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トマス・ハーディ : ある短編を手がかりに(2)

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トマス・バーディ ある短編を

      手がかりに(2)

JUiN

1   少々長いが「憂欝な軽騎兵」(‘The Melancholy Hussar of the German Le− gion’)の冒頭のパラグラフをまずそっくりそのまま掲げることにする。 Here stretch the downs, high and breezy and green, absolutely unchanged since those eventful days. A plough has never disturbed the turf, and the sod that was uppermost then is uppermost now. Here stood the camp; here are distinct traces of the banks thrown up for the horses of the cavalry, and spots where the midden−heaps lay are still to be observed. At night, when 1 walk across the lonely place, it is impossible to avoid hearing, amid the scourings of the wind over the grass−bents and thistles, the o工d trurnpet and bugle calls, theエattle of the halters;to help seeing rows of spectral tents and the impedinzenta of the soldiery. From within the canvases come guttural syllables of foreign tongues, and broken songs of the father− land; for they were mainiy regiments of the King’s German Legion       1) that slept round the tent−poles hereabout at that time. こっちには風の吹き抜ける緑の小高い丘が,波乱に富んだあの当時から全く変 わらぬ姿で続いている。鋤が地面を掘り返した事などないものだから,芝地の 1) Thomas Hardy, ‘The Melancholy Hussar of the German Legion,’ chapter 1.

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      トマス・ハーディーある短編を手がかりに (2) 33 表面は今も昔通り。ここが野営地のあったところ。ほら,ここには騎馬のため に作られた土盛りの跡がはっきり見えているし,馬糞寄せのあったところは今 でも分かる。夜,私がこの寂しい場所を歩いて渡る時,必ずと言っていいほど 私の耳にはヌカボやアザミの叢をかすめる風の音にまじって,聞き覚えのある        はづな召集ラッパの音や端綱の擦れ合う音が聞こえ,目には何列ものテントの幻や兵 隊たちの隊属荷物が浮かんでくる。テントの中から聞こえてくるのは喉にかか った異国の言葉と父なる故国の歌の端々。それというのも,その連中は主に近 衛ドイツ人連隊だったからで,当時,彼らはこの辺でテントを立て野営してい た。 この部分でまず我々の注意を惹くのは,この話をこれから語ってくれるxX私、 の存在である。「こっちの方に続いているのは……」,「そして,こっちにはそ の昔……」,「ほら,ここを見てごらん」等々の繰り返しは,何もxX小説のレト リックヤというような洗練された文学理論としてではなく,もっと素朴な意味 での語り手の存在を読者に実感させるものである。彼が今我々の傍に立ってい て,指であっちこっちと指し示す。そのいちいちに我々は目を移す。つまり, これは語り手を案内人として我々をその現場に立ち合わせようとするための工 夫と言える。しかし,それだけではない。ことバーディに関して,語り手の存 在はこれとは劉にもっと重要な意味がある。それは,バーディの長編小説の世 界と短編小説の世界という二つの世界を考える上で貴重な手かがりとなってい る事である。  本来,短編と長編との区別はそれほど厳密な物差しによるものではない。せ いぜいでページ数か,或は,読み切るのにかかる時報など量的な目安に従って 適当なところで線を引くのが慣例であって,長編という器に盛られるべきもの と,短編でなくてはならないものとの間に明瞭な質的相違があってのことでは  2) ない。バーディの場合も大筋においては同じである。若い男女の恋愛を中心に 2)小説の長さに関して,例えば,Anthony Burgessは,小説という形式が叙事詩を  模倣することから始まったことと絡めて,次のように言っている。  “The epic hangever remains, and we]re unwilling to dignify books of, say, fifty

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 34 した様々な人生模様,折角の意図が無に帰してしまうに至る「皮肉なめぐり合 わせ」(“satires of circumstance”),ほんのささいな出来事が思わぬ方向に事態 を運んでしまう気まぐれな因果関係の鎖等々は,短編であれ長編であれ,バー ディの作品の殆どに繰り返されるモチーフである。従って,ここまでは両者を 区別するものは何もない。ところが,作品の比較的表面に近いところで扱われ るこれらの問題とは別に,もう一歩作品の内部に踏み込んだところ,そこには 何かがあって,そのために両者が必ずしも同列に論じられなくなっているよう な,そんな気がするのである。その「何か」とは何なのか。ストレートにそれ を取り出して言い切る事は大変難しい。何故なら,それは物語としての発想の 仕方そのものといった,創作としての根源的な問題にまで絡んでいそうだから である。  本論は,前回に続いて,私なりの「バーディ試論集」とでも称すべきものの 二回目である。その方法については,既に説明したように,短編「憂欝な軽騎 兵」を謂ばだしにして出来るだけ議論をふくらませ,バーディの全体像に近づ こうとするものである。今回,同短編の冒頭部を皮切りに議論のテーマとしょ うとしているものを副題風に言うならば,「短編の世界と長編の世界一バー ディの場合」とでもなりそうな問題で,それを幾つか違った角度から考えてゆ こうというものである。        2       ナイにブ  まず極めて素朴なレベルから議論に入ろう。バーディの短編と長編とでは, それぞれを取り巻く雰囲気がまず違う。、雰囲気、などという曖昧な言い方は 避けられるべき事は分かっているが,個々の作品を読んだ後の印象の総体をい ま暫くはそう呼んでおく。バーディの場合,長編,特に傑作と称される作品の 世界には,言うならば,とことんまでつき詰めた,中途半端な妥協など許さな thousand words and under with the title of novel, preferring to use the ltalian term novella....” Anthony Burgess, The Nowel Now (London: Faber & Faber, 1967), pp. 15−6.

