保田與重郎 : 私的回想
著者名(日) 濱川 博
雑誌名 大妻国文
巻 22
ページ 133‑152
発行年 1991‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001502/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
保田輿重郎
l私的回想
漬
l
l ︐ESノ↑事
昭和文学史の上で︑きわめて鮮烈な軌跡を刻んだ保田卵︑重郎と﹁日本浪受派﹂ほど段誉褒既にさらされた例も少ないだ
ろう︒その正当な評価は︑まだ定まったとはいえないし︑論争も完全に終わったとは︑いいきれまい︒近代と反近代の相
克が続くかぎり︑彼をめぐる論争は続くと思われる︒私はささやかな回想をまじえながら︑ユニークな文人の素描を試み
てみ
たい
︒
保田
興市
一郎
につ
いて
語ろ
うと
する
とき
︑
かつて高村光太郎が﹁明星﹂に書いた言葉|||﹁ロダンをけなすのが︑今の進
歩的な人々の合一一一日葉︒今こそ心置きなくロダンを讃嘆しよう﹂がなぜか思い起こされる︒と同時に竹山道雄が日明治精神
の変化﹂で指摘した一節||l﹁先駆的な思想家や芸術家などは︑かならずしもその時代には容れられず︑むしろおおむね
孤立者であるが︑後になってみると︑そういう人がかえってその時代の代表者であり︑当時に流行した人々は影がうすく
なってしまう﹂もまたおのずから連想されるのである︒高村や竹山の思念が保田興重郎という孤高の文人の内面と照応し
あうものを︑私が感じとるからにほかならない︒
磯田光一は︑保田を追悼したごつの感想﹂で﹁保田興重郎氏と林房雄氏とは︑私の信用している数少ない人物であ
り︑私は氏らが敗戦を境いに思想を変えなかったから信用するのである﹂といっている︒そして﹁保田氏は︑戦後に裁か
れてもなお思想を変えなかったときにおいて︑最も偉大だったのではなかろうか﹂と明一一一目する︒敗戦を境いに猫も杓子も
一 一 一 一 一 一 一
保田
興重
郎|
私的
回想
一 一 二 回
と言ってよいほど︑この国の知識人たちが︑まるで手のひらをかえしたように︑最も卑しく政も器用に思想のコベルニグ
ス的転回をやってみせたとき︑保田はいささかも動じなかった︒右往左往して大騒ぎを出じた知識人たちの︑
景のなかで︑彼はひとり毅然として石のごとき沈黙を守り通した︒ みにくい風
保田は昭和十五年出版した﹃佐藤春夫﹄を戦後の三十三年同じ出版社から復刊を求められたとき︑
することなく二十八年も前のままで上梓した︒春夫を追想した﹁文皐の信賞﹂という一文で︑彼はこうしるしている︒
一字一句も加筆削除
﹁私は終戦の後は︑戦前戦中の向著の復刊をすすんでなした例はないが︑求められるままに改めて梓にのせたものはあ った︒その時に際して︑字句文章の改訂については︑文章末熟のところありとても︑
それに加筆削除をなさないことを例
としきたった﹂
たとえば︑保田の四十巻を越えるぼう大な全集のなかから︑いかなる時代の文章をとりあげてもよい︒戦前であろうと
戦中であろうと戦後であろうと一向にかまわない︒そこに片々たる時代の流れを越えて︑いつも変らぬ保田の厳然とした
姿がきちんと存在しているのを︑私たちは安心して見ることができるだろう︒はかない時のうつろいによって︑くらくら カメレオンのように変色する器用さは︑みじんもない︒その変わらなさに保田の白負があり︑一貫した文学精神がある︒
それ
は芭
蕉の
有名
な一
一一
口葉
l同行︑宗祇︑利休︑雪舟などみんな貫通するものは一つなりに照応し合う精神の響音だといえ
いかなる時代も変わることなく︑一つの精神を持続する人を︑思想の人と呼んでもいいだろう︒そして吋代の変化によ る ︒
っ て ︑
たくみに変節する人を︑
思恕なき人と呼んでもいいのではないか︒残念ながら︑
﹂の
国の
文学
には
︑
荻原朔太郎が
﹁エ
ッセ
イに
つい
て﹂
の一文で日っているように︑思想性が稀薄だったようだ︒左右にゆれ動く忠出は︑初めから課題の
所在に洞察を欠き︑
真品
物事
な解
決を
志向
しな
い時
局的
思想
であ
てっ
︑
瓦の
一忠
也と
はい
えな
いと
︑市
山山
川引
は
﹃現
代背
学の
課 題 ﹄
︵昭和二三年・秋田屋﹀に明記している︒日本の精神的課題は︑戦争の有無を越えて︑
戦前も戦後も変わり︑がなく﹁哲
学思想の樹立は︑戦争の勝敗の如き些事を越えて存続する世界史的課題﹂であると︑高山は断言する︒もともと︑思想と か哲学など精神的課題は︑戦争の勝敗とは本質的に無縁のものであるべき筈であろう︒保田はまさに﹁戦争の勝敗の如き
おのれの文学精神を一筋に生きぬいたといえるのではないか︒井上靖氏が彼の生きざまを﹁まことにみ
些事
﹂を
越え
て︑
ごと︑みごとというほかはない﹂といったのも一筋の道をたたえたのであろう︒
もちろん︑戦争はきびしく反省され︑批判されねばならない︒戦争の責罪は︑いつまでも問いつめてゆかなければなら ない︒時局に便乗した偏狭な歴史観の歪曲は︑訂正されねばならないことは︑改めていうまでもない︒かといって︑その ことと精神的課題とは︑別の次元の問題であろう︒戦争は一時的な偶発的なものであり︑哲学とか思想︑文芸の樹立は︑
