へ レニズム時代における戦艦建造 : プトレマイオ
ス4世の「40の船」Tessarakonteres を中心に
著者
波部 雄一郎
雑誌名
関学西洋史論集
号
35
ページ
45-61
発行年
2012-03-30
URL
http://hdl.handle.net/10236/12796
へ レ ニ ズム時代におけ る戦艦建造
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プ ト レ マイ オス 4 世の 「40の船」 Tessarakonteres を中心に
一
波 部 雄一郎
は じ めに ヘ レ ニ ズム時代は海運史上、 非常 に重要な時代のひ と つ で あ ろ う。 と い う の も、 す で に古典期末か ら の三段權船の大型化が格段に発展 し、 諸王国や、 ロ ド スのよ う な有 力都市が、 競 っ て大型船 を建造 し た ためで あ る。 こ のよ う な大型船の進化は、 紀元前 4 世紀末か ら エ ーゲ海の覇権 をめ ぐ って、 繰 り 返 し 衝突 を繰 り 返 し た、 プ ト ト レ マイ オ ス朝 と ア ン テ イ ゴ ノ ス朝 に よ っ て大 き く 影響 を受 け た と い え よ う 。 と り わけ、 紀元前 3 世紀の束地中海 におけ る、 プ ト レ マイ オ ス朝の覇権 を支 え たの が、 その海軍力 に あ る こ と は論 を ま た な い。 プ ト レ マ イ オ ス朝 の保有 す る船舶 につ い て は 、 ナ ウ ク ラ テ イ ス の ア テ ナ イ オ ス が 2 世 紀 に 著 し た 、 『 食 卓 の 賢 人 た ち (I )elphnosophista1) 』 か ら、 重 要 な手 が か り を 得 ら れ る o 彼 は、 ア レ ク サ ン ド リ ア の 史家 で あ る カ ッ リ ク セ イ ノ スの記述 を引用 し、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 フ イ ロ パ ト ル が建 造 し た、 「40 の船 (Tessarakonteres) 」 と い う 巨大戦艦 と、 河川航行用 の船舶 につ い て記述 し て い る(1)。 プ ト レ マイ オ ス 4 世が建造 し た 2 隻の船舶は、 海事史や建築史の分野のみな らず、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世の対外政策やエ ジ プ ト 統治政策の側面 を明 ら かにす る こ と がで き る か も し れな い。 と り わけ、 「40の船」 と 呼ば れ る戦艦は、 プ ト レ マ イ オ ス朝 の海軍 力 だけ で な く 、 その経済力 や技術水準の高 さ を示 す象徴で あ る と い っ て も過言 ではな い。 一方 で、 こ の巨大戦艦の実用性 を疑問視す る指摘 も見受け ら れる こ と か ら、 プ ト レ マイ オ ス 4 世以降、 紀元前 2 世紀におけ る王朝の後退の象徴 と見な さ れる傾向にあ っ た o 本稿では、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世によ る、 巨大戦艦建艦 をめ ぐ る問題 を取 り 上げ る。 ま ず先行研究 を再考 し、 カ ッ リ ク セ イ ノ スに よ っ て記述 さ れた、 「40の船」 の構造 を 解明す る。 そ し て、 ヘ レ ニ ズム君主 に よ る建艦競争 と その経過 を た ど る こ と に よ っ て、ニ ズム時代の艦隊や、 海上兵力 の推移や、 ヘ レ ニ ズム諸王国におけ る戦艦の持つ多様 な側面 につ い て も考察 を試 みる。 な お、 主 要 な史料 と し て 使用 す る、 カ ッ リ ク セ イ ノ スの著作 や そ の執筆年 代 に つ い て 付言 し て お く 。 ア テ ナ イ オ スは、 第 5 巻 にお い て、 プ ト レ マ イ オ ス 2 世 が ア レ ク サ ン ド リ ア で 催 し た壮大 な祭典行列 を は じ め、 ア レ ク サ ン ド リ ア に かん す る記述 を、 ロ ド スの カ ッ リ ク セ イ ノ ス の 『 ア レ ク サ ン ド リ ア史 』 か ら直 接記述 を引用 し て い る。 た だ し、 その引用は断片的 な も ので あ り、 執筆年代 をは じ め、 不明瞭 な点が多 い。 カ ッ リ ク セ イ ノ スの断片 を集成 し た ラ イ スは、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 に よ る巨大船建造の箇 所 が、 も っ と も新 し い記事で あ り、 それ以降 の出来事 を記 し た形跡 も な いこ と か ら、 カ ッ リ ク セ イ ノ スの執筆年代 を紀元前 3 世紀の終わ り 頃 と し てお り (2)、 こ の見解はお お む ね受 け入 れ ら れて い る と い え よ う 。 1 . 問題の所在 プイ ト レ マ イ オ ス 4 世 の巨大戦艦の建造 につ いては、 同 じ く カ ッ リ ク セ イ ノ スが伝 え る河川航行船に比べる と、 記述の内容が乏 し い印象 を受け る。 そのため、 船舶工学、 あ る いは海事史 の分野か ら 関心 を集 め る こ と が多 く 、 プ ト レ マイ オ ス朝の政治史、 あ る いは軍制史 な どの分野 で史料 と し て扱われ る こ と はほ と ん ど なか っ た。 と い う の も、 「40の船」 は、 王朝の政策 と は無関係に、 プ ト レ マイ オ ス 4 世の個人的な志向に帰 さ れ る 傾向が強 いか ら で あ る。 こ う し た背景 を明 ら か に す る べ く 、 カ ッ リ ク セ イ ノ スの 記述か ら、 「40の船」 の構造 と 外観を描写 し、 先行研究の問題点 を明確にす る こ と に よ っ て、 次章以下 で の考察の前提 と し たい。 カ ッ リ ク セ イ ノ スの 「40の船」 にかん す る記述 は、 そ の規模 と 構造 か ら始 め ら れて いる。 それによ る と、 「40の船」 は、 全長が約128m、 左右の舷間隔が17mから21m、 高 さ が約21m に及んだ と い う。 オ ールの長 さ は、 平均約13m で、 船の四隅に据え ら れ た大 き な オ ールは そ れ ぞれ約17m の長 さ で あ っ た(3)。 船 の外 観 につ い て は、 船首 の形 状は二又 に な っ て お り 、 船底 には敵船への衝突 さ せ る た めの鉄の突 起、 お そ ら く 衝角 が 7 個備 え付け ら れて いた。 引 き 続き、 船の装飾につ いて記述が割かれてお り 、 船首 と 船尾に それぞれ高 さ 約 6 m の彫像が備え ら れ、 船体には蝦絵の具によ る絵画、 と り わけ木蔦の葉 と、 デ イオニ ュ ソ スの信仰者 た ちが祭祀 の際 に持 つ テ ュ ル ソ スの文 様が描 か れて い た(4)。 さ ら に カ ッ リ ク セ イ ノ スは、 「40の船」 を試験的 に航行 さ せ た際 の搭載人員 につ い て記述 し て いる。 「40の船」 には、 漕ぎ手が4,000人、 その他の乗組員400人に加え、 甲板戦聞要員が2,850人、 その他下働き が乗船 し て いた と 同時 に、 多大 な備蓄食糧の
