奈良教育大学学術リポジトリNEAR
小学四年「大和川」の教材化
著者 長田 光男
雑誌名 高円史学
巻 2
ページ 42‑67
発行年 1986‑10‑01
その他のタイトル History of the Yamato River(大和川) as
Teaching Materials for Fourth Graders
URL http://hdl.handle.net/10105/8639
小 学 四 年 ﹁ 大 和 川 ﹂ の 教 材 化
一
︑ 教 材 に つ い て
長 田 光
1︑﹁地域﹂学習の視点
小学校中学年では︑とくに地域を教材化して教えることが多い︒その場合︑地域を次のようにとらえることにする︒
① 地域には︑人々を育んできた土壌︵自然環境・社会環境︶がある︒
︒自然︵地形・気候など︶がある︒
︒ そこに生活する人々がおり︑自分達の生活がある︒
︒人々がつくり出す社会環境がある︒
︒ 多くの矛盾や問題点がひそんでいる︒
② 地域には︑生産労働と︑それを担う人々がいる︒
︒地域を生かし︑あるいはそれに挑みながら︑生産し生活を営む人々がいる︒
︒自然や社会に挑み︑それを発展させてきた人々がいる︒それは︑現在も今後もその営みを続けながら社会を進歩発展
させていく人々である︒この人々の働きの過程こそが地域の姿である︒
③ 地域には歴史がある︒
︒地域は固定したものではなく︑いつも動いている︒人々の働きかけによって地域は変えられてきたし︑これからも絶
えず変わっていく︒
︒それらの過程の積み上げと今日の断面が地域の歴史である︒人々は︑地域において︑歴史をふまえながらこれからの
社会を展開する課題をもつ︒
さて︑この構えに立って四年の地域学習を進めてきたが︑三学期になって︑これまでの学習を総合し︑さらに歴史的に地
域を見る力をつける意味で︑﹁大和川﹂の教材を設定した︒これまで奈良県の各地について教材化して教えてきたが︑奈良
盆地の水を集めて大阪平野に流れ出る大和川が︑昔から地域の人々とその生活とにどのような影響を及ぼしてきたのか︑そ
の川の変遷が地域をどのように変えていったのか︑人々はその川にどのように働きかけて生活を高めようとしたのかなどを
教えて︑地域への認識を太らせたいと考えた︒
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2︑大和川付けかえの歴史
用 付けかえまでの経過
大和川は︑その源を大和︵奈良県︶に発する︒桜井市初潮に水源をもつ初瀬川︵大和川本流︶は︑奈良盆地に出て佐保川
を合わせて大和川になる︒さらに寺川・飛鳥川・曽我川・富雄川・竜田川などを合わせて生駒・金剛の両山地の境を抜け︑
亀の瀬を経て大阪府柏原市に入る︒ここで石川を合わせて八尾・藤井寺の両市の境から大阪市に入り︑松原市を経て大阪・
堺の両市の境を抜け大阪湾に注ぐ︒
しかし︑この大和川は宝永元年︵一七〇四︶までは︑石川の合流点から北西に流れ︑現在の八尾市に入り久宝寺川︵長瀬
川︶と玉串川︵玉櫛川︶とに分かれていた︒久宝寺川は︑八尾市久宝寺と八尾の間を北へ︑東大阪市の大蓮・相田・横沼・
高井田を経て森河内に︑また玉串川は八尾市の都塚・刑部の東を北へ︑東大阪市英田で菱江川と吾田川に二分し︑吉田川は
ふ こ う の い け し ん が い け
さらに北へ︑東大阪市今米を経て深野池と新開地の二大池に入り︑
と再合流し︑大阪城の東で平野川を合わせて淀川に注いでいた︒
流域は低湿地が多く︑川は蛇行して︑大雨のたびに土砂が川床を