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       トマス・ハーディーある短編を手がかりに ②  35 い徹底したものがある。それは単に,長編には悲劇的な題材が多いからという だけでなく,そこで取り上げられる道徳的・社会的・倫理的諸問題への作者の 姿勢そのものの厳しさに基づくもののように思われる。それに対し短編の場 合,扱われている、事件、や主題が時に長編のそれらより遙かに重大かつ深刻 であるにもかかわらず,全体としての印象には何かしら親密な感情,一言で言 えば、ぬくもりxx(coziness)とでも言えそうなものがある。xXlj囲気x・とか、ぬ くもり、とか,用語の曖昧さを補うためには例を引いて具体的に説明するのが 一番である。例えば,『ダーバヴィル家のテス』(Tess of the d’Urbervilles)と 「乳しぼり娘のロマンチックな冒険」(‘The Romantic Adventures of a Milk. maid’)である,既に,この二つの作品を並べること自体に首をかしげるむき もあるかもしれない。短編の方の題名に長編のヒロインを思わずものがあると いう以外,作品の完成度といい,作者の主題に向かう姿勢といい,両者にはま さに雲泥の差がある。しかし,だからこそ興味深いのだというのが私の言い分 である。というのは,この二つの作品の基本的な構図はかなり近いのである。 即ち,一人の乳しぼりの娘の前に「闇の王子が紳士に化けた」かと思わせるよ うなバーディ的メフィストが現われ,「純朴な田舎娘をたぶらかそうとする俗      おう 世からの誘惑」の罠が張られ,そこから娘の貞操観念をめぐって物語が紛糾す る一これが両作品に共通の構図なのである。それだけではない。物語のその 後の経緯,提起された問題の逼迫感等に於ける両者の開きが余りに大きいため に見落されがちであるが,乳しぼり娘Margeryのロマンチックな冒険にも, まかり間違えばTessのそれに匹敵していたかもしれない重大な道義的問題の 芽があったのである。例えば,ある晩,乞われるままに舞踏会に連れてゆき, 秘そかに、冒険昏を共にした娘Margeryが,実は婚約者のある身であった事 を知った男爵の驚きと嘆き ‘Engaged to a master iime−burner, and not a word of this to me! 3) F, B. Pinion’s expressions. See his A Hardy Companion (London and Basing−  stoke: The Macmillan Press, 1968), p. 67.

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36 Margery, Margery!when shall a straightforward one of your sex       の be found!Subtle even in your simplicity!’ 既に石灰製造業者と婚約している身でありながら,私には一言も言わないなん て1マージョリー1 本当に正直な女なんていつになったら見つかるんだろう。 君みたいに純朴な人でさえこうもずるいんだから。 は,テスの告白を聞き,自分より前に男がいた事を知ったAngel Clareのそれ と同質のものであり,むしろ,Tessの止もう得ない事情を考えればMargery の方が罪が深いと言える位である。つまり,Margeryのxx冒険。・には取り扱い ようによってはTessと同じ位深刻な結果になりかねない問題が含まれていた のである。それにもかかわらず,長編のヒロインのその後の顛末と短編のヒロ インのそれとは余りに違いすぎる。似たようなxX事件。xでありながら作者の扱 い方に於けるこの違い,そのもとをたぐってゆけぽ案外根の深い問題にゆき当 るのではないだろうか。  長編を構想する時と短編を構想する時とでは,作者バーディの側に何か違う も.のがあったのではないか。それは単に,一方を重視し他方を軽くみたとか, 一方は深刻に他方は軽妙に取り扱ったといったような言い方で済ませられな: い,謂ば,物語としての発想の仕方自体に由来するもの.ではなかったか。これ が本論の前提となる仮説である。それを解く手がかりを与えてくれそうなの が,著きほどの語り手の問題なのである。  バーディの場合,長編と短編の表面に表われた違いの一つは,後者に於いて 彼は幾度かxX語り。Xの形式を採り入れようとしていることである。 r変わり果 てた男」(‘AChanged Man’)がその一例である。 The person who, next to the actors themselves, chanced to know most of their story, lived just below ‘Top o’ Town’ (as the spot was called) in an old substantially−built house, distinguished among 4) Thomas Hardy, ‘The Romantic Adventures of a Milkmaid,’ chapter 5.

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       トマス・ハーディーある短編を手がかりに (2) 37 its neighbours by having an oriel window on the first floor, whence        らうcould be obtained a raking view of the High Street,... たまたまこの物語の大方を,当の御本人たちに次いで知る事になったその人と .いうのは,、町の天辺、 (それが通り名だった)をちょっと下ったところの, 古いどっしりした構えの邸に住んでいた。この邸が他の並びの家と違っている 点は,二階に出窓を持っている事で,そこからは本通りが隅々まで眺められた 先きの「憂欝な軽騎兵」の場合と同じように,彼は純粋な語り手であってxX&E 点の人物x・云々といった議論とは関係が無い。それでいてバーディの扱い方に は単なるmouthpieceで片づけられない,妙に念の入ったところもある。例え ば,彼は毎日出窓に坐って本を読んだり,外を眺めたりしている。時には車椅 子で茶会に出かける事もあるし,訪れて来た友人相手に樽話に耽けることもあ る。これらを寄せ合わせると,不自由な体をもて余し,日なが一日,窓の外の 出来事を眺め噂話の種にするしかない一人の老人とおぼしき人物が浮かび上 る。つまり,その程度には彼にも実在感が賦与されている。しかし,だからと 言って,明確な個性を与えられ物語の展開に関与する登場人物とまではゆかな い。最後まで「出窓の男」(the man in the oriel)と呼ばれるだけで,遂に匿 名のままである。この彼の匿名性は,彼が最も素朴な意味での語り手である事 を示している。人々が輪になって,そのまん中に一人の語り手が坐る。彼は見 た事,聞いた事を語り,聞き手を物語の世界に引き込む。語り手である彼は, 勿論,語るという行為の行為者としては存在する。しかし,いったん物語の世 界が聞き手たちを包んでしまえばその存在は消える。つまり,匿名の存在とな るのである。「出窓の男」の匿名性はまさにこれと同類のものなのである。彼 がどうやら老人らしいのも,昔から語り手は見聞も経験も豊かな集団の中の老 人が選ばれた事をしのばせるものなのかもしれない。  一人の語り手を囲んで聞き手が輪を作る一このxX語り、の原型的なパタ 5) Thomas Hardy, ‘A Changed Man,’ chapter 1.

