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人間改造とその社会的基礎 : 共同意識形成のための「話合い」に関する一考察

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(1)Title. 人間改造とその社会的基礎 : 共同意識形成のための「話合い」に関する 一考察. Author(s). 草刈, 善造. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 10(2): 364-386. Issue Date. 1960-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3733. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第10巻. 北海道学芸大学紀要 (第一部). 第2号. 昭和35年2月. 人間改造とその社 会的基礎 -- 共同意識形成のための 「話合い」 に関する一考察 -- 刈. 草. 造. 善. (北海道学芸大学釧路分校教育学研究室). ion ts SociaI Foundat ion and i Zenz6 KUSAKARI: Humーan Reorganizat. -A Study on ‘.Group. ining the Co‐OPerative Spirit-- ion” for Tr Consul tat a. 次. 目. 3. 「話合い」 による人間改造 ミ 4 , グループダイナミックスと 研鎖. き言 社会的失廿性. 会ミ. 言語人一人間関係と言葉一. 言. 序. 自然 科学によって推進せられつ>ある宇宙時代 に比して、 これを生み出した人間自身の地上生活 は、 貧困、 闘争 (戦争) な どの恐怖につきまとわれ、 動物時代を去ること余り遠くないという女明 の政行性 と、 それがもた らす恐るべき危機に対 して、 社会科学 と人間科学は大きな責任を負ってい る。. しかし、 問題は人間科学を象徴して人間改造を試みてきた宗教 と、 社会科学を代表して社会改造 の実験に前進しているマ ルキシズムとが、 二者択一的ライ バルの 関係にあり、 その正しい調和がえ られないことである。 人間革命なくして正しい社会革命はありえないとする前者 と、 社会改造なく. して人間改造はありえないという後者 との鋭い対立を観念的に調和 して、 両者は同時相即、 相補関 係にあると述べてみたところで、 それは思弁的操作によって生まれた単なる理論にすぎず、 現実の 変革に力あるものとして何ら具体化 したためしがない。 中国において進められっ ある人民公社の精神革命は或程度これに答 えるものであるかもしれな いが、 多分に社会革命が先行していたことは争えない。 社会改造を先行させれを 成果は 上 り 易 い が、 無理を伴うし、 人間改造を先行させると犠牲は出さないが効果は遅々として 「焼石に水」 とな りかねない。 例えば、 人間改造の面からいこうとする学校教育に社会改造を期待することは容易な ことではない。 両者の バランスはなかなかむづかしい。 そこで民主主義的方法がもち出されるが、. 単なる言葉の置換にならないためには、 その具現方式は どうなるのであろうか。 社会改造 と人間改造とが同時相即、 一円循環するような具体的方法論は極めて困難であるとして. も、 それは今日の社会科学ないし人間科学に期待される世紀的要望であるといってよい。 社会科学 に欠けたものが具体的な人間学であり、 人間 (精神) 科学に欠けたものは組織的な社会学的見地で あるとすれば、 両者が相補循環するのは人間 と社会との出合いの場としての 「話し合い」 集団にお ー364一.

(3) . 草. 刈. 善. 造. いてではなかろぅか。 その意味で、 この 「話し合い」 集団としての小集団の研究に 取 組 む グルー プ・ダイ ナミ ックスが一面、 社会工学として社会改造のための実験を企図すると共に他面、 人間工. 学として 人間変容 (協同意識への) を求めているといえるし、 更に 「研鐘会」 の名によって徹底的. な 「話し合い」 を通して、 人間改造とそれに基づく新しい共同社会集団づくり (社会変革) の実績 をあげっ>ある山岸会の研蹟方式は、 まだ学問的究明を経ていないとはいえ注目に値するものであ ろ う。. とも かく、 正しい 「話し合い」 が行われないところに今日の人間社会の最大の盲点があり、 それ カキ世界を危機に陥しいれているとみることもできる。 集団 (社会) と言葉 (人間) との中間領域、 或は両者の接合点としての 「話し合い」 の研究はその緒についたばかりであるが、 人類の歴史が大 きな転換期にのぞんでいるだけに、 社会と人間の在り方が問われる場合にも、 それに答えるための 基礎工事として先づ協力して 「話し合い」 のできる人間をつくることこそ、 社会改造即人間改造の 最 大 の 目 標 とな るの で はな か ろう か。. その意味では、 小稿は正に 「とうろぅの斧」 のような一試論に すぎないが、 考察の便宜上、 人間 改造の具体的方法としてこの 「話し合い」 をとりあげ、 その精練徹底こそ、 言語人 homoloquens i 即社会人 homo social s と して の 人 間の 最 高課 題 の 一 つ であ り、 そ の 中 に 形 成 さ れ る共 同意 識 こ. そ、 新しい人間社会建設に不可欠の世紀的要望につらなるものであることを論究しようとするもの ‘ ‘教育的宗教”に関する である。 同時に、 本稿は本学紀要第9巻第2号 (昭和33年12月) にのせた 「 一考察」 -一人間改造における宗教の必要と限界 --の続篇ともなるもので、 前稿に提示した問題 に対する一つの解答ともなれば幸いである。 1 , 社. 会. 的. 知. 性. 人間改造の方 法原理として実績と理論との両面から最も鮮明に拾頭してきた宗教も、 過去の事実 を検討し新しい時代の要望によって批判する時、 その普遍性と公共性な どにおいてかなりの限界、 )以上、 人間改造の方法的基礎はもっと別の角度から探究して 難点に直面することが明かになった1 みる必要がある。 宗教的方法以外に求めるとしても、 新しい要望に応ずる事実が少い現状において は、 理論面からする演輝的方法によって究明 してゆく ことはさけられないであろう。. 教育人間学の体系に基づく人間存在の構造類型的考察によって求めるとすれば、 第三の心霊科学 的基礎 (宗教的原理) を除いては、 第一の自然科学的基礎 (身体的、 生理的原理) か第二の社会科 学的基礎 (言語的、 社会的原理) かのいずれかということになる。 勿論、 これは二者 (叉は三者). ー的にとりあげるのではなくて、 これらを綜合した全人的見地が堅持されねばならぬが、 考察の 択・ 便宜上いづれに重点をおくかが問題となる。. 幼児期の人間形成はもとより、 少青年期や成年期の人間改造においてもなお、 身体的生理的原理 が相当の役割をもつことは、 最近、 生理学、 栄養学や精神身体医学の立場から新しく解明されてき ている。 例えば、 太平洋戦争中、 英国人捕虜3 万5千人が約3年半の間、 白米と白砂糖を用いた日. 本食を給されて生じた身体疾病と性格変化に関するぼう大な調査報告書、 シンガポール ・ レ ポ ー )( 1951 ト2 ) はその貴重な 一例であ る。 このような身体的生理的方法を通しての人間改造は、 宗教. 的方法がとかく抽象的観念的に傾きがちなのに比べて、 極めて具体的実証的である点において注目 されてよい。 或は将来、 このような方法によって自由自在に人間改造が試みられる程、 自然科学が )ことも全く考えられぬわけではない。 例えば条件反射理論の応用によるもの4 )な どもそ 進歩する3 の 一 つ であ る。 し か し、 こ. 当 分 の 間、 人 間 が こ の よ う なメ カ ニ ズ ム に よ って 全 面 的 に 改 造さ れ る. ことは期待できないであろう。. 一365一.

