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新将来の北朝鮮(高麗)仏画(小壁画)の問題と整理

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(1)

著者

村上 真完

雑誌名

論集

43

発行年

2016-12-31

URL

http://hdl.handle.net/10097/00130338

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新将来の北朝鮮(高麗)仏画(小壁画)の問題と整理

村 上

1 序:問題の所在 西域( 中半人民共和国新彊維吾水自治区), トルファン(土魯番市高昌区) 山中の, ベゼクリク千仏洞(柏孜克里克石窟)は, 20世紀初めには砂に埋れて いたが, ロシア, イギリス, ドイツ , 日本(大谷光瑞探検隊)などの探検家た ちが壁画類や写本類を発掘して, 本国に持ち帰っていた。 ドイツのル・ コック(王立プロイセンの第2次トルファン 探検隊長)が1904 年から翌々年にかけて発掘し, カラコルム峠を越え海路でベルリンに運んだも ののなかか ら絵画類 を大図版の大冊 (Albert von Le Coq 1913 Chotscho, Berlin) に納めて公刊している。 その中で第9号窟寺切誓願画等2の壁画の縮

1 グリュ・ンウェーデル編号による (Griinwedel, Albert 1912: Altbuddhistische Kultstatten

in Chinesisch-Turkistan: Bericht iiber Archaologische Arbeiten von 1906 bis 1907 bei Kuca, Qarasahr und in der Oase Tuガan. Berlin: Reimer, Koniglich Preussische Turfan­ Expeditionen, p. 224, Fig.494)。 グリュンウェーデルは第1 (190211月から1903 3月まで)と第3(190512月から19076月まで)探検隊の隊長であった。 1995 年来の中国の現地編号では20号=中堂と回廊,21号=南側堂 ,9号=奥洞と3つの番 号が与えられている(遼寧省新華社書店1995 『中國新彊壁壼全集6p.11, 新彊芭木 撮影出版社2009 『中国新彊壁画芝木全集6p. 8, いずれも図面も文字も小さく判別 は極めて困難ながら , 新しい発掘の成果を踏まえているようである)。 2 筆者は19809月にトルファン等に旅し,ベゼクリク千仏洞を調査し残存していた 誓願画類を写真に納めて対比して調査の記録を纏めた(村上真完1982 『シルク・ロー ド遺跡の旅』 (第三文明社, レグルス文庫145), 1984 『西域の仏教ベゼクリク誓願 画考』(第三文明社)。 そこには1987年夏にインドとパキスタンの遺跡や博物館を巡っ て誓願図に関連する石彫類を訪ねて, それらと対比し, そのサンスクリット銘文を 解読し諸仏典とも照合して考察した。 最近の誓願画についての研究としては, 拙著 (Murakami 1984)にも論及しているイネス・コンチャク(Ines Konczak)の博士論文:

Prai;iidhi-Darstellungen an der Nordlichen SeidenstraBe: Das Bildmotiv der Prophezeiung der Buddhaschaft Sakyamunis in den Malereien Xinjiangs, Inaugural­ Dissertation zur Erlangung des Doktorgrades der Philosophie an der Ludwig­ Maximilians-Universitat Miinchen vorgelegt von: Ines Konczak aus Berlin: MIKROFORM, Ketsch bei Mannheim, 2014

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小模写である壁画と仏画類(小壁画)が, 北朝鮮から将来されたことと, その 内訳等については, 簡略ながらも先に報告しておいた3 誓願画の模写は10点あり, そのうち原画にほぼ忠実な縮小模写図が6点: A. von Le Coq 1913の図版の誓願画番号(村上1984『西域の仏教 ベゼクリク誓 願画考』採用)① , ②, ④, ⑥, ⑪, ⑭と, 銘文以外は鏡の映像のように左右 の逆な縮小模写図は, 番号の前に一符号を付けて示した①, ー②,③, 一 ⑪の4点である。 それにダキニ天(荼根尼, J?akil).I女神)図と, 漢字名の3高 僧(法恵都統, 進恵都統, 智通都統)図, 梵字名の3尊師阿闇梨図, 3貴人図, 2貴婦人図, 及び高麗仏画と思われる小壁画18点とである。 それらのどれについても, いまだに詳しい考察や議論を公表するまでには 至ってはいない。 けれども先ずは, 全体としての大きな見通しを付けて, それ を学界に公表して識者の関心を惹く方が, より急務であろう。 そういうわけで, 今まで全く考察さえしていなかった表記のような論題を掲げた\ 誓願画を含めてベゼクリク第9号窟寺の壁画を模写した壁画は, おそらくは 同窟寺の壁画を模写した下絵を作り高麗の寺院で小壁画に仕上げたものかと推 定している。 誓願画類の模写が北朝鮮(高麗)に伝わったのは, 一体いつなの か。 これが大問題であるが, 予想としては高麗朝が元朝に従属し, 姻戚関係に もなっていた13世紀末から14世紀末に近い頃で, しかも元朝も末期であったろ う。 これが結論を先取した見通しであり, いわば, 作業仮説であるといっても

(Kuca, Kucha) 周辺のキジル (K1z11) 千仏洞, クムトラ (Kumtura) 千仏洞, シム シム (Simsim) 千仏洞にも予言(誓願)画を見出し, ベゼクリクの諸窟寺, 日干煉 瓦造寺院, 高昌古城 (Koco) やセンギム (Sauim) の予言画類を整理し考察し, 正 しく授記に着眼したが, 私はその前提の誓願を重んじた。 本博士論文の入手についよしなお て東北大学附属図書館本館相互利用掛の菊池良直 (Yosinao, Kikuchi) 氏と, この Dr. Ines Konczak-Nagel に感謝する。 3 村上2017「高昌ベゼクリク窟寺の仏教再考一誓願画等の流布と観音信仰儀礼」『印 度学仏教学研究』第65巻第2号。 新高麗仏画を19点としたが今改め18点とする。 4 誓願画がベゼクリク千仏洞と高昌古城や, その周辺だけではなく, 西域北道の西方 のクチャ (Kucha) 周辺のキジル千仏洞, クムトラ千仏洞, ショルチュック遺跡, カラシャル付近の仏教寺院遺跡などに知られている。 高昌より東方の敦煽莫高窟の 壁画には知られない。 但しそこから出た絹本には, 山水画風の背景の中央に, 2人 の従者を伴い, 円光を頂き踏割り蓮華の上に立つ仏の右側に, 仏に向かって1人の 若者が腰を屈めて合掌している姿が描かれている。 それが燃燈仏の前で誓願を立て, その仏より授記を受けたと解釈される。 しかしベゼクリクの誓願画とは似ない。 い ま北朝鮮から誓願画の縮小模写壁画が将来され, 新しい展望が開けてきた。

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新将来の北朝鮮(高麗)仏画(小壁画)の問題と整理 (3) よい。 そして, このように見るとすれば, そしてこれまでの知見に照らしてみ るならば,その頃が高昌の仏教寺院等が隆盛中で,ウイグル仏教の全盛期であっ たかとも思われてくる。 しかし, その 後1世紀も経たない15世紀中葉には, そ の仏教徒が回教徒に駆逐され, 千仏洞の壁画や仏像類は両眼を挟られるなど故 意に熱心に破損され, 風雨など自然の破壊にまかされていたのである。 明朝(1368-1662)は, 漢民族主体の帝国であって, 元朝のようなコスモポ リタンな広大な世界が殆ど消滅したように思われる。 明初には万里の長城の西 端として嘉裕関に堅固な城(関所)が建設され, 高麗からベゼクリク等への通 路も, それを確保していた制度もなくなって, 彼此の間の往来も困難になった であろう。 また元朝滅亡(1367)後1世紀も待たずに高昌地区も回教徒(イスラー ム)の勢力圏と化し, その仏教寺院も破壊に任せられた。 私達が見てきた誓願画類の模写壁画は, 原画を入念に模写した下絵を作った にせよ,壁画に完成するには,原画の隅々までも精通した優れた絵師であって始 めて可能であったに違いない。 しかもその力量も高度であったと見受けられる。 誓願画類も他の北朝鮮仏画のどれも, 同じような筆法であり, 絵の具など材 料もほぼ同じ規格で, しかも似たような大きさと厚さの壁画である。 これら全 てが完成して納められたところも, 恐らくはきっと同じく新築か, あるいは修 築の大寺院の小壁面に違いないであろう。 そういう大寺院を建設し壁画等を もって荘厳する願いと意思があって, しかも財力があった人 〔たち〕がいたと いうことである。 仏寺建立の願いとは, 死者たちの霊を弔い, 自分の一身の安 泰や幸運を願うことを始めとし, 一家・ 一族の繁栄を願い, 王家・国家の安寧 を願い, 災難のないようにと願うことであろうか。 一体こういう人たちとはど んな人たちであったのか。 それは王室か,あるいは王室に関係の深い有力者〔た ち〕に違いない。 これらを確かめる資料 (史料)がないであろうか。 それが分 からないにしても, その時代を知ることは, 何とか可能ではないか。 思うに, 元朝末期(-1368)や高麗時代(918-1392)の末期か, あるいはそれにあまり 遠くはない時期ではなかろうか。 このような見通しを念頭に置いて, まず高麗王朝と次の李氏朝鮮の歴史を顧 みながら, ベゼクリクから誓願画類 (模写や下絵等)が朝鮮半島に伝えられた 時代や, その模写の小壁画や, それと素材や画質の似た他の小壁画類が作られ