搭載 が可能 で あ っ た と い う (5)。 最後の部分 では、 「40の船」 の進水の模様が紹介 さ れて い る。 それによ る と、 当初 は木製 の巨大 な台 か ら人力 に よ っ て海 に引 き お ろ さ れた よ う で あ る が、 そ の後は フ ェ ニ キ ア人 の間 で用 い ら れて い た よ う に、 堀 を構築 し 、 水門 に よ っ て海水 を注入 す る、 い わ ゆ る乾 ド ッ ク の方式 を採用 し た こ と が伝 え ら れ る(6)。 こ の よ う に、 カ ッ リ ク セ イ ノ スが示 し た数字 か ら も、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 の 「40の 船」 の威容は想像 さ れよ う 。 古代 にお いて総計7,520人以上の人員 を搭載 し た船が、 果 た し て航行可能で あ っ た のか と い う 疑問が生 じ るの も事実 で あ る。 プル タ ル コ スは、 『デメ ト リ オ ス伝』 にお い て、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世の 「40の船」 建造につい て言及 し、 操舵性が困難 で あ り 、 結局のと こ ろ威容は示 し た も のの、 陸上の建造物 と 何 ら変 わ る こ と は な か っ た と し て い る(7)。 プル タ ル コ ス の指摘 に従 う な ら ば、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 は、 な ぜ こ のよ う な非実用 的 な巨大戦艦 を建造 し たので あ ろ う か。 こ の点 につ いて、 多 く の研究者 た ちは、 ポ リ ュ ビオ ス ら古代史家 の記述 に見 ら れる、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 の豪奢 を好 む性格や、 対外 政策に対す る無関心 な態度 を指摘 し、 こ の王以降のプ ト レ マイ オ ス朝の混乱 と 関連づ け、 巨大戦艦建造 を失敗 と す る否定的 な評価 を与 え て き た(8)。 例えば、 プ レ オ ーは、 「40の船」 と、 も う ひと つ の河川航行船 について、 第 4 次 シ リ ア戦争 におけ る ラ フ イ ア で の戦利品や、 エ ジ プ ト 外 の領土か ら の収益 に よ っ て建造 さ れた と 指摘 し て い る。 その上 で、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世の態度 を野心的 と 評価す る も のの、 船舶建造 を彼の個人的趣味 と 見な し、 長期的には紀元前 2 世紀以降のプ ト レ マ イ オ ス朝 の衰退 に結 びつけ て い る(9)。 ま た、 ヘ レ ニ ズム期の海軍研究 を行 っ て き たハウベ ンは、 紀元前 2 世紀以降、 戦艦 の規模が小型化 し て い く 傾向 を指摘 し、 「40の船」 の建艦につ いて、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 が判断 を誤 っ た と 断 じ て い るao)。 ハ ウベ ンは、 戦艦の建造年代 を ラ フ イ アの戦 い 以前の紀元前221年 か ら219年 と 推定す るが、 こ の時期は ア ンテ イ オ コ ス 3 世が プ ト レ マ イ オ ス朝 の領土 で あ る コ イ レ ー ・ シ リ ア に積極的 に攻撃 を行 っ た時期 に相当 す る。 特 に、 紀元前219年 には テ オ ド ト ス と パ ナイ ド ロ ス に率 い ら れた、 プ ト レ マ イ オ ス朝 の フ ェ ニ キ ア駐留 艦隊 が、 ア ン テ イ オ コ ス 3 世 に投降 す る と い う 事態 が生 じ た(u)。 こ のよ う に艦隊全体 の補強が必要 な事態 に直面 し た のに も かかわ ら ず、 実用性 のな い巨 大戦艦 の建艦 に踏 み切 っ た こ と を、 ハ ウベ ンは批判 す る ので あ る。 「40の船」 建艦 を、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 の eccentric や megalomaniac と 表現 さ れ る 個人的性格 に帰す る研究者 に、 フ ツス も 加 え る こ と がで き よ う 。 フ ツスは、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世の対外政策につ いて、 王国領土の縮小はほ と ん ど確認 さ れず、 む し ろ積極
的 な対外政策 が う かがえ る と し て、 古代史家 に よ っ て描かれた プ ト レ マ イ オ ス 4 世 の 否定的 な性格 を誇張 と し て い るa2)。 し か し、 「40の船」 や河川航行船 の建造 につ い て は、 やは り プ ト レ マ イ オ ス 4 世の個人的志向 に結 びつけ て い るa3)。 こ のよ う に、 先行研究は、 「40の船」 建艦の理由 を プ ト レ マ イ オ ス 4 世の性格 によ る も の と し、 軍事政策の面 では、 失敗で あ っ た と 結論づけ る傾向が強い。 実際に、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 の死後、 プ ト レ マ イ オ ス朝は小 ア ジ ア、 シ リ ア と い っ た領土 を相次 いで喪失 し、 束地中海世界におけ る影響力 を低下 さ せて いる。 し か し なが ら、 先行研究 が根拠 と し て き た点 につ いて は、 い く つか問題点があ る。 ま ず、 ハ ウベ ンに よ っ て推定 さ れた、 建造年 代 で あ る が、 カ ッ リ ク セ イ ノ スがま っ た く 言 及 し て い な い のに も かかわ ら ず、 ハ ウベ ン白身 も そ の根拠 を明確 に し て い な い。 次 に、 「40の船」 の建造 その も の を プ ト レ マ イ オ ス 4 世の個人的志向によ る も の と す る見解 につ い て も、 疑問 を抱か ざ る を得 な い。 ハ ウベ ン も言及 し て い る が、 エ ジ プ ト は プ ト レ マイ オ ス 3 世時代の紀元前230年頃か ら経済不況に陥 ってお り、 はた し て こ のよ う な事業 を行 う こ と がで き た ので あ ろ う かa 。 と り わけ、 エ ジ プ ト は森林資源 に 乏 し く 、 船舶建造の木材は、 プ ト レ マイ オ ス朝以前よ り、 レバノ ン方面か ら の輸入で ま か な わ れて き た こ と が知 ら れて い る(15)。 で は、 セ レ ウ コ ス朝 か ら の脅威 を受 け た困難 な状況 の中、 「40の船」 は どのよ う な 目的 の た め に建造 さ れた ので あ ろ う か。 す で に述 べ た よ う に、 「40の船」 は そ の規模 や膨大 な搭載人員、 さ ら には プル タ ル コ スの記述 に よ っ て、 戦艦 と し て の機能 を十分 果 た し て いた と は考 え がた い。 こ の問題 を考え る上 で、 海事史や船舶工学に よ る研究 成果 を踏ま え なが ら、 「40の船」 の構造 を も う 一度再考す る必要 があ る。 お も に古代 の著作家 によ る歴史記述 を も と に、 ヘ レニ ズム時代に建造 さ れた戦艦 と の比較 を行 い、 ヘ レ ニ ズ ム時代 の諸勢力 に よ る建艦競争 の過程に お い て、 「40の船」 を どのよ う に位 置づけ る こ と がで き る のか考察す る。 2 . プ ト レ マイ オス 4 世の 「40の船」 の構造 カ ッ リ ク セ イ ノ ス力 記 し た、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世の 「40の船」 の規模につ いては、 前章で示 し た と お り で あ るが、 その構造 につ いて は、 多 く の問題が残 さ れて い る。 ま ず、 カ ッ リ ク セ イ ノ スが、 船 の呼称 と し て い る、 「40」 と い う 数字 が何 を示 し て い る のか。 ま た、 ひ と つ のオ ール に、 どのよ う に船員 が配置 さ れた か と い う 点 が問題 と な る。 そ れ を知 る た め には、 ま ず、 三段1確,船 の構造 を振 り 返 る こ と か ら は じ め た い。 フ ェ ニ キ ア人 に よ っ て最初に建造 さ れ、 ギ リ シア人 に よ っ て改良 さ れた三段權船 は、 古典期 にお いて は、 全長平均35 m、 幅5.5m の も のが一般的 で あ っ た。 その構造は、
