――目次――
1,
宗教の基本構造, 棚瀬襄爾, The Fundamental Structure of Religion, Jōji TANASE, pp.1-30.
2,
旧約に現れたエルとエルヨーンについて, 山崎亨, About the God Most High in the Old Testament, Tōru
YAMAZAKI, pp.31-44.
3,
信楽の立場:『教行信証』の哲学的考察, 石田慶和, On the Essential Significance of “Shin-gyō”,
Yoshikazu ISHIDA, pp.45-61.
4,
解釈学的ジツアチオンと実存理念の問題:R.ブルトマンの所論を中心に, 山形孝夫, The Problem of
“die hermeneutische Situation” and the Idea of Existence, Takao YAMAGATA, pp.62-86.
5,
先祖の極化現象, 諸戸素純, Polarization of Ancestors, Sojun MOROTO, pp.87-95.
について種々の 意
教 という言葉自身は ず 、徳川時代になっ 外交文書からの研究 せられたのは明治 十 ばられ、 家は 末寺 とか、宗教一般とは 外国との交通がはじま 外交の為キリシタンの 解
生ずるに至って、宗教 一 ある。今日我々は社会、教
巴
4
寸教
の
基
本
構
造
柳瀬
襄爾
ⅠⅠ )
の 用語の登場は宗教 は 、それがあまりに ビッグ・ワードであるからである。 述べている。例えば であり、用語の歴
西国際宗教史会議に
に 左右されていると ︵ 由卸ざコ の 尭帥は使 ︵ 2 Ⅰ
、 尚 、古木 教 というこ 強く影響を与えていたのである。 タイラー︵面・ ロ ・
持たぬ民族はないこ
奇妙の ょぅ である
、初期の学者が宗教
観念を持たず、 又礼
べき宗教的性格のも
色ドのオ という悪妻 正の くことが記されてい
彼等が宗教を持たぬ (2 Ⅰ
宗教の基本構造 を て え れ 宗 り 設 つ 霊 と う と ホ数
現
構論
心し体こ横来
西在る
キ の 象 甲ま 著 し い 多様 と れ か は と 。 教は年
と す 解 る 珪 見-
せ て い る こ 合 と 古 つ を 念 と よ な 為 と同時 そ れ 繊 他 の 文 @ イ 項 目 例 ,え サま 倫 に っ 所 記 暫 あ 確 、 は ら ば か 理 -tf 僻 下生 、 オ e
社 会 幅 wo
のまは
こでしな教なで
ば宗での教主るぬと
学張
。
民か
な と 」 て ら 学 ぃ あ に を そ 族 口口 で 部 い な は か っ 於 し こ は 神 と も の な い そ ら た て た で 幾 像 も の口 な 宗 く 。 の こ 。 は 訳 タ ら 礼 結 づの い 教 と し 頭 ュ す で ィ も 拝 合 助円 で あ ぅ あ と し、体 い 絶 そ 来 入 津 。 は こ い 3 C3 Ⅰ
く 4 Ⅰ い
礼奈
で る は え 我 の 又 体 を 側 ぎ も 或み
い ん と 必 を し 情 ど 正 に な 義 侍 中 類 で に 合 る 譲 る っ 応 と い て し
味夫
観 は主家
整 れ の いし る こ あ る の 的 つ 宗 家 わ り
い
域恵
こ あ清心
中 観 を は8 % を れ る 主 と に 主 こ 容 易 で 沖主
な で 捉 に の は 及 "
察数 に素
"を主観
引 い 又 す を乏朴
主 観,義に例
教 の定 義 が ,
のいるの場て
み、
のと両親
のの
みその
ろ う 倣 ついなあ
場で 儀思
礼わは
と 幾 とな
@ こ お さ の 教 観 か 与 定 を 為 あ 似 は の か ,え す 捉 の り に し み れ と は
きれ中観主ら
" 3%
" 義 " る え 面 、 従 ば で なら こ と
てを,
体捉等
何つし
て ばで睦
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与
えの一酌はに
々、
議親
慕 ると。
たぅ
き 言っ 宗教 的な したれての
全 も た 立 ・ 括 宗 外 文 ぃ @宗教の基本構造 若 ・か と 来 干 っ す て 触 た る い ね
たこで。
。
の る か め あ 神らこ
今と るを
が。
一 如何に宗教 は繰返さない 十 世 帝己 の Ⅰ ま つの根本的所者の緊張関係として宗教を把握せん して神の桂 桔を脱脚 することがで きな 私はすでに旧著﹁民族宗教の研究﹂で 時代に到着しているし、近来の宗教 概
相当に力を持つて
についても言い 56 。これらの 観 証 法として宗教史観構成に極め
いた全体の中に見出 ︵ 2 ︶ されね ば ならない。
あるから、之を除外 ︵ 毛 ・ ざ目窃 ︶の人格的宗教と制度的宗教や 、 ベルグ ソン ︵ 由 ・
ことを疑 う ことはで
ね 、素朴な形態の
して社会に存在する
ればならないという
ような宗教哲学者に
十分の観察を与えう く 5)
れ 得ないことが
判
ある学者は凡そこの世で一度も神とせられた
ナ しとのないものは存在
し 得れば
よ
いのであ
そうにないようである。
宗教を一瞬に捉え
ては宗教たり得ない
教
とを区別せんとす
的 把握
法
と認められ
ている。だがそこで
しか現われない。
、如何なる条件
ッハ
︵ F.