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 38 一ンの端的な例がもう一つのの短編「一八〇四年の伝説」(‘ATradition of        l Eighteen Hundred and Four’)である。   The widely discussed possibility of an invasion of England through a Channei tu皿el has more than once recalled old Solomon Selby’s story to my mind.   The occasion on which I numbered皿yself.a皿ong his audience was one evening when he was sitting in the yawning chimney− corner of the inn−kitchen, with some others who had gathered there, and I entered for shelter from the rain. Withdrawing the stem of his pipe from the dentaLnotch in which it habitually rested, he learled back in the recess behind him and smiled into the fire. The smile was neither mirthful noエsad, not precisely humorous nor altogether thoughtfUl. We who knew hi皿recQgnized it in a mo− ment:it was his narrative smile.「Breaking off our few desultory        remarks we drew up closer, and he thus began:一  敵が英仏海峡のトンネルを通ってイギリスに攻めてくるのではとの,あのヵ ンカンガグガグの論議は私に一度ならずソロモン・セルビーの話を思い出させ たものである。  私が彼の話の聞ぎ手の列に連なったその晩,彼は既に集っていた他の者た ちと一緒に,宿屋の調理場の,大ぎく口を開けた暖炉のそばに坐っていた。そ こへ雨やどりのため私がとび込んだのである。パイプの柄をいつもの歯のあ いだがら取り出して身を後ろにそらせ,彼は火に向かって微笑を浮かべた。そ の微笑は陽気ともつかず,陰気ともつかず,必ずしもユーモラ.スでもなく, かと言って物思わしげだというわけでもない。だが,彼を知っている私たちに       しるしは何の微笑かすぐに分かった。それは,これから物語しょうという合図なの だ。とりとめない私語を打ち切って私たちが膝を乗り出すと,やおら彼はこう 6) Thomas Hardy, ‘A Tradition of Eighteen Hundred and Four,’ chapter 1,

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トマス・ハーディーある短編を手がかりに (2) 39 切り出した。  以上の事が示すものは,バーディの短編の世界が基本的には伝統的なtaleの 形式を枠組みとしている事である。四巻の短編集の一つにバーディはWessex Talesというタイトルをつけた。それは,勿論,様々な逸話や伝説を編む際の 伝統的形式,例えば『カンタベリー物語』(The Canterbury Tales)に倣った ものである事を暗示する。現に,『人生の小さな皮肉』(Life’s Lzttle Ironies) のほぼ四分の一を占める「古風な人たち」(‘AFew Crusted Characters’)は, LongPuddleに向かう乗り合い馬車の中で,三十五年ぶりに故国に帰ったJohn Lackland相手に御者と乗客とが次々に語る九つの挿話から成っていて,バーデ ィは当然『カンタベリー物語』の形式を踏襲している事が知れる。この他,四 巻の短編集の内の一つr貴婦人たち』(A GrouP of Noble Dames)もやはり, 郷土史家,老外科医,田舎司祭など十人の語り手が順番に語る、やんごとなき 御婦人たち、の逸話から成っていて,この形式に対するバーディの関心の強さ を物語るものと言える。  しかし,それだけではない。taleという語が示唆するものは,文字通り語り 手が聞き手に語るという形式,あのE. M. Forsterの言う「口をぽかんと開け        ア  て焚き火を囲」んだネアンデルタール人の昔から,暖炉の火を前にSolomon Selbyの語る話に固唾を呑む「一八〇四年の伝説」の聞き手にいたるまで,時 間を超越して存在し続ける旧くて新しい形式なのである。その歴史の長さは, その分だけこれが人間の根源的な衝動に発しているのかもしれないと思わせる 体のものである。  それはまたバーディ自身の幼い日々の体験にも結びつく。洞窟住いの祖先た ちが「口をぽかんと開けて焚き火を囲」み,また,前述の短編の聞き手たちが 暖炉の火のぞぽに集ったのと同様に,彼は家族や村の人々と共に暖炉の前で様        々な伝説や逸話に耳を傾けたはずである。思い切った言い方をすれば,人類の 7) E. M. Forster, Aspects of the Novel (Hermondsworth: Pelican Books, 1962),p. 34 8) 『トマス・バーディ伝』中,彼の最も幼い日々を記しているくだりに盛り込まれ

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 40 祖先たちが洞窟の中で物語りしながら囲んだ焚き火の火と,自分が子供の頃祖 母などの話に耳を傾けながらその前に坐った暖炉の火とが,彼の意識の奥深い ところ,謂ば無意識の領分で知らぬ間に同じものとして重ね合わさっていて, 人間の歴史の遙か遠くに起源を持つ物語の形式と,彼自身の記憶の遠いところ にある村の伝説や噂話とが一体となっていた一と,そういう風に言うことも 出来よう。  バーディの短編の世界は表面的には,時に,より辛錬,時に,より残酷であ る。にもかかわらず奥の奥のところでは,人間の愚行や不運を眺める眼になに かしら、ぬくもりxxがある。それが由来するものは,一つには,それが語り手 によって語られるという事にある。それは人間の最も旧い記憶にさかのぼるこ との出来る形式であり,それだけ人間の本性に近いところがら派生したものと も言えようか。またそれは,バーディ個人においても,その最も幼い記憶の中 にしっかりと残された形式でもある。短編の世界の雰囲気の少くとも一部は, この形式を覆う旧い記憶のやさしさとなつかしさによって説明出来るものでは ないだろうか。 3  語り手のいる構図一それがバーディ文学に占める意味は他にもある。こち らの方がバーディ文学の中味との関わりから考えて,より重要と言えるかもし れない。それは語り手の存在が,これから語られる物語が確実に人間の口を通 して語られるという事を保証している事である。また,語り手の存在は当然そ れを囲む聞き手の存在を前提とし,そこに語り手と聞き手が形成する人間的な xX 黶Aの概念を伴うことである。これから語り手が話す話は急なくしては聞け ない哀切きわまりない話かもしれないし,またその愚かさに腹をかかえさせら れる間の抜けた話であるかもしれない。どんな話であるにしろ,それが語り干 た数々のtraditionsを見ればその様子が良く分かる。 F. E. Hardy, The Life of Thomas Hardy (London: The Macmillan Press, 1962), pp・ 6−7,