(4) . . 人間改造とその社会的基礎. 人間存在の構造類型的考察………… ………〔教育人間学の体系〕 科学、 技術. 1 ) 人間対自然 MAN and NATURE ( i l t 自然人 homo na a s ur 全 人 部 g 下下 B O 部 Bげ 構. 構 ( こ 造. の 造 , ー 体 的身 ー逆旨身 説 体 . 的 ) 心 二 的 重 十← 性 ャ 匝 避→ 十. ……生物学、 生理学など. t us は 直立人 homo erec た r 工作人 homo f abe たらき. 力動的平衡. ) 鷲. 身体的存在. 情緒的安定性. 1. (自然) 、 物質、 生命……(地). し. ( 2 ) 人間対人間 MAN. and MAN. 言語人 ,めmoI 。qum. 知性人. 『 ー ・精 ー 相 互 交 流 o. 神 体 的 ). 一 円 統一. い. 圏. ぇ る. つ. け 政治、 戦争. 精神 的 秩 序. 〔社会科学的基礎〕 ……社会学・心理学など. homo s i ens ap. . ‘. 教育学的二律背反. 社会的存在. 人間接触の技術. (生命) 、 意識、 社会……(人). 教育と政治. . ( 理性. ) 巻 .. N and HIMSELF (GOD) 人間対自身 (神) MA ‐ 〔心霊科学的基礎〕. i imbo l 象徴人 homo s cus か ん が. 感. 体的成 茎 藁. か. P o 上部構造 ( x 行 鶏 旦 - 部 統 o d 包容. ( 感性. ホメ オスタ シス. き 経済人h 。… 峨om 血 け. 身 体 的秩序. 〔自然科学的基礎〕. 超越人 hom。 α孤 獅 戯. 1 i. 孤独人 homo solus i l 宗教人 homo re gosus. 「 離接的統÷. 十 十 共同体 廿 ”の場 十 岱 * 可能… 壱零『. マニスム 肇奮馬島; t 燭 も憲三 、 新生. 精神的存在. ・. 残基‐宗教など 霞 ……教育学的ヲ 羅. 序. 馨 :. 1 月. 精神、 超越……………(天). ところで、 改造を最も必要 としている人間の問題は、 こうした人間と自然との物質的つながりに 5 )) を 求 め て、 そ こ に も た ら さ れ る 比較 的 単 純 な 生 i s 生物学的平衡 (ホメ オ ス タ シ ス homeostas t ) に 本づく 理 的、 個 人 的 改 造 よ り も、 人 間 と 人 間 と の 心 理 的、 情 緒 的 つな が り (ラ ポー ト rappor A M t タ グ ) は 「教 育 ( ・ o a u n g 一層 複 雑な 人 間 関 係 (社 会 的) の 改 造 で あ る と い っ て よ い。 モ ソ ー. と人間関係」 の中で、 「今日我々は、 もし文明が生き残るとすれば、 人間関係の科学を培わねばな らない。 同じ世界で平和と共に生き共に働く、 あらゆる人々あらゆる種類の能力を培わねばな らな い、 という最高の現実に直面している。 ……人間関係の科学は学校において最もよく学習せられな lat ions ) に強調 点を移さね ければならぬと信ずる。 我々は 3 R′s か ら第4番目の R (Human Re 5 プ ダイ ) ナミ ックスの社会的発生基 ばならぬ。 」 とのべているが、 三隅二不二氏も亦実践的グルー ・ 盤について、 「生産力は叉労働者相互の人間関係、 労働者と管理者 との間のよりよき人間関係にも 一366一.

(5) . 草. 刈. 差. 造. 同時に依存するものである。 ところが然らば一体いかなる方法がよりよき人間関係を作り出すかと いう間を自らに質してみるとき、 実際われわれはこの間に対して明確に答える知識を殆んど持ち合 せていないことを告白せざるをえない。 事実、 機械を発明し、 その機械の操作技能を獲得 すること に費されて来た時間に比較 して、 人間関係の能率化を促進する技能習得のために費されてきた時間 ) と い っ て い る。 ホー マ ソ ( G. C, Homan は問 題 に な ら な い 程 少 いの であ る。」7. も 「す べ て の. 宗教、 す べての革命運動は、 それが人間の同胞関係の回復を主張し、 特に会衆叉は細胞の形式でそ 8 ) うしてきた。 小さいそして成功した集団の中でのような同胞関係を人はもたなくてはならない。 」 と強調 する。 極言すれば、 今後の人類に とって未解決のま 残されている最大課題は、 人間存在の. 構造類型について要約すれば次のようになる。 即ち、 原子力時代や宇宙時代の出現が物 語 る よ う な、 自然に対する人間の夢が着々実現して ゆく人間対自然関係 (第一の自然科学的基礎) の課題よ. りも、 更に叉、 かつての宗教時代に出現した聖者、 釈迦やキリストな どにみる一個の人間としてそ の最高峯を極めるところの人間対神関係 (第三の心霊科学的基礎) の課題よりも、 そのいづれにも. まさって人間対人間関係 (第二類型) に示される--人間及びその集団関係の矛盾に由 来 す る 政 治、 外交、 戦争、 貧困、 犯罪などの--社会科学的基礎に支えられる難題であ るといえよう。 (図. 式参照). このように、 人間改造において占める社会的基礎の位置は他の生理的、 宗教的基礎などに比べて 極めて重要な、 しかも非常に困難な構造を呈してくるのである。 それは人間存在の下部構造と上部 構造とが交錯しあい、 一面的な割切りが許されないところの複雑、 広範、 多岐、 甚だ不徹底な様相. を描きだしている中間構造である からである。 相互交流、 一円統一の全人的姿態も、 一歩ふみこめ ば、 その裏に分裂と懐疑 と矛盾を苧む人間の逆説的二重性を象徴しているのが、 ほかならぬこの領 域であ る か ら で あ る。 ベ ル ジャ ー エ フ (N, Berdyaev) を して、 自 然 と超 自然 (神) 自 由 と強 制、 、. 低俗と高速という二つの世界対立の極を自身の中に 結びつける自己矛盾的、 逆説的存在9 ) であると. いわせた人間。 ノーベル平和賞をうけた ベルギーの ピトル神父も、 「人間は天使ではない。 この世 に天使というものはなく、 あるのは人間だけだ。 人間とはすばらしいものであると同時に、 人をが l o )という。 掘秀彦氏が 「私は懐疑主義を一面的な合理主義や 例の狂 っかりさせるものでもある。 」 、. 信主義よりも一層強く愛する。 いや懐疑主義こそこの 奇怪な 人間、 合理と不合理の板ばさみの中で. 1 1 )と 述 べ るの も 叉 も が いて い る人 間 と して 一 番 ふさ わ し い 合 理 的な 態 度 な の で はな い か と 思 う。」 、 2 )(にげん) という考え方 において 人間存在の二元的 間″ 的構造を深く とら 二宮尊徳が 「二間」1. えているのも、 すべてはこの領域に最もよく象徴される人間性の本質に向けられたものである。 第 三類型の宗教的人間において一人 の人間としては完成したかにみえても、 人間と人間との関係にお. いて 簡 単 に い かなく な る の が人 間 で あ る。 フ ラ ンク ル (V. E. Frankl ) の いう よう に、 「あ ら ゆ る 1 3 ) B i ‐ o で る しかも 人 中 e e n s e n あ が そ の 間は ミ ック な 関 」 、 に お いて最 も ダイ ナー 存在は関係存在 z g. 係存在の魂化とでもいえるであろう。 従って、 人間改造という徹底した世紀的要望に対しては、 他の二類型のように単純鮮明な方法原 理をもっては答えられず、 なんとなく煮え切らない方法論に終始するほかなかったのが今日までの. 実情である。 例えば文化的教養ないし道徳教育の名によって答えられるものは、 せいぜい人間修養 といった限度以上にでず、 深酷な人間改造にとりくむ人たち (特に宗教人) からは、 甘い方法論 と してそれ程期待されなかったのも当然であろう。 けれども、 他の二つの方法原理が既にその限界を 明らかにしている以上、 しかも人間改造が社会改造に直結することを求める時代的要望に沿う とす. れば、 その方法原理を堀り起す分野はこの社会的基底以外にはなさそう である。 自然科学に比して 著しい立遅れにあるとはいえ、 近来、 社会科学(人間科学をも 含めて)が非常に注目を浴びてきたの 「367一.