各舷側のオ ール を三層 に設置 し、 それぞれ、 上部 の漕 き手 (thranite) 、 中間の漕 ぎ手 (zygite) 、 下部 の漕 ぎ手 (thalamite) と 配置す る も の と 理解 さ れて い るa61。
一方で、 デ イ オ ド ロ スの記述か ら、 紀元前 4 世紀にな る と、 「 4 の船」、 「 5 の船」 と い う タ イ プ の船 舶 が導入 さ れ る よ う に な っ た こ と が確認 さ れ るan。 カ ッ ソ ン に よ る と、 こ れ ら の船舶は、 三段權船 を大型化、 改良 し た も ので、 「 4 」 の船は、 オ ール ご と に 2 人 の漕 ぎ手 をつけ た、 二段權船 と 推測 さ れる。 一方 で、 「 5 」 の船は、 ひと つ のオ ールに 2 人 の漕 ぎ手 をつけ た層 と、 同 じ く 3 人 の漕 ぎ手 を つけ た二層か ら な る二 段權船、 あ る いは上層の漕 ぎ手 (thranite) を 2 人、 中間層の漕 ぎ手 (zygite) を 2 人、 下部 の漕 ぎ手 (thalamite) を 1 人配 し た構造 の三段權船 と 推測 さ れるa81。 つま り、 船 を示す数字は、 上下一列に配置 さ れた人員 に由来 す るので あ る。 た だ し、 オ ールの配置につ い ては、 諸説 があ り 、 一定 の見解 を得 て い な いの も 事実 で あ る。 例えば、 モ リ ソ ンは、 三段權船 につ いて、 上部 の漕 ぎ手 は船舷縁 に設け ら れ た平屋根に位置 し、 そ こ か ら オール を漕いで いた と し、 実質的には二層構造の船舶で あ る と し て い るa9)。 オ ールに配置 さ れる人員 の増大は、 船舶の高速化 と 同時 に大型化が進んだ こ と を示 し て い る と いえ よ う。 こ う し た船舶の巨大化が顕著 と な るのは、 後継者戦争期に入 っ て か ら のこ と で あ る。 プル タ ル コ スは、 デ メ ト リ オ ス ・ ポ リ オル ケ テ ス がは じ めて、 「15の船」 と 「16の船」 を建造 し た と 述べて い るcol。 「15の船」 の構造は不明で あ るが、 「16の船」 は、 カ ッ ソ ンによ る と、 上下二層 に 8 人漕 ぎのオ ール を配 し た構造、 あ る いは16人 を上層、 中間層、 下層に配置 し た三層構造 を持つ も のと 推測 さ れる(210。 プル タ ル コ ス と カ ッ リ ク セ イ ノ ス に従 う と、 デ メ ト リ オ ス に よ る 「 16の船」 の開発 か ら、 プ ト レ マイ オ ス 4 世の時代ま で に、 戦艦は 「40の船」 ま で大型化 し た こ と にな る。 で は、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 の 「40の船」 は、 どのよ う な構造 を持 つ ので あ ろ う か。 結論か ら述べ る と、 先行研究は、 「40の船」 の構造 につ いて、 それ自体が 1 隻の船体 構造 を持つので はな く 、 「20の船」 と 呼ば れる 2 隻の船体 を接合 し た、 双胴船 と す る こ と で一致 し て い る。 カ ッ ソ ンによ る と、 「20の船」 と は、 片舷に上層 8 人、 中間層 7 人、 下層 5 人の三 層の漕 ぎ手 を配置 し た船で あ る。 つま り、 2 隻の 「20の船」 の甲板 を固定 し、 双胴船 と し て 組 み合 わせ た も の に な る。 カ ッ リ ク セ イ ノ スは、 「40の船」 の漕 ぎ手 の総 計 を 4,000人 と し て い る が、 それぞれの舷 に1,000人 が配置 さ れ、 船首か ら船尾 にかけ て、 50列の漕 ぎ手 が上下三段ずつ配置 さ れた こ と に な る。 同時 に、 甲板部分 を拡大 し て 2 隻 の船 を接合 し た こ と に よ っ て、 甲板面 積 その も の も拡大 し 、 カ ッ リ ク セ イ ノ スの伝 え る搭載人 員 の収容が可能 と な るl221。
双胴船 と い う 船体構造自体は珍 し い も のではな く 、 同時代にお いて も採用 さ れて い た こ と が史料上確認 さ れる。 た と えば、 ポ リ ュ ビオ スは、 紀元前215 / 214年 の、 ロ ー マ に よ る シ ュ ラ ク サイ 攻囲 の際、 ロ ー マ 側 が、 「 5 の船」 を 2 隻つ な げて 使用 し て い た と 伝 え て い る(23。 こ の時 も、 ロ ーマは 「 5 の船」 に多 数 の兵士 だけ で な く 、 攻城機 も搭載 し て お り 、 双胴船の積載量の大 き さ を示 す手 がか り と な ろ う。 プ ト レ マイ オ ス 4 世 の 「40の船」 を、 双胴船 と 見 なすので あれば、 「40の船」 は プ ル タ ル コ スが言 う よ う に、 実用性 に欠 け、 単 な る見世物 に過 ぎ な か っ た ので あ ろ う か。 カ ッ ソ ン も、 プル タ ル コ ス に 従 っ て、 「40の船」 は単 な る 見世物 で あ り 、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 を巨大船の発明者ではな く 、 見世物の建造者 と し てい る(21。 一方 で、 プ ト レ マイ オ ス 4 世が単 な る見世物のために巨大戦艦 を建造 し た と す る見 解に対 す る疑間 を呈す研究者 も存在す る。 丹羽隆子氏は、 実際に4,000人 と い う 漕 ぎ 手の人数 を想定 し、 1 本のオールに複数の人数 を配 し、 それぞれの速度 を計測する カ ッ タ ー (短艇) 実験 と、 模型船 によ る抵抗実験 を行 っ て い る。 そ れによ る と、 「40の船」 には、 4,000人 す べて の人 数 を オ ール に配置 す る ス ペ ー ス を 確保 す る こ と は困難 で あ り 、 4,000人 と い う 漕 ぎ手 が同時 にオ ール を漕 ぐ こ と は不可能 で あ っ た と 推測 し て い る。 た だ、 丹羽氏は、 船舶工学的 には十分 な安定感 が確保 さ れて い た と し て、 「40の 船」 の戦艦 と し て の実用性 を証明 し て い る(2。 カ ッ リ ク セ イ ノ スの記述力 、 船 の規模 と 進水の様子に限定 さ れて い る以上、 丹羽氏 に よ る実験の有効性 を史料上か ら確認す る こ と は不可能 で あ る。 し か し 、 プル タ ル コ スは、 「40の船」 の操縦 は困難 で あ っ た と のみ指摘 し て い る こ と か ら、 単 な る見世物ではな く 、 航行可能で あ っ た こ と も十分 考 え ら れ る。 以上の点か ら、 プ ト レ マイ オ ス4世が建造 し た 「40の船」 は、 「20の船」 を接合 し た 双胴 船 の構造 を持 ち、 カ ッ リ ク セ イ ノ ス の挙 げ る 、1曹ぎ手や搭載人員 を収容す る こ と が 可能 で あ り 、 困難 を伴 う も のの、 航行は可能 で あ っ た こ と が確認 で き よ う 。 3 . 紀元前 3 世紀におけ る ヘ レ ニ ズム諸王朝の海軍力 と 建艦競争 本章では、 紀元前 4 世紀末以降のヘ レニ ズム君主によ る戦艦建造 を考察 し、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 の 「40の船」 建艦の意義 を、 プ ト レ マ イ オ ス朝 を は じ め と す る、 ヘ レ ニ ズム諸王朝の艦隊や戦艦建造 に位置づけ て、 軍事的 な側面か ら考察す る。 ヘ レ ニ ズ ム時代 の戦艦の巨大化 の経過 につ いて は、 プ リ ニ ウ スが、 船舶の歴史 につ い て述べ た箇所 に お い て、 ムネ シギ ト ン、 フ イ ロ ス テ フ アノ ス ら の著作 を典拠 と し て、 大規模船舶 と、 その建造者の一覧 を述べて い る。 そ れに よ る と、 「10の船」 の建造者 が ア レ ク サ ン ド ロ ス、 「 12の船 の建造者」 が プ ト レ マ イ オ ス ・ ソ テル、 「 15の船」 の建
