シ ュー は パ イ プ の産 地 と し て 知 ら れ て い る サ ン ・ク ロ r ド か ら 約 二 十 キ ロ離 れ た ジ ュラ 山 中 の寒 村 で あ り 、 と り た て て 云 う ほ ど レ ・ブ ー シ ュー の教 会堂(筆 者 撮 影) の も のが な い ひ っそ り し た 聚 落 で あ る 。 小 さ な 教 会 堂 が 聚 落 の は ず れ に 建 って い る の が カ シ ョ ン の生 地 を 思 わ せ る に す ぎ な い 。 バ ス も 通 え な い 僻 地 で あ り 、 サ ン ・ ク ロー ド か ら の交 通 機 関 と し て は わ ず か に タ ク シ ー が あ る だ け で 、 そ れ も 台 数 が 少 な く 、 よ う や く 辿 り つ い た レ ・ ブ ー シ ュー の 地 は ま さ に 霧 に 包 ま れ て教 会 堂 も か す ん で 立 っ て い た 。 レ ・ ブ r シ ュー は サ ン ・ク ロ ー ド 司 教 区 に 属 し て い る が 、 カ シ ョ ン は サ ン ・ク ロr ド の 神 学 校 に 学 び 、 聖 職 者 と し て の 生 涯 を 歩 み 出 し た 。 む か し は 大 修 道 院 の 中 央 に 位 置 し て い た サ ン ・ ピ ュー ル大 伽 藍 も い ま で は サ ン ・ク ロ ー ド の 名 所 と な っ て い る が お そ ら く は カ シ ョ ン は そ の大 伽 藍 脇 の僧 房 に 寝 起 き し た こ と だ ろ う 。 一 入 五 二 年 七 月 十 一 日 、 カ シ ョ ン は パ リ に 出 て 、 海 外 布 教 団 劫に 入 っ て い る 。 こ の海 外 布 教 団 は パ リ 第 七 区 バ ッ ク 通 り 一二 八 番 地 に あ っ て 、 海 外 へ多 数 の 宣 教 師 を 派 遣 し 、 カ ト リ ッ ク の 布 教 に 尽 力 し て い る 。 カ シ ョ ン は 、 翌 一 入 五 三 年 五 月 二 一 目 、 副 助 祭 、 同 年 十 二 月 十 七 目 、 助 祭 、 一 八 五 四 年 六 月 十 一 目 、 司 祭 と き わ め て 順 調 に 昇 進 し た 。 そ し て 同 年 八 月 二 五 日 に は 目 本 に 向 け て パ リ を 出 発 し て い る 。 (13)
研究 紀要 第18集 パ リ海外布教団本部(筆者撮影) 一八 五 五 年 二 月 、 カ シ ョ ン は 二 人 の 宣 教 師 、 ル イ ーー テ オ ド ル ・ フ ユ レ鋤 と プ リ ュ ダ ン U セ ラ フ ァ ン ・バ ル テ ル ミ r ・ジ ラ ー ル 鋤と と も に 沖 繩 の那 覇 に 到 着 し 、 や が て 松 尾 と い う 町 に 住 み 、 目 本 語 の学 習 に 専 念 し た 。 ﹁ こ こ で 、 日 本 語 を 練 習 し な が ら 、 お も む ろ に 内 地 潜 入 の機 會 を ま つ こ と に し て、ジ ラ r ル 、 フ ェレr と い ふも の と都 合 三入 、 琉 球 は 那 覇 の 港 に押 し渡 っ た のは 、 一 八 五 五年 二月 と いふ か ら 、 安 政 二年 の 正 月 頃 の話 だ 。彼 等 は那 覇 の 聖 現 寺 と い ふ お寺 に止 宿 し て、 布 教 の傍 ら 日 本 語 の 稽 古 を し てゐ る物 。 ﹂ 安 政 二年 ( 一 八 五 五年 ) 正月 は西 歴 で は同 年 二月 に当 り 、 カ シ ョン の 来 目 の 時 期 は 日仏 両 国 の 資 料 で は 一 致 を み て い る劉 。 カ シ ョン の日 本 語学 習 は急 速 に深 め ら れ たが 、 宣 教 師 と し て の使 命 を 果 す た め に は さ ま ざ ま な障 害 に つき あ た っ た よう で、 宗 教 上 の反 感 から 、結 局 わ ず か に 一 名 の日本 人 を洗 礼 さ せ た にす ぎ ず 、 翌 一 入五 六 年 に は健 康 を 害 した た め 、静 養 の必要 か ら香 港 に渡 らな く て はな ら な か っ た 。 一 八五 八年 (安 政 五年 ) 、 目仏 通 商 条 約 締 結 の 全 権 公使 と し てグ ロ 男 爵 鋤 の来 日 に際 し 、 カ シ ョンも通 訳 と し て同 行 し、 神 奈 川 の地 を 踏 ん だ 。 条 約 締結 後 、 初 代 公使 デ ュシ ェ r ヌ ・ ド ・ ベ ル ク ー ル胸 と不 和 と な り 、 一 旦 香 港 に 戻 っ た が 、翌 一 入 五 九年 、 カ シ ョ ンは開 港 され た 箱 館 へ赴 任 す る こと と な っ た 。 上 海 から ロシア艦 に 便乗 し、 長 崎 経 由 で、 十 一 月 二五 日 箱 館 に 到着 し 、 称 名 寺 の 境 内 に 家 を 借 り 司 祭 館 と し、 教 会 堂 を 建 て、 塾 を 作 って フラ ン ス 語 を教 え、 さ ら に施 療 所 に満 足 せず 病 院 を も 設 立 し よ う と し た 。 神 長 倉 氏 はカ シ ョンが 来 目後 す ぐ香 港 に 戻 り、 ﹁ 翌 安 政 六 年 九 月 に 、 駐 日總 領 事 ベ レ ク ー ル : :後 に 公 使 に昇 任 : :に つ いて、 再 び 日本 へ や って來 た 。 そ し てそ の年 の十 一 月 に 、 函館 へ 去 っ て、 こ こ で は じ め て 日本 にゆ っ く り 腰 を 据 え た の だ鋤 。 ﹂ と そ の間 の 事 情 を 説 明 し て い るが 、 カ シ ョン の再 来 日 はベ ルク r ルに随 行 と いう よ り も む し ろ箱 館 居 留 の外 国 人 のた め の宣 教 師 派 遣 に よ る も のと み ら れ る。 カ シ ョ ンは箱 館 で幕 府 の役 人 と だ け では な く 、 当時 フラ ン ス 政 府 代 理 領 事 を 兼 ね て いた イギ リ スの ポジ ソ ン 領 事 を含 め て 箱 館 在 住 の 欧 米 各 国 の 領 事 た ち とも き わめ て好 ま し い関 係 を 保 っ た こと で、彼 の司祭 館 に は在 留 外 人 は勿 論 、 幕 府 の役 人 、 僧 侶 な ど で多数 出 入 し た よ う だ っ た。 と り わ け、 こ の 地 で箱 館 奉 行 津 田 正 路 の命 を 受 け た 栗本 鋤雲 と 日仏 語 の 交 換 教 授 を し た ほ か鹽 田 三郎 、 立 廣 作 な ど に フラ ン ス語 を教 え た こと は、 い う ま でも な く 日本 仏 学 史 上 の大 き な 出 来 事 であ っ た 。 ま た 、 カ シ ョン の ﹃ 佛 英 和 辭 典 ﹄ の編 纂 や ア イ ヌ語 々彙 の 蒐 集 な ど は す べ て 箱 館 滞 在 の 成 果 であ っ た。 こ のよう な 功 績 が フラ ンス政 府 の知 ると こ ろと な って、 カ シ ョンは レ ジ ョ ン ・ ド ヌ ー ル ・ シ ュ ヴ ァ リ エ 十
