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濱口梧陵と海を渡った先駆者たち

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Academic year: 2021

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(1)

〈研究ノート〉

濱口梧陵

った

先駆者

たち

 

 

 

一、   はじめに 安政元年 ︵一八五四︶ の 津波 から 村人 を 救済 したという 美談 によって 小泉八雲 ︵ ラフカディオ ・ ハーン ︶に ﹁生神﹂ と 称賛 さ れ た 濱口梧陵 ︵ 一八二〇 ~ 一八八五 ︶︒ そ の 人命救助 の 功績 は ︑﹁ 津波防災 ﹂ の 手本 と し て 戦前 の 国語読本 に 掲載 さ れ た ﹁ 稲 む ら の 火 ﹂︵ 中井常蔵氏作 ︶の 主人公 で あ る ﹁ 五兵衛 ﹂ を 通 し て 現在 も 語 り 継 が れ て い る ︒ し か し ︑ 梧 陵 の 社会貢献 は 多 くの 人 が 知 る 防災 に 限定 されたものではない ︒生誕二百年 を 二〇二〇年 に 控 え ︑本稿 では ︑杉村 楚人冠 によって 著 された ﹃濱口梧陵 伝 (( ( ﹄︵以後︑ ﹃梧陵伝﹄ とする ︶では 殆 ど 語 られていない 梧陵 と 共 に 渡米 した 人物 や 梧陵 の 渡米 を 支援 した 現地 の 領事 などを 紹介 することで ︑梧陵 の 果 たそうとした 日本 の 近代化 について 考 えてみ たい ︒

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二、   開国前後の海運と産業の推移 二〇一九年七月 ︑ 商業捕鯨 が 三十一年 ぶ り に 再開 さ れ た ︒歴史的 に は ︑ 梧陵 の 生誕地 で あ る 紀州 の 広村 ︵ 現在 の 和 歌山県広川町 ︶出身 の 先人 も ︑ 五島列島 の 有川湾 で 捕鯨 が 盛 ん に な る き っ か け を 作 っ た と も 言 え る よ う だ (( ( ︒ ま た ︑ 南 房総 の 和田浦 も 捕鯨 に 関 わ っ て き た が ︑ そ の ル ー ツ は 南房総 と の 地名 の 共通性 か ら も 紀州 と の 関 わ り が 想像 で き る (( ( ︒ ﹃銚子木国会史﹄ の 序章﹁紀州人 と 初代漁業﹂ には ︑應承二年 ︵一六五三︶ に 紀州 の 青野五右衛門 なる 者 が 漁夫多数 を 引 き 連 れて 来 て 鰹鯨 などの 漁 をしたことが 記 されている ︒ その 後︑慣例 となっていた ﹁春来 て ︑秋帰 る ﹂ という 漁 の 生活 から ︑正保二年 ︵一六四六︶ に 梧陵 の 先祖 が 銚子 で 醬油醸造 を 始 め ︑明暦二年 ︵一六五六︶ に 外川 の 築港 を 崎 山治郎右衛門 が 始 めたことで ︑広村 から 銚子 への 移住 が 始 まることになる ︒ 十八世紀後半 には 欧米 でも ︑鯨油 は 蠟燭 の 原料︑灯油︑機械油 ︵特 に ︑船 の 燃料︶ として ︑最 も 重要 な 燃料資源︑ 生 活 物 資 で あ っ た こ と が 知 ら れ て い る ︒ そ し て ︑ そ の 状 況 は ︑一 八 五 九 年 八 月 に エ ド ウ ィ ン ・ ド レ イ ク︵ Edwin‌ Drake ︶に よ っ て ペ ン シ ル バ ニ ア 州 で 石油 が 発見 さ れ る (( ( ま で 続 く の で あ る ︒中濱萬次郎 を 救助 し た ジ ョ ン ・ ホ ー ラ ン ド 号 のホイットフィールド 船長 の 出身地 マサチューセッツ 州 フェアヘブンなどからも 大型捕鯨船 で 良質 の 鯨油 を 産 することで 知 られるマッコウ 鯨 を 追 ってアメリカ 人 が 常陸︑三陸沖 まで 漁 に 来 ることになったのが 一八二〇年代以 降 と 言 われ る (( ( ︒ アメリカの 捕鯨船 は 母港 を 出 てから 漁 を 終 えて 帰港 するまで 三︑四年 を 要 したことを 考 えれば ︑ ペ リー 提督 が 来航 し 捕鯨船 の 補給基地 として 日本 に 開国 を 要求 したことも 理解出来 る ︒ では ︑当時 の 横浜 から 桑港 ︵ サンフランシスコ ︶までの 航行時間 はどのくらいだったのだろうか ︒梧陵 より 一船早 く 渡米 ︵一八八四年五月十三日 サンフランシスコ 着︶ した 陸奥宗光 と 紀州 からの 留学 生 (( ( が 乗船 したのが ﹁ オーシャニ

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ッ ク ﹂ 号 で あ る ︒ ま た ︑ 明治九年 ︵ 一八七六 ︶に は ︑ 佐藤百太 郎 (( ( が 募集 し た ﹁ 米国商法実習生 ﹂︵ こ の 一団 は ︑﹁ オ ー シ ャニック ・ グループ ﹂ と 呼 ばれた ︶を 乗 せた ﹁ オーシャニック ﹂号 が 樹立 した 最短記録 についての 記事 があ る (( ( ︒ 掲 載 さ れ た 記 事 に よ れ ば ︑﹁ オ ー シ ャ ニ ッ ク ﹂号 の 航 海 は 十 四 日 と 十 四 時 間 二 十 分 を 要 し た と さ れ る ︒ そ れ ま で ﹁︵ シティ ・ オブ ・︶ ペキン ﹂号 が 持 っていた 記録 ︵十五日 と 十二時間︶ を 破 ったのであるが ︑数 ヶ 月前 の 同紙 の 記事 にも 横浜 からの 航行時間 の 記録 が 記事 にされていることから ︑各船会社或 は 船員 の 間 では 最短航行時間 の 競争 が 激 化 していたと 思 われる ︒梧陵 らが 乗船 した ﹁︵ シティ ・ オブ ・︶ トウキョー ﹂号︑ ﹁ ペキン ﹂号︑ ﹁ オーシャニック ﹂ 号 の 船脚 では ︑将来的 には 十三日 も 可能 と 記事 は 結 んでいる ︒ 梧陵 の 親友 である 勝海舟 と 福澤諭吉 が 咸臨丸 で 浦賀 を 出帆 してサンフランシスコに 到着 するまでに 要 した 日数 が 三十七日 であったことを 考 えると ︑蒸気船 の 登場 が 如何 に 海外 との 距離 を 縮 めたのかが 分 かる ︒航海術 や 測量技術 の 向上 もあり ︑海運 の 安全性 も 高 まったとはいえ ︑ まだまだ 危険 を 伴 う 航海 であったはずだが ︑何 も 梧陵 の 海外視 察 という 熱 い 想 いを 止 めることはできなった ︒ 三、   濱口梧陵一行のアメリカ到着 筆者 は 以前 から ︑ アメリカに 残 された 梧陵 の 足跡 を 探 していたのだが ︑ ようやく 梧陵 の 一行 がサンフランシスコ に 到着 したことを 伝 える 記事 が 見 つかった ︒ たまたま ︑梧陵 と 交流 のあった 陸奥宗光 のハワイでの 療 養 (( ( などに 関 し て 調査 し て い た 折 ︑ Daily‌Alta‌Californi a ((1 ( と い う 現地 の 新聞 の 一八八四年六月十七日付 に ︑ 次 の よ う な 短 い 記事 が 掲 載 されているのを 発見 した ︒

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﹃梧陵伝﹄ に 書 かれている 人物 と 対比 して 記事 を 訳 せば 次 のようになる ︒   ︵私訳︶ 藤島正健 フランス 在 リオン 領事 は ︑昨日 の 横浜 からの 汽船﹁ シィ ・ オブ ・ トウキョー ﹂号 で 到着 した ︒ 同氏 と 共 に 到着 した 九名 は ︑ とても立派な日本人紳士 である 濱口梧陵氏 と 世界一周巡察 を 目的 とする 一行 であ る ︒特 に ︑文明開化 の 進 んだ 西洋諸国 で 見聞 したことが ︑日本 に 適用 できればとの 思 いである ︒一行 は ︑一週 間 ほど 桑港市内 に 滞在 し ︑ ワシントンに 赴 き ︑ その 後 はヨーロッパに 渡航 の 予定 である ︒ また ︑同紙 の 前日 ︵現地時間六月十六日︶ 付 けの 記事 には ︑ パレスホテ ル ((( ( に 宿泊 する 一行 の 名前 が 確認 できる ︒日   M. Fujishima, Japanese Consul at Lyons,

France, arrived yesterday from Yokohama, by the

steamship City of Tokio. Accompanying him is a

party of nine, including

a very intelligent Japanese

gentleman , Mr. G. Hamaguchi, and attendants,

who is on a tour around the world for the purpose

of seeing Western forms of civilization, and es

-pecially observing their benefits as applicable to

Japan. They intend passing about a week in this

city, and will proceed thence to Washington and to Europe.

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本人名 ということもありスペルの 間違 いが 多 いが ︑新聞 に 掲載 された 乗船記録 と ﹃梧陵伝﹄ の 記述 と 照合 し ︑次 の 九名 であると 判断 できる ︒ 濱口梧陵 とその 給仕 ︵橋本佐助︑但 し 宿泊名簿 のイニシャルは K︶ ︑藤島正健︑熊崎寛良︑大倉喜八郎︑横山孫 一郎︑高島小金治︑金子彌平︑鍋倉直 また ︑天気予報欄 や 船舶関係 の 欄 に 記 された 情報 から ︑横浜 を 出港 してサンフランシスコ 到着 まで 十六日 と 十三 時間 の 船旅 であったこと ︑到着 した 現地 の 天候 は 晴 れであったことがわかる ︒ これが ︑梧陵 のアメリカ 到着 の 初日 だった ︒ 奇遇 なことだが ︑梧陵 が 乗船 した ﹁ トウキョー ﹂号 で ︑香港 から 乗船 した 中国人旅客 に 天然痘患者 が 出 ていたこ ともわかっている ︒東京大学医学部 の 前身 である ﹁西洋種痘所﹂再建 に 関 わった 梧陵 が 天然痘患者 と 乗船 すること に な っ た の も 偶然 な こ と な の か ︒ な お ︑ 天然痘 に 関 す る 知識 が あ っ た 為 か ︑ 日本人乗客 に 伝染 す る こ と は な か っ た ︒ また ︑発症 の 事実 を 隠 したとして ︑船長 が 逮捕 されている ︒ 以下 の 節 では ︑梧陵 の 渡米 に 同行 した 人々 の 足跡 について 整理 する ︒ 三 ― 一、   藤島正健 サンフランシスコ 到着 を 伝 える 記事 の 冒頭 に 名前 が 記 されている 藤島正健 については ︑複数 の 国立公文書館 デジ タ ル ア ー カ イ ブ︵ 以後 ︑﹁ 国立公文書館 ﹂︶ で 公開 さ れ て い る 公文書 ︵﹁ 仏国 リ ヲ ン 府 ︑ 領事官派遣之義上申 ﹂︑ 1‌ 8‌ 8‌ 4

