• 検索結果がありません。

こぺる No.090(2000)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "こぺる No.090(2000)"

Copied!
20
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

:s日(毎月1回25日発 行)ISSN 0919 4843

9

2000

NO. 90

部落のいまを考える⑮ 住吉・フイラデルフィア

いま始ま

た私自身の再生

すみだいくこ

こべる刊行会

(2)

金がかかるわりには金にならないことに冷淡なのがこの図の精神風土なのか、喧伝される 入院教育の取り結lみに gijlみがいっこうにつきそうにない。加えて 1969年いらい30年余にわ たる同和対策事業の終わりが刻々と近づくにつれて、部落問題をめぐるまわりの冴えない 雰凶気はいよいよ強まり、後ずさりと無関心がひろがっているようにみえます。ところが 他方では、差別事象ー糾弾一施策要求という形の取り組みが復活する気配すら感じられる。 そうなれば、

m

民意識は屈折し、事態はもっと錯綜するにちがいありません。 部落問題全国交流会は、何者をも代表せず個人の資格で、経験と思索の成果を交流する場 として設定されています。錯綜するであろう事態の推移に振りまわされないためには、い ま何が求められているのか、一緒に議論できたらうれしい。みなさんのご参加を心からお 待ちしています。 講演:「社会批判と倫耳RJ竹田育嗣(明治学院大学

'

i

分科会:話題提供者 f.tEH-fl!I 灘本昌久 山城弘敬

r

寸 寸

r

;

:

:

;

i

P

'

:

z

"

回目白百

A.r

1

ヲそ・土台

d

珂 I

/ 記

l

副 〉 合

l

j

疋思正

J

λ

J

I

じ-

;

z

.

一人間と差別をめぐって−

日 時 /

9月9

日 出 午 後

2

時∼

1

0

日(日)正午 場所/大谷婦人会館〔大谷ホール〕(京都・東本願寺北側) 京都市下京区諏訪町通り六条下ル上柳町215 TEL(075)371-6181 交 通 /JR京都駅から徒歩8分、地下鉄烏丸線五条駅から徒歩2分、市バス烏丸六条 から徒歩2分。 費 用 / A 8,000円(夕食・宿泊・朝食・参加費込み) B 4,000円(夕食・参加費込み) ご注意/※会場が昨年より変わっています。ご注意ください。 ※会場には、なるべく公共機関をご利用のうえ、お越しください。 ※宿泊の方は洗而用具をご用意ください。 ※参加費は当日受付にてお支払いください。 申込み/ハガキ・FAX又はインターネットで、住所・氏名(ふりがな)・宿泊の方は 性別・電話喬号・参加形式(A・Bのいずれか)を書いてF記あてにお申込み ください。 阿昨社 干602-0017 京都市上京区上木ノ下町73-9 TEL (075) 414-8951 FAX (075)414-8952 E-mail: [email protected] 締切り/ 8月31日附 五条週 ・各地で発行されたピラ・パン フ・通信・新聞などを多殻ご 持参ください。また第1日目 の夜には恒例の懇親会を閲き

(3)

部落のいまを考え る ⑮ 住吉・フィラデルフィア

いま始まった私自身の再生

すみだいくこ

名前のほかにもうひとつ 四年前から、アメリカ合衆国の東部フイラデルフイア の郊外に子どもと一緒に滞在している。アメリカで自己 紹介をするとき、﹁私はか部落 μ と呼ばれる日本のマイ ノリテイのコミュニティに住んでいる。夫は日本で最大 のマイノリティ・グループグ部落民 μ の一員で、私も二 十数年前、彼と結婚して彼のコミュニティに住むように なってから部落民になった。私たちの子どもも部落民で ある﹂と説明する。この自己紹介は、日本の被差別部落 について聞いたこともないアメリカ人には少しむずかし いかもしれない。しかし、疑問があったら率直に聞く人 が多いので、どんな質問にもできるかぎり誠実に答える ようにしてきた︵と言っても﹁五

O

の 手 習 い ﹂ の 英 語 、 お の ず と 限 界 は あ る ︶ 。 去年の十一月、フィラデルフイア︵ペンシルパニア州 最大の都市、アメリカ合衆国の独立宣言が起草された街 として名高い︶のペンシルパニア大学で、夫の住田一郎 が﹃日本のマイノリティ・部落問題を中心に﹄という題 で講義をした。東アジアセンターのハ

l

スト教授の依頼 だったが、教授は﹁部落出身をみずから明らかにしてい る人の話がぜひ聞きたい﹂と言った。﹁なぜ出身を名乗 るのか﹂は当日の論点のひとつであったが、機会があれ ばその状況を報告したいと思っている。 あるとき﹁部落民ではないあなたが部落民と結婚して も部落民にはなれないはず。どうして自分は部落民にな ったと思うのか﹂と聞かれた。その質問をした女性の友 人はネイティブ・アメリカン︵アメリカ・インディア ン︶と結婚してコロラドの居留地︵リザベ

l

シヨン︶に こべる 1

(4)

住んでいるという。彼女はそこに友人を訪ねたが、周囲 の者はだれも友人をネイティブ・アメリカンとは−認めて いなかったし、友人自身そう思っていないと言った。 周囲の者が誰もそう見ていないという音 ω 味では、私の 状況もまさにその友人と同じである。しかし住吉︵夫の 出身地である被差別部落︶で生きるうちに、もはや﹁私 は部落民ではない﹂と言いきることができないものが私 の 中 で 大 き く な っ て き た 。 夫の弟は高校を卒業してから大学の四年間をふくめて ずっと他府県に住み、非部落の女性と結婚して子どもも いるが、弟の妻も子どもも自分のことを部落民とは認識 していないと思う。子どもが小さかった頃は家族で住吉 に顔を見せたが、かれこれ二十年近く、帰省はいつも弟 ひとりになった。彼の妻の希望もあって夫の親族との関 係は断絶している。そのため私たちは彼女やその子ども たちと部落認識について意見を交わすどころか、会うこ ともかなわなくなった。 弟の家族のことを考えるたびに、この数年、﹃同和は こわい考通信﹄や﹃こペる﹄誌上で展開された﹁部落民 は実体か幻想か﹂という興味深い議論が思いだされる。 彼らにとっては夫、あるいは父の出身地は、現在﹁帝塚 山東︵てづかやまひがしごと﹁万代︵まんだいごとい う町名にわかれた大阪市内のある地域に過ぎず、﹁部落﹂ としてはおよそ実体のないものになっているのだろう。 もちろん、彼らの生活は同和対策の恩恵にも無縁である。 ともに有名大学を卒業した甥と姪にはもう住吉の記憶も な い と 思 う 。 部落問題を勉強したというあるフランス人の意見は ﹁部落民なんて本来存在しないはず。人聞が存在するだ け。部落民という呼び方をなくしたほうがいい﹂という ものだった。彼は﹁結婚してから部落民になった﹂とい う私の言い方をとくに非難した。自由な結婚によって、 部落民を囲っていた垣根がどんどんなくなっていくのに、 どうしてわざわざ、そんな言い方をするのかわからない と言った。彼はフランス人が書いた部落問題の概説書を 読んだそうだが、それには﹁部落民は人為的につくられ た呼び方であって、本来存在しない人たち。日本人の一 部をそう呼ぶことによって差別が始まった﹂とあったと いう。私は﹁人為的につくられたものであっても、現実 に差別が存在し、差別によって傷つき、損なわれた人々 の生活があるかぎり、呼び方をなくして、部落民は元々 いないのだと考えよう﹂という観念的な主張には納得で き な い と 彼 に 言 っ た 。 彼は﹁ボクはゲイです﹂と初対面の私にすぐカムアウ