造者 が デ メ ト リ オ ス ・ ポ リ オ ル ケ テ ス、 「30の船」 の建造者 が プ ト レ マ イ オ ス ・ フ イ ラ デル フ オス、 そ し て、 「40の船」 の建造者 が プ ト レ マ イ オ ス ・ フ イ ロ パ ト ル と さ れ て い る 1。 後継者戦争期において、 大型建艦がは じ めて実戦に登場 し たのは、 紀元前306年に、 デ メ ト リ オ スが プ ト レ マイ オ ス ・ ソ テル に対 し て勝利 し た、 サ ラ ミ スの海戦 で あ っ た。 こ の時 の両 陣営 の艦隊 の構成 は、 デ イ オ ド ロ ス に よ っ て 伝 え ら れて い る。 そ れに よ る と、 デメ ト リ オ ス側は、 108隻か ら な る艦隊のう ち、 「 6 の船」 10隻、 「 7 の船」 7 隻 を含 んで い た のに対 し 、 プ ト レ マイ オ ス側は 「 5 の船」 よ り 規模の小 さ い艦隊か ら構 成 さ れて い たo e 一方 で、 デ イ オ ド ロ スは、 サ ラ ミ スの海戦か ら さ かのぼ っ て、 紀元前315年 には、 デ メ ト リ オ スの父、 ア ン テ イ ゴ ノ ス ・ モ ノ フ タ ル モ ス の フ ェ ニ キ ア駐留 艦隊 には、 3 隻の 「 9 の船」 と、 10隻の 「10の船」 が含 ま れて いた と 伝え て い る。 事実 で あれば、 サ ラ ミ スの海戦 で は、 ア ン テ イ ゴ ノ ス と デ メ ト リ オ スは、 主力 戦艦 を温存 し、 よ り 規 模 の小 さ い戦 艦 で プ ト レ マ イ オ ス に対峙 し た と い う こ と に な るe8。 デ メ ト リ オ スに よ る建艦は、 紀元前301年 のイ プ ソ スの戦 いで、 プ ト レ マ イ オ ス、 セ レ ウ コ ス、 カ ッ サ ン ド ロ ス ら の連合軍 に敗北 し、 フ ェ ニ キ ア を は じ め王 国 の大半 を 喪失 し た後 も継続 さ れ、 お そ ら く 、 紀元前285年 には、 ペイ ラ イ エ ウ ス、 カ ルキ ス、 コ リ ン ト ス、 ペ ッ ラ にお いて、 艦隊 を 構築 す る た めに造船 を 活発化 さ せて い る。 注日 すべき は、 「 15の船」 と 「16の船」 の建造 で あ る。 こ れ ら の船舶 につい ては、 すで に 引用 し た と お り で あ る が、 プル タ ル コ ス に よ れば、 デメ ト リ オ ス自身 が設計 に関与 し、 外見上は見事 な美観 を保 ち なが ら も、 十分な速力 と 戦闘力 を確保 し て いた と い う。 デメ ト リ オ スの海上兵力 に対抗す る ために、 同時期のヘ レ ニ ズム君主 も追随 し て、 艦隊 の充実 と 建艦 を進 め て い っ た。 デ メ ト リ オ スの敵対勢力 の な かで は、 リ ュ シマ コ ス が建造 し た、 レ オ ン ト フ オロ ス号 が大型戦艦 と し て知 ら れて い る。 メ ムノ ンに よ れ ば、 レオ ン ト フ オロ ス号は、 漕 ぎ手 を各舷一段に100人、 各側に800人、 両側に1,600 人配 し、 船首 を二 つ持つ 「 8 の船」 と 説明 さ れて い る 1。 カ ッ ソ ンは、 レ オ ン ト フ オ ロ ス号の、 ぎ手 の数 と 、 二 つの船首 を持つ こ と を考慮 し、 ま た、 リ ュ シマ コ スがデメ ト リ オ スの 「15の船」、 「16の船」 に対抗す る ために建艦 に取 り 組 んだ と い う プル タ ル コ スの記述 を手がか り に、 レ オ ン ト フ オロ ス号 を 「 8 の船」 2 隻 を接合 し た双胴船 と 推定 し て い る(30。 ヘ レニ ズム諸王朝が成立 し た後、 も っ と も海軍力 を重視 し たのは、 プ ト レ マイ オ ス 朝 で あ る。 プ ト レ マ イ オ ス 1 世 がサ ラ ミ スの海戦 で敗 れた も のの、 プ ト レ マ イ オ ス朝 は、 紀元前280年 ま で には、 エ ー ゲ海の覇権 を確立 し、 キ ュ ク ラ デ ス諸島の諸都市か
ら構成 さ れる、 諸島民の コ イ ノ ンを影響下 に置き、 その艦隊 を基盤 と し て、 東地中海 沿岸部一帯 に領域 を形成 し た。 ま た、 プ ト レ マイ オ ス朝は、 南方貿易へ向か う 船舶 を 保護す る た め、 紅海 に も 艦隊 を 派遺 し て い たe1)。 ア テ ナイ オ スは、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 に よ る艦船建造 の記事 に移 る前 に、 プ ト レ マ イ オ ス朝 の豊 か さ を示 す た め に、 紀元 前 2 世紀 の修辞家 で あ る ビ ュ ザ ン テ イ オ ンのパ ル メ ニ オ ンの散文 を引用 し、 プ ト レ マ イ オ ス 2 世 フ イ ラ デル フ オスの保有 し た艦隊 の 内容について述べて い る。 それによ る と 、 2 隻の 「30の船」、 1 隻の 「20の船」、 4 隻
の 「13の船」、 2 隻の 「12の船」、 30隻の 「 9 の船」、 37隻の 「 7 の船」、 5 隻の 「 6 の
船」、 17隻の 「 5 の船」 に加 え、 それ以上 の数か ら な る 「 4 の船」 と さ ら に規模の小 さ い軍船が、 プ ト レ マ イ オ ス 2 世の艦隊 を構成 し て い た と い うe 。 では、 パル メ ニ オ ンの記 し た よ う な戦艦が建造 さ れ、 実際 に プ ト レ マ イ オ ス朝の艦 隊 を 構成 し て いた ので あ ろ う か。 次 に、 碑文史料やパ ピル ス史料 を中心 に、 プ ト レ マ イ オ ス朝 の艦隊 に つ い て検討 を進 め た い。 キ ュ プロ ス島 の都市、 パ フ オスの ア フ ロ デ イ テ神殿出土 の顕彰碑文 は、 簡略 な内容 に も かかわ らず、 プ ト レ マイ オ ス朝の戦艦建造 について の情報 を提供す る。 こ こ では、 「 プ ト レ マイ オ ス王」 が、 「20の船」、 「30の船」 の建造者で あ る、 ピ ュル ゴテ ウス と い う 人 物 を顕彰 し て い る(33。 ピ ュ ル ゴ テ ウ ス につ いて は、 他 の史料 か ら確認 で き な いが、 碑文の字体が紀元前 3 世紀後半に分類 さ れるこ と か ら、 プ ト レマイ オ ス 2 世の時代に、 造船 に た ず さ わ っ た人 物 と 考 え ら れ よ う (341。 パ フ オ ス の ア フ ロ デ イ テ 神 殿 の碑文 は、 プ ト レ マイ オ ス 2 世の時代 に、 「20の船」、 「30の船」 が建造 さ れて いた と い う 、 ア テ ナイ オ ス と プ リ ニ ウ スの記述 を裏付 け て い る。 エ ジ プ ト 出土 のギ リ シ ア語 パ ピル スか ら も、 プ ト レ マ イ オ ス 2 世 に よ る戦 艦建造 が 確認 さ れる。 紀元前250年 1 月14 日付け の書簡 において、 ア レ ク サ ン ド リ アの財務官 ア ポロ ニ オ スは、 地方 に駐留 す る デメ ト リ オ スに対 し、 王命 に よ っ て、 戦艦の胸壁 に 使用 す る た め、 ア カ シア、 御柳、 柳 を伐採 し、 早急 に送 る よ う に指示 を与 え て い るe5)。 こ のパ ピル ス を 校訂 し た フ レ イ ザ ー と ロ バ ー ト は、 書簡 の年代 か ら、 エ ー ゲ海 に お け る プ ト レ マ イ オ ス朝 の覇 権力 動 揺 に さ ら さ れ た た め に、 プ ト レ マ イ オ ス 2 世力 そ の対 策 と し て戦艦建造 を急務 と し て い た と 結論づけ るe6)。 