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中国家電メーカーの競争力がいかに蓄積されてきたか-企業戦略論の方法で考察してみる-: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Author(s)

陳, 晋

Citation

沖縄大学人文学部紀要 = Journal of the Faculty of

Humanities and Social Sciences(6): 1-14

Issue Date

2005-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/6103

(2)

中国家電メーカーの競争力がいかに蓄積されてきたか

-企業戦略論の方法で考察してみる- 陳 晋 要約 本文は中国のWT○加盟と市場の本格開放にともない、急速に輸出が拡大し、海外現 地生産も展開している中国の家電メーカーを取り上げ、企業戦略論の枠組を適用しつつ、 中国家電メーカーの競争力蓄積問題を検討した。中国の家電メーカーに対する政府によ るコントロールは70年代末から80年代半ばまで一時強化されたが、80年代の後半にな ると、家電製品の生産が売り手市場から買い手市場へ転換したため、ほぼ不可能になっ た。その中、80年代に後発の家電メーカーは、厳しい国内市場競争でしのきを削ってた たかい、現場の生産管理能力、市場の販売・サービス能力や製品の開発能力を高めて、 着々に伸びて強くなっていた。市場経済の波を乗って急速に拡大し、先発の政府「指定 メーカー」と入れ替わって頭角を現し、業界の上位に上ってきて、さらに、多国籍企業 と連携しながら、国際市場の競争にも加わっていた。 キーワード:産業政策、業界競争度合い、競争力蓄積 1.課題と方法 本文は中国のWTO加盟と市場の本格開放にともない、急速に輸出が拡大し、海外現地生産も 展開している中国の家電メーカーを取り上げ、企業戦略論の枠組を適用しつつ、中国家電メーカ ーの競争力蓄積問題を検討する。あわせて、当該産業の最近のダイナミックな変化、およびこれ からのグローバル化を踏まえた企業行動の行方を分析する。 60000000 50000000 40000000 30000000 20000000 10000000 0 一一冷蔵庫生産 一洗濯機生産 百一エアコン生産 一冷蔵庫輸出 一洗濯機輸出 ヨーエアコン輸出 己【己 ⑭トの← ①ト om Nm の⑩ す⑩ の⑩ ①⑩ ト⑩ ⑩の の⑩ ○○○N ←○○口 四○○N の○○四 ○-c」、<rLD(・トCOO) ・フ○フOフ○フO)◎フO〕。)O)O) 図1中国主要家電製品の生産量と輸出量の推移(1978-2003年) 注:輸出量は1989年以降のデータを入れた。 出所:『中国軽工業年鑑』、『中国統計年鑑』ほかより作成。 一 二百・・・・口一 一

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1970年代以前、中国家電メーカーの技術水準や生産規模が非常に低く、先進国のメーカーと はほとんど比較にならないものであった。70年代末から今日までの20数年間の発展を経て、家 電産業は技術導入や企業間競争を通じ競争能力を高め、先進国の家電メーカーに対抗できる強い 企業も現れていた。とりわけ2003年現在、中国国産ブランドの冷蔵庫、洗濯機、カラーテレビ など家電製品の国内シェアが80%前後を占めている。海外に輸出することがほとんどできない中 国産の自動車製品に比べて(陳[2004])、中国産のカラーテレビの約半分、冷蔵庫の約4割、エア コンの約三分の-,洗濯機の約2割は輸出している。そして、中国のWTO加盟と経済のグローバ ル化に伴い、中国の家電メーカーは、相次いで積極的に海外市場に進出し、現地生産や販売ネッ トワーク作りなどに乗り出しつつある(図l参照)。 以上の認識のもと、本文の問題関心は次のとおりである。すなわち、中国家電メーカーの競争 力はいかに蓄積されてきたか、それはいままでの政府による産業政策などといった外部環境要因 とともに、その産業における内部競争の状況および企業の競争力蓄積過程とどのような関係があ るか、という点である。 企業戦略とは、企業と環境との関係を確立する決定であり、企業内部の諸要因と外部環境要因 との間の相互作用によって形成されるものである。中国の経済環境は日本や欧米と違って、今ま での20数年間、純粋な市場経済ではなく、政府の計画統制から市場の自由競争へ移行している最 中である。したがって、中国企業の戦略活動は変化が激しい経済環境の中に、図2に描かれたよ うに政府政策の変化と市場環境の変化に対して同時に両面作戦を強いられる。その中から生じる 中国企業の能動的な対応、すなわち環境創造と能力蓄積の行動に注目すべきである、。 政府政策の変化(中央集権から地方分権、強力統制から次第に弱化)--

政策制約小鬘かⅡ

企業の活動(戦略構

市場制約十+環境藺慥

市場環境の変化(クローズオ

e、童二11)

の重心 環境変化 業界競争度合い

.・・・・…・・し

(クローズからオープン、 グローバル化) 政策変化と市場変化の間にタイムラグが生じる 図2中国企業行動重心の政策適応から市場適応への修正プロセス 出所:筆者作成。 外部環境の計画統制から市場競争への移行に伴って、中国企業に対する政府の統制力は中央か ら地方に移りながら次第に弱化していった。一方、市場環境は閉鎖的なものから開放に、さらに グローバル化へ進み、企業に対する影響力がますます強くなってきた。こうした環境変化の中、 企業の戦略行動は次第に方向を修正し、従来の政府に働きかけることから市場変化に適応するこ とへ重心が移り変わっている。 中国において家電産業はそもそも主に冷蔵庫、洗濯機など白物家電業界を指し、テレビなど黒 物家電は「電子製品」と認められていた。90年代までの国の管理システムも白物家電を家電製品 に、黒物家電を電子製品に分類し、別々のルートで計画を立てていたので、今まで、両者を分け て別々に論じる論文が多かった。本文では両者を合わせて、冷蔵庫、洗濯機など白物家電を主、 テレビなど黒物家電を従とし、激しい競争を通じて中国家電メーカーの競争力蓄積過程をトータ ルで考察していきたい。 -2-