メ ル メ ・ ド ・カ シ ョ ン に つ い て 字 勲 章 を 授 け ら れ た 。 ( パ リ の レ ジ ョン ・ ド ヌー ル 叙 勲 局 お よ び パ リ 古 文 書 館 に はと く に カ シ ョン の 叙 勲 の 記 録 は保 存 さ れ て い な い) 。 一 入六 〇 年 七月 、 カ シ ョンは パ リ海 外 布 教 団 か らジ ラ ー ル に代 わ っ て 日本 に おけ る同 会 の長 上 に 任 命 さ れ た が 、 これ を辞 退 し た。 一 入 六 一 年 に入 る と、 カ シ ョン は身 辺 に 生 命 の危険 を覚 え る よ う な事 件 に 二 度 も 出 会 っ た。 幕 府 が キ リ スト教 の目 本 人 への 滲 透 を怖 れ て布 教 活 動 を抑 え よう とす る気 配 が 出 てき た こと と 常 時 武 器 を 携 帯 せ ず に は外 出 で き な いほ ど外 国 人 へ の 一 般 民 衆 の反 感 が 高 ま ってき た こと 、 そ う し た中 で カ シ ョンは暗 殺 の 危 難 に遭 遇 した の であ っ た 。 カ シ ョン は これ ら の 苦 境 に も めげ ず 布 教 を続 け よう と した が 、 北 国 の寒 さ は彼 の健 康 を む し ば ん で い っ た 。 カ シ ョンは病 院 設 立 の 計 画 に 失 敗 し、 自 分 が あ ま り に も 独 断専 行 し て い て、 上 司 の賛 同 を え て いな い こと に気 づ いた 。 彼 が 箱 館 の地 を 去 る決 心 を した のは こう し た事 情 のた め で あ っ た 。 フ ラ ンス側 の文 献 で は、 カ シ ョンは 一 八 六 三年 に箱 館 を 去 り、 そ の ま ま フラ ン スに 戻 っ た こ と に な っ て い る。 ﹃ 函館 と カ ト リ ック﹄ に よ る と そ れ は ﹁ 千 入百 六十 三年 (文 久 三年 ) の 夏 ﹂ の こと と さ れ て いる。 だが 、 神 長 倉 氏 に よれ ば 、 カ シ ョンが 箱 館 を離 れ た のは 一 八 六 二年 (文 久 二 年 ) の秋 頃 で あ る。 前 者 の文 献 に は、 カ シ ョン は フラ ン ス で、 一 入 六 三年 ア イ ヌに関 す る小 冊 子 を 出 版 し、 翌 年 再 度 来 目 し、数 カ 月 間 横 浜 に滞 在 し、 カ ト リ ック の学 校 建 設 の可 否 を 検 討 した と 記 さ れ て いる 。 さ ら に同 年 、 カ シ ョ ンは僧 職 を 離 脱 し、 メ ル メ ・ ド . カ シ ョン の 名 で ﹃ 佛英 和 辭 典 ﹄ を刊 行 し、 一 八 七 一 年 頃 に 二ー スで死 去 した と 伝 え て いる 。 カ シ ョン の こ の 経 歴 は 目本 側 の文献 のそ れ と はす こ ぶ る重 要 な 個 所 で喰 違 いを み せ て い る ので あ る 。 カ シ ョンが 箱 館 を 去 っ た時 期 が 一 八 六 二年 な のか 六 三年 な の か と い う 点 でま ず 違 って い る。 日 本 側 の 資 料 と し ては 、 一 八 六 二年 四月 四 日 箱 館 で書 かれ た と いう カ シ ョン の 書 簡 が 残 さ れ て いる こと で、 一 八 六 二年 四月 に は 一 応 箱 館 に いた こと が 確 認 さ れ る。 ﹁ 文 久 二年 の 秋 頃 ま で留 っ て ゐ た﹂ と い う 神 長 倉 氏 の説 はな に に 拠 るも のだ ろ う か 。 こ れ が 正 し いとす る な らば 、 カ シ ョン は 一 入 六 二年 秋 に は箱館 を離 れ て い る わ け で 、 そう な る と フラ ン ス 側 文 献 の ﹁ 一 入 六 三 年 ﹂ はな に を 根 拠 と し て いる のか疑 問 と な る。 た とえ ば 、 ア イ ヌ に関 す る書 物 の未 尾 に 二 八 六 三年 十 月 二九 日、 パ リ ﹂ と いう 記 述 が あ る こと で 傍 証 さ れ る も の の、確 証 す るも のは 見当 ら な い 。 藤 田東 一 郎 氏 は ﹁ メ ル メ ・ ド . カ シ ョン は元 治 元年 正 月 に は 香 港 に 居 た ら し い 劉 。 ﹂ と 前 出 の 文 章 で 述 べ て い るが 、 これ によ ると 、 一 入 六 四年 初 頭 に は 日本 に いな か っ た こ と にな る。 これ から 推 定 さ れ る こと は、 カ シ ョンは箱 館 を去 っ てす ぐ 江 戸 に出 て、 ア カデ ミ ー ・エト ラ ンジ ェ ー ル で フラ ン ス 語 を教 授 し た あ と 、 ひと ま ず帰 国 し 、 パ リ で ﹃ アイ ヌ 。 起 原 、 言 語 、 風 俗 、 宗 教 ﹄ の 著 作 を刊 行 し、 ふ た たび 香 港 に赴 い て い た の であ ろう 。 いず れ に せ よ 、 こ の 頃 のみ る期 間 、 カ シ ョ ンは香 港 に滞 在 し て いた よう であ る。 と ころ で、 レオ ン ・ ロッシ ュ 胸 が カ シ ョン を 公 使 館 書 記 官 に任 命 し た の はそ の来 日 、 す な わ ち 一 入 六 四年 四 月 二 七 目 (元 治 元 年 三月 二 七 日) 前 後 の頃 であ る。 ﹁ メ ルメ教 父 は、 何故 か函 館 に於 け る事 業 を捨 て 上海 に 歸 ら ん と し 15
研究紀要 第18集 て ゐ る處 で あ っ た鋤 。﹂ ロッ シ ュ は そ の手 記 で こ の よう に述 べ て い るが 、 カ シ ョン への 協 力 要 請 が ロッシ ュ の来 日直 前 の こ と であ る と した ら 、 カ シ ョン は 一 入 六 四年 に は ま だ箱 館 に い た こ と にな っ て しま う 。 これ はと く に カ シ ョン が ﹁ 香 港 ﹂ で は なく ﹁ 上 海 に歸 ら んと し て ゐ る﹂時 期 であ っ た と いう 記 述 を 問 題 に した 場 合 の推 定 であ り 、 ち よ っ と辻 褄 が合 わ な く な る。 目本 側 の文 献 に し ても ﹁ 文 久 二年 秋 頃 ま で こ こに留 ってゐ た ら し い ﹂ と 、 多 分 に記 述 が 暖 昧 で、 これ も に わ か に信 じ に く い 。 こ こに 小 説 ﹃ 蘆 火 野 ﹄ の 一 節 を引 用 す る こと に し た い 。 ﹁ こ の 三月 に着 任 し た レオ ン ・ロ ッシ ュ と いう フラ ン スの 新 公 使 に 用 が あ ってね 、御 目付 の 栗 本 瀬 兵 衛 (鋤 雲 ) さ ん と横 浜 の公 使 館 へ 訪 ね てゆ く と 、出 て き た の が カ シ ョ ン 君 さ ﹂ ﹁ ほう 。 一 昨 年 の暮 れ ま で こ こに お い でだ っ た メ ル メ ・ デ ・ カ シ ョ ンさ ん です か﹂ ﹁ そう な ん だ 。 いま は公使 館 の 通 詞官 を し て いる : : (略 ) 鋤 ﹂ あや 右 の 会 話 は武 田 斐 三郎 と 主 人 公 の河 井 準 之助 と の間 のも のだ が 、 レ オ ン ・ロ ッシ ュの着 任 が 元 治 元 年 ( 一 入 六 四 年 ) 三 月 であ る こと 、 そ れ よ り 二年 まえ の暮 、 つ ま り 一 八 六 二 年 (文 久 二 年 )暮 ま え ま で カ シ ョ ン が 箱 館 に滞 在 した こと が そ こに 言 及 さ れ て いる 。 フィ ク シ ョンが 小 説 の 一つの特 質 であ る以 上 、 そ のま ま こ の 記 述 を 事 実 と し てす べ て受 け と り に く いが 、 一 応 の 判 断 の 根 拠 と な ら な い と も かぎ ら な い の で、 あ え て引 用 し た わ け で あ る 。 い ず れ に せ よ、 カ シ ョン の箱 館 滞 在 期 間 は 正確 に は つき と め ら れ て い な い よう であ る。 藤 田東 一 郎 氏 は栗 本 鋤 雲 の業 績 を 調 べ て いき 、 そ の過 程 でカ シ ョン の関 係 に言 及 し、 ﹁ そ こ で 栗 本 が カ シ ョンと交 渉 のあ っ た 函 館 在 住 は 安 政 五年 六 月 か ら 文 久 二年 七月 ま で の間 と 、 文 久 三年 十 月 江 戸 へ 歸 る直 前 少 し の間 と であ っ た 、 そ し て函 館 に 於 け る功 勞 が 認 め ら れ 、 江戸 に召 還 さ れ、 元 治 元 年 、 一 入 六 四 年 に は横 濱 半 年 詰 を命 ぜ ら れ た ::鋤 ﹂ と 述 べ て い る。 