中世三河における真宗教団の展開
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(2) 目次. 第一節 永禄年間の松平氏と三河の状況・⋮. 第二立早 ・永禄一二河一雄快・ 。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ⋮ 。. 第三節 三河真宗教団の金融活動・・・・⋮. 第二節 蓮如以降・・・・・・・・・・・⋮. 第一僧即 藷運如以ユ則・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ⋮. 第一章 真宗の三河進出と発展・・・・・・⋮. ・ ・ ⋮ 47. ・ ・ ⋮ 37. ・ ・ ⋮ 37. ・ ・ 。 ・ ・ −よ戸0. ・ 。 ・ 。 ・ ・ Qソ. ・ ・ ・ ⋮ ハ0. ・ ・ ⋮ 。 5. ・ −. 第二節永禄一揆・・・・・・・・・・・⋮. ・ ・ ⋮ ρ01. はじめに・. 第三章 一揆後の三河真宗教団・・・・・・⋮. ・ 91. ・ ・ ⋮ 75. ・・⋮ゴ61 ● O ● ■ ■ ● ●. 第一節 石山合戦と三河真宗教団・・・・⋮. ● ● ■. 第二節 一向宗解禁とその後の三河真宗教団・・. おわりに・.
(3) はじめに. 本研究は、中世三河における真宗教団について、その中心にあった有力大坊主が行った活動を明らかにするこ. とで、有力大坊主が三河真宗の発展に果たした役割、三河真宗の特異性を考察することを目的とする。. 三河における真宗の展開は、他国のそれと様相が異なると思われる。その原因は、近世幕藩権力を創出する松. 乎氏の領国であるからだ。新行紀一氏は、松平︵徳川︶家康が乱世を治め幕府を開いたことで生じた﹁松平︵徳. 川︶中心史観﹂によって、三河で史実改変・抑制が行われた可能性を指摘している︵←。事実、三河真宗教団に. 関する史料は少なく、門徒の実態や教団の組織形態など、明らかにされていない部分が多い。. また﹁三河一向一揆﹂に関しても、真宗教団側の史料はなく、ほとんどが松平氏側の史料により研究が行われ. ているのが現状である。それによって、松平氏の権力構造や家臣団に関する研究は進み、成果を上げている。し. かし、本願寺教団側からの視点が欠如せざるを得ず、﹁三河一向一揆﹂研究はあまり前進していないように思われ る。. ところで、﹁三河一向一揆﹂とは、永禄六年︵一五六三︶三河国の一向宗︵本願寺教団︶と松平︵徳川︶家康. 方が衝突したものである。この戦いの背景として、教団側が握っていた西三河における流通・商業的⋮磯能の主導権. の剥奪が、松平氏が大名化するために必要不可欠で、それには﹁大坂並﹂特権といわれる寺内不入権を否定、排. 除することが前提であった。本願寺・一向一揆研究において、地方大坊主を中心とした本願寺教団が掌握する寺. 1.
(4) 内町の不入権や流通の拠点としての機能が、領国を一円的に支配しようとしている大名権力の障害となった、と. いうことは従来言われてきていることである︵2︶。また、当時二向一揆﹂という概念はなく、同時代史料には. ﹁一揆﹂としか記されていない︵3︶。三河においても同様に捉えられている。しかし、これに対して村岡幹生氏. が批判している。三河における一向一揆は﹁各々門徒衆寄合て、土呂・鍼崎・野寺・佐々きに取籠りて、一揆﹂︵4︶. を起こしたという記述もあり、本願寺派門徒の起こした一揆という認識がある一方で、﹁本願寺教団以外の勢力と. 家康軍の戦闘から発し、︵中略︶松平家重臣酒井忠尚攻めで決着﹂しており、事件の当事者に近い人が著した近世. の書に﹁三州に一揆﹂あるいは﹁参州二而一揆﹂とある。つまり、﹁本願寺門徒の起こした一揆﹂という認識も当. 時あった上で、あえて﹁一揆﹂とだけ記しているということは、当事者は三河に起こった一揆を﹁本願寺門徒に. よる一揆﹂とは考えていなかったことになる。ゆえに回向一揆﹂と前提すべきではないとして、﹁永禄三河一揆﹂ と表現した︵5︶。本論文では一応その表記に従う。. 先行研究の問題点として、まず﹁三河一向一揆﹂に関して述べると、その構図を松平家康対三河本願寺教団と. しか捉えていない点である。本願寺教団以外の酒井忠尚ら非門徒である武将と三河本願寺教団の両者がなぜコ. 味﹂したかの考察がよくなされていないように思われる。また、酒井忠尚ら非門徒諸将が反家康となったのは、. 教団に味方したからというだけではなく、当時の三河国内の状況を考えなければならない。次に、三河本願寺教. 団の研究についてである。史料的制約があるとはいえ、教団の重要な位置を占める一門衆本宗寺やいわゆる三河. 七ヶ寺の末寺道場の広がり、教団内の位置づけに関する考察など、一定の成果がみえる。本研究においても参考. にしている部分は多い。問題点を挙げるとすれば、一つは有力坊主衆の亡命中の三河本願寺教団の研究がないこ. 2.
(5) とである。一向宗禁制下の三河においての教団・門徒の活動が全くないわけではない。二つ目に本宗寺の役割に. 関する考察である。本宗寺が三河本願寺教団の頂点であることは、本願寺一族の血縁者が継いでいるから疑問は. ないが、本宗寺の具体的な活動や直参の末寺道場の数・分布など、不明な点は未だに多いはずである。. 以上述べた問題を踏まえて、論を展開していく。まず、第一章において三河真宗の発展とその活動を考察する。. 旦ハ体的には、真宗の三河進出と発展の様子を確認し、三河真宗寺院が行った金融活動について考察する。第二章. では、永禄六年に起きた永禄三河一揆について検討する。永禄年間の三河の状況を確認し、今川氏や反家康勢力. の政治的関係についてみる。それが永禄一揆へとつながることを確認したい。最後に第三章で、一揆後の一向宗. 3. 禁制下の三河門徒の動向を検討し、三河本願寺教団の赦免に至る経緯を見直す。本研究が、本願寺・一向一揆研. 321. 安藤弥二向一揆研究の現状と課題﹂︵前註前掲書︶. v v v. 神田千里﹃一向一揆と石山合戦﹄吉川弘文館、二〇〇七年. 二〇一学年︶. 究において、門徒の実態や、本願寺と一向一揆の﹁別物論﹂︵6︶・﹁教団時一揆⋮体論﹂︵7︶の議論、さらには一門. 新行紀一﹁一向一揆論断章﹂︵同編﹃戦国期の真宗と一向一揆﹄吉川弘文館、. 衆と地方大坊主の関係を再考するきっかけになればと思う。. (__註.
(6) ︵4︶﹃三河物語﹄。大久保忠教︵一五六〇1一六三九︶著。著者は一揆当寺幼少だったが、一族が家康方として戦. つた。自筆本は寛永三年︵一六二六︶完成、草稿本は元和八年目一六二二︶にできたとみられる。. ︵5︶村岡幹生﹁永禄三河一揆の展開過程﹂︵註︵1︶前掲書︶. ︵6︶鈴木良一氏は﹁戦国の争乱﹂︵﹃岩波講座 日本歴史8中世4﹄一九六三年︶において、﹁本願寺と一向一揆. は別物である﹂と述べた。両者を別物としたうえで、その関係性について信仰の問題や、一向宗との生活基. 盤となった低湿地帯を開発する本願寺の治水技術への依拠などが、問題解明の鍵であるとした。. ︵7︶金龍静﹁中世の宗教と一揆﹂︵﹃講座 一揆﹄第四巻、東京大学出版会、一九八一年︶. 4.
(7) 第一章 真宗の三河進出と発展. まず、真宗が三河に進出してからどのように発展したのかという三河真宗の初期段階をみる。. 浄土真宗は、浄土宗を開いた法然の弟子十二︵承安三∼弘長二年︶︿一一七三一一二六二﹀によってはじめられ、. その弟子によって全国に広められた。親鷺の教えは、﹁悪人正機説﹂﹁絶対他力﹂という言葉に代表され、一般の. 僧侶という概念や、世間吋で生活する仏教徒︵在家︶としての規範からはみ出さざるを得ない人々こそ救済され. る対象とし︵悪人正機︶、阿弥陀如来に対し信心を起こしたその時に極楽往生が決定され、しかもその信心すら自. ら発したものではなく、阿弥陀如来が起こさせたものであり、念仏はその如来への﹁報謝﹂である、とされる。. 親鶯の死後、弟子真玉は高田派、聖壇が仏光寺派を創始し、多脳の娘群動尼が初代留守職となった大谷廟堂から 始まり親鷺の正統な系統とされる本願寺派などに分かれた。. 戦国期の三河国は、他の多くの地域でそうであったように、蓮如によって高田派であった寺院が本願寺派に取. り込まれる転換期にあたる。また、政治的には三河は織田・今川両氏に挟まれて強力な大名権力が形成されない、. 不安定な状態にあった。そのような中で、上宮寺・同筆寺・勝婁寺のいわゆる三河三ヶ寺、一門衆本膳寺を筆頭 に、教線を拡大していくことになる。. 第一・二節では﹃新編岡崎市史﹄︵←、新旧﹃安城市史﹄︵2︶に拠って、真宗が三河に伝わってどのように発展. していったのかをみておく。第三節では、三河真宗教団が発展した理由の一つである金融活動について述べ、そ. 5.
