開国と鎖国政策の矛盾の諸問題
重 藤 威 夫
第 一 章 紀 説 第 二 章 開 国 と 外 国 人 居 住 自 由 の 関 越 第 三 章 我 国 近 代 工 業 創 始 期 に お け る 小 菅 ソ ロ
. バ ン
・ ド ッ ク 第 四 章 開 国 と 信 教 自 由 の 問 題 第 一 項 信 教 自 由 の 原 則 と 政
・ 教 分 離 の 原 則 第 二 項 貿 易 と 切 支 丹 開 国 第 五 章 信 教 自 由 の 原 則 と 切 支 丹 迫 害 問 題 第 六 章 政
・ 教 分 離 の 原 則 と 神 道 国 教 主 義 第 七 章 貿 易 取 引 方 法 の 変 動 と 商 権 回 復 の 問 題 第 一 項 貿 易 取 引 方 法 の 変 動
︵ 長 崎 会 所
︶
第
二
項
長
崎
会
所
と
広
東
十
三
行
第
三
項
貿
易
敢
引
に
お
け
る
邦
商
の
自
主
性
の
開
題
と
商
権
の
回
復
第
八
章
居
呂
地
の
問
題
第
一
項
居
露
地
の
拡
張
開
国
と
鎖
国
政
策
の
矛
盾
の
諸
問
題
一
経 蛍 と 経 済
第二項 居尚地と租界
第三項 居尚地と組界問題の解決
貿易取引に伴う各種の訴訟事件の発生 第九章
第一項 訴訟事件の性格と内容
第二項 治外法権の諸問題(長崎と横浜の例)
第
早 二三己
総
説
本研究全体を通ずる根本主題は︑鎖国に基く伝統的な諸政策と開国政策との矛盾の相の追及という点に集約される
であろう︒長年にわたる鎖国の扉を開いて︑急に開国することになった以上︑そこに多くの矛盾が生じたことは当然
であった︒諸矛盾が如何にして生じ︑如何なる過程を経て︑如何に解決されたかということが勝明されねばならな し
1。
幕末から明治初年にかけて︑鎖国と開国との聞の諸矛盾の解決という乙とが︑その時代の悩みの最も大きな問題で
あった筈である︒従って︑その時代の研究をなそうとする限り︑その主題が右の点にしぼられるのは当然の成行であ
る︒それらの諸矛盾は文化の各分野にわたって︑おびた V しい数に上るであろうが︑それらのすべてにわたって研究
することは限られた個人の力では︑とうていよくなしうるところではない︒従って︑開国政策上︑重要な問題であり
また︑同時に我国貿易発展の有力な前提条件をなす二︑三の問題に論点を限ら︑ざるを得なかった︒またそれらの諸矛
盾が生じ︑はたらき︑解決が計られた場所を長崎に限っている︒地域的に限っているが︑その中には長崎だけでなく
当時の諸開港場に共通する問題もあり︑或は長崎だけに妥当する問題もある︒
第 二 章
開国と外国人居住自由の問題
先づ第一に考えねばならぬ大きな問題は︑外国人屈住自由の問題にあらわれている︒それは安政五年の開国条約中
に規定された﹁遊歩規定﹂及びそれにいたる過程にあらわれている︒鎖国時代に蘭人や唐人をそれぞれ出向蘭館や白
人屋敷に閉じこめ箆の烏的生活をよぎなくさせていた伝統的政策に影響されて︑幕府は幕末に諸外国の艦船が続々米
航するようになっても︑幕府役人と外国使節との公式の会見は別として︑乗組員に対して一時的な上陸すら容易に許
さなかった︒乙れは国際的外交儀礼とその当時和蘭政府から幕府に対して与えられた種々の恩忠や援助に対して深い
矛盾を示した︒
これらの矛盾は徐々に上陸禁止を緩和することによって次第に解決の万向に向った︒
嘉永六年(一八五三)にプ l チヤチンに率いられたロシア艦隊四隻が入港した時は︑プ 1 チヤチンと幕府役人との
公式会見は別として︑乗組員一同の上陸を一切許さなかった︒しかし翌安政元年(一八五四)︑英国艦隊四隻が治外
に碇泊した時は︑港外の鼠
' μ
に昼間のみ上陸を許した︒外人に遊歩場を設けた最初である︒
安政二年(一八五五)には蘭人に初めて市中遊歩を許した︒
同年十一月には英国船の港内碇泊を許し︑平戸小屋に外人休息所を設けた︒
同年十二月の日蘭条約では︑蘭人の港内でボ l トを乗廻ることと魚釣を許した︒但し︑出向水門のほかはボ l
ト で
上陸するのを許さなかった︒
安政三年(一八五六)十二月︑蘭人に市中での物品購入を許した︒
安政四年(一八五七)六月には︑条約締結各国人(米・英・露・蘭)に市中の遊歩を許した︒また外人同志の交際
開国と鋲国政策の矛ほの諸問題
経 営 と 経 済
四
の自由と各国船舶の聞の往来を許した︒
以上の過程は幕府が開国条約以前とはいえ︑次第に世界の大勢に押されて︑固晒の考えから脱却し︑文明開化の方
向に向いっ︑あったととを示している︒
幕府がいよいよ開国にふみきった安政五年の五ヶ国条約においても﹁遊歩規定﹂をつくることによって︑鎖国の遺
風が残存し︑開国との聞の矛盾が完全に解決されたわけではなかった︒それが完全に解決されたのは︑条約改正の実
施によって︑ようやく明治三十二年七月から外人の内地雑居が認められてから後である︒その遊歩規定は貿易発展の
目的に対して︑大いに矛盾するものである︒外人を自由に広く園内全体を旅行させて︑我国の産業状態を知悉させる
乙とが輸出入貿易の拡大に有利なことは勿論であるが︑外人の行動半径を開港場の周辺十里以内に止めようとするこ
の遊歩規定は︑鎖国時代に蘭人を出'局に閉じこめた伝統的政策の遺風と考えらるべきもので︑開国によって西洋文化
を大いに学ぼうとする政策と矛盾するものであった︒
乙れは単に貿易の面だけでなく︑広く産業開発や西洋文化の知識普及のためにも乙の遊歩規定は矛盾するものであ
る︒もっとも外務大臣の旅行免状があれば︑広く内地旅行ができるが︑交通不便な当時では長崎・函館・新潟・神戸
からは︑旅行免状の入手は容易ではなかったと考えられる︒
次に明治中期における旅行免状願の実例を示す︒乙れは当時岡崎教会に宣教師として来朝していた米人に関するも
のである︒彼は同時に共同館と称する英語学校の教師も兼ねていた︒
外 国 人 招 璃 届
米合衆国サウスカロライナ州キングスツリ l 邑
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エス・ピ 1 ・フルトン氏
冨 同
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英語教師
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給
愛知県額田郡岡崎町大字康生乙百四十番一戸
明治二十三年一月一日ヨリ同年十二月三十一日マデ満壱ヶ年間
右約定相整愛知県額田郡岡崎町大字康生甲百三十九番戸応用英語学会英語教師ニ傭牌仕度候条御届申上候也