(6) . 人間改造とその社会的基礎 は、 一面こうした点 について人類の関心が急速に高まりつつある証左ともいえよう。 三隅氏の言葉 を 借りると、 第二次大戦を契機 として、 デモクラシーの危機、 文明の危機を眼前にした人々は危機 克服の方法を真剣に探索 し始 めた、 そしてこれらの手段方法を提供するものとして社会科学にその 4 )。 た す け を 求 め て き た の で あ る1. それでは、 人間存在構造の社会的基底は具体的に どんな性格を蔵しているのであろうか。 その関 係構造を分析すると、 対自然 関係において遠心的む こ 「はたらきかけ」 る工作人 homofaber と 対 自己自身 (神) 関係において求心的に 「かんがえる」 孤独人 homosolus 、 そ して 叉、 工作 人 か ら l igosus と が、 力 学 発 展 す る 経済 人 homo economi cus と 孤独 人 か ら 沈 潜 す る宗教 人 homo re. 的様相を描いて遠心即求心的に出合う共通の広場 こそ、 実は 「はなしあい」 す る 知 性 人 homo l i l i 即社会人 homo socia s r a s の活躍する天地である。 下程勇吉氏が , 道 徳 人 homo mo 「道徳教育の人間像」 において、 「近代社会の生活はつねに ミ共通の問題″ を も っ て い る か ら 相. sapiens. 、. l i i 携えて人々に共通の問題を解決するような 社会性をもった人間こそ、 即ち社会人 homo s oc a s 5 ) こそ近代道徳教育の焦点に立つといわれる1 と述べて 人間改造の焦点をそ いるのは 」 の社会的基 。 、. 礎に求める我々の場合にもあてはめられてよいであ ろう。 ベル ジャーエフも亦このような相対 的力. 動性をもつ社会的動物としての人間存在について、 「意識は人間の本能の力を弱め、 生物学的に無 防備とした。 改善と防禦のための器官は生物学的器官に代って社会的機関となり、 人間は社会的環 6 ) 境とその武器に依存する1 」と述 べているが、 それでは社会的存在とな ったその人間の武器は何で 。. あろうか。 この武器によって人間は動物界から脱却しえた と共に、 この武器の改造によって更に自 らを向上させていかねばならない。 それは工作人が遠心的に 「はたらきかけ」 る実践内容と、 宗教 人が求心的に 「かんがえる」 思考内容とを言語人 homol oquens が遠心即求心的に結びつける方. 法形式としての 「はなしあい」 であるといえよう。 「はなしあい」 の舞台に活躍する知性人即社会 人、 一言に社会的知性人、 その社会的矢廿性人の武器はほかならぬ社会的知性であり、 その具体的姿 態が 「はなしあい」 とな って展開するということになる。 即ち、 人間存在構造の社会的基礎の根底 に 社 会 的矢廿性が 蔵 さ れ て い る こ と が 明 ら か と な っ て く る。. 従って この社会的知性を更に検討するところから人間改造の方法原理が一層適確に具体的にひき 出しうるかもしれない。 社会的矢律性の構造については、 下程氏が、 人間学的立場から次のように分 り易く解明している。 「社会的知性というものは、 つねに相対立するものの間に力動的にゆれなが ら、 その間に平衡を保ち、 目づと定まる幅をもったものである。 それは固定観念的に割切った一本 7 ) 調子のものではなくて、 幾重にも反対を容れつつも、 深い底ではゆるがぬ弾力性をもっている1 」. だから、 「反対者の存在をみとめ、その対坑性によってきたえられなければ、自分も本物になれぬと いうのが、 ヘー ゲルなどのいわゆる精神の法則であるが、 社会的知性もかかる構造をもっている。. かくて進歩的勢力と保守的勢力の相亙批判、 相亙惨透の場としての社会的知性こそは、 民主政治の 8 ) 根源をなすものである。 民主主義を真に支えるものは、 社会的知性そのもの である1 」 と述べ、 更 現代世界の当 に 面する問題 との関連において、「人類の一人一人が 自律的自由人格の愛の共同体 にかえること以外に人類を救うものはないと自覚することである。 これこそ進歩的立場と保守的立. 場の相互惨透的公約数であり、 いわゆる社会的知性の究極的内容叉はその哲学的根紙である。 …… ) 6 社会的知性の場への道が開けねを土 人類は破滅の袋小路に突入するだけである1 」として社会的知 。 ″ 性を 愛の共同体 の自覚にま で深化して説いている。 人間の本質的構造を愛に見出す点では、 フ tan)の 所 説 は 傾聴 す べ きも の が あ る。 即ち、 「エ ゴイ ズ ラ ン ス の 生 物 学 者 ジャ ン ・ ロ ス タ ソ(J . Ros. ムこそは全社会の唯一の基 盤であることを明言し、 人間の社会性を原始共産社会の歪曲された痕跡 だとみた時代は とぅの昔に過 ぎ去って いる。 今日ではむしろ、 愛こそが全社会の唯一の 基 盤 で あ 一368一.

(7) . 草. 刈. 善. 造. る。 ……この人類愛が人間の本質的属性であることを科学は教えてくれ、 愛情こそ自然な道徳の基 0 )」と彼 はい う 従 っ て 「隣人 愛 をも たな い者 あ る い は 少く とも 自 分 以 外 の も の は 愛 せ 盤 であ る2 。 。 、. 1 )」とも い い叉 な い人 間 は、 病 気 と ま で は言 え なく と も 発 育 不 良 で あ り、 虚 弱な の であ る2 。 、 「私た. ちは、 エ ゴイストで貧欲で、 後退的で全然人間性のすぐれた点をもたない者は進化の途上で歩みを とめてしま った人間、 精神的成熟に達しなかった人間、 感受性のおくれた、 本能のみの幼児、 言う 2 )」と ま で極 言 す る なれば、 一種の類人種″ に す ぎな い こ とを 知 っ て い る2 。. 。. ところで、 社会的知性の究極的根底は叉、 人間のみがもつこの隣人愛 (社会愛) であ る と し た ら、 この内 容は更に深い哲学的究明を要するが、 方法原理を求める立場からは、 むしろ逆に社会的. 矢P性が具体的に発動する場としての 「話し合い」 と、 その形式 (手段) である言語について人間学 的検討をより必要とするように考え られる。. 1 ) 小稿 「教育的宗教に関する一考察」 北学大紀要第一部第9巻2号昭和33 . .12 2) 河内省一 「栄養学の批判と食養道」 昭31真生活協会10頁 3) J .Rostand: Peut on Modi6er じHomme . 丹羽小弥太訳 「人間は改造されるか」 昭32講談社 ,1956 4 ) 5 ) 6 ) 7 ). 98~105頁. 古武弥正 「人間を戦争しないよ 動こ改造できる」 昭32.10 .8 朝日新聞 若杉勲、 杉靖三郎 「ホメオスタシスと相関」 現代心理学1昭29河出書房270~27 5頁. A. Montagu: Bducat i ion la t on and Human Re ,1958, p. 22.. 三隅二不二 「社会工学としてのグループ・ダイ ナミ ックス」 グループ・ダイ ナミ ックスの研究 (第1集) 昭31 理想社27頁 8 ) G, C. Homans: The Human Groop . 馬場明男、 早川浩一訳 昭34 ,1950 , 誠信書房497頁 i 9 4 9 ) N. Berdyaev: The Dest 1 5 4 6 ny of Man p . . . , 10) 朝日新聞 昭33 .12.26 1 1 ) 朝日新聞 昭34 .6 . 19 12) 佐々井信太郎篇 「二宮尊徳全集」 第1巻 昭6 13頁 .4 i l 13 ) V E. Frankl: Aerzt l che S 52 ee s orge ,19 . 霜山徳爾訳 「死と愛-実存分析入門一」 昭33みすず書房 6頁 14) 前場 7 )29頁 15 ) 下程勇吉 「道徳教育の人間像」 昭3 1勲明書房127頁 16 t ) Berdyaev.op ci .p .48 。 17 ) 下程勇吉 「社会的知性の教育」 昭30駿明書房261頁 18). 同. 上 274頁. 19 ) 同 上 309頁 20 ) 前 掲 3) 13 1頁 21 ) 同 上 130頁 22) 同. 上. 129頁. 2 , 言語人-- 人間関係と言葉--- 社会的知性の発生、 交流、 発展を可能な らしめている最大の社会的媒介機関が言語形式 (象徴) であることは今日では一つの通念となっている。 しかし言語が、 人間と動物とを峻別する本質的徴. 表であるとしても、 人間改造の方法原理としてどれだけの人間学的基礎を蔵しているものであるか については、 視角を変えて更に深く詳細にその関連が究明されなくてはならないであろう。 言 葉 の 起 源 に つ い て は ま だ 定説 は な いが、 ゲ ー レソ (A. Geh l en) も いう よう に、 言 語 の 起源 の. )から、 人間改造を問題とする立場から 問題は人間の起源の問題につながり、 その逆も真であろう1 は、 その発生と発達の経緯について考察しておく必要がある。 人間生態学的立場から現象的顕型的 なものを通して、 逆に原型的発生型的なものへと考察を進めてゆく下程氏の所説2葛こ従う と次のよ 鋤こなる。 即ち、 樹上生活 によって手の力の発達した人類が、 やがて草原生活に移ると共に直立歩 行が始り、 直立人 homoerectus (二 足 人 homo bipes) とな る と同 時 に解 放 さ れ た 手 に よ っ て 工 「369-.