(8) れが後に起こる永禄三河一揆と、 畿内を中心に起こった石山合戦における三河門徒の活動につながることを確認 する。. 第一節 蓮如以前. 中世三河の宗教世界において、浄土真宗の進出・発展は特に重要で、西三河平野部の地域的特徴ともいえるも. のだという。古代寺院あるいは中世の顕密寺院が江戸時代以降に存続しないため、真宗が流入する十三世紀後半. 以前の地域社会における宗教勢力の動向を知ることのできる現存史料はあまりないというが、注目されるものと. しては、薬師信仰と太子信仰が展開していたらしい。この太子信仰は﹁ワタリ﹂︵川の民︶﹁タイシ﹂︵山の民︶と. いった定住しない移動の民が深く関与し、これを基盤として後に真宗信仰が展開していくといわれる。. 岡崎・安城市やその周辺の古い歴史を有する真宗寺院の創立縁起には、親鷺が関東から京都へ帰る途中に矢作. 柳堂にて説法を行い、それを聞いて天台宗などから改宗したと伝えるものが多いという。親鷺は貞永元年︵一二. 三二︶頃帰洛するが、途中柳堂に寄った事実はなく、史実とは認められていない。この伝承は、後に本願寺派に. 改派した寺院による、三河の真宗の始まりが高田系寺院を中心に語られたことへの対抗と考えられている。. さて、三河における真宗の流入・展開を知ることができる主な史料は、﹃三河念仏相承日記﹄︵以下﹃相承日記﹄︶. である。﹃相承日記﹄は、その写本が佐々木上宮寺︵岡崎市︶に現存し、内表紙に﹁三河念仏相承日記 主意仏﹂. 6.
(9) とあり、末尾に﹁貞治三年︵ニニ六四︶甲辰九月二日﹂と年紀が入っているが、中世後期以後の写本だとされて. いる。この﹃相承日記﹄は初めに﹁三河国専修念仏根源事﹂として、三河真宗の始まりが記されている。それは. およそ次のような内容である。 お 建長八年︵一二五六︶十月十八日、真仏・顕智・専信と下人弥太郎が上洛の途中、矢作薬師寺にて念仏勧進を. 行った。上洛した後、顕智は京の親鷺の元に留まり、他三人は下向した。その際真仏は顕智に、下向途中の. 矢作で念仏勧進を行うよう命じた。顕智は真仏の命に従い、同年末に三河へ下向する。顕智は﹁権守トノ﹂︵出家. 後円善房︶の許に逗留し、以後正嘉二年︵一二五八︶まで三年間三河に在ったが、この年権守出営の嫡子﹁袈裟太郎. 殿﹂にすすめて出家させ、信願房の法名を与えた。他にも三河滞在中三五人が信者となった。その中の庄司太郎は. 平田に顕智を迎え入れ、正嘉元年に道場を建てた。また信果房も﹁アツウミノ庄アカソブ﹂に道場を建てた。そ の後、国中の道場は繁昌したという。. ﹁アツウミノ庄アカソブ﹂は碧海荘赤渋だとされており、そこに建てられた道場はのちの本願寺派三ヶ寺の一. つ勝事寺である。そして平田の道場は高田専修寺派の妙源寺となる。高田専修寺は真田が建立、初代住持となり、. 顕智が二代目住持を継いでいる。当時はまだ﹁本願寺派﹂﹁高田専修寺派﹂という宗派・教団はなく、それぞれに. 門流を形成していた。のち蓮如により本願寺教団、真倉により専修寺教団が形成され別々の宗派となっていくが、. 初期三河真宗にはそのような区別はなく同系統のものであった。. ﹃相承日記﹄には顕智−幽霊という法系を伝える。しかし、悪趣院本・光照寺本の﹃盲亀聖人門侶交名牒﹄︵以. 下﹃交名牒﹄︶︵3︾には専信︵専海︶−1円善という法系が記されている。事実、真仏一専信一円善という法華があ. 7.
(10) り、それは越前にまで及ぶものであった。岡崎市膏石寺蔵の真宗七祖連坐図︵十七世紀成立︶は、﹁善道禅師﹂﹁源. 空聖人﹂﹁宗師聖人﹂﹁真秀法師﹂﹁潜窟法師﹂﹁円善法師﹂﹁如道聖人﹂の七名の坐像をジグザグに配して、法系の. 師資相承を示したものである。比較的時代は下るが、同様の法系の連坐図は焼失前の岡崎市祐金町の西照寺にも. あり、越前の数ヶ寺にも同系の高僧連坐図がある。存覚の備忘録﹃存国軍日記﹄︵以下﹃袖日記﹄︶では、存覚が. 延文六年︵=二六一︶三月二日に見た近江国武佐道仏の本尊に、源空−親鷺一真仏−専三一十善一如道一道性の. 法典が、記されているから、親臨から円善・如道に至る相承は十四世紀中葉には一般的に認められていたわけであ る。これが正しければ、﹃相承日記﹄の顕智による三河布教の記事は疑わしい。. 専信房専海についてみてみよう。光薗院本﹃交名牒﹄には真仏の門弟として﹁専信トヲタウミノクニツルミ﹂と. あり、﹃相承日記﹄には﹁専信房俗名弥藤五殿﹂とある。はじめ真仏の弟子で、貴重の直接号旗の弟子になり、建. 長七年︵一二五五︶、﹃教行信証﹄全六巻を筆写した。これは京都にいた重量が手元に置いていた草稿本の写本で、. 親鷺の傍近くで書写したことが分かる。同年某月八日に法眼朝円が描いた魚期八三歳の肖像︵安城御影︶は、﹃袖. 日記﹄に﹁此御影御テツカラ被御覧、ヨク似タリト被綿、御シラカノ数マテモ不違奉写云々﹂︵4︶とあり、親筆自 身が評したという。これは専海が親鷺の許可を得て描かせたものである。. 翌八年に専海は下野から遠江国鶴見に移った。﹃相承日記﹄の顕智の行状は全て専海という説に立てば、以後三 年間三河にいたことになるが、確認しきれるものではない。. 三河・越前両国の真宗の祖といえる﹁権守﹂円善とその嫡子袈裟太郎信願について知り得るところは少ない。. その居所は碧海庄和田郷で、上和田・宮地・井内・野畑・下和田・坂左右・法性寺・牧御堂・上土井・下土井・. 8.
(11) 赤渋・福嶋新田の=一村であったという。. 岡崎市内の古い真宗寺院の由緒は、円善・信願を安藤氏と伝えている。妙源寺では開基念信房蓮慶を安藤薩摩. 守信平とし、勝瑞寺の開基信願房了海は安藤袈裟太郎すなわち権守信平法名山善の子で、その弟庄司太郎安藤薩. 摩守法名念信を妙源寺開基とする。上宮寺では真宗への改宗の初代蓮華について、安藤右衛門尉暴慢とも同権守. 教房ともいう。いずれも安藤氏一族の開基という共通点があるが、その根拠は全く不明だという。十五世紀まで は安藤氏の名は文書・記録にない︵5︶。. また菅生満性寺には開基は鋳物師安藤氏と伝わる。安藤氏を称する寺院は社会的には﹁ワタリ﹂の一部であっ た鋳物師と関係が深かったともいえるが、確定はできない。. 中世三河において、真宗は以上のように流入し展開し始めた。のち大寺院となる妙源寺や勝妙寺などの開基は. 諸説あり、確定する段階には至っていない。それはその後の展開に関しても同様で、住持の系譜が複数伝えられ. ることや、永禄三河一揆後の亡命などによる文書や記録類、美術品類の散逸によって判然としない事柄が多い。. 妙源寺のように、親鷺自筆の名号本尊や絵伝などを所蔵しており、三河門徒内での地位の高さが知られるという. 例もあるが、それでも住持の系譜は定かではないし、末寺・門徒の広がりも知ることはできない。. 第二節 蓮如以降. 9.