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たとしても無理の少ない時代を考えられないか。 そのために両王朝の在り方を, 日本の国風や歴史, 特に朝廷の在り方や政治体制とも照らして対比することが 可能にもなろう。 そして, このような視点に立つと, 本研究を進める上での類 推も容易になることをも期待し, 考察をより深めたい。 2 朝鮮半島における高麗王朝以前の仏教 a 高句麗の仏教 朝鮮半島における仏教を語るには,4世紀最後の4半世紀頃以降に三王国(高 句麗, 百済, 新羅) に仏教が伝来したという頃前後から見るべきであろう。 周 知のように百済から日本へ仏教が公伝されたというが, 互いに争い戦っていた 高旬麗も新羅も, 4世紀末から5世紀初の紀年を記す好太王(広開土王)碑に も出ている, 任那日本府を抱えていた飛鳥時代の日本とは無関係ではない。 基本的史料には高麗朝の半ば:第17代仁宗3(1145)年に金富賦が撰進した といわれる『三国史記』50巻(朝鮮中宗7年:1512年慶州重刊本)と,高麗代 の末期に近い第25代忠烈王(1274-1308) の時に僧一然が元の至元大徳の間 (1264-1307)に撰したという『三國遺事』(明正徳壬申季冬1512年出版本:大 正新脩大蔵経:T. 49, No. 2039, 953c-1019a) とがある5 0 仏教が伝えられたのは, 朝鮮半島の三国の中では,高句麗が一番古く, 第17 代の小獣林王の2年(372) に, 鮮卑族の〔前〕秦王符堅が使者と浮屠( 僧) を派遣し仏像と経文を送ってきた。 王は使者を派遣し秦に朝貢し, 間もなく寺 を建て外来の僧を住まわせた, というように仏教が早く定着した(『三国史記』 巻18, 『三國遺事』巻3, T. 49, 986)。 高句麗は朝鮮半島の北部から現在の中国 の遼寧省の遼河の東側と吉林省の南東部に勢力を持っていた。 その位置からし てトルコ系という鮮卑族など北西 の遊牧民の強国と接して,高句麗は前秦・北 魏・東魏・北斉に朝貢しているが,西魏・北周には交わらなかったようである。 高句麗第20代長寿王の23年(435)に北魏の第3代太武帝(世祖)に使者を送っ て朝貢し, 以来しばしば北魏に朝貢した長寿王が在位79年の冬12月に亡くなる おくりな と, 北魏の孝文帝が謡を追贈している(魏の大和15年12月:491-2CE.)。 北魏は皇太后(霊太后 )の失政によって東西に分裂して争い(532-577), 勝 5 井上秀雄1980, 1983, 1986, 1988『三国史記』(東洋文庫) 平凡社;野村耀昌1960「三 國遺事」『國繹一切純 史伝部十』大東出版社, 参照。

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新将来の北朝鮮(高麗)仏画(小壁画)の問題と整理 (5) ち残った北周は外戚の隋によって滅ぼされる(581)。すると直ちに高句麗は隋 に朝貢していたが,そのうち(598年から)隋(文帝・揚帝)に攻められ続け ながらも耐えて,終に隋は滅んだ(618)。次の唐には使者を送って朝貢してい たが,間もなく(643) 唐の軍勢と遼河を挟んで長年攻めぎあったけれども, 国内が戦場となって,唐と新羅との軍勢に攻められて滅んだ(668)。そして倭 (日本)の援助軍を受けた百済もまた,既に唐と新羅との連合軍に破れていた ので(663), 統一新羅朝が成立し,唐に朝貢するようになった。 このように高句麗は半世紀にも亘る戦乱のなかで,唐からは道教が伝わり仏 寺を道士に与えたように仏教が軽視され,また国内が乱れて仏教の修学や研究 も困難になっていたであろう。しかし高句麗の学僧は国外に出て活躍していた。 わが国にも高句麗(高扁)の学僧が来日して教学を伝えている。例えば「上宮 王(聖徳太子)は高麗の慧慈を師とす」云々とあって,太子は大乗の教えにも 部派仏教の議論にも通じ,法花等の経疏(上宮御製疏)を造ったこと,慧慈が みずのえうま 上宮御製疏を齋して本国に還帰してそれを流伝したこと, 「壬午年二月廿二日 夜半に聖王(太子)が斃逝された」と聞くと,経を講じ来年の同じ日に自分が まのあた っか 死ねば,「必ず聖王に逢い面り浄土に奉えむ」と発願して,明年のその日に「病 を発し命終わった」という60 北魏には皇太子の母には死を賜る掟があって,帝は幼い時には実母に死なれ 乳母や義母:皇太后に育てられたという(石松日名子2005『北魏仏教造像史の 研究』ブリュッケ,東京,pp. 28-29参照。この書は北魏の仏像の図版を多く含 む)。そういう帝の悲しみを癒すかのような,優しい微笑む仏像が作られている。 また仏像の台座が裳懸座であることが多い。北魏系の仏像は東京国立博物館東 洋館にもあって,大中の石仏立像や仏頭や小金銅仏が見られる。中国の雲岡石 窟,天龍山石窟や麦積山石窟などでは,北魏系の 優しい微笑む仏たちに出会う。 そのような北魏系の仏像が高句麗に伝わり,わが国にも及んだのであろう。 法隆寺の金堂に安置されている中央の釈迦三尊像と左の阿弥陀仏坐像と右の 6 東野治之2013 校注『上宮聖徳法王帝説』岩波文庫,pp. 34,45. 壬午年は推古天皇30かのとみ 年(622), 『日本書記』は推古29年辛巳(621)とする。前者が妥当である。また 鎌田茂雄1987『朝鮮仏教史』東京大学出版会pp.26-28は,高句麗から外国に出て求 法した著名な学僧や, 日本に来朝して貢献した高句麗僧の名を挙げ,教を広め影響 を及ぼした十余人の名とその業績を『日本書記』などに基づいて摘記している。

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薬師仏坐像の静かに微笑む相好は, 北魏系の仏像に近いものと思う。 いま平田 寛1989『図説 日本の仏教第一巻 奈良仏教』新潮社, 図版39,...,41 : 法隆寺金堂 内部を見て確認に努めたい。 これについては種々の議論もあり, 南朝の梁との 関係を重視する見解もある。 菊竹純一 「特集仏像の伝来と朝鮮半島」同書pp. 113-124は, 百済の仏像に南朝梁の仏像の影響がうかがわれるといい, 新羅の 仏像を多く引き合いに出して, 「高麗仏像の拒絶一日本人の美意識」という見 出しの解説で終わっている。 しかし, 飛鳥から奈良の仏教を扱っている本巻で は後世の高麗仏像が関係してくるとは思えない。 果たしてどうなのであろうか。 尤も菊竹氏が示している新羅仏の紹介はなかなか出色である。 軍守里廃寺出土 の微笑む石造如来坐像(p.110), 慶州南山の三花嶺にあったという石造弥勒仏 三尊像(p.118), 軍威石窟阿弥陀三尊像(p.119)など, 7世紀の新羅仏像は, お顔の横幅が広く大らかなように見え, ずんぐりとして背が低い体躯もぎこち なく稚拙なようで微笑ましく思われる。 そのような仏像も日本によく行なわれ ていたのであろうか。 むしろ百済観音や救世観音のような長身の優美な観音立 像が多いように思われる。 朝日新聞社1976『韓国美術五千年展』84金銅如来立像は, 光背裏面に延嘉七 年歳在己未…という銘が陰刻されている小金銅仏, 高さ19.2cm.。 慶尚南道・ 宜寧出土。 高句麗時代539年。 同94金銅弥勒菩薩半珈思惟像, 高さ90.0cm. 三 国時代 (7世紀前半), 京都の広隆寺の弥勒菩薩半珈思惟像や奈良県の中宮寺 の伝如意輪観音半珈思惟像に似る(吉良文男2002『いまこそ知りたい朝鮮半島 の美術』小学館 p. 8にも出ている)。 吉良前掲書p.10にも宝冠の飾りの豊かな 金銅半珈思惟像, 三国時代 (6世紀) も, 同じくらいの大きさで優雅である。 東京国立博物館法隆寺宝物館に展示されている四十八体仏の中にも似たような 金銅半珈思惟像が2体(N163, Nl64)ある。 b 百済の仏教 百済には黄海のかなたの江南の仏教が伝えられていた。 後にはインドの仏教 が直伝された。 第15代枕流王の即位した年(384)の9月に東晋から胡僧の摩 羅難陀が来たのを, 王は宮殿内に迎え入れ礼式をもって敬い, 翌年に仏寺を漢 山に創建し, 十人の僧になることを許した。 これが仏教の初伝である。 そして 第26代聖王4年(526)に沙門謙益が中インドからインド僧倍達多三蔵を連れ