(8) . 人間改造とその社会的基礎. 作人. homo faber が生れ、- -方大脳の急速な発達による知性人 homosapiens と共 に声帯の画期. の 誕生をみていこうとする。 人間の歩行運動が驚く べ き複雑精妙な 一種の芸当であることは諸学者の 一致した見解であるが、 重心が高くなっ たために破 れ易く失われ易い平衡と安定の中に力動的恒常性を維持してゆく、 --この直立人にこそ人間の基 的な進展がもたらす言語人. homo loquens. 本的規定が最もよく表現されている。 四肢が大地を離れにくく、 従って視野も低く狭い動物的同旬 に比 べると、 前肢 (手) が完全に解放せられ頭の位置が高くな った人間的立行に よ って、 人間の視 界はより広くより自由に解放拡大せせられることになる。 この人間の直立歩行は大脳や声帯に どん. な影響を及ぼすこ とになるであろうか。 四肢で這行する動物は頭蓋 と頚背推とを結ぶ筋肉の強い緊 張によって脳髄がひきしぼられるのに比べて、 立行とな った人間の場合、 頚筋がゆるむと共に頭蓋. が膨れるゆとりをえ、 そこに脳髄の発達が促されてくる。 直立歩行が大脳を発達させた と いう の は 学 界 の 定説 とな っ て い る。 こ こ に homo erectus が homo sapiens と深 い 関 連 を も っ て く る。 ところで、 この直立による頚筋のゆるみは、 一方に発声器官を中心とする微妙な筋肉の発育を促 de してくる。 ヘルデル ( 1 r ) は、 「直立歩行の体制で始めて地上に人間的言 語 があらわれ r . G.He る」 と述べているが、 発達心理学の見地からも、 生後 1年前後で幼児の直立歩行機首Eと 発 声 (言. 語) 機能がほゞ平行して現われるといわれている。 精薄児が立行、 言語共に遅れることは周知の事 で あ る。 シ ョ シ ャ ー ル (P. Chauchard) は こ の 間 の 経 緯 を 「言 語 と 思 考」 の 中 で 次 の よう に説 明. する。 「人間は起源 において最も大きな脳の持ち主であり、 生来のメカニ ズムより将来発達の見込 みのあるメカニ ズムの方を余計に備えたものであるが、 その外にも この巨大な脳 とその活動を促進. する生物学的特性をもっていることを忘れてはならない。 すなわち成長期間が著 しく長いことと、 立って歩く姿勢をとったことである。 この過程は人間化の根底をなすもので、 そのために手が自由 に使えるようになり、 頭蓋が容積を増すことができ、 額と顔ができ、 動物のハナ ではどうにもなら ) ない構音の障害が喉頭から除かれたのである3 」 ついで更に詳細に脳髄 (思考) の発達と言語の発 。 達を述べて 「子供は教わったから歩くのではない。 神経系統が完成するから歩けるようになるの で ) ある。 練習を禁じて実験してみると、 練習は必ずしも必要ではないことが分る4 。」 或は 「生後3 ヶ 月 間は人の子はチンパ ンジーの段階にある。 ……ついでがらりと変る時期がくる。 人の子はビック リする様な大巾の進歩をし、 サルにはできない問題を解く、 それは子供が言語を話す年命に達した ) 時 で あ る。 言 語 を つ く ろ う と す る 脳 の 働 き方 に よ っ て 新 し い 推 理 が で き る よう に な るの だ5 。」 「人. 間では7才にならなければ完全な構造に達しない。 生後数年とくに生後1年間 (立行と 言 語 の 開. )」 とも い っ て い る。 こ う して homo erectus と homo sapiens 始) の 脳の 発 達 は 驚 異 的 で あ る6 。. との関係は必然に homo loquens と 不可 分 の も の とな っ て く る。. 人間と動物とを同じ生命の次元において とらえ る実証主義者ですらも、 言語学習の実験において オウムもチンパ ンジーもそれが不可能な点において、 人間と動物との間に言語をめぐって絶対的な ) フ ライ ブ ル グ大 学 解 剖 学 研 究 所 長 ゲル ト ラ ← (G6r l t t er) さ け 目 を 認 め ざ る を え な い よ う で あ る7 。. も、 「人類の喉頭原基には胎生3 ヶ月より構築要素が現われる。 これが声帯膝種質であるが動物に はこれが見られない。 この特別な複合組織から人間の声帯賊襲が発育する。 ……人類の脳の形成、 直立歩行、 その他数多い機能の成立と共に、 声帯庭種質の発育に よる声帯筋系統の特異性は、 動物 ) に対する人類の特別な地位を基礎 づける特長たるにふさわしいものである8 」 として発声機関のも 。. つ革命的意義について肉体構造の面からも立証している。 ショ シャ ールも 「言語は動物と人間を根 ) 本から分離する障壁である9 」 と極言する。 哲学的見地から、 人間とは言語人であることを明かに 。. l した も の と して は、 フ ン ボ ル ト (W. V. Humbo t ),の 「人 間 は 言葉 に よ っ て の み 人 間 と な る。 だ. o ) が言葉を発明するためには既に人間でなくてはならぬl 」という あの有名な言葉をはじめ、 フィフ 。 ー370-.