(12) そもそも蓮如︵応永二十二∼明応八年︶︿一四一五一九九﹀とは、どのような人物だったのか。蓮如は大谷本願. 寺の八代目住持職を継ぎ、畿内・北陸・東海を中心に精力的な布教活動を行い、その教皇を拡大させた。彼の宗. 教活動は、はじめ紺地金泥十字名号︵﹁帰命尽十方無碍光如来﹂︶を門末の道場・寺院の本尊として下付するとい. うもので、比叡山はそれを問題嘉し、寛正六年︵一四六五︶に大谷本願寺を襲撃、破却した。それ以後は自筆の. 六字名号︵﹁南無阿弥陀仏﹂︶を大量生産し、より広範な門徒民衆に下付したという。また、教えをわかりやすく. 仮名文字で平易に記した﹁御文﹂による教化も行い、民衆の帰依も多かった。蓮如は大谷破却後、越前吉崎を拠. 点に活動し、のち畿内へと戻り、文明十二年︵一四八○︶に山科本願寺を建立し、明応八年山科にて没した。. 10. この首魚の活動は日本仏教史上初めて現代的な意味での宗派・教団を成立させたものとして評価する見解が提. 示されているという。この蓮如を支えた主要な地域的基盤が近江・北陸そして東海、とりわけ三河であった。 三河本願寺教団の成立. l六一︶九月二日付である︵6︶。. いつからあったのだろうか。最も早い関わりを示すのが、上宮寺如光に与えられた十字名号で、これは寛正二年. 代の真慧に帰して高田︵専修寺︶派となり、三河真宗の勢力分布がほぼ固定化した。三河真宗と蓮如の関わりは. 三河真宗は蓮如の布教により、上宮寺・本謹寺・勝婁寺が本願寺派に組み込まれ、妙源寺・軸性寺が専修寺八. 1. 上宮寺は、碧海郡佐々木︵現岡崎市上佐々木町︶にあり、妙源寺より分立し、三河真宗の中心寺院となってい. (一.
(13) つた。妙源寺から分立した時期は五代如光の時代だったといわれている。蓮華と如光の関係は、. 重而奉修覆処士、. 月以前だったことがわかる。また同年十月には先に述べた安城御影の修復が行われている。. ︻史料1︼︵7貿 ︵裏書︶. ぽヤ . 右斯御影者、去寛正二歳十月之時分、錐奉修覆、令破損之間、 ハなむね 文明十二年己亥十月十五日 隠士︵花押︶. この寛正二年九. これは安城御影の裏書である。文明十二年に再度修復した時に書かれたもので、寛正二年の修復についても記. している。安城御影は本願寺九代実如の時に、歯学︵蓮如の六男・実如の弟︶が本山本願寺へ寄進させた。この. 時点では願照寺が所蔵していたので、願照寺も三河真宗の中では早いうちに蓮如と接触しているから、三河本願 寺教団内での位置は高いものであったことが推測される。. 上宮寺はおそらく黒光の代までにその茶畑を大きく広げていた。如光の十七回忌日にあたる文明十六年︵一四. 八四︶十一月一日に作成された上宮寺末寺帳がある。この通称﹁如光弟子帳﹂には、三河六四、尾張三一、美濃. 九、伊勢一の合計一〇五の末道場が記されている。勝髪寺の場合は、享保三年︵一七一五︶成立の﹁尾張三河之. 分末寺触下絵讃之控﹂という本山下付物の裏書類を記録したものから末寺数を数えると、顕如・教如時代の天正. 11.
(14) 十一年︵一五八三︶までに尾張と三河で四五ヶ寺という。本下寺は中世の同類の史料はなく、慶応四年︵一八六. 八︶の末寺帳によれば尾張・美濃・伊勢を含めても四四ヶ寺という。上宮寺が、三河本願寺派の三ヶ寺の中でも. 随一の末寺・道場を持っていたことがわかる。また、三ヶ寺以外でも浄妙寺や無量寿寺が末寺を有していた。文. 明十七年十一月十九日付の﹁参河国営妙寺門徒濃州安八郡二木庄墨俣﹂という裏書を持つ絵像本尊がある︵8︶。. 無量寿寺末寺のものとしては、文明七年のものや永正六年のものが見られる︵9︶。末寺の数は知られないが、お そらく蓮如帰参後に成立したものだろうというTo︶。. 三河三ヶ寺はいずれも本願寺法主の血縁に連なる一家衆であった。上宮寺は採光の跡を娘如慶が継ぎ、その智. に本願寺血縁者の幸寿丸︵如舜︶が入った。しかし二人には男子がなかったらしく、如舜亡き後は勝髪寺了顕の. 二男勝祐が継いだ。勝田寺もすでに血縁に連なっていたため、上宮寺は勝祐入寺により一家衆となった。勝髭寺. は、末寺である越前国大町専修寺の住持がにわかに還俗し住持不在となったとき、重量寺庄珍の娘が嫁いでいた. 蓮慶という本願寺の血縁者が大町専修寺を継ぐことになった。そしてその長男了顕が黒髪寺を継ぐことで、一家. 衆となったわけである。専修寺に蓮慶が入ったのは、蓮如の吉崎滞在中だから、文明七年︵一四七五︶八月まで. のことで、上宮寺の一家衆入りは、大永六年︵一五二六︶の如舜が没した後である。本謹白は、右の二寺に比べ. ると少し遅いが、永禄五年︵一五六二︶、野飼寺を継いでいた﹁あい松﹂︵源海︶が加賀で戦死したため、その後. を近江堅田慈敬寺実誓︵蓮如孫︶の二男空誓が継いだので、一家衆へと連なった。細謹寺はこれ以前の天文十八. 年︵一五四九︶に、本野寺門徒連判状が作成されている。この連判状には松平家家臣である石川忠成を筆頭に、. 一一五名の武士門徒が名を連ねている。これは二幅寺﹁あい松﹂の住持職相続に際し、﹁あい松﹂を支持し本謹寺. 12.
(15) 薄恥蕪晶. 門徒の結束を固めたものである。先代源正の死︵天文十四年目から﹁あい松﹂の継職まで汐止がかかっているこ. とから、何らかの問題があったということも考えられる。あるいは、この心すでに本願寺血縁者を入寺させると. いう話が本願寺から持ち込まれ、それを拒否するためだったのかもしれない。この連判状は、門徒衆の実態を示. す史料としても注目される。石川姓が最も多く、門徒団の中心的存在だったことが知られる。また、署名者は西. 三河に広範に分布し、都筑・本多二二浦・神谷など様々な姓が見られる。松平・今川・吉良・水野に仕えるこれ. ら多くの氏族が家を超え、仕官先の対立関係も問題とせず宗教的紐帯によって結ばれており、これが一向一揆に. おける集団結集の基盤となったと考えられている。. 在地. 表1.連判者在地別分布 人数. 姓氏別. 2本多、石川 2酒井、本多 10石川6、都筑、安原、矢田、篤蔵主. 5石川5 3石川2、出汁. 4鳥居4 14石JII5、浅井2、松崎、阿部、. 小島. 羽根田、大岡、内藤、榊原、波倉 10伊奈2、河村3.市石3、三浦、. 間瀬木. 中島 高卑 浅井 須美 山中 熊村 刈谷 高杉 吉浜 』色 平口. 市子 八面 志籠谷 今jll. 菱池. 2大嶽、越山. 1石川 1石川 1浅井 1杉浦 1三浦 1小島 7神谷6、石川. 2神谷2 1鈴木 2鈴木2 2榊原2 9石川5、和田3、成田. 2牧2 ホ川 2石川2 1』. 深池. 1小野田. 寄住 榎津 福地 味浜. 6本多2、阿知和2、朝岡、平賀. 町(西ノ町). 味崎 和泉. 1石川 3小野2、石川. 2船越 5林4、杉崎 8牧4、中根3、井上. 1都筑. 備考:『岡崎』2、第3章第3節、744頁より転載。. 13.
(16) !. e熊村. 凸 刈谷城(水野氏). 岡崎城(雪斎・朝比奈軍). 安th e凸渡日 ◎高棚. 福地. e和泉. 矢伶州. 2 一門衆本宗寺. 本宗寺とは、碧海郡土呂︵現岡崎. 市福岡町︶に建立され、本願寺九代. 実如の四男実円が初代住持となった. 一門衆寺院である。創建年代は諸説. あり、いずれも蓮如が関わっている。. 時期は判明しないが、蓮如が三河へ. 下向した際、土呂︵及びその支坊が. 置かれた鷲塚︶に道場が建立された. とみられる。﹃反故裏書﹄によれば、. 実円は、半円如が父実如に先立って あ が. 没すると常に本願寺に在った。播州. 英話本徳寺の住持であった兄実玄が. 永正十二年︵一五一五︶に早世する. と、本宗寺と本徳寺を兼住すること. となった。三河にはあまり居住せず、. 14. 凸i. ㊤山崎 ●吉浜. 民卍㊧野蔀. 小∫可魯 ee の 遺. __ゐ美先. 一一. 図1 本詮寺門徒連判者の分布. 備考:『岡崎』2、第3章第3節、745頁より転載。.