埋め︑至る所に砂州をつくり︑川床が高くなっていった︒水はけが
悪く︑古代から堤防決壊が続出し︑田畑を流し︑多くの人命も奪っ
た︒ 古代からいく度も付けかえ工事を計画したようだが︑成功してい
ない︒堤防の修理や汝藻をくり返すだけで︑抜本的な治水策はとら
れず︑荒らされるままであった︒
江戸時代だけをみても︑約六〇年間に十数回の大水害が起きてい
る︒そこで︑河内郡今米村︵現東大阪市︶の庄屋川中九兵衛は同郡
芝村の庄屋乙川三郎兵衛らと大和川の付けかえを考えた︒九兵衛ら
は大和と河内の両国を実地検分して川筋帝の図面を作り︑石川合 西に転じて菱江川と合流︑さらに森河内付近で久宝寺川
流点付近から付けかえ︑堺の近くの海へ落とす新水路を考え︑たびたび幕府に請願したが︑志は成らず︑九兵衛は明暦二年
︵一六五六︶に死んだ︒志はその子太兵衛・甚兵衛に引き継がれ︑付けかえの請願は積極的に続けられた︒
幕府は万治三年︵一六六〇︶︑大和川・石川と︑弓削村・柏原村領の堤防を検分し︑住吉手水橋まで測量して杭木を打っ
たが︑新川予定地となる志紀・丹南両郡の農民らの激しい反対にあい沙汰やみとなった︑幕府は寛文二年︵一六七一︶に
も柏原・船橋両村に杭打ちしたが︑これも新川筋の農民の反対によって中止となった︒幕府はその後も延宝二年〜四年︵一
六七四〜七六︶ の大水害には奉行を派通している︒
一方︑大水害を目前に見る新川筋の農民らの不安は大きく︑激しい反対運動を起こしている︒延宝四年︵ハ七六︶には︑
相原・船橋の両村をはじめ︑北条・大井・沼・太田・東木本・西木本・若林・長原・辰巳・瓜破・西川・別所・三宅・住道・
城蓮寺・矢田部・北枯木・南枯木・池上・芝・庭井・我孫子・杉本・山之内・遠里小野の村々と七道の二七か村が連署して
反対訴状を提出している︒
付けかえ派と反対派の幕府への請願がくり返される中で︑幕府は畿内の治水工事を検討し続け︑大和川付けきえに傾きか
けたが︑天和三年︵一六八三︶に河村瑞軒ら土木水利専門家に実地調査を命じた結果︑淀川河口の改修と堤防補強の線に包
まり︑付けかえでなく︑瑞軒は翌年に幕府の命を受けて安治川を開いた︒
ところが︑その翌年の貞享二年︵一六八五︶︑河内は大水害に襲われ︑各地で堤防が切れ︑深野池や新聞池が土砂に埋ま
り本田より高くなってしまった︒瑞軒の考えは︑川の付けかえによって後年に川床が高くなり舟運に不便をきたすというこ
とであり︑淀川改修工事だけに力を入れたので︑甚兵衛ら付けかえ派の考え方とは大きなずれがあったと言える︒
貞葦四年︵ハ八七︶に就任した上方代官万年長十郎は︑川の付けかえ派の主張に同情し︑それこそ唯一の治水対策であ
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る旨幕府に積極的に伝えた︒彼の支配地のほとんどが摂津島下・豊島・東成・西成・和泉大島の各郡で︑反対派の村々には
少しの支配地しかなく︑つながりが薄かったせいもあろう︒元禄一六年︵一七〇三︶︑幕府は柏原から住吉までの川違え予
定地を検分し︑その一〇月に川違えを決定した︒九兵衛が死んで四七年目である︒
翌年の宝永元年︵一七〇四︶二月一五日から着工した︒柏原・船橋両村の中間︑大和川と石川の合流点から西方堺海岸ま
で延長七九二〇間︵約一四キロ︶︑幅一〇〇間︵約一八〇メートル︶の新川造成である︒そして南岸沿いに悪水井路も造る
のである︒川辺村︵現大阪市︶以東を公儀普請場とし︑以西を御手伝普請場とした︒助役に姫路城主本多忠国を当てたが︑