(5)

トした。ゲイを明らかにしたほうが生きやすくなるから だと言う。﹁世間にはゲイを理解できる人と理解できな い人がいる。残念だけれど、理解できなくても仕方がな い。人生は限られているから、なるべくゲイを理解でき る人と関係をつくっていきたいので、初対面からカムア ウトするようにしている﹂と言った。彼の場合、ゲイで あることは名前の次に明らかにしたい自己紹介だという。 そして、ベトナム系のフランス人であること、写真家で あることがそれにつづくそうだ。 私の場合は、名前のほかにもうひとつ何か言おうとし たら、夫と結婚して大阪の部落で生きてきたことになる。 今までの自分の人生でもっとも大きな出来ごとは夫との 出会いだったと思っているが、それを言わずに、私には どんな自己紹介も思いつかない。夫と出会い、部落と出 会い、そこに住みついて子どもを生み育ててきた私には、 住吉で起こるすべての部落問題がもはや他人事ではなか った。よそ者には変わりなかったが、住吉に根をおろし た生活者として、部落問題のほとんどすべてを引き受け ざるを得なかったと思っている。 ︵

2

︶ なぜ八人も生めたの? 私たちの結婚は双方の家族や親戚の反対を経験してい ない。そのため、私の部落問題との現実的な出会いは、 被差別部落に引っ越して﹁同和地区住民﹂として扱われ たことに始まる。これは﹁同和対策の対象﹂になったこ とを意味するが、この事実は、私の人生を決定的なもの に し た と 今 で も 思 っ て い る 。 まず三

O

歳 に な っ て か ら の 初 産 に も か か わ ら ず 、 一 一 一 一 年間で八人の子どもを出産できたというのは、同和地区 に住んでいたからである。長男が小さい頃夕食の団らん で﹁ボクが八人きょうだいと知ったとき、友だちが最初 に聞くのはどんなことだと思う?﹂と家族にたずねたこ とがある。私たちは次々に﹁親はカソリックなの?﹂ ︵いちおう仏教徒︶﹁どんな家に住んでるの?﹂︵

3DK

の市営住宅︶﹁子どもの名前がどうしてみんな変わって いるの?﹂︵これは答えにくい︶などと思いつくことを あげたが、すべて違っていた。八人という数に驚いた友 だちが最初に聞くのは﹁お前のお父さん、何の仕事して るの?﹂ということだという。八

0

年 代 の は じ め で も 、 子どもを持つことはお金のかかることだとすでに小学生 が 認 識 し て い た の で あ る 。 ﹁なぜ八人も生めたの?﹂とは成長した娘たちにもよ く聞かれることだ。﹁私自身が健康だったこと、部落で こぺる 3

(6)

育てることがエキサイティングだったこ そのためにフルタイムの仕事をあきらめたこと、夫 の家事・育児能力が抜群だったこと、そして何よりも同 和地区に住んでいたこと﹂と答えるが、低家賃の同和住 宅に住み、地区の子の全員入所を実現した乳児保育の整 備は私が八人も生めた大きな要因だったとつくづく思う。 結婚を決意した時、夫がだした唯一の条件は、自分が 生まれ育った被差別部落にいっしょに住むことだった。 はじめは﹁ボクは住吉をでられない﹂という夫の言葉に ﹁居住の自由があるのにどうして?﹂と納得できなかっ た。当時、夫の父も母も健康だった。私たちはどちらも 被差別部落の外に仕事をもっていたし、いずれそこへ帰 るにしても、しばらくは外で住んでみたいと思った。私 にとって精神的な自立は神奈川の実家を離れることから 始まったので、夫にもそれは絶対に必要だという気もし て い た 。 当時私は、教育雑誌の記者として広島市に駐在して中 国地方の私学の状況を取材していた。できれば十数年間 は地方都市を転々として、教育問題のルポルタージュを つづけたいという夢があった。いま夫のコミュニティに 引っ越したら、多分死ぬまでそこを出ないだろうという 予感もあった。そのため長男を出産してもしばらく別居 子 ど も を 生 み 、 ︾ ﹂ をつづけたが、二人目の妊娠と同時に住吉へ引っ越すこ と を 決 意 し た 。 地区住民となり、部落解放運動に直接参加できるよう になったことは何にもまして嬉しかった。建築雑誌の記 者時代︵七三年︶、﹁住民参加の町づくり﹂の取材で住ち を訪れたことがある。そのとき、住吉や堺・協和町の住 宅計画を案内してくれたのが、当時住吉解放会館の職員 であった夫である。これからは一時滞在者ではなく、生 活者として解放運動に参加できるようになったと思うと 心 が 浮 き 立 っ て き た 。 ﹁よろしくお願いします﹂と頭を下げる私に誰もがや さしく声をかけてくれた。しかし疑問に感じたことを率 直に口にだすと、なごやかな空気がサッと引いていくの である。﹁それは矛盾していませんか?﹂などと言おう ものなら、その場が一瞬、凍りつくような感じだった。 取材記者として住吉の町づくりの話しを聞いたとき、私 は当時の事務局長にかなり辛らつな質問もした。しかし 最後まで辛抱づよく答えてもらった記憶がある。東京周 辺で育った私の言葉づかいが耳慣れず、住吉の人には違 和感があるのかもしれないと思おうともした。 部落のなかでひらかれるどんな集会にもいそいそと参 加して︵ほんとに何もかもが興味深かったのだ︶、初め

(7)

