愛 と 念 四 六
愛
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念
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︵ 仏 光 寺 派 ︶ 一 、 序 キリスト教宗教学では宗教の基本意識は﹁愛 L で あ る と い う 。 マクス・シェl ラ l ︵ 一 八 七 四 l 一 九 二 八 ︶ は こ の 愛 の意識構造を現象学的に分析して﹁一、神を知らんとせば先づ神を愛せねばならない。二、神を愛するものは神に 仏に、愛を念に置き換えるときは、 この命題の中の神を そのまま浄土教の意識構造になる。即ち同じ窓識を一万では愛で、他方では念 愛せられる。三、神を愛することができるのは既に神に愛せられているからである。﹂という。 で表現していることになる。 愛と念を全く別の意識であると盟解する必要はない。 F O 誌は念と訳するのが適切であるように忠われる。 こ の 理由を経典や論説の中より引文しながら、宗伯や高僧達が如何ように宗教意識を理解し表現せられているかを解説 し よ う と 思 う 。二、愛の系譜
現 代 の 日 本 に 流 行 し 、 一般に理解せられている﹁愛 L は実に複雑であるが、系統立ててみると次のようになる c 1 中国系の愛 四世紀応神朝に百済の帰化人王仁が論語と千字文を献上したことは史実に明かなところである。 乙の時代から日 本は中国の文佑を吸収しはじめて、中国の文化圏に入るのである。中国思想に見られる愛は論語の仁愛や墨子の兼 愛に見られるところの社会道徳としての愛である。人道主義にもとづく倫理道徳としての愛であった。人道の大本 である仁愛はまず、おのれに修め、家族に及ぼし、 さらに隣人、社会、国家、世界に広がり、 一切の平等の博愛に 進 む の で あ る 。 この儒教精神はその後、聖徳太子の十七条憲法に影響し、大化改新後の律令政治の理念にも強く現 われている。平安時代は明経道として菅原・清原の両家が伝習し、鎌倉時代になると禅僧が朱子学を輸入するが、 藤原健高や林羅山は朱子学を禅寺より独立さし、江戸時代になると幕府の御用学として栄えた。中国系の愛は儒教 と と も に 、 このような伝統をもって現代に続くのである。 2 印度系の愛 六世紀中葉、欽明朝に新維の聖明王が仏像経論を献上した頃から、仏教の輸入につれて印度系の愛が日本にも流 行するようになった。仏教の流行は目ざましく日本人の思想に溶け込んでいった。仏教でいう愛は党語叶B
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の 訳 で、英訳は叶E
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円相である。渇愛、愛着、愛執、貧愛、 愛 欲 、 執着等で現わされる心作用である。 十二因 縁では第七支に置かれる愛である。人聞の深層より発動する能動性であって、食欲と性欲は個体と種族保在につな がる本能的欲望である。 乙の上に開花発動する所有欲、 知識欲、創作欲、発表欲、名誉欲等も愛欲の発動と考え 愛 と 念 四 七愛 と 念 四 人 る。人生の苦はこの愛欲が原因となって生ずるから、まず愛欲を捨て去らねばならない。愛欲を捨断することが仏 果 、 握 繋 に 到 達 す る 道 で あ る か ら 、 五 戒 を 保 ち 、 八正道を修することが愛欲を規制する道である。少欲知足や知足安 分の徳目は愛欲に反省を与えるものである。 この仏教的生活態度は古代から現代まで日木人の思想を支配してい る。愛欲を罪悪視することによって、愛欲より遠ざかろうとする努力は、無限に増長して止るところを知らない愛 欲を最少限度に制限し規制しようとする願作仏心の現われである。意馬心猿の仏燃えの如く追えども去らない愛欲は 仏道修行の障碍になるから罪悪視される。 ﹁誠に知りぬ悲しい哉愚禿驚愛欲の広海に沈没し名利の大山に迷惑す定 緊の数に入ることを喜ばず真証の証に近づくことを快まず恥ずべし傷むべし﹂と親驚は歎かれる。 3 西昨系の愛 明治維新以後、西洋文化の流入に伴って西洋文学の翻訳とキリスト教の伝道によって西洋流の愛が流行する。 乙 れ は