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       トマス・ハーディー一ある短編を手がかりに (2) 41 によって語られる限り,物語の中の悲しみも喜びも愚行も自分たちと同じ人間 的地平で語られるはずなのである。勿論場所や時代を隔てた分だけ語り手や 聞き手は,物語の中味に対して距離を置いた余裕を持つ事が出来るかもしれな い。しかし,それは程度の問題であって,最終的には自分たちと世界を異にす るものではないとの意識はなお残っている。その意識が物語と語り手や聞き手 たちの間を結びつけ,同じ人間として,話しの中の人物たちの運命に対して優 しい気持ちを抱かせる。つまり,ここでは人の有為転変が人の口を通して語ら れるのである。短編の世界を包む、ぬくもり、のもう一つの原因がそこにある。  この事が真に理解されるためには,ここでもまた長編の世界との比較が不可 欠になってくる。バーディの長編小説の世界では,人の有為転変は神の口を通 して,否,神は語らないとすれば,神々がうち眺める位置から語られる。  よく指摘されるように,バーディの長編の幾つかの開巻部には出る共通した 型がある。澱荘と広がる荒野,或はゆるやかに起伏する丘陵地帯,そこを縫っ て続く一筋の道。眼はさらに近づいて,やがて,その道を往く一人の男(時に は女)を論い出す。それは時にVye船長であり,時に乳飲み子を抱えたHen・ chard夫妻であり,また時にはJohn Durbeyfie正dである。バーディの悲劇の 幾つかはこうして野を往く旅人の場面から始まる。「原始が拘束されることな        のく広が」り,「大気の闇と大地の闇とが暗黒の契りに結ばれる」ところと謳わ れるEgdon Heathの荒野は,常に人間世界を取り巻いている自然の混沌を象 徴するもの,そしてその間を細々と僅かに続いている道は,生来,混沌に耐え られないように作られてある人間が拓いたせめてもの、脈絡、の象徴,と考え ればこの、道往く旅人、は広く人間一般の情況を代表する普遍的存在としての バーfィなりのイメージを具現していると考えられるのかもしれない。  それはともかく,物語が始まるや我々はまず眼下に広がる大地を傭鰍する。 そして,近づいて一本の道を認めた後,さらにその道を往く人間へと接近す る。このバーディに特徴的な眼の動きはそのままバーディ的宇宙の構造を明ら g) Thomas Hardy, The Retztrnげthe ATative, Book I,chapter L

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 42 かにする。即ち,地上の人間の悲喜劇とこれを遠くから眺める天上界の眼とい う構造である。E. M. Forsterは・・一ディを本質的には詩人だと言う。何故なら       ’      10) バーディは「自分の小説を遙かな痛みから構想している」からだと言う。少く とも半分は当っていると言わざるを得ない。珍きほどからも言うように,彼の 長編の世界はまず遠い彼方,「永遠の生を永らえるものたちの首魁」が棲む「遙 かな高み」から眺め下された世界という構図を確かに持っている。(Forster の後半分に同意を留保出来るのは,これが芸術的秩序のための構図という一面 を持つからで,必ずしも,総てバーディの哲学的,普遍的な秩序の体系を表わ       11) すための構図とは言い切れないからである。)長編の世界のこのような構造に よって,その世界は,たとえ神々自身によって語られる事はなくとも,彼らの 見守る位置から起算された世界として位置づけられる。そのために人間の苦悩 に満ちた生きざまが,時に辛錬なアイロニーに収敏されてしまったり,懸命な 努力が結局は甲斐ない喜劇に堕してしまったりする。  それに対し,何らかの形で語り手を設定して,その彼が見聞した話を語り伝 えるという形を取る事の多い短編の世界は,その視座が飽くまでも我々と同じ 人間のそれであるために,語られる対象たる人聞は常に、等身大、で語られ る。そして,愚行は愚行として,悲運は悲運としてそれにふさわしぐ閾笑を買 ったり,同情を得たりする。それを量るのは飽くまでも人間社会の物差しであ る。つまり,語り手や聞き手が共有するのと同じ規範に則って量られるのであ る。遂に過去を告白したTessは辛酸を嘗めつくした果てに刑場に消える。罪       のない過失も「半盲の裁き手」たちによって,人間的な物差しからすれぽ遙か に不当と思える裁きを受ける。つまり,彼女を裁く規範は,人間社会のそれと 10) E. M. Forster, oP cit., p. 100. 11)Albert J. Guerardもこの点を次のように述べている。  “Hardy was first of all a story−teller, and hts attitude toward many problems  was aesthetic. His pessimism was genuine enough, of course, but it was to a  degree cultivated as artistically useful.” Albert J. Guerard, Thomas Hardy (A  New Dirctions Paperbook, 1964), p. 16. ユ2) “These purblind Doomsters”.バーディの詩‘Hap’中に見える有名な句。