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1949年中華人民共和国の成立前、中国の家電製品生産はほとんど空白状態であった。49年に 上海、南京、天津などの沿海大都市を中心にして全国で扇風機は2万台、電気アイロンは7万個だ けを生産したが、その他の製品についてはほとんど生産がなかった。新中国の家電産業は、これ らを基盤として発展を始めた。ここではその後の中国家電産業の発展過程を四つの歴史的段階に わけて、歴史段階ごとに、環境要因の制約の下で、メーカーの競争力蓄積を重点的に分析し、今 日のグローバル化につながる問題点を抽出したい。 I|、中小メーカーの散在と弱小な生産能力(1950年代初~70年代後半) 計画経済統制の時期、民生用家電製品の生産は政府の重工業発展優先の政策によって制限され ていた。家電産業において大手メーカーはほとんど存在せず、地方の中小メーカーが散在し、政 府の計画投資をほとんどもらえなく、生産量もわずかであった。家電メーカーの技術レベルが非 常に低く、製品の品質も粗末で、主にローカル市場で消費されていた。 1.民生用家電より軍需用電子優先の産業政策 新中国建国後、重工業発展優先の産業政策の下で、電力供給の不足や国民の消費レベルの低さ などの事情もあるが、民生用の家電産業の発展は中央政府によって長年制限されていった。ごく 少量で生産された洗濯機、冷蔵庫やテレビなどの家電製品もほとんど企業、病院や商店など集団 向け業務用に使用され、個人や家庭の消費対象にはならなかった。民生用の家電製品より中央政 府は軍需用の電子製品の発展が優先されていた。第一次五カ年計画(1953-57年)の時期から、 古い軍需企業の改造や新しい軍需企業の建設が行われた。 例えば、この時期に拡充され、後に「熊猫(パンダ)」シリーズ製品を生産してきた「南京無 線電廠」は30年代に建てられた軍需工場であった。また、後にカラーテレビ生産のトップ企業に なった長虹も50年代中期にソ連の援助によって内陸で建設された航空機用レーダーの工場であっ た。さらに、60年代半ばからの「三線建設」、特に60年代末からの「電子大会戦」は、戦時総動 員体制を踏まえた通信と情報網の確立を狙い、先端軍事工業を支える電子工業基盤の確立を企図 し、半導体などの開発や生産に投資を行った。 ただし、軍需用の狭い領域での開発先行により、一般産業への応用は立ち遅れ、民生用の家電 産業の面で、先進国の技術格差が拡大する一方であった。そのような中、50年代初めから、軍需 用電子製品の生産技術や設備がソ連をはじめとする外国から少しずつ導入されたが、民生用の家 電製品の技術導入は長い間制限されていた。そして60年代から、特に文化大革命勃発以降、鎖国 主義の影響で軍需技術を含めて電子や家電技術の導入はますます難しくなって、先進国の技術交 流も停頓状態に陥ったのである(丸山[1988]pp93-99)。 2.大企業不在と中小企業分散の産業構造 1949年建国以降、中国では扇風機、電気アイロン、電気ストップなど小型家電製品の生産が次 第に発展し、家電メーカーはラジオ(52年)、冷蔵庫(54年)、白黒テレビ(58年)、洗濯機、掃 除機(62年)、単相エアコン(64年)、カラーテレビ(71年)など比較的構造複雑な家電製品も 試作していった。70年代の中期まで70余の家電メーカーができ、30数種類の製品を少量生産し たが、依然として扇風機(78年に138万台)と電気アイロン(同91万個)が主流製品であった。 その中、54年に藩陽医療器機廠は最初のオープン式コンプレッサを使った冷蔵庫、55年に天 津医療器機廠はクローズ式コンプレッサを使った冷蔵庫を試作した。55年から77年まで23年間 全国で15万台冷蔵庫しか生産しなかった。洗濯機については、62年に藩陽、65年に上海はそれ -3-

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ぞれ試作したが、ともに77年までに量産に入らなかった。第一台目の真空管白黒テレビ(58年)

を試作した天津無線電廠は、71年に初めてカラーテレビの試作が成功したが、78年になっても

年間全国合計でせいぜいカラーテレビを3,800台生産した。

以上に挙げられた主要製品の生産量から見るとわかるように、70年代の末まで中国の家電産業

において、メーカーの生産規模は小さく、大企業は存在しなかった。一方、立地条件から見れば、 これら企業のほとんどは製造業の産業基盤があり、ニーズの所在地でもある沿海都市にあったこ とがわかる。当時、冷蔵庫や洗濯機などいわゆる白物家電を生産する企業は、ほとんど地方の中