鋤雲 は カ シ ョンよ り も 一 年 半 ほ ど早 く 箱 館 に来 て、 カ シ ョンが 箱館 を 去 る 前 に北 蝦 夷 樺 太 巡視 のた め に そ こを 離 れ、 彼 の 不在 中 に カ シ ョ ンは箱 館 か ら姿 を消 し て い る よう であ る。 カ シ ョ ン 溺 再 度 来 目 し た こ と は 目仏 両 方 の資 料 とも 認 め る事 実 であ り 、 そ の 時 期 も 同 じ く 一 入 六四 年 であ るけ れ ど 、 詳 し い月 日 は 不明 で あ る。 藤 田氏 は これ に触 れ て い るが 、 ﹁ と こ ろ で 彼 の 佛 國 公使 館 入 り は、 は っ き り し な い が 、 ロッ シ ュの 赴 任 は元 治 元 年 三月 二十 四 目、 一 八六 四 年 四 月 二十 七 日 で、 ロッ シ ュ と 日本 へ 同 行 し て來 た と 云 ふ説 も あ る 鋤 。 ﹂ と 、 一 入 六 四 年 に 再 び来 目 し た こ と を 認 め て いる。 カ シ ョン は レ オ ン ・ロッ シ ュの通 訳官 と し てそ の 才 腕 を 揮 う こ と に な り 、 ま ず 横 浜 鎖 港 談 判 に 臨 み 、 そ こ で 栗 本 鋤 雲 と 再 会 した の だ っ た 。 や が て 幕 府 が フラ ン ス 陸 軍 の 将 校 団 を軍 事 顧 問 団 と し て招 聘 す る こと に な っ た のを契 機 に 、 ロッ シ ュの 建 議 で横 浜 に フラ ン ス 語 の学 校 を建 て る ことが 決 ま っ た 。 これ に は栗 本 鋤 雲 の意 見 が 十 分 に反 映 さ れ て いた こと は、 ﹁ 於 是 予 ﹃ レヲ ン ロセ ス ﹄ と 謀 り 、 其 論 意 に基 き 、 佛 國 語 學 傳 習 所
、 メ ル メ ・ ド ・カ シ ョ ン に つ い て 創 設 せ ざ る可 か ら ざ る の 意 見書 一 編 を草 し 、 小栗 、 淺 野 二氏 に示 せ し に 、 二 氏 一 見 し て至極 然 る可 し と同 意 : : 鋤 ﹂ と いう 記 述 に も 汲 み と れ る 。 だ が 、 ロッシ ュ の建 議 が 実 行 に移 さ れ る 段階 では 、 フラ ン ス 側 で は カ シ ョン が 中 心 的 人物 と な っ てカ を 添 え た 。 と ころ で 、横 浜 のこ の フラ ン ス 語 学 校 は創 立 事 情 の特 殊 性 から 、純 粋 な フラ ン ス 語 学 校 で はな く て、 陸 軍 の将 校 養 成 所 の 色 彩 を 帯 び て い た こ と は否 め な い。 ﹁先 づ 佛蘭 西 語 に 通ず る 人 を拵 へ な け れば いけ な い、 これ で 佛 蘭 西 語 溝 十 分 話 せ るや う な 人 が 出 來 た 時 分 に、 佛 蘭 西 から教 師 が 到着 す る や う な 手 順 に しな け れ ば いけ な い。 そ れ に は 一つ 目本 に佛 語 學校 と い ふも のを 建 て、 そ こ で佛 語 に 通 ず るや う に な っ た な らば 、 そ れ を直 に 軍 人 と し て、今 の士官 に し て通 譯 を し つ ン 、 其 人達 が 先 立 ち で練 兵 の 傳 習 を し て、 さ う し て數個 大 隊 の 模 範 を佛 蘭 西 の 教 師 の 指 揮 に依 っ て 造 って、 そ れ を諸 方 に分 け て 、 あ と の 多 數 の 兵 を 傳 習 し て教 へて往 く と いふ や う な 手綾 を し な け れば いけ な い から 、 到 底 是 は今 直 ぐ 出 來 る こと では な い 。 どう し ても 三年 と 五年 の歳 月 を 見 て掛 ら な け れ ば な ら ぬ こと であ る。 就 いて は其 の 第 一 の準 備 と し て語 學 校 を 建 設 し て、 其 處 で佛 語 に通 ず る青 年 者 を 養 成 す る其 の こと は容 易 に出 來 る こと であ る か ら、 先 づ 第 一 着 手 愚 .し て、 一 目も 早 く 、 其 學 校 を 御 建 てに な っ た ら如 何 であ る か と い ふ こ とを 、 ロセ スから 注 意 を した 。 そ れ は 如 何 に も 尤 も な話 であ る から し て、 早 速 學 校 を 建 て る こと に しや う と いふ こ と に な っ た 。 そ れ で 其 の學校 を建 てる に つ いて、 どう い ふ風 に教 へて 宜 いか、 又教 師 も ど んな 入 が あ る か分 ら ぬ から 、 一 切 の こと を ロ セ ス に御 依 頼 す る か ら、 宜 し いや う に學 校 の こと を や って貰 ひ た いと いふ 譯 に な っ た の でご ざ いま す 。 そ れ から し て其 の學 校 を横 濱 に設 け た 、 帥 ち こ れが 幕 府 時 代 に横 濱 の佛 語 學 校 と 稱 へ た ので す鋤 。 ﹂ のち に陸 軍 大 佐 と な っ た 同 校 出 身 の田 島 應親 は横 濱 佛蘭 西 語 學傳 習 所 設 立 の由 来 を 述 べ て い る。 こ の伝 習 所 の 創 立年 月 に つ いて は、 大 塚 武 松 氏 は慶 応 元 年 三 月 六 目 説 を と り 、 田島 應 親 は 慶応 元年 正月 に 一 回 生 の入 学 が あ っ た こと を 述 べ て い て、 明確 な年 月 は判 ら な い。 こ の語 学 伝 習 所 の内容 に 関 し ては前 出 の西 堀 昭 氏 の 詳 細 な研 究 が あ る の で こ こ で はと く に 言 及 を割 愛 す る が 、 カ シ ョン が 実 質 上 の校 長 であ っ た よ う であ っ た 。 これ は学 校 規 則 に ﹁ 和 春 (カ シ ョン の こと1 筆 者 註 ) は 學校 一 切 之 事 を關 轄 す鋤 ﹂ と あ る こ と か らも は っ き り し て いよ う 。 最 初 は カ シ ョンひ と り で フラ ン ス 語 の授 業 を し て いた よ う で あ る が 、伝 習 生 が 増 加 し てく れ に つ れ て それ で は間 に 合 わ な く な り 、 公使 館 の護 衛 騎 兵 曹 長 の シ ャ ル ル ・ ビ ュラ ンが助 力 し、 さ ら に ア ンリ ・ ヴ rヴ 、 レオ ン ・ プ ラ ン 、 フ ェル ナ ン ・ プ ー セな ど の フラ ン ス人鋤 が加 わ り、 日本 人 ・ 鹽 田 三郎 も 助 教 と し て 教 員 スタ ッ フを構 成 す る ま で に 拡 張 さ れ て いく 。 と く に 鹽 田 三郎 は レオ ン ・ロッ シ ュの 強 い 要 望 か ら 加 わ っ た も の で、伝 習 所 の 事 務 担 当 者 であ っ た 川勝 近 江 守 に宛 て た ロ ッシ ュの 書 簡 ( 目付 不 明) に鹽 田 三 郎 登 用 の 事 情 が伝 え ら れ て いる。 カ シ ョン に箱 館 で フラ ン ス語 の手 ほど き を受 け た鹽 田 三郎 は カ シ ョ ン が 病 いを え て帰 国 す る にあ た り 、助 教 と し て 採 用 さ れ た ので あ っ た。 さ て、 カ シ ョ ン は横 浜 の佛 蘭 西 語 學 傳 習 所 の 育 成 に 尽力 し たが 、 そ (17 〆