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      トマス・ハーディーある短編を手がかりに (2) 43 は違った根拠に基づくものなのである。それが長編の世界である。一方,同じ 過去を持ち同じ告白をしながら短編「単なる挿話」(‘AMere Interlude’)の Baptista Trewthenが得た裁きは遙かに人間的なものである。即ち, Charles Stokleとの(彼女にすれば本番前のxxほんの幕合劇、のような)結婚の事実 を隠したままMrs David Heddegenになりすました彼女に対する裁きは,夫 の四人の隠し子の養育という,彼女のxK誤ち。Nにふさわしい報いである。 In the Iong vista of future years she saw nothing but dreary drudg一       ユお  ery at her detested old trade without prospect of reward. 長いこれからの年月を見通してみて,彼女に見えるのは,厭で辞めたはずの教 師稼業をうんざりするほどやらされるだろうという見込みだけ,しかも,何の 見返りもないときていた。 そこには,人間の存在を徹底的につき詰めて,人間の諸々の行為の意味をxX絶 対、の次元で問いただそうとする,あの真摯ではあってもどこか息苦しい長編 の世界とは壁を一つ隔てた,何かしらほっとするような,度々使ってきた言い 方を繰り返せば,人間的な、ぬくもり、のある世界があるような気がするので ある。 4  以上の問題を少し角度を変えてもう暫く続けてみよう。その端緒はバーディ と,彼が創り上げた虚構と実在の狭間にある空間ウェセックス(Wessex)との         関係にある。簡単に言い切ってしまえば,長編の場合バーディは作者として自 13) Thomas Hardy, ‘A Mere lnterlude,’ chapter 7. 14)・・一ディが自分の作品の地理的背景としてWessexという語を用いたのはFar  from the Madding Crowdヵミ初めてである。  “ln reprinting this story for a new edition 1 am reminded that it was in the  chapters of “Far from the Madding Crowd,’ as they appeared month by month  in a popular magazine, that 1 first ventured to adopt the word ‘Wessex’ from

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 44 らの創作になるウェセックスという自律的な小世界に対し「創造の神」(“the God of creation”)のように離れた立場に立っている。これに対し短編の場合, ウェセック不全体は一つの共同体,一つの、村、のような存在であって,バー ディの占める位置もそのまん中,つまり,彼自身がその村の住人の一人となっ ていると見る事が出来る。長編での彼は眼を遙かな勤みに据えて全体を傭同摩 し,略運命、やら昏悲慮恥やらを見るが,短編での彼は仲間の村人たちと一緒 になって、古風な人たち、の噂話に興じたり,昏人生の小さな皮肉、に感じ入 ったりする。ここでは,彼も村のコロスの一員であって,時には聞き手とし て,時には話し手として,村の伝統を語り継ぐ存在なのである。  同じウェセックスに対しながらバーディの占めるこの位置の違いを端的に表 わすものは,ウェセヅクスの地図の上に散在する地名が持つ意味の違いであ る。長編におけるウェセックスは同じウェセックスであっても,普遍的存在と しての人間の住む謂ば小宇宙としての場である。従って長編に登場する様々な 地名は,いかにその下に実際の名前が簡単に透けて見えようと,その地誌学的 正確さよりは,主人公たちの繰り広げる人間ドラマという文脈の上での象徴的 な意味の方が重要なのである。Egdon Heath, Talbothays, Christminster,それ        ならがイングランド西部地方のどのあたりを模しているかは簡単につきとめる事 が出来る。しかし,バーディが創造した架空の場所と実際の場所とをつき合わ せてその照合や差異を云々する事が,Eustacia, Tess, Judeの悲劇の深さと重 さを正確に受けとめるために不可欠なわけでは必ずしもない。それよりも,人 間が諸々の葛藤にきりきり舞いさせられる様を横目に悠然と大古以来の姿のま まに横たわるEgdon Heathが,バーディの言う‘bcosmic indifference”の象微 であるという事,また緑にしたたり,生命の泉が総ゆる生きとし生けるものを 充たすと謳われたFroom河流域Talbothaysは,自然界の永遠の再生の力を 象徴するところ,さらには,切な:い望みを託してJude少年が望見した薄暮の the pages of early English history, and give it a fictitious significance as the existing name of the district once included in that extinct kingdom.” ThQmas Hardy, Far from the Madding Crowd, Author’s Preface,

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       トマス・ハーディーある短編を手がかりに (2) 45 中のChristminsterが,現実にはOxfordである事よりも,表面xx永遠の都xx に見えて,その実,かび臭い因習と狭量な排他主義を内に蔵し,人間味を失い 教条化した知的活動の場の象徴,或は,人間の宿命としての野心,その野心の 向かうxX虚栄の市。・の象微である事の方が余程重要なのである。  これに対しウェセックス全体を一つのxX村xxと見る短編の世界では,小さな 川,何でもない丘,それらが持つ地名の一つ一つが,何らそれ以外の意味があ っての事ではなく,ただそれぞれの場所に固有の名前であるという理由だけで 意味を持っている。  ここで言うxx村NXとは単なる地理的境界の問題ではない。空間的なものと時 間的なものが離れ難く結びついた独特の人問集団の領域である。このxX村xxの 概念を理解するのにバーディ自身の文章が役に立ってくれる。以下は一九〇二 年三月づけのRider Haggard氏宛ての手紙の一部で,同氏が農業と農業労働 者の実状を問い合わせてきたのに答えたものである。その中でバーディは,農 民たちの生活や雇用条件は昔に比べてずっと良くなっている事:を指摘した上 で,しかし同時に余り好ましくない変化も起きていると言う。労働者たちがあ っちこっち移動して歩く傾向が一層強まった事がそれである。そのために, For one thing, village tradition−a vast mass of unwritten folk−lore, iocal chronicle, local topography, and nomenclature−is absolutely sinking, has nearly sunk, into eternal oblivion....Thus you see, there being no continuity of environment in their lives, there is no continuity of information, the names, stories, and relics of one place being speediiy forgotten under the incoming facts of the next. For example, if you ask one of the workfolk... the names of surround− ing hills, streams; the character and circumstances of people buried in particular graves; at what spots parish personages lie interred; questions on local fairies, ghosts, herbs, etc., they can give no answer: yet 1 can recollect the time when the places of burial