弓の︵
Hmq
すか
0 オ ︶
目 の
岸臣
。毒の臣︶の
如
タ|
@ の ,援
㌧ 0 の田のこ
走
せず、宗教を特
(6 Ⅰ 6宗教の基本構造
ばならぬこと、
生
7
だ 社﹂には文化の概念と
の 動的観察にはま 欠けるところがある。
0 ヰ勾 0= ㏄ wo コ いのめⅡ 0 曲 0
簿き
守ま ora ︶の Ⅱ 按紳め︵ 0 片 Ⅰ 卜 0 ミ四 0 け目 0 目。 0%0 Ⅰ ︵ メ サ︶ 弓 ︶ o 毛 e Ⅱ ぃ 0 づ ・ ム ︵・ハ % ツ ・︶・ⅡⅠ
ⅠⅠ く Ⅰ山岸 笘 ∼ 、 田ゆ いべ
度的 宗教の排除のみ へ 4 ︶
れたに違いない。 文 思われる。
げ 宗教のけじめが
。彼等に取っては 宗
して結果であると 見 ︵ 3 ︶ られている。
ならぬが、神霊から
で 力がなく、動的 宗
導入が一般に欠除し ていること等を指摘して来た。
あることは容易に
化 過程を導入して 考 の 念も起らないであろう。
不教観察の為に行 う
造を明らかにして 見 特殊から普遍に及ぶ
もとづいて説明する
試みてみたいと考え る 。
るというのであ
ものとして理解し得 る 。
。然しこの様な 定
も 必ずしも一様では
が異 つてくることが (8 Ⅰ 8
宗教の基本構造
のどこに重点をおく
なくてはならぬこと である。 ハエ︶
が 宗教を主客両面
ゅ 識であり、客観的
然及び人間生活の運
えた学者は多々ある
霊的存在のみを指摘
人間的存在の人間に
、ット のそれは人格的
呪術と人間が服従 す
点の相違があり乍ら
題 としていることで
、機能等には関心を
の種の定義はかなり 有用であると思われる。
Ⅰこ由伸われるⅠ し ころ
﹂ っ 0
組織であっ
9@ (9)
れる。︵ 4
︶この夫々に
重 する点に共通の特色を見出すことができる。 もなく説明的定義たのである。
い う 言葉の使われ
する傾向がかなり 強 持 、宇野円空博士 の
あるまい。︵ 5 ︶けれども
れないでも社会的に
的なものとして説明 この十本 教 情操の客観
Ⅰ 畠ぽ ︶近くは ス ホ教 的 畏怖以上
自然観の用語はキリスト教で使用される外、 め 不教学的には宗教民族 超自然観に対する 自
規定がなされてい かを学ぶことによ つ
出す非物質的な力 即 (10) Ⅰ 0
季節や漁場について
壌に 対する注意、
除
構
抹 するに外ならない。それは よ り 性を発見し、この規則 性 によって は 合理的実行である。因果の理
格 づけ 23 としたの
領域は曽 て マリノ ウ 食糧の獲得をなし、
域を表現する用語
る 。然るにすべての
ならぬという問題が
。先にあげた スロト
かかる 範蒔 だけを
されている。これに
れ 得ない。そこで 私 ある。
広 が生物学的適応 この用語を借用した
せんとしたのである
れているのである。
あろう。然しもち ろ
とか、社会的伝統だ
基礎に持つ芸術と宗
に
対する用語である
私は甘受しなけれ
ある。神聖観念論が
づ
け
でなく、宗教
独
後述する
よう
に
、不
用語を採用し得ない
ているのである。
(12)@ 12宗教の基本構造
捉える場合に静的 B 四 CIS) る 。 ︵ 11 ︶ 口 , q ︶ 0 Ⅰ ぃ 0 ㌧・ nw ︵・ トは肚
目 ∼ 0 目㏄ wo 口の幅 0 の 0* ︶ ロ 昏 - ︵ 0. ︶ ゆ ㏄ 色 ・㏄1 % ︵ 3 ︶ q. の・㌧Ⅱ㏄ 0 Ⅱ い
の
0 目口 0 レ暖の屈㏄ ゴ ・ ドゆド ︶・ H. ははめ 片 ︵ 4 ︶ ぺ ロロ 鍍 er@o 甲立 ヴゅ ︵ 5 ︶宇野博士、宗教学、宗教学芸論、 等 。の汀せ山 ︶ w い し ハ Ⅰ ヰ Ob : H のⅡ ト Ⅱ 卜 ・
0%O へ 7 ︶の∼ 0 任牡局 @o Ⅰ・ ゑ ︵・レト 肚 Ⅰ
第五章
0 臣 oh オ血 臼コ抽 Ⅰ 0 目 ・Ⅰ 勾せコ H. ぢ睡
辞 ドの wo.00. オ ・ 叫
ゆ卜 0,
ドゆ痒 m. ムめ 何曲
れる後の段階もあ
解しょうとすると 述
見解に出るものであ
しても、文化とは
学
あり、学習的行為と
能を有すること、
人
細胞動物である性質
の中に生れ来り生長
︵ ヰ l フ
るから、環境を類
境の持つ種々の変数
未開社会の如き小兵
接の論点でないから
応
する限りに於て
見られる。適応は平
動の動機は不均衡で
めんが為に用いられ
的
行動のみでなく、
発明的、人工的なも
応
なのである。人工
(14 , ) 14宗教の基本構造
る
。
この選択の頂点のみ
︵
4
︶
一口えろ。
念はクルーバー
ものからとぎ
離ち、
するものとして使用
は 関係を持たぬ
とし
へ
5
ノ
つ 一方宇宙の現象の
の 存在を対象として
有機的と言
う のみで
機体は有機体と無関いる。これならば行為︵ 佑
7
︶
である。
化は普通一定の社会
におけるすべての
文
か 、社会的伝統であ
超個人性が存在する
15 C15)ね 考 の 為 獲 的 傾 命 と 見 の の が こ
のの
し
、
視て
す達 至な
複いののに
化こ会殊斉
様いに
。
於 ればの
もを
と平べ
開 合 。 現 ょ 土 式 れ フ て な は ぎ 俺拝 回 さ ぬ とに 立 Ⅰ ゴリ 任の・の
0
Ⅰ∼の行 。 せ が
Ⅴこ ろ 為 こ ら あ 。 る 文
を全)
為 起 と で め れ る 従 こ仏文 体は
と 個 い の o の あ 点 て つ と を 化 と 文 旦. 大 う る に い 間 て を 身 だ し 化 た 的 立 で 場 弔 Ⅰあ か 目 0 る ら づ ノ 点 後 を
ぅも象決
のをこげて文字
解とていは
習定
一が見
ののる
O 田し 地 て 獲 て き 人
文的満
会 実 は て が い 得 組 な 格 化 に の の イ ブ し や円 ツ井 イツ 宗 あ る せ 立 い を は 分続成
社 超 Ⅱ O 教 れ の ら て 。 完現有会員
合有
巾 。 に は で れ 6 げ 成 美せ組
と 的 機っふ
いれる
あ た 区為れし
にど、
酌も織
にれ
でて
し存的
往 な て た 。 々 は 8 社 は る あ の トゆ肚 述 い 宗 の べ ま現金大行る
行 と数行
づ美的
部 為 と 為 る の Ⅰ 6
内
・ 宕
0 ︵
曲
コ
%
すが
日
︶が与一口
るであろうし、
多
るであろう。
又
その
と
呼んでもよいであ
れたり、欲求不満を
情
なるものも立体的に考
ゆ
て
行きたいⅠこの両者はⅡ