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年 1月︑ ﹁仏国 リヲン 府 ヘ 領事官派遣 ノ 件﹂ ︑﹃公文録・明治十七年・第二十巻・明治十七年一月~四月・外務省﹄ ︑ 国立公文書館︑請求番号:公 0‌ 3‌ 6‌ 8‌ 4‌ 1‌ 0‌ 0︑九下︶ などから 次 のようなことが 確認 できる ︒ 先 ず ︑ フランスのリヨン ︵里昴︶ 領事館 への 赴任 が 決 まる 前 の 明治十七年二月十六日 に 大蔵卿松方正義 によって 藤 島 の 京都 ︑ 大阪及 び 九州 で の 任 を 解 く 公文書 ﹁ 権大書記官藤島正健京坂 ヨ リ 帰京 の 件 ﹂︵ 1‌ 8‌ 8‌ 4年 2月 ︑﹃ 公文録 ・ 明 治 十 七 年・第 二 百 十 五 巻・明 治 十 七 年 二 月・官 吏 雑 件 一︵太 政 官 ~ 海 軍 省︶ ﹄︑国 立 公 文 書 館︑請 求 番 号: 0‌ 3‌ 8‌ 7‌ 9‌ 1‌ 0‌ 0︶か ら ︑ 大蔵権大書記官 と い う 役職 に あ っ た こ と が わ か る ︒ そ の 後 ︑ 同年四月 に 入 り ︑ リ ヨ ン 在住 領事 の 派遣 に 関 する 公文書 が 重 ねて 発行 されるが ︑ その 公文書 には 着任 する 人物 の 名前 は 記 されていない ︒ それら の 公文書 の 内容 から ︑給与 などを 決定 してから 派遣 する 人物 を 選 ぶ 形式 をとったようだ ︒ 藤島 が 特別 な 人物 ︵ 明治十四年 に は 製紙研究 や フ ラ ン ス の 万博 の 視察 で 欧米諸国 に 派遣 さ れ て い る ︶で あ っ た の か ︑ 或 い は フ ラ ン ス の 為政者 に 贈 る 親書 を 託 さ れ た の か も し れ な い が ︑ 明治十七年 ︵ 一八八四 ︶四月十五日付 の 公文書 ﹁ 外 務 省 上 申 領 事 藤 島 正 健 佛 国 里 昴 府 在 勤 ニ 付 御 委 任 状 御 下 付 之 事﹂ ︵ 1‌ 8‌ 8‌ 4年 1月︑ ﹁領 事 藤 島 正 健 へ 御 委 任 状 下 付 ノ 件﹂ ︑﹃公 文 録・明 治 十 七 年・第 二 十 巻・明 治 十 七 年 一 月 ~ 四 月・外 務 省﹄ ︑国 立 公 文 書 館︑請 求 番 号:公 0‌ 3‌ 6‌ 8‌ 4‌ 1‌ 0‌ 0︶には ﹁国璽﹂ という 文字 が 書 かれた 次 のものが 付 けられている ︒ 天佑 ヲ 保有 シ 萬世一系 ノ 帝祚 ヲ 践 タル 日本國皇帝此書 ヲ 見 ル 有衆 に 宣示 ス 朕仏蘭西國里昴府 ニ 領事 を 在留 セシ ムルコトヲ 必要 ト 慮 リ 茲 ニ 藤島正健 ノ 勉強誠實 ナルヲ 親愛 シ 里昴府領事 ニ 任 ス 即 チ 両國 ノ 條約 ニ 従 ヒ 其地 ニ 到 ル 我國臣民 ノ 権利及商舶貨財貿易等 ヲ 保護 スルノ 権 ヲ 授与 ス 宜 ク 朕 カ︵意︶ ヲ 體 シ 其地 ニ 到 レル 我國臣民 ニ 諭告 シ 此命令 ヲ 尊奉 セシムヘキヲ 命 ス 故 ニ 佛蘭西國大統領及官民等藤島正健 ノ 領事 タルコトヲ 承允至當 ノ 需 ヲ 為 サ ハ 之 ニ 輔助 ヲ 与 ヘラレンコトヲ 冀望 ス

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神武天皇即位紀元二千五百四十四年 明治十七年四月廿二日東京宮中 ニ 於 テ 親 ラ 名 ヲ 署 シ 璽 ヲ 鈐 セシム     御名   国璽         奉勅   外務卿 帰任後 の 活躍 に つ い て は 殆 ど 情報 が な い が ︑ ハ ワ イ で 発行 さ れ て い た ﹃ や ま と 新聞 ﹄︵ 一九〇六年九月十五日付 ︶に は ︑南米 チリの 鉱山 の 視察 に 赴 いていたことを 伝 える 記事 が 掲載 されている ︒ 三 ― 二、   熊崎寛良 外務大臣伯伊藤博文 によって 記 された 明治廿年 ︵一八八七︶ 十月十九日付公文書﹁外務属熊崎寛良外一名交際官試 補 ニ 被任 ノ 件﹂ ︵ 1‌ 8‌ 8‌ 7年 10月 21日︑ ﹃公文録・明治十七年・第二十巻・明治十七年一月~四月・外務省﹄ ︑国立公 文書館︑請求番号:任A 0‌ 0‌ 1‌ 2‌ 8‌ 1‌ 0‌ 0︶に 付 けられた 履歴書 から ︑次 のようなことが 確認 できた ︒ 愛媛 の 宇和島 の 出身 で ︑翻訳掛別席 として 明治五年 ︵一八七二︶ 外務省 に 入省 し ︑明治十年八月 には 佛國公使館付 書記一等見習 を 申 し 付 けられる ︒明治十二年十二月 には ︑佛國巴里公使館在勤 した ︒ また ︑明治十七年四月九日付 けで ﹁佛國里昴府領事館在勤申付候﹂ ︵年棒美貨四百磅 とある ︶という 記述 があり ︑五月三十日赴任 とあることから ︑ 藤島正健 と 共 に 現地 への 赴任 の 途 にあったと 考 えられる ︵明治十九年七月二日帰朝︶ ︒

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三 ― 三、   大倉喜八郎 乗船者 の 中 で 最 も 著名 な 人物 は ︑ 明治六年 ︵ 一八七三 ︶に 大倉組 と い う 商社 を 創業 し た 大倉喜八郎 だ ろ う ︒大倉 は ︑ 大倉組創業前 の 明治五年 からほぼ 一年半 をかけて ︑商況 を 知 る 為 の 欧米視察 を 行 っている ︒興味深 いことに ︑時 を 同 じくして 岩倉遺外使節団一向 もヨーロッパに 滞在 しており ︑大久保利通︑木戸孝允︑伊藤博文 など 明治政府 の 要 人 と 出会 うことになる ︒大倉自身 が 述 した ﹃努力﹄ には ︑次 のような 面白 いエピソード ︵筆者要約︶ が 紹介 されてい る ︒ 木戸孝允氏︑中井弘 氏 ((1 ( と 英国︑仏国 を 経 て 伊太利 へ 旅行 したが ︑巴里 から 羅馬 まで 実 に 面白 い 旅行 が 出来 た ︒ 羅馬 では 有名 なコンスタンチホテルに 宿 をとったが ︑丁度岩倉大使 の 一行 も 泊 まっていて ︑中井氏 と 二人 で 尋 ねた ︒正午︑大使 の 一行 が 午餐 を 食 べようとしていた ︒岩倉 が 上席 で 日本 の 文武官 や 外国 の 紳士達 が 綺羅星 の 如 く に 並 ん で 食 卓 を 囲 ん で い た ︒私 と 中 井 氏 が 入 っ て 行 く と ︑﹁ ど う だ ︑一 緒 に 食 事 を し よ う ﹂ と 言 わ れ ま し た ︒ が ︑食堂 は 一杯 で ︑着席 する 所 もない ︒ その 時伊藤 ︵博文︶ 副使 は ﹁此処 へおいで ﹂ と ︑直 ぐ 自身 と 岩倉 との 間 を あ け ら れ た ︒中井氏 は 岩倉 の 隣席 へ 掛 け ︑ 私 に も そ の 側 へ と 言 わ れ た が ︑ 余 り 上席 で あ る か ら 御辞退 す る と ︑ ﹁ ナ ニ 構 わ な い ︑ 外 に 席 が な い か ら 此処 が よ い ﹂ と 言 わ れ る の で ︑﹁ そ れ で は 旅行中 の 事故御免 を 蒙 り ま す ﹂ と 私 もそこに 着席 した ︒末席 の 方 にいた 連中 は 妙 な 顔 をして ︑頻 りに 何 かブツブツ 言 っている ︒私 が 商人 であり ながら 上席 へ 着 いたのを ︑無礼 だとか 呍 ぼしていた ︒私 は 聞 こえぬ 振 りをして 黙 っていると ︑中井氏 がとうと

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う 怒 り 出 し て 一切構 わ ず 遂 に や り 出 し た ︒﹁ 見渡 す 所 ︑ こ の 席上 に い る 方 々 は 歴代 の お 役人様 ば か り ︑ お 役人様 は 皆大層 な 月給 を 取 り ︑ そ の 上日当 だ の 手当 て な ど を 貰 い ︑ 旅費 ま で も 頂戴 し て 威張 っ て 洋行 し て お ら れ る が ︑ 私 の 側 にいる 町人 は ︑自分 が 粒々辛苦 で 稼 いだ 金 で 洋行 しておられる ︒元 より 月給 もなければ ︑日当 をも 貰 わ ない ︑自腹 を 切 って 迄 も 我 が 国 に 尽 くそうという ︑立派 な 精神 を 抱 いておられるのです ﹂ これで ︑食堂 のお 役人 を 黙 らせてしまったという ︒ この 話 を 後日聞 いた 木戸 も ﹁随分面白 かったでしょう ﹂ と 笑 い 飛 ばしたというぐらい 当時 の 官民 の 風通 しは 良 かったのだろう ︒ 大倉 はこの 欧米視察 から 帰国後︑前述 にあるような 政府要人 との 人脈 を 生 かし ︑明治政府各省 への 物品 を 納入 す る 商権 を 得 る ︒ その 為 に 設立 したのが 大倉組商会 で ︑ その 出資者 の 一人 が ﹁ トウキョー ﹂号 の 乗船者 の 横山孫一郎 であった ︒ 広 く 知 られているように ︑大倉 が 創立 し 今 なお 残 っている 企業 には 大成建設︑ サッポロビール ︑帝国 ホテル ︑帝 国 劇 場︑日 清 オ イ リ オ な ど が あ る ︒ し か し ︑筆 者 が ︑大 倉 に 梧 陵 に 通 じ る 想 い を 感 じ る の は ︑明 治 三 十 年︵一 八 九 七 ︶に ︑ 当時 の 赤坂葵町 ︵ 現在 の 虎 ノ 門 ﹁ ホ テ ル オ ー ク ラ ﹂ 隣接地 ︶に 大倉商業学校 ︵ 現東京経済大学 ︶を 創立 し た こ と で あ る ︒﹁ 耐久社 ﹂ を 開 い た 梧陵 と 同 じ よ う に ︑ 教育機関 を 創立 し て 教育 の 普及 に 努 め ︑ 現在 で も 後進 の 道標 と な っ ている ︒ 三 ― 四、   横山孫一郎 大倉組商会創立 に 副頭取 として 大倉喜八郎 を 支 えたのが ︑ ホテルオークラで 支配人 を 務 めた 横山孫一郎 である ︒