(9) . 草. 刈. 善. 造. テ (J chte) が 「言 語 が 人 間 に よ っ て 作 られ る よ りも、 人 間 が 言 語 に よ っ て 作 ら れ る こ と が . G, Fi 1 )。」と述 べ て い る こ とや 宗 教 的 直 観 も加 え て 言 葉 は光 で あ る と す る ピカ ー ト (M. Pi 多 い1 card) 、. 2 ) の、 「人間の昼は言葉の光によって始めて成立する1 」 という詩的表現な どいろいろあるが、 いず 。 れも人間と言葉 との密接不可分の相関関係を端的に説明してくれて いる。 人間と言語との関係は、 既に或る程度ふれて きたように、 一 層明確に具体化すれば、 思考と言語 との関係に集約せられてくる。 「思考は言語によって自己を形成しながら言語を形造ってゆく」 と l ix) や、 「思 考 は話 を す る前 に 心に 浮 ぶ と いわ れ 思 考 は 言 語 と いう 素 いっ た ドラク ロ ウ (De acro 、. 材がなくても、 いわば裸で生れると言われるが、 これはまるで違っている。 心に浮ぶ考えがどんな 考えであろうと、 言葉という材料が基礎になければ思考 は生れも存在もしな い。 ……思考の実態は 3 )」 と いっ た ス タ ー リ ン (J 言葉 に 表 わ さ れ る。 言 語 な き思 考 は 存 在 しな いの だ1 l in) な ど . V.Sta 。. をまつまでもなく、 両者の密接な相補的因果関係は簡単にその後先を論断しがたい。 も っ と も、. 4 ) 工イ ヤ ー (A.J ) は 「む しろ 思考 は音 声 言語 に 先 行 す る1 」 とい い、 レソメ ル ヒ ル ト (A. . Ayer L6mmerhi t r ) は 「言 語 の 起源」 の 中 で、 最 近 の い ろ いろ な 研 究 や 実 験 の 結 果 「考 え るこ とは 話 す 5 )とも 述 べ て い る。 し か し こ の 場 合の 「考 え る こ と」 こ と に 先 立 つ」 と い う こ とが 明 白 に な っ た1 、. 6 )に ほ か な らな い とみ る べ きで 音 声 を 内言語 1 、 ″ 外言語 に こそならないが、 それは必然に内言語を媒介にしていると考え. は シ ョ シ ャ ー ル の いわ ゆ る思 考 の道 具 と して の. 伴わない直観的思考も. られる。 ここにシグナルやサイ ンまでは解しえる動物と、 信号が実在から分離して象徴となったと ころの 内 言語 を 駆 使 す る人 間 との 絶 対 的 な 断層 が あ る と いっ て よ い。 カ ッ シラ ー (E, Cass i rer). l i のいわゆる animal symbo cum (シ ン ボ ル を 操 る動 物) と して の人 間 の定 義 が 生 れ る の だ が、 実 際的想像及び知性をもって いる動物に対して、 人間のみがもつシンボル的想像及びシンボル的知性. --一 シ ン ボル 的思 考 の 発 展 と シ ン ボ ル 的 行動 が可 能 とな ってく る 1 7 。 )言 語(内 言 語 も ふく めて) に よ. らぬ信号の体系を第一信 号体系と呼び、 言語を第二信号体系とする パ ブ ロ フ ( 1 l ov) が .P . Pav 「言葉と言語器官から皮質に行く運動興奮 (筋感覚) は第二信号、 すなわち信号の信号をなす。 こ. の信号は実在の抽象化であり、 普遍化の傾向があり、 これこそ正に人間特有の高次の補助的思考方 法をなすものである。」として、 生理的には条件反射の特例にす ぎない言語 が、 人間固有の特別の条 8 件づけで、 それによって人間の精神作用の高等な ことが客観的に証明されると 断定 している1 )の も、 こ の 点 に つ いて 指 摘 した も の で あ ろう 。. ところで、 この新しい革命で ある第二信号体系の成立、 シンボル的思考の出現は どのような意 、 味において 「社会的知性」 を本質とする人間の存在構造の中枢を占めることになるであろうか そ 、 の関連について更に考究してみたい。 われわれが本当に思考している場合に 内言語が伴うこと は 、 前述したが、 それはおのづから独語 monologue と な っ て く ると い え る。 そ れ は 本 質 的 に はコ ミ ュ. ニケイションの手段 (二人の個人間の信号) ではないとしても、 語る我と語り返す我とが同一主観 9 ) 内に凝結された一種の対話 dialogue と な っ て 最 も 深 い 思考 が 展 開 して ゆ く こ と に な る1 。 いづ れ にしても必然に言語を介して刺戟、 誘発されていくものが思考であることに変りはない。 従って、. 言 語 は ソク ラ テ ス (Sokrat es) に お い て 最 も 古 典 的 に 示 さ れ たよ う に、 自 他 の 間 の dia logos (対. 話) でなければならぬし、 対話こそ言葉 logos(ロ ゴ ス の 本質 は 「開 示」 であ り、 こ れ が 具 体 化 さ れると当然 「話し」 の性格をもつ) の最も本来的なあり方である。 人間が言語をもつ動物 であると い う こ と は、 こ う して、 人 間 は 対 話 す る動 物 で あ る と いう 意 味 に 外 な ら な い2 0 ) 。 稲高栄 次郎氏によ. れば、 「語るということを本質とする言葉は語る我と語られる汝との対立を予想している し、 語る のは常に共に語り合う相互の interaction であるから、 言葉は人と人との共存 即ち人間の社会を 、 1 前提し、 社会は言語活動の必然的な場面でなければならない2 ) ということ 」 になる 。 。 「371-.

(10) . 人間改造とその社会的基礎 i o この点については、 更に言語学者や社会心理学者の所説にきいてみよう。 マリオ・ペイ (Mar pe i ) は 「言語が事実化するのは二人以上の人間が、 或る音声叉は一組の音声が二人以上の人間に 2 ) 」 と述 べ て い る が、 ヤ ン ゲ (K. Young) に な る と、 と っ て 同 じ意 味 を も っ と決 定 す る 時 で あ る2 。. 「言語は社会的状況即ち相互作用のなかで発達する。 最初乳児は苦痛の経験で発声するかも しれな いが、 つづいて-愉快な状態も音声表現するようにな る。 ……これらの基本的欲求に対する自然的反. 応は、 最初から殆ん ど社会的な ものとなる。 例えを 、 母は幼児の泣き声に応 じて抱き上げるばか り でなく、 食物を与え、 動かし、 ぬれたむつきを取替え、 快い叉そのほか のあらゆる種類の音声を幼 3 ) 」と ion の モ デ ル とい っ て よ い2 cat 児の 耳 の 中 へ 注 入 す る。 こ の 状 況 は 正 に あ ら ゆ る Communi 。. 発生的に説いている。 しかもこのような 「社会的通じ合い」 は人間の本性にねざすものである こ と l ley and R, E. Har t ey) は、 人 間 は 他 人 との 通 信 を 求 め につい て、 ハ ー ト レイ 夫 妻 (E. L. Hart る要求が強く、 それが全く断たれると、 基本的な生理的要求が満足させられない時に以た反応を起 4 )のことを述べている。 すもので、 通信は人間にとって極めて重要な意味をもっている という趣旨2. ) も亦、 人間は本質的に他人の立場に立ちうる動物であって、 他人に対する ミー ド (G.H. Mead ように自分に対することができるこ と、 これが心の本質的な働きであるが、 ここに始めて固有の意 5 )として、 人間存在の本質構造が言語 味における言語 機能がみられ、 固有の意味の社会が成立する2 i a n) は「(人間) 精神の 機能を介して社会的相 互作用を成立させる点を指摘している。 アラ ソ (A1 あらゆる手段は言語の中に蔵されている。 言語についてかつて省察したこ とのないものは、 全然省 6 ) 」と い っ て い る が、 シ ンボ ル 的 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ンと して の 言 語 の 本質 構 察 しな か っ た も 同 じ だ2 。. 造に省察を加えることによって、 人間改造の社会的基礎 (社会的知性) も鮮明になるであろう。 社会的コミュニケーショ ンとしての言語は単に無意味な物理的な音声の交換 ではなく、 言葉のも. つ客観的な意味による結合である以上、 語るということは同時に個人的主観を超越することでなく てはならぬ。 叉逆にいえば、 何人も承認せ ざるを得ないような客観的事実を表現して結ばれる以外 に、 自他をつな ぐ言語の存在はありえない。 そこには既に超 個人的な客観的意味の世界が予想せら llanguage) は や が て iona れ る。 当 初 の 感 情 的 主 観 的 言 語 (カ ッ シ ラ ー の いわ ゆ る 情動 言 語 emot. その身体的結びつ きの中からそれらの意味表現としての客観的理性的言語 (カ ッシラーの命題言語 7 ) Propos i ionallanguage2 t ) へと、 その中なるものを超えて無限に進歩し無限に複雑化してきてい る。 正に超越が言語であり、 言語がロ ゴス (理) として時間と空間を越える面がで て く る。 日 本 語の 「話す (はなす) 」 が 「放す」 叉は 「離す」 原意をもち、 英語の 「意見を述 べる、 論ずる」 の. l l iver oneself も、 「解 放 す る de iver de 」 か ら きて い る が、 い づ れ に して も 「話 し あ う」 相 互 が単. に 物理的に音声を肉体から 「離す」 ことのみに止らず、 心理的にもお互に自己の主観、 独断、 偏見 を 「離しあい」 それから 「解放され」 て普遍性、 客観性において 結ばれることを意味してい るよ う l i ia s であ る こ と か ら、 更 にそ れ を超 であ る。 そ こ には言語人 homo loquens が社会人 homosoc. えて象徴人 homo Simbolicus、. 超越人. l igosus i homo transcendental s と して 宗教 人 homo re. へのきざ しさえみられる。 ロ ゴスの共有が人間の血縁を超えての世界的公開性 を 意 味 し、 宗派や 同体も指向されて く る。 そ こ ま で つ き つ イ デオロギーを越える世界国家、 全人類による愛の共, めないに しても、 言語の発達がいかに教 育上大き な 意 味 をもっものであるかは既にペスタロ ッチ lozz i ta ) な ど が 論 じ た と こ ろ であ る。 話 しあ い の で き る人 間、 即ち 言 語 人 的 人 間 の 育 (J . H, Pes lds in) に よ れ te 成 は教 育 に と っ て の 至 上 課 題 とも い え る であ ろ う。 ゴ ← ル ドシ ュ タ イ ン (K. Go. ば、 精神病理学 における最近の研究は、 脳の損傷によって惹起された言語のひ どい傷害叉は喪失が 決して孤立した現象ではなく、 これに対応 した人間の行動の全体的性格即ち人格を変化させること 8 ) を明らかにしている2 。 我々が人間改造の方法原理においてその社会的基礎即ち社会的知性に焦点 「372-.