示教 の 基 さ て ( ( ハ 9 8 7 6 5 4 3 ヘ へ へ へ ) Ⅰ Ⅰ ) ) ) ) 不払裸 も 亦 Ⅱ 原 応 の 方 法 で と す る な ら 美一 十叩まこ q へ ; Ⅰ 一 平 衡 の 破 綻 せ る 状 況 を卜援人
ああ 其 むっ ト .Ⅰ むヰ ト Ⅰ の 基 礎 Ⅴ @ ヒ ウ 考 ,え なげ れ 十七丈二 な ら な い
察に 種々の便宜を与
れないのである。
に、 何が平衡を阻
える。
る 物がある状況の
を ︵一︶自然環境が
い う範
時の中に含ま
は 8) Ⅰ 8造
構
墓木
の
宗教
物である場合が案外 多く、金石崇拝には人工物があるからである。
自然崇拝の最も明
者や神の住処として
的なものは何れも間 接 的で地盤として強烈ではない。
の 生殖力の不足の
る 。然しこの種のも
の ナバロイ族の如 き ︵Ⅰ ト ︶
神 病、一般の病気 及
スキーの指摘したよ
% よ ん @V ︶ 0
成年、結婚、死は
女 のある一定の年金
に 取って危険と不安
ての生活への転機で
オ 三 % のは死の状態
る 宗教的地盤である。
しての死が作る地盤 19@ 09)
的
社会的沈澱
物
が存
如き第一次生業は
げについて見ても
耕
程の儀礼、祈雨、止
いかに多彩な地盤が存在するかが推察される。
文明社会に多
い 第二
。
又
家屋、舟艇、
橋
6 者の死、祖先、
偉
字
みつつ、集団的に
り
知るべからざる
福
めることになる。
更
伝統に支持せられて
時には社会が分裂し
複雑である。
を見つめる時に現
的な孤独でなく・独坐
なしとして虚無に陥
㏄ ) 勿宗教の墓木構造
な地楡を以て之を表 る 。
て 宗教的地盤とな
化を催し、個人の生
察すると、自然的地 学の発達は宗教を滅
ぬ 盤が宗教以外の文
宗教的地盤たる意義 を 喪失していたとも言える。
盤 であると性格 づ
関与しているからで
ならない。自覚的
る 伝染病を除 き、有
も 個人的な関係から
、異族、祖先、戦争
る 。それは個人の表
こそ普遍的であり ぅ るのである。
り 、追及されたり 2I C2 ⅠⅠ
い
の 多様と んとする
宗教に至
が 絶対に 遠点を持っのである。
せしめ
改造が試 は 重心が移動するのである。 0 対応は人 対応の多様 企ては含ま るまでのす 必要である ない。然る みられる。 上 す を 乏 し る 均 で て 釜 7 , 、 、 ? T と 衡 ・あ い
安産、生長
を損ぅ もので
せられると 見
る 。けれども
のト ー㏄ 田 ・
・ のめ い
之 ee ︶︶が 宙 日 ・の︶
告汀 りの,︶ お亜
( 幽 ) 22 地 ら は め ゆめ め 年
印
@ ・ ド 盤 れ な 延 戸毬がるい令
士。
,ヒ、
。 、
却 然 否 長る 化 ろ 繁
栄
時に危機
には、
宗理的富
裕
教地盤
は 想 道、
力及が幸
、 下 元 時 均 明 と 衝 等
23 C23)
思 う 。現今周知の の 如きは宗教の唯一
学的表現ではない。
裁の下に於てのみ用 する。聖なるものに ハ 2 ︶
い 。接近の為にはぎ 狭溢 な宗教観から 宗 け れも ど 此の概念を 全生活への拡大とい 色 と見んとする見解 ぅる のほ対外的対応をなす宗教にだけである。
物 観に よ るもので 不可知として放置す 神霊である。人格 観 などそれぞれ、 範時 れは心意の弾力性が予想 い 。 べ不 ディ 方ア ト︵ オ 仁ヰ ゴ があって、下級のそれに 人 が神霊に対して取る行
ひ 、かっ他界信仰が
8 分布上の位相を異にして出現 と o ダ pq 日 ︵呪物︶ することができると が 、死者の霊魂など 的なものとの二種が
性
、非人格性が問題と
されねならぬばと思われる。︵
7 ︶
おぎ 度い 。マナ観念 など流動的な生命 、本来人格観に立脚 であり、転位であ ない。宗教を超自然 を 拡大したが、然し で 生長し生活する人 されている。︵ 5 ︶ 然し対外的対応は人格観に ょ るのみではない。 の ロ早。 岸 、シウ族の、
其の儀礼の中にも
れ
宗教の墓木構造 し
象 よ る か こ 形
でな
定 て を も一苦
糞 発 こ 心 て を 私 て へ し6
行は
聖 の め 倒 さ る か と い竜王
訓 ・,の こ 宗 ぅ 当 な 解 て 教 完 然 る 体 い吏 人 る を 橋 一 価 を ヴ ・ る シ
方所断
ゲ る始 打 と な 押 収
25 C2 冊
個 得 る 特 に 類 題 で も あ
9 人 差 に た わ あ 宗 的 的 教 の 的 圭 キ と 教 に 人
Ⅴ㌻ 甲
的
あ っ
点横動
れ 宗 起 て 。教捉
お定容
象 ま 作 理 え い す は を ム 用 そ学も
をれ紫。
てる矢丈
々 て は 肯 の場立 の 集 り あ の は り つ せ 人 飛 は 教 令 な 修
ら間躍利
ににい
菜箸 件 で るれ横
が 祖 播 ふ た 罪 ょ 生 て 極 そ が と あ 論 は の あ 教 を れ想 超 を な も 内 分 も ぬ 士 て ぅ 約 百 濃 香 ぎ W@ 26
宗教の基本構造
一の行事を行 うこ ハ 9 ︶
的 地盤に関係するこ
内的対応の夫々にお
とはなく、個人と対
ければならない。 そ
全的宗教に対する 私
応 をなす宗教を中心
教は元来社会的事実
個人的宗教は全く社
代 によって強弱があ
そこでは個人の精神
本主義の精神におけ る 行動の機構の解明が一つの参考となるり︵Ⅰ︶
現実の宗教には 多
反省的地盤は対内的
め 示教 づ 0 戸 キ 0 目的 ざコ
その両者共が超合理 いるのである。
卸 ののロゴ小口 0 ヨ 0 局 0 の 27 ぐ打 )
合
が示される。古
い
持つた生活共同体に
あり、それに
塞
いて
体
毎に
昇
っているの
文化との連関に
於
るし、
こム
でも
説
S 尾田 乎 がやの目あ零お お
のあ
三師 0 Ⅰ 亀 0 幅ヰ ︶ ぢお ・ ピ 。中巳 3% ヨ, 馬のの・︶ ︵ 4 しの・ 舵ヨ 2% ぃ 豆の勾出尻 wo は ,ド簿 ㏄
娃 uH. m Ⅰハタ申のロヲ︶の 日 ∼の︶ 山ぬ nOb : H のの㏄ ︵ 6 ︶ トバざ幅ぃ Ⅰせ 6 の 6 つの︵ 臣 注目凹・ あ ゆめの ど
︶の ハ 7A 才,Ⅱ WH の , Ⅱト一 N. ミ ・︶・の OOqm ぃ 方舟 ソ ︶Ⅰ 彊 Ob 一目 ソ Ob Ⅰ m 庄一の ㌧ ユ ヨ田 ヰ g.H 繍 H.