浅香山掘削が竣工しかけた三月に急死し︑幕府は岸和田藩主岡部宣就・三田藩主九鬼隆雄・明石藩主松平直常・高取藩主植
村家貞・柏原︵丹波︶藩主織田信恒を新たに助役とした︒一〇月一三日︑ついに新大和川が開通した︒わずか八か月という
突 貫
工 事
で あ
っ た
︒
工費は七万一五〇三両余︵幕府負担三万七五〇三両余︑助役諸大名負担三万四〇〇〇両︶︑人足二四四万五六五五人で︑
新川造成による潰地は二七四町六反四畝歩︵天領一四六町一反九畝一九歩︑私領二七町九反七畝五歩︑社領一〇町七反七
畝六歩︶となっている︒
㈲ 新田の開発
よ さ み い け
新大和川が開かれると︑旧川の本流・支流は幅数問の細流となり︑深野池・新開地と新川沿いの依網池とともにすべて新
田となった︒宝永五年︵一七〇八︶までに一〇六三町八反三畝歩余︑石高にして一万九五四石七斗が新たに得られたことに
なる︒これは新川造成による横地の約四倍に当たる︒幕府の考えていた水害防止のはかに新田による利益も達成されたこと
に な
る ︒
しかし︑新田は石や砂地ばかりで質の悪さはひどいものであった︒反対派の村々が代替地として得た新田も︑なかなかよ
い田畑にならず︑人々は苦労をした︒旧川跡付近の村々も︑付けかえ後は水不足に悩まされた︒
新田は︑有力農民︵上層農民︶や豪商らによって開発されたが︑その大半は町人の請負新田であった︒水害で一番被害を
受けていた貧しい農民達に新田は手に入らなかった︒開発権を幕府から得た有力農民や豪商らに雇われて開墾し︑新田がで
きるとその小作人となって働くだけであった︒
主な新田としては︑鴻池善右衛門の鴻池新田・菱屋岩之助の菱屋東西中の三新田・河内屋源七の河内屋南北の二新田・川
中九兵衛の川中新田・相原仁兵衛の相村新田・天王寺屋吉兵衛の天王寺尾新田などである︒
新田のほとんどは畑となった︒寛政七年︵一七九五︶の﹃市村新田明細帳﹄によれば︑享保六年︵一七二一︶の検地によっ
て市村新田︵現柏原市︶では五五町二反九畝歩で︑そのうち屋敷一町七反六畝二六歩︑畑屋敷五反一畝二七歩で︑残り五三
町七歩はすべて畑で︑稲作はなかった︒右明細帳にはこう見える︒
当新田地面之儀は︑古大和川・石川落合寄之場所︑大和用達古川床之御新田二而︑石・荒地之皆畑場こて︑他面古田と
ハ壱丈余なく︑天水リ早損畑二御座候
水田地では水稲栽培を必ず行ったが︑はかに綿︑裏作として麦・菜種が栽培された︒後に河内特産の実綿とその加工した
白木綿・木綿縞が名を上げ︑この地方の生活の支えとなっていく︑そのもとがこうして築かれていくのである︒
㈱ 付けかえによる問題点
大和川の付けかえによって︑いくつかの問題点も生じた︒
︒新田開発権を得るために幕府へ上納金を納める能力のあったのは有力農民や豪商であり︑そのために︑その階層の者達
はますます新田を得て太っていった︒
新川によって村が二分された所もある︒志紀郡大井村などがそれである︒それ以後は同じ村ながら川北は疎外され︑生
活圏も別になっていく︒
川口の堺の港は土砂が流れこんで浅くなり︑使えなくなっていった︒
川の付けかえ後も洪水が起き︑新川の南の国分村や大井村などで大被害が出ている︒大井の墓地︵現藤井寺市大井四丁
目︶に宝暦六年︵一七五六︶九月の石川の堤防決壊による洪水での犠牲者の墓碑がある︒それには次のように刻まれてい
る︒
大 井 村 水 害 犠 牲 者 墓 碑 銘
<正 面>
表 所 銘 者 普 郷 ト 居 人 也 普 宝 暦 六 丙 子
九月十七日卯時乱水
陽 々 人 骨 欲 逃 去