(11) . 草. 刈. 叢. 造. を当てる場合、 このような言語の占める人間存在構造上の中核的位置を確認してかかることは不可 欠の要請であろう。 1) 2) 3) 4) 5) 6) 7 ). 8) 9 ) 10 ) 11) 1 2) 13 ) 4) 1 15 ) 6) 1 7) 1 8) 1 19 ) 20) 1) 2 22). 2 3 ) 24 ) 25 ) 26 ) 27 ) 28 ). 築島謙三 「言語」 現代社会学2昭34中山書店224頁 下程勇吉 「教育における人間学的基礎」 昭32年後期京大教育学部講義ノ ー ト P. Chauchard: Le Langage e de tla P en s 1頁 . 吉倉範光訳 「言語と思考」1957 . 白水社40~4 同 .上 41頁 同 上 48頁 同 上 39頁 E. Cas i rer: An Bs s say on Ma 51 n 53岩浪書店 . 宮城音弥訳 「人間一この象徴を操るもの一」 19 , 19. 41頁 A. L6nmmerhi t: Di r e Genese der Sp r a che 8中山書店87~88頁 .「言葉の起源」 コトバの科学1195. 前掲 3)35頁 M.Scheler: Die stel l ung des Mens chenim Kosmos ,87. ,1949, s icht J i i e: Reden an d e Deut 「 t 大津康訳 sche Na 独乙国民 3岩波書店59頁 on . G. F につぐ」 昭1 . M.Picard: Der Mensch und r ‐das Wor . 51, ,1955 ,s 前掲3)12頁 前掲1)226頁 前掲8) 81頁 前掲3)32~35頁 前掲7)38~45頁 前掲3)65~66頁 前掲2) 稲富栄次郎 「人間と言葉」1959福村書店32頁 同 上 27頁 M. Pe i: AI 1about Language ,1956 , p.17. K. Young: Hand Book of Soc ia I Psychol ogy, 1957, p 、 98, E‐ L. Har l t l ey and R. E。 Hart ey: Foundamenta l ia I Psycho logy s of Soc ,1952, p .18, 前掲 1)225頁 ’Bducat in: Propossur’ A1 i 1 a on 水野 矢島共訳 「アラソ教育論」 昭2 4酌燈社28 8頁. 、. 前掲7) 40~41頁. in : Human Na K. Go 1ds turei je n the Lightof Psychopathology ,1947. 西 谷 三 四 郎 訳」 人 間、 そ の. 精神病理学的考察」 昭32誠信書房7 1~87頁. 3 . 「話 し合い」 による人間改造 社会改造と不可分の関係をもつ人間改造が、 その方法原理として社会的基礎にたたなければなら ないことについては、 人間形成或は人格成立のための条件として心理学や 社 会 学 が明らかに した とこ ろ であ る。 例 え ば、 デ ユ ー ヰ (j . Dewey) は 「精神 は 人 間 が そ の 環 境に 対 して、 叉 環 境 に. ) おいて、 適応するための道具である。 心は社会的相互作用の中に出現する1 」 といい、 ブ ラ ウ ン 。 (F , Brown) に よ れ ば、 「人 格 は 生 れ つ きの も の で はな い。 人 格 は 本 来、 人 と 人 との 間の 社 会 的 交. 互作用の結果として形成さえ るものであるが、 また個人がその中に生れ、 かつ常に個人をとりまい. ) 」 と いう こ と にな る 「従 っ て て い る文 化 型 式 全 体 と一 体 に な る 複 雑 な 関 係 に よ るも の であ る 2 。 。 、 3 ) 己 主義 成 人 自 完 は個 的な 事 柄 ではな く 協 力 的な こ と であ る 。」 と い う ヘ ン ダー ソ ン (S, V. Hen【 derson) の 結 論も でて く る。 そ して これ ら の 「社 会 的相 互作 用」 と い い 「協力」 と い い、 そ れ ら の 内 容 は 「言 語」 と いう 形 式 を 媒 介 と す る こと に よ って の み、 或 はも っと適 切 に い え ば、 「言 語」 と. 一体化して遂行或は充実せられてゆくものであることは、 前節の 「人間関係と言語」 の考察によっ て ほ ゞ明 か とな っ た と い え よ う。. と ころ で、 そ れ で はそ の 言 語 と人 間 形 成 な い し人 間 改造 と の 関 係 は ど う な る であ ろ う か。 「言 語. ) は人間行動を調 節する体系を表わしている4 」 といったパブロフの大脳生理学の研究を継承して、 。 -373-.

(12) . 人間改造とその社会的基礎. 言語医学の立場から人間改造を提唱する多田政一氏 は、「人間の精神活動の基柱は言語生活である。 人間の言葉ほ ど人 間の心を支配し、 心に作用するものはない。 ……精神科学はこの門から入るべき であり、 パブロフも晩年、 将来の問題 は ミ言語 という 第二信号系の作用を明かにする ことである )一、と示唆的にの べて と遺言しつつ去っていった。 彼も亦正しく将来の方向をさし示したのである5 ) は言 語 にあ い る。 更 に 「話 す 生 活 とそ の 教 育」 の 中 で 倉 沢 栄 吉 氏 は、 「ソ シ ュ ー ル (F .Saussure. っては何もかも 心理的である といったが、 伝承的な言語であるから、 その点では何もかも社会的で あるということもできるであろう。 それぞれの社会が違うように言語が違い、 それによって思考行 動の特殊な様式を与えられるようになるということは、 主として言語を媒介として基本的人格が形 ) 」 と述べ 成されることを意味する。 そして叉言語の使い方の上に基本的人格が表われるのである6 。 て人格形成の上に占める言語の位置を強調 している。 言葉の教育的意義を重大視する 下 程 氏 は、 「言葉を粗末にして人の心を荒しぬいた挙句、 道徳教育を呼ぶようになるな ど、 まさに悲劇という. ) よりも喜劇である7 」 と痛烈に論じると共に 「言葉は人間の思考、 行動、 人格に大きな影響を与え 。 る。 ことに機宜をえて発せられ、その人の心の底の底までひびくような愛の言葉は、教育的におそる. べ き偉力を発揮する。 まことに、 日本最大の求道者 として高くきびしきこと、 この上もなきものを もちながら 愛語よく回天の力あることを学すべきなり と説いたところに、 道元の教 育 者 と し ) てのただならぬ深く鋭い感覚があったといわれよう8 」 とものべている。 心理療法の補充 としての 。 論 理 (実 存 分 析) 療 法 とも いう べ き ロ ゴテ ラ ピ ← (Logotherapi e) を 唱 道 寸 す る フ ラ ンク ル は、. 「臨床心理学的な処置の枠内のみならず、 もっと広い何らかのカウンセリングの枠内においても、 単に言葉で表現すること自身が、 すでに重要な治療的効果をもつことがしばしば示されている。 … … 自 ら を 表 現 す る こ と が 気 分 を 寛 解 さ せ るも の であ る こ と はよ く しら れ て い る。. 悩. は ミ分けられた苦悩. 告げ ら れ た 苦. 1」 と して い わ ゆる 人 間 改 造 に と っ て ロ ゴス ( logos ) の な の であ る9 、 。. もつ深い意味を示唆している。 このように、 人間行動の変容、 人格形成 (教育) 、 人間改造な どを通じて、 最も重要な意義をも の機能 つ人間的言語 は具体的には種々の様相を呈して発動してくる。 内言語を介して刺戟、 誘発さ. れた思考内容は再び言語 (外言語) を介して他に伝えられる。 その伝達方法は二つに分れて、 一 つ. は言語によって 「話される」 ことであり、 他の一つは文字によって 「書かれる」 ことである。 前者 に対応して 「聞く」 こと、 後者に対応して 「読む」 ことの二つの作用が展開し、 そこに他者の思考 が再び誘発、 刺戟されてくる。 いわば、 考える、 話す (或は書く) 、 考える、 と 、 聞く (或は読む) いうように言語作用 は循環補足しあいつつ人間の大脳皮質の機能を刺戟 し、 条件反射的に人間 の精. 神作用に変化を及ぼし (学習) ていくことになる。 しかし、 この作用循環も、 考 える 人、 話 す 人 --聞く人、 書く人--読む人の関係が時間的にも空間的にもより接近 し、 間接的な交互作用から 直接的な交互作用への度合が高まる程、 相互の一円循環作用は一層急速に、 活発に行われるように な ってく る。 こ の 場 合、 これ を 「考 え あ い」 「話 しあ い. 聞 きあ い」 「書 きあ い -- 読 みあ い」 と. いうことができ、 言語のもつ本来の社 会性 (人間関係性) は一段と発揮されて、 従って精神的刺戟 に伴う変革作用はより促進されるであろうことは当然推察されるところである。 ところが、 これらの諸作用の中でも、 「考える」 ことは他の 「話す (きく)」 「書く (よむ) 」 など に比 べて、 幾分個人的、 孤立的傾向に陥いることは争えない。 即ち 「考える」 その人、 一個人のい わば内言語をもってする大脳の働きに止ってくる、 その限りにおいては必ず しも社会性をもっとは い い え な い であ ろ う。 そ れ も 「考 え あ い」 となってくると、 既に社会性は十分に前提されている. が、 「考えあい」 を可能ならしめるためには、 結局、 表現された言語 (外言語) を介する以外には 方 法がないか ら、 「話しあい (ききあい)」 「書 きあい (よみあい)」 という形態をとることになるで -374-.