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横山 は ︑上野国 ︵群馬県︶ 邑楽郡川俣村 の 出身 で ︑祖父 と 養父 は 土木事業 に 従事 していた ︒奇遇 なことだが ︑梧陵 に ついて 初 めて 記 された ﹁濱口梧陵君伝﹂ が 収 められている 瀬川光 行 ((1 ( 編﹃商海英傑伝﹄ には ﹁横山孫一郎君伝﹂ も 収 められている ︒ その 伝記 によれば ︑養父 が 横浜開港 の 土木事業 に 関 わることになり ︑外国語 の 習得 が 必要 であることを 痛感 し ︑ 品川忠 道 ((1 ( という 人物 から 外国語 を 習 うことになる ︒ シーボル ト ((1 ( が 横浜 に 来 た 時 には ︑当時 の 英国公使館 に 要請 して 日当銀一歩 で 通弁官 として 勤 めている ︒明治四年︑ その 評判 が 井上馨大蔵大輔 に 伝 わり ︑官僚 の 道 に 進 むこともで きたが ︑実業家 としての 道 を 選 んだ ︒明治五年︑政府 の 勧 めで 当時 の 大富豪 である 三井家 と 小野家 の 子弟 が 海外留 学 しようとした 時 に ︑小野家 に 請 われて 子弟 に 随行 することになり ︑明治六年︑開催 されていたオーストリア ・ ウ ィーン 万博 を 視察 する 機会 も 得 たが ︑時 を 同 じくして 欧州視察 に 来 ていた 大倉 がスイスの 宿泊先 まで 訪 ねてきた ︒ この 時︑二人 は 日本経済 の 発展 について 語 り 合 い 意気投合 したという ︒ 外務省 のホームページにある ﹁外交史料館﹂ には ︑明治十一年 ︵一八七八︶ に 吉田正春 が 特使 として 選 ばれた 使節 団 の 一員 として 横山 はイランとペルシャを 訪問 していることが 記 されてい る ((1 ( ︒当時 は ︑石油 の 採掘 はアメリカ 国内 を 中心 として 行 われていたが ︑ これを 嫌 った 西欧諸国 が 世界各国 で 石油 を 探 し 始 めた ︒一九二〇年代 に 入 ると 中東 に 膨大 な 石油 が 眠 っていることが 明 らかになるが ︑ その 中心 はイランとイラクであっ た ((1 ( ︒ 三 ― 五、   高島小金治 通訳 として 梧陵 と 行動 を 共 にしていたのが 高島小金治 である ︒横山 と 共 に 大倉喜八郎 との 関係 が 強 かった 人物 で もある ︒ より 正確 には ︑梧陵 との 渡米 がきっかけとなり ︑大倉 からの 信望 を 受 けるようになる ︒

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﹃ ヤマサ 醬油店史﹄ には ︑梧陵 の 遺骸 と 共 に 一旦帰国 していた 高島 が 再 び 渡米 して ︑梧陵 が 滞米中 にウースター ソースを 参考 に 考案 した 醬油 を 原料 にしたソースの 販売 に 当 たったとの 記述 がある ︒ また ︑現地 での 壜詰 め 作業 に は ︑若 き 日 の 武藤山治 ︵鐘紡社長︶ ︑和田豊治 ︵富士紡績︶ 等 が 留学生 アルバイトとして 働 いていたよう だ ((1 ( ︵武藤氏 が ︑ 報知新聞社長 と し て 広告主 で あ る ヤ マ サ を 訪 れ た 時 に 話 し た と さ れ る ︶︒当時施行 さ れ た 特許法 に よ っ て 新味醬油 と し て 特 許 第 五 三 号 に 登 録 さ れ ︑日 本 最 初 の ソ ー ス と し て 業 界 に 先 駆 け た 栄 誉 を 担 っ た が ︑梧 陵 と 梧 荘︵八 代 目 儀 兵 衛 ︶の 相次 い で の 死没 に よ っ て ︑ そ の 製造及 び 輸出共 に 挫折中断 し た と も 記 さ れ て い る ︒帰国後 ︑ 大倉組 に 入 り ︑ 大 倉 の 三女 つると 結婚 する ︒ 三 ― 六、   金子彌平 ﹃梧陵伝﹄ で 渡米 した 梧陵 のことを 談話形式 で 伝 えているのは ︑大蔵省御用掛 として ﹁ トウキョー ﹂号 で 赴任 し た 金子彌平 である ︒嘗 て 和歌山県会議事堂構内 の 一角 に 建立 された 梧陵 の 像蔵 の 揮毫 をした 大蔵卿松方正義 ︵﹃梧陵 伝 ﹄ で は ︑ 梧陵 と 共 に 渡米 し た こ と に な っ て い る が ︑ 乗船及 び 宿泊名簿 に は 松方 の 名前 は 確認 で き な い ︶に よ る 明治 十七年五月九日付 ﹁ 金子彌平外國行従者召連 ノ 儀伺 ﹂︵ 1‌ 8‌ 8‌ 4年 5月 ︑﹁ 御用掛金子彌平米国紐育 ヘ 出張 ニ 付従者召 連 ノ 件 ﹂︑ ﹃ 公文録 ・ 明治十七年 ・ 第百九十一巻 ・ 明治十七年一月 ~ 六月 ・ 官吏進退 ︵ 大蔵省 ︶﹄ ︑ 国立公文書館 ︑ 請求 番号:公 0‌ 3‌ 8‌ 8‌ 3‌ 1‌ 0‌ 0︶から ︑十九歳七 ヶ 月 の 弟︵五男︶ 謹三 を 伴 っての 渡米 であったこともわかる ︒ ま た ︑﹁ 金子弥平紐育 ヘ 派出 ノ 義 ニ 付伺 ﹂︵ 1‌ 8‌ 8‌ 4年 1月 ︑﹁ 御用掛金子彌平米国紐育 ヘ 派遣 ノ 件 ﹂﹃ 公文録 ・ 明治 十 七 年・第 百 九 十 一 巻・明 治 十 七 年 一 月 ~ 六 月・官 吏 進 退︵大 蔵 省︶ ﹄︑国 立 公 文 書 館︑請 求 番 号:公 0‌ 3‌ 8‌ 5‌ 5‌ 1‌ 0‌ 0︶には ︑金子 の 渡航目的 が 次 のように 記 されている ︒

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横浜正金銀行 ヲシテ 取扱 ハシメ 候海外荷為替 ノ 義 ハ 近来正貨収得 ノ 急 ナルヨリ 追々上申候通 リ 漸次其取組高 モ 増加致 シ 就中米国紐育 へ 直輸出 スル 貨物 ハ 最 モ 多 ク 隋 テ 其金高 モ 亦一 ケ 年数百万圓 ノ 巨額 ニ 有之而 シテ 右等為 替荷物該地 へ 到達 ノ 上其取締方幷 ニ 為替金徴収等我領事一人 ニシテ 取扱来候得共其事務頗 ル 繁劇 ニ 渉 リ 一人 ニ テハ 手廻 リ 兼可申候就 テハ 今般當省准癸任御用掛金子弥平 ヲ 該地 へ 派出 セシメ 専 ラ 為替 ノ 取扱方 ヲ 助務 セシメ 申度 ト 存候間前同人該地 へ 出張 ノ 義至急御命令相成候様致度此段相伺候也     明治十七年三月十八日        大蔵卿松方正義         太政大臣三条實実殿 福澤 が 金子 に 宛 てた 書簡 などから ︑梧陵 の 渡米 の 世話 を 積極的 に 行 ったのが 同氏 であることがわかる ︒次 の 書 簡 ((1 ( から ︑渡米準備 として 小幡篤次 郎 (11 ( ︑森村市左衛 門 (1( ( などが 招集 されたと 考 えられる ︒ 明治十七年五月四日   金子彌平宛   ﹁益御清寧奉拝賀︒過日 も 一寸申上置候通 り ︑御出発 も 迫 り 候義 に 付而者本月七日 ︵午後四時 から 五時之間︶ 態 ト 御来光 を 願度︒客 ハ 小幡︑森村︑濱口等︑六︑七名之小集 ニ 御座候︒何卒御繰合御来車奉願候︒右御案内申 上︑御差支之有無︑乍御面倒御一報奉願候︒早々頓首︒     五月四日        福澤諭吉      金子彌平様   梧下﹂ また ︑横浜出港直前 の 五月二十七日 には ︑紐育 ︵ ニューヨーク ︶にあった 森村組 の 村井保 固 (11 ( と 米国留学中 の 長男一

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太郎 に 宛 てた 書 簡 (11 ( で 梧陵 の 渡米 を 知 らせている ︒ 明治十七年五月二十七日   村井保固宛   ﹁︵前文略︶ 今便 には 金子彌平大蔵省 の 御用 にて 渡米︑是 も 前年久 しく 弊宅 に 居 り ︑賤息共幼稚 の 時 より 知 る 者 なり ︒又濱口梧陵 と 申人︑是 は 紀州 の 豪家︑財産 も 澤山有之︑身 は 郷士 なれ 共︑明治 の 初年 には 旧紀藩 の 参事 をも 奉職 し ︑地方有名 の 人物︑小生 は 二十年来 の 相談︑ 立派なるゼントルメンなり ︒老士老 して 益盛︑今回洋 行 を 存立︑金子氏 と 同道 いたし 候 に 付 ては ︑何 れ 貴社 の 御約介可相成︑蒡以市太郎君豊君 へも 当地 にて 毎度御 目 に 掛 り ︑百事御依頼申候義︑必 ず 本社 より 御通知 も 可有之存候得共︑右 の 御含 を 以 て 御世話奉願候︒濱口氏 は 従者一名 ︵佐助 と 申 す 忠儀商人 なり ︶︑外 に 高島小金治︑書記 として 付属 いたし 候︒高島 も 兼 て 洋行 は 熱中所 望 の 処︑此度 こそ 幸 に 志 を 達 し 候次第︑濱口君 は 米国 にて 暑 を 過 ごし ︑秋涼 を 待 って 渡英︑之 を 根本 として 諸 国 を 巡視︑当冬 は 伊太利 に 居 て ︑夫 より 印度海帰朝︑大凡壹年間 の 漫遊︑或 は 遊 びごころが 好 ければ 今少 し 延 びても 不苦︑又或 は 面白 くなければ 早 く 帰 ると 申︑自由自在 なり ︒依 って 案 ずるに ︑米国滞留中 は 彼 のドクト ルシモン ズ (11 ( 氏杯︑日本 の 事情 を 知 らんとする 要 あれば ︑或 は 氏 を 東道之主人 として 米国 の 事情視察杯︑好方便 かとも 存候︒尚御考可被下候︒ い 才 ハは 本人御目 に 掛 りし 上︑尚高島氏 よりも 御相談可申上︑何分 にも 宣布奉 願候︒早々頓首︒ ﹂ この 書簡 にも ﹁二十年来 の 相談﹂ と 記 されているように ︑梧陵 の 長年待 ち 続 けた 海外視察 が 実現 することに 福澤 が 喜 び ︑自身 の 人脈 を 使 って 最大限 の 支援 していることがわかる ︒同日︑一太郎 に 宛 てた 書 簡 (11 ( は 次 の 通 りである ︒