・ ド ゆめ り ・ めト ド 一 ひの 由 c
七四。
| 九四。
mDnm. H きが 蓮 セ
宗教の墓木構造 興 あ る い こ 間 ち 等 の れ あ の ぃ が 文 ソ 戦 宗 る 。 と に そ 相 の は 未 た つ 、 上 妻 化
申 現
化戦
く 代 界 態 の と 側 は の の し会合
6 法九 メ 一 @ 的
な 宗 旨
思い
見 と こ 研 者 Ⅱ の / 著 ッ述 テ 新 で あ な 3 世 朋 之 も さ が も な と 刃 ( 卸
, c す め N. の 円 0
崔 @ オ e ∼∼ 住 0 目のの 0 凶 0 ロ o 哲 P 由の Q. ロの毛
Ⅱ・ い Ⅱ へ 4 ︶ 之ヴ圧曲臣唾ノの 目 ︵ @ の Ⅰ・ c ロダ目 へ 5 ︶ ぺ Ⅰ 目斡 e Ⅱ ぃ 0 ㌧・ ゑ ︵・は 0 ヰ
子 とし発表にあたり
る 。 いる。御批判と御教正を仰ぐばかりである。
身 最もよく承知して
化の中にある 姿ま
ある。
の 相違を宗教学者の
たい。つまり後二者 響の仕方、社会的保 ︵ 5n ︶
意味している。イン
集団の類型、リーダ (30) 釦
拝披
係 宗 と 続 わ の 我 一 な れ 研 と 九 助 て 究 社 五 長 い な 会 0 し る な と 年合 間 と 会 ワ 単 葉 し 学 ッ は 団 て 約 ハ 社 の 取 閑 は
旧約に現れた ヱルとヱルョ ( ソ について
題を提供する。
繰 返されているが、之は現行邦語訳里
たと云 う 事実である。
たということ。すなわちメルキ ゼデク は である。
第一節
エ ル・ ヱ ルコーンに 資料的検討から始めたけれ ば ならない
日日︵ 帥 nN 月日トノ 9
ガ
ゑョ臼 互によって日 の 口寸 qN 屈 日下ロ 3% ド 0%p ヨ 0%C は此の
幅ヤ 0 片 巾の伊の曲 串 0 曲 コ由 付すの ロロヴロ の。Ⅱ ゆゆ m.
のように P に属するとは言 い 得ない、 と説
Ⅰ 臣侍 Ⅰ口ロ 仁 0 曲 0 目鯨 0 圧すの 援つ巾ガの 0 円圧 二の 0 ロ隼
であろう。此の箇処は
P 資料に属すると断定され 箇処が 捕囚 以前に属する 作 は J 資料や E 資料に属す 明して特殊資料であること 日 幼宮 日 0 ミ 、 お ㌍に於て 嘗 めように・﹁いと高 き神 ﹂ 王 であり祭司であったこと|ン
について
山崎
台下
31 (3 Ⅰ )と を 実 証 す る
例 と
良 の
い容ョ
ら詞
lェい女
は ゥ ) れ て い る
が , 七 に 凹
こ用
一 ぎ 此 の 場 合な ど は 不 が ,
ノン と 同 じ
意味 で 用 い ら れ
﹁願わくは天地の主なるいと 高 右の句の中の﹁天地の主なるいと高 き 批評的立場から見るときに、次の一ち ︵ A ︶﹁天地の主﹂なる句のうちの 於ては﹁創造者﹂と訳されている。 併 しい。 ェテオ ピ サ 語に於ても戸ロ ヒ は 此の由 ひコか甘 ︵ 土 ︶は。ハール と 同様 由 pn ヰ pq 由 円す ゆ 0 ロ Om ざ 出オ 目 市毛、 せ黛 ぎ 神が 、ァ ブラムを祝福されるよさに。﹂ 毛虫 叩盛 となっている。原文 の点が問題と成る。 タ 、シリヤ語訳 ペシツタ 等に ある故にっ 主 ﹂と訳するのが 正 る 。 来 る︵︶の 日
招客
0 二 %0 日のⅡ セ ・ はア シェラットがロロ三︶色ヨ するものである、と説明している。彼はアブラムを祝福して言った。
S の特長を有って い ② 目辞 ・ 目宙 。 隼 戸毎 ぎ臣
古銭
高 ︶と称えられ、内官㏄ 軋 8 の 父 となった。 靱
る
。此ののの
目
0
ぽ口
コせ舶侍ゴ
0
コ
て鎗 ) ね た 0 コの 権威によって㍉である。
神 であった 、と 云 う こと ョ一ソ について 明
が単
ヵ| ま 三五 ナ 創 独 ソ 世 に 地 記 用 万 一 い に 田 ら れ 古 一 て よ 八 い り l る 信 二 の 何 匹 は さ か 民 れ ら 数 て の 記 い 影 二 た 響 四 神 を ・の受
名げ木
一 で たあ る 中 つ の 三 た
解
と 二 比 さ 八 の れ 詩名と
ー 刑 が、
セ ( 事 る 一 の 明が は セ 。 八に で か イ 四 で あ る のの 下 Ⅰ
文 献 Ⅴ ア し よ つ
て
いられたのは、旧約 らない。
五である。
旭光、黎明の子 よ 。 あなたは切られて地に倒れた、 諸国と共に 滅 びる。 あなたはさきに、心のうちに言った 、 円 二八にまで、わたしはの ぱ けり、 神の星の上に 一二、何さして天から落ちたか、 船 ェ
片 との 0 ゴリ の由のⅠ 卜卜トよ
レムの祭場のため
刑 千六百年頃のものであろう。
シャムラ第二部に
格を有する。
ている。 コーンの変形であろうと思われる。
れ 称 ばれる。
ツ ハ 六 % ロロ ガ目
づ 0 Ⅱ 隼 0 埜 Ⅱ 臥り曲の。 ゴ 0 目 0 のの 0 Ⅰ テ 。 オの Ⅱ︵ 肚め,の @ ドゆ の の 。㏄
、文尺寸 0 口 0 のと の。 臣 ︶ @0- 卜卜 Ⅱ の @ ロ ぃ ㏄ ぃ 0 由 めか - い m 目 ・ 0 Ⅰ 一 no 一 34 コ 34
旧約に 現れた ヱルとヱ ルコーン は ついて
の神が集まる、と信仰していた。
二つの淵の高潮の真平にて
35 てあ ) わたしの王座を置こ う 。 ︵ 幹ま ︶ 集会の山にわたしは 坐 わろ う 。 北の果にて。 一四、高 き 雲の上にまでのぼり、 わたしは エ ル ョ ー ソ のようになろ う b と。斜日ど 日毛の ︶ 倒 Ⅱの 8 宗教史的に考察する 地 こそが、ヤハウェ