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の 訳 で あ る が 、 これが果して適訳であるか疑問なきにしもあらず。たとえ虚偽の愛であろうが西洋流の 愛は怒詳の如くみなぎっている。厨川白村は﹁近代の恋愛観﹂︵大正一 O 年 ︶ の 中 で 次 の よ う に 書 い て い る 。 ﹁ ・ ・ : 日 本語には英語のラヴに相当する言葉が全くない。恋とか愛とかいう文字では感じがひどくちがう。﹁回目0
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は 何としてもこれを日本語に訳することができない。言語感情が日本語ではまったく出ないのである。一一一一口葉がないの は、それによって現わさるべき思想がないからである。::・人生は欲求の無限の連続だ。 その求めるものが異性で あるか、真理であるか、浄土であるか、神であるか、知識であるか、名得であるかは問うところではない。愛しな いものを求めるということは不可能であるからだ。したがって何者をも心から愛することができないということは 人間として段大の不幸であり、悲哀であらねばならない。 この生の欲求はやがて人聞のいろいろな創造生活となっ て 現 わ れ る 。 そのなかで最も大きな最も自然な最も強い欲求は新しい生命の創造である。:・・:広い意味では愛を歪上至高の道徳と見なし、人間生活の中枢なりとする思想はその源流をギリシャに発している。プラトンの﹁シンポ ジアム﹂は普遍なる愛の力を説いたものであった。また愛の力は常に美を求め、小石川を求めて絶対無限の世界に連な り、至高至大の霊に向って憧れる。人が人を愛するのはこの霊的生前に到達するための階段であると考えられた。﹂ このように厨川白村はラヴに相当する日本語がない、愛では不適当であると主張している。 伊藤整は﹁近代日木における愛の虚偽﹂︵昭和三二年︶の中で次のように述べる。 ﹁人間と人間とのあいだの秩序が考えられる処にはきっと、他者への愛や他者の認識があることになる。しかし 西洋と東洋の考え万には、 かすかな違いとなっているらしい。:::悔い改めと祈りに信仰の本質があり、人間とし て不可能なことを前提としているキリスト教的な愛の考え万がある。即ち結婚式で汝等は愛し合え、 と二人のもの に言い渡される。即ち不可能の愛が結婚の中にまで持ち込まれるのだ。男と女の執着を宗教の中に設けられた愛と い う 一 一 一 一 口 葉 で 規 定 し 、 それと同質のものと見なそうとする傾向はヨーロッパ系文化の中の目立つ特色である。二人の 人聞が共に住み、愛し合う関係において生きるということは不可能である。残酷で主我的な肉体の関係を含むとき、 夫婦の聞における愛は困難になる。 つまり信仰による祈りや慣悔がない時に、夫婦の関係を﹁愛﹂といら一一言葉で表 現することには大きな根本的な虚偽が実在している。:・・明治以来、我々が取り入れた西洋の文学思想は、 こ の キ リスト教の宗教生活の中でのみ実践性がある。しかし我々はその実践性を抜きにして最も合理的で道徳的な人類の 秩序の考え方として受け入れている。勿論日本にもクリスチャンは多い。日本人のクリスチャンたちのあり方は実 に多くの偽善性によって疑わしいものに見え、演戯的なわざとらしい祈りや憤悔の習慣によって非現実的な宗教と 思われている
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−−−それは我々一般の知識階級は不可能な愛というものを信じていないからである。:::他者を自 己と同一視しようというような、あり得ないことへの努力の中に虚偽を見出すのだ。我々は憐み、同情、手控え、 愛 と 念 四 九愛 と 念 五 O ためら 膳いなどを他者に対して抱くが、しかし真実の愛を抱くことは不可能だと考え、抱く努力もしないのだ。即ち仏教 的 に 言 え ば 、 そのような愛を抱くことのできぬことが我々の罪深い本性であり、 その本性を持ったままで我々を救 うのが仏なのである。