小企業であった。テレビやラジオなど黒物家電を生産する企業も、極少数の軍需品生産中心の企

業を除いて、ほとんど地方の中小企業であった。 3企業形態と所属関係

1977年まで、白物家電の生産に対して中央政府は計画商品の範囲に入れず、統一管理の部門

も設置しなかった。そして、商業部の下で「中国交通電工器材公司」という流通の部門を設立し、

扇風機、ラジオ、テレビ、テープレコーダー、レコードプレーヤーなど数種類の家電製品の統一

購買・販売を行った(『中国電子報」1999.101)。一方、63年4月に設立された第四機械工業部

(後の電子工業部)は、ラジオ、テレビなど黒物家電を統轄していたが、仕事の重心を民生製品

ではなく、ほとんど国防電子産業の建設に傾けた。 各地に散在していた家電メーカーはそれぞれの生産規模が非常に小さいため、完成品の組立て

から部品生産まで手がけ、部品のほとんどを自製しており、生産効率が悪かった。黒物家電のメ

ーカーはほとんど国有企業であり、メーカー所在地方の省・市政府の電子工業局に管理されてい た。これに対して、白物家電メーカーの大半は集団所有制企業であり、各地方政府の第一軽工業 局に所属する計画商品を生産していた国有企業と別にして、その第二軽工業局に所属していた。 これらの中小集団所有制企業は、ほとんど政府との人脈関係を持たず、国からの投資やプロジ ェクトも望めない。国有企業への投資を差し引いた残余また地方レベルの分散資源を活用し、ロ ーカルの多様なニーズに応え、国有企業がカバーしえない分野を補っていた。それゆえに、身近 なローカルのニーズに対する反応は国有企業より敏感であり、製品もよく変わった。また、集団 企業は国営企業のように、病院、幼稚園、学校、商店、劇場など膨大な社会サービス部門を内包 することも少なく、国からの保険や諸手当も少なかった。 4.製品のコピーと少量牛産 計画経済体制の下で地方の中小家電企業は、製品の開発能力を持たず、外国メーカーや国内他 社の製品をコピーしかできなかったものの、資金、設備、人材の面で困難な条件下にローカルな 需要に応えるべく自助努力を強いられ、生産プロセスの上で発生した問題の処理、在来技術の効 果的活用といった点で器用で有能な熟練工や技能者を育ててきた。もちろん、当時の先進国に比 べて、その技術レベルは非常に低くて、コピーで作った製品もかなり粗末であった。 例えば、1956年に北京市医療器械廠(後の「雪花電器」)が開発された230リッター・オープ ン式冷蔵庫は30~40年代のアメリカやイギリスの冷蔵庫を解体して、イギリス冷蔵庫の外形や コンプレッサを真似して作ったものである。ハンマーで鉄板を敲きその外形を仕上げ、内装にプ ラスチックの材料がないため、白い布を何層も貼って完成した。その上、58年にこのメーカーは さらにソ連の製品を真似してクローズ式冷蔵庫も試作した。また、それらの製品は、ひとたび市 場に出せば競争圧力不在のもと、あまり進化しなかった。 70年代末まで、家電製品の大量生産方式を導入していなかったため、各メーカーはごく少量で -4-

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部品の製造から完成品の組立てまで、ほとんど手作業で行っていたのである。品質が悪く、製品 がいったん市場に出た後もよく壊れ、常に修理しなければならないため、家電メーカーは長年専 門の修理チームを持っていた。そのなか、白物家電はほとんど政府の計画商品のリストに入らな かったため、冷蔵庫、洗濯機など主要な家電製品はほとんどメーカー所在の地方商業部門によっ て販売され、主にローカルで消費されていた。 '11.多種類所有制メーカーの新規参入と技術導入ブーム(1970年代末~80年代半ば) 70年代の末から、市場の家電ニーズと輸入製品の急増にかんがみ、中央政府は輸入製品制限と 家電生産奨励の政策を採り始めた。これに応じて、軍需企業、集団企業、郷鎮企業を含め多数の 企業が家電生産に参入してきた。各地のメーカーは主に地方政府の支持を得て、短期間で多数の 工場を新設し、合わせて膨大な生産能力を導入してきた。 1.市場需要の台頭と産業政策の調整 1970年代末からカラーテレビ、冷蔵庫と洗濯機など家電製品の消費は急速に上昇し始め、国 内メーカーの生産量と販売量がほぼ年々倍増したが、市場の大きな部分を輸入製品に譲り渡して いた。1979年7月、蘇州で「全国家電発展規劃(企画)座談会」を開きその後、中央政府は耐 久消費財の輸入を引き締める政策を採ると同時に、消費財工業、とくに新しい消費財の生産の発 展を支援し、原材料やプロジェクトなどの優先政策を制定した。これによって、軍需企業をはじ め、多数のメーカーが家電製品の生産に参入しはじめた。 しかし、家電産業における企業の参入と生産能力拡張の勢いは政府が「合理的」と考えた範囲 を大きく超えていたので、政府はすぐに参入を制限する政策を打ち出した。80年に軽工業部は家 電産業の発展に関する初めての計画を制定し、冷蔵庫や洗濯機生産の「指定メーカー」や生産量 を限定した2)。カラーテレビの生産についても、電子工業部は同じ政策を出したのである31。さ らに、82年に国務院が規定を打ち出し、テレビ、ビデオレコーダー、扇風機、冷蔵庫と洗濯機な どは投資を厳しく抑制する産業として指定された。 78年に国家計画委員会はこれから洗濯機、冷蔵庫、エアコンなどの白物家電製品を国家計画に 入れ、国家軽工業部によって統一管理することを決め、軽工業部の農具五金局(82年に五金家電 局に再編)の下に「家電処」を新設させ、家電生産ラインの技術導入に対して厳しくチェックし はじめた。ただし、地方政府の権限が強化されている最中、地方政府や地方企業は中央政府の制 限を避けるために、手に入れる技術や小規模生産量からスタートし、段階を分けて投資し、生産 規模を拡大していくことがしばしば行われた。 2.新規参入と技術導入のブーム 供給不足によって、家電製品の生産は当時の収益率がかなり高かった。たとえば、洗濯機業界 では、1984年から88年の5年間、データの得られた30社を見ると、毎年の総資本利益率は平均 25%以上で、6社は平均で40%以上、4社は50%以上にも達していた。最も利益率の高い上海洗 衣機総廠は5年間の総資本利益が平均で77.4%にもなっている(江[2003]ppl41)。カラーテ レビや冷蔵庫業界の状況も洗濯機業界と似ていた。明らかな巨大な需要の存在と高い収益率は、 新規参入を強く誘発するものであった。 また、家電産業の参入は小規模の組み立てからスタートしたので必要な投資額はあまり大きく なかった。例えば、洗濯機業界で80年にあった13の主要メーカーの固定資本が平均で300万元 余りであった。一方、84年まで、省級地方政府が許認可できる固定資産投資限度額は1000万元 -5-