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新将来の北朝鮮(高麗)仏画(小壁画)の問題と整理 (7) て帰り,携えてきた『五分律』の梵本を翻訳したという。これが百済の律宗の 始めになるという。この王は梁に朝貢し,梁の仏教文化を取り入れた。 この王の晩年に百済から仏教がわが国に伝わったことについては,『日本書 記』巻第19の欽明天皇13年(552)の段に また 「冬十月に百済の聖明王,更の名は聖王,(中略)釈迦佛の金銅像一躯, 幡蓋若干,経論若干巻差械名」(坂本太郎ほか1965『日本書記』下, 日本 古典文学体系68, 岩波書店,p. 100) とあり,流通し證拝する功徳を讃嘆する文が添えてある。なおその年次につい てはこの552年等公伝説の他に,538(539)年等伝来説がある[しかし飛鳥時 代から奈良時代にかけて,高句麗から百済を介してわが国に伝来した仏像の流 れが考えられる。 その後も,百済からは学僧や沙門,仏師,大工,エ匠,画師等が来朝し,大 寺院が建てられるようになり,やがてわが国は白鳳から奈良の仏教文化が栄え るようになる。 その百済の仏像が北魏系の仏像の面影を残しているのではないか。 一方,百済は新羅や高句麗との争いが絶えないなかでも,仏教を奉ずる王が 出ている。第29代法王(在位599-600)は,殺生を禁じ,民家で飼っていた鷹 などを放させ,漁猟の器具を焼き,大寺院を創建し30人を僧侶にした。しかし 最後には,新羅と唐との軍勢に攻められ, 日本からの援軍を受けても,共に敗 れて滅んだことは,前に触れた。 C 新羅の仏教 新羅が仏教を受け容れるには,高句麗からも百済からも遅れている。訴砥王 417-458)のとき高句麗がら墨胡子という僧がやってきた。Ill比処王(焙如王, 在位479-500)のときに阿道が従者を連れてやってきた。このとき王も仏教を 盛んにしようと思っていたが,貴族たちの反対があって纏らない。そのとき近 7 以上のわが国における仏教伝来についての諸史料と年次の問題は,村上(1998), 2000『仏教の考え方』国書刊行会pp.170-71に纏めておいたが,天皇家の系譜とも 絡んでいて難しい。百済の史料には,対応する記録がない。この聖明王とは,百済 第26代の聖王であり,在位32年(554)に新羅との戦いで死んだ(『三国史記』巻26, 百済本紀第四,井上訳2, p .370)。

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臣の異次頓が刑死されることを願ってまでも衆議の一致を図って殉死したとい う(『三国史記』巻4)。 次の真興王(在位540-576)の時代には新羅の仏教が 定着したようである。 そして日本にも新羅の仏像が入って来たという伝承があ る。 新羅の仏像は大らかに微笑む横幅が広く堂々としているのが特徴的である。 前掲の吉良文男は弥勒三尊仏像 新羅(7 C)国立慶州博物館,慶州南山の磨 崖仏として磨崖菩薩半珈像統一新羅(8 C)慶州,神仙庵。 磨崖三尊仏像統新羅(8 C), 慶州,七仏庵。 そして統新羅(8 C)慶州石窟庵内部の降魔 印の本尊仏を始め,諸尊を示している。 これらはいずれも完成度の高い優品で ある。 また薬師如来立像統一新羅(8 C)国立慶州博物館も,金銅仏ながら堂々 としていて横幅も広い。 先にも言及したように菊竹氏が示した7世紀の石仏は, 稚拙ながらも微笑ましい。 統一新羅(668-918)の時代には仏教を求める僧侶が唐土に渡って新しい仏 教を伝えている。 華厳宗の元暁(617-686)は義湘(625-702)とともに唐土に 渡ろうとしたが,思うところあって断念し浄土教等諸宗をも一味と見る教えを 説いた。 しかし,理解者が得られず,唯一人武烈王(?-661年)だけが理解し えて,未亡人の公主を要らせられて息子を儲けたとか。 義湘は唐土への遊学も叶い新羅における華厳宗の祖:海東華厳宗の浄土教等 諸宗を一味と見る教えを説いた祖とされる。 禅宗四祖道信(580年ー651年)の教えを法朗が伝え,馬祖道(709年788年) の門下智道の曹渓南禅系の教えを道義が伝えたという。 ここまでは,日本の宣化天皇代とか欽明天皇代とかが論ぜられている6世紀 中葉の仏教伝来から奈良• 平安仏教の初期に相当している。 それは大体は南都 六宗(三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・成実宗・律宗)と平安初期の二宗(天 台宗・真言宗)を含む外に,浄土教と禅宗(臨清宗)を含むことになろう。 そ うすれば,わが国の鎌倉時代の仏教にも近いともいい得るであろう。 親鸞聖人 (1173-1262)のような妻帯僧の生き方も4世紀以上も以前の元暁に見たので ある。 それからわが国の南北朝時代の半ばほどまでが,朝鮮半島の高麗時代に相当 する。 そこでは知訥(ちとつ,1158-1210)が曹渓宗の宗祖といわれ,その伝 統は今日に続いている由である。 知訥は頓悟漸修と定慧双修を基にし禅と教と を合わせた禅教一致の修行を広めた。

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新将来の北朝鮮(高麗)仏画(小壁画)の問題と整理 (9) 3 仏教王国:高麗王朝の歴史・文化の特色と意義 高麗という王朝は王建(廟号太祖:誼号…神聖大王:在位:918年ー943年) が人望に推されて独立(建国)に成功し, 朝鮮半島の統ーも叶い, 仏教を国是 とし, 長子相続などを遺言として遺したという。 一夫多妻で男系のこの王朝に は, 英邁な王もおれば愚昧な王や放蕩な王もいたが, しばらくは安定を得たも のの, 北東の異民族(女真:金), 北西方の異民族(契丹:遼)や西方の強大 な大帝国(後唐宋, 蒙古)との軋礫や抗争が絶えず, また後には長く蒙古(モ ンゴル, 特に元)の勢力とは勇敢に戦いながらも, やがては元の巧妙な圧制の 下で, この王家は元朝の姻戚同然に化してしまい, 終には元朝も滅んだときに は, もうすでに高麗王朝は生き延び得なかった。 おそらくは, 王家の重臣や文 武の官僚にも, さらには人民にまでも見放されていたからであろう。 初代の王の後年以降からは, 強大な帝国(後唐, 遼, 宋, 蒙古:元, 明)を さくほう 宗主国とする冊封体制に入り属国になっていた。 最初期には巧みに宗主国を選 んで, 他の諸民族と争ってもいたが, 最後の1世紀半には強大な蒙古・元帝国 に抵抗して, 遂に敗れてからは, 高麗王たちは幼少より元朝の人質となって元 皇帝(フビライ)等の娘(公主)を要り元朝の姻戚となって, 最後に元朝が滅 んだ後には, もはや滅亡する外はなかった。 なぜか。 外国暮らしの, 外国育ち の王も王子も重臣や側近の宦官を始め, 人民からも浮いてしまい, 見放されて いたからであろう。 またよき側近もいなかったであろう。 善き師(善知識)に 恵まれなかったからでもあろう。 母国語(朝鮮語)さえも身につかず, まして や母国語で話し合う人たちと心を通わす術も知らないか, 得意であろうはずも なかったろう。 その間に, この王朝は内乱や宮廷内の不和や抗争に苦しむことも多かった。 その根底には文臣(文官)と武臣(武官)との対立があった。 初めには文臣が 優先する政策をとっていたが, 逆に武臣が権力を握った時(武臣政権1170-1270)がこの王朝の危機となっていた。 元朝に屈してからも王朝の危機に気づ いた王(第31代恭慇王:在位1351年ー1374年)は, 有力な武臣(李成桂1335-1408)を優遇したところ,その武臣によって次の王(禍,ウ)が廃位され(1388) 殺され, 後に王に擁立された2人の王も譲位を迫られ, 子とともに殺され, こ の王朝が滅亡した(1392)。 そしてそれが即ち, 李氏朝鮮の成立となったと伝 える。 この間の経緯は筆者の理解を絶している。