:::だから男女の聞の接触を理想的なものだらしめようとするとき、 ヨーロッパ系の愛とい う言葉を使うのは我々には膳らわれるのだ。それは﹁悟れるし﹁恋するし﹁慕う﹂ことであり、愛ではない。性とい う最も主我的なものを他者への愛というものに純化させようとする努力の習慣がないのだ。:::明治以来﹁愛﹂と い う 翻 訳 語 を 輸 入 し 、 それによって男女の聞の恋を描き、説明し、証明しようとしたことが、 どのような無理、空 転、虚偽をもた=りしたことかは疑うことができない。:::多分、愛という言葉は同情、憐み、遠慮、気づかい、最 上の場合で慈悲というようなものとしてしか実感されていない。その愛を恋に使い、夫婦に使い、 ヒ ュ l マ ニ 。 ス ム を道徳の最終形式のように使うとき、 そこには大きな空白が残る。西欧式の考え方は我々を封建制度から解放し、 女性を家庭の奴隷状態から解放した。 それとともに我々を別個の虚偽、救済性をもたぬ虚偽の中に導き入れた。キ リスト教系の祈りの発想のないところの夫婦の愛は大きな疑いの目で見直さなければならない。我々は恋と慈悲と の区別は知っている。愛という言葉を優しい甘美なものとして使う場合にも我々は﹁恋愛﹂として限定する。その 実質において征服と被征服の関係であり、相互利用の関係である関係を神の寄在を前提としてのみ成立する﹁愛﹂ によって説明してきたこの百年間に異教徒としての日本人の聞に多くの悲劇が生まれた。:::毎日の新聞の身上相 談を見るだけでも足りる。﹁愛しているのに私を棄てた﹂とか、﹁私を愛さなくなったのは彼が悪い﹂など、実質上の 強制を愛という言葉で考えている。愛しているのでなく、恋し、慕い、執着し、強制し、束縛し合い、 やがて飽き 逃走しているだけである。 明治以来の文学作品の中で、 この偽りの﹁愛﹂は次第に形式的に考えられて、近代文学を骨抜きにしている。:・
愛という上昇力のプラスのないところに、 マイナスとしての罪は実感されないだろう。仏教の信仰の中にも慈悲 の反対概念としての凶作がある。法の罰だけで良心の罪がない。従って主我的なことが正義と同質化するという無信 仰の怖れが今世界に行きわたっている。人聞は未来の怖れという強制のないところにおいて良心的であり得ないの だ。:::我々を実在にふれさせる認識法としては、仏教系のものとして実在をゼロ即ち無叉は他の意識で認める万 法がある。他者との組合せのみに善を見出し、孤独を許さぬ社会では原子爆弾が作られ、人間の区別の撤廃という 善の強制の共産主義社会を作り出した。 いずれが人聞をより平安に置く力が強いかは、まだ分っていない。無とい うものもまた絶対であることによって、神という絶対と同じ働きをし、無の意識との対照によって我々は心の平安 を保つことができ、また実在を把握することができ、 それが伝統的に日本の芸術の万法となっている。我々がゼロ とプラスを持っている時、 ヨーロッパ人は愛という整数とこれに対応する負数をもっている。負数を意識すること 即ち罪を意識することの大きな負担から我々は解放されている。﹂と、伊藤整はいう。 このように西洋系の愛は日本 では定着していない。宗教的背景、裏打がないからである。将来とも定着する可能性はうすいと説くのである。 倉田百三は﹁愛の二つの機能﹂︵大正五年︶と題する論文に﹁愛より必然的に分泌せられる二つの機能は祈りと闘 いとである。愛が単なる論理として固定せずに力として他人に働きかける時には、この二つの作用となって顕われ なければならない。:::﹁歎異紗﹂のなかには何人も知るごとく﹃慈悲に型道浄土のかわりめあり。聖道の慈悲と いうは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとく、 たすけとぐること、きわめて 有り難し。また浄土の慈悲というは念仏していそぎ仏となりて、大慈大悲をもて、おもうがごとく衆生を利益する をいうべきなり。今生にいかにいとおし、不便とおもうとも存知のごとく、たすけがたければ、この慈悲始終なし、 しかれば念仏申すのみぞ、すえとおりたる大悲心にてそうろうべき﹄と書いてある。私も親驚聖人のこの心の歩み 愛 と 念 主