(13) . 草. 刈. 差. 遣. あろう。 従って、 われわれは以下、 この 「話合い」 と 「書合い」 の二つについて それが人間改造 、 に と っ て ど んな 関 係 (意 味) を苧 ん でく る か に つ いて 吟 味 して み る こ と にす る 。. 「話しあい」 と 「書きあい」 が日本民主化の大衆運動として特に活発にとりあげられてきたこと. については、 三浦つとむ氏が「人間形成とことば」の中で次のようにのべて いる。「話しあいは戦後 の新しい民主的な方法として重視されたばかりでなく、 大衆が自主的に組織して学びあい協力しあ. う/ ・集 団 である サーク ル に お いて、 人 間の 精神 的な 形 成 の 方 法 と して 目 的 的 に とり あげ ら れ たl J o )」 。. 或は叉、 「話しあいと生活記録 はいまや青年運動 に欠くべからざるものとなった 日青協の全国研 。 究集会は、 全国の青年たちがそれを自覚しはじめ、 話し、 書き、 読み 考えながら実践する人間形 、 成運動が、 国民運動となったことを集中的に表現しているn)」との べてそれは同時に人間形成運動 。 の役割りを荷な っていることを指摘している。 戦前から 「書きあい」 運動としての生活綴方 (作 文) 運動に従事して きた国分一太郎氏は、 「他人の前であまりもののいえない習性をもつ日本人お よびその子供たちに文章を書かせるという点、 しかもスペルを暗記する必要のない日本の表音文字 の利点を生かして、 平易な文章表現をさせることに出発するという点で、 なかなか日本的な教育方 2 ) 法である1 。」という主張は話しあいよりも書きあいを日本的人間形成の方法として重視する印象を 与えがちであるが、 「既成観念にとらわれない生き生きとした物の見方、 考え方、 感じ方を育てる ために先づ自分の考えや感じを卒直に書かせて、 これを学級集団の中に投じ皆で話しあいをさせ、 3 ) 」こ と へも っ て いく た め の、 即ち 「話 しあ い」 の た め の よ り よ い前 提 と して 広く 深く 考 え さ せ る1 。. の 「書きあい」 である点に狂いはないようである。 しかも 「この運動は子供の世界から大人の世界 へ広がる大衆を基盤とした思想改造運動と密接に結ぶ一つの集団主義的な人間形成のための方法で 4 ) ある1 」点に社会的基礎にたつ人間改造法の一類型をなすことはまちがいないといってよい。 。 しかしながら、 書くことが話すこと以上に思考内容を整理鮮明なら しめることの意義を充分に認 めながらも、 両者を比較 した場合、 話すことが書くこと以上に人間形成 (特に社会的基盤にたつ) のための要素を含む点において、 更に叉話しあいが下手なためにとかく問答無用の闘争 (社会的知. 性の欠除) に堕しがちな日本国民性の改造を併せ考慮する時、 「書きあい (よみあい)」 と共にそれ る必要があ 以上に 「話しあい (ききあい) 」 が人間改造の中に占める重要な分野を確認してか. る。 倉沢栄吉氏は 「話す生活とその教育」 の中で、 これらの点について次のように答 え て い る。 「日本では話すことが人間を教育する上にどんな意義があるか理解されていないのである。 ……教. 員養成大学に話し方の単位を要望する声が強いにも拘らず一向に実現しそうにもない。 それは 『話 させるかわりに書かせてしまう』 ことにもよる。 小学校の表現教育において作文は非常に盛んであ. る反面、 話すことの指導が極めて振わないのは何としても残念である。 話すことは書くこと以上に 人間を教育する要素がふくまれているのである。 ……形の上での様式 (一対一、 相手が多いか少い か社会的な関係の優劣) とは無関係に、 話す主体のもつ力 」÷ ことばを助けとして、 相手や場面を. 5 ) 規制Lてゆく力--が極めて人間教育の機能として 大きな意味をもっている1 」 と述べ、 ついで 。 「日本の言語生活における伝統的欠陥 は多くの人が指摘しているように 言語共同体としての自覚 6 )」とも い って いる 書く こ と は勿 論 と して ラ ジオ や テ レビな ど が足 りな い″ と いう こ と であ る1 。 。 、. f 視聴覚機関が どんなに発達しようとも、 直接に、 面と面とを対し ( ac eto face) あ わ な け れ ば な らない話しあいの永遠性と、 それがもたらす親愛な我々感情 (we f l ing) と協力的社会性な ど、 ‐ e e. 「話しあい」 のみがもつ独自の価値に ついては、 三井為友氏は次のように分り易く 説 明 す る。 即. ち、 「話 合 い」 と は 「会 っ て 話 す」 こ と であ る。 従 っ て 顔 を み て 話す こと である。 顔 を みる こ と が. できずに本当の話合いはできない。 --ほんとうに協力しての 「共通の理解」 をうみだすためには ラジオやテレビではだめ、 それは映像であって人格ではない。 どんなに電波技 術が発達してもとっ ー37 5一.