愛知県額田郡岡崎町大字康生甲百三十九番戸
応用英語学会長
明治二十二年十二月十日
雇
主
正
村
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外国人居留地外僑寓願
米合衆国サウスカロライナ州キングスツリ
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・フルトン氏及妻及子供
冨円・印・司・司己同
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右ハ明治二十三年一月一日ヨリ同年十二月三十一日マデ満壱ヶ年間英語教師トシテ傭間仕度候間愛知県額田郡岡
崎町大字龍田五十三番一円松浦銀蔵控家同町犬字康生乙百四十蕃一月ヲ雇主へ借受僑寓為致度一一付右僑寓之許可相成
度奉願候也
明治二十二年十二月十日
開国と鎖国政策の矛盾の諸問題
五
経 営 と 経 済
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兼 任 御
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東京市芝一以什金今虫
叫H明治学院内米同日教川
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・ フ ル ト ン 千八円六十五年八月十七日生 右は日下当市芝区
I H 金明治学院神学教川として吋地に寄情桜花候愛知県額問那附的町千康生に設以有之口木某併 教講義所立教をも兼任仕肘候間此段御同候也
(この屈の受附は明治三十八年二月二十一日になっている)
外国人旅行免状御下附願
愛知県額同郡阿崎町大字民生
共同館々主正村基一医
北米合衆国人
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フ ル ト ン 氏
妻
伊 向
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明 ︐ z ‑ H
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阿 古
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/リイチ・フルトン氏及子供二名 右之者健康保養之為メ七月十五日ヨリ九月二十日迄神戸湊へ柱似旅行取計度旨巾出候問該旅行券御下附相成度此 段奉願候也
右 一
服 主
明治廿六年七月五日
正
村
基 外務大臣
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光
殿
進
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願
別紙外務大臣へ御進達司被成下度此段奉願候也
明治廿六年七月五日 共同館々主
正
村
基
愛知県知事
時 任 為 基 殿
外国人旅行券御下附願
愛知郡額田郡岡崎町大字康生
共同館々主正村落雇
北米合衆国人
コ ニ ス
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フ ル ト ン 氏
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右之者病気療養之為メ七月七日ヨリ向弐週間当県南設楽郡新城町八名郡富岡村南設楽郡大野村北設楽郡津具村長
野県下伊奈郡且関村同郡根草村ニ至リ順路帰岡取計度旨申出候間該旅行券御下附相成度此段奉願候也
(明治二十六年六月三十日届出︒右の南設︑北設︑信州へのコ i スは今もなお宜教附のとられる布教のコ i
スである︒乙の届のように明かに伝道のためと思われるものにも健康上の理由がつけられている乙とが
注目される︒明治二十二年二月の帝国憲法(施行は二十三年十一月より)第二八条の規定によって︑信
教の自由が公認された後であるが︑まだ禁教時代の名残がこ L に見られる︒)
開国と鎖国政策の矛盾の諸問題
七
経 醤 と 経 済
人
外国人旅行免状下付願
愛知県額田郡岡崎町大字康生七十七番戸
共同館々主正村基雇
北米合衆国人
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フ ル ト ン 氏
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右者健康保養之為メ本月廿一日ヨリ廿五日迄名古屋市ヘ往復旅行取計度旨申出候間該免状御下付相成度此段奉願
候也
右雇主
明治廿六年五月十四日
(岡崎から名古屋への往復にも旅行免状の下附を必要とした乙とがわかる︒﹀
しかし他面から考えると︑乙の遊歩規定は外人の保護取締の上から必要であった︒当時は外人と見れば︑た Y
そ れ
正
村
基
ピけの理由で斬殺する事件が瀕々として起っている︒外人を国内にいたるところ自由に旅行させることは甚ピ危険で
あった︒とれは二二五年にわたる鎖国(一六三三年の家光の海外渡航の禁止から︑
う世界史上他に類例を見出し難い変態的国策がもたらした変態的民族心理によるものであろう︒当時他の文化面では
高度の段階にあった我国民が︑事対外人関係になると未開野蛮の原始民族と大して相違がない低い段階にあったこと
を示している︒外人が住む家を﹁けがれる﹂とする思想が日本人一般にあった乙とを考え合せると︑右の変態的民族
心理の存在を否定できない︒ 一八五八年の開国条約まで)とい
我国の開国条約に見られる﹁遊歩規定﹂のような窮屈な規定が中国の場合にあったかどうかを︑我国の場合と比較
することは問題を一層明らかならしむるであろう︒
中国と最初通商をした国はポルトガルであるが︑それは十六世紀の初頭に行われた︒葡人についで蘭人が東洋に現
われたが︑それについてはこ︑では特記するほどのことはない︒英国は一六
O
O 年(慶長五年)に東印度会社を設立
し︑インドにおいて仏人の勢力を駆逐しインド経路に成功した︒次いで英国はこの会社の手を通じて広東貿易に進出
して来た︒一七一五年英国は広東海関当局との互市協定
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により︑広東で貿易をなす乙とを許された︒
しかし広東では外国との貿易を独占的に行うことを政府から特許された商人の団体である十三の公行(わ
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) 商