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で、その後3000万元に引き上げられた(河地など[1998]ppll2)。新規参入の急増によって、 78年と比べて85年には、冷蔵庫のメーカー数は20社から110余社に、洗濯機のメーカー数は4社 から180社に、テレビのメーカー数は63社から80余社に、それぞれ大幅に増えた。 その上、政府に打ち出された完成品輸入の代わりに生産技術と設備の供与を受ける政策は、日 本をはじめとする先進国から家電工場導入ブームを生み出した。85年にはカラーテレビの生産量 は435万台、生産能力は1700万台に、冷蔵庫の生産量は145万台、生産能力は1350万台に、洗 濯機の生産量は887万台、生産能力は1238万台に達していた。これらの膨大な生産能力は当時 の中国国内の需要や輸出能力を大きく上回るので、その稼動に従ってカラーテレビ、冷蔵庫と洗 濯機の売り手市場から買い手市場への転換が近づいていた。 3非国有メーカーの参入と国有メーカーの技術優勢 1980年代の初期に、従来機械工業と軍事工業から転換してきた国有企業が冷蔵庫、洗濯機業 界の半分を支える存在となった。洗濯機業界の例でいうと、1981年当時130社以上あったメー カーのうち軽工業部系統に属するものが60社以上で、残る60社余りは機械工業と軍事工業の系 統に属する企業がほとんどであった。国有企業のほかに、この時期に多数の集団企業や郷鎮企業 も家電産業に参入してきた。冷蔵庫業界においては非国有企業が約四分の一を占め、洗濯機業界 においては約半分を占めていた41。 その中、従来の機械・軍事産業における国有企業は技術基盤が集団企業や郷鎮企業より強かっ たため、構造が比較的に複雑な製品の生産に参入したのが多かった。集団企業と郷鎮企業の生産 は主に洗濯機や冷蔵庫など構造が比較的簡単な製品に集中していた。たとえば、カラーテレビの 生産で有名になった長虹や熊猫は従来の軍事企業であり、海信や上海広電は従来の国有企業であ った。冷蔵庫やエアコンの生産で有名になった海爾(ハイアール)や春蘭は集団企業であり、美 的は郷鎮企業であった。 そのほか、数名の技術者が地方財政から借金で設立したTCLや華僑の資本で設立した康佳(両 社とも後にカラーテレビの最大手)は、当時も「国有企業」や「集団企業」の名義で登録された が、計画投資に依存する国有企業とはまったく違うものであった。また、インフラや関連法制度 の不整備などの問題で、80年代までには外国企業の進出はそれほど活発ではなかった。日本家電 各社の対中投資も僅かであり、カラーテレビの現地生産は日立製作所(福州市、81年)と三洋電 機(探せん市、84年)の合弁企業2社だけであった。 4地方投資の獲得と生産能力の拡大 財政体制の改革にしたがって、地方政府が家電企業のプロジェクト導入や生産規模の達成に支 えられる財力を待っていったため、家電メーカーは主な精力を地方政府の説得、プロジェクト投 資やローカル市場の獲得に入れていた。この中、張瑞敏(03年現在海爾のCE○)、李東生(同 TCLの社長)など従来地方政府工業管理部門の幹部を地方企業に移籍させたり、長虹や南京無線 電など従来の軍需企業が地方政府に属する地方国有企業へ変身させられたりして、各メーカーは 地方政府との関係を活用しながら勢力を拡大していた。 対外開放に従って、中国の家電メーカーが先進国メーカーとの間に存在していた技術格差は歴 然であり、先を争って日本をはじめとする先進国から冷蔵庫、洗濯機、カラーテレビなどの製造 プランをワンセットで導入していった。ただし、国有にしても非国有にしても中国のメーカーは ともに自らの開発能力を持っていないため、一から導入技術を勉強せざるをえなかった。多くの 中国メーカーは導入元の外国企業の社名やブランドを中国語に訳して自社の社名や製品につけ、 -6-