から終わりまでノ

l

トをとっている私の態度は、さぞか し奇異に映ったことだろうと、今ならわかる。学生時代 からメモ魔と言われ、卒業してからずっと雑誌記者をし ていた私には、メモは日常生活の一部だった。﹁記憶は あいまい、記録は確か﹂と肝に銘じていたので、片っ端 からメモをとるクセがついたのだが、その﹁記録﹂も住 吉ではあいまいだったことを後で思い知らされる。 ﹁住吉弁﹂で思うまましゃべる彼らの発言を、私は自 分の理解に応じて、つまり私自身の語棄で書き留めるの で、後で再現した時、彼らが意図した内容とは大きな食 い違いがでる。﹁私は全部メモしています﹂と突きつけ たところで、﹁それと同じようなことを言、ったかも知れ んが、そうは言うてへん﹂ということがしょっちゅうだ っ た 。 私の住吉弁の能力は、二十数年たった今でも不完全で ある。言いまわしゃニュアンスの面ではさぞかし聞き違 い、勘違いが多かったと思う。書き言葉に頼らず、話し 言葉のやりとり中心に発達してきた住吉弁のかけひきの 微妙なニュアンスには舌を巻いたが、私はとうとう上達 しなかった。二

O

代の半ばからなじんだ第二言語の住吉 弁がこの程度だったことを思うと、五

O

歳 過 ぎ て 使 い 、 だ した第三言語の英語が上達しないのは当然と今では聞き 直 っ て い る 。 当時夫は日本共産党に籍があったので、地区内の運動 で孤立することが多かった。﹁館長さんの息子を誘惑し て共産党に引っ張り込んだ年上の女がとうとう乗りこん できた﹂という私についての障もすぐ耳に入ってきた。 そういう根も葉もない噂は、共産党に入ったムラの者を かばいたいという部落の人の身がち︵身、びいき︶な感情 からだったのだろうと、今なら思う。﹁どの集会も全部 メモして、共産党に渡している﹂という声も聞こえたが、 誰も面と向かっては﹁あんたも共産党か﹂とは私に聞か なかった。﹁ちゃんと聞いてくれたら違いますと答える のに﹂と私はよく夫にぼやいたものだが、信じこんでい た彼らは聞く必要もなかったのだろう。 ﹁部落の人はほんとによそ者が信頼できないのね﹂と こぼすことが多くなった私に、夫は、部落の外にある自 分の仕事に専念して、地域での運動の参加は最低限にし たらどうかとさえ言った。もしその通りにしていたら、 私の人生はまったく違ったものになっていただろう。フ ルタイムの仕事を辞めて、住吉で子どもを生み育てなが ら、とことん地域と解放運動にかかわっていこうと決意 したのは、﹁よそ者﹂である私をめぐる住吉の人たちの とまどいに、自分から飛びこんで行こうという気になっ こベる 5

(8)

た か ら で あ る 。 長男の同和保育所入所はともかく、妊娠中の私にも ﹁妊産婦対策﹂が支給されると知ったときは、﹁どうして 私が受けられるの?﹂と夜遅くまで夫と話しをした。運 動を指導している人たちの私への警戒心は強かったが、 同和対策の支給は出身者と平等だという。﹁もちろん、 受けないという選択もある。しかし対策を受けなかった ら、一緒に運動がやりにくいという現実がある。とこと んここで生きていくなら、ぜひ受けてほしい﹂と夫は言 った。地区に住みつくと同時に受給したこの妊産婦対策 や産休明け保育の思恵が、住吉で子どもを生んで定着す るきっかけになったことは確かである。 フルタイムの仕事を辞め、フリ

l

・ライターとしてぼ そぼそと書きつづけながら、部落での子育てに熱中し、 気が済むまで解放運動に参加できたのは、同和保育・解 放教育というもうひとつの子育てパートナーのおかげで もある。出産や子育てをとおして検証すべき現実がつね に目の前にあるという事実は、私の生きるエネルギーを 大いに刺激した。部落以外のどんな土地で生きても、こ れほどダイナミックな子育てはでき・なかっただろうとい う の が 実 感 で あ る 。 ﹁また、おめでたか。元気ゃなあ﹂と子、たくさんが普 通だった部落のお年寄りにもあきれられた元気さは、部 落に住んだ結果である。﹁無理したらあかんで﹂といた わられながら、臨月でもピラまきや大阪市庁舎での座り こみに参加したのは義務感などではない。当時、解放同 盟の運動を中傷するピラには﹁解同は臨月の妊婦にまで 座りこみを強要している﹂と書かれたものだが、住吉支 部がまさか臨月の妊婦を動員するはずはない。 止められでも自主的に参加したのは、﹁この時代に子 どもをほしいだけ生めるというこれほど人間らしい生活 がほかでできる、だろうか﹂という感激がつねにあったか らである。部落の外の友人はほとんど、保育所入所の時 期に合わせて受胎調節をしていた。産休明け保育があっ たら、もう一人二人は生みたいという声をどれほど聞い たことか。私たち部落の母親は、産休明けや病児保育な ど当時の先進的な同和保育の基準が、かならず一般保育 の水準を引き上げるだろうと信じていた。 ︵

3

︶ 成果と現実のギャップ もちろん数知れない矛盾にも直面した。たとえば、子 どもが保育所で着る

T

シャツや半ズボンは支給額内なら 何枚でも買うことができる。すると親は半ズボンのゴム

(9)

が伸びるとすぐ捨てて、新しいズボンを下ろすのである。 ﹁ゴムを入れ替えればまだ十分はけるのに﹂と保母さん は不思議がるが、面と向かっては言いにくい。でっちら 忙しいねん﹂と切り返されるかもしれないし、﹁ゴムの 入れ替え方なんて知らんわ。先生ら知っとるなら、子ど もが保育所にいるうちにやってや﹂とひらきなおられる か も し れ な い 。 一五年前に亡くなった義父・住田利雄から部落には裁 縫箱のない家庭が多かったという話しを聞いたことがあ る。着ているものが破れたら、繕ってまた着るのは部落 では最上等の暮らし方だったという。ほとんどの人がそ んな余裕もなく、現金が入るまで着つぶして、入ったら また新しいのを買うという生活。そういう日常では、暮 らしの知恵が親から子へ伝授されない。子どもは繕いも のをする親を見て育たない。貧困のほんとうの恐ろしさ はそこだと義父は言ったものだ。繕いものの習慣がある 家庭は、ハギレを取っておくし、経済的に余裕ができる と糸やゴムひもを補給しておくだろう。部落では、子ど ものパンツのゴムが切れると、ありあわせのひもでくく ってはかせ、お金が入ったら新しいものを買い、古いの を捨てる。ひどい貧困のなかでは、生活を快適にする知 恵が育たない。世間では金持ちでも質素な人は多いが、 部落は貧乏人でも使い捨ての生活だったと義父は話して く れ た 。 ﹁子どもに朝ごはんをしっかり食べさせよう﹂という 取り組みを保護者と保育所で取り組んでいた時のことだ。 ある日の保育懇談会で保母さんが思いつめたように口を 聞いた。﹁毎日、地区内の喫茶店で家族そろってモーニ ングというおうちがあるんです。朝ご飯をちゃんと食べ させようということを誤解してはるのかなあと思って﹂ というおずおずした口調に、若い母親がサッと手を上げ て声を荒げた。﹁うちがそうや!言うとくけどな、朝、 喫茶店でモーニングするようになってから、時間にも気 持ちにも余裕がでてきたワ。子ども起こして服着て化粧 だけしたら家を出られる。モーニングにするまで、毎日、 子どもを怒鳴っていた。今は余裕あるから、コーヒー飲 みながら子どもと話しもできる。子どもはトーストと牛 乳とタマゴ、それにサラダ。これで一人二五