人︑いわゆる広東十三行(文は十三洋行)とのみ取引を許された︒その後仏・独・瑞・蘭等の欧州諸国も殆んど全部
通商を許されたが︑英国の場合と同様の条件であった︒
一八四二年(天保十三年)の南京条約によって︑条約通商時代に入り︑その条約の第二条によって︑開港場として
広東︑慶門︑福州︑蒋波︑上海の五港が解放された︒右のうち上海を除く他の四港は一五一七年ポルトガル人の来航
以来すでに外国貿易のために聞かれていたが︑それらは条約に基かない恩恵的許容にすぎなかった︒しかるに南京条
約はこれらに対し︑何等の﹁迫害又ハ拘束ヲ蒙ルコトナク﹂
の権利を︑対等の地位において︑外国人に許与した︒また公行商人の特権を廃止し︑外人はいかなる商人とも自由に
取引するを許された︒
( 当
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︒ ω 可 ω 百件)通商並に居住
しかし翌年の追加条約第六条では﹁開カルヘキ五港ニ居住又ハ来往スル英国商人其他ノ者ハ商業上ノ如何ナル口実
ヲ以テスルモ地方官憲カ英国領事ト協議ノ上指定スヘキ一定短距離ノ地域ヲ超エテ周囲ノ地方ニ入込ムヘカラサルモ
(以下略)と規定され︑一定の短距離の地域を限り︑往来を許された︒乙れは安政五年(一八五八)の五ケ
ノ ト
ス ﹂
開 国
と 鎖
国 政
策 の
矛 宿
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問 題
九
経 営 と 経 済
O
国条約の﹁遊歩規定﹂と大して変らない窮屈な規定であるが︑十五年後の一八五八年の天津条約第一条によって廃棄
された︒天津条約の第九条では外人の国内旅行の自由を大幅に認めている︒即ち︑娯楽のため又は商業上の目的のた
めに︑外国領事が発給し且つ中国の地万官憲が副署した旅券で︑内地のどこにでも旅行できることになった︒但し︑
開港場から百支里(三十三哩)を超えず︑且つ期間五日を担えない小旅行には旅券の必要がない︒
我国の場合には︑開港場の周囲十里を超えて旅行するときには外務大臣の旅行免状を必.安とするが︑それに比べて
中国の場合は手続が至って簡便であり︑事実上旅行の制限はなかったと考えてよい︒
南京条約では我国と大差がなかったが︑天津条約以後か︑る自由な規定ができた乙とは︑中国は本来開放的な大陸
国であり︑また我国のような鎖国の歴史がなかったので︑外人に対する偏見がなかったからと考えられる︒従って︑
我閃のように一八五八年(安政五年)の開国後︑一八九九年(明治三十二年)にいたるまで︑矛盾が長く存続するこ
と な
く ︑
一八四二年の南京条約によって開国以後︑早くも一八五八年(天津条約)には解消したわけである︒
中国の場合は我国のような鎖国の歴史がなかったから︑我国の安政五年(一八五八)の開国条約とは多少怠味が呉
るが︑黙許による或は恩恵的な通商でなく︑主権者間の正式な通商条約による通商開始の時を以て開国の時とみるな
ら 王
︑
一八四二年の南京条約が開国条約に相当する︒従って︑中国の開国は我国より十六年早かったわけである︒
第 三 章 我国近代工業創始期における小菅ソロバン・ドック
開国前から幕府はオランダに留学生を派遣した︒文久二年(一八六二)には︑軍艦を註文し︑同時に諸技術を習得
させるために留学生七名を渡欧させた︒幕府は軍備其他諸工業の近代化の必要を痛感し︑欧州先進国にそれに必要な
知識と技術とを学ぼうとした︒しかし国内一般は未だ撰夷思想が強く︑外人技師にそれらを学ぶ乙とは一種の矛盾で
あ っ
た ︒
それにもか︑わらず幕府は弘化から嘉永年間(一八四四 i 五ゴ己にかけての度々の黒船の来航に刺戟されて︑何よ
りも先づ軍備の近代化の必要に迫られた︒軍備の近代化の某礎をなす市一工業の建設を先づ第一に急ぐことは︑後進国
で産業革命が行われようとするときに共通に見られる現象である︒
それは我国では文久元年(一八六一)三月に建設された長崎製鉄所となってあらわれた︒我同と断々同時に開国し
た中国は一八六二年(文久二年)に李鴻章が上海に兵器工場を開いた︒それから五年後︑曾国滞が上海に江南造船廠
を開き︑一八六六年に左宗栄が福州に福州航政局を建設した︒これらが中国での産業革命の発端とされている︒軽工
業の近代化は︑我国と同様に中国も重工業より少しおくれている︒欧州の場合は東洋とは順序が逆で軽工業において
先づ産業革命が行われた︒か﹀る相違を生ずる理由は︑彼我歴史的諸条件の相違によるものである︒西洋の産業革命
は近世合理主義精神の発露である企業家の自由な創造的精神に基くものであった︑めに︑国家自らこれに関与せず私
的資本の活動に委ねられた︒乙の乙とは比較的少額の資本で足る軽工業の近代工業化に対して有利に作用した︒日・
中両国ではか﹀る事情は見られず︑近代にいたって︑西洋資本主義諸国家の帝国主義的攻勢に対して︑自国を防衛す
る必要から︑先づ国家資本の活動となり︑経済目的からいえば非合理な軍事︑国防目的から工業化が行われたのであ
市一工業の近代化には外人技師による工事の設計と指導監督を必要とした︒幕府が外人技師を招鴎することは開国前 る ︒
後の撰夷思惣の盛んな時代にあっては一種の矛盾であったが︑それにもか︑わらず幕府は貫工業の創設には︑外人技
師の設計・監督に依存せざるを得なかった︒また︑近代海軍の創設にも和蘭政府の多大の援助を仰がねばならなかっ
た︒文久元年(一八六一)に完成した長崎製鉄所と慶応四年(一八六八)にできた横須賀製鉄所はそれぞれ蘭人と仏
開 国
と 鎖
国 政
策 の
矛 盾
の 諸
問 題
経 営 と 経 済
人の技師が主として工事に当っている︒安政二年(一八五五)に長崎に設けられた海軍伝習所の教官は和蘭士官であ
り︑そ乙の練習艦は和蘭国王から幕府に寄贈された我国最初の蒸気軍艦観光丸であった︒
開国前後において我国の近代工業の建設や軍備の近代化について︑専ら外人の知識と技術に依存せぎるを得なかっ
たことは︑当時の撰夷思想からみて矛盾であったが︑乙の矛盾に対して︑それを克服しようとする動きが一面にあっ
たことは当然であった︒例えば︑電信︑鉄道の敷設についての外人の請願に対して︑五代友厚が﹁通信︑交通に関す
る機関の設備は︑国家自ら乙れを施設すべく︑ 一部外人にこれが特殊権益を附与すべきにあらず︒﹂として︑明治二年
以来政府自ら敷設に着手したことなどは︑根本的動機は国家主義であったとしても︑外人の援助をうけず︑日本人自
らの手で建設しようとする意思もこれに加わっていたと考えられる︒