愛 と 念 五 . みの過程に、泌々と同情を感ずる。即ち聖人は念仏によって完全な愛の域に達せんと望んだ。:::﹂と述べているが、 乙の愛は勿論西洋系の愛である。むしろ念仏即愛、愛即念仏と表現したい。浄土教では度衆生心といわれるもので あ る 。 三 、 念 仏 と 見 仏 寸一、神を知らんとせば神を愛すべし﹂この命題は認識と愛の関係を示して、認識以前に愛がなければならない という。浄土教は憶念の基礎の上に成立する思想体系であるからっ愛と認識﹂の関係は﹁念仏と見仏﹂の関係とし て 表 わ さ れ る 。 竜 樹 の 十 住 毘 婆 沙 論 易 行 品 に は ﹁ ・ : : 是 諸 仏 世 尊 現 在 十 方 清 浄 世 界 皆 称 レ 名 憶 一 一 念 阿 弥 陀 仏 本 願 一 如 是 若 人 念 レ 我 称 レ 名 白 帰 即 入 ニ 必 定 一 得 ニ 阿 拝 多 羅 三 頭 三 菩 提 一 是 故 常 応 ニ 憶 念 一 以 偏 称 讃 : : : 人 能 念 是 仏 、 無 量 力 功 徳 、 即 時入必定、是故我常念、:::若人願作仏、心念阿跡陀、応時為現身、是故我帰命、彼仏本願力::: L 巻末に﹁如是 等諸大菩薩皆応ヨ憶念恭敬礼拝求ニ阿惟越致ことあって、菩薩が阿惟越致︵不退転︶に至る道程の勤行精進の難行道 の対極として信方便の易行道を唱導している。即ち不退転必定に入って無上正等覚を得るためには信方便の易行と しての念仏即ち、仏名を称し、仏を憶念し、恭敬礼拝するのである。三世紀頃の印度における初期の浄土教の思想 が よ く 現 わ れ て い る 。 ﹁二、神を愛するものは神に愛せられる L この命題は神と人との聞の愛の相互関係を示している。仏教では仏と 衆生の憶念の相互関係となる。大無量寿経の発起序に釈尊の奇瑞を拝見した時、阿難は﹁去来現仏仏仏相念、得無 今仏念諸仏耶﹂と釈尊にその真意を質問するところより始まって、弥陀本願の生起本末が説かれるのであるが、 乙 の﹁仏々相念﹂の憶念の境地にその本義を置かんとする無量寿経の発想が伺われる。
親驚聖人は銘文に﹁首携厳経一一首、勢至獲念仏円通:・:彼仏教我念仏三昧:::若衆生心憶仏念仏、現前当来必定見 仏:::我本園地、以念仏心、入無生忍、今於此界、摂念仏人、帰於浄土﹂と引文し、また和讃に﹁超日月光コノ身 一ハ、念仏三昧オシヘシム、十万ノ如来ハ衆生ヲ、 一子ノゴトク憐念ス、子ノ母ヲオモフガゴトクニテ、衆生仏ヲ 憶スレパ、現前当来トヲカラズ、如来ヲ拝見ウタガハズ。 ワレモト困地一一アリシトキ、念仏ノ心ヲモチテコソ、無 生 忍 ニ ハ イ リ シ カ パ 、 イマコノ裟婆界ニシテ、念仏ノヒトヲ摂取シテ、浄土ニ帰セシムルナリ、大勢至菩薩ノ、大 恩フカク報ズベシ L と述べられている。即ち念仏三昧の中の念仏と見仏の関係が一不されている。 憶念は究語
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自 主 の 訳 、 英 訳 で は 河 町 田 町 田Z
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記憶して忘れない意である。和訳では﹁おもいつめる﹂﹁きつくお もう﹂ことである。憶念は仏教々義上、その意味は多岐に渉っている。仏を憶念することを念仏と熟し、本来は一、 仏の相好を観察し、功徳を憶念することであるが、 このような憶念の不可能な人には便法として、二、称名念仏を 勧める︵観無叫一一寿経︶。善導はこの称名念仏を往生浄土の正因であると主張して専念弥陀名号を勧奨した。法然上人は 乙の説を受継いで日本に念仏普及の端緒を開き、親鷺聖人はさらに発展さして、念仏は信心であるとして心作用に 重点を置くのである。教行信託信巻末につ信心は即ち憶念、専念、専心、 一心、深心、深倍、堅固心、決定心、無 上上心、真心、淳心、相続心、真実心、大慶喜心、真実信心、金剛心、願作仏心、度衆生心、大菩提心、大慈悲心、 目 疋 心 即 是 山 無 量 光 明 惹 生 L と 述 べ ら れ て 、 この心は凡夫自力の心にあらず、﹁この心は無量光明慧より生ず﹂他力廻 向の心であると親驚独特の見解を表明せられている。 