研究紀要 第18集 の 在 任 期 間 は 必 らず しも 長 く はな か っ た よう であ る。前 述 のよ う に病 気 のた め に塩 田 三郎 を助 教 と し て呼 び 寄 せ て帰 国 の途 に ついた の であ る が 、帰 国 の 時 期 は い つの頃 の こ と であ っ た だ ろう か。 ﹁ 慶 應 三年 ( 一 八六 七年 ) 巴 里 に 開 催 さ れ た 萬 國 博 覧 會 に我 國 も 參 加 す るに 決 定 し た ので 此機 會 に徳 川民 部 大 輔 昭 武 卿 を 派 遣 し引 続 き 留 學 せ しむ る事 と した が 、 同時 に 公使 と し て向 山隼 人 正を 派 遣 した 。 公 使 の随 行 は小 栗 、 田 邊 の 諸 氏 であ り 、 民部 大 輔 の随 行 は栗 本 、 山 高 、 澁 澤 (子 爵 ) 諸 氏 の外 、 賜 暇 に て歸 國 す る長 崎 の 領 事 デ ユリ ー氏 同 伴 し、 慶 應 三年 正 月 十 二 日 横 濱 を 出 帆 し た 。 巴 里 で は總 領 事 フル リ ー . ヘ ラ ルド 宣 教 師 カ シ ョン専 ら 民 部 大輔 の 爲 め に便 宜 を 圖 っ た鋤 。 ﹂ こ の記 述 のも つ 価 値 は カ シ ョンが 慶 応 三 年 ( 一 八 六 七年 ) のパ リ 万 国 博 覧 会 開 催 時 にパ リ に滞 在 し て いた こと を 示 す 点 に あ る 。栗 本 鋤 雲 は慶 応 三年 六月 日本 を 出 発 し、 同 年 八月 パ リ に 到着 、 カ シ ョンと再 会 し て いる。 鋤 雲 は レオ ン ・ ド ・ロ ニ ー 謝 にも 会 い、 カ シ ョンと と も に フラ ン ス人傭 兵 に よ る 薩 長 討 伐 の 助 言 を 受 け たが 、 これ を 断 って い る。 な お 、 前 述 の高 橋 邦 太 郎 氏 の指 摘 と は 異 な り 、 ﹃ 函 館 と カ ト リ ッ ク ﹄ な ど に よ る と 、 カ シ ョンは 万国 博 覧 会 で鋤 雲 の尽 力 で通 訳 と し て 活 躍 した こと が 述 べ ら れ て いる 。 フラ ン ス 帰 国 後 のカ シ ョン の消息 を伝 え る文 献 と し て は こ の万 国 博 開 催 に際 し て の前 述 のよ う な も のが あ る だ け で、 鋤 雲 の ﹃ 暁 憲 追 録 ﹄ ( 明 治 二 年 三 月刊 ) は そ の 意 味 で は重 要 な 文 献 でお る。 カ シ ョ ン の 明 治 以 後 の行 動 を 記 す も の は いま のと ころ ほ と ん ど 見当 ら な い 。 わず か に ﹃ 蘆 火 野 ﹄ に 一 入 七〇 年 (明 治 三 年 ) 六 月 の 時 点 の カ シ ョ ンが 活 写 さ れ て い る に す ぎ な い 。 河 井 準 之 助 夫 妻 が パ リ の カ シ ョ ン家 を 訪 ね 、 カ シ ョ ン 夫 妻 と 会 う と こ ろ が 描 か れ て い る の で あ る 。 だ が 、 こ れ は フ ィ ク シ ョ ン で あ る 。 カ シ ョ ン の 消 息 は 、 カ シ ョ ン が 帰 国 後 に パ リ 海 外 布 教 団 を 離 れ た こ と で 、 パ リ 海 外 布 教 団 に 残 さ れ て い る 記 録 に は き わ め て 漠 然 と し た こ と し か み ら れ な い 。 カ シ ョ ン は 還 俗 し た の で 、 ひ ょ っと す る と ﹃ 蘆 火 野 ﹄ の よ う に 妻 帯 し た か も し れ な いが 、 一 八 七 一 年 頃 に 二 ー ス で 死 去 し て い る こ と だ け が 判 明 し て い る に す ぎ な い 。 ま し て カ シ ョ ンが 結 婚 し た 事 実 に つ い て は 不 明 で あ る 。 カ シ ョ ン の 死 亡 年 月 に し て も 、 パ リ 海 外 布 教 団 の記 録 で は 一 応 一入 七 一 年 頃 と な って い る が 、 海 外 布 教 団 本 部 の ジ ャ ン ・ ゲ ノ オ 鋤 神 父 が 筆 者 に 見 せ て く れ た カ f ド に は 、 二ー ス で 一 入 六 九 年 か 一 八 七 〇 年 に 死 亡 し た と 記 さ れ て い た 。 つま り 、 死 亡 年 月 目 に つ い て は は っき り し た こ と は 不 明 で あ り 、 今 後 の調 査 に .ま た な く て は な ら な い 。 ま た 、 メ ル メ ・ ド ・カ シ ョ ンを 名 乗 って 著 述 活 動 を す る よ う に な っ た の も 海 外 布 教 団 を 離 れ た あ と で あ る と 、 前 述 の記 録 に は 記 さ れ て い る が 、 カ シ ョ ン の 著 作 物 に は 一 入 六 三 年 刊 の ﹃ ア イ ヌ﹄ を 含 め て い ず れ も メ ル メ ・ ド ・ カ シ ョ ン と 記 さ れ て い る 。 パ リ 海 外 布 教 団 の記 録 で は メ ル メ あ る い は メ ル メ ・ カ シ ョ ン と あ って 、 メ ル メ ・ ド 兜カ シ ョ ン と は 書 か れ て い な い 。 こ れ は 生 地 レ ・ ブ ー シ ュー の洗 礼 の記 録 で も 同 様 で あ った 。 結 局 、 メ ル メ ・ ド ・カ シ ョ ン の 生 涯 を 完 全 に は た ど れ な い 。 彼 の伝 記 を 綴 る に 足 る 資 料 は 十 分 に な い と い う の が 実 状 で あ る 。
メ ル メ ・ ド ・カ シ ョ ン に つ い て 3 カ シ ョン の 著 作 と し て は前 述 の よう に﹃ 佛 英 和 辭 典 ﹄ ﹃ アイ ヌ。 起 原 、 言 語 、 風 俗 、 宗 教 ﹄ お よび ﹃ 養 蠶 秘 録 ﹄ (翻 訳) の 三 つが 確 認 さ れ て い る。 ほ か に、 栗 本 鋤 雲 が カ シ ョン から の 聞 き 書 を ま と め て刊 行 し た書 物 が あ るが 、 これ は カ シ ョン の著 述 と いう よ う な性 質 のも ので は な い。 だが 、 カ シ ョン の思 想 の片鱗 を 知 る に は看 過 で き な い著 述 であ る こ と は否 め な い。 す な わ ち 、 ﹃ 鉛 筆 紀 聞 ⑥ ﹄ が そ れ であ る。 つ ぎ に、 カ シ ョン の これ ら の 著 作 に 目 を通 し て お き た い。 ﹃ 佛 英 和 辭 典 ﹄ は 、 そ の 冒 頭 に レ オ ン ・パ ジ ェ ス の前 書 き が 掲 げ ら れ て い る が 、 そ れ に よ る と 、 一 八 六 六 年 に 第 一 分 冊 を 出 し 、 翌 六 七 年 に は 第 二 分 冊 と い う よ う に 数 冊 に わ た って 出 版 す る 予 定 で あ った よ ヶ だ が 、 実 際 に は A か ら E ま で を 収 め た た だ 一 冊 の刊 行 に 終 っ て し ま っ て い る 。 こ の 辞 典 の 刊 行 に あ た っ て は 、 日 本 語 に 関 し て は レ オ ン . パ ジ ェ ス 、 英 語 に つ い て は A ・ル ・ グ ラ 鋤 が 協 力 し た 。 パ ジ ェ ス は ﹃ 目 本 、 切 支 丹 宗 門 史 ﹄ ⑭の 著 者 と し て 知 ら れ る 目 本 学 者 で あ った 。 ル ・ グ ラ は フ ラ ン ス海 軍 省 海 図 地 図 室 勤 務 の少 佐 で あ った 。 高 橋 邦 太 郎 氏 は こ の辞 書 の紹 介 文 で つぎ の よ う に 述 べ て い る 。 ﹁ こ の第 一 巻 は 、 b。 。。 。 8 × H 。。 。導 四 四 〇 。へ ー ジ 、 A か ら E ま で約 六 五 〇 〇 語 を 収 め て い る 。 最 初 に 一 .へー ジ 半 の 諺 く δ 嘆 窪 巨 口 巴δ " 凡 例 " を パ ヂ ェ スが 書 い て い る 。 