O

円や。う ちら共稼ぎやから家族四人で朝ご飯に千円払えないこと ない。何があかんの!先生!﹂とすごい剣幕だった。 保母さんは返す言葉も思いつかないのか﹁いま言わはっ たこと、育児や家事の社会化にもつながりますねえ﹂な ど と つ ぶ や く 始 末 、 だ っ た 。 すると保護者会の役員として参加していた住田が静か こベる 7

(10)

に語りだした。﹁:::ちゃんなァ、共働きのうちはどこ も朝は戦争やと思う。母親が必死で朝ご飯つくってたら、 父親も子どもの着替えとか保育所のノ

l

トを書くとかど れかせなあかん。親ががんばってたら、子どもも何かで きること手伝わなあかんやろ、フトン上げるとか、保育 所に持っていくもんをそろえるとか。親二人が仕事に遅 れまいと髪ふり乱してがんばっている姿を見て育つこと が子どもにはほんまに大事なんやで。喫茶店のモーニン グもたまにはいい。気分も変わるし親もラクできる。せ やけど、いつもそうだというんだったら、これは絶対に おかしい。モ

l

ニン‘グの朝ご飯はままごとみたいなもん で、そこには子どもが見て育つ生活なんてないと思う で﹂と切々と訴えた。マユを吊り上げて保母さんにどな っていた母親は﹁ほんまやなあ、兄ちゃん﹂と静かにな った。保母さんがまったく同じことを言っても、たぶん 彼女は聞く耳を持たなかっただろう。 同和対策が部落の子どもたちに新しい使い捨てやひん ぱんな外食の習慣をつけたとはよく指摘されることだ。 部落の子どもたちは、毎年支給される就学援助費でノー ト、鉛筆、クレパスなどの新しい学用品を次々に下ろし、 上靴を洗うこともなく、汚れたら買いかえるということ が少なくなかった。解放運動の成果である同和対策によ ってゆがめられた生活習慣の回復は、同和保育・解放教 育運動の切実な課題になった。八

0

年代の日本の経済成 長下における消費生活の習慣が、部落内で無縁なはずは ない。しかし同和対策がかちとった成果と重なったとき、 それはいっそう深刻な状況を生んだ。 部落で子どもを育てるということは、まさに安易に流 れる生活との闘いでもあった。﹁子どもはみんな生まれ て三ヶ月で︵地区によっては六週間︶保育所にやったか ら、離乳食のことなんでわからない﹂と言った親ちいた。 保育所の家政作業員さんが薄味、生︵き V の材料を生か した理想的な離乳食をつくって、保母さんがやさしい言 葉かけをしながら毎日食べさせてくれる。それは部落の 子どもにとって幸せなことだが、万事その調子で、経験 によって確かになる力がなかなかっかない親もいた。子 どもの伝染性疾患の知識もまさに経験でついていくもの だろう。しかし、予防注射の管理はすべて保育所の看護 婦さんまかせなので、わが子がどの伝染病にかかり、ど のワクチンを済ませたのかぜんぜん記憶にないという親 も で て く る 。 一 九 七

O

年の半ばから一九九六年の私の渡米までの二

O

年あまり、解放運動の成果と現実のギャップに足を取 られながら、夫と私は住吉で子育てに専念した。それは

(11)

夫がとどまることに執着した父祖の地で、創造的な暮ら しを回復する最高にやりがいのある共同作業だったと、 今あらためて思う。外からはいってきた私にとっても、 もはや住吉というところは、自分が息をしている日常そ のものであり、解放運動の成果も課題も共に引き受けて 生 き る 場 所 で あ っ た 。 ︵

4

︶ 出身者の屈折した感情との出会い ところで﹁部落出身者と結婚しても出身者にはなれな い﹂というのは正しいと思う。結婚によって﹁地区住 民﹂になり、出身者と同じように同和対策事業の対象者 になったことを除いたら、私を部落出身者と見なした人 はいない。解放同盟女性部の仲間があるとき﹁育子さん がよそで部落出身のような自己紹介をしているのを聞く とグ出身でもないのにがと腹が立って、外から来たと言っ ているのを聞くとかわざわざ言わんでも d と腹が立つ。ほ んま、矛盾ゃなあ﹂としみじみ言ったことがある。 女性部執行委員として教育担当になり、識字運動の経 験交流部会に参〆加したときのことである。参加者全員が 自己紹介のほか何か一言しゃべることになり、私は﹁部 落の外で生まれ育ちましたが、住吉の人と結婚してから ずっとそこに住んでいます。識字運動は同和保育運動と 同じくらい興味をもっていましたから、今日はじめて経 験交流部会に参加することができてとてもうれしいで す﹂というかなりありきたりのことを言った。その時は 何の問題もおこらなかったが、その後ある報告に対して 私が述べた感想がおかしいと突然怒りだした人があった。 彼女は激怒し﹁部落の外で生まれ育ったなどわざわざこ こでいう必要はない。部落の人間とはちがうということ を強調したいだけではないか。要するに差別者だ﹂と大 声で私をののしった。事実を告げて﹁差別者﹂と思われ るならそれも仕方がないという気持ちもあって私はあえ て反論しなかったが、涙がこぼれそうだつた。ほどなく 一人の女性が手をあげて﹁私はあの自己紹介がおかしい とは思わない。部落の外で生まれたという事実を言った だけだと受け止めた。外で育った人なら、よけい識字の 経験交流が部落を知るいい機会になるだろうと思いなが ら聞かせてもらった﹂と穏やかに語った。自己紹介のと き、部落差別による離婚の経験を話した人だった。 あるできごとを﹁差別﹂だと感じた人の怒りに反論す るのは、差別者に手を貸すことであり、部落の中ではと くに忌み嫌われる。﹁お前はどっちの立場や!﹂という 怒りが必ずあとにつづく。しかしその日は、会場の誰も こぺる 9