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明治十七年五月二十七日   福沢一太郎宛   ﹁︵前文略︶ 今便 には 金子彌平氏渡米︑日本 の 事情詳 に 承知 あり 度︑又兼 て 貴様 の 知 る 浜口梧陵 ︵旧儀兵衛︶ 君 が 俄 に 思立︑高島小金次 ︵ ママ ︶付属 いたし 候︒何 れ 面会 の 義 に 可有之︑随分米国 も 日本人 にて 賑々数相成候事 ト 存候︒右要用而己︒早々以上︒     五月廿七日         諭吉         一太郎殿 金子彌平氏之実弟金子勤三 ︵金蔵︶ モ ︑今便兄 と 同道 いたし 候︒年 ハ 二十一歳 なり ︒是 まて ︵ ママ ︶本塾 ニ 在 り ︒ 此程 ハ 何 れへか 転校 いたし 候哉︒手紙 を 送 るニ 者何 と 名当 して 宜 しきや ︑至急報道被致都度︒此度 ハ 森村組村 井 までさし 出置候間︑同組 より 届候義 ニ 可有之在候︒ ﹂ 幸 いなことに ︑筆者 は 金子彌平 の 弟︵四男︶ 友之助氏 の 曾孫 である 金子宗徳氏 からもいろいろと 資料 を 提供 して 頂 い た ︒﹃ 梧陵伝 ﹄ に も 書 か れ て い る よ う に ﹁ 支那通 ﹂︵ 英文 の 支那総論六冊 を 梧陵 に 紹介 し た と あ る (11 ( ︶で あ っ た 金子 は ︑ 梧陵 にとって 渡航中一番 の 話 し 相手 だったと 推測 される ︒ ニューヨークで 客死 することがなければ ︑言葉通 りイン ドから 中国 にも 足 を 延 ばしたのではないだろうか ︒ なお ︑金子 は 帰国後︑主税局酒税課 に 異動 し ︑正七位 に 叙 せら れ た ︒明治二十一年 ︵ 一八八八 ︶二月二十日 ︑ 宇佐美延枝 と 結婚 す る ︒和歌山藩士 ・ 宇佐美興栄 の 妹 で あ っ た 延枝 は ︑ 東京女子師範学校 ︵現 お 茶 の 水女子大学︶ を 卒業 した 後︑金沢 や 東京 ︵麻布英和女学校︶ で 和漢文 の 教鞭 を 執 った ︒ 余談 ではあるが ︑弟勤三 は 紐育在領事 であった 高橋新吉 の 薦 めもあり ︑ ペンシルバニア 州 ランカスターにあるフ ランクリン & マーシャル 大学 ︵ Franklin‌ &‌ Marshall‌ College ︶の 予科 に 籍 を 置 くことになる ︒金子彌平 が 帰国 した 後 も 同校 に 残 り ︑ 伝道者 の 道 を 選 ぶ ︒在学時 に 交友 を 深 め た W.‌ E.‌ ホ ー イ︵ William‌Edwin‌Hoy ︶と 押 川 方 義 が 創 立 し た

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仙台 の 神学校 ︵現東北学院大学︶ で 旧約学 の 教授 に 就任 することが 内定 していたのだが ︑ ヘブライ 語 などの 研究 の 為 に 帰国 を 延 ばすことになる ︒運悪 くして ︑肺 の 疾患 に 倒 れた 勤三 は 再 び 日本 の 地 を 踏 むことなく ︑ その 短 い 生涯 を 閉 じ た (11 ( ︒ 三 ― 七、   鍋倉   直 金子彌平 と 共 に 海 を 渡 ったのは ︑後 に 横浜正金銀行 サンフラ ンシスコ 支店長 となる 鍋倉直 である ︒金子 の 渡航目的 から 考 え て ︑同氏 の 任務遂行 の 為 のパートナーとしての 渡米 だったので はないだろうか ︒ 専門家 の 評価 は 酷 いが ︑銀行簿記 の 実践 と 隔絶 した 珍 しい 本 とされる ﹃国立銀行簿記一斑﹄ ︵明治十二年三月︶ を 著 している ︒ その 内容 から 簿記 の 本 としては 酷評 もされるが ︑渋沢栄一 が 序 文 を 記 していて ︑銀行簿記 の 専門家 というべき 藤尾録郎閲 とあ る こ と か ら 鍋倉 の 著書 の 存在 は 無視 で き な い よ う で あ る ︒ な お ︑ 日本 に 於 ける 西洋簿記学 の 最初 の 文献 は 福澤諭吉 によって 訳 さ れ た ﹃ 帳合之法 ﹄︵ 初篇明治六年六月刊 ︶で あ る ︒明治五年十月 に 大蔵省紙幣寮付書記官 として 招聘 された 英国 の 銀行家 シャンド ︵ Alexander‌ Allan‌ Shand ︶の 講述 を 底本 とした ﹃銀行簿記精法﹄ 帳合之法 (慶應義塾福澤研究センター所蔵)

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︵明治六年十二月刊︶ が 続 いて 刊行 される ︒ ﹃帳合之法﹄ は ︑ アメリカでチェーン 展開 されていた 商業学校六十校 ほどを 経営 していたブライアント & ストラ ッ ト ン 共著 の 学校用簿記教科書 ︵ Bryant‌and‌Stratton,‌Common‌School,‌Book-keeping ︶を 翻訳 し た も の で あ る ︒興味 深 い こ と に ︑ 福澤訳 の ﹃ 帳合之法 ﹄ を 教科書 と し て 使 っ た ﹁ 簿記 ﹂ と ﹁ 商業実践 ﹂ の 授業 を 行 っ た の は ︑ 初代文部大 臣森有礼 が 明治八年 ︵一八七五︶ に 銀座尾張町 に 開講 した 私塾商法講習所 であった ︒ そこには ︑教師 として ︑後 に 日 本銀行総裁 と な る 富田鉄之助 が 招聘 し た 自身 の 恩師 で あ る W.‌ C.‌ ホ イ ッ ト ニ ー︵ William‌Cogswell‌Whitney ︶が い た ︒ 四、   梧陵らに影響を与えた福澤諭吉の世界観 梧陵 が 渡米 する 前年 に 発行 された ﹃時事新報﹄ ︵明治十六年十月五日︶ に 次 のような 社説 が 掲載 されている ︒     ﹁内閣諸公 ノ 洋行 ヲ 望 ム ﹂   ︵ 前文略 ︶我内閣中已 ニ 海外 ニ 遊 ビ タ ル 人 ア リ 又未 ダ 之 ヲ 為 サ ル ゝ 人 ア リ 固 ヨ リ 其既遊 ト 未遊 ト ニ 依 テ 未 ダ 遽 ニ 其人物 ノ 如何 ヲ 評 スベカラズト 雖 モ 而 カモ 巳 ニ 久 シク 外国 ニ 在 テ 親 シク 文明 ノ 近況 ヲ 目撃 シタル 人 ト 足未 ダ 海 外 ノ 地 ヲ 踏 マザル 人 カ 仮令 ニ 之 ヲ 践 ムモ 爾来歳月既 ニ 久 シキ 者 トハ 文明 ノ 進行 ヲ 急 グノ 応 ニモ 自 カラ 感覚 ヲ 翼 ニスル 所 アルヲ 免 レザルベシ 果 タシテ 然 ラバ 特 ニ 欧米諸国 ヲ 巡遊 シテ 其実際 ヲ 視察 スルハ 随分緊要 ノ 事柄 アリ ト 云 テ 不可 ナカルベシ こ の 記事 は ︑ 福澤 が 特 に ﹁ 政治家 ﹂ に 対 し て 海外視察 の 重要性 を 訴 え た も の で あ る が ︑ 梧陵 が 渡米 す る 前後 に は ︑

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その 渡米推励論 は 一般 の 個人 に 向 けたものとなり ︑多 くの 留学生 が 海 を 渡 るようになる ︒ その 内容 は ︑今 で 云 うア メリカン ・ ドリームであり ︑民主主義・資本主義 への 期待 の 表 れでもある 社説 がその 後 も 続 いて 掲載 されている ︒ 一八八四年三月二十五日 の ﹁米国 は 志士 の 棲處 なり ﹂︑四月十六日 の ﹁富 を 作 るの 地 を 檡 む 可 し ﹂︑七月一日 の ﹁富 喜功名 は 親譲 りの 國 に 限 らず ﹂ が ︑ それらであ る (11 ( ︒ なお ︑廃藩置県前 の 和歌山藩 では ︑梧陵 ︵当時︑大広間席学習館知事︶ らによって 全国 に 先駆 けた 近代化 の 手始 め と し て 洋 学 所﹁共 立 学 舎﹂ ︵明 治 三 年 八 月 二 十 四 日 (11 ( ︶が 設 立 さ れ る な ど の 教 育 改 革 が 行 わ れ ︑ ま た プ ロ シ ア か ら カ ー ル ・ ケッペンを 招聘 しての 兵制改革 にも 乗 り 出 した ︒ しかし ︑福澤 の 招聘 に 失敗 したことで ﹁共立学舎﹂ は ︑梧陵 の 思 い 描 いた 使命 を 果 たさずに 幕 を 引 くことになる ︒梧陵 の 渡米 には ︑ このような 積年 の 思 いが 込 められていたの ではないだろうか ︒ 二〇一七年 ︑ 耐久高校 に 蔵書 さ れ た 四千冊 に 及 ぶ ﹁ 梧陵文庫 ﹂ の 整理作業 を 筆者 も 手伝 わ せ て 頂 く 機会 が あ っ た ︒ その 際︑ ﹁共立学舎﹂ で 使用 されていたと 考 えられる 慶應義塾読本﹃英文典﹄ という 英文法 の 初級本 が 見 つかった ︒ この 発見 からも ︑福澤 と 梧陵 の 英語教育 を 通 しての 想 いが 伝 わってく る (11 ( ︒日本 の 近代化 の 必要性 を 感 じていた 福澤 の 目 に は ︑ 西洋文物 の 輸入 が 喫緊 の 課題 と 映 っ て い た で あ ろ う ︒ そ の 任務 を 受 け た の が 門下生 の 早矢仕有 的 (1( ( で あ る ︒ 西洋 の 書籍︑薬品︑雑貨 などの 輸入 を 手 がける 丸屋 ︵丸善︶ が 横浜 に 開業 したことが 海外 から 知識 を 得 る 転換期 だっ たとも 言 えよう ︒ 五、   ニューヨーク領事   高橋新吉 残念 ながら ︑梧陵 の 世界一周巡察 の 旅 も 不治 の 病 の 為︑思 い 半 ばで 終 わりを 告 げることになる ︒梧陵 の 逝去 を 伝