紀元前267年か ら のア ンテ イ ゴノ ス 2 世 に対す る ク レ モニ デス戦争 と、 紀元前257年 か ら の セ レ ウ コ ス朝 と の第 2 次 シ リ ア戦争 の結果、 プ ト レ マ イ オ ス朝 にかわ っ て ア ン テ イ ゴノ ス朝がエ ー ゲ海 に勢力 を拡大 し て き た こ と は、 デロ ス島か ら の一連 の出土碑 文 に よ っ て 証明 さ れ る(311。 フ レ イ ザ ー ら が論 じ る よ う に、 戦 艦建 造 の た め の木 材 の供 出 を、 エ ー ゲ海 の覇権防衛 と 関連 づ け ら れ る な ら ば、 上述 し た ピ ュ ル ゴ テ ウ ス に よ る「20の船」 と 「30の船」 の建艦 も、 こ のよ う な状況の中で行われた と 考え ら れる。 つ ま り、 プ ト レ マイ オ ス 2 世は、 紀元前250年頃に、 エ ーゲ海の覇権を回復、 ま たは防 衛す る ために、 艦隊の補充 をはか り 、 その一環 と し て 「20の船」 や 「30の船」 の建造 を 命 じ た ので あ る。 し か し なが ら、 「20の船」 と 「30の船」 が、 実際の海戦で どのよ う な役割 を果 た し たのかは不明 で あ る。 さ ら に、 紀元前200年頃に な る と、 こ のよ う な大型戦艦は実際 の海戦 で は使用 さ れな く な っ て い た よ う で あ る。 紀元 前201年 の、 小 ア ジ ア の キ オ ス 沖 で の海戦 で は、 マ ケ ド ニ ア の フ イ リ ッ ポ ス 5 世 の艦隊 にお い て最大 の艦船は 「10の 船」 で あ り 、 対す る ア ッ タ ロ ス 1 世 と ロ ド ス側で最大 の艦船は 「 5 の船」 で あ り、 戦 闘中 も そ れぞれ敵 艦 を沈没 に追 い込 ん だ のは、 お も に小型船 で あ っ た こ と がポ リ ュ ビ オ スに よ っ て伝 え ら れて い るe8。 ま た、 ア ンテ イ オ コ ス 3 世 と ロ ド スに よ る、 紀元前 190年 の小 ア ジ アの シデ沖の海戦で は、 3 隻の 「 7 の船」 と 4 隻の 「 6 の船」 を含む ア ンテ イ オ コ ス 3 世の艦隊に対 し、 ロ ド ス艦隊は、 32隻の 「 5 の船」 と、 4 隻の三段 權船 か ら 構成 さ れて い たe91。 リ ウ イ ウ スは、 海戦 で の使用 さ れ る戦 艦の小型化 に かん す る象徴的 な エ ピ ソ ー ド を 伝え て い る。 紀元前167年、 ピ ュ ド ナの戦いで マ ケ ド ニ アに勝利 し た、 アエ ミ リ ウ ス ・ パ ウル スは、 王の巨大 な旗艦 (regina nave ingentis magitudinis) を戦利品 と し て持 ち 帰 り 、 そ れに乗船 し て テ イ ベ レ川 か ら ロ ー マ に凱旋 し た と い う l01。 後継者戦争以後の数十年間は、 ヘ レニ ズム君主 によ って戦艦の大型化が推進 さ れた 時代で あ っ た。 彼 らは実際に、 海戦の主力 と し て、 三段權船に比べて規模の大 き い戦 艦 を競 っ て建艦 し たので あ る。 し か し、 大型戦艦が、 海戦の主力 と し て期待 さ れた時 代は続かず、 やがて紀元前 3 世紀末 には、 機動性 に優れた中規模の戦艦や三段權船が 主力 と さ れ る よ う に な っ た。 紀元前 3 世紀末 に艦隊の主力 と し て小型戦艦が用 い ら れる よ う にな っ た と す る な ら ば、 プ ト レ マイ オ ス 4 世の 「40の船」 建艦は、 同時代の趨勢 に逆行す る政策 と いえ よ う 。 一方 で、 ア テ ナイ オ スの記述 な どか ら、 プ ト レ マイ オ ス 2 世以降、 プ ト レ マ イ オ ス朝 も、 大型艦船以外に も多 く の艦船 を保有 し て いた こ と が確認 さ れる。 4 . ラ フ イ アの戦い と 「40の船」 前章では、 紀元前 3 世紀の終わ り ごろ には、 ヘ レニ ズム諸王国の艦隊にお いて、 戦 艦の小 規模化 が進 ん だ こ と が確認 さ れた。 で は な ぜ プ ト レ マ イ オ ス 4 世は、 その傾向 に逆行 す る かの よ う に 「40の船」 を建造 し た のか。 こ の問 い に答 え る た め に、 セ レ ウ コ ス朝 と の第 4 次 シリ ア戦争 と、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 を取 り 巻 く 状況 につ いて整理す
る必要 が あ ろ う 。 プ ト レ マ イ オ ス 4 世の治世は、 紀元前221年 の即位直後か ら、 セ レ ウ コ ス朝のア ン テ イ オ コ ス 3 世 か ら の脅威 に さ ら さ れて い た。 実際 に、 紀元前219年 には、 第 3 次 シ リ ア戦争以降 プ ト レ マ イ オ ス朝 が占領 し て い た、 ピエ リ ア のセ レ ウ ケ イ ア を奪回 さ れ て い るal)。 ま た、 そ れ と 前後 し て、 コ イ レ ー ・ シリ アの艦隊 を指揮 し て い た テ オ ド ト ス ら が、 ア ン テ イ オ コ ス側 に投降 し た た め、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 は艦隊 と と も に、 プ ト レ マ イ スや テ ュ ロ ス な ど、 フ ェ ニ キ ア の主 要都市 も失 っ た の で あ る。 プ ト レ マイ オ ス 4 世の危機的な状況は、 紀元前217年のラ フ イ アの戦勝で好転する。 プ ト レ マ イ オ ス朝は、 ア ンテ イ オ コ ス 3 世 に よ っ て コ イ レ ー ・ シリ ア を占領 さ れた後、 交渉 を長引 かせ る に よ っ て ア ン テ イ オ コ スの進出 を食 い止 め る一方 で、 エ ジ プ ト 人 の 重装歩兵化 を進 め る な ど、 戦争 に向け て の体制 を整 え た結果、 ア ンテ イ オ コ ス 3 世 を 撃退 し、 コ イ レ ー ・ シ リ ア を 奪回 す る こ と に成功 し た ので あ る。 ラ フ イ ア の戦 い以 後、 プ ト レ マ イ オ ス朝 の東地中海 に お け る 領域 に変化 は確認 さ れ な いこ と か ら、 対外的 には安定 を保 っ て い た と いえ よ う 。 む し ろ、 対外的 な脅威 よ り も、 エ ジ プ ト での反乱が頻発 し、 と り わけ、 紀元前205年の南部の反乱は、 デーバイ を中心 す る地域が プ ト レ マイ オ ス朝 に対 し て紀元前196年 ま で抵抗 を続け、 王朝に深 刻 な事態 を も た ら し たla。 以上が プ ト レ マイ オ ス 4 世の治世の概略で あ るが、 「40の船」 が建造 さ れたのは、 状況 か ら判断 す る と 、 ハ ウベ ンが指摘 す る よ う に、 ア ン テ イ オ コ ス 3 世の脅威が差 し 迫 っ た、 紀元前219年か ら217年の間で あ っ た可能性が高 い。 プ ト レ マイ オ ス朝が、 プ ト レ マイ オ ス 2 世の時代に、 すで に 「20の船」 と い う 大型船 を 1 隻保有 し て いた こ と は、 上述 し た と お り であ る。 「40の船」 を先行研究の解釈に従 っ て、 2 隻の 「20の船」 に よ っ て 構成 さ れた双胴船 と す る な ら ば、 短期間 で の建艦が可能 で あ っ た に違 い な い。 で は、 「40の船」 の建 艦は、 ハ ウベ ンの断 じ た よ う に、 プ ト レ マ イ オ ス朝 に と っ て 失敗に終わり 、 無意味 で あ っ たのだ ろ う か。 こ こ では、 戦艦の持つ さ ま ざま な役割 を 通 し て考 え た い。 注目 す べき は、 「40の船」 の外観 で あ る。 カ ッ リ ク セ イ ノ ス に よ る と、 「40の船」 は、 蝋絵の具 によ っ て、 木蔦 と デ イ オニ ユソ スの信従が持つ、 テ ュル ソ スの杖の文様が描かれて い た。 プ ト レ マイ オ ス朝は、 プ ト レ マイ オ ス 2 世以降、 デ イ オニ ュ ソ ス を王朝の伝説上 の祖 と し て位置づけ、 崇拝 を捧げて き たa3。 と り わけ、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 は、 デ イ オ ニ ュ ソ スの密儀 を王 朝の統制下 に置 い た こ と や、 デ イ オ ニ ュ ソ ス を モ チ ー フ と し た肖 像貨 幣 の発 行、 ア レ ク サ ン ド リ ア に お け る デ イ オ ニ ュ シ ア区 の創設 な どの政策 か ら も 明 ら かで あ る よ う に、 デ イ オ ニ ュ ソ ス に対 し て特別 な 関 心 を示 し て い た こ と が知 ら れて い るl 。