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46 even of the poor and tombless were all remembered, and the history of the parish and squire’s family for 150 years back known. Such and such ballads appertained to such and such a Iocality, ghost tales were attached to particular sites, and nooks wherein wild herbs        15) grew for the cure of divers maladies were pointed out readily. 一つには村の伝統一彪大な量の口伝の民話,郷土史,地誌それに地名一 が完全に忘れ去られつつある,否,すでにかなり忘れられてしまっているとい う事である……従って,生活の場に持続性が無いものだから,知識についても 持続性が無くなり,一つ箇所の名前や物語や過去の遺産は,次に行った場所の 色んな知識にたちまち埋れさせられる。例えば,誰か労働者に聞いてみるとい い。回りの丘や川の名前とか,どこそこの墓に埋葬されている誰それの人とな りとか境遇とか,どの場所に教区のお偉方が眠っているかとか,或はまた,この 地方の妖精や幽霊や薬草等々についてのことを。きっと答えられないはずであ る。しかし,私の記憶にある頃には,貧しくて墓石も買えなかった連中でさえ, どこに埋められているかを皆が覚えていたし,教区や地主の一族の歴史は一五 〇年前までさかのぼる事が出来たものである。これこれのバラッドはこれこれ の地方のもの,その土地土地にはそれぞれの幽霊話があり,あれこれの病気に 効く野草の生えている場所などもすぐに見つけられる,とそんな具合であった。 このバーディの嘆きを一言で言えばxX村xxの喪失ということである。そして, 彼がここで消えてゆくのを惜しんでいる一つ一つのもの,それカい村NXを構成 .していたものである。ここで言うxX村、とは決して単なる地図の上の任意の線 で囲われた空聞ではない。それは民話や郷土史や地名を共有する人間たちの集 団が作り出す領域のことである。そこでは,連なる丘の一つ一つ,流れる川の 一つ一つが名前を持ち,その一つ一つの名前に通じている事でお互いが同じ共 同体に属する事を確認し合う,そういう空間である。従って,長編の地名の意 味がその象徴的な響きにあるのに対し,ここでは地名であるというただそれだ けで十分なのである。 ls) F. E. Hardy, oP. cit., pp. 312−3.

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       トマス・ハーディーある短編を手がかりに (2) 47  この意味におけるxX村。・が創作の中で具体化された典型的な例は勿論『森林 地の人びと』(The WVoodlanders)中のLittle Hintockである。この物語は, 平和で穏やかな林間の村Little Hintockへ都会風の教養と進んだ思想を身に つけた医師Edred Fitzpiersがやって来たことから起こる波乱を物語の軸にし ている。これを,都会と田舎,新しい時代と旧い時代という単純な対立に還元 してしまえば,余り新味のない,バーディによくある図式に見えてしまうかも しれない。しかし,Fitzpiersの立場はもう少し複雑である。進んだ科学知識 と観念的な哲学を弄ぶ一方,名門に連なる一員としての階級意識を捨て切れ ず,懐疑に悩んで憂欝に沈むかと思うと,情を逞しくして漁色に耽ける,この 青年医師の複雑で多面的な性格づけは,ややもすればまとまりなくばらばらに なりかねない類のものである。それを辛うじて一貫した人間像としてつなぎと め,ある種の普遍性を与えているのは,情況から疎外されたものとしての彼の 存在である。一見,加害者に見える彼もその一枚下は,自分と自分を取り囲む ものとの間に何の結びつきも持てず,根のない不安定な存在をかこつ被害者で もある。つまり,彼はLittle Hintockというxx村。xに於けるxx異邦人。xなの である。そこに言うxx村、とはどういうものなのか, Fitzpiersを否応なく疎 外するものの実体は何なのか,それを説明しているのが同作品の次の部分であ る。文脈はこうである。人里離れた寂しい村での冬は普通の人びとには耐え難 いはずだが,しかし,もとからこの村に住む人にとっては決して辛くはない。 むしろ愉快℃さえある。ただし,そうであるためには或る種の条件が必要であ る。WinterborneもMelburyもGraceも,彼ら生粋のこの村の住人にはそれ がある。しかし,たまたままぎれ込んだに過ぎないこの医師にはそれがない。 ここで言うxXある種の条件x・とは一丁この村の住人たる資格のことであり, Fitzpiersを疎外したのもそれである。即ち, They are old association−an almost exhaustive biographical or his− torical acquaintance with every object, animate and inanimate, within the observer’s horizon. He must know all about those invisible

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48 ones of the days gone by, whose feet have traversed the fields which look so grey from his windows;recall whose creaking plough has turned those sods from time to ti皿e;whose hands planted the trees that form a crest to the opposite hi11;whose horses and hounds have tom through that underwood;what l)量rds affect that particular brake;what bygone domestic dramas of love, jealousy, revenge, or disappointment have been enacted in the cottages, the mansion, the street or on the green. The spot may have beauty, grandeur, salubrity, convenience;but if it lack memories it will ultimately pall upon him who settles there without opportunity of       i6) intercourse with his kind. それは昔につながる連想である一即ち,命のあるものも無いものも,眼に入 ってくるものの総てに対し,その由来も故事も殆ど知り尽している位の関係で ある。また,今,窓からはただ灰色にしか見えないあの野原をかつて行き来し た,今はもう姿の見えない過去の人々についての総てを知っていなくてはなら ないし,また,折々鋤をきしらせてあの土を掘り起した人を思い出せなくては ならない。向うの丘の頂きを飾る樹々を手ずから植えたのは誰だったか,あの     コ   ロ     したばえをかき分け通り抜けた馬や犬は誰のだったか,好んであそこの藪に飛 んで来たのはどんな鳥だったか,あの田舎家,この領主館,あの往来,この草 地でそれぞれどんな,愛の,嫉妬の,復讐の,裏切りのドラマがかつて演ぜら れたか,それらを総て知っていなくてはならないのだ。そこがた.とえ美しく, 宏壮で,健康に適し,地の利を得た場所であったとしても,思い出に欠けてい るならば,居を構えばしたが仲間つき合いの機会のない人には,いっかきっと うんざりするものになってくるだろう。 バーディがこの作品に付した序文の中に次のようなくだりがある。即ち,「自 分はこれまでたびたびLittle Hintockが実際にを柔どこなのかという問い合わ せを受けて来た。ここらではっきりさせておいた方がいいと思うので白状する 16) Thomas Hardy, The IVoodlanders, chapter !7.