我国近代造船業の発祥時代であり︑それは同時に近代工業の草創期を意味するが︑その時代において三大造船工場
の一である小菅ドックは︑長崎製鉄所︑権須賀製鉄所に比べると大きな特色がある︒長崎製鉄所(文久元年三月)︑
権須賀製鉄所(慶応四年四月)はそれぞれ外人技師の設計︑監督の下に建設されたが︑小菅ドック(明治元年十二月
)は工事については外人の手を借りないで︑邦人岩瀬公闘が主となって完成したことである︒建設の年代も最も新し
かったが︑工事そのものは専ら日本人の手で完成したことは︑矛盾の解決に一歩を進めたものというべきである︒も
とよりスリップ・ドック建設に必要な諸機械や蒸気機関は英国に註文したものであるが︑その据付や捲上機小屋其他
の建設には︑岩瀬公園が中心となって工事に当った︒彼はその前に蘭人技師ハルデスの下で長崎製鉄所の建設工事に
従事したので︑その経験を生かしたのである︒二十五馬力の機械力をもち︑千屯までの船を上架できるドックであっ
たから︑当時としては我国朝野の注目を集めた大工事であった︒明治政府は建設の途中から重︑誕し︑完成後三ヶ月た
って︑明治二年三月に十二万ドルで買上げた︒
乙の建設は五代が欧州留学中︑仏商コント・デ・モンホフランに与えた覚書に由来するものである︒ドック完成(明
治元年十二月)の前年の慶応三年八月にモン柿フランは来朝しているから︑彼が工事の計画について五代からの相談に
与ったであろうことは推察できる︒しかし彼は元来商人であって技術家ではないから︑工事の実際を指導できる筈は
なかったであろう︒長崎と横須賀の製鉄所の場合の外人技術家とは相違する︒
邦人技術家の手によって専ら工事が進められたという意味で︑小菅ソロパン・ドックは開国史上重要な意義をもっ
て い
る ︒
第 四 章
開国と信教自由の問題
第 項
信教自由の原則と政・教分離の原則
近代自由主義国家の政治原則の中で︑信教の自由と政・教分離の原則は基本的な重要性をもっている︒
明治政府は慶応四年(一八六八)三月に﹁五ケ条ノ誓文﹂を公表して︑統治の原則を明かにした︒その中には﹁旧
来ノ隔習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クへシ﹂とか﹁知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ﹂などが書かれてあり︑一応
表面上は進歩的開明的な統治原則の上に立つべき乙とを示した︒しかし二百年余にわたる長い鎖国によって︑世界の
進歩の大勢に暗く︑封建的伝統の霊園の中で成育した明治政府の指導者達が︑旧来の隔習から脱却して進歩的な立場
をとることは容易ではなかった︒従って明治新政府が成立の当初にとっに政策の中には︑右の誓文の趣旨に全く矛盾
するものがあった︒
それは明治初年のキリシタン迫害政策と復古神道による祭政一致政策を強行しようとしたことに最もよくあらわれ
開 国
と 鎖
国 政
策 の
矛 盾
の 諸
問 題
経 蛍 と 経 済
四
ている︒この二政策は表裏一体をなすものであるが︑これらは近代自由主義国家構成の原理に全く矛盾するものであ
っ た
古代に多くみられる祭政一致の国家や西洋中世の宗教裁判時代は別として︑信教自由の原則が近代国家の市一裂な政 ︒
治原理であることは多言を要しない︒また祭政一致主義は古代国家は別として︑近代国家の政治原理としては全く﹁
天地の公道﹂に基かないものである︒近代国家の統治は人聞の理性判断に基く︑合理的成文憲法によるべきである︒
その憲法の構成原理や内容が︑特定の宗教の教義に基くものであってはならない︒神官の﹁のりと﹂や神宜が統治の
原理とされたならば︑政治に合理性や進歩性は期待できないのであって︑その国家は近代国家たるの資格を失ってい
るものである︒近代自由主義国家の憲法の基本原理は︑すべて国民の理性に基く合理的判断によるもので︑しかも個
人の基本的人権(各種の自由権)をあくまでも尊重すべき内容のものでなければならない︒
明治政府がその成立の当初に強行したキリシタン迫害政策と祭政一致政策とが︑如何に開国後の進歩の大勢に矛回
するものであり︑またその矛盾が如何にして解決されたかということが究明されねばならない︒
第 二 項
貿易とキリシタン問題
開国以後︑文明開化の進展と共に開国と禁教との聞に横たわる矛盾は︑円十晩何らかの形で解決されねばならなかっ
た︒乙の解決は単に信教の自由の問題だけに止らず︑我国が近代文化国家として発展しうるか否かを左右する根本条
件 で あ っ た ︒
当時我国に貿易のために来朝した外人にとっては︑貿易と伝道とは全く別個のものではなかった一面があったこと
も考えねばならないからである︒我国だけでなく当時諸々の後進国に進出した欧米人の殆んど全部はキリスト教徒で
あった︒当時はまだ欧米人の聞にルタ l ・カルヴアンの宗教改革及びジョン・ウエスレ!の﹁信仰復興運動﹂以来の
信仰の火が残っていた者がかなり居ったと考えられる︒彼等にとっては現世の事業(営利)と信仰とは別個のもので
はなかった︒従って貿易と伝道とは不可分と考えて来朝した者も居った︒安政五年の開国から六年後の元治元年(一
八六四)には早くも大浦天主堂が建てられ︑伝道に熱心な宜教師が次々に来朝して︑キリシタン禁制下にもか冶わら
ず日本人の聞にひそかに伝道を初めた︒営利と信仰とを別ものと考えるようになったのは︑欧米人のい仰が次第に冷
却し始めた二十世紀に入ってからといわれる︒ ζ れらの消息はキリスト教国民に特有なものである︒
以上の事実を顧る限り︑対外人との貿易史を問題とする場合︑キリシタン問題が重要な意味をもってくる︒もし明
治政府が禁教政策︑キリシタン迫害政策を頑として永く固守しつ Y けたならばどうなったであろうか︑おそらく欧米
諸国民は我国民を済度し難い未開野蛮の民として︑貿易はもとより其他の文化の面においても次第に相手にしなくな
ったであろう︒乙の意味で禁教問題は我国の文明開化の道に横たわる最大の暗礁であったと言っても過言ではなかっ
た︒当時のことを問題とする限り︑経済外的な問題であってもそのことに触れざるを得ないのである︒
第 五 章
信教自由の原則と切支丹迫害問題
鎖国と禁教とは元来︑歴史的事実として密接不可分の関係にある︒いわば車の両輪の如きものである︒禁教のため
に鎖国政策が生じたのは歴史的事実である︒従って幕府が欧米諸国からの強い要求により︑開国にふみ切ら︑ざるをえ
ないような状態に立いたると︑キリシタン禁教の問題に直面せざるをえないようになった︒乙れは時代の最大の悩み
であったといっても過言ではなかった︒