「40 の船」 に施 さ れた デ イ オ ニ ュ ソ ス の モ チ ー フ と 、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 の宗 教政 策 と の関連性は、 チ ヤフ イ ンに よ っ て す で に指摘 さ れて い る。 た だ し 、 彼 は、 木蔦 や テ ュ ル ソ スが模様 と し て用 い ら れた のは、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 の デ イ オ ニ ユ ソ ス崇拝 に よ る も の と す る の み で あ るa 。 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 が、 「40 の船」 に デ イ オ ニ ユ ソ スの ア ト リ ビ ュ ー ト を 施 し た のは、 そ の効果 を目的 と し た可能性 が考 え ら れ る た め、 こ こ で は さ ら に検討 し て みた い。 ま ず、 船舶や海洋か ら 連想 さ れ る神格は、 ポ セ イ ド ンや、 ア フ ロ デ イ テ と い う のが、 古代 ギ リ シア にお いて一般的 な認識 で あ ろ う 。 た だ し、 デ イ オニ ュ ソ ス と 船舶が決 し て 無 関係 と い う わけ で は な い。 小 ア ジ ア な ど で は、 デ イ オ ニ ュ ソ スが ギ リ シ ア に上 陸 し た際、 海上か ら船 に乗 っ て到来 し た と い う 伝承が存在す る 1。 ま た、 紀元前 4 世紀 のエ ジ プ ト か ら出土 し た、 陶器 には、 船 に乗 る デ イ オ ニ ュ ソ スが描 か れて い るa 。 こ う し た こ と か ら、 東方 で は、 デ イ オ ニ ュ ソ スか ら船舶 を連想 さ せ る イ メ ー ジや伝承が、 一部 の地域では存在 し て い た と い え よ う 。 さ ら に、 ヘ レ ニ ズ ム時代 にお いて、 戦艦が戦勝記念 のモ ニ ュ メ ン ト と し て用 い ら れ て い た事例 も考慮せねば な ら な い。 こ のよ う な事例は、 古典期 に も 確認 さ れ る。 た と えば、 ア テ ナイ は、 ペ ロ ポネ ソ ス戦争 にお け る、 フ オル ミ オ ンの海戦 で の勝利 を記念 し、 コ リ ン ト ス近郊 の リ オ ンのポセ イ ド ン神域 に戦艦 を奉納 し て い るa9。 プ リ チ ェ ッ ト によ る と 、 戦勝 を記念 し て、 戦艦だけ で な く 、 その船首や船尾、 衝角な ど、 装備の 一部 が神殿や聖 域 に奉納 さ れ る こ と も あ っ たa91。 ヘ レ ニ ズム時代 に入 る と、 こ のよ う な事例の増加 が確認 さ れて い る。 ア ンテ イ ゴノ ス 2 世は、 コ ス島沖の海戦で、 プ ト レ マイ オ ス 2 世の艦隊に対す る勝利 を記念 し て、 デ ロ ス島 の ア ポ ロ ン神 域 に、 そ の旗 艦 を 奉納 し た こ と が伝 え ら れて い る601。 さ ら に、 ア ン テ イ ゴ ノ スは、 奉納 し た戦 艦 を収納 す る た め に、 ネ オ リ オ ン と 呼ば れ る建築物 を 同時 に奉納 し た と い う 61)。 ま た、 ロ ド スで は、 各地か ら 船舶や船首 のモ ニ ュ メ ン ト が数多 く 確認 さ れて い る。 一例 を挙げれば、 ロ ド ス島の リ ン ド スか ら出土 し た、 紀元前265年 か ら260年 に建立 さ れた 碑文 は、 ポ リ ュ ア ラ ト スの子 ア ガ ト ス ト ラ ト ス と い う 人 物 に よ っ て、 ア テ ナ ・ リ ン ド ス に奉献 さ れた、 船舶のモ ニ ュ メ ン ト の台 座 と 想定 さ れて い る6a。 ア ガ ト ス ト ラ ト スがロ ド ス艦隊 の提督 で あ っ た こ と は、 ポ リ ュ ア イ ノ スの記述 か ら も 確認 さ れ、 そ れによ る と 、 彼の率い る ロ ド ス艦隊が、 エ フ ェ ソ ス近海の海戦で、 プ ト レ マイ オ ス 2 世 の艦隊 を破 っ た と い う 63。 つ ま り 、 ア ガ ト ス ト ラ ト スは、 プ ト レ マ イ オ ス朝 に対 す る戦勝 を記念 し て、 モニ ュ メ ン ト を奉献 し た ので あ る。 ロ ド ス人 に よ る モ ニ ュ メ ン ト の奉献 は、 ロ ド ス島だけ で は な く 、 エ ーゲ海全域に も
及 ん で い た よ う で あ る。 19世紀 に発見 さ れた、 いわ ゆ る 「 サモ ト ラ ケ のニ ケ」 は、 ロ ド ス人 の彫刻家 に よ っ て製作 さ れた と い う 説 が有力 視 さ れて い る が、 芳賀京 子氏 に よ る と、 紀元前201年 のロ ド ス と ア ッ タ ロ ス 1 世 に よ る、 フ イ リ ッ ポ ス 5 世 に対 す る勝 利 を記念 し て、 聖域 と し て も名高 い、 サモ ト ラ ケ に奉納 さ れた も ので あ る(54)。 ア ンテ イ ゴ ノ ス 2 世 と ロ ド ス人 に よ る、 戦艦や船首のモ ニ ュ メ ン ト の奉納 の事例か らは、 それぞれ、 勝利 を記念 し、 神々に対 し て謝意 を捧げ る だけではな く 、 対外的 な プ ロ パ ガ ン ダ と し て の機能 も 期待 さ れた点 が指摘 で き よ う 。 サモ ト ラ ケ や、 デ ロ スの よ う に、 全 ギ リ シ ア世界 か ら ひ と び と が集 ま る よ う な聖 域 に お い て、 戦艦 を奉納 す る 事 で、 戦勝 を広 く 知 ら し め る こ と が可能 と な るか ら で あ る。 以上 の事例は、 プ ト レ マイ オ ス 4 世の 「40の船」 が果 た し た役割 を考え る上 で、 重 要 な手 がか り と な ろ う 。 ラ フ イ ア に お け る戦勝後、 王 朝 の守護神 で あ る デ イ オ ニ ュ ソ ス を 意識 し た 模様が 「40の船」 の船体 に描 か れ、 プ ト レ マ イ オ ス朝 のセ レ ウ コ ス朝 に 対 す る戦勝 を 記念 す る モ ニ ュ メ ン ト と し て、 ア レ ク サ ン ド リ ア の港 に停泊 し て い た と 解釈す る こ と も可能 では な いだ ろ う か。 戦勝 のモ ニ ュ メ ン ト の設置場所 と し て、 ア レ ク サ ン ド リ ア の港は非常 に好都合 な場 所 で あ っ た。 そ れは、 ふた つ の点か ら 説明 で き よ う 。 ま ず、 ア レ ク サ ン ド リ ア の港は、 プ ト レ マイ オ ス朝の束地中海の領土や、 地中海世界か らの多 く の使節や商人 らに対 し、 ラ フ イ ア で の勝利 を 喧伝す る のに好 都合 な場所 で あ る と い う 点 で あ る。 も う ひ と つ は、 プ ト レ イ マ イ オ ス朝 の王朝祭祀 と の関連 が挙 げ ら れよ う 。 ア レ ク サ ン ド リ ア束部 の カ ノ ポ ス近郊 のゼ ピ ュ リ オ ン岬 には、 ア フ ロ デ イ テ の神域が存在 し た。 こ の神域には、 プ ト レ マイ オ ス 2 世の実姉 で王妃 のアル シノ エ 2 世の死後、 プ ト レ マ イ オ ス朝 の海軍提督 カ リ ク ラ テ スが、 ア ル シノ エ と ア フ ロ デ イ テ を同 定 し、 神 殿 を建 立 し た こ と が、 ポ セ イ デ イ ツポ ス と カ ッ リ マ コ ス の エ ピ グ ラ ムに よ っ て 伝 え ら れて い る60。 