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それを誇りに思っていた。 また、この時期の中国家電メーカーはほとんど単一の製品技術を導入し生産していたので、複 数製品を生産している企業はまだほとんど見られない。しかも、供給不足の市場の中で、企業間 の競争もあまり見られないし、企業は技術導入や生産の早期実現に専念していた。売り手市場の 中で、企業は品質管理などの企業内部管理にほとんど関心を持っていなかった。販売もメーカー があまり直接に扱う必要がなく、従来の国有卸売や小売企業のルートを通じて販売していた。 1V・競争の時代への突入と非国有企業の急成長(1980年代後半~90年代半ば) 80年代の末、政府の経済引き締め政策によって、家電の価格戦が勃発され、家電メーカーにと って規模の拡張から優勝劣敗の淘汰時代に突入した。集団企業や郷鎮企業など後発の非国有メー カーは、先発の国有メーカーと入れ替わって頭角を現し、業界の上位に上ってきた。家電メーカ ーは生産現場管理のほか、マーケティング活動も強化しはじめた。 1.政府政策の動揺と生産拡大の継続 80年代中期に、中央政府はインフレ対策として、過剰購買力を吸収するため耐久消費財の輸入 制限をゆるめた結果、これがシグナルとなり「三種の神器」と見なされるカラーテレビ、冷蔵庫 や洗濯機の輸入ブームが起こることになった。政府は外貨保有の減少から製品輸入を引き締める と、これに代って家電製品を中心とする生産ラインの導入ブームを引き起こすことになったので ある。この状況に危機感を持った中央政府は通達や報告を公布し、家電製品の生産規模を抑制す る具体的な措置を明らかにした。 さらに、1986年から始まった第7次5カ年計画においては、中央政府は高関税で国内市場を保 護して参入メーカーの数を厳しく制限し5)、指定された国有メーカーに対しては各面で優遇育成 政策を与え、家電製品の国産化を促進していく方針を打ち出したい。中央政府は業界のコントロ ールを強化するために、85年に軽工業部の「家電処」を「家用電器局」に昇格させた。しかし、 市場変化や地方分権の流れの中、設立してから僅か3年で「家用電器局」が撤廃され、88年に業 界仲介組織の「中国家電協会」に変身させた。 一方、中央政府の制限政策があるにも関わらず、地方財政請負制度の推進と企業自主権の拡大 に伴い、80年代半ば以降も家電生産メーカー数はほとんど減らなかったばかりか、かえって増え ていった。家電生産メーカーは導入してきた生産ラインを稼動し、部品の国産化を推進しながら 生産量を増やしていった。87,88年の家電ブームもあり、88年に冷蔵庫の生産量は758万台、 生産能力は1,500万台に、洗濯機の生産量は1,047万台、生産能力は1,600万台にそれぞれ大幅に 増え、カラーテレビの生産量も1,028万台に増産した。 2.競争への移行と弱小メーカーの淘汰 89年以降国の経済引き締め政策の影響を受けて、過剰供給された市場は一気に冷え込み、メー カー在庫の膨らみに従って、競争も激化してきた。それから家電の生産量も減少し、国内史上初 めの家電の価格戦が勃発された。こうして、市場の拡張速度が明らかに鈍り、数年間の下降もあ ったので、家電メーカー間では限られた市場のシェアをめぐる競争が激化し、製品の売り手市場 から買い手市場へ転換し始め、その結果、かなり強い参入障壁が形成され、新規参入はほぼなく なった。 80年代の末から冷蔵庫や洗濯機産業の生産能力は半分以上を使わずに置き、三分の-のメーカ ーは赤字経営に転落した。90年に冷蔵庫の生産量は463万台にすぎず、88年より300万台近く減 -7-

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ったが、洗濯機の生産量は663万台しかなく、88年より400万台近く激減した。その後90年代の

半ばになってそれぞれの生産量はようやく88年のレベルを回復した。激しい競争のもと、企業ご

との市場拡大能力には大きな格差が生まれ、有力メーカーに市場が集中する傾向がある。業界の

リーダー的企業の生産規模は外国の大企業に近づいている。 生産の過剰によって、家電企業は規模の拡張から優勝劣敗の淘汰時代に突入した。競争力の弱 いメーカーは生産停止や企業閉鎖に追い込まれ、有力企業に合併されるケースもあり、企業数が

減少を始めた。95年に冷蔵庫メーカーはなお約70社、洗濯機メーカーは約60社あるものの、実

際に市場に出ているブランドはどちらも30前後で、存在する企業数よりかなり少ない。しかも市

場の80%は上位10社によって占められており、このことは競争力のない企業はすでに事実上生

産停止状態にあることを示している。 3.非国有企業の台頭と上位企業の入れ替わり 80年代の後半から、新たな集団企業、郷鎮企業など非国有企業が引き続いて家電産業に進出し ていった。例えば、90年代中後期に洗濯機生産の最大手になった栄事達(集団企業)は87年に、 冷蔵庫生産の最大手になった科龍(郷鎮企業)は88年に、エアコン生産の最大手になった格力

(集団企業)は89に、電子レンジの最大手になった格藺仕(郷鎮企業)は91年にそれぞれ初めて

家電生産に参入したのである。これらの後発企業は初めから国家計画プロジェクトの恩恵を受け

ず、市場ニーズの動向を重視していった。 後発企業は先発の国有企業と違って、生産だけを重視するのではなく、製品の販売も重視し、 自社販売ネットワークの構築活動を活発に行っていた。また、イメージ・アップのために、後発 メーカーは製品優勝賞を獲得したり、マスコミを利用したりして企業やブランドの宣伝に力を入 れはじめた。90年代の半ばになると、海爾、長虹、TCL、康佳、科龍、格力、春蘭、美的、格 蘭仕、栄事達、小天鶯など後発のメーカー、特に集団企業や郷鎮企業は、先発の国有企業と入れ 替わって頭角を現し、業界の上位に上ってきた。 表1冷蔵庫生産量上位メーカーの交代 1985年 2000年

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注:CR4は上位4社の産業集中度、すなわち上位4社の市場シェアを示す。 表2洗濯機生産量上位メーカーの交代

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注:2000年のみ上位3社の市場シェアを示す。 出所:各年『家用電器」や『中国軽工業年鑑」のデータによって整理した。 -8- 1982年 1985年 1996年 2000年 第1位 北京電氷箱(国有) 広州万宝(国有) 広東科龍(郷鎮) 青島海爾(集団) 第2位 広州電氷箱(国有) 北京電氷箱(国有) 青島海爾(集団) 広東科龍(郷鎮) 第3位 上海電氷箱(国有) 上海電氷箱(国有) 合肥美菱(集団) 河南新飛(軍需) 第4位 蘇州電氷箱(国有) 蘇州電氷箱(国有) 河南新飛(軍需) 合肥美菱(集団) CR4 75.5% 39.4% 59.7% 59% 1982年 '985年 1996年 2000年 第1位 北京洗衣機(国有) 杭州洗衣機(国有) 江蘇小天鷲(集団) 青島海爾(集団) 第2位 広州万宝(国有) 寧波洗衣機(国有) 青島海爾(集団) 江蘇小天鴬(集団) 第3位 杭州洗衣機(国有) 営口洗衣機(国有) 山東小鴨(集団) 合肥栄事達(集団) 第4位 大連洗衣機(国有) 北京洗衣機(国有) 合肥栄事達(集団) CR4 21]% 20.7% 57% 54%(CR3)