こ の 大 意 は1 約 十 二 年 、 目 本 に 滞 在 し た カ シ ョ ンが ζ ① 伍 げ 霞 ゜・ 鈩 盟 Φ ぴ o 匡 " 出 o 中 8 p P Oo 。 穿 ① ︿ 8厂 お よ び 堀 達 之 助 が 一入 六 二 年 に 江 戸 で 刊 行 し た 、. ℃ 。 。 犀 ① 什 U帥 o 鉱 O ⇔ 9 q O h チ ① 国昌 σq 斷 ω げ き 自 冨 b P 口 窃 Φ 鼠 昌 αq コ 9 αQ ①. 、 を 凉 ω巳 8ω の 神 父 が ポ ル ト ガ ル語 か ら 訳 し た 和 英 辞 書 二 種 を 参 考 と し て編 纂 し た 。 こ の書 に は 、 ζ 2 B簿 餌 Φ O 碧 ゲ 8 が 採 用 し た 、 和 ・ 漢 交 淆 の ω 写 ゜。 審資 ① に つ い て 短 い 説 明 の要 が あ る 。 目 本 語 は 自 体 に ω 団 = 。 び βq ① で 、 口 語 に せ よ 、 文 語 に は 特 に 、 学 者 が 入 れ た 漢 語 が か な り 多 量 に あ る 。 こ れ ら の語 は 独 特 の 文 学 で 書 か れ 、 中 国 語 と は い さ さ か 違 って 発 表 さ れ る 。 そ し て 、 目 本 の 強 。 目① に 適 合 し て い る 。 し か し 、 句 節 の 構 造 は 目 本 的 で あ る 。 こ う い う よ う に 、 日 本 語 の 特 性 を 列 記 し 、 高 度 の 冨 昌 σQ ㊤ σq 。 に は中 国 語 が 非 常 に 多 い 、 と 述 べ 、 こ の書 の学 修 に 当 た って 心 す べ き 事 項 を 説 い て あ る⑬。 ﹂ ﹁ カ シ ョ ン は ﹁ 音 綴 表 ﹂ と し て イ ロ ハ四 十 八 文 学 を フ ラ ン ス語 綴 の ロ ー マ字 と 並 記 し て い る 。 と く に 現 行 の ヘボ ン式 ロ ー マ字 と 異 る 文 字 を あ げ る と 、 チ 叶 ω詑 ヌ ご o F ル 8 ∼ カ o 鈩 ヨ 同ρ 団 P ツ 畠o ∼ ム 導 O ∬ ウ O ∬ ヰ 鼠 v ク 8 ∼ ヤ 鐸 団 斜 フ ま 尸 コ O P 工 陣ρ 団 ρ ユ 団 o ∼ シ ゜。詑 ス ゜。 o ∼ な ど が み ら れ る 。 つぎ に ﹁ 発 音 表 ﹂ が ア ル フ ァ ベ 順 に 書 か れ て い る 。 こ れ は か な り 詳 細 に 記 述 さ れ て い る の で 、 い く つ か の例 だ け を み る こ と に し た い 。 諺 u ア 、 諺 p ア ア と い う よ う に ﹁ ア ﹂ 音 に 二 様 性 が あ る こ と 、 しd o q ブ 、 ブ ウ じd o 詠 に み ら れ る よ う に 、 後 者 で は 軽 く 母 音 を 繰 返 す べ く U の上 に ﹀ な る ア ク セ ン ト 記 号 を 記 し て 両 者 の 区 別 を 設 け て い る こ と 、 U鎚 ヅ の よ う に 二 重 子 音 を 伴 な う こ と な ど の ほ か 、 目 本 語 に は R (19)
研究紀要 第18集 は あ るが L が な く 、中 国 語 は逆 に Rが な く て Lが あ る こと な ど を説 明 し て い るが 、 面 白 い こと に 出9 ハ 、 出。 へ と いう よ う に 、 H が ハ 行 と し て発 音 さ れ て い る。 も っ と も 、 ホ は 国 o に改 めら れ て い る。 と ころ で、本 文 は まず 左側 に フラ ン ス 語 が 上 、 英 語 が 下 に記 さ れ 、 そ の 右 側 に 対 応 す る 目本 語 を漢 字 と片 仮 名 で表 わ し、 下 に ロ ー マ 字 で 発音 を 綴 る と いう ふ う な記 述 法 で A か ら始 ま っ て い る。 注 目 す べ き こ と は 、 現 行 の 辞 書 と は内 容 の 密 度 の違 い はあ っ ても 一 応 用 例 が 添 え ら れ て いる こと で あ ろう 。 一 例 を記 し て み よ う。 諺 び ゆ 日 O ♪ く゜ ⑳ ゜ 淵 二 落 ス 。 甲 ↓ o o 9 ω け ぎ 8 勉 昌 ⇔ び 団 ω ゜・ 剛 宀 o 葺 ぼ 巳 0 8 8 q ° 1 " ( 目 鼠 口 ① 目 ) ° 破 レ ル 。 ↓ O N 口一 口 ゜ 団 鋤げOq同 ① N O 信 ゜ 1 9 ( 望q 響 ① 円 ) ° 破 ル 。 ↓ o 巷 o 凶r 8 ぎ 冒 話 ゜ ωo 昌山 σq 貯o 億゜ カ シ 笥 ン の 辞 書 の 語 彙 数 は 現 行 の 辞 書 の そ れ に 比 べ る と や は り 少 な い 。 た と え ば 、 大 修 館 の ﹃ス タ ン ダ ー ド 仏 和 辞 典 ﹄ と の 語 彙 の 順 序 を み る と 、 カ シ ョ ン の 辞 書 で は 、 ﹀ ° 鋤 び 巴 ω ω o ヨ Φ 巨 " 曽 び 巴 ω ω 奠 v 鋤 ぴ 巴 ω ω 奠 ( ω . ) " ⇔ び 鋤 昌 傷 o P ⇔ ぴ9 昌 伽o 昌口 画 掌。 び嚢 。 昌自 o 口昌 ① 日 Φ 三 " ⇔ ぴ 9 u 餌 o 印 器 が ⇔ げ曽 u鮎 o ⇒口 奠 ( °。 . ) "⇔ び 霧 o 霞 岳 が 彜。 げ 肆 甲 H 岳 が ⇔ び 肆 母 鎚 貯 ( ω .) ℃ ⇔ び 9 江ω ゜ : ・ ・ の 順 序 に 続 い て い く の に 対 し て 、 ﹃ス タ ン ダ ー ド 仏 和 辞 典 ﹄ の 方 で は 、 諺 ゜ 舞 " 9 ダ 9 げ巴 8 ぎ ρ 接 鋤 o P 咎 鉱 ω ω 鋤 甑 ρ 9 び巴 ω ω 9 昌 計 接 巴 ω ω ρ 9 審 博ω 。・ 巴 き αq 償ρ 呂 駐 ゜・ 。 日 Φ 9 筈 蓼 ω 。 ♪ 鋤 び 駐 。・ ① 霞 ( ω O ) " ⇔ びa 8 p 9 巴o 霞 飫 が 9 帥 口 島 o P ⇔ び 9 昌 侮 ○ 口 昌 讐 ⇔ 騨 ρ o び 9 け α o づ 口 讐 o 霞 (爲呂Φ ) " 9 び 鋤 ⇔ 山 o p 口 少 9 ぴ 9 ロ 山 o 昌 昌 ① 日 Φ 三 " 餌 び p ロ 匹 o ロ づ ひ B Φ 巨 "9 ぴ ⇔ ロ 山 o 印 u ① 5 螢 び ㌣ ε ρ 餌 び 霧 5 鋤 訂 ωo 霞 毎 N "9 び 器 o 霞 縹 。・ω き 計 ⇔ び 器 o 霞 岳ω 。・ ① 日 窪 ♂ 9 訂 計 筈 象 ⇔ αq ρ 餌 び 讐 き 計 鋤 ぴ 弾9 巳 ぎ ㊤ び 肆鍵 岳 ωω Φ 日 Φ 艮 "9 冨 ま ρ ⇔ 訂 瓜 巴 β 9 び p 什-{° 団P 筈 9 けグ と い う 語 順 で 語 彙 数 は ず っと 多 い 。 だ が 、 目 常 生 活 で 頻 度 数 多 く 用 い ら れ る 重 要 な 語 に 関 し て は カ シ ョ ン の辞 書 に 脱 落 す る こ と な く 記 載 さ れ て い る こ と は 、 カ シ ョ ン の識 見 を 示 す も の と い え な い だ ろ う か 。 訳 語 の 問 題 に し て も 、 高 橋 邦 太 郎 氏 が 前 出 の論 考 で指 摘 し て い る よ う に 、 現 在 の 目 本 語 と は 異 った も の も あ る が 、 い わ ば 時 代 色 を 反 映 し た も の と し て 、今 日 で は か え っ て興 味 深 く か つ重 要 で あ る 。 諺 艮 ざ 甲 H 陣鴇 切 支 丹 キ ラ イ 、 U ひ ゜・ Φ 弉Φ 霞 逃 人 、 U 簿 Φ 昌 目 牢 者 、 な ど が そ れ で あ る 。 ま た 、 諺 B 訂 ① 琥 珀 、 切 巴8 口 欄 干 な ど の 訳 語 は 今 日 で は い さ さ か 時 代 色 を 感 じ る と は い え 、 そ の 訳 語 の 見 事 さ に は 感 心 し な く て は な る ま い 。 村 上 英 俊 の ﹃ 三 語 便 覧 ﹄ 終 巻 ( 一八 五 四 年 ) の ﹁ 動 語 ﹂ す な わ ち 動 詞 の項 の フ ラ ン ス語 の 若 干 の も の と カ シ ョ ン の 辞 書 の そ れ を 訳 語 の 面 で 対 照 し て み る と 興 味 深 い も の が あ る 。 オロス 餌 び 駐 ω 霞 下 ル 、 置 ク 、 ( 降 ス 、 減 ズ ル 、 押 イ ル 、 後 向 ク ) 下 ミステ ル ⇔ び 碧 山 O 目 Φ 罫 見 捨 ル 、 癖 ル 、 (捨 ル 、 止 ル) 廢 棄 セイヲカ エル 餌 び 彎爰伍 酵 症 ヲ惡 ク ス ル、 性 ヲ變 セ ル 變 性 前 者 は カ シ ョン の訳 語 、後 者 は英 後 の訳 語 で、 括 孤 内 は カ シ ョンが 用 例 に使 っ た 訳 語 であ る 。時 代 的 に は英 俊 の 方 が 先 行 す る こ とを 考 え