彼
︵ハダト︶はヱルの場所に突入する
︵Ⅲ
C
三行日︶
る
︵の・
力
・ し
出づ
円、の忙申
のの
田汀
目せ
侍 すの
ゅ臣
Ⅰ
﹁
0 ㏄の口ロ
の ・い
の 白の
,セ
杓 のヰ︶。
に
依っても知り得
ィの
︶はこう言われ
る、
あなたは心に高ぶって言
う、
座
にすわって
、
海の中にいる
L
と。
Ⅰ 、っ
﹂
のコ弓オ
m n
口コ
0%0q
目 ︵
フ
文献の語が示してい
記
一四・一九の句、﹁天地の主なる
エ
ル・
エ
ル
コーン﹂の原意が
(% 台Ⅰ 36旧約に現れた エ ル とエ ル ョ一ソ について @ 記 さ ゑ し ム た 「 り ん か た の の と サ 、 「 第 ェ だ 最 か も 高 サ の 神 レ と と " 甘 貫 文 「 レ
る
ノン 味 に エ ム 契 で は か の 機 エ サ 王 x を ノン 与 え で テ g る 場 の ム 日 指 デ x 所 持 と つ な て つ い を 戴 か 沫 ・ Ⅰ ナ ・ 目 煮 さ サ x の 味 れ レ やま 「 天 学 な 地 の 0 献 ) を 見 目 ァ ァ る 主 偶 」 古 ア ル 然 な で る明し
Ⅰれる二つに
o 力於よ、
ま 宜 え方 ょ片
。 、
ノ タレ ノ タレ代ッ
Ⅰ
ま 性 な 格 ゴ つ ヤ " ⅠⅩ を ろ ソ 録 牢 ム い ェ あ て 語 ァ ヤ 5 口 を ) ェ 。 ル か モ 道 か かウ 神 白 文 の 属 吟 。 ( 歴 性 と 味 列 代 つ 」 な
てを
串 し する王志
乎意
桶 とき /¥-. 唯
のし日
神 " Ⅴ p し ン 一 ) 決 ) が神 の ェ と
と
教 定 へ す 断 案 の る 定 際 で レ れ と す に 道ャン 甲 共 る 之 三 上 レ っ は お 進 37@ C37)
の 如くに、訳すこ とができる。 了一そこでソロモ ソ は言った ﹁主は太陽を天におかれた。 濃 き 雲の中に住む者は言われた。 一二わたしのために、高 き 家を建てよ、 わたしは其処に永遠に住むであろう。﹂
の吾 的ののわ ぽ ゑ持口 9
がおこうたことを 明 ソロモ ソ の神殿建立 が 日蝕と関係があった事を知るのである。 する必要があるで あろう。 矩形であること、
聖房 、 n 三口 聖所 ︶ は ュ ルサレム神殿と類似している。
る ︵此の神殿は紀 か きゴ pm 絃 o 彊ゑ、 H づ、 口片 ︶のⅡ︵︶ @ の ロ の コひ 。 H 、 O 口 u ︵ つ q 田 、 H の 旬ぺ ・ づ ・ り か 片 ︶ (38) ㏄
旧約に現れたエル とエ ル ョ一ソ について 事 と ヱ / Ⅹ O ( 「 レ し な の 神 し ボ ェ
の 。 社 は ( ル
"
で
を神暦神
偉臣 サ あ ン ニ ッ リ里美
先 麗 ず宮門
へ の 由 」 臣 る。
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、
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一か
ら に デ づ 結 のイ ブ ".
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と れ 建。 る し エ 此 。 た サ の さ 神 ギ 事 て 殿 ノン に 此 を
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湯山つと
ム が ト曲ぺ で 2 タ サ 神 基 の 調 ェ な の か 社 ,ジ 長根(
でタ く ガ 女 あ " ョ る
岸 Ⅱ ソ セ に
モ ス 至 ヱ め ハ カ
笘 ) ヰ サ に ( ト
く
弛 し て て 八 のけ ギ ェ 文 ウ 39 C39)く 40 Ⅰ 40
に 延長するなら ぱ、 オ リブ山の頂に達するのである。 を 向けて、東に面 ゥェ ︶に 向 げられて
ブ 山ょ り 昇る太陽を崇拝したのであろう。
レムは べ ニ ャミソ
前であって、原始に L こしイし、毛ノ片 ノル 物襄叩 に 附加されている。
ていた︵ コ シュア
つた言
シュア 記一八・一二に援
ひ 家 ﹂と解読することが出来る。 った 太陽崇拝の中た 事実は 、エ ルサレ
笘 カ O 一八に立ち席える
たことには、前述の
を 見ても、相当に後
旧約に現れた エ ル ト ロコ Ⅰ ク " 禽 ] 燵 ン 「 世 " ゲ
願記
叫 かして
以下の主 しげ な が円更
る 特 写 にヱ を 耳 前
の ,え
人 後 る ム に を 情 と
仰の
祝福 が,
る さ る よ れ う た に ァ の
目
。
セ目 ) 目 O が , 吋の ノン ㌧ の キ ゼ 巴ヨ デ S の田 か 山山ハ い ら 画 ぎっっ
解釈するとき
即位を讃美しつっ、
神のい
方向を与え、少くともっていたことを表現する。 、 て 、ゼデク は正義を
よりも、一人称単数
あろう。 アドニ ゼデク ﹂ の 名称である。 れる。 ゼデグ は へ フル語に於て、﹁正義﹂ p 意味である。 は 王がその社会の との比較に於て王は
のみである。 41@ C 41 丁
ドスベルガ︶に ょつ
ハウェの変形 忘日 ︶
Ⅰ う い * ︶ n 。 甲 山片の *@ ハソ ︵ む ﹁ハ ツ h
宙臣 ぜの 鯨 き日 0 コ曲 0 Ⅱ
かか︶ 0
される
ェドム の地から進まれたとき、 地は震い、天はしたたり、 雲は水をしたたらせた。 す ヤ る
ェ 地 の の 名 主
」な
前がる属
二千午性
。