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蒙古(元)との攻めぎあいでは, 敵の軍勢によって6度に亘って蹂躙されな がらも, 仏教信仰に頼り, 戦争で大蔵経を焼かれても, 戦時下において新たに 大蔵経を編集し校訂し開版して高麗八万大蔵経を完成させ(1251), 武臣政権 のもとで勇敢に抵抗していた(1231年ー1257年)。 しかし第24代元宗(在位: 1259-1274) が遂に元朝の支配に降る際には, それに反対した重臣たちを斥け 元軍に抗戦する武臣団を見放して熾滅させるにまかせ, 皇太子を人質に出して 降っている。 こうして次代からは高麗王家が元皇帝家と姻戚関係を結び, 元の 世祖(フビライ)の娘たちゃ元帝室の娘(公主)たちを王妃に迎えるようにな り, 高麗王子や王までも大都(今の北京)など元の宮中で人質として育ち, 王 名にも蒙古名を戴く時代が続く。 こういう王朝においては廷臣や臣民の心が王 家を離れるに違いなく, 滅亡に向かうのは避けられなかった。 元朝の支配下における最初の王は, 第25代忠烈王(廟号は中宗, 在位1274-1308) で, 世祖に乞うてその公主を要り, 元の都で暮らし, 王位に即いては元 の日本侵攻(元寇:1274 : 文永の役・1281 : 弘安の役)に協力して国力を消耗 して臣下によって廃位にされても, 元の力で復位したとか。 この長男が元の宮 廷で育ちクビライの曽孫である公主を妃とした第26代忠宣王(廟号は憲宗;在 位1298, 1308-1313)。次が前王の次男で元の皇族の公主を妃とし元の宮廷で育っ た第27代忠粛王(廟号は宣宗:在位1313-1330, 1332-1339)。 次が前王の嫡子で 元朝の人質として育ち元の皇族の公主を妃とした第28代忠恵王(廟号は孝宗: 在位:1330-1332, 1339年ー1344)。 次が前王の嫡子で元朝の人質となってから即 位し12歳で亡くなった第29代忠穆王(廟号は継宗:在位:1344-1348)。 次が忠 恵王の庶子で幼くして王位に即いたが側近の政争の犠牲となって14歳で暗殺さ れた第30代忠定王(廟号は哀宗:在位:1349-1351)。 次の第31代の恭慇王(在 位:1351-1374) は, 忠粛王の子で元の宮廷で育って即位するや, 元の支配を 脱する方針をとり, 李成桂を将軍に任じて元に奪われた失地の回復を命じ, 後 に朱元障が明朝を興して元勢力を北方に退ける(1368年)と, 王は明朝に使者 を遣わして明に属する(=属国となる)と奏上して, 明朝によって高麗国王に 封ぜられ, 明に朝貢をしたが, 元を贔属にする宦官によって毒殺された。 この 頃にはもう王は側近の重臣や高官からも信頼されず, 人民は王を見放していた であろう。 王もまた異国で長く暮らし人質として育ったので, 国王としての資 質を磨く機会にも恵まれず, その結果として重臣や側近を信頼できず, 彼らを

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新将来の北朝鮮(高麗)仏画(小壁画)の問題と整理 (ll) 理解もできなくなっていたであろう。 人民を顧みるような余裕もなかったであ ろう。 次の第32代が先にも見た最後の王:禍王(廟号:荘宗:在位1374-1388)であり, 臣下の将軍(李成桂) によって試逆され, その6年後に高麗王 朝は断絶した。 この王朝の末路には, 何とも恐ろしい身の毛もよだつ思いに襲われる。 このように高麗王朝の末路は悲惨ではあるが, 朝鮮半島において高麗時代は 異民族をもよく受け入れ, 文化を高めた時代でもあった。 仏教が国教と定めら れ, 仏教研究も深められ, モンゴル軍と戦う間にも, 40年近くもかけて校訂の 行き届いた八萬大蔵経を開版しており, それが今日我々の用いる『大正新脩大 蔵経』の定本にもなっている。 この王朝の時代に絵画(仏画), 磁器(青磁), 寺院建築などの文化遺産が多 い。 特に著名な仏画は高麗が元と戦って, 終にその支配下に降った14世紀の作 品だけが, 主に日本に伝えられて遺っているというのは不思議である。 ベゼクリク9号窟の誓願画類の模写画が完成したのも, 後で触れるであろう 阿弥陀三尊釈迦三尊仏, 観音菩薩, 地蔵菩薩, 弥勒仏, その他の菩薩や神々 などの小壁画が描かれたのも, きっと高麗末で元の支配下にあったころであろ う。 その苦難の時代において,王家の成員は勿論,女官や廷臣たちを始め,人々 が仏・菩薩の加護を求めていた表れではあるまいか。 仏・菩薩のやさしさに心 を通わせていたのであろうか。 そのころは貿易も盛んで遠い海外の物産も入っ ていたという。 女性の社会的地位も高く自由であったともいう。 こうして見る と, 朝鮮半島の歴史の中で高麗時代は魅力のある時代でもあったという評価が できよう\

8 以上の資料は電子百科事典ウィキペディア (Wikipedia, https://ja. wikipedia.org/ wiki/. 略号 wiki) の最新版(日本語版, 時々英語版 en.wiki その他版とも照合, 2016年)及びその他, 電網 (internet) で見出し得た限りの項目に依存している。 そ の英語版も日本語版発足以来15年で世界でも日本でも最大の百科事典ともなりつつ ある wiki のどの項目も, 公正・不偏を目ざして, 大抵は編者による異論も添えられ, 出典を引き註記を添え, しかも広く電網で各項目に移動し照合ができるので, 多少 の誤記も訂正する手がかりも見出し得る点でも有用である。 この電子百科事典は高 麗李氏朝鮮など朝鮮半島の歴史・政治・宗教・文化や, 日本は勿論のこと, 唐土(シ ナ, チャイナ)の諸王朝や, その周辺(塞外)諸国の諸王朝の歴史 についても, 精 粗の差が大きいものの,非常に詳しく,あまり知られない新説をも含み充実している。 沢山の項目を含み, 要旨・地図・図表・年表・映像・統計資料等を含み検索が可能

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4 高麗とは相違する李朝朝鮮の宗教政策と国是 それでは, 次の李朝朝鮮時代は, 高麗朝とはどんなに違うのか。 一夫多妻制 であることは, 高麗朝と少しも変わらない。 王妃の側近には宦官たちがいたの も同様である。 しかし初代王の場合には長子相続の定めもないまま, 男の兄弟 たちが死闘を繰り返したが, その後にやがては嫡庶の別や長幼の序が甚だ厳し くなった。 そのために少なからぬ悲劇や混乱が繰り返されたが, その処罰もま であり, 多くは他の多くの項目と照合ができて誤りを訂正し全体像を掴むこともで きる。他の電網の情報は膨大・雑多で, 誤報や悪戯もあり, 広告にも邪魔されもす るが, 念のために開くと, 思わぬ資料や知見にも出会うこともある。今はすべて筆 者なりの尺度で取捨し出来るだけ自分のことばで解説するように努めた。目を通し てこの度の役に立った項目は, 大体以下のようである。以下には本文執筆の過程で 参照した諸項目を50音順に配列し, 見出し語の後の丸括弧()内には補足説明亀 甲〔〕には見出し語の途中の補足語句を補って混乱を避け, 理解と備忘とに役立て ようとした。また矢印→は参照先を示す。なお和漢の史的人物(日本では1949年以 前) の年齢は数え年で示す。明治611日(=新暦) は旧暦明治5年12月3日。新 暦は主にグレゴリオ暦=西暦。旧暦=太陰太陽暦=天保壬寅暦。1582年よりも以前 はユリウス暦であるが, 殆ど月は変わらないようである。 飛鳥時代の文化(日本→白鳳文化), 永暦帝(明滅亡後に残った南明の桂王), 燕 山君(第10代朝鮮王, 若年で即位し失政を重ね廃位されて夭折), 数え年, 甘州 ウイグル王国, 金(王朝, 後の清朝), 欽明天皇(この代に仏教公伝), 元(王朝), 元暁(Wonhyo, 617-686, 華厳宗の妻帯僧, 朝鮮浄土教の祖), 光海君(第15代 朝鮮王), 後金(清の前身), 高麗, 冊封, サルフ(薩爾滸) の戦い,三国遺事, 三田渡の盟約,三武一宗の法難(北魏の太武帝, 北周の武帝,唐の武宗の会昌年間, 後周の世宗),三別抄の乱, 下関条約, 儒教, 朱子学, 朱元障(明の初代皇帝), 宣化天皇(この代に仏教伝来), 朝鮮の君主一覧, 女真, 清(王朝), 宋(王朝), 宣祖(第14代朝鮮王), 中国朝鮮関係史, 朝鮮通信使, 朝鮮〔半島〕の仏教, 天 山ウイグル王国, 南明, ヌルハチ(愛新覚羅弩爾吟赤, 廟号:太祖, 謡号:高皇帝), 白鳳文化(日本, →飛鳥時代の文化), 武臣政権(高麗1170-1270), 仏教伝来(日 本), 武烈王(統一新羅王602?-661), 文禄・慶長の役(日本), 明(王朝), モン