メ ル メ ・ ド ・カ シ ョ ン に つ い て
カ シ ョン編 「佛 英 和 辭 書 」
〆 研究 紀要 第18集 なく て はな ら な いが 、 両 者 と も 一 応適 当 な 訳 語 を 見出 し て いる よう で あ る。 も ち ろ ん 鋤 寓 $巳 眸 は ﹃ スタ ン ダ ー ド 仏 和辞 典 ﹄ では ﹁ 退化 (堕 落 ) す る﹂ と いう 訳 語 が つ け ら れ て い る。 そ の意 味 で は、 カ シ ョン も 英 俊 も 、 必 らず し も 正確 な訳 語 を 採 用 し て い る と は いえ な いが 、 両 者 を 比 較 す ると 、 カ シ ョン の 方 が や や適 訳 に近 い 。 カ シ ョ ンの揚 合 、 実 はパ ジ ェスが 日本 語 の 部 分 を協 力 し た ので、 両 人 の 合 作 とも いえ る 訳 語 で あ っ た が 、 英 俊 にく ら べ ると 、 フラ ン ス 語 の 立昼 義 に つ いて は雲 泥 の差 が み ら れ る ほ ど の理 解 を み せ て いよ う と も 、訳 語 と し て の日本 語 に つ いて の理 解 とな る と、 そ の表 現 にお い て は 英 俊 に は 及ば な か っ た わ け で 、 そ の 限 り で は 二 つの辞 書 に は それ ぞ れ 一 長 一 短 の 譏 り を ぬ ぐ え な いも のが あ っ た。 だが 、 こ れ ら の辞 書 が それ ぞ れ 異 っ た編 纂 方 針 に の っ と って いた事 実 を見 落 し て は な らな い。 英 俊 は発音 を カ ナ で 表 記 し て後 進 の 学 翌 者 の 便 を計 っ た よう に、 あく ま でも フ ラ ンス語 の 学 習 に役 立 て る こと を意 図 し た ので あ るが 、 カ シ ョ ンは、 高 橋 邦 太 郎 氏 に よれ ば 、 ﹁ 仏 語 に よ っ て 目本 語 を 知 り 、 学 ぶ者 のた め 、 と いう こ とを 目 的 と し て﹂ 編 纂 に あ た って いた ので あ る。 こ の辞 書 の編 纂 が 箱 館 にお い て 準 備 さ れ た も ので あ る こ と は前 に述 べ た通 り であ るが 、 箱 館 時 代 の著 作 と み ら れ る も のに ア イ ヌに関 す る 前 述 の 書 物 ﹃ ア イ ヌ。 起 原 、 言 語 、 風 俗 、 宗 教 ﹄ ( 一 入 六 三年 ) が あ る 。 こ の 書 物 に つい て は、 従 来 と く に 紹 介 さ れ る こと が な く 、西 堀 昭 氏 ﹁ ア イ ヌ語 小 辞 典 (未 見 ・ 刊 年 等 不詳 ) ﹂ と 前 出論 文 の 註 に記 さ れ て い るく ら いで あ る。 が 、 そ の ﹃ ア イ ヌ語 小 辞 典 ﹄ と はお そ ら く は これ を 指 す も の であ ろ う。 今 夏 、 パ リ国 立 図書 館 蔵 の ﹃ アイ ヌ 。 (以 下略 ) ﹄ る閲 覧 す る機 会 を も つ た が 、 わず か 二十 .へ ー ジ の小 冊 子 であ る。 末 尾 の 記 載 に よ る と、 一 入 六 三年 十 月 二九 目。 バ リ で脱 稿 さ れ て いる 。 こ の 書 物 は ア イ ヌの種 族 の脱 明 に始 ま り、 身 体 的 特 徴 、熊 に対 す る 信 仰 、 家 屋 、食 物 、婦 人 の貞 節 へ の試 錬 、 言 語 、 葬 送 、 漁 な ど 、 さ ま ざ ま な 分 野 に お け る ア イ ヌ の 生 態 を 叙 述 し て い る。 た と え ば 、 アイ ヌ の 料 理 に触 れ て、 カ シ ョ ンは つ ぎ の よう な叙 述 を 行 な って いる 。 ﹁ 料 理 はき わ め て質 素 で初 歩 的 であ る。 煮 魚 か生 ま の魚 、 熊 の肉 、 エキス 海 草 、 いく ら か の木 の根 っこ、 ミ キ (根 っ こ の 汁 ) の は い っ た酒 、 と き に はご 飯 、 こう した も のが だ いた いは ア イ ヌ が 好 ん で食 べ る料 理 な のだ ⑭ 。﹂ カ シ ョン の記 述 が き わ め て具 体 性 に富 ん で いる こと は彼 自 身 の見 聞 が と り入 れら れ て い るた め のも のと 考 え ら れ る が 、箱 館 滞 在 の 副 産 物 と し て こ の よう な 著 作 が 生 ま れ た の であ ろ う 。実 際 、 カ シ ョ ンは ﹁ あ る 日、 私 は あ る ア イ ヌ の女 性 にど う し て夫 の愛情 を奪 ってし ま う恋 仇 き の 女 性 を探 す の に多 く の 努 力 を な さ る のか と 尋 ね た も のだ っ た効 ﹂ と 、 ア イ ヌと直 接 話 し合 っ た こ とを 示 し て い る個 所 が そ の 書 物 の 中 に み ら れ る ので あ る。 こ のよ う な叙 述 を詳 細 に検 討 す る とき 、 カ シ ョン の アイ ヌ研 究 が 箱 館 滞在 の記念 す べ き成 果 で あ る こ と に気 づ かな い わけ に は いか な い の であ る 。 ま た ﹃ 養蠶 秘 録 ﹄ も 、実 は箱 館 と は無 縁 のも の で な い こ とを 見 落 し て はな ら な い。 カ シ ョンが 栗本 鋤雲 と は き わ め て 深 い関 係 を も っ た
メ ル メ ・ ド ・カ シ ョ ン に つ い て
カ シ ョ ン 著 「ア イ ヌ 」
研究 紀要 第18集
メ ル メ ・ ド ・カ シ ョ ン に つ い て 人 で あ っ た こと は前 述 の 通 り であ るが 、 鋤 雲 は ﹁ 養蠶 起 原 ﹂ の 一 文 を ﹃ 匏 菴 遺 稿 ﹄ の中 に残 し て い る。 これ は箱 館 に お け る養 蚕 の起 り を叙 述 し た も ので、 鋤 雲 の 殖 産 事 業 へ の熱 意 と努 力 が そ こ に覗 え る。 こ の 養 蚕育 成 の 事 実 が 、 カ シ ョ ン を し て 目本 にお け る養 蚕 への関 心 を 深 め さ せ た こと は容 易 に想 像 でき る。 と こ ろ で ﹃ 養 蠶 秘 録 ﹄ は カ シ ョン の 著 作 では な く 、上 垣伊 兵 衛 守 國 と いう 十 七世 紀 初 頭 の但 馬 の養 蚕 家 の 著 作 ﹃ 養 蠶 秘録 ﹄ ( 一 六〇 八年 ﹀ の 翻 訳 鮒 で あ る。 ﹁ 本 書 は 日本 語 で 書 か れ て い るが 、 まず 最 初 に駐 目公 使 館 通 訳 に よ って フ ラ ン ス語 に 訳出 、出 版 さ れ た。 つ いで、 そ の 翻 訳 が イジ ド ロ ・ デ ロ ー ロ 氏 によ ってイ タ リ ア語 に 重 訳 さ れ、 ミ ラ ノ で印 刷 に付 さ れ る べく 彼 の兄 のと こ ろに送 ら れ てき た 。 