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える ﹃時事新報﹄ の 記事 ︵明治十八年四月二十三日付︶ は 次 の 通 りである ︒ ○濱口梧陵氏   紀伊有田郡広村 の 豪農濱口梧陵氏 は 六十余歳 の 老齢 にも 似合 わず 精神 の 活発 なると 安政年度生 まれの 壮年輩 をも 愧死 せしむる 程 なりしが 去年五月急 に 世界一週 ︵ ママ ︶の 事 を 思立 ち 東京三田慶應義塾 の 高島 小金治氏 を 伴 い 先 ず 米国 サンフランシスコに 至 り 夏 の 間 は 専 ら 其地方 を 遊歴 し 秋 に 入 りて 東部諸州 を 巡 り 其間 重 もにニウヨーク 府 を 旅寓 の 本拠 と 致 し 居 たり 然 るに 前便在米国社友 の 許 より 本社 に 達 したる 三月十一日 ニウ ヨーク 府発 の 書中 に 濱口氏 は 過般来病気 にて 臥床 し 居 れり 格別 の 事 にはならざれども 老体 ゆえ 兎角用心肝要 な るべし 氏 は 全快 の 上予期 の 如 く 欧州 へ 赴 くつもりなれども 旅中過労 の 恐 れもあるゆえ 一先 ず 日本 へ 帰 る 方 よろ しからんと 忠告 し 置 きたりとあり 其後氏 の 留守宅 よりも 帰国 を 促 がす 書信 を 送 りたるよしに 伝聞志 ︵ ママ ︶たり しが 昨朝左 の 凶聞在 ニウヨーク 府 の 高橋領事 より 氏 の 留守宅 へ 達 したるよし 実 に 気 の 毒 なり     四月廿一日 ニウヨーク 発電報 濱口氏今朝死去遺骸 ハ 次 ノ 郵船 ニテ 送 ルベシ ﹃梧陵伝﹄ には ︑梧陵 の 滞米中 に ﹁百般 の 斡旋 をなし 居 たる ﹂人物 として ︑九鬼隆一特命全権大使 の 名前 が 記 さ れている ︒ しかし ︑九鬼 は 首都 ワシントンを 拠点 に 行動 をしていたことから ︑ ニューヨーク 滞在中 の 梧陵 らの 世話 を 実際 にしていたのは ︑記事 にあるように 梧陵 の 訃報 を 留守宅 に 伝 えた ﹁高橋領事﹂ であったと 考 えられる ︒ ﹁高橋領事﹂ こと ︑高橋新吉 に 関 して 知 る 人 は 殆 どいないのではないだろうか ︒筆者 は ︑次 のような 経歴 を 持 つ 高橋 に 最 も 興味 を 惹 かれた ︒ 慶応元年 ︵ 一八六五 ︶に は ︑﹃ 薩摩辞 書 (11 ( ﹄ と 呼 ば れ る 日本 で 最初 の 活版印刷 の 英和辞書 を 同郷 の 前田献吉 ︑ 前田正名

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兄弟 と 共 に 留学 の 費用 を 作 るために 編集 し ︑上海 で 出版 している ︒大正七年十一月三十日付 の 公文書﹁正五位勲二 等男爵高橋新吉特旨叙位 ノ 件﹂ ︵﹁男爵高橋新吉特旨叙位 ノ 件﹂ ︑﹃叙位裁可書・大正七年・叙位巻二十七﹄ ︑国立公文 書館︑叙 0‌ 0‌ 5‌ 7‌ 1‌ 1‌ 0‌ 0︶と 題 された 公文書 に 記 された 同氏 の 紹介文 によれば ︑﹁明治三年自費 ヲ 以 テ 海外留学申 付 ラレ 在留四年 ニシテ 帰朝﹂ とあり ︑ その 志 を 全 うしたことが 伺 え る (11 ( ︒ その 後︑当時 の 租税寮 に 出仕 したことを 皮 切 りに 官僚 として 活躍 した ︒ 実 は ︑梧陵 と 高橋 との 不思議 な 縁 を 感 じるのはニューヨークでの 客死 だけではない ︒小泉八雲 と 服部一三 の 運命 的 な 出会 い の 場 と な っ た ニ ュ ー オ ー リ ン ズ で 開催 さ れ た ﹁ 万国工業兼棉百年期博覧 会 (11 ( ﹂ へ の 参加 を 実現 さ せ た の は ︑ 高橋 の 本博賛同 を 勧説 する 複数 の 長文 の 書簡 ︵一八八四年一月二日付︑同年三月二十日付外務大輔吉田清成宛︶ であ ったとい う (11 ( ︒ また ︑帰国後 は 官僚 から 転 じて 九州鉄道会社長 として 十数年勤 め ︑貴族院議員 に 任 ぜられた 後︑明治三十二年 に は 日本勧業銀行頭取 と 華麗 な 転身 を 遂 げている ︒ 六、   日本の近代化と濱口家 滞米中 の 梧陵 の 行動 が わ か る 資料 は ︑﹃ 梧陵伝 ﹄ に も 引用 さ れ て い る が ︑ 明治十八年 ︵ 一八八五 ︶五月二十五日付 の ﹃交詢雑 誌 (11 ( ﹄ に 掲載 された 福澤 に 宛 てられた 書簡 しかない ︒ そのため ︑ ここからは 筆者 の 想像 を 含 めて 考察 する ︒ 梧陵 と 同 じ 船 に 乗船 した ﹁愉快 な 仲間﹂ は ︑仏国 リヨン 領事館 に 赴任 の 途 にある 官僚 と 日米貿易 を 円滑 に 進 める 為 に 紐育領事館 に 赴 いた 大蔵官僚或 は 為替取引 などの 知識 がある 銀行員 だったということになる ︒日本 における 産

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業 の 近代化 の 礎石 になったのは ︑国立銀 行 (11 ( の 創設 と 西欧文化 の 一環 としての 複式簿記方 を 会計制度 の 基盤 として 導 入 したことだったと 言 われるが ︑彼 らを 通 して 梧陵 は 日本 の 未来 を 見据 えていたのではないか ︒ しかし ︑梧陵 と 関 わった 人物 の 多 くが 後進 の 為 の 教育機関 を 創設 していることからも ︑梧陵 が 最 も 興味 を 持 って いたのは ︑ アメリカでの 教育 の 現状 ではなかったのだろうか ︒福澤 の 書簡 から ︑梧陵 が 福澤 の 信頼 するシモンズ 医 師 の 故郷 ポ ー キ プ シ ー︵ Poughkeepsie ︶を 訪 ね て い る こ と が わ か っ て い る ︒ そ こ に は ︑ 森村豊 が 実践的 ビ ジ ネ ス を 学 ん だ イ ー ス ト マ ン ・ カ レ ッ ジ (11 ( が あ り ︑ 帰国後 に ﹁ 耐久社 ﹂ で 実践 す る た め に 視察 し て い た と し て も 不思議 で は な い ︒ 梧陵 の 息子担 氏 (11 ( もそうだが ︑梧陵 が 高島小金治 にサンフランシスコからニューヨークに 向 かう 汽車 の 中 で 語 った とされる ﹁移民 論 (11 ( ﹂ に 応 えるように ︑濱口家 からも 事業 の 為 に 海外 に 学 び ︑欧米 に 関 するビジネス 書 (1( ( を 出版 する 人 物 も 出 てくるなど 日本 の 近代化 に 順応 していった ︒実業家 として 成功 したのが 九代濱口吉右衛門 ︵容所氏︶ で ︑ その 活躍 は 電力開発 ︵ 九州電力 ︑ 猪苗代水力電気 ︶︑ 紡績 ︵ 富士紡績 ︶︑ 銀行 ︵ 豊国銀行 ︶︑ 植林 と 幅広 い も の だ っ た ︒ ま た ︑ 梧陵 の 孫 にあたる 十代濱口儀兵衛 ︵梧洞氏︶ は ︑吉右衛門 の 勧 めで ︑帝国大学理学部 ︵化学専攻︶ を 一年 で 退学 し ︑鐘 淵紡績 の 技師 の 洋行 に 伴 われて 世界漫遊 の 途 に 登 っている ︒帰国後︑ その 才覚 でヤマサ 醬油 の 事業基盤 を 盤石 なも のにしていくのである ︒ 注   釈 ︵ 1︶杉村廣太郎著﹃楚人冠全集   第七卷﹄ 日本評論社︑昭和十二年︒ ︵ 2︶突組 をひきいて 有川湾 にやってきたクジラ 突 きは ︑湯浅 の 庄助 や 平次︑古座 の 三郎太郎︑広 の 又左衛門︑藤代 ︵白︶ の 久左右衛門 な ど で あ る︵ 辻唯之 ﹃ 五島 の ク ジ ラ と り 物語 ﹄︶ ︒奈良尾町 ︵ 広川町 と 姉妹関係 ︶に は ︑ 慶長 の 頃︵ 一五九六 ~ 一六一四 ︶よ り ︑ 同町 に お い て 釣漁 を 営 む 紀州広村 の 漁師集団 の 記録 がある ︒寛延 の 頃︵一七四八~五〇︶ ︑同町 において 鰯漁 を 営 む 紀州広村 の 戸田長兵衛︑久

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徳六部兵衛︑岩本若左衛門︑鍵屋市部兵衛︑安田七兵衛︑高蒲権次郎 の 記録 がある ︒寛永二年 ︵一六二五︶ から 万延元年 ︵一八六〇︶ に 至 って ︑ この 地妙典無縁墓地 に 眠 る 百五十余基 の 紀州広村 の 漁師 の 記録 がある ︒以上︑法村剛一﹃夕映 えの 海︱五島 と 紀州 の 漁 師︱﹄ ︵昭和堂印刷︑一九八九︶ ︒ ︵ 3︶古式捕鯨発祥 の 地 とされる 太地 は ︑当地 の 豪族︑和田家一族 の 忠兵衛頼元 が 尾張師崎 ︵知多半島︶ の 漁師・伝次 と 泉州堺 の 浪人伊右 衛門 と と も に 捕鯨技術 の 研究 を 進 め ︑ 慶長十一年 ︵ 一六〇六 ︶太地浦 を 基地 と し て 大 々 的 に 突獲 り 法 の 捕鯨 を 始 め た ︒﹁ 和田浦 ﹂ の 和 田 は ︑和田一族 の 名前 に 由来 すると 思 われる ︒ その 他︑南房総 には 勝浦︑白浜 など 紀州 と 同 じ 地名 が 多 い ︒ ︵ 4︶American‌Oil‌&‌Gas‌Historical‌Society による ﹁ First‌American‌Oil‌Well ﹂ を 参照 のこと ︒   https://aoghs.org/petroleum-pioneers/american-oil-history/ ︵最終閲覧 2‌ 0 1 9年 10月 27日︶ ︵ 5︶後藤乾一﹁ ジョン 万次郎・平野廉蔵 と 小笠原諸島﹂ ︑﹁1.洋式捕鯨 の 導入﹂ ︑︵ ﹃ アジア 太平洋討究﹄ No.29,  3頁︶ を 参照 のこと ︒ ︵ 6︶ ﹃ 池田村誌 ﹄︵ 池田公民館 ︑ 一九六〇 ︶に は ︑ 陸奥宗光 と 共 に ﹁ 高橋市右衛門 ﹂ と い う 人物 が 渡米 し た こ と が 記 さ れ て い る ︒濱口梧陵 と 一緒 にとも 記 されているが ︑ これは 事実 でない ︒ また ︑羅府新報 など 邦字新聞 には ﹁高橋彌太郎﹂ という 人物 が 陸奥 に 伴 われて 渡米 し た こ と が 記 さ れ て い る ︒﹁ 紀伊藩 ﹂ の 留学生 と の 表記 も あ る が ︑ 当時和歌山藩 か ら 派遣 さ れ た 留学生 の 記録 は な い ︒ ま た ︑ 梧 陵 が 米国 の 高橋邸 で 逝去 したとの 記述 もあるが ﹃梧陵伝﹄ で 伝 えられている 事実 とは 異 なる ︒ ︵ 7︶千葉県佐倉 の 順天堂二代目当主 の 佐藤尚中 の 長男 として 嘉永六年 ︵一八五三︶ に 生 まれる ︒叔父 は ︑外交官 として 名 を 馳 せる 林董︒ なお ︑﹁ オーシャニック ・ クラブ ﹂ のメンバーは ︑新井領一郎 ︵商法講習所一期生︑生糸輸入︶ ︑森村豊 ︵森村市左衛門 の 弟︑紐育森 村組︶ ︑伊達忠七 ︵三井物産︶ ︑鈴木東一郎 ︵丸善店員︑慶應義塾出身︶ ︑増田林三郎 ︵製茶貿易︶ である ︒ ︵ 8︶Daily‌Alta‌California,‌December‌27,‌1876‌ʻFamous‌Passage‌of‌the ‌“Oceanic”ʼ   Daily‌Alta‌California,‌September‌8,‌1876‌ʻQuickest‌on‌Recordʼ ︵ 9︶明治三陸地震津波 の 直後 ︑ ド ー リ ッ ク︵ Doric ︶号 ︵ 一八九六年七月五日 ホ ノ ル ル 着 ︶で ハ ワ イ で の 療養 に 入 る ︒﹃ や ま と 新聞 ﹄一八九六