(14) . 人間改造とその社会的基礎 て代れない。 人間の話しあいはおそらく永久に人と人とが直接に面しあわな ければならないであろ 7 ) う1 、 と。 以上を通じて、 人間改造につながる言語機能の中で 「話しあい」 において、 その社会的 相互作用が最も活発に刺戟促進されることは異論のないと ころであろう。 従って、 以下 「人間改造. と言語」 との関係を 「人間改造と話しあい」 という問題に しぼって、 更に詳細な具体的考察を試み る こ と に しよ う。. 「話しあいによる人間改造」 は 「話しあい」 それ自体がもつ本質的な社会性によって、 人間改造 が単に孤立した一個人の枠内に止まらないで社会改造へつらな るという一般的な論理的推論からを かり ではなく、 叉 「話しあい」 の不得意な日本国民性の改造という特殊的な 国民教育論のみからで もなく、 そのいづれにもまして、 今日の人類世界が直面する危機打解のための、 世紀的要望 である 平和への協力的共存 (競争的共存 でなく) に とって緊急絶対不可欠の要請として、 その最大最深の 意義を露呈してきたといえよう。 すなわち、 それは世界改造 (社会改造) へ直結しなければな らな い人間改造である と共に、 その人間改造は協力を可能な らしめるに最も適応した方法と しての 「話 l ) は 「も し人 類 が 近代 技 術 の se しあ い」 方 式に よ ら な く て はな ら ぬ であ ろ う。 ラ ッ セ ル (B. Rus. 8 ) 」 しかも 「人類を救う 要求する協力を身につけたならば、 実現されるかもしれない一般的な福祉1 9 )」とも い う。 叉 モ ソ タ ← グ が も の は そ れ は 協 力 の み であ り、 協 力 の 第 一 歩 は 個 人の 心 の 中 に あ る1 。. 「人間は協力のために生れているのであって競争や闘争のために生れて来たの ではない。 これは近 0年前ナ ザレのイエスによってなされた発見と一致する。 代科学の根 本的発見である。 それは約200 換言すれば全人類をその中に抱擁する愛の原理であり、 人間性の原理であり、 一つの世界、 四海同. 0 ) 胞の原理である2 」とのべるところにきいても、 人間社会は今日ま で長い人類の歴史を通 じて闘争 。 と戦争のために費されたエネルギーを協力と平和の為のエネルギ←に切替えねばな らぬ転機に際会 しているといってよかろう。 この世界の最大関心事 である-「戦争か平和か」 ということを手段の問. 題に還元してみると、 「闘争か話あいか」 ということになり、 結局平和のための方法.は話しあいに よる解決以外には求められないことは確かである。 ところで、 この話合いが完全、 確実に行われるための前提条件として、 話合いに参加する当事者 間の関係は、 当然平等でなくてはならない。 人間の平等を基礎 として始めて話しあいが 行 わ れ る し、 逆 に 話 しあ う こ と に よ っ て 人 間 の平 等 感 は いよ いよ 明 ら か に 確 信 され てく る。 思う に 「はな し. あい」 はその言葉の正しい意味において 「放しあい」 即ち 「相互解放」 であるから、 「放しあい」 が進むに従って、 相互を束縛していた一切の不平等差別感から解放されて、 真に自由な一個の赤裸 な人間関係に復することは必然であり、 叉このことな しには話しあいは一方的な命令と承りか、 主 観偏見の衝突かのいづれかに終ることになる。 従って話しあいを成立させる人間関係は民主主義を 基調とするものとならざるをえない。 この点について、 三井氏は 「話しあいの理 論 と 実 践」 の中. で、 「民主的な人間をつくりあげるために一番大切なものは、 制 度や説示や知識ではなくて、 じつ に民主的な人間関係である。 民主的な人間関係が話 しあいによってのみ成立するという事実に気が 1 )」と説 明 して つ いた 時、 は じ め て 『話 しあ い』 の 問 題 が 基 本的 な課 題 と して と り あげ られ て く る2 。. いる。 こうして話しあいが平和、 協力、 民主主義の 基柱をなしているというこ と は、 本 来、 言 葉 i i ) はこの o Pe (話 し言 葉) そ の も の が も つ 本 質 的 属 性 でも あ る と い え よ う。 マ リ オ ・ ペイ (Mar. ことについて、 「言葉の由来は人間文明の来歴である。 言葉においてほ ど完全に映 し出されている とにもない。 ……言葉の研究は文学 の研究が本質的に貴族的であるのに比べて、 根本的に 文明は ど・ 民主的なものとして述 べられてきている。 ……全社会の協力にとって最も肥沃な土壌は、 実際に一 人の例外もなく誰もが所有し使用するところの言葉である。 従って言葉の研究は最高度の社会科学 である。 ……言葉はそれを欠く時、 女明も全く不可能 となるところの全人類協力の根本的基礎であ -376-.

(15) . 草. 刈. 善. 造. 2 ) る2 」とのべて いる。 事実、 前述したような日本人の言葉 (特に話し言葉であるが) の未発達や話 。 しあいの下手なことは、 日本における民主主義の発達と深 い関係にあることが論者によって指摘さ. れている。 国立国語教育研究 所長の西尾実氏は 「ことばと民主主義」 の中で、 先年日本でひらかれ た国際基礎物理学会に出席し各部会で司会に当った日本の学者たちが、 他の諸外国の学者に比べて 司会の仕方が格段に劣っている、 これは共同研究の方法が身についていない証拠であり 自然科学 、 の最尖端をいくのは共同研究であって、 個人の能力や天才によって進歩する時代ではないのに こ 、 う した デ ィ スカ ッ シ ョ ン の仕 方 が 身 に つ い て い な い こ と は 非 常に 問 題 であ る こ と を 発 見 した とい 、. う湯川博士の談をひいて、 日本人の話し下手の原因 につき 「文化の発達というも のを書きことば 、 がになって (中国からの文字輸入の経緯も加え) 話し言葉は置き去りにされたという二重の原因か ら、 わたしどもの日常の話し言葉は非常に幼稚なま. 3 」」と の べ この 話 しこ と ばの 幼 稚 さ が です2 。 、 話 しあ い の 発 達 を おく らせ、 そ の 話 しあ い に よ る 「通 じあ い」 即 ち コ ミ ニ ケ ← シ ンの 不 十 分 さ ュ ョ. は必然に社会意識、 社会性、 民主化のおくれを招くという意味にふれている 三井為友氏は 叉別 。 、 の 角度か ら この こと に つ い て 「″こ と だ ま の 幸 う 国. と はい え な い。 日 本社 会 に は 話 しあ い (も の を いう こ と) を 困 難 に す る 原 因 が 余 りに も 多 い2の 」と の べて 複 雑な 敬 語 の 使 い 分 け な ど に よ る 「こ 。. とばの 断層」 を指摘すると共に、 日本の過去の一切の教育が話 しあえない人間をつくるために努力. してきたと極論し、 「物言えば唇寒し」 「多言なる は去る (女大学) 」 「以心伝心」 な ど、 話しあいの できなかった自由の極度におさえつけられた日本人の過去の姿は能面に象徴される反面に 女性は 、 特に しや べ る こ と に その 吐 け 口 を 見 出 して 井戸端会議 という歪められた形の話合いの発 展 を みた とも いう。 この よ う に して、 とも か く 正 しい 話 合 い が でき な い で聞 き た が る 姿 勢 (承 り 学 習) と い う もの は、 長 い 日 本の 歴 史の 中 です っ か り民 衆 自 身 の 中 に し み こ ん でい る2 5 )とも の べ て い る。. しかしながら、 先にもふれたように戦後の 「話しあい運動」 は 社会性の乏しか った日本人を 、 、 明るく 自由で自信をもった新しい風貌に変革しつ ある 話しあいがもつこのような大衆的人間改 。 造 すな わち 社 会 改 造 の 力 に は 驚く べ き も の が あ る と い え よ う しか も 話 しあ い は日 本の み に と ど ま 。. らず、 戦争回避、 平和協力のために不可欠の形群たる人類改造 世界改造運動の基柱となろうとし 、 ている。 だが急速の大衆化と布及化は一 面に叉平俗化と浅薄化を伴う。 事実 すべてにおいて話合 、 いが強調され、 各種 会議は応接に暇な い程行われているにも拘らず会議の成果は必ずしも 上ってい ない どころか、 費す時間の割にみのりの少い現実は、 却てこれを忌避する傾向さえもう か が わ れ る。 話合いは人間生活の展開するところ、 いつでもどこでも空気や水のように (言葉は精神 的空気 ともいわれるが) 充満するために、 量 的にはこれ程多く用いられながらも それだけに逆に叉質的 、 にはこれ程深められて いないものはない。 今日行われる大小各種の会合は、 形式としては話合いで あるが、 内容的には 「はなしあい (解放しあい) 」 の真髄にふれたものは皆無に近いともいえる。 この意味で今日の世紀的要望に答える 「話しあい」 の徹底的本質的究明の努力が 社会科学及び人 、 間科学の大きな課題となるであろう。. 今 日 ま でに 試 み ら れ た 「話 合い」 に 関す る学 問 的 研究 と して は し ビ ン (K. Lewin) によ っ て 始. められたグループ、 ダイ ナミ ックスがあげられるが、 実践的運動として は 人間改造叉は社会改造 、 をめざす程の団体、 組織、 機関 は必ずといってもよ い程とりあげている。 「話合い」 のもつ弁証法 的性格を方法化したのは、 古いところでソクラテス法といわれる問答式対話法から始り 今日のい 、 わゆる討議法、 集団的思考な どに至る種 々な方法があげられる 日本でも 幕末農村の救済復興に大 。 きな実績をあげた報徳仕法において、 二 宮尊徳が 「村づくり」 「人間づく り」 の方法として実施し たも の に、 い わ ゆ る. 芋こじ. と いうノ 」 ・集 団によ る 話 しあ い方 式 があ る。 グル ー プ・ ダイ ナ ミ ッ ク 一377「. ー ; 、 、 ● ′ ′ ● . ′ ● ≦ ● 〉 ● … . ′ \ ● ′ ミ 、 ● ● 、 ● ′ ● ; ー. ; : ; . … ≦ ′ ′ ′ 【 ミ ミ ジ. … . ・ ′ ● ・ ● : ′.

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