開国によって車の片側の車輪が外れた以上は︑ いつまでも禁教政策が維持できなくなるのは当然であった︒しかし
開国と鎖国政策の矛盾の諸問題
一 五
経 営 と 経 済
一 ‑‑L‑ ノ
、
幕府は容易に禁教政策を放棄することができなかった︒幕府の要路の大官中には度々の列国外交使節との交渉により
世界の大勢に目ぎめると共に︑天主教が必ずしも邪宗でないことを悟るものもあったが︑国内の尊撰党にはキリシタ
ン排撃の気分が依然として強かった︒
幕府も明治新政府も開国の歩を進めれば進めるほど︑ますます開国と禁教との矛盾に悩まざるをえなかった︒幕府
はキリシタンを邪宗門とする三百年来の伝統的政策と列国公使団の厳重な抗議との聞の板狭みになって苦しんピ︒援
夷党並に明治新政府の指導者達の聞には︑依然とキリシタンを邪宗門とする考えが強かった︒それは慶応三年の浦上
キリシタン迫害事件と明治二年浦上キリシタン総流罪となってあらわれた︒しかし外国公使団側からはキリシタン迫
害に対して︑強硬な抗議が度々なされた︒国交断絶をほのめかすものも居った︒それより先︑すでに安政三年八月に
は和蘭の甲比丹ドンケル・キュルチウスから︑踏絵の法の廃止について熱心な勧告が長崎奉行に対して繰返し行われ
た︒そして遂に幕府も禁教政策(宗門改)は存続させるが︑踏絵の廃止に同意し︑安政五年の五ヶ国条約にはその廃
止が規定された︒
政府のキリシタン迫害政策にもか冶わらず︑天主教は開港場を中心として次第に広まりつ冶あった︒明治三年には
大阪︑兵庫︑四年には東京に天主堂が建てられ︑各種の慈善と教育の授業が始められた︒新教の万でもすでに安政六
年に宣教師が三名長崎に来た︒政府の禁教令にもか︑わらず︑受洗者は次第に増加しつ︾あった︒乙れは禁教政策に
対する大きな矛盾であった︒政府は大勢に抗しえず︑扶手傍観するのみであった︒迫害を強化すれば︑列国公使団の
厳重な抗議をうけた︒受洗者の増加に対し︑政府はその面白上永くそのま︑放任できなかった︒早晩解決されねばな
ら な か っ た ︒
明治五年岩倉大使一行が米国から欧州諸国を巡遊した際︑各国民からキリシタン迫害問題をはげしく非難攻撃され
た︒彼等も狭い島国から広い欧米の天地を巡歴し︑文明世界の空気に直接ふれて世界の大勢を知り自己の過誤に気付
いた︒かくて大使一行は浦上キリシタン信徒の解放を本国に電奏した︒乙の結果︑明治六年二月にはキリシタン禁制
の高札を撤去して各国公使に通知した︒同年三月の太政官布告によって︑浦上信徒は長年の総流罪から完全に解放さ
れ帰村することになった︒
結局︑政府の譲歩によって矛盾は一応解決した︒しかし法律上信徒の自由が認められたのは︑明治二十二年の憲法
発布(第二十八条の規定)以後のことであって︑それまでは黙許時代に入ったのである︒迫害が終った頃︑宣教師と
連絡があった信徒は一万三千乃至一万四千位居った︒明治六年キリシタン禁制の高札の撤去当時︑我国に宣教師は十
九名居ったが︑その後更に十一名が周年九月までにフランス本国から来朝し伝道に従事した︒黙許時代にも伝道はつ
づ け
ら れ
た ︒
第 六 章
政
・ 教 分 離 の 原 則 と 神 道 国 教 主 義
明治政府が行ったキリシタン迫害政策と表裏一体をなすものに︑神道国教主義とそれに基く神仏分離政策がある︒
明治政府はキリシタンを迫害する一方において︑他方では神道国教主義をとり︑復古神道による祭政一致を企てた︒
その予備行動として慶応四年三月に神仏分離令を出した︒
キリシタン迫害政策が︑近代自由主義国家の政治原理の一である政・教分離の原則に矛盾する時代錯誤的なもので
あったことは明かである︒前者は消極的な面で文明開化の大勢に矛盾するものであり︑後者は積極的な面で同様に矛
盾するものであった︒
明治政府が明治元年三月十三日の布達によって︑祭政一致︑神砥崇敬の復古神道主義の根本方針を明かにした乙と
開
国
と
鎖
国
政
策
の
矛
盾
の
諸
問
題
一
七
経 蛍 と 経 済
Y¥
は平田篤胤の系統をひく復古神道家の建議に基くものであるが︑乙れは近代自由主義国家の政治原理に矛盾するピけ
でなく︑封建時代の日本を支えて来た神道や仏教が新しい進歩的な日本の精神的支柱たりえないことは明かである︒
新時代の精神的支柱として︑神祇崇敬︑祭政一致の復古主義をもってくることは大きな矛盾であった︒
復古神道に基いて︑明治二年七月に神抵省をおき︑二宮六省中の首位を占めさせた︒五年三月には神砥省を廃止し
て教部省をおいた︒六年一月には大教院が設けられ︑仏教僧侶も神官と相並んで装束をつけ︑拍手をうって大教院に
出仕し︑仏教と無関係で三条教憲を講義しなければならなくなった︒乙れは決して神仏習合でなく︑仏教が神道に凶
服した乙とに外ならない︒
しかし神官と仏僧とが何時までも調和しうる筈はなく︑両者は度々衝突し︑互に排斥するを免れなかった︒仏間の
聞にも熱心な信仰をもつものも少なからず居って︑祭政一致や大教院に対して不満を抱く人々が居った︒かくて代表
的仏教各派から三条教憲と宗教との混同について非難を唱え︑宗教と政治との分離を主張した︒一方ではキリスト教
がキリシタン禁制の高札撤去以後は新しい勢で復興しっ︑あり︑政府はそのなすと乙ろを知らず︑傍観する外はなか
っ た
かくて遂に八年四月に至って大教院は廃止され︑仏教各宗は各自その独自の宗旨を説く乙とを許き仰るにいたり︑ ︒
ワ ム
仏教側では信教の自由を得た︒更に九年十月には教部省も廃止されて︑その事務は内務省に移された︒
明治初期に明治政府によって政治の最高指導原理として︑大なる抱負をもって初められた祭政一致の復古神道主義
は︑一時は政府の組織の中で最高の地位におかれた神祇官を復興した︒しかしそれは日進月歩の運命をもっ明治日本
の指導原理としてはあまりに旧時代的で︑進歩せんとする時代に矛盾するものであった︒またそれは近代国家の政治
原理に根本的に矛盾するものであった︒従って︑十年を経ないうちに殆んど衰滅した︒政治形態としては祭政一致は
実現しなかったが︑神社に関する多くの祭犠や特典が復興され︑国民一般に敬神崇祖の念が奨励された︒
キリシタン迫害政策も復古神道主義による祭政一致政策もそれぞれ時代の進運に対して矛盾するものであったが︑
その矛盾は両政策の後退によって解決される結果となった︒神仏分離政策は復古神道主義︑祭政一致主義を実現する
ための予備的手段として生じたもので︑後では廃仏致釈運動にまで発展した︒この運動は明かに目的を逸脱した行き
すぎであった︒廃仏運動の万は徹底せず︑明治中期以後︑仏教の復興を見たが︑神仏分離は乙れ以後全国的にあまね