(12)

その言葉を使わなかった。私に怒りをぶつけた人が、あ まりたびたび誰にでもかみつくのでうんざりしていただ けかもしれないし、私の言葉を差別と感じた人がたまた ま少なかったからかもしれない。しかし、彼女の静かな 一言は、部落で生きる私の希望になった。 ﹁非出身﹂をあいまいにしても、明確にしても腹が立 つという出身者の屈折した感情を経験したことは何度も ある。住吉の外で聞かれた同和保育の集会で﹁非出身﹂ に触れずに発言した私を﹁地の者︵もん︶﹂と勘違いし た人がいたらしい。二、三日後、地域のなかである女性 活動家に呼び止められた。﹁お前、住吉で生まれたと言 うたんか!お前に部落民の顔してもらいとうない わ!﹂とすごい剣幕でどなられた。部落差別も経験しな い﹁よそ者︵もん︶﹂が部落民のふりをしたとはおこが ましいと感じたのだろうか。, 四人目の子どもを身ごもった非出身者の妊産婦に﹁あ んたら差別も知らんから、ころころ何人でも生めるんや なあ。おばちゃんら差別知っとるから、二人しかよう生 まんかったわ﹂と声をかけた出身者がいた。地区内の妊 産婦が集まった学習会で、その発言をどう理解したらい いのか意見を出しあった。﹁なんと了見の狭い!﹂とい う非難は簡単だが、それだけでは済まないものをみんな 感 じ て い た の だ 。 当時の妊産婦たちは定期的に学習会をひらき、内部か らは運動や子育ての経験者、外部からは保健婦、栄養士、 小児科の医師、絵本研究者などを招いてしょっちゅう学 習していた。市民病院や府立病院との交渉の先頭にも立 っていた。狭い地区内でその状況はよく知られていたか ら、運動の経過も学ばずに、成果だけ利用しているとい う非難はでるはずがなかった。となると、そのイラだち の原因はなんだろうという話しになった。 結論は、部落差別を受けたことがない人聞がムラのな かに増えていくことへの複雑な感情ではないのかという ものだった。差別を知らない世代が増えていくのは望ま しい、しかし、生まれた赤ん坊の寝顔を見ながら、この 子が大きくなって人を好きになったとき、どんなに苦し むのかと涙に暮れた、私たちのその感情が分かってもら えなくなるという不安||地区内の妊婦を見ても素直に 喜べない年配者のねじれた感情は、差別を受けたことを 唯一の拠り所としてムラのなかでつながってきたまま、 それを克服する機会がなかったからではないのかと、今 回 出 λ ノ 。 ﹁地区出身者との結婚によって部落民になりました﹂ と自己紹介している私だが、﹁部落民﹂を自覚した時の

(13)

どんな﹁おののき﹂も経験したことがないというのは、 私のなかである種の喪失感になっている。あるはずのも のがないというどこか落ち着かない気持ちでもある。結 婚によって住吉に入ってきた人の中には、そのおののき を感じている人がたくさんいた。 職場で﹁住吉東﹂駅のどちら側?と聞かれたらどう しようとハラハラしていると言った人もいる。彼女たち にしたら、生まれたときから住吉にいたわけではないの で、世間の差別意識を﹁引き受ける﹂心構えができてい なかったのだろう。ある人は﹁結婚によってたまたま入 ってきただけなのになぜ部落差別を受けるのか﹂と悩ん でいた。﹁そういうことはふつう結婚するときに悩むも のだけれど、そのときはなんとも思わなかったの?﹂と 私が聞くと、彼女は﹁主人は部落の者だと言ったけれど そんな差別のことまで言わなかった﹂と答えた。結婚ま で部落問題を知らず︵だから結婚できたのかもしれな いて結婚と同時に急に世間の目を意識するようになっ たという人は多い。同和保育について聞かれるのがイヤ で、﹁子どもは近くに住んでいる主人の親に見てもらっ ています﹂と言って就職した人もいる。 喪失感を埋めることはできなくても、﹁部落に生まれ るということはこういうことなのか﹂と熱いものが込み 上げてきたことは数知れない。とくに住吉の女性部のメ ンバーと毎年のように﹁部落解放全国女性集会﹂に出か けた経験は忘れることができない。住吉女性部ではその 集会に参加した女性は必ず感想文を提出することになっ ていた。しかし感想文を書くことが苦手なので参加した くてもできないという人が少なくなかった。私はそうい う人たちから感想を聞きとって報告文にまとめることを させてもらった。五

O

代の後半から、六

O

代、七

O

代 、 貧困や家事のために小学校を終えることができなかった 女性たちである。彼女たちは住吉の解放運動の当初から いつも進んで参加してきた。分科会が終わった日の晩、 それぞれ自分の出席した分科会の感想を述べ合うのだが、 記録しながら驚かされるのは、彼女たちの感性と記憶力 の良きだった。メモに頼らないので記憶する力が伸びる のだろうが、それ以上に全国の部落から集まった仲間た ちが語る体験を、ひとつも聞き漏らすまいとする集中力 はすばらしかった。熱のない、あるいは見当はずれの助 言者のコメントへの指摘も鋭かった。﹁なるほど、部落 に生まれて差別を経験するということはこういう力がつ くことなのか﹂とあらためて感じ入ったものだ。 話はそれるが、七

0

年代には、解放教育に熱心なフリ をして﹁こう見えても家に帰ったら、女性差別者でね工、 こぺる 11

(14)

横のものを縦にもしませんヮ、ワッハツハッハ﹂とジ ョークのつもりで笑い飛ばす教員がいた。住吉の女性か らは﹁なんやのん、あの言い方!﹂と不満が広がったが、 一人がすかさず﹁オンドラ!家に帰ったら部落差別者 でねエと言わんかい!﹂と怒鳴ったのである。その教員 のあわてようもおかしかったが、部落の女性の偽善を見 ぬく鋭さに私は圧倒された。 ︵