(17) 円如・実如没後は実如の後事を任された五人の一家衆︵11︶の中心として、本願寺で証如の補佐にあたった。. 土呂は本願寺直属の血族寺院として、三河門徒総与力の上に存在したという︵13。寺内の様子について、詳細 は第三節で述べるが、﹃土呂山畠今昔実録﹄の中に次のような記述がある。. ︻史料2︼︵13︶. ︵前略︶夫々続テ国之三ケ寺大坊也針崎村勝等︵囎註︶、隻木村之上宮寺︵囎註︶、野寺村本謹寺︵囎註︶. 15. 通華リ、其外二浄妙寺輔聚残妹孫・慈光轟勢紀饗繰・京福寺・蓮台日経醗輪伸.浄専寺、︵後略︶. ﹃土呂山畠今昔実録﹄には、松平家康による破却前の土呂南宗寺寺内の様子が詳しく描かれている。土呂寺内に. は三河三ヶ寺や浄妙寺・慈光寺その他の﹁通苓﹂すなわち勤仕のための宿泊所が設けられている。五宗寺への勤. 仕は、国乱坊主衆が交代で当番し、直参寺院も出仕した。三河本願寺教団の頂点として存在した様子がうかがえ. る。また支坊である鷲塚も寺内の景観が整っていたらしく、土呂・鷲塚両所が地域における交易・交通の拠点と もなっていた。. 本宗寺は実円のあと、子の実動が継いだが早世し、三代目には実勝の子証専がなった。しかし、播磨の英賀と. 兼任であったため、実円と同様にほとんど三河にはいなかったという。住持不在の時期が多かった本宗寺だが、. なぜこれだけ発展することができたのだろうか。経済力と寺内については地理的要因から承知できる。しかし、. 之.
(18) 三河教団全体に言えることだが、 史料の制約もあり、直参の末寺門徒の規模や、その獲得に至った詳細はつかめ ていないと思われる︵14︶。. 第三節 三河真宗教団の金融活動、. 妙源寺の金融活動. 妙源寺は真宗高田派の寺院で、岡崎の近く桑子︵現岡崎市大和町︶にあった。寺伝では桑子城主安藤薩摩守信 平が開創といい、三河古真宗五ヶ寺の一つで、戦国期は松平氏と関係が深かった︵15︶。. 妙源寺には売券一七点、寄進状五一点の計六八点の土地関係文書がある︵表1︶。これらからは年貢収取関係の. 実態を明らかにできる。例えば天文四年︵一五三五︶十月十四日付高眼寺︵妙薬寺。以下同︶宛平岩信重等連署. 売券︵表2恥32︶をみてみよう。 ︻史料3︼ ﹁平岩殿 平田﹂. 永代売渡申下地之事. 16. 1.
(19) 表2.桑子妙源寺の土地関係文書. No. 日付. 永正8(151D.12.15. 9. 永正8(15噂1).12.19. 10. 永正13(1516).10」2. 11. 永正13(1516).12. 神屋藤左衛門・向源六二二売券・. 12. 永正14q517).卯. 13. 永正18q521).正25. 14. 大永3q523).9.16. 神谷家光売券 尼妙観・大津塾長連署寄進状 松平信忠寄進状. 1. 文明.16(1484).12.2. 文亀2(1502).10.4 文亀3(1503).12.3. 4. 永正元(1504),11,2. 5. 永正4(1507).2.28. 6. 永正7(1510).2.. フ. 2. 3. 永正8(151D.111.21. *15 大永3(1523).10.15. 161. 大永6(1526).11.28. 17. 大永7(1527).7.6. 18. 大永7(1527).11.28. 九良衛門寄進状 都筑忠生壁連署証状. 明眼寺殿 .明眼寺. 桑子殿. 27 28 29. 天文2(1533)」2.15. 天文4(1535).8.吉1. 石川忠成寄進状 ・ 平田二二寺 些些寄進状 二二寺 善四郎売券 荒河小太郎殿 明眼寺 荒川宗忠寄進状 順永寄進状 明鑑寺殿 春日部長明売券 桑子主眼寺殿 八郎五郎売券 一郎殿さま 平岩おたつ寄進状 松平張忠・同康忠連署寄進状 桑子重三寺 長坂守親寄進状 桑子殿様 四瀬親重寄進状 平岩光吉寄進状、 明眼寺殿 明眼寺殿 長坂守正寄進状写. 30. 天文4G535).10」4. 平岩了玄等連署売券. 19. 享禄2(1529).6.28. 20. 享禄2(1529),7.10. 21. 享禄3(1530),2.15. 22. 享禄3(1530).2.吉. 23 24. 享禄3(1530)」2.28. ・*25. 享禄4q531>.10.17. 享禄4(1531).5.3. *26 天文元(1532).極10 天文3(1534).8.9. 桑子明眼寺殿. 内容. 桑子の田地を平由善久に売る 田畠を寄進 大岡三左衛門方より購入した畠.地を寄進. 田地を寄進 田地を寄進 控地を寄進 田地を売る. 典拠 ⑩263 ⑩623 ⑪645 ⑩650・ ⑩705「. ⑩747 ⑩766. 田地を寄進 村道場敷地を寄進. ⑩769』. 家屋敷を寄進。. ⑩842. 平岩弥太郎に田地を売る 仁木郷の山を売る 田地を寄進. ⑩848 ⑩849 ⑩929 ⑩977 ⑩978. 田地を寄進 田地を寄進 明眼等が売却した分を、返して寄進 田地を寄進 田地を寄進 荒川小太郎宗忠に田地を売る 善四郎から買得した分を寄進. ⑩770. ⑩034 ⑩1053 ⑩1058. ⑩099 ⑩廿00. 尾張星崎郷の田地を寄進 里長源が寄進 一郎に下地を売る 田地を寄進 張見分領の一部を寄進. ⑩106 ⑩107 ⑩摺1 ⑩114. 田地・山を寄進. ⑩435. 田地を寄進 畠地を寄進 畠地を寄進. ⑩t169 ⑩1190. 畠地を売る. ⑩212・. ⑩1鳩20. ⑩209. ト一. 8. 宛所 文書各 .平田善久、 長坂隼人岸壁連署売券 安藤直之寄進状 ・ 明眼寺・ 二二寺殿 天野忠末寄進状 ・浄域(二=郎左衛門入道)寄進状 桑子殿様 勝長寄進状 明王寺殿 長坂性源寄進状 主眼寺 大か藤左衛門等連署売券 明眼寺殿 ぬりみたう.了珍寄進状 明眼寺殿 妙祐寄進状 荒川重畳寄進状.
(20) 31. 天文4(1535)。10.14. 32. 天文4(1535).10.14. 33. 天文4(1535)』2.13. 平岩浄椿等連署売券 平岩信重等売券【史料1工 牧内源久寄進状. 34. 天文4(1535).12.29. 平岩光吉・同.親基連署売券. 41. 天文7(1538).3.22. 長坂忠重寄進状 源久夫妻連署寄進状 平岩信康寄進状 小栗忠親寄進状 小栗忠親寄進状 松平康忠寄進状 平岩張元売券. 42. 天文9(1540).11.4. 平岩信忠寄進状(切紙). *35 天文5(1536).6」2. 36 37. 天文5(1536).12.. 天文6(1う37).7」5. 1*38 天文6(1537).12.. 39 天文7(1538)2.6 40 天文7(1538).3.5. t. 桑子明眼寺殿. 畠地を売る. 桑子明眼寺殿 桑子殿 明暮寺殿 桑子明眼寺殿. 畠地を売る. ⑩213 ⑩214. 田畠を寄進. ⑩1219.. 畠地を売る ,. ⑩221 ⑩247 ⑩276. くわこ殿さま. 畠地を寄進. 桑子殿 桑子明眼寺殿 桑子明眼寺殿 桑子明眼寺 明眼寺殿. 田地を寄進 田地を寄進 田地を寄進 田畠を寄進’ 田地を売る. くわこ明けん寺殿. ・畠地を寄進. *44 天文9(1540).極.5. 平岩重元売券 平岩重元売券 都筑竹松等連署売券 筒針重基・同信光連署寄進状 中山利直・同新七連署寄進状. 田地を売る. ⑩1294. ⑩306 ⑩1311. ⑩1314. ⑩318 ⑩388 ⑩390. 別の地も売る 南扇を売る 田畠を寄進 牧内新城の地を寄進 牧内新城の地を寄進 田畠を寄進 田地を寄進 小面江蔵屋敷を寄進 田畠と家を寄進 畠地を寄進. ⑩13g1. 「大岡高木守護領道場」を寄進. ⑩1583. 田地を寄進 田地を寄進. ⑩607. 田地を寄進(20,21と関連). ⑩715 ⑩737. 畠地を寄進. 屋敷を寄進 屋敷を寄進 印地を寄進 田地を寄進. ⑩392 ⑩1447 ⑩1464 ⑩1465 ⑩1502 ⑩1506 ⑩1550 ⑩1565 ⑩1.579. ⑩1624. ⑩1739. ⑩741 ⑩782 ⑩2027. の祠. 桑子殿様へ 桑子殿様へ 45 天文9(1540).12.28 桑子殿 46 天文11(1542).7.26 明眼寺殿様 47 天文12(1543).2.9 桑子明眼寺殿 48 天文12(1543).2.10 明転寺様 牧内忠善寄進状 *49 天文12(1543).12.20 .小栗忠親・平岩貞政連署寄進状 明眼寺殿 50, 天文13(1544)。2.2 松平広忠判物 明眼寺 51 天文14(1545).3」5 水野青豆寄進状 明眼寺 52 天文14(1545)」t28 九郎衛門尉寄進状 桑子殿様 53 天文15(1546).10.1 平岩清忠寄進状 桑子明眼寺殿 54 天文15(1546).11.9 紀伊守世寄進状 明眼寺 55 天文16(1547).2.15 苫田末次寄進状、 桑子殿様 56 天文16(1547).壬7.17 平岩彦六郎・同弥三連署寄進状 御寺様 57 天文18(1549).12」 都筑信家寄進状 明眼寺殿 明眼寺 *58 天文19(1550).6」0 松平忠吉寄進状 59 天文19(1550).8.1 都筑信家寄進状 桑子殿様 60 天文19(1550).8.22 忠勝寄進状 桑子殿様 *61 天文20(1551).3.2臼 嶋田広正等連署寄進状 桑子明眼寺 62 弘治2(1556)」8」7 石川康成寄進状 妙眼寺殿. *43 天文9(1540).極.5. 山を寄進.