く行われ現在にいたっている︒要するに神仏分離政策は予備的或は派生的産物であって︑祭政一致主義のように時代
の矛盾そのものを表現するものではなかったが︑それと密接に関連するものである︒
第 七 章
貿易取引方法の変動と商権回復の問題 第 項
貿易取引方法の変動(長崎会所)
開国と長年の鎖国政策との聞に生ずる多くの矛盾を含みながら︑安政六年六月以降︑長崎のほか横浜︑函館の三港
が開港され︑多数の外国人が来往して貿易に従来する乙とになった︒それに伴って各種の問題が生じた︒
開国以後は安政六年五月二十八日附の幕府沙汰書により︑商人は自由に外人との直接の商取引が許されるようにな
った︒鎖国時代の出島における制限貿易からみると著るしい変化である︒
鎖国時代には出島貿易の初期の明暦元年(一六五五)から寛文十一年(一六七一)までの十七年間だけが相対貿易
で︑邦商は蘭・唐二国の商人と直接に自由取引ができた︒しかし ζ の方法では邦商同志の競り合いとなり︑白紙をは
じめ諸種の輸入貨物の高値を促進し︑そのために邦商で破産するものが生じた︒幕府は輸入貨物の価格を引下げ︑邦
開国と鎖国政策の矛盾の諸問題
九
経 営 と 経 済
二 O
商及び一般消費者の利益を守り︑更に邦貨の海外流出を防ぐために貿易万法の変更を余儀なくされた︒
その後貿易取引方法は色々の変遷があったが︑右のような自由な相対貿易は許きれず︑幕府の統制貿易時代に移っ
た︒殊に元藤十一年(一六九八)長崎会所設立以後は︑幕府の貿易官営化が行われ︑外国貿易は長崎会所だけで行わ
れた︒しかし長崎会所は幕府が直接に設立した機関でなく︑長崎の地役人の上層部を中心として組織された半宮常的
な公共的な市民の貿易取引機関であった︒会所の役員は大体次の通りであった︒
付
会所調役(町年寄兼務)
二 人
同
日付(町乙名より選任) 二人
国
産物方日付
人 同
吟味役
/ に
人 請 払 役 十 四 人
q d
其他小役人︑五ケ所宿老︑等合せて二一三人居った︒
長崎会所は幕府が直接に設立した機関ではなかったが︑貿易利潤の中から︑毎年幕府に多額の運上金を支払い︑幕
府の財政牧入に重要な影響をもつので︑長崎奉行の監督下にあった︒長崎奉行は幕府のために徴税し︑毎年秋季の奉
国
行交代の際︑新旧奉行立会の上︑金銀及び貨物の現在高を検査し︑且つ︑
た ︒
一ヶ年間の金銀の出納状況を幕府に上申し
会所では蘭・唐船が入港する度毎に積荷目録を受取り︑貨物を陸揚げして倉庫に蚊める︒その際︑見本貨物だけを
残しておき︑これを標準として吟味役にそれぞれ鑑定させて買入値段を定め︑唐商人又は蘭商人と協議する︒これを
持渡品直組と称した︒協議といっても実際は協議するのでなく︑一方的に会所役人の方から︑乙れを告知したのにす
ぎ な
か っ
た ︒
貿易品の価格は大体において︑寛永十八年(一九四一)の時価をもって不動評価とし︑乙れを本途直段といって︑
みだりに変更するのを認めなかった︒しかし︑時価が騰貴して損失を生じた場合は割増直段をつける乙とを許し︑時
価の低落したものには割減手段を構じなかったので︑唐・蘭商人は乙の買入価格に異議を言わなかったといわれる︒
右の直組が終ると︑会所は所定の保証金を納入している所謂入札商人に見本と積荷目録を示して買入値段を入札させ
る︒幕末頃には約二 O 人の入札商人が居った︒右の持渡品直組は会所が唐・蘭商人に対して支払う輸入品の価格であ
り︑会所がこれらの輸入品の見本を入札商人に示して入札させた買入値段との差額が会所の政益になる︒
右の過程を経て輸入した貨物代価の支払いには︑金銀と銅とを用い︑一部分を俵物・諸色等の輸出品と相殺した︒
輸出品の値段は唐・蘭商人と協議する︒そして船一般の積載輸入品の総価額中から︑輸出品の総価額︑輸入品に対す
る課税︑船舶出入及び碇泊費用︑唐・蘭館滞在中の館内常費等を控除し︑その差額に対し︑金銀又は銅を交付し︑貿
易を決済した︒
長崎会所は毎年多額の枚益をあげた︒その政益中から先づ幕府への運上金を支出し次に町政上の諸費用︑神社・仏
閣・役所の維持費︑受用銀(地役人の俸給)︑助成銀(市民一般に分配する筒所銀︑かまど銀)等約七万両(地下配
分七万両と称される金額は必ずしも七万両に限っていない︒年によって不同がある︒)を支出し︑その剰余は積立金と
した︒これは幕府への臨時の献納金︑凶荒救助金等にあてた︒乙の剰余金は大体五万両位あり︑積立金は多い時は百
万両︑安政年間の貿易衰微の頃にも五十万両の積立金があったといわれる︒幕府への運上金は貿易の盛時には毎年五
万両位あり︑後年貿易が衰退してからも一万五千両を下ることはなかった︒幕府は右の運上金の外︑常に種々の名目
をつけて上納金を枚受した︒従って︑長崎会所は幕府財政枚入の重要な財源の一であった︒か冶る状態が開国まで継
開国と鎖国政策の矛盾の諸問題
続 し
だ ( 4 )
経 営 と 経 済
第 二 項
長崎会所と広東十三行
南京条約(一八四一一)以前の欧州諸国と中国との問の貿易は︑安政五年(一八五八)の開国条約以前の我同の外国
貿易に似ている点がある︒
我国では開国以前︑蘭・唐二国が唯一の開港場である長崎で︑長崎会所を通じてのみ貿易を行っていたが︑南京条
約以前の中国は︑広東では広東十三行を通じてのみ貿易をなす乙とが許されていた︒外国貿易について政府から独占
的に取引するのを特許されたその国の商人の同体である点で︑会所と十三行とは共通点がある︒まに両国における外
国貿易が︑か﹀る特権的独占団体を通じて貿易を行ったところに類似点がある︒か﹀る特権的独占団体を通じてのみ
外国貿易を許すことは︑外国貿易の初期の時代には欧州でも多く見られる現象である︒但し︑我国は長崎にけが唯一
の開港場であったが︑中国は広東のほか︑度門︑一福州︑脊波が十六世紀始から︑条約によらず恩忠的に外国貿易のた
めに開港されていた︒
十六世紀初頭︑ポルトガルが支那と通商を行ったが︑葡人が植民地経常の失敗によって︑世界の通商の舞台から退
場した後に︑和蘭が東洋に進出して来た︒和蘭に次いで東洋に来たのは英国である︒
一 六
OO
年に英国は東印度会社を設立した︒乙れを東洋侵略の先駆となし︑次いで仏国の勢力を印度から一蹴し︑
印度侵略に成功した︒英国が乙の会社の手を通じて広東貿易に進出して来たのは一七一五年広東海関当局(図︒︒︒︒)
民d
との聞に互市協定
( 8
ロ 8 己主)を締結した時に始る︒その後︑英国のみならず︑仏・独・瑞・丁・西等欧州の殆ん
どすべての国々も次第に通商を許されたが︑これらの協定は何れも中国と対等の地位に立った国際条約でなく︑
種.