5

︶ 義父・住田利雄の部落を見る視点 部落をまるごとというか、部落がたどってきた全体を 非出身者に知ってもらうのはつくづくむずかしいことだ と思う。もちろん、私自身、未だに十分わかっていない。 次の話も義父・住田利雄の思い出である。ある日、当時 解放会館の館長だっ允父と女性の活動家がいつじょに、 同和保育所の保母さんたちに﹃昔の住吉の子どもたち﹄ という題で話しをすることになった。父はモノがなかっ た昔、部落の子どもたちがいろんなおもしろい遊ぴを考 えだして遊んでいた様子を詳しく話した。父は毎日日記 をつける習慣があったが、こまかい数字の記憶力も抜群 の人だった。そのあと女性活動家の方は﹁館長の話だけ 聞いて、戦争前の住吉の子どもがしあわせだったと誤解 されては困ります。差別と貧乏が重なったワタシらがし あわせだったわけないですよ﹂と怒ったように前置きし て、部落の子どもたちの悲惨な経験を次々と話しだした。 聞き手のなかには﹁住田さんのお話しでは、えっ、昔の 地区の子はしあわせだったの?と思ってしまいました が、あとのお話しを聞いて、すごくたいへんだったんだ なあと納得しました﹂という感想を言った人もいた。父 はにこやかな顔を崩さず﹁遊んでいるときは楽しかった ですよ。今の子もそうでしょ﹂と応じた。そして最後に、 ﹁男は賭けごとや色ごと、女は駄菓子屋で噂話、それが 部落の大人の娯楽だったんです。子どもの遊びは大半が 当時の大人の楽しみ方を反映してたんですね﹂と押さえ ることを忘れなかった。しかし、女性活動家はでっちの 親は遊ぶ間もなかった。朝暗いうちから起きて、晩遅う まで働いていた。それでも貧しかったですよ﹂と部落の 親の勤勉さを強調して父に反論した。クローズ・アップ がつづく彼女の話し方は説得力があって理解しやすかっ たと思う。一方、子どもたちの遊びの細部を伝える父の 言葉はたんたんとして誇張が感じられなかった。それだ けにいっそう、退廃的な大人の娯楽にさらされて生きざ るをえなかった部落の子どもたちの姿が見えてきて胸が つまり、私はメモする手を止めて父を凝視した。しかし、

(15)

﹁部落は貧しかったと思っていましたが、賭けごとする ようなお金があったと聞いてちょっと驚きました﹂とい う感想を言った人もいた。 体験を話して共感してもらうことも簡単ではないが、 状況をありのままに語って部落問題を理解してもらうこ とはもっとむずかしいのではないかと義父から話しを聞 くたびに思ったものである。父は、亡くなる一年ほど前、 女性部から聞き取り担当として派遣された執行委員四人 に﹁一般的に部落の特徴でもあるが、住吉はとくに女系 の伝統がある。これが部落の生活改善をむずかしくして いる﹂と語ったことがある。﹁外の男をつれて住吉に戻 って所帯を持つ。外で住んでも子どもを連れて女だけ一戻 ってくる。それ自体は構わない。しかし血のつながる母 と娘の相互依存がひどくなる。そのためどちらも自立で きない。それは女系の弊害のひとつだ。それにうんざり した男は住吉を出てしまう。それを断ち切るためには、 外の女性がもっとはいってくるほ、つがいい。部落では子 どもに対する母親の影響がとくに大きいからだ﹂とつづ

T

た 。 当時、多くの部落で、祖母から母、母から孫娘へとつ づく女性の系譜が運動の担い手の主流であった。﹁部落 の女﹂の話は、つまり女系が鍛えたたくましさでもあっ たのだ。父はそれを認めなかったわけでもないし、部落 の女のがんばりを見落としていたわけでもない。しかし 部落解放運動の当初から光りを当てられた女系の背後に は、必ず陰の部分があることを押さえておきたかったの だと思う。押さえておきたかったというより、状況の両 国をつねに同時に見る人だったというべきだろう。それ ができたのは、幼い時から自分自身と周囲を見つめて、 部落民の生活から目を離さなかった深い愛があったから ではないだろうか。私はどんな話を聞いても、父の話か ら光の部分の誇張も陰の部分の強調も感じることがなか った。貴重な聞き取りは父の闘病とそれにつづく死によ っ て 完 成 し な か っ た 。 その後、同和保育・教育運動の中心は、差別によって 奪われ損なわれてきたものの回復ではなく、部落という 共同体がはぐくんできた連帯や暖かさの強調に変わって 行った。部落民は差別されても人間性を失わず、それど ころかこんなにすばらしい文化を残してきたという再評 価運動が﹁ムラの文化の掘り起こし﹂として脚光を浴び る よ う に な っ た 。 部落に伝わる民話や伝説、古老の経験、子育ての知恵、 ムラ言葉の機微などを部落の人たちが掘り起こして記録 していく作業は非常に重要である。コミュニティの文化 こぺる 13

(16)

運動として末永く続けられるべきものであろう。どの地 区でも﹁ムラの文化の掘り起こし﹂はにぎやかなイベン トとなって部落内外の人たちを引きつけた。しかしムラ に伝わる文化の再評価の陰で、地区の乳幼児の実態、家 族のあり様、地域の課題などをだしあって議論し分析す る地味な運動は次第に下火になってしまった。住吉でも ﹁もっと元気のでる運動﹂が合言葉になった。 住吉の子どもの状況について話し合っていたときのこ とだ。中学校の先生が﹁地区の子は、何をするにしても 地区の子と固まる傾向がある。地区の子が一緒にいない と、任務なども引き受けようとしない。自分一人でもが んばらなあかんときがあることをいつ分かるのか心配に なる﹂と発言した。案の定、保護者会の役員から反論が でた。﹁先生らが育ったとこでは、たとえ一人でもがん ばらなあかんと言われてきたかもしれへんけど、私らの ムラでは、仲間といっしょにがんばるということを学ん できた。友達が一緒ゃなかったらやりとうないというの が、なんであかんのかわからへん﹂という彼女の怒りの 言葉に仲良しのメンバーが次々と補強意見を述べた。 ﹁地区の仲間が一緒でなかったら何事もやりたがらない﹂ というムラの子どもたちの姿はその親たちに肯定的に受 け取られ、結局、議論にはならなかった。 ﹁先生たちは口を聞けばムラの子の不足ばっかり﹂と いう親たちの不満が積もっていたこともある。しかし、 共通する価値観をもった仲間同士がつながって多数派を つくり、﹁もっと元気のでる運動をしようや﹂と主張す ると、﹁部落の子どもの課題﹂などという暗い話題は陰 に追いやられてしまうのだった。 ︵