アル シノ エ 2 世は、 紀元前272 / 1 年 に、 テ オ イ ・ ア デル フ オス神 と し て神格 化 さ れ、 プ ト レ マイ オ ス王国内 の全神殿 にお いて礼拝が義務 づけ ら れた。 ア フ ロ デ イ テ が航海の守護神 と し て古 く か ら崇拝 を集めて いた と い う 事実や、 海軍提督 によ る王 妃 と の同定 と 崇拝、 プ ト レ マイ オ ス朝 に よ っ て新 た に同定 さ れた、 アル シノ エ ・ ア フ ロ デ イ テ は プ ト レ マ イ オ ス朝艦隊 の守 護神 と さ れた こ と を示 し て い る60。 ア フ ロ デ イ テ は プ ト レ マ イ オ ス朝以 前 か ら、 ギ リ シ ア人 に よ っ て、 エ ジ プ ト の女 神 イ シ ス と 同定 さ れて き た。 イ シ スは、 冥 界 の王 オ シ リ ス を夫 と し て い る が、 ギ リ シ ア 人 た ち は、 オ シ リ ス を デ イ オ ニ ュ ソ ス に同定 し て き た6n。 こ う し た神話上 の関連性 か ら、 デ イ オ ニ ュ ソ スの ア ト リ ビ ュ ー ト が描 か れた 「40の船」 が、 戦勝記念 のモ ニ ュ メ ン ト と し て、 ア ル シノ エ ・ ア フ ロ デ イ テ に奉納 さ れた と の解釈 が可能 で は な い だ ろ う
か o 「40の船」 は、 ア ン テ イ オ コ ス 3 世 の侵攻 に対 処 す る た め に建造 さ れた が、 ラ フ イ ア の戦 い後は、 そ の戦勝 を広 く 知 ら し め る モ ニ ュ メ ン ト と し て の役割 を果 た し た ので あ る。 同様 に、 プ ト レ マ イ オ ス朝 が、 ラ フ イ ア で の戦勝 を王国内外 に喧伝 し て い た こ と につ いて は、 他の史料か ら も 指摘 で き る。 エ ジ プ ト にお い ては、 メ ン フ イ スで のエ ジ プ ト 神官団 の決議 を布告 し た、 ヒ エ ロ グ リ フ、 デ モ テ イ ツク、 ギ リ シア語 の三言語 碑文 がそ の役割 を果 た し て い た 。 ギ リ シア語部分は欠損 し て い る が、 デ モ テ イ ツク 文字部分か ら、 ラ フ イ ア の戦 い の後、 プ ト レ マイ オ ス 4 世はセ レ ウ コ ス朝 の領内 に侵 入 し、 21 日間の軍事活動の後帰国 し たこ と が記 さ れ、 フ ァ ラ オの冠を身 に着けた プ ト レ マ イ オ ス 4 世が、 馬上 か ら槍 で敵 を追 う 姿が描かれて い る。 も う ひと つの史料は、 エ ー ゲ海の シプノ ス島か ら出土 し た奉献碑文 で あ る。 被顕彰 者 で あ る ぺ リ ゲネ スは、 市民 の前 で行 っ た 吹奏 を称 え ら れて い る が、 同 時 に、 彼は プ ト レ マ イ オ ス朝 の艦隊 の船長 で も あ り 、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世 の戦勝 の知 ら せ を シ プ ノ ス の市民 に も た ら し た と 記 さ れて い る 91。 シ プ ノ ス で ぺ リ ゲネ ス が果 た し た 役割 は、 プ ト レ マ イ オ ス朝 が ラ フ イ ア で の戦 勝 の 喧伝 を重 視 し て い た こ と を う か がわせ る。 こ の時期、 ア ン テ イ ゴ ノ ス朝 の フ イ リ ッ ポ ス 5 世が、 エ ー ゲ海や小 ア ジア に勢力 を拡大 し よ う と し て い た。 ラ フ イ ア の戦勝 を、 エ ー ゲ海 を は じ め と す る領土 や諸都市 に喧伝す る こ と に よ っ て、 プ ト レ マイ オ ス 4 世 は、 諸都市 の動揺 を収束 さ せ、 フ イ リ ッ ポ ス 5 世 と ア ンテ イ オ コ ス 3 世 を牽制 し よ う と し た ので あ る。 ラ フ イ ア の戦 いは第 4 次 シ リ ア戦争 にお いて、 プ ト レ マ イ オ ス朝 の勝利 を決定 づけ る戦 い で あ っ た。 す な わ ち、 ア ン テ イ オ コ ス 3 世 を撃退 す る だけ で は な く 、 そ の戦勝 を 喧伝 す る こ と に よ っ て、 ふ た た び プ ト レ マ イ オ ス朝 の勢威 を 印象 づ け た ので あ る。 「40の船」 には プ ト レ マ イ オ ス朝 の戦勝 を象徴す る役割が与 え ら れた ので あ る。 おわ り に 後継者戦争以降、 ヘ レニ ズム君主が競 って巨大戦艦 を建造す る状況は、 紀元前 3 世 紀の終わ り 頃ま で続いた。 し か し なが ら、 デメ ト リ オ スの 「15の船」、 「16の船」 を除 けば、 こ れ ら の巨大戦艦が、 実際の海戦 にお いて、 その威力 を発揮 し たか史料か ら読 み取 る こ と はで き な い。 む し ろ、 ア テ ナイ オ スが、 プ ト レ マ イ オ ス 2 世の艦隊 につ い て述べて い る よ う に、 こ う し た大型戦艦や艦隊の艦船は、 諸王朝の経済力 の象徴 と 見 な さ れ る べ き な のか も し れな い。 やがて、 紀元前 3 世紀の終わ り 頃に な る と、 ほ と ん どの艦隊は、 三段權船が主力 と
な り、 戦艦の小型化が確認 さ れる。 紀元前31年のア ク テ イ ウムの海戦で、 小型の三段 權船 か ら 構成 さ れた、 オ ク タ ウ イ ア ヌ ス の艦隊 が、 「 8 の船」 や 「 10の船」 を含 む ア ン ト ニ ウ スの艦隊 に勝利 を収 めた こ と は、 小型戦 艦 が艦隊 の主力 と な っ て い た こ と を 象 徴す る出来事 と い え よ う lf 01。 カ ッ リ ク セ イ ノ スの伝え る、 プ ト レ マ イ オ ス 4 世の 「40の船」 建艦は、 結果的 には こ う し た推移 に逆行 す る も ので あ る。 し か し な が ら、 「40の船」 の構造は、 プ ト レ マ イ オ ス 2 世の時代 に建造 さ れて い た 「20の船」 か ら な る双胴船 で あ り 、 プ ト レ マ イ オ ス朝の海軍政策の延長上 に位置づけ る こ と がで き よ う。 同時 に、 プ ト レ マイ オ ス 4 世に対 す る批判や、 彼の 「40の船」 建造 を、 それ以降 の プ ト レ マ イ オ ス朝 の混乱 に結 びつ け る 見方 は否定 さ れねば な ら な い。 「40の船」 の建 造は、 お そ ら く 、 以前か ら存在 し た 「20の船」 を改造 し た も ので あり、 木材資源や費 用 を浪 費 す る も ので は な か っ た。 む し ろ、 ア ンテ イ ゴノ ス 2 世やロ ド スによ る、 戦艦の奉納の事例か ら、 海軍戦力 と し て の戦艦以外 に、 ひ と つ のモ ニ ュ メ ン ト と し て の役割が重視 さ れ るべき で あ る。 戦 艦は、 ヘ レ ニ ズ ム時代 に お い て は、 勝利 の象徴 と さ れ る よ う に な っ た。 プル タ ル コ ス が記す よ う に、 「40の船」 が周囲 に威容 を与 え る こ と に成功 し たので あれば、 プ ト レ マ イ オ ス朝の束地中海 におけ る覇権の象徴 と し て一定 の機能 を果 た し て い た と い え よ う。 同時に、 外見か ら王朝の守護神で あ り、 プ ト レ マイ オ ス 4 世が熱心に信仰 し たデイ オニ ュ ソ ス を想起 さ せた こ と は、 プ ト レ マ イ オ ス朝の王権の象徴 と し て も解釈 で き よ う o
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註>
(1) Athen.V 203e-204d.(2) E.E.Rice, The Grand Procession of Ptolemy Philadelphus, Oxford, 1983, 164-171.