ゴルの高麗侵攻, 李氏朝鮮, 李成桂(李氏朝鮮初代王)(以上wiki, . en. wiki等),

会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ)とは一コトバンク(https://kotobank.jp/ word/会昌の廃仏ー42517, 2016/09/22), 新羅や高麗使節の姿も敦煽石窟群の壁 画に2013/07/18 www. rnindan.org/front/newsDetail.php? category=6&newsid=l 767 4, 2016/01/09), (訳注)三国遺事 kamodoku.dee.cc/sangoku-iji.htrnl, 〈中韓歴史問題〉 高旬麗壁画問題を読む=中国「盗まれた文化財返してよ」韓国「じゃ領土よこせ」 2010年12月17日(kinbricksnow.corn/ archives/51510540. html, 2016/01/09), 以上は, 上記本文の・また後記の• 本文に対する補註の役や索引の代りとなるよう にと思い, ここに紙幅をとって, やや詳記した。なお上に挙げてはいないが, 目を 通した電子データは, もっともっと多い。

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新将来の北朝鮮(高麗)仏画(小壁画)の問題と整理 (13) た想像を絶するように厳しく悲惨であった。 李氏朝鮮は宗主国(明,後に清)を仰ぐ冊封体制に納まって朝貢を欠かさず, 属国に安んじて独自の年号を持とうとはしなかった(但し1895年の下関条約の 結果,独立国となり1910年までの間は独立の年号を持った)。宗主国(明朝, 後には清朝) に対しては まことに従順で,高麗朝のように宗主国と戦うこと はなかった。日本(豊臣秀吉) との戦役(文禄・慶長の役1592-93·1597-98) では明軍の援助の下で凌ぎ,秀吉の死によって終わったが,宗主国である明朝 が衰えて終に滅ぶにいたる(崇禎帝=荘烈帝1644年,南明の永暦帝桂王1662年)。 この間朝鮮では人民が疲弊し国土が荒廃したが立ち直って,日本との戦争を 生き抜いた宣祖(第14代国王:在位:1567-1608)は,日本(江戸幕府)へ朝 鮮通信使(朝鮮聘礼使)を送り,次の光海君(第15代国王:在位:1608年ー 1623年) も日本(対馬藩) との和議を図り(1609年,己酉約条),ともに日本 との交流を推し進めた。また北方に台頭した後金(後の清) のヌルハチが6万 の弓矢装備の騎馬軍で攻めてきたとき撫順(今の遼寧省)東方のサルフ(薩 爾滸,Sarhu)で,明と朝鮮との連合軍16万余の火器装備軍団が戦って,過半 数以上の死傷者を出し敗残の将兵が捕虜になっで惨敗した(1619)。この際には, この王は後金と互いに国書を交し,明と後金の双方との外交関係を維持する中 立政策を採って世の趨勢を見ていた折に,暴君として廃位に追い込まれ追放さ れたが,天寿は全うしたようである (66歳で死去)。その18年後には終に清朝 を宗主国に仰ぐために,第16代朝鮮王仁祖(李係,在位1623-1649年) が恥を 忍んでも(三脆九叩頭の礼をもって),決断し誓約したと伝えている(旦首紺 の盟約,大清皇帝功徳碑,1637年)。李氏朝鮮はしぶとく忍耐強い。 李氏朝鮮の仏教に対する姿勢は高麗朝とは全く正反対に冷淡で廃仏を国是に 掲げていたが,唐土の三武一宗の法難のような•仏像も寺院 も破壊し僧尼を殺 した破仏か。そうではないようである。確かに仏教が繁栄した国々には寺院を 破壊し僧尼を殺した破仏 があった。我が国でも信長の叡山焼討ち などは皆殺し も厭わなかった。明治維新の廃仏棄釈では寺院や仏像等を破壊し僧尼を還俗さ せたが,虐殺したとは聞かない。李朝朝鮮は緩い廃仏にとどめたようである。 先にも触れた李成桂 (1335年ー1408年:廟号 :太祖:在位1392年ー1398年) は, 最後の高麗王たちを立てては殺していたが,それなりのしかるべき訳(事情 理由) もあり,それなりの人望もあったようで,周囲から推されて高麗王とし

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て即位することになった。 すると, まず権知朝鮮国事(朝鮮王代理)として明 朝に冊封を乞うて朝貢し, 国名「朝鮮」も明の洪武帝(朱元障, 廟号:太祖: 在位1368-1398)の決定を仰いだが, 朝鮮王としては冊封されずに権知朝鮮国 事としては認められた(1393)。 しかし後で第3代の太宗(李芳遠在位1400 -1418)が次の明の恵帝より朝鮮国王へ冊封された(1401)という。 かねてより李成桂は, 仏教勢力が私有地を拡大したために国庫が尽きている 現状を憂い批判していたともいわれ, 儒教を崇め仏教を廃する(崇儒廃仏)政 策を採ったといわれる。 件の誓願画類等小壁画類がこの高麗王朝の末頃において作られたのか。 それ 以外の可能性はまことに考えにくい。 あるいは高麗の最後の王たちを惨殺した 李成桂によってうち立てられた李朝朝鮮時代(1392-1940)まで下るのか。 こ の想定は, 実際は不可能であろう。 先ず誓願画類等は元朝滅亡の後には, ベゼ クリクの窟寺を訪ねることも困難となり, その知識が朝鮮半島に入りようがな くなったであろう。 またこれらの小壁画類は仏画であり, 高価な絵具や金泥や 金粉が使われている。 そういうことが可能だったのは, 仏画作成に負担を惜し まない時代に違いない。 李朝朝鮮は廃仏の方針を取ったといわれ, 新たに誓願 画類や他の仏画類の壁画を完成するには, 多くの障碍が予想される。 可能だと 思われるのは, せいぜい小さな補修などにとどまったであろう。 5 北朝鮮(高麗)仏画の整理 北朝鮮から入手したという仏画(高麗仏画)類は, 誓願画類とは無関係のよ うに精査する暇もないでいたが, 実は密接な関係のあることが推定される。 先ず両方とも, ほぼ同じ時期に入手されている。 画面が大体ほぼ同じ大きさで, 同じように高価な絵具や金泥・金粉がふんだんに使用され, 隈取や衣装の細や かな線が用いられている。 世に高麗仏画は知られているようであるが, 壁画類 は印刷本ではなかなか見ることが出来ないようである。 が, しかし高麗仏画と して公刊されている著名な絹本着色条幅仏画類と照合すると, 相通じる画面が 指摘できるものもある凡 9 菊竹淳ー・吉田宏志編集1881『高麗仏画』朝日新聞社(『高麗仏画』と略); 1998『世 界美術大全集東洋編』第10巻 高句麗・百済・新羅・高麗 小学館(『世美10』と略);

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新将来の北朝鮮(高麗)仏画(小壁画)の問題と整理 (15) 1 阿弥陀如来 阿弥陀三尊来迎立像 (足下に老若二比丘と普賢・文殊を伴う) 画像046 本図は本尊を始め構図色彩とも特異である。 本尊の頭髪(螺髪)には額の 近くと頂上との大きな黄色い肉髯があり, ともに赤い環の模様がついた宝珠 のようで, 頂上の珠は上に向かって火を発し, 上方左右に水を放つようであ る。 印相は胸の前に左手の親指と中指を接して環にしてかざし, 右手は下に 垂らし開いて差し伸べる来迎印である。 背丈も同じ黄色い肌の三尊が前方に 視線を落とす。 中央の阿弥陀如来も, 右の化仏を頂く観音菩薩も, 左の水瓶 を頂く勢至菩薩も同じ高さに並ぶ。 三尊はいずれも円文のある膳脂に近い赤 い衣を纏う。 本尊の白文の中には緑の四弁花, 観音菩薩のは撫子文, 勢至菩 薩のは案文であろう。 観音の右下に白髪の比丘が合掌して立ち, 勢至の左下 に黒髪の比丘が合掌して立つ。 その下方の黄色い雲の山の右の円光内に獅子 に乗る文殊菩薩の小さな顔, 左の円光内に象に乗る普賢菩薩の顔がある。 これは京都禅林寺の山越(やまごえの, やまごしの)阿弥陀を房髯とさせ るが, 昼の太陽のように光溢れて明るい。 阿弥陀三尊立像(本尊も足下の観音・勢至両脇侍も踏割り蓮台に立つ)画像054 これは次の阿弥陀三尊と雰囲気が近い。 黒味がかった頭光と身光を回る太 い金糸の唐草文の蔓につく華座には都合七体の化仏坐像が本尊を囲む。 これ が雲気文で縁どられた燕脂色の大きな光背に連なる。 上部が少し切れている が半円形のようで,左右端が垂直に切れる。 本尊は棄文のある膳脂の袈裟(上 衣)の下に黒い中衣を着け, その下に茶色の下衣(僧祇支)が左肩から右腋 に伸び, 胸元に裳(褪袴)の帯の端が出る。 この際に袈裟が右肩から肘ま で懸かる。 いわゆる通肩ではないが偏担右肩でもない。 袈裟は背中より両肩 を覆い, 右衣の角が右脇下を巻いて左肘に掛かる(左肩に掛かる例は後の 画 像039, 036,038)。 背中から左肩に垂れる袈裟は肘の内側に懸かってから折り 返して外側に垂れる。 大きく開いた胸の前に, 親指と中指を接した右手を上 に左手を下にした印相:来迎印(中品中生?)を示す(直前例とは相違する)。 1999同第11巻朝鮮王朝(『世美11』と略)。 吉良文男2002『いまこそ知りたい朝鮮半 島の美術』小学館;平凡社2008『別冊太陽 韓国・朝鮮の絵画』。 なお脇侍菩薩等 の左右は, 向かって左と右を指す。 画像番号は作業の便宜のために残した。