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その代わりに、80年代中期に中央政府に定められた多数の国有「指定メーカー」は上位から消 えてしまった。-部経営業績の悪い「指定メーカー」は身売りされ、非国有企業に買収され、合 併された。或いはこの時期に中国市場に進出してきた外資系企業(外資独資が許せない)と組ん で、合弁企業の形に変身したのである。例えば、カラーテレビ産業において、90年代に設立され た蘇州フィリップス(92年)、天津三星(94年)、済南松下(95年)、武漢JVC(95年)などの 合弁企業の中国側はほとんど国有の政府指定メーカーであった。 4.市場ニーズ応えと企業競争力の向上 家電企業間競争の重点は製品の品質向上、新製品と新技術の開発と、販売前、販売後のサービ スのレベルに移り、これらを基礎として、市場シェアの拡大が図られた゜家電メーカーは、「指 定メーカー」優遇や重点投資などの政府政策の失効にかんがみ、政府に働きかける活動も減らし、 独自で技術改造や市場開拓の活動を強化していった。また、家電メーカーは自ら消費者への流通 ルートを開拓する必要性に迫られ、消費者の動向についての情報をより多くもっている消費地の 卸売り企業や小売店にアプローチするようになった。 80年代末期に、実力ある中国大手メーカーは一定のレベルのアフターサービス、たとえば24 時間ないし48時間以内の訪問修理サービスなどを実現したが、競争の激化にしたがって、ユーザ ー意見のフィードバックと改善、訪問修理マニュアルの公示と厳守、製品の修理保証などサービ スの水準はさらに向上していた。これに対して90年代の半ばに日本の家電メーカーは中国の主要 都市に修理ステーションを置いているだけであり、ユーザーは製品を自分で持ち込まなければな らなかった。 さらに、厳しい市場競争に応えて、中国家電メーカーは積極的に日本をはじめとする先進国か ら生産現場の管理ノウハウを導入し、品質管理に力を入れ始めた7)。また、家電メーカーは導入 してきた技術を吸収する同時に、速やかにコピー的改造や開発を行い、国内の多様かつ独特なニ ーズに応えていった。90年代の半ばになると、中国国内の大手メーカーの製品は品質や技術レベ ルの面で輸入品と互角であるが、サービスのレベルではすでに輸入品を上回り、大量に輸出され るようになった。 V,競争のグローバル化とメーカーの海外進出(1990年代後半~) 90年代の半ばから関税の引き下げに伴って、外資系の新規参入も増え、過剰した生産能力がさ らに拡大した。企業間の買収や合併が行われ、巨大な家電総合メーカーが誕生していた。中国国 産ブランドの力も伸ばしつつ、輸出や海外現地生産も増加した。家電メーカーは多様化する中国 ニーズに応えて、販売や製品開発の能力をさらに強化している。 1.政府介入の失効と市場の新動向 WTO加盟にそなえて、政府は90年の半ばから家電製品の輸入関税を相次いで引き下げ始めた。 例えば、冷蔵庫、洗濯機、カラーテレビとエアコンの輸入関税が93年の100%から96年の40~ 50%、99年の25~35%までに、同部品の輸入関税は93年の80%から96年の25~35%、99年の 15~20%までにそれぞれ大幅に引き下げたのである。また、政府は冷蔵庫のコンプレッサなど 中間財生産の投資を強化しながら、大手家電メーカーに「走出去」(海外に打って出ること)を 呼びかけはじめた。 また、家電企業に対する政府の管理組織も次第に撤廃しはじめた。93年、白物家電産業を統括 していた軽工業部が撤廃され、仲介組織の軽工業連合会へ変身した。98年に黒物家電産業を統括 -9-

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していた電子工業部は撤廃され、従来の郵電部と合併し、信息(情報)産業部に再編された。こ うして、家電企業に対する政府部門の関与は弱化していた一方で、家電業界の競争激化は市場メ カニズムに基づく産業調整を強いていた。家電業界の価格引下げといった個々の過程に政府が介 入することは事実上、不可能に近くなっていた。 一方、90年代の後半から80年代後半の市場高度成長期に購入された家電製品は次第に更新の 時期に入り、消費者も家電製品の性能や品質に対する要求を高め、新機能に敏感になっている。 特に都市部の商品ブームは従来の洗濯機、冷蔵庫、カラーテレビからステレオ、エアコン、電子 レンジに移行しつつある。洗濯機は従来の二槽式から全自動、ドラム式へと多様化、エアコンは ウィンド式からセパレート式へ、機能的にもインバーターが主流になっており、カラーテレビも 大型化、薄型化、多機能デジタル化の方向に向かっている。 2.競争の白熱化と国産ブランドの健闘 新しいニーズを狙って、90年代半ばから外資系の新規参入も増え、内外メーカーは更なる投資 を行い、そもそも過剰だった生産能力がさらに拡大していった。例えば、99年に中国のカラーテ レビの生産能力は3500万台に達したが、市場販売は1600万台しかなかった。冷蔵庫と洗濯機の 生産能力の過剰もほぼ50%に達した。業界の価格競争がますます激しくなり、90年代の末に入 ると多数の家電製品の価格は90年代の半ばより20~30%を引き下げ、その中、カラーテレビの 価格は50%以上も下落した。 90年代初めから中国家電ブランドの国内市場に占めたシェアは拡大しつつあった。97年に国 産ブランドの冷蔵庫の中国国内シェアは946%に、同洗濯機は85.4%に、カラーテレビは80%に 達している。その後、外資系多国籍企業の攻勢が強くなり、中国ブランドの国内シェアが若干落 ちたが、カラーテレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコン、電子レンジなど製品の中国ブランドのシェ アは依然として70~90%の高水準を維持している。自信がついた中国メーカーは外国風の社名 やブランド名を国産のイメージに転換した。 中国における洗濯機、冷蔵庫、カラーテレビ、家庭用エアコンなど製品の生産量は、96年にす でに世界のトップレベルに達し、販売額は米国、日本に次ぐ第3位の位置を占めた。90年代の末 から、家電製品の輸入が減少するとともに、輸出が急速に増えはじめた。2003年に、カラーテ レビ生産量6541万台の約半分の3268万台、冷蔵庫生産量2208万台の約4割の881万台、エアコ ン生産量4813万台の約三分の一の1644万台、洗濯機生産量1943万台の約2割の363万台を輸出 した。 3国有資本の退出と巨大メーカーの製品多角化 中国のWTO加盟に伴って、国有資本は家電業界からの退出が大幅に加速されている。海爾、 長虹、TCL、美菱、小天鶯など上位国有企業と集団企業は相次いで株上場や資産改革を行い、地 方政府が持ってきた資本比率がどんどん下がっていった。家電メーカーは政府部門に対する依頼 はますます少なくなり、その代わりに、市場活動をスムーズに展開するために、政府部門にリス トラされた従来政府の幹部を企業の公共部門に取り入れ、政府の政策変動を早期に探知したり、 自社有利の方向に働きかけたりして人脈関係を活用していった。 家電メーカーは製品や経営の多角化戦略を展開し、白物家電と黒物家電の業界境界を越えて相 互に参入し浸透しつつあった。たとえば、カラーテレビを生産してきたTCLは冷蔵庫の生産に、 長虹はエアコンの生産に、冷蔵庫を生産してきた。海爾はカラーテレビの生産に参入してきた。 業界間の相互浸透によって、すでに激化した各業界内部の競争をさらに白熱化し、企業間の買 -10-