(21) のω. 裂務悼︵3鵠︶.ρ 劇ビ需︵茜留︶.O.. 婆沸卸鍋嘲鰹鴬朝 蔚料蝿三洋朝 揖引脚砦翫雛 認漸課彊嘲榔芽. 翔Hm︵一q謡︶﹂N﹂m洲謡︾罵嘲三洋. 洲目障二田轟Y。。﹂O. OO柴戴帥︵ま朝oD︶.=・お ゆ⊂D. ロ。。. ㊨N詰㊤. ㊤N8N. ㊥這㊤圃. ◎詰。ω. ㊥㊤8. ㊨POヨ. 罷申温蜀弗鐸 判田温言王寺. 田脚曙甥砕 田落膳嘲礒 田軸重嘲鮮. 田落曙呪礒 田蒔嘩嘲鰹. 鼻脚湘勘川雲建 温賜弗惑ヨS田碁膳罰ぴ 濫賜弗鐸薪 温蜀弗賠薪. 跨判槻鍋・跨半班欝朗話一汁 洲HO︵ま刈。。︶φN。。 温蜀謝 階ゴ藩浴舜﹃陣醤緬海﹄蹄輩論δ’ゴ車瞭S掃嚇疎・叩d帥斗︵嬉↓画G︶。 群ド菅義︷4︿掃噌算魁ω万兜伴さ①ぎdつぴ昇幽”。. 在所桑子之北宮石名之内 合畠弐反年貢弐貫文目 壱貫八百文. 右件之下地者、名内之徳分売、桑子明眼寺へ代八貫文二、永代売渡申処実正也、年貢面骨公事之儀者、従本. 名可致沙汰候、此内色成し年貢弐百文、毎年本名へ可有御納所笹身、見者、為先祖寄進申二間、於子々孫々、 別之違乱煩之儀有間敷候、傍証状如件、. V文四轟+月+四日....健馨花押︶. ニが モ . 桑子明眼寺殿参 信光︵花押︶ ス . 了玄︵花押︶. 浄珍︵花押︶. 19. ⊆階. 9 .
(22) 平岩信重は平田荘宮石名の畠二反とその﹁名内之徳分﹂を妙源寺に売っているのだが、﹁年貢諸行公事﹂は本名か. ︵作職保有者︶. 妙源寺 色成年貢. 直接耕作者 ︵下作人︶. 名内之徳分. ︵16︶. ら領主に納入し、そして﹁色成し年貢﹂を妙源寺が本名に納入することになっている。図式化すると次のような. ︵本名・名主職保有者. 平岩. 重層関係がわかる。. ︻図1︼. 國一 公票頒貢. しかし、このような﹁職の体系﹂とは別のことがわかる文書がある。それらをまとめたのが表2である。. これらから妙源寺の金融資本としての性格がみえる。表2にあるように、金融活動を示すものとして、①﹁祠. 堂銭﹂の語が現れるもの、②﹁本丸返し﹂が行われているもの、③寄進と称するが実質売券であるものの三種類 がある。. まず、①の﹁祠堂銭﹂の語が現れるものについてみてみる。祠堂銭とは禅宗特有の堂舎である祠堂の修復を名. 目に寄進された金銭のことである。中世において寺院はこれを貸付元本として運営し、幕府も徳政令の対象から. 除外したため、寺院の金融活動は拡大したT7︶。祠堂︵物︶・祠堂銭という語は禅宗以外の寺院でも使われたよ. 20.
(23) うで、 みる。. 田と. 洲滑呉一一O︶.商α囲思詰︵一望ω︶﹂ド8. 翔掃㊤︵一望O︶8薗b. 出身衆三巴︶﹂ド. 洲掛芸州〇ω①︶昌O﹂N. 囲掃諦︵まωN︶.商一〇. 輯嘉轟︵一器一Yδ﹂刈. 回虫ω︵まB︶.一ρま. Zo. 刈oo. 洲昇一㊤︵一呂O︶.⑦.δ. 己O. 掃購菌. 、7湘聾曲鯛礒洋. 畑鐵醗榊蜴旛#. .瑚錨甫曲蝦鰯網汁. 賄ω’導諭瞭S蹄鐸節避一. 罰ヨ 瀞.粥温賜弗. 甚曙. 、准溝. ㊨ミ培. ㊨一おα. ㊨=NO. ㊨巴。。. ㊨蒔ミ ㊨おOO. 瀞申鋸. 田蒔嘩二尊 封臨交C “痢面面轟Sl聖繕嘲薩 手函.二子 田善・忌井面酵 劃睡聾 渦闘罰雛 劃睡臨. ㊨一ω曽㊨一8N. ㊨お8. 跨謂劉湯・下心鍋茶断蜴幣漂. 白面、闇r右投購. 材鷺薗C. 計四強−﹄瑚薩難. 望S落西罰酬田固結潮面. 田邑餅罰ぴ. 画落餅嘲.幣. 田落曝嚇幣 瀞申懸守♪温超君達. 瀞申遷蕪 瀞申激昂弗鋸 瀞引温昂謝建 瀞申鋸蕪﹀. E嘩嘲酪. 判雄融諦罰瞭、プ湘銀曲・封班沁断面鋼嘲酵#. 温揺揺 瀞弔温姻珊. 渦臨翫瞭. 判雌紳諦掛瞭. 跨頒蔚餅嘲騰難. 廿貫余二罷成候、依難三等、為新寄進、永々寄進真鱈、同名・親類等違. 縞馬寺文書においても同様の意味で使われている。三点あるうちM5の文書が特にわかりやすいのでみて. ︻史料4︼. 永代寄進申田地之事 合弐鱈者在所別所下 右彼田地者、祠堂銭拾貫借用候処、 乱煩有間敷候、傍如件、. 趾. 一. N ω 轟 α. O ㊤.
(24) ︹丁︺. 天文六年醐+二月日. 桑子明眼寺殿参. 小栗三郎五郎. 忠親︵花押︶. 差出人である小栗忠親は妙源寺から祠堂銭一〇貫文を借りていたが、利息によりそれが二〇貫文にまで増えて返. せなくなったので、田地を改めて﹁新寄進﹂として寄進するという内容である。﹁借用﹂という語があること、そ. して改めて﹁新寄進﹂する、つまり田地はあらかじめ担保として預けていたということから、身重寺が金融業の 性格を持っていることが明らかである。. 次に②の﹁古銭返し﹂が行われているものであるが、本島返しとは、ここでは田畠を売って得た金銭を返済す. 四反七百文、又畠弐百文 又壱貫弐百文. . 在所むしろ田. れば、その田畠を買い戻せるという不動産売買の形態である。恥1では、一〇貫文の本銭を返し、買い戻した田 地を寄進している。. ︻史料5︼. 渡置申下地之事. 合七反者 在所新堀後 壱石弐斗め. 弐反. 22.
(25) 在所大木 一 六反斗め. 右此下地者、弐貫文之御とりか 候間、我々一代之間進二七、然者めしを可能下候、毎年弐貫文宛小六殿へ. 納所あるへく候、此間ハ諸役以下少も有間敷候、同名・親藩・地頭政所薄いろひ有間敷候、もし子にて候者. 追銭を髭男詫言申二者、返墨画へく候、但ふきやう者にて候ハ\、永代御寺様御ま︸たるへく候、佃為後日 之状如件、. かのへ 子. 天 文 九 年 極月五日 池端平岩甚三郎︵花押︶ 重元 桑子殿様へまいる. この文書︵恥6︶によれば、二貫文で妙源寺に売り︵﹁御とりかへ﹂︶、.一代の間のみ預けておくという形で、平岩. 重元が死んだ後重元の子が本銭を返せば、売った下地は平岩家に戻されることになっていた。そして、もしその. 子が本銭を返せなければ、妙源寺が預かっている下地はそのまま妙源寺の所有となることを約束している。また、. その下地を預かる菊合寺は名主の小六へ毎年二貫文の納入義務を負った。この種の文書も①と同じように金融業 を行っていたことを示している。. 三つ目に、実質売券であるものについてである。M2では、﹁永代不入に寄進申す処実正なり﹂といいながら、. 23.