戦争の有無にかかわらず永遠の課題であるからだ︒保田は金閣寺が焼失したとき﹁あんなもの焼けてもなんということは ありませんね﹂と中谷孝雄氏に語ったそうだ︒もとより︑金閣寺炎焼と戦争とは比較にもならないが︑保田の内面の深奥 では﹁戦争の勝敗の如き些事﹂は︑ゅうに乗りこえていたのではないだろうか︒松本健一氏は﹁かれは侵略戦争を肯定し ているわけではないのだ︒かれは︑その巨大な戦争を花火のごとくに眺めているだけなのである︒戦争目的もその勝敗も
ロマ
ン主
義者
にと
って
は関
係な
い︑
とい
うの
だ﹂
︵﹁
日本
浪受
派と
ファ
シズ
ム﹂
昭五
四・
国文
学
解釈
と錐
賞︶
と言
って
いる
︒
﹁保田氏は軍部に利用されたのではない︒氏は確信をもって自己の時代を生きたのであり︑左翼文壇が崩壊し同時に芸 術派が大衆社会現象の中に自己を衷失して行った昭和初期の空白期に︑氏は青年たちからなによりも文学者として迎えら
れたのだという事実を忘れてはなるまい﹂
福田慌存氏が﹁反近代の思想﹂で︑このように述べたのは︑的を射た評といえるのではないか︒
﹁い
かな
る時
であ
って
も︑
ナポレオンはナポレオンであったことに於て特に偉大である﹂
ゲーテが晩年エッカl
マン
に語
った
この
言葉
を︑
ナポレオンと保田輿重郎とを入れかえてみても︑そのままに通用する
であろう︒磯田が保田の偉大さを思想の不易性に見たのも︑けだし当然のことのように思われる︒
保田輿重郎l私的回想
一 一 一 一 五
一三 六 保旧は時流に迎合し︑便乗して慌をふるような政治的立言や時局論を最も卑しいものとしていみきらった︒彼が心をく だいて志向したものは︑日本文学のゆがめられた系譜を正す作業であったことは︑日らも明記している︒明治の文明開化 思想を批判し︑この国の楽観的な進歩的思想に背を向けたのも︑そうした信条のあらわれにすぎない︒
彼が永眠したあと︑昭和五十七年四月刊の雑誌﹁浪量派i保田興重郎追悼号﹂に未発表の遺稿﹁問顧感想文﹂が載って
いる︒結末に古木春哉の﹁付記﹂がある︒それによると﹁ポリタイア﹂復刊四勺が日本一坂長派特集を企画したとき︑保田 に書いてもらった文章がそれである︒すでに校正まで済んでいたのに︑出版元が倒産したため︑未発表になっていたとい ぅ︒昭和五十二年から三年にかけてのことである︒保田は明治の文明開化後の近代化を﹁軽薄なタダ乗り﹂と次のように
しる
す︒
﹁文明開化を寵歌した大衆は︑近代を樹立する時の苦しい経過を了知することを︑怠ったのである︒河洋歴史の把援に 軽く︑歴史的生活態度を真剣にしなかったからのやうに思へる︒しかもその一西︑作の八近代﹀は︑この時一世紀の短期間に して︑殆ど一衰弱し︑新しく発生した権力をめぐる争闘と賠謀はあるが︑創造の生命力を早くも失ふに近かった﹂
文明開化を即近代化と見る皮相的なとらえ方に︑真向から抵抗する保田の視座を思うとき︑私は激石や荷風ゃ︑ドイツ
の哲学者カlル・レIヴィットらを連想せずにはいられない︒激石が﹁現代日本の開化﹂と題する講演で︑文明開化を
﹁外発的﹂で﹁上すべり﹂と呼び︑そうした宿命観に﹁押されて行かなければ︑
日本が日本として存在出来ない﹂と嘆息
したのは︑保田のいう﹁ただ乗り﹂の視点と異口同音とはいえないか︒
二十
五歳
渡で
米︑
フランスに移り住んで明治四十一年︵一九O
七︶一二十歳で帰国した永井荷風が︑木に竹をついだよう な当時の風潮にあいそをつかして︑反近代の江戸文学の一中に沈潜して行ったのも︑
ても
よい
だろ
う︒
やはり思想に生きた文人の白負といっ
﹁純粋の百本文学は明治三十年頃までに全く滅びてしまった︒其以後︒文学ぼ日本の文学ではない
o形式だけ日本語に
よって書かれた西洋文学である﹂︵﹁新帰朝者日記﹂︶
西洋文明の実態にちかにふれてきた荷風が︑滑稽ともいえる母国の文明開化風景を悲しい猿芝居のように見て︑反近代
の孤独な姿勢を深めて行ったのも︑文人の衿持といえるだろう︒荷風が明治三十年以降の文学を純粋な日木文学ではない
と断言したのは︑保田が﹃日本文学史﹄︵昭四七・新潮社︶を正岡子規までで主な筆−V
ふ⁝
且き
︑そ
れ以
後の
文学
には
︑ ほとん
どふれようとしなかったのと︑余りにも似通っているように思われる︒
昭和十一年十一月から十六年二月まで︑東北大学で哲学教授だったカlル・レlヴィットは﹃ヨーロッパのニヒリズ
ム﹄︵昭二三・筑摩書房・柴田治三郎訳︶の一章﹁日本の読者に輿へる政﹂でこう述べている︒
2別世紀の後半に於いて日本がヨlロッパと接触し始め︑ヨーロッパの八進歩Vを歎賞すべき努力と熱っぽい速さを以
って
受け
取っ
た時
は︑
ヨーロッパの文化は︑外的には進歩し全世界を征服してゐたとはいへ︑内実は既に衰類していたの
であ
る﹂
ボードレlルからニlチェに至るヨーロッパの知性が戦僚を感じた﹁進歩﹂の観念を﹁日本人は無邪気に無批判に残ら
ず受け取ってしまった﹂と批判する︒レlヴィットが日本の近代化に感じとった視点は︑まさしく保田のそれと余りに接
近し︑重なりあっているのを私は感知する︒
保田は文明開化の継承としてアメリカニズムと共産主義が大正から昭和初期にかけてこの国を風醸し﹁近代といふ世紀
が衰退した﹂ので﹁これを一挙に打ち倒さねばならぬと思ふことが︑やがてわが日本浪憂派の主な主張だった﹂という︒
ややもすれば︑アメリカニズムとコミュニズムによって︑ゆがめられようとする日本文化の本来の姿を取り戻そうと志向