出村者三十二人鳴呼 繹
水 勢 難 堪 而 路 中 流 死 臭 過 日 得 死 骸 半 其 半 不 知 所 在
也 順應 妙應 妙善 洪善 妙洪 早善 妙雲 教善 了輿 妙念
繹 郭
寛妙妙智智妙清智幼侍 流秋智泉秋泉月泉消毒
妙洪 妙流 妙林 妙蓮 幻智 妙喜 妙正 正智 妙林 妙才 嘗才子二人 <裏 面∨
大坂材木丁
天満市之丁
施主大 同樋之上丁
同南木幡町
同西梅屋町 山辺屋徳兵衛 五ケ屋利兵衛 津国屋権兵衛 紙屋宇右衛門 中 屋 平 助
二︑﹁大和川﹂ の教材化
1︑教材化の視点
この教材によって指導するには︑次の二つの視点を大事にしたいと考えている︒
① ﹁生産と労働﹂の視点
河内中北部の農民連が︑長年にわたって願い求めてきたのは︑水害の恐怖からのがれ︑安定した生産を上げることであっ
た︒
江戸時代は︑農民が一定の年貢を納めることでその耕作権が認められていた︒しかし︑度重なる洪水によって田畑が荒れ︑
地味がやせ︑年貢米の確保に支障をきたすことが多かった︒各村の庄屋達が︑川の付けかえを進めることが急務と考えたの
はそのためである︒
付けかえに猛反対した村々も︑新川がつくと︑その川沿いに新たに水害の危険が起きるし︑田畑が多く潰されると考えた︒
この時代は︑綿や菜種など商品作物へと農業が発展していた︒とくに畿内のそのような生産力の高まりは︑この地域の人々
の生産や経済への目覚めをも生みつつあった︒その意味で︑川の付けかえ派も反対派も︑行動としては全く相反するもので
あるにしろ︑願うところは生産の確保という点で共通であった︒
次に︑これまでの学習に立っての視点である︒二学期に︑﹁奈良盆地の米作りと水﹂の教材で︑雨の少ない奈良盆地で︑
同じ江戸時代の農民達が水に苦労し︑ため池をつくって米の生産を高める工夫と努力を重ねてきたことを学習させている︒
この認識に立って﹁大和川﹂の教材に挑ませたい︒地域の特色の違いがあるにせよ︑水とのたたかいはどちらも生産と労働
に関る農民達の共通のものであった︒その農民達の姿をイメージ化させ︑生産とは何かをわからせたい︒
② ﹁人権﹂の視点
大和川付けかえの運動と成果は︑まさにこの地域の農民達の人権獲得の姿そのものであったと言える︒農民の人権など全
く大事にされない時代であったが︑水害から耕作権や生命・財産を守ろうとするたたかいの歴史でもある︒もちろん人権意
識に目覚めたものではなかったが︑身につまされた願いとしてとらえる時︑川中甚兵衛ら庄屋の先導に多くの農民達が結集
できたのであろう︒
一方︑幕府が付けかえに踏み切ったわけはどこにあったのか︒一つには川の補修をくり返すより一挙に付けかえたはうが
費用が少なくてすむと判断したこと︑二つには新田への魅力である︒新田を得ることでかなり財政がうるおうと見たこと︑
三つにはこのまま放置すれば百姓一揆も起こりかねないと恐れたことが挙げられる︒
そこには︑河内農民の生活や人権をふまえたものは何一つない︒しかし︑この時代にあって幕府を動かすことになった河
内農民の力は︑その時代なりの人権獲得へのたたかいであったと言える︒
付けかえ反対派の人々の運動もまた正当な人権を守るたたかいであった︒先祖代々持ち続けてきた耕作権や生産の場を奪
われる︑そのうえ洪水の危険も起きることになる︒事実︑付けかえ後にこの地域にいく度か水害が起き人命も失われている︒
立場を異にはするが︑付けかえ派の運動も反対派の運動も︑その願いにおいて基本的に同じであると言える︒