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       トマス・ハーディー一ある短編を手がかりに (2) 49 のだが,それは物語中にある通りだという以上には,実は私にもどこだとは正 確には言えないのだ」と。勿論,それはそうであろう。彼の創り上げたxx村。x とは決して地図の上で切り取り得る空間ではないからだ。それは,Haggard氏 宛ての手紙が示す通り,そして今の引用が説明している通り,場所と人とが時 間をかけて作り出す領域,外界がxX記憶xxを媒介として人間の内側に取り込ま れた領域であるからだ。  凹きの手紙はこのxX村。xの伝統が喪われてゆくのを嘆くものであった。その 伝統とは何か。世代から世代へと語り伝えられる民話や郷土史だと言う。もっ と具体的には,丘や川の名前だけでなく,墓に埋葬されている人の名前,この 地方に棲む妖精や幽霊の話,薬草の在りか等々一それが集って村の伝統を作 り上げているのだという。そしてそれらを共有する事によって初めてxX村xxと しての「持続性」(“continuity”)が生まれるのだと彼は言うのである。ところ で,これらの墓に眠る連中にまつわる話や幽霊,教区の歴史や地主の家系など といったものこそは,バーディの数々の短編の世界を織り成しているものに他 ならない。とすれば,短編の執筆に向かうバーディには村に伝わる伝統を継承 し記録し,それによって村に持続性を与えようとする意識つまり,村の伝統 を受け継ぎ後の世代に語り伝えるxX語り部x・としての意識があったのだ,とい うような言い方も不可能ではなかろう。  前章で私は,バーディの短編を形式の上からtaleとして特徴づけた。それ では,話の中味或は性質の上からはどう呼ぶのが最もふさわしいであろうか。 思いつくままに挙げてみても,folkloエe, Iegend, anecdote, bailad等がすぐに 思いつく。それらはいずれもバーディの短編の世界の一面をそれぞれに言い当 てている。しかし,まだ何かあるはずなのである。  彼にとって物語とは単に人を興がらせるだけのものであってはならなかっ た。それは村に統一と持続性を与える特別の力を持ったものだったのである。 遠い祖先から今に伝えられ,さらには次の世代へと語り継がれてゆく数々の物 語,その物語を通して村は過去から現在,現在から未来へと確かな形で続いて ゆくのを自覚する。丘の名前や川の名前を共有する事によって村に共同体とし

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 50 ての統一が生まれるのと同じように,昔から伝えられた物語を共有する事によ って,即ち,過去の記憶を共有する事によって村は持続性を得るのである。  例えば,バーディの短編の幾つかでは語りは二重になっている。自らの経験 を語る人物の他にもう一人別の語り手xK私、が設定されている。 r憂醗な軽騎 兵」もその一つである。 Phyllis told me the story with her own Iips. She was then an old       ヘ      ユア  lady of seventy−five, and her auditor a lad of fifteen. フィリスは自ら私にこの話をしてくれたのである。その時の彼女はもう七十五 になるお婆さん,聞ぎ手の私はまだ十五の少年だった。 何故わざわざこのような二重の設定が必要だったのか。それは物語が語り継が れてゆく過程を明確にするためである。まず初めにPhyllisが語る。しかも五 十年以上も昔の事を。そしてそれから三十年以上たった今,当時十五歳の聞き 手だ・)た、私、が今度は語り手として語り伝えようとする。聞き手から語り手

ヘー一

lの人間のこの役割の交代の中に語り継がれる過程を見せようという のである。  バーディの短編の基本的性格を一言で表わす言葉は恐らく“tradition”とい う言葉以外に有るまい。単なるanecdoteやepisodeでは過去から現在へと語 り継がれてきた伝承性が言い表わされていないし,folkloreやIegendでは traditionという語の示唆する共同体における求心的なカーxx村やをまとめ 上げる効果一が伝わらない。バーディ自身も度々この語は使っていて「一八     トラディション 〇四年の伝説」はそのものずばりだし,「戻ってきた公爵」(‘The Duke’s ReapPearance’)にも‘A Family Tradition’という副題がついている。それ よりなにより,rバーディ伝』中,彼の最:も幼い日々を叙した部分に如何に traditionという語が頻出するかを見れば,この語と彼との結びつきの深さが分 かろうというものである。この頃バーディが聞いた物語とは何よりも彼自身の 17) Thomas Hardy, ‘A Melancholy Hussar of the German Legion,’ chapter 1.