したのが︑日本浪受派であった︒﹁プロレタリア文学が風耐出してゐるやうに見えた時代﹂そして﹁与謝野夫妻︑佐藤春夫︑
萩原朔太郎︑川端康成といった諸家の文学は︑文壇の本筋から離されたものとされてゐた﹂そんなリアリズム風潮のなか
で﹁この通念の打開に我々は懸命になった︒これはわが浪漫派の一つの原点だった﹂と彼は述べる︒日本浪憂派の主張と
保田
輿重
郎|
私的
回想
七
一 コ 一 八
原点は︑ここに明確に宣言されているといってよい︒
﹁ジャーナリズムは︑今も背も変りなく︑共産主義的なものに娼びることは︑この閏の卑近な風俗である︒私は日本浪
呈派で︑プロレタリア文学のリアリズムを文芸に非ずと批判したから︑日本浪憂派はその政治的運動に対立するものの如
く見られた︒しかし彼らは文芸よりも︑権力や政治に興味をもっているのだから︑我々の文学上の議論とかみ合ふところ
がな
い﹂
︵﹁
回顧
感想
文﹂
︶
文学上の議論がかみあわないと保旧がいう﹁人民文庫・日本浪員派討論会﹂が報知新聞主催で聞かれ︑その記事が新聞
﹁人民文路﹂は﹁日本浪長派﹂より一年遅れて昭和十一年三月武田麟太郎を中心に
発足した︒浪長派に対しては︑ことごとに批判的で︑対立意識さえあった︒討論会の出席者は﹁人民文庫﹂から高見順︑ に出たのは︑昭和十二年六月だった︒
新田
潤︑
平林
彪吾
︑
﹁日本浪憂派﹂から中谷孝雄︑保田興重郎︑亀井勝一郎だった︒
どちらかといえば﹁人民文庫﹂側が初めから挑発的で︑双方とも所詮かみあわない議論を遠慮なく述べあっている︒先
ず高見が関口一番﹁日本的なもの﹂について次のように斬りこんだ︒
高 見
保田氏あたりから﹁日本的なもの﹂といふやうなことを簡単にお話し願ひたい︒といふのは﹁日本的なるもの﹂
﹁日本的な性格﹂などといはれ︑私共一生懸命理解しょまた﹁日本的なるものを見出す﹂などといふことをよくいはれ︑
うとしてゐるが︑原理的なことが頭に入らない︒この席で先づ簡単にでもいってもらった方が話しの食違ひがなくてよい
と思
ふ︒
保田
僕の書いてゐる批評はあなたの考へてゐるやうな日本主義ではない︒
﹁人民文庫﹂側は︑浪憂派側を﹁日本的なもの﹂すなわち﹁反動﹂と決めてかかり︑攻撃的だったようだが︑保田のひ
とことで出品をくじかれた格好となった︒高見はおそらく﹁日本的なもの﹂を頑迷同牢で独善偏向の反動思想として喧嘩
をふっかけたつもりだったのだろうo被はのもにそのことを竿抗に長名している
o m
和二イ六年四月に持いた﹁文学と倫
理﹂の文章で﹁われわれは喧嘩腰だった︒反動を撃砕せねばと意気込んでいたからだが︑われわれの方が暴力的だった﹂
と述べている︒そして続いて次のようにいう︒
﹁あやまりと言えば︑私たちは日本浪呈派にただもう反動のレッテルを貼って︑彼等の主張の中で正しい部分を見ょう
としなかったのも︑あやまりだったと思われる︒彼等の主張を反動と見たのがあやまりだったというのではない︒美に対
する反省︑健全な倫理的意識の把握を︑彼等が日本文学にもとめたその正しい部分を見ょうとしなかったことを一言うので
ある
高見は昭和九年十二月号の﹁文化集団﹂に﹁浪量的精神と浪長行動﹂という一文を載せ︑保田が書いた﹁日本浪憂派﹂ ﹂
広告の文章を引きながら﹁浪憂精神の本質たる反抗精神を抜きとった片輸の妖怪﹂と攻撃した︒これに対L保田は︑翌十
年一月号の﹁コギト﹂に﹁後退する意識過剰l日本浪憂派について﹂を書き︑﹁第一僕ら一朝にしてあの文学をやり︑こ
の文学をやるといふすさまじい変貌の処世術をもたぬ︒文学者に転向はない︒勿論文学をやりつつ別の新企業をもくろん
でゐる浮気者とは土台ちがふ︒日本浪長派は彼らへの反抗である﹂と反論している︒
報知新聞の﹁討論会﹂では︑次のような対話がある︒
高見
この間一向の学生がやって来て色々話して知ったのだが︑現在浪漫派の主張︑具体的には保田君のものは高等学
校の生徒が皆読んでゐるそうだ︒
つまり向校生活の観念的な傾向に浪憂派の人々が受入れられてゐる訳だ︒浪受派に対する哲学的な抽象的な思考思惟が
高等学校の校友会雑誌的な傾向︑高校生の思想生活にピタリとしてゐるのではないか︒非常な暴言だがそうではないかと
思う
中 ︒
谷
それを君は悲しむべき傾向だと認める訳ですね︒
悲しいかどうか︑客観的にいへば尖に幼稚な︑なげかはしい傾向だと思う︒それが一大下を風醗することは︒
保田輿京郎|私的回想
九
yd1山
﹂ド
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一 四 O
昭和十二年といえば︑日中戦争が始まり︑いちだんと軍国色が深まっていった時代である︒そうした不安と危機感のな かで︑若い学徒はせめて読書によって心の飢えをうるおそうとしていた︒旧制の向校・大学生といえば︑最も知識欲に燃 えた真剣な読書階級だった︒保旧の一種独特な文体の古典論や文芸批評がよく読まれたということは︑保田の文学精神が 青年たちの心をとらえたからにほかならないだろう︒のちに﹃日本浪長派批判序説﹄を世に問うた橋川文三なども︑
一吉 向
生のころ︑そうした一人だった︒橋川は﹁日本ロマン派の諸問題﹂︵昭一三二・雑誌﹁文学﹂︶で﹁その異様な文体のリズムと なぞのように耽美的な情感によって︑青年層のあるものにカリスマ的な魅力をもった保田輿重郎の名前は︑
しばしばその