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年七月七日付記事︒ ︵ 10︶Daily‌Alta‌California‌ ︵ 発行期間一八四九年十二月十日 ~ 一八九一年六月二日 ︶は 作家 マ ー ク ・ ト ゥ エ イ ン︵ Mark‌Twain ︶と の 関係 で 有名 な 桑港 で 発行 さ れ て い た 新聞 で あ る ︒津本陽著 ﹃ 椿 と 花水木 ﹄︵ 幻冬舎文庫 ︑ 二〇〇九 ︶で は 咸臨丸 の 桑港到着 な ど を 報 じ た 新聞 と し て 記 さ れ て い る ︒ こ の 新 聞 の 一 九 二 三 年 以 前 の 記 事 は 以 下 の サ イ ト で 閲 覧 で き る ︒ California Digital Newspaper Collection,

Center for Bibliographical Studies and Research, University of

California, Riverside.    https://cdnc.ucr.edu ︵最終閲覧 2 0 1 9年 10月 27日︶ ︵ 11︶Palace‌ Hotel ︵現 在 の パ レ ス ホ テ ル ︶は ︑一 九 〇 六 年 の サ ン フ ラ ン シ ス コ 大 地 震 の 後 に 建 て 替 え ら れ た も の ︒ ホ テ ル の 建 物 は 地 震 に は 耐 えたようだが ︑ その 後発生 した 大火 で 焼失 した ︒ ︵ 12︶天保九年 ︵一八三九︶ ~明治二十七年 ︵一八九四︶ ︒薩摩藩士︑外交官︑政治家 ︵滋賀県令︶ でもある ︒後藤象二郎 や 坂本龍馬 らの 工面 した 資金 でイギリスに 密航留学 する ︒ イギリス 公使・ パークス 襲撃事件 でパークスを 救 う ︒号 は 桜洲 ︵桜州山人︶ ︒別名 は ︑横山休 之進︑鮫島雲城︑後藤休次郎︑田中幸介︑中井弘蔵 であり ︑書家 としても 知 られる ︒鹿鳴館 の 名付 け 親 でもある ︒著書 に ﹃合衆国 憲法略記 ﹄︵ 松原岩次郎 ︑ 一八八三 ︶︑ ﹃ 西洋紀行航海新説 ﹄︵ 堺屋仁兵衛 ︑ 一八七〇 ︶︑ ﹃ 魯西亜土耳其漫遊記程 ﹄︵ 避暑洞 ︑ 一八七八 ︶な どがある ︒逸話 が 多 く ︑明治 の 怪傑︑奇人︑滑稽家 として 知 られた ︵﹁徳富蘇峰記念館﹂書簡検索資料︶ ︒ ︵ 13︶元々堂書房 を 創業︑児童教育 の 図書 などを 出版 する ︒早稲田大学初代図書館長市島謙吉 などと 交友 があった ︒一時︑東京市議 を 務 める ︒ ︵ 14︶一八四一~一八九一︒肥前長崎出身 の 明治時代 の 官僚︒通称 は 英輔︒元 オランダ 通詞 で 民部省 に 入 り ︑外務大録 ︵ だいさかん ︶︑通 商大佑 に 進 む ︒明治四年伊達宗城 らに 従 い 清 に 渡 り ︑日清修好条規締結 にあたる ︒在清初代領事︑総領事 をつとめ ︑十七年農商務 省 に 入 り ︑通商局長 となる ︒ その 後実業界 に 転 じた ︒ ︵ 15︶ア ー ネ ス ト ・ サ ト ウ︵ Ernest‌M.‌Satow ︶と 共 に 外交官 と し て 横浜 に い た シ ー ボ ル ト︵ Philipp‌Franz‌von‌Siebold ︶の 長子 ア レ ク サ ン ダ

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ー︵ Alexander ︶と 思 われる ︒次男 ハインリック ︵ Heinrich ︶は 当時 オーストリア 公使館書記官 を 務 めていた ︒ ︵ 16︶明治十一年 ︵一八七八︶ ︑榎本武揚駐 ロシア 公使 が ︑ ロシアでペルシャ 国王 ︵ ガージャール 朝第四代 ナーセロッディーン ・ シャー ︶お よび 総理大臣 と 会見 したことが ︑明治 の 日本 とペルシャとの 交流 のきっかけとなった ︒特使派遣 を 知 らせる 井上馨外務卿 からペル シャ 外務卿 への 通牒 ︵一八八〇年四月一日付︶ によれば ︑ この 榎本公使 とペルシャ 国王 との 会見 をきっかけとして ︑両国間 に 通商協 定 を 結 ぶ 機運 が 生 まれ ︑交易 の 準備 として 商況調査 のための 使節団 が 派遣 されることとなった ︒特使 に 選 ばれたのは ︑外務省御用 掛 の 吉田正春 である ︒吉田 は 幕末 の 動乱 に 際 して 土佐藩 の 改革 にあたった 吉田東洋 の 息子 で ︑東洋 が 土佐勤王党 によって 暗殺 され た 後 は 後藤象二郎 のもとで 育 てられた 経歴 をもっており ︑幕末 から 明治初期 にかけての 動乱 を 体感 してきた 人物 である ︒使節団 に は ︑参謀本部 から 派遣 された 古川宣譽陸軍工兵大尉︑大倉組副社長 の 横山孫一郎 と 同社員 の 土田政次郎︑七宝焼陶器 や 小間物︑金 銀細工 の 商人 が 参加 した ︒使節団 の 国王謁見 など 詳細 は ︑次 の 外務省﹁外交史料館﹂ を 参照 のこと ︒   https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/da/page25_000037.html ︵最終閲覧 2‌ 0 1 9年 10月 27日︶ ︵ 17︶  ﹁中東 における 石油 ‌ ︱明治大学﹂ を 参照 のこと ︒   http://www.isc.meiji.ac.jp/~tomyam/topics/topics11.html ︵最終閲覧 2‌ 0 1 9年 10月 27日︶ ︵ 18︶和田豊治 は ︑ 同 じ 中津出身 の ﹁ 日米貿易 の 先駆者 ﹂ と 呼 ば れ る 甲斐織衛 の 興 し た ﹁ 甲斐商店 ﹂ サ ン フ ラ ン シ ス コ 支店 で も 働 い て い た ︒ ︵ 19︶  ﹃福澤諭吉書簡集﹄ 第九巻 ︵岩波書店   二〇〇三︶ 二六六頁 を 参照 のこと ︒ ︵ 20︶一八四二~一九〇五︒第三代慶應義塾塾長︒ ︵ 21︶一八三九~一九一九︒森村財閥 の 創設者 の 六代目市左衛門︒武具商︑陶磁器業 などを 営 んだ 森村家 の 歴代当主 が 市左衛門 の 名 を 襲 名 し た ︒現 ノ リ タ ケ カ ン パ ニ ー ︑ 東洋陶器 ︵ TOTO ︶︑ 日本碍子 を 設立 し た ︒明治二十二年 ︵一八八九︶ に ︑ ニ ュ ー ヨ ー ク で は 横浜正 金銀行出張所 で 正式 に 為替 の 取 り 扱 いが 開始 される 迄︑個人 への 送金 は 森村組 が 代行 していた ︒従 って ︑梧陵 への 送金 は 森村組 を 通 し て 行 わ れ て い た と 思 わ れ る ︒ な お ︑ 一八八五年四月十一日付 ﹁ Rockland‌County‌Journal ﹂ に ﹁ The‌Japanese‌in‌New‌York ﹂ と