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金色で華麗な宝冠を頂 き胸飾や環洛を飾る両菩薩は, 黒い長髪を肩に垂らし 白衣に膳脂の裳(措)を着ける。 阿弥陀三尊(本尊坐像,右下が化仏を頂く観音菩薩立像,左下が勢至菩薩立像)画像050 中尊阿弥陀如来は, 真円い藍緑の二重の頭光と, その後に大きな真円い灰 色の身光を負い, 前図と同じ来迎印を示し蓮台に正面を向き, 右の足裏を上 にして結珈鉄坐する。 濃い燕脂色の袈裟(上衣)がこれまで同様に右脇下を 巻いて左肘に懸かり左下に左膝に懸かる。 左肩から垂れる袈裟は肘の外側に 懸かってから, 内側に懸かり垂れて全身を包み裳裾と台座に懸かる。 濃い藍 色の袷の中衣を着け, その下に左肩から右腋に伸びる茶色の下衣(僧祇支) と裳の帯の端が見える。 衣の案文も微かに見える。 両菩薩の相好と衣や装身 具は前図に近い。 観音は藍緑の衣を通肩に豊かに縄い, 胸元を広く開けながら, 手首まで被 う。 化仏 を戴く宝冠の左右から白い紐の輪が膝下まで伸びる。 頸の長い水瓶 を下げて持つ左手に右手を添える。 朦脂の裳も豊かに足首まで被い, 両の素 足は踏割り蓮台を踏む。 勢至の衣は天衣のようである。 水瓶を戴く宝冠の左右から白い紐の輪が膝 下まで伸びて天衣と絡まる。 幅の広い藍緑の天衣が体を二回廻って左右の腕 から外に垂れ, 膳脂の天衣は肩から垂れて両腕に懸かり外に垂れる。 下衣が 左肩から右脇に伸びるように天衣に隠れ, 腹部には短い袴を付けたように膳 脂の裳を被い, また茶色の帯で下衣に絡まる。 腰には空色の筋のある白い帯 が蝶結びに結ばれ, その端が垂れて裳の下端近くまで伸びる。 裳より下は観 音の場合とほぼ同じ。 腕釧のついた右腕を立てて反らした掌の上には, 白い 多くの小花弁中の瑠璃の珠(火焔宝珠)から赤い炎が発する。 左肘は斜め前 に伸べ掌を下に向けて示す。 これは『高麗仏画』22 (単色根津美術館所蔵の阿弥陀三尊像)と近いが, より簡素である。 それは絹本着色縦139.0cm. 横87.9cm. で, 本尊の上衣に は棄文が沢山あり, 画面最上部左右には流れる雲上に化仏 たちの坐像が見え, 本尊の蓮台の下方左右には雲文が見える。 同書23 (単色,鶴林寺蔵絹本着色, 縦130.0cm. 横73.3cm.)も本図に近いが勢至が観音の方を向く。 また画面 が破傷している。 同書21 (単色根津美術館所蔵絹本着色縦129.0 cm.

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新将来の北朝鮮(高麗)仏画(小壁画)の問題と整理 (17) 横62.0 cm.)も似て同じ画題でも, 三尊の相好も衣も両菩薩の姿勢も火焔宝 珠の形も違う。 阿弥陀如来坐像 ・十菩薩立像ニ神立像五比丘三在家人 画像039 背もた れのようにも見える舟型後光を背に阿弥陀仏が, 前例と同じく来迎 印を結ぶが, 左手は膝に置いて結珈欧坐し, その左右に観音・勢至の両菩薩 が立ち, またその後ろ左右に立つ武神と思われる鎧装した姿があり, 左右端 が欠けてはっきりしないが, 他に左右に各四人ずつ菩薩が立つ。 上の左右に 雲型の後光を頂く五人の比丘と三人の在家人が立つ。 こ れは 『世美11』107 (多色阿弥陀八大菩薩像大倉集古館, 東京都 縦178.3cm. 横126.1cm. 麻布着色 縦139.0cm. 横87.9cm. 朝鮮:万暦19年 =1591)と対比される。 しかし後者は色彩も茶色と灰色でくすみ, 華やかさ を欠く。 仏の頭光は身光に沈み, 武神も見えず菩薩は八人, 上方には八人の 人相が悪い俗人が見えるなど本図と相違する。 菊竹1999は朝鮮仏画が華やかな装飾性を欠き, 文様による装飾か,または 色彩を消失する(『世美11』pp. 186-188)という。 そうならば本図は, むし ろ文様も色彩も豊かな高麗画の特徴を表し, より古い作品であろうが, その 逆ではあるまい。 阿弥陀如来坐像と六菩薩立像(仏前に雲気文に包まれ焔を出す火焔宝珠)画像036 左右に赤い花模様の結び目から赤と黒の条吊が翻る天蓋模様の真下に円い 黄色い身光と緑墨色の頭光を頂く阿弥陀仏が, 前図と同じ来迎印で, 四角な 高めの壇の上の蓮台に結珈朕坐して坐られ, 左右に観音・勢至の両菩薩が立 ち, その上に二人ずつ菩薩の美しい姿がある。 諸菩薩には髭がない。 どの菩 薩も暗緑色の円光を頂き, 宝冠には五,六個の火焔宝珠がつき, そこから火 焔が出て, 空間には水色桃色, 黄色の雲気文が八重咲きの花のように現れ, 華やかである。 本図では左辺が写っているが, 右辺が少し欠けいるので, その欠落部分を 示すために用意されたのが, 画像037である。 両者を比べてみると, 同じ壁 画でも写す度に, また印刷する度に違うことが分る。

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II 釈迦如来 両弟子両菩薩を伴う説法印の釈迦如来坐像(暗い頭光と明るい身光)画像038 蓮華座に坐っておられる説法印(前2図までの阿弥陀仏の来迎印と同じ) の釈迦如来の左右には, 美しい両菩薩がそれぞれ宝玉, または花をつけた如 意をかかげて蓮台に坐り, その左上には若い比丘が合掌して立ち, 右上には 黒い髭を生やした比丘が合掌して立つ。 金をふんだんに用いており, 上方は 黄色い雲形文様も連なって明るい。 説法印の釈迦如来坐像(雲中の蓮台に結珈訣坐して胸下に説法印を結ぶ)画像 041 実に単純な蓮華座に坐っておられる釈迦如来像ではあるが, 円い頭光も身 光も激しい炎を放ち, 上方左右には雲上の化仏が見え, 雲形文様も広がる。 釈迦如来は激しく燃え盛る火炎を背負い, 激しい智慧の力を示すのか。 この 絵は不思議に坐像としては背が高過ぎ, 細めのお顔が小さい。 Ill 弥勒如来 南無弥勒尊仏結珈鉄坐像(供物を供えて亡父のために供養する夫婦) 画像040 中央には最上部に花模様と天蓋状の垂れ幕の真下, 中央に真円い頭光と大 きな真円い身光を負う弥勒仏が, 両手で転法輪印を結び蓮台に結珈訣坐して おり, その手前の前机の正面には多くの蓮弁で飾られた香炉があり, その手 前の前面には白地に南元弥勒尊佛と大書されている。 前机の左右には未敷の 蓮華を立てた花瓶がある。 弥勒仏は左右に声聞たちと菩薩たちとを伴い, そ の名などが白い短冊に墨書されている。 それらは右側の上から順に, 芭蕉樹 供養大目建蓮龍樹菩薩とあり, 右下の菩薩が指差した先に大吉祥菩薩と あり, 左側には上から順に, 芭蕉樹供養, 阿陀難(ママ), 口□口菩薩とあり, 左下の菩薩が指差した先に慈氏菩薩とある。 慈氏は弥勒に他ならない。 それ では大吉祥菩薩も同じであろう。 下段の右には, 黒いつばの広い帽子を被った文官とおぼしい男が黒い着物 あぐら を着て, 茶色の帯を結んで柄香炉を捧げて胡坐をかいて坐っている。 左には 冠と管を着け黒髪を三つの房に分けた美しい女が, 黒い着物の下に白い下着 をつけ薄赤色のズボンを穿いて左膝を立て, 両手に赤蕪のような野菜を盛っ た盆を捧げもつ。1行目3字目は父, 次の中央の位牌様の枠に墨書された5行