頃の思い出として今だに口に上されることが少くない﹂と回想している︒それを﹁実に幼稚ななげかはしい傾向﹂とけな すのは︑高見自身がことわっているように﹁暴言﹂に近いといわれても仕方あるまい︒そんな高見が職後は保田を高く評 価していたということを私は高見未亡人の秋子さんからなんどか聞いたことがある︒やはり︑どこかで高見の文学精神と 保田のそれとがイデオロギーの相違を越えて︑ふれあうものがあったからだろう︒
人民文庫と浪憂派の討論会は︑結局平行線のまま物別かれみたいになったが︑中谷孝雄氏は昭和四十五年刊の﹃同人
l
青空・日本浪憂派﹄で当時を回想している︒
﹁それに古典をどうのこうのと彼等はいうが.彼等のなかに古典に通じているような者は一人もいやしないのであっ た︒こちら側からいへば︑も少し古典を勉強なさい︑とでもいうより仕方のないことであった﹂
片や日本の古典をふまえた伝統的文芸論に立脚しているのに対し︑片や現実の飢餓失業など生活のリアリズム論を展開 しているのだから︑初めから勝負にならないのは当然であろう︒高見順が疑問を投げかけた﹁日本的なもの﹂について は︑保田を最もよく知る中谷氏が﹁保田君は通例日本的とされてゐるものを余り好きではなかったようだ﹂︵﹁保回君と所 謂日本的なもの﹂︶といっている︒中谷氏によれば︑保田は徹底して﹁茶の精神﹂とか礼儀作法には無頓着であったし︑京
都の禅寺の庭なども好きではなかったらLい︒むしろ﹁卑しいとさへいっていた﹂そうであるoでは保回にとっての﹁日
本的なもの﹂とは何だったのだろう︒中谷氏は保田の歌集﹃木丹木母集﹄の一首
山かげを立ちのぼりゆくゅう畑わが日の本のくらしなりけり
を挙げ﹁保田君のいう日本なるものが︑米作りを基盤とする暮しであることは明らかであろう﹂といっている︒この
﹁米作り﹂の理念は︑保田の文学を貫いた根源の思想であった︒彼は戦後最初の評論集﹃日本に祈る﹄
の﹁にひなめととしごひ﹂で﹁米作を大本とする生活は︑自体が平和を原理とするο平和といふものの人間生活的原理は
水田耕作の外にない﹂と主張している︒そして本居宣長のことば﹁ただ一つのこのみち﹂﹁古は今にあり﹂をあげ︑これ
︵昭
二五
・相
国社
︶
は﹁単なる思想でない︒実生活の中の神の道義とせられた︑即ち米作生活の中にある道の謂である︒これが原有のアジア
の本質である﹂という︒
いつか中谷氏から﹁保田君は戦争中に登場したニワカマつくりの日本主義者をきらっていた﹂と聞いたこと︑がある︒いか
なる思想であれ︑時局に便乗して旗をふるような日和見主義的小ざかしさは︑政治的立一守口や時務請を最も卑下した彼にと
っ て ︑
たえがたいニセモノと映ったにちがいない︒それは︑彼が戦争の最も蟻烈だった昭和十八年十月新潮社から出した
﹃芭蕉﹄の次の一節を読むだけで︑十分こと足りると思う︒
﹁古人の跡を求めず︑古人の心をおへとの教へのま与に︑私はこの数年来︑後鳥羽上皇の御教へをたよりとして生きて
ゐた文人である︒さうしてある時期にあっては︑さういふものを守らうとしたただ一人の文人であったと思ふてゐる︒世
間は私を所謂日本主義的な文芸革新論といふものを︑最も早く口にした文人として遇するかもしれない︒しかし私自身の
志は
︑芭
蕉の
即︑
引に
即し
て︑
士口
の後
鳥羽
上皇
の御
教へ
を︑
ただ一人で守ろうとし︑それにわがいのちのよりどころを思ふ
てきた文人であることを︑近世以後の文学の歴史の中で自負してゐるのである﹂
いわ
ゆる
文明
︑
論壇という集団や徒党を彼は相手にはしない︒﹁ただ一人の文人﹂と断言しているところに︑彼の大い
なる自負が秘めれているのである︒ややもすると︑被の片一一一口隻句をとらえて︑偏狭なれ本主義者として芥り去ろうとする
保田
白山
首一
郎|
私的
回想
四
E日
ような論法も︑戦後の軽薄なジャIナリ︑スムのなかに散見されたが︑それは初めから間出提起にもならない時務論にすぎ
ないことは︑あきらかであろう︒
﹁私は日本の文人としての誇りに生きるものであるが︑そういふ場合の文学者の信念は︑日本と共にゆるぎない日本の
文芸を確保することにある︒国を忠ふことも文学者にとっては︑何よりも絶対と純粋の意味に於て︑しかも彼の自然によ
って︑文芸の貫通するいのちをいや向くあきらかにすることであった﹂
これら戦争中に書かれた文人の諮りは︑
︵﹃
佐藤
春夫
﹄︶
一貫して変らなかった︒小きざみな︑さめやすい時の流れをこえて︑日本文芸
の道統につながる﹁日本の橋﹂をかけようと志したところに︑彼の﹁筆の一道﹂があった︒昭和十年三月﹁日本浪受派﹂の
創刊号には︑保旧の﹁川端康成﹂が載った︒彼はその評論で︑川端を﹁最も美しい伝統の日本文学の古典の趣味の樹立者
の一人﹂といい﹁冷やかさの極致に到った文学が︑その極点の絶対の温かさに畦らせられることは何ら不思議ではない︒
凡そすぐれた文学の桃源であり︑不注の天才の故郷の夢である︒川端氏の文学の唯一売を追ふ世界も予定されたしくみによ
って︑既に一つの豊かな世界を到達形成する﹂と苫いた︒それから三十余年後︑川端はノーベル文学賞に輝いた︒日本人
としては︑唯一の受賞であり︑東洋人としては︑インドの詩人タゴl
ルに
つぐ
二人
目の
栄光
一円
であ
った
︒川
端受
賞の
よろ
こ
びを保田はこう記す︒
﹁無常とかニヒリズムといふものを︑日本文学の系請にふまへて新しく深いものとして現はされたのは︑川端さんの文