6

︶ 黒人大学の教育学大学院で学ぶ この夏、私はペンシルパニア州立チエイニ!大学の教 育学大学院の修士課程で﹁マイノリティ・コミュニティ における成人・生涯教育﹂を修了した。九月からもう一 つ﹁アメリカの教育行政とマイノリティ・グループ﹂を 専攻する予定である o v チェイニし大学は南北戦争前の一 八三七年に創立された米国で一番古い黒人のための高等 教育機関である。黒人の教員養成が目的で建てられたが、 現在でも学生の九七パーセントは黒人、大学院の教授も クラスメートもほとんど黒人である。学生はフイラデル フイア周辺で教員やコミュニティ・センターの職員をし ている。大学院の授業はすべて夕方と夜間なので、フル タイムの仕事を持ったまま登録できる。私がとったどの 授業でも、アメリカの大都市のマイノリティ・コミユニ

(17)

テイや公立学校がかかえる困難な課題がだされ、 カを知るまたとない機会になった。 四年前、八歳から十五歳までの子ども五人をつれて渡 米したのは、アメリカの

NPO

NGO

での研修が目的 であった。住吉を一度離れて、外から住吉を見てみたい という気持ちも大いにあった。たまたま住むことになっ たウエスト・チェスタ

l

はフィラデルフイアの郊外に位 置する小さな町である。当時車を運転しなかった私は、 自転車でも行けるところに﹁ヒストリカリ

l

・ ブ ラ ッ ク・カレッジ﹂と呼ばれるチェイニ

l

大学があるのを知 って胸が高鳴った。人種の分離政策が法律違反になった このアメリカに、どうして黒人学生を対象にした大学が あるのか不思議でさえあった。ヒストリカリ

l

・ ブ ラ ッ ク・カレッジについて調べ、早速チェイニ

l

を訪ねて行 った。紅葉が美しい田園地帯の一角にメイン・キャンパ スをもっその大学はこじんまりしていかにも質素な印象 だ っ た 。 ア メ リ アメリカには﹃ブラック・カレッジ﹄というタイトル の月刊誌があるほど、この呼び方は一般的である。私は キャンパス内のバス停やカフェテリアで学生をつかまえ ては質問を浴びせた。西フイラデルフイアの黒人コミュ ニティから来ていると言った学生は﹁なぜ黒人大学を選 んだの?﹂と聞く私に﹁選ぶと言うほど選択肢はなかっ たんですけどね﹂と笑いながら﹁カンフアタブル︵快適、 気持ちが落ち着く︶だからです﹂とキッパリ答えた。こ こにいたら気持ちが落ち着くという彼らの心情は住吉を 出ない人たちの思いにも通ずるものであろう。大学院が 西フィラデルフイアの黒人コミュニティのなかにあると 聞いたとき、私はもう迷わなかった。チエイニ

l

で黒人 のクラスメートといっしょに現在の黒人コミュニティの 課題をリサーチすることは、住吉で過ごした私の日々を 思索し総括するのにふさわしい環境になるだろうと直感 し た 。 住吉ではどうしてもわからなかったことが、クラスの ディスカッションのなかで突然わかるということもしば しば体験した。アメリカ社会のなかでは、けっしてエ リートではない社会人学生の真撃な授業態度、知的にも 人間的にも学生から信頼された教授たちの存在も、アメ リカで学ぶ私の希望になった。大学院は西フイラデルフ イアの黒人コミュニティの真ん中にあるが、三年も通う と人にも街並みにも愛着が出て、私の好きな場所になっ た。北に行くとさらに大きな黒人街が広がる。最近、日 本でもテレビ放映されたと思うが、パトロール・カ

l

を カ

l

ジヤツクした黒人の被疑者を警官が引きずり出し、 こべる 15

(18)

殴る蹴るの暴行を加えたあの地区である。被疑者はその 前に警官から腕や腹部に五発撃たれている。テレピの映 像を見るかぎり、警察官の職権乱用は常軌を逸している ﹀ ﹂ 回 巳 つ 。 その数日後、西フイラデルフイアの顔ともいえる﹁三 十番街﹂駅の構内で警官をからかった黒人のホ

l

ム レ ス が白昼、多数の目撃者の前で射殺された。彼は明らかに 精神疾患をわずらっていた。黒人のパーソナリティのラ ジオ番組に、一人の視聴者︵黒人の女性︶が怒りに震え て電話をしてきた。﹁精神病者のホ

l

ムレスを警官が射 殺するなんて、フイラデルフイアは東部のミシシッピー か﹂。黒人に対する警官の暴力は、ミシシッピ

l

に代表 し ん な ん ぷ * される深南部︵ディ

l

プ・サウス︶でとくに日常的だっ た。その後、被疑者をもっともひどく痛めつけた警官が 特定されたが、二名が白人、二名が黒人であった。 ﹁警察という機構のなかで、マイノリティの警官は職 務の遂行をさらにきびしく強要される﹂と﹁全米有色人 種向上協会﹂のフィラデルフイア支部長がコメントして いる。アメリカでマイノリティであることの複雑さとマ イノリティ・コミュニティの奥の深さを理解しなければ、 アメリカのどんな社会問題もわからないという気がして いる。私にやっと見え始めたのはほんの入り口にすぎな い だ ろ 、 っ 。 西フイラデルフィアの﹁識字センター﹂は地域を対象 にした識字センターとしては全米最大の規模という。そ こにも周辺の教育センターにも、新しい移民が次から次 へと英語を学びにやって来る。一方、手錠のまま連行さ れる大人をじっと見つめる子どもたちを、授業に行く車 の中からもう何度も見た。フイラデルフイアの黒人コミ ュニティの再生はどのように始まっているのか。再生の 確認は日本に帰るまでの私の課題である。住吉の女性た ちをそこに案内して、私が黒人コミュニティの再生の希 望を見つける手助けをしてほしいと、今ひそかに思って い る 。 フィラデルフィアはギリシャ語で﹁兄弟愛の街﹂を意 味 す る 。 * 深 南 部 ロ

2

日 以

ω

S

F

バ マ 、 ル イ ジ ア ナ 州 を さ す 。 地 図 で も 一 番 奥 に も 南 部 ら し い 州 。 了 ン シ ッ ピ l 、 ジ ョ ー ジ

(19)

白 局 υ R 寸 口 田 u 司 一 言 ロ マ京都部落史研究所がこの六月、二 十三年の歴史に幕を閉じました。創 設準備に加わり、創設後は、研究員、 会計監査、最後は企画委員として運 営にかかわり、それなりに苦労をと もにしてきたので、閉所という事態 を迎え、感慨深いものがあります。 京都部落史研究所が、﹃京都の部 落史﹄全十巻をはじめとして研究の 面で大きな成果をあげたことは言う までもありませんが、わたしにとっ ては、部落解放運動が同和対策事業 にがんじがらめにされている実情が ようやく明らかになりつつあったあ の 七