(26) ﹁御礼銭﹂として一八貫文の﹁御意懸けられ候﹂としている。寄進なのだから金銭のやりとりはないはずである. が、明らかに支払いを求めている。翫9・10も同様の内容である。 ︻史料6︼. 奉寄進山之事. 在所細田. 右里山者、神谷藤さへもん・同源六郎ふん、我等買得難私領、代物弐貫文を以御所望候間、 永代桑子明眼寺 江奉寄進者也、然者於子々孫々・同名・親類、違乱黒藻儀有間敷候、価証状如件、. 天文五年輌六旱二日長.舞︵花押︶ 桑子明眼寺殿まいる. 右の長坂忠重寄進状︵翫4︶では、﹁代物弐貫文を以て御所望されるので、永代明眼寺︵妙源寺︶へ寄進する﹂と. ある。﹁御所望﹂されるのは妙源寺であり、妙源寺自ら二貫文で買うという意思を示している。また、実際は売却. であるのに﹁寄進﹂としているのには、妙辞寺側が徳政を意識して行った手段であると考えられる。徳政は売却. 地を対象としていたため、買う側の妙源寺は徳政令が出されたら返還しなければならなかった。したがって﹁寄. 進﹂とされたのは、買う側である妙源寺の要求によるものである。この種の史料からは、妙源寺の積極的な土地. 24.
(27) 集積活動と経済力がうかがえる。. 以上のように、妙源寺の土地関係文書から、. 本願寺派寺院の経済活動. 当寺院が金融資本としての性格を持っていたといえよう。. 高田派妙源寺の金融資本としての性格をみてきたが、本願寺派はどうだったのだろうか。本願寺八代法主蓮如. の布教により、寺院・門徒数は高田派に大きな差をつけている本願寺派寺院であるから、確固たる経済的地盤が あったことは想像に難くない。. まず、本願寺派三河七ヶ寺の一つ、上宮寺の経済力の高さを示すものとして、﹃里芋寺由来記﹄︵18︶に寛正の. 法難の際の記事がある。寛正六年︵一四六五︶比叡山の僧兵による大谷本願寺破却の際、上宮寺の五代住持露光. は、﹁佐々木タ、ワタクシニ御マカセ候へ、山門モ京都モ、礼銭ヲホシカラハ、料足ハ三川ヨリ上セ、アシニフマ. セ申スヘク候﹂と言って、自ら三河から調達し比叡山に支払った。﹃新編岡崎市史﹄で新行氏は、﹁この時の和睦. 条件は、本願寺が山門西塔院の末寺となり、毎年三〇〇〇疋︵三〇貫文︶の末寺銭を支払う﹂もので、﹁この頃に は各地に多くの末道場をもつにいたっていたことは間違いない﹂と述べている︵19︶。. 上宮寺は如光の代に蓮如により本願寺派となり、三河本願寺派を牽引する存在となった。当寺は妙源寺末とし. て始まっており︹20v、それにより両寺院の性格も似たのか、上宮寺も金融活動をしていたことがわかる史料があ る。. 25. 2.
(28) ︻史料7︼三←. 中納言今度別条仕、上宮寺へ罷成鼠走、彼跡職如来寺分之内二有之、其方へ進置候事 於上宮寺落着者、錐不及申候、彼寺内之儀、其方可為計事. 於敵方寺内、其方側鞘、縦錐無事二罷成候、不可有御返弁淫事 右之条々、永不可有相違者也、価如件、. 永 禄 七 年申. 子 二月三日 家康︵花押︶. 松平三蔵殿. この松平家康判物は、永禄三河一揆の和睦の約一か月前に発給されたもので、家康は松平一門である松平三蔵直. 勝という人物に宛て、上宮寺寺内の支配権を与えている。それと同時に第三条で、﹁借用米銭等、縦軸無事二罷成. 候、不可有御返呑気事﹂と、上宮寺︵﹁敵方寺内﹂︶から借用していた米銭は返さなくてよいとしている。これは. 三蔵のみに適用された個別的徳政令であるが、同時に上宮寺が借銭借米すなわち金融を行っていたという事実も 示していることになる。. ところで、永禄三河一揆における三河本願寺教団の蜂起の理由に、本願寺派教団の借銭借米が関わっている︵2. 26. 一. 一. 一.
(29) 2︶。﹃松平記﹄︵23vでは一揆の発端になった事件として、菅沼なる人物が上宮寺から籾を白根米として奪ってい. ったと記述している。村岡幹生氏は右に示した家康判物から、松平三蔵が門徒のよしみで、当時敵対していた酒. 井忠尚攻撃のための兵根米を調達したことも想定できると述べている。つまり、家康が﹁不可有能八三﹂として. いる﹁借用米銭﹂が、一揆の発端となった兵糠米かもしれない。勝婁寺所蔵の﹃永禄一揆由来﹄にも次のような 記述がある。. ︻史料8︼︵24︶. 家康尊公岡崎之御城主たりし時、渡り村之住人鳥居等に分際宜き買人あり、本願寺宗徒也、古より今に至ま. て故有古跡大地とあれハ、守護不入にして、何事も他所の支配をうけさる故、野寺本謹寺中を借り、家作を. いたし、蔵を建、金銀米銭の走りを る処に、岡崎の御家中衆意恨有之方、寺中へ馬を乗り入れて⋮︵後略︶. ﹃永禄鼻息﹄は、その最後に﹁当国岡崎糎寺寺家東泉坊教些一借りて書写者也、天和三㌃呈日夜燈下. 書写者也﹂と記していることから、天和三年︵一六八三︶以前の成立であり、著者は満性寺の東泉石教山と推定. されている。これによれば、傍線部にあるように、本塁寺中で金融活動を行っていたことがわかる。そしてそれ が原因となり一揆蜂起に至ったという様子が記されている。. また、真宗寺院の金融活動・経済力を示すものとして、﹁寺内町﹂の存在が挙げられる。﹃新編岡崎市史﹄によれ. ば、寺内町とは、地域領主から﹁不入﹂権を認められ、警察・裁判権が行使されない検断不入権のみならず、経済. 27.
(30) 的不入、すなわち寺内に対する諸公事免除・座公事免除・徳政令適用除外・質︵債権︶強制取立禁止など、全体とし. て﹁大坂並﹂特権といわれる諸特権を保持した。現在三河国内で本願寺派の寺内が検出できるのは、密宗寺・上. おうざかなみ. 宮寺・勝婁寺・本謹寺・無量寿寺だという︵25︶。本学寺は﹃土呂山畠今昔実録﹄︵明和五・一七六八年成立︶に 寺内の様子がみえる。. ︻史料9︼︵26︶. 土呂之郷前堂山跡翻鷲塚山本宗寺、其境内ヲ尋レハ、御堂山ヨリ其東上地平里狐崎、蕎+温湯、又南北ハ 八町余、小畠山ヲ為レ境ト、所々二早堀アリ、借本坊ハ御堂山、西東ハニ町ニシテ北南ハ壱町余、西南東ハ 高岸ニテ東一方平地ナリ、弱キ所ハ堀ヲホリ、土手ヲ築キ域ヲ塗り、用心厳鋪要害ナリ、倦富山之キシヨリ. シテ西南東之三方ハ湖水瀞々ト堪エ、白浪腰ヲ巻テ麓二数多之船ヲ繋ク、︵中略︶少シ北ニ馬歯坊山、是本. ハお . 宗寺之墓所也、西ハ大池満々タリ、北東ニハ大堀リアリ、入道迫ト云、. マ へ ハサマ. これによれば、本宗寺本坊は東西二町︵約二一八メートル︶・南北一町余︵約一〇九メートル︶の寺域を有し、寺. 内は東西十町余︵約一〇九〇メートル︶・南北八町余︵約八七ニメートル︶という。要害としての守備も厳しく、. 水運にも恵まれ交通・流通の要所として機能していたことがうかがえる。また、別の箇所に次のような記事もあ る。. 28.
(31) ︻史料10︼︵27︶ ママ . 其上山之結構ハ、嶺二老松生ヒ又繁り、弥陀堂、祖師堂、廊下、庫裏、鐘楼、中門、坊舎マテ荘厳美麗ヲ尽 シタリ、山之院主ハ御本山実如上雷門舎弟ニテ実円御坊ト申ス也、第二代目白実証御坊、三代目ハ教什︵中. 略︶大織冠之御苗喬御本寺格ト同フシテ御内陣之畳ヲバ廻り敷二御免アル勅許之点描、中本寺、東国一之大. 寺ナリ、時之院主ハ本寺二有テ、下間美作瀟蕪頼万事ヲ守ル、.望外・チ々小門+ヶ所、夫々続テ国之三ヶ寺. 大坊也針崎村肇寺︵囎註︶、隻木村之上宮寺︵囎註︶、野寺村本誰寺︵囎註︶之羅アリ、其外二浄妙寺. 輔耀壷皿孫・慈光轟画嚢譲・山容寺・蓮台寺三歎塑.心痛寺、−民家共千二百余、. 土呂之町割、西八町・東八町、夫ハ町ト名付ル事、昔シ御坊地盛ン馬立今之町ヨリ上口ア﹂、上地村マテー. ツニシテ、西二八町チ、東二八町チ、十六町チ有シトカヤ、永禄七子雪年シ三三月雪八日二為ニニ兵火之一焼. 失タリ、其後場所ヲ詳言方量キ所二町造リ、前エ町数品名ヲ呼テ八町トハ名付タリ、 ママ ○大対屋町○小対屋町、昔シ御坊雨湿ル時ハ多屋ト名付テ数之寺本坊ヲ取回シ、朝夕勤不レ怠、本願寺派之 寺法也、本坊之西上宮寺、今権太郎屋鋪ト云、借其次二二福寺、天正十八年御竿入二三反歩之屋鋪トアリ、. 其辺リ小対屋二小サキ坂ヲ今以道場坂ト申スナリ、亦本坊ヨリ南之悪瘡詮寺之旧跡アリ、大対屋之内ニシテ. 藤左衛門・善郎居所ナリ、本葺寺之大門ハ御堂山之東之方、山之上エト重出、門之右側ハ勝髪寺今荘兵衛屋. 鋪ト云、夫ヨリ隔チ浄専寺、天正十八年御竿ニハ五重四斗目丹後ト有、遥隔チテ慈光寺アリ、今山畠分野ト. 29.