一 Ⅱのネヰ
カ目
ヤロ ウ 二 工 ヤ @, こ 0 対 碑 し 立 て に も 、 亦 粘 用 土 い 版 ら に れ 現 る れ に て 至 い つ た た 、 過 と 程 の さ "" ア 。 """ ァ Ⅰ て
チ と ュ 考 の え られる説は ぺ へ ノン V ァ ヒ
・エルコーンに 対 れる。 来
事として注目さ
の ウルから月神崇拝に関係の深い場所である。 斯る 背景を有 っアブ明 確 ア に ブ
る と 事 ア は プ 困 う
て ん あ な 6 月Ⅱ 。 個 ア の
ブ伝
ラ 説的
ム 人 の 物 物 と 話 す が る 述 ぺ べ Ⅰ る ト 移 ン 住 の の 如 過 ぎ 程 学 l 者も
ラ 存ソ在
、
し 北 た部が
メ、
ほ約
ソポ タ ひこャ す め る シ 限 ェ り ケ に
ム於
" て へ 未 ブ だ く 42 Ⅰ と の 祝 福 を 受 け て Ⅰ ヰ る と 云 う と で あ る 。 42
旧約に現れた ヱル す 右 る の
そ
詰牢
磐 N@ @ のウ
川 Ⅱ 亜ダェ
) 手 化ア し る火 が ,
汀ら
あと か な っ っ て て の ぃ ぽ る ら
じれ(
L
申 の 命記
手口「d-
Ⅱ リ ハ 一 @ ぼ 三 られ二
・ 」 ) は 旭 日 が , 山 Ⅴ デ ヒ 円目汁 る 亡ア " と を思味
43 ( 俺 ) とエ ル ョ ランの山から光を放たれ、 ちょろずの聖者の中からこられた。 つ 主は シナイからこられ、 セィか からわれわれにむかってのぼられ、 、 て Q,,, ︶。 P 。ⅡⅡ イ人 Ⅱ ト 0,,- い Qw ト 仝合肥 心 ︶ ること。即ち﹁ 地 たと誌されている。文献と思われる
如く誌されている。 動 き、の 前に揺り動いた
方 に進まれる、との
か ︶北に進むと誌さ
とったもの、即ち 此
た ヤハウェが 、後 エルサレムに於て の 一段階として重要 な 文献であると考える。 [4% Ⅰ 何
信楽の立 擾 0 目 え ( は よ も た こ
親性
6枚み
きばつ
ら 浄る か こ に 下 ほ ビ お 即 に 「 と の 乗 捨 せ 信 こ ち 親 信 ぃ
「托
の を 心 る 「 鸞味 を
はしのててすす
"と摂
" 信とな
誓が
願 "、 現 ぃ 取 無 ず し は 小 寒
与党 はべ
(擬議 哲以 こ 心 如 陀
弥陀
り あ 丁 と が く の 陀 の と る の を 存 、 本 に 本 信 この す こ
陀ず
け は 企 る と 仏,べ ら 、 金 一る 或 ら 同 本
ひ善ふ
ぅ と は か し 願 ら 悪 さ 余こ 独 五 力 と " え ひ と 45 て巧 )
|
﹁教行信証﹂の哲学的考察
石田慶和
一 一 へ 5 ︶
ついてである。 即
いることを我々は 知
如何なる位置にあるものとして把握するかは、 必ずしも容易な問題
異にする故に 、 ﹄ っ
﹂たる所以は 、 殊に
る 自覚に於てあるの
罪悪深重・煩悩 識盛
﹂と称されるのであ
る 人々であると云わ
の 自覚に於て、 又阿
ある、即ち先述の
表現から、﹁如来の
が 一体﹂というより
なる。従ってそこに
揚 が開かれていると
えながら、実はその ( ㏄Ⅰ 46
順 ということが云わ
が 絶対に他なるもの
、絶対に体なるものが 自
ころを指すものに体なら の
も 言詮に於て己を顕わに
来かムる 根源的な宗教的 ハ 7 り
すると見えながら、
対 者との懸隔が懸隔
ける宗教的 生 の 根抵
ることを表わしてい
現象ではなく、浄土
からも窺い知り得る
ればならぬ。従って
ち 親鸞に於て﹁加来
己との断絶に於ける
に 思われる。﹁信楽
いうことではあるが・ ハ 0 し ハ 9 り 立場を 、そ という名号 47@ <47)
根源的には同じ意義 ず、 定にあらず。散にあらず、 正 観にあらず。
常にあらず、臨終に ︵Ⅱ︶
られることからも 窺
、 い、これを金剛の真
貝賎櫛素 をえも はず ・ あらず、漸にあら といへ ども、淫楽 の ども、そのこ ュろこ 従って、至心・信楽・ 欲 生の三相に於て明らかにする三心の解明は 、
三心の釈文をめぐる
を 開示し、その宗教 て 考察される。 一 一 " " 一
﹂であることは、
の 境地へ、最も純粋 悠 な 仕方で突入した人々に外ならぬのである。
、 次にか ムる 問題
柴 しの概念をめぐり
信楽の立場
で 先ず﹁信楽
釈 ﹂
を
引用し考察を進めよう。
雑 あることなし。
よりこのかた、一切
愛 の
も つねによく
善
べて
雑毒
雑修の善
と
光明上に生ぜんと
欲
て 無上の功徳、値
をもて諸有海に廻旋
﹂は
、 何れも真実情
﹁獲得す﹂・﹁
廻 施し
真実信楽、即ち信心
発 性を如何なる意味
.49 (49)
(505 50
考る得見顛へ
常 と目利じり
思 き、に る
真な
成虫
ょ べ て の の穂す
重 が 深と 於 と 実 ら 力 " り ぎ " 所 真 な ろ
宗仰
に こ る 抄すは 晦方
あ し が に 至 ら た 示の を
二極
。 が 開、 な た 刹 。 べ 継 生 み のゆ と ず 経
親過
の を鸞
着 れ で そ と 教 る 神 埋 む て い 獲 も 心 ゆ に こ 眼 、 行 へ 可
﹁深心
釈
﹂とは、﹁二には深心
む
深心といふは
、
は
決定してふか
しとなしと
信ず
。二に
生を摂受して
う
たがひなくおもんばかりなく、
かの願力に乗じてさ
︵ 薦
︶
至誠心
釈
﹂﹁回向
発
往生す。何等をか
三
に
於ける三心を釈す
面的に深く結びつけ
即ち第十八願の立場
宗教的精神の様相を
の