(3) カ ッ リ ク セ イ ノ ス の テ キ ス ト に お い て、 長 さ を示 す単 位は ペ ー キ ュ ス が用 い ら れて い る が、 メ ー ト ル単位への換算は、 チ ヤフ イ ンはヘ レ ニ ズム時代のエ ジ プ ト で採用 さ れた も の を使用
し てお り、 本稿にお いて も その基準 を採用 し た。 Christopher E. Chaffin, “The Tessarakonteres reconsidered”, Bulletin of the Institute of Cla sica1 Studies, 1991-1993, pp 213-229.
(4) Athen.V 204a-b. (5) Athen.V 204b-c.
(6) Athen.V 204c-d. 「40の船」 の船の進水 につ いては、 A.W. Sleeswyk, & F. Meijer, “Launching Phi1opator's Forty”, The Inteernat1ona1 Journa1 of Nautza1 Archaeology 23, 1994, pp.115-118.
(7) Plut.Demet 43.
(8) ポ リ ュ ビオ スは プ ト レ マ イ オ ス 4 世 が、 即位直後か ら対外政策 には関心 を持 たず、 怠惰 な生
活を繰 り 返 し て いた と 記 し て い る。 Polyb.v 34.3-11.
(9) Claire Preaux, “Polybe et Ptolemee Phi1opator”, Chronlque cl Eg;ypte 40, 1965, pp 364-375. ラ
フ イ アの戦 いの経過 につ いて は、 Polyb.v 79-87.
(10) Hans Hauben, “A Neglected Detail of Phi1opator 's Policy”, L 'Antiquite Classique 50, 1981,
pp398-403.
(11) Polyb.V 62.2-3.
(121 Wemer Huss, Untersuchungen zur Aussenpo1流k Ptolemaios ' I y, Munchen, 1976. (13) Wemer Huss, Agypten in he11enlstischer Zeit, M iinchen, 2001, S 469-470.
(14) Edouard Will, Histolre polilique du monde he11emstique, II, 2e ed., Nancy, 1982, pp 92-163. (15) E.Van' t Dack & H.Hauben, “L 'apport egyptien a l 'armee navale lagide”, H.M aehler und
V.Strocka (Hg ), Das ptolema lsche Aegypten. Akten des internalionalen Symposzons 27.-29. September tn 1976 tn Berlin, Berlin, 1978, pp 66-70; Rouse1 Meiggs, Tree and Timber tn the Ancient Mediterranean World, Oxford, 1982.
(16) Lionel Casson, Ships and Seamanship In the Anc ent World 1971, Princeton, 1971, pp 71-96. (17) Diod.XIV 41-42.
(19) Casson, op.cit., p lo t . な お、 三段擢船 の登場人員 で あ る が、 カ ッ ソ ンは、 ぎ手 と 船員 を合 わせて200人程度 と 見積 も っ て い る。
(19) J. Morisson, “The Greek Trireme”, The Mar iner 's M irror 27, 1941, pp.14-44. (20) Plut.Demet 43.
l21) Casson, op.czt., pp.106-107. (2a Casson, op.cit., pp.108-112. (231 Polyb.VIIL4.2-3. e Casson, op.czt., p 98; p i t2. (251 丹羽隆子 「 ヘ レニ ズム時代 におけ る巨大船 tessarakonnteres につ いて」 『地中海学研究』 第30 号、 2007年、 3-24頁。 (261 Pliny.NH.VII 207. (2'll Diod.XX 50.2-3. (281 Diod.XIX 62.8. カ ッ ソ ンは、 ア ンテ イ ゴノ ス ・ デメ ト リ オ ス側が、 す で に 「 10の船」 を 有 し て い な が ら、 サ ラ ミ ス で は そ れ を 使用 し な か っ た こ と に つ い て、 プ ト レ マ イ オ ス側 が、 最大 の戦艦で も 「 5 の船」 し か保有 し て いないため、 大型戦艦 を温存 し た と 述べて いる。 Casson, op.cit., p.137.
(29) M emnon 13 = F.Jacoby, Fragmente der gr techischen H istoriker, Berlin, 1923-58, Nr 434.8.5.
シマ コ スは デメ ト リ オ ス と 敵対 し て い た が、 その戦 艦 が大 き さ に も かかわ ら ず、 美 観 と 戦聞 力 を示 し て いた こ と か ら、 デメ ト リ オ スに対 し て、 戦艦 を見せて く れる よ う 依頼 し た と い う。
Plut.Demet 20.
(31) E.Van't Dack & H.Hauben, op.cit. pp 74-75. e21 Athen.V 203c-e.
(331 W.Dittenberger, 0 rientis Gr aeci Inscr iptiones Selectae, (以下、 0 GIS と 略記) I, Leipzig, 1903,
No39.
e T.BM itford, “The Hellenistic Inscriptions of Old Paphos”, The Annua1 of Br itish School at Athens, 56, 1961, p 9; Hauben, “Cyprus and the Ptolemaic Navy”, Reports of the Department
of Antiquities ( yprus 1987, 1987, p 221.
e Sammelbuch g lechischerUrkund,en aus Agypten, VI, Nr 9215.
e61 P.M.Frser & H.Robert, “A New Letter of Apo11onius”, Chronlque d Egypt 47, 1949, pp 289-294.
o デロ スで は、 紀元前279年以降、 プ ト レ マ イ オ ス 2 世 に よ る奉献や、 プ ト レ マ イ オ ス朝 に対
す る君主礼拝は確認 さ れて いない。 紀元前250 / 249年 には、 君主礼拝で あ る プ ト レ マイ エ イ
ア祭 が開 催 さ れて い る こ と か ら、 プ ト レ マ イ オ ス朝 がエ ー ゲ海 域の覇 権 を奪回 し た のは こ の
前後の時期で あ る。 Inscriptions de Da os, m , Paris, N°.298A, 71-76. e8 Polyb.XVI 2-8.
(391 Livy.XXXVIL23.4-5. lO) Livy.XLV 35.3.
l41) Polyb.V 60.
laa Huss, op.cit. S 506-523.
I 3 プ ト レ マ イ オ ス朝 のデ イ オニ ュ ソ ス崇拝 につ いて は、 拙稿 「前 3 世紀 の プ ト レ マ イ オ ス朝 と テ オ イ ・ エ ピ フ アネ ー スー プ ト レ マ イ オ ス王 朝 に お け る デ イ オ ニ ユ ソ ス崇 拝 の変 遷一」 『歴 史家協会年報』 第 5 号、 2009年、 18 32頁を参照のこ と。 l 拙稿前掲論文、 23 25頁。 l Chaffin, op.cit., p 228. I 61 H. ジ ヤンメ ール (小林真紀子 ・ 福田素子 ・ 松村一男 ・ 前田寿彦訳) 『デイオニ ュ ー ソ ス バ ツ コ ス崇拝の歴史 』、 言叢社、 1991年、 95 102頁。
Ia Tassignon, Isabelle, “Dionysos et les Katagogies d' Asie mineure”, AM otte (ed), D ieuxl, fetes,
sacre dan ta Greco et la Roma antiques”, Paris, 2003, pp 81-99. I 81 Thucy.II 84.
1a9l W.K.Prichett, The Greek State at War, vol.4, 1979, pp 279-284.
l501 Athen.V 209e.
l51) Ellen Rice, “Te Glorious dead: Commemoration of the fallen and portrayal of victory in the late classical and hellenistic World”, J.Rich & G.Shipley (eds ), War and Socle tn the Gr eek
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l5a Chr. Blinkenberg, Lzndos. II, Inscriptions, Copenhagen, 1941, no.1 301-313. l531 Polyaen.V.18.
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l561 L.Robert, “Sur un decret d' Ilion et sur un papyrus cocemant des cultes royaux”, Essays in
Honor of CBradf(ord Welles, New Haven, 1966, pp.175-211; H.Hauben, “Arsinoe II et la
politique exterieure de l Egypte”, E. Van' t Dack (ed ) Egypt tn He11enlstlc W◆,orld, Leuven, 1983,
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l5 Herod.IL42.2;11.144.2.
l581 0 (JIS 89; H.-J.Thissen, Studien zum Raphiadekret, Meisenheim am Gian, 1966, S.10-25. なお、
デモ テ イ ツク 部分 につ い て は、 テ イ ツセ ンに よ る ド イ ツ語訳 を 参照 し た。
l59) Inscr iptiones Graecae XIL481.5-9.