(32) 成、亦浄妙寺之旧跡ハ上地村分畑ト成、右六ヶ寺ハ退転シ浄早早而已為二相続一、. ヲ大タイヤ、細キ小路ヲ小タイヤト末世之今ハ申スナリ、. 多屋ト云字ヲ誤テ広キ小路. 本宗寺寺内には、勝髪寺・上宮寺・本謹寺ら三ヶ寺の﹁通話﹂と、浄妙寺、慈光寺、京福寺、蓮台寺、浄専寺、. ﹁町民家共千二百余﹂が存在した。﹁通蕎﹂とは先に述べたように本宗寺への勤仕の時に坊主が詰めた施設だとい. う。新行氏は、﹁それらの人々の生活をまかなうために物資を供給する商工業者が当然存在したわけであるが、そ. れと共に寺内町土呂の不入特権が広域的な経済活動にたずさわる人々を集住させ、それによって町家一二〇〇軒. となっていたのであろう﹂と述べる。本宗寺の具体的な経済活動は史料にはあらわれないが、その経済力につい ては、次の第十代法主証如の﹃天文日記﹄から十分窺うことができる。 ︻史料11︼︵28︶ ︵天文五年二月︶. 廿日、本宗寺上洛、入相之時分二会候、二献にて也、為年始礼壱貫文、就無事之儀千疋、子息為礼三百疋也、 ︵後略︶. 廿二日、土呂みやけとて、遠江茜、歯しりかひ金具、手縄五筋、田二十端、白鳥一ツ到来也、. 廿三日、土呂子児あこよりかんき十帖、辛しりかひ三具、手綱弐筋到来候、是は内儀よりきたる、. 30.
(33) 同日、土呂より殿原共へ五種五荷千疋、中居の賭弓へ三種三豊三百疋、綱所の者共へ三種三荷三百疋、目遣. 候よし上野申候、隠者土員此方より申事にハ、種之響被書斎当面、無是非候、醐之讐、為如何. 儀候哉、上洛大儀にて候へきに、か様之事可被歯式魚粕、申事ヘハ、何哉と追叙へ共、依無了簡、少之儀仕. 候処、如此之仰迷惑候、可然様上野心得候て可被申と座し間、暮々無用塵事候へ共、兎角申越之儀話者、環 而無曲可被存候間、無是非候、煩敷幅段、心得出て可申之由云付候、. 本心寺実円は、二月二十日に年始の挨拶のため上洛しており、一度の上洛だけで三〇貫文の銭と、酒や﹁土呂み. や、け﹂などを贈っている。それに対し直島は、上洛だけで大変なのだから、このようなことはやめるよう伝えて おり、本宗寺からの多額の上納に困惑するほどだったことがうかがえる。. 本宗寺以外の寺内のうち、上宮寺・勝貿寺・本態寺は三ヶ寺宛徳川家康黒印状︵29︶、無量寿寺に関しては研究. の余地ありとされているが、酒井政家判物写︵39がそれぞれ寺内の存在をうかがわせる史料となっている。三. ヶ寺宛の家康黒印状には、﹁劉別家儀自今以後不可有相違、井家来信問之儀諸役令免許経鼻﹂と記され、道場・. 屋敷は今後相違なく、寺内に集住した商工業者︵31︶である﹁家来塁間﹂については諸役免除とされた。また﹃信 こくたん. もんげ. 長公記﹄にも、﹁家康未だ壮年にも及ばれざる以前に、三川国里に濁・蔓紫・調・覆とて、海手へ付いて然. るべき要害、富貴にして人多き湊なり、大坂より代坊主入置き、門徒繁昌候て、既に国士過半門家になるなり﹂. えうがい おざか . とあり、本宗寺の土呂だけでなく、上宮寺の佐々木︵単座喜︶、本意寺別院の鷲塚も寺内町を形成していたことが. 31.
(34) 知られる︵大浜は時宗称名寺の所在地︶。. 以上、三河真宗教団の展開と有力寺院の金融活動について述べた。本願寺派寺院については置据体的な金融活動. は、今のところ知りえない。在地の土地権利関係などの把握が必要であろう。しかし、永禄三河一揆にはこの経. 済力は生かされたであろうし、第三章でも述べるように一揆後追放されてもなお、本願寺への支援は続けられた。. そして三河本願寺教団の赦免、七ヶ寺還住に際しても、在地門徒による礼銭の支払いがあり、三河本願寺教団の 復 興 に 役 立 った。. 高田派富源寺について、具体的な経済活動は知りえた。しかし、それがどのような役割を果たしたのかが疑問. である。本願寺派のように一揆に参加したわけではない。今回示したような史料に現れる在地領主らとの関係性 を検討することが課題であると思われる。. 最後に、一門衆本曲寺の性格についての問題点を述べる。永禄三河一揆の際も証専は当地には不在であった。. 一揆時、本宗寺住持は不在ながら、土呂寺内には武士門徒が籠城している。﹁松平記﹂﹁三河物語﹂など一揆を描. いた諸書を見ると、佐々木︵上宮寺︶・野寺︵本謹寺︶・針崎︵勝髪寺︶でも坊主衆の姿は現れない。とはいって. も、一揆後、追放されているのだから、一揆に参加したことは確かであろう。しかしながら、本宗寺証専の不在. は一揆敗北の原因の一つとされている。三河本願寺教団の頂点に立つ存在でありながら、教団の危機に際し指揮. をとらず、駆けつけもしなかったということを考慮すれば、本曇寺の三河教団における地位について、再検討が 必要であろう。. 32.
(35) ︵1︶﹃新編岡崎市史﹄︵以下﹃岡崎﹄︶中世2︵一九八九年︶、第一章第三節二・第二章第三節四・第三章第 三節五︵新行紀一執筆︶. ︵2︶﹃安城市史﹄︵以下﹃旧安城﹄、一九七一年︶、第一章第三節︵藤井恒夫執筆︶・第二章章三節︵新行紀一執筆︶、. ﹃新編安城市史﹄︵以下﹃新安城﹄︶1 通史編 原始・古代・中世︵二〇〇七年︶、第人中第三節・第九章 第四節・第一〇章第七節︵安藤弥執筆︶. ︵3︶親鷺門弟の名簿。現在六本あり、そのうち﹁康永三季︵=二四四︶甲申十月廿七日書写之﹂の奥書のある. 岡崎市野稗寺本と、﹁貞和参年︵=二四七︶合爵七月五日写畢集作了弁願主道︵法︶﹂とある京都市福崎院本. によってその成立年代が推定されている。六本いずれも少しずつ相違があり、常陸光明寺本・妙源寺本が同. 系統だが、それぞれの寺の開基を親鷺面授の弟子にしょうとする改ざんが加えられている。甲斐万福寺本・ 近江光照寺本・同明照寺本・光薗院本は同系統。. ︵4︶﹃存覚袖日記﹄。註︵1︶﹃岡崎﹄2、第一章第三節二﹁三河真宗のはじまり﹂二〇五頁より引用。. ︵5︶安藤氏の記録は、文亀二年︵一五〇二︶十月四日、妙源寺への平田荘桑子名田畠三反の寄進者として安藤. 33. 註.