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新将来の北朝鮮(高麗)仏画(小壁画)の問題と整理 (19) の銘は殆ど読み難い。 その後の行は供養の字に終わる。 亡父を供養する趣旨 であろう。 これは『高麗仏画』5 (原色, 弥勒下生経変相図知恩院絹本着色縦 171.8cm. 横92.1cm)と, 同6 (単色, 親王院(高野町), 至正十年(1350) 銘悔前筆, 絹本着色縦178.0cm. 横90.3cm.)と同じ主題で, 本図上段の弥 勒仏説法図と僅かは似ようが, 本図下段は全く違い, 全く単純である。 IV 観世音(観音)菩薩 両観世音菩薩立像(宝冠に化仏を頂き膳脂の衣を纏い鼠色の天衣を翻す)画像 048 同じような姿の長身の観世音菩薩が左右に向かい合い並んで踏割り蓮華に 立つ。 装身具(耳鎮, 腕釧, 胸飾, 足元近くまで垂れる環洛)や宝冠には, ふんだんに金が用いられている。 画面上部が少し欠落しているが暗い赤や黒 の房(環路)が垂れ, 左上に黒い葉と赤い花が描かれた背景の中央に縦書き で観世音菩薩と墨書された画面は暗い。 両菩薩は通肩に衣を懸け, 足首まで 覆う裳を胸元で結んだ灰色の帯が蓮台まで垂れている。 右の観音は親指と人指し指を接した左掌を胸にかざし, 右掌には金色の十 字飾りなどのついた細長い宝瓶を載せて相手を見つめる。 左の観音は左掌を 上にして親指と薬指を接した上に火焔宝珠の火を点し, 右手の親指と人指し 指と中指とを接した右掌を胸にかざして相手を見つめる。 両者とも唇の上と 下に細い濃い黒髭を生やし, 左方菩薩の顔の願が少し角張っている。 左方の 菩薩の宝冠に見えるのが化仏でなく水瓶なら勢至菩薩であるが, 蓮台に頭光 と身光に包まれて結珈践坐する化仏が金色輝く飾りに囲まれて, 右方菩薩と 殆ど同じあるが, 宝冠の形や髪型と相好が微妙に違う。 波立つ海に赤い大魚に乗る子連れの慈母観音立像 画像051 荒海の中で白衣の長身の観音が, 天衣を翻して波の上に踊る子供を伴い, 長い髭を生やした赤い怪魚の上に立つ。 慈母観音, 悲母観音か。青白い円光 を負い白い布を被り黒髪を真中で分けた上には, 蓮弁の上に青白い頭光と金 色の身光を負う化仏(阿弥陀仏)を頂き, 長い耳には金色のイヤリング(耳 瑶)を着け, 胸元は開いて環洛を飾り, 袈裟を吊る暗く黄色い紐や膳脂の裳 の上端と帯紐の結び目をも顕し, 右手に細長い宝瓶を抱える女性に見える。

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その白い袈裟は両肩を覆うが右肘の下から腋の下を通してから左腋の裏側か ら腕に巻いて風に翻し, 金色の腕釧を飾る左手で白衣の裾を摘まみ上げて風 に翻しながら, 裳裾は隠す。 V 地蔵菩薩 地蔵菩薩立像(頭巾を被り右手に水晶の宝珠を載せ左手に錫杖を持つ)画像053 やや暗い桜色の頭光を負い, 両肩まで懸かる薄墨色の頭巾を被り,広く顕 わにした胸には金泥を多く用いて描かれた環路を飾り, 頭巾とほぼ同色の袈 裟(大衣, 重衣)を偏祖右肩に着け, その下に薄い膳脂色の上衣と墨色の下 衣を重ねて着けている。 右手には透明な宝珠を載せ肩の高さにかざし, 左手 には錫杖をやや斜めにして地につけて持つ。 丸顔で優しく正面からやや下を 見つめる眼には迫力があり, 鼻の下と唇の下と願に小さい髭を生やし, 顎の 線が二重になり, 頸には三道の鐵も重厚に見える。 右足を横に向けて踏割り 蓮台を踏み, 衣の裾を翻して左足を正面前に向けて踏割り蓮台に立つ。 これが被帽地蔵菩薩である。 頭巾の帽子は三段に分かれ, 上の二段は鼠色 に近い黒で, かすかに色の薄い小紋が処々に見える。 三段目は黒みがかった 桜色でその下に金泥で鉢巻が巻かれたように描かれ, 両耳の裏から金色の飾 が下がり, 金色の耳飾と連なっている。 両肩に懸かる頭巾の裾にも, かすか に色の薄い小紋が処々に見える。 薄墨色の袈裟(大衣)には重厚な壁と縫い 目との間にも棄文や唐草や波紋など多くの模様が黒<. または白抜きで飾ら れている。 裾の方の膳脂色の上衣にも色抜きの忍冬模様が見え, その下に見 える墨色の下衣には大きな棄文が忍冬文様に囲まれている。 これは『高麗仏画』53 (原色, 単色, 地蔵菩薩像 根津美術館(東京都) 所蔵 絹本着色 縦107.6cm. 横45.3cm.)と, 同54 (単色地蔵菩薩像 徳川黎明会(東京都)所蔵 絹本着色 縦105.1cm. 横43.9cm.)とに, 法 量とも含めてほぼ等しい。 同書所載の上野アキ1981「高麗仏画の種々相」の 中の「被帽地蔵について」と, 菊竹淳ー1981「53地蔵菩薩像幅, 54地蔵菩 薩像一幅」参照。 地蔵菩薩半珈像 (老比丘と王者と小さい獅子を伴う) 画像044 濃い青色の頭光とそれを包む灰色の大円を負い, 青い頭巾を被り, 耳飾を

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新将来の北朝鮮(高麗)仏画(小壁画)の問題と整理 (21) つけ, 赤い肩掛けで両肩を被い, その下に左肩には白文の沢山入った赤い袈 裟をつけている。 右肩下には青色の法衣を着けているのが見える。 水晶の首 飾をつけ, 胸飾(環路)をつけ, 左掌に水晶の宝珠を載せて胸の前につけ, 右掌にも水晶の宝珠を載せて腑の前の辺りに位置付けて, 法衣を座に広げて 坐し, 右足裏を緩やかに下に向け, 左足を小さい蓮台に踏み下す。 右側には 両手に錫杖を持つ老比丘が立ち, 左側の冠を頂き経箱を捧げ持って立つ王者 と向かい合う。 両人の前に小さめな獅子が眼を剥き口を開きかけて躊る。 これは『高麗仏画』56 (原色単色地蔵菩薩像 円覚寺(神奈川県鎌倉市) 所蔵絹本着色縦239.4cm. 横130.0cm.)に似るが, そこでは水晶の玉が右掌 の一つだけである。 VI その他諸菩薩 大徳菩薩立像(雲に囲まれ天衣を翻し如意棒を持つ)画像042 左上に大徳菩薩と墨書された銘は明瞭であるが, 筆者には未知の名である。 唇の左右に細い「へ」の字の髭が見え, 唇の下には平仮名の「のし」のよ うな髭が見えるが女と見紛う。 頭には髪を結うた上に冠が載り金色輝く飾り がついている。 金の玉や緑や赤玉でできた胸飾から環路が下がる。 両肩から 緑色の綬帯(天衣)が長く延びて腕の下で大きな輪を作る。 胸飾の内側から 膳脂色に近い赤い天衣がそれぞれ左右にひらひらと翻る。 右半身には別に赤 い二筋の天衣が揺らめき また三本の緑の天衣が翻る。 上腕の臀釧や手首の 腕釧は金で輝き, 両手で曲がった如意棒を肩にかかるように持つ。 その柄の 下端は金で輝き上端の金の皿は焔を発する。 この菩薩の頭の周りには赤みの 勝った明るい雲が渦巻き, 下の方には暗い雲が渦巻いて足もとを覆い赤い裳 裾などを半ば隠し, 右上方まで立ち昇る。 本図の右辺に侍者の衣の端や手な どが見えるが, 画面が切断されている。 調伏愛菩薩立像(天衣を翻し雲上において踏割り蓮台に立つ)画像045 後光もなく宝冠には青や赤・紫の花の飾をつけ, 赤・紫のリボン(天衣) を左右に靡かせ, 下方では膳脂や紫の天衣を翻している姿は, 女神を思わせ るが,唇の上には微かな八髭,唇の下には黒子のような髭を生やし,膳脂,青, 薄緑, 白の衣を重ねて踏割り蓮華を踏んで雲上を行こうとして, 少し左を向