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いう 記事 がある ︒十六年前 から 日本政府 が 米国 に 送 り 出 した 学生 は ︑ およそ 二五〇人︒岩倉使節団 の 米国視察 がビジネスマンの 渡 米 にきっかけとなるが ︑特 に 米国建国百年 を 記念 した 一八七六年 の 万博 が 大 きな 影響 を 与 えた ︒当時︑ ニューヨーク 在住 の 中国人 が 三千人︑日本人 は 全米 で 二百五十人 であった ︒個人 での 渡米 は 極 めて 稀 であったことがわかる ︒ ︵ 22︶一八五四~一九三六︒吉田藩 ︵伊予国︶ 御船手生 まれ ︒十六歳 の 時︑村井家 の 養子 に ︑理解 ある 義母 により 学問 への 道 が 開 ける ︒二 十四歳 の 時︑慶應義塾 に 入学︑福澤諭吉 の 教 えを 受 ける ︒卒業後︑森村市左衛門翁 の 経営 する 貿易商社森村組 ︵現森村商事︶ に 入社 する ︒以来︑渡米九十回︑太平洋上 にあること 九年︑持 ち 前 の 情熱 と 誠実 さで 活躍 する ︒六十七歳 の 時︑養母 の 恩 を 村井幼稚園開 設 と 云 う 形 に ︑旧制吉田中学校 ︵現愛媛県立吉田高校︶ 開校 に 尽力 する ︒校訓 は 同氏 による ︵﹁吉田高校創立者   吉田三傑﹂吉田高校 提供資料 より ︶︒ ︵ 23︶  ﹃福澤諭吉全集﹄ 第 17巻︵岩波書店一九六一︶ ︑書簡番号六五七︑六六八 ‌‌― 六七〇頁 を 参照 のこと ︒ ︵ 24︶デ ュ ア ン ・ B シ モ ン ズ︵ Duane‌ B.‌ Simmons,‌ 1‌ 8 3 4年 ― 1 8 8 9年︶ は 医 師 で ア メ リ カ ・ オ ラ ン ダ 改 革 派 教 会 が 日 本 に 初 め て 派 遣 した 宣教師 の 一人 である ︒明治四年 ︵一八七一︶ 六月二十三日付﹁大学東校 へ 日耳曼列国医師 シモンスヲ 雇用 ス ﹂ によれば ︑遺 さ れた 書簡 から 梧陵 とも 紀州藩 の 兵制改制 などを 通 して 交流 のあったと 思 われる 獨逸書記官 ケンプルマンの 紹介 もあり ︑大学東校 に 迎 えられることになる ︵期限付 の 短期雇用 だったようだが ︑給料一月四百弗 とある ︶︒明治三年 に 発疹 チフスで 苦 しんでいた 福澤諭 吉 を 治療 したことがきっかけで ︑ シモンズと 福澤 は 生涯親交 を 厚 くした ︒ ︵ 25︶  ﹃福澤諭吉全集﹄ 第 17巻︵岩波書店一九六一︶ ︑書簡番号六五八︑六七〇 ― 六七二頁 を 参照 のこと ︒ ︵ 26︶金子彌平 ︵一八五四~一九二四︶ は ︑現在 の 岩手県花巻市 の 商家 に 生 まれる ︒明治五年 ︵一八七二︶ の 春単身上京 し ︑福澤諭吉 の 書生 となり ︑翌年慶應義塾 に 入 る ︒満州開拓者︑実業家︒興亜会 や 黒龍会 といったアジア 主義団体 に 幅広 く 通 じたナショナリストの 魁 的 な 存在 である ︒同書 の 抄訳 である ﹃支那總説﹄ ︵全三巻︶ という 啓蒙書 を 刊行 する ︹明治十四年十二月︺ ︒梧陵 の 銚子 にある 君碑 の 撰文 をした 重野安繹 が 序文 を 書 いている ︒大蔵省 の 実力者 であった 松方正義 の 知遇 を 得 た ︒梧陵 が 見 せられた 本 は 支那研究者・宣

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教師 Samuel‌Wells‌Williams‌[1814.9.22︲1884.2.16] の  “The‌Middle‌Kingdom”  と 思 われる ︒ ︵ 27︶金子宗徳氏 ︵当時姫路獨協大学法学部講師︶ の 記 された ﹁ ある 明治 のキリスト 者︱金子勤三 の 生涯﹂ を 参照 のこと ︒   http://terget.3zoku.com/sekitei/2008/note/2007/note23.html ︵最終閲覧 2‌ 0 1 9年 10月 27日︶ ︵ 28︶  ﹃時事新報﹄ 一八八四年三月二十五日付   ﹁米国 は 志士 の 棲處 なり ﹂     ﹁米国 の 富榮世界第一 たる 原由 は ︑千萬里 の 沃野 に 放 つに 有為活潑 の 人民 を 以 ってしたるに 在 るや 甚 だ 明白 なるべし ︒今 や 米国 の 富源 の 未 だ 人間 の 開發 を 經 ずして 空 しく 天地 の 間 に 遺棄 せらるゝ 者尚 ほ 幾許 あるや 知 るべからず ︒自今以後世界各國有為 の 男女︑ 西 より 東 より 北 より 南 より 相競 ひて 此美國 に 來集 し ︑其心身 の 働 を 逞 することあらんには ︑今 の 富榮 に 又幾層 の 富榮 を 重 ね ︑遂 に 何様 の 程度 にまで 達 すべきや 豫 めこれを 図 り 知 るべからず ︒米国 の 前途 は 春如海 と 云 ふべきなり ﹂      ﹃時事新報﹄ 一八八四年四月十六日付   ﹁富 を 作 るの 地 を 檡 む 可 し ﹂      ﹁爰 に 少 しく 限界 を 廣 めて 海外諸國 を 見渡 せば ︑其繁盛活潑 の 度︑我國 の 都會 に 幾倍 するものある 知 らず ︒此點 より 考 ふれば 我東 京 の 如 きも ︑我國 にてこそ 無雙 の 都府 となれ ︑之 を 海外 の 大都會 に 比較 すれば 或 は 東洋 の 人田舎 として 見 るも 可 ならん ︒果 して 然 らんには ︑金 を 儲 けるの 機会 も ︑此田舎 に 少 なくして 彼 の 大都会 に 多 きこと 明白 なり ︒特 に 北米合衆国 の 如 きは ︑事物日新 の 國 に して ︑商工農事 の 活潑繁劇 なる ︑世界 に 其比 を 見 ざる 程 の 次第 なれば ︑機会 に 乗 じて 暴富 を 成 すもの 甚 だ 多 く ︑當時米国有名 の 金 穴 ゴールド 氏等 の 如 き ︑十年前迄 は 實 に 天秤棒一本 の 身分 なりし 者 が ︑一 たび 手 に 唾 して 風雲 に 乗 ずれば ︑富 を 得 ること 中 の 物 を 拾 うが 如 く ︑今 は 數千萬 の 身代 となりて 民間 の 萬戸侯 たるに 至 たり ﹂      ﹃時事新報﹄ 一八八四年七月一日付   ﹁富貴功名 は 親譲 りの 國 に 限 らず ﹂      ﹁東方 に 國 あり ︑ アメリカと 云 う ︒國新 しくして 人少 なく ︑土地廣 くして 気候美 なり ︒農業︑工業︑商業 ともに 仕事澤山 にして 賃 銀高 く ︑親譲 りの 門閥 もなく 財産 もなく ︑唯一 ツの 己 れの 腕前 を 恃 み 安 く 此世 を 渡 らんとするには ︑最 も 都合 よき 國柄 なり ︒殊 に 其國 の 政治 の 仕組 は 合衆共和政治 とて ︑人民 の 投票 にて 四年目毎 に 中央政府 の 大統領 を 撰 び ︑國會上院 の 議員 も 撰 び ︑下院 の 代議

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士 も 撰 び ︑下 て 各州 の 知事︑州會議員︑判事︑行政官吏 に 至 るまで ︑人民 の 撰舉 に 出 るも 甚 だ 多 く ︑政治上 の 仕事年中絶 え 間 ある ことなし ︒投票 は 多數 に 決 する 規則 なるゆゑ ︑若 し 此方 さへ 多 くば ︑此方 の 好 きな 人物 を ︑議員 に 出 すも 知事 に 擧 るも ︑時 の 都合 次第︑勝手次第 なり ︒或 は 今少 し 奮發 して ︑己 れ 自 ら 議員︑知事 と 為 りて ︑議政為政 の 大権 を 握 るも 勝手 ならん ﹂ ︵ 29︶  ﹃和歌山県史   前記一﹄ ︵﹁和歌山県史前記︑和歌山藩史︑政治藩治・外国人傭使・工業・賑恤・祭典・戸口・風俗・学校・時変 ︵明 治 2︱ 4年 ︶﹂ ︑ 国立公文書館 ︑ 請求番号 : 府県史料和歌山 ︶の ﹁ 外国人傭使 ﹂︑ ﹁ 学校 ﹂ の 記述 に よ っ て ﹁ 共立学舎 ﹂ で 講師 と な っ た ﹁ サ ン ダ ル ス ﹂ と の 雇用契約 ︵ 明治五年十二月 と あ る が ︑ 元号 と 西暦 が 併記 さ れ て い る こ と も 注視 す べ き か と 考 え る ︶︒ そ の 契約内容 の 詳細 と 開塾 の 日付 も 確認 できる ︒ ︵ 30︶福沢 は 二度目 ︵一八六七︶ のアメリカ 行 きに 際 し ︑諸藩 ︵仙台藩︑紀州藩 とされる ︶からも 資金 を 預 かって 大量 の 書籍 を 買 い 集 めた ︒ 紀 州 藩 か ら 依 頼 さ れ て 購 入 し た 一 冊 が ︑ マ ン ド ヴ ィ ル の リ ー ダ ー 第 5読 本︵ Mandeviˡˡe's  fi reader  for  coⅿⅿon  scʰooˡs  and  acadeⅿies ︶︒表紙見返 し に ︑ 鉄砲州時代 か ら の 慶応義塾塾生 で あ る 小川駒橘 の 識語 が あ り ︑﹁ 当時英書 ノ 我国 ニ 舶来 ス ル モ ノ 乏 シ ク 学生等 ハ 多 ク 謄写 シテ 講読﹂ していたので ︑紀州藩 が 二百両 を 福沢 に 託 し ︑福沢塾 に 学 ぶ 紀州藩士 の 塾生 のために 書籍 を 買 い 集 め ることを 依頼 した ︒福沢 は 紀州藩 のために 百数十部 の 書籍 を 買 って 来 たが ︑ それによって 紀州藩士 の 塾生 の ﹁学業俄然面目 ヲ 新 ニ シ ﹂ たという ︒ なお ︑小川駒橘 は 湯川秀樹博士 の 祖父 にあたる ︒ マンドヴィル 読本 はその 後紀州藩 の 藩校 を 経 て︵ ﹁紀府観光館印﹂ と い う 印記 が あ る ︶︑ 南葵文庫 に 収 め ら れ ︑ 関東大震災後 ︑ 東京大学総合図書館 に 移 さ れ た ︒︵ 東京大学付属図書館 ︑ 特別展示会 ﹁ 東 大黎明期 の 学生 たち ︱民約論 と 進化論 のはざまで ︱﹂展示資料一覧 から ︶︒    https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2005/tenji/ index-c.html ︵最終閲覧 2‌ 0 1 9年 10月 27日︶ ︵ 31︶一八三七~一九〇一︒岩村藩医 で 明治初期 の 日本 の 実業家︑医師︑官吏︒丸善 ︵現 ジュンク 堂書店 を 含 む ︶︑横浜正金銀行 の 創業者 として 知 られる ︒一説 には ︑﹁ ハヤシライス ﹂ の 名前 の 由来 とされる ︒ ︵ 32︶開成所版 の 英和辞書 を も と に 編集 し ︑ 上海 に 渡 っ て 印刷 ・ 発行 さ れ た ︒﹃ 薩摩辞書 ﹄と 呼 ば れ て 当時広 く 利用 さ れ ︑ 明治二年 ︵ 一八六