学の極致の一っと私は思ふ︒描写や表現や小説技法のまやかしの新しさでは︑心ある世界の人々を動かし得ない︒現世に
は︑さういふ小説は充満している︒三千年伝統の民族の文学を︑冷厳とした根底とし︑その上ではか無く美しい世界を描
き出すやうなニヒリズムは今日の世界中に︑この文人を他にしてない︒これも民族の伝統の一つの結実である︒民族的伝
統の精粋が世界にひびき︑国際的な理解をよぶことが今度の川端さんによって証されたことは︑国の一若い心を創造に躍動
させるだろう︒この受賞を決定した外国人を私は称へたレ﹂︹﹁川端さんの告も
最も佐界的なものは︑窮極において最も日木的なものでなければならない|彼が﹃佐藤春夫﹄論で荻原則太郎の一言葉と
して述べたのは︑川端文学の受賞をいみじくもいい当てているυそれは佐藤春夫︑が﹁日本文学の伝統を思ふ﹂で述べた
一文芸の場合ば民族的であればあ一るほど特殊な人間的報告を人類に興へ得て人知の進歩に貢献する︑資料を提出するかと思 はれる﹂と同じ視座であろう︒民族の個性が世界的に花開いたことをこの上もなく賛美する彼の心には︑偏狭な時局便乗
の日
本主
義の
影は
︑
いさ
さか
もな
い︒
彼の川端康成論や佐藤春夫論は︑すでに半佐紀も前に書かれながら︑一つも色あせていないばかりか︑文学の真実をつ
いて今も光っている︒川端文学を﹁不遣の天才の故郷の夢﹂と評するなどノーベル文学賞を三十年も前に予見したような すぐれた評論である︒しかもこの二つの評論や﹃芭蕉﹄などを読んで驚ろかされるのは︑引用文が一つもないということ である︒これは容易な業ではない︒川端の文学にしても春夫の詩文にしても︑保田はおのれの内面でいったん溶解し︑お のれの言葉として論じているのである︒ここに彼の評論の独自性がある︒たれしもまねのできることではないだろう︒小 林秀雄は晩年の作﹁本居宣長﹄をあたたかく批評してくれた保田に感謝しながらも︑保田君は批評を通して白分の思想を 述べているのだと語ったが︑まさにその通りである︒彼はすべて白分のものとして︑対象を語りつつ︑内分の思想を語っ ている︒彼独特のレトリックである︒いつかあるパーティで詩人の林富士馬氏と会ったとき︑
﹁保
田さ
んは
天才
です
ね﹂
といった一百葉が思い出される︒まさに鬼才というしかない︒その辺のことについて︑保田は﹃佐藤春夫﹄論でいう︒
﹁つまりたとへば︑ここで佐藤春夫の全著述を通じて︑その人生思想とか︑芸術観︑恋愛観といった思想的なものをあ
る方法論からぬき出して一種の現代の文学論を作るのであるが︑私がさういふ古味の作家論に今日では殆ど感興しないの は︑詩人の描いたことばを以て自分の考へをいふか︑向分のことばで詩人を描き出すかのちがひにすぎないからである﹂
と詩
人﹄
保田のユニークな評論の出現を最もよろんだ一人に萩原朔太郎があった︒朔太郎は保田が昭和十一年に刊行した﹃英雄
﹃日本の橋﹄を﹁珍らしい好著﹂とたたえ︑昭和十二年の﹁エッセイについて﹂の一文で次のように記す︒
保田
輿重
郎
1私
的回
想
四
一四 回
﹁特
にそ
の﹃
日本
の橋
﹄
﹃誰が袖拝風﹄及びセントへレナの孤高人ナポレオンを書いた文章等は︑溢るばかりの詩美と
高遇な精神とにみち︑しかも哲学的な思想性をよく芸術的情操の中に体験した好エッセイであり︑我が国の文壇に始めて
︵過去にエッセイストとして高山樗牛があったけれども︑思想性が粗雑で芸術的のデリカに欠け見たところの物である︒
てた︶保田輿重郎の如き青年が︑日本の文壇に新しく登場して来たことは︑
り︑併せてエッセイ文学の新興機運を告げる啓一不である︒﹂ やがて来るべき何かの繁明を語る陪示であ
朔太郎は︑ことのほか保田を愛した︒保同も朔太郎を敬愛した︒二人の詩心は二魂一体のひびきがあった︒大宅壮一が
報知新聞の討論会のあとに書いた﹁日本一以長派と人民文庫﹂という文章で︑浪憂派を﹁良家のお嬢さん﹂と呼び︑人民文
庫を﹁女中のような神経の太さ﹂と評し︑お嬢さんが田舎出の女中をいかにさげすもうとも﹁人生に対する生きた認識の
点では比べものにならないほど発達している﹂と︑人民文庫側に肩入れしたことがある︒大宅は文中︑保凹の文章を﹁誰
よりもお筆先じみている﹂と書いた︒これに対し朔太郎は晩年の評論集﹃日本への阿帰﹄で︑﹁大宅氏が︿詩人の文学V
をやツつけ︑僕等をコキ下し得たと思ったら︑これほど笑ふべき誤謬はない﹂と次のように保田を援護した︒
﹁詩人の言葉は︑多くの芸術的教義のない人々にとって︑たしかに意味の解らない迷語であり︑バラモン教徒の呪文の
@ &
hd 如く︑正しくまた︿お筆先のやうなもの﹀に見えるのである︒大宅壮一氏が保旧の文学を称してかく言ったのは︑この意
味に於てまことに適切の批討であった︒しかしその︿お筆先のやうなもの﹀こそ︑実に人間社会の文化を指導し︑昨日の
世紀を今日の世紀に導くところの︑あらゆる変化と改革との先駆者なのだ﹂
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詩人の生命は﹁魂の青春性﹂をうたう若さであり︑
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歌ふことのな志乞呼び起さうとして居るの叫ん﹂と
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た︒一方︑保田は朔太郎の恋愛名歌の選著