0

年代後半に、部落差別問題を めぐってそれこそ﹁多事争論﹂の場 を提供したことが忘れられない。差 別論研究会、そのあとをついだ差別 意識論研究会がそれです。研究会の メンバーはわたしの愚痴めいた意見 をいやな顔もしないで聞いてくださ いました。自らの問題意識に確信を 抱くようになった背景に研究会での 議論があったことは確かです。 しかしまあ、京都部落史研究所に たいするわたしの個人的思い入れは このさいどうでもよろしい。新しく 京都部落問題研究資料センターとし て再発足したことを素直に祝福した い。ただ﹃京都部落史研究所所報﹄ の師岡佑行所長 最 終 号 ︵ 六 ・ 一 二

O

︶ 不思議ではありません。わたし自身 の責任を棚上げにして言うのもなん ですが、いつの日にか関係者が経緯 を明らかにされることをのぞみたい。 ところで灘本さんは、 いまこそ研 究活動が本領を発揮すべき時代では ないかと一言う。しかし自立した研究 を進めるには、どうしても財源面で の自立が必要です。それは京都部落 史研究所が直面し続けた問題でした。 年間一千万近い経費を個人会員の会 費四千円でまかなうには二千五百人 ﹁ごあいさつ﹂と、京都部落問題研究の会員をつのらなければならないけ れど、状況を考えるとその達成はき 資料センター通信﹃冨巾

B

S

門 0 ﹄ 第 一 の瀧本昌久所長﹁資 料センター所長就任にあたって|第 3 期の部落解放運動と研究活動﹂を 読むかぎり、なぜ研究所からセン 号 ︵ 七 ・ 二 五 ︶ タ

l

に改組されたのかもうひとつ明 確でなく、とまどう人がおられでも わめて困難でしょう。灘本さんはこ

00

三年三月の同和事業終結時点ま でがんばってみると言う。前途は容 易ではなく、わたしとしては灘本さ んはじめみなさんの奮闘を祈るしか ︵ 藤 田 敬 ご あ り ま せ ん 。 編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区衣棚通上御霊前下Jレ上木ノ下町73-9 阿昨社 Tel. 075 414 8951 Fax. 075 414 8952 E-mail: [email protected] 定価300円(税込)・年間4000円郵便振替 01010ー7-6141 第90号 2000年9月25日発行

t

5

(20)

小玉新次郎

高校世界史の教科書を組みなおし、

わかりやすく叙述

OO

宇宙の歴史、地球の歴史、人間の歴史、私の歴史。そして現在約六

O

億の人、約三

OOO

OO

弱の国家

。歴

史の縦糸と横糸

その世界の歴史をこの上もなく平明な文体で描く

A

−内容紹介

は じ め に 民 族と国家 / 人間の歴史 / 文明の誕生 − 西 ア ジ ア 史 西アジアの自然 / シユメル文明とエジプト 文明の誕生 / イラン民族 の西アジア統合 / 西アジアとギリシャ文 化 / ユ ダ ヤ 教 と キリスト教 / イスラム教の成立 / イスラム国家の 拡大 / ト ル コ民族の西アジア支配 / 西アジアの民族主義とヨーロ ッパ/商アジアの現代 − イ ン ド 史 インドの自然 / インダス文明の誕生 / バ ラ モ ン教の成立 / 仏教と ジ ヤイナ教の興起 / インド諸勢力の統合と分 立 / 仏教の盛衰 / ヒ ン ズ ー 教文化の形成 / イスラム教政権の樹 立 / イギリスの支配とインドの独立運動 / インドの現代 − 中 国 史 中国の自然 / 黄河文明の誕 生/ 秦漠帝国と中華体 制 / 漢民族と胡民族の共存 / 陶唐帝国の性格 / 宋と元 | 漢民族と モンゴル民族 | / 明と清 | 漢民族と満州民族 |/ 中国とヨーロ ッ パ / 中華民国と中華人民共和国 / 中国の現代 − ヨ ー ロ ッ パ 史 ヨーロッパの自然 / ギリシャ文明の成 立 / ロ 1 マ帝国と地中海 / 東 西 ヨ ー ロッパとキリス ト 教 / 都市の発 達と民族国家 / ルネサンスと宗教改革/海外進出と政治革命 / 産 業革命と植民地支配 / 2 度の世界大戦 / ヨ ー ロ ッ パの現代

M

阜 、

− ア メ リ カ 史 南アメリカ − 東 南 ア ジ ア 史 ・ オ ー ス ト ラ リ ア 史 ・ オ セ ア ニ ア 史 ・ ア フ リ カ 史 − 朝 鮮 史 ・ 日 本 史 お わ り に 乾燥地帯の農耕民と遊牧民 / 古代帝国の中央集権と 地方分権 / 仏教の束伝とキリスト教の商伝 / イスラム教の拡大と 都市の発達 / 西 ヨ ー ロ ッ パ勢力の世界進出 / 現代の世界 分立 |

アメリカ 合 州国 / カ ナ ダ / 中央アメリカ 百勺舟

T

4

1

” 臥

M Z H H H A a e

京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木ノ下町七 宮 ︵ O 七 五 ︺ 四 一 四 l 八九五一剛 ︵ O 七 五 ︶ 四 一 四 開 1 8 島

E

ω g

⑥ 司 向 。 含 ・

5U

O

号 二 OOO 年 九 月 二 十 五 日 発 行 ︵ 毎月 一 回 二 十 五 日 発 行 ︶ 一 九 九 三 年 五 月 二 十七日第 一 二 種郵便 物 認 可

定価

︵ 本体

参照

関連したドキュメント

突然そのようなところに現れたことに驚いたので す。しかも、密教儀礼であればマンダラ制作儀礼

自閉症の人達は、「~かもしれ ない 」という予測を立てて行動 することが難しく、これから起 こる事も予測出来ず 不安で混乱

手動のレバーを押して津波がどのようにして起きるかを観察 することができます。シミュレーターの前には、 「地図で見る日本

としても極少数である︒そしてこのような区分は困難で相対的かつ不明確な区分となりがちである︒したがってその

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので

これも、行政にしかできないようなことではあるかと思うのですが、公共インフラに

北区らしさという文言は、私も少し気になったところで、特に住民の方にとっての北

を負担すべきものとされている。 しかしこの態度は,ストラスプール協定が 採用しなかったところである。