このように念仏は相師連の見解の相違や重点のおき方によって、一ての怠味内容を種々に変えることになるが、そ の根本基礎になるものは念である。念を基調とした種々の心作用を表現するために、念の上に念を限定する文字を つけて種々の熟語が作られる。例えば、憶念、想念、観念、思念、理念等は知的側面を、愛念、慈念、悲念、憐念、 愛 と 念 五愛 と 念 五 四 慾念、護念等は情的側面を、祈念、信念、専念、執念等は意志的側面を表わしている。念仏者の念はこの知情意三 面全部を含み円融温存したところの念でなければならない。 四 エ ロ ス ︵ 願 作 仏 心 ︶ とアガペー ︵ 度 衆 生 心 ︶ 西洋系の愛はその機能作用に従ってエロスとアガペーに二分される。 エロスはギリシャ思想で古くから論ぜら れ、プラトンに至って発展し固定した思想である。肉体的感覚的なものへの愛に留ることなく、 より高い段階に進 み、終には見えない真実在のイデアの世界を慕い憧れる愛にまで発展せねばならない。真理愛といわれるものであ る。人聞は真理追求のため日夜努力している存在である。真理追求欲は止まるところを知らず、無限に前進する。 現代の物質生活の豊富、便利さ、 一見幸福そうな生活は背の人は予想もしなかったであろう。 これは向上心エロス の所産である。仏教流にいえば向上心願作仏心の現われである。ところが、 その結果一万では原子爆聞を作って人 類滅亡の危機を感じさせ、また地上では都市公害や環境汚染の矛盾した問題が現われている。 これらの問題は他を顧みないで利己心、白利心のみで行動した結果である。今や利他心を呼び戻さなければなら ない。常に他を考慮すること、即ち隣人愛に目覚めなければならない。 ア ガ ペ ー ︵隣人愛︶はキリスト教で早くか ら唱導せられて﹁己れの欲するところを他人に行なえし﹁己れの欲せざるところを他人に施す勿れしを実践するの である。中国の博愛思想もこれに属する。とかく利己的になりがちな人聞に利他心を植えつけることは社会生活に は重要なことである。仏教では慈悲︵抜苦与楽︶ として早くより実行せられている。浄土教では度衆生心という。 世親浄土論では念仏を展開して五念門としている。礼拝、 讃 歎 、 作願、観察、廻向である。前四は入の住相念 仏であり、第五廻向は出の還相念仏である。浄土論に﹁前四念是入安楽浄土門、後一念是出慈悲教化門:・:出第五
門者以大慈悲観察一切苦悩衆生一不応化身廻入生死園煩悩林中遊戯神通至教化地以本願廻向故是名出第五円、菩薩入 凶種門自利行成就応知菩薩出第五円廻向利益他行成就応知書薩如是修五門行自利利他速得成就阿梓多羅三菰コ一菩提 故﹂とあって、持躍は自利及び利他を共に行ずることによって無上菩提を成就すると述べている。 和讃に﹁尽十万ノ元号光仏、 一心ニ帰命スルヲコソ、天親論主ノミコトニハ、願作仏心トノベタマヘ。願作仏ノ 心ハコレ、度衆生ノココロナリ、度衆生ノ心ハコレ、利他真実ノ信心ナリ。信心スナハチ一心ナリ、 一 心 ス ナ ハ チ 金 剛 心 、 金 剛 心 ハ 菩 提 心 、 コ ノ 心 ス ナ ハ チ 他 力 ナ リ ﹂ ︵ 高 僧 和 讃 ︶ ﹁浄土ノ大菩提心ハ、願作仏心ヲススメシム、 スナハチ願作仏心ヲ、衆度生トナヅケタリ。如来ノ作願ヲタヅヌ レパ、苦悩ノ有情ヲステズシテ、廻向ヲ首トシタマヒテ、大悲心ヲパ成就セリ﹂︵疋像末和讃︶ と 述 べ ら れ て 、 一心に帰命する念仏は願作仏心であると同時に度衆生心であること、 そして乙の心は他力廻向の信 心であることを示されている。 問問第三命題﹁仏を念ずることができるのは既に仏に念ぜられているからである﹂は他力摂取の境地を表わしたもの で あ る 。 ﹁月影のいたらぬ里はなけれども、 な が む る 人 の 心 に ぞ す む ﹂ ︵ 法 然 上 人 ︶ ﹁光明遍照十万世界、念仏衆生摂取不捨、我亦在彼摂取之中、煩悩障眼雄不能見、大悲無倦常照我身﹂︵往生要集︶ ﹁煩悩ニマナコサヘラレテ、摂取ノ光明ミザレドモ、大悲モノウキコトナクテ、ツネニワガ身ヲテラスナリ﹂︵和讃︶ この境地に立っとき、人の心に一平安をもたらすのである。易行品にいう入必定、正定取県、住不涯転︵阿惟越致︶ はこの境地を指したものであろう。 愛 と 念 五 五
愛「 と 愛 L 念 図 と 示 す 念