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2︑指導の目標と計画
① 目標 ︒河内における大和川の付けかえは︑水害に苦しめられてきた農民達の生命と生産を守る願いをかなえる一大土木工事で
あったことをわからせる︒
︒農民達の願いが実現するまでに︑農民問の促進派と反対派のはげしい運動や︑手ぬるい幕府の対応などのために︑長く
困難な年月を要したことをわからせる︒
︒付けかえ後の新田開発と人々のくらしの変化をつかませる︒
② 指 導 計 画 ︵ 全 一 八 時 間 ︶
第 一 次 大 和 川 水 系 の 今 と 昔
⁝
⁝
⁝
⁝
⁝
⁝
⁝ 二 時 間
︒ 今 の 川 の 流 れ
︒ 昔 の 川 の 流 れ
︒ 奈 良 盆 地 で の 大 和 川
第二次 河内の水害と人々の運動⁝⁝・⁝⁝⊥ハ時間 舟運
︒ ﹁河内﹂と呼ぶ意味 ︒水害と河内の農民達
︒ 幕府の考えと対応のしかた
第三次 大和川の付けかえ工事⁝⁝⁝⁝⁝⁝五時間
︒ 工事の規模 ︒ 工事の苦労 ︒大和川見学
第四次 新田開発と人々のくらしの変化⁝⁝三時間
︒付けかえ後の農民のくらし ︒新田開発と農民
付けかえ促進派の運動と反対派の運動
綿作の発達
第五次 まとめ 二時間
人々の生産への願いと高まり ︒人々の生活の変わり方
3︑指導展開に当たっての配慮
幸い︑この教材は教科書︵自書四年上︶に﹁開発につくした人たち−大和川のつけかえー﹂として出ている︒採用外の
教科書であるが︑必要な部分は適宜プリントして子どもに配り活用させたい︒大阪府下の各市の四年社会科の副読本にも採
り上げられている︒その地域の学校の協力も得て指導を進めたい︒
ただし︑取り扱うための視点としては前述のとおりで︑﹁開発﹂の視点を採らない︒教科書や副読本︑それにいくつかの
実践記録などでは︑すべて﹁開発﹂の視点で教材化されている︒
開発のほとんどは︑昔も今も︑いちばんその影響を被る民衆の生活と無縁なところで進められる︒民衆の利益には結びつ
かないものが多い︒開発を必要とし︑強力に推進するのは支配層や財力豊かな階層が主体となる︒大和川の付けかえも︑最
終的には新田開発とそれを利益に結びつけて考えた階層の人々を太らせることになった︒洪水でいちばん苦しめられ︑生命
と生産や生活を守るために立ち上がった民衆の願いやエネルギーそのものに着目して教えなくては民衆のための歴史でなく
なってしまう︒世の中を進歩発展させる方向に推進しようとした民衆の側に立って見る﹁大和川の付けかえ﹂の歴史的事実
は︑﹁開発﹂として見るそれとは︑本質的に違ったものになる︒
二学期には﹁奈良盆地の米作りと水﹂という教材を扱った︒水の足りない奈良盆地にあって︑昔から水を得るために苦労
した働く農民の願いや知恵や努力について︑実地にもとづきながら学びとらせてきた︒その経験と力を生かして︑さらにこ
の教材に迫らせたい︒
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大和川の付けかえ地点は︑奈良市からさほど遠くない︒視点をきちんと据えて見学させ︑実感で付けかえの様子をわから
せたい︒また︑随時︑子ども達の自主見学もさせたい︒そして地元の古老や資料を持ち合わせている人達から︑当時の模様
の聞きとりもさせたい︒事実を感性豊かにとらえさせるように配慮する︒
歴史の内容が多くなるが︑子ども達に持たせるテキストや資料を十分に撃凡てやり︑また教師が積極的に語って教えるこ
とも大事にしながら進めたい︒