イジ ド ロ ・ デ ロ ー ロ 氏 の推挽 で こ のイ タ リ ア 語 版 の 仮 綴 本 の 一 部 が サ ン ・マル ス ラ ン農 業協 会 に送 ら れ て ・ : あ ﹂ と、 こ の書 物 に はま ず そ の 刊 行 の 経 緯 が サ ン ・ マ ル スラ ン 農 業 協 会 々長 に よ っ て述 べら れ て い る。 コレー ジ ユ ・ ド ・ サ ン ・ マ ル スラ ン の 教 授 、 L ・ Nペ クー ル が イジ ド ロ ・ デ ロ ー ロ 鮒 の イ タリ ァ語 訳 か ら さ ら に L ・ N ・ 。ヘ ク ー ル紛 が フラ ン ス 語 に訳 出 し て、 刊 行 した 。 こ の 書 物 は わず か 四 十 八 ペ ージ の 小 冊 子 で、 目本 に お け る 養 蚕 の紹 介 であ る 。 一 入六 五 年 十 月 一 日 横 浜 に て、 と いう イ ジ ド ロ・ デ ロー ロの序 文 が あ るが 、 訳者 は レオ ン ・ ロッシ ュの 気 骨 と忠 誠 へ の敬 意 と し て こ の書 ま ゆ 物 の翻 訳 を 企 てた と 云 い、繭 の 取 引 きが 完 全 に自 由 で あ る と し たら 、 これ は ロ ッシ ュの目本 政府 ( 幕府 ) に 対 す る 不断 の 懇 望 に よ るも の に ほ かな ら な いと 考 え 、 ロ ッシ ュ への 敬 意 のた め に翻 訳 を試 み た の だ と 述 べ て いる 。 こ のよ う な と こ ろ に幕 末 の通 商 事 情 の 一 端 が 垣 間 み ら れ て 興 味 深 い。 禽 い ず れ に せ よ、 ﹃ 養 蠶 秘 録 ﹄ の 刊 行 そ のも のに は カ シ ョン は直 接 の か か わ り は み せ な いが 、 まず 最 初 に仏 訳 の労 を と っ た と こ ろに そ の 養 蚕 への 関 心 の深 さ を み る わ け であ る。 それ が 栗 本 鋤 雲 の 養 蚕 事業 に 感 化 さ れ た も ので あ る か ど う か は な お検 討 の余 地 が あ るが 、 箱 館 にお い て養 蚕 事 業 が力 を 入 れ ら れ て いた事 実 に は容 易 に結 び つ く も の で、 カ シ ョン の箱 館 で のそ れ に 関 す る見 聞 が あ っ た こ と は十 分 考 え ら れ る の であ る。 な お 、 栗 本 鋤雲 が カ シ ョンに直 接 質 問 し て 書 いた ﹃ 鉛 筆 紀 聞 ﹄ な ど に関 し ても 言 及 しな く て はな ら な いが 、 これ は カ シ ョ ンよ り も む し ろ 鋤 雲 の質 問 のあ り かた に 問 題 が あ る。 鋤雲 の 鋭 い 質 問 と そ れ に対 す る カ シ ョン の回 答 の内 容 に つい て は、 紙数 が 尽 き た の で稿 を改 め て検 討 し な く て は なら な い。 ( 49 ・ 10 ・ 15) ︹ 註 ︺ ( 1 ) フ ラ ン ス語 の 名 称 は O o ① αQ o 坤 釦 需 巴 ω 冨 ℃ o 昌 9 団゜・ だ が 、 日 本 語 の そ れ は 一 定 し て い な い 。 (2 ) 西堀昭 ﹁神奈 川 の 仏学i 幕末-横 浜 表 ﹃ 語学所﹄を 中 心と し て ﹂ 四 八. へ ージ ( ﹁神 奈 川 史 談 ﹂十 五号 昭 和 四 入年 三 月) (3) ﹃ 高 嶋 翁 言行 録 ﹄ 一 七 二 ∼ 一 七 四ペ ー ジ (東 京 堂 、 明 治 四 一 年 三月 ) (4) 拙 稿 ﹁横 浜 の 仏 語伝 習 所 ﹂ (﹃ 明 治村 通信 ﹄ 十 入 号 昭 和 四六 年 九 月 ) (5 ) 栗 本 鋤雲 ﹁横 須賀 造船 所 經営 の 事 ﹂ (﹃ 匏菴 十種 ﹄ ) (6) ﹁ 田 島 應 親遺 談 ﹂( ﹃ 史 談 會 速 記 録 ﹄一 七 二 ー 一 七 四号 、明 治 四〇 年 六-入 月 ) (7 ) 栗 本 鋤 雲 ﹃ 匏 菴 遺 稿 ﹄ (25)
研究紀要 第18集 (8) 神 長 倉 真 民 ﹃ 佛 蘭 西 公 使 ロ セ スと 小 栗 上 野 介 ﹄ (ダ イ ヤ モ ン ド 社 昭 和 十 年 月) (9) 鹽 田 三郎 ( 一 八 四 入-一 入 入 九年 ) (10) 立廣 作 ( 一 八 四 五i 一 八 七 九年 ) ( 11 ) ζ 鶏 ヨ 9 山 ① 08 ゲ o 昌 " U 屮9 δ 昌 昌 巴器 h 蠢 昌 饗 ♂ -㊤ 昌 αQ ド 凶 ω 山 巷 o 昌 巴 9 H Q◎ ① ① ℃ ︹ パ リ 国 立 図 書 館 整 理 番 号 ・ × N 。。 O 嵩 ︺ ( 12 ) ζ 奠 8 卑 伍 o O 8 げ o 口 " り① ω 諺 冒 o °・ °o はα q ぎ ρ 冨口 σq 伍 ① 鳩 日8 霞 ω " 門 巴 ㍗ αq δ 霧 ゜H 。。 ① 。。 ︹ パ リ 国 立 図 書 館 整 理 番 号 ・ Q。 。 O ・。℃ 。。︺ ( 13 ) ○ ロ α パ 帥 匹 ・凵≦ o 泣犀 o ⊆ 巳 " ∪Φ 一 、ひ ユ 5 8 二〇 昌 伍 o °・ < ① 話 蝉 ω 9 0 ⇔ 信 匂 ㊤ ℃ o ρ H 。。 ① ① ︹ パ リ 国 立 図 書 館 整 理 番 号 ・ ω ℃ α 罐 ① ︺ な お 、 カ シ ョ ン の 翻 訳 そ の も の の 所 在 は 不 詳 。 ( 14 ) 藤 田 東 一 郎 ﹁ 幕 末 の 横 浜 に 於 け る 佛 國 語 學 傳 習 所 栗 本 鋤 雲 と メ ル メ ・ ド ・ カ シ ョン ﹂ (﹃ 古 書 通 信 ﹄ 一 四 一 -一 四 二号 ) ( 15 ) 註 5 ( 16 ) 高 橋 邦 太 郎 ﹁ 罎 奠 日 簿 伍 。 O⇔ 警 。 ﹃ U 一 。 鉱 o 暮 蝕 $ 男蕁 需 鉱 ω ・﹀ 昌 αq 冨 印ω ゜ 冒 勺 8 巴 。。 " H 。。 ① ① に つ い て ﹂ ﹃ 日 本 仏 学 史 研 究 ﹄創 刊 号 昭 和 四 七 年 一 月 ) (17) 船 山 馨 ﹃ 蘆 火 野 ﹄ (﹃ 朝 日新 聞 ﹄ 昭 和 四 七年 四 月 十 一 目 -四 入年 六 月 十 五 目 ) 。 引 用 は 単 行 本 ( 朝 日 新 聞 社 昭 和 四 入 年 七 月 ) 二 六 . へー ジ 。 ( 18 ) カ シ ョ ン の 生 地 レ ・ ブ ー シ ュー い① ω 切o 自 o ゲ o q 擁 の く鐸 已 奠 旨o N 神 父 が 教 会 の 洗 礼 記 録 よ り 筆 者 に 筆 録 し て く れ た フ ラ ン ス 文 を 掲 げ よ う 。 国旨 ヨ 碧 鐸 巴 国 伍 αq 曾 o 津 ω 鼠 σq 一 飢ヨ o 自 .諺 ♂蝕 ゜。 ζ 奠 ヨ g O8 ゲ o 昌 卑 山 ① ]≦爰 同⑦ Oド 鐸 α ぎ ρ 昌 ひ 9 び 聾 営 剛 ω ひ 一 〇 H H °。 Φ b 8 ヨ 耳 Φ H QQ O Q◎ " 嚢。 Φ ⊆ ℃ o 霞 ℃ 霞 霽 言 O貯鐸 傷 o 国ヨ 日曽 づ ⊆ ① μ しd o 昌 昌 Φ < 崑 ① o け ℃ o ⊆ 目 露霞 蠢 ぎ o ]≦ p ユ ⑦ ( 崑 巨 び ♂ ) ζ 葭 ヨ o 計 8 β ゜D 山 o o Φ 暮o ℃ 爰 o 同 ω ゜D 9 2 αq 昌 伽 ○げ 9 < ぼ 6q H ♪ へ ( 19 ) ]≦ ♂ ω 団 o 口゜ 。 -国窪 ⇔ 昌σ Q酵 Φ ω αo ℃贄 同ω v 同 ⊆① 飢= 切 8 v 勹霞 一 ω 刈 ① ゜ ( 20 ) いo 菖 叩8ゲ ひ o 氏 o 話 "周 5 鬥 9 ( 昌 GQ δ I H ㊤ O O ) ( 21 ) ℃ 目 ⊆ α Φ 鵠 o o ・ ω 鋤 ① b 窪 昌 ・切母 夢 甦o 日団 ΨO 騨鋤 巳 ( 目 c◎ 陣 ー 同 ○◎ ① 刈 ) ( 22 ) 註 ( 8 ) ( 23 ) フ ラ ン ス側 文 献 と し て は 、 諺 黛 8 昌 い碧 ⇔ 鎚 " い。 