重要な位置は直ち
彰
隠密議として﹁
信
としたとしたところ
場を開示した最も特
。
円 愚禿
妙ヒに
﹁ 今
﹁また間
ふ
、大経の三心
か
知ることを得るとなら
略
︶またいは
く
、深心
す
5 Ⅰ C5 Ⅰ @しれ すは はち金剛の真
説 したま ふ 。報土真因 となし。かるがゆへに とあることから見ても 意味を尋ねる時、それ
深心とは自己を罪悪
得ると信ずる法の深信
ならぬとされるのか。 通して信楽の意義を解明しょう。
定 じてふかく自身は と信ず ﹂との言句から
に沈迷 する外なぎもの 者として 押 え、而も同
に 於ける極めて深刻な ならばそこに一つの 問
の 凡夫として 把 えんと 自己を、罪悪生死なる
に 対する峻烈な反省と
て見る或は意識すると ものと観ずるという性格に於て考えられ得る 、 信 とのたまへるなり。観経には深心とと け り。 (5% Ⅰ 52
信楽の立場
望 ということも極め
のとなり得るのであ
信は 、同様に外に 措 自己が自己をという
いものとして並列さ
、親鸞に於ては、 古
ぃ 。 一 深心が開かれ
のなのである 0 この
いうことが、実はそ
見られる自己の成立
﹂とそのことが、法の
6 機の深信は、本来
的 自覚が、深心に 於 て 現前することを意味するのである。
衆生を摂受して ぅ
、それ自身として
信を述べるものであ
題 生ずる。即ちそこ
、その限りに於て 法 田 ( 腱 )
に官已
ょり
超在する
。而もこ
ム
では却って
、この
法執
という一一
に
於ける自己を罪悪
い
う 様相
に
於ては
同
の
意味は見出され
得
の
根源的自覚に於て
る、
法が主体として
於て二にしても而も
るものではない。
機
法の深信に関して
云
の根抵を臆
し出すこ
と
一つに生きられる
現前することなのである。
( 挺 ) 又があることを見出すので
心と法の深信の矛盾をめ ば
走 すべくもない。しかし 楠 場 四
衆生の身口意義の
賢妻精進の相を現 す
喝 におなじ。三業を 公祐 ノ
﹂と読み、 又 ﹁廻向
心 のうちに廻向した
見 異学別行人等の
いが、 かよ る解釈が ち 深心は、上述の
の 意味よりして単に
、又 その機の深信の
た 立場を開くもので するものではなく、
、そこに始めてかの 目な解釈の成立する所以が見出される。
心法 信て 几に
ぅし内て於そ
し根
て拠を味方。
正意
にる云
わののが
大松ちて容のけれ
い と生の
盾 従 は 立 深 、 身 と て に 観 が 自 る ら る し ず も が つ 長 湯信自
同 党 表 な じ 元 巳機の
自 て る の 成 て 心 と と 芭 蕉 る現す
ら わ を の 矛、
ち場
をん 尚
と 容 の
於を
さ そ りそ清荻
ざべ
かでの
そ( ㏄ ) ㏄
信楽の立場
立し得る。
の 法に係る態度 ど
ものとなり、﹁廻向
凡聖の身口意業に修
の心のうち 肛 廻向 し ︵ 鶉 ︶
ら ずすべからく決定
の 善根を往生の為に
あればこそ、今こ ム
である。そこに矛盾
心に 於て現前するこ
、そのことによって
発願 心は 、現在に 於
が 自己に於て自己と
るものとなるのであ
い う 訓点が成立し 来 ると考えられる。
・廻向発願心と矛
ものとしてある時、
鸞に 於ける如く 、至 57 (57)
のへ超 入するという 前 するという面を云 源 的に超えたところで、信楽とい ( 兜 ) 卸
れ 破 も ・ の 切 削 を
しわ
生 三 始 る な 発と 己 い む と す 取 い と そ し 意 真 も 理 深 五 に 。 信 こ
あ の 司 式 が る と い 圭 一 ぅ て 的 さ ら 覚
芝
るで・
獲 あのま面とく自にこ
信こ
な う か を る を開独
ナ, Ⅰ 、 も ヌ すれ よ杓艶 も の女 口
信楽の立場
出すことができる。
﹁宗教哲学、序論﹂参照。そこでは宗教に於ける根木 的な態度として、 信
て 現れ﹂
なり﹂、 又
なる傾向
る 意味で の ﹁信仰Ⅰの立場に立っと一応考えることができる。 ︵ 2 ︶歎異抄第一節 ︵ 3 ︶岡君第二節 ︵ 4 ︶正像末和讃
浄土門全般に
の 在り方
0 人々が 、
﹂の 教 、即
妖人﹂とし
れる、親鸞
め 得ないことは云 う 迄もない。
なる﹂等、同 様な表現が少くない。
必至滅度﹂と 云
世に於て証に達するという立場に立っことはでぎぬ。 信一念のと
㏄
る 。
︵ 幻 ︶同右方便化身上巻三三三頁以下参照。 ︵ オ ︶真宗聖教全音 五 ﹁親鸞聖人糞し二︶ 二 二九頁 ︵ 2 ︶ 同 石工一五頁 ︵ 為 ︶教行信証方便化身上巻三四六頁
るかに関して
の 立場に関連して、別な機会に解明を果したい。 ︵ わ ︶教行信証悟番一三五頁 ︵ あ ︶岡君債券一四 0 頁
るので、通常の 訓読に従 う 。
)
)Ⅰ8
へ
ヘ8
( ) け (㎎ し レ ー へ5
H ) ( ) (00
(は) (Ⅱ) ( m ) レ へ 9ム 空 中ま
こ 極 大 と 促 よ
0 店 せ ( ㏄ ) ㏄
信楽の立場
執簗者
棚瀬襄礒
山崎
亨石田慶和
山形孝夫
諸同素
純竜谷大学教授
同志社大学教授京都大学助手
策北 大学大学院 大阪市立大学教授 ︵博士課程︶紹介
哲学しに於ても
︵ お
︶教行信証方便化身上巻三三九頁
卸の ト 始 り 時 も と 存 マ と め ス に・ な ブ つ す ン こ て ト 、 く か て も が る 司 教 人 ・ ト 極 こ ・ で 能 的 間 実 マ め と 神 K で 理 に に ン て ら
化ブ し
サ よ つ
み キ 同 で 戸 ⅠⅠ -