と蕪村を論じた著書を﹁二つの古典的名将﹂という︒そして
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人麻呂以降の系譜を近代調でひき
つぐのは荻原朔太郎である﹂l
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大
Lの人昨日計と一人叩世以後のすべての隠遁詩人たもの心
を集めて働突した﹂芭蕉の詩心は︑ともに朔太郎によって継承され︑新体詩のなかに見事に花ひらいたという︒
朔太郎がいかに保田に深い親愛感をよせていたかは︑長女の萩原葉子さんが﹁保田輿重郎さんの思い出﹂︵﹃保田輿重郎
選集﹄第一巻月報︶に記しているように︑朔太郎がある日︑ひとりごとのように﹁保田君に嫁にゆく気はないか﹂と言った
ということからも十分にうかがわれよう︒私が保田に初めてお目にかかったのは︑葉子さんを通じてだった︒昭和四十七
年ごろのことである︒当時勤めていた有楽町の新聞社で私は葉子さんと会った︒私が新聞社の前橋支局にいたころから︑
朔太郎忌などで彼女には何回も会っていた︒これから保田さんに会って︑朔太郎忌の文芸講演会の講師をお願いに行くと
ころだと葉子さんはいった︒私もかねて保田さんには一度お目にかかりたいと思っていたので︑同行させてもらった︒保
田興重郎という名は︑大正の末に生まれた私の貧しい青春とともにあった︒保田はその日︑東京・市ヶ谷の大日本印刷ピ
毎月一回聞かれる万葉集講義のため︑京都から出てきていた︒保田と親しい元京都大学総長平沢輿もご一緒だっ
た︒保田は水割りのウイスキーを飲み︑煙草の﹁朝日﹂を何本もつづけてふかしながら︑久しぶりに会った葉子さんと︑
その後私は二回も京都の保田邸を訪
ルで
︑
なつかしそうに朔太郎の思い出にふけって︑よくしゃべられた︒これがきっかけで︑
ねることになった︒
広瀬川
今日
も激
︵は
し︶
る や
あの日の怒り
なほも冬に阻︵はば︶まれ
春遠きこの日に
消えもやらず
広瀬川相
旅団
輿霊
邸|
私的
回想
一四
五
一四 六
今日も激るや
平成二年永眠した神保光太郎が﹁日本浪憂派﹂に発表した﹁広瀬川﹂と題する詩である︒神保は中谷孝雄︑保田輿重
郎︑亀井勝一郎らと同誌を創刊した同人であることは周知の通り︒広瀬川は朔太郎のふるさと前橋市の中心部を貫流し︑
若き日の朔太郎が好んで川のほとりをさまよったことも︑知られているo神保と保田は︑前橋で聞かれた朔太郎をかこ
む会に出席するため︑朔太郎に同行した︒その折︑生まれたのがこの詩だった︒三人は大手拓次の郷里の群馬県・磯部
温泉にも遊んだ︒保田は温泉宿で︑いつものように朔太郎を﹁先生﹂と呼んでいたが︑話が日本の古典論に及ぶと︑朔
太郎は保田を先輩格のような態度で話していたという︒このことは拓次の親族に当る桜井作次という人の文章に出てく
る ︒
﹁ヨーロッパ的なものによって育てられ︑ヨーロッパ的なものを呼吸してきた果てに八日本への回帰﹀に帰着したの
で︑そのとき詩的エッセイストとしての保田輿重郎に非常に新鮮なものを発見したと思います︒ある意味では啓発された
ともいえましょう﹂︵伊藤信吉﹁萩原朔太郎の思想的交友﹂︶
保田の古典論に啓発された文人は︑朔太郎ばかりではなかった︒左翼運動から転向した亀井勝一郎がそうだし︑ある意
味では小林秀雄もその一人だったといえないことはない︒小島信一氏は﹁興一と興重郎|日本ロマン派をめぐって﹂でこ
う書
いて
いる
︒
﹁小林の︿無常という事﹀以下の古典ものには︑保田からの触発があるはずだし︑彼のいま書いている︿宜長論﹀など
は︑ひところの保田顔まけの神ながら論なのだ︒これは河上の︿吉白松陰﹀にしてもおなじことである︒私の記憶で
は︑河上徹太郎が朝日に輿重郎の八万葉集の精神﹀の書評を書いた時
︵昭
和十
七年
︶
ていねいに二度読んだと書いてい
た︒あの大部の本を︑二度つづけて読むのは大へんな努力だったと思う﹂
小林が﹁故郷を失った文学L
を書
いた
のは
︑
昭和八年五月号の﹁文芸春秋﹂だったo保田は翌九月二月号の﹁文芸﹂に
﹁土地を失った文学﹂を書いた︒これは明らかに小林の論文に刺激されたのであろう︒保田はこう書いている︒
﹁故郷をなくした文学といふ言葉︑が︑近頃唱へられたoさやう今日の文学は故郷をなくした︒僕は︑しかしここで故郷
と い ふ 言 葉 で 抽 象 的 な ふ る さ と と か
︑ 素 朴 に 故 郷 を
︑ 耕 地 を
︑ 生 活 の 地 を い ふ の で あ
る︒しかし素朴に云ったからとて︑ 伝統の国文学をいふのではない︒
これを文学の郷土色だなどと早合点をする人はあるまい︒土地とは第一に作家精神の
地盤
であ
る︒
﹂
保田と小林は︑その作家精神において︑おたがいにふれあうものがあったのだろう︒保田が永眠した昭和五十六年十
月十四日︑通夜は全国から約八百人のファンがかけつけて︑大津の義仲寺で営まれた︒あいにくの雨を押して︑小林も鎌
倉から参列し︑傘をさしたままファンのなかに立ちつくしていたという︒私はその様子を浅野晃から聞き︑小林の美しい
友情に感銘を受けた︒そんな間柄だったが︑小林の﹃本居宣長﹄︑が刊行されて好評だったころ︑私は京都の保田邸を訪ね
と不扶な質問をしたこて︑﹁保田さんなら小林さんとはちがった宜長論を書いただろうと︑中谷さんから伺いましたが﹂
とが
ある
︒