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      トマス・ハーディーある短編を手がかりに (2) 51 家系にまつわるものであった。その辺の事情をRobert Gittingsは次のように 伝えている。 The fascinating source of many of these traditions was, of course, Hardy’s grandmother, Mary Head Hardy....Her stories and hints about her unhappy birthplace haunted her grandson so much.... Other traditions, folklore and legends clearly had their origin with this grandmother, who was thus the source of some of Hardゾs most       ヨ  mysterious and moving poems and incidents in his novels. これら多くの伝説を語って人を惹きつけた主は,勿論,バーディの祖母メアリ ー・ヘッド・バーディであった……生まれた土地の不幸について彼女が語った 事やほのめかした事は後々までこの時の孫の脳裡を去らなかった……その他の 伝説や民話や言い伝えの出所も明らかにこの祖母で,彼女はこうしてバーディ の最も心迷わす,或は,心動かす詩や小説中の事件の源泉となったのである。 祖母の口を通して彼に語られた一族の誰彼の生き死には,決して噂話や逸話を 聞く時のように他人事として聞く事は出来なかったはずである。それは彼に過 去との紐帯を強く意識させたはずなのだ。遠い過去から脈々と続いているバー ディ家という血の流れ,その最先端に自分がいて,祖母が語る物語の中に過去 がある,祖母が孫に語り伝える(Phyllisがxx私、に語ったように)事によっ て過去が受け継がれてゆく。つまり,ここでもまた彼にとって物語とは何より もtraditionであったのである。 5  バーディは一ダースに及ぶ長編小説の何れにおいても語り手を登場させてい ないし,何らかの形でxx語りxxの手法を取り入れようとする試みにも積極的で ls) Robert Gittings, Young Thomas Hardy (London: Heinemann, 1975), pp. 16−7.

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 52   ユ う はない。ところが,これに対して四巻の短編集のかなりの作品においてバーデ ィは,、語り、の形式を物語の枠組としている。その点を手がかりとして,長 編と短編の世界の違いを考えてみようというのが本論の狙いであった。しか し,それで総て割り切れるとは無論思っていない。私がここまでの議論で短編 の世界に特徴的と指摘した要素は長編のあるものについて,またはある部分に ついて当てはまるし,逆もまたあり得る。また,語り手の問題にしても勿論短 編の総てに語り手が登場するわけではなく,形式上長編と何ら変わりのない作 品も多い。要するに,私がここで短編と長編というもともと曖昧な形式上の区 別を借りてでも試みようとしたものは,複雑で多面的なバーディの世界をそれ で以って両断しようとする事などではなくて,バーディの中の現実に対する複 眼的な物の二方,その対:立と調和の関係なのである。  例えば,前章において私が,短編の世界を作るxX村。xの典型としてr森林地 の人びと』のLittle Hintockを取り上げたことに対して,「あの作品は長編で はないのか」との異論は当然予想される。それに対して私が「その通り」と答 えても何ら矛盾する事にはならない。何故なら,私が短編の世界と呼んだのは 飽くまでもWinterborneやMarty SouthやGeorge Melburyの住むLittle Hintockという共同体であって,そこへ,その共同体の存在を脅かす外部から の異分子的な闊入者一FitzpiersやCharmond夫人一がやって来て,その ためにに深刻な問題が引き起こされる,そこからは長編の世界になるからであ る。つまり,あの場合xx村。xとしてのLittle Hintockは短編の世界の典型であ り,それを包み込んでいるより大きな枠,即ち,全体としての作品は文字通り 長編なのである。短編と長編の共存一こういう言い方は,文学形式の議論と してはナンセンスに聞こえるであろうが,一人の作者の中の,世界を観る複数 の視座と解せば十分意味の通るものではないであろうか。  愛や善意を規範とし,努力や忍耐を行動律とする人間の世界と,その世界を 遠くから冷ややかに眺めそれとは全く別の論理で運行する、天上の観客たち昏 !9) この点に関して唯一一一・の例外と言えそうな作品は,“ATale”という副題がついてい  るThe TrumPet−MajOrであろう。

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       トマス・ハーディーある短編を手がかりに (2) 53 の世界,これまで長編の世界と呼んできたもの一それは確かに一つのバーデ ィ文学の構造,つまり,バーディが世界を眺める一つの観方である。それと同 時に,人間の運・不運,偶然のいたずら,めぐり合わせの皮肉,そういったも のにこぶしをふり上げて抗議するのではなく,それらを生の現実の不可避的な 条件として受容する態度,それは決して敗北主義でもないし諦念でもない,む しろ,古い叡智に裏打ちされたしたたかな生き方であり,そのしたたかさが人 間の様々な生きざまを,時に皮肉な話として,時に笑い話として,また時に哀 れな話として,総て一編の物語の中に収め込んでしまう一そのようなウェセ ックスの村人たちの眼,これまで短編の世界を見る眼と言ってきたもの,それ もまたバーディの眼なのである。  Tessと彼女の母親を対比してバーディは Between the mother, with her fast−perishing lumber of superstitions, folk−lore, dialect, and orally transmitted balla(玉s, and the daugh− ter, with her trained National teachings and Standard knowledge under an infinitely Revised Code, there was a gap of two hundred        years as ordinarily understood. 急速に姿を消してゆく過去の遺物,迷信,民話,方言,口伝えの俗謡,そうい ったものに囲まれた母親と,次々に改訂を施された教育規程の下で国民教育を 受け,標準課程を経た娘,その両者の間には普通に見ても二百年の隔たりがあ った。 と言う。Tessの教育によって訓練された知性は,人間の住むこの世界を「腐 ったりんご」と決めつけさせ,この世に生を享けること自体が呪いだと断じさ せる。このTessの嘆きの中には判つきり・・一ディの声を聞くことが出来る。 しかし同時に, 「迷信,民話,方言,口伝えの俗謡」の世界に住み, 「済んだ 事はもとには戻らない」という経験知を支えに現実を受容する母親Joanもま 20) Thomas Hardy, Tess of d’Urberwilles, chapter 3.

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 54 た・・一ディなのである。x”村xxを離れたTessは悲劇の世界に足を踏み込み, xx コ、に残ったJoanはその悲劇を超えてなお生き延びる。 JoanとTessが親 と子という二つであってもとは一つの関係にあるように,Tessが表徴する世 界観とJoanが表徴するそれは,一見,二つに見えて実はバーディの中で一つ のものとして調和的に共存しているのである。大事なのはその事であって,そ れに比べれば,現実世界に向き合うTessの厳しい姿勢を長編における作者・・ 一ディの姿勢と重ね合わせる一方,Joanの姿勢を短編におけるそれ結びつけ る事は飽くまでも二義的な問題でしかない。         (つづく)

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