、ブルトマン神学に
に 論議せられて き
山形孝夫
解
程
R
ジ,
フ 。 ノ ル ア山チ
ンオ
の所
月 ン論
を中
心に
の
は町題
( ㏄ ) ㏄的 理解や基礎づ け 。むしろ、人間とは 。従って、神学的命
︵
几Ⅰ ノ
とは不可能である﹂という。 この点に、バルト 見出される。 暖昧 さに由来する ものであることを指摘し、そうした 暖昧 さが、 に 胚胎しているので あるという。︵ 7︶
人間についての 新 されている。 白菜 が 端的にそれを示して すること︵ ロ Ⅹ巨守 り由 0 コ ︶に い う のである。 理念 存 学 に対するバルトの理解 いのではないか。何故な 、自然的人間学をはるか ぎ 見解の相違のあること ㏄ ( ㏄ )
に
気づか
さ
るを得ない。バん
神学の主題であるという意味
れが、アントロポ
ツェソトリ
ばならないであろう。しかし
タウファーなどの批評するよ
が
、ハルナックやトレルチ
ら
序論的解釈の意図が、聖書の
ものとする点にではなく、
神
いような
間
i,
何故なら、
そ
し
、自然的人間をしてかかる
我々が、科学によって規定せ
,ムト
の
ま田
いの
|を
取り除く
与えられるにすぎないのであ
していたヤスパースが、かか
ル
リベラールであることに、
ブルトマン神学の人間学的で
かくして、ブルトマン神学が
え たところの、従って 、押 そのものが、 ま、ブルトマンの人間学こ対してま、そり やャ千
という名が、まことに 応 わしいといわれ ポ ツェントリッシ ュ であることが、シュ 理解されてはならない。ブルトマン神学 分つていることはⅡプルトマンの い 3 案 命題に手加減を加えることによって、信仰を 、 現代人の思惟様式に アクッエフ タブル な にとっては、 蹟ぎ q ぁ鯨 しまセ
でしかな の 放棄を要求するが故に|
1 を明らかに ら明瞭である非神話化と。 む︶Ⅰい
2 う も、今日 とによって惹起せられるもろもろの 墳き 解釈全体の上からは、単に序章的意義を る 。 義的 神学の萌芽を見出し得ることを期待 によってのみ 義 と認められるという パウ に、 余り仁もオーソドックスであり、 イ 的に相違していると い わねばならない。︵ I 4 ︶ 的であり得るのかについて問題を感じな ( 兜 ) M解釈学的 ジッア チオ ソと 実存理念の問題
う いロロ・︵ N の ざ の 0 サ Ⅱ 宙圧 片角Ⅰ リダ 00 ︶の酉の廿 目由内宇 O ㌣ m 、 Ⅱのりの︶
︶ 80, 一 ︶
0 口ロ 三 ︵ 2 曲ロ口 宙ド Ⅰ下色 由の ㏄ 幅巾卜 ︵ いつと ・ パ : 卍 8 ド︶
。のの口の臼 住 Ⅰ HS の
早年 せ 0%3@ オ 0 ヒ 丁
トゆ笘 0. への @ す岸サ 0 目 岸臣由 せのⅠの甘の ゴ の コ ・Ⅰ︵・の・ け ㏄ &. ︶
が、 神を、対象
注意する必要がある。
ト宙 0. ︵の︶の 岸サ 0 目眉目 由づ 0 仮侍の ㌣の ロ ・ 目 ・ ロ の 曲 N. の・めのの︶
述 せられ得ると云 う
卍 ︶に於て どあ
のは、かかる 点
り 得ると述べて いる。コま q. のの, H ㏄ べ ・︶㏄ ゅ ︶
す ︶ ゴ は い眉ヰ e Ⅰの神 0 ヲ 0 局・いの 切 ㏄ 樗
学 に対して、バルト
という点に 於
云わねばならない。
億 0 コ, ・という用語は
める "
という㏄
いわげにはいかないであろう。
( ㏄ ) ㏄
・ ト 白日︶ で、ブルトマ ソ は 、 ている。フォイ 0 号 、第 セ巻 二号、︶が、これを統一的に論じている。 せず、却って、それ 注意しなければ ならない。
ゴの 0 ざ柏 げり︵ 木 0 Ⅱ * め日笘 目口Ⅰ ま苦ゴ 0 の・ HH ︶㏄・ ト ㏄ 由 。 指 ・ ど臣目 ・ あぼ、セ ・ めお ・ 一 一
る 。少くともこの
い う 言葉の意味は 、
ルト神学が、実存的
の
論争の主要部分
、このことを通じ その背後に有して ぃ
、実存についての 前
の 各々の見解を応酬
問俺
め
念
実存
理
と
ソ
オ
チ
捧
。
ヴ
描 " 。
かる前科学的理念が。ハルト神学の をさげるからに他ならない。 神学の人間学的基礎 つ げに反対 惟を遮断せる神学的思惟に依拠 す が 存するであろう。 P. ティ リッ た 時に於てすら、時代のノミ チ リ ︵ 甘 Ⅰ︶ たのとそれは同様である。この ょ プルトマンの主張するように、 神 ことに、神学的作業の主要技部分 始終に対して、 殆 んど支配的とも し、 逆に、神学的に人間学を墓 礎 るものであろうとも、そこには、 ヒも 指摘するように、ルッ タ一が、 ス ムス 的 知識やメランヒトンの フ うに、神学が、シティエ 一シ,ン 学が 暗々裡に、依存し、内包して が 注がれねばならないことは、 誠 つけよう 不断に、 純粋に、 マニスム の 影歪 を いるとこ に当然の とするパルトの立場が、いかに実存的 思 歴史的状況との運命的ともい う べき連帯 聖書における神の言に聴従しょうと試み スの影 筈から身を守ることが出来なかつ 免れることが出来ないものである以上、 ろの前神学的理解を明解に分析してゆく ︵ⅠⅠ ノ ことである。従って、ブルトマンが 、聖 眼 するの は、ュ別 なるも 作 にっ 神学は 出来る ないと ブルカカ
とするして、我々
かる前提的
理念の学的 操
て 、あらゆる
提的 理念を 、
られねばなら ︵ⅠⅠ︶ 0 間 題 がそれである。
ることを問題
みならず、 か 6 ク ( 研 )
が " と " も る 我 る " 賭 あ し い る 解 の