(36) 彦太郎直之の名がみえるのみ。安藤直之寄進状︵妙源寺文書、﹃愛知県史﹄︹以下﹃県史﹄︺10、六二三号︶。. ︵6︶上宮寺文書︵﹃県史﹄9、九〇七号︶ ︵7︶親鷺肖像裏書︵本願寺文書、﹃県史﹄9、二一一一号︶. ︵8︶岐阜県本正寺︵﹃県史﹄10、真宗関係画像等裏書一覧︹以下裏書一覧︺翫25︶、他にM52がみられる。. ︵9︶註︵8︶前掲書、裏書一覧恥5・6.119. ︵10︶青木馨﹁蓮如以降の三河教団再考﹂︵﹃東海仏教﹄四三、東海印度学仏教学会、一九九八年︶. ︵11︶他四人は、蓮淳︵蓮如六男、事端のすぐ下の弟︶・蓮悟︵蓮如七男︶・重慶︵蓮如三男蓮秀の長子︶・顕誓 ︵蓮如四男蓮誓の子︶。. ︵12︶註︵10︶前掲書。. ︵13︶﹃岡崎﹄2、第三章第三節一五﹁本願寺派の発展と寺内町﹂︵新行紀一執筆︶、七三三頁. ︵17︶﹃国史大辞典﹄6︵吉川弘文館︶の﹁祠堂銭﹂の項︵大石慎三郎執筆︶. ︵16︶﹃旧安城﹄第四編中世、第二二王二節﹁郷村制の展開と在地領主﹂︵新行紀一執筆︶. ︵15︶﹃岡崎﹄6 史料古代中世︵一九八三年︶、一二六九頁. には至っていない。. ︵14︶註︵10︶青木氏前掲論文において、自宗寺の性格や門徒について考察されているが、まだ全体の把握. 34.
(37) ︵18︶近江国堅田︵現滋賀県大津市本堅田町︶の本福寺の第六世住持明誓の著。堅田を中心とした近江真宗教. 団の発展の歴史と、蓮淳︵九代法主実年の弟、一門衆︶による統制と弾圧の様子を描いた。 ︵19︶﹃岡崎﹄2、第二章第三節−四﹁三河本願寺教団の形成﹂︵新行紀一執筆︶ ︵20︶﹃岡崎﹄2、第一章第三節−二﹁三河真宗のはじまり﹂︵新行紀一執筆︶. ︵21︶蓮馨寺文書︵﹃県史﹄11、三四七号︶. ︵22︶村岡幹生﹁永禄三河一揆の展開過程−三河一向一揆を見直す一﹂︵新行紀一編﹃戦国期の真宗と一向一揆﹄、 吉川弘文館、二〇一〇年︵一九一一二二六頁︶︶. ︵23︶成立年代・著者共に未詳であるが、慶長年間松平忠吉の清須城主時代︵一六〇〇一一六〇七︶という可. 能性が高い。内容は、天文四年︵一五三五︶清康の守山崩れに始まり、天正七年︵一五七九︶の信康事件 に至る編年史書である。 ︵24︶勝婁寺文書︵﹃県史﹄11、三三八号︿特集三河一向一揆﹀︶. ︵25︶註︵13︶前掲書. ︵26︶﹃岡崎﹄’2、第二章第三節−四﹁三河本願寺派教団の形成﹂︵新行紀一執筆︶、四七五頁. ︵27︶註︵13︶前掲書、七三三頁 ︵28︶﹃天文日記﹄天文五年二月条︵﹃県史﹄10、 一二三一号︶. 35.
(38) 本誰寺文書︵﹃県史﹄12、一〇一〇号︶、上宮寺文書︵同一〇一一号︶、勝髪寺文書︵同一〇一二号︶ ︵29︶. 無量寿寺文書︵﹃県史﹄11、三五三号︶ ︷30︶ ︵31︶ 註︵13︶前掲書、七三五頁. 36.
(39) 第二章永禄三河一揆. 本章では、永禄六年︵一五六三︶に起きたいわゆる永禄三河一揆について検討する。その際、まず、当時三河. を領国化することに成功した今川義元の支配下にいた松平氏宗家とその家臣団や、その他の国人領主の状況をみ. る。また永禄一揆の背景として、今川氏や反家康勢力などの政治的関係についてみてみようと思う。そして、そ れが永禄一揆へとつながることを確認したい。. 第一節 永禄年間の松平氏と三河の状況. 永禄三河一揆では、桜井松平家の家次、国衆の吉良義昭、松平氏家老であった酒井忠尚、松平氏に帰属した荒. 川義広が一揆方に加わることになる。また、松平家臣団の中でも分裂が起こり、全てではないが門徒武士は一揆. 方についた。また、松平に帰属していない三河国衆は、一揆の経過を静観していたようである。このように三河. 国内で分裂が起き、﹁一向一揆﹂と国人領主の蜂起に至った背景として、永禄年間の三河がどのような状況にあっ たのか見てみようと思う。. 37.
(40) 1 今川領国三河. まず、当時の松平家中と三河国人衆の動向を﹃新編岡崎市史﹄︵−︶に拠ってみておく。永禄三年の桶狭間の戦い. により今川義元が討死するまでの一〇年間︵天文十八∼永禄三年︶︿一五四九−一五六〇﹀、三河一国はほぼ今川. 義元の領国となっていた。今川氏の三河直接支配は天文十五年からだという。この年、東三河の吉田城︵渥美郡。. 城主戸田宣成︶が陥落し、吉田城が今川氏の三河支配の拠点となる。天文十八年、松平広忠が家臣岩松八弥に殺. されると、今川義元は雪斎崇孚・朝比奈泰能を将とする軍勢を派遣して岡崎城を占拠させた。新行氏はこれを、. 秀忠の子、竹千代が人質として織田方の手にあることから、松平が織田氏に服属しないようにするためだったと. する︵2︶。同年秋、今川軍は荒川義広の八面城︵幡豆郡︶に布陣し、九月十八日に吉良氏︵西条・東条︶と戦う。. 九月十日・十二目付で、雪斎崇孚らより無量寿寺︵幡豆郡︶へ禁制が出されている︵3︶から、おそらく吉良氏は. 降伏したのだろう。両吉良氏を降し、背後の安全を確保した今川軍は十月から再度安城城を攻める。十一月、つ. いに安城城を落とした今川軍は、城主信広を捕虜として、織田方の人質となっていた竹千代と交換し、竹千代は 駿 府 へ 送 ら れた。. 安城を奪取した今川軍は十一月二十三日に上野城を攻めて陥落させた。城主は不明だが、織田方であるらしい。. 天文十九年五月九日付で篠原︵加茂郡︶永源寺に義元の禁制が出されているから︵4︶、この頃までに挙母中条、. ささはら. 寺部鈴木らの諸氏は次第に今川に屈服していったのであろう、という。この後にも天文二十一年五月二十六日に. 38.
(41) ノ. ; ノ. i. 美濃国 r ’{・. t 、 一/ア t. 信濃国/. し − ”. 二. 1. ∼. L t .一. 図1天文期の三河. ∼5\. 、 −■ 覧. N. ﹀聰ξ㌃f畠. ロ…今川方 ■…織田方 ’. ’、‘璽. ▲…その他. ’. ’. ’. ’﹁. ロ田峯菅沼氏. 〆. ノ. ’. ’、. 0篠原永源寺 } 、. ▲寺部鈴木氏. ユ. 長篠菅沼氏. 挙母 中条氏」L. 尾張国. 臼 1 ノ. □作手 奥平氏. ノ. ▲松平親乗. ノ. t ’ r. 矢作川. /. 菅沼氏 目野田. ∼∼ 一∼∼ ∼、ノ /. k刈谷. ! ’ t. □雪斎・朝比奈軍. 1口水野信元 安城. ’. 豊川. ロ織田信広. x 1 vi. ’. 岡崎. ’. 一//一∼\. 大給. t. /. 八面 荒μ1義広. Qr 東条 西条. △吉良義昭. □牛久保 牧野氏. ■吉良嚢安 . @ . t. 1....vf. { と ロ八名 ∼ 西郷氏’ f ご. ▲吉田 ㌦ 戸田宣成 、. @ @ . 、. @ . 、. @ @減. /. //L (、. ^. /. L一一一一N一一一..一一一一.一一L”....一一v一..一.一HN一一一一d一...{. 遠江国.
(42) 大篭城攻撃があったようで︵5︶、この敵はおそらく大壷松平辛煮で、織田方に所縁があり今川と敵対したようだ. が、親乗も結局今川に降った。三河国内では唯一刈谷城の水野信元だけが、反今川勢力として残った。およそこ のような経緯で、三河一国は今川領国となっていった。. 三河の国人衆が今川の配下となり家臣化されていく中、松平氏も例外ではなく、家臣団の解体・再編が行われ た。﹃松平記﹄に次のような記述があり、松平家臣団が再編成されている様子がわかる。. ︻史料1︼︵6︶. 39. 竹千代殿駿府に御座里馬、三河衆半分は皆今川殿へ出仕被レ申、殊に一門の中にても一分を被レ溢し人々、 給和泉守殿・酒井将監殿・同左衛門尉殿・桜井内膳殿などは、皆在府被レ籠目、. リ ハ ド ハ ぷ ロ バ リ ト . 傍線①はすなわち松平有力家臣のことで、ここには四人の名が記されている。彼らは傍線②にあるように、今川. 氏直臣として駿府出仕が義務付けられていたという。また、彼らの他にも天野孫七郎や算平三重忠など、広忠の. 父清康以前から松平家に仕える家臣に対しても、義元は感状を与えており、松平家臣ではなく、今川家直臣とし. て扱っていることがわかる。松平一門の中では、青野松平家の忠茂・亀千代︵家忠︶に対して、義元が書状を下 している。忠茂宛が四通、亀千代宛は三通確認できる。. 大.
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