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いて合掌している姿は, 男性に違いない。 これは類例が韓国にあることが, 電網を通して確認できた(ここの左とは向かって左。(15)頁脚註9末参照)。 ソウル市城北区万興天寺 四菩薩図圏の最初に出ている調伏愛菩薩は恐ら くは絹本の掛け軸で横鐵が目立ち, 左右が鏡に映したように逆に右を向いて いる。 ほかにも円い頭光とアーチ型の身光を負っており, 天衣の色が鮮やか な赤であり, 黒い衣を下に重ねて着ており, 足下に雲もないなどの違いがあ る が, 表情や 雰 囲 気 が か な り に よ く 似 て い る(http://m.blog.navsr.com/ chefjhkim/2 20 5 332 7 6 5 94 2016.10.21)。 また華厳神衆禎壷の中の四菩薩の一 して名称が出ている。(http_www.buddhaworldorg_mbuddha_index)。 因みに その四菩薩とは, 警物脊菩薩定業索菩薩調伏愛菩薩群迷語菩薩である。 しかし興天寺の四菩薩は, 調伏愛菩薩警物券菩薩群迷語菩薩引路王菩 薩である。 君迷壽菩薩立像(雲上において合掌し踏割り蓮台に立つ)画像049 上に見た調伏愛菩薩立像と姿がよく似ている。後光もなく宝冠には青や赤・ 紫の花の飾をつけ, 左右に膳脂や紫の天衣を翻している姿は, 女神を思わせ るが,唇の上には微かな八髭,唇の下には黒子のような髭を生やし,膳脂,青, 薄墨, 白の衣を重ねて踏割り蓮華を踏んで雲上を行こうとして, 少し右を向 いて合掌している姿は, 男性である。 これは, ソウル市城北面興天寺 四菩薩図圏の三番目の群迷語菩薩とかな りよく似ている。 ただしその群迷語菩薩立像は恐らくは絹本の掛け軸で横鐵 が目立つ。 その菩薩は円い頭光とアーチ型の身光を負っており, 天衣の色が 鮮やかな赤であり, 黒い衣を下に重ねて着ており, 足下に雲もないなどの違 いがあるが, 表情や雰囲気がかなりによく似ているところが多いので, 君迷 壽というのは群迷語の誤記ではないか, という疑問が出てくる(http://m. blog.naver.com/chefjhkim/220533276594 2016.10.21)。 また華厳神衆帳璽の 中の四菩薩の四番目にも群迷語菩薩と出ていた(http_www. buddhaworldorg_ mbuddha_index)。 しかし最近の電網の情報だけでは確認しがたい。 実地で確認したい。 以上で諸仏・諸菩薩の図像15点を見た。 そのなかで最後の3点は我が国では

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新将来の北朝鮮(高麗)仏画(小壁画)の問題と整理 (23) 知られないかもしれないが,他は我々には周知の仏様達である。仏像の袈裟や 衣などについては中村元1998『図説仏教語大辞典』(東京書籍) を参照したが, 電網を介して微妙なところを知り得た諸論考がある。吉村怜2009「古代仏像の 着衣形式と名称」pdf『駒澤大學佛學部論集』第40号虎pp.518-504)。「210莫高 窟北朝仏像の着衣(1) : 日本じゃ無名?の取って置きの中国」.songye.exblog.jp/ 25559190/ 後者(氏名未確認)は長年公表して来たものの最新版のようである。 そのなかに除悦新2014『5-8世紀汲地佛像着衣法式』 が紹介されている。また 後者 は豆辮圏井https://book.douban.com/に紹介記事がある。 VII 神像 しかみ 武神坐像(獅噛のつく衣装を纏い右手に剣を載せ左手で片合掌)画像043 ふくよかな円い顔で真直に見つめる目,ややつり上がっ

t�

『韮,りややふくら まぶた が び みのある瞼蛾眉(蚕蛾の触覚)というにふさわしい細い円弧を描く眉,真 直ぐな鼻やや小さな口,二重に見える顎には髭も見えない。左右の耳は金 泥で描かれた冠飾りに隠れる。その飾りは眉間の真上の青白い雲模様をめ ぐって合体し螺旋形となって上に向かい,膳脂色の縞模様の左右二つの山の ある帽子の上まで伸びて,青白い火焔を発する。その熱気が火焔のような薄 青い頭光の大円の上を破って,吹き出すように見える。帽子の左右は耳の下 まで伸びて横に黒い縞が入っている。左右の耳の辺りから膳脂のリボンがそ れぞれ二本出て上方に伸びて翻り,横に伸びて翻る。同じように青と黒の縞 の天衣が左右に大きな輪を作ってから肩に架かり腰に架かり台座の下に伸び る。 この神の頸は短く肩幅は広い。襟は頸に食い込む。正中面には継ぎ目もな <珠・鎖模様の環・中心を示す文様・獅噛をつけ,左右に金色の飾物をつけ た膳脂の衣装は鎧のようであるが,硬さを感じさせない柔らかな衣装で左右 に天衣のような翻る縦縞のある薄布を纏う衣のようでもある。左手の五指を 揃えて掌を真直ぐに立てて片合掌をし,右手は腰につけて剣の柄の先につい た球を親指と中指で環を作るようにした掌に載せて剣を真直ぐに立てる。腹 の中心に着く獅噛は獅子が口を開けて歯を見せ,腰に結ばれた縞の入った黄 色い帯紐の結び目を噛んでいる。その目には迫力がありその胸には膳脂色の

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毛が垂れ, 水色の輪郭部には藍色の七耀(七点)文等が胸の下から尾になり 細くなり右に曲って終わる。 右肩には膳脂色の袋のような物が斜めに伸び, その下の肘からは藍色の点 が並び毛が生えた蛇のような曲った物が出て, その先に天衣の先端のような 布が翻る。 左肩には金色の飾りと膳脂色で黒い毛が生えた物があり, また白 い右渦巻き模様の膳脂色の袋が斜めに盛り上がり肘に垂れる。 その途中に腹 が白く藍色の点がついて毛が生えた物が蛇のようにうねり, その隙間から天 衣の先端のような布が翻る。 この本尊は左右には手すりで, 後ろは衝立に囲まれた台座に腰を掛け, 革 靴を履く左足裏を見せて踏み台の端に落とし, 右足は衣の裾の縁の三角様の 隙間の陰に隠すようである。 本図の左右には乱れがあり, しかも乱暴に切り取られているが, この台座 がん は左右に柱があって戸張が張られた大きな痛であり, 上の中央は富士山の形 に空く。 左右には下から赤黒い鱗の龍が這い上り天井に達したところで頭を 出し口を開け舌を出し, 脚を伸ばして爪を立てて向き合う叫 ここに祀られるのは神(天部) に違いない。 獅噛を着ける天部には四天王 が挙げられるが, ベゼクリク9号窟寺中堂右(北)壁中央右上にあったとい う毘沙門天(Vaisravai:ia, 多聞天)が付ける獅噛が,本図の獅噛と酷似する と思い至る(Albert von Le Coq, Chotcho, Tafel 33 ; 村上1984, pp. 64-65)。 そ の毘沙門天の左下には大きな茶色い大鼠もいる。 その大鼠は同中堂左(南) 壁中央の毘沙門天が乗る白馬の足下にも見える(Chotcho, Tafel 31 ; 村上 1984, p.63)。 これについては三つの伝承がある。 不空(705-774)訳『毘沙 門儀軌』(T.21, No.1249, 227c-230a) は, 毘沙門天に関する梵語の呪(真言) を逐次漢字表記し, 儀礼を講説し自身の知見を加える。 難解で煩瑣ながら毘 沙門天と人々との関係を知るべく要旨を記す。 時は唐の玄宗の天宝元年(742)二月十一日に安西城(安西都護府, 恐ら くは亀絃=クッチャ)が連合敵国(大石康五國りの軍勢に包囲され,派兵を 10 これが伝説や神話の赤龍(紅龍)である。 我が国にも紅龍(赤龍)信仰が伝わる。 身延山久遠寺の奥の院:七面山には紅龍の化身という七面天女が祀られ, その本地 が吉祥天や弁財天ともいわれ, 毘沙門天とも関係深いという(wiki. 赤龍,七面山, 七面天女)。 11 大石康五國の「五」は問題の語であって,それを欠く版本や写本もあるが,本来はあっ

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