﹁そりゃ︑そうですがな︒私なら小林さんが拾ったところを全部捨てる︒小林さんが捨てたところをみんな拾
いあげて書きますわ﹂と平然として言った︒こと本居宜長に関しては︑たとえ小林秀雄といえども︑自説を一歩もゆずら
ない
とい
った
気塊
が︑
ひとことの関西弁に感じられた︒これが真の作家精神であり︑文人の秘められた自負というもので
あろう︒自信に満ちたことばとして︑いつまでも忘れることはできない︒
神保光太郎は﹁日本浪憂派﹂に保田輿重郎について書き﹁幼な友達のような気安さを感ずる﹂といい﹁僕の中にいる彼
はいつも美しい﹂といった︒その気持は四十年を経たいまも変らないと﹃保田輿重郎選集﹄の月報﹁美の人﹂で述べてい
る︒保田を知る人にとって︑神保の心情は︑共感を呼ぶにちがいない︒彼のおおらかな人柄は︑彼に接する人々を︑
み ん
なあたたかく包みこんでしまうからだ︒まれにみる大器の人である︒佐伯彰一氏があるパーティで私にいった言葉|﹁保
回さんには一度お会いしたかった︒どんな本を読んでいられたのか︑できれば書斎も拝見したかったですね﹂が思い出さ
保田輿重郎i私的回想
一四
七
一四 八 れる︒佐伯さんも保田を思慕していられたのであろうか︒
神保は昭和十一年八月号の﹁日本浪量派﹂に﹁詩・風雨の日|詩苑の問題﹂という文章を書いた︒保凹の古典に対する 造詣と抱負に敬服しているといいながらも﹁現代に絶望した彼が芸術を古典に求めるのはいい︒だが︑これで問題は片付 いていない︒古典によって現代を否定することは︑或ひは比較的容易な仕事であらう︒しかしながら︑難しいのはそれ以 後にある︒現代を如何にすれば古典となし得るか︒しかもこれは否定を越えた肯定によって以外には成り立ち能はないの だ﹂と述べた︒そして﹁詩人の仕事は一に古典の中に詩本来の姿を探しながら︑
しかもこれら現代の中に如何に生かし抜 くかにかかっている﹂と問題を提起した︒これに対し昭和十一年七月八日付で﹁杉並区高円寺六ノ七三八原田方﹂の保田 から浦和の神保にあてた手紙がある︒私は昭和五十一年ごろ︑浦和に神保を訪問したとき見せてもらった︒少々長いが全
文を
載掲
する
︒
﹁詩・風雨の目といふ文章は︑何か僕一人を詩の迫害者の如くかかれであるが︑まことに然らず︑君亦何をか言はんや
とい
ふ必
要な
し︒
ただ僕は今日の詩と詩人を︑世界文学の見地から考へたいのである︒次に日本文学の歴史の見地から考へたいのであ る︒第三に現代詩人が随巷の如き現代日本詩壇で威張っていては始まらぬといふ︒第四に改めてそこでも世界文学的境地 を考へる必要があると云ふ︒第五に現代詩が浪長主義を思ふとき︑浪憂主義は古典を無視し得ぬ︒恐らくは我々は古典の まへに屈服するか古典を破り去るかの賭けである︒しかもけふの浪長派は古典を公衆の中で専ら防衛せねばならぬといふ 矛盾をもっている︒この矛盾から僕は一歩も出ていない︑止むを得ないと思はぬか︒
君がただ一人この堕落した詩壇の中で現代詩を詩人のためにむきになり︑正直になっていることは︑僕はよく知ってい る︒その点を萩原氏ともいつも語った︒しかし君の努力を以てあの八四季﹀をさへより新しい何かに作ること可能なりや といへば︑現代は悲観しかない︒これは君を否定しているのでなく君の意企を肯定したときの考へを表現したまでであ
る︒その点を了解されよ︒詩の風雨は片々たる批評家のかたことにあるのではない︒今日の君の周囲の詩人の中で一人と
して世界と日本を考へ︑その文化のために決意を表明し意識している若い詩人があるか︒私は詩のかなしむべき貧しさを
やはり詩人に帰したい︒︵﹁ただ君一人奮発せよ﹂︶だが若い一人の詩人の中で︑現代の決意と現代の文化への覚悟を歌っ
た人あるか︒この意味では今日の四季の主潮をなしているもの︑萩原氏以外なものに対し僕は無縁の衆生にすぎない︒
明治以前はとはず︑現代の詩人中では︑萩原氏は後世に残るだらう︒そして次には佐藤春夫詩集が代々の人々に愛請さ
れるだろうと僕は思ってゐる︒彼らは詩壇を超越しているからである︒
私は君と詩について一度語ろうと思ってゐる︒あの君のエッセイよんでそう思った︒ただ君の真剣な精神|つねに尊敬
すべきl
にふ
れた
ゆゑ
に︑
いささかもあれをよんで文学外の不快を感じなかった︒欣然として共に詩について語れるので
ある︒議論はつねにかくの如くありたいと思った次第である︒
七月十七日午前二時保田生
神保兄
ほとんどふれていないであろうと思われるこの手紙は︑世界文学の見地から日本の詩壇をとらえ
ようとする保田の広く高い視野と浪憂派に集まった若い詩人たちの旺溢するばかりの個性をのぞかせていて︑興味深い︒
おそ
らく
人の
目に
は︑
﹁日本浪量派﹂は浦和で生まれたと神保はいう︒昭和九年ごろ︑保田輿重郎と亀井勝一郎が浦和の神保を訪ね︑三人で
旧制浦和高校裏の松林を歩きながら︑だれいうともなく﹁日本浪長派﹂という誌名を言い出したのが︑きっかけであっ
た︒神保の家には︑若くして亡くなった詩人の立原道造もよく訪れた︒家の近くには沼があり︑葦が茂り︑鷺や野鳥が飛
来して群がり︑どこか武蔵野の面影があった︒立原はその風景がすっかり気に入り︑浦和に住むと言い出した︒建築技師
でもある立原は︑さっそく設計図を作り︑名刺まで印刷したが︑彼の病気で実現しなかったと︑私が訪ねたとき︑神保は
語っていた︒彼の最も親しい詩の仲間は︑立原と中原中也だった︒
保田
輿重
郎!