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九 ︶に は ﹃ 増補和訳英辞書 ﹄と し て 増刊 さ れ た ︒ な お ︑﹃ 和譯英辭書 ﹄‌が ︑ 初版 に お け る 正式名称 で あ る ︒鶴丸城跡地 の 一画 に 鹿児島 県 立 図 書 館 が あ り ︑ そ の 正 面 入 り 口 に ‌ ︽薩 摩 辞 書 之 碑︾ ‌ が あ り ︑﹁ AN‌ ENGLISH‒JAPANESE‌ DICTIONARY   薩 摩 辞 書 之 碑   American‌Presbyterian‌Mission‌Press‌1869 ﹂‌と 刻 ま れ て い る ︒幕末 の 大混乱 の さ な か に 密 か に 上海 で 刊行作業 が 進行 し ︑ 維新後 に 完成 をみた 大冊 の 英和辞書 である ︒ いかに 衰微 していたとはいえ ︑幕府 の 正式 な 許可 を 得 ないまま ︑薩摩藩庁 から 資金提供 をうけ て 刊 行 に 着 手 し た 薩 摩 藩 の 若 き 俊 才 た ち は ︑正 式 な 刊 記︵刊 行 記 録︑現 代 の 奥 付︶ を 残 す こ と な く ︑記 録 と し て ︑日 本 語 序 文 に ‌ ﹁日 本   薩摩学生 ﹂‌と だ け が 記 さ れ て い る ︒﹁ 薩摩 ﹂ と 記 し て も ︑ 薩摩藩 と は 記 さ ず ︑ 万一追求 を う け て も ﹁ 藩 と は 全 く 関 わ り が な い 薩 摩 の 若 い 学生 が 勝手 にしたこと ﹂ として ︑釈明 の 余地 を 残 したと 思 われる ︒ しかし ︑資金面 からも ︑ これだけの 大冊 の 辞書 を ︑鎖 国 下 に あ っ て 海 外 渡 航 も 困 難 だ っ た 状 況 か ら ︑上 海 の 印 刷 所 で ﹁日 本   薩 摩 学 生﹂ ‌ が 刊 行 で き た と は 思 え な い ︒薩 摩 藩 の 藩 命 に よ る 援助 があったと 思 える ︒ ︵ 33︶明治五年十一月三日付﹁米国留学生高橋新吉学資金 ノ 儀 ニ 付伺﹂ によって 同氏 と 前田献吉 の 留学費用 を 官費 によって 賄 うことが 検 討 されていたことがわかる ︒ ︵ 34︶Worldʼs‌Industrial‌and‌Cotton‌Centennial‌Exposition‌[1854.12.16 ‒1885.6.1]    万博 には 服部一三 と 共 に 高峰譲吉博士 が 事務官 として 参加 している ︒服部 と 同 じく ︑ この 時 にハーンと 会 っている ︒高峰博士 は ︑ 後 に 大倉喜八郎 や 渋沢栄一 らと ﹁東京人造肥料会社﹂ を 設立 する ︒新薬﹁ タカジアスターゼ ﹂ の 製造 を 発明 し ︑現第一三共 の 初代 社長 を 務 める ︒偶然 だが ︑安政東南海地震 の 前日 ︵安政元年十一月三日︶ に 生 まれる ︒ ︵ 35︶平 田 諭 治﹁ 1‌ 8 8 4︱ 5年 ニ ュ ー オ ー リ ン ズ 万 国 博 覧 会 に お け る 日 本 の 教 育 の 紹 介﹂ ︑﹁2.日 本 政 府 の 参 同 と 対 外 感﹂ ︵﹃筑 波 教 育 学研究﹄ 2号︑五頁︶ を 参照 のこと ︒ ︵ 36︶明治十三年 ︵一八八〇︶ 二月五日 に ︑先 に 発会 された ﹁交詢社﹂ ︵常議員長福澤諭吉︑常議員副院長西周︑幹事小幡篤次郎︶ の 機関誌 として 発行 された ︒創刊当初 は 四六判︑分量 はおよそ 二十 から 三十頁前後 で 毎月五日︑十五日︑二十五日 の 三回発行 された ︒創刊

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当時 の ﹃ 交詢雑誌 ﹄は 市販 さ れ ず ︑ 社員 の み に 配 ら れ た ︒ な お ︑﹃ 交詢雑誌 ﹄は 明治三十四年四月二十五日発行 の 第五七一号 を 最後 に 休刊 ないし 廃刊 されている ︒ ︵ 37︶政府 は ︑全 く 新 しい 構想 を 下 に ︑近代的諸産業発展 の 基礎 となるべき 金融機関 を 創設 し ︑財政上 の 必要 から 乱発 した 巨額 の 不換紙 幣 の 整理 を 行 うことを 当面 の 目的 として ︑明治五年十一月 に ﹁国立銀行条例﹂ を 制定 した ︒ この 条例 に 準拠 して 明治六年六月開業 免許 が 交付 され ︑明治六年七月 に 開業 した 第一国立銀行 は ︑三井組 と 小野組 が 中心 となって 設立 されたものだった ︒第一国立銀行 の 資本金 は ︑二二四万八百円 ︵三井︑小野 の 出資二百万円 と 公募︶ ︒ その 後︑中央銀行制度 を 採用 とする 財政金融政策 の 大転換 があ り ︑明治十五年 ︵一八八二︶ 十月 に 日本銀行 ︵明治十年﹁日本銀行設立 ノ 儀﹂松方正義︶ を 設立 し ︑国立銀行制度 の 廃止 が 決定 する ︒ ︵ 38︶Eastman‌Business‌College   一八五九年︑ Harvey‌G.‌Eastman‌ によって 創立 された ︒ ︵ 39︶濱口 ︵田島︶ 担︒梧陵 の 長男 として 一八七二年 に 生 まれる ︒明治四十三年当主儀兵衛家 から 分家 する ︒同二十四年慶應義塾卒︑同二 十七年早稲田大英語政治科卒︒同三十五年英国 ケンブリッジ 大学経済科卒︒帰朝後︑同三十六年参議院議員 ︵和歌山︶ ︑豊国銀行設 立 に 関 わり 文書部長 を 務 める ︒同四十五年猪苗代水力電気会社創立 に 際 し ︑庶務営業課長 となり ︑大正九年監査役 を 務 める ︒同十 一 年 東 京 電 燈 と 合 併 と も に 辞 職 し ︑麒 麟 麦 酒 監 査 役 と な る ︒近 藤 廉 平 氏 の 娘 八 重 子 と 結 婚 す る︵ ﹃人 事 興 信 録﹄ 第 4版︑人 事 興 信 所 編︑一九一五︑ ﹃人事興信録﹄ 第8版︑人事興信所︑一九二八参照 のこと ︶︒ ︵ 40︶  ﹁米国 の 土地沃僥 にして 遣利多 しと 豫 て 聞 き 及 びたる 事 なるが ︑今之 を 目撃 するに 及 んで ︑其 の 聞 きしに 優 れを 覚 ゆ ︒然 るに 我 が 国 の 人々 にして 渡航 するもの ︑何 れも 滞留僅 に 二三年乃至五六年 の 短期間 に 過 ぎず ︒匆々 にして 帰 り 来 り ︑土地狭 く 人口多 き 国内 にて 再 び 食 を 争 うが 如 きは ︑余 りに 量見 の 狭 きものと 云 わざる 可 らず ︒気力 なきか ︑忍耐 なきか ︑働 なきか ︑資財 なきか ︑何等 か の 缺乏 するものあるが 為 なるべし ︒渡米 の 希望 なきか 又 は 渡米 する 能 わざるものは 姑 く 措 く ︒苟 も 然 らざる 限 りは ︑此處 に 来 りて 耐忍勉勘 せば ︑必 ず 巨利 を 占 め ︑大志 を 遂 げ 得 べし ︒今老生 の 如 き ︑漸 く 此處 に 来 ると 雖 も ︑恨 むらくは 前途短 くして 為 すべき 事 な し ︒故郷 に 於 け る 有為少壮 の 士 の 奮 っ て 渡航 し 来 ら ん 事 を 望 ん で 止 ま ず 云 々 ︒﹂︵ 明治十八年六月十七日 ﹃ 和歌山日 々 新聞 ﹄記事及

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び ﹃濱口梧陵伝﹄ から ︶︒ ︵ 41︶濱口吉右衛門著﹃欧米日本商工政策﹄ ︵博文館︑明治三十四年五月︶ ︒ 参考文献 啊爾嗹暹度 ︵ アラン ・ シャンド ︶述︑海老原濟︑梅浦精一訳﹃銀行簿記精法﹄ ︵大蔵省︑一八七三︶ ︒‌ 愛媛県立吉田高等学校﹃創立 90周年記念誌﹄ ︵二〇〇七︶ ︒ 大倉喜八郎述﹃努力﹄ ︵実業之日本社︑一九一六︶ ︒ 大津忠彦﹁明治期先覚者吉田正春 とその 事績︱﹁考古学﹂ および ﹁西 アジア ﹂ の 視点 より ︱﹂ ︵﹃筑紫女学園大学・短期大学人間文化研 究所年報﹄ 18号︑一五七 ︱ 一六九頁︑二〇〇七︶ ︒ 金子宗徳﹁金子彌平︱ ある 明治人 の 軌跡﹂ ︵﹃明治聖徳記念学会紀要﹄ 復刊第 42号︑六九 ︱ 一〇六頁︑二〇〇五︶ ︒ 慶應義塾﹃福澤諭吉書簡集﹄ 第九巻 ︵岩波書店︑二〇〇三︶ ︒ 慶應義塾﹃福澤諭吉全集﹄ 第 17巻︵岩波書店︑一九六一︶ ︒ 後藤乾一﹁ ジョン 万次郎・平野廉蔵 と 小笠原諸島﹂ ︵﹃ アジア 太平洋討究﹄ No.29,  一 ︱ 二一頁︑二〇一七︶ ︒ 阪田安雄﹃国際 ビジネスマンの 誕生   日米経済関係 の 開拓者﹄ ︵東京堂出版︑二〇〇九︶ ︒ 杉村廣太郎﹃濱口梧陵伝﹄ ︵日本評論社︑一九三七︶ ︒ 瀬川光行﹃商海英傑伝﹄ ︵富山房︑一八九三︶ ︒ 耐久高等学校同窓会﹃耐久﹄ 四十三号 ︵二〇一九︶ ︒ 銚子木国会﹃銚子木国会史﹄ ︵侖書房︑二〇〇二︶ ︒ 辻唯之﹃五島 のクジラとり 物語﹄ ︵長崎新聞社︑二〇一五︶ ︒

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鍋倉直﹃国立銀行簿記一斑﹄ ︵木島文六︑一八七九︶ ︒ 野村由美 ﹁ 黎明期 に お け る 各国商業教育 の 成立事情   ︱比較考察 の た め の 覚書︱ ﹂︵ 一橋大学創立 1‌ 5 0年史準備室 ニ ュ ー ズ レ タ ー ‌No.3, 三一 ︱ 五一頁︑二〇一七︶ ︒ 平田諭治﹁ 1‌ 8 8 4︱ 5年 ニ ュ ー オ ー リ ン ズ 万国博覧会 に お け る 日本 の 教育 の 紹介 ﹂︵﹃ 筑波教育学研究 ﹄ 2号 ︑ 一 ︱ 一六頁 ︑ 二〇〇四 ︶︒ ピネオ ﹃ ピネヲ 氏原板英文典直譯 ‌‌ 慶応義塾讀本﹄ ︵尚古堂︑一八七〇︶ ︒ 福澤諭吉譯﹃帳合之法﹄ ︵慶應義塾出版局︑一八七三︶ ︒ 松下鈞﹁福澤諭吉 とピブリオテーキ ﹂︵ ﹃帝京大学総合教育 センター 論集﹄ vol.3,  二〇一二︶ ︒ ﹃ ヤマサ 醬油店史﹄ ︵ ヤマサ 醬油株式会社︑一九七七︶ ︒

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