髯 か ヨ 。 同 一巴 窪 。 ド へ ω o o 襠泳 伍 ① の ]≦ 冨ω δ 霧 国窪帥 づ αQ 酵 0 9 ↓o ヨ Φ H H ︾ H O H ρ ℃ ℃ °蔭 & 1 隠 蔭 刈 の 記 載 が も っと も 詳 し い カ シ ョ ン の 伝 記 で あ る 。 ( 24 ) 旨 o ⇔ 犀 ゆ㊤ も 匡ω 8 りo 巳 ω ︾Ωδ ω ( 25 ) U ⊆ o ず Φ 昌 o 自 o 切o 目o o o q 洋 ( 26 ) 註 ( 8 ) ( 27 ) 註 ( 15 ) ( 28 ) U 伽 o 昌 切o o ゲ ① ω ( 29 ) 註 ( 14 ) ( 30 ) 註 ( 17 ) ( 31 ) 註 ( 14 ) ( 32 ) 註 ( 14 ) ( 33 ) 註 ( 15 ) ( 34 ) 註 ( 6 ) ( 35 ) 勝 安 房 ﹃ 陸 軍 歴 史 ﹄ ( 36 ) フ ラ ン ス 人 教 師 に O ゲ ⇔ 匹Φ ω 切 ¢ 冨 昌 辞 国 ① 質 は く o q く ρ 目び 8 ω は 戸 男 o 劈 ⇔ づ 餌 ℃8 の ゜。 象 な ど が い た 。 ( 37 ) ﹃ 目 仏 文 化 ﹄ 新 第 七 輯 、 一二 二 ペ ー ジ 。 ( 38 ) い ひ o 昌 -い ○ 忌 叩い β o 同 ① 口 ℃ 目 二 昌 9 幽 o 園 o ω 昌 団 ( 39 ) 勺 段 o 同 Φ 9 口 Ωロ Φ 昌 p 鈩 ( 40 ) 栗 本 鋤 雲 ﹃ 匏 菴 十 種 ﹄ ( 九 潛 館 明 治 二 年 ) 所 収 。 ( 41 ) 諺 ゜いΦ O螽 ω v -( 42 ) Uひ o ロ ℃ 鋤 σQ Φ ω鱒 国 凶 ω 8 凶 お ユ Φ 一⇔ 夘巴 凶σQ δ 旨 O ザ み 飢o 昌 昌 ① p q 旨 ㊤ ℃ o ロ α o 娼 巳 ω H α ㊤ GQ 甘 ω ρ g .餅 H ① α ポ 同 QQ 刈 O ° ( 43 ) 註 ( 16 ) ( 44 ) 註 ( 12 ) ( 45 ) 註 ( 12 )参 照 。 な お 、 鋤 雲 の ﹁ 養 蠶 起 原 ﹂ に は ア イ ヌ が ﹁ ア ノ イ ﹂ と タ 記 述 さ れ て い るが 、 カ シ ョンも 諺 営 o °・ と記 し て い る 。 ( 46) 昭 和 四九 年 十 月 二 }二 日 ﹁朝 日新 聞 ﹂朝 刊 に ﹁ 洋 学 二百 年 ﹂ 第 十 回 ﹁ 技
メ ル メ ・ ド ・カ シ ョ ン に つ い て 術 輸 出 第 一 号 ﹂ と し て ﹁ 養 蠶 秘 録 ﹂ の 仏 訳 の 紹 介 が あ る が 、 こ れ は ζ 簿 霞 ① q bdO 謬 昧 O ロ ω の 訳 (一 入 四 八 年 ) の 紹 介 。 ( 47 ) . ]≦Φ ヨo 昌 巴 岱 o ω 巴 韓 ・ζ 爰 o ⑦ 旨 5 ( 置 ⇔ < 江 い H G◎ ① ① ) の 記 事 の 抜 萃 文 。 Uβ < ① 馨 ⇔ 団 9 ぽ ♪ ℃ ま ω 翫 ① § 臣 ① 冨 ω 0 9 ひ ま 山 、鋤 σq ユo 巳 ε 器 の 署 名 が あ る 。 ( 48 ) H ω 達 0 8 Uo ロ、08 ° イ タ リ ァ 語 訳 々 題 は つぎ の 通 り 。 昌 目 o 山 o 岳 巴 冨く 霞 o 帥 び 8 窪 鮎 9 、 °Q o δ 巴 O 冨℃ b o 昌 o O b ① 蕁 伽 巴 8 ω 8 ° σq す℃ b o づ Φ ω Φ 象 ○鼠 惹 匠 髯 o 目 障 o ⊆ 巳 導 肓巴 o け 富 昌 ¢ o < 9 旨 o 暮 Φ 宣 津穹 , o ① ω ① 儀 9 ]≦曾 目 ① 什 伽 o O 8 ゲ o P o 8 v① 山 巴 沖効 昌 8 。。 ① < 皀 $ ぎ 坤 巴 一 ㊤ 昌 0 8 昌 ⇔ 昌 巴 o αq ゲ Φ o °・ ω o 襞 9 臥 〇 三 山 9 H ω 凱 0 8 伍 ① 宦 、○ δ o ℃ β び 財 8 $ ℃ 2 0 霞 9 山 o コ 9 ω 0 9 ① 雷 勢 αq 爰 髯 す 象 いo ヨ げ 霞 象 9 9 σQ σq 冨 募 o ⊆ 昌 肓⇔ 冖 雷 8 o °DO ① 犀9 0 0 犀同 く 9 臥O 昌 Φ 山 巴 団 9 ヨ 9 ・ヨ 鶏 o び 碧 o 幽 巴 蜀 ρ q 2 0 ㌶ ゜1 ↓帥 ℃ ○ σQ 蠧 , ⇔ p 似 巴 覧 o ぼ ω 鼠ε け o 象 ℃ 斡 冨o 昌 ⇔ 8 L ≦ に 9 昌 o 目 ○。 ① 押 言 蕊 。 ℃ ℃ ・× 一 H ー 剃G ◎ . (49) い 。 .乞 ゜ ℃ ひ o o 包 が イ タ リ ァ語 か ら さ ら に フラ ン ス語 に 訳 出 し た 。 本 稿 擱筆 後 ﹃ 函 館 と カ ト リ ック ﹄ (函館 元 町 カ ト リ ック教 会 昭 和 三 四年 九 月) の存 在 を知 り、 函 館 時 代 の カ シ ョン の動 静 を 伝 え る記 述 に接 した 。 だ が 、 帰 国 後 の消 息 は ﹁ 記 録 が な く 不 明 ﹂ と あ り 、 一 八六 三年 夏 に函 館 (小 稿 中 で は 箱 館 と 記 す ) を 去 り 、 一 入 六 七年 に は 日本 から 完 全 に離 れ た こ とが 述 べら れ て い る。 一 八 六 七 年 正 月 の 徳 川 昭武 の 渡 仏 に は 一 船 遅 れ て 出 発 し た とも 記 さ れ て い る。 ち な み に 西 堀 昭 氏 は これ を 一 入 六 六 年 九 月 頃 と 推 定 し て いる 。 な お 、 パ リ国 立 図 書 館 に お け る カ シ ョンに 関 す る 文 献 と し ては 、 つ ぎ の よ う な も のが あ る。 ( ) 内 は同 図 書 館 整 理 番 号 。 ' 同 ) 寓 ゜ 山o ]≦ oσ q ① ω " < o 団曽 σq Φ ⑦ 昼 ○ ぼ 昌o 卑 ⇔ 5 匂 ⇔ ℃o ♂ H Q。 ㎝ 刈 H ◎◎ α G◎ ・ い Φ ↓ o霞 山` ]≦ o ⇒ 伍ρ H Q。 8 H 。 吋 の Φ B o ω 窪 ①゜ ︹ ○ ° ①昌 ◎。 ◎◎ 博 ① Q◎置 ︺ bO ) 髯 o 昌 ロ巴 像 ① ω 諺 ω ω o o 凉 ω ℃o ⊆同 困㊤ O o昌 く臼 巴 ○ロ 餌 〇 一 、 団 日 ℃ 芹 ρ H G◎ ① ω ・ ℃鋤 ユ ω v ご ぼ 巴 お 窪o 即 い 〇 一 斷 o 目雲 属゜ ℃ ℃' 這 N 旨 ρ 睡 bっ・︹ ○ 凶 o 嵩 昌 ω ) 冖" d 巳 く臼 9 H c◎ q G◎ " 5ρ 山 餌 留 o ° " 目 Q◎ α ρ 口。 °山¢ ω ω ρ ω H 餌 o ⇔♂ 躯 ω ⑦ 隠 ・ ︹ ○ 婦 ゜ 宀 9 冖O 鱒 ド GQ ① ◎Q ︺ 心 ) 諺 口昌巴 Φ ω 山㊦ 一 .諺 ω ω oo 凶 簿 陣 o 岑 αo げ 勹δ も餌 αq 餌 ユ o 昌 畠Φ 一 9 司9 ・ × × < 同 H ・ ド Q。 芻 " ℃℃° 麟 も。 M 合 bQ ° × × H × ° H Oo ㎝ 8 ℃℃. bO ⑩ ρ G。 O 心゜ ︹ Q。。 口 ・ H O O︺ α) い、 国×巳 o 霽 8 霞 " H Q。 胡 " bO 。 °・ ① § ① ω 肓 o響 歹 お 距 ︹ ρ O Q◎ ① O ︺ 1 追記 帰 国 、 メ ルメ ・ ド ・ カ シ ョンに つ いて 、 つ ぎ のよ うな 記 事 を 初 校 々正 の出 た 時 点 ま でに 発 表 し て いる 。 ﹁ メ ルメ ・ ド ・ カ シ ョン のこ と ﹂( ﹁図 書 新 聞 ﹂昭 和 四九 年 九 月 七 日) ﹁ 仏 人 カ シ ョン の伝 記 を 待 望 ﹂ (﹁ 朝 目新 聞 ﹂ 夕 刊 、 昭 和 四 九 年 十 月 七 目) ﹁ め ぐ り あ い 仏 訳 ﹃ 養 蠶 秘 録 ﹄ ﹂ (﹁ 図 書 新聞 ﹂ 昭 和 五 十 年 一 月 一 目) ( 49 ・ 12 ・ 30) (27)