三︑授業 ︵第二次の指導の一部︶
1︑ねらい
大和川付けかえを輝っ人々とそれに反対する人々の考えを知り︑付けかえが決まるまで長い年月を要したことわからせる︒
2︑展開のあらまし
① 促進派・反対派の動き
まず︑前時までの学習の感想文を読ませ︑自分としての予想も発表させる︒予想を立てさせることは︑その間題に自分の
立場をはっきりさせ︑わが身に引き寄せて考えさせるうえで有効である︒また︑それによって子ども相互に論議がわき︑授
業が活発化する︒
次の感想文を採り上げる︒
わたしの意見 高 尾 美 奈 子
石川との合流点から西へまっすぐに流そうという大和川の川ちがえの意見にさん成の村と反対の村の二つにわかれてしまっ
た︒
さん成派と反対派のはげしい争い︒幕府は両方からのうったえで︑どうしてよいかわからなかったのにちがいない︒
私は︑反対派にさん成している︒だって︑新しく川をつけかえても︑また新川の方で洪水がおき︑人々を苦しめる︒場所
を変えるだけのことになると思うからだ︒それに︑家の立ちのきや川のために田畑がとられることがおこるからだ︒自分の
家のことと考えたら︑私だったらぜったいに反対だ︒
けれども︑さん成派の考えも正しいことだ︒毎年のように水害にあっていたら︑安心して生活も米作りもできないから︑
つけかえてくれと︑運動をはげしくするだろう︒
幕府は︑早くこの問題をよくしらべて︑どちらの村の人たちにも安心してくらせるかい決をしてやればいいのにと思う︒
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これをめぐっての話し合いは︑まとめて次のようになる︒
︒付けかえは絶対に必要だ︒このままでは︑河内北部の人々は︑いつまでも水害からのがれられない︒︵この考えは︑学
級 の
大 半
を 占
め る
︒ ︶
︒土地が南から北に向かって低くなっている︒大和川を付けかえたら︑新川の堤防の南側に水がたまり水害になる︒付け
かえで田畑を潰される村々が気の毒だ︒︵大和川の付けかえ地点を自主見学してきた子ども数人の強力な意見︒︶
︒幕府は︑これほど訴えがはげしく続いているのだから︑よく現地を調べて解決してやる必要がある︒︵これは学級の全
員 の
考 え
︒ ︶
そこで︑教師は河内の昔の地図と次の両派の言い分をプリントにしたものを子ども達に配った︒
つけかえを進めた人々がうったえたこと
や ま と て い ば う
︒ 大和川は︑川ぞこをはったり︑堤防をなおしたりし
こうずい
ても︑すぐに︑土やすながたまって洪水になり︑わた ︒ 川をつけかえると︑多くの土地が川そこになり︑田畑
したち百しょうは︑いつまでたっても安心できません︒
いし
洪水をふせぐには︑石川と大和川の合流点から︑まっ
すぐ西へ流すように︑川をつけかえるしかないと思い
ま す
新しい川で︑およそ三百ヘクタールの田畑がつぶさ ︒
れますが︑代わりに︑今の川や池を田畑にすれば︑お
よそ二千ヘクタールもの新田ができることになります︒
川ぞこをはったり︑堤防をなおしたりするだけでは︑
これからも︑たびたび工事がひっようとなり︑多くの
ひ 上 う
費用がいります︒しかし︑川をつけかえれば︑一回の
工事だけでよく︑費用も少なくてすむことになります︒
つけかえに反対した人々がうったえたこと
をうしなう百しょうたちは︑生活ができなくなります︒
つけかえる川は︑西へまっすぐ流すのて︑水のいきお
いが強くなります︒そうすると︑川の北かわでは︑土地
こ う ず い が い