の恩恵的許容にすぎなかった︒その結果は極めて制限の多い不自由な通商制度となってあらわれた︒
通商のため広東に来た欧州商人は︑中国人と雑居するのを許きれなかった︒中国側では外人を自由に国内に入れ︑
自国民と雑居させること好まず︑また外人等の所属国が中国で対等であることを拒み︑欧州商人はむさくるしい支那
街の一廓に居住せしめられ︑多くの不便と屈辱とを受けた︒(商館)とわ︒・図︒ロ悶
司営件︒ミは当時︑外国人が居住を許された唯一の場所であった︒ 司 ω ︽リ件︒門司 (公行)はこの時代
に 設 け ら れ た ︒ ゎ
0・ 図 ︒ ロ
m は中国側の貿易商の同
体 で
あ る
︒
この司何百件︒ミはその地域に制限を受け︑すべての司 RZ ミが占め得る土地の広きは︑庭園及び通路を合めて︑
横 約
一 一
O
O 択︑縦約七
O
O 択(大凡一二︑四
OO
坪)に限られた︒
の所有に属し︑外国商人は家賃を払って借入れたのであって︑
人の勢力が極めて微弱であった司 22 ミが後年の繁華な外国租界の起源になった︒
一方︑外国側の司 RZ ミに対して中国側にできたのがわ︒・
F g m
司 ω の
件 ︒
円 可
︑ は
出 ︒
m ロ
B O H J
円
M
何 百 件 Y
n o
一切の所有権を許されなかった︒かくの如く最初は外
( 行
の 商
人 )
(公行)である︒外商は公行とだけ取引するの
を許された︒公行は政府から特許を受けた中国商人の貿易独占団体であった︒
一 七
O 二年には一人だけであったが︑
一 七
二
O 年に団体よ七て設立された︒一七四五年頃には貿易独占団体としての地位が固くなった︒公行商人の人数は
ヴ
d 十三名と限定された︒広東十三行(又は十三洋行)と称されるものはこれである︒しかし十三行あったことはむしろ
稀で︑その数は時により著るしく変動があった︒
当時外国商人は取引上種々の制限・圧迫を受けた︒一七六 O 年に制定された外人取締規則によれば︑長崎の出'同ほ
どの寵の鳥的制限を受けたわけではないが︑かなり行動の自由を制限された︒その規則は左の内容のものである︒
一︑すべて軍艦は虎門鎮(回
o m g )
から内に入港できない︒商船保護のための軍艦は港外に碇泊すべきで︑商船の
開
国
と
鎖
国
政
策
の
矛
盾
の
諸
問
題
一
一
一
ニ
経 営 と 経 済
出港準備が整った後に共に出帆しなければならない︒
二︑婦人︑銃砲︑槍其他一切の武器は司"のさミ内に入れる乙とはできない︒ ご 四
一二︑すべてパイロット及び買弁はマカオ支那官憲に登記し︑許可証の交付を受け︑乙れを胸部に着用せよ︒誰でも
買弁の直接管掌の下でなければ︑外国船と交通することはできない︒外国船で密輸が行われた場合には︑その船
舶に属する買弁は処罰される︒
四︑各
p z
々は支那人使用人を八名以上雇ってはならない︒ g
五︑外国人は任意に河上を航行してはならぬ︒各月の八日︑十八日︑二十八日には花園(巴︒当 2
の 里
品 ︒
ロ ω )
一哩を距る)に散歩を許すが︑家畜は十匹以上携帯してはならぬ︒もし外泊するときは︑次回の外出許可を認め (それらの職務を列挙せよ)
約
ないであろう︒外国人は常に通訳を同行せよ︒規則違反に対しては処罰される︒
六︑外国人は支那官憲に直接話しかけてはならぬ︒申立てを必要とする場合には行の商人(図︒ロ
mB2
の ﹃
ω 三)を
通じてしなければならぬ︒
七︑行の商人は外国人に負債を負ってはならぬ︒密輸を禁止する︒
八︑商品を積載し入港した外国船は︑河川以外を航行してはならぬ︒諸船は直ちに黄捕に来なければならぬ︒他所
で密貿易をしてならぬ︒
以上のほか︑公行の存在によって︑外国商人は種々の不利益を受けた︒公行による搾取は年々噌加して行ったので
一七二七年にいたり︑外国船々荷販売掛
( ω
ロ 匂 22
同 問
0 2 )
は︑もしそれが改められなければ︑広東を去り︑医門で
通商を開始するであろうと宣言した︒そこで広東海関当局は公の関税以上には負担をかけない旨の約束した︒しかる
一七二八年には外国人に販売するすべての商品に︑従価一割の附加税が課せられた︒そ乙で外国商人は支那総督
l 亡
に抗議したが不結果に終った︒一七三二年に外国船は虎門鎮港外に碇泊し︑一七一五年の互市協定に関する実行の保
証が与えられなければ︑入港しないであろうと申入をした︒海関当局はその申入を承諾したが︑不合理は依然として
守 '
継 続
し た
︒
右のような状態のま︑︑一八四二年の南京条約を迎えた︒南京条約の締結によって︑中国の対外貿易は︑双方の国
の主権者の間で締結された正式の通商条約に基く貿易が始めて聞かれることになった︒南京条約によって事情は外国
商人に有利なように改善された︒広東十三行時代からの公行制度によって︑外人が受けた不便と不利益は著しかった
( 註
)
ので︑南京条約の第五条によって︑公行制度(特許商制度)は廃止された︒そして英国商人は﹁任意ニ何人トモ通商
取引ニ従事スルコト﹂ができるようになった︒また居住については同条約第二条に﹁清国皇帝陛下ハ英国臣民カ其ノ
家族従者ヲ携エテ広東︑慶門︑福州︑韓波及上海ノ市町ニ於テ商業ニ従事スル為迫害又ハ拘束ヲ蒙ルコトナク居住ス
ルヲ得シムヘキコトヲ約ス﹂と規定され︑広東十三行時代のような窮屈な居住制限を受けないようになった︒
(註)第五条清国政府ハ広東ニ於テ通商ニ従事セル英国商人ヲシテ専一フ当該目的ノタメニ清国政府ヨリ免許ヲ得タル﹁行﹂商人(