私的
回想
一四
九
O一 五
昭和四十六年の末︑雑誌﹁日本浪憂派﹂の復刻版が雄松堂書店から出たとき︑ある進歩的評論家は︑なぜ君の社は右翼
の一層一を持つのかと嫌味をいったということを︑私は同社の編集者から聞いたことがある︒﹁日本浪長派﹂は右翼であり︑
反動であり︑戦争協力の推進者であるといった偏見や曲解は︑この国の一部の知識人の聞に今もなく根強く残っている︒
ことに戦後保田に一浴びせられた批判や憎悪の文章はおびただしい︒保田ひとりを槍玉にあげることによって︑自らをあた
かも戦争被害者のように装ういやらしい風潮は︑マスコミに巣食う進歩的文化人を自称する人たちに︑ことに多く見受け
られた︒私にもそんな経験がいくつかある︒あるパーティの帰り︑有名私大の文学部教授や俳人たちと数人で池袋で飲ん
﹁あなたは右翼ですか﹂と初対面の文学部教授は言った︒その教授が保だことがある︒私が保田の名前をあげたとたん︑
田の本をどれくらい読んでいたかどうかは知らないが︑よくもまあ︑そのような短終的思考で︑文学部教授がっとまるも
のだと︑私は腹のなかで苦笑したことがある︒これに似た思考は︑私のいた新聞社にもいたし︑文化人のなかにもいた︒
右翼とか左翼とか︑すぐにレッテルをはりたがるこの国の悲しい風潮は︑今に始まったことではなく︑真の思想性の稀薄
を物語る以外の何ものでもないだろう︒
﹁日本浪憂派﹂の復刻を記念する会が当時の同人や遺族らが集まって聞かれたことがある︒その夜のことを神保は﹁再
生の宴l
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四七
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日本浪憂派と言えば︑そのまま︑ファシズムの代名詞のように思われた時期があったこ
とである︒あの大戦のおこる前︑私たちが日本浪憂派の旗の下に︑探求した詩の行方︑真実の美︑ヨーロッパの合理主義
文明に汚されていない日本民族の原型とその精神の追求︒これは日本浪憂派として当然の方向であり︑すでに萩原期太郎
が八日本への回帰﹀その他で啓示していたのでもあるが︑それが一部のいわゆる進歩的批評家にファシスト呼ばわりさ
れ︑そのまま︑戦後につながったと思われる︒特に︑保田輿重郎はそうした場合の代表者のようにあっかわれた︒私に言
わせれば︑保田を含めて︑同人の一人一人は︑非政治的︑あまりにも非政治的であり︑むしろ︑芸術至上主義者たちであり︑
美への心酔者であり︑それ故にこそ︑否定的罵倒の嵐の中にあって︑敢て浪憂主義を唱えたのであったと考える﹂
私が京都の保田邸を初めて訪れたのは︑昭和五十年十月二十目だった︒午後二時半ごろから十一時まで長居し︑その間
ずっと二人きりで対座して︑前々と話す彼の関西弁に魅せられたことがある︒ちょうどそのころ︑発売されたばかりの詩
誌﹁ユリイカ﹂の﹁特集H日本浪憂派とはなにか﹂を京都への車中で拾い読みして行った︒雑誌は﹁保田輿重郎をどうと
らえるか﹂のテIマで橋川文三︑川村二郎の対談のほか︑﹁小林秀雄と保田興重郎﹂竹内良知﹁生き残った日本浪憂派﹂い
いだもも﹁私は保田興重郎を勧めない﹂渡辺広士﹁太宰治と日本浪憂派﹂饗庭孝男﹁折口・保田・伊藤静雄﹂藤井貞和氏
らの評論や杉浦明平氏らのエッセイなどが収録されている︒私は先ず特集号のことを話題にした︒﹁まだ見ていまへんυ
ほとんど興味ありまへんな︒日本浪憂派は創刊当時からずっと悪口︑はかり言われてきたんで︑もうメンエキみたいになっ
ていますのや︒今までの論評はほとんど間違っています︒そんなことにいちいち腹を立てるのは︑もう学生時代で終って
しまったんですわ﹂目の前にさし出した雑誌に目もくれようともせず︑保田は笑いながら語った︒
いささか意外の感がしないでもなかった︒保田は初めから全く問題にしていないし︑土台無視しているの
だ︒戦後保田と浪憂派に浴びせられた﹁批評という名の罵倒﹂に対し︑彼は深い沈黙を押し通してきた︒一片の反論も釈
明すら一切しようとはしなかった︒それは見事な無視でもあった︒雑誌﹁祖国﹂は︑昭和二十四年九月保田を中心に創刊
これ
には
︑
されたが︑同人だった奥西保氏︵現在京都・新学社会長︶は﹁祖国創刊のころ﹂︵﹁浪長派﹂保田興重郎追悼号︶にこう書い
てい
る︒
﹁昭和二十二・三・四年頃の文壇は︑保田先生を忌詳して漫罵し︑戦争推進の元凶の如く仕立て︑己らを被害者と弁解
して︑民主主義への便乗の踏台に先生を使った︒先生は︑真実は天知る地知る︑下等な者共に口あへするも積れ也とばか
り︑黙々と地を相手に百姓されていたが︑若年血気の私たちは憤臓やる場もない日々であった﹂
戦後保田を最も強烈に痛罵したのは︑杉浦明平氏の﹃暗い夜の記念に﹄であろう︒昭和二十五年十月私家版として出た
保田
輿重
郎|
私的
回想
一 五