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収・合併を加速させ、海爾、康佳、春蘭、TCL、美的のような多地域にまたがり、複数の家電製 品生産量を同時に上位に立つ巨大なメーカーが形成されていた。 これらの巨大な家電メーカーはさらにIT、医薬、自動車産業など業界にも進出しはじめた。ま た、海外に輸出を拡大すると同時に、中国上位家電メーカーはアメリカ、ヨーロッパやアジアな ど海外に多数の生産拠点を作り、海外の現地生産を拡大していった。さらなる、海爾と三洋・三 星、TCLとトムソン・アルカテル、美的と東芝・キャリアなど、中国の上位メーカーは外資系多 国籍企業との連携を拡大したり、独自で海外で開発機構を作ったりして製品の開発もグローバル 化し、国際競争へも本格に参戦しはじめた。 4競争のグローバル化と競争力の強化 中国家電メーカーは企業内部の管理を強化し、事業部制度を導入したり、現場の奨励・淘汰シ ステムを実行したりしていた。企業の市場損益を直接に企業部門や個人の利益に結び合い、外部 市場の競争圧力を直接企業内の競争圧力に転換してきた。また、中国の家電メーカーは競争力を 高めるために、企業内部で徹底した実績主義を実施していた。さらに、直接海外の技術者や経営 者を雇ったり、自社の株を海外や香港で上場して、国際資本を調達したりして、積極的に海外の 経営資源やノウハウを導入している。 また、激しい市場競争に対応するために、中国家電メーカーは自社のR&D組織を充実させる と同時に、大学や国家の研究機関と連携して外部の人材資源を活用していった。先進国からの技 術導入と開発能力の強化を通じて、中国家電製品の技術レベルはすでに世界の先進レベルに近づ いてきた。カラーテレビのブラウン管のコントロール芯片や冷蔵庫とエアコンのコンプレッサな ど中心部品は主に世界主流技術を採用し、先進国企業とほぼ同時にモデル・チェンジして、国際 最先端技術との格差はほとんど一年以内に抑えられてきた。 その中、中国の家電メーカーは自前の技術で商品差別化をするよりは、既存の技術をどんどん 引っ張ってきて組み合わせることで新しいものを作り、早く市場に投入する。全く新しい技術分 野であれば外国企業と提携して技術導入を行うが、ある程度技術を把握すると、独自に「コピー 的改造」を行う。より安く劣悪な素材を使って同じようなデザインと性能を出すために設計を工 夫したり、機能を減らしてコストを抑えたり、独特かつ多様化の中国ニーズに速やかに対応して 差別化の工夫を凝らしている(大原[2000])。 V1.考察 以上の議論を踏まえ、ここで中国における家電メーカーの能力蓄積の経験と問題を検討し、今 後の家電産業のグローバル化、および中国メーカーの行方を考察する。 今日中国上位家電メーカーの競争力が蓄積されてきたのは、主に中央政府の参入制限や計画投 資など産業政策のおかげではなく、激しい市場競争の産物である。50年代から70年代の末にか けて、中央政府は家電産業の発展に対して重視しないし、まともな管理部門も設けなかった。そ の時期、家電製品を生産しているメーカーはほとんど地方の中小企業であり、中央政府の政策投 資にまったく期待できず、主にローカルのニーズに対応していったが、生産規模が小さく技術能 力もきわめて弱かった。 70年代末から80年代半ばまで、供給不足の市場環境の中で計画経済統制の影響もあり、家電 メーカーに対する政府によるコントロールは一時強化されたが、長く続けられなかった。巨大な 市場需要と高い収益率の誘発で、多数の各種類所有制企業が小規模の組み立てからスタートし、 生産規模を拡大してきた。80年代の後半になると、家電メーカーが導入された生産能力は国内の -11-

(13)