公行)トノミ取引スルコトヲ強制シタリシカ清国皇帝ハ英国商人ノ居住スヘキ一切ノ港‑一於テ将来右ノ慣行ヲ廃シ任意‑一何
人トモ通商取引ニ従事スルヲ許スへキコトヲ約ス叉清国皇帝陛下ハ英国臣民ヨリ多額ノ負債ヲ起シ支払無能力トナリタル右
商﹁行﹂人(公行)中ノ或者ノ債務ノタメ洋銀三百万弗ヲ英国政府‑一支払ウコトヲ約ス附
我国と中国とは略々同時代即ち十六世紀に入ってから︑西洋諸国と貿易関係をもつようになった︒もっとも中国は
我国と異って大陸国であるから︑チベット経由のシルク・ロ 1 ドを通じて︑古くから西洋諸国と通商関係を継続して
居った︒また南方諸省を通じて︑東南アジア諸国とも通商していた︒加うるに中国は我国のような鎖国時代がなかっ
たから︑我国の開国とは多少意味が異るが︑何れにしても︑我国と中国とが欧州諸国との通商関係に入ったのは︑十
開 国
と 鎖
国 政
策 の
矛 盾
の 諸
問 題
二 五
経 営 と 経 済
一 一 六
六世紀に入って欧州諸国のアジアへの帝国主義的進出によってい﹀あった︒両国主権者聞の正式の通商条約による開国
は︑中国の場合は一八四二年の南京条約及び一八五八年の天津条約以来であり︑我国の安政五年(一八五八)の開国
条約と略々同時代である︒
通商開始の当初は︑両国とも欧州諸国民に対して著るしく閉鎖的態度を示したことは共通している︒貿易について
は伺人とも自由に取引するのを許きないで︑政府から特許を得た特権的商人の団体である長崎会所や広東十三行に限
ったのはそのあらわれの一であると考えられる︒我国は長崎だけが開港場であったが︑中国は大陸国であるから︑そ
の当時の開港場は広東だけでなく︑度門︑福州︑存波が条約によらず開港されていた︒
我国の出島貿易時代と同様に︑広東十三行時代に︑広東海関当局は︑広東における欧州商人に対して︑かなり窮凶
な居住制限をしている︒一七六 O 年の広東における外人取締規則では︑出向同様に商館(司 RZ ミ)への婦人の同伴
を禁じ︑商館からの外出を著るしく制限している︒
か︑る窮屈な規定を設けたのは︑両国共に一面においては密貿易を防ぐためであった︒しかしより根本的な訓四出と
して︑中国の場合は未だ西洋諸国の実力を未だ充分に知らず︑自国民を優秀民族であると過いし︑不当に外来民族を
劣等視する風習があったことが考えられる︒我国の場合は一五七 O 年以来︑ポルトガル人が通商のため︑長崎に定期
船を入港させるようになった当時は︑外人に対して決して排他的ではなく︑ b しろ市民は貿易利潤の分前にあずかる
ために︑進んで葡人を自宅に宿泊させる状態であった︒しかし︑内外人雑居に伴って︑諸種の弊害が生じたので︑葡
人を出島に集団的に隔離するようになった事実があった︒そのことが︑葡人に代ってその後出島に入居した蘭人に対
しても長年にわたって︑出島に寵居させる由来になったものである︒
十六世紀当時には外人に対して何等偏見を示さなかった我国民も安政五年(一八五八)の開国後︑外人が多数我国
に来朝するようになると︑異民族であるという理由 r けで︑外人を殺害する事件が多数生じた︒またその頃︑外人が
住 b 家を﹁けがれる﹂とする思想が我国民の聞に広く見られた︒これらは二二五年にわたる世界史上他に類例を見出
し難い鎖国という変態的国策がもたらした変態的民族心理によるものであると考えられる︒
第 三 項
貿易取引における邦商の自主性の問題と商権の回復
開国以後は安政六年五月の幕府沙汰書により︑商人は何等の制限なく外人と自由に取引ができるようになった︒
開国と共に開港場には︑条約国の外商が多数居留地に来往するようになった︒しかし当時の邦商は海外の事情に全
く暗く︑貿易取引の方法にも習熟していなかった︒従って輸出入は一切外商が取扱い︑邦商は輸出商である外商に輸
出品を売込んだにすぎない︒か︑る商人を﹁売込商﹂と称した︒輸入品はそれを輸入した外商から﹁引取商﹂といわ
れる邦商が買入れた︒即ち︑邦商が直接に海外の市場相手に売買をなすのではなく︑居留地の外商の下請的買弁的役
割を果すにすぎなかった︒
居留地貿易の初期には﹁才取業﹂が多く現れた︒彼等は外商と邦商との中聞に立って︑内外人の聞の取引(売込・
引取)を周旋した︒才取業者が本来の意味の買弁
( g B 官 包 2 0 )
というべきである︒彼等は常に美服をまとい︑半
解の外国語を使用して︑自ら貿易商又は問屋・仲買等と称していた︒しかしこれらの才取業者の中には︑我国の事情
に精通しない外商を欺いて暴利を貧り︑或は詐欺的取引によって代金不払等取引上種々の悪弊をもたらすものが少く
なかった︒しかし彼等は時の経過と共に次第に淘汰されて行った︒
取引の方法は相対売買であったが︑取引に自主的地位をもたなかった場合が多かった︒直接に外商と取引すること
によって︑従来居留地の外人に占められていた貿易利潤を邦商のものとなし得る︒乙れは我国の資本主義の建設・発
開固と鎖国政策の矛盾の諸問題
二 七
経 営 と 経 済 展に必要な資本の本源的蓄積を可能ならしめる重要な方法の一である︒しかし︑時の経過と共に︑邦商は次第に海外
二人
の事情に明るくなり︑また貿易の技術を覚え︑海外と直接取引するものが増加した︒明治四十年頃︑長崎では次の表 のように貿易の主導権は邦商の手に帰し︑海外と直接取引するものが圧倒的に多くなった︒それと共に居留
i