需要を上回り、在庫が増え、家電製品の生産は売り手市場から買い手市場へ転換したため、政府 政策の直接介入はほぼ不可能になった。

その中、80年代に後発の家電メーカーが政府の政策優遇に頼らず、市場ニーズの変化に懸命に

対応してきた。特に80年代中期以降に参入してきた後発の集団所有制企業、郷鎮企業は、厳しい

国内市場競争でしのきを削ってたたかい、現場の生産管理能力、市場の販売・サービス能力や製

品の開発能力を高めて、着々に伸びて強くなっていた。市場経済の波を乗って急速に拡大し、先

発の政府「指定メーカー」と入れ替わって頭角を現し、業界の上位に上ってきて、さらに、多国

籍企業と連携しながら、国際市場の競争にも加わっていた。

結果から見れば、長期かつ過酷な市場競争が、冷蔵庫や洗濯機など「組合せ」寄りの製品の製

造技術に対する中国家電メーカーの習得過程を加速させた。その上、非国有企業を中心とする後

発の家電メーカーは独特かつ多様化する中国ニーズに速やかに対応する独自の「コピー的改造」

能力を形成したのである。勿論、家電生産技術の高度化に伴い、中国の家電メーカーはいかに

R&Dの能力を高めていくかが課題として残されているが、中国経済のグローバル化とともに、

更なる競争を通じて、進化していくことも可能であろう。 [注]

1)もちろん、企業活動の外部環境条件は政府政策と市場環境だけではなく、他にも多数の要因

があると思われる。例えば、戦略論学者のME・ポーター[1992]によれば、企業の戦略に

影響を与える要因として、産業構造・ライバル間競争、需要条件、技術や人材の要素条件、

関連・支援産業などもあげられている。しかし、中国では政府政策と市場環境の変化は他の

環境要因を大いに左右し、企業活動に対して最も重要な要因なので、本文はできるだけ他の

関連がある環境要因にも触れながら、政府政策と市場環境を外部環境要因の主要要因として

企業の活動を解明していく。

2)冷蔵庫について、北京、広州、蘇州、天津、上海の5社を指定メーカーとして、年産200万

台の生産能力を形成し、他の地域で年産10~20万台程度の中小メーカーを9社を設立して

年産120万台の生産能力を形成し、数年間の間冷蔵庫の生産規模を総計で320万台に抑える ことにした。また、1981年に洗濯機業界の81年から85年にかけての発展計画を制定し、生 産規模と北京、大連、無錫、ハルビンなどの指定メーカーを決めた。 3)電子工業部はカラーテレビの組立てメーカーとして北京、天津、上海の3社を指定し、それ ぞれ年産15~20万台の組立ラインの導入を認めた。

4)1985年に、軽工業部に所属する家電製品およびその部品メーカーでは、国有企業従業員人

数の2万人に対して、集団企業の従業員は17万人に上っていた(『1986年中国軽工業年鑑」

ppl94)。 5)例えば、洗濯機、カラーテレビ、エアコンの輸入関税は80年代の後半から従来の70~80% から100%に引き上げられた。 6)80年代の末までカラーテレビ産業におけるブラウン管や冷蔵庫産業におけるコンプレッサの ような主要部品が長期にわたって供給不足だったので、政府によって割当制がとられた。割 当においては政府指定メーカーが優先され、各社の生産能力に比例して割当が行われた。 7)例えば、洗濯機生産大手の小天驚は88年に品質の問題で赤字に転落したため、89年に松下 から品質管理のノウハウと自動制御の設備を導入してから、90年に全国で唯一の洗濯機品質 金賞を獲得し、利益も大幅増加した。 -12-

(14)

[参考文献] l)大原盛樹[2000]「中国家電メーカーの競争優位」(『日中経済ジャーナル』2000年2月7日 号)。 2)郁燕書[1999]『中国の経済発展と日本的生産システム』ミネルヴァ書房。 3)河地重蔵・藤本昭・上野秀夫[1998]『中国経済と東アジア圏』世界思想社。 4)江小渭[2003]「家電産業一体制転換のなかでの産業発展と産業政策」(田島俊雄・江小消・ 丸川知雄著『中国の体制転換と産業発展」東京大学社会科学研究所)。 5)高城信義・那燕書・植田浩史・山本潔[1996]「前編一電子産業一技術形成と企業改造一」 (松崎義編『中国の電子・鉄鋼産業一技術革新と企業改革一」法政大学出版局)。 6)陳晋[2004]「中国自動車メーカーの競争力がなぜ弱いか-ビジネス・アーキテクチャの方 法で考察してみる-」『赤門マネジメント・レビュー」3巻9号。 7)M・E・ポーター[1992]『国の競争優位』ダイヤモンド社。 8)丸川知雄[1996]「市場経済移行のプロセスー中国電子産業の事例から-」(『アジア経済』第 37巻第6号)。 9)丸山伸郎[1988]『中国の工業化と産業技術進歩』アジア経済研究所。 l①渡邊真理子[2002]「資本構成と企業行動一テレビ2社の比較から-」(丸川知雄「中国企業の 所有と経営』アジア経済研究所)。 -13-

(15)

Jin

CHEN

Abstract

This paper focuses on the accumulation of the capability of Chinese electric

household appliances makers by adopting the framework of corporation

strategy. The Chinese electric household makers have rapidly increased

exports and developed overseas on-the-spot production since China

participated in WTO and opened its market. During the period between the

end of 1970s and the middle of 1980s Chinese government strengthened the

control over the electric appliances makers. It became impossible for the

government to continue the control due to the transition from supplier market to

consumer market in the late 1980s. During this transitional period the

electric household appliances makers that started in 1980s as "late-comers" became more and more powerful and competitive by developing on-the-spot

production, better management abilities, efficient sales on the market,

higher service ability, and production development competence. Those "late-comer" makers took over the manufacturers "designated" by the government

and distingUished themselves, taking advantage of market economy. They

eventually attained the top level of electric household appliances industry and joined in the competition in the global market, by cooperating with

multi-national enterprises.

Key words: industrial policy, accumulation of capability degree of competition

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